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便yh LEDOUXT A L K A B O U T SPRING 2010 NO.45 平成22年4月22日 JIA 近畿支部住宅部会 代表世話人 八木康行 委員長 星野康彦 Microsoft の Word というソフト、最初に使ったのは 97 だったが、今のは 2003 だ。少 しずつ進化しているようだが、何かわけの分からない部分もある。作業中に、安全の ために時々上書き保存をしているのだが、あるとき突然、警告が出て、「領域が違うの で保存できません、マイクをはずしてください」とかいったような画面が現れた。マ イクなんか初めから付けてはいないが、その後上書きボタンを押すたびにこの警告が 出る。とてもうっとうしい。そのうち何かのはずみでこの邪魔者は出てこなくなった。 ある文章を取り込んでいるとき、編集の形式にどうしてもなじまないのがあった。仕 方なしに、センテンスごとに打ち直していったのだが、これは疲れるし時間がかかる。 貼り付けたときの文末に出るアイコンを無視してきたが、それを開いてみた。「貼り付 け先の書式に合わせる」というのをクリックしたら、一瞬にしてピタリ納まった(yh) 編集長代理 星野康彦 執筆者連絡先 市居 (株)市居総合計画事務所・・・・・・・・・・〒659-0093 芦屋市船戸町 9-7・TEL0797-32-8554 秀夫 たぶ・ふぇろーず・・・・・・・・・・・・〒565-0854 吹田市桃山台 3-6-4・TEL06-6831-1154 所 千夏 アトリエCK・・・・・・・・・・〒530-0035 大阪市北区同心 2-3-23-1405・ TEL06-4800-2092 星野康彦 星野康彦建築研究所・・・・・・・・〒573-1121 枚方市楠葉花園町 5-5-1313・TEL072-867-3720 森田 進研究室・・・・・・・・・・・〒540-0012 大阪市中央区谷町 3-1-24-806 ・ TEL06-6942-0891 好川忠延 好川忠延建築設計事務所・・・・・・・・〒630-0213 生駒市東生駒 3-398-62・TEL0743-89-0162 PRINTALKABOT-1

TALKABOUT 45

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千里ニュータウン消滅の危機 榎 秀夫 春日若宮おん祭、その空間とドラマ 森田 進 2010年の想い 市居 博 クヌギの木 好川忠延 水都大阪2009飲食ブース「フレーム&フレーム」誕生物語 所 千夏 ギリシア語知ろうと語源学(43)「北回帰線」 ・・・・星野康彦・・15

