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Title 初期明王朝の通貨政策 Author(s) 檀上, 寛 Citation 東洋史研究 (1980), 39(3): 527-556 Issue Date 1980-12-31 URL https://doi.org/10.14989/153797 Right Type Journal Article Textversion publisher Kyoto University

Title 初期明王朝の通貨政策 東洋史研究 (1980), 39(3): 527-556 …repository.kulib.kyoto-u.ac.jp/.../153797/1/jor039_3_527.pdf · 2019. 3. 29. · 初期明王朝の通貨政策

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  • Title 初期明王朝の通貨政策

    Author(s) 檀上, 寛

    Citation 東洋史研究 (1980), 39(3): 527-556

    Issue Date 1980-12-31

    URL https://doi.org/10.14989/153797

    Right

    Type Journal Article

    Textversion publisher

    Kyoto University

  • 初期明王朝の通貨政策

    4亘

    はじめに

    一元末・明初の遁貨吠況

    1

    元朝の通貨制度概略

    2

    明初の遁貨欣況

    二明王朝の性格と遁貨問題

    -不換紙幣としての大明賛軌跡

    2

    紗と銀との関係

    3

    明朝の逼貨政策

    三妙流通政策の破綻主銀

    おわりに

    - 65ー

    』ま

    明王朝の法定貨幣が、銅銭を除いては大明費紗という紙幣であったことはよく知られている。特に明初には、低額の銅

    銭は別として、紗の積極的な流通が園られた。嘗時盛んになりつつあ

    った銀の使用を禁止し、一方的に強擢を震動して紗

    の流通を促したのである。

    しかしながら、そうした園家の意志に反して民間では銀使用がやまず、十五世紀も初頭を、過ぎると、中園は急激な勢い

    527

  • 528

    で銀経済の中にまき込まれていく。首然のように紗の債値は下落し、

    流通界から姿を消して行った。紗の寅質的に流通し

    た時期が蝕りにも短期間であったため、ともすればその重要性が見落とされがちである。だが明朝の性格と明初の社禽を

    知る上で、

    紗を無視することはできない。

    本稿で扱う明初の通貨問題については、すでにかなりの研究がなされている。

    め、その研究は静態的な憾を否めず、また多くは制度的側面に紋逃が費されているようである。本稿では制度面の説明は

    努めて避け、主に明王朝の政策的な立場から、この時期の通貨政策U

    紗流通政策がどのような意味を持ってレたのか、

    -}ご』、

    チJ

    ナf

    史料的に乏しい時期でもあるた

    らかにしたい。

    元末・明初の通貨朕況

    1

    元朝の通貨制度概略

    - 66-

    元朝最後の皇帝順帝安懐帖木見の時代は、元朝の崩壊が加速度的に進行した時代であった。特に彼の治世の後半である

    至正年間(一一一一四一

    l六七)には、連年の機鐘と相侯って、国家財政の膨張、それに伴う紙幣の濫設、行きつくところはイ

    ンフレーションの棋大で、民衆生活に多大の匪迫が加えられていた。

    河南省頴州で勃渡した劉一幅通らの反飽を契機に数多の反刷慨を起こし、

    いわゆる元末の反凱と呼ばれる大動飢期に突入する。これら反凱軍の

    一武将にすぎなか

    った朱元障がやがて撞頭し、明王

    朝を創設するわけだが、彼が動凱期を鎮定して圏内統一に成功し得た理由として、自身の能力とともに、民衆の心がすで

    苦しみにあえぐ民衆は、至正十一年三三五一

    )、

    に元朝から大きく抗離していた事質も見逃せない。民衆をそこまで奔らせたのは、明らかに元朝の統治能力の失墜であっ

    た。中でも民衆生活に悪影響を及ぼしたのは、年とともに下落していく貨幣債値、

    つまりインフレーションであった。紙

  • 倣m濫震という王朝エゴのあおりを食った民衆が、反乱に立ち上がったのも嘗然だったろう。

    史上名高い元末のインフレーションは、交妙〈紙幣〉専用制度という元朝濁特の通貨制度に

    起因するところが大きい。

    周知のように、中園の紙幣は宋代の交子に始まり、その後南宋代の曾子、金の交紗と績いて元に至っ

    て、初めて紙幣

    一本

    立ての幣制が採用された。と同時に銅鎮の使用は禁止され、その後一時期の解禁はあったものの、元朝を通じて概ね禁令

    が種績された。紙幣の流通を促進するためである。

    すでに太宗の頃から紙幣は使用されていたようだが、詳細はわからない。制度的に明らかになるのは、世粗忽必烈の代

    になってからである。元朝成立の年つまり世組の中統元年(一一一六O〉、七月の遁行交紗の製造に績いて、十月に新たに護

    行されたのが有名な中統元賓交紗である。中統紗と略稿されるこの紙幣の護行によって通行交紗は委を消し、以後元

    一代

    を逼じて中統紗が主要遁貨となる。

    通行交紗が紙を紗本(免換準備金〉としたのに封し、

    流通していたことはすでに指摘されている州、こうした銀を園庫に貯蔵した上で、準備銀に見合うだけの額が瑳行された

    中統紗は銀を紗本として瑳行された。嘗時、

    相嘗量の銀が民間で

    - 67-

    のである。またその流通をスムーズにするために、絶えず回牧が園られた。回牧に利用されたのは、元朝の税牧の中でも

    大きな比重を占める課利(商税、関課、茶課等)で、それらを紙幣で徴牧することによって民間での流通量を調節したので

    ある。元朝の初年には、妙法の運営面で、紙幣護行額に見合う銀の準備、護行額の制限、徴税による流通紙幣の回牧とい

    った措置がとられたため、十数年聞は健全な獄態であったらしい。

    やがて、元朝特有のモンゴル諸王に劃する賜興、

    ラマ数の併事供養とい

    った出費が増大し、

    園家財政自睦が年々膨張し

    たため、従来の瑳行制限額を守れなくなってきた。いきおい貨幣債値は下落し、民衆生活に多大の影響を及ぼすようにな

    529

    中統紗の他に新たに至元通行賓紗を護行し、中統紗五貫H

    至元紗一貫と規定

    じ、中統紗の卒債切り下げによって局面を打開しようと園ったのである。すでにこの時には、

    嘗初の免換制は停止し、不

    る。そこで元朝は至元二十四年(一

    二八七)、

  • 530

    換紙幣化していたものの、

    一一一一O七〉から下落し始めた至元紗は、やがて至大二年

    (二ニO九)に再度の卒慣切り下げを将来した。

    のは至大銀紗と呼ばれるもので、

    至大紗

    一に射して至元紗五、中統紗二十五というふうに、至元紗の五分の

    一の切り下げ

    雨者はその後並用され、

    しばらくは小康朕態を保つことになる。

    しかし大徳年間

    二九七|

    この時護行された

    が貫施された。

