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Title 引き裂かれた心の行方 --現代アイルランド文学における スウィーニー伝説の再生と変容 Author(s) 池田, 寛子 Citation 英文学評論 (2018), 90: 23-55 Issue Date 2018-02-28 URL https://doi.org/10.14989/RevEL_90_23 Right Type Departmental Bulletin Paper Textversion publisher Kyoto University

Title 引き裂かれた心の行方 --現代アイルランド文学における ......24 引き裂かれた心の行方 られることになった。多くのアイルランドゆかりの作家がこの伝説に興味を抱

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Title 引き裂かれた心の行方 --現代アイルランド文学におけるスウィーニー伝説の再生と変容

Author(s) 池田, 寛子

Citation 英文学評論 (2018), 90: 23-55

Issue Date 2018-02-28

URL https://doi.org/10.14989/RevEL_90_23

Right

Type Departmental Bulletin Paper

Textversion publisher

Kyoto University

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引き裂かれた心の行方 23

I

 狂気の王スウィーニーをめぐる伝説は、中世ヨーロッパおよびイギリス諸島

に広く見られた森の狂人の物語の系譜にあり、アイルランドに根差し、七世紀

の史実を背景とした匿名の作品である 1。スウィーニーのアイルランド語名は

「スヴネ」で、17世紀頃に成立したスヴネ伝説の写本が現存する。ただしその

知名度が高まったのはここ百年の間のことである。1913年にオキーフ(J. G.

OʼKeeffe)が決定版を編んでその英訳を添えた『スヴネの狂気』(Buile

Suibhne: The Frenzy of Suibhne)を出版して以来、その内容はようやく広く知

本稿は第 25回アイルランド研究年次大会(2017年 12月 2日)におけるテーマ発表「現代アイルランド文学におけるスウィーニー伝説の再生と変容」の原稿に加筆修正したものであり、科学研究費基盤研究(C)(平成二十九年度~三十二年度)「17世紀以降のアイルランド文学における土着の言語文化の再構築と愛国意識の相関関係」(課題番号:17K02543)において行った調査・研究に基づく。

1 この伝説についての近年の研究については John Carey, ed. Buile Suibhne:

Perspectives and Reassessmentsを参照。

引き裂かれた心の行方

― 現代アイルランド文学におけるスウィーニー伝説の

再生と変容

池 田 寛 子

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引き裂かれた心の行方24

られることになった。多くのアイルランドゆかりの作家がこの伝説に興味を抱

いた結果、スウィーニー伝説を何らかの形で生かした作品は現時点で二十近く

に上る。なぜスウィーニーがこれほどの魅力を持ったのかについての検討は十

分ではなく、包括的な視点に立った分析の可能性については示唆の段階に留

まっている 2。

 ここからはアイルランド語名の「スヴネ」が特に問題になる場合を除いて、

2 W. B. Yeatsの詩篇 ʻThe Madness of King Gollʼ の King Gollには口承文学などを通じて得られたスウィーニー伝説の知識が影響を与えている可能性がある(宮地 71)。T.S. Eliot の ʻSweeney among the Nightingalesʼ (1918), ʻMr. Eliotʼs Sunday Morning

Serviceʼ (1918), ʻSweeney Erectʼ (1919), The Waste Land (1922)にもアイルランドのスウィーニーが関係しているという説がある (Knust 1985)。William Saroyan のSweeney in the Trees (1943)は、Flann OʼBrien から Sweeney in the Treesという小説を書いていると聞いてそこからイメージを膨らませて書かれた劇で、スウィーニー伝説の内容との直接関係はない。Bernard McKennaは James Joyceの Ulyssesで木の名前が列挙される箇所にスウィーニー伝説とのパラレルが見られると指摘している (McKenna 96)。以下はスウィーニー伝説に関連した作品を挙げたMcCarthyのリスト (McCarthy 14-15)に追加したもので、『スヴネの狂気』の内容を踏まえていることが確認できた作品である。Austin Clarke, ʻThe Frenzy of Suibhne,” The

Cattledrive in Connaught, 1925; Flann OʼBrien, At Swim-two-birds, 1939; Pádraig Ó

Broin, Suibhne Geilt: Nine poems; one a facsimile of the original Gaelic, 1948; Derek

Mahon, ʻEpitaph for Flann OʼBrien,ʼ The Snow Party, 1975; Trever Joyce, The Poems of

Sweeny, Peregrine, 1976; Tom MacIntyre, ʻSweeney Among the Branches,ʼ The

Harper’s Turn, 1982. Seamus Heaney, Sweeney Astray, 1983; Cathal OʼSearcaigh, ʻSúile

Shuibhne,ʼ Súile Shuibhne,1983; Paul Muldoon, ʻThe More a Man Has, The More a

Man Wants,ʼ Quoof, 1983. Tom MacIntyre, Rise Up, Lovely Sweeney, 1985; Nuala Ní

Dhomhnaill, “Muirghil castigates Sweeney,” Selected Poems, 1988; Tom MacIntyre,

“Rise Up, Lovely Sweeney,” The Word for Yes, 1991. Brian Friel, Molly Sweeney, 1994;

Ian Duhig, ʻMargin Prayer from an Ancient Psalter,ʼ The Bradford Count,1991; Dermot

Bolger, A Second Life, 1994. Paula Meehan, Mrs. Sweeney, 1997 (1999); Matthew

Sweeney, ʻSweeney,ʼ A Smell of Fish, 2000; Patricia Monaghan, Soldier’s Heart: The

Book of Sweeney, 2006; Rody Gorman, ʻAn Tobar ud thall / That Well over byʼ i.m.

Seamus Heaney 1939-2013, from Suibhne / Sweeney, An Intertonguing, 2014.

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引き裂かれた心の行方 25

英語名「スウィーニー」を用いる。全体の話の流れを押さえておきたい。アル

スター地方の小国の王だったスウィーニーはコンガル王に加勢して戦争に明け

暮れる日々を過ごしていたが、キリスト教の布教を始めた聖職者ロナンに対す

る冒涜的な行為のため、呪いをかけられる。その後スウィーニーは戦場で発狂

して森に逃亡し、鳥としての放浪が始まる。スウィーニーはエグザイルとして

自然界を生きる歓喜と苦難を歌う。再婚した妻のもとを二度訪れるが、すぐに

森に逃げる。救出されて一時的に人間界での暮らしに落ち着いたこともあるが、

老婆の挑発を受けて再び飛び出す。スコットランドで狂気の男と出会い、彼の

死まで行動を共にする。アイルランドの教会で聖モリング(St. Moling)と親

しい関係を結ぶことになり、聖人に自分の経験を語り、キリスト教との和解が

始まる。しかしながら豚飼いからいわれなき恨みを買ったスウィーニーは、教

会で施されたミルクを飲んでいる最中に殺害される。

 本稿が提示するのは、この伝説が現代アイルランド文学に何をもたらしたの

かの全貌を探る試みの一つの成果である。多くのアイルランド人作家たちの関

心と共感は、二つの世界の間で引き裂かれるというスウィーニーの状態に集中

している。この点がなぜどのように変奏されてきたのかについて具体的な事例

を丁寧に掘り下げていくため、オースティン・クラーク (Austin Clarke,

1896-1974)、トム・マッキンタイア(Tom Mac Intyre, 1931-)、ブライアン・

フリール (Brian Friel, 1929-2015)、デレック・マホン(Derek Mahon, 1941-)、

ヌーラ・ニゴーノル (Nuala Ní Dhomhnaill, 1951-)の作品に焦点を当てる。一

貫して注視していくのは、アイルランド語と英語、それぞれを基盤とする二つ

の世界を一国にもたらした歴史が、彼らのスウィーニー伝説との関わり方にな

ぜ、どのような意味を持ってくるのか、という問題である。

II

 この物語の魅力の中心には詩人としてのスウィーニー像がある。ロバート・

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引き裂かれた心の行方26

グレイヴズ(Robert Graves, 1895-1985)はスウィーニー伝説について「あら

ゆるヨーロッパの文学を視野に入れても、何かにとり憑かれた詩人の苦境につ

いてこれ以上無慈悲で辛辣な描写はないに違いない」と述べている(Graves

446)。原作には物語の筋を語る散文も含まれるが、中心を成す韻文のほとんど

がスウィーニー作と銘打たれた詩である。詩のいくつかはもともと聖人や隠遁

者が作った自然詩で、物語とは独立していたともいわれる(OʼKeeffe xviii;

