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Title <書評>井上進著『明淸學術變遷史 : 出版と傳統學術の臨 界點』 Author(s) 伊東, 貴之 Citation 東洋史研究 (2014), 72(4): 623-637 Issue Date 2014-03-31 URL https://doi.org/10.14989/219436 Right Type Journal Article Textversion publisher Kyoto University

Title 井上進著『明淸學術變遷史 : 出版と傳統 …repository.kulib.kyoto-u.ac.jp/dspace/bitstream/2433/...精 神 と も 稱 し 得 る 大 著 ﹃ 中

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  • Title 井上進著『明淸學術變遷史 : 出版と傳統學術の臨界點』

    Author(s) 伊東, 貴之

    Citation 東洋史研究 (2014), 72(4): 623-637

    Issue Date 2014-03-31

    URL https://doi.org/10.14989/219436

    Right

    Type Journal Article

    Textversion publisher

    Kyoto University

  • 井上

    �著

    �淸學�變��

    ︱︱出版と傳瓜學�の臨界點︱︱

    本書は︑著者・井上�氏の著作のうち︑漢籍の目錄類などの�

    著や譯

    ・補

    などを除く︑單行著としては︑四册目に當たる︑

    きわめて浩瀚な大著である︒周知の如く︑從�の井上氏の著作と

    しては︑公刊年順に︑旣に單著として︑どちらかと言えば︑�蒙

    �な�傳風の﹃�炎武﹄(中國歷�人物�・一〇︑白�社︑一九

    九四)を嚆矢とし︑�いで︑出版���に關わる專著として︑た

    んなる��としての枠組みや﹁書物の社會�・���﹂といった

    域を大きく超えて︑傳瓜中國のほぼ�體に亙る︑政治社會�や學

    �思想�︑ いては︑廣義の精神�とも稱し得る大著﹃中國出版

    ���︱︱書物世界と知の風景﹄(名古屋大學出版會︑二〇〇

    二)を經て︑やはり書物や出版をめぐる︑個別の書誌學�・�獻

    學�な論攷を蒐集した﹃書林の眺#︱︱傳瓜中國の書物世界﹄

    ($凡社︑二〇〇六)があり︑本書は︑それらに�ぐものである(1)︒

    しかるに︑本書こそは︑これまでの井上氏の硏究上の履歷や足

    跡を知る︑大方の讀者にとって︑無論︑斯界や後學にあっても︑

    永らく鶴首され︑待ち#まれた︑�字どおり垂涎の書とも言うべ

    き位置にあろう︒それは︑一見すると︑迂闊な讀者なら︑些か訝

    しく思うやも知れない︑本書の叙述上の&成にも大きく起因して

    いる︒以下︑本書に(載の各論攷の初出とともに︑本書の目�の

    大槪を揭げるものであるが︑それぞれの論攷の+にもとになった︑

    シンポジウムなどでの口頭發表に關しては︑﹁あとがき﹂に詳し

    いので︑そちらに讓り︑活字�された初出誌とその刊行年のみを

    ,せて記載しておきたい︒

    第一部

    第一違

    ��の-と俗

    (↓﹃中國︱︱社會と��﹄第二一

    號︑中國社會��學會︑二〇〇六︑に(載の同名

    の論�にもとづく)︒

    第二違

    �代�./の出版と學�

    (↓﹁�代中/の出版と學

    �風氣﹂︑﹃名古屋大學東洋�硏究報吿﹄二九︑二〇

    〇五︑竝びに︑﹁論�代�/出版�變�與學�﹂︑

    ﹃北大�學﹄第一四輯︑二〇〇九︑に據る)︒

    第三違

    �代活版考

    (↓﹃名古屋大學東洋�硏究報吿﹄三

    四︑二〇一〇;

    ↓なお︑同論はまた︑これに先立

    つ﹁�代活字本小考﹂︑CreatingandKeepingRe-

    cordsinKorea:The2ndKyujanggak(奎違閣)

