17
1 アーレ・アフマドの『西洋かぶれ』における「西洋」の位置 Position of the West in Gharbzadegī of Jalāl Āl-e Ahmad 斎藤 正道(東京外国語大学大学院博士後期課程)

Thesis Gharbzadegi of Jalal Ale Ahmad Masamichi Saito

Embed Size (px)

Citation preview

Page 1: Thesis Gharbzadegi of Jalal Ale Ahmad Masamichi Saito

1

アーレ・アフマドの『西洋かぶれ』における「西洋」の位置 Position of the West in Gharbzadegī of Jalāl Āl-e Ahmad

斎藤 正道(東京外国語大学大学院博士後期課程)

Page 2: Thesis Gharbzadegi of Jalal Ale Ahmad Masamichi Saito

2

Abstract

Gharbzadegī of Jalāl Āl-Ahmad is an essay whose socio-political criticism has affected

enormously the Islamist consciousness in Iran since 1960’s. The significance of this essay, on

which various studies have agreed, is so great that Hamid Dabashi in his book Theology of

Discontent wrote “this was perhaps the single most important essay published in modern

Iranian history”. Over the evaluation on this essay, however, many researchers have depicted

it as anti-Western, conservative and autistic. Researchers like Mehrzad Boroujerdi posit

Gharbzadegī as “the modern Iranian articulation of nativism”, whose “uncritical exaltation of

the past and the indigenous can have dire consequences for progressive projects”. On the

other hand Ali Mirsepassi, rejecting the autistic nature of Gharbzadegī, evaluates it as “a quest

to realize a national modernity in Iran”. He asserts that Āl-e Ahmad’s “critique of the West”

“cannot simply be reduced to an anti-Western polemic”. Both of them, however, seem to

agree on this point that Gharbzadegī of Āl-e Ahmad is a work that declares indigenous nature

of the Self in comparison with negative Other, i.e. the West in the framework of binal

opposition. The difference of evaluations between Boroujerdi and Mirsepassi is whether this

oppression of the Other = the West means the autistic nativism or progressive nativization of

modernity. This study aims at reexamination of the image of the ‘oppressed Other = the West’

in the Gharbzadegī, through which we may be able to see the meaning of “the encounter with

the West” for the so-called non-Western world. This study intends to show that in

Gharbzadegī, the West is not simply the oppressed Other nor rejected. Rather the West

always transgresses the boundary between the Self and the Other, confusing and attracting

the former, showing normative (not negative) values which the Self lacks. “The encounter

with the West” is a moment in which one recognizes and discovers the relativized Self who is

lacking necessary values that the Other = the West shows in abundance, not a moment in

which the Self discovers the self-sufficient and faultless one.

Page 3: Thesis Gharbzadegi of Jalal Ale Ahmad Masamichi Saito

3

はじめに

ジャラール・アーレ・アフマド(1923-1969)1の『西洋かぶれ』(1964年)2は、地下出版ながら多くのコピーが出回り、1960 年代以降のイランにおけるイスラーム主義的政治意識に多大な影響を与えた、200 ページ強のエッセーである。ハミード・ダッバーシーの言によれば、「『西洋かぶれ』は高校や大学で、隠れた必読文献の筆頭として読まれ、議論され」、「そのテクストから一字一句文章を引用できるか否かで、政治活動グループへの入会の是非が決まったほど」3

の成功を収めた著書であり、彼が用いた「西洋かぶれガ ル ブ ザ デ ギ ー

」という語彙はその後のイランの政治文化に大きく影響した。ダッバーシーは次のように述べている。

この著書はイランで近代以降出版されたもののなかで、もっとも重要なエッセーである。様々な賛否両論を引き起こし、イスラーム革命前の 20年間におけるイランの社会批評の語彙を構成し、イスラーム革命の言説における「反西洋」的性向を形成する上で、『西洋かぶれ』に比肩しうるテクストはない。「西洋かぶれ」というタームは 1960年代、そしてそれ以降のイランの政治語彙に深く根づき、アーヤトッラー・ホメイニーですらイラクでの演説や書簡、宣言の中で用いたほどである4。

「20 世紀のイランの著作家の中で、彼は西洋的教育を受けたテヘランの左翼から、コムの古めかしいイスラーム法学・神学生に至るまで、イランの知識人のすべての層に、同じような熱意でもって(必ずしも好意的ではないにせよ)読まれた、おそらくは唯一の人物だろう」5というアーレ・アフマドについてのロイ・モッタヘデの評価は、1960 年代以降のイランの言説空間における彼の重要性を示す、もう一つの証言である。

アーレ・アフマドとその著書『西洋かぶれ』の政治的重要性について、研究者の評価は一致しているが、その思想をめぐっては、反西洋的・退嬰的・自己閉鎖的という評価が支配的だ。例えば、フェレイドゥーン・アーダミーヤトは彼を、「立憲体制を攻撃する」「反動的な集団の塹壕」6であると切って捨て、マイケル・ヒルマンは「七世紀アラブの宗教」を選ぶか、「人生や人間的完成、進歩などに対する西洋的価値指向」を選ぶかで引き裂かれ、結果「その必要がないにも関わらず、伝統的過去から出発しようとし、また同様にその必要がないにも関わらず、自らのイラン性を主張しながら現代にたどり着こうとする」、「文化的葛藤」に悩まされたイランの知識人として描く7。メフルザード・ボルージェルディーの研究8は、「西洋」が自らのアイデンティティを確立するために対称的他者として「東洋」を想像・創造する、オリエンタリズムと呼ばれる二項対立的言説編成体に関するエドワード・サイードの研究を援用して、近代イランの国民主義的言説を読み解く意欲的なものだが、「西洋かぶれ」の言説を近代的だが「進歩的プロジェクト」にとって障害となる現象として想定しているという点で、ヒルマンと大差ない。ボルージェルディーは、イラン・イスラーム革命前後のイラン知識人による「西洋」をめぐる様々な言述を、歴史的現実から遊離してノスタルジックな過去に埋没する閉鎖的な「ネイティヴィズ

