23
Title 自然主義的存在論の隘路 : フッサールの「領域的存在論 」における超越論的構成の「自己関係的構造」 Author(s) 次田, 憲和 Citation 近世哲学研究 = Studies in modern philosophy (1997), 4: 78- 98 Issue Date 1997-12-20 URL https://doi.org/10.14989/189794 Right Type Departmental Bulletin Paper Textversion publisher Kyoto University

Title 自然主義的存在論の隘路 : フッサールの「領域 …...自 然 主 義 的 存 在 論 の 阻 路 フ ッ サ ー ル の 「領 域 的 存 在 論 」 に お

  • Upload
    others

  • View
    0

  • Download
    0

Embed Size (px)

Citation preview

Page 1: Title 自然主義的存在論の隘路 : フッサールの「領域 …...自 然 主 義 的 存 在 論 の 阻 路 フ ッ サ ー ル の 「領 域 的 存 在 論 」 に お

Title 自然主義的存在論の隘路 : フッサールの「領域的存在論」における超越論的構成の「自己関係的構造」

Author(s) 次田, 憲和

Citation 近世哲学研究 = Studies in modern philosophy (1997), 4: 78-98

Issue Date 1997-12-20

URL https://doi.org/10.14989/189794

Right

Type Departmental Bulletin Paper

Textversion publisher

Kyoto University

Page 2: Title 自然主義的存在論の隘路 : フッサールの「領域 …...自 然 主 義 的 存 在 論 の 阻 路 フ ッ サ ー ル の 「領 域 的 存 在 論 」 に お

フッサールの

「領域的存在論」における超越論的構成

「自己関係的構造」、

自然主義的存在論の阻路/78

1

序-超越論主義と形而上学

小論

にお

いて私

は、「形而

(存

論)

の超

論的

 ニ

礎づ

に潜む

造的

諸問

を批

に論

よう

と思

。しか

しな

がら、例え

ば、有

な後

「生

世界

論」で

は、自

≒数

学化

」、「物自

」の想

定、

「知覚

果説」、

「自

化」、「物

理学

的実

在論

」、「物

二元論

」な

ど、

理学を含

む近代自

然科学

や近代

哲学

の自然主

義的

いし

而上

的前

提が

、まず

生世界

の観点

から

、さ

には

超越論主

の観

点から悉

く批判

され

いる

ことを

想起す

、形

上学

(形

而上学

に解

釈さ

れた自

然主義

を含

む)

と超越論

主義

とは相容れな

いよう

に見え

る。あ

いは

それ

に、中

の主

『イ

ン』

一巻

いて超

エポ

ケー

が実

在世

の排除

(存在

定立

の停止)

であ

ると

いるこ

とか

ら、物

や心

など

の実

在的

存在

を学

の主

題と

る形

上学と超

越論的

現象学

とは

一見全

く異

な学

であ

のよう

にも

れる

であ

ろう

が、考

ても見

れば、

『イ

デー

ン』

一巻

いても

に、超越

論的

エポ

ーと

は実

世界

の単

る否

ではな

され

いる

こと

の必

的な帰

て、

越論

エポ

ーとは形

而上学

の単

なる否定

でも自

然主

の単

る否定

でも

いこと

は明ら

であ

る。エポ

ケーと

は自

然主

的態

Page 3: Title 自然主義的存在論の隘路 : フッサールの「領域 …...自 然 主 義 的 存 在 論 の 阻 路 フ ッ サ ー ル の 「領 域 的 存 在 論 」 に お

(自

的態

度)の単

る排除

では

なく

、それを

に含

がらそれを

越え

「メタ的態

度」であ

ること

は、『イ

デー

ン』にお

いても晩

『危機

』にお

いても

ら変

わり

、後者

の時

ッサー

ルが

「超越

的基礎

け」の理

念を

放棄

たと

いう

あり

がち

な説

も、同著

おけ

「生

世界

への還

元」が超

越論的

エポケ

への中継

地点

とし

て導

され

ている

こと

を指

摘す

るだ

で、十分

説得力

を失

しまう

。そう

であ

るな

らば

、エポケ

ーが前

の自

然主

つ存

在論的理

論を

一切否定

するか

のよう

に見

えな

がら

、それが構

成分

のう

に再

び含ま

てく

ること

に何

不思議

なか

ろう

し、

『イ

デー

ン』

にお

いて

「領

域的

の超越

論的

基礎

づけ」を

フッサ

ルが企

図し

こと

も現

ハニ 

の全体

にお

いて何

ら奇

なも

のでも

い。

て、この著作

にお

て、超越

論的

エポケ

ーと

は、後

り重

され

こと

にな

「地平意

」「運動

(キネ

テーゼ)」など

の主観

現象

の記

述を

可能

るため

のみ

らず

、高度

の自

然主

(自

科学

的)理論

一部と

る領域

的存

論を

自己

の内

に含

つつそれ

を越

る「メ

(存

メタ理

論)」と

ての現象

開示す

とし

て導

入さ

いる

ことがまず

って理解

され

なけ

れば

らな

いであ

ろう

かし

がら他

は、『イ

デー

ン』以

ッサ

ルは

「領域

存在

」の構想

放棄

たよう

に思

れる

いう

こと、また

の著作

の二巻と

三巻

は生

に出版

されな

こと

、これ

のこと

に領域

的存

在論

の構

論的

基礎

の試

みの困難

さが表

れて

いることも

併せ

て考慮

れなけ

らな

い。し

かも

、私見

によ

れば

、領

域的

在論

の超

論的

構成

が有

る困

難が哲

学的

に興味深

いのは、そ

の試

のも

のの中

一種

「論

理的

パラド

ス」が潜

るか

に他

らな

いのであ

こう

た事

に鑑

て、以

の論述

で我

々は、フ

ッサ

ルが

構想

「領域

的存

の超越

的構

成」が

内包

的構

造を

、主

『イ

ン』二巻

の前半

なす

「自

主義

存在

(自

の領

域的存在

)」

の構

述を検

ことを

て明ら

にす

こと

にし

よう

超越論的方法の「形而上学的解釈

(存在論的解釈)」

79/自 然主義的存在論の阻路

Page 4: Title 自然主義的存在論の隘路 : フッサールの「領域 …...自 然 主 義 的 存 在 論 の 阻 路 フ ッ サ ー ル の 「領 域 的 存 在 論 」 に お

よう

に、本小

にお

いて私は、フ

ッサ

ルの超越

論的

方法

を、存

在論

の超

越論的

基礎

けと

いう

点か

ら解

した

いと考え

いるわけ

である

が、それを

より

具体

化し

て言え

、現象

「還

元論

」お

よび

「構成

論」をと

「物

(物

質的

実在

)と

(意

)と

いう本

来異

質な存

在様

式を有

する存在

いかに

て関

係付

るか

ウ」と

いう

上学

(存在

論的

)課

に対す

る哲

学的

態度

一種

て理解

ると

いう

こと

になろう

のよう

に言う

現象

の主

域と

「純粋

識」な

いし

「超

越論

的意

識」と

、実験

理学

や記

的心

理学

(現

象学

的心

理学

)そし

て領域

的存

一部

担う

「合理

的心

理学

の主題と

「心

(。。。o一。)1実

的意

・心

理学

的意

・心的

実在

など

も呼ば

るー

ッサ

ルは概念

上厳密

に区

別す

のであ

るから

、現

はも

っぱら物

や心

など

いう

形而

上学的

前提

(心

理学

問題

設定

を含む

)を

一切廃棄

たと

ろにの

み成り

のだと

反論

であ

ろう

かし

がら他

て、『イ

デ!