Carney 133-134)。いくつかの詩は繰り返し訳され、アイルランドの詩のアン

ソロジーに欠かせない作品としての地位を確立した 3。最も有名なのはセクショ

ン 40の木を賛美する詩である 4。スウィーニーは木々の名前を列挙し、それぞ

れの特徴を語り、木々への深い愛情を表現している。

 アイルランド語の達人フラン・オブライエン(Flann OʼBrien, 1911-1966)

の小説『スウィム・トゥー・バーズにて』(At the Swim Two Birds, 1939)はス

ウィーニー伝説を組み込んだ作品の嚆矢として知られる。スウィーニーのエピ

ソードは、小説内部に組み込まれた物語のさらにその中に挿入され、伝説の英

雄フィン・マックールがスウィーニーの詩歌を織り交ぜつつ物語を語る役を

担っている。フィンがスウィーニーの死で話を締めくくった後にも、「プー

カ」や「グッド・フェアリー」が活躍する別の物語にスウィーニーは再登場す

る。ここで誰よりもスウィーニーに同情を寄せるのは、詩人を自称する男であ

る。小説の他の部分にもスウィーニーを思わせる描写は潜んでおり、まったく

3 スウィーニー作とされる詩の英訳を収めたアンソロジーや詩集に以下のものがある。Frank OʼConnor, Kings Lords and Commons, 1959; Gerald Murphy, Early Irish

Metrics, 1961; David Greene and Frank OʼConnor, A Golden Treasury of Irish Poetry,

1967; John Montague, A Chosen Light,1967; Austin Clarke, Orphide and Other Poems,

1970; Kenneth Hurlstone Jackson, A Celtic Miscellany, 1971; Thomas Kinsella, The

New Oxford Book of Irish Verse, 1986; Brendan Kennealy, Love of Ireland, 1989;

Malachi McCormick, The Sacred Tree, 1992.

4 他には section 19, 23, 32, 45, 61, 83 も比較的よく訳されている。

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引き裂かれた心の行方 27

違う趣の作品の中に次々と生まれ変わるスウィーニーの運命を予見し、縮図化

した小説になっている(Ó Conaire 163)。

 スウィーニーの鳥への変身はカフカの『変身』に見られるような変身のテー

マの先駆けであり、現代性があると批評家フィンタン・オトゥールは指摘して

いる(Sweeney, no.3241-3245)。変身とは変身前の自分の完全な喪失ではない。

変身前と後の自分との間で引き裂かれているような感覚を持って生きるという

ことにもなる。この分裂感覚こそが自分とスウィーニーを結びつけていると考

えたのは、シェーマス・ヒーニー(Seamus Heaney, 1939-2013)である 5。ヒー

ニーが『スヴネの狂気』の翻訳に向かったのは、北アイルランド紛争から逃れ

てアイルランド共和国のウィックロウの田舎で執筆活動に専念し始めた 1972

年のことだった。ヒーニーは北アイルランドで差別を受けていたカトリックの

一人として発言するという義務を思うと同時に、芸術家としての自由を渇望し

ていた。ヒーニーは鳥になって心のままに歌うスウィーニーにあるべき芸術家

の姿を認め、スウィーニーに自分を重ねようとした(Deane 70)。

 自然の中での生活は苦難の連続でもあり、スウィーニーは王国にも後ろ髪を

引かれ続けていた。後に残してきた自分がいるというスウィーニーの感覚、そ

して鳥でありながら人の意識もあるというスウィーニーの二重性からヒーニー

が連想したのは、英語を母語とし、かつアイルランド語をルーツとするアイル

ランド人が抱える言語的な二重性だった。アイルランドで英語化が進んだ結果、

現在アイルランド語は絶滅の危機が言われて久しい。だが、英語話者となった

アイルランド人の無意識の底には、アイルランド語で培われてきた物語や詩歌

の遺産、そして言語変化がもたらした喪失感が潜在しているともいわれる 6。英

5 池田寛子「失われてなお生きる世界『さまよえるスウィーニー』とシェーマス・ヒーニーのアイルランド語の死への挑戦」『語り継ぐ力-アイルランドと日本』(アイルランドフューシャ奈良書店)(近刊)でヒーニー版のスウィーニー伝説Sweeney Astrayを原作との比較で分析した。

6 アイルランドにおけるアイルランド語の位置づけについては様々な見解があり、

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語化したアイルランドに生きるほとんどの人にとって、喪失感はもはや実感で

はない。これに対してこれから扱う文学者たちのスウィーニー伝説との関係は、

ヒーニーと同様、言語変化の歴史に直接的あるいは間接的な影響を受けている。

III

 オースティン・クラークの詩篇「スヴネの狂気」(ʻThe Frenzy of Suibhne,ʼ

1925)はスウィーニー伝説に基づく作品としては最初期のものにあたる。十四

スタンザからなるこの詩は物語全体の要約ではなく、その抄訳でもなく、出て

くる地名人名さえ原作とは違うものばかりである。だが二つの世界の間で引き

裂かれているというスウィーニーの感覚は原作から引き継がれている。この詩

から伝わってくるのは今ここに在る自分と後に残してきたもう一人の自分の断

絶と共存であり、そこに投影されるのはクラーク自身の葛藤である。

 詩のタイトル「スヴネの狂気」はオキーフ版の本のタイトルの英語部分と重

なる。オキーフは英訳の中でも一貫して「スウィーニー」ではなく「スヴネ」

を用いているが、クラークの詩の中に「スヴネ」の名は出てこない。自然の中

をさまよう語り手「私」が見た幻影や光景がひとしきり綴られた後、第九連で

「スウィーニー」の「忠実な妻」が結婚した、と叫ぶ「私」以外の者の声が入

る。

↘英語とアイルランド語の「二つの伝統」を想定することを否定する批評家もいる(Quinn 2008, 147)。民族的にも言語的にも多様化するアイルランド社会において、アイルランド語の伝統がアイルランド文化の二本柱の一本だとは考えられにくい向きもあるが、アイルランド語が千五百年以上の歴史を持つことは看過できない。複数の言語的アイデンティティを抱えるという事態はアイルランド一国に見られるものではなく、グローバル化に伴う英語使用の必要性の拡大、国境を越えた移動の活発化によってより広がりを見せている。多言語環境の増加と国語統一の圧力が同時進行する中、アイルランドが抱えてきた言語の二重性の問題が今後色褪せるということにはならない。

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A juggler cried. Light

Rushed from doors and men singing:

ʻO she has been wedded

To-night, the true wife of Sweeny,

Of Sweeny the King!ʼ (Clarke 126)

この直後「私」は「青白い顔の女性」が「新しい床」に向かうのを夢か現かに

見て、「スウィーニーは死んだ」と叫ぶ。

I saw a pale woman

Half clad for the new bed:

I fought them with talons, I ran

On the oak-wood – O Horsemen,

Dark Horsemen, I tell ye

That Sweeney is dead! (Clarke 126)

この後「私」は、「スウィーニーが自分の心を探している」と亡霊たちがささ

やくのを耳にし、再度「スウィーニーは死んだ」と繰り返す。「スウィー

ニー」は他人であるかのような口ぶりである。だが、まもなく「私」は「死ん

だ心の痛み」を感じ、当惑する。

But how can mind hurry

As reeds without feet,

And why is there pain in

A mind that is dead? (Clarke 127)