    ただこの至大紗は、

    わずか一年ほどで褒行が停止され、

    その後は再び中統紗と至元紗との

    二本立てに艮

    る。ところが紗法の建て直しがなされたわけではなく、

    むしろ急速なインフレlションを禰漫させて元末に至るのであ

    るた。元朝の屋葦骨自践が傾きつつある時期に、

    元も終わりの至正年聞に、再々度紗法の改革が園られたが、すでに焼石に水で、却って民聞に混乱を招いただけであっ

    正常な遁貨制度など望むべくもなかった。加えて、至正十一年以来の反凱

    それに伴う財政の膨張、酷裂につぐ濫設で一時的な糊塗策しか念頭にない元朝は、紙幣を完全に無償

    値なものにしてしまった。嘗時の民衆は、紙幣を紙屑同様にみなして使用しなかったという。

    による圏内の混観、

    - 68ー

    これに代わって、専ら利用されたのが銅銭であった。だが、至正十年に銅銭使用の解禁がなされ、新たに鋳造が開始さ

    れたものの、それ以前の使用禁止策のために数量は減少していた。前代の銅銭は鋪錯して銅総とされたり、民間に退諒さ

    れたり、あるいは大量に海外に流出したため、元末にはむしろ紙乏を告げてい出。利用されたとしても絶封量が決定的に

    不足していたため、従来の紙幣の完全な代用物とはなることができなか

    った。

    従って、

    商業などの大手の取り引きには銀

    が利用されたと思われるが(後述)、その一方で一般の民衆の聞では物々交換が普通になって

    いたらしは紙幣の債値暴落

    と元末の反蹴による圏内の混凱は、民衆生活を貨幣経済から自然経済へと

    一時的に後退させていたのである。

    2

    明初の通貨朕況

    至正十六年(二二五六〉、臆天府ハ後の南京〉に根援地を定めた朱元建は、以後着々と勢力を抜大していくが、

    五年後の至

  • 正二十一年に、通貨面での最初の政策を打ち出した。この年、南京に賓源局という役所を置くと、新たに「大中通賓」と

    いう銅銭を護行する。それまで朱元環の領域内では、歴代王朝の奮銭が使用されていたが、絶劉量の不足とそれに基づく

    物債の不安定性のために、早急に銅鎮の鋳造を必要としたのである。

    至正二十四年には新たに領域に入った江西行省に

    も、貨泉局(後に費泉局と改稽〉という機闘を設町その地でも大中遁賓を鋳造して歴代の奮銭とともに併用させている。

    嘗時の鋳銭総額がどれくらいあったかは、ほとんどわかっていない。わずかな史料から類推して、それがさほど多くな

    Aリ

    い量であることだけは間違いなかろ引σ

    王朝成立以前の戦凱期に正常な鋳銭がなされるわけもない。南京での鋳造開始

    、UHU,

    も、一つには他の群雄に倣い、銅銭鋳造で王朝樹立の意志表明をしたものとも解される。もちろん、基本的には民衆生活

    における銅銭不足の解消を目的としていたであろうが、前者の意聞も見逃すことはできない。まずは政権の瞳裁を繕い、

    民間の需要にも慮えるために護行されたのが、大中逼賓鎮であった。

    洪武元年(一三六八〉正月、正式に明王朝が成立すると、同三月に改めて銭法が制定され、「洪武逼賓」の鋳造が開始さ

    44,

    、qJマ

    れた。これは小銭(一文銭〉から嘗十銭(十文銭)までの大小五等の銭式があ川(嘗二以上の大銭は洪武四年に慶以、従来の

    銅銭とともに併用されることになった。洪武元年には約八千九百高文が鋳造され、その後八年までは毎年大瞳二億文前後

    、AW,

    hHV

    が鋳造されたようである。王朝成立以前の鋳造額に比べると格段の差があっ

    たが、

    A司uマ

    んHい

    (一緒H

    一OOO文〉であったというから、

    - 69ー

    北宋時代には年額がほぼ百寓網前後

    到底それには及ぶべくもなく

    需要を満たす量ではなかった。事質、

    洪武通費

    は民聞の需要に追いっかなかったようで、却下されはしたものの、純度を落として護行額の増加を園ろうという意見すら

    A回,

    'nu、

    官僚の中から出されている。

    その原因として、何よりも銅銭の材料である銅

    の不足を翠げねばならない。もともと銅の産出の少ない中園ではあったが、宋代の盛んな鋒遣によっ

    てさらに絶劃量が減

    このように、明初では元末以来の銅銭不足を引き繕いでいたわけだが、

    531

    少した。加えて鋳造された銅銭も多量に海外に流出したので、それを補うために鋳造が繰り返され、北宋の盛時も過ぎ南

  • 532

    品川,

    宋の頃には産出額も激減していた。

    従って

    宋から元を経て明初の頃にもなると、

    銅不足はかなり深刻だったに違いな

    ぃ。新王朝の誕生とともに銅銭の需要は年々増加していたが、間に合うだけの産出がなか

    ったのである。いきおい民聞に

    銅の援出を求め、銅器を毅して官に納めさせたりしたが、これは民聞に多大の負措をかけることになる。また、

    銅銭の不

    A

    司,nu、

    足から民聞では、純度の悪い私鏡銅銭さえ出回ったりした。

    さらに重要なことは、激動期を過ぎ圏内の秩序が回復されてくると、商工業が以前の活況を呈してきたことである。元

    末の混凱による阻害要因もなくなり、商人の自由な活動が復活するに従い、嘗然のことながら取り引き額も高まる。とこ

    A司dv

    ろが、銅銭は運搬に極めて不便である。軽量で債値の高い通貨にこしたことはなゆ

    つまり、銅銭を使用することの

    マイ

    ナス面が顕著になると同時に、これに代わる新たな通貨の必要性が痛感されだしたのである。

    ここに明王朝は、洪武七年(一三七四)に賓紗提奉司という機闘を設置し、翌八年から大明賓紗という紙幣を設行する

    ことになる。同時に南京の賀源局での銅銭鋳造をやめ、翌九年には各行省の賓泉局での鋳造も停止された。ただしこの措

    置は、銅銭使用を禁止するものではなく、いわば銅銭鋳造の負捲軽減を意園したものであろう。

    大明賀紗の製造が開始されると、翌九年には「倒紗法」が制定された。

    とを交換するという首時の用語で、各地に行用庫が建てられ、

    - 70-

    倒紗というのは、

    そこで昏紗と新紗の倒換(交換〉

    が行われた。

    古くなった紗(昏紗)と新紗

    また昏妙一

    貫(一

    OOO文〉を倒換するごとに、

    工墨費(手数料〉として三十文徴牧するとも決められた。

    倒妙法の制定によって、紗

    法の運営面での充貨が圃られたといえる。

    話は前後するが

    この大明賀紗は一百文から五百文までの五等と一

    (一OOO文)の計六等の種類があった。

    最低額

    が一

    OO文であるから、

    それ以下は銅峨を使用せよということである。因みに嘗時の紗・銭・銀・米の比債は、紗

    一貫H

    銅銭

    一OOO文H

    一雨H

    米一石であり、ここでの銀債格の明示が注目される。というのは、このとき同時に金銀による

    交易が禁止され、民聞に劃して金銀を妙に交換させ、金銀の圏庫田牧を圃るような措置がとられているからである。こうし

  • た施策は、嘗然のことながら紗の流通を促すためのものであるが、裏返せば金銀〈特に銀)が民間で、遁貨としで使用され