ン』以降

の論文

、例え

「イ

への後

記」

「ブ

ニカ論文

」な

で明晰

に述

べら

いる

「心

理学

の平行

係」と

いう

に見

れる

よう

に、心-

によ

ってそれ

のも

のとし

て捉え

られ

た心ーと

純粋意

は、相

に対応

し転

化し

合う

一の内

を有

ると

張も

て看

れる

べき

はな

い。

のよう

に、純

粋意

と心

の間

には

一性

異性

いう

}見

反す

る相関

関係

があ

るが

、こ

の事

は次

のよ

に整

に考え

れよ

。す

なわ

、「心

」と

は実

在と

の結び

から完

に解

され

いな

い「純

意識

」以外

の何も

でも

いのであ

って、極

るな

らば

、両

の差

はた

かだか実

在と

の連

結を併

て考

るか否

かと

いう

に存

にすぎ

い。しか

も、フ

ッサ

の用語

「実

(閃。巴一曇

)」

は第

一義的

には

、空

間時

的存

在者

「物

質」であ

が、そ

れは

の場

は直

はー

的事

とし

てのー

「身

」以

のも

のでは

い。要す

に、同

一の意

が物質

的身

の結合

の相

で実

(空

間時

世界

)

一部

て捉え

た場

「心

(実在

)」と呼

、そ

れが身

体と

の結合

ら完

に純

とき

「純

意識

(非

在的

意識

)」と

れ、ま

向的

成性

が強調

るとき

「超

的意

識」と呼

自然主義的存在論の隙路/80

Page 5: Title 自然主義的存在論の隘路 : フッサールの「領域 …...自 然 主 義 的 存 在 論 の 阻 路 フ ッ サ ー ル の 「領 域 的 存 在 論 」 に お

ハ 

 

いるわ

であ

る。純

粋意

識と

「内

一性

」に

来す

る超越

論的構

の循

環性格を

明ら

かにす

べき本論

は、純粋

意識

を心

ら次

元的

に区

別す

こと

によ

って、超

論的

現象学

を領域

的存

在論

のメタ

レベ

ルに設定

、超越

的基

づけ

の内

る循

環性

を隠

よう

した

ール

に抗

し、「心」と

いう

概念を

「純

意識

」お

よび

「心

的実在」「実在的意識」「心理

学的

意識」等

の下位概念を包括

する上位概念とし

て新だに定義す

る。それ故、本論

では心と

いう概念

は実在性

の有無を云

々す

る以前

一般的概念として

使用さ

れ、純粋

意識

と心的実

在等

の概念と

はそ

の実

在性

  

有無

に関し

て対極

にあ

るも

のと

され

る。

以上

のよう

に考

ると、超

越論

還元

(エポ

ー)と

心を

在世界

(物

世界

・空

間時

間世界

)から

徹底

に分

て純粋意

の内容

(意

の対象

を含

む)をも

って存

の全

てとす

ること

により

、物

の実在的

関係

る形

而 れレ

上学

的諸

問題を

め回避す

る方

であ

ったと

見な

しう

る。

エポ

ケー

によ

って回避

る形而

学的

は多

々あ

が、「心

の内

の表象

(志

向性

・意味

)は対象

とし

ての物

のに対応

いるか」と

いう認

識論

的問

、「心的

内容

身体

いう

特異な

物体

いか

に関係

いるか

」と

た心

問題

、さら

には意

味論

や普

遍問

など

が主

たる

例と

て挙げ

れよう

。エポ

の方

論的

意義

は、物

(物

的自

)や心

(心

的自

然)と

いう

存在

を括

に括

これ

らの領域

的実在

のメタ

レベルにそ

れらと

階層的

に区

され

べき

「メタ領

的存在

(超

在的

存在

)」と

ての

意識

(超越

的意

識)を

設定

こと

によ

、物

ら派

る諸

に与

こと

それ自

って

こと

にあ

ったと

言え

る。しか

しな

ら、以下

に見

よう

に、本

での主張

の要点

は、超

越論

エポ

の遂行

によ

って形而

上学

的問題

一旦消

去さ

れたか

のよう

に見え

にも拘

らず

、世

界構

の現象学

的記

の際

に再

び形

を変

て現

れて

ると

いう

こと

にあ

る。

本論

では

、現象

的構

の成果

一つであ

『イ

ン一

二巻

「領

域的

存在

論」、とり

の前半

なす

然主

的世

の構成

論を

手掛

かり

にし

て、

領域

的存

在論

の相

関関

係を

考察

るが

際、我

々は自

然主

的存

在論

の構成

「心

(超越

論的

)が自

のう

に自己

の対象

的部

とし

て自

己自

81/自 然主義的存在論の駐路

Page 6: Title 自然主義的存在論の隘路 : フッサールの「領域 …...自 然 主 義 的 存 在 論 の 阻 路 フ ッ サ ー ル の 「領 域 的 存 在 論 」 に お

る」と

いう

一種

「自己

係的

構造

」を備

いる

こと

に注

しな

ければ

らな

い。

ここ

で「自己

関係

性」と

いう

念が持

出さ

る理由

いて若

干説

ておく

こと

にし

よう

。超

越論

的意

識が

通常

の対象構

成すな

わち外的事

の構

成を遂行

るのみな

ず、「構

成主

体」であ

る自

己自

身を

も構

成す

ると

いう

を表

現す

「自

己構

(自

己統

覚)」と

いう概

は、

「自

関係

性」

いう

一般

概念

一適

用例

に過ぎ

い。

ッサ

ルにあ

って構成

を有

のは他

「志向

(志

向的

意識

)」な

のであ

るが、志

向性

「対

への関係

性」に他

なら

いの

であ

るから

、ここ

で自己

関係

は志向性

が自

己以

の対象

では

なく、自ら

の内

で自

身を

も対象

化し

て自

己自身

に再び関

係す

るー

つまり自

マと

て志向

に構成

する1

有様を

表現

いる。

一般的

に言

って、「関係

」と

は-

二項

関係

に限

って言う

lAと

Bと

いう相

異な

る関係項

の間

に成

立す

るも

のである

が、自

己関係

は、B

にA自

が再び

代入

れた特

な場

に、AとA

の間

に成立

る関係

であ

。こ

こに

はAはA

とし

て自己

一であり

つも、関係項

とそ

れが関

して

く被

関係

項と

の差異

が前

されな

れば、そも

そも

関係

いう事

が理解

でき

くな

る限

り、二

つのA

は同時

に別物

でも

なく

てはな

らな

いと

いう

二重性が存

いる

。こう

た自

的構

、志

的関係

関係

一種

であ

り、志

の主体

れが志

に関係

る客

体と

、A

とB

の両

関係項

に相

する

以上

、現象

の構成

理論

のう

でもー

して後

に言

及す

るよう

に、集

合論

おけ

る集

の要

の関係

にも1

じう

のであ

る。そ

ゆえ

、私

が自

係性

いう

一般的

概念

、現象

「自

」概

に内

在す

る論

理構

とし

て提

起す

は、後

概念

ッサ

ルの構

成分析

の中

に単

にたま

たま

含ま

いると

った

ような

代物

はなく、現象

が領

域的

存在

構成論

に基

礎づ

ける場合

に超越論

的方法

の分析

果と

の間

に生

しめざ

るをえ

い、

一種

「形

式的

係」

を示

唆す

るため

であ

る。もと

と現象

、極

て簡単

って、「記

述的

心理

学」と呼

た時期

「内

経験

-内

によ

って明証

に知

覚さ

れる志向

的体

の記述1

 さ

方法

重視

一切

の心

理物

理的

(因

果的

)説明

の排除

」と

いう

特質

を有

るも

のであ

った

が、自

然主

的存

在論

の超

自然主義的存在論の駐路/82

Page 7: Title 自然主義的存在論の隘路 : フッサールの「領域 …...自 然 主 義 的 存 在 論 の 阻 路 フ ッ サ ー ル の 「領 域 的 存 在 論 」 に お

越論的

構成

が自

己関

係的循

環構

造を有

ため

に、領

域的

メタ理論

であ

るべき現

学-

具体的

に言う

と、超

越論

的方

および

の主

領域

とし

の純

粋意

(超越論

的意識)1が

、対

ベル

に位

する存

論的

のうち

に逆

に組

み込

てしま

い、従

って、超越

的方

法と

領域

は、それ

によ

って記

述さ

れる存

在論

成果

一部と

て、そ

の方

や領域自

とは全

く反対

の特質

を含

まざ

るを

 さ

いと

いう

事態

が帰

るの

であ

る。

m

「自然主義的存在論

(自然の存在論)」における「身

体」構成論

て、次

なる

課題

は、超越

論的

構成

「自己

構成

」を遂

行す

ること

から

、「領

域的

存在

(自然

義的

存在

論〉」の

うち

に非現象

学的な記

述が含ま

てしまう

のを確

認す

るこ

であ

る。「人

の心は

、心的

一般

そう

であ

るよ

に、自然

主義

的経

にお

いては物

理的

に現

出す

る身

入さ

れて

いる

のであり、そ

の身

とと

に周知

の仕

所化

れ時間

化さ

いる」(轟占Q。ごと

言わ

いるが

然主

的存

在論

いて、心

は自

の実在

的部

に他

らな

いの

であ

るか

ら、こ

こか

ら必

然的

に、構成

され

「存

は自

主義

「認識

を自

の部

分系

て含

み、従

って、超

越論

「観

論」は自

然的

世界

の構成

ぞか昌

ば全

ぐ勝

「実

論」的

認識

論を

の部

分系

なけ

れば

らな

いこと

が演繹

される。超

の立

は心

(純

識)が存

の全

であ

ると

る点

で明

らか

に観

念論

であ

るが、存在論

的次

元-

被構

成体

の次元1

で心

は存在

一部

であ

り、しかも

以外

の存

在者

は物

質的

実在

に他

らな

いのであ

るか

ら、存

論内

は実在

述様

が採

れな

れば

らな

のであ

る。我

々は本

いて、超

的観念

が観

念論

であ

こと

のこと

の是非

問わ

ず、そ

れを認

めた

でもな

つそ

が実在

要請

せざ

るを

ず、そ

れ故、心身

離1

ここでは

「唯

論」と

いう意味

であるー

の徹

であ

の超越

論的方

が心身

関係を

も同時

に認めざ

るをえ

  

