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Title 前漢鏡銘の研究 Author(s) 岡村, 秀典 Citation 東方學報 (2009), 84: 1-54 Issue Date 2009-03-30 URL https://doi.org/10.14989/134683 Right Type Departmental Bulletin Paper Textversion publisher Kyoto University

Title 前漢鏡銘の研究 東方學報 (2009), 84: 1-54 …...東 方 學 報 京 都 第 八 四 册 (二 〇 〇 九) 冖 一-五 四 頁 前 漢 鏡 銘 の 研 究 岡 村 秀

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Title 前漢鏡銘の研究

Author(s) 岡村, 秀典

Citation 東方學報 (2009), 84: 1-54

Issue Date 2009-03-30

URL https://doi.org/10.14989/134683

Right

Type Departmental Bulletin Paper

Textversion publisher

Kyoto University

東方學報

京都第

八四册

(二〇〇九)冖一-五四頁

前漢鏡銘の研究

中國古代の銅鏡は、圖像紋樣

の變化

がいちじるしく、紀年銘をも

つものがあることから、考古資料

の年代をはかる指標

として東

アジア各地で重硯されてきた。また、その圖像と銘文は、人びと

の精瀰世界をも

のがたる資料としても注意され

てきた。鏡は姿見

の化粧具として用

いられただけでなく、そのかがやきは日月

の光

になぞらえられ、心

の内面

や世相をあ

りのまま

に映しだす性質をも

つとみなされたことから、

一種

の護符

のよう

に所持され、そうした觀念が圖像

や銘文として

銅鏡

に鑄

こまれたのである。

漢鏡銘

の研究は、古代

の金

石文に

ついて關心

の高ま

った宋代にはじまり、清代には考證學

一分野として鏡

の著録と銘

の釋讀がおこなわれるよう

にな

ったが、銘文を集成する試

みは羅振玉

「漢兩京以來鏡銘集録」

(一九二九年、以下

「集

録」と略稱する)を嚆矢とする。これをうけて言語學者

のカールグレンは、上古音から中古音

への變化をあとづける同時代

資料とし

て漢鏡銘

に着目

し、「集

録」

に新資料を加え

て二五七種

の漢鏡銘

ついて詳細な解読を

ほど

こした

〔囚巴。qお昌

δ。。凸。發表

から七〇年あまりを經た

いま

でも、これを

こえ

る體系的な研究はあらわれて

いな

いが、そこでは銘文

の時間

的な變化がま

ったく考慮されて

いないため、考古學にお

いて利用しにく

いと

いう缺點があ

った。

そこで、當研究所では二〇○五年度より

「中國古鏡

の研究」班を組織し、カールグレン論文を會讀するとともに、それ

1

東 方 學 報

以後に報告された銘文を加え

て、漢

三國兩晉五〇○年

の變化がわかるような鏡銘

の集成と注釋

の作成

にとりかか

った。本

に收録した

「前漢鏡銘集釋」はそ

の共同研究

の成

果であり、本稿

はそれをめぐる解

読と論考であ

る。これに

つづ

いて

「後漢鏡」・「紀年鏡」・「三國兩晉鏡」

の集釋と論考を本誌に順次公表していく豫定

である。

2

銘文研究

一〇〇〇年

([)

金石文

の研究は、中國

のルネ

ッサ

ンスと呼ば

れる宋代

にはじま

った。古文

の復興をとなえた歐陽脩は、金文と石刻の拓

本に解読を加えた

『集古録跋尾』全

一〇卷

(一○六一二年)を編纂した。そこでは鏡銘はとりあげられていないが、歐陽脩と

ならぶ唐宋

八家

のひとり蘇軾は、元豐

(一〇七八~

一〇八五)年聞に齊安

から黄州

(兩地ともいまの湖北省黄岡市)を過ぎたと

き古鏡

一面を入手し、そ

の銘文を

「漢有善銅出自白陽取鑄爲鏡清明而光左龍右虎輔之兩傍」と讀んだ

(蘇軾

『仇池筆記』卷

上)。

これは漢鏡四期

の方格規矩

四帥鏡などにみる

「漢有善銅出

丹陽。取之爲鏡清如明。左龍右虎備四旁。」銘

(銘文四三

八)であ

ろう。銅産地

「丹陽」を

「白陽」と讀むなど、

いく

つかの字釋はまちが

っているも

のの、釋讀はかなりの水準

である。そして、

つぎ

のよう

に解読する。

の字

は菽

の如き大篆

にして、款

は甚だ精妙なり。白陽は疑うらくは白水

の陽ならん。そ

の銅

は黒色

にして漆

の如

し。人を照らす

に微かに小、古鏡は皆な然り。これ道家の聚形

の法なり。

蘇軾

は佛敏や道敏に傾倒し、書畫や骨董にも造詣

が深か

った

〔土田

・一九九七〕。そこでは鏡

の年代

ついて言及していな

いが、釋文からみて漢鏡と到定して

いたのだ

ろう。銘文だけでなく、古鏡

の色や大きさにも關心が向けられ、それを道家

前漢鏡銘の研究

の鏡と斷

じた

のであ

〔岡村

・二〇〇八a〕。

本格的な古鏡研究

の劈頭をかざ

るのが

『宣和博古圖録』

である。それは宮中

の宣和殿に集められた古銅器

の著録

であ

り、末尾

の卷二八から卷三〇に漢代と唐代

の古鏡

一一二面を載

せる。編者や製作年に

ついては諸読あるが、

一一○七年ご

ろ徽宗が黄伯思らに命じて編集し、

一一二三年以後

に王黼に命

じて新收

の銅器を加えた

のがこんにち

『重修宣和博古圖

録』全

三〇卷であ

ると

いう

〔容庚

・一九三五〕。黄伯思は

『宋史』文苑五に傳があり、字は長睿、六經

・歴代史書

・諸子百

・天官地理

・律暦

・卜筮

の読に通じ、また古文奇字に親しみ、道家をす

こぶる好んだと

いう。『博古圖録』

では、時代

(漢/唐)+紋樣/銘文

+鑑と

いう書式

で古鏡

の名稱を定め、綫畫

の描き起こし圖、銘文

の釋文、面徑

・重さ

・銘文

の字數

などを記録した。銘文

の釋讀はかなり正確

であるが、時代判定に誤りが多

いこと、實物が現存しな

いため、その是非が檢

證できな

いこと、字句

の注釋がほとんどな

いこと、などの問題點があ

る。

しかし、南宋代

になると、鏡銘

の研究はしだ

いに衰退して

いった。わずかに洪造

『隷續』

(=

六八~

一一七九年)卷

一四

に七言五句

「嬲氏作四口服」銘鏡

二面と

「李氏作竟佳且好」銘鏡

一面

の釋文と解説を記し、王悚

『嘯堂集古録』

(一一七

六年の跋)下卷に漢鏡

一三面

の銘文

の模寫と釋文を收録し

ているくら

いである。しかも、『嘯堂集古録』

の釋讀

には問題が

多く、たとえば

二〇字以上の銘文をも

「清白鑑」に

ついては

「願兆思無志承読」

の七字を釋讀するだけで、命名

の由來

とな

った

「清白」の句

は讀

んでいな

い。

それ以後、元明代を

つう

じて書畫骨董

・文房具にた

いする文人たち

の趣味が高じ

て、古銅器

の鑑識がさかんに論じられ

るよう

になるが、古鏡

の色調

や銘文

の書體

に關心がおよぶことがあ

っても、その釋讀にはま

ったくと

ってよ

いほど注意

が拂われなか

った

〔岡村

・二〇〇八a〕。

3

東 方 學 報

(二)清

・中華民國

漢鏡

の銘文が本格的に研究されるよう

になるのは、清代にな

ってからである。宋學にた

いする批判が張まり、語音と字

の分析

から古典籍を正確に理解しようとす

る考證學

が發展するなか

で、實證主義

に立

つ金石學

の隆盛をみるにいた

った

のであ

る。その嚆矢とな

った

のが、乾隆帚が梁詩正らに命じて宮中所藏

の古銅器を收録させた

『西清古鑑』

(一七五五年)

である。末尾

の卷

三九と卷四○に古鏡九三面を載せ、

『博古圖録』

になら

って描き起

こし

の綫畫、銘文

の釋文、面徑

・重

・銘文

の字數などを記し、それぞれの鏡に

ついて銘文

の解読を加え

ている。銘文

の釋讀は

『博古圓録』より

一歩進め、

類似の例をあげ

「爾方」や

「安期生」などに解説を

ほどこしている。乾隆帚はその後も古銅器

の收集

に努め、その續編

として

『西清續鑑』甲編

・乙編

(一七九三年)各

二〇卷

が編纂され、兩編とも卷

一九と卷

二〇に古鏡が

一○○面ず

つ掲載さ

れた。さらに寧壽宮

に隱居した乾隆帯が編集を命じた

『寧壽鑑古』全

一六卷は、

一九

一三年

にいた

って上海商務印書館か

ら寧壽宮

の鈔本を用

いて景印された。そ

の卷

一五と卷

=

ハに古鏡

一〇

一面が收録され、銘文

「尚方」・「丹陽」・「龍氏」

などに語注が加えられ

ている。

このよう

な敕撰

の著録

にた

いして、錢站

『浣花拜石軒鏡銘集録』

(一七九七年)は私藏する二五面

の古鏡に

ついて、描き

こし圖、面徑、銘文

の釋文などを記録したも

のである。收録

した鏡

の數は

「西清古鑑』

におよばな

いも

のの、錢站は

『読文解字』や金文

に精逋した古文字學者

であ

ったから、前漢鏡

の抒情的な

「秋風起」・「君有行」・「精白

」・「日有悪」銘

にはじめて注

目し、假借字

に留意しながら正確な釋讀を試みている。また、「元興元年」銘鏡をとりあげ、紀年銘鏡

の存

在を明らかにした意義も大き

い。鏡銘

の本格的な研究は錢培

にはじま

ると

いって過言

ではな

い。

同年に刊行された畢涜

・阮元

『山左金

石志』

(一七九七年)は山東

(魯

・齊

・曹

・宋)の金石文を集めた著録

で、卷五に鏡

の書き起こし、面徑、釋文とその解読を載せる。圖像紋樣

の描き起

こし圖はな

いが、「幽凍三商」・「車生耳」・「濃

(醴)

4

前漢鏡銘の研究

泉」・「五月丙午」

の考證

のほ

か、「淨由」は

「浮游」、

「山

人」は

「仙

人」、「羊」は

「祚」

であ

こと、「見

日之

光」

「見」は

「現」と讀むべきこと、「周仲作竟四夷服」ではじまる七言句

の銘文が毎句末

で押韻し、

『廣韻』

の字音にしたが

って

「服」・「息」・「力」が入聲

「職徳」部、「復」・「熟」が入聲

「沃燭」部

であることを論

じた。鏡銘

の押韻を議論した

のは、これが最初

である。

馮雲鵬と馮雲鴪

の兄弟によ

って編纂された

『金石索』

(一八一二

年)は、古銅器を收録する

『金索』とおもに石刻を收録

する

『石索』とからなり、

『金索』全六卷

のうち卷六に私藏

の古鏡など

一七四面を收録す

る。描き起

こし圖を實物大

に載

せ、『山左金石志』

をうけ

て銘文を詳しく解読して

いる。なかでも鏡

の年代に注意を拂

い、それまでは漢/唐と

いう時代

區分

で濟ませていた

のにたいして、「新銀治竟」や

「新有善銅」銘をもとに新莽鏡を設定し、「大泉

五十」総

の紋樣をも

鏡を同時期

に位置づけた。また、晉

「元康元年」銘

の紀年鏡を紹介し、六朝廻文鏡

や六朝靈鏡などから六朝鏡を設定した

こと、漢鏡

の製作地にも關心をもち、鏡

の入手地を記録し

ていることも新し

い試みである。馮兄弟は通州

(いまの江蘇省南

逋市)の人

で、弟

の鴪が膠州

(いまの山東省高密

・即墨市)長官

の任にあ

つた。このため、鏡

の入手地には任城

(いまの濟寧市)