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Page 1: TALKABOUT 45

電車が少なくて不便だが、ルドゥーの建築の実物を見たくて、ブザンソン近くのアルケスナン

へ行った。理想都市ショーの町の王立製塩工場は塀の外とはまったくの別世界、アッと息を呑

むほどだ。その中の一棟は博物館としてルドゥーの多くの計画の模型を展示している。そこに

は、図面だけで見ていたルドゥーが模型となって所狭しと並んでいた。ルドゥー好きにはたま

らない。現存する入市税取立ての関所としての市門の模型もあった。パリに着いてから、早速

サンマルタン運河まで行ってみると、模型通りのルドゥーの関所が建っているのだった。(yh

LE

DO

UX

ラ・ヴィレット通りの市門

T A L K A B O U T

SPRING 2010 NO.45

平 成 2 2 年 4 月 2 2 日

J IA 近畿支部住宅部会

代表世話人 八木康行

委員長 星野康彦

Microsoft の Word というソフト、最初に使ったのは 97 だったが、今のは 2003 だ。少

しずつ進化しているようだが、何かわけの分からない部分もある。作業中に、安全の

ために時々上書き保存をしているのだが、あるとき突然、警告が出て、「領域が違うの

で保存できません、マイクをはずしてください」とかいったような画面が現れた。マ

イクなんか初めから付けてはいないが、その後上書きボタンを押すたびにこの警告が

出る。とてもうっとうしい。そのうち何かのはずみでこの邪魔者は出てこなくなった。

ある文章を取り込んでいるとき、編集の形式にどうしてもなじまないのがあった。仕

方なしに、センテンスごとに打ち直していったのだが、これは疲れるし時間がかかる。

貼り付けたときの文末に出るアイコンを無視してきたが、それを開いてみた。「貼り付

け先の書式に合わせる」というのをクリックしたら、一瞬にしてピタリ納まった(yh) 編集長代理 星野康彦

執筆者連絡先

市居 博 (株)市居総合計画事務所・・・・・・・・・・〒659-0093 芦屋市船戸町 9-7・TEL0797-32-8554

榎 秀夫 たぶ・ふぇろーず・・・・・・・・・・・・〒565-0854 吹田市桃山台 3-6-4・TEL06-6831-1154

所 千夏 アトリエCK・・・・・・・・・・〒530-0035 大阪市北区同心 2-3-23-1405・ TEL06-4800-2092

星野康彦 星野康彦建築研究所・・・・・・・・〒573-1121 枚方市楠葉花園町 5-5-1313・TEL072-867-3720

森田 進 進研究室・・・・・・・・・・・〒540-0012 大阪市中央区谷町 3-1-24-806 ・ TEL06-6942-0891

好川忠延 好川忠延建築設計事務所・・・・・・・・〒630-0213 生駒市東生駒 3-398-62・TEL0743-89-0162

45 SPRING 2010 TALKABOUT-16

Page 2: TALKABOUT 45

てくださった企業の皆様に支えられて、2

009年8月22日、飲食ブース、愛称「フ

レーム&フレーム」は、無事に皆の前にお

目見えとなった。

この飲食ブースは、残念ながら10月12

日の閉幕後、既に撤去されて、あとかたも

ないが、ここを訪れてくれた大勢の人たち

の、水都大阪2009の思い出の片隅に、

片鱗でもいいから、飲食ブース「フレーム

&フレーム」の姿が残っていてくれるとい

いなと思う。

ギリシア語知ろうと語源学

「北回帰線」

星野康彦

前回、ヘリオトロープということばは

「太陽の方を向く」という意味だといった。

このことばの順序を反対にしたトロペー・

ヘリオイオということばがある。ヘリオが

太陽、トロピオンは方向転換の意味だとい

った。だから、トロペー・

ヘリオイオは太陽

自体がおこなう「方向転換」ということに

なる。

季節が春から夏に向かっているあいだは、

太陽の見かけの軌道は、毎日北へ北へと移

動する。この軌道は夏至の時が一番北。そ

こに至ると、太陽は、今度は軌道を南へと

方向転換する。それがトロペー・

ヘリオイオ

=太陽の方向転換である。

紀元二世紀のアッリアノスというギリシ

ア人が書いた「アレクサンドロス大王東征

記」にはこんな記述がある。

「…その時期インドの河川はどの川も、

すべて水嵩が増して濁流を成し、流れも速

かった。季節的には太陽がおおよそ夏の転

回にさしかかって方向を転じようとしてい

る時期だったからだ。…」この太陽の転回

がいわゆる夏至なのだ。当時のギリシア人

には、この夏至という概念が明確にあった

のだ。

ところで、英語で熱帯のことをザ・

トロピ

ックスという。方向転換というわけだが、

どうしてそれが熱帯になるのだろう。

北回帰線というものがある。

北半球で、夏至の時の太陽の位置23度