Page 4: Thesis Gharbzadegi of Jalal Ale Ahmad Masamichi Saito

4

ム的言説」として特徴づけた上で9、アーレ・アフマドの『西洋かぶれ』をイランの「ネイティヴィズム」の方向性を規定した記念碑的著作として評価するのである10。

これに対してアリー・ミールセパースィーは、アーレ・アフマドの「西洋かぶれ」論を「単純に反西洋的議論へと還元することはできない」とした上で、「西洋かぶれの言説におけるロマンティシズムは、イランの国民的背景においてのみ実現可能な近代性のイメージを具現化したもの」11、「イランにおけるナショナルな近代性の実現への追求」12であると主張する。つまり、ボルージェルディーが「西洋かぶれ」の言説を「ネイティヴィズム」のイラン的変奏であり、そこからの帰結は進歩や発展という観点からは否定的なものでしかありえないと考えているのに対し、ミールセパースィーは近代性のネイティヴ化への主体的・発展的な試みとして捉えているのである。

しかしいずれの議論も、アーレ・アフマドの『西洋かぶれ』は「西洋」を「我々」との二項対立における否定的な他者として抑圧することで自己の固有性を宣言する、「反西洋的」著作であるということに異論はないようである。ボルージェルディーとミールセパースィーの見解の違いも、それが自己閉鎖的なネイティヴィズムを意味するか、あるいは近代性の発展的なネイティヴ化を意味するかの違いである。これに対し本論は、『西洋かぶれ』における《抑圧された他者=西洋》像を見直す試みである。「西洋」は単に否定的な価値を象徴するだけの抑圧された他者なのではなく、自己に欠けた諸価値を示す規範的な他者でもあるということが明らかにされるだろう。そしてそれは、《西洋との遭遇》とは如何なる現象なのか、という問いを考察することにつながるだろう。

1 「西洋」/「我々」の二項対立と権力における主体/客体関係

本章ではまず、アーレ・アフマドの「西洋かぶれ」論は「西洋」/「我々」の権力における主体/客体関係を基本的認識として構成されていることを見ておく。「西洋かぶれ」論を成立させているのは、「西洋」は常にあらゆる資源を手中に収め操る権力の主体であり、それとは対称的に「我々」は「西洋」によって自らの運命に対する決定権を奪われた権力の客体となっているという認識である。「西洋かぶれ」論のこのような認識は、しかし次章で検討することになる『西洋かぶれ』のもう一つの柱である「機械かぶれ」論と無視できない矛盾・対立を抱えている。この矛盾を浮き上がらせるための準備作業として、本章では「西洋かぶれ」論における「西洋」/

「我々」の二項対立という論理構成に焦点を当てたい。

「西洋」と「我々」の二項対立

アーレ・アフマドの『西洋かぶれ』が「西洋」と「我々」の二項対立によって特徴づけられた著作であることは、本書の冒頭の部分において早速、きわめて明確な形で現れている。彼はまず世界を「西洋

ガルブ

」と「東洋シャルク

」、そして後者の一部としての「西洋にかぶれた我々」に分割した上で(p.21.)、「西洋」/「東洋・我々」の対立を、高賃金/低賃金、低死亡率/高死亡率、低出生率/高出生率、整った社会的サービス/社会的サービスの欠如、十分な栄養/乏しい栄養、高所

Page 5: Thesis Gharbzadegi of Jalal Ale Ahmad Masamichi Saito

5

得/低所得、民主主義の伝統/民主主義に対する無知、富裕/貧困、繁栄/荒廃、文明/野蛮、知/無知、進歩/停滞、動/静などの対称性によって確認し、更にそれを「日に日に深く広くなっていく、埋めることのできない穴」(p.24)と表現している。

しかし、「西洋」と「我々」は単に正反対の存在として措定されるだけではない。冒頭で「西洋かぶれ」という現象を、表面は健康そうだが内部は病に侵された「カメムシによる虫害のようなもの」、「外部からやって来た異変であり、それに適した環境のもとで広がった病気」(p.21)と呼んでいることからも明らかなように、アーレ・アフマドの「西洋かぶれ」論は「西洋」の侵入によって引きおこされた「我々」の危機をめぐる言説である。「西洋」/「我々」の間に設定された様々な対立は、生産者/消費者、加工者/原材料提供者、輸出者/輸入者という経済関係を軸とした、政治的権力関係として捉え直されるのである。「 東

シャルク

と 西ガルブ

はもはや地理的概念ではな」く、「経済的な概念である」(pp.22-23.)と述べるアーレ・アフマドは、一方で「西洋

ガルブ

」を「機械を使って原材料をより複雑なかたちにし、市場に供給することのできる国々のすべて」、他方で「東洋

シャルク

」を「西洋の作った製品の消費者であるような国々の総体」(pp.21-22.)と定義づけた上で、「西洋」/「我々」の間には「強制された通商関係」(p.88.)が存在しているために、「西洋の産業は我々を搾取し、我々に命令を下し、我々の運命を手にする」(p.87.)一方で、「我々は西洋の作りだした製品にとって貞淑で従順な消費者にならざるを得ない」(p.27.)と主張している。しかもこの従属にこそ、「我々のすべての破滅的状況」の根本的原因があると、彼は指摘する。というのも、「機械の生産者の経済的利益の観点から、つまり国際経済の観点から」、非主体的に「我々」の経済的、政治的変化が惹起されるからである(p.126.)。

権力と陰謀の主体としての「西洋」

こうして権力の主体として措定された「西洋」は、歴史的に常に「東洋」に対する経済的支配への意志を明確にもった存在でもあるとされる。アーレ・アフマドはこのことについて、「太陽と香辛料、シルク、その他の商品を求めて、西洋はまずはじめにキリスト教の聖地へと赴く巡礼者の服装で…後に十字軍の武器を持って、それから商人の服装で、それから商品を山積みにした戦艦の保護を受けて、そしてキリスト教の布教者の名の下で、最後に文明の普及の名目で〔東に〕やってきた」(p.30.)、と述べている。更に「西洋」はその目的を貫徹するために、様々な「陰謀」を張り巡らせてきたともされる。「真のキリスト教徒である十字軍」と「半キリスト教徒であるモンゴル人」の共謀による「イスラーム世界」への侵略(pp.63-64.)、「ローマ法皇」と「ヴェニスの商人」の陰謀による「モンゴル襲来」(pp.65-68.)、「ギリシア人キリスト教徒」を妻にもつシャー・イスマーイールによるサファヴィー朝の樹立に伴うシーアとスンニーの血みどろの「内部抗争」の勃発(pp.68-69.)などの陰謀の指摘によって、権力の主体としての「西洋」は確固たるものとして歴史的に証明されるのである。

「西洋」のこのような陰謀は時代とともに巧妙化し、それとともに「我々」の内部にその支配権力を浸透させているという。「西洋」は軍事的に「我々」に攻め入っただけではない。表面上「旅行者、商人、外交使節、軍事顧問、イエズス会員」として、更には「東洋学者」として「西

