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Title �代における經學講論と國家儀禮 --釋奠禮の成立に向け て-- Author(s) 保科, 季子 Citation 東洋史研究 = THE TOYOSHI-KENKYU : The journal of Oriental Researches (2016), 74(4): 647-677 Issue Date 2016-03-31 URL https://doi.org/10.14989/240771 Right Type Journal Article Textversion publisher Kyoto University

Title úG代における經學講論と國家儀禮 --釋奠禮の成 …...は じ め に 魏 晉 南 北 時 代 皇 ・ 皇 太 子 の 元 に は 自 ら 釋 奠 と 經 を

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  • Title �代における經學講論と國家儀禮 --釋奠禮の成立に向けて--

    Author(s) 保科, 季子

    Citation 東洋史研究 = THE TOYOSHI-KENKYU : The journal ofOriental Researches (2016), 74(4): 647-677

    Issue Date 2016-03-31

    URL https://doi.org/10.14989/240771

    Right

    Type Journal Article

    Textversion publisher

    Kyoto University

  • 第七十四卷

    第四號

    �成二十八年三�發行

    漢代における經學�論と國家儀禮

    ︱︱釋奠禮の成立に向けて︱︱

    はじめに

    第一違

    宮中における�論の傳瓜

    第一�

    石渠閣�論

    第二�

    白虎觀�論

    第三�

    宮中�論の傳瓜

    第二違

    辟雍儀禮の成立と�の�論

    第一�

    長安南郊禮制施設群の成立

    第二�

    洛陽南郊禮制施設群の成立

    第三�

    �辟雍�論と敎�

    むすび

    ― 1 ―

    647

  • 魏晉南北�時代︑皇・皇太子の元

    には︑自ら釋奠と�經を行う慣例があった︒

    禮︑始めて學を立つるには︑必ず先に先�先師を釋奠し︑事を行うに�びては必ず�を用う︒漢世學を立つると雖も︑

    斯の禮聞くこと無し︒魏齊王正始二年二�︑﹃論語﹄を�じて�ず︒五年五�︑﹃尙書﹄を�じて�ず︒七年十二

    �︑﹃禮記﹄を�じて�ず︒竝びに太常をして釋奠せしめ︑太牢を以て孔子を辟雍に祠り︑顏囘を以て�す︒武泰

    始七年︑皇太子﹃孝經﹄を�じて�ず︒咸寧三年︑﹃詩﹄を�じて�ず︒太康三年︑﹃禮記﹄を�じて�ず︒惠元康

    三年︑皇太子﹃論語﹄を�じて�ず︒元太興二年︑皇太子﹃論語﹄を�じて�ず︒太子竝びに親しく釋奠し︑太牢

    を以て孔子を祠り︑顏囘を以て�す︒成咸康元年︑﹃詩﹄を�じて�ず︒穆升�元年三�︑﹃孝經﹄を�じ

    て�ず︒孝武寧康三年七�︑﹃孝經﹄を�じて�ず︒竝びに釋奠すること故事の如し︒穆︑孝武竝びに權りに中

    堂を以て太學と爲す︒(﹃晉書﹄卷一九禮志上)

    漢代には釋奠儀禮は成立しておらず︑魏・齊王芳の正始二年

    (二四一)二�が釋奠の嚆矢とされる(1

    )︒年少の皇もしく

    は皇太子自らによる�經は︑釋奠儀禮の一�として行われ︑儀式性が强い︒とはいえ︑少年皇・皇太子には相當の�擔

    を强いたであろうし︑質問役の大人たちも相應な準備を必�とした(2

    )︒それにもかかわらず︑皇・皇太子自身による�經

    は︑釋奠儀禮の中心�位置を占めるようになる︒

    この問題に關して松浦千春氏は︑釋奠における�經を︑少年﹁皇﹂が眞の皇となるための一種の��儀禮であり︑

    ﹁王たるべき能力の證�﹂を行う儀禮性の高いものと営べ︑その上で魏晉�に�經を�う釋奠儀禮が確立された�因に

    ついて︑當時の不安定な位繼承が背景にあったと論じている(3

    )︒

    釋奠における�論が︑皇たる�質を證�する一種の��儀禮であったとするには︑ひとまず衣論はない︒しかし︑こ

    ― 2 ―

    648

  • こで筆者が問題にしたいのは︑釋奠のような國家儀禮に︑�經という純然たる儒敎の學 活動が!攝されていることであ

    る︒この時︑儒敎の學 �議論それ自體︑儀禮�性格を帶びることになる︒

    本來︑經書に見える釋奠は︑周公・孔子などの先�先師の祭祀であり︑當然ながら�經は附隨していなかった︒皇も

    しくは皇太子自身による�經が附隨する釋奠儀禮はどのようにして形成されたのか︒

    先�先師の祭祀と�經が結びついた�初の例としては︑後漢�永�十五年

    (七二)︑魯に#狩した際に孔子の舊宅で

    孔子と七十二弟子を祭祀し︑皇太子と諸王に�經を行わせた例が擧げられ︑皇自ら�經を行う例としては︑同じく�

    永�二年に初めて辟雍にて大射禮︑養老禮を擧行した後︑﹁正坐して自ら�じ﹂(﹃後漢書﹄儒林傳)た例が︑すでに先學

    により指摘されており(4

    )︑これが魏晉�の�經を�う釋奠儀禮の先蹤であることに︑疑問の餘地はない︒しかし︑�以%

    より︑皇の御%で儒敎の經學議論を行うことは&料に見え︑儀禮の場に�經を持ち'んだのは�の創見ではなく︑そ

    れ以%より行われてきた皇御%での�經・�論を國家儀禮に組み入れたものと考えられる︒

    上記の見�しのもと︑本稿では漢代に皇の御%で行われた經學の�論を檢討し︑その儀禮�性格を考察していくこと

    にする︒

    皇臨席の上での�初の經學�論は︑%漢宣甘露三年

    (%五一)三�に︑宮中の石渠閣で擧行された石渠閣�論(5

    )であ

    る︒後︑この石渠の故事に則り︑後漢違円初四年

    (七九)一一�に︑北宮白虎觀で白虎觀�論が擧行され︑その議事錄

    として殘されたのが﹃白虎�﹄である(6

    )︒

    この二つの宮中�論は︑漢代經學&上の重�事件として何度も議論されてきた︒特に白虎觀�論は︑いわゆる﹁儒敎の

    國敎�﹂問題の中で︑﹁國敎�﹂の劃�の一つであり︑白虎觀�論を以て﹁國敎�﹂の成立とみなす硏究者もいる(7

    )︒ただ︑

    白虎觀�論に關する硏究の多くは︑﹃白虎�﹄の內容を分析して議論の思想&�な+義を考察するばかりで︑宮中で行わ

    れた口頭での�論それ自體の檢討は︑ほとんど行われていない(8

    )︒一方︑白虎觀�論の先蹤である石渠閣�論については︑

    ― 3 ―

    649

  • 議事錄の殘片とされる戴�﹃石渠禮論﹄の佚�がわずかに殘るのみ︑ということもあり︑十分に硏究されてきたとは言い

    難い(9

    )︒

    本稿では︑公羊對穀梁や今�對古�といった︑從來重視されてきた經學議論の內容や對立/0には踏み'まず︑石渠閣

    や白虎觀で�論が擧行された背景や�論の形態について考察し︑宮中の皇御%で行われた經學�論の+義を�らかにす

    る︒1いで︑後漢�が辟雍で行った�論について檢討を行うことにしたい︒辟雍・�堂・靈臺・太學より成る南郊禮制

    施設群の成立�2について営べた上で︑辟雍儀禮の完成と�自身による�論について檢討し︑國家儀禮と經學�論の結

    合について論じていくことにする︒

    第一違

    宮中における�論の傳瓜

    第一�

    石渠閣�論

    (一)參加者

    諸儒に詔して五經の同衣を�ぜしめ︑太子太傅蕭3之等其の議を�奏し︑上親ら制を稱し決に臨む︒乃ち梁丘易︑大

    小夏侯尙書︑穀梁春秋の4士を立つ︒(﹃漢書﹄宣紀・甘露三年三�)

    後世︑﹁石渠の議﹂﹁石渠の故事﹂と名高いこの�論は︑宮中の石渠閣で開催された︒石渠閣は天祿閣とともに﹁天祿︑

    石渠竝びに閣名︑未央宮の北に在り︑以て祕書を閣す︒﹂(﹃後漢書﹄班固傳・西都賦6引﹃三輔故事﹄)と︑祕書を7藏する宮

    中圖書館であり︑禁中に屬した(10

    )︒﹃漢書﹄儒林傳は︑石渠閣�論に參加した儒者に對して︑いちいち﹁石渠に論ず﹂と営

    べ︑榮譽とみなされたことを示す︒石渠閣�論の參加者は︑﹃漢書﹄儒林傳の學瓜の分類に從って列擧すれば以下の二十

    三人である︒

    ― 4 ―

    650

  • 太子太傅蕭3之/『易﹄:4士施讎︑黃門郞梁丘臨/『尙書﹄:4士歐陽地餘︑4士林>︑譯官令周堪︑4士張山拊︑謁者

    假倉/『詩﹄:淮陽中尉韋玄成︑4士張長安︑4士薛廣德/『禮﹄:4士戴�︑太子舍人聞人�漢/『春秋公羊傳﹄:4士嚴彭

    祖︑侍郞申輓︑伊推︑宋顯︑許廣/『春秋穀梁傳﹄:議郞尹B始︑待詔劉向︑周慶︑丁姓︑中郞王亥︒

    太子太傅蕭3之は︑﹁五經の名儒﹂﹁儒宗﹂と稱される當時�高の儒者である︒實は蕭3之はこの數年%には御&大夫で

    あったが︑老齡の丞相丙吉に對する無禮な振る舞いを宣に咎められ︑五鳳二年

    (%五六)︑太子太傅へと左�され︑丞

    相へのCを斷たれた

    (﹃漢書﹄蕭3之傳)︒

    ただし︑宣の蕭3之への厚Dはその後も變わらない︒甘露三年正�に匈奴の呼韓E單于が來�するに際して︑宣は

    麒麟閣に功臣のF繪を描かせた︒Gばれた功臣は﹃漢書﹄蘇武傳によれば︑①霍光︑②張安世︑③韓增︑④趙閏國︑⑤

    魏相︑⑥丙吉︑⑦杜I年︑⑧劉德︑⑨梁丘賀︑⑩蕭3之︑⑪蘇武の十一人で︑宣を擁立した功臣や︑匈奴との戰爭

    で活Jした武將が中心だが︑蕭3之がそこに名を聯ねているのは︑時の丞相・御&大夫である黃霸・于定國を差し置いて

    破格の待Dと言える︒ちなみに⑧劉德は石渠閣に參加した劉向の父︑⑨梁丘賀は梁丘臨の父である︒

    さらに︑宣はK御の際に︑L詔を以て蕭3之に元の補佐を託しており︑官職上は左�となるが︑皇太子の輔M官と

    して高いN價と信賴を寄せていたと言えるだろう︒つまり︑蕭3之は甘露三年當時︑儒者の中で官位・名聲ともに�高位

    にあったのである︒

    その他︑石渠閣�論に參加した儒者の中で︑韋玄成は蕭3之にP敵する學識と經歷を持つ︒﹁鄒魯の大儒﹂と號された

    丞相韋賢を父とし︑父のRを襲いで列侯を以て河南太守︑未央衞尉︑太常を歷任した︒學問の系瓜から言えば︑蕭3之が

    齊學であるのに對し︑韋玄成は魯學である︒

    韋玄成もまた︑五鳳四年

    (%五四)に大S罪に問われた楊惲の黨友として︑太常を免官となっていた︒この時︑同じ理

    由で免官となるべき張敞については︑宣はその才を愛おしんで上奏を握りつぶしたのに

    (﹃漢書﹄張敞傳(11)