のほか、濟南

・曲阜

・歴下

(いまの歴城縣)など山東省内がほとんど

である。さら

に、鏡

の入手地に加え

て、盤龍鏡

の銘文

にみえ

る作鏡者

「嬲氏」や

「肯氏」に

ついて考證し、それが山東省内で

つくられたと推測している。ただし、それらは

個々の鏡

について年代

や製作地を考證したも

のであ

って、鏡を分類し、その樣式を論じたも

のではなか

った。

陳經

『求古精舍金石圖』全四卷

(一八

一三年)は、

一○面

の古鏡

について拓本

の描き起

こし圖、面徑、銘文

の釋文、若干

の解諡を載せる。梁廷栴

『藤花亭鏡譜』全八卷

(一八四五年)は、

一四八面

の古鏡を漢、六朝、隋、唐、南唐、宋、日本、

明鏡に分けて著録する。しかし、兩書とも讀むべきと

ころが少な

い。

山東省灘縣の陳介祺は殷周青銅器や古印の收藏家として著名で、所藏鏡の拓本には

「二百竟齋藏竟」印があり、古鏡の

5

東 方 學 報

收藏も誇りとして

いたらし

い。そ

の死後しばらくた

って

『籃齋藏鏡』

(一九二五年)として出版された拓本集は上下二卷か

らなり、上卷に四九面、下卷に五九面を收める。解説は付されていな

いが、拓本を原寸大で印刷しているため、鏡

の紋様

や銘文がほとんどそのままに再現され

て有用であ

る。近年

ふたたび所藏鏡

の拓本が嘉徳オークシ

ョンにあらわれ、それを

購入した辛冠潔は

『陳介祺藏鏡』

(文物出版杜、二〇〇○年)として公刊した。收録する拓本は

一八二面、

『籃齋藏鏡』より

七四面も多く、拓本も精良

であるが、銘文は誤讀が多

い。なお、所藏鏡

一部は日本に流出し、晉

「泰始九年」・「永康

元年」銘鏡などは富岡謙藏

の所藏に歸した。

甲骨

・金文學

に大きな足跡を殘した羅振玉も早くから古鏡

の收集をはじめ、日本亡命中に日中兩國

のコレクシ

ョンをふ

くめて編集したのが

『古鏡圖録』全

三卷

(一九

一六年)である。收録する

一五七面

のほと

んどは拓本

であるが、日本

『泉

屋清賞』ではじま

った

コロタイプ印刷を採用し、富岡謙藏

の私藏する

「建武五年」銘鏡など

=部に寫眞を用

いているのが

目新し

い。鏡

の變遷を細かく跡

、つけるため、上卷には後漢

コ兀興元年」銘鏡から明

「洪武

二二年」銘鏡ま

での紀年鏡三三

面を集成している。それは富岡謙藏

の編年研究に大きく寄與することにな

った。

いずれも圖版だけで解読が付されていな

いが、このとき準備

していた

「集録」と

「鏡話」は

『遼居雜著』

(一九二九年)に收録された。

一九〇あまり

の銘文を集成

した

「集録」は、鏡銘

データベースの先驅けとなり、カー

ルグレン

〔閑pH曹

お。。凸

の鏡銘研究を導

いた。しかし、鏡

出典が示されなか

ったため、ど

のような圖像紋樣

の鏡な

のか、釋文が正し

いのか、參

照できな

いと

いう缺陷がある。

いっ

ぽう

「鏡話」は、五

一條からなる鏡銘

の箚記

である。まず漢から清

にいたる歴代の紀年銘鏡を列擧し、漢

・六朝鏡の紀

年銘の

「丙午」は實際

の干支とは合致しな

いこと、漢の紀年鏡では

「正月」が多

いのに、魏晉以後は特定

の月に固定しな

いことを論じる。

ついで、陽

11羊、詳

ロ鮮、英

-央、凍

11錬、復

11備、濫

-醴、予

闘與、而

“如、昭

ほ照、央

11殃、亟

11

極、州

11周と

った鏡銘

の通假字を同時代

の古典籍

や碑刻から考證す

る。

つぎ

に鏡銘には偏旁や筆晝

の省略が多く、滓

11

6

前漢鏡銘の研究

宰、禽狩

-今守、仙

11山、銅

-ー同、金

硅今などを列擧する。また、作を詐、官を患、久を九、賈を古、敝を幣、姑を固、

歳を倍、且を

具、新を薪と誤

った例も少なくなく、「(幽凍)三商」を

「三羊」・「三剛」・「宮

商」と記した

のも

誤字

う。このほか作鏡者

の姓氏や人名、「青蓋」・「青勝」・「青羊」・「黄羊」・「泰山」などを記した銘文、篆書

や隷書など

の書

體、圖像

の横に書かれた傍題、錢紋、鏡の大きさ、鐵鏡、および古鏡の著録や收藏

の事情に

ついても言及している。羅振

が恵蓄を傾

けて論じた

「鏡話」は、「集録」ととも

に鏡銘研究

の原典と呼

ぶにふさわし

い。それま

での著録はす

々の古鏡に

ついての解読にとどまり、古鏡

の全體を系統的に論じたも

のではなか

ったからである。その後、紀年銘鏡

集成が日本で更新

され

つづけ、假借字

の集成がカールグレン

〔円p昔おp6G。占

や笠野毅

〔一九九三〕に繼承されたも

のの、

『遼居雜著』

が稀覯本

であり、鏡銘

にた

いする關心が中國内外で低

下したこともあ

って、古鏡

の研究者

にもあまり讀まれ

ていないのは殘念である。また、羅振玉が古文獻や石刻資料をもと

に逋假字を考證し、偏

・旁

の省略や誤字と區別した

にた

いして、カールグレンや笠野は音韻論をもとに假借字として

一括している方法論

のちが

いもみのがせな

い。

時期は前後するが、徐乃昌

『小檀欒室鏡影』全六卷

(一九二八年)は、私藏

の古鏡三八三面

の拓本を收録

したも

の。序文

によると、世におこなわれている銘文

の釋讀には多くのまちが

いがあるため、鮮明な拓本を公表することによ

って、それ

を是正しようとしたと

いう。このため本書には原寸大

の拓本だけが掲載され、解説は付されなか

った。卷

一には後漢

「建安元年」・「建安

二四年」銘鏡から呉

・西晉

・唐

・宋

・金

・元

・明

・清代

におよぶ紀年銘鏡を收録し、資料的價値は高

い。そ

の後

、所藏鏡

の拓本三二八枚が日本にもたらされ、末永雅雄

・杉本憲司編

『徐乃昌藏

中國古鏡拓影』

(木耳杜、

九人三年)として影印された。そこには

『小檀欒室鏡影』

に收録されていな

い鏡が六六面あり、す

べてに徐

乃昌

の筆

にな

る詳し

い解誼が加え

られている。

梁上椿

『巖窟藏鏡』全四集六卷

(一九四○~

一九四二年)は、私藏す

る六

二四面

(鑄型をふくむ)の鏡を收録

した圖録。鏡

7

東 方 學 報

の寫眞を實物大で

コロタイプ印刷

し、質量とも

に空前絶後

の寫眞圖録

である。時代順

に先漢式鏡、漢式鏡

(前期、中期、後

期)、隋唐式鏡、宋元明清諸鏡

に分け、各時代

の概読と紋樣

によ

って分類した各鏡式

の解読、鏡

の寫眞と詭明からな

って

いる。早稻田大學

で採鑛冶金學を專攻した梁上椿は、傳統的な金石學

の流れをくむと

いうより、むし

ろ日本の梅原末治ら

と親交があ

って、日本

や歐米における考古學

の研究法に傾倒して

いた。鏡

の直徑をミリ單位で、重さをグラム單位

で正確

に計測した

のは、工學者と

して面目躍如たるも

のがあり、出十地を追求し、銹の状態からそれを裏づけ、銘文

による鏡

命名をしりぞけて紋樣

にもとつく鏡式分類をおこな

ったのは、考古學

の方法に忠實

であ

ったから

であ

る。なお、梁上椿

コレクションのうち四七面は、交友

のあ

った山本信夫を介して、

いま京都

の泉屋博古館に收藏され

ている

〔樋口

・一九九八

/泉屋博古館

・一九九八〕。また、稀覯本

であ

った

『巖窟藏鏡』が邦譯

(田中琢

・岡村秀典譯、

一九八九年)され、梁上椿

の研究

が日本で再評價されるよう

にな

った意義は大き

い。

以上

のような古鏡だけを收録した專著

のほか、古銅器をはじめとする個人

コレクシ

ョンの著録

一部に古鏡を收録した

圖録があ

る。年代順

にそれを示しておこう。

劉心源

『奇觚室吉金文述』全

二〇卷

(一九〇二年)

端方

『陶齋吉金録』全九卷

(一九○四年)

劉喜海

『長安獲古編』全

二卷

(一九〇五年)

張廷濟

『清儀閣所藏古器物文』全

一〇冊

(上海商務印書館、

一九二五年)

陳寶磔

『澂秋館吉金圖』

(北平商務印書分館、

一九三〇年)

劉體智

『善齋吉金録』全二八册

(一九三四年)