「私」にとって王だった自分はもはや自分ではなく、こうして失った自分を死

者とみなそうとしているのだろう。

 痛む心を抱えた自分を断ち切ろうとして狂気の淵をさまよう「私」の経験は、

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引き裂かれた心の行方30

クラークのものでもあった。この詩でクラークはスウィーニーの錯乱の最大の

原因を妻の裏切りとして描いており、そこには 1920年のクラークの結婚の失

敗が影を落としているとモリス・ハーモンは指摘している(Harmon 47)。実

際はスウィーニーが狂気に陥り去っていったからこそ妻は再婚したのだが、こ

の詩のクライマックスが再婚を知ったスウィーニーの動揺にあるとは言えるだ

ろう。クラークが結婚するはずだったのはフェミニストの活動家リア・クミン

ズ(Lia Cummins)である。クラークは家族に結婚を反対されて悩み、神経衰

弱を患って入院した。退院後カトリック教会を介さない結婚を試みて役所での

手続きを行ったものの、その数日後、誰にも認められないまま結婚は破綻した。

当時のアイルランドで教会をないがしろにした結婚形態を取ろうとしたことの

罪は重く、クラークは教会権力と不可分の関係にあった国立大学での職を失っ

た(Welch 179)。

 結婚をめぐる顛末からもわかるのは、クラークが聖職者に逆らって呪われた

異教の王スウィーニーに自己移入しやすい立場にあったことである。クラーク

は敬虔なカトリックの家庭に生まれ育ったが、教会が私生活に介入して性の抑

圧を強いるという状況を受容しきれず、キリスト教以前の神話や伝説に心のよ

りどころを求めていた。詩篇「スヴネの狂気」の語り手「私」も海の神マナナ

ン(Mannanaun)や魔術師ミーナ(Midna) といった神話時代に属する者たち

の気配を身近に感じており、半ば異教的世界を生きている。同時に「私」は、

聖人キアラン(Kieran)の祝福を受けてキリスト教の聖地で安らかな眠りにつ

きたいとも願っている。クラークもキリスト教徒としての自分を断ち切るまで

には至らず、カトリックの教えへの深い愛着を保ち続けた(Welch 181)。

 「スヴネの狂気」の最後の連には「彼らにどうやって私の名前が見つけられ

ようか」(how can they find my name)とある。これは誰も自分を知らない場

所に逃げてきたという「私」の意識を伝えているともいえるが、同時に、

「私」はいったい自分を誰だと思っているのだろうか、という疑問を生じさせ

る。クラークと「私」の置かれた状況が一致するわけではないが、こうして自

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引き裂かれた心の行方 31

らのアイデンティティを問題にしようとする「私」の背後には、英語とアイル

ランド語の両方の文学に関わって二つの間を行き来していたクラークの感覚も

響いている。

 クラークがアイルランド語文学との深く関わろうとしていたことを考慮する

ならば、語り手「私」の名はこの詩のタイトルとオキーフ版で使われている

「スヴネ」がふさわしいかもしれない。クラークはアイルランド語文学に詩の

題材を求めたのみならず、アイルランド語詩の音韻とリズムを英語で再現する

方法を探り、自身の英詩にアイルランド語詩の韻律を持ち込もうとしていた。

この挑戦の萌芽を内包しているということで、「狂気のスヴネ」を収めた詩集

『コノートの牛狩り』(The Cattledrive in Connaught, 1925)は詩人としてのク

ラークの転換点を示しているとされる(Harmon 26; Lucy 8; Welch 180-181)。

アイルランド語詩の韻律に精通するためにクラークは相当骨折ったはずである。

クラークはオキーフ版『スヴネの狂気』のアイルランド語韻文箇所に見られる

ような、四行一スタンザの厳格な詩型を自らの詩「狂気のスヴネ」に取り入れ

ようとまではしていない。だがこの頃詩として味読できる英訳はまだ出版され

ておらず、オキーフの英訳は直訳で魅力に乏しいため、クラークがオキーフ版

でアイルランド語の原作と向き合う必要性と意義は大きかった。こうしたク

ラークのアイルランド語世界での体験を代弁する者として、「私」がアイルラ

ンド語名を名乗ろうとするのは妥当である。

 別の見方をすれば、「私」ではなくむしろ「私」が死んだと主張する「ス

ウィーニー」に、アイルランド語世界に属するクラークの立場を重ねることも

できる。クラークは英語化したアイルランドに生まれ育ち、英語で詩を書いて

きたため、アイルランド語詩人になる可能性は最初から失われているも同然

だった。だが歴史が違えばその可能性はあった。アイルランド語詩のリズムを

英詩に生かすとは、英語詩人としてのクラークの内部でアイルランド語を蘇ら

せることでもあった。失われていたはずのアイルランド語が自分の内部で響い

たというクラークの錯覚あるいは感覚が、死んだはずの心の痛みを察して慄く

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引き裂かれた心の行方32

「私」に投影されたのかもしれない。

 クラークは「スヴネの狂気」でアイルランド語詩の韻律を示そうとしたわけ

では必ずしもない、とわざわざ注を付けているが(Clarke 543)、クラークの

意識がアイルランド語詩を読んだ体験を生かす道を志向していたことは明らか

である。この詩には原作にはない地名が導入された箇所があるが、これもアイ

ルランド語詩に顕著な頭韻と母音韻が優先されためであるとハーモンは指摘し

ている(Harmon 47)。アイルランド語詩の規則を英詩に応用しようとする試

みを「自分に鎖を巻き付けてそこから自由になろうともがいている」ような苦

行だとクラークが説明すると(I load myself down with chains and try to

wriggle free)、これに対してロバート・フロスト(Robert Frost, 1874-1963)

が「それでは多くの読者は望めないはずだ」と答えたという(Clarke 541)。

アイルランド語と英語の両方の文学に精通する者は多くはなく、クラークが達

成しようとしたことが理解されるのは容易ではなかった。だが後にクラークは

かなり精密なアイルランド語の韻律の再現に成功し、その功績で最も知られる

ことになった。

 同詩集にはクラークのアイルランド語名「オクレーリ」(Ua Cleirigh)をタ

イトルに織り込んだ詩篇「オクレーリの旅日記」(ʻThe Itinerary of Ua

Clerighʼ)もあって(Clarke 114-115)、クラークは放浪のアイルランド語詩人

の仮面でアイルランド語詩の「旅日記」のジャンルに挑んでいる。クラークが

英語による詩作をやめるつもりは毛頭なかったという意味では、「オクレー

リ」の独り立ちは最初から想定されていなかった。詩篇「スヴネの狂気」にお

いても、結局のところ英語世界に属する「スウィーニー」が忘我の状態で野山

をさまよい続けていたというのが事実であって、「私」が「スヴネ」であった

ことは一度もないというべきかもしれない。それでも「スウィーニー」と「ス

ヴネ」の共存の道を探ることには意味があった。クラークがアイルランド語世

界に没入する時間を持ち、存在しないはずのもう一人の覚醒を求めたことは、

英詩とアイルランド語詩の関係構築において大きな実りをもたらしたのである。

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引き裂かれた心の行方 33

IV

 トム・マッキンタイアは、アイルランド語に潜在する可能性に対して過剰と

も言えるほどの期待を表明してきた作家である(Ryan 2012, 59)。アイルラン

ド語の母語話者ではないが、アイルランド語への深い愛情に突き動かされてこ

れを熱心に学び、アイルランド語の作品も執筆している 7。『スヴネの狂気』へ

の思い入れは強く、これを題材に二篇の実験的な短編小説を出版し、二作目の

短編と同タイトルの劇を上演している。マッキンタイアにとってアイルランド

語世界は無意識と夢の領域に対応する。アイルランド語文学と関わることで英

語世界に生きるだけでは得られないエネルギーを吸収できるという信念が、

マッキンタイアの創作の根幹にある(Ryan 2015, 111)。アイルランド語の崇拝

には偏狭な民族主義にも通じるものがあり、北アイルランドでアイルランド語

は IRA(アイルランド共和軍)のスローガンに使われ、過激なナショナリズム

との癒着がイメージとして生まれた。だがマッキンタイアはアイルランド語の

理想視それ自体が悪ではないとみなすのだろう。アイルランド語世界の復活へ

の願いが自らの活力と創造性を高めるという可能性にマッキンタイアは賭けよ

うとすると同時に、似たような願いが不毛な破壊行為のエネルギーに結びつい

てしまうことの悲劇も認識していた。

 さまざまなレヴェルでの省略や欠如が短編「木の枝の合間のスウィーニー」

(ʻSweeney among the Branches,ʼ 1982)を特徴づけており、そこにこの物語を

読み解く鍵がある。スウィーニーが王だった時代が省かれ、自然の中に生きる

スウィーニーにのみフォーカスが当てられているのはなぜだろうか。マッキン

7 ニゴーノルはマッキンタイアのアイルランド語詩にについて次のように述べている。“A touch of strangeness, a making strange with the [Irish] language, marks it still

as the work of someone who has come to the language lately, but with love” (Ní

Dhomhaill 2001, 63-64).