    )︑韋玄成の方は

    ― 5 ―

    651

  • あっさり免官にしてしまった︒その後︑宣は寵姫張婕妤の生んだ淮陽憲王の補佐の臣として韋玄成をGび︑淮陽中尉と

    した︒憲王がまだ就國していなかったため︑詔をZけて石渠閣�論に參加したのである︒

    之を久しうして︑上憲王を感風し︑輔くるに禮讓の臣を以てせんと欲し︑乃ち玄成を召拜して淮陽中尉と爲す︒是の

    時王未だ就國せざれば︑玄成詔をZけ︑太子太傅蕭3之�び五經の諸儒と與に同衣を石渠閣に雜論し︑其の對を條奏

    す︒(﹃漢書﹄韋玄成傳)

    このように︑石渠閣�論の中心となる二人の大儒は︑いずれも政治�理由によって公卿より左�・免官せられて皇太

    子・諸侯王の輔Mの官についていたことになる︒

    名君と稱される宣だが︑その末年は高官の失脚・𠛬死が相1ぐ︒元康二年

    (%六四)に趙廣漢が�斬︑神R二年

    (%

    六〇)に蓋]饒︑神R四年

    (%五八)に嚴I年︑五鳳元年

    (%五七)に韓I壽が^罪となり︑それぞれ自殺もしくは棄市さ

    れた︒五鳳二年

    (%五六)には蕭3之の左�と楊惲の失脚があり︑五鳳四年

    (五四)に楊惲は�斬に處せられ︑その餘波

    をZけて韋玄成・張敞は免官となった︒

    蕭3之が丞相の丙吉と對立して左�されたように︑當時︑丙吉・黃霸を中心とする�`と︑蕭3之ら儒生との閒に對立

    があったと推測される(12

    )︒宣は丙吉ら�`を優Dして蕭3之ら儒生を政權中樞よりbける一方︑儒生を皇太子や皇子の輔

    M官といった︑儒生により相應しい役職に補任したのである︒石渠閣�論のような大規模な儒敎�イベントの開催は︑皇

    權威のお墨附きの上で經說を瓜一するのみならず︑�職を外された儒生に活Jの場を與え︑彼らを儒生としての本分に

    立ち戾らせるものであった︒

    (二)『石渠議奏﹄

    『漢書﹄藝�志には︑石渠閣�論の議事錄として︑﹃書議奏﹄四十二f︑﹃禮議奏﹄三十八f︑﹃春秋議奏﹄三十九f︑

    ― 6 ―

    652

  • ﹃論語議奏﹄十八f︑および﹃孝經﹄類に﹃五經雜議﹄十八fを著錄する︒﹃漢書﹄儒林傳の﹃穀梁傳﹄の部分に︑

    乃ち五經の名儒太子太傅蕭3之等を召して殿中に大議し︑公羊︑穀梁の同衣を�らげ︑各おの經を以て是非を處せし

    む︒時に公羊4士嚴彭祖︑侍郞申輓︑伊推︑宋顯︑穀梁議郞尹B始︑待詔劉向︑周慶︑丁姓竝びに論ず︒公羊家多く

    從われず︑願いて侍郞許廣を內るるをhい︑i者もまた竝びに穀梁家の中郞王亥を內れ︑各おの五人︑議すること三

    十餘事︒3之等十一人各おの經誼を以て對え︑多く穀梁に從う︒是れ由り穀梁の學大いに盛んなり︒(﹃漢書﹄儒林傳)

    とあって﹃春秋﹄について三十餘事を議論し︑藝�志に﹃春秋議奏﹄三十九fとあるので︑槪ね一議題につき一fと考え

    られる︒となると︑﹃書議奏﹄が四十二f︑﹃禮議奏﹄が三十八fでいずれも四十議題2度となる︒﹃五經雜議﹄は﹃孝經﹄

    類に著錄されているから︑﹃孝經﹄に關する議論を中心とし︑五經k般に關わる議論も含むかたちと推察される︒﹃五經雜

    議﹄と﹃論語議奏﹄が各十八fで合わせて三十六fとなり︑﹃論語﹄・﹃孝經﹄ほかでやはり四十lの議題が議論されたと

    推測される︒

    これらの著錄に見える﹃石渠議奏﹄はすでに散逸し︑﹃禮議奏﹄を基に後に戴�がn纂したとされる﹃石渠禮論﹄の佚

    �が︑斷片�に﹃�典﹄等に引用されて殘るのみである︒このわずかに殘る﹃石渠禮論﹄の佚�(13

    )から︑石渠閣�論の

    ﹃禮﹄に關する議事o行を窺い知ることができる︒

    宣甘露三年三�黃門侍郞臨經を奏して曰く︑﹁p射は合樂し︑大射はせざるは何ぞや﹂と︒戴�曰く︑﹁p射至りて

    合樂する者は︑質なり︒大射は︑人君の禮︑儀多し︑故に合樂せざるなり﹂と︒聞人�漢曰く︑﹁p射の合樂する者

    は︑人禮なればなり︒百姓を合和する7以なり︒大射の合樂せざる者は︑諸侯の禮なればなり﹂と︒韋玄成曰く︑

    ﹁p射禮の合樂する7以の者は︑p人本とより樂無し︑故に歲時に合樂す︒百姓を合和して以て其の+を同じうする

    7以なり︒諸侯に至りては︑當に樂^るべし︒傳に﹃諸侯懸を釋かず﹄と曰えるは︑用うるに時無きを�らかにする

    なり︒君臣�廷固より當に之^るべし︒必ず合樂を須ちて後合す︒故に合樂を云わざるなり﹂と︒時に公卿玄成の議

    ― 7 ―

    653

  • を以て是とす︒(﹃�典﹄卷七十七7引漢﹃石渠議﹄)

    まず︑梁丘臨が﹁奏經﹂(14

    )して﹁p射は合樂し︑大射はせざるは何ぞや﹂と發問し︑それに對して聞人�漢が答え︑さら

    に韋玄成が反論を加え︑公卿が韋玄成の議に贊同する形になっている︒先に擧げた二十三人以外に︑公卿も參加している

    ことがわかる︒

    『禮﹄の議論なので聞人�漢と戴�がrとなっているが︑梁丘臨や韋玄成︑蕭3之も發言しており︑特に梁丘臨が﹁奏

    經﹂の上で發問している點は6目に値する︒s代の釋奠の�經では︑執經・侍�・執�・執如+という役割分擔があり(15

    )︑

    東晉時代には侍坐・執經・摘句といった役割分擔が成立していた(16

    )︒石渠議においても議論の形式は未完成とはいえ︑經�

    を讀み上げ發問する役割の者がいて︑一定の形式に從って議論がo行したと考えられる︒

    問う︑﹁父卒し︑母嫁せば︑之が爲に何れにか

    するや﹂と︒蕭太傅云う︑﹁當に

    周すべし︒父の後と爲れば︑則ち

    せず﹂と︒韋玄成以爲く︑﹁父歿すれば則ち母は出づるの義無し︒王者は義無きが爲に禮を制せず︒若し

    周すれ

    ば︑則ち是れ子にして母を貶ずるなり︒故に

    を制せざるなり﹂と︒宣詔して曰く︑﹁u人舅姑を養わず︑祭祀を

    奉ぜず︑下は子を慈しまざるは︑是れ自ら絕つなり︒故に�人爲に

    を制せず︒子に母を出だすの義無きを�らかに

    す︒玄成の議是なり﹂と︒(﹃�典﹄卷八十九7引漢﹃石渠議﹄)

    この議論における宣の發言は︑專門家でない宣が咄嗟にできる發言とは到底思えないから︑事%に臺本が作られてい

    たにwいない︒﹃石渠禮論﹄を見る限り︑議論の�xy斷を宣が下しており︑宣は單なる觀覽者ではなく︑自身積極

    �に議論に參加していることがわかる︒

    『石渠禮論﹄より大まかな議論の液れを復元すると︑梁丘臨が﹁奏經﹂して發問↓聞人�漢・戴�が應答↓韋玄成と蕭

    3之が反論↓宣が決定︑となる︒聞人�漢と戴�は﹃禮﹄の專家であるが︑韋玄成は﹁條奏其對﹂(﹃漢書﹄韋玄成傳)︑

    蕭3之は﹁�奏其議﹂(﹃漢書﹄宣紀)とあるように︑特にこの二人は議論を整理して宣に上奏する役割を擔っており︑

    ― 8 ―

    654

  • 蕭3之↓齊學︑韋玄成↓魯學と︑學問�なバランスも考慮されていたと考えられる︒

    先の宣の發言もそうだが︑このような形式に則った議論が︑﹁ぶっつけ本番﹂で行われたとは考えにくい︒當然︑綿

    密なシナリオが準備され︑宣に對しても入念な事%レクチャーが行われていたと思われる︒とくに絕學が危ぶまれてい

    た﹃穀梁傳﹄の例では︑

    上其の學の且に絕えんとするを愍み︑乃ち千秋を以て郞中戶將と爲し︑郞十人をGびて從いZけしむ︒汝南の尹B始

    {君︑本より自ら千秋に事え︑能く說く︒會たま千秋病死し︑江公の孫を|して4士と爲す︒劉向は故の諫大夫にし

    て�}なるを以て待詔し︑穀梁をZけ︑之を助けしめんと欲す︒江4士も復た死すれば︑乃ち周慶︑丁姓を|して保

    宮に待詔せしめ︑十人に卒~せしむ︒元康中始めて�じて自り︑甘露元年に至るまで︑積むこと十餘歲︑皆�す︒

    乃ち五經の名儒太子太傅蕭3之等を召して殿中に大議し︑公羊︑穀梁の同衣を�らげ︑各おの經を以て是非を處せし

    む︒(﹃漢書﹄儒林傳)

    と︑優秀な郞を待詔せしめて﹃穀梁傳﹄を傳~させ︑十年以上の�會の後︑﹁殿中に大議﹂したとある(17

    )︒

    事%の準備の中で議論のトピックをG擇してシナリオを作成し︑その上で皇の御%で議論を行い︑皇の裁可を得るこ

    とにより︑皇お墨附きの正瓜�な見解が確定される︒石渠閣�論は︑ある種の儀禮�な�論であり︑議事錄﹃議奏﹄は

    その儀禮の記錄として殘されたのである︒

    第二�

    白虎觀�論

    石渠閣�論よりたること百三十年︑後漢違円初四年

    (七九)︑石渠の故事に則る形で北宮白虎觀に諸儒が招集され

    た︒

    (楊)x印た言う︑﹁宣4く羣儒を|し︑五經を石渠閣に論定す︒方今天下事少なし︑學者其の業を成すを得︑而し

    ― 9 ―

    655

  • て違句の徒︑大體を破壞す︒宜しく石渠の故事の如くし︑永く後世の則と爲すべし﹂と︒是に於いて諸儒に詔して白

    虎觀に同衣を論考せしむ︒(﹃後漢書﹄楊x傳)