劉喜海

の死後に編纂

された

『長安獲古編』は、前漢鏡六面

の描き起こし圖を原寸大

で載せるだけで、釋文や解読はな

い。

8

前漢鏡銘の研究

そのほか

の圖録は拓本を原寸大

で印刷しており、鏡

の紋樣

や銘文がほとんどそ

のまま

に再現され

て、

いまでも利用價値が

い。『奇觚室吉金文述』は卷

一五に漢

・唐

の鏡四二面を收録し、銘文

の釋文と簡單な解読がある。そ

のう

ち後漢

「熹罕

三年」銘獸首鏡と前漢

「先志」銘帶鏡は、はじめて紹介された鏡

である。『清儀閣所藏古器物文』は第四册に古鏡

一七面

とそ

の解詭を、『澂秋館吉金圖』

は古鏡二四面

の拓本を收録する。『陶齋吉金録』

は後漢

「元興元年」銘鏡や呉

「永

安元

年」銘鏡など四面を、上海

の實業家

であ

った劉體智

『善齋吉金録』

は第二一二册から第二六册まで三

一八面

の描き起こし

と拓本

の兩方を載せる。『善齋吉金録』

は樣式から秦鏡、漢鏡、僞新

(王莽)鏡、六朝鏡に時代區分し、紀年銘鏡

によ

って

呉鏡、晉鏡、宋鏡を設定している。銘文は釋讀されていな

いが、

一部に銘文

の解諡があり、「幽凍三商」

「商」を

「金」

と釋し、「尚方作竟佳且好」銘に

ついて

「好」は幽部で

「有」は之部だが、幽部と之部とは押韻す

ることを

『詩經』

や漢

の詩賦から例證している。劉體智にはまた殷周青銅器から鏡

・佛像など

の銘文拓本を收録した

『小校經閣金文拓本』全

一八卷

(一九三五年)があり、私藏鏡に徐乃昌ら

の所藏鏡を加え

て卷

一五と卷

一六に拓本を集大成している。

燕京大學

の容庚は秦漢金文

の字形表

である

『金文續編』

(一九三五年)を編集し、採用した鏡銘

の釋文

一覽を付載

してい

る。容庚

『古竟景』全

一卷

(一九三五年)は、古鏡五八面

の拓本だけを收録したも

のだが、發行部數はごく少數

である。ま

た、古銅器

の金文目録である福開森

(甘巨

ρ

凋Φ薦仁ω8)『歴代著録吉金

目』

(一九三九年)には、鏡銘

の釋文と出典が字數順

に配列されている。

以上

のよう

に、乾隆蒂のころから清朝考證學

の隆盛をうけて漢鏡銘

にた

いする關心が高まり、鏡の綫畫や拓本を收

めた

圖録が相

ついで刊行

されて、研究

の基礎資料が整えられた。鏡銘

の本格的な研究は錢坊

や畢況

・阮元らにはじまり、

『金

索』

では鏡

の細かな年代や出土地などの考古學情報

にも注意された。こうした漢鏡銘を總合する研究は、民國代に羅振玉

「集録」や

「鏡話」として結實

したのである。

9

東 方 學 報

(三)戰前の日本

江戸時代

には、清朝考證學を爰容した狩谷掖齋が漢鏡やその拓本を收集し、松崎慊堂

『慊堂日暦』

(一八二一二~

一八四

四年)は狩谷所藏鏡

の徑と銘文

の釋文を記して

いるが、專論をなす

には

いたらなか

った

〔森下

.二○○四〕。漢鏡

の研究では

むしろ本居宣長門下

の國學者

であ

った青柳種

信が、前漢鏡

の大量

に出土した福岡縣前原市

の三雲南小路遺跡や井原鑓溝遺

跡を現地調査

し、「三雲古器圖考」(一八二二年)と

「同郡井原村所穿出古鏡圖」(一八二一ご年)にお

いて出土鏡

の描き起こし

圖、固形墨による乾拓、出土状況や出土品

の解説、年代考證などの詳し

い記録をとどめたことが注意される。青柳はそれ

の漢鏡が

『漢書』地理志

『魏志』倭人傳など

の史書に記された中國王朝と倭と

の交通を裏

づけるも

のとし

て着目し

た。しかし、青柳

の參照した漢籍が、同時代

の考證學

の金石書ではなく、宋明代

の文人たち

の著した類書が主

であ

ったか

〔岡村

・二〇〇八a〕、漢鏡

の銘文に關心が拂われることがなか

った。

明治には

いると、西洋から考古學

の研究法が導入される。『博古圖録』

『西清古鑑』などを參考

に、東京帚室博物館

に收藏す

る日本出土鏡をはじめて考古學

の方法を用

いて檢討した

のが三宅米吉である。「古鏡」と題する

『考古學會雜誌』

一編

(一八九七年)の論文

では、日本

の古墳から出土した漢

・六朝代

の鏡に

ついて部分名稱を定

め、

『西清古鑑』

の鏡名

を取捨選擇した命名法を試

みた。しかし、三宅

の關心は日本出土鏡

にあ

ったため、中國における金石學

の蓄積を輕視し、

銘文は

「大抵無學

の工人が時

に隨

て定文句を綴り合せたるものなるべし」と斷じた。

明治

から大正に時代が移

った

一九

一〇年代は、日本

の古鏡研究における大きな轉機

であ

った。韓國併合にともな

って朝

鮮總督府を中心にピ

ョンヤ

ン市郊外

の樂浪漢墓

の調査がはじまり、多數

の漢鏡が出土するよう

にな

った。翌

一九

一一年

辛亥革命

で羅振玉が京都

に亡命し、出土資料や金石學

にた

いす

る關心が高ま

った。そして、漢から六朝

にかけての紀年鏡

が相

ついで知られるよう

にな

ったことで、中國鏡

の年代論

に研究者

の關心が注がれ

ていった

のである。

10

前漢鏡銘の研究

中國美術史

の大村西崖

〔一九

一五〕や國文學

の山田孝雄

〔一九

一五~

一六〕は、年代研究

における漢鏡銘

の重要性に着

し、紀年銘鏡を集成した。大村

の集成は喜…平三年

(一七四)から建安十四年

(二〇九)ま

での六面にすぎなか

ったから、十

分な議論は展開

できなか

ったが、山田は銘文を韻文としてとらえ、三字句

や四字句

の單純な銘文がも

っとも古く、武一帝代

に三言や四言

の數句からなる長銘があらわれ、前漢末から王莽代に七言句

が毎句押韻する

「柏梁體」がさかんになり、四

六體がもてはやされた後漢末から六朝代

に四

言句

の銘文が多くな

ったと論じた。次章

で論じるように、こんにち

の知見か

らみれば、そ

の諡は若干

の修正を必要とするが、前漢鏡と

いうも

のが明らかでなか

ったときに、銘文からそ

の實在を想定

し、文學史

の觀點から鏡銘

の變遷を明らかにした意義は大き

い。しかし、その後

の鏡研究が考古學

の紋樣論に偏重してい

ったことから、山田の研究が正しく繼承されなか

ったのは殘念

である。

金石學

の該博な知識をもと

に、考古學

の方法から鏡の年代をはじめて議論したのは、羅振玉らと親交

のあ

った富岡謙藏

である。まず

「始建國二年

(一〇)新家尊」銘獸帶鏡や

「王氏作竟…多賀新家」・「新有善銅」など

の銘文をも

つ方格規矩

四神鏡を王莽代に位置づけた

〔富岡

・一九二○

・四〇~四三頁〕。

ついで

「元興元年五月丙午

日」銘柿獸鏡

について、五月丙

午は鑄造

の吉辰

で實際

の干支を示したも

のではな

いとし、呉の元興元年

(二六四)読を退けて後漢

の元興元年

(一○五)に

比定した

〔同

・一二五~

一三三頁〕。さらに

「永康元年

(一六七)正月丙午

日」銘醜獸鏡

「中平口年

(一八四~

一八九)正月丙

日」銘四獸鏡をあげ

て坤獸鏡が後漢中期

に出現したことを補強し、漢末から呉

・西晉

・劉宋代

の紀年をも

つ神獸鏡をも

とに、神仙思想

のも

てはやされた六朝代

に祚獸鏡

が盛行

したと論じた

〔同

・一三~三八頁〕。同じよう

に畫像鏡

ついて

も、圖像

の樣式をもとに後漢から六朝初期

のも

のと推測し

ていたが、奈良縣佐味

田寶塚古墳

の畫像鏡

「保」

の字があ

ことに着目し、それが後漢

の順帚

(一二五~

一四四年)の諱

であることから、三國ある

いはそれ以後

に下る

ことを考證

た。また、畫像鏡

の出土地や

『金索』所收

の畫像鏡に

「呉胡傷里」

の銘があること

から、その製作地を論じたことも以前

一ZI

東 方 學 報

の研究

には

みら

れな

い覗角

であ

った

〔同

・二〇八~二二五頁〕。

いっぽう、福岡縣前原市

三雲遺跡と春日市須玖岡本遺跡から出土した草葉紋鏡や異體字銘帶鏡に

ついて、銘文

の字形が

中國出土

の前漢代

の瓦甎と類似し、銅合金

の成分分析では六朝代

の鏡より錫

の含有比が多

いことから、富岡はそれら

一括

の出土鏡を王莽以前

の前漢代に位置づけた

〔同

七五~二〇七頁〕。さらに未定稿

「蟠蟷鏡考」にお

いて、從來ほとんど

著録されていなか

った

「與

天地相翼」・「愁思」・「大樂貴富」などの銘文をも

つ蟠嬌紋鏡や

「見日之光」・「大樂貴富」など

の銘文をも

つ蟠龍紋鏡を紹介し、紋樣表現が先秦時代

の銅器に類似すること、銘文が草葉紋鏡や異體字銘帶鏡と共逋す

こと、雷紋鏡と同じように匕面縁をも

つことをあげ、それらも前漢代に位置づけた

〔同

・二二六~二三六頁〕。

日本出土

の三角緑聯獸鏡

ついても、富岡は獨自

の年代論を展開した。最初に發表した

「日本出土

の支那古鏡」(一九

六年)では

「銅出徐州、師出洛陽」銘をとりあげ、漢代

の彭城國が魏晉代に徐州と改名

され、幾多

の變遷を

へて劉宋

の永

初三年

(四二〇)に徐州彭

城郡と改められた

こと、鏡匠を

いう

「師」は晉

の祗司馬師

の諱

であるため晉代

ではその字を避

ていたことから、そ

の鏡を劉宋

の初期

に位置づけた。また、群馬縣芝崎

(蟹澤)古墳から出土した

「口始元年」銘鏡を

劉宋

の泰始

元年

(四六五)に比定

し、その年代觀を補強した

〔同

・二五~二九頁〕。しかし、そ

の後、前漢末より用

いられて

いた

「雛陽」の表記を魏代に

「洛陽」と改

めたこと、碑獸鏡の起源は後漢代

にさか

のぼることから、その銘文をも

つ三角

縁聯獸鏡を魏代

に訂正し、「口始元年」銘鏡を西晉

の泰始元年

(二六五)に改

めた

〔同

・三〇六~三

一七頁〕。なお、「口始

年」は

いまでは魏

の正始元年

(二四〇)であることが確かめられている。

富岡

『古鏡

の研究』

の序文

にお

いて、内藤湖南は

「(鏡の)研究者は、宜しく豐富なる文獻上

の智識を具して、之を利用

すること左右源に逢

ふが如くする

の素養なかるべからず、而して有史以前

の遺物を研究すべき普通考古學

の方法

によりて

のみ之を爲さんことは、頗ぶる迂闊且

つ危險なりとせざるべからず」と述

べ、富岡

の文獻學的方法を高く評價する。同書

12

の序文

で濱

田耕作がまた、鏡

の研究方法として、第

一に銅合金

の成分分析、第二に形と紋樣

の型式學的研究、第三に銘文

の文獻學的研究をあげ、富岡は第三

の文獻學的研究よりはじめ、第

二の型式學的研究

へと展開したと指摘する。漢鏡の銘

文を古文獻と

つきあわせて考證した富岡

の研究は、濱

田のことばを借りれば、確かに從來

「典籍

の索引的繙讀を事とす

る徒輩

の能くする所」

ではなか

ったかもしれな

い。しかし、カールグレン

罠曁①身『窪

一爲凸

が逐

一あげ

つらうよう

に、富

岡の鏡銘

の釋文

には誤讀が少なくなか

った。富岡

のめざした目標は考古學

の方法

による鏡式

の設定とその編年にあ

って、

々の銘文

の釋讀に心血を注

いだ中國

の金石學者とはベクトルがちが

っていた

のである。

前漢鏡銘の研究

(四)戰前の歐米

歐米で中國古鏡を最初に詳

しく論じた

のは、中國の税關に勤めるかたわら中國史や文物を研究し、

のちに

コロンビ

ア大

學教授とな

ったドイ

ツ人

のヒルト

日耳汀

68

愚Oc。歯㎝卜。〕である。彼は

『博古圖録』・『西清古鑑』・『金石索』

など

の金石

や古鏡をめぐる傳承を集めた

『天中記』・『淵鑑類函』・『格知鏡原』など

の類書を博搜し、銅鏡

の歴史、日本や申央アジ

アにおける中國鏡、鏡

の用途、鏡

の紋様などに

ついて多角的に整理した。ドイ

ッのヴィルヘルム

〔亳蕁⑦巨

一㊤邑

『博古

圖録』から

『金石索』

にいたる金石書をもとに歴代

の鏡を概觀し、唐以後

の鏡銘のいく

つかを解釋した。

その後しばらく目立

った研究はなか

ったが、

ロンドン大學

のイ

ェッツ

2①諺

ちω9

ωOム・。〕は、

ユーモルフォポ

ロスの所

藏する五八面

の古鏡を圖録に編集した。富岡謙藏らの編年を參考

に時代區分し、銘文

の釋讀と解読をほどこしている。日

常的

に漢字を用

いている我われには意外なことだが、イ

ェッツは銘文

「宜子孫」が

「子孫

に惠まれる」か

「子孫

の利盆

になる」と

いう意味か

について詳論し

ている。これにた

