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Title 詩人ハイネ1855年 Author(s) 一條, 正雄 Citation [岐阜大学教養部研究報告] vol.[9] p.[119]-[134] Issue Date 1973 Rights Version 岐阜大学教養部ドイツ語研究室 (Faculty of General Education, Gifu University) URL http://hdl.handle.net/20.500.12099/45976 ※この資料の著作権は、各資料の著者・学協会・出版社等に帰属します。

Title 詩人ハイネ1855年 [岐阜大学教養部研究報告] …...人 ter ぐ ノ`ゝ イ ネ Heine1855) 119 1855年 岐阜大学教養部ドイツ語研究室 (1973年10月31日受理)

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Title 詩人ハイネ1855年

Author(s) 一條, 正雄

Citation [岐阜大学教養部研究報告] vol.[9] p.[119]-[134]

Issue Date 1973

Rights

Version 岐阜大学教養部ドイツ語研究室 (Faculty of GeneralEducation, Gifu University)

URL http://hdl.handle.net/20.500.12099/45976

※この資料の著作権は、各資料の著者・学協会・出版社等に帰属します。

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terぐ

ノ `ゝ イ ネ

Heine 1855)

119

1855年

岐阜大学教養部 ドイ ツ語研究室

( 1973年10月31日受理)

(一) 問題点の指摘 ¥ ∧

J855年12月30日, ハイネは母親に宛て, 一通の手紙を発信している。新年を控えて, 愛する母への挨拶である。 けれども, この一 ヵ年を回顧して 「もっともみじめな年のひとつ」 で

あったと述懐している。 そのときから一 ヵ月半程のちには永遠のやすらぎに就く人の文章と

はとても思えないく らいに, 母への温い思い遺 りに溢れた書簡であって, これを読むものの

心を深くゆすぶる。 年が改まって, 1月24日に母宛では絶筆となってしまった鉛筆書きの短

い手紙 (此所でも仕事の為に眼をかば う, 詩作の意志をのぞかせる詩人が厳と して存在して

いる) があるけれども, 内容からみて, この年末の書簡には, こんどばかりはと死を覚悟し

た詩人が, 愛する母に別れを告げている姿がはっき りみてとれる。 「あなたはぼくの:りっぱ

な母親です。 ぼく らはこれまでずっと , いつも勇敢に誠実に振舞ってきました。 だから, ぼ

く らがふたたび離れて別の世界に暮さ なければならな く なっても, おそれる必要はあ りませ

ん……]y詩人ハイネの発展をあとづける場合,その発端にマドンナ崇拝としての母親およびアマーリエとテ レーゼをみてとるのが妥当な見方であるとすれば, その意味合いから言って

も, この手紙はあ りきた りの内容以上のものを含んでいる, とみなければならないであろう。

上さて, この 「もっと・もみじめな年」 にハイネは, Dr. Fritz Mendeによると,②以下のよう

ないくつかり詩を執筆したことが確実であるという。 補遺第一巻 「恋愛歌」 (76) ( 77) (78)

(79) (80) , 第二巻 「さまざまな詩」 (52) (54) (58) (62) , 第三巻 「ロマンツエと寓話」

(11) ( 12) (17) ( 18) (19) , 第四巻 「時事詩」 (24) (27) (28) ( 31) である。 〔E .Elster の

版による〕 これは, 1851年発行の 「ロマソツ土一口」 以後に執筆されていて, 生前ハイネに

よって 「さまざまな文」 の中へ採録された り, ハイネのフランス語版補遺監修者, 未 亡・人

「マチル ドヅの助言者, Henri Julia ( 1813- 1890) が, 1857年に公表した僅かな詩作品をの

ぞ く , 大部分の詩の 〔A. Strodtmann (1829- 1879) によって1869年にレ ハイネ全集の補巻

中に出版〕 最後の部分を占めるものということになる。 ところで Alfred Me叩ner ( 1822-

1885) によって公表され, ハイネが死ぬ二週間か三週間まえに執筆したことに な ってい る

(ムーシュのためにマ)八 うヽ補遺第一巻 「恋愛歌」 (75)を, 上記のDr.Mende は推測の域を出ないもの, の中にすら加えていない。 つま り, 「時事詩」 (31) を, ハイネの最後の一詩と

みなしているわけで, 年が改まづてからは, ハイネに創作はなかったと しているわけである。

この「時事詩」(31) の執筆時期につ卜ては, 1963年に Prof.K- H.Hahnが 「1853年もしくは

31

一 雄條 正

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120 一 條 正 雄

1854年の》 し とねの墓《 の中で執筆されたもの」 と, この作品の手筆原稿がNF G ドイ ツ古

典文学研究所の所有するところとなって以来, 最初の作品分析の報告の中で姐れておりご)1972年12月には, Prof. H. Holtzhauer がこの作品のフ ァ クシ ミル版ハイ ネ記念出版に寄せ

る解説の中で, 「1853年から1856年にかけて うまれた」 ものと, Prof. Hahnの報告をふまえ

て推定を下している?)Dr.Mendeのハイネ・クロニクが1970年発行であるから, 「時事詩」(31)の執筆時期は, 1854年55年56年と, ハイネの最晩年へ移ってきたことになるレ Dr. E . Galley

もHahn報告の結論を踏襲してぃるご 二との。作品の発生時期について, かな り綿密な考察が試みられる背景には 「Bekehrung」 の

問題をめぐって, ハイネ評価の本質にかかおる内容を この詩が含んでいるとする理由をあげ

るこ とがもち ろんできよう。 ハイネをその晩年においても進歩の詩人とみなすか, 神の存在

をみとめた詩人とみるかに重大なかかお りがあ り, た とえばハイネ記念の年1972年の, デュ

ッセル ドルフ と ワイマルでの, それぞれの国際ハイネ学会の諸報告が, 前者にあってはフィ

ロローギッ シュな傾向か顕著であ り, 後者の報告の基調が, ドイ ツ文学史にハイネを どのよ

うに位置づけ るか, とい う点に重点が置かれたこ と と も, つなが りを もってぃ る。

いわゆる Bekehrungの問題を, ハイネの詩人的発展の図式と して, も っ と も典型的に一

方の立場を示 している論考のひとっ にかぞえあげるこ とができるのは, 「芸術家 1護民官 ・

使徒」 (1967) という標題を付されたハイネ論であろ う。 この論者は 「哲学 ・宗教 ・政治の

諸理念にハイ ネが影響を うけた」 とする Strgdtmannの指摘に着想を得て論考をすすめてぃ

るご)理性にもとずぃてハイネは新時代に組みしたが, かれの『心』 はむしろ旧い時代の考え方に属していて, 「この分裂はいや しがたいよ うにみえる」 と判断し, この論者はり イ ネが

詩人と しての 内的統一をな し とげるためには, 三つの可能性があったとみてぃ る。 つま り,

生活と世界を伝統に基いて形象化する, 革命的未来を全面的に肯定する, 現在を形象化する

ために過去と 未来を批判的に綜合する, の三つであ り, ハイネはこのいずれからもへだたっ

てぃた と して いる。 そ してハイ ネが分裂の, あれもこれもの立場の帰結と して, 戦士が愚者

に, 詩人がと びだ。しすぎたもの, ドイ ツのア リス トフ ァネスとな り, 理神教から汎神論に移

り, 武器は手放したとみるのである。 そ してエルスタ ー版の日付 (1855年) にもとずき, 「

ビ ミニ」 の詩 を, 詩人が愚者になった例証と してあげている。 このような図式を示すこ とに

よって, この論者はヘルダーリ ンとハイネを対比せんと しているもののようである。

「ハイ ン リ ヒ ・ ハイネ, 絵と ドキュノ ン トによる生活報告」 (1973) の中で, Dr. Galley

は主と して散文作品に重点をおいて, ハイネ晩年の作品, こ とに 「告白」 に根拠をおいて 「

ヘーゲル派の人びと となれなれ し く してきた」 あとで, 「神への帰還」 についてハイネが語

っていることを, まじめにうけとめなければならない, と主張してぃるご)晩年のいくつかの詩 「奴隷船」 「移動ネズミ」 にも触れているが, 重視してはいない。

ハイネの 「神への帰還」 を語るハイネ論の多くが引用する箇所は, 『ロマ ン ツェーロ』 あ

とがき (1851) , 『 ドイ ツ宗教哲学史考』 第二版序, 補遺第二巻 『さまざまな詩』 (64) (1853) ,

同 (58) 『病人のために』 第一詩 (1854) などに集中している。 ただ し 『病人のために』 第

一詩では, ヨ ブの問いかけに結びづけ, 口に土をつめこまれふさがれるまで問いかける姿勢

のうちに, ハイネが最後の瞬間まで詩的形象化の努力をとげたことの証とする論考も含ま

れ,(‰イネの武需が詩であるならば, 武器を最後まで手放なすことがなかったといや結論を

ぴきだす こ と もできる。

L aura Hofrichter ( 1919 - 1962) の 「ハ イ ン リ ヒ ・ ハ イ ネ 」 ( 1966) の 中 で は , 晩 年 の

ハイネについては主に詩作品を ビオグラーフ ィ ッシュな要素を通 じ七理解しよう としている。

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121詩 人 ハ イ ネ 18 5年

かの女も 「ムーシュのために」 を最晩年の詩と して位置づけている。 G. Storzrハイ ッ リと ・

ハイネの抒情詩的詩作」 (1971) は, 最晩年の詩については聴くべき指摘がない。 またF .