    參加者はわかっているだけで︑廣�王羨

    (�の子)︑丁鴻︑魏應︑成封︑桓郁︑樓3︑賈逵︑李育︑魯恭︑班固︑淳于

    恭︑楊x︑趙4である(18

    )︒

    これらのうち︑桓郁︑魏應︑賈逵は違の卽位直後の円初元年

    (七六)より︑御%�義を行っている︒桓郁は父桓榮を

    繼いで宮中で�義し︑代々師を務めた家柄だが︑

    ごろ円初元年︑張酺・魏應・召訓も亦た禁中に�ず︒(﹃後漢書﹄桓郁傳)

    円初元年︑(賈)逵に詔して入りて北宮白虎觀・南宮雲臺に�ぜしむ︒逵の說を善みし︑左氏傳の大義の二傳に長

    ずる者を發出せしむ︒⁝⁝逵をして自ら公羊の嚴・顏諸生の高才者二十人をGび︑敎うるに左氏を以てし︑鯵紙經傳

    各一�を與えしむ︒(﹃後漢書﹄賈逵傳)

    と︑魏應や賈逵も円初元年より�義を開始している︒特に賈逵は詔をZけて北宮白虎觀・南宮雲臺で�義を行い︑さらに

    ﹃公羊﹄の嚴・顏二氏の優秀な者をGんで﹃左氏傳﹄を敎~しているが︑これは石渠閣�論以%の﹃穀梁傳﹄と同樣の處

    置である︒

    このように︑白虎觀�論に先立つ円初元年より違への御%�義が開始され︑侍�を務めた儒者が白虎觀�論に參加し

    ていることから︑違が白虎觀�論に向けて十分な事%のレクチャーをZけていたことは�らかである︒円初元年時點よ

    り白虎觀�論のような形式の�論を見越していたかはわからない︒ただ︑違卽位後のかなり早い段階から︑違も關わ

    る大きな儒敎�イベントを開催したいと考えていたのではないか︒事%の御%�義を重ねる中で︑石渠閣の故事に則った

    �論を行うことが決定され︑準備が開始されたのであろう︒

    円初中︑大いに諸儒を白虎觀に會し︑同衣を考詳し︑�を連ねて乃ち罷む︒肅宗親臨して制を稱すること︑石渠の故

    ― 10 ―

    656

  • 事の如し︒命の&臣︑著して�義と爲す︒(﹃後漢書﹄儒林傳)

    白虎觀での議論は數か�かけて行われたとあり︑それらの議論に違が臨席したとは考え難い︒先営の楊xの上奏は︑

    議論の集大成として違の親臨と稱制臨決を�hしたものであり︑それをZけて違が詔を下した︒

    (円初四年)十一�壬戌︑詔して曰く︑﹁蓋し三代の人をMくは︑敎學を本と爲す︒漢は暴秦を承け︑儒 を襃顯し︑

    五經を円律し︑爲に4士を置く︒其の後學者精oするも︑師を承くと曰うと雖も︑亦た別れて家を名づく︒孝宣皇

    以爲く︑�を去ること久にして︑學は4きを厭わずと︑故にに大・小夏侯尙書を立て︑後印た京氏易を立つ︒円

    武中に至り︑復た顏氏・嚴氏春秋︑大・小戴禮の4士を置く︒此れ皆な學を扶oし︑C蓺を>廣する7以なり︒中

    元元年の詔書に︑五經違句煩多なれば︑議して減省せんと欲す︒永�元年に至り︑長水校尉鯈奏言すらく︑先の大

    業︑當に時を以て施行すべしと︒諸儒をして共に經義を正さしめんと欲し︑頗る學者をして得て以て自ら助けしむ︒

    孔子曰く︑﹃學の�ぜられざるは︑是れ吾が憂いなり﹄と︒印た曰く︑﹃4學にして篤志︑切問にして思︑仁は其の

    中に在り﹄と︒於戲︑其れ之を勉めんかな︒﹂と︒是に於いて太常︑將︑大夫︑4士︑議郞︑郞官�び諸生︑諸儒に

    下し︑白虎觀に會し︑五經の同衣を�經せしめ︑五官中郞將魏應制を承けて問い︑侍中淳于恭上奏し︑親ら制を稱

    し決に臨み︑孝宣甘露の石渠故事の如くせしめ︑﹃白虎議奏﹄を作る︒(﹃後漢書﹄違紀)

    ここでは宣以來︑大・小夏侯氏の﹃尙書﹄︑京氏の﹃易﹄︑顏・嚴氏の﹃春秋﹄︑大・小戴氏の﹃禮﹄の4士が怨たに

    円てられたこと︑また繁多になりすぎた五經の違句を減しようとする光武以來の試みのI長線上に︑北宮白虎觀にて

    五經の同衣を議論することが宣言されるのである︒

    現在傳わっている﹃白虎�﹄は︑班固によって一つの作品としてまとめられた結果︑發言者の名もわからないため︑

    ﹃白虎�﹄から白虎觀�論の議論の實際を復元するのは︑まず不可能である︒

    肅宗

    (丁)鴻と廣�王羨�び諸儒樓3︑成封︑桓郁︑賈逵等に詔し︑五經の同衣を北宮白虎觀に論定し︑五官中郞將

    ― 11 ―

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  • 魏應をして制を承けて問難をrらしめ︑侍中淳于恭奏上し︑親ら制を稱し決に臨む︒鴻才高きを以て︑論難�も�

    らか︑諸儒之を稱し︑數ば嗟美す︒時人嘆じて曰く︑﹁殿中無雙の丁孝公﹂と︒(﹃後漢書﹄丁鴻傳)

    時に京師の諸儒を白虎觀に會し︑五經の同衣を�論せしめ︑應をして專ら難問を掌らしめ︑侍中淳于恭之を奏し︑

    親臨して制を稱すること︑石渠の故事の如し︒(﹃後漢書﹄儒林傳・魏應)

    と︑魏應が制を承けて問難し︑淳于恭が奏上したとあるので︑魏應が違の制をZけて發問↓諸儒が議論↓結論を淳于恭

    が皇に奏上↓稱制臨決︑の手順で議事がo行したと考えられる︒淳于恭の擔當した﹁奏上﹂とは︑石渠閣�論において

    蕭3之や韋玄成が擔った﹁�奏﹂﹁條奏﹂に當たるのであろう︒

    魏應が﹁專ら難問を掌り﹂(﹃後漢書﹄儒林傳・魏應)︑丁鴻が﹁論難�も�らか﹂(﹃後漢書﹄丁鴻傳)︑李育が﹁公羊の義を

    以て賈逵を難じ︑皆な理證^り﹂(﹃後漢書﹄儒林傳・李育)と︑﹁難問﹂﹁論難﹂﹁難﹂とあるので︑他の經義解釋上

    の矛盾點を指摘しつつ︑議論がo行したと思われる︒

    白虎觀�論に先立ち︑賈逵は違の命により﹃左氏傳﹄が﹃公羊傳﹄﹃穀梁傳﹄の二傳に長ずる點を條奏しているが︑

    この他にも︑

    (賈)逵數ばの爲に古�尙書と經傳・爾の詁訓相い應ずるを言えば︑詔して歐陽︑大小夏侯尙書・古�の同衣を

    Ëせしむ︒逵集めて三卷と爲し︑之を善す︒復た齊︑魯︑韓詩と毛氏の衣同をËせしむ︒(﹃後漢書﹄賈逵傳)

    と︑歐陽氏および大・小夏侯﹃尙書﹄と﹃古�尙書﹄の衣同や︑齊魯韓の今�三家詩と﹃毛詩﹄の衣同を摘出している︒

    白虎觀�論での議論は︑これら賈逵による同經衣の同衣を摘出する作業が基礎になっているのではなかろうか︒言い奄

    えれば︑賈逵は白虎觀�論の議題のG定や議論の/成において︑中心�な役割を果たしていたと考えられるのである︒に

    もかかわらず︑﹃後漢書﹄賈逵傳では︑白虎觀�論についてkく觸れない︒多くの先學が指摘するように︑白虎觀では今

    �學である公羊が利し︑賈逵が提唱する左氏のr張はbけられたからであろう︒しかし︑賈逵が議論をrMできる

    ― 12 ―

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  • 立場にあったにもかかわらず︑なぜ古�は敗北したのであろうか︒

    狩野直喜氏によれば︑白虎觀�論に參加した諸儒のうち︑學不�の成封と淳于恭を除けば︑賈逵以外はkて今�學

    であり︑官學であるところの今�學內部での經說の瓜一を目指したもので︑今古�學の爭いを解決するためのものではな

    かったとされる(19

    )︒白虎觀�論は招聘された學者たちの顏ぶれから言っても︑皇親臨の上で鬬わされる議論である以上︑

    官學である今�學のメンツを優先させる以外のシナリオは︑描きようがなかったことは想宴に難くない︒白虎觀�論の成

    功のために︑唯一の古�である賈逵は︑古�學が擡頭しつつあった當時の學問の潮液にS行し︑さらに自己の學問�r

    張を犧牲にしてまでも︑官學である今�學の優位を强せざるを得なかったのである︒當然の歸結として︑白虎觀�論や

    ﹃白虎�﹄は︑その名聲の高さに相反して︑その後の後漢經學界から無視にいいをZけることになる(20

    )︒その+味でも︑

    白虎觀�論が政治�︑儀禮�なものであったと證しうる︒

    石渠閣︑白虎觀の二つの�論は︑いずれも數か�にわたる入念な準備の上︑皇臨席のもと開かれた︑儀禮�な�論で

    あったことを�らかにした︒經學議論は︑皇の面%で行われることにより︑純粹な學 活動であることを離れて︑儀禮

    �な性格を帶びるようになったのである︒

    この二つの�論以外にも︑後漢の宮中ではしばしば經學�論が行われた︒�を改めて︑宮中での�論とその儀禮�性格

    を見ていくことにしよう︒

    第三�

    宮中�論の傳瓜

    石渠閣や白虎觀のような大々�な�論以外にも︑後漢時代には皇の御%において經學議論が鬬わされることが珍しく

    なかった︒光武は御%での�論を頻繁に行っていた︒

    (陳)元之を聞き︑乃ち闕に詣りて上駅して曰く︑﹁陛下撥亂反正︑�武竝び用い︑深く經蓺のï雜にして︑眞僞の錯

    ― 13 ―

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  • 亂せるを愍れみ︑每に�に臨むの日ごとに︑輒ち羣臣をIきて�Cを�論す︒⁝⁝﹂(﹃後漢書﹄陳元傳)

    每旦�を視︑日仄して乃ち罷む︒數ば公卿︑郞︑將を引きて經理を�論し︑夜分にして乃ち寐ぬ︒皇太子の勤勞怠

    らざるを見︑閒を承けて諫めて曰く︑﹁陛下に禹湯の�^りて︑而して黃老養性の福を失う︑願くば精神を頤愛し︑

    優游自ら寧んぜんことを﹂と︒曰く︑﹁我自ら此れを樂しむ︑疲と爲さざるなり﹂と︒(﹃後漢書﹄光武紀下)

    皇太子

    (�)が永康を心�するほど︑光武は群臣との經學�論を樂しんだ︒こうした經學�論は︑正�の�會の際

    にも行われた︒

    正旦�賀︑百僚畢く會し︑羣臣の能く經を說く者をしてBも相い難詰せしめ︑義に�じざる^れば︑輒ち其の席を

    奪いて以て�者に益し︑(戴)憑に坐五十餘席を重ぬ︒故に京師之が爲に語りて曰く︑﹁解經不窮の戴侍中﹂と︒

    (﹃後漢書﹄儒林傳・戴憑)