    ていたことを示すものに他ならない。だからこそ、紗設行の時黙で金銀の使用がまず巌禁されたのである。

    しかしながら、銅不足による銅鎮の鋳造停止、それに代わる大明賓紗の護行は、すでに銀という貫放逼貨の存在してい

    たことを考えると、紗を流通させるための銀使用禁止か、あるいは銀使用を禁止するために、それに代わる紗を新たに護

    行したのか、覗黙をどちらに置くかによって解樟は違ってくる。恐らく両方の意園があったであろう。その問題はのちに

    考察するとして、ともかく明朝は妙を本位貨幣、銅銭を補助貨幣とする方針を打ち出したといえる。

    しかも、紗の回牧を

    スムーズに行うために商税を利用し、紗七・銭三の割合で徴牧するよう決定した。

    こののち、小額の取り引きの不便さなどから百文以下の低額の紗が瑳行されたり、再び銅鎮の鋳造が開始されたり、あ

    それらの製造が停止されたり再開されたり蟹轄してい制。

    るいは銅銭や紗の流通量に薩じて、

    しかし紗・銭粂用の方針

    -71-

    は、洪武士木まで概ね守られていたと思われる。

    ところが、このような園家方針にもかかわらず、民聞では紗と銭との比債に大きな差が生じてきた。

    根本的な原因は、

    大明賓妙。か最初から不換紙幣として護行されたこと、つまり園家の保誼だけで流通させようとした黙にあった。いわば管

    理逼貨制度によって妙法を運営しようとしたわけだが、これが必ずしも成功しなかったわけである。紗の債値は、

    設行後

    まもない頃から下落の傾向を見せ始める。例えば洪武二十三年(ごニ九O〉段階では、民間の相場は紗一貫が銅銭二五

    O

    文であり、これは妙法制定嘗時の紗一貫H

    銅銭一

    OOO文に比べて、紗の債値は四分の一に下落したことを意味する。劃

    する明朝はあくまでも最初の比債を堅持して、公定相場を紗一貫H

    銭一

    OOO文に据え置こうとしてい湖。しかしその努

    力も数果なく、妙の債値は下降する一方で、洪武二十七年にもなると、紗

    一貫は鎮一ムハ

    O文の債値しかもたなくな

    ったの

    A明岬,

    あ記‘

    である。

    533

    明朝政権は打開策として洪武二十七年、今度は銅銭の使用を禁止して紗の流通を促すことにし刷。民間では紗よりも鎮

  • 534

    の方が重んじられていたので

    一方の使用禁止で他方の流通を圃ったわけである。ところが、銅銭の使用禁止といった思

    い切

    った措置を施したもの

    の、妙の債値は

    一向に上昇せず、

    むしろ洪武を過ぎて永祭の頃にもなると、

    『貫録』の中には

    永築五年

    (一四O七)の記録によると紗と米との

    'nuv

    比債では園初の三

    O分の

    一、銀との比債では八

    O分の一にまで下落している。王朝の意固に反して、紗の債値は持ち直す

    「妙法不通」という語が目立って多くなっ

    てくる。

    しかもその債値は、

    ことができなかったことになる。

    ところで、

    「妙法不通」の原因として、嘗時には次の二黙が考えられていた。

    一つは、

    『太宗貫録』永繁二年三月庚氏

    の僚に、上

    回く、

    朝廷始め妙法遁ぜざるは、皆民閲銀妙粂用し、率ね銀を重んじ診を軽んずるに縁るの故を以て、其の(銀の)交易を禁ず。

    とあるように、銅銭の使用禁止後は、民間では紗よりも銀の方が重んじられたということ。

    二つめは、同じく

    『太宗貫録』永繁二年八月庚寅の僚に、

    都察院左都御史陳瑛言わく、曲四比妙法通ぜざるは、皆朝廷紗を出だすことはなはだ多く、牧欽

    法無きに縁り、以て物重く紗軽きを

    - 72ー

    致す。

    とあるように、

    紗が無制限に夜行され、

    しかも回牧を行わないので民聞にだぶっき、

    そのために債値の下落をもたらし

    た、という二黙である。

    このうち付に射しては、民間での金銀による交易を禁止する法令が、

    たびたび渡せられている。紗を初めて夜行した洪

    A刀守

    武八年以衆、

    洪武三十年、永繁元年、

    二年、十七年、

    洪隈元年、宣徳元年、三年の都合八回に及んでいれ。民間ではそれ

    だけ銀の使用が

    一般的であり、一片の法令でもってはそれを禁止することができなかったことを示していよう。

    また∞の解決については、流通界に出回っている紗の園庫への回牧が圃られることにな

    った。具鰻策の一

    つが、永繁二

    年八月に質施された「戸口食盟法」である。これは一般人民に強制的に食盟を配給し、

    代債として紗を納めさせるもので

  • A句凶ヲ

    あっ的。ただ、この戸口食盟法は、開中法という明代の盟専買制度とのかねあいから、

    寅際に結盟されたのは産瞳地方と

    南北南京の周漫だけで、他の地方では嘗初から、給盟などとは無関係に納紗あるいは納米の租税的性格を以て貫施された

    Amv

    huv

    といわれている。しかもこの威令が全園的に浸透したのは恐らく永柴より後のことで、少なくともこの法を布達した永祭

    朝では、積極的な封外政策や北京建都に莫大な費用を要するなど、回牧額をはるかに超える紗の護行額に上ったのではな

    いかと推察される。

    守成期とされる洪照三四二五)・

    宣徳朝(一四二六l三五)に入っ

    た段階で、妙のより積極的な流通策が開始されることになる。その問題に入る前に、

    紗の護行時の朕況を今一

    度見直して

    以上のような洪武・永祭朝の明王朝の成立期を経て、

    k=、。

    『ir

    ,みれBUW

    明王朝の性格と逼貨問題

    -73 -

    1

    不換紙幣としての大明賓紗

    大明賓紗の債値が年とともに下落した原因として、

    ハ円民聞では紗よりも銀が重んじられたこと、∞護行額が多すぎたこ

    と、の二黙が考えられた。∞については、紙幣が使用され出して以来、歴代の王朝でも絶えず問題となったことで、その

    債値維持のためにしばしば紙幣の回牧が行われている。明代に限っていえば、

    永祭朝の戸口食盟法が

    一つの例に嘗たる。

    ω

    ところで付については、従来明の妙が不換紙幣であることが大きな原因だと言われ、事責その逼りだと考えられる。し

    かし、なぜ大明賓紗に限って不換紙幣にしなければならなかったのかということになると、明確な解答はなされていな

    い。逼設では、一地方政権から成り上がった明王朝の財政的基盤は弱く、それを補うために不換紙幣を護行したのだろう

    といわれている。だが後述するように、紗護行時には財源不足もほぼ解消されていたし、また従来、紙幣と免換制度との

    535

  • 536

    関係は密接不可分であり、最初から不換紙幣にしたというのは、あまりにも不自然である。

    この問題に閲して、少数の先皐の中には疑問を抱いた人もあり、管見のかぎりでは永江信枝氏と呉晴氏の南氏が存在す

    刷。

    ただし、永江氏は疑問を述べて問題提起をされてはいるのだが、それに劃する解答はなく、どのような考えを持って

    おられるのか具鐙的なことはわからない。

    一方、

    英恰氏の解揮によれば、大明賓紗が初めて護行されたとき、嘗時の人々は元末の交紗のことしか念頭になく、こ