いしてカー

ルグレン

〔囚鋤二σq憎魯

ら逡に窃山Φ〕は

「宜」には

「ふさ

わし

い」と

いう意味もあると論じたが、日本語では

「子孫に宜し」と

いう訓讀

ですむことでも、英語

に翻譯す

るときには

13

東 方 學 報

むずかしい問題があるようだ。

スウ

ェーデンのカールグレンは、中國語の近代言語學

の方法を確立し、とくに上古音

・中古

音の音韻史を體系化した

とで知られる。みずから創案した中國語

「單語家族」概念を用

いて、周代

の韻文である

『詩經』をもと

に上古音を復元

し、

つづ

いて羅振玉やイ

ェッツの研究に刺激されて漢鏡銘

の分析

に着手

した。漢代は上古音から中古音

への過渡期

にあ

り、鏡銘

の押韻はそ

の同時代資料として重要な位置を占めるからであ

る。中國の金石學では鏡銘

の押韻が檢討されていた

のの、それを體系化

し、音韻史

のなかに位置づけることはなか

った。また、銘文

の釋讀は中國や日本

でなされ

ていた

が、内容

にたち

っての解釋は不十分なままであ

った。そこで、カー

ルグレン

〔国巴。q同自

一㊤ω凸

は羅振玉

「集録」に新

資料を加え

て二五七種

の鏡銘を集成し、それぞれの釋讀、押韻、假借、字句

の解諡をおこな

った。緻密な言語學

の理論を

とり

いれた體系的な鏡銘研究は、個別

の銘文考證をのぞけば、

いまなおそれを批到な

いしは繼承する研究があらわれてい

い。しかし、問題がな

いわけではな

い。第

一に、年代に

ついて考慮

していな

いこと。す

でに山田孝雄

〔一九

一五~

一六〕

が論じて

いたよう

に、前漢から六朝までの五〇〇年あまり

のあ

いだ

に銘文

の詩形は大きく變化したが、鏡銘

の變化と文學

史におけるそ

の意義を論じることはなか

った。鏡銘

の配列も年代順

ではな

いから、文學史

の研究者がそのまま資料として

利用することはむずかしか

った。第

二に、銘文と圖像紋樣とを照合していな

いこと。羅振玉と同じよう

に、銘文

の考證は

すべて古典籍

に依據し、鏡

の圖像紋樣にはま

ったく言及していな

い。該當す

る銘文をも

つ鏡がどのような種類なのか、

まではそれを探索することすら困難

で、考古學にお

いて利用しにく

い論文

であ

った。

中國文物

の海外流出が

いちじるしくな

った

一九三○年代には、歐米や日本でも古鏡

の圖録が相

ついで編纂された。しか

し、鏡銘

の研究はカールグレン以後、大きな伸展はなか

った。そ

のなかで注目でき

るのは、アメリカ

のホールによる漢鏡

の文化史研究

である。ホー

日巴

一〇ω凸

はボ

ストン美術館

に所藏する漢末

・三國代

の重列式禪獸鏡

の圖像と銘文を考證

一Z4

し、銘文の

「五帚」、銘文や圖像にあらわれる

「伯牙」と

「黄帝」、銘文

「幽凍宮商」や

「幽凍三商」について思想史上

に意義づけた。また、古文獻

・出土鏡

・鏡銘を總合し、とくに鏡をめぐる習俗に

ついて、神獸鏡に

「黄帚除凶」

の銘があ

るよう

に、漢代

では鏡の背面

の圖像

に辟邪

のはたらきがあるとみなされたが、六朝代には目にみえな

い悪靈

でも鏡面に映

しだして退治すると考えられ、鏡面のはたらきが重硯されるようにな

ったと論じた

田贄

6も。凹。それは戰後

の圖像學

の先

鞭を

つける研究であ

った。

前漢鏡銘の研究

(五)戰後における鏡銘の分類研究

富岡謙藏

にはじまる漢鏡

の樣式編年

は、梅原末治

や梁上椿らに受け繼がれて

いっそう洗練され、大戰が終わ

るころには

一○○年くらいの時問幅で編年

できるよう

にな

っていた。そのなかで、圖像紋樣と同じよう

に鏡銘を分類しようとする試

みがはじま

った。

日中戰爭中に古鏡

の收集と研究を進めていた梁上椿は、臺灣

に移

ってから銘文

の表現内容による分類を發表

した

〔一九

一〕。すなわち、先漢式期

には情感膾答類

・慶祀頌疇類

・修養規箴類、漢式期には記念鱠答類

・吉祚慶濤類

・歌頌宣揚

・祚話類

・紀年類

・紀事紀名類があ

るとした。それ以前

の考證學では個

々の銘文

について釋讀するだけ

であ

ったから、

それは内容から銘文を體系的

に分類す

る試

みとし

て重要

であ

る。しかし、梁

のいう先漢式時期はすべて前漢代

に下り、示

された五七例

のほと

んどは前漢鏡

の銘文である。しかも

一つの銘文に肺話

や吉群句など異なる内容

の句

が併用されること

がふ

つう

で、有意な分類にはならず、そ

の後に影響を與えることもなか

った。

臺灣ではそ

の後、阮廷綽

〔一九八二■

九八三〕が新中國から報告された鏡銘などを加え、羅振玉

「集録」を補う鏡銘

目録を作成した。

つづ

いて林素清

〔一九九

一~

一九九九〕が漢鏡銘

の考釋を進めるかたわら、新出資料をふくめた鏡銘

のデ

15

東 方 學 報

ーターベース

「兩漢鏡銘集録」を作成した。それは中央研究院歴史語言研究所

のホームページ

「簡帛金石資料庫」に現在

一七四五例を公開し

ている。こ

「資料庫」は戰國から漢代

の出土文字資料全體

一字檢索が可能で、鏡銘に限らず各種

の金石資料とも對照できるのが有用である。三角緑騨獸鏡をはじめとする日本出土鏡

の銘文が收録されていな

いも

のの、

このような漢鏡銘

の電子化

が急速

に進行しているいま、それを

いかに

「讀む」

のかが問われよう。

いっぽう梅原末治

に師事

して考古學研究を進め

ていた樋口隆康

〔一九五三〕は、例數

の多

い銘文を完全な形に校勘

のう

え二九種

に分類し、それと鏡式と

の相關を分析した。銘文形式と鏡式と

の相關を數量的に分析したことも、その發表年を

考え

ると、分析

の科學性を示す斬

新な手法

であ

った。「新作明竟」

ではじまる銘文

Uは三角

縁禰獸鏡だけ

に用

いられた

が、ほと

んどの銘文は同時期

に竝行する複數

の鏡式にまたが

って用

いられたから、銘式

の流行が時期

によ

って變化するこ

とが示された。これによ

って銘文もまた單位紋樣と同じような漢鏡の屬性とみなす

ことが可能

にな

った。

近年

では三木太郎

〔一九九八〕が中國古鏡

・金

石銘文

一覽と注釋を作成し、五士

晋順に配列した。また、林裕己は

ンピ

ューターを用

いて

一萬件以上

の鏡銘

のテキ

スト

・データベースを作成し、鏡

の年代

に留意しながら文字や語句單位

相關關係を分析して

いる。樋口の分類

では例數

の多

い銘文を校勘

のうえ完全な形に復元したのであ

るが、林は三角縁祠獸

の銘文が漢鏡

のそれを踏襲しながら部分的に

「甚大好

(エ)」や

「生如金石」など

の特異な語句

に置き換え

ていること

〔林

・一九九八〕、樋

口分類

の銘文

Kでは末句

「壽如金

石」は

「爲國保」と

つづき、銘文

Lでは

「如侯王」と

つづく

こと

〔林

・二〇〇六〕などを明らかにし、

このよう

な銘文

の細かな差異

が鏡

の年代差や製作者

のちが

いを反映すると論

じて

る。報告

の釋文をそ

のまま採用したため、釋讀

に問題

のある銘文

がふくまれ、例數

の少な

い銘文が漏れ落ちて

いると

いう

問題があるも

のの、林

の研究は

いまも繼續中で、さらなる進展が期待できる。

16

前漢鏡銘の研究

(六)鏡銘の言韻論と文化史的研究

カールグレンの音韻論

は日本

の中國語學者にも大き

な影響をおよぼし、その

「單語家族」論

は藤堂明保

〔一九六五〕に

繼承された。藤堂は漢鏡銘を研究封象にしたわけではなく、王力

の同源字論

〔郭錫良

・一九八⊥ハ〕やそれをふまえた白川靜

〔一九九六〕の文字論と意見が分かれるところが少なくないが、藤堂

の成果を用

いて西田守夫

九六八〕は神獸鏡

「白牙

擧樂」銘を考釋

し、笠野毅

〔一九八〇~

一九九五〕もさまざまな銘文

の釋讀に援用した。また、羅振玉やカールグレンは獨

の音韻論

にもとつ

いて漢鏡銘

の假借字を集

めていたが、笠野

2

九九三〕も藤堂

の成

果をもと

に會意文字

における扁旁

など

の省略

された文字も

ふくめて三七七例の假借字を集成した。

中國

の詩文には、音律を整えるため平聲と上

・去

・入の仄聲とを對立させる罕仄と

いう手法が用

いられる。佛典の翻譯

がさかんになる五世紀ごろに聲調が自覺されるよう

になり、唐代

に近體詩が成立す

ると、甼仄

の配列法が定ま

ったとされ

る。その原則は、初句

における偶數字

の罕仄を逆にし、對句

は互

いに配置を逆

にすること

であ

る。音韻學

の森博逹

〔二〇

〇三〕は、前漢末に出現す

る七言句

の銘文

が、毎句

二字目と六字目

の卒仄が

一致する

一六對」

ではな

いも

のの、毎句押

韻するだけでなく、毎句

二字目と四字目

の平仄が異なる

「二四不同」

の原則を守

っていることを指摘した。もし紀元前後

に平仄法が成立し

ていたとすれば、中國文學史

のうえで重要な問題提起になるのだが、次章

で檢討す

るよう

に、本集釋

集成した銘文を通覽し

てみると、「二四不同」をふくめた罕仄法に邇合している銘文はごくわずかしかな

い。とは

いえ、

鏡銘

の韻律

ついては未開拓

の分野であり、今後

の檢討が必要であろう。

鏡銘を中國文學史

のなかに位置、、つける研究は、日本文學

の山田孝雄

〔一九

一五~

一六〕が先鞭を

つけた後、しばらく途絶

ていたが、戰後

の日本では中國文學

の研究者から論文が提出されるよう

にな

った。

小川環樹

〔一九五八〕は、鏡銘は脚韻をふむ韻文

一種

であり、前漢鏡

では三字句と四字句

の銘文が多く、後漢鏡

は七

17

東 方 學 報

字句

の銘文が多

いこと、それは漢代

における賦と詩

の形式發展にほぼ竝行していること、押韻

の形式が三字

・四字

・六字

では隔句韻、七字句

では毎句末

の押韻

になること、五字句

の銘文が乏し

いことに注目した。このような詩形

の變遷に

いては、次章で詳しく檢討した

い。

前漢鏡

の銘文

には戰國から前漢代

にかけ

て成立した

『楚辭』

の影響がみられる。とくに

「精白」銘

(銘文二○五)の文體

『楚辭』離騒

に類似す

ることが孫星衍

『續古文苑』卷

一四

(一八〇七年)によ

って指摘

されて以後、曇

ったまま顧みられ

いで

いる鏡

の悲

の賦であ

ることはほぼ逋諡とな

って

いる

〔駒井

・一九五三〕。西田守夫

〔一九六四〕は同種

の銘文を多數

比較しながらより完全な釋文

に復元し、内容的

にも董仲舒

「士不遇賦」や司馬遷

「悲士不遇賦」、さか

のぼ

っては賈

「弔屈原賦」・「旱雲賦」など失意

の託された賦

の系統であることを指摘した。同じころ福岡縣立岩甕棺墓

でこの種

銘文をも

つ鏡を發掘した岡崎敬

〔一九七七〕は、西田や楚辭文學者

の目加

田誠

の協力をえ

て銘文を訓讀

し、この種

の銘文

がち

ょうど楚辭文學が流行し整理されたとき

のも

のであること

に注意した。楚辭文學者

の三澤玲爾

〔一九九四〕はまた、

蟠嵎紋鏡

「大樂貴富。千秋萬歳、宜酒食。」

(銘文

一〇五)など吉鮮的な銘文

「愁思悲

、願見怨君不読。相思願毋絶。」

(銘文二〇三)など

「棄婦歌」と

いう

べき抒情的な銘文を總合的

に理解する必要があり、楚辭系

の銘文も親

しみやす

い慣用

句をふくむ祀編

のための歌謠であ

ったと主張

した。

「精白」銘

とほ

ぼ同時

に、樂府歌

に類似

した

「道

路遠、侍前希。昔同起、予志悲。」

(銘文二二四)や

「君有

行、妾有憂。行有日、反毋期

。願君強飯多勉之。仰天大息、長相思。毋久。」

(銘文三〇八)など出征兵士を途

る妻

の悲嘆

つづ

った鏡銘があらわれる

〔内野

・一九八七

・一○

一~

一〇二頁/石川

・一九九〇〕。樂府と

は宮廷

の音樂を

つかさどる役所

で、民聞に流行し

ていた歌謠を

ひろく採集したため、そこで歌われた歌辭を指すよう

にな

った。漢代

に鏡は

一般にひろく

普及し、その銘文に民聞

の歌謠

がとり

こまれたと

いう

のであ

る。

IS

前漢鏡銘の研究

後漢鏡

になると、圖像に西王母や東王公があらわれ、禪仙世界を描寫した銘文が多くなる。

これを紳仙思想の反映とみ

