129 Text & Photographs Alissa Descotes-Toyosaki Caravan to the Future THE TOUAREG

The Touareg キャラバン

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Spectator スペクテター vol.25, 2012 ニジェールのサハラ砂漠を横断する塩キャラバンは一千前から行われている。トゥアレグ族は塩を仕入れてから、ナイジェリアへ向ける。4ヶ月、3000キロの自給自足交易。 http://www.spectatorweb.com/back_issues.html

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129

Text & Photographs Alissa Descotes-Toyosaki

C a r ava n to t h e Fu t u r e

THE TOUAREG

130131

れは、千年前からサハラ砂漠を歩

み続けているキャラバンの話。

 

そして、キャラバンを操るトゥアレグ

族と呼ばれるサハラの遊牧民の現状をめ

ぐる話でもある。

 

塩キャラバンは二つのルートを使って

昔ながらのやりかたで交易をおこなって

いる。

 

ひとつはサハラ砂漠とオアシスの塩田

を東西に結ぶルート。もうひとつはサハ

ラ砂漠とサヘル地域を結ぶ南北のルート

である。

 

私が初めて「塩キャラバン」に参加し

たのは、一九九八年のことだった。

 「ターバンに身を包みサハラ砂漠を支

配していた偉大な戦士」「恐ろしいテネ

レ砂漠を横断する美しいキャラバン」

 

当時、たまたま目にした『ナショナル・

ジオグラフィック』の記事に描かれてい

たのは、おとぎ話のような世界だった。

その記事ではキャラバンの役割よりも

「ブルー・マン」と呼ばれるトゥアレグ族

のロマンティックなイメージばかりが強

調されていたが、それがかえって西洋人

の想像力をかき立てたのだろう。らくだ

に乗って一日に一六時間も移動する「い

まどき時代遅れなキャラバン」を続ける

人たち。そんな調子でトゥワレグ族は紹

介されていた。

 

伝統的な塩の交易をめぐる状況はトラ

ックが導入されるようになってから激変

した。らくだに荷物を載せて約二ヶ月か

けて移動していた距離を、トラックなら

ば二週間で走ることができる。そのおか

げでトゥアレグは激しい競争を強いられ

るようになった。らくだ乗りの交易には

未来がないということだ。

 

キャラバンと共にサハラ砂漠を旅する

ことは、私にとって長年の夢だった。そ

してついに「ラスト・キャラバン」と砂

漠を渡る機会にめぐまれた。

 

私は三頭のらくだを買って、約四〇日

かけてキャラバンとともに砂漠を渡った。

それは、想像を絶する砂漠の美しさと、

トゥアレグの生命力に圧倒された旅だっ

た。

 

塩キャラバンに参加したことで、私は

初めてトゥアレグの文化に触れることが

できた。実際に接してみて感じたトゥア

レグの商人の印象は「インディゴのベー

ルを巻いた気高い戦士」というよりも、

ボロ服を着た肉体労働者のようだった。

彼らは重たい荷物をらくだに積んだり降

ろしたりしながらテントを使わず野宿の

旅を続け、朝になると「砂漠のそよ風」

のかわりに何百頭ものらくだの吼え声で

目覚める日々を過ごしていた。それまで

頭のなかで描いていた「月の砂漠」とは

まるで違うキャラバンの現実と向き合う

のは大変だった。

 

トゥアレグの商人が続けている塩キャ

ラバンが三つの地域を結ぶ独特な交易で

あることを、私は旅を通じて知った。塩

キャラバンの世界は奥深く、帰国後に調

べれば調べるほど私は無中になっていっ

た。実際に参加したキャラバンは、『ナシ

ョナル・ジオグラフィック』の記事に描

かれていたキャラバンの二倍の規模で、

商人たちはナイジェリアまで三〇〇〇キ

ロの距離を移動しながら、南部で塩を売

って、その売上げで、そこに住む農民か

ら四ヶ月分の穀物を直接仕入れて帰る

「自給自足のシステム」を実践していた。

 