    の交紗がすでに不換紙幣化したものであったため、その制度をそのまま員似たのだろうと述べて

    いる。つまり、

    元朝の交

    紗が本来は免換紙幣であったということを知らなか

    ったため、

    る。

    最初から不換紙幣の大明賓紗を護行したというわけであ

    だが、この果恰氏の設に劃しては反誼を奉げることができる。例えば、元末

    ・明初の人、葉子奇に『草木子』という著

    妙法を立てんと欲すれば、

    須らく銭貨をして之れが本となし、盛の引(約束手形〉

    あり、茶の引あるが如くせしむべし。引至れば則

    - 74ー

    書があるが、その中に次のように書かれている。

    ち茶・盟たちどころに得。紗法をして此くの如くせしむれば、烏んぞ行われざるの患いあらんや。

    雑制篇〉

    紗本(免換準備金)を備えねばならない旨がはっきりと主張されているのである。

    もう一つ反誼を奉げるとすれば、明朝建園まもない洪武三年三三七O〉に完成した『元史』の記載はどうなるのであろ

    「食貨志」の妙法の僚には、元朝が最初は紗木を準備した上で交紗を護行したことが明確に述べられている。

    嘗時

    ここでは妙を護行する際には

    さらに

    うか。

    の人々が、元末の交紗のことしか知らなかったとする呉晴氏の解揮は嘗たらないだろう。

    とすれば、次に想像されるのは免換準備金となるものが、嘗時不足していたのかどうかということになる。例えばこの

    場合、準備金として考えられるのは銅銭であり、銀であろう。先の『草木子』の著者の主張したのは、前者の銅銭であっ

    た。しかしながら、この銅銭が元末には銭荒(銭不足)をきたしていたことはすでに述べた遁りであり、大明賓紗が護行さ

  • れるまでの経緯を考えても明らかである。妙の護行自睡が銅銭の不足に基づくもので、紗は銅銭の代用物として利用され

    たからである。紗の護行と同時に銅鎮の鋳造が停止されたことが、何よりもそれを物語っている。その意味で、銅銭を紗

    本とするにはもともと無理があったと思われる。

    では、銀は.とうであったか。果たして準備金にするだけの銀が、園庫に貯諒されていたのだろうか。この問題に入る前

    に、銀の歴史について鍋れなくてはならない。

    2

    妙と銀との関係

    銀が貨幣として一般に使用されだしたのは、宋代以降の商工業の設展に伴う貨幣経済の進展に基づくことはよく知られ

    ている。この時期、一隅建での銀坑の開設によって、銀の産出額は激増し、嘗時の需要はそれによってまかなわれたとい

    合り判

    。銀使用の風潮は、

    つづく金朝治下の華北にも引き継がれ、特にその末期にもなると債値の暴落した紙幣や、歓乏を告

    げる銅銭に代わって、民間では紙とともに銀が最も交易に利用されていたといわれる。また同じく嘗時の南宋治下の江南

    (以下、江南という場合には度義の青山味に解律する)でも、北宋代以上の貨幣鰹済の進展を見、銀の流通量は以前にもまして増

    Awwy

    ムHV

    加していたと考えられる。要するに、華北・江南の全中園を奉げて、銀経済の波にまき込まれつつあったのが嘗時の中園

    -75 -

    だったわけである。

    従って、この雨朝を滅ぼして中園を統一した元朝の初期には、銀による交易はかなり一般的なことで、官界

    ・民聞を問

    Aリ

    'M明、

    わず銀が使用されていたらしい。

    華北で賞施された「包銀制」という銀納の差護(税自の一

    種)も、

    景なくしては考えられない。また、中統紗の妙本に銀を準備して護行できたのも、嘗時の銀流通と無縁ではない。その後、

    不換紙幣化した変紗を流通させるために、幾度か金銀による交易が禁止されたが、それでも太組成吉思汗以来の全期聞を

    、nH,

    ん叫い

    通じて、ほぼ三分のこに嘗たる時期は使用が許されており、この開飛躍的に銀経済は進展したものと解される。

    こうした銀流通の背

    537

  • 538

    ところがその一方で、元代は中圏内地から急速な勢いで銀が流出した時代でもあった。

    るモンゴル諸王や諸侯(投下領主)に劃する賜興に、

    莫大な銀が使われたことである。

    一つは、元朝特有の慣習でもあ

    元朝初年をみても、

    多い時には二

    至元二十六年)の銀が定例の賜輿として支給されており、元朝の毎年の歳入銀が大陸

    十五蔦二千六百除雨(『元史』世宗紀同

    六高雨前後と考えられているから、その数倍もの膨大な額である。このほか臨時の賜輿もなされたであろうから、

    その額

    はさらに膨張したに違いない。これらの賜輿は、交紗制度が軌道に乗り出すと、

    次第に交紗に切り換えられる傾向にあっ

    49マ

    たようだが、交紗流通の少ない漠北のモンゴル木地には、相饗わらず現銀の賜興が顕著だったといわれていり

    その意味

    で莫大な量の銀が、元朝一代を逼じて漢土からモ

    ンゴル本地に向か

    って流れていったものと思われる。

    銀流出のいま一つの要因は、斡脱商人の活躍である。彼ら西域系の商人が、

    モンゴル貴族から銀を借りて中園で高利貸

    一般民衆が苦しんだことはよく知られて

    いる。斡脱商人らは中園の

    ふ訓年

    銀を積極的に西方に運び出したため、中園銀の絶劉量が減少した。嘗時銀不足に悩むイスラム圏も、これらの中園銀の流

    その利率が膨大であったため、

    - 76ー

    等の営利事業を行い

    入によ

    って不足が解消されたほどであったという。こうした事買を一一美附けるかのように、中園での銀の債格が時代ととも

    に上昇しているともいわれる。元朝にあっては、

    一旦中央に吸牧された銀も、

    北方と西方の二方向に流出し、

    中園圏内の

    銀の減少をきたしたのであった。

    前記二方向以外にも、中園圏内での銀の流れがあった。斡脱商人とは別に、中園には中園の商人がおり、

    西方商人と封

    比できる程の存在であったらしい。

    土俗の元の都の大都〈北京)のことを述べた文に、

    A司,

    ん凶い

    順なれば、則ち南商の薮となり、卒なれば、則ち西買の仮となり、云々

    『宛署雑記』巻一七

    民風一

    とある。西買が西方系商人を指すことはいうまでもないとし

    では前者の「南商」というのが重要である。南商と

    は江南地方を中心とした南方の商人の意であるが、

    彼らが西買と並ぶ程の存在であったことが、この記事から窺える。

    ら南方商人は、南宋以来飛躍的に設展した江南の経済力をバ

    ックに、嘗地に産する物貨、いわゆる

    「南貨」

    を大都を始め

  • ANWす

    ん凶uv

    とする北方諸都市に運び、必需品の供給を行う。その見返りとして支携われたのが、紙幣を別として、嘗時民間で最も信

    頼のある銀であったことは、まず間違いない。

    特に元中期を過ぎ、紙幣の債値下落が進むと、銀の獲得はさらに積極的になされたであろう。

    元末漸江義烏の人、王躍

    の見聞した朕況に、

    かつ今公私の貿易、銅銭の若きは重くして遠くへ致す可からず、率ねみな二金(金と銀〉を挟用す。(『自昌明経世文編』品位四所載「泉

    貨議」)