27分を通る緯線がそれだ。太陽が毎日北

向きに寄せていた軌道を、逆転して南向き

に方向転換する限界線だ。その線まで太陽

が来ると今度は逆転して南に軌道を向ける。

この線のことを英語ではトロピックといい、

日本語で回帰線という。

北の方向転換線と、その反対側の南の方

向転換線という二つのトロピックとのあい

だに挟まれた部分が熱帯なのであった。熱

帯の範囲は厳密なものだった。漠然と「毎

日が夏のところ」だ、ぐらいに思っていた。

ちなみに、北回帰線はトロピック・オブ・

キャンサー(かに座の回帰線)。南回帰線は

トロピック・

オブ・

カプリコーン(山羊座の

回帰線)という。

45 SPRING 2010 TALKABOUT-15

Page 3: TALKABOUT 45

して作り上げる会場に、既製のテントを建

てるのでは浮いてしまう。そこにJIA近

畿支部として腕をふるってくれないかとい

う話だった。

水都大阪2009は8月にスタート予定だ

というのに、その話を聞いたのは3月。と

にかく時間がないうえに、内容が煮詰まっ

ていない状態での打診だったが、やはりデ

ザインを志す身として、アーティストの集

う会場の中心に、違和感のある建築を建て

てしまうのをみすみす見過ごすこともでき

ないし、このイベント

に名を連ねる

後のチ

ャンスかもしれないと

いうことで、当時次期

住宅部会代表に決まっ

ていた八木さんの英断

もあり、この計画に協

力することになった。

永田さんに、飲食ブ

ースの話を詳しく聞

いた2日後には、公園整備工事の真っ

中だった計画地へすぐ足を運び、そ

れから数日後には

初の案を提出。

様々な厳しい条件を突き付けられなが

ら、とにかく毎回スピード勝負で提案

を繰り返す。その後、8月22日の水

都大阪2009の開幕までの数カ月は、

書き始めると長くなるのでここでは省

略するが、大げさに言えば波乱万丈。

山あり、谷あり。二転三転、四転、五

転…何度も途中であきらめざるを得な

いかと思う場面に出くわしながら、小

山企画委員長と共に、八木代表を始め、

住宅部会メンバーの強力な力添えと、

協賛

45 SPRING 2010 TALKABOUT-14

Page 4: TALKABOUT 45

出始めていたころだった。

色んなタイミングがよかったのかもしれな

い。ちょうどとある夏祭りに建築士と屋台を

つくろうというワークショップがあり、永田

さんと再会することになったこともあって、

昨年の住宅部会7月例会で、「建築家から発

信する!」というテーマを掲げ、永田さんが

一般向けに行われている様々なイベントな

どを紹介してもらい、建築家が外へ発信する

ということについて話をしてもらうことに

なった。

その後、せっかく話をしてもらったのだから、

ぜひ永田さんと一緒に何か外部向けのイベ

ントをやりたいと思い、今度は1月例会で、

HAT神戸で毎年行われる震災の日の催し

のひとつとして「シェルター・フェスティバ

in

HAT神戸」を企画。ロープを使

った10

mを超えるシンボルタワーと、ビー

チマットやベニヤを使ったシェルターをつ

くるワークショップを行った。

前置きが長くなったが、水都大阪2009へ

の参加の話が浮上してきたのは、ちょうどそ

のシェルター・フェスティバルの準備に追わ

れていたころ。最初は、船着き場の舟屋のデ

ザインという話から始まった。大阪のまちな

かには、土佐堀川~東横堀川~道頓堀川~木

津川と、ロの字形に川が繋がっていて、水の

回廊が形成されているが、その川に数か所の

船着き場があり、それらを水都大阪2009

のイベントに合わせて整備しようとしてい

るという話だった。船着き場ごとに、違う建

築家がデザインするようなストーリーがで

きると面白いと思い、とりあえず前向きに検

討することになっていた。が、そのころの水

都大阪2009の企画は、日々内容が変化し

ながら進んでおり、船着き場の話は、各々の

地元の住民たちや船着き場プロジェクトを

まとめていた事務局側の意向と、こちらの思

惑がどうもうまくかみ合いそうになく、あき

らめざるをえなかった。

このまま、滅多にないオール大阪のイベ

ントである水都大阪2009の参加者

の中に、JIA近畿支部の名前を連ねる

ことができずに終わってしまうのかと、

個人的に非常に残念に思っていた矢先、

中之島公園会場「水辺の文化座」内で、

飲食物を提供する仮設屋台の計画が持

ち上がってきた。「水辺の文化座」は、

多くのアーティストたちが集い、それぞ

れ市民を巻き込んだパフォーマンスを

展開していく場として企画されていた

が、アートの企画は進んでいたものの、

実際集まってきた市民らへのサービス

として、飲食を提供する場がほとんど計

画されないまま、進んでいたらしい。そ

こで急遽計画されたのが、この仮設屋台、

(仮称)飲食ブースだった。当初から予