Strichはハイネの抒情詩をすべて 「苦痛のテーマ」 で括ってみせる。

J. P. Lefebvreは 「マルクスとハイ ネ」 (1972) の中で, ハイネについてはH.Kaufmann

およびG. Luka6sに負いつつ立論しているが, 「神への帰還」 といわれる問題に触れて, 簡

単な問題ではないと しつつも, い くつかの側面を指摘している。 それを列挙してみるとつぎ

のよ うになる。 ハイネの生涯の最后の時期は矛盾に充ちているが, そのひとつよってきたる

ところは, ハイネがその哲学的教養と持続的な影響をマルクスに負うていることをいつも自

覚していたこと。 しかもハイネの晩年にマルクスがかたわらにいなかったこ と。病気の進行。

1855年に発行されたフ ラ ンス語版 「ルテーツィア」 序文中で 「国粋主義同調者が憎く て, ぼ

く はコムニス トたちを殆んど愛するこ とができる く らいだ。 す く な く と も コムニストたちは,

宗教やキ リス トの教えをいつも となえ る口先ばか りの連中とはわけがちが う」 とのべている

こ と。 ハイネはマルクスり影響下にヘーゲルを離れたが, ハイネに不充分であったのは, マ

ルクス主義の三本柱のひとつ, イギリス政治経済学であったごと。・ハイネがコムニスムスを

拒けた とすれば, それはネオ ・バブーフ主義のイデオロギーの影響と関係があるこ と。 市民

的無神論者の悲劇と して, 内部の寂寥感にハイネは呵片と宗教を必要と したこと。 「IEnfant

Perdu」 に象徴される ように, ハイネの歴史とのへだた りは, 先に行進する鼓手のそれであ

ること, などであるご 白丁「進歩か神のごときア リス ト¥フ ァネスのたわむれか? 」 (1971) とい う論考でFingerhut

は 「これまで, つねにハイネの詩作にあらわれる矛盾にみちた歴史解釈は, この作者の》分

裂ぐ という口座に振り込まれてきたか, あるいは 》発展《 の中へ統合整理されてきた。 この

発展なるものは, 30年代の進歩への信仰から晩年のハイネの懐疑へとみちびかれ, また参加

した詩人から貴族的美的詩人への方向転換と関連している。」と批判的に従来の研究の方向を

総括し, てハイネが哲学 ・政治 ・宗教の領域牡よび芸術の領域でも述べていることは状況的

である」 から 「作者の文脈, 志向および視界, 選択された類, 形象化の原理」 といったもの

をさぐり出す精確なう・キスト辰分析が必要であるごとしているざ1855年のハイネを考察していく場合, いままでに指摘したようないくつかの側面を く ぐ り

ぬけなければならないが, この一年間にハイネはどの様な生活を営み, またこの年に うまれ

た とみられている作品の中で, かれはなにを語っているのであろ うか, 順に触れてみたい。

ハイネの場合, 詩と散文の関係は本質的にはごわかちがた く結びついているけれども, そ し

て散文では 「フラ ンス語版ルテーツィ ア」, 家族の検閲の犠牲となって しまって, 少年時代の

み現存する 「メモアール」 の背景も考察の範囲に加えたいのであるが, 詩がよ りマテ リア リ

ステ ィ・ツシュであ り, やは り哲学宗教政治芸術の各分野に渉って触れているのであるから,‥

詩に焦点をあわせて, こ xでは考察を加えてみるこ ともゆるされよう。

klassischen deutschen L iteratur in W eimar)

33

(一) 註 丿

① Hirth: Briefe, 〔1361〕 an Betty Heine S。656 十

② F .Mende: H. Heine S. 315- 329

③ E .Elster: Heines SiimtlicheWerke Bd. II S.45f コ

④ K.- H. Hahn: Ausder Werkstatt deutscher Dichter S。57- 70.

⑤ H.Holtzhauer: H.Heine. Die Wanderratten (Jahresgabe 1972. NFG. der

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E . Galley: H . Heine. Lebensbericht mit Bildern und Dokumenten. S. 145・ ・

P . K . Kurz: KUnstler , Tribun, Apostel , S. 17f, S. 219f, S . 229f, S . 236

E . Gallとy: a.a. 0 . S. 141f.

W . K raft: Augenblicke der Dichtung. S . 41f .

J . P . L efebvre: Marx und Heine. S . 6f , S . 23 , S . 41 , S 45f . つ

K . H . F ingerhut: Standortbestimmung . S . 53 - 91 .

條 正 雄` 122 .1

1866) , 俳優でBocageと呼ばれ

34

(二) この一年間のハイネの身辺

1854年11月 7 日付の母ベティ宛の書簡の中で, ハイネはその前日に転居したことを報告し

ているよ)移った住居は, シャンゼリゼ並木通りのレコソコ片ド広場とエトアールとを結ぶ距離の中間よ りややコンコル ド広場寄 りの, p ソ ・ ポア ンフデ ・ シャ ンゼリゼの北側, マテ ィ