るだけでなく、玉田繼雄

〔一九八

一〕は鏡

の銘文と樂府歌辭とを對比しながら肺仙思想

の受容

の變遷を檢討した。すなわ

ち、前漢代の樂府には登仙

の希求と延壽長生

への願望とを述べた祚仙的祀頌語がみられるのにた

いして、鏡

の銘文は延壽

よりも俗利的な貴富大樂の吉祚語が中心で、神仙韵かかわりはみられな

い。後漢代

になると、樂府にお

いて肺仙的祀頌語

がさらに發展して禪仙世界や仙游を主題として歌う歌辭が出現し、鏡

の銘文にも同樣

の状況がみいだせる。と

ころが後漢

末期になると、樂府

にお

いて人

の生命

のはかなさ、瀞仙を追究す

ることの虚しさを嘲笑する語が登場し、鏡の銘文

に神仙

的吉祚語が減少消失すると

いう。樂府

には年代

や作者

の疑わし

い歌辭が少なくな

いから、樂府文學

の變遷を考えるうえ

同時代資料としての鏡銘は重要な手がかりとな

るだ

ろう。

漢鏡銘はそ

の意味内容が時期ごとに大きく變動している。わたしは前漢鏡を四期

に區分し、前

二世紀後牛

の漢鏡

二期

は現實韵な快樂を希求する銘文、前

一世紀前牛

の漢鏡三期には

『楚辭』

の系統をひく悲哀

の銘文、前

一世紀後牛

の漢鏡

には漢鏡

二期

にあらわれたような現實

の快樂を求める銘文、

つづ

いて紳仙思想や儒敏思想をあらわした銘文、王莽

の政

理念を唱えた銘文

に變

化し

ていることを明らか

にした

〔岡村

・一九八四〕。また、漢鏡四期に出現す

「長保

二親」

「長宜子孫」など

の吉祚句

は、儒教國教化にともな

って儒家

の家族道徳

が廣範

に受け

いれられたことを示している。この

ような銘文内容

の變遷に

ついては、本論文

の第三

・第四章にお

いて詳論した

い。

漢代

に鏡が

いかなるも

のとして觀念され、その觀念はなににもとつくか。また鏡を服用すれば、なぜ福祿壽を中心とす

る願望が實現

でき

るのか。これを自

問した笠野毅

〔一九八〇

九八三〕は、「吾作

明鏡自有紀」や

「黍言之始自有紀」

(銘

文四二九)などではじまる銘文に

いう

「紀

(道、方、常、眞)」、ある

いは

「清且明」や

「清明」など鑄造にかかわる内容

の銘文

について、緯書を

ふくむさまざまな文獻を渉獵して考證し、

つぎ

のよう

に解答した。鏡は剛強鋭利な金屬

の性質、

19

東 方 學 報

とりわけ鏡面

の照明

のため

に純清な素材が十分に精錬

調合

されて鑄造

された結果、清明

なる天

の氣

に逋じる規範法則

(紀)を自ら

に備えたも

のと考えられ、こ

の規範によ

って災異が退けられ、福祿壽など

の世俗的な幸福がえ

られると觀念

されていた。その規範とは、天文

・暦數

・道術

・醫方

など廣義

の方術

の法

や徳とかかわり、天に象徴される天地自然

の法

でもある。そし

て天人相感

の考え方によ

って、清明なる鏡を服用すれば、そこに内在する天命を受け、世俗的な願望を

も實現される、と。これま

での鏡やそ

の銘文

の研究は、表面的な意味

の解釋にとどまり、そこに内包する象徴的な意味を

體系的に解明す

る試

みはなか

った。漢代

には清明なる鏡を歌う銘文

のほかにも多

樣な内容

の銘文があるから、笠野

の研究

をふまえて漢鏡銘をでき

るだけ網羅

し、鏡に内包される漢代

の觀念を總合的に分析する必要があろう。

清朝考證學

の流れをうけ

て羅振玉が

「集録」と

「鏡話」をまとめ、音韻論からカールグレンが漢鏡銘

の解釋を大成した

が、戰後は漢鏡

の編年研究はもとより、銘文

の研究もまた日本

の研究者が世界をリードしている状況

にある。なかでも漢

鏡銘

の電子化が進んだこと、中國文學者

が文學史

の視點から鏡銘と

『楚辭』や樂府とを比較したこと、考古學者が音韻論

から銘文を釋讀し、思想史

の領域に踏

みこむよう

にな

ったこと

は、

一九八○年代から

の新し

い研究方向と

して特筆

でき

る。しかし、考古學と文學

・哲學と

の共同研究は、なお不十分である。文學や哲學

の研究者が利用し

やす

い形

で鏡銘を集

成することが考古學

に課せられた當面

の課題であり、そこから銘文を

いかに

「讀む」

のかを考え

ていく必要があろう。

20

二 詩形と押韻

漢鏡

の銘文は、

『詩經』

『楚辭』など傳世文獻

のなかに記録され

てきた雅な詩歌とちが

って、人びとのあ

いだ

にも

はやされながらも時代

の流

れととも

に消え

ていった歌謠

であ

る。幸福

・出世

・長生など福祿壽を願う逋俗的な文言がほと

んど

で、文學作品としては取

るに足りな

いも

のとみなされ

てきたが、韻文

であ

る漢鏡

の銘文

は、音韻論

においては上古音

から中古

音への過渡期

にあり、制作年代

のよくわからない傳世文獻

の詩歌よりも確實な同時代資料として重要である。

詩形

の變遷

ついて、日本文學

の山田孝雄

〔一九

一五~

一六〕は、單純な三字句

や四字句

からな

る銘文

が漢初

にあらわ

れ、武帚代に三言や四言の數句からなる長銘となり、前漢末から王莽代に七言句

が毎句押韻する

「柏梁體」が盛行し、四

六體がも

てはやされた後漢末から六朝代

に四言句

の銘文が多くな

ったと論じた。その後、小川環樹

〔一九五八〕は、鏡銘

は脚韻をふむ韻文

一種

であり、前漢鏡

では三字句と四字句

の銘文が多く、後漢鏡は七字句

の銘文が多

いこと、それは漢

における賦と詩

の形式發展にほぼ竝行し、押韻

の形式が三字

・四字

・六字句

では隔句韻、七字句では毎句末

の押韻

にな

ること、五字句

の銘文が乏し

いことに注目した。

前漢鏡銘の研究

(―)

『楚辭』のリズ

ムと鏡銘

戰國時代

の楚

の屈原

に假託して歌われた

『楚辭』は、

『詩經』

の詩形が四言を基本とす

るのにた

いして、長短句をまじ

た獨特

の詩形をも

っている。その特徴

のひと

つが、助辭

「兮」を加え、「アー」と音を引

いてリズ

ムを整えた

こと

ある。小南

一郎

〔一九七三

.五九~六〇頁〕は

『楚辭』

の詩形を

つぎ

のよう

に分類して

いる。すなわち、も

っとも早

い時期

の作品と考えられる

「九歌」にお

いては

「兮」字をはさんで上下がバランスを取

っている句形

皿 口口兮口口 桂櫂兮蘭柵『(湘君)

皿 口口口兮口口口 被石蘭兮帶杜衡

(山鬼)

とバランスの取れていな

い句形

B 口口口兮口口 聞佳人兮召予

(湘夫人)

東 方 學 報

の二種が基本である。それより後出する

「離騒」では、このB形式を發展させた句形

C 口口口○口口兮 惟草木之零落兮

口口口○口口 恐美人之遲暮

のよう

に二句對

にしたも

のを基本形式として

いる。

この○

のと

ころには、「其」、「以」、「于」、「之」など助辭的な語がは

いる。「九歌」

B式

「兮」字は、そこで音を引くこと

によ

って未分化な助辭として働

いていたが、「離騒」のC式

ではそ

れぞれの意味にしたが

って特定

の助辭

に定着

した、と小南は指摘する。

劉邦を

はじめとする漢王朝

の創業者たちは、多くが楚

の故地に出自す

ることもあり、

『楚辭』

にみるような楚聲に親し

んだ。高祀には

「大風歌」と

「鴻鵠歌」

の二首

が現存する。そのうち

「大風歌」

(『史記』高祗本紀)は、高祗が淮南王黥布

を討

っての歸途、故郷

の沛

で開

いた宴席

で児童百

二十人に唱和

させたも

のとされ、高ぶ

った感情をこめ、三言

+兮

+三

言、四言

+兮

+三言、四言

+兮

+三言と

いう短促な

リズ

ムとな

っている

〔鈴木

・一九六七

・一一~

一六頁〕。これに先行す

項羽の

「垓下歌」

(『史記』項羽本紀)も、三言

+兮

+三言と

いう

「九歌」韶形式を四句連ねて

いる。項氏が代

々楚將

であ

たことは改めていうまでも

い。

時代が下

って、武帚

の作と傳え

「秋風辭」

(『文選』卷四五)も、三言

+兮

+三言を基本形とし、四言

+兮

二言を二句

まじえた

『楚辭』

のリズ

ムをも

っている。これを武帚

の作品と

みることには異論があるが

〔同

・一六~二六頁〕、武帚

の作

と傳え

「天馬歌」(『史記』樂書)や

「瓠子歌」

(『史記』河渠書)も

「九歌」

皿形式と同じ三言

+兮

+三言を基本形とするこ

とからみれば、楚風

の詩歌が武帝のころまで流行して

いたことは認められよう。

ひるがえ

って鏡銘をみると、鏡に銘文が鑄

こまれるようになるのは、前

二世紀前牛

の漢鏡

一期からである。細

い體躯

龍がとぐろを卷

いた蟠第紋鏡は、おもに淮河流域から長沙にかけ

ての東南中國

に分布し、楚文化

の傳統をとどめた楚式鏡

前漢鏡銘の研究

とみなされている。鈕座

の周りにめぐらされた篆書體

の銘文

一○

一・一〇二は、ふつう

「長相思」とあるところを

「脩相

思」とし、銘文

一〇三は

「長毋相忘」を

「脩毋相忘」としていることから、淮南王安が父の諱

「長」を避けて

「脩」と

たも

ので、劉安

の在位した前

一六四年から前

一二二年までのあ

いだに淮南國

で製作された鏡と考證されている

〔高去尋

一九四

一〕。それは、

こう

した銘文をも

つ蟠蟷紋鏡

の分布

に加え

て、前

二世紀中ごろの型式

であ

ることからも裏

づけられ

る。淮南國

は戰國時代

の楚が最後

に都を置

いた壽春

にあり、楚文化

の傳統がも

っとも濃厚

に殘存

し、淮南王安は武帚の命

により

『離語傳

(傅ー賦の誤りか二

つく

ったと

いう

(『漢書』淮南王傳)。このような

「長」を避け

「脩」とした漢鏡

一期

の銘文

一〇

一・一〇二は三字と四字

の雜

言體

で、銘文

一〇三は四字句からなる。「長」を避諱した銘文

のほかにも、助辭

「兮」を插入した句は

一例もなく、『楚辭』と漢鏡

一期

の銘文と

のあ

いだ

に詩形

の共通點は少な

い。

しかし、漢鏡

二期

になると、

『楚辭』

の形式になら

ったも

のがあらわれる。吉林省東遼縣彩嵐墓地から出土した迚弧紋

緑銘帶鏡

〔張英

九九〇

・圖六〕の銘文

二四八は、小南

のいう

「九歌」皿形式と同

一である。すなわち、

恐浮雲兮敝白日。

淨雲

の白

日を敝ふを恐る。

復請美兮舁素質。

清美に復さんとするも素質を舁ふ。

行精白兮光蓮明。

行ひ清白なれば光は明を蓮らす。

謗言厭兮有何傷。

謗言厭くとも何をか傷む

こと有らんや。

のよう

に三言

+兮

+三言を基本形としている。そして、上二句

「日」と

「質」とが質部で押韻し、第

三句

で換韻して下

二句

「明」と

「傷」とが陽部

で押韻する二句對にな

っている。前

一世紀

の漢鏡三期や漢鏡四期にも銘文三○九や銘文

二○のよう

に三言

+兮

+三言を基本形とする銘文がみられるが、いずれも四句な

いし六句す

べてが同

一の韻

である。その

よう

に毎句押韻

した銘文は、「九歌」昭形式から派生した新し

い詩形

であろう。現状

では

「九歌」昭形式をも

つ鏡銘

はわ

東 方 學 報

ずかに本例だけだが、この連弧紋緑銘帶鏡は前漢

の都長安で製作されたも

のであ

るから

〔岡村

・二〇〇八b〕、そ

の詩形が都

でもおこな

われて

いたこ

かる。

た、

銘文

五は

黎精白而事

君、

怨法驩之拿明。

很玄錫之流澤、

恐疎遠而日忘。

懷糜美之窮皚、

外承驩之可読。

慕霙佻之靈景、

願永思而毋絶。

と復元され、

内請質以昭明、

光輝象夫日月。

心忽穆而願忠、

然壅塞而不泄。

懷靡美之窮皚、

外承驩之可説。

つか

清白を黎くして君に事

へしも、

歡を法がれ明を算はれるを怨む。

玄錫

の流澤を急し、

疎遠にし

て日び忘らるるを恐る。

靡美

の窮皚を懷ひ、

歡を承くこと

の悗

ぶべきを外にす。

霙佻たる靈景を慕ひ、

願はくは永

へに思ひて絶ゆる毋らんことを。

二○四

は、

内は清質

にし

て以

て昭明なり、

光輝は夫

の日月に象たり。

心は忽穆とし

て忠を願

ふ、

然れども壅塞して泄らず。

靡美

の窮皚を懷ひ、

歡を承くこと

の悗ぶべきを外にす。

圖1蟠 蠣紋鏡 皿式の2種 左:西 安 市鄭 王莊95號 墓 〔程林泉 ほか2002・ 圖7の2〕,右:泉 屋博古

館藏(岡 村拓 本)