算化されていなかったこともあってか、

飲食ブースは既製のテントをリースす

るということで計画されていた。だが、

飲食ブースが建つ予定の場所は、水辺の

文化座の中心。全国から集まってくるア

ーティストたちが全力投球

45 SPRING 2010 TALKABOUT-13

Page 5: TALKABOUT 45

の建築が二億で出来たなんてすばらし

い、私の知り合いの代議士は三億掛け

て落選したやつがいる」といって会場

を笑わせた。その後、建物内外を市議

会議員さんを連れて案内する事となり

市役所玄関を出た所で、市会議員の一

団は立ち止まった。議員さんたちは、

役所の広場の木が、クヌギやナラの木

である事に気づいた。「なんとまあ、金

がないとはいえ、クヌギとはなあ」と

不満めいた声が上がった。そのとき、

長老議員らしき老人が、「枯れ木も山の

賑わいとはこの事だ。結構、結構」と

云った。皆が「そうか、枯れ木も山の

賑わいか」と、先生はうまい事を言う

と口々に言って納得しその場は収まっ

も忘れる事が

できない。(2009/12/1

フレー

ム&フレーム」誕生物語

年12月に入ろうとして

いたころだった。

クショップの紹介をされてい

ないといけないのでは、という意見が

た。

そのクヌギが四十五年経って大木に

なって、もうクヌギなんてとは言わせ

ない堂々とした存在感だった。見事に

紅葉しているのをみて、当時の様々な

事を思い出した。その中でも、長老議

員さんの温かい配慮を今

水都大阪2009

飲食ブース「

千夏

水都大阪2009の話を初めて耳にしたの

は、2007年の年末だったと記憶してい

る。今から2年ほど前になる。2009年

夏、水辺を舞台に、大阪あげて「水都大阪

2009」というイベントをやるらしいと

いう話を初めて聞いたときには、自分がま

さかここまでドップリつかって参加するこ

とになろうとは思ってもみなかった。

実際、2009年は私にとって、水都に始

まり水都に終わったと言っても過言ではな

いかもしれない。水都大阪2009にJI

Aとして参加するという話が浮上してきた

のは、昨年のちょうど今頃。iop都市文

化創造研究所の永田宏和さんより、水都大

阪2009へ、JIAとして参加をお願い

することができないか、という打診があっ

たのがちょうど昨

永田さんに初めてお会いしたのは昨年の春。

とあるイベントで講師として来られていて、

そのお話をお聞きしたのがすべての始まり。

その時は、子供たちを巻き込んだ様々なイ

ベントやワー

たと思う。

一方、ちょうどその頃JIA近畿支部

住宅部会で、関東甲信越支部住宅部会

との交流を通じ、「関東甲信越支部では

一般向けのイベントを、かなり力を入

れて行っている」という話が近畿支部

に聞こえてきたころで、やはり近畿支

部も内部勉強会だけではなくて、外部

に向けてもっとオープンになっていか

45 PRING S 2010 TALKABOUT-12

Page 6: TALKABOUT 45

財政難だった市は、一番小さい公民館

を最初に選んで実施設計に進んだ。そ

の後、小学校を造るが市役所にはまだ

手が付かず、新たに要望の出て来た中

学校に至りその後城山公園の休憩所な

ど回り道し、市役所の設計が始まる事

となったのは四年すぎの1963年だ

った。設計はその年の年末入札、翌年、

一月から着工となった。しかし、予算

は大変な金額だった。建築、家具、外

構を含めて坪十万円だった事など、

徐々に記憶が蘇って来た。

近鉄電車で四回乗り換えて、最後の

伊賀鉄道の車窓に開ける里山と田園風

景は四十五年前、現場の行き帰りに眺

めた風景そのもので、時間が止まった

ようだった。そして久しぶりに上野市

駅に到着したのは、もう午後を回って

いた。

これ以降、伊賀市役所の保存に関す

る会合などで上野には行く機会が増え

た。十一月の終わり頃、公民館で行わ

れた地元の建築家たちが開いたシンポ

ジュームに誘われて、何か思いつくま

ま記憶をたよりに話した。会も終わり

大勢の観客で多いに盛り上がった会場

を後にして公民館を出た時はもう夕方

になっていた。公民館の近くのクヌギ

の大木が夕日に映えて紅葉が美しかっ

た。

四十五年前、竣工間際、外構工事に

は少しばかりの植栽が当てられていた。

広い敷地に、クス四、五本である。予

算を切り詰めて本数を決めているから

だが、そのままでは寂しい植栽である。

なんとか賑やかに出来ないものかとあ

れこれ思案していた。クスは枝振りや

幹周りから値段が張る。クスの植木サ

ンプルを近くの苗田に見に行った帰り

の車の中で、このクス一本の値段で十

本ほど植えられる木はないかと植木屋

に相談した。若い植木屋の主人はそん

なものはないという。車は里山の裾を

巡る道を走っていた。私は、美しく紅

葉しているクヌギ林を眺めながら「ク

ヌギはいくらするの」と聞いた。植木