Page 6: Thesis Gharbzadegi of Jalal Ale Ahmad Masamichi Saito

6

洋」から「東洋」へと来た者たちが、実際には「植民地主義を辛抱強く推進した当事者」であり、彼らはこぞって「我々の耳」を、眠りへと誘うような「お世辞」や「呪文」によって内的に支配している(pp.75-76)というわけである。一見公平無私であるかのように見える種々の国際機関も、植民地主義を偽装しようとする「西洋人のペテン」であり、「ここにすべての非西洋諸国民の西洋かぶれの本質がある」(p.27.)と主張するアーレ・アフマドは、20世紀以降のイランの近代化政策をこのようなペテンの国内例として挙げている。例えば、彼はイギリスの石油利権獲得と 1906年以降の「立憲革命という騒動」の間にある陰謀について示した上で、「最新の進歩的な変化」とされるものが実は「西洋」の陰謀の「偽装工作」として立ち現れたものであるということを、レザー・シャー期の服装改革を例にとって暴露している(pp.83-86)。そればかりか、女性解放、石油の採掘、農地改革、工業化などの動きもすべて、「我々」に「機械」をはじめとする様々な商品を売り込もうとする「西洋」の陰謀、侵略の一環とされる。「立憲体制は機械の先兵」(p.81)であり、「女性解放は、…パウダーや口紅̶つまり西洋の製品̶の消費者の群を増加させ」(pp.102-103.)、農地改革は「西洋」の製品であるトラクターでイランの農村をめちゃくちゃにし(pp.92-93.)、人々を「村から根扱ぎ」にすることになる(p.95.)、というわけである。こうして、主要な歴史的変化はいずれも、権力の主体である「西洋」の明確な意志が刻み込まれた陰謀へと還元されるのである。

文化への侵略による「西洋」の権力の深化

更に「西洋」は、それとは気付かれることのない様々な支配を、至る所で「我々」の内部に深く浸透させている。このことをアーレ・アフマドは「 文 化

ファルハング

」における権力作用を指摘することで指摘している。「西洋」/「我々」の間の権力関係を規定する強制された生産者/消費者の関係は、「文化の問題においても存在する」(pp.87-88.)と述べるアーレ・アフマドにとって、「西洋」の商品化力は「単に鉄鉱石や石油、腸線、綿、ゴムだけではな」く、「神話や信仰、音楽、そして天上世界」にも及ぶ(pp.21-22.)。「イスラーム百科事典」は「西洋」の文化的・知的権力がイスラームを原材料として物質化し、実験室へと連れ去り、その有機的統一性を破壊して、植民地主義的支配を促進しようとした痕跡に他ならない(p.32.)。現在も「西洋」は機械に続いてその専門家を、更に方言学や文学、絵画、音楽の専門家までも輸出し、「我々」を文化的に支配しようとしている(p.128.)のである。

すでに見たように、アーレ・アフマドは『西洋かぶれ』の冒頭で「西洋かぶれ」という現象を、表面は健康そうに見えてもその内部は破壊されてしまっている、そういった病気になぞらえていた。外部と内部、幻想と真実の二項対立を基本的枠組みとして、「西洋かぶれ」と呼ぶ現象がまさに「表面」ではなく「内側」において進行していることにこそ、その真の危険性があり、かつその根本があることを彼は次のように指摘している。

今やこの旗のもと、我々は自己から疎外された民族のようである。服装、食生活、風俗・習慣、マス・メディアの領域において、そして中でも最も危険なことに文化=教育の領域において、そ

Page 7: Thesis Gharbzadegi of Jalal Ale Ahmad Masamichi Saito

7

う言えるのである。我々はヨーロッパ風に育て、ヨーロッパ風にあらゆる問題を解決しようとするのである。(p.78.)

もし〔西洋かぶれという〕危険が立憲体制の最初期においては耳元にあったとするならば、今やその危険は我々の魂に根づいてしまった。(p.79.)

「我々の政治的、経済的、文化的運命は資本主義企業とそれを支持する西洋の政府の手に渡ってしまった…」(p.77.)と述べるアーレ・アフマドは、文化的位相における「西洋」/「我々」の権力関係を論ずることによって、「西洋」による権力作用を遍在化・深化させるのである。

「西洋」/「我々」の権力関係の中心点としての「機械」

「西洋」/「我々」の権力関係は更に、「我々」とは異質で対立する世界である「西洋」の刻印が押された「機械」の力によって寸分の隙もなく完成し、一方で「西洋」はあらゆる相における権力をその手に握る全き主体として、他方で「我々」はあらゆる権力を奪われた、全権の支配者たる「西洋」の暴力の全き客体として、純然と定立されることになる。「他者の手によって作られたものは、…何か未知なるもの、見えざる世界、人間の領域外の恐ろしき世界のものを自身に帯びている」とアーレ・アフマドは言う。「我々」はこの「秘密」に畏怖し、「機械」という「護符」の奴隷となっている。しかし実際には、「この護符は他者が、我々を震え上がらせ搾取するために、我々の生に掛けたもの」なのである。「西洋」は「機械とテクノロジーの支配者」(p.59.)であり、それらを用いて「我々」に破壊的な権力を行使する。それに対して「我々」は、「機械とテクノロジー」に対して全くの無知であり、それに振りまわされるだけの、無力な客体にすぎない。『西洋かぶれ』の序論「ある病気の概略」の最後に列挙された「西洋かぶれ」の定義には、実際次のようにある。

〔西洋かぶれとは〕世界の一部の人々の生活、文化、文明、考え方において、拠り所としての伝統や、歴史における持続性、そして変化の規則的筋道もなく、ただ機械の副産物として起きる出来事の総体。…

西洋かぶれとは、未だ機械に手を触れず、そのメカニズムの秘密を知らない、我々の歴史の中の一時代の特徴である。

西洋かぶれとは、機械についての初歩的知識、つまり新しい科学及びテクノロジーに精通していない、我々の歴史の中の一時代の特徴なのである。

西洋かぶれとは商業や経済、石油の往来の強制によって機械を購入し、消費することを余儀なくされた、我々の歴史の中の一時代の特徴である。(pp.34-35.)