    とあるのも、銅銭云々よりもむしろ金銀を使用していたという方に重黙を置いて謹むべきであろう。また王鵡が南方の人

    であり、その地を基準にこの文を書いていることを思えば、この朕況が江南地方に一般的であったことを窺わしめる。

    商は南の物貨を北に運び、

    北の銀を南に集中させていたと考えられるのである。

    品川リ

    ん性、

    か、江南に向かっても大量に流入していたと推測する。

    元代での西・北方への銀の流出ばかり

    -77 -

    こうして南方に流入してきた銀は、車に商人によ

    って南北を移動するだけでなく、インフレ

    ーションの激化した元末の

    混観時には、銅銭とともに民聞での退蔵が進んだものと思われる。銅鎮の退臓はすでに至大年開(二二O八|一一)から問

    品開ヲ

    ムMF

    題になっており、この時期は一時的に銅銭使用の解禁がなされたときでもあるが、銅銭ですらこのような朕況であったの

    だから、銀がそれ以上に重賓がられたことはいうまでもなかろう。史料を以て誼明することはできないが、恐らく元末に

    近づくにつれてその傾向は顕著となったに違いない。ただその場合、元末の欽況として一般民衆は貨幣経済から自然経済

    に逆戻りしており、

    せいぜい使用しても銅銭までであったから、銀のような高額貨幣の退識が行えたのは、商人を除いて

    は、嘗時「大戸」とか「富民」、「富室」と呼ばれた大地主以外にはなかったであろう。もちろん、商人であると同時に大

    539

    地主である者もおり、両者は明確に匡別できない存在ではある。ただ、商人、富民も含めて富裕な階層の多く存在したの

    は江南地方であり、そこに集中的に銀の蓄積がなされたのが、元中期から元末にかけての時期ではなかったろうか。

  • 540

    例えば朱元議が南京に根接地を定めて以後、漸東地方に進出した時のこととして

    (至正二十年前後可

    『園初事蹟』

    下の記事がある。

    なんじ

    太組、胡深に謂いて日く。爾彪州に回えりて沓部腐を収集せよ。爾に五府参軍を授けん。就使に管領し、庭減を守禦せよ、と。深、

    軍備足らざると潟し、麗水等七鯨内の大戸より、銀雨を徴科して軍に給す。

    されていたことを意味しよう。この朕況は、朱元路支配下(もちろん江南〉

    の官鹿での銀の偏愛、賄賂、

    これからわかるように、嘗時大戸と呼ばれた大地主から銀の徴牧を行っていることは、それだけ彼らの聞に銀の蓄積がな

    A

    可'Mn、

    さらには恩賞等、

    種々の面で銀が重要視されていることと併せ考えると、元末の江南での主要通貨はほとんど銀一色であった感すらするの

    である。

    確かに、これらの欽況が江南特有の現象であったかどうかは、即断を避けねばならない。しかし嘗時の華北を江南と比

    較した場合、元末の反範の最も大きな打撃を被ったのは他ならぬ華北であり、城市・郷村は荒蹟し、

    要したことは多くの史料が物語っている。

    その回復に長年月を

    - 78ー

    自然経済に逆行したというのも、

    恐らく華北に額著な朕況であったろう。ま

    その後進性と生産力の低さ故に地主制の展開も進んでおら

    経済先進地の江南に比べて葦北には大きな産業もなく、

    P

    ず、江南ほどの富裕階級は存在していなかった。従って、銀の退識にも自ら限度があったはずである。南商による江南へ

    の銀搬入をも加味すると、華北と江南との銀の絶封量、並びに流通猷況の差異は十分に珠想される。

    それはその後の賦況からも類推できるだろう。明の中期も過ぎ、いわゆる銀経済の中にまき、込まれた寓暦期の中園にあ

    って、

    今海内の行銭、ただ北地の一隔のみ。大江(揚子江)より以南、強中十銀を用う。

    (『春明夢徐録』各四七

    費源局〉

    とか、

    さらに時代を下った清朝初期にも、

    かつ他省は交易するに、多く銀を以てす。而して北人は鈍拙を習いとし、交易するに銭を以てす。南人は数分と雌もなお銀を用う。

  • 北大は五十百金と雄もなお銭を用う。

    〈『自主靭経世文編』巻五三

    銭幣下

    葛組亮「銭法議」〉

    とあるように、俸統的に南方では銀の使用がなされていることである。この朕況が宋代以降の特徴であるかどうかは、先

    の金末・元初の華北での銀流通と考え合わせ、改めて検討を加えてみる必要があろう。ただし少なくとも元末・明初の時

    期には、それが最も頼著だったのではないか。例えば銀使用の禁令が出されている明初に、

    時に杭州諸郡の商賀、貨物の貴賎を論ぜず、一に金銀を以て債を定む。ハ『太組貫録』洪武三十年三月甲子)

    とあるのは、その事買を傍誼するものであろう。

    ここで、本題の大明賓診の話に戻る。大明賓紗を何故不換紙幣にしたのかという覗貼から、党換準備金の銀の問題に目

    を向けて論を準めてきた。嘗時江南を中心に銀が一般に流通していたが、その銀を先換準備金とするには、闘家がそれを

    所有しているかどうかにかかる。つまり明王朝自身の、銀の蓄積が前提となる。ただし残念ながら、この黙を史料で誼明

    することは現在不可能である。園庫に備蓄した銀の量を示す史料はなく、

    また毎年どれ位の銀牧入があったのかも不明で

    - 79ー

    ある。た

    だ、それが決して少ない量ではなかったことだけは類推できよう。例えば、王朝成立以前の朱元環集固と呼ばれた時

    期から、積極的に銀を徴牧して軍費に充てていたことは、先掲の史料からも窺える。こうしたことは恐らく慶範園に行わ

    れたに違いない。もちろん朱集圏が、これら押牧銀だけに財政的基盤を置いていたわけではなく、すでに至正二十

    一年に

    A万句

    'kν

    瞳法と茶法を制定し、同二十四年には商税も設けていることは、王朝成立以前から安定した財政の確立を目指していたこ

    とを示すものである。銀はこれらとは別に、その都度随時に富民などから徴牧されたものであろう。

    この銀牧入を飛躍的に増大させたのが、恐らく王朝成立の前年、つまり呉元年(一三六七〉のことではなか

    ったかと推

    察する。この年朱元環は、最後まで覇を争った張士誠を蘇州に破りその地を併合するが、ここは嘗時の中園でも有数の富

    民が居住する地であった。それは嘗地が江南の中での最先進地であることと相侯って、張土誠政権の自由放任的な性格が

    541

  • 542

    外郡の富民をもここに集中させたのだといわれている。張土誠が最後まで朱元慾に封抗できたのも、彼ら富民のバックア

    ツプがあったからであった。

    従って、朱元埠は張士誠を滅ぼした後、張に協力していた富民達に徹底した弾匪を加えたことは、よく知られている。

    富民を朱元惑の故郷である鳳陽に強制移住させて、その地の充買を圃ると同時に、富民の勢力の弱鐙化を狙ったことなど、

    同州

    その例である。

    恐らくこの時に、

    相嘗量の財産の浸牧もなされたであろう。

    その中には

    押牧銀も含まれていた筈であ

    るその銀の量を一示す史料はないが

    事部二

    沈富、字は仲策、行は三なり。故に奥人沈高三と呼ぶ。乃ち元末江南第一

    の富家なり。富卒し、二子茂・旺、我が太租金陵(南京)