ニオソ並木路へ入る左側の, 角から二軒目の建物の中にあって, 現在, 入口には金属板の記

念碑がはめられていて, ここで ドイツの作家ハイ ンリヒ ・ハイネが1855年 2月17日に没した

ことを示している。 この・1ヽイネ最後の住いは6階にあって, ( グスターフは5階といってい

る) 通 りに面 したバルコニー付の病室兼応接の広間をハイネが, 他の三寝室をハイネ夫人,

看護婦カタ リーナ, 女中のパオ リーフが使用していた。 この広間には控えの間がふたつあり

(ハイネの左右の部屋が無人になっていたのは頭痛よけのため) , ハイネは窓際の屏風のかげ

の普通よ り低目のペッ トに横たえられていた。 ペ ッ トの傍には仕事机と椅子が二 ・三脚あっ

て, 家具調度は経済的にかな り逼迫していたこ とを示 していた。 ハイネの部屋の窓からベラ

ンダに出れば, シャ ンゼリゼの通 りをゆきかう人びとの姿がみえたであろ う。 しかし夏には

樹冠にさえぎられてみえなかったかも知れない。 どのみちハイネはこのベラ ンダに一度しか

出して も ら う こ とはなかった。

前記三人の婦人たちをのぞいて, この一年間にハイネの身辺に比較的頻度数が高く , いた

とおもわれる人たちは, 4月までは秘書格の, フラ ンス語版 「ルテーツィア」 願訳者,

Richart Reinhardt ( 1829- 1898) , 6 月か ら のハ イ ネ の 「ム ー シ ュ」。筆 名 カ ミ イ ユ ・ セ ル ダ

ンのE lise K rinitz ( 1828- 1896) , そ れ にやは り秘書 と し て の , ザ ク セ ン出身 の ’Richard

von Zychlinski お よび病気 の面倒 を みて も ら っ て い た , ドイ ツ ・ ハ ンガ リ ー系 の 医 師David

Gruby (1810- 1898) であったろ う。 この ドクターはハイネの弟マキシ ミ リアソ ・ ハイネの

同僚でもある。 / ¥

この年, ハイネの部屋を訪れた人たちのおもな顔ぶれから, イ イヽネのいろいろなイ タージ

が浮かんでく る。 冬は風邪をこ じらせて, 訪問客を うけられなかったが, 2月にはフラツ ス

の政治家でサンシモニス トのMicheI Chevalier(1806- 1879) , フ ラ ンスの作家 Philibert

Audebl・and( 1815- 1906) , フ ラ ンスの抒情詩人Pierre- Jeande B6ranger(1780- 1857) が

訪れ, 4月にはJulius Campe(1792- 1867) が, 7月にはFerdinand Lassglle ( 1825-

1664) , 文筆家でカ レジ ・ ドウ・ フランスの教授Philar6te Chasles(1798- 1873) , サロン夫

人のCaroline Jaubelt ( 1803- 1883) , 保守的な作家ジャーナ リス トMoritz Gottheb Saphir

(1795- 1858) , 8月には1838年以来の知人で商人のFerdinand Friedland(1810- 1872) と

妻のFriederike ( ラサールの姉) , 青年 ドイツ派に数えられ, 当時はヴィーソのブルク劇場監

督のHeinrichLaube(1806- 1884) , ハムブルクの医師Heinrich Lippert(1824- 1889) , ヴ

ィ ーン出身パ リの開業医Joseph Schlesinger, 作曲家Hector Berlioz(1803- 1896) 。 9月

に入ると, 文学史家, 願訳家のRen6- Gaspar- Ernest Taillandier(1817- 1879) , プ レヴ

ユー ・ デ ・ ドゥモソ ド」 の編集室付, Victor de Mars(

Page 6: Title 詩人ハイネ1855年 [岐阜大学教養部研究報告] …...人 ter ぐ ノ`ゝ イ ネ Heine1855) 119 1855年 岐阜大学教養部ドイツ語研究室 (1973年10月31日受理)

詩 人 ハ イ ネ 1855年 123

たP.M. Touset(1797- 1863) , オース ト リーの前三月期の抒情詩人, 筆名 「アナスタ シウス

・ グ リ ュ ー シ」 のAnton A lexander Graf von Auersperg( 1806- 1876) 。 9 月 か ら 11月 に

かけて 7回ハイネの枕頭を見舞ったおし ど り作家のStahr夫妻。 こ とにFanny Stahr (1811

- 1889) は女性解放運動にも関係していた。 11月には弟のGustav Heine(1804- 1886) , 妹

のCh4rlotte Embden( 1803- 1899) が訪 れ て い る言

1848年 5月中旬, ルーブル美術館へ最後の外出を したあと, 健康状態が崩れ, ンヽイネの 「

しとねの墓」 の生活がはじまった。 身体の生理機能の麻庫が主と して左半身にひろがってぃ

き, 脚や腕が動かなくな り, 病勢がすすむにつれて, 一時は鴨下発声のはたらきに障害を起

こ し, 視力もおかされ, 両瞼もひらかな く なって しまった。 発病時のそのよ うな死を覚悟す

らした激しい症状から, 頭痛や全身の神経発作による激痛, 痙旱, 咳の発作, 発熱, 吐潟な

どが, く りかえ して襲 うという 形で, 固定化 し, 徐々に肉体は衰弱していったようである。

ハイネの背中に人工的にあげられていた傷口に散布されるモルヒネの粉末だけが苦痛を, ほ

んの束の間のことではあったが, やわらげた。この(下の方から動かなくなってぃぐ?)病名については, 皮膚科医の所見やj)当時は知られてぃなかった「筋肉萎縮症」 と診断する報告oがみ られるが, こ こでは立入らないこ とにす る。 十

1855年にハイネを訪れて見舞った人びとの多くが, 想い出の中に一様に書き残していて注

意を惹 く のぱ, ハイネの顔に精神の張 りがあ り, 年齢より若々し くみぇ , 病状がおだやかな

ときは, 昔と同じように訪れた人に機智あふれる会話を したことであ り, また訪問者にさ し

出された弱々しい白い左手の感触と, 訪問者をた しかめるために右手の指で, 視力のまだ残

っている右眼の瞼を もち あげたこ とな どであった○ ・ ’

1月, 2月の頃のハイネの様子を秘書のReinhardtは, Campeに宛て次のように報 じてい

る。 「遺憾ながら, ハイネの状態は恢復へとむかってぃ るというよ力はむしろ悪化してきて

います。 頚部の痛みに喉頭部と胸部の痙學が加わってきたのです。 この痙撃は今まで以上に

話す ことを彼に困難にさせています し, 非常に苦痛を伴うものです。」このようなハイネが殆

んど休むことな く フラ ンス語版 「ルテーツィ ア」 に取組んでいる しレ 「さ らにハイネは最近

のとの苦 しい時期に少ながらぬ詩をつ く り手早 く 書きおろ しま七だ。 でもこれらのばらばら

になって紙の上に投げ出されたエyピツ書きを正しく読みとるのは厄介なことです。艶伝えている。 3月から 4月にかけても, Reinhardtは 「ハイネの状況はあいかわ らずです。 しば

ら く の間, ハイ ネの異常な病状は, その悲しむべき状態にはなれすぎている私にとってさえ

も, はヽなはだしい不安に陥入れるもので した。 呼吸困難の危機が, 非常に激しくな り頻ぴんと

おこ ります。 夜の半分も続く こ とが少な く な く , これがハイネをす っか り消耗させました」

と心を痛めつつ, 「ハイネがこの病気の苦しみの合間に, いつもこれ以上ないく らいすばら

し く , はればれと己れの快活さ と仕事への意欲を保っている」 のに, 希望をあらたにさせら

れているとdampeに伝えてぃるご)4月21日にCampeはハイネを訪れて, 1時間半か2時間話をかわし, (ハイネの精神と生きる勇気は昔のままだ力い 身体がやづれ果ててぃてぴっ く り

j) している。 5月30日付Campe宛ハイネ書簡は, 「ルテーツィア」 にハイネ自身毎日5・6

時間は取組んでぃたととを伝えてぃるぐ) 6月に入ると, 17日頃E.Krinitzがハイネを訪れた。以後, 病状が会うことを許さない時をのぞいて , よ く ハイ ネをたずね, 朗読と秘書の代役

のようなことまで果した。 彼女は封印用印判に蝿の図案を用いていたので, ハイネは 》ムー

シュ《 と彼女のことを呼び, この精神的に理解しあえる勇敢で快活で善良な若き女性が, 自

分の枕元で小さな羽音をたてて くれるこ とを, 死ぬまでのぞんだ。 彼女は母親から贈られた

「歌の本」 が機縁で, やイネの世界に魅せられ, 青春時代の生活の要素になってぃたといっ

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124 條 正 雄一

36

ているが, 彼女にとって, ハイ ネをたずねるこ とは, 崇拝と献身と大いなる文学修業でもあ

ったといえる。 「続けて朗読すると, 患者は疲れて しまう 。 だから, 時どき手控えなげれば

ならなかった。 するとハイネはなかば閉じられたまxの眼を して横にな り√腕をのばして,

私の手を彼の手の中へおく ように乞 うた。 その手をハイネはとて もつ よく結んだ。あたかも,

かれを死の手からもぎはなすことが/ この私にできるとでもいうようにヱ7月には, 夫の作品中フ ラ ンス語版の作品すらち ゃんとは読んだこ とがなかったであろ う し, 「メ モアール」

り原稿が目前で焼却されるのにも, なんらの抵抗力ももちあわせていなかった妻,oマチルド

に遺産のすべてを与える遺書の作製がなされた。 8月にハイネを訪れたLaubeは, 「ハイネ

がおのれのおそろ しい運命をす ぐれて勇敢に甘受していたことを, なにびと といえども否定

するこ とはで きない。 ああなんと緩やかに裁きは訪れたものであろ うか/ 8年後 (1855年)