「機械」は「西洋」/「我々」の「生産者」/「消費者」の関係、更には権力における主体/客体関係の中心点を成している。アーレ・アフマドは「機械を拒否、排除しようという議論ではない。…機械とテクノロジーとの向き合い方についての議論なのである」と述べた上で、「機械」

Page 8: Thesis Gharbzadegi of Jalal Ale Ahmad Masamichi Saito

8

が如何に「我々」の権力における客体化にとって枢要な位置を占めているかを、次のように表現している。

我々は西洋の作りだした製品にとって貞淑で従順な消費者にならざるを得ない。…そしてこのことは、自らを機械のパターンに合わせることを要求する。そしてそれは我々の政治体制に対しても、文化に対しても、日々の日常生活に対しても要求されることなのである。…このノートの基本的な議論は、我々はいままで自らの文化的・歴史的特性を、機械とその強制的侵入を前にして守ることができずに、むしろそれが崩壊してしまったことについてである。(pp.27-28.)

それ故、「西洋」/「我々」の一方的な主従・優劣関係を解消するためには、「西洋」の所有物であり、またその権力の源泉としての「機械」をどのように「我々」のものとして支配下に置くかが鍵となる。アーレ・アフマドが、「西洋かぶれに対する最後の塹壕」と呼ぶイスラームの指導者たちもまた、ラジオやテレビといった「敵の武器」で武装して「西洋かぶれ」に対して闘うべきだと断言し(pp.81-83.)、また別の箇所で「機械」の「秘密」を暴き、それを「作り、所有」し、そこに自らの「意志を彫り込む」ことで、「西洋」から来た「機械」にただ「身を委ね」、「西洋の言うがままに留まってしまう」のではなく、それを「我々がその上に乗って、その力を利用してなるべく遠くへと跳ぶための跳び台」とすることが可能となると論じている(pp.118-120)のも、「機械」が「西洋」/「我々」の権力関係を、そして「西洋かぶれ」という現象を規定しているからに他ならない。アーレ・アフマドは次のように言っている。「西洋文明の本質と哲学を理解しない限り、そしてその理解が表面的なままである限り、機械を消費するだけの西洋の模倣に終わってしまうだろう」(p.28.)、そして「我々がただの消費者である限り̶機械を作らない限り̶、我々は西洋にかぶれているだけである」(p.29.)、と。

2 魅惑の「西洋」と「機械かぶれ」論

「機械」を支配する「西洋」か、「機械」に支配される「西洋」か

ところで、前章の最後に紹介した二つの引用文には、実はそれぞれ続きの文章がある。すなわち「もし機械を作ったものが、いまや自ら叫び声を挙げ、窒息感を経験しているならば、我々は機械の下僕へとなりさがったことに不満も覚えずに、そのことを気取ってさえいるのである」、そして「ここで面白いのは、やっと機械を作った途端、機械にかぶれることになるだろうということである!ちょうど『テクノロジー』と機械の専制に自ら叫び声を挙げている西洋のように」、がそれである。このような主張は、アーレ・アフマドの『西洋かぶれ』に大きな矛盾、あるいは亀裂をもたらしている。というのも、先のアーレ・アフマドの主張は、「西洋」を「機械」の支配者ではなく、「機械」に支配される者の位置に、「機械」を操るのではなく、「機械」に操られる者の位置に置くことで、「西洋」と「機械」との関係を逆転させてしまうからである。つまり、アーレ・アフマドが「機械かぶれ

マーシーン・ザデギー

」と呼ぶこの現象を論ずることは̶『西洋かぶれ』の第十二章では「機械かぶれについて少々」という章題のもとで 25ページ近くにわたり論じら

Page 9: Thesis Gharbzadegi of Jalal Ale Ahmad Masamichi Saito

9

れている̶、これまで見てきたような「西洋かぶれ」論の重要な前提である、《権力の全き主体としての「西洋」》を無効にしてしまうのである。「西洋」は「機械」を操る主体としての地位から転落し、「我々」以上に徹底的に「機械」によって破壊され、「規格化」「画一化」された(p.201.)、「均衡のとれぬ病的な者どもの憂鬱病患者的性向」(p.203.)に覆われた社会という様相を呈することになるのである。アーレ・アフマドは次のように述べている。

〔西洋における人間性の喪失は〕人々が機械の足下で一列に隊列を作らされたこと(規格化)の副産物である。…この人々の「規格化」は、機械の必需品の一つでもある。つまり機械の要素でもあり、かつその結果でもあるのだ。機械の前では画一化され、工場では隊列を作らされ、時間どおりに動き、退屈な仕事を一生続ける、これが機械と関わりをもつものの第二の習慣となっている。統一化された服装、発言、挨拶、考え方が要求される党や組合に出席することが機械の下僕の第三の習慣である。すなわち、工場での画一化は党や組合での画一化に帰着し、更に兵舎での画一化にも帰着する。つまり戦争機械の足下での画一化に!…機械への奉仕のための姿格好、考え方の統一化は…20 年に一度西洋諸国を血まみれにし、世界を戦争へといざない、最後にはそれを自ら記念するというところへ帰結する。単刀直入に言えば軍国主義は、…根本的には、自らの習慣・儀礼を機械にあわせて採り入れるのだ。(pp.201-202.)

本章では、アーレ・アフマドの「西洋かぶれ」論と「機械かぶれ」論の間にある、このような矛盾・亀裂の意味を考察する。この矛盾は、アーレ・アフマドの単なる個人的な気まぐれや誤謬を表したものではなく、《西洋の発見》によって否応なく《欠如態》としての自己を発見してしまったことで惹起されたものであること、そしてこの自己発見は、なぜ「我々」が「西洋」の侵略をいつもたやすく許してしまうのか、という疑問に対する不可避的な回答であるということが示されるだろう。すでに論じたように、「西洋」は常に「我々」の隙を窺い、「我々」の内部への侵入とその破壊を試みる侵略者である。「我々」の歴史は、「西洋」による数々の陰謀に彩られている。しかしなぜ、「西洋」の侵略がこれほどまでに容易なのか。以下でこの疑問を糸口にして、アーレ・アフマドによる欠如態としての自己発見を跡付け、そうすることで上述の矛盾の意味を明らかにしていきたい。

「我々」の本質としての「西洋かぶれ」

アーレ・アフマドは『西洋かぶれ』の序論「ある病気の概略」に続く章「病気の始源」において、「西洋かぶれ」の根源的原因について探っている。それによると、「我々」は有史以来、「常に 西ガルブ

に視線を送ってきた」というのである。「我々」は息子として、母なる故郷インドから「西」へと旅立ったことで、固有の存在への第一歩を踏み出したと同時に、「西洋かぶれ」という事態を招く根源的な原因を自らの内に宿してしまったという。「私が西洋かぶれと呼ぶ事態のありうべき原因の一つが、まさにこの〔インドという〕中心からの逃避にあると私は考えている」(p.41.)、とアーレ・アフマドは述べている。それ以来「我々」は「肥沃な大地、活況な港、平和な街、継続的な降雨」に恵まれた地として、「西への関心」を持ち続けてきた、というのであ