サハラ砂漠からナイジェリアへ行くキ

ャラバンは、「塩の交易」を通じて異なる

文化の人々を結び続けている。その様子

を自分の目で確かめるために私は二〇

〇三年、今度は四ヶ月間の旅に出かけた。

 

二〇〇三年の秋、塩キャラバンはアガ

デス地域から塩田の町ビルマを経由して

サへル南部までの約三〇〇〇キロの旅に

出た。キャラバン商人のリーサが遊牧民

のキャンプ地で私のらくだを紹介してく

れた。

 「旅は長い。キャラバンは一日に一六

時間も歩き続ける。テネレ砂漠には井戸

が一カ所しかないから、このらくだを大

切にして」。

 

リーサは過去三〇年にわたって塩の交

易に従事している元気なおじさんだっ

た。彼は一二頭のらくだと、当時まだ

一六歳だった息子を連れて今も砂漠の果

てまで旅を続けている。

 

出発の日、リーサは家族に別れを告げ

て仲間と合流した。九人の男性、一四人

の子供、一五〇頭のラクダ、そして一頭

の子羊のキャラバンが東へ向かって歩き

はじめた。一ヶ月分の食料—

米、麦、

マカロニ、トマト・ペースト──そして、

鍋やお茶の道具、水袋など、砂漠で生活

するための道具をすべてらくだの背に積

みこんで、キャラバンは進む。

 

キャラバンは、ゆっくりと進みながら

幾つもの丘を超え、水と薪とラクダの干

し草のある場所へ向かった。

 

出発から約一週間が経過したころ、キ

ャラバンは豊かな牧草地をキャンプ地と

して選び、らくだに食べさせる草の束と

薪を作る作業に入った。父親と子どもた

ちは朝から晩まで鎌で草を伐り、夜は焚

き火を囲んでお茶を飲みながら、手と足

を使ってヤシの葉で干し草を束ねるため

の縄を編んだ。

 

キャラバンの男達は食糧と服以外は何

も買わない。トゥアレグのなかでも比較

的消費社会から縁遠い遊牧生活を続けて

きた彼らは、古くからのトゥアレグの職

人のように、自然の恵みを利用して生活

に必要な物を作る技術を子どもたちに伝

承している。一二才から一七才の子ども

達は、らくだ使いの仕事と塩キャラバン

のこと以外は何も知らない昔ながらのト

ゥアレグの少年だった。学校にも通わず

に、食事を作ったり、荷揚げをしたり、

らくだを監視するなどの仕事をこなして

いた。働くときも遊ぶときも元気に動き

まわる子供達の生命力が塩キャラバンに

活気を与えていた。

 

いったんテネレ砂漠に入ると給水でき

る場所が少なくなる。そのため次の井戸

まで一日に一六時間も歩かなければなら

ない。朝四時に起床した子どもたちがミ

レット(穀物)を砕いている間に、男達は

らくだを集め、朝食を食べ終えるとらく

だに干し草を積み始めた。あまりの荷物

の重さに動物も人間も叫び声をあげる。

その声が、砂漠の夜明けの静けさを破っ

た。

 「早く、早く! 

先に進みなさい!」

 

リーサが大声で叫び、息子たちを急が

せた。

 「長く待たないこと」それが砂漠の掟

文・写真 

デコート豊崎アリサ

テネレ砂漠を横断する塩キャラバン

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だ。待つ時間が長いということは、らく

だを疲れさせるだけでなく、人の命も危

険にさらすことになる。

 

すべての荷物を積み終えたキャラバン

が順々に進み始めた。一人のガイドが真

っ赤に染まった東の砂漠へキャラバンを

導いていく。太陽と星を見て方向を定め、

一行をガイドする彼もまた千年前から変

わらぬ技術でキャラバンの生命を握る人

だった。

 