屋はびっくりして「クヌギは、私の所

の柴山のクヌギなら木はただであげる

よ。手間はいるけど」と言う。「しかし

市役所の前庭にクヌギを植えたらおこ

られるで」ともいう。そこで、役所に

掛け合って、寂しいよりは沢山木があ

る方がいい、その内予算がついたら上

等の木を植える事にしたらどうでしょ

うかと持ちかけてなんとか設計変更の

了解を得た。クヌギは植木屋の職人た

ちと里山に出かけて、形のいいクヌギ、

ナラなどの雑木をトラックに積んで持

ち帰った。活着率が低いからと少し余

分に持ち帰った。

竣工式は暮れの押し詰まった頃だっ

た。竣工式にはお歴々の代表で、国会

議員の川崎秀二氏が祝辞を述べた。「こ

45 SPRING 2010 TALKABOUT-11

Page 7: TALKABOUT 45

私は自分の心の中にリベラル(革新的)な

設計者とコンサーバティブ(保守的)な施

工管理者を同居させる、つまり二重人格を

演じることによって矛盾を昇華させている

ようである。困難なようだがいずれ近い将

来、住宅でのCMは建築家にとって確立さ

れねばならない仕事となるだろう。厳しい

経済情勢の中では全国展開が不可欠である

からである。

今までの展開は表面上激しく変化してきた

ように見えるが、いずれも底流で繋がって

いるものである。住宅、木造、伝統工法、

CM、全国、IT、・・・。さてさて、この

先終着点はどのあたりで現れるであろうか。

近の住宅建築を巡る情勢では、やはり温

暖化対策としてのエコハウスの話題が大き

いように思う。屋根に太陽熱電池を載せ断

熱材を充填すると、税制上有利になる。ま

すます住宅の性能化が求められているよう

だ。しかし私はそのような産業主導の家作

りとは違うものを授かりたいと願うもので

ある。今後も住宅の仕事を通じて日々精進

していきたいものである。

クヌギの木

好川忠延

今年の夏の事である。朝日新聞伊賀

支局から電話があった。日頃、新聞社

には縁がないので何事かと出てみると、

「伊賀市役所の設計担当は好川さんで

すね」と云う

。伊賀市役所とは聞いた

事もなく戸惑っていると先方から、「あ

あ、元の上野市役所です」と訂正した。

私は1963年夏、勤めていた坂倉準三

建築研究所大阪支所で、二人の同僚と

この市役所の設計に汗を流していたの

を思い出した。そして次々と四十六年

前の夏がまざまざと蘇った。「市役所が

建て替えになるようで、市民の中には

残したい人たちがいるようですが、ど

う思いますか」と電話の向こうでは続

ける。そう言われても、私は坂倉事務

所はもう三十年も前に退社したし、伊

賀上野には十年位前、芭蕉の史跡を訊

ねるような小旅行をしたが、それも休

日で市役所は閉まっていたし、外観の

遠望以外に見た事がない。四十五年も

経つと、当然手狭になっている事だろ

うし、市町村合併など色々問題を抱え

ているのではないかと思いつつ「一度

現状を見に行きます」と答えた。

上野市は立て続けに坂倉事務所が公

共建築を手がけた、今から考えると大

変珍しいケースだった。1959

年、当時

の市長は東大哲学科美学出身の僧侶だ

った。坂倉準三氏の大学での数年後輩

と云う関係で、ある美術関係者の紹介

で市長が市役所の設計を依頼してこら

れたと聞いている。市役所と公民館、

小学校を含めた1959

年3

月の日付の

ある計画案が今も残っている。しかし、

45 SPRING 2010 TALKABOUT-10

Page 8: TALKABOUT 45

く恐縮するばかりであり、この機会を借り

て改めてお礼の気持ちをお伝えしたい。

その間建築家としての活動を疎んでいるわ

けでも、意欲が萎えているわけでもない。

2004年にはINAXの風の建築展東京

で講演、2007年には兵庫会やCM小委

員会での勉強会講師、2008年には雑誌

住宅建築で特集を組んで頂いた。これらは

スポット的なもので、実際は年間4件前後

の住宅に追われっぱなし。恵まれたという

か余裕なき職人の日々が続いているといっ

たところである。

住宅の仕事は並大抵のことではないとつ

くづく思う。単なる親睦会ではない住宅部

会の会員数の多さがその悩ましさを示して

いることだろう。ここ数年の仕事の体験か

らもその果てしなき手強さに、気を奮いた

たす一方暗澹とした気分に苛まれることも

多々あった。1件当たり金額や規模が比較

的小さいにもかかわらず要望が画一的でな

く、トラブル覚悟で瑕疵への覚悟もいると

なれば、多分これからも気が緩むことはな

いだろう。

そもそも建築家が住宅に取り組むこと自体

が大いなる挑戦ではないだろうか。施主と

の巡り合いからしてどうすればよいかは試

行錯誤しかない。何年何十年という修行か

ら滲み出てくるセンスや知恵を相手にわか

ってもらうにはどうするか。営業はできな

いから広報に頼るしかない。その点正反対