Page 10: Thesis Gharbzadegi of Jalal Ale Ahmad Masamichi Saito

10

る(pp.51-52.)。

アーレ・アフマドが「西洋かぶれ」の歴史的始源として指摘するのは、「西への視線」だけではない。アーレ・アフマドによると、「我々の過去の歴史という構築物は土台や柱、塀、家、そしてバーザールなどによって支えられたものではない」という。なぜなら「自らの敷物を敷いた王朝はどれも、まずは最初にやったことといえば、前の王朝の敷物を取り払ってしまうことだったから」(p.44.)である。「父と息子が二代にわたってある建築物を完成させたのは、アケメネス朝とサファヴィー朝の二つの時代しかない」、そして「我々の都市文明なる建築物は、まずある者が基礎を築き、次に来た者がその上に建物を建て、三番目に来た者がそれに飾りをつけ、そのまた次に来た者が発展させるといったようなものではない」とアーレ・アフマドは指摘している(pp.44-45.)。このようなイランの歴史の特徴である非連続性の延長線上に、「拠り所としての伝統や、歴史における持続性、そして変化の規則的筋道もなく、ただ機械の副産物として起きる出来事の総体」として特徴づけられた「西洋かぶれ」という現象があることは明らかであろう。実際アーレ・アフマドは、「我々が停滞し、西洋が攻め入ってきた」のも、このようなイランの伝統的な非連続的性格が一つの原因ではないかと推測している(p.45.)。

以上のことから分かるのは、アーレ・アフマドにとって「西洋かぶれ」という「病気」の兆候は「我々」の存在そのものの中に深く刻み込まれたものだということである。「西洋にかぶれた者たち」についてアーレ・アフマドは、「過去と関係をもたず、未来について何のヴィジョンもない」、「足が宙に浮いた」、「空間に舞う塵、あるいは水上に漂う埃のような存在」であり(pp.141-142)、「信じるものが何もなく」、「信条はなく、主義・主張も、意志も、信念もない」(p.144)と非難しているのだが、このような特徴はイランの非連続的な歴史から生まれてきたとされる「無関心で、情熱に乏しく、『こんなこともあるさ』的な」国民性(p.43.)と軌を一にしたものであるのも、何ら不思議なことではない。

このように、「西洋」による権力作用に先立ってすでに「我々」の内部には「西洋かぶれ」という病気の兆候が根を張っていることになる。「我々」とはそもそもの始まり、「母なるインド」から離れ、固有の存在としての「我々」性を獲得したその瞬間から、すでに「西」の方向を意識せざるを得ず、結果として「西洋かぶれ」の種子を内部に抱えた存在となってしまったのである。「西洋」がいつもたやすく「我々」の内部に侵入することができるのも、「我々」がその始源からすでに常に「西洋かぶれ」的であったからに他ならない。このような議論は、「我々」がいつから、そしてなぜその純粋性と完全性を失い、「西洋かぶれ」へと頽落していったのかという根本的問いに対する不可避的な答えでもあるのである。

不在の「我々」と充溢の「西洋」

「我々」は常に何かが《欠けている》、《不在》の状態にあるという感覚は、アーレ・アフマドの「西洋かぶれ」論の基底を成している。すでに明らかなように、《全き主体》としての「我々」

は歴史的に一度たりとも純粋な形で存在したことなどない、、のであり、「我々」から「西洋かぶれ」

の兆候を排除することは、歴史の始源において存在していたかもしれない《全き主体性》の回復

Page 11: Thesis Gharbzadegi of Jalal Ale Ahmad Masamichi Saito

11

などではなく、既存の「我々」の超克と新たなる「我々」の創出に他ならないのである。

ではそのためには、何をモデルとしたらよいのだろうか。この《不在》は、どのようにしたら埋めることができるのであろうか。古代イランは確かに、「西洋」への対抗意識によって「我々」の内部にある「西洋かぶれ」的な要素を抑圧してきた。それは「ヨーロッパ中世の暗黒時代に埋もれていたアリストテレスを翻訳し、それを広め、またはローマの軍隊様式を取り入れ、彼らの都市建設の方法を学ぶ」ことで、「彼ら〔西洋〕を自らの基準で測ってきた」(p.52)のであり、「我々は世界のこちら側にいて、ある文明全体を一握りにするかの如く、世界を自らの範疇において捉え、また世界に自らの焼き印を押す」ことができたのである(p.39.)。それはあるべき真の主体性のかけらのようなものを、遠き過去よりうっすらと提示している。だが、それはまた同時に進行しつつある「西洋かぶれ」という「病気の始源」でもあるのだ。「我々はホスロー・アヌーシールヴァーン〔サーサーン朝の王ホスロー1世のこと〕の時代より誇大妄想を抱き、お世辞に心を奪われてきた」(p.76.)、とアーレ・アフマドも述べている。

むしろ彼の「西洋かぶれ」論において、「我々」に《不在》の主体像をもっとも具体的かつ豊富に提供するのは、実は「西洋」に他ならない。「西洋」は「我々」に欠けた何かを教えてくれる、豊潤な他者である。そこには「我々」が歴史的に忘却してしまったものばかりか、「西洋かぶれ」の種子とは無縁の《全き主体性》が充溢している。それは「我々」を常に特徴づける《不在》とは対称的である。例えばアーレ・アフマドは次のように述べている。

〔イスラーム世界がキリスト教世界を包囲し、知の中心であったような〕まさにそのような歴史があった直後のことなのである、イスラームのジハードを嘲笑していたキリスト教徒たちが自らジハードを行う十字軍兵士へと変貌し、この十字軍の長き戦いの中で 5、6世紀後の西洋キリスト教世界を資本と技術、知の支配者に、更に 7、8世紀後工業と機械とテクノロジーの支配者にするような基礎を、イスラームの諸々の技術と知から引き出す形で築いたのは。このようにして、もし存亡の恐怖にあった西洋キリスト教世界がイスラームの脅威に対して突然目覚め、塹壕を掘り、抵抗に立ち上がり、結果救われたとするならば、今度は我々が西洋の権力に対して危機感を募らせ、立ち上がり、塹壕を掘って抵抗する番ではないだろうか。(pp.59-60.)