    『劉氏鴻書』

    巻四十

    一例として、張士誠政権下の蘇州で江南第

    一の富豪と言われた、沈高三に闘する興味

    沈高三に、

    十官岡田

    とあるように、銀だけをみても毎年千錠、

    ば、元朝の歳入銀とほとんどかわらぬ莫大な額である。ただこの沈寓三という人物は、現在でも巷聞に流布するほどの惇

    説的な富豪であるため、数字には尾ひれがついているかも知れない。しかしたとえこの記事が誇張だとしても、似たよう

    つまり五蔦商ずつ中央に差し出すよう義務づけているのである。五古尚南といえ

    - 80ー

    に定鼎するや、廷に召してまみえ、其れをして歳ごとに白金千錠

    ・黄金百勧・甲馬・銭殺を献ぜしむ。

    な紋況が嘗時存在していたことは十分考えられる。沈高三ほどでなくとも、

    多くの富民が籍注されたし、

    それに伴って莫

    大な銀が園庫に混牧されたことは、間違いなかろう。銀納規定もない建圏直後の洪武三年に、北方の軍士に恩賞として七

    高南近い銀を興えていることをみても、この時期に相首量の銀の混牧がなされたことが考えられる。

    明王朝が免換準備金に足る銀を保有していたと断定しては無謀だが、逆に銀の不足ゆえに準備金を用意することができ

    なかった、とするにもためらいを感じるのである。特に大明賓秒の護行された洪武八年前後は、元末の混靴も癒えて経済

    的回復のなされた時期に嘗たり、翌九年には全園に向かって菟税を質施したほどであ

    った。財政的に窮乏を告げ、それを

  • 補うために不換紙幣を護行したのでないことは、そのことからも推量できる。従って、王朝側が免換紙幣護行の意園を持

    っているならば、保有準備銀に見合う紗をまず護行できた答である。それを矯さ.す最初から不換紙幣を護行したのは、何

    帥明

    らかの政策的意圃があったからと思われる。それは一

    睡何だったのか。解明には、明王朝の成立朕況、並びにその性格を

    併せて考えなければならない。

    3

    明朝の通貨政策

    王朝成立期の股況については、以前に小論を護表しているため、ここでは詳細な説明は省きたい。念のため梗概を述べ

    れば、次の通りである。

    明王朝は江南の地主層の協力で成立しており、初期の段階では南京に都を置いて彼ら江南地主層の利盆を代癖する、い

    わゆる「南人政権」であった。しかしながら、版固でいえば明王朝は華北も含んだ統一王朝であり、成立嘗初のままでは

    政治・経済・文化等が南に集中しているため、南だけで完結した園家になる可能性があった。そこで、王朝側としては南

    に偏在する性格を股却し、員の統一王朝を目指すことになる。具盤的な施策が、自身の基盤としていた江南地主層に劃す

    る弾摩であり、洪武朝の一連の疑獄事件は、その延長線上に考えられる。しかもこの問、宰相の慶止など、皇帝権も比類

    - 81ー

    ないほどに強化された。

    こうして永繁十九年(一四二

    O)の北京遷都の断行とともに、江南地主屠の製肘から脱却して、

    制としての統一王朝が完成する。

    つまり、政治鐙制面での中央集権化を最終的に確立したのが、

    北から南を支配する盤

    、氷笑の北京遷都であっ

    ?こ

    543

    このような政治面での中央集権化に並行して、経済面、特にその根木となる遁貨制度の面での中央集権化に利用された

    のが、大明賓紗ではなかったかと私は考える。

  • 544

    例えば、大明賓紗が初めて護行されたのは洪武八年だが、これは明朝の南に劃する最初の弾匪策である「空印の案」

    起こる前年にや固たっている。つまりこの時期には、明朝政権はすでに統一

    王朝への階梯としての南北問題を意識しており、

    先立つ洪武四年にも、「南北更調の制」という新制度を施行している。これは南人を北方に、北人を南方にそれぞれ任用

    して在地との結びつきを断ち、勢力の分断を園る措置であった。

    建前としては南人

    ・北人雨者の本貫回避を掲げている

    が、

    買は南人を南から引き離すことに狙いがあったものと思われる。ともあれこうした措置も含めて、

    大明賓紗の護行さ

    れた洪武八年は、初期明王朝における南北問題が、政治の前面に現れていた時期であった。

    従って、

    明王朝が銅銭不足を補うために新たに紗を護行するに際し、

    最初から銀を準備金とせずに不換紙幣としたの

    は、銀が主に江南を中心に流通していたという事情によるのではなかろうか。銀はそれ自鐙債値を持っているため、人魚

    的な操作を加えなくとも自然と流通するものである。明王朝にとって江南の経済界は、政権の存在いかんにかかわらず、

    一つの自己完結穫としての銀経済を、循環機能させる危険性を持っていたといえるわけである。

    - 82ー

    この朕況は、北と南を一元的に支配しようとする明朝政権にとって、大きな障害物とならざるを得ない。統

    一王朝的見

    地からすれば、同一の遁貨を全園的に流通させてこそ、遁貨制度の面での中央集権化は達成される。そのため、明王朝と

    さらには民聞の銀を吸牧して江南での銀流通を抑制する一方、園家の

    しては江南に盛んな金銀による交易をまず禁止し、

    保護だけで債値を持たせた大明賓妙を護行し、

    それによって南に劃する経済統制を園ったと考えるのである。

    「蓋し園家

    は費紗を以て天下の利権を綿ベんと欲す」(『古今治卒略』巻九

    銭幣篇)とは

    まさにそのことを物語るものであろう。

    「民間主導型」の銀を抑えて「園家主導型」の紗を護行し、

    しかもその紗は銀の流通を抑制するために不換紙幣にし、

    強力な園家権力をバックに流通させようとしたのが「大明賓紗」であ

    ったと思われる。その意味で、明の紗は金とか元の

    交妙とは、幾分趣きを異にしているといえよう。

  • 紗流通政策の破綻と銀

    大明賓紗護行までの経緯とその特異性については、おおよそ以上の逼りである。次にこうして褒行された紗が、以後ど

    のような襲蓮を辿っていったかを眺めてみたい。

    洪武の末から永祭の初めにかけて、紗の債値が暴落したことはすでに述べたが、これは績く洪照・宜徳朝に至ってさら

    に拍車がかかる。米との比債をみるならば、園初の四十分の一から七十分の一にまで落ち込んでいるのである。このよう

    な急激な債値下落は、いうまでもなく妙の信用がなかったこと、

    つまり不換紙幣であった黙にその原因が求められる。す

    でに永築の頃から『貫鋒』の中に、

    しばしば「妙法不通」という語句が現れるが、嘗時の人々にとって祉曾的問題となっ

    ていたことが知られよう。

    ところで、

    他の史料から類推し

    - 83ー

    「妙法不通」の地域を『貫録』では明記していないため比定することはできないが、

    bp

    て、江南地方が特に顕著だったのではないかと思われる。江南での銀経済の一層の進展を意味するわけで、永繁の噴から

    目立って頻設する金銀使用の禁令も、特に江南地方という断りはないが、恐らくは嘗地を主な封象として出されたのでは

    ないかと推測する。

    以上のような朕況下で洪照・宣徳朝の紗流通政策が開始されるわけだが、この時期の政策が明代史上どのような意味を

    持っていたのか、最後にその黙について考察してみたい。

    永繁の北京遷都が明朝政権の最終的確立を意味することは、大方にも異論はなかろう。綴く洪照

    ・宣徳朝は、永繁朝に

    おいて完成した韓制を背景に、明朝の最も安定した時期を現出したとも一般にいわれている。

    ところで、安定期とされる洪照・宣徳朝だが、明朝支配に早くもある程度の弛緩が生じていたことが指摘されている。