に私はふたたびパ リにやって きた。 そ してハイ ネがまだ生きているのを見出しだのTeある。

だが, なんとい う生き方であろ うか/ 頭脳だけがもとのままであった。 からだ全体が子供の

重さに縮んで しまうた。 ハイネがづ ツ トの中の状態を変えて欲 しいと言えば, 片手で彼を も

ちあげる こ とができた。 ・ ・ ・ フ ト ンの下に辛 う じ七2 ・ 3尺に縮んで しまった体躯を保持

するこの被造物は, 衰弱するこ とを知らない精神で, あらゆる人間的なるものを うみ出して

いた・ ・ ・夕と, ごのときの印象を語っている。 ハイネの傍にいて, どぅにも落ちつかぬ自

分を分析してみて, それがハイネの 「精神めアクロバッ ト」 に起因していると考えた りも し

て い る。 8.月 17日の, 弟Gustav宛 の ハイ ネ書簡 は , 自筆 で 書 け ば 眼 を や られ , 口述 す れ ば頚

部が痙學を起こすなかで, なおはげし く反駁の語を弟に伝えたものであるが, 「ルテーフ ィ

ア」 をめ ぐるDessau一派のハイ ネ批判に対して, その事実問題を ことこまかに,・力強い文章

で説明している。 「肝心なこ とは, われわれが提示する事実の真理だ。 殆んど紛れもない事

実から成 り立っているぼくの書 》ルテーツィア《 の中には, 吟味もされない証拠や保証を伴

わない事実は, ひとつも報告されていないこ とをぼくは自覚している。 この書の中には分析

の不確実なものは支配していない・ ・ ・夕9月にムーシュは, 「メモアール」 を完成しよう

と して執念にと りつかれたようなハイネの姿を伝えている。 「熱に うかされた ような速度で

エソピツが走 り, 病人り痩せ細うた指の間で, エ ンピツはいわば必殺の武器にかわっていた

‥ ・浬秋口から, ムーシュへ来訪の日延べを訴える手紙や, 来てもらっても無駄足させた

ことへの詫びが多く なっているので, 病状はやは り確実に一歩一歩悪化していたのであろ う

か。 10月 に な る と , ハ イ ネ は A . Stahrに 宛 て , 「ぼ く は 一 匹 の犬 の よ う に 病 ん で い ます 。 そ

して苦痛と死とまるで猫のようにだたかっています。 残念ながら猫には大変強靭な生命があ

るということです。良書いたが, こめ強靭な生命が, 訪れる人に忘れがたい会話の妙, 恐るべき記憶力をみせた。 F . Stahrが訪れてハイ ネに絵画の話を していると, 中途でさえぎって

ハイネは言った 「T想っ七もみて ください。 芸術を愛好しているこのぼくが, も うまるまる7

年間一枚の絵もみていないんですよ。 と もかく ですよ/ だれがぼく のこの状態を考え抜いて

いるでし ょ うか? ぼく の存在の合言葉は 》nicht mehr ! 《 という言葉です。これがどんなに

恐ろ しい言葉であるか, じっ く りと考えたこ とがあ りますか? モイヽヤ歩カナイ, モハヤ見ナ

イ, モハヤyj 11月上旬, dustavとCharlotteがハイネを訪れた。 シャルロッテは12年ぶり

の兄との再会であった。 グスターフには兄のハイ ンリヒが, 7年の病臥で, 世間の動きや変

化にすっか りう と く なった ようにみえた し, 苦しみのペ ッ トの上で創造していたのは, 全く

新しい世界であったとみているが, 兄の鋭い記憶力に驚嘆している。そのエ ピソー ドは, あの

「メ モアール」 に直接つながる世界でもあった。 「まだあの日のことを覚えているかい? ぼ

く らの父さんが美しい制服を着て帰ってきた 日のことさ。 父さんが軍服を脱いでから, ぼく

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a. a. 0 . S . 451f

詩 人 ハ イ ネ 1855年 125

らが, い うならばどんな風に分け合ったか? ぼくは羽根のついた帽子をつかんで叫んだんだ,

》ぼく はナポレオンだぞ/〈 お前は軍刀をつかんで歓声をあげた, 》ぼく はミ ュラーだぞ/ 《

ぼく らの弟のマクスはその軍服を着て歩きながらよろこびの声をあげた, 》ぼくは皇帝の侍医

だぞ/ 《 もちろんうしろはおひきずりだ ったけれど。これらめ品物のどれも大切なもののよう

にいつも考えていたぼく らのお母さんが両手を うちあわせて, ぼく らの楽しみも じきにお し

まいにして し まったのさ。 ぼく がこの予言的光景を一度も忘れるこ とができなかったのは注

目に価するね。 お前は騎兵士官になった し, マクスは有名な医師になった。 それにぼく はぼ

くのセント・ヘレナ島によこたわって, 言うに言われない苦痛で死んでいくのだからねΛP

シャルロッテはDr.Grubyの, まず二 ・ 三年はあともつであろ うと1いう言葉を信じてハムブ

ルクヘ帰っていった夕12月に, 咳の発作が一段とひどくたったようである。少年期の想い出

の話も次第に少な く なってきた。 「私がいても, 詩人はあの魂が未知の暗い空間へと連れ去

られる, 幽暗夢幻の世界に陥入った。 このような半分まどろんだ状態から 目覚めると, ハイ

ネは重苦しい, やり場のない溜息をもらした・ ・ ・ず

(二) 註

① F .Hirth: H.Heine, Briefe nI S。574.

② 第二章の内容は, と くに断 りがない場合, 下記の各書から抜き出してある。

H . H .Houben’: Gespr乱ch mit Heine ( F rankfurt/M . 1926) S . 908 - 977 .

M , W erner: Begegnung mit Heine II . Bd ( Hamburg 1973) S . 363- 466 .

F . Mende: Heine- Chronik ( Berlin , 1970) S . 315T 329 .

③ H. Laube: Erinnerrungen an H. HeineべinHouben S.92g)

④ Kolle, Kurt: Die Krankheit von H.Heine

(Der Hautarzt.Jg. 15, Berlin 1964 S。162- 4)

⑤ eine Diagnosevon Dr. Rahmer 〔in Laura Hofrichter: HごHeine。

∧ ( G 6 ttingen , 19 6 2 ) S . 1 7 2 〕

⑥ M.Werner: a.a. 0 . S. 363

⑦ M.Werner: a.a. 0 . S. 367 十

⑧ M.Werner: a.a. 0 . S. 368

⑨ R Hirth: a.a. 0 . S. 608f. ( Bd. m) Brief an J.Campe

⑩ H.H. Houb6n:4 .a. 0 . S. 921

⑩ Henri Julia: Heine- Erinりerungen (in M.Werner; a.a. 0 . S.437)

⑩ M.Werner: a.a. 0 . S.404

⑩ F .Hirth: a.a. 0 . S. 628 (Bdj II )

⑩ Houben: a.a. 0 . S. 932 ¥ ¥

⑩ F .Hirth: a.a. 0 . S. 640 (Bd.m)

⑩ M.Werner: a.a-。0 . S. 433XI

ZI

⑩ Houben: a.a. 0 . S. 935f

(三) この一年間にうまれたといわれ る詩作品の諸側面。 二

執筆の時期についてのタ ソデ説に沿 って, この一年にうまれたとみられる補遺第 1巻から

37

e

: a. a. 0 . S . 456

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126 條 正 雄一

38

第 4巻の中の各詩の内容をまずひとわた りながめてみよう。 :

第 1巻 「恋愛歌」 (76) し

愛するものを残して死んでゆかなければならない詩人が, 「ぼく の思想の魅力がおま光を

捉えてはな さない」 こ とを信じ, 信 じこませようと必死にうたっている。 「ぼく の精神を親

し く迎え入れて欲しい || おまえは, ぼく の精神の激しい接近からのがれられない || 支那, 日

本まで逃げのびても || おまえはこの哀れな追はぎからのがれることはできない,/ 」 各詩連の

脚韻もよわt 女ヽ性尾韻が主になっていて, しかもあえぎあえぎ歌うがごとき短い語句が多い。

( 4行詩 5詩連)

同 (77)

病臥の詩人がムーシュの来訪を待ちわびている。 「ぼくを灼熱の錨子でっねって欲しい 『

ぼく の顔の皮をむごたら し く , 剥いで欲 しい Hぼく を笞でたたいて笞刑に処して欲しい || 。

でも待つこ と, 待つことはさせないで欲しい/ 」 けれども小さな魔女の, 八’スの花は来なか

った。 脚韻には, 時の徒な流れを感じさせる, 男性韻と女性韻の交互のはたらきがみられる。

最後の詩連には, ハイネ特有の複眼的描写が用いられている。 ( 4行詩5詩連)

同 (78) 「ハスの花」 ( ムーシュに寄せて)