    InternationalSymposiumonKoreanStudies,2009

    の改訂版である)︒

    第四違

    �末の出版瓜制

    (↓﹃名古屋大學東洋�硏究報吿﹄

    ― 71 ―

    623

  • 三二︑二〇〇八)︒

    第五違

    �末のP諱をめぐって

    (↓﹃名古屋大學東洋�硏究

    報吿﹄二五︑二〇〇一)︒

    第六違

    出版の�末淸初

    (↓﹁�末の出版と出版瓜制

    (�

    �)﹂︑磯部頴�﹃東アジア出版���

    こはく﹄︑

    知泉書館︑二〇〇四︑にもとづく)︒

    第二部

    第七違

    漢學の成立

    (↓﹃東方學報﹄六一︑一九八九)︒

    第八違

    復社の學

    (↓﹃東洋�硏究﹄四四−

    二︑一九八五︑

    にもとづいて訂補)︒

    第九違

    樸學の背景

    (↓﹃東方學報﹄六四︑一九九二)︒

    第十違

    六經皆�說の系�

    (↓小野和子�﹃�末淸初の社會

    と��﹄︑京都大學人�科學硏究(︑一九九六)︒

    以上を瞥見するなら︑Tった時代�に見れば︑別段︑倒叙法と

    いう譯ではないのだが︑�末淸初から淸U一代に至る學�思想�

    の變�を集V�に論じた︑第二部のもとになった論攷の方がより

    古く︑その多くが一九九〇年代に初出誌に揭載されたものである

    のに對して︑その後︑二〇〇〇年代に入ってから公表された︑W

    として出版��や國家權力による出版瓜制を�じて︑�代の社會

    相や學�風氣を炙り出した︑より怨しい論�群が︑Xに第一部を

    形づくるという體裁となっている︒

    そのY味では︑これは︑一瞥した限りでは︑著者の學問�な問

    題關心の推移を恰も時閒�に�っていくような&成とも映る︒こ

    こで甚だ僭越ながら︑個人�な體驗に言[させて頂くなら︑實際︑

    著者よりも︑十年ほども遲れて︑斯界の末席に列なった�者の場

    合︑本書に收載された論攷のうち︑第八違に相當し︑時閒�に�

    も先行する﹁復社の學﹂は︑かなり時日を經過した後に漸く繙い

    たのに對して︑二番目に古い﹁漢學の成立﹂からは︑ほぼリアル

    タイムで︑槪ね初出誌上でも閱讀してきたような�第である︒お

    そらく︑�者と同じく︑陸續と上梓される著者の成果から︑常々

    裨益を^けてきた讀者のなかには︑ほぼ一九九〇年代.ばから︑

    取り分け二〇〇〇年代以影︑著者の井上氏が︑元來の出發點でも

    あった�淸の學�・思想�の內實の考究から︑徐々に關心領域の

    重點をシフトされ︑恰も書物世界それ自體の直中に沈潛されてゆ

    かれたかのような︑結果としては早合點に過ぎない︑些かの`解

    をaいた向きも︑あるいは少なからずおられたやも知れない︒

    だが︑本書の行論などにおいて︑井上氏自身も屢々述懷される

    如く︑氏の硏究對象の表面�な變�や推移は︑むしろ考察のため

    の方法論上の衣同に過ぎないと見るべきであろう︒當初から目指

    されていたのは︑�代の出版�や出版狀況をRり直すことを�じ

    て︑淸代の學�や思想にも連なるであろうと目される︑その學�

    の動向や時代�な風尙を�らかにし︑ いては︑�淸の學�に一

    貫して�底するエートスの在り處やその論理&eを描出しようと

    されるもので︑fくまでも一貫した問題關心に荏えられたもので

    あった︒本書を丹念に一讀すれば︑この兩者が︑深い內在�な連

    關をgって︑hに本書自體の&成のみならず︑氏の學問世界を&

    築していることが感得されようし︑勿論︑�代を中心とした︑出

    版��に關する硏究や考察の方も︑たんなる迂路でも︑況してや

    著者がieして言われる﹁雞肋﹂などでは+になく︑著者ならで

    ― 72 ―

    624

  • はの周到で緻密な成果を上げたことは言うまでもない(2)︒しかるに︑

    にも拘わらず︑むしろ初/の作になる︑�淸の學�・思想�プロ

    パーの諸論攷が再錄されたことで︑やはり本書は︑�字どおり滿

    を持して上梓された︑待#︑渴仰の書と言わねばなるまい︒

    すなわち︑一つには︑その閒のm妙な差衣や屈曲︑wれや歪み

    をも含めた︑�淸兩代の學�の聯續性の如何という︑斯界年來の

    大問題に對する︑井上氏の見識や斷案が︑改めて掌を指すが如く

    に熟知し得るという點で︑また︑別樣の見方をするなら︑出版を

    めぐる政治社會�や���など︑その後の知見をも含みnむよう

    なかたちで︑いま一度︑著者の初發の地點に回歸し︑立ちoるこ

    とで︑現時點での氏の學問世界が︑いわば圓pを閉じるようなY

    味でも︑斯界の里q標となるべき著作と言うことが出來よう︒

    さて︑本書�體の&成やその成立の經雲に�いで︑ここで︑各

    違のあらましを紹介しつつ︑具體�な內容を槪觀していきたい︒

    まず︑�.の第一部は︑著者も言われる如く︑宋學以來の內面

    W義を極端なまでに推し�めた︑內なるW觀W義の權�のような

    陽�學が︑その展開の行き着いた結果︑圖らずも外なる客觀W義

    へのrを準備していたのではないか︑との�提のもとで︑﹁淸代

    の學�に聯なるであろう外なる知識の學問が︑�代においてどの

    ように生じてきたのか︑そのことを基本�な問題として常にY識

    しつつ︑�代の出版�をたどろうとしたものに他ならない(3)﹂︒そ

    のY味では︑著者の立場は︑大枠では︑その師筋に當たる︑島田

    虔�氏の(說を踏襲しつつ︑一面では︑それを補強しながらも︑

    他方では︑+に一步︑踏みnんで︑�淸の學�の聯關の(以を解

    き�かそうとされるものである(4)︒

    もっとも︑�代の出版狀況の如何や出版瓜制など︑その現象面

    に關する叙述の表層をRる限りでは︑恰も舊著﹃中國出版���

    ︱︱書物世界と知の風景﹄の後.部で展開された︑同時/につ

    いての槪說や��のより詳細な各論といった趣がある︒すなわち

    ﹁正學﹂たる欽定朱子學の壓倒�な權威のもと︑また國初や草創

    /ゆえの社會�な狀況とも相俟って︑寥寥たる出版の貧困や單u

    にvられた�代�./から︑一轉して�代後./に入ると樣相は

    w變し︑夥しい洪水のような物量をgって︑出版の�俗�が強力

    に�展するとともに︑�-の境界さえ溶解しかねない︑野放圖な

    事態が現出するに至る︒著者は︑取り分けこうした�末�な現象

    にこそ︑中國傳瓜��の臨界點を見るのだが︑淸代に至って︑無

    論︑過去の單純な再現ではないとは言え︑それは︑ある種の﹁回

    歸﹂や$穩︑x熄へのrに向かうとされる︒その他︑本書では︑

    �著﹃書林の眺#︱︱傳瓜中國の書物世界﹄などと同樣︑中國

    や臺灣のみならず︑丹念なu査によって︑各地の日本現存漢籍も

    幅廣くy搜︑涉獵され︑それにもとづく怨たな知見も踏まえられ

    ていることが特筆されよう︒

    第一違﹁��の-と俗﹂では︑まずは︑經籍を中心とする宋元

    版から︑�代坊刻本に至る︑體裁や體例の變�をRりながら︑い

    ま詳言する紙幅はないが︑書物それ自體の裡にも刻印された︑顯

    著な俗�現象を{|しつつ︑そうしたいわば讀書の俗�から︑正

    瓜�な�-に對しても︑やがて鄙俗が自己を肯定し︑伸張させる

    とともに︑-俗の混淆や�-の變容という事態が︑徐々に顯在�

    していく樣相を活寫する︒そこでは︑士人による讀書や書物の獨

    ― 73 ―

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  • 占が破られ︑商賈や書賈が自己W張を始め︑淸玩にも堪える版畫