に位置する資本主義ハウスメーカーはやは

り一流の方策を持っている。企画、広報(シ

ョールーム)、営業、設計、施工、メンテ各々

担当を変えて臨むことによりエネルギーの

集中と分散を巧みに操っているではないか。

建築家はデべロッパーや紹介業に頼っても

先は見えるだろうか。逃げも隠れもできな

い正面突破しかないかもしれない。

私の師

菊竹清訓氏は日本建築のエッセン

スを受け継ぎながら近代建築の申し子のよ

うな方であった。斬新、創造、合理性能、

工業等の言葉が尊重され、反対に旧式、模

倣、無駄、手仕事などの言葉は敬遠された。

これらは近代建築の原理であるから当然で

あると言うしかない。建築家とはそもそも

リベラル(革新的)な存在であり、決して

コンサーバティブ(保守的)であってはな

らないはずである。

しかし自分なりにその進路を見据えた結果、

私は木造住宅という保守的な構造にとりく

み、さらに伝統工法を採り入れた型の住宅

を目指していった。棟梁というシンボルな

き現代でのCM工事への転換。地域から全

国への展開、さらにIT化された遠隔地現

場と本拠事務所の役割などの経験を経てき

た。

中でもCM(コンストラクション・マ

ネージメント

施工管理業務)工事に

進んだことが大きな節目であった。建

築家においては設計と施工を分離し、

設計監理者としての建築家を論ずるこ

とが多い。施工管理の実態は建築家の

人格と相反するからである。

45 SPRING 2010 TALKABOUT-9

Page 9: TALKABOUT 45

社殿はその右手でそう遠くない、が

程好く遠い。照明と撮影を禁じる御触

れが回ってきた。いよいよだ。突然、

沈黙の中、遠くで何かが砕けるような

音が。雅楽が聞こえる。闇の遥か向こ

うが微かに赤く蠢いている。小さな唸

り声のような音が聞こえる。赤い塊が

杜の隙間を動き始めた。うわぁ、まる

で生き物のようだ。こっちにやってく

る。完全なる闇の中にあって灯りはこ

の松明の炎のみだ。それがこっちにや

ってくる。松明の炎とお香が道を清め

て再び黒い闇が舞い降りる。距離感が

分からない。空を見上げると杜の闇を

僅かに裂いて満天の星が瞬いている。

地上に目を戻すと、何かが近づいてく

る。多くの人が踏み締める玉砂利の音。

音曲。それに「オオ」という声。それ

らが徐々に大きくなってくる。若宮の

お通りだ。唸るような低いその声は神

官たち発するもので、地鎮祭や上棟式

で神主が降臨昇天の儀のときに発する

声とおなじだ。ただ、人数が違う。多

数の神官が発するものだから読経の声

明のように不思議な丸みと振動を齎す。

既にこの世のものではない。白布に包

まれた若宮は神官た本殿は真っ直ぐの

ところだし若宮のちの持つ榊で幾重に

も囲まれて見えない。これらがひとつ

の生き物となって近づき去ってゆく。

再び闇。髪の毛が総毛立ち全身に鳥肌

が立っている。畏れとはこのことか。

闇、光、音、そして時間を使った見事

な構成と演出にぼくは完全に圧倒され

てしまった。

若宮がお旅所に入られて「暁祭」が

始まり、外灯が点され人々もそちらに

向けて移動するようになって漸くぼく

の心は人間界に戻ったような気がした。

その日は興奮してよく眠れず朝遅く起

きて午後からの「お渡り式」を見て帰

途につくことにした。「お渡り式」は京

都の時代祭みたいなもので他にも様々

な芸能が奉納され其々に素晴らしいが

深夜に見た「遷幸の儀」ほどの衝撃は

なかった。次の機会には、その瞬間の

バリバリという音をあの闇の中で聞い

てみたいものだ。いや、やはり手前で

立ち止まりこの壮大なドラマの一部始

終をもう一度味わうかな。

2010年の想い

市居

2000年1月「風の路」活動の始まりか

ら来年で10年となる。活動自体は3年間

で終了することになったが、住宅部会の皆

様の暖かい援助あったからこそ貴重な経験

を得ることができた。その後住宅部会の代

表世話人を務めさせていただいた。任期を

終えてからは会合に足が遠のき、トークア

バウトの編集もお世話いただくまま今に至

っている。住宅部会員としては大変心苦し

45 SPRING 2010 TALKABOUT-8

Page 10: TALKABOUT 45

「飛火」とは「飛ぶ火」で烽火のこ

とらしく、飛火野は烽火台のあった場

所として説明されるのが一般的だが、

地勢的にみても烽火を上げるのに好都

合な場所とは思えない。また、そこに

ある「雪消(ユキゲ)の沢」と「野守

(ノモリ)の鏡」という池から能の「野

守(ノモリ)」に出てくる鬼の話に至り、

この辺りがどうやら死と深い関係のあ

る場所である由。それが古戦場であっ

たのか、死者を弔う場所であったのか。

飛ぶ火とは果して死体から発する燐火

ではなかったのか。いずれにせよ、華

やか平城京とは別にその下に築かれた

ネクロポリスが御蓋山(ミカサヤマ)