塩キャラバンはオアシスに向けて六日

間もの時間をかけて、広大な砂漠を横断

し続けた。砂漠の昼は猛暑で、夜は寒い。

そんな環境のなかで、子どもたちが用意

してくれた穀物のお粥やパスタの残りを

食べた。わずかな食べ物が元気をつけて

くれた。

 

キャラバンのリズムを崩さないように

一度も休憩をとらず、食事も歩きながら

食べた。砂漠ではらくだの歩みを決して

止めてはならないというキャラバンの原

則が、今も厳格に守られているのだ。神

に祈りを捧げたり、用をたすためにらく

だから降りる際も、こぶの上から飛び降

が叫び声を上げながら、らくだから飛び

降り、仲間のキャラバンと熱い挨拶を交

わす。この時期のビルマには、何百もの

りて、ふたたび戻るときも歩いているら

くだのこぶの上にジャンプする。夜空が

星で満たされるころになっても、キャラ

バンはガイドの合図があるまで決して歩

みを止めることはなかった。

 

砂漠の夜はとても静かだ。動物のかす

かな足音でさえも聞こえてくる。まるで

永遠に広がる地平線へ航海を続けるかの

ようにキャラバンは進み、五感を失うほ

ど恐ろしく美しい砂漠と一体化していっ

た。らくだの上で毛布に包まれている男

達が時おり血が騒ぐような雄叫びを上げ

るが、しばらくすると再び無音の世界が

訪れる。

 「エジック!」

 

キャンプの合図を知らせる声が響くと

男達は一瞬で地面に飛び降り、急いで野

宿の準備をはじめた。

 「砂漠を甘く見る者には死が待っている」

 

焚き火のそばで年寄りが、かつて渇死

したキャラバンの話をしていた。星も見

えなくなるほど激しい砂嵐の夜、あるキ

ャラバンが砂漠の霊が起こした焚き火を

仲間のキャラバンと思い込み、道に迷っ

て死んだ。らくだや車でさえ、いったん

砂漠で迷えば死の危険にさらされる。そ

うして命を失う者は今も絶えない。砂漠

は霊がさまよう空間だと信じるトゥアレ

が、弱って行くと、急に死んでしまう。

 

砂漠では、らくだの遺骨を見かけるこ

とも珍しくない。らくだは急に止まり、

横になって、人が引っ張っても動かせな

いくらい頑固に死を待つ。日本人なら「サ

ムライのようだ」と呼ぶかもしれないら

くだをトゥアレグは昔から尊敬してい

た。運搬に使う以外にも、祭りの時には

男性たちがらくだを豪華に飾り、女性を

口説きに行く。遊牧民の文化では家畜は

生きる財産だ。水と草を求めて動物と共

にキャンプを移動させる。

 

サハラでは普通の牧畜と違って、肉を

売るために家畜を飼うわけではない。銀

行に貯金するように、家畜の頭数を増や

し、必要に応じて一頭を売って、お金に

変える。水と草、そして栄養の元である

岩塩を食べさせれば、家畜を元気に飼う

ことができる。らくだは沢山の塩を運び、

たくさんの穀物を持って帰ることができ

る。

 

男達は水袋を水で満杯にしてから、井

戸のそばで野宿した。そして翌日の朝、

同じリズムで休憩もせずにビルマのオア

シスへ向かった。二日目、地平線に緑が

現れた。目の前に広がっていたのは、オ

アシスのナツメの木だった。ところが近

くに見えるオアシスには、長い一日が終

わっても着くことは出来なかった。翌日

の夕方、男達の雄叫びと共にキャラバン

はようやくオアシスに辿り着いた。

 

オアシスの市場は、夕日に照らされて

いる。女性たちの衣装の鮮やかな色合い

がまぶしい。オアシスのどこを見ても

「命」が溢れていた。キャラバンの商人

塩キャラバンが集まっていた。ビルマは、

キャラバンの交差点ともいえる重要なオ

アシスであり塩田でもある。市場のそば

でらくだと共にキャンプしていたキャラ

バンは何日間もかけてオアシスに住むカ

ヌリ族の人々と、岩塩とナツヤシを仕入

れる交渉をする。

 