    545

    例えば森正夫氏によると、園家が農民を直接支配するという園初以来の障制が、長江下流域の太湖周溢地帯では半壊献態

  • 546

    A4,

    bmv

    になったため、園家権力の介入によって農民支配の再編成が行われたのがこの時期だとされる。

    宣徳朝が、園初以来の鐙制の再強化の園られた時期として捉えられているわけである。同様のことが、この時期になされ

    た積極的な紗流通政策にもいえるのではなかろうか。即ち、民間主導型の銀に劃する、園家主導型の紗による経済統制の

    再強化ではなかったか、ということである。確かに、外征や北京造営に費された永祭朝の放漫財政の建て直しの意園もあ

    ったであろう。従来はそのように解揮されてきた。だが、この時期に見られる園家の積極的な姿勢は、皐にそれだけの理

    由とは考えられない。先の森氏の指摘もふまえて、むしろ北京遷都によっ

    て政治世制の確立を見た明朝政権が、

    経済面で

    の統制強化を狙って展開したものだ、と捉えたい。

    では具瞳的に、紗を流通させるためにどのような施策がなされたか。

    つまり、

    そこでは洪照

    一つは、民聞に出回っている紗を積極的に回牧するという、前朝以来の方針を踏襲したことである。永祭朝で戸口食盟

    洪田川元年三四二五)には新たに門機税

    (商庖に封する

    一種の営業税)を増税し、それを紗

    - 84ー

    法の貫施されたことは述べたが、

    で徴牧するよう決定された。民間の紗が減少すれば、

    読」の立場に立ったものであった。

    それだけ紗の債値が上がり紗は流通するという、いわば「通貨数量

    もう一つは、これもまた前朝以来の金銀交易の禁を改めて確認したことである。すでに幾度もの禁令が出されている

    が、貫放のなかったことが窺える。従ってここで今一度禁令を出し、相劉的に紗の流通を促したとレえる。

    要するに、洪隈朝の紗流通策は、明の妙法の制度的、そしてそれが本質につながる面、つまり不換紙幣という性格に闘

    しては、何ら改革がなされなか

    った。紗の回牧と金銀使用の禁の強化という、妙法の外縁をめぐる方針をさらに徹底する

    形で推準されただけであった。特に門機税など廉義の商税を紗で回牧するといった方向は、舗網く宣徳朝で一層強化される

    ことになる。

    宣徳朝での回牧策が積極的に開始されるのは、

    宣徳四年三四二九)からである。

    その前年、

    つまり宣徳三年には紗の

  • 547

    製造が停止されてい初回牧の数果をさらに高めようとの措置であろうが、こうした手績きを経た上で、種々の面で

    一費

    に回牧が始まる。この時期の紗流通策の献況、並びに制度的な側面に関しては、すでに先拳の詳しい研究があるので、こ

    こでは簡単に箇係書きするにとどめたい。

    全園重要三十三都市の門機税を、洪田川朝の五倍に増額する。

    場房、庫房、庖舎などの倉庫業者に劃する謀妙。

    仁)付回同国

    腫螺等の馬車や牛車・小車などの運搬業者に劃する課妙。

    北京より南京に至る運河の要衝に紗闘を設置し、通行船舶に射して課紗する。

    その他、官僚等の果樹園や菜園に劃する課紗。

    こうした積極的な回牧策を施した結果、ある程度の流通を促したことも事賓であった。しかしまた『貫録』

    にもある逼

    り、

    妙法が通じたり不通になったり饗柿押しているのは、

    たとえ流通した地域があっても、

    時間的空間的には

    一過性だった

    ことを示し、その質は回牧によって民聞の紗が不足したことから生じた、偶渡的な現象ではなかっ

    たかと解される。

    A

    ヨ,

    '伝UT

    むしろ紗回牧策が悪影響をもたらしたことを、佐久間重男氏は次のように述べている。つまり、増税政策の結果、牧税

    官吏は紗を牧めることにのみ浪々とし、園家権力を背景に苛飲訣求をほしいままにして私腹を肥やしたりした。そのため

    納入すべき税紗がなく、妻子を買っ

    て紗にかえ、しかも納税しきれずに逃亡する者もあらわれ、あるいは庖舗を閉じて鹿

    業する者も出る有様であった。要するに、紗回牧は人心の不安を生み、商業の委際沈滞、物資交流の遅滞などの現象をひ

    きおこす結果じなったという。

    - 85ー

    こうしたことから、明朝政権は紗回牧策を緩和する方向に轄換する。宣徳七年には、南北南京を除いて、庖房など民問

    、品川マzhv

    倉庫業者に射する課紗が削減された。績いて英宗即位の宣徳十年には天下に大赦の詔が下され、一切の商税、門機税など

    huv

    は洪武の蓄額に引き下げられ、回牧を理由に増税することが禁止された。また時を同じくして銅銭の使用が再開されてい

  • 548

    A万叩,

    huv

    るが、

    これも妙法立て直しを半ばあきらめた結果であろう。紗流通のための回牧策は、

    所期の目的を達成することなく

    」こに錐折したといってよい。

    『貫録』

    を見る限り、宣徳三年を最後に金銀使用の禁

    AAw,

    hv

    令を見い出すことはできない。むしろ民間では、金銀使用はより一般的になっていたと思われる。そうした風潮を端的に

    示すのが、宣徳八年(一

    四三三)、江南巡撫の周伐によって蘇州、松江、

    銀江、常州で質施された「金花銀」であろう。金

    では

    いま一方の政策であった金銀使用の禁令はどうなったか。

    花銀とは、米債の襲動による経済的不安定性を解消するため、米四石H

    銀一

    両の割合で田賦の銀納を許したもので、周仲凶

    、冷喝,4hv、

    が江南の官田地併で行っ

    た農民救済策の

    一環として捉えるべきのようである。いずれにしろ、農民の便宜を園るために、

    官回の重税を現物から銀で代納させたことは、

    それだけ江南が銀経済の中に組み込まれていたことに他ならない。

    これは三年後の正統元年(一四三六)、北京の武官の俸給問題に端を鼓した「折糧銀」にも通ずるものである。この年、

    北京武官の銀要求に折れて、彼らの俸給を銀で支給するため、明朝は新江、江西、南直隷(今の安徽と江蘇〉、湖贋を封象

    に、田賦を銀で徴牧することを開始する。注目すべきは、その劃象地域がやはり江南だ

    ったことである。銀経済が次第に

    - 86-

    銀納化への動きが、

    A司,hv

    る。 全

    図的に浸透しつつあったにもかかわらず、依然として江南がその主要地域だったことを物語っていよう。こうした租税

    やがて急激な勢いで中園を銀経済の中に

    まき込んでいくことにな

    園初以来の金銀使用の禁を弛め

    ところで、紗の問題に目を輯じてみると、以上のような銀流通を背景として正統元年には戸部尚書の寅一隔が、次のよ

    うな注目すべき上奏を行っている。

    『英宗貫録』正統元年一一一月戊子の候に、

    一、資紗は木より銅銭と粂使す。洪武の問、銀一一問は紗三・

    五貫に骨固たる。今銀一一悶は妙千絵貫に

    っか

    骨固たる。紗法の娘、これより甚だしきはなし。宜しく官銀を出だし、

    官を南北二京・各司府州の人煙模集の慮に差わし、彼の時直に

    照らして沓紗と倒換し、年絡に京に解り、古田紗既に少なくなるを倹ちて、然る後に新診を量出し、銀に換えて京に解るベし。

    少保品水戸部向世一回英一拍四事を言う。

  • つまり、ここでは紗護行嘗時の基本方針であった不換紙幣という性格が一時的にではあるが破棄され、官銀を支

    給して奮妙を回牧するという銀使用の禁令すら全く無視する護言がなされている。責一帽の提案通りに寅施されたか否かは