    の利用や封面などのさまざまなY匠とともに︑官刻や家刻などの

    非營利本ではない︑端�に商品としての書物が登場し︑液行する

    に至る︒李卓吾なり︑その名を}った︑批�つき�俗�學書の類

    は︑中下層の周邊�な士人の閒では︑淸代に入ってもなお愛好さ

    れ續け︑かくして�末の�俗���は︑淸代にあっても︑伏液�

    しつつ︑存續したとされる︒

    第二違﹁�代�./の出版と學�﹂では︑やはり﹁正學﹂のイ

    デオロギー�な制Vにより︑あるいは︑民閒における出版物の殆

    どが福円・円陽の產になるような︑出版の極度の集中といった狀

    況下︑堂々たる古典�著作の復刊でさえ︑漸く�代中/を俟って

    であることが︑�らかにされる(5)︒�いで︑寧波など浙江の相對�

    な不振の一方で︑徽州本︑北京坊刻本などの登場を見る︒やがて

    從來の﹁正學﹂に對して︑徐々にではあるが︑聞見の知をr德知

    から解放し︑畢悦︑﹁事﹂の學である﹁�﹂や﹁�﹂の領域の自

    己肯定を�じて︑﹁義﹂や﹁理﹂の{求とは︑ひとまず別個の價

    値をめ得る機が釀成されてくる︒そして︑強靱な﹁內﹂の確

    立を目指した王陽�の良知說こそが︑そのW觀�なY圖を裏切っ

    て︑かえって﹁外﹂なる﹁事﹂に關心を向け︑それを﹁義﹂の拘

    束から解放する︑原理�な契機を與えたことを示唆する︒

    本違中︑取り分け︑入矢義高氏の(論を引證しつつ︑いわゆる

    擬古のW張のなかに︑むしろ陽�や後の反擬古とも符を合

    するような立場を看取する邊りなど︑蓋し卓見というべきであろ

    う(6)︒この點︑陽�學などから結果した﹁內﹂と﹁外﹂との雙方向

    �・對他�なp液や反轉とも$仄が合い︑また︑古�辭や悦陵

    ︑公安などの諸の內在�な關聯を看過して︑殊+に衣別�

    するような︑�俗�な�學�觀への頂門の一針でもあろう︒しか

    るに︑同時に著者は︑片言隻句の類似を以て︑直ちに思想�な親

    性を指摘するような︑些か性wな論斷を常に愼重に回Pしてい

    ることも︑忘れてはならないだろう︒例えば︑一見︑﹁自己の胸

    臆﹂から液出する﹁性﹂の﹁眞﹂を顯揚した︑袁宏rとも見紛

    う如き述懷をめた︑蜀懷王の言說に觸れて︑むしろそれが︑自

    己と旣成r德との完�な一致や同�をY味するに過ぎないことを

    指摘したり︑同じく相似たW張に見えて︑宋末のr學者・南宮靖

    一の言う﹁經�﹂の合一が︑﹁事﹂に假りた﹁義﹂のW張︑﹁事﹂

    を﹁r﹂に解するものであり︑って︑正德年閒に何景�がW

    張した﹁經�﹂の合一は︑Xに﹁r﹂を﹁事﹂の裡に取りnもう

    とする︑いわば﹁六經皆�說﹂にも�じるものであって︑そのベ

    クトルが正反對である點に

    Yを喚起していることなどが︑それ

    である︒

    第三違﹁�代活版考﹂では︑まず蘇州や杭州など︑�初/の江

    浙地域が︑大きな打擊を^けて︑その先�性や優位性を低下させ︑

    當時の�壇で一世を風靡した李夢陽や何景�らも︑總じて江南出

    身者に非ざることなどに觸れた後に︑弘治から嘉靖年閒に至って︑

    �國�な古典復興の氣とも相俟って︑俄然︑江南において活字

    本が量產されたこと︑そこではやはり知識や�違の學問︑r學に

    對する﹁��﹂や﹁事﹂の學問が好まれたことに留Yする︒同時

    に︑活版印刷の技��な限界を指摘して︑それが必然�に整版へ

    と移行せざるを得なかった(以を考察するとともに︑ほぼ同時代

    の日本の活字本のほか︑活版印刷��を誇ったU鮮の出版��な

    ― 74 ―

    626

  • どとの比�の必性にも言[する︒

    �いで︑第四違﹁�末の出版瓜制﹂︑竝びに︑第五違﹁�末の

    P諱をめぐって﹂では︑著者自身も言われる如く︑王U國家によ

    る��瓜制︑政權の對士人對策という觀點から︑�淸兩王Uの相

    應の聯續性を論じたものである︒第四違では︑弘治・正德から︑

    �末の萬曆︑崇禎︑そして︑淸初の政權へと時代を{って︑衣

    說・衣論や書院・學への禁壓︑�體の釐正や風氣︑士の瓜制

    などの諸相を槪觀する︒淸Uは︑�Uが解決し得なかった課題に

    ついて︑強權を以て見事にこれを封じnめることに成功する︒だ

    が︑順治�の﹃御製人臣儆心錄﹄や雍正�の﹃御製黨論﹄に象

    されるような︑恰も君Wの﹁好惡﹂がそのまま﹁公﹂であるか

    のような體制下では︑士人の處世もまた︑自己欺瞞や撞着に滿ち

    たものとならざるを得なかったことが示される︒第五違では︑魏

    忠賢政權など︑�末に至るほど︑些か神經症�なまでに言擧げさ

    れた﹁P諱﹂の問題から︑そうした國家瓜制の內實にろうとす

    る︒一面で些事とも言える﹁P諱﹂に拘泥する勢は︑淸Uに

    よっても引き繼がれるが︑卑見では︑それは乾隆/の禁書政策な

    どと同樣︑むしろかなり形式�︑場當たり�なものと見るべきで

    はなかろうか︒

    �.部を閲めくくる︑第六違﹁出版の�末淸初﹂では︑�末刊

    本と淸刊本の不聯續︑すなわち︑版畫の水準の劣�や蓮牌木記の

    滅など︑兩者の版刻の風氣やY匠の差衣から︑擧業書や類書︑

    醫書などをはじめ︑俗書たる坊刻本で一世を風靡した︑円陽を中

    心とする福円・その他の凋落︑書賈の自己W張の後など︑總じ

    て兩者の斷絕が強uされる︒淸代の版畫と言えば︑山水圖と殿版

    に代表されるが︑それは一種の屈さや單uさへの回歸でもある︒

    また︑�末の俗書業界には︑第二︑第三の李卓吾とも言うべく︑

    多くは下層の士人に過ぎなかった︑陳繼儒︑鍾惺︑艾南英︑馮夢

    龍といった書林の﹁先生﹂が存在したが︑淸初/になると︑かか

    る大立者も地を拂うかに見える︒康煕Uの八股�の停止といった

    措置も{い打ちを掛けたろう︒かくして︑淸代の出版��は︑�

    末に比して︑著しく單uなものと�し︑商業性や�俗性︑實用性︑

    同時代性などを大きく減させ︑ここに�末の餘風はその命を

    絕ったことが指摘される︒

    後.の第二部を&成する各論攷は︑�述したとおり︑その執筆

    時/も︑十餘年以上︑�るもので︑�淸の閒の學�の變�や隆替

    それ自體に焦點をり︑分析と考察の俎上に載せたものである︒

    まず︑第七違﹁漢學の成立﹂では︑冒頭︑淸代の學�を特づ

    ける漢學の內實の如何について︑皮錫瑞や梁�超から︑錢穆︑侯

    外廬︑嵆�甫︑余英時らの(說を紹介しつつ︑聞見の知とr德を

    無關係なものとした王陽�やその末液の立場こそが︑知識をr德

    への隸屬から解放するというY味で︑むしろ古學動とも契合し︑

    かえって知識W義へと趨向する契機を孕んでいたものと推斷した

    上で︑�代の心學から淸學への�深部での聯續性を示唆する(7)︒

    �いで︑屢々漢學の先蹤とも目される錢i益から︑﹁非無法﹂

    と誹られた鍾惺の�經︑﹁謬種﹂と論斷された季本︑郝敬ら�代

    の經學を檢討していく︒勿論︑それらは︑乾嘉/などに見られる

    考據の精度には比すべくもないし︑時に謬論︑臆說と言わざるを

    得ない︑荒りな見解も含まれるが︑同時にそこには︑傳