詩人 と E. ク リ ェ ツの関係を, 詩人が簡潔に描き出しているノ 短いので全文を訳出する方

がよかろう 。 「ほんとにぼく らふた りは || 奇妙な一対となっている || 最愛のひとは病気がち

|| 恋する男は動けない。」 「かの女は悩める子猫 || かれは犬のよう に病んでいる || 頭の中はふ

たりとも, || それほど健康ではないとおもう。」 「自分はハスの花 と || この恋人はきめ込ん

でいる || けれども, このあおざめた伴侶のかれは 『月だと思いちがいを している。』 「ハスの

花は花びらを |1月の光を浴びて閉じた。 || けれども, いのちがみのっていくかわ りに || かの

女は詩をひ とつ うけとめただけだ。」

同 ・(79) 十

詩人が, おそら く マチル ドを念頭において, ふた りの間の現状こそ, すこやかな愛のあ り7

かただと説いている。 現状は言葉ばかりで行為のない歪んだものであるけれども 「来る日も

来る日も情熱という馬にまたがり, ギャロップをかける腰の力に。は」 おまえは不向きだと説

得し, ふた りの心のきずなに力を与えよ, とたのんでいる。 規則正しいく りかえしの脚韻が

説得をささえている。 ( 4行詩 5詩連)

同グ (80) ノ エ づ

詩人が最期にのぞんで, 「おまえだけのために, ぼく の心は脈打っていた」 こ とを うちあ

け, 悲しむ 「おまえ」 をおもいやって 「iよきもの, 偉大なるもの, 美しいものは, つたない

最期をとげる」 のが人の定め, とさ と している。 抑揚格9脚と 8脚の韻でととのっているが,

気持ちの悲 しい破綻を 「だがおまえマ リアよおまえは」 という第2詩連の第3詩句が破格で

つよめている。 女性尾韻が男性尾韻を各詩連において く るんでいる。 ( 4行詩 3詩連)

第2巻 「さ まざまな詩」 (52) 「ハレルヤ」

18詩連におよぶ, かな り長い詩の中で詩人は, 信心ぶかいひとたちは天上のひか りをほめ

たたえるであろ うが, 自分はわれわれ人間の心という創造の傑作をたたえたいという。 第5

詩連で (天上のひかりはどれもこれも に)ヽ との胸の中にもえあがる || こころと く らべてみた

ら || ぼくにはつまらぬ安物ローソク」 と うたい, そのつぎの詩連から第14詩連まで, 世界の

ミニチュアである心を く りひろげてみせる。 そ してこんなに美し く薫 りたかく , 人の心を創

造し, 愛とい う名の精神を吹き込んだ創造主をたたえたいという。 おわ りの第18詩連で 「ダ

ビデの敬虔な竪琴のしらべよ || ぼく のうた う讃歌を伴奏せよ」 と書いて, ハイネ晩年の宗教

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127詩 人 ハ イ ネ 」 855年

39

観を興味深 く うかがわせる。

同 (54)

第 1詩連で詩人は, 「地上はおどろ くほどに不健康だ, そしてこの地上で偉大で美しいも

のはなにもかも滅びてゆかざるをえない」 と, 地上の営みのはかなさをなげく。 つづく 3詩

連で, それを具体的にながめ, 天才は竪琴をいらいらと真ぷたつにして しまう という。 第6

詩連からおしまいの第10詩連まで, それにく らべ, 怜俐な星ぼしが宿命的な地上の営みから

遠く隔ったままでいよう と している様子を対比的に描いている。 どの詩連も前半のふたつの

詩句と後半のふたつの詩句とが脚韻0 点でも様ざまに区別がつけられ, 内容的にも前半と後

半とが対照的に書きわけられ, 全体を とかしても前半の5詩連が地上, 後半の5詩連が星を

扱う という構成を とっている。 また内容のなげきに照応して, 揚抑格に各詩句とも整えられ

ている。 ( 4行詩10詩連)

同 (58) 「病人のためにJ xll- xvI

xⅡ。17’詩連の内容は, 詩人が熱に浮かされ,失神寸前の幻覚状態にあるようすが語られ

る。 最初の7詩連で詩人はゴーデスベルタの居酒屋で, まるで沈んでいく太陽を呑みこんだ

ような喉灼けを ワイ ソでしずめようと している。 そして放心状態で飲みっつ, ライ ンの廃墟

をみあげレ ブ ドーの収穫の歌に耳を傾けている。 ところが第8詩連から第16詩連まで, 「呑

んでいるとぼくがふた りになったような気がし」 熱に病みおとろえた, も うひと りの「ぼく 」

がはなれない。 この 「もう ひと丿のぼくの言葉」 に 「も うひと りのぼく」 が腹をたて, どう

にもならない取組みあいを し, 打ちすえると 「ぶんなぐったひとつひとつを || ぽくはじぶん

のからだに感じる」。また喉がひ りひ りして, ワイ ンを注文しよう と して, 失神し, 夢 うつつ

にカタプラスマ療法や薬の調合の話をきいている。 抑揚格で, 脚韻は熱でずきずきするよう

に男性韻と女性韻が交互に組み合わされた り。 長詩句と短詩句が病状を強調する。 ( 4行詩

17詩連)

xnl . 放血用吸血ヒルは, 少量の塩をそのからだにふ りかげると, ころ りと落ちる。 詩人

はこのイ タージから, 自分の体を じわ じわとむしばんでいく 「吸血鬼」, には, なにをふりか

けた らいいか, と問 うている。 無気味なイ メ ージと病気を 「ぼく の友」 と呼んだ り, しぼ り

抜かれた骸骨に自分自身をみたてるイ ローニッシュな表現が目立つ。 ( 4行詩 4詩連)

xⅣ。詩人を誰かが訪問し見舞って くれたあとのおだやかな気分で書かれたような 4行2

詩連。 「ぼくは思う存分に || 愛の盃をすっかり飲み乾した || それは, かっと灼きっ く コニャ

ッ クポンスのように || ぼく らをやきつ くす飲みものだ」 「交友の和やかな温かみは || ぼくの

好むところ。 魂のどのような悲哀も || この温かみは鎮め, はらわたに生気を与える, || ち ょ

う ど調法な一杯の紅茶のように。」第 1詩連は強い脚韻で, 事実を, 第 2詩連は弱い女性尾韻

で静かに思い うかべている内容を形を通 じて示 している。

x v . まだほろび切っていない詩人の, 熱に苦しむ意識が2詩連のリフレイ ンで示される。

xvI . 時の進行も, 病床の詩人には蝸牛のあゆみのようにおもえる。味気ない空虚さ, 途

方もない惨めさ, を 3詩連とも脚韻を第 1詩句第2詩句が一対となって く りかえ し, 第 3,

第 4詩句が別の対となって反復するこ とによって強調している。 し

同 (62) 詩人は, ピアノ , 鉄道といった具体例をあげて, 「このような進歩の世界に || も

う しばら く とどまることを || ぼく の活力のおとろえが阻んでいることを || どんなにかぼくは

残念におもうことか/ 」 といっている。 ( 4行詩 3詩連)

第 3巻 「ロマンツエと寓話」 ( 11) 「浮世」

お互いの愛と死以外なにもこの世に持ってはいないふた りの, 貧し く絶望し飢え凍えた人

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128 條 正 雄一

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間が, 屋根裏部屋で, 冬の夜に窮死する。翌朝, 役人と外科医がやって来て, ふたつの屍体

の死を確認し, 外科医は役人に, 安っぽい不必要この上ない説明を死因について加える。( 4

行詩 7詩連)

同 ( 12) 「エ ド ゥアル ト」

霊柩車で墓地に運ばれるエ ドゥアル ト, この若き男子への追悼の言葉を詩人は書く。 地上

では幸いしなかった彼, ノ ランゴリックに真剣かつ夢みるように宴席で腰かけている彼, 酒

杯氾人知れぬ涙をそそぐ彼, 「さあ, 眠 りに就くがよい/ もっとよろこばしげに || おまえは

天上の広間で目覚めるのだ 卜そしてこの世の酔い ・二日酔い力H おまえを天上では他の連中

とは違って, 苦しめることはないだろ う」 ( 4行詩 5詩連) ∇

同 (17) 「弁髪の時代から」 (寓話)