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引き裂かれた心の行方34

タイアの考えでは、スウィーニーがアイルランド語原作を離れることもある種

のエグザイルで、この英語の物語に登場した時点で鳥としてのエグザイルも始

まっているべきなのだろう。原作を彩っていたアイルランド各地の地名はすべ

て英語に置き換えられる以前に省かれており、失われた地名は失われたアイル

ランド語世界の象徴にもなっている。マッキンタイアもスウィーニーもアイル

ランド語世界から切り離され、あちらにもう一人の自分を置き去りにしてきた

という境遇にある。

 マッキンタイア版のスウィーニー伝説を貫くのは、失われた「スウィー

ニー」の探求である。「木の枝の合間のスウィーニー」というタイトルは文字

通りには木々の間に隠れるように生きるスウィーニーを指しているが、「ス

ウィーニー」という言葉はタイトルにしか出てこず、読者はテキストのどこに

スウィーニーがいるのかについては、原作の知識を元に推測するほかない。森

の中でのスウィーニーの放浪は、失われた本当の自分を求める終わりのない探

求を象徴している。森の情景とスウィーニーの心の世界はそれぞれ互いを映し

出している。森で出会う誰かは、スウィーニーの心の中に潜む「もう一人の自

分」でもありうる。次のやりとりがスウィーニーと何者かの会話であるとして

も、どちらがスウィーニーなのかについての決め手はどこにもなく、自問自答

であるとも解釈できる。

― Where are you coming from? ― Where I left. ― Where are you bound for? ― Where Iʼm going. (Mac Intyre 1982, 49)

スウィーニーは自分がどこから来てどこに行こうとしているのかがわかってい

ない。このことは、原作でスウィーニーが一か所に留まれない運命にあること

の一つの説明にもなる。

 失われたアイルランド語世界、あるいはその代替を求めて、マッキンタイア

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引き裂かれた心の行方 35

の視線はスウィーニーの心の中へと向かう。原作の会話場面が作品の中で再現

されている場合も、すべてどれがスウィーニーの台詞なのかは記されていない。

このため会話はスウィーニーの意識の中を流れている状態で記録されたのだと

考えられ、つまりこれもスウィーニーの心の中の描写である。スウィーニーの

心に浮かぶ夢、妄想、記憶の断片のたぐいも散見される。スウィーニーの体験

だと思われる段落では、多くの場合「彼」あるいは「私」といったスウィー

ニーを指す代名詞さえ見当たらず、動名詞の羅列があるのみである。ここにあ

るのは、自らの身体的な動きをなぞるスウィーニーの心の動きなのだろう。ま

た、主語のない文は、自分を見失ったスウィーニーの内的世界に呼応している。

 朝の風が最も冷たいとスウィーニーが歌う原作のセクション 43や、文字通

り体が凍えた体験を歌うセクション 67のエコーがかすかに聞こえるのが次の

箇所である。ここで唯一確かなのは「霜鳥」(frost-bird)が飛んでいることの

みで、「彼ら/それら」がこの前の段落に登場する森の男とスウィーニー、お

よび森の木々を指している可能性はある。

The frost-bird flew, white iron the cut of the world, earth rang, water stared, breath

swiveled, they gaped from the trees: Who owned it? named frost-fern and frost-itch,

frost-dew and frost-bow and frost-smoke a weight on the sea, named them as

strangers: it gathered: black frost and white, diamond and button and wreathing a

chain, they ate of the rime but not tasting, stung cheek-bones they humped there,

morning struck morning and etched in the trees they cursed blood, they dwindled,

white hurricane stirred, white hurricane lifted, white hurricane blew, they bowed,

well, some bowed, and that morning, coldest of all, roused to the known: frost-bird

was flying, white scorched the white, marrow flamed, they tasted, they knew if for

theirs – their fire, their anvil, their shape that would be, their smoke from the rib,

their fern in the glass. (Mac Intyre 1982, 46)

人と木々、霜と雪と嵐が混然一体となった黒と白の情景と二重写しになるのは、

自分自身を見失ったスウィーニーの心の混沌である。

 木々が言葉を発する場面が三か所ある。スウィーニーに向けて語っているわ

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引き裂かれた心の行方36

けではないが、スウィーニーが耳にした、あるいはその心に響いた木々の声な

のだろう。

Ash: your shadow my pulse of waiting.

Hazel: come by night.

Birch: those seven sons with hats of birch returning…. (Mac Intyre 1982, 48)

スウィーニーが木々を仲間として讃える詩は原作の中でもとりわけ名高い箇所

だが、こうして木に語らせるアレンジは他に例がない。

 スウィーニーは概して口数は少なく、聞く側に回っている。会話以外でス

ウィーニーが「私」として登場する唯一の段落があり、「私」は木にぶら下が

る「死体」の声を聞く。これもスウィーニーの心の情景でもある。

Thereʼs a corpse hanging from the tree.

I cut the rope.

It thumps to the ground.

It moans.

I turn it over.

It bursts out laughing.― Why do you laugh?

Itʼs back on the branch.

I take breath.

I cut the rope again.

It thumps to the ground.

It lies there.

It moans.

I say nothing.

I shoulder the load.

It speaks again.― Friend, do you like riddles?

I say nothing.― Are you one for the riddles?

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引き裂かれた心の行方 37

Hereʼs a riddle to shorten your journey – if you know the answer and donʼt speak your

head will explode, all right?

(Mac Intyre 1982, 50)

「死体」は「友よ」と親しげに呼びかけ、スウィーニーになぞかけは好きか、

と尋ねるが、スウィーニーは「何もいわない」。死体は「答えを知っているの

に答えないとお前の頭は爆発する、そうだろう?」、と言ってスウィーニーに

同意を求めるが、その後返事があったのかどうかはわからないまま、場面は変

わる。スウィーニーが狂気の状態にあるということは、その頭はすでに爆発し

ていると言ってよいのかもしれない。こうして言葉にすべきことを内に秘め続

けていることがスウィーニーの狂気の一因であり症状の一つであるとすれば、

スウィーニーが声に出し、向き合うべき答えとはいったい何なのかを問題にす

る必要がある。

 「死体」はその存在自体がなぞである。原作で唯一この場面との繋がりを思

わせるのは、スウィーニーが最後に加わった戦いの「生者より死者の多い」戦

場である。

The battle of Congal with fame,

to us it was doubly piteous;

on Tuesday was the rout;

more numerous were our dead than living. (OʼKeeffe, section 19)