 

いう

説を

てみ

いと思

論的

エポ

ーによ

り心

(純

粋意

)は実在

(自

)

ら完

に分離

れる

が、実

在世

は決

て廃

され

83/自 然主義的存在論の駐路

Page 8: Title 自然主義的存在論の隘路 : フッサールの「領域 …...自 然 主 義 的 存 在 論 の 阻 路 フ ッ サ ー ル の 「領 域 的 存 在 論 」 に お

でなく意

識によ

って構成

される

の志向

的内

容と

して保持

る。「領域

的存

論」で展

され

いる超

論的

構成

は、意

識内容

いか

に繋

がりあ

って世界

が形

され

いく

つい

ての記

であり

、志向

の対

象的

(ノ

マVの内部

の分析

に他

らな

い。著作

『イ

ン一は

て見

れば

、超

論主義

の見地

「存在

(形

上学

)の批

判」と

「存

(存在

領域

)の再

築」と

いう

つの哲

学的

課題を

たすも

のであ

ると

えら

るが、前

は実在を前

提す

るあら

ゆる自然

的学を

エポ

ケー

によ

って

判的

に解体

ると

いう消

極的

課題

であ

るに対

し、主

で展

いる後者

は、

現象

が還

た形

上学

(実在

界)を現

象学

一部

であ

る領域

的存

とし

て再

構成す

ると

いう積

的課

であ

り、形而

上学

の現

象学

構築

がそ

れの抱え

る種

々のアポリ

アを

引き受

ことを

然的

に伴う

が故

に、

より困

な課題

であ

る。

論的

構成

の自己

関係

的構

を考

察す

るう

で重

こと

は、そ

れが

「自

己構

成」を

内蔵

いると

いう

こと

であ

が、

れは領

的存

在論

の対象

領域

であ

「自

(実

在)」のうち

に特

な物体

であ

ると

「身

」及び

それ

と結

した

「心

(心

実在)」が含

いる

こと

由来

。存在

の超

越論

的構

成が

の自

構成

含む

、領

域的

在論

が主

題化

る実在

的領

のう

には

的自

みな

らず動

物的

自然

が含

れ、しか

も動

物的

「心

」の実在

一と

れて

いる

こと

らも

自明

る。後

を先

て言え

ば、自己

は、そも

そも

「純

(非

・超

実在

的)」であ

るは

の心

(意

)

が身

体と

関す

こと

により

、自然

一部

に編

み込

れー

れとと

に主

観的性

が客観的実

から剥ぎ

られ

て身

体空

の中

閉じ

れー

ること

い。

ルの身体構

やそ

れと

密接

に絡

み合

った

心的

実在

の構

成論

を包

に紹介

ことは本

の目

では

いし、ま

たそ

れら

の構

成論

ついて私は

のと

ろで多少

論じ

ので

、本

の問題設定と特

に密接

に連関

した論点

  り

を指

摘す

に止

めること

にす

る。

領域的存

在論

におけ

る身体構成

の記述

々が洞察す

べき重

要な点

は、心

的内容と

物質

実在

が身

いう

領域

にお

いては極

て緊

に合

一し

いる

ことを

フッサー

ルは認

いると

いう

こと

であ

る。

して、領域

的存在

自然主義的存在論の阻路/84

Page 9: Title 自然主義的存在論の隘路 : フッサールの「領域 …...自 然 主 義 的 存 在 論 の 阻 路 フ ッ サ ー ル の 「領 域 的 存 在 論 」 に お

では、実

一般

に因

果的

に連

関す

こと

によ

って構

、そ

れゆえ

「因

果性

」と

「実在

性」と

は外

延的

に等

概念

であ

ると

いう

ッサ

ルの考

が物質

的自

のみなら

ず心的自然

にまで拡張適用

された結

果、心身

の因果関係が当

のことと

して容認

され

いること

にも注

目す

べき

であ

う。要す

るに、「自

然主

義的

に見

れば

、全

の意識

一般

の体

は身

に基づ

けら

いる」(↑一。。轟)、「心的

のは時

間化と

局所

化を被

り、そ

のこと

によ

って拡大

され

た意

の自

とな

る」奪面8

)と言わ

れて

いるよう

に、心

超越

論的次

いて

一切

「身

(物質性)」

から

され

「純

粋意

(非

実在

的意

V」と

て規定

るのと全

く対

照的

に、領

域的存

在論

では物質

的身

体と連

こと

によ

って自

一部

であ

人間

(動

物)の意

識と

て構成

(自

己構

成)

され

のであ

W

身体構成と

「物理学的世界」の構成論

て、先

に述

べた身体

構成

は、『イ

ン一

二巻

一部

三章

にお

いて論じ

られ

いるよう

に、身体

が自然

一部

に他

らな

い限

り、物質

自然

の構

と密

に絡

み合

い、

それを

前提

ても

いる。実在

の構

には種

の段

と局

が、重

要な

こと

れが単

「成

(蟄

口き畠8

に積

み重

って

ゆく

った底

のも

では

いこと

であ

る。現象

の構

理論

が紹

され

る場

、「射

映」

によ

象構

がまず

取り

げら

れる

が、現象学

の構

は単独

の物体

の構

成記

に止

まる

のではな

く、事物

周囲

の状

の因

関係

の記

、さ

には身

体を

た、外

事物

の間

の因

果記

にも

のであ

る。そ

て、こ

の因

の成果

『イ

デー

ン一二巻

の物

理学

的事

の構

理論

は極

て貴重

なも

のと言え

記述

心身

の因果

分析

へと高

ると

客観

に投射

され

て知覚

され

る性質

が実

は身体内

の生

理的

つ心

的要

因によ

って産出

れた主観的

性質

に過ぎ

いと

いう

識論

見解

じる

。「感

器官

の種

や調

って

官性

は変

る。それ

は感官

官、そ

一般

に身体

、経

験す

る主観

の性

状全

に依

いる」寧

。。い)と

いるよう

に、外的事

の性質

が感

器官

や神

系な

の身

体過

程を

て伝

られ

るとす

るな

らば

、我

々は外

85/自 然主義的存在論の隆路

Page 10: Title 自然主義的存在論の隘路 : フッサールの「領域 …...自 然 主 義 的 存 在 論 の 阻 路 フ ッ サ ー ル の 「領 域 的 存 在 論 」 に お

をあ

のま

に知

覚し

いる

は言え

なく

なる

であ

。そ

ゆえ

、自然

主義

的認

識論

(存

論)は外的

のも

のに

属す

る客観

的規

定性

(幾

何学

的規

定性

)と

、それ

が身

に働

きか

ける

こと

によ

って生

じる感性

的規定

性1

「第

一性質

」と

「第

二性質

」を区

別す

こと

にな

る。

「幾何

学的

規定

は物

理学

的客

観そ

のも

に帰

属す

る。幾

なも

のは物

理学

的自

然自

に属す

。し

かし

、感性

性質

そう

ではな

い。それは

徹頭徹

尾現

出す

る自然

の領

に属す

る」

(轟-謡

)のであ

る。

こに至

って、自

の構成

は狭義

の自

主義

に達

のであ

り、真

る客観

的事

とし

「物自

(∪首o。嘗

ω宕げω9げ。。C」(轟-。。恥)と

は目

に見え

るがま

「感

事物

」で

はなく

、数学

的方

によ

って理念

化さ

れた

「物

理学

的事

物」であ

ると

れる

。我

々は

ッサ

!