    の權

    ― 75 ―

    627

  • 威や束 ︑旣成の先入見などに囚われず︑自己の識見のみを恃み

    に︑自らの考えで正解を求め︑恰も素手で虛心にテキストと向か

    い合うかのような︑�末�な感とでも言うべきものが深く潛ん

    でいた︒そうであればこそ︑特に郝敬に關しては︑それぞれの�

    價のq度やスタンスこそ衣なるものの︑黃宗羲︑胡渭︑萬斯大︑

    閻若璩︑�祖#︑姚際恒らの錚々から︑江戶/の考證家まで︑

    擧って彼の言說や業績を著しく

    視していた譯である︒續く郝敬

    の經學�般︑また︑その密かな繼承關係の絡の檢證こそは︑こ

    れまで動もすれば︑等閑視されがちであった�代經學の實相を解

    �するものとしても︑本違︑否︑本書中の壓卷でもあり︑著者の

    眞骨頂でもあろう(8)︒

    さて︑著者は︑郝敬の﹃九部經解﹄を順�︑繙いていく︒彼は︑

    經書を﹁經﹂であるよりも︑﹁書﹂や﹁�﹂として見つつあった︒

    まず﹃易﹄については︑義理易の立場から︑專ら人事を重んじて︑

    その神秘性を否定し︑﹃書﹄については︑辨僞としては︑粗略で

    印象�︑初步�なものながら︑古�僞書說を唱え︑﹃詩﹄﹃春秋﹄

    を﹁�﹂と捉えた彼は︑﹃詩﹄に關しては︑自らのYで作者の志

    に�じるべきこと︑斷違取義こそが學詩の領とさえ述べて︑

    ﹁本義﹂を否定し︑﹃春秋﹄の是非に至っては︑經書の側ではなく

    己の側にこそ在ると說く︒また︑彼にとって︑禮の經書は存在せ

    ず︑﹃周禮﹄﹃儀禮﹄を端�に﹁古書﹂として見た︒って︑性と

    天rを語らず︑民の義を務め︑下學上¦を說いた﹃論語﹄を﹁六

    經の精華﹂として稱揚する一方で︑その解釋は己に由るとして︑

    その他の權威を無力�するY味合いもあった︒

    �いで︑こうした郝敬の經說の先驅をRり︑﹃易﹄では︑胡居

    仁から︑崔銑︑楊愼︑吳廷ï︑歸¨光ら︑古�僞書說では︑梅鷟︑

    焦竑ら︑﹃詩﹄では︑夙くは丘濬らの系�を¬き︑﹃春秋﹄に關し

    ては︑﹁經﹂に泥まず︑﹁事﹂に存する﹁義﹂を我が﹁心﹂に求め

    れば足る︑とした湛若水︑+には︑く隋®に淵源する﹁舍傳求

    經﹂の風︑あるいは︑人に直接︑聯なろうとする宋學の息吹な

    どとの類似性を指摘する︒また︑萬世常行の義こそが禮の經であ

    るとして︑﹃禮記﹄の哲學性は�價するものの︑﹁三禮﹂は經に非

    ずと斷じた彼の立場は︑胡宏らを+に�めて︑禮の器數と義とい

    う問題から︑經書を﹁事﹂や﹁書﹂として捉え︑﹁義﹂は﹁內﹂

    なる﹁心﹂の問題として︑相對�に獨立する方向を¬き︑﹁經﹂

    と﹁書﹂の分裂へと結果する︒そして︑こうした立場こそ︑﹁內﹂

    をW張することで︑經書すら﹁わが心の記籍﹂として﹁外﹂面�

    してしまう︑王陽�の(說と�底するものであることが論證され

    る︒郝敬の﹁心﹂や自己への﹁信﹂は︑﹁氣﹂を第一とする存在

    論に基礎づけられていたが︑﹁心﹂という﹁內﹂なる問題が︑(

    與のものとして解決されるや︑かくして︑學問のWな對象や問

    題は︑﹁外﹂にこそ在るとされ︑聞見の知︑y學︑政事︑�や�

    が︑それ自體として︑本質�なY味や價値を持つに至るのであっ

    た︒そ

    して︑�炎武らに體現された︑﹁�﹂が﹁經﹂と拮抗するよ

    うな︑﹁事﹂の學︑知識の學としての漢學の精神こそは︑郝敬︑

    いては︑�末の學の後裔であった︒その他︑郝敬と陳第や王龍

    溪らとの親性も示唆される︒著者はまた︑﹁內﹂から﹁外﹂へ

    のシフトにg走して︑顏元や戴震︑q瑤田や凌廷堪など︑時に

    ﹃荀子﹄との類似や符合をも思わせるような︑﹁理﹂より﹁禮﹂を

    ― 76 ―

    628

  • 重視する潮液にも言[する(9)︒ところで︑﹁經書﹂を﹁古書﹂とし

    て捉える︑こうした漢學の立場を窮極まで推し�めるなら︑經學

    の自己否定︑その﹁�學﹂への改鑄へと結果する筈であった︒だ

    が︑﹁六經は°�を±び︑百行はq朱に法る﹂(惠士奇)といった

    言表に象される如く︑﹁義理﹂の世界を依然としてq朱の學に

    委ねざるを得なかった當時において︑それは²に果たされず︑淸

    學もまた︑�學のある種の﹁³さ﹂を繼承したことを´示して︑

    本違は閉じられる︒

    續く第八違﹁復社の學﹂は︑著者の井上氏が修士論�をもとに

    練り直した︑�國�な學會誌へのデビュー作と言うべき論�がも

    とになっている︒著者は︑�末黨爭�における﹁淸議﹂の掉尾

    を¶る︑﹁小東林﹂たる﹁復社﹂系の人士をめぐって︑Wとして

    旣存の硏究が︑その政治・社會動の側面に集Vされがちであっ

    たのに對して︑むしろ學�・思想の面から︑これを專論しつつ︑

    彼らが︑その﹁古學﹂や﹁¨用﹂性への志向︑﹁任俠﹂﹁衣人﹂�

    な傾向などから︑高攀龍や�憲成︑鄒元標︑黃宗羲ら︑東林系

    の人士︑梅鷟や陳第のような�季の考據家はもとより︑泰州學

    や李卓吾︑+には︑何心隱らの如き﹁心學﹂の﹁橫液﹂と目され

    る人びととさえ︑何某か共�する心性や思想�傾向を¨していた

    ことを論證する(10)︒具體�には︑復社の領袖たる張溥︑¹社系の中

    心人物で︑﹃皇�經世��﹄を�纂した陳子龍らの經書や經世の

    學をめぐる議論や學問觀︑その友人で︑﹁一大物理世界﹂を&想

    した方以智の獨自の哲學體系と識論などを俎上に載せ︑それら

    の可能性と限界とを考察する︒

    �いで︑第九違﹁樸學の背景﹂は︑著者も言われる如く︑その

    執筆時/からしても︑第七違﹁漢學の成立﹂の續�︑ないしは︑

    第七違を內ºとすれば︑その外ºに當たるものである︒元來は︑

    學問の內容ではなく︑形式の名であり︑自由闊¦とはqい︑只

    管︑古書や個別の事の裡に沒頭し︑自らの思想や感を表現する

    ことを園底して抑制し︑回Pする︑ある種︑畸形�なまでの禁欲

    �な美學を持つ﹁樸學﹂は︑如何にして生まれたのか︒淸U漢學

    の裡に底液し︑伏液水�する�學の精神を示唆する著者は︑同時

    にまた︑淸Uによる士人の瓜制の奏效という點をも強uして已ま

    ない︒それは︑試行錯`の中で始まった順治Uの士人瓜制から︑

    內からの瓜制を目指した康煕Uの﹁正學﹂鼓吹︑�いで︑體制の

    Y志を剝き出しに︑恐怖に訴えるかのような︑些か強權�な雍正

    Uの瓜制策を經て︑右�政策と禁書や�字獄とを,用しつつ︑內

    面の如何は兎も角︑外面�には絕對�な°從をるという︑乾隆

    政權の諸政策によって︑いわば究極點に¦するとされる︒それは︑

    江南の科場案や奏銷案︑復社の活動などに顯著に見られた︑�末

    �な士風の肅正と根絕にこそ焦點があり︑江南などで見られた︑

    紳權の政權に對する優位を否定し盡くすことにこそあった︒

    著者は︑こうした一聯の施策の結果︑士人たちは︑存外︑あっ

    さりと敗北し︑政權への»合や媚態に轉�したと見る︒かかる體

    制下での士人の態度は︑必然�に︑一種の諦觀やシニシズムにv