湖からできた塩田は、古来より食塩と

して地中海まで運ばれて物物交換され、

今でも家畜のための塩として作り続けら

れている。砂漠で放牧する家畜にとって

塩は、かけがえのない栄養だ。家畜が財

産である遊牧民には、岩塩を運ぶ塩キャ

ラバンが、今でもライフラインを保つた

めの重要な存在である。

 

四月の一番暑い季節に蒸発した塩田の

塩を収穫し乾かすのが、カヌリ族の岩塩

の伝統的な製造法だ。火山のカルデラの

ようなオレンジ色の塩田の周りには、真

グの年寄りが言った。

 「たとえどんなに旅に慣れていても、

砂漠の掟を決して忘れてはいけない」

 

三日目、キャラバンは小さなオアシス

に着いた。周りには数本のヤシの木と、

穴を掘っただけの井戸しかない。男達は

水袋に一所懸命に水を汲んだ。山羊の皮

で作られた水袋は、たとえ気温が四〇度

あっても、水を冷たいまま保持できる「砂

漠の冷蔵庫」だ。井戸に着いた時には、

水袋はほとんど空っぽだった。一日遅れ

たら水はなくなっていただろう。「全て

はらくだの体力を考えているんだ」とリ

ーサが言った。

 

干し草を背に負うらくだに必要以上の

水を持たせなければ、帰りに重い岩塩を

運べる体力を残すことができる。

 

キャラバンはとてもよく組織されてい

る。商人は一頭ずつの積荷の重さを考え

てバランスをとる。

 

井戸では男達が叫びながら、何十メー

トルもの深さの水を汲み続けている。と

なりでは子どもたちが嬉しそうに、らく

だの群に大量の水を飲ませていた。キャ

ラバンのらくだは水がなくても三日間は

生きられるけれど、毎日餌を食べなけれ

ばすぐに弱っていく不思議な動物であ

る。らくだは一五〇キロの荷を背負える

(写真上段)オアシスで塩を売るカヌリ族の女性(下段左から)ボロロ族、ハウサ族、トゥアレグ族

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八〇年代に、ヨーロッパの開発プロジ

ェクトが、塩キャラバンの盛んな地域で

干ばつに苦しんでいた商人に、トラック

を何台も無償で与えた。

 

しかし、砂漠を横断するトラックは、

二、三年で故障してしまった。遊牧民に

は交換用の部品も修理代のお金もなかっ

たので、トラックはそのまま打ち捨てら

れた。いっぽうで町で暮らすアラブの商

人は、当時から車で塩の交易をやり始め

ていた。その競争の中で、塩キャラバン

の交易は生き延びられないと思われた。

 

しかし今、キャラバンが運んで来た岩

塩は、目の前で全部売れたのだ。ボロロ

やトゥアレグの遊牧民は、塩キャラバン

の商人との長い付き合いから、トラック

で運んでくるアラブ商人よりキャラバン

の塩の方が質は良いと知っている。らく

だにはガソリン代がかからないため、上

質の塩を仕入れ、価格の十倍の値で売っ

ているキャラバンにとっては、売り上げ

のほとんど一〇〇%が利益になる。「車

は良いけれど、金がないと大変なことに

なる。知り合いのトゥアレグが、らくだ

一〇〇頭を売って車とトラックを買っ

た。そうしたら、トラックの維持管理費

が車を食って、その他のらくだも食って、

幸運にも残っていた山羊数頭と砂漠に帰

った」とリーサは満足そうに、お金を計

算しながら語った。空になった市場で、

キャラバンの商品は全て売れ、キャラバ

ンのみんなは、野宿のキャンプへ戻る準

備を始めた。リーサはナツメヤシを売っ

たお金で,新たに二頭のらくだを買い、

塩のお金はミレットのために残し、長男

にも給料をあげた。「今年は、恵まれて

いるよ。岩塩が去年よりも高い料金で売

れた」とキャラバンの男達は笑った。

 