ルが、感

的知

によ

って主

題化

され

「主

観的

で相

的」な

「生世

界」の

みなら

ず、現象学

の方

であ

べき

直観

や内省

のみによ

っては決

て記述

しえな

い、自

然科

学的

世界

も実

在世

の不可欠

の構成

条件

であ

ることを

めて

いる

こと、

かも後

『危

機』のよ

にそれ

に必ず

も否

定的

評価

みを与

いるわ

では

いこと

べき

。そし

て、決

て単

る外

的知

っては

直接

捉え

い物理

学的事

が定

立さ

れる

に伴

って、超

越論

的次

一旦

され

た、心

の内

「現

(現象

)」

と心

の外

「物

」と

の存

在論

区別

が再

確立

され

る。超越

的意

「現

出」と

は、外

的事

の身

への刺激

によ

って生

「自

主義

的」現

出概

、あ

いは1純

識を

越し

いると

いう

のー

「形

上学

出概

はな

一切

の実

在性

ら純

化さ

「作

用と

対象

(ノ

エシ

マ〉」と

いう

志向

的構

を備

た純

現象

でなけ

れば

らな

った

のに反

て、領域

的存

在論

にお

いて現象

は再

身体

む物

に因

果的

に依

のと

され

る。そ

のう

、「現出

(現出

る自

・現

間)」は単

質的

自然

因果的

に依存

いる

にとど

らず

、身体

にお

いて感覚内

が対象

され

たも

のと

て、こ

の身

の内

に封

じ込

られ

こと

にな

であ

る。

勿論

以上

の記

ッサ

ルの構

の解

説と

なも

ので

は到

底な

い。客

的自

の構

は、「客

観性

」の構成

意味

のも

に既

に含

いる

自然主義的存在論の隙路/86

Page 11: Title 自然主義的存在論の隘路 : フッサールの「領域 …...自 然 主 義 的 存 在 論 の 阻 路 フ ッ サ ー ル の 「領 域 的 存 在 論 」 に お

「相互主

観性

の問題

、そし

『イ

ン』

二巻第

二部

四章

で表

って論

られ

いる

よう

に、そ

の前

提と

「他者構

成論

」を問

にせざ

るをえ

い。さ

に、第三

の議論

によ

れば、他者を

に自然事

はなく

人格

的主

体と

て考

察す

るた

めは

、自然

主義

的態

を越

「人格

主義

的態

」をも

考慮

に入

れる必

要が

る。こ

の観

から

れば

、物

理学

的事物

(物自

体)と

いえど

も人

格共

同体

で構成

れた

のにすぎ

いこと

にな

る。

もあ

れ、

の密

に絡

んだ

諸問

題と

の連

関を度

れば

、自然

主義

的構

にお

いては

、エポ

ケー

によ

って

「脱

実在

(脱身

体化

V」され

た意

は、存在

的次

にお

いて

(感覚

と呼

れる実

的内容

のみならず

意味

など

の志向

的内

容も

て)物質

的身

の内

部空

「投

入」さ

れる

こと

により

「心的

実在

」とし

て構

され

のであり

、こ

的実在

のう

に感覚

(意

識内

容全

般)が

封入

れる

こと

によ

って自

然科学

的世界

が意識を超

越し

た客観的

世界

 パ

リ 

て構

され

のであ

る。

V

超越論的構成の

「自己関係的構造」について

の論述

で、我

々は

ッサ

ルの領

的存

を身

体構

成と

物理学

的世

界構成

に照準を

合わ

て解説し

。心

エポ

ーに

って実在

ら完

に純

され

、実

世界

は全

「心

目純

粋意

(超越

論的

意識

)馴」

のうち

還元

され

のだ

、構

成主

とし

の心

鋭が

自己

(自

統覚

Vによ

って客観

レベ

ルに取

り込

こと

によ

、「現象

的主

(ノ

エシ

・ノ

マ図

式V」

の後

のう

に組

み込

れた

たち

で存

論的

が生

エポ

の遂

行後

物質

実在

M

は心

の志

的内

、す

なわ

ち団

によ

って構成

れる括

弧付

〔ζ〕と

て残

るが

、同

じ実

世界

のう

には

「心

11実

在的

(心

学的

意識

V

〔ωP〕」が含ま

いる

であ

る。こ

れら

一連

の過程

記号

に表記

れば

Q。一↓

〔o。P\

ζ〕

なる

が、こ

の超

越論

的主

図式

にお

いて、括

の外

の心

団と括

の中

の物心

〔q.N\

ζ〕と

の関係

は非

在的

であり

、構

主体

団に被

構成

〔o。P\

ζ〕

は依

いるこ

と、

心醗

は物

質的

事物

ζ

一種

る身

87/自 然主義的存在論の阻路

Page 12: Title 自然主義的存在論の隘路 : フッサールの「領域 …...自 然 主 義 的 存 在 論 の 阻 路 フ ッ サ ー ル の 「領 域 的 存 在 論 」 に お

因果

に基づ

られ

いる

こと

示し

いる

の図式

が表

る最も

要な

は他

でも

い二

つの

S

の間

に成り立

つている固有

の構造

的連

であ

って、Sそ

のも

のが構成主体

であ

ると同時

この構

成主体

によ

って

構成

れる実

一部

肌にすぎ

いと

いう

一種

の「自

己関

係的

構造

」、す

なわ

ち、心

S

は実在

界に

み込ま

一部

であり

がらも

、他

の実

在を

構成

のと

同様

に、

らを自己

の対象

的契機

とし

て自

の内

で志

向的

に構成

る超

実在的

存在

であると

いう、

つのS

「同

一的

差異

(差異

一性

)」

であ

る。こ

こに成

り立

つて

いる構

関は

「メ

タレ

ベルと対象

レベルが階

層的

に区別

され

つつ

同時

に循

環関

係を有

いる連

関」と

て、あ

いは若

の保

留付

ではあ

るが

、端的

「部

分と

全体

の循

環関

」と

て特徴

づけ

こと

でき

よう

前記

の主客

から

は、

現象

にお

る自

然主

存在

論は

の部

分系と

の認識

論も

含め

て「構成

され

た存在

(認識論

)」にすぎ

、物質

や身

体そし

て心そ

のも

のも超

越論的

意識

のノ

マ的

契機と

て構

された実在

しか

いことが

容易

に了解

され

る。そ

てS

の有

る自己

成的構

ら、Mは醗

に対

て1

々の正常

な知

覚経

いし1

自然

科学

的対象

構成

にお

いては客観

的実

在性

を有

るも

のと

て、つまり

の外

にあ

る客観

的事

存在

して

いる

が、Mも

S2も

に別に

より

の志向

内在

いて構成

れた

意味

的対

であ

る限

り、M

の有

る客

観的

実在性

はも

っぱら殴

から

の存

在論的

独立性

を意

味す

けであ

って、別か

ら見

ると1

正確

に言う

と団を

省的

に対

象化

する

一層高

の視点

から

であ

るがー

れは田を超

した形

学的

実在

はな

く、超

越論

的観

念論

によ

て1

訂によ

って

「構

成的

に基礎

られ

た内在

的実

在性

のも

では

いこと

理解

れる

であ

ろう

さら

に、

の自

係的

図式

の内

の団と

の構

関係

は、超

現象

学と

、領

域的

存在

おけ

る心

学的

述と

「合

心理

(形

相的

理学

)」

の関

も端

に反

いる

こと

れう

ッサ

の言

い方

によ

れば、超越論

現象

は別

の学

であ

に対

し、合理的

理学

は別

によ

って構

れた

肌に

いての学

であ

り、他

の実在

的領

いて

の形

的学

を対

立項

て持

つよう

な学

一つにすぎ

い。し

自然主義的存在論の阻路/88

Page 13: Title 自然主義的存在論の隘路 : フッサールの「領域 …...自 然 主 義 的 存 在 論 の 阻 路 フ ッ サ ー ル の 「領 域 的 存 在 論 」 に お

かし他

では

、心

理学

もし実

(直

接的

には身体)と

関を

捨象

され

れば

現象

学と

「内

一」な

ので

つて、心理

学的

意識

「実

一部

」つまり

「人

間も

は動

にお

る単

る存

の心

の」

(O山刈o。)と

いう存

性格

に基

づく

諸制

を課

いる

 

  