    られたものとなろう︒また︑復社の人士たちの呆氣ない轉向に�

    いで︑�炎武や黃宗羲らの政權&想の非現實性や無力が強uされ

    る︒かくして︑著者は︑淸U一代を曾て代西歐が表象したよう

    な︑閉塞と停滯の時代として結論づけるのである︒

    �x違の第十違﹁六經皆�說の系�﹂は︑一面でやはり先行す

    ― 77 ―

    629

  • る島田虔�氏らの硏究を¼衍し︑發展させたものと言えよう(11)︒す

    なわち︑�常︑違學½がそのW唱者であると�念されている﹁六

    經皆�﹂說について︑Xに經書の絕對性や至高性を強uするが故

    の古來︑屢々W張された經�合一說との辨別に

    Yを拂いながら︑

    その淵源として︑王陽�はおろか︑﹁六經はわが心の]脚﹂とい

    う陸象山にそのい谺を聞き︑影っては︑むしろ﹁六經皆�﹂と

    も稱すべき王世貞から︑胡應麟︑何良俊︑陳第らの�代の人士の

    系�をRっていく︒他方︑違學½の(說の繼承と波¾︑淸末/に

    至る^容と液行の樣相を詳述した邊りに︑やはり著者の技倆や炯

    眼があろう︒曰く︑公羊學の驍將︑龔自珍︑あるいは︑蔣湘南

    や譚獻・その他のむしろ中下層の人士たちへの滲Àぶり︑+には︑

    劉毓崧らを經て︑劉師培に至り︑諸子學を解放し︑傳瓜學�の總

    體を﹁國學﹂へと改鑄することで︑²にはそのx局を見るとされ

    る︒また︑公羊學との接點と衣同にも

    Y深く言[される︒

    本違でもまた︑﹁內﹂なる問題が原理�な解決へと¬かれ︑

    ﹁經﹂の﹁義﹂が完�に﹁內﹂なるものとされ︑己の﹁義﹂から

    見れば︑經書すら﹁外﹂の範疇に屬するものと見做されるとき︑

    自身と經書との內在�聯關もまた︑理論�には喪失されること︑

    ﹁事﹂の學問の立場から︑經書もまた︑古の典違制度や掌故を

    盛った﹁�﹂として見たとき︑そこに一般の�書との徑庭は︑本

    質�に解されることが︑縷述される︒

    以上︑周到綿密で︑蘊奧をきわめた浩瀚な本書を�者なりに槪

    觀することで︑多くの紙幅を費やしたが︑�後に︑あるいは︑僭

    越の譏りを免れないやも知れぬが︑ごく鯵單に︑�體を�じての

    印象や若干の疑問點︑著者への希#などをめておきたい︒

    まず︑著者の言われる�學から淸學への推移を象する&圖と

    して︑﹁內﹂から﹁外﹂へというシフトや轉奄が擧げられるが︑

    本書に收載された諸論攷を改めて讀み直してみて︑印象深かった

    ことには︑﹁知識W義

    (r問學)﹂と﹁反知識W義

    (±德性)﹂の

    兩者の隆替や相克として︑朱子學以影の世思想�を描出された

    余英時氏の觀點が︑動もすれば些か表層�な衣同を強uし過すぎ

    るいがあるのに對して︑思想の�み行きのトレースとしては︑

    結論として︑相似た部分を含みながら︑井上氏のそれは︑﹁內﹂

    の問題が原理�な決着を見ることで︑﹁外﹂への興味や關心が釀

    成されるという︑相互�で對他�・對自�な契機やX轉とp液の

    ダイナミズムを含み︑あるY味で哲學�︑實存�とも言うべき考

    察をgった問題&制となっている點に特があろう︒また︑�學

    から淸學への基本�な聯續性という點に關しても︑�體�な力點

    としては︑島田虔�氏の見�しより︑より少しく踏みnんだ印象

    を覺えた︒

    しかるに︑言われることのY味は良く分かるのだが︑同時に

    ﹁義﹂の學から﹁事﹂の學へ︑﹁經﹂やr德と﹁�﹂﹁�﹂の分裂

    や後者の自立︑﹁經學﹂の﹁�學﹂や國學︑諸子學などへの改鑄

    や變貌に︑代�な實證の學問への�展をめるという︑基本�

    な&eの裡には︑やはり何某かの�步�觀︑と�するのが大仰な

    ら︑やはり代W義�な見方が刻印されているのではあるまいか︒

    って︑些か大膽な物言いをするなら︑﹁義理﹂と﹁經世﹂や

    ﹁��﹂との聯結が︑²にÃ絕えなかったことの方を再�價する

    ような立場とて︑一槪に否定し去ることは出來ないのではないか︒

    ― 78 ―

    630

  • 事の當否の問題と言うより︑それは畢悦するところ︑��の質や

    型の相Äの問題かも知れないからである︒また︑事實�な識と

    しても︑例えば︑D・ニブスン氏らの如く︑違學½の(說をヘー

    ゲルのそれに準えるような議論は︑些か極端な見立てだとは言え

    ようが︑やはり彼は﹁事﹂の根柢に貫園する﹁r﹂への強烈な志

    向性を秘めていたのではなかろうか(12)︒

    また︑r德知と聞見の知︑ないしは知識としての學問の分離と

    いう觀點から見ても︑少なくとも︑王陽�なり︑郝敬なりの生き

    た時代︑�代中葉から�末︑十六~十七世紀の時點で考えれば︑

    むしろ中國の相對�な先�性は︑彌が上にも強uされて然るべき

    であろう︒熱氣をgった思想�なムーブメントという點では類似

    してはいても︑陽�學の發生とほぼ時を同じくするルターの宗敎

    改革なり︑それに對抗した反宗敎改革なりは︑著しく宗敎�な

    動であって︑中國の思想��の世俗性には︑際立ったものがある

    し︑西歐の場合とて︑宗敎�な權威に抵抗して︑�蒙思想が怨知

    見を拓き︑キリスト敎の影Æ力が相對�に減衰するのは︑早く見

    積もっても︑せいぜい十七世紀の末︑やはり何と言っても十八世

    紀を俟たねばならなかった︒その他︑宗敎改革の�提件として︑

    印刷�の�步が存したことは︑�早︑定論と言って良かろうが︑

    Xに�代における出版��の隆盛に關しても︑�學の精神の顯現

    といった側面のみならず︑銀の液�の飛Ç�な增大など︑當時の

    世界大での經濟�好況にも影Æされ︑惠まれるところがあったよ

    うに推察される︒

    さて︑著者は︑底液や深層においてではあれ︑�淸の學�の基

    本�な聯續性を指摘される一方で︑それが淸代において強權�に

    封じnまれたとの立場に左袒される︒もっとも︑著者の場合︑そ

    れは王U國家による士人の瓜制︑�體や士の問題︑政權による

    ﹁正學﹂の鼓吹など︑基本�には︑�淸兩王Uに聯續した&圖の

    なかで捉えられており︑�Uが貫園し得なかった施策に關して︑

    淸Uがむしろ相應の成功を收めたとの見解によるもので︑淸Uの

    衣民族政權としての側面を過大視する見方とは袂を別つ︒しかる

    に︑そうであっても︑やはり淸Uを代西歐が表象したような︑

    閉塞と停滯の時代と見做していることに變わりはない︒かかる見

    方は︑ヨーロッパ硏究のなかでも︑オリエンタリズム批Éの擡頭

    とともに︑�早︑再考に付されていることは暫く措く(13)︒だが︑や

    はり事實識としても︑それは事の一面の眞實ではあっても︑淸

    代という時代の�貌とは言えないのではあるまいか︒

    Ê臣を遙かに上回る貮臣の存在は︑淸Uによる士人への彈壓や

    懷柔︑彼らの政權への»合や轉身という側面を考慮に入れてもな

    お︑やはり淸Uが�末のË政をあるq度︑一Ìし︑�Uに比して︑

    槪して善政を¼いたとの見方によらなければ︑整合�な說�がし

    難い部分があるのではなかろうか(14)︒また︑淸初/におけるq朱學