「死体」に生前の面影はないのかもしれないが、黙って担ぎ上げるスウィー

ニーの姿からそれが大切な存在であることが伝わる。スウィーニーは心のどこ

かでそれが親しい誰かであることに気づいており、その名前もまた、わかって

いて口にしていないことの一つであるとすれば、「死体」はスウィーニーと同

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引き裂かれた心の行方38

じ負け戦を戦った王、コンガルかもしれない 8。

 「死体」は大事な存在であり、かつ思い出したくない戦争の記憶に直結する

という両義的な存在である。知っていて口に出さないもの、究極的にはそれは

心の底に押し込んで目を背けている戦争のトラウマであり、これがスウィー

ニーの狂気の根底にあるのだろう。原作でも戦場で味わった死の恐怖が時折浮

上し、スウィーニーをパニックに陥れる(OʼKeeffe, section 39)。

 「死体」はスウィーニーの記憶の一部でもあり、スウィーニーが失った自分

でもありうる。スウィーニーと「死体」との対話は、マッキンタイアが体験し

た「無意識に住まうさまざまな力との対話」に相当する。マッキンタイアはア

イルランドの神話や民話の世界を「果樹園」にたとえており、そこで過ごすこ

とで「さまざまな力」(powers)との対話が起こり、聞こえてくるものがある

と語っている(Ryan 2012, 227)。「力」は神話や民話の何かに触発されて、心

の奥底から浮上してくるのだろう。「死体」のなぞめいた言葉がスウィーニー

の沈黙と狂気の関係に光を投げかけたように、「力」の声には真実が潜んでい

る。マッキンタイアにとってこうした「力」の源を代表するのが、アイルラン

ド語を失ったアイルランド人の心に潜むアイルランド語の記憶である。アイル

ランド語喪失は、記憶の彼方に押しやるべきトラウマの一つであるともみなさ

れてきた。だがスウィーニーが出会った「死体」は、心の深奥に沈みこんだ記

憶と向き合い、それについて語り始めるように促しているようである。

 原作のスウィーニーが饒舌に詩歌を紡ぎ続けるのに比べ、この作品のス

ウィーニーは歌わない。スウィーニー伝説の英訳を試みようとした場合に誰し

も直面するのが、古期アイルランド語で書かれた原作の複雑な韻文や重層的な

語句が翻訳不可能であるという問題であることからすれば、スウィーニーは英

8 この「死体」と同じセリフを発する「皮のない人」(the Man with No Skin)について、短編「立ち上がれ、愛しいスウィーニー」のスウィーニーは「自分の古い友人」だと語っている(Mac Intyre 1991, 104)。

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引き裂かれた心の行方 39

語世界では歌えないという演出は妥当である。黙りがちなスウィーニーの姿と

重なるのは、沈黙の中で自分の心の中と向き合い、詩の言葉との邂逅を求めて

きたというマッキンタイアの姿でもある(Ryan 2012, 220-223)。スウィーニー

が森で聞いた木々と「死体」の声は、スウィーニー伝説を読み込むうちにマッ

キンタイアの心の中に響いた言葉でもあり、無意識という異界から届いた規則

を持たない詩なのだろう。

 ヒーニーもマッキンタイアと同様に、自らの創作のエネルギーがアイルラン

ド土着の文学的伝統との深い接触によって活性化すると考えていた。ヒーニー

によると、現代のアイルランド作家がアイルランド古来の神話や伝説に向かっ

ていく理由は、ケルト復興運動の 19世紀末のようにナショナル・アイデン

ティティを主張するためではなく、自分の内部にあっていまだ形になっていな

い可能性に形を求めようとするためである (Mac Intyre 1982, 9)。影に追いや

られたアイルランド語の伝統を創造的に生かしたいという願いは、ヒーニーと

マッキンタイアを繋いでいる(Heaney 2015, 18)。

 取り返せないものを取り返そうとする衝動や願望が今を生きようとする上で

障害になるという危険もマッキンタイアは認識していた。マッキンタイアの次

の短編「立ち上がれ、愛しいスウィーニー」(ʻRise Up, Lovely Sweeney,ʼ

1991)は、失われた世界や自分を求めるスウィーニーの病的な側面を前作には

ない形で明確化している。森は無意識の世界やアイルランド語世界の象徴であ

るのみならず、現実社会に適応できないスウィーニーにとっての癒しの場とし

て位置づけられている。

 この作品でマッキンタイアは、失った王国へのノスタルジーを募らせるス

ウィーニーが現代によみがえった場合を想定している。植民地化前のアイルラ

ンドの復活を掲げて戦う IRA過激派を連想した上で、マッキンタイアは「逃

亡中の元 IRA」(an ex-IRA man on the run) としてのスウィーニー像を打ち立

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引き裂かれた心の行方40

てた(Ryan 2012, 153) 9。作品冒頭部分でスウィーニーは「我がネイションと

は?」(what ish [sic] my nation?)と問いかけ、そこからはひたすら支離滅裂

な発言を続ける(Mac Intyre 1991, 92-93)。実現すべき「我がネイション」を

見失ってしまい、IRAとしてのアイデンティティも危ういのだろう。戦争のト

ラウマを抱えた伝説の王さながらに、現代のスウィーニーの脳裏には IRA

だった頃の活動の記憶が頭をよぎることもある(Mac Intyre 1991, 114)。ス

ウィーニーが監獄に入れられ、IRAの危険人物として尋問され、虐待を受ける

場面もある(Mac Intyre 1991, 106)。存在しえない「ネイション」のための戦

いに行き詰まり、ついにはどこにも自分の居場所がなくなったという悲劇がこ

こにはある。この短編と同タイトルの劇バージョンでは、「元 IRA」のス

ウィーニーはイギリスのためにスパイを働いた経験もあり、ナショナリストで

かつ裏切り者であるという二重のアイデンティティを有している。

 マッキンタイアはアイルランド語文学が栄えた時代であるということでス

ウィーニー伝説が生まれた時代を理想視したわけではなく、スウィーニーの体

験が繰り返されることを望んでいたわけでも決してない。劇「立ち上がれ、愛

しいスウィーニー」の未出版の台本では、「永遠のアイルランド問題」(eternal

Irish troubles)の化身であるスウィーニーが「20世紀の悪夢のコンテクスト」

で登場する、と前書きに記されている(Mac Intyre 1985)。スウィーニーの物

語で語られるのは実際にあった戦いである。その時戦場で狂気に陥った者もい

たのだろう。7世紀アイルランドはイギリスの植民地ではなかったが、その時

代に取り戻すべき理想社会があったようにはとても見えない。どんな理由であ

れ紛争(troubles)が繰り返され、そのトラウマに苦しめられる者が絶えない

ことこそが「永遠のアイルランド問題」なのである。

9 Paul Muldoonの詩篇 ʻThe More a Man Has the More a Man Wantsʼ では、逃亡中のテロリストにスウィーニーが重ねられる一コマがある(Muldoon 1983)。両者の最大の接点は、追われて逃げているという点である。