除け

ば、心

理学

の命

題と

現象

の命

は同

一であ

る。

それ

ゆえ、超

越論

的現象

は心理

学を自

の志向

分析

一部

にー

マ的成

分と

してー

自己構

成的

に含

でも

いる

のであ

るか

ら、現象学

は自

己自身

を自

の対象

的契

の中

に組

み込

んでも

いる

こと

になる。現象学

は心

学を

部とす

る存在

メタ理論

でなけ

れば

らな

いが

、現象

が自

の下位

理論

とし

て構

成す

るも

ののう

「心理

学」

いう

の自

己自

が含有

され

いる

のであ

るか

ら、現象

はメタ理

であ

ると

同時

に対象

理論

でもあ

ると

いう

「両

義的

性格

」を有

のであ

る。

釧と

詑を

る以

一連

の連

を集

合論

に言

い換

てみる

なら、「自

己自

身を

の集

の要素

て含

む集

」が持

つ構造

同様

に、Sはー

それ

に含

いる要素

にと

ってメタ

ベル

にあ

ると

の1

であ

ると

同時

に、そ

の集

が含

む要

一つでもあ

るわけ

であ

、こ

にお

いて団と

舘はSと

て同

一であ

るととも

に階

層的

に区

別さ

れても

いる

いう

固有

の自

己関係

的連

関を

して

いる

 ア 

と言

るわ

であ

もち

ろん、

「記述

理学

と呼

る前

現象

や、

『イ

ン』の還

元論

の方

論的

正と

とも

に後

年重

こと

にな

「現

学的

心理

学」は、「心

理学

」と

ても

、領

域的

存在

一部と

の合

理的心

や実験

理学

は異

り、先

に述

べたよう

「心

理物

理的

の捨

象」を旨

る。こ

の意

で、これ

の学

は既

エポ

(現象

的心

理学

エポ

ー)を施

いる

であ

って、

れ故そ

らは

の学

の心

理学

はあり

がら

実験

心理

や領

域的

存在

の心

理学

的記

述よ

は、訂

の学

ての現象

に近

いと

いう

微妙

地位を

いる。こ

の点

から

つて、『イ

ン』

二巻

の第

二部

「動物

自然

の構

」にお

一種

の心

理学

的分

は、第

二部第

二章

「純

自我

の箇

除け

ば、記述

的心

理学

の方法

特徴

はそ

ぐわ

い面を

く持

っており

、フ

ッサ

の膨

テキ

スト

の内

でも極

て特

殊な

地位を保

って

いると

言わ

89/自 然主義的存在論の駐路

Page 14: Title 自然主義的存在論の隘路 : フッサールの「領域 …...自 然 主 義 的 存 在 論 の 阻 路 フ ッ サ ー ル の 「領 域 的 存 在 論 」 に お

なら

いであ

ろう

。す

なわ

ち、領

域的

在論

におけ

の心

理学

記述

はー正確

に言うと、

その

一部

であるが1

記述

的心理学

などと呼

ばれ

る前

現象学

的な心

理学

とは異な

、因果

分析

(心

理物

理的

明)を排

除す

のでは

なく

ってそ

れと密

に結

付く

で、

現象

は異

「心理

学」

たりえ

いる

であ

り、か

つま

た、

そう

であ

こと

ってそれ

「人

間学

」や

「動物

」の

一分枝

「身

体論

」や

「生

理学

」など

の密

な経

験的

関を

ちえ

いる

のであ

る。であ

から

こそ、こ

の著作

の心

学的分

析は記

述的

心理学

などと

は違

って少

なく

とも直

はそ

のまま

超越論

的分

に変換

され

るこ

とは

いし、第

「純

粋自

我」の章

の分

でも純

粋自

の持

つ超

論的

(世

界構

成的

)機

はむ

ろ覆

い隠さ

いる

であ

った観

が強

いのであ

る。

W

自然主義的存在論における

「外界認識」の問題

さて、我々は二重の主客関係を有する先の図式を基に

して、自然主義的存在論の超越論的基礎づけの可能性につ

て検

しなく

てはな

らな

いが、まず

つて超

論的

で解

された

「超

越的

認識

の可能

性」を

る問

り上

みよう

『イ

ン』

に先

一九

〇七年

『現象

の理念

で超

越的

の謎

が解

されえ

のは

客を

互離在

な実

在と

る自然

的態

度か

、主客

関係

によ

って

のみ捉

る純

粋現象

学的態

へ移行

する

こと

によ

ってであ

った。こ

の講

の冒

頭で提

され

いる

は、伝

統的

識論

における

「外

界認

の問題

」に1

にで

はなく

とも

1相

当す

ると言え

よう

、この講

の主

る成果

は、認識

及び

れと内

に絡

み合

った形

上学

の先入

見を

「認

論的

元」に

つて排去

、「絶

所与

」「コギタ

オネ

ス」など

とも

呼ば

「純粋

獲得

こと

にあ

。「認識

はど

のよう

な種

の自

の上

にも

て打ち

てられえ

い」(P-いひ)と

いるが

、コギト

(現象

・体験

Vは空

間時

間世

の内

在す

「人

」のそ

でな

いと

され

こと

で、現

学的

識論

は外界

の問

題を

疑似

題と

し、形而

(自

主義

)呪縛

払拭

のであ

る。さ

に、

『イ

デー

ン』にお

いては

、超

論的

によ

って心

が完

に実

自然主義的存在論の阻路/90

Page 15: Title 自然主義的存在論の隘路 : フッサールの「領域 …...自 然 主 義 的 存 在 論 の 阻 路 フ ッ サ ー ル の 「領 域 的 存 在 論 」 に お

ら浄化

れ、実在

界は総

て志

向的意

の構

成的

産と

され

こと

で、外

認識

の問題

のも

のが依

って立

つ基盤

が解

された

。そし

てそ

に伴

って、感

性質

は単

なる主

観的

現出

であ

るに対

て、真な

る存在

は幾

何学

物理

学的

事物

であ

り、前者

は後

の因

果的産

て後

「心像

(田一e」「代

表」「記

号」

であ

ると

いう

「心

理論

」も

現象

のう

では拒

否さ

れた

のであ

った

方、領域

的存

在論

は、既

に述

べたよう

に、物

M心

は身

体を介

した

一連

の因果過

にあ

るも

のと

考え

れて

のであ

が、そ

れは超

越論

的視点

団か

ら見

た客

的構造

に他

なら

い。ここ

で外界認識

の自

然主

説明

は、括

の外

の心

団による志

の構成

機能

を媒

て、物質

(感覚を

初めとす

る心的内

容)と

いう

本来

異質

存在

が間接

に関

係づ

られる

いう

かた

で、超

越論

に正

れて

いるよう

に見え

る。

確か

に、こ

の限り

「自

然主

義的

実在

(物

理学

的実

論)」

は形式

は可能

である

よう

思わ

。し

し、

駿にと

ってMはあ

くま

「超

越的

実在

」で

あり

、「非実

的」

であ

る思考作

用が空間

を伝

播し

て外物

に達す

ると

いう

こと

あり

い以

上、醗と

M

の間

は志向

(コギト

)関係

が成

しえ

いのであ

るか

ら、「醗

によ

るM

の認識

可能

性」

いて懐

を提

しう

。田

にと

って1

貌とM

の関

とも

く1

醗は自

己自

であ

り、

Mも別自

らが自

の内

構成

た自

の志向

的内

であ

から、別が

それ

らを

認識

いはず

はな

一方

、貌も

鋭と

じく

認識

主体

であ

りMを

認識

しえ

れば

なら

いが、志

向的

関係

は定

により

心と

の外

にある物

理的実在

の間

に成

り立

間的

では

のであ

るか

ら、殴と

M

の間

には

因果

は成

しえ

ても

志向

的関

係は

成立

しえ

ず、後者

が成

のはた

かだ

か身

(脳

)の内

に局

所化

た実在

紐と

、同じ

く殴内

に存

する

志向

的対象

の間

であ

るに

いか

であ

る。

が、こ

のとき

(構

れた)実

を再

エポケ

ーす

ならば

、物質

的実

の構成

が全

不可能

なる

ばか

でな

エポ

ケー

の無限

退

に陥

る、あ

いは超越

エポ

ケー

を再

遂行

こと

は全

く同

じ操

の繰り

であ

るか

ら、こ

エポケ

ーを

こと自

が無

意味

であ

る。そ

ゆえ

、自

然主

的認

(存

在論

)

にお

いては

「必然

的」

91/自 然主義的存在論の駐路

Page 16: Title 自然主義的存在論の隘路 : フッサールの「領域 …...自 然 主 義 的 存 在 論 の 阻 路 フ ッ サ ー ル の 「領 域 的 存 在 論 」 に お