要するに、ジハードを行い、様々な「技術と知」を有していたであろう「我々」は、いつの間にかそれらを忘却し、代わって「西洋」がそれらを吸収し、今や知、機械、テクノロジー等の支配者となって繁栄を享受している、「我々」も今ある危機に対して「西洋」のように「目覚める」必要がある、というわけである。アーレ・アフマドによると、「西洋」がインドや中国と交易する航路を開拓したのとは対称的に、「我々」は「シーア派主義に基づく国民統一体制という繭に沈潜」し(pp.60-62.)、十字軍戦争の際に「西洋」がローマ法王の命で団結し、モンゴル人らと用意周到な陰謀を画策したのとは対称的に、「我々」は危機意識ももたずに党派主義的分裂と神学論争に明け暮れていた(pp.63-65.)という。進取の気質に富み、未来に対して明確な意志をもち、目的のためなら団結する「西洋」とは対称的な、退嬰的で、過去に沈潜し、下らぬことに拘泥して分裂する「我々」。その結果として「西洋」が「資本と技術、知の支配者」、そして

Page 12: Thesis Gharbzadegi of Jalal Ale Ahmad Masamichi Saito

12

「工業と機械とテクノロジーの支配者」となり、現在繁栄を謳歌しているならば、「我々」も「西洋」の範に倣うべきではないかというのである。

知の主体としての「西洋」

「我々」に《欠けたもの》を提示してくれる豊潤な他者としての「西洋」。このことを顕著に示すのが、《知》における充溢/不在というテーマである。アーレ・アフマドが『西洋かぶれ』の冒頭の章で「西洋かぶれ」の定義として、「西洋かぶれとは、未だ機械に手を触れず、そのメカニズムの秘密を知らない、我々の歴史の中の一時代の特徴なのである」、そして「西洋かぶれとは、機械についての初歩的知識、つまり新しい科学及びテクノロジーに精通していない、我々の歴史の中の一時代の特徴なのである」と述べる一方、他方で「西洋」を「資本と技術、知の支配者」、そして「工業と機械とテクノロジーの支配者」と呼んでいることは、このことをよく示している。

《知の主体》としての「西洋」というテーマは、アーレ・アフマドの「西洋かぶれ」論の多くの箇所で確認することのできるものである。何らかの陰謀やペテンの主体であれ、「西洋」はともかくも「我々」が知らぬ何かを知っているからだ。イランの発展計画を「西洋」が推し進めるのも、彼らが「イランの市場が西洋の工業製品をどれだけ受け入れ、購買者としてどれだけの容量を有しているかを、西洋の産業界は知っているから」であり(p.135.)、「ヨーロッパ人は我々の気質を知り、どのようにして我々を驚かせ、どのようにして貸しをつくり、更に関税を取りあげればよいかについて学ぶ」(pp.76-77.)、「彼はおまえに何を売るべきか、もしくは少なくとも何を売るべきでないかを知っている」(p.87.)、「西洋はこの売り手と買い手の一方通行の関係を決して壊さずに保つためには、どのようにしてことを調整すればよいかを知っている」(p.125.)とアーレ・アフマドは述べている。

アーレ・アフマドは「西洋」の陰謀について、「彼らのやっていることは、我々のようなでたらめなものではない。計画に則ったものなのだ」(p.135.)と述べている。「陰謀」(towte’e)とは語義的には《前もって準備すること》の意であり、「我々」を欺こうとする計画性が《充溢》している。それに対し、イランでは学校の数は自然に繁茂する「野草」のごとく増加の一途をたどっており、「我々の教育には何の前もっての計画もない」(p.177.)。また都市は「癌腫瘍」の発達のごとき膨張を続けているが、「水道や電気をとおすことも、大通り、小道の別を問わず道路の建設も、電話線や下水処理の整備も、前もって計画されてはいない」(pp.161-162.)。

《知者=西洋》は、それが発する「呪文(あるいは護符)」によって《無知者=我々》を支配しているともされる。「ここ三百年間実際に我々の王族や高官たちの真の教育者であったヨーロッパ人のおべっか使いに、我々の耳は支配されるようになった。こういったおべっかはすべて、誰かが隊商を襲うまで安らかに眠りこけている老いぼれの関守の耳元でこだまする呪文のようなものなのである」(p.76.)、というわけである。すでに見たように、「機械」という名の「護符」は「他者が、我々を震え上がらせ、搾取するために、我々の生に掛けたもの」であり、この「護符」の「秘密」、「謎」を暴くことをアーレ・アフマドは提起している(p.120.)。更に、

Page 13: Thesis Gharbzadegi of Jalal Ale Ahmad Masamichi Saito

13

アーレ・アフマドは「アリ・ババと四十人の盗賊」の話になぞらえて、「呪文」の性質について次のように述べている。

我々が壁の後ろにたって、扉の隙間からのぞいていると、盗賊たちがやってきて、呪文を三回繰り返すと、壁が扉のように後退する、するとその奥にはなんと財宝が眠っているではないか!我々はこの盗賊たちのまねをして呪文を唱えようと、未だに大変な努力をしている。呪文を苦労して覚え、オウムのように同じ言葉を唱えると、壁は確かに後退する。ところが、その奥にあるはずの財宝はもうみんなもっていかれているではないか!財宝の誘惑と呪文から解放されて、なぜあの壁が後退したのかに注目して、あの扉の動きの秘密、呪文の効果について解き明かしたときに、我々は学問的方法を手に入れて、機械という護符の謎を暴くことができるのだ。(pp.121-122.)

「呪文」を操る者、それは富と権力を思いのままにする《知者》であり、反対に「呪文」に操られる者とは権力と富を強奪される《無知者》である。言うまでもなく、「西洋」は前者であり、「我々」は後者である。知と権力と富が充溢した「西洋」が、それらが不在の「我々」の内部へいつも容易に侵入し、「我々」を攪乱してしまうのも、なるほど無理もないことである。そもそも「西洋」が《脅威》として「我々」に現前しているのも、「我々」にはない何かをもっているからに他ならない。

「西洋」の魅力の拒否としての「機械かぶれ」論

こうして私たちはアーレ・アフマドの「西洋かぶれ」論において、《知者》としての「西洋」が「我々」に対して絶えず発散する魅力の一端を垣間見ることができた。しかしもしそうであるならば、「西洋かぶれ」論の大前提であるはずの「自らの文化的・歴史的特性」の防衛というテーマは、それ自体無意味なものとなってしまうのではないだろうか。なんとなれば、一方で「西洋」が諸価値の充溢した存在であり、他方で「我々」がそれらの不在によって特徴づけられるような存在であるならば、そもそも「自らの文化的・歴史的特性」など守るに価するのか、という疑問が生まれてくるからだ。アーレ・アフマドはこのような懐疑を断固として排除し、「西洋」の魅力を断たねばならない。