この2行18詩連の寓話は, まず簡潔なバラード風の, 詩全体の状況説明から入る。 「カ ッ

セルに2匹のネズミがいた || かれらには食物がなかった」 第2詩連から第 5詩連で, 一方の

ネズ ミが, キビがゆの壷が選帝侯の軍服をまと った番兵に, フ リン ト銃で守られていること

をあきらかにする。 第6詩連からおしまいまでの中で, も う一方のネズミが, 選帝侯は弁髪

の時代が好きなこと, 弁髪はネズミの尻尾のシンボルにすぎないこと, 弁髪愛好者の王はお

かゆを分けて くれるだろ う, そ う したら, 王が死んだときに尾を切って尾の冠を編んであげ

る, とい う。 Wortspiel( Schrot= tot, Klopft= bezopft, philozopf= Hirsetopf, Kranz=

Rattenschwanz) とパロディ風の筋の運びとで, 封建君主が笑いとばされる。し「時事詩」 (31)

と同じ素材があつかわれ七いる。

同 (18) 「忠犬」

各詩連は, 20行10行14行 6行から成 り, はじめから 2行ずつ韻が一対にな り, 内容もそれ

に対応している。 第 1詩連で, 「た しかな根拠から, 立派な名前ブルー ト ゥスをつけたプー

ドル犬」 の忠大ぶりと飼主の信頼が描かれ, 第2詩連で, 犬の中には, ルンペン犬の集団も

いることが明らかにされ, 第3詩連で, ある日, 肉屋への使いから帰るブルー トゥスが, こ

れらのルンペン大に襲われ, 肉を とられるが, 最初は 「哲学的な心の落着きで, この寸劇を

ながめていたブルー トゥス」 も, 万この 「食事」 に加わったことが示され, 最後の詩連で, モ

ラル, と題 して, 忠犬も完全ではないから, ぱくついたのだ, と解釈が付される。 これは 「

告白」 の中で 「民衆の腹黒さは飢餓から生ずる」 (Elster, VI , S. 43) と書いたハイネの考

えと照応するし, ルイ ・ フ ィ リ ップの政府の年金を もらっていたハイネのSelbst- lronieと

もとれる内容を含んでいる。 (Vgl: MEW , Bd. 28, S. 423)

同 ( 19) 「馬と ロバ」

この4行18詩連の構成はつぎり よう になっている。 第 1詩連で, 時代の進展のシンボル蒸

気機関が, まず全体の背景として描かれる。 「レールの上を稲妻のように速く || 汽車や蒸気

馬車が || 煙突から黒い煙を三角旗のようにだなびかせて || 轟ごうとすべっていく。」これを う

けて, 第2詩連そ情景が具体化される。農家の脇を通り抜ける軍隊の輸送車を垣根越しに白

馬がのぞき, その傍にロバがアザミをはんでいる。 第3詩連から第10詩連にいたるまで, 馬

が 「人間はこの鉄製の家畜をつかって」 自分らは無用の長物にな り, 飢え滅びるであろうと,

お先き真暗な状態をなげき, ため息をつく。 この話をききながらアザミの穂をふたづも平げ

ていたロバがゆった りと した表情で,以下第17詩連まで,誇 り高い馬とちがって, つつましや

かなロバには, 危機に心を配る必要はないと話しだす。 「ヽ神さまはご自分のお造 りになった

ロバを見捨てない || ロバたちは心しずかに義務感を抱いて || 信心ぶかい祖先がしていたのと

同じように U毎日ぽくぽく と水車小屋をおとずれるのだから。」この馬とロバの対話をう=けて,

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おしまいの詩連が, モラルと題して, 「騎士時代は終って しまった || だから誇 り高き馬はきっ

と飢える ∥けれども, 哀れな腐れ肉のロバは || 乾草と若草に決して事欠かないだろ う。」 と結

んでいる。 冒頭から第10詩連までは, 内容に対応して長短の詩句が激し く入り乱れ, 後半口

バの部分になると安定した詩形と韻を もちいている。 おしまいの詩連は, この馬と ロバの対

照を, 2行ずつ男性尾韻と女性尾韻とを もちいて, はっき りと示 している。・ 第 4 巻 「 時 事 詩 」 ( 2 4 ) 「 伝 言 」

詩人は, あたかも愛する, 信頼することのできる後輩にむかって, 老兵が気負い立つ新兵

にむかって噛んで言いふくめるように, 語っている。 短かい詩の中にj 萬感が篭っているよ

うである。 詩人の眼は敵を見すえている。 「おまえは意気軒昂だ, おまえには勇気があるー

- |[ それもよいことだ / 11けれども昂揚という宝で || 慎重熟慮をおきかえることはできない。]

「敵は, ぼく には判っていることだが, || 正義と光のためにたたかっているのではないー

|| だが敵にはフ リント銃があり, 何百ポン ドもの || 砲弾をとばす大砲もすくなくない。」 「心

静かにおまえの武器を とれ

詩 人 ハイ ネ 1855年 129

人びとがイトれよ

41

|| よく狙いをつけよ|| 撃鉄をあげて

う と しても || おまえの心がよろこびのあま り高鳴ろ うとも。」詩形も前半2行が強く簡潔にう

たいあげ, 後半2行が, それを理性的に, 長い詩句と女性尾韻でおさえている。 3詩連とも

正確にこの形を く りかえ しつつ, 「撃鉄をあげ, よく狙いをつける」 という一点にむかって

集中し, たかまってい く。

同 (27) 「選挙演説のロバ」

4行詩20詩連におよぶこの詩の中で, 詩人は, ドイ ツ国粋主義を ロバの演説というパロデ

ィで罵倒し笑いとばす。例によって第 1, 第 2詩連で背景と場の設定がととのえられる。 「と

う と う自由は飽きられて 11動物共和国は || 唯一の元首が動物たちを 11絶対主義的に支配する

ことを熱望した」 「あ りとあらゆる動物たちがあつまり || 投票用紙が記入された。 || 党派心

がひどく荒れ狂い 11黒い画策がなされた。」 ロバたちは黒赤金のナショナルな徽章をつけてい

る。 馬の弱小党は, ロバをおそれながら, 馬の候補者を推せんする。 すると 「お前は裏切者

だ」 と金切声をあげて, 長老ロバの 1頭の演説がはじまる。 以下第18詩連までつづ く演説の

内容を要約すると, 馬を フラ ンス ・ イ タ リア ・ スペイ ン産で, エジプ ト ・ ヘブライ的である

ときめつけ, 自分たちを非教皇崇拝主義者 ・非スラヴ系 ・感性的 ・質実剛健で, 栄光につつ

まれた, 地上を超越したロバであると規定し, 偉大なるロバ王国を建設しよう と訴える。 こ

の愛国ロバに感激七だロバたちは, 演説者の頭を柏の葉で飾 りたてる。 ハイネ一流の

Wortspielも随所にみられる- von Alt Langohren, frisch・fromm・fr6hlich・frei,

Eselei , Eselreichな ど○ ‘ ■

同 (28) 「量がそ うさせる」

この詩の肩に序の言葉がついていて, この詩をと りまく背景が示される6 「これまで ドーナツ

を 3 グロッシェ ソで売っていましたが, これからは2 グロッシェ ンで売 ります。 販売量がそ

うさせるのです」 第 1詩連4行第 2詩連 8行第3詩連26行第4詩連45行第5詩連10行第6詩

連10行最後に 1行の 「民衆がそ うさせる」 という句が全体を しめく く っている。 前半にはベ

ル リンの方言もまじえてベルリンの空気を読者に近づける。イ ローニッシュな表現が目立つ。

第 1詩連で, 詩人はまず 「まるでブロンズに流しこんだように, ぼく の記憶の中に, かつて

知的なプロイ センの都の知識新聞で読んだ記事が消えないでいる」 と書き出し, 愛するベル

リ ンのウソター ・デン ・ リンデンや動物園はどうなっているか, と第2詩連は回想しぱじめ

る。 第3詩連では, きわめて皮肉たっぷ りに, 「好きでたまらぬ」 プロイセン王と指揮者マ

イ ヤー ・ g - アの関係を描き, 第 4詩連では 「ベルリンのことを想うとすぐ浮かんで く る」 大

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130 一 條 正 雄

学のこ とを 「多かれ少なかれ長い耳」 の教授たち, ローマ法のサ ヴィ ニ教授な どはどうなっ

たかと問い, また同窓生とゲルマ ン的暴力の空気に触れる。 第 5詩連で, かぶら, き う りの

作付と文士の消息を問い 「あいかわらずかれらの中に天才はいないのか」 と痛烈な鄭ゆを と

ばし, 第 6詩連で近衛士官たちは昔どお りかと問いう つ詩人は予言する。 「ベルリンの近衛

中尉たちはどう しているだろ うか? まだ尊大で, 腰にはコルセ ッ トをつけているだろ うか?