ナイジェリアより北にあるミレットの

畑でキャラバンは解散した。これからは

皆が自分の知っている農民のところへ行

って、ミレットを買う。皆がまた再会す

るのは、砂漠で雨季が始まる前の五月だ

プが沢山あるこの土地には、トゥアレグ

だけでなく、ボロロと呼ばれる民族もい

る。彼らはサヘル地域では遊牧のみで生

活を送っている牛飼いである。ボロロの

牛は普通の牛の二倍の大きさで、こぶと

角もある真っ黒な牛だ。ボロロ族はボロ

ロ牛を元気に育てるために塩キャラバン

から沢山の塩を買う。ノッポで華奢なボ

ロロは、サバンナのどこかから突然現れ、

キャラバンと挨拶を交わしてから塩を買

って、またブッシュへ消えていく。キャ

ラバンが野宿する牧草地にトゥアレグや

ボロロの人が現れるのは、しょっちゅう

だった。テネレ砂漠で人を見かけること

はないが、砂漠の境に行くと大勢の人々

っ白な塩の固まりが並んでいた。塩は、

一八キロくらいの円錐形と、パンのよう

に丸い小型という、らくだに積みやすい

形に固められていた。リーサは毎朝、二、

三頭のらくだを連れ、塩田まで塩を買い

付けに行った。カヌリ族と交渉し、塩の

値段を決める。かつてはアガデス地域の

トマトや肉と交換されていた塩は、今は

現金で取り引きする。大きい円錐形の塩

を三〇〇Fcfa

で買って、南の地域に運

んでいけば、一〇倍の三〇〇〇Fcfaで

売ることができる。リーサは二〇個の大

きな塩をキャンプへ持って帰って、包む

作業を始めた。「塩は壊れたら、南の市

場で半額でしか売れなくなる。だから一

個ずつ丁寧に包まなければならない」。

 

キャラバンの人達は、ヤシの葉を編ん

で塩を包みながら、キャラバンのキャン

プに毎日来るカヌリ族の女性からナツメ

ヤシを買ったり、トゥアレグ族が持って

きた麦やトマトと物物交換していた。ナ

ツメヤシは安いため、小さい物と交換し

やすい。賑やかなカヌリの女性とストイ

ックなトゥアレグの物物交換を見ている

と、とても面白い。お互いの言葉が違う

ため、西アフリカで広く使われているハ

ウサ語でやり取りをし、納得が行くまで

交渉し、小さい物でも絶対まけたりはし

ない。交渉は長引き、どちらも大きな儲

けはできないかもしれないが、時間をか

けて値切ることは、人間の絆を強めるた

めの昔ながらのやり方だった。そうやっ

て一千年前から各地の民族と絆を築いて

きたおかげで、塩キャラバンも現在まで

生き延びているのだろう。

 

ビルマで一週間を過ごした後、塩キャ

ラバンは塩とナツメヤシをらくだの背に

積んで、再びテネレ砂漠を渡った。遊牧

キャンプに一度戻ってからハウサ地域に

南下し、最終目的地に向かう準備を始め

るためだ。穀物を買うための岩塩とナツ

ヤシを雄のらくだに積んで、雌のらくだ

と子供のらくだも連れて行く。この時期

は乾季で枯れた牧草地しかないため、ト

ゥアレグのキャンプはらくだの群を南の

豊な牧草地へ連れて行く習慣がある。

 

乾季にらくだの群に砂漠の少ない資源

を過剰に食べさせれば、自然が再生でき

ないことをよく知っている遊牧民は、農

民が畑を休閑地にするのと同じように群

を遠くまで連れて行き、「遊牧」をする。

「穀物のキャラバン」の交易と同時に、

らくだの群にえさを食べさせることは、

遊牧生活を継続するためのサイクルだ。

 