の足元の飛火野で連環しているとした

ら、その地にある春日大社の祭が生命

誕生に関わるというのは誠に気宇壮大

な話ではないか。

半井さんによれば、おん祭はその背

景もさることながら祭の行事それ自体

が断然面白く、今回午前零時の「遷幸

の儀」に参加してそれを体感して欲し

いということだった。こんなにも興味

深い祭が地元奈良であったことを全く

知らなかった自らの不明を恥じた。

場所を料理屋に移し地鶏鍋と日本酒

で体を温め、更に話はこの周辺から今

邪馬台国の存在で喧しい桜井周辺の大

神神社(オオミワジンジャ)の話や南

北軸や東西軸の話に波及して古代のコ

スモロジーに華が咲き夜は更けていっ

た。ここに書いた飛火野の話は定説で

はないが、昔の人の死生観や宇宙観に

想いを馳せることで目の前に見える事

物もまた活き活きとしてくるのが何と

も嬉しい。

ふと時計を見たら午前零時まで三十

分もない。急がなければ若宮のお出ま

し(誕生?)の瞬間に立ち会えない。

半井さんの話では、そのとき神官たち

が手にした榊の枝葉で社の四周を叩い

て起こす(?)バリバリという音が何

とももの凄くハイライトのひとつとの

こと。外は既に深々と冷えて凍てつく

ように寒く、放射冷却を約束するかの

ような一点の曇りも無い星空が広がっ

ていた。

遷幸の儀に際しては、一切の照明や

写真は禁じられていて歩くのもままな

らない。懐中電灯やケータイで足元を

照らして歩く人もいるが張り詰めた空

気と漆黒の闇が徐々にその行為を拒絶

してゆく。玉砂利を踏み締めながら足

早に歩いたが、二の鳥居の手前のクラ

ンクあたりまできたところで案内が回

ってきて静止を求められた。残念なが

ら闇を切り裂くバリバリという若宮お

出ましの音は間近に聞けないようだ。

しかし、これが結果的には

高に良か

った。遷幸の儀の卓越した空間性とド

ラマ性はこの場所にいて初めて完璧に

味わうことができたのだ。

45 SPRING 2010 TALKABOUT-7

Page 11: TALKABOUT 45

春日若宮おん祭、その空間とド

ラマ

森田

もう二年前のことになるだろうか、

奈良のギャラリー”O

UT of PLA

CE

オーナーの主催する「若宮おん祭ツア

ー」があって参加した。当初この祭に

特段の知識も興味もあった訳ではなく、

ツアーの仕立てが面白いから参加する

かという程度の動機だった。そのツア

ーは、まずギャラリーでこの祭の解説

があって、次に場所を代えて郷土料理

の晩餐会、そして午前零時の遷幸(セ

ンコウ)の儀に参列という三部構成。

参加者は東京からの人もあれば山梨か

らの人もいるし、職業も工業デザイナ

ーや写真家或いは会社員と皆見事にバ

ラバラなのも良かった。解説役はこの

ギャラリーで知り合った半井さんとい

う人であり、彼の話を聞くのもこのツ

アーに引かれた理由のひとつだった。

春日大社は藤原氏の氏神を祀る神社

として768年に創建された。武甕槌

命(タケミカヅチノミコト)、経津主命

(フツヌシノミコト)、天児屋根命(ア

メノコヤネノミコト)と比売神(ヒメ

ガミ)の夫婦神の四神が東西に並んで

祀られている。そして、この夫婦神の

間に生まれたとされるのが若宮で、最

初は社殿を持たず後に本殿内の仮殿に

おられたが、1135年には本殿の南

方に社殿を建ててそこにお遷しした。

「若宮おん祭」はこの社殿建立の翌年

から始まった祭である。

古文書によれば、今でいえば地衣類か

粘菌のようなものであったのだろうか、

何かスライムのようなゼリー状をした

物体が夫婦神の社殿の間に現れたらし

い。この兆候と同時に人々は、赤い童

子の出現を見るようになり「若宮の誕

生」を認識したようだ。

おん祭は、この若宮が12月17日

の午前零時に自らの社殿を出て別の場

所に設えられた「お旅所」に移りその

日一日様々な芸能を楽しみ同日の深夜

再び社殿に還るという不思議なもので

ある。新しい神の出現というのも特異

なら祭の構成も特異だ。単なる神を祀

る祭事行為ではない感じがする。冬至

が後ろに控えていることを考えると、

太陽が地上にある時間が最も短い、つ

まりは生命力が最も弱まるこの時期に

生命力の化身としての若宮を誕生(若

しくは覚醒)させることで太陽に新し

い生命を吹き込み還って行くというス

トーリーなのかもしれない。なにしろ、

このあと昼は再び長くなって行くのだ

から。

半井さんの話は春日大社とその周辺が

持つ不思議な関係に及ぶ。鹿の角切り

で有名な「飛火野(トブヒノ)」の地名

の持つ妖しい雰囲気が説明される。

45 SPRING 2010 TALKABOUT-6

Page 12: TALKABOUT 45

大な資産価値が潜んでいますが、今例

えば、記念建物の南千里市民センター

(村野藤吾氏の作品)などが撤去の対

象になるなど、多くの記念すべき建造

物などが失われようとしています。

文化的価値がある住宅群にも失って

はならない建物が数多く存在していま

す。これらを含めての資産価値です。

これらの記念的要素を失う事は、千里

の価値を著しく損じます。が現実には

「今日の銭」のために、未来を忘れた

大掛かりな破壊と殺戮が進んでいます。

「Lost

千里」を防ぎたい!

「失われた千里」が続出では、輝け

る千里ニュータウンが世界から消滅し

ます。

開発時の意識の高揚を維持し、世に伝

えてこそ、資産であり千里ニュータウ

ン文化の価値です。それでこそ世界か

ら人々を呼べる千里ニュータウンが出

来ます。

将来を生か

すも殺すも、市

民の期待に応え

る行政の手腕と

指導力、更に云

えば、市民に選

れた首長の思い

でなければと考

えます。が、皆

さん!ご意見を

ください。

45 SPRING 2010 TALKABOUT-5

Page 13: TALKABOUT 45

完成から略30年。はや再生計画で

す。理由は人口の高齢化、建物の老朽

化、一部施設のユニバーサル水準の不

足などです。資金には公有地の売却が

当てられているようですが、それは府

民・市民の土地です。が塀の向うの作

業で一般の市民には理解できません。

再生計画で都市として継承しなけれ

ばならない数々の文化資産の壊失に、

企業局後継のタウン管理財団が自ら関

与しています。

文化資産の行方

目的は単なる資産換金ではないかと

噂されています。公と考えられている

土地の第一の目的は、都市基盤整備の

用地です。次いで府有地と呼ばれる企

業局が管理運用のための庁舎用地・駐

車場・近隣センターの一部、それに法

面・河川などの保全用地です。そして

千里ニュータウンに必要だった筈の土

地が民間へ売却されるのが目立ってい

ます。底地を売るために文化的資産を

撤去する愚を繰返そうとしています。

これらは分譲・売却の利益で生れた

資産の部分です。管理に重荷の資産は、

売却の前に無条件で地元行政に移管す

るのが、解りやすい道理ではないでし

ょうか。

特に環境破壊が危惧される区域

対象は企業向け分譲宅地です。此処

に民間分譲マンションが林立し始めま

した。千里計画の環境理念は失われて

います。10年間の「新住法」の期限

が切れて後、豊中市域は慣用的に制度

を維持、吹田市域は法令通り都市計画

法と建築基準法を適用しました。その

結果は街の姿に顕著に表れています。

です。

近年は、さらに転売などで資産の流

動化が進み、急速に住環境が悪化、将

来のスラム化が憂慮されています。今

では、行政の権限による指導を期待す

ると共に、急遽まちの将来を地区計画

や建築協定で考えようと、行政との連

係を地元市民が模索し始めました。

世界に唯一つ

千里ニュータウンは「遺産ではなく

資産」です。世界にただ一つ、開発か

ら50年間、社会環境の変化に対応し

たまちの歴史を持っています。開発の

過程、規模、時代背景、企画、研究開

発、事業手法などの何れを取上げても、

世界に希有の実績です

そしてD

OC

OM

OM

O japan100

65に選ばれています。全てを次世代

に引継ぐだけでなく、世界の人々にも

貴重な体験を顕示できる重要な価値の

ある「文化資産」です。

消滅する文化資産

単に経済的に見ると地価は一兆円で

す。だが総合的に見ると、此処には膨

45 SPRING 2010 TALKABOUT-4

Page 14: TALKABOUT 45

昭和53年(1978)

3.千里保健医療会館と千里保健医療

センター

昭和54年(1979)

4.北千里市民体育館

昭和55年(1980)

5.北千里公民館 昭

和55年(1980)