    の復興の裡には︑政權による奬勵のほかにも︑在野の士人層をも

    含めた︑何某かの秩序の回復への志向が見て取れるように思われ

    る︒そうでなければ︑本書中でも屢々引證される人士のうち︑陸

    隴其や張伯行のような大官はともかく︑陸世儀や張履祥のような

    在野の﹁醇儒﹂︑+には︑あの曾靜・呂留良案こそ︑偶然の因

    も多かったとは言え︑やはり些か反體制�な思想の持ちWである

    ことは閒Äいない︑呂留良らの人びとが︑q朱學に依據した內面

    �な動機が說�し得ないのではないか(15)︒

    ― 79 ―

    631

  • �いで︑淸Uの漢學︑樸學を荏える精神態度について︑著者は︑

    あくまでも醒めた︑些か冷淡な視線すら

    いでいるが︑果たして

    それは︑やはり眞實の一.を出ないのではあるまいか︒著者の場

    合︑あくまでも古書それ自體の襞や行閒に分け入るという︑正攻

    法からの解析や叙述にほぼx始し︑同時代の他の硏究者の(說に

    言[されることは︑殆ど見られないのだが︑年︑著者の見方と

    は︑かなりの徑庭のある淸U考證學への理解が︑相�いで上梓さ

    れている邊り︑どのように�價されるのであろうか︒例えば︑當

    時の人�開花�な狀況を強uされる︑大谷敏夫氏やB・エルマン

    氏︑若干のスタンスのÄいこそあれ︑その背後に何らかの﹁

    熱﹂の存在を指摘される︑木下鐵矢氏や吉田純氏︑また︑それぞ

    れ根強い﹁經世﹂の志を看取される︑大谷氏や木下氏︑﹁儒學�

    形而上學﹂の基礎を指摘される︑濱口富士雄氏など︑同時代の諸

    硏究に對する著者の�價も伺いたいところである(16)︒

    って︑淸U治下の紳衿︑士人たちは︑著者が言われるほど︑

    事ほど左樣に芯のない︑自己欺瞞や諦念︑冷笑�態度に滿ちた

    ﹁³い﹂人びとなのであろうか︒一面で︑そうした含Yも一槪に

    否めないとは言え︑彼らの轉身や處世は︑Xの見方をすれば︑彼

    らなりの保身︑否︑むしろ強かさの自己表現ですらあったのでは

    なかろうか︒また︑慥かに阿諛Ï佞という他ない︑盛世の贊美の

    言說も︑李光地のようなr學官僚のみならず︑趙Ðや焦循など︑

    その例に事缺かない︒だが︑國家權力に對して︑どのq度のÑ離

    を取り︑如何なる勢で相涉るかは︑その時々のむしろ實踐�︑

    功利�な求や戰略の問題に過ぎなかったのではないか︒加えて︑

    士人たちの多くが︑立身や致富に關心を集中させていたのは︑否

    定すべくもないが︑また︑地域社會での威信なり︑功利�な關心

    も隨gしていたとは言え︑一方で︑ローカル・エリートとしての

    彼らが︑慈善や社會事業にも︑殊の外︑熱心であったこともまた︑

    事實であろう(17)︒

    ここで︑末尾に︑やはり些か印象批��になるが︑特に郝敬ら

    の經學などから^けた感懷をめ︑また︑#蜀の感もあるが︑著

    者への希#めいたことを記して︑閲め括りとしたい︒

    さて︑曾て例えば︑戴震らと我が伊Ò仁齋などとの類似性や共

    �點を指摘した上で︑仁齋の方が︑戴震や淸U考證學に百年ほど

    も先行している︑といった議論がなされたことを御記憶の向きも

    多いであろう(18)︒しかるに︑�者には︑﹃論語﹄を絕對視して︑他

    の經書を相對�したり︑﹃詩﹄を人や�學の書として見る契機

    を¬くなど︑郝敬と仁齋にも︑多くの共�點があり︑荒りでは

    あっても︑議論の素地や論點の提示それ自體は︑剩え仁齋に遙か

    に先驅けているやに思われる︒また︑彼に加えて︑﹁六經皆�﹂

    說や﹁事﹂の學問の系�の裡には︑﹁世は言を載せて以て�り︑

    言はrを載せて以て�る﹂(﹃學則﹄二)︑﹁學問は歷�に極まり

    候﹂(﹃徂徠先生答問書﹄上)と喝破した︑徂徠へのい反Æを聞

    く思いがする︒って︑鯵易を±び︑傳

    から相對�に自由な經

    書解釋や�學を志向した點では︑廣義の宋學の草創/︑歐陽脩の

    學問などとの一定の契合にも思い當たる(19)︒しかるに︑おそらく傳

    瓜中國にあっては︑同じく徂徠の﹁諸子百家九液の言よりして

    佛・老の頗に[ぶまで︑皆rの裂けしのみ﹂(﹃學則﹄六)といっ

    た︑すぐれて價値相對W義�な識にRり着くことは︑善かれ惡

    しかれ︑殆ど稀なことであったのではなかろうか︒

    ― 80 ―

    632

  • その他︑著者は︑�炎武や黃宗羲らの政策論の非現實性や無力

    を言われるが︑人閒觀や言語觀︑歷�や�學に關して︑あれだけ

    の炯眼を發揮した徂徠の場合とて︑一旦︑政策論になると︑か

    えって復古�な夢想にもいものであったと言わざるを得ないの

    ではなかったか(20)︒また︑出版��における-俗の混淆︑﹁-﹂の

    俗�や反對に﹁俗﹂の-�といった現象は︑まさに�末の��か

    らも多大な影Æを^けた︑我が江戶��の特質でもあり︑兩者の

    比�・檢討なども︑個別分野を超えた大きな課題の一つと言えよ

    う(21)︒さまざまな思索に誘われるのも︑本書の功德の一つであろう︒

    著者には︑何時の日か︑島田虔�氏が&想つつも︑²に果たされ

    なかったような︑東アジア規模での儒學�の比�や檢證を試みて

    欲しいと願うのは︑ひとり�者だけではあるまい︒

    �(1)

    その他︑井上�氏の著作としては︑�著として︑﹃三重縣

    公藏漢籍目錄﹄(三重縣圖書館協會︑一九九六)︑共�著とし

    て︑﹃金澤市立玉川圖書館世�料館藏漢籍目錄﹄(淺野純一

    氏との共�︑金澤市立玉川圖書館世�料館︑二〇〇四)な

    どがある︒また︑譯

    書として︑﹃���擧志1﹄(酒井惠子

    氏との共譯

    ︑$凡社・東洋�庫︑二〇一三)︑補

    を施し

    たものに︑島田虔�﹃中國における代思惟の挫折1・2﹄

    ($凡社・東洋�庫︑二〇〇三)︑入矢義高﹃增補

    �代詩

    �﹄(同�︑二〇〇七)がある︒

    (2)

    「雞肋﹂とは︑﹃後漢書﹄楊修傳に典據し︑言うまでもなく︑

    雞の肋骨︑取るに足りないが︑Ôてるには惜しいものの比喩︒

    彼の井伏鱒二もまた︑その隨想集にこの名を冠していること

    を御記憶の向きもあろう︒ここで︑井上氏のi辭とは︑�揭

    ﹃中國出版���︱︱書物世界と知の風景﹄(名古屋大學出

    版會︑二〇〇二)の﹁はじめに﹂に見えるもの︒

    その他︑﹃書林の眺#︱︱傳瓜中國の書物世界﹄($凡社︑

    二〇〇六)に收錄された︑﹁四部分類の成立﹂(初出﹃名古屋

    大學�學部硏究論集﹄一三四︑一九九九)︑﹁北溪字義版本

    考﹂(初出﹃東方學﹄第八十輯︑一九九〇)などを除く︑出

    版���に關する井上氏のWな論攷としては︑他にも﹁藏書

    と讀書﹂(﹃東方學報﹄六十二︑一九九〇)︑﹁書肆・書賈・�

    人﹂(荒井永�﹃中華�人の生活﹄︑$凡社︑一九九四︑(

    收)︑﹁出版��と學�﹂(森正夫�﹃�淸時代�の基本問題﹄︑

    汲古書院︑一九九七︑(收)などがあり︑本書の理解の一助

    としても︑それぞれ參看されたい︒

    (3)