アガデス地域から南へ向うと、そこに

はサバンナが広がっていた。遊牧キャン

がいた。水と草がある豊かな氾濫地(雨

季に氾濫する乾いた川)のそばに住む遊

牧民たちはテネレ砂漠を横断することは

なく、小規模な交易だけをしていた。

 

ボロロの女性はロバに乗って農村の市

場で牛のミルクや植物の薬を売り、トゥ

アレグは山羊のチーズ、らくだのミルク

を売っていた。ボロロ族の主な活動は、

らくだや牛の頭数を増やすことだ。だか

ら塩キャラバンを訪れる度に彼らは岩塩

を買い、牧草地がどこにあるのか、らく

だに良い植物の薬はどこで見つけるのか

情報を交わす。実は昔、井戸の紛争があ

って、ボロロとトゥアレグの仲は良くな

かったが、お互いに遊牧民としての尊敬

を払いながら、持ちつ持たれつの関係を

持ち続けていた。

 

ボロロは動物の世界と繋がる儀式をお

こなう他に、男同士で美しさを競う祭り

が有名である。その祭では、男たちが石

の粉で化粧をして一週間かけてトランス

状態で踊る。美の文化を持つボロロにと

って、キャラバンの人たちが丁寧につく

った円錐形の塩は牛を健康に育てるため

の宝物のように見える。家畜を愛する彼

らのような人々にとって塩キャラバンは

重要な存在だ。

 

塩キャラバンは岩塩とナツメヤシを売

り切るまで、三週間かけて市場から市場

へ移動する。サヘル地域の大きな市場に

は行かず、裏の道を使って農村の市場に

行くように、塩キャラバンは、二重線の

交易を行っていった。市場でリーサは、

岩塩を丁寧に並べて客を待った。隣では、

いくつかの塩キャラバンの商人も同じビ

ルマの塩を並べて待つが、お客を引っ張

りあうこともなく、お互いに話しながら

知り合いが来るまで待っていた。ボロロ

にも、トゥアレグにも、ハウサにも、皆

馴染みのお客さんがいた。ブッシュの市

場では、服、食糧、薬、家畜など何でも

売られている。そこには農村の人々や遊

牧民や、町から来る人もいた。

 

屋台の中には、アラブ人が経営してい

る店がいつもあった。そこではビルマか

ら小型トラックで運んだ丸い形の小さい

塩が沢山売られていた。塩をヤシの葉で

包まずに、直に車に山盛りに積むために、

塩が崩れてしまう。その塩は塩分の含有

量が少なく、灰色をしていて、キャラバ

ンが売る塩よりもよりも安い。「ビルマか

らたった三日間で着いた」とアラブの商

人は自慢げに言った。彼は季節と関係な

くビルマまで車で往復して、塩を日常の

商品と同じように雑貨店で販売していた。

アラブの商人たちにとって塩は特別貴重

なものではなかった。安く仕入れた塩を

アラブ商人から買っていたのは、小さな

家畜を飼うハウサの農民だけだった。

ろう。リーサは息子二人を連れて、畑で

キャンプをしながら、ミレットを詰める

袋を作った。そして、農民と直接やり取

りをし、収穫直後の安価で四ヶ月分くら

いは自給自足できる量のミレットを購入

した。砂漠のキャンプにいる間は、キャ

ラバンの商人は市場に行かないで、自分

たちが持ってきた穀物、岩塩、服や鍋を

使って暮らしている。

 