等をそれぞれ完成しました。

記念碑など

完成を期に著名人等による審査会を

設置して、作品を選び、大きいモニュ

メント¥1500万~3000万/基

を5基、千里ニュータウンの地域公園

や広場の要所に設けました。

また開発中の乾いた雰囲気を和らげ

るため、彫刻家協会やメーカーの協力

を得て

コンクリート彫刻(50万円/基)を

数十基、各所の公園等に設置していま

す。

開発システムと成果

不足住宅の供給に事業化を読んだ、

民選初代の大阪府知事赤間文三の決断

が大きく、まず理想を求めて始めまし

た。同じく2代佐藤義詮の実行力も欠

かせません。事業化は企業局設立の構

想に始り、資金は起債に求めるなど当

時としては革新的でした。

「血税は一円たりとも使わない」と

大見得もきりました。そして理想の住

宅都市建設を目指して、優れた職員を

配置、更に多数の学識を起用して調査

研究を行ない、これをもとに構想の実

現を期しました。これらの事は、今後

にも欠かせない姿勢の筈です。

事業の経過

が全てが初の体験、当初から土地取

得で地主とのせめぎ合いがあり、苦労

を重ねた人たちが企業局職員や地元の

首長にいました。また不振を予測され

た造成宅地の売り先には、零細だが無

限の需要が見込まれた勤労者向けの宅

地債券に託されました。

こうして可能な返済計画がたち、ド

イツマルク債発行が軌道に乗りました。

一方では千里ニュータウン計画に、国

は新住宅市街地開発法を可決、後押し

しました。これらの成果を基に、泉北

ニュータウン計画を推進するなど、企

業局に活気が満ちていました。

事業と居住者が文化資産

ここには、精魂込めて計画・建設に

携わり、これを誇りにする多くの人た

ちが育ちました。此処には千里を愛し、

二世代三世代と千里に住み続ける人々

がいます。こうして千里ニュータウン

そのものを、これら市民の手が、優れ

た文化資産に育てたと言えます。人々

のパワーとその背景、これこそが掛替

えのない文化資産です。そして行政へ

の移管以来29年が経過しています。

曖昧な再生計画

45 SPRING 2010 TALKABOUT-3

Page 15: TALKABOUT 45

2009

千里ニュータウン消滅の危機

(村野藤吾の作品が撤去の危機に)

秀夫

千里ニュータウンの値打ち?

10月に「千里ニュータウンは世界

遺産になりうるか」と言うシンポジュ

ームが関西大学で催されました。出席

できませんでしたが、世間ではかなり

関心が高いようです。が開発者の後身

「タウン管理財団」とでは、どうも関

心の持ち方が違うようです。以下は千

里に住み歩くものとして実感です。ま

ちの歴史は数百年の単位で語られます

が、千里は50年、現状を考えてみま

した。

(注.山地英雄著「千里ニュ

ータウンの20年」ほかを参照)

規模と内容

規模は1160ha(約350万坪)

計画予算は¥247億(内公共事業

¥72億)でした。完成の内訳は、分

譲地43%で498.8ha

(1,505,000

坪)、

公共公益用地は57%で661.2ha

です。

用地取得費の概算

3000人の地主から2000

円/坪、

70億円で買収又は収容しました。部

落有財産などの入手に伴う補償費に1

27億円を支出、合計約200億円を

要しました。

分譲・売却の価格

当初分譲売却価格は6万円/坪、契

約不履行の買戻し後の再分譲価格10

万円/坪、その後の売価は、15万円

を経て20万円/坪まで引上げられま

した。用地取得費のざっと100倍で

す。売却地価と建設費の高騰で需要者

層の関係から、やむなくタウンハウス

やコーポラティブハウスが試行されま

した。

事業の経過と果実

地元首長への説明1957年、マス

タープラン発表1960年、一応の完

工1971年、様々な記念事業を行な

い地元行政へ移管引継ぎは1980年。

計23年の歳月を要しました。

将来を見越して、十分な道路・緑道・

公園や緑地を設けましたが、仮に、売

価平均15万円/坪とすれば売却面積

1,505,000

坪で売上高は2,257.5

億円

と概算できます。そしてとにかく計画

通り完成しました。

その結果、完成時には余剰金から記

念事業に50億円を支出しています。

これらは関係者の努力と共に、宅地債

券による零細な購入者などの負担も含

み稔ったものです。

記念の事業

一部は既に失われていますが、その

内訳は

1.千里中央文化センター

昭和53年(1978)

2.南千里市民センター

45 SPRING 2010 TALKABOUT-2

Page 16: TALKABOUT 45

TALKABOUT

45 SPRING 2010 ARCHITECTS ESSAY MAGAZINE 千里ニュータウン消滅の危機 ・・・・・榎 秀夫・・2

春日若宮おん祭、その空間とドラマ ・・・・森田 進・・6

2010 年の想い ・・・・市居 博・・8 クヌギの木 ・・・・・好川忠延・・10 水都大阪 2009 飲食ブース「フレーム&フレーム」誕生物語 ・・・・所 千夏・・12 ギリシア語知ろうと語源学(43)「北回帰線」 ・・・・星野康彦・・15

千里ニュータウン 南センター/村野藤吾

45 SPRING 2010 TALKABOUT-1