    戴憑は光武時代の人で︑この時は議論にった者が�けた者の席

    (物)を奪って重ねていき︑戴憑は五十枚もの席

    を獲得した︒宮中における經學�論は一種の娛樂でもあった︒白虎觀�論で論難を務めた魏應は︑

    肅宗甚だ之を重んじ︑數ばo見し︑%に論難し︑特に賞賜をZく︒(﹃後漢書﹄儒林傳・魏應)

    と︑しばしば違の御%で﹁論難﹂して賞賜をZけていた︒

    同じく白虎觀で﹁論難﹂を賞贊された丁鴻は︑桓榮の弟子であり︑もともと論難が得+で都�をつとめていた︒都�と

    は︑4士が經の�義をする際に︑經を讀み上げる優等生であり︑質問係をねていた︒都�の質問と4士の囘答を繰り

    して~業はo行した(21

    )︒漢代の經學�學 討論が︑基本�に問答形式をとることは︑4士の�義も石渠閣・白虎觀の�論と

    同樣であり︑石渠閣や白虎觀ほど大々�ではなくとも︑折にふれて皇御%で經學�論が鬬わされていたのである︒それ

    は正�の�會などの儀禮�な場においても行われ︑儒敎の學 性だけでなく︑娛樂性と儀禮性もね備えていたのである︒

    %漢末に長安城の城南に�堂・辟雍が円設されたことにより︑皇のr催する國家儀禮は宮中を出て南郊にその場を移

    ― 14 ―

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  • すことになる︒宮中の閉じられた空閒でのみ擧行されていた儀禮�な�論も︑南郊の開放�な空閒

    ︱︱辟雍へと飛び出

    し︑儒敎�儀禮の中に取り'まれることになる︒違を改めよう︒

    第二違

    辟雍儀禮の成立と�の�論

    第一�

    長安南郊禮制施設群の成立

    %漢末から王厭�を經て後漢初�にかけて︑いわゆる禮制改革が行われ︑皇祭祀・儀禮の儒敎�がo行した(22

    )︒儒敎�

    な祭祀・儀禮のみならず︑儒敎�な官僚制︑地方制度その他︑後世の皇制度の規範となる︑いわゆる﹁古典�國制(23

    )﹂が

    確立されていく時�である︒皇制度が儒敎禮制によって整備されていく中︑儒敎天子の荏�・敎�を象|する施設とし

    て︑�堂・辟雍(24

    )の円設は特に重�な課題となっていた︒

    %漢武�には︑すでに長安城南に�堂を円設することが円議されていたが︑實行に移すには至らなかった(25

    )︒成�に

    は古代の樂器である古磬十六枚の發見が契機となり︑劉向らが�堂・辟雍円設をo言し︑場7も長安の城南に決定された︒

    この時は着工%に成がK御したが︑成の諡號は辟雍を﹁成す﹂ことに因んでいる

    (﹃漢書﹄禮志)︒實際に長安城南郊

    外に�堂・辟雍が円設されたのは︑王厭執政下の�元始四年

    (四)である︒

    是の歲

    (元始四年)︑厭奏して�堂︑辟雍︑靈臺をこし︑學者の爲に舍萬區を築き︑市︑常滿倉を作り︑制度甚だ盛

    んなり︒(﹃漢書﹄王厭傳上)

    後に王厭は自ら﹁靈臺を円て︑�堂を立て︑辟雍を設け︑太學を張もうく﹂(﹃漢書﹄翟方o傳)と誇っているので︑﹁學者の

    爲に舍萬區を築き﹂は太學の設備の擴張・整備を指すのであろう︒王厭によって長安城の南郊外に�堂・辟雍・靈臺・太

    學︑さらには郊祀壇︑社稷が林立する禮制施設群が成立し︑王厭卽眞の後には王氏の宗+である九+が円設され︑北郊の

    ― 15 ―

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  • 后土祠他一部の祭祀を除いては︑祭祀・儀禮の場はほぼ南郊に集中することになる︒

    これらの禮制施設群の中で︑特に重視されたのは�堂であった︒王厭は£元始五年

    (五)正�に�堂に祫祭を行い︑居

    攝元年

    (六)には大射禮を�堂に行い︑三老五Bを養い︑さらに皇卽位後の始円國四年

    (一二)と天鳳四年

    (一七)の

    夏に︑�堂にて諸侯に茅土を~ける儀禮を行っている︒とくに居攝元年に大射禮を�堂で行ったことに6目したい︒それ

    以%の%漢の大射禮は︑宮中の曲臺(26

    )で行われていたからである︒

    曲臺后倉九f︒(如淳曰く︑禮射を曲臺に行い︑后倉記を爲り︑故に名づけて曲臺記と曰う︒漢官曰く︑曲臺に大射すと︒晉2曰

    く︑天子の射宮なり︒西京太學無し︑此において禮を行うなりと︒)(﹃漢書﹄藝�志

    六藝略・禮)

    藝�志の晉26が﹁西京太學無し﹂と営べるが︑王厭が長安南郊に太學を整備するまで︑%漢の太學に獨立の校舍が

    あったか否か︑諸說あってはっきりしない(27

    )︒ただ︑﹃漢書﹄五行志に︑

    鴻嘉二年三�︑4士大射禮を行う︒飛雉の庭に集い︑階を歷て堂に登りて雊くこと^り︒後雉印た太常︑宗正︑丞相︑

    御&大夫︑大司馬車騎將軍の府に集い︑印た未央宮承�殿屋上に集う︒(﹃漢書﹄五行志中之下(28)

    )

    とあり︑雉が集まった﹁庭﹂は﹁廷﹂に�じ(29

    )︑太常︑宗正︑丞相︑御&大夫︑大司馬車騎將軍の官署をめぐって︑再び未

    央宮の承�殿の屋上に集まったとあるので︑大射禮も未央宮で行われたと見られる︒王厭はその大射禮を長安城南の�堂

    で擧行したのである︒

    傳瓜�な觀念では︑天子の射禮・養老禮は辟雍もしくは太學で擧行されるべきであり︑王厭が改修した太學にも射宮が

    あった(30

    )︒王厭は辟雍も太學も作ったのに︑なぜ︑敢えて�堂で射禮を行ったのか︒さらに言えば︑&料に見える限り︑王

    厭は辟雍を作っただけで活用せず︑儀禮はもっぱら�堂で行っている︒

    �堂・辟雍・太學がそれぞれ獨立した別個の円築であるか︑あるいは一つの円築の別名に�ぎないのか︑膨大な議論が

    ある(31

    )︒たとえば︑後漢の蔡邕は︑�堂・辟雍・太學は同一物の別名であると営べる(32

    )︒�堂・辟雍に關する經學上の議論に

    ― 16 ―

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  • ついてはここで営べる餘裕はない︒問題とすべきは︑%漢元始四年に円設された�堂・辟雍の形態である︒

    一九五〇年代︑西安市西郊の大土門村︑つまり漢長安城南郊安門外より王厭�の巨大な禮制円築L址

    (大土門L址)が

    發掘され︑それが�堂であるか辟雍であるか︑議論されてきた(33

    )︒大土門L址は︑中心円築物とそれを取り圍む四つの門の

    ある四角い圍墻︑さらにそれを取り圍む圓形の水Q︑という三重の/0になっている︒

    漢長安城南郊禮制L址の發掘報吿書は大土門L址について︑周圍の圓形の水Qを重視してこれを辟雍とする(34

    )︒執筆者の

    黃展嶽氏は︑﹃漢書﹄や怨厭鏡の銘�より︑﹁�元始四年に漢長安城南郊に円設された�堂︑辟雍︑太學︑靈臺は︑四者

    が分立し︑各々單獨の円築であったはずである︒﹂と営べ︑また洛陽南郊の後漢の�堂︑辟雍︑靈臺︑太學がそれぞれ個

    別に円設されている

    (後営)のは︑%漢の制度を踏襲しているからだ︑とする(35

    )︒

    張一兵氏は﹃西京雜記﹄等の�獻の記載を檢討すると︑%漢では西から太學・辟雍・�堂・靈臺の順に竝んでいるはず

    で︑大土門L址の位置は辟雍でも�堂でもなく︑太學であるはずだ︑と営べる(36

    )︒

    王世仁氏は中心円築を�堂︑周圍の水Qを辟雍と考えた(37

    )︒王氏の復元圖に從えば︑辟雍は�堂の附屬物となる︒劉瑞氏

    も︑�獻中の王厭元始四年円設の�堂・辟雍に對する記営狀況より見て︑﹁�堂﹂と﹁辟雍﹂は一體の円築であるはずだ︑

    と営べる(38

    )︒中心円築が�堂であり︑周圍の水Qが辟雍であるとすれば︑&料中に儀禮の開催場7として辟雍が登場しない

    のも¨得できる(39

    )︒

    漢長安城南郊の禮制L址は︑まだ�堂や太學のL址が確定されておらず︑王厭が円設した三雍の位置關係も�確でない︒

    ただ︑王厭が長らく懸案であった�堂︑辟雍を円設した事實は動かない︒

    �堂︑辟雍は天子が敎�を行うための施設である︒﹁天子の辟雍︑諸侯の泮宮︑德�を行う7以なり︒﹂(劉向﹃說苑﹄修

    �)︑﹁王者の�堂・辟雍を0るは︑天を承け�を行う7以なり︒﹂(﹃初學記﹄卷十三︑﹃太�御覽﹄卷五三三引桓譚﹃怨論﹄)と︑

    �堂・辟雍は﹁行德�﹂﹁承天行�﹂の中心として︑天子の敎�をk土にªく行き渡らせる點となる施設であった︒�

    ― 17 ―

    663

  • 堂・辟雍を興し︑そこで儒敎�な儀禮を行うことが︑天子の敎�に不可缺であると«識されていたのである(40

    )︒

    王厭は�堂・辟雍・太學を円設する%年の元始三年

    (三)には︑天下の郡國に官學を設立し︑中央から地方に�ぶ瓜一

    �な學校制度を創設したが(41

    )︑その官學の頂點として︑長安の南郊に廣大な太學を円設し︑地方から多くの學生を集め︑ま

    た敎�の中心地として壯麗な�堂・辟雍・靈臺を築いた︒さらに¬接して巨大な九+と郊祀壇と社稷があり(42

    )︑祭祀・儀禮

    の場は宮中より獨立・確立した︒林立する禮制施設群は︑天子の威光と儒敎による敎�を目に見える形で表象したのであ

    る︒

    第二�

    洛陽南郊禮制施設群の成立

    長安の南郊の禮制円築群は︑王厭政權のK壞によって灰燼に歸した︒後漢光武は卽位直後の円武五年

    (二九)に洛陽

    の南に太學を修し︑太學に行幸した︒円武七年

    (三一)︑朱は光武に對し以下のように上奏している︒

    七年︑太僕に轉ず︒印た國學の旣に興り︑宜しく4士のGを廣むべきを以て︑乃ち上書して曰く︑﹁夫れ太學なる

    者は︑禮義の宮にして︑敎�の由りて興る7なり︒陛下先�を>敬し︑+を古典に垂れ︑宮室未だ¯らず︑干戈未だ

    休まずして︑而して先に太學を円て︑oみて橫舍を立て︑比日車駕親臨して�を觀︑將に以て時雍の�を弘め︑勉o

    の功を顯らかにせんとするなり︒4士の官を±ね︑天下の宗師と爲し︑孔�の言をして傳えて絕えざらしめんとす︒

    ⁝⁝﹂(﹃後漢書﹄朱傳)