暴民のこ とを まだおしゃべ りしているだろ うか? 諸君らに忠告する。 注意したまえ。 まだ毀

れてはいな いが, ぎ し ぎ し音がする。 それにブフ ンデンブルグ門はあいかわらず宏壮だ。

この門から諸君らはプロイセ ン皇太子もろ と もにおっぽ りだされるかも しれないー 」 脚韻

は正確に 2行ずつ対にな り, 時代の歩みを示 しているかのようだ し, 5 ヵ所に繰 りかえされ

る 「Menge thut es」 と い う詩 句 は お し ま い に き て 夕y・会 話 的 用 法 か ら 内容 のあ る は っ き り し

た意味を もつに到る。

同 (31) 「ヴァ ン。ダー ・ ラ ッテ ン」

し詩人は, ネズ ミには2種類あって, 空腹ネズ ミと満腹ネズ ミだ, と語 り出す。 標題の

Wanderrattenが普通名詞の ドブネズミかと思 う と, そ うではな く て, 一見非現実的な, そ

れでいてひとたび読むと忘れることのできない強烈なイ ノ ージを伴って, 意志を もった移動

ネズ ミの話が展開される。 4行詩14詩連の前半は, こめネズ ミの行動, 傾向, 目的が次第に

明らかにされてい く , 「空腹ネズミは旅にでて」 「まっす ぐにかっかっ と走 り」 「ラディ カ

ルそのもの」 「神を知らず」 「土地も金もないので, この国を分割せんと している」。第 8詩

連で, このネズ ミの群が町の門外に接近 しているこ卜と, あらゆる防禦の試みも無駄であるこ

とが具体的に語られる。 「ネズミは三段論法ではつかまえられない」 し, このラディ カルな

群にぽ, 「沈黙した乾ダラの方がミラボーのようなキケロ以来のどんな有弁家よりはるかに

ましだ」 と詩人は結ぶ。 この詩の前半はネズミの行動にあわせるように, 各 2行が女性尾韻,

男性尾韻で正確に整えられている。 後半は弱い女性韻に4行ともにかお り, 最終詩連の後半

2行がふたたび男性尾韻で不協和音のような作用を している。

(四) 若干の結論

前章で概説 した1855年成立の各詩の内容のうち, たとえば, 第 2巻 「さ まざまな詩」(58)

は, 「ロマ ンツェ ーロ」 第2巻中の20詩およびH.Juliaによる1857年公表の7詩, にも結び

つく ハイ ネの抒情詩的自己容態書であ り, ハイネが 「し とねの墓」 とい う 8年間のおそろ し

い悲劇をモチーフとテーマと した詩作品の一環である。 これについてはW . Preisendanzが

「ハイ ンリヒ ・ ハイネ, 作品構造と時期的関連」 ( 1973) の中で, と く にこれらの詩群にの

み限定して, ハイネの作品のなかでの位置づけをおこなっているよ)その論旨をいうならば,

「しとねの墓」 から うまれた詩は, ハイネの従来の他の詩とは異って伝統と革新の関係をな

ぞること も, 発展の視点でとらえること もできないし時代史社会史文化史的文脈も欠落して

いるので, 内容面に限定 して論 じるよ り方法がないと し七, 内容と表現からみられるこれら

の詩の本質的な性格を 4つ指摘している。 それらは 「えらばれた, きわだった内的現実とい

う立像を前提にする論題からの離反。 不敬, 世俗的なものへの決断。」 「詩的表現と 日常的言

語表現との間の差異の縮少化または揚棄。 散文化」 「主体性を超歴史的なものと して扱 うこ

との断念。 自己相対化に即時代化」 「真剣な ものコ ミ ッ クなものを もはや互いに包括する表

現のカテ ゴリー, 表現された もののカテ ゴ リーと して把握するこ とをゆるさないような芸術

のための, Ernstと Komikの二者択一の揚棄。」であるが, これらの性格づけに も とず き,

「》病人のためにくの詩では, ポエジーと事実経験に関するイ ローニッシュに伝達された反定

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なんたる侮蔑 / ・ ・ ・ 貧しきラ ・ フ ォンテー別ま, 故郷の町ティエ リーのかれています

立が リア リズム抒情詩へとみちびかれた。 ハイネ抒情詩にみられる リア リズムには総体性,

つま り19世紀ロマーソにみとめることができる リア リズムを殆んど例外な しに特徴づけてい

る潜在的調和の前提が, 欠落している」 と主張するのである。 この論者が 「病人のために」

の詩が, 病気, 苦悩, 苦痛, 死亡を変容した り調和した り昇華した り理想化した りすること

を完全に拒否している点に, これらの詩の特質を見出していることに, さ したる異論がある

わけではないが, 意識的にか無意識的にか, 「しとねの墓」 から うまれた詩即 「病人のため

に」 の詩群と うけとられかねない叙述操作をおこなっているのはうなづけない。 前章までに

みてきた通 り, この 「病人のために」 の詩群は, 「しとねの墓」 から うまれた詩の一部をな

すものにすぎず, ここに, この論考のもつ一面的性格が露呈している。 それのみでな く , 詩

的な, 死についての表現や考え方を拒否否認する表現をのみみてとるのではな くて, 生の死

に対する優位をも, つま り生の新しい段階と形態とをみてとることも可能であ り, それはす

でに 「西東詩集」 の 「死せよ成れよ」 の詩句の象徴しているような世界につながるハイネ的

変奏でもあるj)といえよう。ハイネの社会的パ トスの表明を見お とすと, ハイネ晩年における神をめぐる問題の考察を

あやまるとい う危険を, Hans Kaufmannも指摘 しているが,(l)ハイネがほぼ24年まえの, パ

リ到着後間もない頃の1831年 6月27日に, 当時発信回数こそ少ないけれどもハイネがもっと

も誠実に包括的に自己の内面を吐露す るこ とのできたKarl August Varnhagenvon Ense

(1785- 1858) 宛に発した書簡の文面を支えていた思想は成熟しつつ, たとえば前章で触れ

た第3巻 「Tロマ ソツエと寓話」 ( 11) のなかにも途絶えることな く脈 うっていることがあき

らかである。 これを対比してみよう。 「l事物《 の力/ ぼくがきっと, 事物をとことんまでっ

きつめるのではな しに, 事物がぼくを と こ とんまで, 世界の突端パリまでもつきっめさせた

のです。 否それどころか, 昨朝ぼくはその尖端をさ らにつきつめました。 パンテオンです。

》偉大なる愛国者に敬意を捧ぐ《, こ0 よ うだったと思いますが, 金ぴかの碑銘はふたたびか

詩 人 ハ イ ネ 1855年 131

哀れな魂の他方が言う。

おまえの眼をみていると,

わた しのみ じめさ も飢えも凍えも,

この世でのわたしの悲哀がみんな消えてゆく。

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哀れな魂の一方が言う。

おまえの腕でわたしを抱いて。

わた しの口におまえの口を し っか り圧 しつけて。

おまえのからだであたたま りたい。

城内に大理石の柱をもっているのです。 この柱は4万フランもしたのです・ ・ ・j)

「浮 世」

夜風が天窓を とおして唸っている

そして屋根裏部屋の臥所には

ふたつの哀れな魂がよこたわって いる。

かれらはたいそ う蒼白く , 痩せている。

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ふた りはいく ども口づけし合い, それよ りもっと多く泣いた。