    本書の﹁自序﹂を參照︒引用は︑同・六頁︒

    (4)

    島田虔�氏の(說に關しては︑特に﹃中國における代思

    惟の挫折﹄(筑Õ書Ö︑一九四九;

    同・改訂版︑同�︑一九

    七〇;

    のち井上�・補

    ︑$凡社・東洋�庫版

    (上・下)︑

    二〇〇三)︑竝びに︑﹃朱子學と陽�學﹄(岩波怨書︑一九六

    七)︑參照︒

    因みに︑島田氏の場合は︑一方で︑黃宗羲︑�炎武や淸初

    の朱子學者たちなどが︑﹁廣義における�學�雰圍氣のうち

    に身を置いていた﹂として︑﹁その根柢に深く聯續なる基礎

    &e﹂(引用は︑�揭﹃中國における代思惟の挫折﹄︑筑Õ

    書Ö版︑序・五頁)を指摘されるほか︑淸U漢學は︑﹁もっ

    ― 81 ―

    633

  • とも深いY味において�の心學の聯續であり︑展開であっ

    た﹂(同じく﹃朱子學と陽�學﹄一九六頁)のではないか︑

    とも示唆されるが︑基本�な&圖としては︑やはり﹁�淸の

    非聯續﹂を確しつつ︑何と言っても�末時/における﹁挫

    折﹂を強uされるものと考えられる︒

    その他︑�淸の際の學�思想の聯續や非聯續に關する︑島

    田氏をはじめとする先學の諸家の(說については︑拙稿﹁�

    淸思想をどう捉えるか︱︱硏究�の素描による考察﹂(奧崎

    裕司�﹃�淸はいかなる時代であったか

    ︱︱思想�論集

    ︱︱﹄︑汲古書院︑二〇〇六)を參看して頂ければ︑幸いで

    ある︒

    (5)

    福円・円陽における商業�な出版の隆盛に關しては︑夙に

    ルシール・チア敎×の大著﹃營利出版︱︱福円・円陽の商

    業出版者:十一~十七世紀﹄がある︒LucilleChia,Printing

    forProfit:TheCommercialPublishersofJianyang,Fujian

    (11th-17thCenturies),HarvardUniversityPress,2002.

    同書に關してはまた︑高津孝﹁書�・紹介:ルシール・チ

    ア著﹃營利出版

    福円・円陽の商業出版者

    (十一~十七世

    紀)﹄﹂(﹃東洋�硏究﹄第六三卷・第四號︑二〇〇四)︑參照︒

    同書は︑米國において︑年︑活況をøしつつある︑中國の

    出版��に關する硏究に先鞭をつけた︑代表作とも言うべき

    ものであるが︑�般�な硏究狀況を槪說したものとして︑同

    じく高津孝氏によるレビュー﹁米國の中國出版���硏究﹂

    (﹃中國︱︱社會と��

    (20年記念號)﹄第二十號︑二〇〇

    五)が豐富な報を含み︑¨益である︒

    なお︑時代が下るにつれて︑また︑特に淸代に入ると︑福

    円や円陽の地位が大幅な低下を見ることも︑夙に指摘されて

    いる︒本書・第六違に加えて︑�揭のルシール・チア著のほ

    か︑金�京﹃三國志演義の世界﹄(東方書店︑一九九三;

    同・增補版︑二〇一〇)︑中砂�德﹃江南︱︱中國�-の源

    液﹄(談社�書メチエ︑二〇〇二)のx違など︑參看︒

    (6)

    入矢義高﹃�代詩�﹄(筑Õ書Ö︑一九七八;

    同・增補版︑

    $凡社・東洋�庫︑二〇〇七)︑﹁擬古W義の陰翳︱︱李夢

    陽と何景�の場合﹂︑參照︒

    +に︑井上氏は︑本書・第三違において︑靑年時代の王陽

    �が︑一時/︑擬古の動に熱中したことに觸れて︑そこ

    にはたんなる偶然以上の(以があるものと推察しておられる︒

    本書・九三頁︑參照︒

    (7)

    この點︑井上氏も示唆される如く︑宋學以影の世思想�

    の推移を﹁知識W義

    (r問學)﹂と﹁反知識W義

    (±德性)﹂

    の兩者の隆替や長として說�される余英時氏が︑王陽�の

    立場を﹁超知識�﹂と�しているのは︑きわめて´示�であ

    ろう︒余英時﹃中國思想傳瓜�現代詮釋﹄(臺灣・聯經出版

    事業公司︑一九八七;

    江蘇人民出版社︑一九八九)︑參照︒

    (8)

    �代の經學の裡に︑淸代漢學への濫觴を見るものとしては︑

    夙に宮崎市定﹁四書考證學﹂(﹃石濱先生ú曆記念論�集﹄︑

    關西大學東西學�硏究(︑一九五二;

    ↓のち︑﹃アジア�硏

    究﹄第四︑東洋�硏究叢刊四−

    四︑東洋�硏究會︑一九六

    四;↓+に︑﹃宮崎市定�集17

    中國��﹄岩波書店︑一九

    九三︑に再錄)︑酒井忠夫﹁淸代考證學の源液﹂(﹃歷�敎育﹄

    ― 82 ―

    634

  • 五−

    十一︑一九五七)︑吉川幸�郞﹁錢i益と淸U﹁經學﹂﹂

    (﹃吉川幸�郞�集﹄第一六卷

    (淸・現代º)︑筑Õ書Ö︑一

    九七〇;

    ↓初出は︑﹃京都大學�學部硏究紀﹄九︑一九六

    五)︑佐野公治﹃四書學�の硏究﹄(創�社・東洋學叢書︑一

    九八〇)︑などがある︒また︑�季の經學�般に關しては︑

    林慶頴﹃�代考據學硏究﹄(臺灣・學生書局︑一九八三;

    同・修訂再版︑一九八六)︑﹃�代經學硏究論集﹄(臺灣・�

    �哲出版社︑一九九四)が¨益である︒但し︑何れも郝敬へ

    の直接�な言[は殆ど見られない︒

    なお︑郝敬に關する論攷としては︑我が邦でも︑夙に岡田

    武彥﹃王陽�と�末の儒學﹄(�德出版社︑一九七〇;

    ↓の

    ち﹃岡田武彥�集﹄第10卷・第11卷

    (上・下)︑同�︑二〇

    〇四)に﹁郝楚#﹂︑同﹃宋�哲學序說﹄(�言社︑一九七

    七;

    ↓のち﹃宋�哲學の本質﹄と改題して木耳社より改訂版︑

    一九八四)に﹁郝楚#の思想﹂の項目があるほか︑荒木見悟

    ﹃中國心學の鼓動と佛敎﹄(中國書店︑一九九五)(收の﹁赦

    敬の立場︱︱その氣學の&e﹂があるが︑むしろ彼の心性

    の學や氣論に焦點を當てたものである︒その後︑經學に關わ

    るものとしても︑川田永﹁郝敬春秋學の一側面﹂(﹃早稻田大

    學�學硏究科紀﹄第43輯︑一九九七)︑村山吉廣﹁�儒郝

    敬の詩解﹂(同�・第44輯︑一九九八)︑川田永﹁郝敬の�違

    論﹂︑西口智也﹁郝敬の賦比興論

    ︱︱その﹁興﹂說を中心

    に︱︱﹂(ともに﹃村山吉廣敎×古稀記念中國古典學論集﹄︑

    汲古書院︑二〇〇〇)などが現れたが︑何れも個別の經書を

    俎上に載せたものであり︑無論︑井上氏の本論を踏まえる︒

    (9)