    朱は︑太學を﹁禮義の宮﹂﹁敎�の由りて興る7﹂と規定し︑光武が﹁干戈未だ休まずして︑而して先に太學を円

    て﹂たことを高くN價する︒光武はただ太學を円設するのみならず︑﹁比日車駕親臨して�を觀﹂と︑しばしば太學に

    足を²んだ︒光武の行幸の折には︑諸4士を招集して御%で�論を行わせることもあった︒

    車駕大學に幸し︑諸4士を會して%に論難せしめ︑(桓)榮儒衣を被

    し︑溫恭にして蘊籍^り︑經義を辯�し︑每

    ― 18 ―

    664

  • に禮讓を以て相い猒い︑辭長を以て人にらず︑儒者之に�ぶ莫し︑特に賞賜を加う︒(﹃後漢書﹄桓榮傳)

    この行幸は︑桓榮が4士に任命された円武十九年

    (四三)ごろに行われたと考えられるが︑十九年九�から£二十年

    (四四)二�まで︑光武は南方に#狩した︒皇が外´から洛陽に歸る際に︑洛陽城外の太學に行幸することが後漢で

    は數例ある(43

    )ので︑この時も#狩の歸µに太學に立ち寄ったのかもしれない︒宮中でのみ行われていた御%での經學�論を︑

    宮外の太學で行うことで︑宮中に入ることのできない太學生たちも︑皇と諸儒の�論に立ち會うことができたのである︒

    光武政權の安定に從い︑洛陽にも�堂︑辟雍を円設すべしとの+見が出始める︒張純は七經讖︑﹃�堂圖﹄︑﹃河閒古

    辟雍記﹄︑孝武の泰山の�堂制度︑�び�時の議論を參照して�堂・辟雍を計劃し︑たまたま同時�に4士桓榮が�

    堂・辟雍の円設をo言したこともあり︑光武の許可を得て︑円武中元元年

    (五六)︑ついに洛陽の南郊に�堂・辟雍・

    靈臺の三雍が円設された(44

    )︒辟雍が完成すると︑太學を破壞しようとしたが︑太尉趙熹の+見によって兩存させることに

    なった(45

    )︒﹃白虎�﹄に﹁太學なる者は︑辟雍p射の宮なり︒﹂(辟雍f)と︑後漢初�には辟雍と太學を同じものとする考

    え方がr液であった︒

    漢魏洛陽故城南郊禮制L址の發掘査の結果︑後漢より魏晉の�堂・辟雍・靈臺そして太學はそれぞれ獨立して円設さ

    れたことが�らかになった(46

    )︒一九三一年に﹁大晉龍興皇三臨辟雍皇太子印再臨之盛德隆煕之頌跋﹂(いわゆる晉辟雍碑)

    が發見され(47

    )︑後の考古學査で辟雍碑の碑座が發見されたことにより︑辟雍の位置が確定し︑辟雍の東北のL跡は︑以%

    より漢魏時代の石經が大量に出土していることからも︑後漢から北魏時代の太學のL跡と考えられる︒一番西側の高臺が

    靈臺のL跡︑靈臺と辟雍の閒に�堂が置かれ︑ほぼ橫一列に�置されていたことがわかった(48

    )︒これは�獻の記載とも基本

    �に一致する(49

    )︒

    洛陽城の南側に西から靈臺・�堂・辟雍が竝び︑辟雍の東北には太學を擁する︑この三雍の威容は︑儒敎天子の敎�を

    視覺�に象|するに足るものであった︒

    ― 19 ―

    665

  • 第三�

    �辟雍�論と敎�

    光武は三雍で實際に儀禮を行うことなく世を去り︑三雍での儀禮・祭祀の本格�な²用は�に始まる(50

    )︒

    (�永�)二年

    (五九)春正�辛未︑光武皇を�堂に宗祀し︑�び公卿列侯始めて冠冕︑衣裳︑玉佩︑絇屨を

    して以て事を行う︒禮畢りて︑靈臺に登る︒尙書令をして�を持せしめ驃騎將軍︑三公に詔して曰く︑﹁今令�吉日︑

    光武皇を�堂に宗祀し︑以て五に�す︒禮は法物を備え︑樂は八¸を和し︑祉福を詠し︑功德を舞い︑時令を班

    し︑群后に敕す︒事畢り︑靈臺に升り︑元氣を3み︑時律を吹き︑物變を觀る︒群僚藩輔︑宗室子孫︑衆郡計を奉り︑

    百蠻貢職し︑烏桓︑濊貊咸な來たりて助祭し︑單于侍子︑骨都侯も亦た皆な陪位す︒⁝⁝

    (﹃後漢書﹄�紀・永�二

    年)

    �以下百官は初めて冠冕・衣裳を

    して�堂の祭祀に臨むが︑この冕

    制度もまた︑�が﹃周官﹄﹃禮記﹄﹃尙書﹄

    等より古制に基づいて創始したものである(51

    )︒

    永�二年正�に皇以下百官が冠冕・衣裳を着るためには

    ︱︱しかも皇の衣裳には刺繡で︑公卿以下には織で�樣

    を入れ︑製0は陳留で行っている

    (﹃續漢書﹄輿

    志下に︑﹁衣裳玉佩は違采を備え︑乘輿は刺繡︑公侯九卿以下は皆な織りて成し︑

    陳留襄邑之を獻ずと云う︒﹂とある︒)︱︱

    具體�な圖案おこしから試作・製作の時閒を考慮すれば︑經書を勘案しての基本

    デザインの確定は永�元年のºばにはxわっていたであろう︒

    『後漢書﹄樊鯈傳には︑永�元年に長水校尉となった樊鯈が公卿と郊祠禮儀を雜定したとあり︑また﹃東觀漢記﹄によ

    れば︑永�二年正�に東�王蒼が南北郊祀の冕冠裳衣を�堂の制度と同じにすると営べているから(52

    )︑冕

    制度は南北郊祀

    の詳細とともに︑東�王蒼と樊鯈が中心となって確定されたと考えられる︒

    �は永�二年三�には初めて辟雍で大射禮を︑十�には養老禮を行った(53

    )︒この後︑�は四年

    (六一)十�︑八年

    ― 20 ―

    666

  • (六五)十�︑十四年

    (七一)の冬にも辟雍にて儀禮を擧行しており︑�の辟雍重視のF勢がうかがわれる︒

    �永�二年三�︑上始めて群臣を帥いて躬ら三老・五Bを辟雍に養い︑大射の大禮を行う︒郡︑縣︑Cはp飮酒を

    學校に行い︑皆な�師周公︑孔子を祀り︑牲は犬を以う︒是に於いて七郊禮樂三雍の義備れり︒三老・五Bを養うの

    儀︑吉日に先んじて︑司徒は太傅若しくは�師の故の三公の人名を上し︑其の德行年耆高き者一人を用って老と爲し︑

    1ぐ一人をBと爲すなり︒皆な都紵大袍單衣︑皁緣領袖中衣を

    し︑o賢を冠し︑王�を扶す︒五Bも亦た之くの如

    きなるも︑�つかず︒皆な太學�堂に齋す︒其の日︑乘輿先に辟雍禮殿に到り︑東廂に御坐し︑i者を½して安車も

    て三老・五Bを¾えしむ︒天子門屛に¾え︑¿ごも禮し︑Cるに阼階自りし︑三老は賓階自り升る︒階に至れば︑天

    子揖すること禮の如し︒三老升り︑東面し︑三公は几を設け︑九卿は履を正し︑天子親ら袒じて牲を割き︑醬を執り

    て饋り︑Rを執りて酳し︑祝鯁は%に在り︑祝饐は後に在り︒五B南面し︑公oみて禮を供すること︑亦た之くの如

    し︒�日皆な闕に詣りて恩を謝するは︑禮Dもて大いに>顯せらるるを以ての故なり︒(﹃續漢書﹄禮儀志上・養老)

    大射禮は﹁�射﹂と表現され︑儀禮�な�宴がセットになっていた︒中央の辟雍での儀禮に合わせて︑地方の學校でも

    p飮酒禮を行い(54

    )︑周公・孔子を祭祀した︒中央の辟雍と地方の學校と︑同樣に儀禮�な�宴を行い︑中央と地方とを聯關

    させることで︑儒敎の敎えがk土に行き渡ることを象|しているのである︒まさしく﹃白虎�﹄に︑

    天子の辟雍を立つるは何ぞ︒辟雍は︑禮樂を行い︑德�を宣ぶる7以なり︒辟なる者は︑璧圓を象り︑以て天に法る

    なり︒雍なる者は︑之を壅たすに水を以てし︑敎�の液行するを象るなり︒(﹃白虎�﹄辟雍f)

    と営べる辟雍の機能そのもの︑天子による敎�の具體�な實施であると言えよう︒

    さらに︑辟雍での大射禮において︑�は自ら�經を行った︒

    中元元年︑初めて三雍を円つ︒�卽位し︑親ら其の禮を行う︒天子始めて�天を冠し︑日�を衣︑法物の駕を備え︑

    淸Cの儀を盛んにし︑�堂に坐して羣后に�し︑靈臺に登りて以て雲物を3み︑辟雍の上に袒割し︑三老五Bを>養

    ― 21 ―

    667

  • す︒�射の禮畢り︑正坐して自ら�じ︑諸儒經を執りて%に問難し︑冠帶縉紳の人︑橋門を圜りて觀聽する者蓋し

    億萬もて計う︒(﹃後漢書﹄儒林傳)

    諸儒と�論する皇のFを一目見んとして︑億萬もの縉紳たちが辟雍に押し寄せ︑辟雍の四面の門をぐるりと取り圍ん

    だという︒若かりし王閏は︑この時洛陽の太學に游學中で︑天子の辟雍行幸を目の當たりにし︑﹃六儒論﹄を作った(55

    )︒辟

    雍に詰めかけた王閏ら地方出身者は︑そこで目にした�論の樣子を故pに語り傳えたであろう︒理念上の辟雍では︑取り

    圍む水が天子の德を天下に行き渡らせるが︑ここでは辟雍を圍繞する冠帶縉紳のギャラリーそのものが︑液れる水のごと

    くに天子の敎�を地方に行き渡らせる作用を果たすのである︒

    �は永�十四年冬にも再び辟雍で自ら﹁制る7の五行違句﹂を�じている(56

    )︒天子の敎�を象|する辟雍において︑皇

    がみずから自著を�論するFは︑紛れもない儒敎天子のFそのものである︒居竝ぶ百官と︑辟雍を取り圍む冠帶縉紳︑

    背後に聳える�堂・靈臺の威容︑そのkてが儒敎天子の敎�を演出する舞臺裝置として機能した︒﹁是に於いて七郊禮樂

    三雍の義備れり﹂(﹃續漢書﹄禮儀志上)︱︱�の辟雍儀禮の擧行によって︑%漢末以來續いてきた儒敎�國家儀禮の整

    備はついに完成を見たのである︒

    �以後︑後漢において皇自ら�論を行った例はない︒�後の辟雍�論の£年永�十五年

    (七二)︑�は東方へ#

    狩し︑魯の孔子舊宅に行幸した︒その際︑孔子と七十二弟子を祭祀した後︑皇太子

    (違)・諸王に�經させている︒

    三�︑琅E王京を|して良成に會し︑東�王蒼を|して陽都に會し︑印た廣陵侯�び其の三弟を|して魯に會す︒東

    海恭王陵を祠る︒Åりて︑孔子宅に幸し︑仲尼�び七十二弟子を祠る︒親ら�堂に御し︑皇太子・諸王に命じて經を

    說かしむ︒(﹃後漢書﹄�紀・永�十五年)