リーサは特に、「無駄のない」生活が好

きなオールド・ファッションのトゥアレ

グだった。彼は懐中電灯もスニーカーも

なかった時代に塩キャラバンの見習いを

始めた。父親が鍛冶屋だったリーサは、

十年間塩キャラバンを続けた後に、ナイ

ジェリアのカノ市で家の管理人の仕事を

三年間やった。「あの時は、早く結婚を

しようと思って、お金を稼ぐために塩キ

ャラバンをやめたんだ」。九〇〇万人が

住むカノ市で暮らしてから、リーサは自

分の持ち物だけで自由に暮らしたいと思

い、塩キャラバンの仕事に戻った。「た

とえ、干ばつがあっても、ナイジェリア

まで群を連れていく。何があっても、キ

ャラバンをやる価値はある」。

 

らくだがいる限りは塩キャラバンをや

り続けたいという彼の気持ちが私にも強

く伝わってきた。

 「僕らは車ではなく、らくだが欲しい。

そしてビルマで売れる商品が欲しい。乾

燥トマトや肉、玉ねぎ、鍋や服を持って

市場で岩塩とナツメヤシを売るリーサ

テネレ砂漠の砂に埋もれた車。遠方に塩キャラバンの隊列が見える

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いけば、岩塩がもっと買える」。

 

塩キャラバンの世界では収益を増やす

のは、やはり車ではなかった。

 

リーサは仕入れたミレットを農民に預

かってもらい、数日後にニジェールのサ

バンナからナイジェリアのサバンナに入

り、カノ市の郊外にある農民の畑に辿り

ついた。

 

バオバブの木の下でイドリスがリーサ

の塩キャラバンを待っていた。長い挨拶

を交わしてからリーサは畑にキャンプを

立て、イドリスが持ってきた冷たいコー

ラと食事を食べた。イドリスは穀物や野

菜を作るハウサの農民だ。彼は収穫が終

わった後に砂漠から来るらくだのキャラ

バンを、いつも待っていた。「らくだの

糞は農民にとっては最高の有機肥料だ。

生産の増加を確保できるから、キャラバ

ンが来るのは本当にありがたい」とイド

リスは喜んでいた。

 

農民と遊牧民は昔から仲が悪いと言わ

れている。お互いのニーズがぶつかり、

ときには狭い土地をシェアしなければな

らないからである。でも、国家の開発プ

ロジェクトよりもはるか昔から「サービ

ス交換」という仕組みが存在していた。

 

イドリスは無料で肥料をもらう代わり

に、リーサたちにキャンプするのに居心

地の良い場所を用意し、水や食べ物を沢

山くれる。そしてキャラバンのらくだは、

周りの草原の緑をたっぷり食べることが

出来る。

 「ここには理想的な条件がある。今か

ら砂漠へ帰っても乾季だから、二ヶ月く

らいここでらくだに草を食べさせてから

故郷にもどる」とリーサが言った。トゥ

アレグの言葉で、「アカル・イン」とは故

郷を指す言葉である。常に移動する遊牧

民にも、故郷という言葉はある。

 

彼ら砂漠の民は、雨季が連れてくる雨

と緑ほど美しいものはないという。塩キ

ャラバンは雨季に誘われて砂漠のキャン

プへ戻り、九月の末まで続く結婚式や、

らくだのレースや祭りに参加しながら、

ゆっくりとキャンプ生活を送る。そして

乾季が訪れると、新たな塩キャラバンに

出発するための準備を始める。

 「塩キャラバンは終わらないサイクル

である。今日の旅は明日の旅を準備する」。

 

地球が回っているように塩キャラバン

が回り続ければ、平和の希望はある。な

ぜなら交易を通して民族間に平和をもた

らすからだ。こんな理想的な経済は、ほ

かにないかもしれない。

alissa descotes-toyosaki

(デコート・豊崎アリサ)ジ

ャーナリスト。写真家。アフリカの遊牧民の生活を支

援する団体〈サハラ・エリキ〉主宰。父はフランス人、

母は日本人。サハラ砂漠でラクダ使いをやりながら、

さまざまな取材活動をおこなっている。〈サハラ・エリ

キ〉ホームページ 

www.sahara-eliki.org