前漢鏡銘の研究

慕窒佻之靈景、

窒佻たる靈景を慕ひ、

願永思而毋絶。

願はくは永

へに思ひて絶ゆる毋らんことを。

と復元される。また、前

一世紀はじめの漢鏡三期

に下るが、西安市紅廟村二○號墓

の重圈銘帶鏡

(異體字銘帶鏡)

物管理委員會

-

九五九

・圖版二三〕などにみる銘文

三〇六は

姚皎光而耀美、

挾佳都而承閲。

懷驩察而惟豫、

愛存祚而不遷。

得竝執而不衰、

精照折而侍君。

姚たる皎き光

やきは美を

耀

かし、

佳き都を挾んで聞を承く。

觀察を懷くは惟だ予

のみ、

存祚を愛して遷らず。

竝に

ひを得

て衰

へず

清らかに照らし

かにして君に侍す。

〔陝西省文

と、いずれも小南のいう

「離騒」 すなわち、それらは

口口口○口口、

口口口○口口。

一聯とす

る基本形

で、助辭

「兮」を用

いず、0

のところに銘文

二〇五では

「而」と

「之」、銘文

二〇四では

「以」・

「夫」・「而」・「之」、銘文三○六

ではすべて

「而」と

いう助辭を

いれている。

『楚辭』離騒

では偶數句

で押韻し、四句ごと

に換韻す

るのがふ

つう

で、銘文

二○五では第二

・第

四句

「明」と

「忘」は陽部、第六

・第八句

「諡」と

「絶」は月部

で、「離騒」と同じよう

に換韻する。これにた

いし

て銘文二〇四は偶數句

「月」・「泄」・「詭」・「絶」がす

べて月部

で押

韻し、銘文三○六は第

・第四句

「問」・「遷」は元部、第六句

「君」は文部で叶韻して

いる。ただし、銘交二○四と

東 方 學 報

銘文

二○五とは、第

五句から第

八句ま

でが同文

であり、鏡

の型式學をもとに銘文

の出現順序をみれば、銘文二〇四の下四

句は銘文

二○五の下四句をそのまま借用したことがわかる。

っまり、『楚辭』離騒や銘文二○五

のよう

に四句ごと

に換韻

るのが本來

の形

であり、銘文二○四のよう

に八句からなる銘文

の偶數句す

べてが押韻す

る例や銘文三○六

のよう

に六句

からなる銘文

の偶數句す

べてが叶韻す

る例は、それよりも後出すると考えられる。

銘文三〇六が漢鏡三期に下ることは問題な

いとしても、年代

の近接する銘文二○五と銘文

二〇四と

の前後關係を考古學

から檢證することはむずかしいが、それを

二面

の蟠蠕紋鏡を例に檢討してみよう

(圖1)。ここでとりあげる鏡

は、主紋

の體躯が二な

いし三本

の細

い突綫

であらわされた蟠蟷紋鏡

皿式

であり、そのうちA式とす

るのは

(圖-左)、西安市鄭王

莊九五號墓から出土した蟠蠣紋鏡

〔程林泉ほか

・二〇〇二

・圖七の二〕で、主紋帶

の内外に銘文をめぐらせ、外圈

には銘文

〇五の八句、内圈

には銘文

二〇四の上四句を

いれている。年代

の手がかり

のひと

つは、鈕座から三方

にのびる草葉紋

で、

蕾がのびずに萼と

一體化して

いる草葉紋

aである。もうひと

つは、内圈

にめぐらされた銘文

二〇四の第四句が

「然壅塞而

不徹」とな

っていることであ

る。句末

「徹」は武帚

の諱

であることから、その鏡は武帝即位

(前

一四

一年)より前に位置

づけられる。

つぎ

にB式とす

るのは

(圖1右)、巖窟

一・七六などの蟠蠣紋鏡

〔岡村

・一九九八〕である。主紋帶

の内外

に銘

文二○四の八句をめぐらせるが、そ

の第三句

にお

いて内圈の

「忽」から外圈の

「穆」

へと連續す

る。年代

の決め手になる

のがそ

の第

四句

の末字

で、A式

「徹」を

「泄」字

に改め

ている。「徹」と

「泄」はとも

に月部

「通」

の意味

であり、

武帚

の諱

「徹」を避けていることから、B式は武帚師位より後

に位置づけられる。そ

の前後關係は鈕座から四方

にのびる

草葉紋によ

つて裏づけられ、蕾と萼と

のあ

いだに逆

ハート形

の透かしが殘

っているも

のの、蕾が麥穂状

にのびた草葉紋b

に變化している。したが

って、銘文

二○五の八句と銘文

二〇四の上四句をも

つA式が武帝即位より前

、銘文

二〇四

の八句

をも

つB式がそれより後とみなしう

る。

26

前漢鏡銘の研究

これはたんに銘文

の前後關係

にとどまらな

い問題をふく

んでいる。A式

の出土例が少な

いも

のの、その出土地と後續す

る漢鏡

二期

の蠕龍紋鏡

の分析をもと

にすれば

〔岡村

・二○〇八b〕、都長安

の近傍

での製作が想定されるのにた

いし

て、

B

式は淮南國

の所在した淮河流域での製作が推測されるからである。

つまり、

『楚辭』離騒と同じ詩形をも

つ銘文

二○五と

銘文二○四は都長安

において武帚師位

の前

一四

一年より前

に出現し、銘文二○五の下四句を借用した新形式

の銘文

二〇四

は楚文化の傳統を強くとどめた淮河流域

で武帚即位以後に受容されたと考えられる。上述

のよう

に、鏡

に銘文を

いれるこ

とは漢鏡

一期後牛

に淮河流域

ではじま

ったが、それは音を引

いてリズ

ムを整え

る助辭をもたず、三字と四字からなる短

銘文

であ

ることから、

『楚辭』をはじめとす

る楚聲とは

いささか異なる詩形

であ

った。

っぽう、小南

〔一九七三

・五九~

六〇頁〕のいう

「九歌」皿形式と同じ詩形をも

つ銘文二四八は、長安での製作と考えられる漢鏡

二期

の連弧紋緑銘帶鏡

みられる。また、この逹弧紋緑銘帶鏡は、その後にも長安での製作が

つ、、つき、漢鏡三期に下

って銘文三〇六をも

つ重圈銘

帶鏡が生みだされたのである。ここで小南

の想定する詩形變化

について立ち

いらな

いとしても、武帝部位前後に都長安

製作されたと考えられる鏡に

『楚辭』

の詩形をも

つ銘文があらわれていることは重要であ

ろう。前漢代

において

『楚辭』

は、それが育まれた長江や淮河流域

の楚文化圈だけでなく、賈誼や司馬邉をはじめとする中央宮廷

の文人たちにも傳承さ

れた

〔小南

・二〇○三

・三四

]~三五二頁〕からである。

『漢書』淮南王傳

によれば、文化藝術を愛した武帚は、伯父の淮南王

に命じ

『離騒傳』を

つくらせたと

いう。それは宮廷

でも

てはやされた優雅な文藝であ

って、民閲

に流通した鏡

の銘文

とはいささか次元を異

にするとしても、前

二世紀

の長安

において

『楚辭』

に代表されるような南方

の文化藝術

にた

いす

憧憬が彊か

ったことは確かであろう

〔岡村

・二〇○八b〕。

27

東 方 學 報

(二)七言詩の成立

七言詩

の出現を

めぐ

っては、漢武蒂が元封三年

(前

一○八)に柏梁臺

で群臣を集

めて七言詩を

つくらせた

のがはじまり

とされる。すなわち、『藝文類聚』卷

五六

・雜文部

二に

「漢武帚元封

三年、柏梁臺を作り、羣臣

・二千石に詔し、能

く七

言を爲

る者有らば、乃ち上坐を得ん、と。皇帚曰く、日月星辰和四時。梁王曰く、驂駕駟馬從梁來。大司馬曰く、郡國士

馬羽林才。(以下略)」とあ

るのがそれである。

『漢書』武蒂紀によれば、元鼎

二年

(前

一一五)春に武蒂が柏梁臺を起

こし

たが、太初元年

(前

一〇四)に柏梁臺が被災したと

いう

から、武帚が元封三年

に柏梁臺

で詩作

に興じたことは年代

のうえ

でありえ

いこと

ではな

〔鈴木

一九二五

・五五~七三頁〕。しかし、

この傳承

の信憑性を疑問視し、柏梁詩を前漢末ごろの

作とみる意見が多

いよう

であ

る。

これま

での研究

では、傳世文

獻をもと

に七言詩

の起源

が檢討され

てきた。余

冠英

〔一九五二〕は、『楚辭』九歌

「山

鬼」や

「國殤」は三言

二句を助辭

「兮」で連綴した

「口口口兮口口口」と

いう句法

であり、ここから七言詩が出現した

と論

じた。

いいかえ

れば、小南

のいう

「九歌」皿形式が七言詩

の起源にな

ったと

いう

のである。丁邦新

〔一九九九〕もま

た、漢初

の楚歌は二句

一韻または三句

一韻を基本とす

るが、魏文帚曹

丕の

「燕歌行」では七言詩

の全首同

一韻とな

って

ること、

『楚辭』九歌

のほか、漢初

の詩歌は七言句

の基本

である上四字

+下三字

の句形をもち、柏梁詩

に繼承され

ている

こと、

『楚辭』

では

「兮」など

の助辭

が毎句

にみられるが、後漢

の張衡

「四愁詩」など

では第

一句

のみに

「兮」字が

のこ

るだけで、やが

「号」字は完全

に淌失することから、七言詩

の起源は漢初

の楚歌にあり、前漢末期から後漢初期

の柏梁

詩にお

いて七言詩が成立したと考え

ている。

しかし、漢鏡

二期前牛

の銘文

二四八が

『楚辭』九歌と同じ三字

二句を助辭

「兮」で連綴した詩形であるように、それ

が變化したとみられる七字句

が漢鏡

二期

の銘文にあらわれている。たとえば、ほぼ同時期

の匕緑圓圈銘帶鏡

の銘文二四九

28

前漢鏡銘の研究

は、わずか二句だけの短銘であるが、

金英陰光宜美人。

金英の陰光は美人に宜し。

以察衣服無私親。 以て衣服を察するに私親無かれ。

とあり、「人」と

「親」とが眞部

で二句押韻する。

この對をなす二句

は偶數字目

の罕仄を逆

にする粘法

にかな

って

いる

が、各句とも偶數字目

の文字

の卒仄を逆にする

「二四不同」や

「二六對」はみられな

い。また、河南省洛陽市西郊三二○

六號墓

〔中國科學院考古研究所洛陽發掘隊

九六三

・圖二こ

や前

「○九年

「潰王之印」金印を副葬す

る雲南省晉寧縣

石寨

第三句ま

でが七字句

で、

た漢代

の七言詩は毎句押韻が原則であるから、

銘文二四八の連弧紋緑圓圈銘帶鏡や銘文

二四九

の匕緑圓圈銘帶鏡と同じ系列

にあり、

で製作

されたも

のであ

〔岡村

ら都の長安

では

「九歌」胡形式と同じ七字句

の銘文二四八があらわれ

こと

がわか

る。鏡

の出土數

みて、

いられ、

廣域

にひ

ろがる

よう

にな

った。

山六號墓

〔雲南省博物館

清浪銅華以爲鏡、

昭察衣服觀容貌、

絲組雜邏以爲信。

清光兮宜佳人。

一九五九〕の重圈銘帶鏡

(異體字銘帶鏡)にみえ

る銘文

二五

一は、

清銀と銅華とは以

て鏡を爲り、

衣服を照察して容貌を觀る、

絲と組とは雜遐し以て信と爲す。

清らかなる光は佳き人に宜し。

第四句が六字句となる。第三

・第四句

「信」と

「人」が眞部で押韻するが、鏡銘をふくめ

この銘文はやや變則的である。鏡

の型式からみれば、この重圈銘帶鏡は、

およそ前

一一〇年ごろに長安

の工房

二○〇八b〕。こ

のよう

な鏡

の銘文によ

って、武帚が柏梁臺

で七言詩を

つくらせる以前か

、ほぼ同時に七字二句

の銘文

二四九が出現していた

これらの銘文はさほど流行することがなか

ったが、柏梁詩

のころには銘文

二五

一が

そのことは柏梁詩

の實在を裏、、つけるも

のではな

いとしても、鏡の銘文

では三字

東 方 學 報

二句

の中間に助辭

「兮」を

いれた七字句

の銘文

二四八と助辭を用

いな

い完全な七字句

の銘文

二四九とが柏梁詩に先行し

て長安

の鏡に出現し、柏梁詩

のころには七言詩

の鏡銘が人

口に膾炙していたことを考えるならば、文藝を愛し、みずから

「天馬歌」や

「瓠子歌」など

「九歌」皿形式

の詩を

っく

って

いた武帚が完全な七言詩

の創作を考え

たとしても不思議

では

い。とりわけ、武帚はそ

のころ樂府を設置し、諸國

で歌われていた詩歌を收集させているから、鏡銘

のような民聞

の歌

謠にも關心を抱

いて

いた可能性がある。すなわち、

『漢書』藝文志

にいう

孝武自り樂府を立て歌謠を采る。是

に於

て代

・趙

の謳、秦

・楚

の風有り。皆な哀樂

に感じ、事に縁り發

こる。亦た以

て風俗を觀

て、薄厚を知る可しと云う。

また、

『漢書』禮樂志

いう。

武帝に至り

…乃ち樂府を立

て、詩を采り夜

ごと

に誦せしむ。趙

・代

・秦

・楚

の謳有り。李延年を以

て協律都尉と爲

し、多く司馬相如等數十人

の造爲せし詩賦を舉げ、略ぼ律呂を論じ、以

て八音

の調を合はせ、十九章

の歌を作る。

民聞

の歌謠を採集す

ること

によ

って、人びと

の風俗をう

かが

い、人情

の厚薄を知

ることが、樂府設置

の目的

であ

った。

『漢書』禮樂志によれば、武帝

は雅樂を好まず、宴會や郊廟には俗樂が演奏されたと

いう

。雅樂を演奏する樂府は秦代に

さかのぼるも

のの、武帚がこうした樂府を設置した時期をめぐ

っては、『資治通鑑』漢紀は元狩三年

(前

一二〇)のことと

するが、南越平定を泰

一・后土に疇祠し、はじめて樂舞を用

いた

(『漢書』郊祀志上)元鼎六年

(前

一一一)に比定する説も

〔澤ロ・一九六九〕。

いず

れにせよ、武帚が柏梁詩を

つくらせたと傳え

る元封

三年

(前

一〇八)より少し前

のこと

であ

る。このとき收集

された歌謠

はほとんど失われたが、こう

した樂府

の設置を契機として、雅な詩と世俗

の歌謠と

の落差が

縮まり、抒情性あふれる銘文が漢鏡

二期

から漢鏡三期

にかけてあらわれたことは想像にかたくな

い。

漢鏡三期

になると、七字句

の鏡銘はい

ったん途絶えてしまう。それがふたたびあらわれるのは、前

一世紀後葉

の漢鏡四

30

前漢鏡銘の研究

期にな

ってから

のことであ

る。漢鏡四期の銘文は七字句が主流となり、そ

のほぼす

べてが上四字

+下三字

の句形で、毎句

押韻している。この時期

の鏡に七字句

の銘文が突如として多くな

った

のは、銘文四二九~四三四にみるよう

に、五行思想

にお

いて

「七言

(音)」は鏡

の原料

「金」にあたり、七言句は銅鏡

の銘文

にふさわし

いと

みなされたから

であろう

〔笠

・]九八〇〕。このため、鏡

の銘文四二九

には

黍言之始自有紀。 七言

の始まりは自ら紀有り。

凍治錫銅去其宰。

・銅を錬冶して其

の滓を去れり。

辟除不鮮宜古市。 不群を辟除し

て賈市

に宜し。

長葆

二親利孫子。

長く

二親を保ち孫子に利し。

とあり、銘文四三○は

と、

の始原には自然に法則が備わり、

で銘文四三○

の初句

されてきたが、「從」は

七言句

の詩形にかんして、

黍言之紀造竟始。

長保二親利孫子。

辟去不羊宜賈市。

壽如金石西王母。

從今以往樂乃始。

七言

の紀は造鏡

の始まりなり。

長く二親を保ち、孫子に利し。

不祚を辟去し、賈市

に宜し。

壽は金石

・西王母

の如し。

今從り以往、樂しみ乃ち始まらん。

それが作鏡

の原點だと

いう

のである。光武英樹

の敏示によれば、これ

「黍言之紀從竟始

(七言の紀は鏡從り始まる)」と讀まれ、七言句は鏡

の銘文からはじま

ったと理解

「造」

の誤釋

であり、「七言之紀」は笠野の解釋が妥當

であ

ろう。

もうひと

つ問題になるのが平仄である。森博逹

〔二〇〇三〕は、前漢末

に出現す

る七字句

31

東 方 學 報

銘文が、毎句押韻するだけ

でなく、毎句

二字

目と四字目の平仄が異なる

「二四不同」

の原則を守

っていると主張した。す

なわち、

「尚方作竟眞大好、上有仙人不知老、渇飮玉泉飢食棗、浮遊天下敖四海、壽如金石爲國保。」と

「黍言之紀從鏡

始、長保

二親和孫子、辟去不羊宜賈市

、壽如金石西王母、從今而徃樂乃始。」

の各句

二字目と四字目は、第

一・第四

・第

五句が

「平

・仄」、第

・第三句

「仄

・平」にな

っている。たしかに本集釋

の銘文四三○にあたる後者

の七字句は

「二

四不同」にかな

っているが、森自身

が認めるよう

に、兩方

の銘文とも毎句

二字目と六字目の平仄が

一致する

「二六對」

はな

っていな

い。しかも、森

の例示する前者

の銘文は羅振玉

「集録」を典據とするのだ

ろうが、その本來

の形は本集釋

の銘文四五

一であり、

爾方作竟眞大好。

上有仙人不知老。

渇飮玉泉飢食棗。

浮游天下敖一三海。

徘徊名山采芝草。

壽如今石之天保。

大利八千万兮。

となる。末句が六字と短

いことは差しおくとしても、

の教示によれば、本集釋

に收録した七字句

のうち、

四三○だけで、そ

のほかの銘文はすべてそ

のよう

にはな

っていな

い。

民閲に流行していた鏡

の銘文

では、

爾方鏡を作るに、眞に大

いに好し。

上には仙人有り

て老を知らず。

いては玉泉を飮

み、飢ゑては棗を食らふ。

天下に淨游し、四海

に敖ぶ。

名山を徘徊し、芝草を采る。

壽は金石の如く、天

の寶

に至らん。

いなる利は八千萬ならん。

の省略したこの第五句は

「二四不同」にはな

っていな

い。金文京

「二四不同」

の平

仄が確かめられるのは銘文四○

一と森

のあげる銘文

「二六封」

の平仄法はもとより認められな

いから、

平仄のリズ

ムを整える技法はまだ成立していなか

ったと考え

るべき

であろう。

前漢鏡銘の研究

(三)三言詩の展開

漢鏡

一期より

「脩相思」や

「毋相忘」など

の三字句が銘文にあらわれているが、全體を三字句で統

一した銘文

は漢鏡

期にな

って出現する。それには吉祚句を羅列した銘文

一七~二

一九

のほか、悲歌と

いう

べき内容

の銘文二二二~

二二四

があり、

いずれも前

=二〇~

一二○年代

に長安で

つくられた草葉紋鏡や匕縁方格銘帶鏡などに用

いられた。悲歌の例とし

て、西安市紅慶村六四號墓

の草葉紋鏡

〔陝西省文物管理委員會

.一九五九

・圖版九〕にみる銘文

二二一二は

久不見、

しく見ず、

侍前希。

に侍ること希なり。

君行卒、

の行は

に、

予志悲。 予が志悲しむ。

とあり、偶數句

「希」と

「悲」は微部

で押韻している。

一二○年代

になると、草葉紋鏡は山東

の臨惱

でも製作がはじまり

〔岡村

・二〇○八b〕、吉禪句

の銘文二二六

・二二七

があらわれる。ここでも

四字句

の銘文

二四二

・二四三が主流を占

めるが、山東省青島市平度界山

一號墓

〔青島市文物局ほ

・二〇○五〕の草葉紋鏡にみる銘文

二二六は

長貴富。

樂毋事。

日有悪。

宜酒食。

長く貴富ならん。

毋事を樂しまん。

日び憙び有り。

酒食

に宜し。

・第

四句

「富

」と

「食」が職部、第

.第三句

「事」と

「憙」が之部

で毎句叶韻し

ている。

33

東 方 學 報

これ

をう

て漢鏡

三期

、銘文

一のよう

一二句

から

る三言

詩があ

れる。

紋銘

(一號

・四號鏡)を

ると

〔岡崎

・一九七七〕、

日有喜。

月有富。

樂毋事。

常得意。

美人會、

竿瑟侍。

賈市程。

萬物平。

老復丁。

死復生。

醉不知、

醒旦星。

上六句

日び喜び有り。

月ごとに富有り。

事なきを樂しむ。

常に意を得。

美人會し、

竿瑟侍す。

賈市程あり。

萬物平らかなり。

老は丁に復す。

死は生に復す。

醉ひては知らず、

旦星

に醒む。

福岡縣立岩

一〇號甕棺墓の連弧

「喜

」・「事

」・「侍

「富

」・「意」

は職

で叶

し、

六句

「程

」・「平

」・「丁」・「生

」・「星」

が耕

で押韻

いる。

このように三字

の吉鮮句を羅列した銘文は、七言詩

の盛行した漢鏡四期にも繼承され、銘文四○七~四

一○

・四

一九な

どがあらわれた。元帚

のときに

つくられた史游

『急就篇』が三言句と七言句

からな

っているのも、これと軌を

一にす

る。

34

前漢鏡銘の研究

また、本集釋

では六字句としたが、

矩四神鏡にみる銘文四二三は

上大山見祕人。

食玉英飮醴泉。

駕交龍乘淨雲。

宜官秩保子孫。

壽万年。

虫貝官田日日o

樂未央。

る。

元部

「雲

」・「孫

銘文四二〇~四二四は三字二句を

一聯とした形で、たとえば小校

一五

・八八の方格規

この六字句を三字

二句

に分解し、

一句とみることも可能

であ

る。そ

「人」・「年」は眞部、「泉」

「昌」・「央」が陽部で押韻している。

このよう

に前漢鏡

の銘文

には漢鏡

二期から四期まで三字句が連綿と用

いられ、しだ

いに長銘

になる傾向

がみられる。長

でつくられた漢鏡

二期

の鏡

に悲歌と

いう

べき三字四句

の銘文

二二二~二二四がわずかにあらわれているも

のの、多くは

『漢書』禮樂志

にみる郊祀歌

「練時日」や

「天馬」などと同じよう

に慶事

や瑞鮮を祀頌する内容

である。傳世文獻

にみ

る三言詩に

ついて松浦友久

〔一九八六

四九~

一五三頁〕は、三字

一句と

いう形

が意味表出

の單位とし

てはあまりに短く、

抒情機能にお

いて暢逹さを缺くため、三言詩は雜歌謠辭系

の童謠

・歌謠の類と鼓吹曲辭

・郊廟歌辭系

の宮廷樂府

の類と

二種類にかぎられ、離別

・望郷

・閨怨など狹義

の抒情詩

に屬するも

のが皆無に近

いと

いう。それは鏡

の銘文にもそのまま

あてはまる。漢鏡四期を最後

に三字句は鏡銘から消失す

るのであ

る。

大山に上りて、祚人を見る。

玉英を食らひ、醴泉を飮む。

交龍

に駕して、淨雲に乘る。

官秩

に宜し、子孫を保たん。

壽は萬年ならん。

貴富にして昌

へん。

樂しみ未だ央きず。

は文部で叶韻し、第六句

で換韻して

35

東 方 學 報

三 抒情詩の系譜

民間にひろく流通した鏡には、たんに福碌壽を願う通俗的な文言だけでなく、人びと

のさまざまな思

いが託された。漢

帚國が高度成長を逑げた漢鏡

二期や匈奴

の歸順によ

って安定を迎えた漢鏡四期には現實

の快樂を求める銘文がも

てはやさ

れ、對外擴張政策

にた

いする反動があらわれた漢鏡三期には内向き

の思潮を反映

した銘文が受け

いれられた

〔岡村

・一九八

四〕。本集釋に收録した各時期

の銘文數は、それを選別したわれわれ編者

のバイ

アスがかか

っているも

のの、こ

のような

世相をあるていど反映し、漢鏡

二期

の五

一種、漢鏡四期

の五四種

にた

いして、漢鏡三期はわずか

=

一種だけ

である。ここ

では鏡銘

の内容

からそのような時代相を讀み解

いてみよう。

36

(一)