このために、アーレ・アフマドは「西洋」の諸価値そのものを反人間的なものとして、「西洋」が作り上げたとされる「機械文明」もろとも否定するのである。これこそがアーレ・アフマドの「機械かぶれ」論に他ならない。機械文明は人間を「機械」の奉仕者にし、奴隷化させる。そしてこの「機械」の圧制は、「西洋人」の人間性を破壊し、彼らを植民地主義へと駆り立て、世界大戦へと誘うことになる。西洋起源の議会制民主主義や政党政治といった諸制度は、「機械」によって人間性を破壊された「西洋人」が自らの精神疾患を和らげるためにこしらえたものに他ならない。「西洋の民主主義社会にあっては、政党は均衡のとれぬ病的な者どもの憂鬱病患者的性向を満足させるための説教壇だ」(p.203.)、とアーレ・アフマドは述べている。ファシズムとはこのような「西洋」の精神疾患を慰めるための究極的な姿である。「原理については誇張し、

Page 14: Thesis Gharbzadegi of Jalal Ale Ahmad Masamichi Saito

14

細部については狂信的なファシスト党やその他の集団は、細心の注意を払って、これらの精神を患った人々を満足させようとしている」(p.203.)。「西洋」という「機械かぶれした進歩的社会」は、それゆえ前衛的知識人たちを中心に、人間性の回復を目指して「東洋」へと接近している。「彼らは世界の片隅の東洋の美しさ、処女性に魅了され、生活、芸術、政治における西洋の価値基準の根本を揺るがすような作品を残したのであった。…彼らのいずれもが、別の生き方、慣習を求めて、西洋の枠の中では知ることのできない世界を、東洋やアジア、南アメリカに、見つけたのであった」(pp.205-206.)、と言うのである。

「機械かぶれ」論における「西洋」の魅力

こうして徹底的に価値貶下を受けた「西洋」はもはや、その魅力を「我々」に対して完全に失ってしまったかのようである。芸術や倫理の領域だけでなく、政治的領域にまで「西洋人」が「東洋・アフリカ的基準に逃避」している一方で、なぜ「我々」は自らの価値を忘却し、「西洋かぶれ」しなくてはならないのか、実際「東洋、あるいはアジア、アフリカ、南アメリカの精神的資源が、知性が高く教育を受けた西洋人の心を奪っている」ではないか、というわけである(pp.207-208)。

「機械」の支配者から「機械」に支配される「憂鬱病患者」としての「西洋」。「西洋かぶれ」論と「機械かぶれ」論のこのような矛盾は、アーレ・アフマドが「西洋かぶれ」論において無自覚なまま受け入れてしまった、「我々」に欠けた様々な価値の具現者、《知者》としての「西洋」の魅力を排除しようとする、『西洋かぶれ』というテクストに現れた葛藤に他ならない。「東洋」に魅了される「西洋」というアーレ・アフマドの表現は、「西洋」に魅了される自己を否定しようとする試みの現われであるとも言えるかもしれない。

しかし重要なのは、このようなアーレ・アフマドの努力にも関わらず、「西洋」の魅力は「機械かぶれ」論の内部にも侵入していることである。例えば、「機械かぶれ」論においても「西洋」は依然として《知者》であり、「我々」は《無知者》のままである。すでに見てきた例からもわかるように、機械文明の問題を悟り、「東洋」へと接近するのは「西洋」であって「我々」ではない。「西洋」は徹底的に「機械」に支配されながらも、「東洋」の諸価値に目覚めているのとは対称的に、「我々」は未だ「機械の下僕へとなりさがったことに不満も覚えずに、そのことを気取ってさえいる」のだ。このことは一部の前衛的な知識人に限った話ではない。「西洋の若者たち」は自らの問題に気付き、「東洋」の文化に接し、「日本の庭園」、「インド料理」、「中国茶」を楽しむ(p.207.)一方で、「我々」の若者たちは農村を捨て都市へとなだれ込み、サンドイッチをほお張り、映画にうつつを抜かし、「下半身を刺激し、時間をつぶし、無秩序な快楽をむさぼる」(p.164.)。

アーレ・アフマドは「機械かぶれについて少々」の最後の方で、「西洋人が育んだ専門的知識には個性が伴っていない」、そして「西洋はテクノロジー(そして資本主義)の強制力の結果、すなわち機械かぶれの結果、個性を犠牲にして専門的知識を得た」(p.217)と述べることで、「機械」に支配される者としての「西洋」を再度強調している。「個性(shakhsīyat)」について、

Page 15: Thesis Gharbzadegi of Jalal Ale Ahmad Masamichi Saito

15

アーレ・アフマドは次のように述べている。

もし教育の役割というものを信じることができるのならば、それは西洋かぶれという危機に起因する社会の混乱状態にあって、このキャラヴァンを最終的にどこかへ導くことのできるような、傑出した個性を発掘することであろう。…このような社会の変化、危機の時代に生きる我々にとって、特に、献身的で命を顧みない、原理的な者(心理学の通俗的なことばでは、彼らを非妥協的で、強情で、均衡のとれていないと呼ぶが)だけが、このような変化、危機の時代の重責を果たすことができるのだ。(pp.213-214.)

この変化の時代にあって、我々に必要なのは、個性をもち、専門的知識に通じ、非妥協的で、原理的な人間であって、いままで挙げてきたような西洋にかぶれた人間ではない。(p.216.)