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引き裂かれた心の行方 41

 マッキンタイアが身を持って示したのは、心の故郷としてアイルランド語を

敬愛する気持ちが植民地化以前のアイルランドの理想視や排他的な民族主義に

直結するわけではないということだった。だが植民地化の過程で失われたもの

を思うことがテロ活動の正当化に繋がってしまったという側面はある。このこ

とに対するマッキンタイアの憤りと悲しみが、誰にも通じない言葉を空回りさ

せることしかできなくなった「元 IRA」のスウィーニーの背後には横たわって

いる。

V

 ブライアン・フリールの劇『モリー・スウィーニー』(Molly Sweeney,

1994)は盲目の女性モリーの視力獲得の物語である。この筋書きだけ取ると、

奇跡により視力を回復する夫婦の伝説を下敷きにした J.M.シングの劇『聖者

の泉』(The Well of the Saints)が想起されるとしても、スウィーニー伝説が関

係しているようには見えない 10。だがフリールはあえて結婚後のヒロインにス

ウィーニーという姓を与えており、モリーが陥る状態に伝説のスウィーニーに

通じるものがあることを示唆している。モリーと鳥になったスウィーニーに共

有されるのは、二つの世界の間で自己が引き裂かれ、どこにも属せなくなった

状態である。

 40年間盲人として生きてきたモリーには、モリーの「世界」があった。父

親はモリーに嗅覚や触覚を通じて様々な花を区別することを教えた。モリーに

はマッサージ師としての仕事もあり、自信を持って暮らしていた。結婚後、モ

リーは視力獲得の可能性に賭けるべきだという夫の勧めにより、成功例を持つ

眼科医による手術を受けることになる。手術前夜にモリーは、視力を得ること

10 スウィーニー伝説と『モリー・スウィーニー』の関係への言及については

Moloney 293; Ryan 2012, 176-177を参照。

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引き裂かれた心の行方42

になった場合自分が失うであろう「世界」を思い、「エグザイル」と「ホーム

シック」の予感に言いようのない孤独感を覚える。手術の結果視力はある程度

回復したが、急に字が読めるようになるどころではなく、見てすぐにものが識

別できるわけでもなかった。モリーは次第にすべてに心と感覚を閉ざし、施設

で暮らすようになる。モリーは目が見える状態で生きる力を得ることができず、

目が見えなかった状態に戻ることもできなくなったということで、自然界で辛

酸を舐め続け、かといって王国にも戻れなかったスウィーニーの姿と二重写し

になる。

 伝説で王スウィーニーを呪ってエグザイルを導いた聖職者はその後ほとんど

登場しないが、『モリー・スウィーニー』ではモリーに新しい世界を強いた者

たちの心の中も照射される。悲劇の発端には、視覚で世界を把握することの絶

対的な価値を信じる夫フランク・スウィーニーがいる。フランクは正しいと思

われることの実現に人生を賭けてきた男だった。外国産の山羊や鮭の功利性に

目を付け、商業化を目指してアイルランドで飼育しようとし、アイルランドの

気候に合わないため思い通りにはいかないことを認めるにも数年の時を必要と

した。信念の人フランクがモリーの視力獲得にかけた期待は、自分が生きる世

界のみを基準に考えてしまう場合に起こりうる悪意なき暴力を示唆している。

眼科医は手術の成功に自らのキャリアの起死回生を賭け、視力の部分的な回復

後に生じるモリーの苦難は経験から予想できたが、あえて伏せたまま手術に挑

んだ。モリーが彼らの犠牲になったことは明らかである。

 犠牲者としてのモリーに、アイルランドを象徴する虐げられた女性のイメー

ジを重ねることは可能である 11。この場合フランクの経歴とモリーへの態度か

11 モリー・スウィーニーの姿には植民地化されたアイルランドの状況の投影が見られるとMoloneyは指摘し、父権主義の暴力という観点でこの劇の人間関係を分析している。