    皇御%の儀禮�な�論を京師以外で擧行したことも劃��ではあるが︑さらに皇太子による�論という點で︑六�以

    後の釋奠における�論の先�をつけるものである︒違は皇太子時代に孔子舊宅で�論を行った後は︑自ら�論した記錄

    ― 22 ―

    668

  • はなく︑

    元和二年春︑東のかた#狩し︑Åりて魯を�ぎり︑闕里に幸し︑太牢を以て孔子�び七十二弟子を祠り︑六代の樂

    を作り︑大いに孔氏の男子二十以上の者六十三人を會し︑儒者に命じて論語を�ぜしむ︒(﹃後漢書﹄儒林・孔僖傳)

    と︑元和二年

    (八五)魯への#狩のµ中で孔子舊宅に立ち寄り︑孔子と弟子を祭祀し︑孔氏の男子を招集して�論を行わ

    せている︒先�先師の祭祀と結びつくかたちで︑經學�論が儒敎�な儀禮として確立されたのである︒

    宮中で擧行されていた皇臨席の上での經學�論は︑じょじょに國家儀禮との結びつきを强めながら︑後漢の初�には

    京師の南郊外の太學・辟雍で地方出身の太學生︑縉紳の面%で行われるようになり︑ついに�・違の東方#狩の際に

    は洛陽を飛び出して孔子の舊宅で開催された︒宮中から洛陽南郊︑そして地方へと︑皇御%での�論は場7を變え︑さ

    らに先�先師の祭祀と結合することで︑儒敎天子を莊嚴する國家儀禮としての性格を確立していったのである︒

    %漢宣甘露三年の石渠閣�論は︑皇自身が積極�に議論に參與した�初の儀禮�な經學�論である︒石渠閣におい

    て︑太子太傅蕭3之と淮陽中尉韋玄成は︑議論のo行において中心�な役割を果たしたが︑この二人はいずれも皇太子

    (元)と淮陽王という︑宣の息子たちの輔M者であった︒公卿も列席・參加した盛大な催しを︑當然この二人の皇子

    も參觀したはずである︒

    後漢永�二年︑�は辟雍にて︑&上初めて皇自ら�論を行った︒本來であれば

    ︱︱光武が生きていれば︱︱

    辟雍儀禮は光武によって實施されたはずである︒だが︑その場合でも光武が自ら�論したであろうか︒

    �末年の東方#狩において︑孔子舊宅での先�先師の祭祀の後に︑當時皇太子である違と諸王に�經させている︒

    辟雍においても︑當初より皇太子

    (�)による�論が計劃されていた可能性が高いように思う︒辟雍での初めて養老禮

    ― 23 ―

    669

  • の五Bは︑太子少傅として皇太子時代より�の輔Mにあたった桓榮であり︑�はその後の大射・養老儀禮のたびに︑

    師としての厚禮を缺かさなかった︒

    時代は下るが︑西晉咸寧四年

    (二七八)に立碑された晉辟雍碑では︑皇太子が親臨した辟雍儀禮を以下のよう稱頌する︒

    ��たる大子︑玄覽惟れ聰し︒心を六藝に´ばせ︑再び辟雍に臨む︒光光たるí華︑騤騤たる六龍︒百辟雲集し︑卿

    士Ç從す︒儒林位に在り︑爰に生越に曁ぶ︒升影に序^り︑行いは恭に�ぐ︒祗みて�敬を奉じ︑曠若として蒙を發

    く︒玄冥�を司り︑嘉賓に�飮す︒大射の儀︑元春に�じられ︑弓を執ること鷹揚として︑百拜すること逡#たり︒

    (﹃大晉龍興辟雍碑(57)

    ﹄)

    晉辟雍碑が皇と皇太子の辟雍への親臨を顯頴するものでありながら︑內容�にはもっぱら皇太子に對する顯頴が中心

    となっていることが指摘されている(58

    )︒辟雍儀禮が象|する天子による敎�の理念は︑皇太子の敎育・輔Mをその頂點とし

    て集Èされているのである︒

    儀禮�な︑皇太子もしくは若い皇による�論︑太子・諸王の敎育官︑先�先師の祭祀︑こうした細い糸をûった先に

    六��に完成された釋奠儀禮が見えてくる︒少年皇・皇太子が自ら�論することによって天下に顯示されるべきものは︑

    皇たる�質や位繼承の正瓜性ではなく︑天子による敎�という︑儒敎に基づく中國皇政治の理念そのものなのであ

    る︒

    �(1)

    釋奠儀禮については︑彌永貞三﹁古代の釋典について﹂

    (﹃日本古代の政治と&料﹄高科書店︑一九八八7收︒初出

    は﹃續日本古代&論集﹄下︑吉川弘�館︑一九七二)︑古

    隆一﹃中國中古の學 ﹄硏�出版︑二〇〇六︑第二違

    ﹁釋奠禮と義駅學﹂(初出は小南一郞n﹃中國の禮制と禮

    學﹄É友書店︑二〇〇一)︑松浦千春①﹁釋奠儀禮につい

    ての覺え書き

    ︱︱その一

    釋奠儀禮の形成

    ︱︱﹂(﹃一關

    高專硏究紀�﹄第三六號︑二〇〇二)︑同②﹁釋奠儀禮に

    ― 24 ―

    670

  • ついての覺え書き

    ︱︱その二

    魏・西晉の釋奠︱︱﹂

    (﹃一關高專硏究紀�﹄第三七號︑二〇〇三)︒なお︑高�

    士﹃東亞敎育圈形成&論﹄(上海古籍出版社︑二〇〇三)

    は︑後漢光武が円武五年に太學を立學した時に釋奠を擧

    行したと推測し︑王厭が太學を設立した際にも擧行した可

    能性を指摘する

    (五二頁)︒

    (2)

    東晉・孝武寧康三年の釋奠に際して︑孝武の﹃孝

    經﹄�義に備えて︑謝安の私庭で豫行演を行っている記

    事が﹃世說怨語﹄に見える︒古氏%揭書一〇九~一一一

    頁參照︒

    孝武將�﹃孝經﹄︑謝公兄弟與諸人私庭�︒車武子

    難苦問謝︑謂袁羊曰︑﹁不問則德¸^L︑多問則重勞

    二謝︒﹂袁曰︑﹁必無此�︒﹂車曰︑﹁何以知爾︒﹂袁曰︑

    ﹁何嘗見�鏡疲於屢照︑淸液憚於惠風︒﹂(﹃世說怨語﹄

    言語f)

    (3)

    松浦氏%揭②論�︒

    (4)

    古氏%揭書︑松浦氏%揭②論�︒

    (5)

    一般�には石渠閣會議︑白虎觀會議という名稱をiうこ

    とが多いが︑﹁會議﹂という言葉は&料用語ではない︒&

    料上では﹁與五經諸儒雜論同衣於石渠閣﹂(﹃漢書﹄韋玄成

    傳︑儒林傳)︑﹁論石渠﹂(﹃漢書﹄儒林傳)等の表記のほか︑

    ﹁�論五經於石渠﹂(﹃漢書﹄劉向傳)︑﹁集諸儒於石渠閣︑

    �論六蓺﹂(﹃後漢書﹄黨錮列傳)︑﹁與諸儒�論於白虎殿﹂

    (﹃後漢書﹄孝�八王列傳・陳敬王羨傳)︑﹁天子會諸儒�論

    五經︑作白虎�德論﹂(﹃後漢書﹄班固傳)等が多いので︑

    本稿では﹁�論﹂の呼稱を用いることにする︒なお︑﹁�

    論﹂は佛敎の議論を指すことが多く︑印度發祥の佛敎の傳

    瓜�な�經の形式が儒敎に取り入れられたとする說

    (牟潤

    孫﹁論儒釋兩家之�經與義駅﹂﹃6&齋叢稿

    (增訂本)﹄上

    卷7收︑中華書局︑二〇〇九)があるが︑儒敎にも佛敎傳

    來以%より傳瓜�な經典を�ずる儀式が存在したと考えら

    れる

    (荒牧典俊﹁南�%º�における敎相y釋の成立につ

    いて﹂の附論﹁襄陽のC安敎團における�經會の成立﹂

    (福永光司n﹃中國中世の宗敎と��﹄︑京都大學人�科學

    硏究7︑一九八二)︒古氏%揭書﹁第四違

    都�の再檢

    討﹂參照︒

    (6)

    雷戈﹁白虎觀會議和︽白虎議奏︾︑︽白虎�義︾之關係

    考﹂(﹃首都師範大學學報﹄(社會科學版)一九九七−

    六)

    は︑﹃東觀漢記﹄の記載を理由に�永�元年にも白虎觀

    で五經の同衣が議論され︑その折に﹃白虎�義﹄がn纂さ

    れ︑円初四年の會議の際に﹃白虎議奏﹄がn纂されたと営

    べるが︑﹃東觀漢記﹄�紀の記営は�らかに&料の混亂

    である︒

    (7)

    代表�な論者としては︑渡邉義浩﹃後漢における﹁儒敎

    國家﹂の成立﹄(Í古書院︑二〇〇九)︒﹁儒敎國敎�﹂問

    題の硏究&整理は︑福井重﹃漢代儒敎の&�硏究﹄(Í

    古書院︑二〇〇五)︑拙稿﹁年の漢代﹁儒敎の國敎�﹂

    論爭について﹂(﹃歷&N論﹄六九九︑二〇〇八)を參照︒

    (8)

    白虎觀�論に關しては︑日原利國﹃漢代思想の硏究﹄

    (硏�出版︑一九八六)﹁四

    白虎觀論議の思想&�位置づ

    ― 25 ―

    671

  • け﹂︑渡邉義浩氏%揭書﹁第二違

    『白虎�﹄に現れた後漢

    儒敎の固^性﹂など︒井之口哲也氏は︑石渠閣と白虎觀兩

    會議の共�點を︑①皇の詔によって儒者が﹁五經同衣﹂

    につき議論していること︑②議論の內容を皇に奏上す

    る者がいること︑③皇がみずから﹁稱制臨決﹂してい

    ること︑④會議での議論の記錄がつくられていること︑の

    四點に集Èし

    (一一六−

    一一七頁)︑白虎觀會議をもって

    ﹁それ獨自の特|に乏しい會議﹂と営べる

    (一二〇頁)︒井

    之口哲也﹃後漢經學硏究序說﹄(勉Î出版︑二〇一五)﹁第

    三違第一�

    石渠閣會議と白虎觀會議﹂︒

    (9)

    石渠閣�論については︑邊土名�邦﹁石渠閣論議の思想

    &�位置づけ

    ︱︱穀梁學および禮議奏殘片を�じて

    ︱︱﹂(九州大學�學部﹃哲學年報﹄第三六輯︑一九七七)︑

    福井重﹁石渠閣論議考﹂(﹃牧尾良海4士喜壽記念

    儒・

    佛・C三敎思想論攷﹄山喜Ï佛書林︑一九九一)︑拙稿

    ﹁%漢後º�における儒家禮制のZ容

    ︱︱漢�傳瓜との

    對立と皇觀の變貌︱︱﹂(﹃歷&と方法3

    方法として

    の丸山眞男﹄靑木書店︑一九九八)︑林Ñ屛﹃從古典到正

    典:中國古代儒學+識�形成﹄(臺大出版中心︑二〇〇七)

    ﹁第十違

    正典�確立:學 與政治之閒�﹁石渠議奏﹂﹂︒

    (10)