『楚辭』の系譜

孫星衍

『續古文苑』卷

一四

(一八〇七年)が

「精白」銘

(銘文二〇五)について

『楚辭』離騒に類似す

ることを指摘して以

來、漢鏡二期

・三期

の銘文

のいく

つかは

『楚辭』と對比して檢討されてき

〔駒井

・一九五三/西田

・一九六四/岡崎

・一九七

七/石川

・一九九○/三澤

・一九九四〕。また、

『楚辭』

「九歌」や

「離騒」と同じリズ

ムをも

つ鏡銘があることは前章

で檢

討した。そう

した銘文をも

つ鏡

の型式からみて、鏡銘に

『楚辭』

の影響が最初

にあらわれた

のは、戰國時代

の楚

の都が置

かれ、漢代

にな

っても蟠蠣紋鏡をはじめとする多く

の銅鏡を生産し、

『楚辭』を育み傳え

てきた淮河流域ではなく、漢

都長安

であ

ったことも、さき

に論

じたとおり

であ

る。西田守夫

〔一九六四〕が指摘

したよう

に、こ

のような銘文

の内容が

董仲舒

「士不遏賦」や司馬遷

「悲士不遇賦」、さか

のぼ

っては賈誼

「弔屈原賦」・「旱雲賦」など失意

の託された賦

前漢鏡銘の研究

の系統であることから、中央

の朝廷では武蒂が淮南王安に命じて

『離騒傳』を

つくらせるより前から

『楚辭』

の影響がお

よんでいたと考えられる。

さき

『楚辭』

の定形的なリズ

ムをも

つ鏡銘として銘文

二四八

・二○五

・二○四

.三○六を例示

した。そ

のほかにも

『楚辭』

に由來すると考えられる長短句をま

じえた不定形

の銘文

があ

る。淮河流域

で製作された蟠第紋鏡

の銘文

二〇三

は、釋讀

に異説が多

いが、本集釋では

愁思悲、

愁ひ

の思ひ悲

し、

願見怨君不諡。 見え

んことを願ふも君の悗ばざ

るを怨む。

相思願毋絶。

相ひ思ひ絶ゆる毋らんことを願ふ。

と讀んだ。また、長安で

つくられたと考えられる連弧紋縁銘帶鏡

の銘文

二四七は、本集釋

では

三字を基調としながらも、

わしたも

のであ

ろう。

〇四

・三○六

に通じる内容である。

が、『楚辭』抽思が棄

てられた女性が棄

てた男性

に迭る手紙と

いう形式

で主君

にた

いすることばを逋べているように、

毋棄故而娶新。

亦成親。

心與心、

長毋相忘。

倶死葬何傷。

した。

故を棄

てて新を娶る毋かれ。

亦た親を誠

にせん。

・レと・いと、

長く相ひ忘

るること毋かれ。

に死し葬らるるも何をか傷まん。

四字、五字、六字をまじえた雜言體

で、リズ

ムの變化

によ

って感情

の高ぶりをあら

前者

の銘文は主君に疎まれた悲

しみを端的に歌

ったも

ので、さきにあげた銘文二四八

・二〇五

・二

これにた

いして後者

の銘文は夫に棄

てられた女性

の歎きを直接的

に歌

ったも

のであ

37

東 方 學 報

れは君臣關係を男女

の戀愛關係に重ねてとらえた手法

であ

ろう

〔小南

・一九七三

・一七九頁〕。武帚

の寵愛を失

った陳皇后

悲しみを司馬相如が代作したとされる

「長門賦」

(『文選』卷

一六)をはじめとして、君臣

・男女關係をめぐる宮廷文人たち

の思

いは、人びと

のあ

いだ

に大きな共感を呼びおこし、鏡銘にも取り

いれられた

のであ

ろう。漢鏡

二期

に長安

で製作され

た草葉紋鏡

や匕緑銘帶鏡

には、短

い銘文ながら、『楚辭』

に常見する

「美人」・「佳人」・「與天相壽」・「何傷」など

の語句

が用

いられており、そうした感情が人びと

のあ

いだ

に共有されること

にな

ったにちが

いな

い。

これら漢鏡

一期

・二期

の銘文

に共通してあらわれる願望

のキーワードとし

て、君臣

・男女關係をめぐる

「相思」や

「毋

相忘」など

のほか、そう

した時間の永續性をあらわす

「常」1.長

(脩)」・「永」・「久」や

「未央」・「毋絶」・「毋

(無)極」

がある。ところが、現實

の時聞はまたたくまに過ぎ去

ってしまう。小南

一郎

〔二〇○三

・三九頁〕は

「忽」の字が

『楚辭』

離騒だけ

で九

つも使用されていること

に着目し、急速に過ぎ去る現實

の時閲

のなかで、離騒

の主人公は自分が生きるにふ

さわし

いとき

でなか

ったことを悲しんでいると論じた。銘文

二○四

「心忽穆而願忠」は、このような意識のあらわれ

あり、また銘文

一〇三の

「道路遼遠

、中有關梁。」などは、

『楚辭』離騒

「路脩遠以多艱兮」や

「抽思」

「道卓遠而日

忘兮」と類似する、時聞を距離

におきかえた現實認識であろう。

38

(二)妻贈夫詩の系譜

武蒂

による封外戰爭

の援大は、漢帚國

の發展をもたらしたと同時に、さまざまな祉會矛盾を引きおこし、人びとは疲弊

した。このなかで前

一世紀

には

いると、庶民

の悲しみや苦しみを歌う鏡

の銘文があらわれる。たとえば、錢站

『浣花拜石

軒鏡銘集録』

(一七九七年)が妻贈夫鏡と命名し、「此れ夫

の遠く行く

ことあり

て其

の妻造り、以

て相ひ賂りしも

のなり」

と読

いた連弧紋銘帶鏡

の銘文

三〇八をみてみよう。

前漢鏡銘の研究

君有行

妾有憂。

行有日、

反無期。

願君強飯多勉之。

印天大息、

長相思。

毋久。

君に行有り、

妾に憂ひ有り。

行に日有り、

反るに期毋し。

願はくは君強ひて飯らひ多く之に勉めよ。

天を仰

いで大息す、

長く相ひ思ふ。

久しく毋からん。

漢鏡

二期

では棄てられた女性

が悲

しみを歌う形

であ

ったのにた

いして、ここでは夫

の族立ちを迭る妻

の悲しみが主題とな

って

いる。最初の三字四句

で夫

の族立ちが決ま

っているのに歸宅

の時期がわからな

いと

いう妻の歎きを歌

い、第五句

では

一轉し

て夫に食事をと

るように激勵

している。『史記』外戚世家

に、武蒂

の衞皇后が

帝の姉平陽公主

の世話で入内す

ると

き、公主

が后

の背をたたき、「行け。彊

いても飯くえよ。之を勉めよ。」とうながしており

〔入谷

・一九七八〕、銘文三〇八

の第五句も女性

のあ

いだでの慣用句と考えられる。

出征かどうか、放立ち

の理由はわからな

いが、この文脈は

『詩經』王風

・君子于役に由來する。その第

二章を示すと、

君子于役、

不日不月。

曷其有恬。

難棲于桀。

君子役に于く、

日ならず月ならず。

曷か其れ會ふこと有らん。

難は桀に棲む。

39

東 方 學 報

日之夕矣

の夕

べ、

羊牛下括。

羊牛は下り括

る。

君子于役、

君子役

に于く、

苟無飢渇。

も飢渇すること無かれ。

とあり、前段

の三句

で族立

つ君子

の歸還が

いつのこと

かわからな

いと

いう不安を述

べ、中段

の三句

では鷄や羊

・牛でも夕

方になると止まり木

や畜舍

に歸

ってくると

いい、後段

の二句

では飢渇することだけはな

いようにと

いう願

いが歌われてい

る。銘文

三○八はこれと詩形が異なり、中段

の比喩

の部分が缺落しているも

のの、放立ち

への不安を述

べ、せめて食事だ

けは缺かせぬよう願う詩

の構造は相似している。

時代は下

って、後漢代

の作品と考えられる樂府

「飮馬長城窟行」

(『文選』卷二七)は、遠くに出征した夫を思う妻

の思

いを歌うも

のだが、遠方

から夫

のもとに屆

いた手紙には

「上には餐食を加

へよと有り、下には長く相

ひ憶ふと有り。」と

記されて

いたと

いう。後漢代

にな

っても

「加餐食」と

「長相憶

(思二

は、遠く別れた夫を思慕す

るキーワードであ

った

のであ

る。また、同じころの

「古詩十九首」

(『文選』卷二九)の

「行行重行行」も、最後は妻が夫

にた

いして

「努力して餐

飯を加

へよ」と

いう

ことばを賂

っている。

っぼう、西安

市三爻村六號墓から發掘された連弧紋銘帶鏡

〔陝西省考古研究所

・二○〇

一・圖二八〕の銘文三〇九は、第

一句で旅立

つ夫を見迭る妻

の心情を歌うが、第

二句以下の内容が以上

の詩とは異な

っている。

行有日兮反毋時。

行に日有り、反るに時毋し。

結中帶兮長相思。

中帶を結び

て、長く相ひ思はん。

妾負君兮萬不疑。

の君に負

ふは、萬

ふなかれ。

40

君負妾兮天知之。

の妾

に負

ふは、天のみ之を知る。

さき

の銘文

二四八と同じよう

に三言

+兮

+三言を基本形とするが、「時」・「思」・「疑」・「之」が之部

で毎句押韻するとこ

ろは新し

い特徴である。その内容は、同時期

の銘文三〇八にあ

った

「加餐食」

の部分が缺落

し、かわり

に遠く別れても夫

の愛情は永遠に變

わらな

いことを誓

っている。第

二句

「結中帶兮長相思」は銘文二五

一の

「絲組雜邏以爲信」

の類似

句であり、前

一○0年ごろに流行した誓

いの表

現であ

ろう。

この銘文三○九

に類似した句をも

つのが、陳

・徐陵

『玉臺新詠』

に收める蘇伯玉妻

「盤中詩」である。遠く

に族立

蘇伯玉

の妻が盤

の曲面

に書き記して與えたとされる詩

一部に、「君有行、妾念之。出有日、還無期。結中帶、長相思。

君忘妾、天知之。妾忘君、罪當治。妾有行、宜知之。」と

いう三言句

があり、

いく

つかの語句

に異同があるも

のの、もと

は同じ詩歌に由來することはまちがいな

い。蘇伯玉その人については所傳がなく、明

・馮惟訥

『古詩紀』

はこれを漢詩と

するが、清

・紀容舒

『玉臺新詠考異』

や途欽立

『先秦漢魏晉南北朝詩』

などは晉詩とみなしている。この銘文をも

つ鏡は

まだ

一面しか出土して

いな

いも

のの、前漢墓からの確かな發掘資料であるから、少なくとも

「盤中詩」

のこの部分にかぎ

って

いえば、原形は前

一〇○年ごろに都長安

で流行しており、その後

に歌

い繼がれて

『玉臺新詠』

「盤中詩」に編入さ

れたのであろう。

前漢鏡銘の研究

四 漢鏡四期

の銘文にあらわれた思想

}世紀中ご

ろに匈奴が漢王朝に歸順し、平和がもたらされると、ふたたび奢侈

の風が世間をおおうようになる。なか

でも前三三年に即位した成帚は放埒な生活に明けくれたと

いう。漢鏡三期

の抒情韵な銘文をも

つ鏡からは

一轉

して、漢鏡

41

東 方 學 報

四期には識緯思想を背景と

した瑞獸を主紋樣とし、儒家

の思想信條を唱え、鏡の效能を書き連ねた銘文があらわれる。

元帚

のころから儒家官僚

が朝廷中樞

に登用されはじめ、儒敏

の國教化

へと進

んでいった。その儒家思想

の中核をなす

が陰陽五行思想であり、それを利用して權力

の座に上り

つめたのが王莽である。そうした儒家思想が鏡

の銘文

にも反映

れるよう

になる。

つぎ

の銘文四三六は、希有な例だが、

賢者戒己下爲右。

賢者は己れを戒め、下り

て佑と爲

る。

息念毋以象君子。 思念

已む

こと毋く、君子に象ふ。

二親有疾身常在。

二親

に疾有りと

へども、身は常在す。

時時中兮景女右。

時時忠にして、景は汝

の佑なり。

と、君臣孝悌を重

んじる儒家

の思想を直截

にあらわし

ている。

42

(一)陰陽五行思想と鏡の鑄造

鏡が精白

な合金で

つくられ、清明

の氣からな

る天またはその法と同

一靦されたことは、笠野毅

〔一九八三〕が詳論

して

いるとおりである。漢鏡

二期

の銘文二二九には

「垠錫有齊、與厭異容。爲静精實、請質

清明。」と、精白

なる銀と錫とを

調合し

て清明なる鏡を鑄造したことが記

され、銘文

二五

一には

「清浪銅華以爲鏡、昭察衣服觀容貌。」と、人

の姿を正

く映しだす效能が述

べられて

いる。しかし、漢鏡

の實際は、銅が七〇%前後、錫が

二五%前後、鉛が五%前後

で、銀

の含

有量はきわめて少

なく、「銀錫」は鏡

の材料が白金

のよう

に精良なことをあらわしたも

のにすぎな

〔笠野

.同上〕。

漢鏡四期

の銘文四三八~四四六は、銘文

の冒頭に

「漢

(新)有善銅出丹陽」とあり、すぐれた銅が丹陽に産出すること

を記している。丹陽は江南

の丹陽郡で、漢代

には銅官が置かれていた。銘文四○六には

「維鏡之舊生兮質剛堅。處于名山

前漢鏡銘の研究

兮俟工人。」と、すぐれた工人だけが名山で精良な銅鑛石を採取できたと

いう。

つづ

いて銘文

四三八には

「取之爲鏡清且

明」、銘文四三九

には

「和

(雜)以銀錫清且明」とあり、漢鏡二期と同じよう

に銀と錫

の調合に

ついて記し

ている。

そうした銅

の製錬と鏡

の鑄造に

ついて、漢鏡四期

では銘文四○

一に

「凍治銅華清而明。以之爲鏡宜文章。」、銘文四○二

「凍治銅華得其清。以之爲鏡昭身刑。」、銘文四二九に

「凍治錫銅去其宰」と

いう。この

「湶治」は

「錬冶」

であるが、

ほと

んどの鏡はこの二字を三水偏

にしている。古典籍

の現行

テキストでは、『周禮』鹽人

「祭祀には其

の苦鹽

・散鹽を

共す」の鄭玄注

「杜子春は苦を讀みて鹽と爲す。鹽を出だすは直に用ひて凍治

せざるを謂ふ。鄭司農云ふ、散鹽とは凍

治す

る者なり、と。」とあるように

「濂治」は鹽をねるばあ

いに用

い、金屬をね

るばあ

いは

『水經注』漸江水に引く

『呉

越春秋』

「句踐

の銅錫を錬冶せるの處なり」とあるように

「錬冶」とする。しかし、鏡銘で

「凍治」に

つくるのは、

の陰陽読にもと、、つくからであ

ろう。すなわち、『周禮』考工記

・輓人に

「金

に六齊有り。…金錫孚ばす、之を鑒燧

の齊

と謂ふ。」とあり、そ

の鄭玄注

「鑒燧

は水火を日月に取る

の器なり。鑒は亦

た鏡なり。凡そ金は錫多ければ則ち怨白に

して且

つ明なり。」とあるよう

に、鏡

(鑒燧)は水と火を日と月から取ると考えられていた。

『淮南子』覽冥訓

「陽燧は

火を日に取り、方諸は露を月

に取る。」と

いい、東晉

の干寶

『搜禪記』卷

=ごに

「夫

れ金

の性は

一なり。五月丙午

の日申

を以

て鑄して陽燧を爲り、十

一月壬子の夜牛を以て鑄して陰燧を爲

る。」とある

のも陰陽読にもとつ

いている。陽氣

のも

っとも強

い鑄造

の吉日である五月丙午が鏡

の紀年銘にしばしば

みえ

ることは、畢涜

・阮元

『山左金石志』卷

(一七九七

年)や桂馥

『札樸』卷八

(一八一三年)以來、先學

の多くとりあげるところであり、西田守夫

〔一九六八〕も

『諡文』

「丙

位南方、萬物成炳然」や

『史記』律書

「丙者言陽道著明」を引

いて陰陽五行思想からみた丙午

の意義づけをしている。

の五月丙午

の鑄造を記した最古

の紀年銘鏡が河南省洛陽市五女冢

二六七號墓から出土した永始二年

(前

一五)方格規矩

四神鏡

〔洛陽市第二文物工作隊

.一九九六〕で、銘文

の冒頭

「永始

二年

五月丙午属上五、工豐造也」とある。「扁上五」は

43

東 方 學 報

漏刻

で正午

にあた

「晝漏上五刻」のこと

で、そ

の銘文は陽氣が最大となる五月丙午

の眞晝に工人の豐が

つく

ったと

いう

のである。永始

二年五月は乙酉朔で、そ

の二十

二日が丙午となるから、これは實暦であ

った可能性があるも

のの、この日

時が陰陽五行思想にもとつ

いて選ばれたことはまちが

いな

い。また、『重修宣和博古圖』卷

二八

・二八に收録す

る漢鏡四

の方格規矩四神鏡には

「調刻冶鏡

日月清。明口五得商羽聲。」とあり、「商羽聲」とは第

一句

「日月清」に對應する五

「商」と

「羽」

の聲が得られると

いう意味

に解釋

でき

る。五行で

「商」は金徳、「羽」は水徳

であるから、

これもま

た陰陽五行思想

にもとつ

いて鏡の陰陽を隱喩しているのであ

ろう。

銘文四三〇

の初句

は、これまで

「七言

の紀は鏡從り始まる」と讀まれ、七言句は鏡

の銘文からはじま

ったと理解され

きたが、「從」は

「造」

の誤釋

で、「七言

の紀は造鏡

の始なり」と訓讀す

べき

である。前章

にみたように、「七言」は鏡

原料

「金」

にあ

たり、その句は

「七言

(金屬)の始原には自然

に法則が備わり、それが作鏡

の原點

であ

る」と解釋する

のが妥當

である

〔笠野

・一九八〇〕。すなわち、五音

の音律

ついて

『五行大義』論納音數に引く

『樂緯』は

孔子

曰く、丘、律を吹き

て姓を定め、

一言は土

に得

て宮と日ひ、三言は火

に得て徴と日ひ、五言は水

に得

て羽と日

ひ、七言は金

に得

て商と日ひ、九言は木に得

て角と日ふ。

とあり、東晉

に下るが、葛洪

『抱朴子』内篇

・仙藥

には

『玉策記』及び

『開明經』を按ず

るに、皆な五音六屬を以て、人

の年命

の所在を知

る。…五言これを得

る者は、羽と

水なり。七言これを得る者は、商と金なり。

とあ

って、「七言」

は五音

の金徳

にあたる

「商」と

みなされる。陰陽五行思想

のひろがりととも

に、漢鏡四期

には銘文

「凍治銅華清而明。以之爲鏡宜文章。」や銘文四〇四

「硯容正己鏡爲右。得氣五行有剛紀。」のよう

に、五行

の金徳を

て鏡が清明にして堅剛

であると

いう性質を備え

ると考えられた

のであ

る。

44

前漢鏡銘の研究

漢鏡二期には、精白な鏡は清明なる日月

の光を象

って人の姿や情を正しく映しだすと考えられ、君臣

・男女關係をめぐ

る個人的な願望がそこに託されたが、陰陽五行思想が強く反映された漢鏡

四期

の鏡

では、それが清明なる天とその法に象

ると考えられ、漢鏡二期

のような個人關係はもとより、ひろくさまざまな肚會韵效能が鏡に期待されるようにな

った。そ

のうち天にかかわる銘文と儒家思想を反映した句

のいく

つかを列擧してみよう。

五色盡具正赤青。(銘文四〇二)

得氣

五行有剛紀。法似于天終復始。中國大寧宜孫子。(銘文四○四)

風雨時節五穀成。家給人足天下平。子孫累世永安寧。(銘文四〇五)

左龍右虎得天菁。朱爵玄武法列星。八子十二孫居安寧。(銘文四

=

)

倉龍白虎祚而明。赤鳥玄武主陰陽。國寳受福家富昌。長宜子孫樂未央。

(銘文四一六)

昭爵玄武利陰陽。十子九孫治中央。法象天地、如

日月光。

(銘文四一七)

應師四時合

五行。法象

天地日月光。昭柿明鏡相侯王。(銘文四四○)

昭于宮室日月光。左龍右虎主四方。(銘文四四三)