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引き裂かれた心の行方 43

ら連想されるのは、土着の伝統に配慮しない植民地化のプロセス、アイルラン

ドの発展という名目で破壊をもたらす開発事業などである。手術後のモリーに

フランクは日々何時間も見る訓練を強制してモリーを追い詰めていくが、この

場面への伏線として、この劇の冒頭に置かれた二つ目のエピグラフには「見る

ことを学ぶことは、新しい言語を学ぶこととは違う。それは初めて言語を習い

始める状態に近い」(Learning to see is not like learning a new language. Itʼs like

learning language for the first time)とある (Friel Plays 2, no. 10014)。言語学

習を引き合いに出したこのエピグラフによって見えてくるのは、フリールの劇

『トランスレーションズ』(Translations, 1980)との接点である。『トランス

レーションズ』は英語化が本格的に始まった 19世紀初めのアイルランドを舞

台とし、アイルランド語話者が直面したのが単なる新しい言語の学習などでは

なかったことを浮き彫りにしている。

 『モリー・スウィーニー』で強調されるのは、手術後のモリーが直面した、

自分を取り巻く世界全体の変化である。『トランスレーションズ』が描き出す

のは、英語化と並行して進んだ社会全体の変化である。イギリス人の入植に

伴ってアイルランドにおける商業活動、産業、社会生活にも大きな変化がもた

らされ、すべてがアイルランド語では十分に表現できないものになりつつあっ

た。英語使用の利便性には圧倒的な魅力があった。英語は新しい入植者の言葉

であり、権力や経済力を象徴した。国外への移住を考える人々にとって、知ら

ない世界でなじみのない仕事に就くためにも英語は必須だった。

 英語強制の圧力は残酷なものでもあった。『トランスレーションズ』ではア

イルランド人女性とイギリス人男性が互いのことを理解するために互いの言語

を学ぼうとするほほえましい様子も描かれるが、その情景と対照的なのが、軍

隊による測量と地図作りの光景である。地名の英語化および無償の英語教育を

めぐっての会話から伝わってくるのは、アイルランド全体に英語が強いられる

状況の不自然さである。あらゆるなじみの場所について新しい地名との対応を

覚えなおす必要が生じ、英語教育は世代間の使用言語を変え、意思疎通を困難

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引き裂かれた心の行方44

にしていくことが予想される。

 アイルランド語を捨てたものの英語世界に完全には適応しきれなかった者や、

転換期を生きてどちらの言語使用にも心底自信を持つことができなくなった者

に、モリーを重ねてもよいだろう。だがモリーの事例はアイルランドの英語化

や植民地化のプロセスのアレゴリーではない。アイルランド語で生きることこ

そがアイルランド人のあるべき姿だという考え方も、同様に抑圧的な強制にな

る危険がある。劇『トランスレーションズ』から見えてくるのは、現実生活に

対応できなくなりつつあるアイルランド語の使用に人々を繋ぎ留めようとする

ことも、未来の可能性を閉ざす行為として決して肯定されえないという状況で

ある。

 この劇は、モリーに起こったようなことが二度とあってはならないという警

鐘を鳴らし、フランクを糾弾しているわけでは必ずしもない。アイルランドの

英語化と同様、モリーの視覚獲得もある面非常に望ましいことであるため、似

たようなことは繰り返されるであろうし、望ましいはずの変化に適応できず狭

間で取り残された自分に気づくことは誰にでもありうるのである。そうなった

場合、二つの世界の間で引き裂かれて境界線上にたたずむモリーの姿に、生き

る手がかりを見出すことができるかもしれない。最後の場面でモリーは施設で

寝起きして日々記憶の中の人々と語り、「家にいるような」(at home)安堵感

を覚え、不幸のどん底にいるようには見えない(Friel Plays 2, no. 10853)。モ

リーが施設に入ったのは、主にはフランクが夢だったエチオピアでの支援活動

に加わるためであって、彼女は社会から隔離されねばならないほどの病ではな

いようである。モリーが「夢想と現実の境界線」(a borderline between fantasy

and reality)に生きている自分をきちんと自覚しているのに対し、フランクは

夢想と現実の混同のために自分も周囲も苦しんできたことに気づかないまま一

人旅立つ。モリーは自分にはもはや「何も見えていない」と語り、病のレッテ

ルを貼られてはいるが、実はそうではないようにも見えるのである。

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引き裂かれた心の行方 45

VI

 デレック・マホンの詩集『雪見の宴』(The Snow Party, 1975) 所収の詩篇

「フラン・オブライエンのための墓碑銘」(ʻEpitaph for Flann OʼBrienʼ)は、語

り手「私」が伝説のスウィーニーであるかのように歌う四連十六行の詩である。

オブライエンは 1966年に死去している。マホンは 1968年、1970年、1972年

にも詩集を出しているが、なぜオブライエンの死後 9年もたった 1975年の詩

集にこの作家のための「墓碑銘」なのだろうか。語り手「私」にはスウィー

ニーに共感するマホン自身の投影が色濃く、詩集全体にはスウィーニー伝説に

通ずるモチーフが散見される。この頃マホンにはスウィーニーを必要とする理

由があったのである。

 定職を持たない移動の歳月が詩人としてのマホンの形成の根幹にあり、そこ

には北アイルランド紛争が影を落としている。マホンはベルファストに生まれ

たが、1961年にダブリンのトリニティ・カレッジに進学して以来、北アイル

ランドに長く腰を落ち着けることはなかった。トリニティ在学中にパリのソル

ボンヌ大学で一年学び、1965年の卒業後はカナダとアメリカで様々な職を経

験し、1967年にベルファストに戻って高校で教鞭を取るも 1968年に北アイル

ランド紛争が始まる。1969年以降マホンは 25年間、フリーランスの文学

ジャーナリストとして生計を立てることになる。ダブリンに移住した後、1970

年にはロンドンに移って 1972年に結婚、1975年には家族と共にロンドンの南

に位置するサリーに引っ越した。紛争勃発によってマホンは帰りたい故郷を

失った状態にあった。詩集『雪見の宴』の冒頭に置かれた詩篇「来世」

(ʻAfterlivesʼ)はロンドン暮らしの場面で始まり、次のセクションにはベルファ

ストを訪れたものの、紛争で荒れ果てたその町を故郷だと思えないマホンの姿

がある。

 北アイルランドにおけるプロテスタントとカトリックの間での抗争の激化は、

その地でプロテスタントの労働者階級の両親のもとに生まれ育った自らのアイ

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引き裂かれた心の行方46

デンティティをマホンに強く意識させることになった。かねてからマホンは北

アイルランド出身のプロテスタントの詩人ルイ・マクニース(Louis

MacNeice, 1907-1963) に格別の思い入れを抱いていた(Haughton 54)。マホ

ンはサミュエル・ベケット(Samuel Beckett, 1906-1989)の戯曲に見られる聖

書的な要素に親近感を覚える自分を自覚していた(Haughton 64)。マホンが

出版したパンフレット『伝道の書』(Ecclesiastes, 1970)所収の同タイトルの詩

は「プロテスタントのアルスター」についての詩である(Haughton 62)。紛

争がマホンに促したのは、北アイルランドのプロテスタント独特の文化とその

欠陥に客観的に向き合うことだった。

 詩集『雪見の宴』には「歴史と手を切る」という命題への言及が繰り返され

(Mahon 1975, 9; 27)、激化する紛争との直接的なかかわりを避けようとしてい

たマホンの心境が伺われる。マホンは北アイルランドを見捨てたということで

責められることもあった(Haughton 94)。スウィーニーは戦場から逃げた王

であり、歴史の悪夢から自由になろうとした者の一人としてもマホンの目に留

まるべき存在だった。

 詩篇「フラン・オブライエンのための墓碑銘」でスウィーニーの役を務める

「私」に顕著なのは、後にしてきた場所にも目下自分がいる場所にも特に愛着

を見せない様子である。「私」は第一連で九年もの間一滴も酒を飲んでいない

と語り、第二連では北アイルランドのモイル、アイルランド中部のクロンマク

ノイズ、スコットランドのエティヴ谷、ダブリンのパーネル・スクエア、と

いった互いにかなりの距離のある地名を挙げ、これらを歩いて旅した末のひど

い足の痛みを嘆いている。スウィーニーが放浪生活の喜びや悲しみを歌ってそ

れを後世に残したことになっているのに対して、最後の第四連で「私」は「こ

こには家に書いてよこすようなことはない」(Not much here to write home

about)と言い放ち、何も特筆すべきことはないかのような醒めた態度である。

詩が短いのも道理である。伝説のスウィーニーは王国へのノスタルジーに苛ま

れていたが、この詩の「私」は酒に未練はあるとしても望郷の念は見せない。

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引き裂かれた心の行方 47

 「私」は生にも死にも執着を見せない。第三連前半では「生活は楽ではな

い」(Life is no bed of roses)という慣用的な表現にひねりが加えられ、「生

活」は「死」に置き換えられている。

Death is no bed of roses,

Wild dogs would not be in it. (Mahon 1975, 28)