に物心

の関係を

「観念

論的

」にでは

なく

「実在

論的

」に記

、「因果

」と

「志向

性」を

一の実

在内

にお

いて

らか

の仕方

で関

係づ

ける

ことが

要求

され

のであ

る。し

かし

それ

にも

拘わ

らず

、フ

ッサ

ール

の自

然主

的認

識論

覚与

件を

因果的

に受

容す

のみならず

、それ

を意

味的

組織化

する外界

認識固有

の連関を解

明しえ

いな

いば

かり

か、そも

そも志向

的構成

能を自

の因果

連関

に組

み込

なが

ら認

識論

アポ

アを

解消

「実在

論的

識論

」を

当化す

ことが

原理的

に可

能かど

かも疑

のであ

る。

そし

て、も

し存

(存在

論)と認

(認

論)が原

理的

媒介

れえ

いも

のであ

るな

ら、物

(因

果性

)と

(志

性)を関係

づけ

ねば

なら

なくな

ること

自体

が超

越論

的基礎

づけ

の不

可能性

を証

明し

いること

にな

ろう

し、ま

た被

成体

の次

で志向

と因果

性が交

てしまう

ことは

、領

域的存

在論

の構

成論

的基礎

づけ

の仕組

から

て、回避

可能

のよう

に思

われ

のであ

る。

いず

にし

ても

々は

ッサー

ルが

領域

存在

構成

記述

いて、伝統的

認識

やそ

の前

であ

る形而

の中

で生

てき

た種

々の問

題に答えざ

るを

得な

い羽目

って

いる

のを

に看

て取

こと

ができ

る。しか

も、実

はそ

れら

は括

弧入

れ理論

を採用

する

こと

によ

って抹消

され

た、あ

いは少

くと

のよ

に見え

た問

一部だ

のでは

ろう

。言

い過ぎを

十分

承知

のうえ

で敢

言うと

れば

、形

而上

学的

問題

一般

を解消

しえ

はず

の超

越論的

法と

は、志向

の対象

構成機

を証

し実在

を総

て意味

形成

体と見

なしえ

たと

いう成果

を度

外視

すれ

ばー

ッサー

にと

ってはこ

の点も

、否

の点

そが重

こと

は言う

でも

いが1実質

には問題

の単

る先送

であ

る、

言え

であ

る。

W

「意

味」

の身

(実在

化)と

「心

問題

越論

的構

己構

成を

遂行

限り

然主

在論

の内部

では、一旦

エポ

ケー

により脱

在化

され

た意

識内容

が今度

は悉

く実

化さ

れる

のであ

が、次

に取り

られ

べき

は、前節

の問題

とも

密接

に連

が、「意

の身

体化

に関わ

問題

であ

ろう

。「志向

象」と

「感

覚内

」や、近

認識

におけ

るよう

にそ

れと

自然主義的存在論の阻路/92

Page 17: Title 自然主義的存在論の隘路 : フッサールの「領域 …...自 然 主 義 的 存 在 論 の 阻 路 フ ッ サ ー ル の 「領 域 的 存 在 論 」 に お

同質

なも

のと解

され

る限り

「観

」「表

」な

どと

は異

「意

味」的対

であり

、従

って

「非

実在

」1す

なわ

ち空

でな

いこと

はも

より

間的

でも

りえ

い、

一種

「理念

(イ

ア性

・普

遍性

)」を

る存在

て定義

され

いる。も

っと

、志向

対象

「イ

を持

つと

っても

れは

フレ

ーゲ

の言う

「第

」のよう

に志向

的体

(主観

的表

)を超

た形而

的実体

ではなく

、志向

的作

から区

され

つつも

の作

が関

しう

るそ

の相

関者

であ

向的

対象

(意味

)が持

つこうし

「非実

性」こそが

『論

学研

究』

にお

ては、論理

の法則

概念

「実

」、す

なわ

「時

間的」

で生成

消滅

る実

的な

理的

に還元

てしまう

「心

理学

主義

」や

、世界

「感

」と

なす

「感

主義

(現象

主義

)」と

現象

を区

ハ ニこ

る徴

とな

って

いたわけ

であ

。そ

て、こ

の意

味的

を非

的な

「志向

的」対象

(ノ

マ)のう

に明

に割

てた

のが

『イ

ン』

一巻

であ

った

が、それととも

にこ

の著

では、意味

の持

つイデ

ア性

(非空

間時

間性)が、心

学的

では

い超

越論

エポ

ケー

より

(意

識内

)を

実在

(空

間時

界V

ら完

に引き

こと

って、存在

論的

に正

化さ

こと

にな

ったと解

でき

。す

なわ

、超

論的

エポ

ケー

によ

り、意味

内容

は物

質的

実在

Mは当然

のことな

がら

、Mと連

関した心

的実在

も属

さず

、心

(超越

的意

)団に

って構成

るそ

の志

的内

容と

のであ

、従

って、こ

では団

の意

識内

と物

的身

M

の実

関係

は、

団が

「脱

身体

(非

実在

的)」なも

のと定

され

こと

により

不問

に付

いたと

言え

のであ

る。

かし

なが

のよう

に現象

観念

によ

って徹

に遂行

れた意

の超

越論

的純

は、ま

にそ

の同

の徹

底性

のゆえ

に自

主義

的存

(認識

)のう

では却

って背理

を招

こと

るの

であ

。そも

も団

Mと

の実在

的関係

を問

こと自体

が無

意味

であ

ると

いう

によ

ってS2と

区別

され

いた

のであ

るが

、別が肌と

己構成

され

るとな

ればMと

の関

係を問

わざ

るを得

いで

ろう

。そ

こで、も

し人

の身

の内部

に心的

容と

して

の意

がそ

のま

ま局

化さ

いると

たら

「実在

なも

のの実在

部分

が非

実在

であ

る」と

いう

明ら

かな

93/自 然主義的存在論の隆路

Page 18: Title 自然主義的存在論の隘路 : フッサールの「領域 …...自 然 主 義 的 存 在 論 の 阻 路 フ ッ サ ー ル の 「領 域 的 存 在 論 」 に お

が導

れる

である

から

、領域

存在

「非実

的」

見な

れる意

現象

の生

る、そ

れ自

「実

」な

みを何

の仕方

で説

明す

る必要

る。

いえ

「意

それ自

このよう

統覚

的絡

み合

い、つま

物体

的な

への、こ

の心

理物

的関

て、そ

れ固

の本質

いか

なる

のも

失う

こと

はな

く、自

の本質

に無

縁な

いかな

るも

のも自

のう

ちに取

り込

できな

い」(ω-嶺

一)と言

われ

ているよ

に、

ッサ

ルの自然主

は決

て意

味な

ど心

に固有

の諸

属性

「唯

(物

理主

義)」のよ

にことごとく物

理現

に還

し、そ

れを

の状態

と同

一視

しよう

とし

いるわけ

はな

く、あ

で物質

的自

(物質

実在

)Mと

心的

自然

(心的

実在

)

の存

在性格

の相違を

認め

つつ両者

の間に相

互作

用を容

ているよう

に思

われ

る。フッサ

ルの心身

理論

は物

接的

関係を

認め

いる点

で平行説

でな

いのは自

だが

間時間

世界

の中

で心は身体

を離れ

て実在

しえな

いと

して

いる-

物質

のみが狭

の実

体であ

る1占…で

二実体論

でも

い。ま

、フ

ッサ

ルが前提

る物心

の存

論的

別を

に厳

にと

ると、紐と

M

の間

いかな

る関

係も

しえ

こと

にな

ろう

から

、両者

の存在

の差異

それら

の間

の関

係性

をど

のよう

に媒介

るかと

いう

問題

ここで登場

る。

「関係

一般

に関係

の同質

を要

るな

らば

相異

のは

いか

にし

て関係

るか

」と

化す

ば、

これ

は半

ば論

理的

題と

るが、

いず

にし

ても

(意

・志向

)

の身

(実在化)を整

に説明

ため

は心

身問

いう古

典的な形

而上学的

アポリ

アを

克服

なけ

れば

のであ

る。

ッサー

の自

己構

は、

はそ

の超

論的

粋性を

放棄

しMと

一の空間時

世界

に参

入す

ると考

いるわ

けだ

、そ

の核

部分

言え

ば、そ

れ自

体と

ては非

物質

な感

覚状

が脳

など神

経系

の「機能

的依

(旨鼻

樽帥8

。=。〉げげぎじ。膚冨一一)」によ

って身

と因

に結

合さ

れる

こと

で駆と

て実

在化

れると

いう

こと

に過ぎ

い。

『イ

ン』にお

いて

ッサ

ルは

意識

と身

の結

合を頻

に云

々す

のであ

が、それ

が主と

て意味

いる

のは、二巻

具体

に述

べら

いる、物理

程と

理過

の機能

依存

係1す

なわち

「条件

的」な

いし

「心

理物

理的

」関

係と

呼ば

いる因

果関

に他

ならな

いと

自然主義的存在論の阻路/94

Page 19: Title 自然主義的存在論の隘路 : フッサールの「領域 …...自 然 主 義 的 存 在 論 の 阻 路 フ ッ サ ー ル の 「領 域 的 存 在 論 」 に お