「個性」をもった人間は、「古びた制度をその重みもろとも、一瞬にして土台から崩壊させる」ことのできる「若々しく、荒々しい、動的な力」(p.216)であるとされる。この力は、「個性」のない「西洋にかぶれた者」の《女性的》性質̶「ゴシップ好きな(khāle-zanakī:khāleは「叔母」、zanakは「女」のこと)」「老婆」のようであり(p.146.)、「軽々しく」「女々しい」(p.147.)とされる̶とは対称的である。それはむしろ、支配への意志が明確な、極めて動的な存在である「西洋」と軌を一にしている。アーレ・アフマドが描く「個性」をもった者、すなわち「原理的(osūlī)」で「均衡のとれていない(nā-mota‘ādel)」者が、「機械かぶれ」し、個性を失った「西洋」の諸問題、すなわち「原理(osūl)については誇張」するファシストや「均衡のとれぬ病的な者(ādam-e nā-mota‘ādel va bīmār-gūne)」(p.203.)と期せずして酷似しているのも、決して偶然ではない。「個性」を失ったはずの「西洋」はここでも、「我々」の「停滞」とは対称的な自らの「ダイナミズム(taharrok)」(p.24.)によって、「動的(moharrek)な力」をもつとされる「個性」の存在をアーレ・アフマドに示唆するのである。

以上のように、アーレ・アフマドの意図とは別に、そして「機械かぶれ」論における拒絶にも関わらず、「西洋」の魅惑的価値は『西洋かぶれ』というテクスト全体を覆っているのである。

結論

以上のように、アーレ・アフマドの「西洋かぶれ」論において、「西洋」は常に「我々」に欠けた様々な価値(富、権力、知識、団結、主体性、発展、未来に対するヴィジョン、…)の具現者として立ち現れているのであり、このような「西洋」の魅惑的な諸価値を否定しようとする「機械かぶれ」論においても、その侵入を食い止めることはできない。「西洋」とは、排除しようにも排除しきれずに、むしろ「我々」の内部に常にすでに侵入し、「我々」を撹乱すると同時に「我々」に自省を促す、魅惑的他者なのである。

もしそうであるならば、本論の冒頭で見た『西洋かぶれ』の既存のイメージ、すなわち「西洋」との遭遇によって惹起された「反西洋的」で、排他的・自己閉鎖的・ネイティヴィズム的テクス

Page 16: Thesis Gharbzadegi of Jalal Ale Ahmad Masamichi Saito

16

トとしての『西洋かぶれ』というイメージは修正されなくてはならない。オリエンタリズムという「閉じられたシステムのもつ自己充足的・自己補強的な性格」を強調するサイードにとって、いかなる他者との遭遇もこの閉鎖性を循環的に強化することにしかならない。その結果、「ヨーロッパは自らの殻の中に閉じこもってしまった」13と彼は述べている。しかし、このようなサイードの想定をそのまま『西洋かぶれ』に当嵌めることはできない。アーレ・アフマドの『西洋かぶれ』は、「西洋」/「我々」の二項対立の枠組みの中で「我々」としての閉鎖的なアイデンティティを立ち上げるテクストというよりも、むしろ「西洋」との関係の中で「我々」に欠けたものが露にされ、相対化された者としての「我々」の存在を発見する、《自己反省的》テクストだからである。

アーレ・アフマドの『西洋かぶれ』が近代的なテクストであるとするならば、それは単に「西洋」を認識することを通して「我々」としてのアイデンティティを認識するという空間的感覚だけがその根拠なのではない。それだけでなく、「西洋」が具現する様々な近代的諸価値と遭遇する中で、それらをもたぬ《欠如態》として「我々」を相対化して認識し、それらの充足を求めるからでもある。この《欲望》は、「西洋」との遭遇によって創出されたものであるという意味で、グローバルな欲望であると同時に、規範的他者としての「西洋」の具現する諸価値を求めるという意味で、《西洋化》への欲望でもある。この《西洋化》への欲望は、「西洋」の諸価値がその手を離れて世界中に拡散し、内面化されるという意味で、《グローバリゼーション》という現象を指向する。それは、ミールセパースィーが想定するような《近代性のネイティヴ化》への追求、あるいは《複数の近代性》の実現への主体的な関与を意味するというよりも、むしろ「西洋」によって象徴化された近代性のグローバルな拡大の一翼を否が応でも担うことを意味する。「西洋」からの影響によって惹起された変化をことごとく「陰謀」として拒否するアーレ・アフマドの《反西洋化》=反グローバル化の思想も、ここから免れることはできない。

「我々」は「西洋」との遭遇によって、(「歴史のロマン化」ということばに象徴されるような)充足した、自己完結的な自己を確認するのではない。逆に他者との比較の中で、常にすでに他者の具現する価値が欠如し、不完全で、それだけに一層それらを《欲望》する自己を発見するのである。

1 テヘランのウラマーの家庭に生まれたアーレ・アフマドは、1940年代半ばにイランの共産

主義政党トゥーデ党に入党、その後も社会主義結社「第三勢力」に加わるなど、左翼知識人としての経歴を持っている。実際彼の議論には、マルクス主義的傾向が多く見られ、また彼のもう一つの重要な著書『知識人の奉仕と裏切り』(1968年)では、マルクーゼやグラムシといったヨーロッパの著名な左翼知識人の文章が詳細に引用されている。更に、彼はフランスのマルクス主義的実存主義者であったサルトルの熱烈な信奉者であったことが知られている。

2 『西洋かぶれ』は、「イラン教育目標評議会」に対して 1961年に提出された報告書が元となっている。この評議会の成果は教育省から報告集として出版されたが、アーレ・アフマドの報告は掲載されなかった。そこでアーレ・アフマドは、1962年に自費出版し、その後加筆修正

Page 17: Thesis Gharbzadegi of Jalal Ale Ahmad Masamichi Saito

17

を施し、1964年に第二版を地下出版した。本論で用いたのはこの第二版(Jalāl Āl-e Ahmad,

Gharbzadegī, Tehrān:Enteshārāt-e Ravvāq, chāp-e dovvom, 1343kh.)の方である。 3 Hamid Dabashi, Theology of discontent: The ideological foundations of the Islamic Revolution in

Iran, New York: New York University Press, 1993, p.76. 4 Ibid., pp. 73-74. 5 Roy Mottahedeh, The Mantle of the Prophet: Religion and Politics in Iran, New York:

Pantheon Books, 1985. p.287. 6 Fareydūn Ādamµyat, ‘Āshoftegī dar fekr-e tārīkhī’, in ‘Alī Dehbāshī (ed.) Yādnāme-ye Jalāl

Āl-e Ahmad, Tehrān: Enteshārāt-e Pārsārgād, 1364kh. p.545. 7 Michael Hillmann, Iranian Culture, Lanham: University Press of America, p.139. 8 Mehrzad Boroujerdi, Iranian intellectuals and the West: The tormented triumph of nativism,

New York: Syracuse University Press, 1996. 9 Boroujerdi, Iranian intellectuals and the West, p.xv., pp.18-19. 10 Ibid, p.53., pp.67-68. 11 Ali Mirsepassi, Intellectual Discourse and the Politics of Modernization: Negotiating Modernity

in Iran, Cambridge: Cambridge University Press, 2000, p.77. 12 Ibid., p.101. 13 エドワード・サイード、『オリエンタリズム』(板垣雄三・杉田英明監修、今沢紀子訳)、

p.70.