生きている間も死んでからも「薔薇のベッド」をありがたいとも思わない野犬

の気持ちを「私」は知っており、半ば共有しているのだろう。こういった

「私」の姿勢は、最後の第四連にあるような動物と寝床を共にする生活の延長

線上にある。野生と文明の間、生と死の間にいてどちらかにより惹かれている

という様子を見せない「私」の立場は、原作のスウィーニーが置かれた宙づり

状態にスポットを当てたものであり、どこにも属せない状態にあったマホンの

気持ちを反映している。

 二つの世界の間にいてどちらにも属していないという立場は、詩集の核とな

る詩篇「雪見の宴」(ʻThe Snow Partyʼ)に通ずる。この詩では異端者が焼かれ、

何千もの兵士が戦死する場面と静謐な雪見の宴がパラレルに提示され、背後に

はどちらでもない場所に立ってどちらをも距離を置いて見つめる詩人の姿があ

る。今この瞬間にも罪なき者が次々と命を落としていることを完全に忘れて詩

作に没頭することはできない、このことを痛感させられていたのがその頃のマ

ホンだった。

 スウィーニー伝説を彩る自然賛歌や異教的な信仰の痕跡はマホンにとって大

きな魅力があったものと思われ、この点は「フラン・オブライエンへの墓碑

銘」では省略されているが、詩集『雪見の宴』の他の詩の中心的なモチーフに

なっている。詩篇「タンムズ」(ʻThammuzʼ)は春に再生するバビロニア神話

の植物神の名をタイトルとする。伝説のスウィーニーは森の神グリーンマンの

面影を留めているため、タンムズと同類である。詩篇「隠遁者」(ʻHermitʼ)の

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引き裂かれた心の行方48

語り手は自然詩の作者としてのスウィーニーと像を重ねる。隠遁者は鳥や鹿と

対話する日々を送り、一枚の葉の生についての四行詩に何年も費やす生活に満

足している。詩篇「追放された神々」(ʻThe Banished Godsʼ)は今もどこかに

潜んでいる異教の神々に思いを馳せる詩である。

 隠遁者とは対照的に現世から逃れられない運命を背負うのは、詩篇「最後の

火の王」(ʻThe Last of the Fire Kingsʼ)の王である。王はスウィーニーのよう

な戦争からの逃走を夢想するが、「いにしえの呪い」(the ancient curse)に縛

られて「火を愛する」民と共に戦って死ぬ自らの運命を信じており、実際に逃

げることはない。これに対して伝説の王スウィーニーは、「呪い」によって戦

場を去り、鳥になってさすらうことになった。マホンは「火を愛する」人々と

「火の王」が背負う「呪い」ではなく、スウィーニーがかけられた「呪い」を

自ら選んだ形になる。

 詩集『雪見の宴』に登場するのは、自分の属する場所を定めず、安逸とはほ

ど遠い人生を孤高に生き抜いた詩人たちであり、「フラン・オブライエンのた

めの墓碑銘」のスウィーニーもこの系譜にあって相対化される。詩篇「マルコ

ム・ローリーに捧げる」(ʻHomage to Malcolm Lowryʼ)では、イギリスに生ま

れ、アメリカ、メキシコ、カナダを「詩神」と共に渡り歩いたローリーの人生

が十一行に凝縮される。詩篇「カヴァフィ」(ʻCavafyʼ)はエジプトのアレクサ

ンドリア生まれのギリシア人詩人 C.P. カヴァフィの詩に基づいている。カ

ヴァフィはイギリスとの縁が深く、家族でリバプールに住んだこともあるが、

アレクサンドリアの家はイギリスに爆破された。カヴァフィのアレクサンドリ

アはマホンのベルファストに対応し、両詩人の立場は似ている。単純なナショ

ナリズムにもその批判にも与しなかったカヴァフィの「孤高さ」をマホンは称

えている (Haughton 105)。

 マホンが北アイルランドに住み続けたならば、二極化した社会でどちらにも

属さずに生きようとすることは難しかっただろう。どこにいてもマホンは紛争

で引き裂かれたベルファストにいるかのような感覚から自由にはなれなかった。

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引き裂かれた心の行方 49

詩集『雪見の宴』には言いたいことが自由に言えない社会に生きる閉塞感が暗

示され(Mahon 1975, 20)、子どもたちが宗派的な区別のない学校に通い、今

起こっているようなことを知って驚く日がいつか来るに違いない、という夢が

綴られている(Mahon 1975, 1)。北アイルランド情勢とは一切関係ないような

テーマの詩に「今の我々の社会にとって代わるような理想の社会」(The ideal

society which will replace our own)(Mahon 1975, 23)や「我々が生きてもよ

かったかもしれない人生」(The lives we might have led)(Mahon 1975, 3)と

いった言葉が織り込まれているが、これらは紛争に対するやるせない思いが

あったからこその詩行であろう。

 マホンにとってアイルランド語とその伝統はどのような意味を持ちうるのだ

ろうか。当時の北アイルランドにおいてアイルランド語は、公的には存在を認

められない少数派言語であり、カトリックのアイルランド人にとってはアイデ

ンティティのシンボルであり政治的武器でもあるとみなされていた。同じ地の

プロテスタントにとって、アイルランド語は対立関係にあった他者に属してい

た、という言い方ができる。アイルランド語はマホンにとっても祖先の言葉で

はなく、その意味では特別な愛着を抱く理由はなかった。

 だがマホンがアイルランド語の文学に親しんでいたことは確かである。詩篇

「我はラフトリー」(ʻI am Raftery,ʼ 1972)では、盲目のアイルランド語詩人ラ

フトリーのペルソナを借りて、イングランド暮らしで感じていた疎外感を歌っ

ている(Mahon 1999, 51; Haughton 57)。マホンはさまざまな言語の詩の翻訳

に積極的に取り組んでいるが、英訳の助けを借りてアイルランド語詩の英語

バージョンも手掛けている(Schirmer 365-371)。アイルランド語文学の尊重

とはすなわち、かつてアイルランドで栄え、植民地化の過程で周縁化された土

着のアイルランド人に寄り添おうとすることでもある。詩篇「ラスリン島」

(ʻRathlin Island,ʼ 1982)は、マホンが北アイルランド沖のこの島を訪れ、かつ

てそこでゲール人が受けた「言葉にできない暴力」(unspeakable violence)に

思いを馳せた経験に基づく(Mahon 1999, 107)。見方によっては、これは北ア

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引き裂かれた心の行方50

イルランドのプロテスタントらしからぬ詩ということになろう。マホンが北ア

イルランドにいて公の場で自分にとってのスウィーニー伝説の魅力を語ろうと

したならば、その姿がカトリックにもプロテスタントにも奇異に映った可能性

はある。スウィーニーへの共感を秘めた詩集を出版することは、自分の属すべ

きコミュニティという発想に抗う一つのささやかな自己主張になったのである。

VII

 アイルランド語詩人ヌーラ・ニゴーノルの詩篇「ムウィルギルがスウィー

ニーを折檻する」(ʻMuirghil ag Cáiseamh Shuibhneʼ [Muirghil Castigates

Sweeney])は五一行のアイルランド語詩で、英語とアイルランド語のバイリ

ンガル詩人マイケル・ハートネット(Michael Hartnett, 1941-1999) による英

訳を伴っている(Ní Dhomhnaill 1988, 128-131)。詩は次のような謎めいた台

詞で始まる。

“Deinim loigín lem chois

i mbualtrach na bó

doirtim isteach an bainne ann,

é seo fód do bháis.”

(“I dent with my heel / the cow-dung: / I pour milk in. / This is where you die.”)

これはスウィーニーが死に至るまでの最後の場面を凝縮したものである。聖モ

リングに自分の体験を語るようになったスウィーニーは日々教会に通い、この

聖人の計らいでミルクを施されることになった。上記のように牛の糞の肥溜め

に踵で穴をあけ、そこにスウィーニーのためにミルクを注いだのは豚飼いの妻

ムウィルギルである。妻ムウィルギルがスウィーニーと浮気しているという嘘

を吹き込まれた豚飼いは、嫉妬に駆られ、ミルクを啜っていたスウィーニーを

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引き裂かれた心の行方 51

槍で突き殺す。この展開を予言しているのが引用最後の「ここがお前の死ぬと

ころ」の一行である。ミルクの与えられ方や飲み方からすると、スウィーニー

は完全に人間としての自分を取り戻していたわけではなかったようである。こ

の文明になじまないスウィーニーの姿がニゴーノルの詩の一つの焦点になる。

 ニゴーノルの詩で「スウィーニーを折檻する」役を担うムウィルギルは、原

作ではミルクを用意するだけの脇役に過ぎない。だがニゴーノルはきわめて影

の薄いこの登場人物を作品の中心に置き、終始原作にはない台詞を与えている。

この詩からはスウィーニーの肉声は一切聞こえない。骨が痛むというスウィー

ニーの訴えとそれに対するムウィルギルの邪険な回答も、ムウィルギルの台詞

を通して伝えられる。ムウィルギルによると、スウィーニーは何時間も窓の外

ばかり見て暮らし、紅茶は皿から啜り、裸足を好み、ムウィルギルが上履きを

用意しても使わない。彼女の言葉の端々にはスウィーニーへの軽蔑が滲む。つ

いに彼女は庭でスウィーニーが首を括って命を断ったことを知る。ムウィルギ

ルは司祭に電話し、スウィーニーのせいで自分もおかしくなりそうだとこぼし

ている。死ぬ前にスウィーニーは、司祭は呼ぶなと言ったようである。ムウィ

ルギルの告白によると、彼女は朝からスウィーニーが庭木に体をロープで縛り

付けているのを知っていたが、何が起ころうとしているのかまったくわからな

かった、ということである。

 ニゴーノルの詩には最初から王としてのスウィーニーの姿がないばかりか、

自然界で暮らす場面もない。スウィーニーはすでに野生の生活になじんでおり、

野山が故郷同然になっていたと想像してよいだろう。スウィーニーは鳥だった

頃の自由を思いながら死んだものと思われる。ここまで見てきた他の作品と同

様、ニゴーノルの詩も一見元の物語とは似ても似つかない作品になっているが、

原作のスウィーニーが抱えた二つの世界の間で引き裂かれる感覚は、王だった

時代への未練ではなく、自然界への憧憬として詩の底流にある。

 ムウィルギルの不寛容と無関心は原作の豚飼いのスウィーニー殺しに相当す

る。「お前の寿命は尽きた」(tá do chúrsa tugtha / your race is done)という言

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葉からすると、スウィーニーの死は誰のせいでもなかったようだが、決してそ

うではない。IRAに加担した罪により刑務所で虐待されるスウィーニーや、施

設に入ったモリー・スウィーニーも、ムウィルギルのような者の出現によって

最後の打撃を被り、ニゴーノルのスウィーニーのような運命を辿るかもしれな

い。ムウィルギルはスウィーニーを野蛮だと決めつけているようだが、文明社

会に生きているはずの人間の野蛮さは、自分とは違う他者への不寛容、価値観

や宗教の押し付けとして表れる。あるいは目の前で痛みを訴える者や死に向か

おうとする者への無関心は、凶器を用いずとも人を死に追いやることになるだ

ろう。

 文明に潜む野蛮を浮き彫りにするにあたって、ニゴーノルの心にも言語の転

換を否応なく迫った歴史はあったはずである。ニゴーノルは陸に上がってこの

世になじめない人魚たちを主人公にした一連の詩に取り組んでいるが、海と陸

の狭間に生きる人魚にはアイルランド語話者が重ねられている(Ní

Dhomhnaill 2007)。人間世界に適応できなかった挙句自ら命を絶つスウィー

ニーは、この人魚族の原型である。

 ムウィルギルによるスウィーニー見殺しの背後には、アイルランド語の運命

に対する詩人の懸念も透けて見える。死にかけた言語としてアイルランド語が

見殺しにされることをニゴーノルは恐れてきた。ニゴーノルはアイルランド政

府がアイルランド語話者に対して無関心で、敵意さえ抱いていると感じ、アイ

ルランド語はすでに死んでいるとみなして現存するアイルランド語話者を「死

体」にしてしまわないでほしいと訴えている(Ní Dhomhnaill 2005, 13-14)。

いつかアイルランド語が本当の死を迎えるとすれば、それは運命ではなく見殺

しの結果なのだとニゴーノルは言うかもしれない。ニゴーノルはムウィルギル

の台詞には “all right” や “Joke” といった英語を混ぜ込み、今やあらゆる場所に

英語が浸透し、純粋なアイルランド語世界などありえないという現実を伝えて

いる。英語作家たちが失われかけたアイルランド語への敬意と哀惜の念ゆえに

これを神話化せざるをえないとすればそこにも重い意味があるが、アイルラン

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引き裂かれた心の行方 53

ド語詩人ニゴーノルはアイルランド語を理想化してそこに失われたユートピア

を見る心境からは遠い。ニゴーノルのスウィーニーが失った自然界がアイルラ

ンド語世界に相当するのだとしても、そちらに心惹かれるあまり死んでしまう

ような道をニゴーノルは選ばないだろう。スウィーニーは見本ではないのであ

る。

VIII

 スウィーニーが失った王国、スウィーニーに詩作を促した自然界、それぞれ

がアイルランド人作家たちに同じものを連想させたわけではないという意味で、

そこには象徴的な喚起力があった。本稿で扱った作品の核心部には二つの世界

で引き裂かれたスウィーニーの心の状態があり、その背後にはアイルランドが

歴史的に抱えてきた分裂の諸相が透けて見える。失われた世界や失われた自己

は意識あるいは無意識の中にあって力を保つ。それゆえにスウィーニーが陥っ

た自己分裂の状態は、死や破滅と隣り合わせである。しかしながら同時に、こ

うして引き裂かれているからこそ可能になることもある。スウィーニー伝説は

新たな創造を促すことによって、引き裂かれた心に活路を見出すための原動力

になってきたのである。

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