るし

、例え

「あ

る固有

の統

握様

いし経

様式

固有

の仕方

の統

覚が

、こ

いわ

ゆる結

、つま

り意

の実在

の働き

を遂

行す

る」(い」ω一)など

言わ

ると

「結

合」と

いう

で意

図さ

いるも

のも

同様

のも

ので

ろう

。領域

的存

在論

を十

に記

述し

よう

とす

と、身

過程

の対

が比較的

明確

な感覚

内容

のみな

らず

、より高

な志向

の意味

形成機能

いかにし

てそれと全

く本

質を

にす

る身体

物体

と作

用し

、物理

的空

間と

ての身

体内

で観察

されえな

い意

味形成

体が

いかなる仕方

で同

一の身

の中

に局所化

され

ているか

ついて説明

しな

ればな

い。それ

は同時

「超越

論的

観念

論」の将内

で実在

界と

の関

係性

を問う

ことを

除さ

ていた意

味論

が、そ

根拠

のため

「実

在論

的意

論」を

しな

れば

なく

ること

でもあ

。し

かし

、意味

の自

主義

説明

を正

当化しう

る理論的厳密

性を

フッサ

ルの構

成論

は備え

いな

いのであ

り、ここ

にも

た領域的

在論

の不完全

一端

が存

ていると

思わ

のであ

る。

結語1

「超越論的基礎づけ」の逆説的構造

に、志

向性

は、実在

(空

間時

間世

)を

成す

る志向

は、志向

概念

が切

り開

いた

広汎

な領

一部を

なす

にす

ぎな

いの

であ

って、そ

れは対

象認

識を

遂行

理論的

みなら

、「感

」や

「意

志」な

ど様

の性

を持

、我

々の豊

な意

生全

に浸透

いる

た、生世

界論

の術語

で言え

、自

然科

的世

界と

一定

「関心」に則

って構

れる

「特

世界

」のたか

つであ

に過ぎ

いし

、科

世界

の意味

底と

され

「常

に問わ

こと

い自

明性

のう

に予

め与え

る感

性的

経験

の世界

」(ひ苅ごと

ての生

世界

さえ意

が内包

る多

一局

に過

い。

かし

ら、志向

性概

って、実

が意識

の内

で構

れる世界

一部

分を覆

にすぎ

いも

のとし

て相対

化さ

とは

いえ、実在

界が志

の問題

から駆

され

たわ

では

いし

、物

や心

など

の実

在的

在者を

学的

題と

る形而上学

や存

在論

が現象

学か

ら追放

され

たわけ

でもな

い。も

ろん、古

形而

にお

るよう

に志

的意

通常

「心」と

いる存

在者1

は諸存

在者

一層と

95/自 然主義的存在論の駐路

Page 20: Title 自然主義的存在論の隘路 : フッサールの「領域 …...自 然 主 義 的 存 在 論 の 阻 路 フ ッ サ ー ル の 「領 域 的 存 在 論 」 に お

なさ

れる代

わり

に、現象学

にお

いては意

識以外

の存在

が志

向的意

の抽象

的契機

にすぎ

ぬも

のと

て相

対化

され

いる。しか

しな

がら

、こ

のこと

によ

って形

上学

(存

在論

的)問題

は決

て解消

され

たわけ

でも

放棄

れた

わけ

でも

いのであ

って

、現象学

一隅

に濃

れた

かた

然残

続け

ている、否

、現象学と

いう広

汎な学

問構想

に位置し

いると

さえ言え

るのであ

て、我

のこれま

での論述

によ

れば、こう

た形

を超

に基礎

る際

アポ

アは

、端

て、そ

「自

関係的

循環

構造

」にあ

ると

いう

にな

。超越

論的

現象学

はそれが基礎

づけ

の対象

る領域

存在

の内

にそ

一部

て取り

込ま

てしま

のであ

、こ

に相関

に、超

越論

的意

識は超

論的

の過

でそれ

が志向

に構

成す

る対

(自然

・実

在)のう

に逆

に属し

てし

まう

のであ

る。ま

に、こ

の自

関係

的構

に、

たと

超越

的観

念論

の主張

自身

たと

、それ

が構成

的方

を採

用し

、な

おか

つ構

成記

一部

に存在

論的

構成

記述

を含

む限

り、下位

の1

被構

の1

にお

いて、当

の理論

のも

のと

は対極

な形態

の理論

要請

一度

回避

した形

而上

学的

問題

に何

らか

の回答を

与え

るをえ

こと

にな

る。意

識主

が意

識対象

て何

思考

(志向

)しよ

うと

、意

の対象

に関係

なけ

れば

らな

い以

上、超

論的

観念

は実

在世

界が

意識

から独

に存

しう

こと

一切

め得

いこと

は確

であ

る。し

同時

に、超越

論的

が自

己構

を内

包す

る限り

、逆

に意

識自身

が身体

一部と

て含

む実在

世界と

の何

の連

関を

必要

とし

、それ

ゆえ当

の観念

は実在

論と

の緊

な結び

付きを

れては全

き理

論たり

えな

いことも

事実

ろう

。だ

が、フ

ッサ

ルは

「エポ

ーによ

る心

の脱

(純化

)」を

徹底

て遂

しえ

の、

「自

己構

る心

の再実

(自

己構

成)」

の理論

は厳密

正当

をな

しえ

いな

いと

考え

られ

であ

る。

に言え

、自

係性

が構

記述

に及

ぼす

を云

々す

る以前

に、

「物と

-因

と志向

・実在

と意

存在

と認

識1」が対

ルと

メタ

ベルと

に階層

なが

らも同

に同

一の次

にあ

ると

いう自

関係

的構

存在

のも

のが既

「形而

の超

越論

再構

築」の

不可

能性

を証

示し

いる

のでは

いかと

いう根

本的

問題が

自然主義的存在論の駐路/96

Page 21: Title 自然主義的存在論の隘路 : フッサールの「領域 …...自 然 主 義 的 存 在 論 の 阻 路 フ ッ サ ー ル の 「領 域 的 存 在 論 」 に お

いる

のであ

るが、それ

ついて論

じる

には別

の機

会を

ハ き

ねば

なら

いであ

ろう

注本文

での

『フ

ッサ

リアーナ

(導§ミ

§

a己

から

の引用

は引

用箇

所を

巻数と

ページ数

によ

って記

す。な

お、引

用文

のなか

には筆・者

都合

により訳文

を原文と若

干変

てあ

ると

ころがあ

る。

(一)「基礎づけ」とは

[体何なのか、いかなる条件が充足されれば

基礎づけが果たされたこと

になるのかは、それ自身哲学的難問であ

るが、本論ではそれを

「下位理論

(対象理論)」たる領域的存在論

「メタ理論

(上位理論)」である現象学が超越論的構成と

いうか

たちで自己のうちにノエマ的契機ーということはつまり部分系ーと

して包摂することであると理解する。従

って、ここではメタ理論と

それによ

って基礎づけられるべき下位理論の間の

「階層構造」が確

立している必要があるわけである。そして、この階層的関係は、後

に論じるように、志向的構成の主体と被構成体、つまり超越論的意

識と実在世界との関係のみならず、より単純な論理的モデルとし

て、集合とその要素と

の関係にも対応している。

(二)「領域的存在論」とは、本論

の主題に関連する範囲

で言えば、

空間時間的存在形式を有するものとしての物質的実在およびそれに、

基づけられたものとしての心的実在の構成法則についての記述であ

り、アプリオリな本質法則を探究するという点で経験科学と区別さ

れ、か

つまた、これを基礎づけるも

のとして構想されている。この

領域的存在論

の試みはアリストテレスを初めとする

一連の形而上学

の伝統を継承するものであり、それが認識論的に基礎づけられるべ

ことを

要求す

ると

い・苫

…では

、デカルト

やカ

ント

など近

の超

論哲学の系譜にも連な

っていると言えよう。

なお、領域的存在論

についての研究論文としては、『現象学の道

-

根源

的経験

の問

題』P

民。。器冨・bミ

ミ蒔

§

、、§

oミ§

。甘。。龍

、こミ§

職ミヨ

ミ嵩。。ミ

富嵩罫

ミ§堕O馨。邑07。「<o匿

α。の7曽。。

O。己

§

b

馨。邑oゴレ8ω)の第七章

『エト

ント

・フ

ッサー

ルー

その現象学の体系的叙述の試み旨〉」)冨∋①「●窪

、ぎ

§》

職ミ、蔑

龍ミミ

執亀ぎ嵩O籍鳶ミ、§吋同巴ミ、き

§

oミ

ご触魯〈o『冨o。〉艮8

エ臥P

ζ。帥。。。喜。葺

軸巨

Ω彗

.一〇ひい)の第

四章

など

が卓越

した

古典的

であ

るが、近

のも

のでは

『フ

ッサー

ルのイ

デーン

ニ巻

におけ

問題一角.Z窪05磐自r団3σ§

9."蒙

§

穿

置ロを巽

>9

α。藍

。ぎ

σ=。。『。『。。'8

昌ユ

σ鼠

9

。。δ

80∋。目90。q望くoF貿

」)○己掃魯

p

口畠§

ぢao戸一ま

)には優れた論文が多数収められている。

(三)