銘文四○二

・四○四は鏡が五行に則

っていること、銘文四〇四はその法が天に象

って循環して

いることを

いう。銘文四

・四四○はまた法

が天地に象ると

いい、銘文四

一一以下では天

における四禪

の役割が記されている。それは青龍

・白虎

が天精を得

て四方を掌り、不鮮をしりぞけ、朱雀

・玄武は列星

に則り、陰陽を整えると

いうものである。四禪が陰陽五行

思想

の産物

であることは

いうまでもな

い。このよう

に鏡が天の法に象

った結果とし

て、銘文四〇四は漢王朝

の支配する中

國が大

いに安

んじることを祀頌する。銘文

四○五はさらに、風雨が時節にかな

って五穀豐穰をもたらし、どの家も人も生

活が豐かで永世にわた

って子孫が繁榮すると豫祝する。

45

東 方 學 報

漢鏡

二期から三期には銘文

二二八

・二三二

「服者君卿」や銘文三〇

「服者富貴番昌」のよう

に鏡

の所有者

の福祿壽

現世

の樂しみを願う銘文があらわれて

いたが、漢鏡四期

になると、儒家思想

「孝」を反映した

「長保

二親」が頻出す

ほか、血

つなが

った家族と

しての

「家」が民厭

のあ

いだにも意識されはじめ

〔尾形

・一九七九

・八○~

=

六頁〕、個人

幸輻

はもと

より銘文四〇三

「子孫盆昌」、銘文

四〇五

「子孫累世永安寧」、銘文

一二

「長宜

子孫家大富」、銘文

一四

「子孫順息家富熾」、銘文四

一五

「子孫賢、家大富」、銘文四二七

・四

二八

「多賀君家受大福」などのよう

に子孫や家

の繁

に願望

の比重が高ま

って

いった

のである。

以上

のように、前漢後期

に儒家官

僚が登用されることにともな

い、その陰陽五行思想や

「孝」・「家」觀念が漢鏡四期

銘文にあらわれるよう

にな

った。鏡を手にした人びと

の識字能力に限界があ

ったとしても、民聞に流通した鏡

は、そう

た儒家思想をひろめること

に寄與したことは想像にかたくな

い。そのなかで登場したのが王莽である。

つぎに銘文として

に刻まれた王莽

の政治廣告をみることにしよう。

46

(二)王莽の政治理念と鏡銘

成帝

の外戚としてしだ

いに頭角をあらわした王莽

は、平帚即位

(後

一)ととも

に權力を掌握

し、儒家思想をもと

にした

政策を推

し進めて

いった。元始三年

(後三)から四年にかけ

て禮制にの

っと

った明堂

・辟雍

・靈臺などを建

て、學者を養

成す

る學官を設立した。平帚が急死すると、わず

か二歳

の子嬰を後嗣とし、みずからは假皇帝と稱し

て居攝元年

(後六)

と改元した。このとき

の紀年をも

つ逹弧紋銘帶鏡が北朝鮮ピ

ョンヤン市石巖里附近

の漢墓から出土している

〔五島美術館學

藝部編

・一九九二〕。

居攝元年。自有眞。

居攝元年。自から眞有り。

前漢鏡銘の研究

家當大富、糴常有陳。 家は大富に當たり、

は常に陳き有り。

周之治、吏爲貴人。 周ねく之れ治まりたれば、吏も貴人と爲

る。

夫妻相喜、日盆親善。

夫妻は相ひ喜び、日々盆

々親しみ善からん。

この銘文は、さきにみた銘文と同じように鏡

の效能を羅列するだけで、そ

のとき

の政策に

ついて言及していな

いが、そ

直後

につくられた方格規矩四蕀鏡

の銘文四三四には

鑄成錯

刀天下喜。

錯刀を鑄成し、天下喜

ぶ。

安漢保眞世毋有。 漢を安んじ眞を保

つこと世に有る毋し。

と、王莽が居攝

二年五月

に貨幣改革

一環として

「契刀」

や金象嵌

「錯刀」などを鑄造し

(『漢書』王莽傳上)、人びと

ら歡迎されたと自贊す

る。ただ

し、そ

「契刀しと

「錯刀」は、王莽が皇帝位を簒奪した始建國

元年

(後九)に、その

「刀」字

「卯金刀」にしたがう漢家

「劉」姓を連想させると

いう理由

で、漢

の通貨

であ

る五銖錢ととも

に廢止さ

た。

つぎ

「安漢保眞」とは、平―帝のときに

「安漢公」の稱號を賜わ

った王莽を讃えたも

ので、居攝元年鏡に

「自有眞」

とあ

るのに通じる。そして、王莽は

ついに

「眞」皇帝

の位

に師

いて國號を

「新」に改め、その十

二月朔日をも

って始建國

元年正月朔日とした。翌年

の始建國二年獸帶鏡

の銘文

〔沈令斫

・一九五七〕には、

唯始建國二年新家覃。

詔書數下大多恩。

賈人事市、不躬嗇田。

更作辟雍治校官。

五穀成孰天下安。

唯れ始建國二年、新家璽し。

詔書 數たび下り

て大

いに恩多し。

賈人は市を事とし、躬ら田を

らしめず。

更ためて辟雍を作りて校官を治む。

五穀成熟して天下安んず。

47

東 方 學 報

有知之士得蒙恩。

知有る

の士は恩を蒙むるを得。

宜官秩葆子≧孫。

官秩に宜しく子と子孫を保たん。

と、ここでも王莽

の政策を自畫自贊する。具體的には、第

三句は王莽が始建國元年

に天下

の耕地を王田となし、その賣買

を禁止

した

こと

(『漢書』王莽傳中)、第

四句は上述

の元始三年

(後三)から四年

にかけての禮制

・學制改革

(『漢書』平帝紀)

を指し

ていう。後者

の施策

については、新建國後

の銘文四四七にも

新興辟雍建明堂。 新辟雍を興し、明堂を建

つ。

然于舉土列侯王。

單于は土を擧げて侯王

に列せらる。

將軍令尹民戸行。 將軍

・令尹は民

の行なふ所なり。

諸生萬舍在北方。 諸生

の萬舍

は北方に在り。

とあ

る。その第

二句は新王朝

の建國と同時に外臣の身分を格下げし、漢王朝では匈奴單于に

「匈奴單于璽」と

いう印を與

て諸侯王より上

の客臣として處遇し

ていたのを、王莽は諸侯王と同格

「新匈奴單于章」と

いう印文

に改めたことを

のであろう

〔栗原

-

九六〇

・二○

一~二○七頁〕。また、銘文四五四に

王氏昭竟三夷服。多賀新家人民息。胡虜殄滅天下復。風雨時節

五穀孰。長保二親子孫力。傳告後世樂毋亟兮。

とあ

るのも、王莽

の新し

い政治

の效果を宣傳したも

のである。その

「王氏」は王莽、「新家」は新王朝

のことであり、

の鏡は王莽

の命

によ

ってつくられたことを意味している。

漢鏡四期には儒教の國教化にともな

って鏡の銘文にも儒家思想があらわれるようになったが、王莽はさらに人びとを教

化する目的で鏡の銘文にみずからの政治信條や施策の成果を誇らしげに宣言したのである。

48

前漢鏡銘の研究

(三)瀞仙思想

東海中に蓬莢

・方丈

・瀛州と

いう三帥山があり、そこに住む仙人から不老不死

の藥を手に

いれようと、秦始皇帝は徐福

を派遣したと

いう。漢武帚もまた不老不死

の祚仙を求め、各地を巡狩して祭祀をおこな

った。そ

の最大

の祭儀が、元封元

(前

=

○)に泰山

で執りおこなわれた封禪である。

このとき司馬相如が

つく

った

「封禪頌」(『史記』司馬相如列傳)は、

武帚

の統治

によ

ってさまざまな瑞祥があらわれたことを祀頌している。また、同じころ武帚は樂府を設置し、各地

の民聞

歌謠を採集

した。そ

の樂府

にお

いて司馬相如らに

つくらせた郊祀歌十九章

(『漢書』禮樂志)にも天界

に遊行するさまや不

老長壽

の願

いが歌われている。しかし、同時期

の漢鏡二期

二二期

の銘文は

『楚辭』

のリズ

ムをも

つとはいえ、ほとんどが

悲歌と

いう

べき抒情詩で、『楚辭』離騒など

のような天界

の遊行をあらわした銘文

はみられな

い。

宣蒂代に

いたると、鳳凰が集まり、甘露が降

ると

った瑞祚がたびたび報告された。それは天が皇帚

の治世を賞贊して

いること

のあらわれとみなされ、年號

が禪爵

(前六

一)、五鳳

(前五七)、甘露

(前五三)、黄龍

(前四九)と改められた。その

なか

で儒家

のあ

いだ

に讖緯思想がひろがり、漢鏡四期

には方格規矩四祚鏡や獸帶鏡

・雲氣禽獸紋鏡など瑞獸を主紋様とす

る鏡

の流行をみる。同時

に銘文四二六

「鳳皇翼翼在鏡則」

のような瑞鮮

の出現を歌う銘文があらわれ、肺仙世界に遊行す

る銘文が出現す

る。たとえば、銘文四二○には

すす

福熹進兮日以前。

食玉英兮飮澄泉。

駕交龍兮乘浮雲。

白虎引兮上泰山。

鳳皇集兮見神仙。

福憙進みて、日び以

て前めん。

玉英を食らひ、醴泉を飮む。

交龍に駕して、淨雲に乘る。

白虎引きて、泰山に上る。

鳳凰集まり、禪仙を見る。

49

東 方 學 報

保長命兮壽万年。

長命を保ち、壽は萬年ならん。

と、泰山での仙界

の樣子があらわされ、鏡

の所有者

の長壽が所念されている。この三字

二句を

つなぐ助辭

「兮」を省略

して六字句

に改

め、「上大山見神人」を起句

とした

のが銘文四二二

・四二一二であ

る。このよう

に泰

(大)山

への昇仙を

う銘文

のほかに、數は少な

いが、陝西

にある五嶽

のひと

つ華山

への昇仙を

いう銘文もある。また、銘文四四八は泰山

への

昇仙に

つづ

いて名山をわたり、崑崙山

へと飛翔するさまを歌

った希有な例であ

る。關連する句だけをみると、

上大山見肺人。

驂駕交龍乘浮雲。

属去名山奏昆侖

過玉闕入金門。

上玉堂何口口。

泰山

に上り騨人を見る。

交龍

に驂駕して淨雲

に乘る。

名山を属り去り、崑崙に

く。

玉闕を過り

て、金門

に入る。

玉堂

に上れば、何ぞ口口。

崑崙山には玉闕

・金門

・玉堂と

った宮殿が建ち竝んで

いたと

いう

のである。

でつく

った方格規矩四聯鏡

に、

つぎ

の銘文

四五

一が多く用

いられるようになる。

尚方作竟眞大好。

上有仙人不知老。

渇飮玉泉飢食棗。

淨游天下敖一三海。

徘徊名山采芝草。

壽如今石之天保。

爾方鏡を作

るに、眞

に大

いに好し。

には仙人有りて老を知らず。

いては玉泉を飮み、飢

ゑては棗を食らふ。

天下に浮游し、四海

に敖ぶ。

名山を徘徊

し、芝草を采る。

は金石

の如く、天

の寶に至らん。

王莽代になると、少府屬官

の尚方

50

前漢鏡銘の研究

この銘文は

つづく漢鏡五期

にも多用されているが、泰山や華山に仙界を想定する鏡銘はそれ以後

に少なくなる。また、仙

の飮食も

「玉英を食らひ醴泉を飮む」から

「渇

いては玉泉を飮み飢ゑては棗を食らふ」に變化して

いる。

このよう

に遊仙

のありさまを歌う銘文

のほか、銘文四三〇~四三二の

「壽敝

(如)金石西王母」や銘文四三三

「壽如

王喬赤松子」など祚仙

の名をあげ

て長壽を祀頌する句

がある。そこでの西王母は、仙人

の王子喬

・赤松子らと同じよう

不老不死の神格とみなされているが、漢鏡四期

の銘文にそ

の名

があらわれた

のは、『漢書』五行志

哀帚

の建平

四年

(前三)…其

の夏、京師

・郡國

の民は里巷

・仟佰

に聚會し、博具を設張し、歌舞して西王母を祠る。

又た書を傳

へて曰く、母は百姓に告ぐ、此の書を佩びる者は死なず、我が言を信ぜずんば、門樞

の下を覗よ、當

に白

髮有る

べし、と。

とあ

るように、このころ西王母が民厭

のあ

いだ

に爆發的な信仰を集めたことと關係があろう

〔小南

・一九七四/岡村

・一九八

八〕。西王母は戰國時代末期

に成立したとされる

『山海經』に

「其

の状は人の如く、豹

・虎齒」と

った牛人孚獸

の恐

ろし

い姿

で登場し、王子喬

・赤松子も

『淮南子』泰族訓に

「王喬

・赤松塵挨

の聞を去り、群慝

の紛を離れ、陰陽の和を吸

ひ、天地の精を食

ひ、呼して故を出し、吸して新を入れ、虚を踝んで輕く舉り、雲に乘り霧に游ぶ」とあ

って、前漢前期

には支配者層

のよく知る神仙

であ

ったが、

一般

の人びと

の信仰を集めるよう

になるのは、瑞鮮

の圖像を描き、祚仙思想を

反映した銘文をも

つ漢鏡四期

の鏡が民閲にひろく流通する前漢後期

に下るのであろう。

以上のように前漢鏡

の銘文は、時期ごと

に大きく變化した。それは古典籍に記録された詩歌とは異なり、民間にひろく

流行し、人びと

のあ

いだ

に歌

い繼がれてきたも

のであ

った。型式學

の方法

によ

って鏡を編年し、銘文

のおこなわれた時期

を調

べることによ

って、そう

した世相

の流れを復元することができるのである。本集釋を解読した本稿は、考古學からの

試みのひと

つである。文學史

や思想史など中國學

の各分野から檢討

いただければ、本稿

の目的は逹せられたことになる。

東 方 學 報

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東 方 學 報

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54

The ToM GakuM Journal of Oriental Studies (Kyoto) No. 84 (2009) 1 ~ 54

A Study of Mirror Inscriptions of the Western Han Period

Hidenori OKAMURA

Chinese bronze mirrors are highly appreciated by Chinese and Japanese archae­

ologists, for they are particularly useful for chronological studies. Aside from the ac­

tual design, inscriptions can be found on a great many mirrors of the Han age. The

mirror inscriptions have already been transcribed, first by Song dynasty scholars,

and then by Qing dynasty epigraphists. In 1920s, Luo Zhen-yu published a fairly

extensive collection of mirror inscriptions, and depended implicitly on his deciphering

B. Karlgren collected 257 lines in his "Early Chinese Mirror Inscriptions" (BMFEA,

No.6, 1934) and made an extremely important interpretation of the meaning. Many

of mirror inscriptions are versified, Karlgren as a Western pioneer of Chinese lin­

guistics also indicated the rimes throughout.

I organized the Research Project on Chinese Mirror Inscriptions to make a safe

interpretation of all the inscriptions known so far, and to investigate the changes of

the poetry style during 400 years of Han dynasty. According to my chronology, the

Western Han mirrors can be roughly divided into four period. Many of the inscrip­

tions of Period II and III are composed of lines of four-character or three-character,

and some of them were imitative of poetic style of Chu Ci (~iiJ$) and on this

ground generated the seven-character verses known as Bai Liang (m!Jll;:) style.

The seven-character verses were popular in Period IV, frequently referred to the

Confucian scheme conceived the cosmos as the si-shen and presence of Yin Yang

Wu Xing and also to the existence of the immortal beings. The latter half of this

period was in the time of Wang Mang, he spread propaganda about his political

achievements in the mirror inscriptions.

308