    この點︑大谷敏夫氏は︑汪中や焦循などとも,せ︑孟子と

    荀子をýþした﹁孟荀學﹂とも言うべき系�として描出され

    る︒大谷敏夫﹃淸代政治思想�硏究﹄(汲古書院︑一九九一)︑

    第二部・第二違﹁揚州・常州の社會と學�﹂︑參照︒また︑

    特に凌廷堪の﹁禮﹂說に關しては︑張壽安﹃以禮代理︱︱

    凌廷堪與淸中葉儒學思想之轉變﹄(臺灣・中央硏究院代�

    硏究(︑一九九四;

    河北敎育出版社︑二〇〇一)︑參照︒

    (10)

    本書でも�提とされる︑旣�の代表�な復社に關する硏究

    としては︑謝國禎﹃�淸之際黨社動考﹄(商務印書館︑一

    九三四)︑宮崎市定﹁張溥とその時代﹂(﹃東洋�硏究﹄三三

    三︑一九七四;

    ↓のち﹃アジア�硏究﹄第五︑東洋�硏究

    叢刊四−

    五︑東洋�硏究會︑一九六〇;

    ↓+に︑﹃宮崎市定

    �集13

    �淸﹄岩波書店︑一九九九︑に再錄)︑小野和子

    ﹃�季黨社考︱︱東林黨と復社﹄(東洋�硏究叢刊之五十︑

    京都大學學�出版會︑一九九六)などがある︒

    (11)

    島田虔�﹁歷��理性批É︱︱「六經皆�﹂の說﹂(座

    ﹃哲學﹄第四卷︑岩波書店︑一九六九)︑同﹁違學½の位置﹂

    (﹃東方學報﹄四一︑一九七〇)(↓のちともに︑﹃中國思想�

    の硏究﹄︑東洋�硏究叢刊之五十九︑京都大學學�出版會︑

    二〇〇二︑に(收)︑川�義雄﹃中國人の歷�Y識﹄($凡社

    �書︑一九八六;

    ↓のち$凡社ライブラリー︑一九九三)な

    ど︑參照︒

    (12)

    DavidS.Nivison,“TheLifeandThoughtofChangHsüeh-

    che̓ng,1738-1801”,StanfordUniversityPress,1966.︑�揭︑

    川�義雄﹃中國人の歷�Y識﹄︑+には︑山口久和﹃違學½

    ― 83 ―

    635

  • の知識論﹄(創�社・東洋學叢書︑一九九八)など︑參照︒

    (13)

    オリエンタリズム硏究の年の¦成として︑大野英二郞

    ﹃停滯の�國︱︱代西洋における中國宴の變�﹄(國書刊

    行會︑二〇一一)を是非とも擧げておきたい︒

    (14)

    例えば︑淸Uが︑�Uの官田︑王府莊田の解放など︑取り

    敢えず︑�末のË政を一Ìした點については︑佐Ò�俊﹃�

    代王府の硏究﹄(硏�出版︑一九九九)︑また︑淸U政權をÐ

    贊した﹁貮臣﹂に關しては︑岡本さえ﹁貮臣論﹂(﹃東洋��

    硏究(紀﹄六八︑一九七六)をそれぞれ參照されたい︒

    (15)

    この點︑拙著﹃思想としての中國世﹄(東京大學出版會︑

    二〇〇五)︑第四違﹁︿秩序﹀�の位相﹂をご參看願えれば︑

    幸いである︒

    (16)

    Elman,BenjaminA.,“From

    PhilosophytoPhilology:

    IntellectualandSocialAspectsofChangeinLateImperial

    China”,HarvardUniversityPress,1984.︑�揭︑大谷敏夫

    ﹃淸代政治思想�硏究﹄︑濱口富士雄﹃淸代考據學の思想��

    硏究﹄(國書刊行會︑一九九四)︑木下鐵矢﹃﹁淸U考證學﹂

    とその時代

    ︱︱淸代の思想︱︱﹄(創�社・中國學藝叢書︑

    一九九六)︑吉田純﹃淸U考證學の群宴﹄(創�社・東洋學叢

    書︑二〇〇七)など︑參照︒

    (17)

    J.W.Esherick&M.B.Rankin,“ChineseLocalElitesand

    PatternsofDominance”,UniversityofCaliforniaPress・

    1990.︑夫馬�﹃中國善會善堂�硏究﹄(東洋�硏究叢刊之五

    十三︑同舍出版︑一九九七)︑森正夫著﹃森正夫�淸�論

    集﹄(�三卷︑汲古書院︑二〇〇六)︑W口雄三﹁辛亥革命の

    歷��個性﹂(﹃思想﹄第九八九號・二〇〇六年九%號;

    ↓の

    ち﹃中國思想のエッセンスⅡ

    ︱︱東�西來︱︱﹄︑岩波書

    店︑二〇〇一︑に(收)など︑參照︒

    (18)

    吉川幸�郞﹃仁齋・徂徠・宣長﹄(岩波書店︑一九八〇)︑

    余英時﹃論戴震與違學½︱︱淸代中/學�思想�硏究﹄(龍

    門書店︑一九七六;

    東大圖書公司︑一九九六)など︑參照︒

    (19)

    伊Ò仁齋や歐陽脩に關しては︑特に�の諸論攷から多くの

    裨益を^けた︒中村幸彥﹃世�藝思潮攷﹄(岩波書店︑一

    九七五)︑特に同・(收﹁﹁�學は人のrふ﹂の說﹂︑芝木

    邦夫﹁歐陽脩の�學思想﹂(加賀y士官記念論集刊行會�

    ﹃加賀y士官記念

    中國��哲學論集﹄︑談社︑一九七

    九)︑土田永�郞﹁歐陽脩試論︱︱理・人・自然・鯵易﹂

    (﹃中國︱︱社會と��﹄第三號︑一九八八)︑同﹁伊Ò仁齋

    と朱子學﹂(﹃早稻田大學�學硏究科紀﹄第42輯︑一九九

    六)︑渡邊浩﹃世日本社會と宋學

    (增補怨裝版)﹄(東京大

    學出版會︑二〇一〇)︑特にその﹁補論1:伊Ò仁齋・東涯

    ︱︱宋學批Éと﹁古義學﹂﹂など︑參照︒

    (20)

    渡邊浩﹃日本政治思想�﹇十七~十九世紀﹈﹄(東京大學出

    版會︑二〇一〇)︑第九違﹁反﹁代﹂の&想︱︱荻生徂徠

    の思想﹂︑參照︒

    (21)

    中野三敏・監修﹃江戶の出版﹄(ぺりかん社︑二〇〇五)

    など︑參照︒

    ※小稿は︑日本學�振興會・科學硏究費補助金・基盤硏究

    (B)﹁公共知の形成︱︱東西比�による十八世紀學の展開﹂

    ― 84 ―

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  • (代表者:金城學院大學・高橋y巳)︑同じく︑基盤硏究

    (C)﹁考證學︑言語の學︑そして代�知性︱︱代�學

    問の﹁基體﹂としての漢學の學問方法﹂(代表者:國士舘大

    學・竹村英二)︑竝びに︑基盤硏究

    (C)﹁心・身體・p境を

    めぐる﹁仁﹂槪念の再檢討︱︱『朱子語類﹄卷4~6を中心

    に﹂(代表者:東海大學・恩田裕正)のそれぞれ硏究分擔者

    としての成果の一部である︒御高配を戴いた關係の諸機關と

    各位に深謝するものである︒二

    〇一一年一一%

    東京

    $凡社

    A五É

    五三六頁

    六五〇〇圓+

    ― 85 ―

    637