(実在

的意

識Vと

純粋

意識

の差異

は、極論事

かば

、物質

自然

一部た

る身

体と

の結合を

併せ

て考慮す

るか否かと

いう点

に集

され

ると

いう考

は、自

のことと

て共通

に了解

され

いるこ

ではな

いかも

しれな

いが

、そ

れに

ついて

ここで

テキ

ストを

引き合

いに出

して検

証す

る余

裕は

い。ま

た、心

がそれ自

身と

しては

「非

在的

(一ヨw巴)」

であ

ると

いう

主張

いては、

「実在

性」

「空

」ひ

いては

「物質性

」と

外延的

にほぼ合致す

のに対し、心は

や志向

や意

味な

の非

物質

(非空

間的)内容を

有す

るも

る以上

、自明

なも

のと思

われ

る。

(四)例えば

、『フ

ッサ

リアー

ナ』第九巻

所収

「エンツ

ユク

ロペデ

・ブ

リタ

ニカ論文」

の論

述を

参照す

れば、心-

心理

学的意

:心

経験

(心

理学的

経験

〉等1

と純粋

意識ー

超越論

的意識

・超越論

験等

1

は平

関係

碧n。=。=。。ヨ冨

)にあり

「内

に同

(一}き

σ。匡

。ε」(り-N刈い)で、「相互貫

入と

いう

一性

(置。5島憂

舟・。

ぎ。3墜自。こ

(O面§)を

有す

ると

明確

に述

べられ

ている以上

、こ

のよ

97/自 然主義的存在論の阻路

Page 22: Title 自然主義的存在論の隘路 : フッサールの「領域 …...自 然 主 義 的 存 在 論 の 阻 路 フ ッ サ ー ル の 「領 域 的 存 在 論 」 に お

うな観点も筆者の単なる独断ではな

いであろう。

(五)エポケーには様々の側面があり、その多面性をここで全て説

明し尽くすことは不可能であるが、本論ではあくまで

「心の脱実在

化」と

いう側面に焦点を当ててエポケーをも

っぱら存在論的に解釈

している。しかし、このことはエポケーがこれ以外の他

の意義と機

能を有することを否定するものでは毛頭ない。

(六)ここでの自己関係的論理についての形式的議論は第V節でよ

り具体的に再論されている。

(七)『フッサリアーナ』第十九巻第

「分冊

『論理学研究』第

二巻第

一部二十四ページの記述に依る。

(八)ここで

「唯心論」とは

「意識が存在の全てである」と

いう形

而上学的主張として理解されたい。なお、ここでのこの概念は感覚

主義や心理学主義とは無縁である。一部の現象学者はフッサール現

象学を

「観念論」と特徴づけることにさえ否定的であるのだから、

それをより形而上学的含意の強

い「唯心論」として捉える見方は到

底容認しな

いであろうが、それを承知の上で敢えて筆者はこの語を

使用している。だが、一体現象学において、広義

の意識内容以外の

存在が

一切容認されていないことを誰が反証しうるであろうか。

(九)「領域的存在論」における身体構成論については、拙論

「感覚

と身体i現象学的分析とその超越論的意義ー」『哲学論叢』京都大

学哲学論叢刊行会編第二十三号

つり⑩①V参照。

(一〇)『イデーン一で因果的に発生が説明されているのは感覚内容

までであり、志向的体験

(意味付与機能)には及んでいない

(ノエ

シス的層はヒュレーに基づけられている限りで身体に因果的に依存

するとされている)。しかし、自己統覚によって意識内容が実在化

されるという場合、フッサールは意味ないし志向的内容をことさら

除外しているわけではなく、また意識内容の

一部のみが自己統覚か

ら取り残されるという

のも不合理であるので、意識内容全体が実在

化されると見なすべきであろう。

(=

Vフッサ~ルにおいて、心理学的意識と純粋意識が

「実在的」

であるか否かと

いう存在論的制約以外に、内容面で異なる点がある

と考える論者は筆者に具体的にそれを指摘して頂きた

い。

(「二)集合論では、自分自身を自己の要素として含む集合

(の集

合)が直ちに矛盾を含むも

のと見なされるわけではな

いし、部分と

全体との同等姓が

}種のパラドクスであるとはいっても、カントー

ルの無限に関する議論

では、例えば、正整数の集合と奇数の集合は

一対

一対応があり濃度が等しいとされているように、部分が全体と

等しいことが矛盾

でな

い領域も存するわけであるから、それは厳密

な意味での論理的背理ではないかもしれな

い。

(=二)フッサール現象学

における

「実在性」と

いう概念は、『論理

学研究一では

「時間性」と

いう概念と外延的に等しいものとされて

いたが

(『フッサリアーナ一第十九巻第

一分冊百

二十九

ページ参

照)、存在論的問題を取り込んだ

『イデーン』では、「空間時間性」

のみならず

「因果性」「実体性」「個体性」などという存在論的諸概

念とも密接

に重なり合

っている。

(一四)『イデーン』二巻

の後半を成す

「精神的世界の構成」を巡る

問題は1動機づけの問題を含め1他の論文に委ねるため、本論

では

意図的に全く無視されている。

自然主義的存在論の阻路/98

Page 23: Title 自然主義的存在論の隘路 : フッサールの「領域 …...自 然 主 義 的 存 在 論 の 阻 路 フ ッ サ ー ル の 「領 域 的 存 在 論 」 に お

Der Engpal3 der naturalistischen Ontologie -die selbstbezugliche Struktur der transzendentalen Konstitution in der

regionalen Ontologie Husserls-

TSUGITA Norikazu

Die Absicht der Ideen in drei Banden ist nichts anderes als die transzendentale

Begrundung der regionalen Ontologie. Daher muB die transzendentale 'Epoche' vor allem

als Methode betrachtet werden, die die regionale Ontologie dadurch moglich macht, daB

das transzendentale Bewuetsein die reale Welt als Thema der regionalen Ontologie

konstituiert.

Aber bei dieser transzendentalen Konstitution der Ontologie kommt eine Aporie vom

Parallelisms, d.h.der inhaltlichen Gleichheit zwischen dem reinen BewuBtsein and der

seelischen Realitat, die zur realen Welt gehort. Diesem Parallelismus entspricht der

Parallelismus zwischen der Phanomenologie and der Psychologie, die die rationale

Psychologie als Wissenschaft von einer realen Region der Ontologie enthalt. Diese

inhaltliche Identitat zwischen beiden bring[ eine Art von Zirkel der transzendentalen

Konstitution der ontologischen Regionen hervor, weil das transzendentale Bewul3tsein

sich selbst in der realen Welt als ihren Teil konstituiert. Dieser Zirkel kann auch als die

selbstbezugliche Struktur im Sinne bezeichnet werden, daB er durch die Selbstkonstitution

oder Selbstapperzeption des reinen BewuBtseins hervorgerufen wird.

Diese formale Struktur der Konstitution der Realitat zwingt die Phanomenologie zur

L.osung der metaphysischen Fragen von der realen Beziehung zwischen Materie and

Seele, welche die phanomenologische Methode einmal durch die transzendentale 'Epoche'

vermied. Wir vergewissern uns in der naturalistischen Ontologie, d.i. der ersten Halfte der

Ideen 11 dariiber, daB Husserl in solche Schwierigkeiten gerat.

Ill