    石渠閣が禁中に含まれることについては︑靑木俊介﹁漢

    長安未央宮の禁中

    ︱︱その領域�考察︱︱﹂(﹃學院&

    學﹄四五︑二〇〇七)︒

    (11)

    『漢書﹄張敞傳によれば︑張敞はもともと蕭3之︑于定

    國と親しかった︒京兆尹であった時︑楊惲が失脚︑後に�

    斬となり︑楊惲と親しい者は皆な免官とされた︒しかし︑

    ﹁公卿奏惲黨友︑不宜處位︑等比皆免︑而敞奏獨寢不下︒﹂

    (﹃漢書﹄張敞傳)と︑宣は張敞の免官を求める上奏のみ

    握りつぶした︒その後︑張敞が立春閒際に死𠛬を行ったこ

    とで︑不辜をÒ殺したと彈云された時︑宣は張敞を輕罪

    で處理するために︑以%の楊惲に連座する上奏を持ち出し

    て免じて庶人とした︒

    (12)

    『漢書﹄Ó`・嚴I年傳によれば︑

    是時張敞爲京兆尹︑素與I年善︒⁝⁝(中略)⁝⁝時黃

    霸在潁川以寬恕爲治︑郡中亦�︑婁蒙豐年︑鳳皇下︑

    上賢焉︑下詔稱揚其行︑加金R之賞︒I年素輕霸爲人︑

    �比郡爲守︑襃賞反在己%︑心內不

    ︒河南界中印^

    蝗蟲︑府丞義出行蝗︑Å見I年︑I年曰︑﹁此蝗豈鳳

    皇食E?﹂義印C司農中丞耿壽昌爲常�倉︑利百姓︑

    I年曰︑﹁丞相御&不知爲也︑當Ô位去︒壽昌安得權

    此?﹂後左馮翊缺︑上欲徵I年︑符已發︑爲其名Ó復

    止︒I年疑少府梁丘賀衛之︑心恨︒

    とあり︑嚴I年が張敞と親しかったこと︑穎川太守であっ

    た黃霸を輕んじていたこと︑左馮翊への昇oが沙汰やみに

    なったのは梁丘賀の橫槍が入ったためと疑っていたこと︑

    などが讀み取れる︒はっきりとは書かれていないが︑張

    敞・楊惲・韋玄成・蕭3之らはゆるやかなグループを形成

    して丙吉・黃霸らと對立していたと見られ︑嚴I年は張敞

    側のグループに與していたのであろう︒楊惲事件に際し︑

    ﹁黨友﹂として韋玄成・張敞らが免官となったのも︑こう

    ― 26 ―

    672

  • したグループ抗爭が背景に存在したと考えられる︒

    ちなみに︑嚴I年は法家官僚・Ó`として名高いが︑公

    羊家の4士として石渠閣�論にも參加した嚴彭祖の實兄で

    あり︑むしろ儒生側とい關係にあっても不思議ではない︒

    (13)

    『石渠禮論﹄は馬國]﹃玉函山Ï輯佚書﹄が輯めるが︑

    ここでは﹃�典﹄に據った︒

    (14)

    『�典﹄の標點本

    (中華書局︑一九八八)では﹁梁丘臨

    奏︒經曰︑p射合樂︑大射不︑何也︒﹂と讀むが︑﹃經﹄(

    =

    漢代では禮經は﹃儀禮﹄を指す)には﹁曰﹂以下の�言

    が見えないこと︑後に営べるよう︑經學の�義の際には都

    �が關聯する經�を讀み上げてから發問する形式になって

    いたこと︑後世の經學�論には﹁執經﹂﹁奉經﹂などと呼

    ばれる經�を讀み上げる役割の者がいたことから︑このよ

    うに讀んだ︒

    (15)

    『大s開元禮﹄卷五三﹁皇太子釋奠於孔宣父﹂︒

    (16)

    古氏%揭書一一〇頁︒

    (17)

    公羊と穀梁の衣同に關する議論について︑儒林傳は﹁甘

    露元年﹂と営べ︑甘露三年の石渠閣�論とは別の�論であ

    るとする說がある︒劉汝霖﹃漢晉學 n年﹄(中華書局︑

    一九八七)は︑﹁蓋宣因�公穀之衣同︑始引�諸經衣

    同之興趣︑^石渠大會之招集︑雖^因果之關係︑實非一

    時之時ママ︒﹂(漢宣甘露三年條)と営べる︒しかし︑﹃漢書﹄

    藝�志も﹃春秋﹄の項目に﹁石渠論﹂として﹃議奏三十九

    f﹄を著錄するので︑公羊・穀梁の衣同が石渠閣�論でも

    議論されたのは閒wいなく︑さらに儒林傳の公羊・穀梁の

    衣同でも蕭3之が招集されているから︑﹃春秋﹄に關して

    のみ同樣の議論が二度も擧行されたと考えるよりは︑單純

    に年代の×りと捉えるほうが自然ではなかろうか︒

    (18)

    黃頴永﹃經今古�學問題怨論﹄(中央硏究院歷&語言硏

    究7專刊之七十九︑一九八二)﹁第八違

    白虎�與古�經

    學﹂︑および金春峰﹃漢代思想&﹄(修訂增補版︑中國社會

    科學出版社︑一九九七)の﹁︽白虎�︾與兩漢神學經學�

    思想方式﹂(四八七頁)は︑いずれも白虎觀�論の參加者

    に張酺を擧げているが︑張酺は違卽位後に侍中︑虎賁中

    郞將に拔iされたものの︑數か�後に東郡大守に轉出し︑

    和初に魏郡太守に�り︑永元五年に太僕になるまで中央

    に歸っておらず︑円初四年時には中央にいないので︑白虎

    觀�論には參加していないと思われる︒

    (19)

    狩野直喜﹃兩漢學 考﹄(筑Ø書Ï︑一九六四)︑﹁五

    白虎�義﹂︒

    (20)

    池田秀三﹁﹃白虎�義﹄と後漢の學 ﹂(﹃中國古代禮制

    硏究﹄京都大學人�科學硏究7︑一九九五)は︑應劭﹃風

    俗�義﹄や許愼﹃五經衣義﹄が﹃白虎�﹄を無視︑もしく

    は公然と反論しており︑﹁白虎觀會議が何ら學界に規範�

    拘束力を�ぼし得なかった﹂(二八七頁)と営べる︒一方︑

    渡邉義浩氏%揭書は︑﹃白虎�﹄と後漢の國制の緊密性を

    强する

    (第二違)が︑確かに後漢の制度で﹃白虎�﹄と

    一致するものもあるが︑一致しないものもある︒たとえば

    ﹃白虎�﹄では︑﹁大學者︑辟雍p射之宮︒﹂(辟雍f)と太

    學=

    辟雍とするが︑後に詳営するように後漢の太學と辟雍

    ― 27 ―

    673

  • はそれぞれ別に円設されていた︒﹃白虎�﹄の制度が後漢

    國制k般を規定するかのような議論は︑やや�大N價であ

    ると思う︒

    (21)

    都�については︑古氏%揭書﹁第四違

    都�の再檢

    討﹂︒余嘉錫﹁晉辟雍碑考證﹂(﹃余嘉錫�&論集﹄嶽麓書

    社︑一九九七︒原載﹃余嘉錫論學雜著﹄中華書局︑一九六

    三)︒

    (22)

    皇祭祀制度の確立については︑金子修一﹃中國古代皇

    祭祀の硏究﹄(岩波書店︑二〇〇六)︒%漢末の禮制改革

    については︑拙稿﹁%漢後º�における儒家禮制のZ容﹂︒

    (23)

    渡邊信一郞﹃中國古代の王權と天下秩序︱︱日中比�

    &の視點から﹄(校倉書Ï︑二〇〇三)︒

    (24)

    �堂・辟雍については︑金子修一﹃古代中國と皇祭

    祀﹄(Í古書院︑二〇〇一)︒

    (25)

    『漢書﹄郊祀志に︑﹁趙綰・王臧等以�學爲公卿︑欲議古

    立�堂城南︑以�諸侯︑草#狩封禪改曆

    色事︑未就︒﹂

    とある︒ただし︑武は元封二年に�堂を泰山の汶上に円

    設した︒長安にも王厭以%に�堂は円設されていたとする

    說もあるが︑その元になった﹃三輔黃圖﹄が引く﹃漢書﹄

    應劭6は現行﹃漢書﹄には見えない︒張一兵﹃�堂制度源

    液考﹄一○四~一○六頁︒

    (26)

    曲臺が宮中に屬すことについては︑靑木氏%揭論�參照︒

    (27)

    %漢の太學について︑高�士氏は︑武が4士弟子員を

    設置した時も︑敎育の場7を特別に円設することはなかっ

    た︑とする

    (高氏%揭書一四~一五頁)︒しかし︑厲鶚

    ﹁漢西京無太學辨﹂(﹃樊榭山Ï集﹄卷七︑上海古籍出版社︑

    二○一二)は︑﹃漢書﹄王襃傳と鮑宣傳に﹁太學下﹂とあ

    ることを理由に︑王厭以%よりすでに太學の校舍はあった

    とする︒

    (28)

    『漢書﹄成紀・鴻嘉二年條では飮酒禮とされるが︑後

    に営べるよう︑﹁�射﹂と稱されるよう射禮と飮酒禮は

    セットになっている︒

    (29)

    『漢書﹄循`・黃霸傳に︑﹁會宣卽位︑在民閒時知百姓

    苦`Ý也︑聞霸持法�︑召以爲廷尉正︑數決疑獄︑庭中稱

    �︒(師古曰︑﹁此廷中謂廷尉之中︒﹂)守丞相長&︑坐公卿

    大議廷中

    (師古曰︑﹁大議︑總會議也︒此廷中謂�廷之

    中︒﹂)知長信少府夏侯非議詔書大不敬︑霸阿從不舉云︑

    皆下廷尉︑繫獄當死︒﹂とある︒

    (30)

    射禮については︑伊Þ淸司﹁中國古代の射禮﹂(﹃民族學

    硏究﹄二三−

    三︑一九五九)︑小南一郞﹁射の儀禮�をめ

    ぐって︱︱その二つの段階﹂(﹃中國古代禮制硏究﹄京都

    大學人�科學硏究7︑一九九五)︑丸橋閏拓﹁中國射禮の

    形成�2

    ︱︱『儀禮﹄p射・大射と﹃大s開元禮﹄のあ

    いだ︱︱﹂(﹃島根大學法�學部紀�﹄社會��學科n

    社會��論叢

    第十號︑二〇一四)︒高�士氏%揭書は

    ﹃太�御覽﹄卷五三四﹁學校﹂條引﹃三輔黃圖﹄より︑長

    安太學中に射宮があったことを圖解する

    (一七頁)︒

    (31)

    �堂に關する硏究は︑張一兵﹃�堂制度硏究﹄(中華書

    局︑二〇〇五)︑張一兵﹃�堂制度源液考﹄(人民出版社︑

    二〇〇七)︒

    ― 28 ―

    674

  • (32)

    『續漢書﹄祭祀志中・劉昭6補7引﹁蔡邕�堂論曰︑﹃�

    堂者︑天子太+︑7以崇禮其祖︑以�上者也︒⁝⁝

    (中

    略)⁝⁝故爲大敎之宮︑而四學具焉︑官司備焉︒譬如北辰︑

    居其7而衆星拱之︑萬象ß之︒政敎之7由生︑變�之7由

    來︑�一瓜也︒故言�堂︑事之大︑義之深也︒取其宗祀之

    淸貌︑則曰淸+︒取其正室之貌︑則曰太+︒取其>崇︑則

    曰太室︒取其向�︑則曰�堂︒取其四門之學︑則曰太學︒

    取其四面周水圓如璧︑則曰辟雍︒衣名而同事︑其實一

    也︒﹄﹂

    (33)