互いの手を溜息をもら しつつ握 り合い,

声をたてて笑う こヽ と も少な く なかったし, うたいも した。

そ して, と う と う沈黙して しまった。

條 正 雄132

「寒気がはい りこむときには」 とつけ加えた,

「毛布で保護するのが, いちばん必要なことです」

外科医はおな じく

健康食も推奨した。 ⑤

この告発の詩の中でハイネは, 資本主義社会の奇型に反対し, 人間性の名において抑圧され

た人びと, 権利を うばわれた人びと, ブルジ ョアからいつわ りの同情をかけられている貧し

き人びとに味方する声をあげている。 ハイネは 「告白」 の中でも, 「民衆の中の誰でもその

好むところの知識を獲得することができる状態におかれれば, じきに知性的な民衆すらみら

れるよ うにな るであろ う」 ( Elster: Bd. 6 8 43) とのべているが, この詩にみられるブルジ

ョアのみかけの寛大さをあばく言葉は痛烈そのものである。たとえば, 「ふたつの哀れな魂」

という言葉が二重三重のはたらきを もっているのに気付く。 イ ローニッシュな響きとともに,

「魂」 とい う信心ぶった言いまわしをパロディ化し, さ らに一般化の作用をももたせている。

しかもみ七と らかくてはならないめは, ふた りが悲劇的な出口のない状態の中で, 素朴に運

命のままにな っている点の強調が, 第4詩連までつらぬかれていることである。 そ して第4

詩連での, 絶望的な燃焼が, 表現のさまざまなテクニヅクでたかめられ, 死の静寂へ戻る。

第5詩連からおしまいまで, 分別く さい非人間的なて科学的」 な客観的な描写がイ ロニーを

こめてなされる。 両魂は両屍体とな り, ‥最後の十句で告発は頂点に達する。この詩を読むと,△

その死直前のハイネがなお, 旧きものとたたかい, 新しきものの勝利のために加担していた

ことを認めないわげにはいかないであろ う。

1855年とい う時点でのプロイセンは中央集権的官僚国家への道を さ らに整備充実していっ

たが, それは同時に民衆の側からすれば, 48年に到るP6belからProletariat への道程が,

そののちの茨にみちたArbeiterverbrUderungへの道を辿ることであったよ ハイネが55年に「Menge thut es」 め一詩 を も っ て 前章 で触れ た よ う に , プ ロイ セ ンの首府 を 回想 し て い

るごとはきわめて興味深い事実といわなければならない。 十 っ

最後に, 第 4巻 「時事詩」 (31) におけるハイネの思想的対決の仕方について触れておき

たい。脚註の中で拙訳を示した力ぐ この詩の前半, ことに第4, 5, 6, 7詩連であきらか

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そのあした, 役人がやってきた。

い っ し ょにやってきたのはデカシタ

外科医で, かれらが

ふた りの屍体の死を確認した。

「強烈な臭気が」 と外科医は説明しはじめた,

「空の胃袋といっ し ょになって

ふた りの死因とな り, 少な く と も

その よ うな こ とが死をはやめたのです」 と。

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にされるこの 「移動ネズミ」 とい う フ ィ クシ ョ ンのイ メ ージは, egal, radikal, Rattenkahl

とい う語にもっともよく示されているよ う̀に, 1848年のバリケードの戦士たちのイタージで

あり, この新平等主義者の集団に対してハイネは一種茶化したような筆致で, 一定の距離を

かれらとの間にと りつつ, 他方第 1 , 2 , 3詩連で, 一般的な 「 ドブネズミ」 の肌に粟粒の

たつような不快な習性のイ ノージのたすけをかりて, 行動の脅威に同化してみせる。 後半の

詩連の中へと思想的対決の結論は継続される。 ブルジョアの生活上の万能薬である所有権が

危険にさらされていることが示され, 読者の驚がくの度合いが, どの敵対党派に読者が所属

しているかによって, 異なることをハイネは計算しているかのようである。 ほぼ同じ頃に執

筆されたフランス語版 「ルテーツィア」 序文の中では, ハイネ自身, 避けがたいプロレタ リ

アートの前進をみとめ, 自分の 「歌の本」 が香料商人のよじる三角袋に役立てられる不安と,

他方とっ くの昔に断罪されてしまっている旧い社会, この腐敗が支配する虚飾の墓場が根底

から打ちこわされることを願う気持ちとが交錯している力ぴ最後の第14詩連で, ハイネの理

性的洞察はまるで4行のピエログラフとなって, 》Suppenlogik《という搾取者と被搾取者

の間の根本矛盾を解消することができると信じているブルジ ョアの巧猪な論議をきわめてイ

ローニッシュに逆手にとって結論を示している。 詩人によるコムニスムスの理解の到達点が

お しはか られ る。 。。

さて, ひとつの詩は, 他の詩との関連においてさ らにその奥ゆきを深めた り, その意味す

るところを鮮明にした りするであろ う。 しかしながら, ハイネ最晩年におけるこの一ヵ年間

の以上の如き考察を通じてさえも, ハイネが真の革命的民主主義の詩人と しての, 力動的な

生涯をつらぬき通したこと, 時代との対話を途切らせることな く , 多面的に詩的真実感を死

の間際まで うたいあげた抒情詩人であ りおおせたことを,` 深い感動すら伴って確認すること

ができるので々る。

(四) 註

① Wolfgang Preisendanz: Heinrich Heine (MUnchen, 1973) S. 99- 130

② Vgl. : KiiteHamburger: Rahel und Goethe, in “Studien der Goethezeit”

(Weimar, 1963) S. 83

③ H. Kaufmann: Vortrag Uber》Die Denkschrift Uber B6rne und ihre Stellung in

Heines W erk . 《 ( in DUsseldorfer lnternational一Heine-

, K o n g r e s s , 1 9 7 2 . 1 0 j )

④ F . Hirth: Briefe Bd.II , S. 3f. (Mainz, 1950)

⑤ E . Elster: H. Heine, Slimtliche Werke, Bd.II S. 124

⑥ Werner Conze: Vom》P6be1《zum》Proletariat《 , und F . Balser: Sozial- Demokratie

1848/9 bis 1863 ( in “Moderne deutsche Sozialgeschichte” herausgegebenvon

H- U . W ehler , K61n, 1973)

⑦ 卜

詩 人 ハ イ ネ 1855年 133

二種のネズミがいる。

空腹ネズミと満腹ネズミ。

満腹ネズミは家にのうのう,

けれども空腹ネズ ミはさ まよいでる。

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「移動ネズミ」

い く千哩も恥旅を

うまずたゆまず

まっすぐに, かっかと走 り

風も天候もこのネズミを と どめるこ とはできない。

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この連中は

とても恐 しい鼻面を して,

一様に頭を刈っている。

ラデ ィ カルそのものレ ネズ ミ刈 りだ。

ああ, わた したちは万事休す,

かれらは町の門の外まできている/

市長や参事会は

かぶ りをふ り, お手あげだ。

このラディ カルな群は

神について何にも知らず

自分の子供たちには洗礼を うけさせず

めすは共有財産だ。

町の人びとは武器を と り,

僧侶たちは鐘をならす。

優雅な国の守護神, 所有権力

危機にさらされている。

134 條 正 雄

丘を越え,

海を泳ぎ渡 り,

溺れ, 死ぬものも少な く ない。

生きているものは死んだものを置き去 りにする。

鐘をなら しても, 僧たちが祈っても

参事会のやんごとなき決議も

数百ポン ド砲も

き ょ うはきみらをたすけてはくれない/

もの言わぬ乾鱈の方が,

こめラディ カルな群には,

ミラボーのような, キヶ p以来の

どんな有弁家よ りはるかにましなのだ。

この移動ネズミが, ああ,

も う近 く にいる。

かれらが近づいて く る。 わた しには

かれらの啼ごえがも うきこえる, 無数にt るヽ。

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⑧ H. Kaufmann: H.Heine Werkeund Briefe (Aufbau, 1962) Bd. 6 S. 242- 249.

この感性的なネズミの群は

喰らい飲むこ と しかのぞまず,

喰らいがぶ呑み していると きは

わた したちの魂が不滅であるなどとは考えない。

言葉のこねく りまわし, いめちの絶えた話術は,

も うきみらの役に立だない。

ネズ ミは三段論法でつかまえるこ とはできない。

どんな繊細な脆弁を もとびこえて しまう。

こ うい う自然そのもののネズミなので,

地獄もネコもおそれず,

土地も金もないので,

この世界をあらたに分割したいと思っている。

飢えた胃袋に有効なのは,

だんご付ス¯’プの論理・ ,

ゲッテ ィ ングンのソーセージを引用 した

焼肉の論理だけだ。