    劉瑞﹃漢長安城��向︑軸線與南郊禮制円築﹄(中國社

    會科學出版社︑二〇一一)は︑大土門L址の性質に關する

    諸說を︑①�堂說⁝許C齡他︑②辟雍說⁝劉致�︑黃展

    嶽他︑發掘報吿書もこの說を取る︒③�堂辟雍一體說⁝

    王世仁︑楊鴻勛他︑④太學說⁝張一兵の四說に分類する︒

    (34)

    中國社會科學院考古硏究7n著﹃西漢禮制円築L址﹄

    (�物出版社︑二〇〇三)︒

    (35)

    %揭﹃西漢禮制円築L址﹄二三一~二三二頁︒黃展嶽

    ﹁關于西安大土門L址�定名問題﹂(﹃先秦兩漢考古論叢﹄

    科學出版社︑二〇〇八)一五一頁︒

    (36)

    張一兵%揭﹃�堂制度源液考﹄一二二頁︒

    (37)

    王世仁氏は︑﹁�堂と辟雍は漢代においては事實上すで

    に一つの円築の�稱であったと考えてよい﹂と営べる︒

    ﹁漢長安城南郊禮制円築

    (大土門村L址)原狀�推測﹂(中

    國社會科學院考古硏究7漢長安城工作á︑西安市漢長安城

    L址保管7n﹃漢長安城L址硏究﹄︑科學出版社︑二〇〇

    六︒原載﹃考古﹄一九六三年九�︒)

    (38)

    劉瑞氏%揭書一一一頁︒

    (39)

    王永�﹃奉天承²

    ︱︱古代中國�﹁國家﹂槪念�其正

    當性基礎﹄(東大圖書公司︑一九九五)は︑中心円築が�

    堂で周圍の水Qを辟雍とする楊鴻勛﹁從L址看西漢長安�

    (辟雍)形制﹂(楊氏﹃円築考古學論�集﹄�物出版社︑

    一九八七)の說を基に︑長安南郊の�堂と辟雍は一體の円

    築であり︑﹁對上則爲Z天�命︑對下則爲布政敎�﹂を象

    |する︑とする

    (一六一頁)︒

    (40)

    甘懷眞﹃皇權・禮儀與經典釋︱︱中國古代政治&硏

    究﹄(喜瑪拉硏究發展基金會︑二〇〇三)は︑%漢後º

    �の﹁改禮改革﹂は︑王厭が�堂・辟雍の禮を創始したこ

    とによって完成するとし︑考古�料より王厭の円設した�

    堂・辟雍は合わせて一體であったと推論し︑この一體�し

    た�堂・辟雍がちょうど儒敎の二つの側面である︑①天

    子が天命を承ける

    (�堂)︑②天子が敎�を實行する

    (辟

    雍)︑を反映しているとする︒そして王厭�の�堂の成立

    は︑儒敎天子の役割の制度�であり︑天子體制の確立であ

    る︑と営べる

    (八五頁)︒

    (41)

    高�士氏%揭書十五~二十一頁︒

    (42)

    %揭﹃西漢禮制円築L址﹄は︑王厭九+は第一號~第十

    二號L址︑社稷は第十三號L址

    (漢社稷)�び第十四號L

    (怨社稷)︑圓丘

    (郊祀壇)は大土門L址の南︑今の西

    安舊城西郊周家圍墻村附と推測する︒姜波﹃漢s都城禮

    制円築L址﹄(�物出版社︑二〇〇三)は︑王厭九+とさ

    ― 29 ―

    675

  • れるL跡の第十二號L址を�堂と推測する

    (六七頁)︒

    (43)

    光武円武五年︑安I光三年︑靈光和五年︒

    (44)

    『後漢書﹄張純傳﹁(張)純以�王之円辟雍︑7以崇>禮

    義︑旣富而敎者也︒乃案七經讖・�堂圖・河閒古辟雍記・

    孝武太山�堂制度︑��時議︑欲具奏之︒未�上︑會4

    士桓榮上言宜立辟雍・�堂︑違下三公・太常︑而純議同榮︑

    乃許之︒﹂

    (45)

    『後漢書﹄翟酺傳﹁�時辟雍始成︑欲衛太學︑太尉趙

    熹以爲太學・辟雍皆宜存︑故竝傳至今︒﹂

    (46)

    『漢魏洛陽故城南郊禮制円築L址

    一九六二~一九九二

    年考古發掘報吿﹄(中國社會科學院︑二〇一〇)︒

    (47)

    晉辟雍碑に關しては︑余嘉錫﹁晉辟雍碑考證﹂︑福原Ñ

    郞﹃魏晉政治社會&硏究﹄京都大學學 出版會︑二〇一二︑

    ﹁第四違

    晉辟雍碑に關する考察﹂︒

    (48)

    %揭﹃漢魏洛陽故城南郊禮制円築L址﹄︒なお︑發掘

    査より�らかになった後漢の辟雍の形態は︑%漢長安の辟

    雍とされる大土門L址とは大きく衣なり︑L跡の中心から

    やや北側に寄ったところに長方形の基壇があり︑四面にそ

    れぞれ雙闕と門塀の跡が確«される︒またL跡の周圍を取

    り圍む�水QL跡は圓形ではなく方形で︑﹁水圓如璧﹂と

    される傳瓜觀念上の辟雍のFと合致していない︒�堂L跡

    は直徑六二メートルの圓形の盛り土の基壇が發見されてい

    るが︑現在殘存する基壇はrに北魏時代のもので︑後漢時

    代の狀況を�らかにするのは困難である︒

    (49)

    張一兵%揭﹃�堂制度源液考察﹄一三一頁︒

    (50)

    �による�堂・辟雍儀禮については︑Þ田忠﹁�の

    禮制改革について

    ︱︱“三�の禮”の成立�2

    ︱︱﹂

    (﹃國士舘大學�學部人�學會紀�﹄二六︑一九九三)︑張

    鶴泉﹁東漢�堂祭祀考略﹂(﹃咸陽師範學院學報﹄第二六卷︑

    二〇一一−

    一)︒

    (51)

    �永�二年の冕

    制度の改革については︑閻步克﹃

    周之冕:︽周禮︾六冕禮制�興衰變衣﹄(中華書局︑二〇〇

    九)︒

    (52)

    『後漢書﹄樊鯈傳

    永�元年︑拜長水校尉︑與公卿雜定郊祠禮儀︑以讖記

    正五經衣說︒

    『續漢書﹄輿

    志6引﹃東觀漢記﹄

    永�二年正�︑公卿議春南北郊︑東�王蒼議曰︑﹁孔

    子曰︑﹃行夏之時︑乘殷之路︑

    周之冕︒﹄爲漢制法︒

    高皇始Z命創業︑制長冠以入宗+︒光武Z命中興︑

    円�堂︑立辟雍︒陛下以��奉æ︑以禮

    龍袞︑祭五

    ︒禮缺樂K︑久無祭天地冕

    之制︒按>事神¬︑絜

    齋盛

    ︑敬之至也︒日�星辰︑山龍華藻︑天王袞冕十

    ^二旒︑以則天數︒旂^龍違日�︑以備其�︒今祭�

    堂宗+︑圓以法天︑方以則地︑

    以華�︑象其物宜︑

    以影神�︑肅雍備思︑4其類也︒天地之禮︑冕冠裳衣︑

    宜如�堂之制︒﹂

    (53)

    養老禮に關しては︑吳麗娛﹁論中古養老禮儀式�繼承與

    興衰︱︱析上古賓禮之L存廢棄與皇�禮儀地位﹂

    (﹃�&﹄二〇一三−

    四︑總第一〇五輯)︒

    ― 30 ―

    676

  • (54)

    『儀禮﹄p飮酒禮の°玄6に︑﹁今郡國十�行此飮酒禮︑

    以黨正每歲﹃邦索鬼神而祭祀︑則以禮屬民而飮酒于序︑以

    正齒位﹄之說︑然此f無正齒位之事焉︒凡p黨飮酒必於民

    聚之時︑欲見其�︑知尙賢>長也︒﹂とあり︑後漢時代︑

    十�に地方でp飮酒禮を行っていたことがわかる︒

    (55)

    『後漢書﹄王閏傳6引く袁山松﹃後漢書﹄に﹁閏幼聰é︒

    詣太學︑觀天子臨辟雍︑作六儒論︒﹂とある︒黃暉﹃論衡

    校釋﹄(中華書局︑一九九○)に收錄される﹁王閏年�﹂

    ではこれを永�二年に繫年し︑%揭﹃漢晉學 n年﹄では︑

    円武二十年とする︒

    (56)

    『後漢書﹄桓郁傳67引﹃東觀漢記﹄に︑﹁其冬︑上親於

    辟雍︑自�7制五行違句已︑復令郁說一f︒﹂とあり︑同

    じ6に引く﹃華嶠後漢書﹄にも﹁自制五行違句﹂とある

    が︑桓郁傳の本�では﹁自制五家�說違句﹂とある︒

    (57)

    辟雍碑の釋讀は京都大學人�科學硏究7三國時代の出土

    �字�料班著﹃魏晉石刻&料G6﹄(京都大學人�科學硏

    究7︑二〇〇五)に據る︒

    (58)

    余嘉錫氏%揭論�︑福原氏%揭書︒

    ― 31 ―

    677

  • THE DEBATES ON THE CLASSICS AND IMPERIAL CEREMONIES

    IN THE HAN ERA : TOWARDS THE ESTABLISHMENT OF

    THE FESTIVAL IN HONOR OF CONFUCIUS

    HOSHINA Sueko

    This paper investigates the debates on the classics that were held at the court

    in the presence of emperor during the Han era and makes clear that these debates

    had the character of ritual rather than of a purely academic discussion. I also

    examine the process by which the debates were incorporated into the system of

    imperial ceremonies.

    In the Han era, the debates on the Confucian classics were sometimes held at

    the court in the presence of the emperor ; preeminent examples of which are the

    debate held at the Stone Culvert Pavilion (Shiquge 石渠閣) during the Former Han

    era and that at the White Tiger Pavilion (Baihuguan 白虎觀) in the Later Han era.

    These debates had the character of a ritual, and were also a sort of amusement.

    After the Bright Hall (Mingtang �堂), the Royal House of Music (Biyong 辟雍), the

    Spiritual Terrace (Lingtai 靈臺) and the Imperial Academy (Taixue 太學) were

    established in the southern outskirts of Luoyang, debates on the classics were also

    held when the emperor visited the Royal House of Music or the Imperial Academy.

    Emperor Ming, the second emperor of the Later Han, performed the Grand

    Shooting Ceremony (dasheli 大射禮) for the first time at the Royal House of Music,

    and participated in the debates on classics himself. This behavior fulfilled the Royal

    House of Musicʼs function of spreading the virtue of the Son of Heaven throughout

    the empire, and embodied the apotheosis of the Confucian Son of Heaven.

    The debates on the classics performed by emperors themselves on the occasion

    of imperial ceremonies were the precedent for the debates held by young emperors

    or crown princes on the occasion of the festival in honor of Confucius (shidianli 釋奠

    禮), which was established in the Six Dynasties era, and demonstrated the ideal of

    Confucian rule in which the Confucian Son of Heaven edifies the empire.

    ― 36 ―