    不明であるが、このような意見が戸部向書という経済捨嘗の最高の官僚から出たということは、先の武官の銀要求と併せ

    とある。

    て、嘗時の銀経済の進展の度合が推察されよう。

    要するに、園初以来積極的に績けられ、特に北京遷都後の洪照・宣徳朝に集約された紗流逼策は、南の銀を抑えること

    ができなかったといえるのではないか。こののち何度か紗法の立て直しが圃られたが、いずれも洪照

    ・宣徳朝のような積

    極性は見られず、また嘗然のこととして失敗している。その意味で、十五世紀前牢の洪照・

    宣徳朝は、紗経済確立を目指

    しながらもそれに敗れ、やむなく銀経済を追認する過渡期、あるいは轄換期として位置づけられると考える。

    歴代の統一王朝の中で、明王朝が初めて南から興ったということは、極めて重要な要素である。南、

    つまり贋義の江南

    - 87ー

    は、南宋以来先進農業地域としての生産力の増大とともに、大々的に地主制が展開し、

    そうした先進性に基づ

    いて商工業

    の隆盛を生んでいた。

    明王朝はこうした江南の経済的瑳展を背景に、嘗地の地主階級の援助で成立したものであ

    った。初期の段階で江南地主

    層の利盆代詩機関としての性格を、色濃く持っていたことも嘗然である。しかし、統一王朝的見地に立つ支配鎧制を志向

    するには、南を抑えて北を高める政策をとらざるを得ない。江南地主層を弾墜し、

    最終的には彼らの製肘を脱却して北京

    遷都を行ったのは、北から南を包括支配する政治睦制確立のためであった。

    一方、同じ抑南政策の一環として寅施されたのが、南の銀流通に劃する紗の護行だったと解される。民開主導型の銀に

    封し、紗はいわば圏家主導型で、しかも銀の流通を抑えるために、最初から不換紙幣という大臆な制度が採用された。し

    549

  • 550

    かしながら、園家権力の保護だけで流通させようとした紗は、自身に債値を持つ銀の流通を止めることができず、年とと

    もに債値を下落させていく。南方に劃する経済統制を目的とした紗は、その性格を不換紙幣とした設行嘗初から、すでに

    将来の破綻を内包した通貨であった。

    ともあれ下落する紗債格の立て直しのために、種々

    の面で流通策を質施したのが、洪照

    ・宣徳朝である。永繁朝につづ

    く、洪照

    ・宣徳朝で積極的に展開されたのは、

    永繁朝では遷都に伴う北京の造営費やモンゴル親征など外征に多額の出費

    を徐儀なくされ、紗の回牧どころではなかったためだろう。洪田川・宣徳朝の紗回牧策は、

    永繁朝の放漫財政に劃する嘗面

    の財政再建の意味もあった。

    だが、

    最も重要なのは、永繁の北京遷都という政治面での中央集権確立のあとを受け、経済面、中でもその根本となる

    通貨制度の中央集権化を狙って展開されたのが、この時期ではなかったかという馳である。つまり、

    洪武

    ・永祭朝という

    王朝の成立期を経て、いわば守成期に入っ

    た段階で、前朝においてなしえなかった支配佳制の完全質現を目論むという、

    隠れた園家意志を誼みとりたい。

    - 88ー

    こうして開始された紗流通政策ではあるが、先述のように結局は失敗に終わる。そしてこれ以後、明王朝は銀経済の中

    にまき込まれていく。政治的には北から南を支配する陸制を確立したものの、こと南の経済に射しては、

    完全に統制する

    ことができなかったことを示していよう。中園史に流れる南北問題の一現象だが、これは近世以降の歴史に饗遷を見るこ

    とができる。

    十二世紀初頭に金が南侵して宋を江南に押し込めて以来、中園は北と南の雨園に分裂した。やがて元が興って金に代わ

    ると、南宋を滅ぼして中圏全土を支配することになる。ただしこの元朝は、「元朝の江南支配の脆弱性」とも言われるよ

    うに、江南を完全に支配下に牧めることができなかった。華北と江南ではその支配方式も異なり、江南には南宋以来の郷

    村組織、税制、役法等がそのまま存績していた。つまり、江南の設展段階に射して、元朝の政治的・経済的力量が追いつ

  • いていなかったわけである。

    AWMV

    こうしたことから、金と南宋との封立以来、元朝をも通じて第二次南北朝などと呼ぶ向きもあ針。

    華北と江南を比較し

    た場合、近世以降の江南の経済的地位は上昇しつづけていたものの、政治的舞蓋はやはり華北にあ

    ったのに封し、南を出

    自とする明王朝に至って、政治と経済が一腰は江南で一

    致した。ただしその一

    致ゆえに南に偏った南人政権になる可能性

    のあったことは、先述した通りである。従って永祭朝の北京遷都は、北をも強力にまき込んだ統

    一盟制を完成した貼から

    みて、第二次南北朝の終需をも意味している。

    ともあれ南北統一を果たした明王朝も、江南経済の支配の面では依然として脆弱性を内包していたといえる。それを解

    決するため、園家権力を背景に不換紙幣の大明賓紗を護行し、政経の一元支配を目指したわけだが、結局は成功すること

    ができなかった。先準経済地域でも、力による経済支配が可能とした過信と錯魔とも見てとれる。

    敷街すれば、

    嘗時の中園は一つの統一睦としての中園ではなく、

    南北の統合睦としての

    中園として捉える必要があろ

    - 89-

    ぅ。政治・経済あるいは文化などの面で、南と北をどのように包括統合して支配するかが、統一

    王朝の支配原理とならな

    ければならなか

    った。それは、南北問題を止揚した次元での動かし難い歴史論理であった。

    551

    註ω奥恰「記大明賓紗」(『讃史劉記』所枚三聯書庖一九五六)

    李剣農『宋元明経済史稿』第四章宋元明之貨幣〈一ニ聯書庖

    一九五七)同「明代的

    一個官定物債表輿不換紙幣」

    (『明代経

    済|明史論叢之八』所収畢生書局

    一九六八)彰信威

    『中園

    貨幣史』第七掌明代的貨幣〈上海人民出版社一九五八〉永

    江信枝「明代紗法の愛遷ーその鰯嬢の原因を中心として|」

    (『史論』第九集

    一九六一〉市古向三『明代貨幣史考』(鳳書

    房一九七七)

    ω本節は、

    ω判的仰の諸論文に負う所が大きい。

    ω安部健夫コ冗時代の包銀制の考究」、コ冗代通貨政策の設展」

    (『元代史の研究』所枚創文社

    一九七二〉

    ω岩村忍

    「元時代に於ける紙幣のインフ

    レーシ

    ョン|

    |経済史

    的研究l1l」(『東方皐報』

    京都

    三四一九六四)

    ω『元史』各九七

    妙法

  • 552

    鋭而所在郡脈。皆以物貨相貿易。公私所積之紗。途倶不行。

    人観之若弊緒。而闘用由是乏余。

    ω前田直典

    コ冗代に於ける紗の後行制度とその流通吠態」(『元

    朝史の研究』所収東京大祭出版曾一九七三)

    間前註伺参照。

    制『太租貫録』辛丑(至正二十一年)二月己亥

    置資源局。鈎大中通費銭。先是中審省議以園家新立。銭法未

    定。民以米萎輿銭相貿易。毎米一石。官直銭千。而民間私易。

    加至三千。然銭貨低昂。宣能久而不祭。今請置資源局於態天

    府。鈴大中通費銭。使輿歴代銭粂行。以四百局一貫。四十信用

    一一問。四文信用一銭。其物貨債値。一従民使。設官以主其事。

    上従之。且疋歳鈴銭凡四百三十一高。

    『太組貫録』

    甲辰(歪正二十四年〉四月壬氏。

    鈴銭額の記載は、先の註同にある至正二十一年の四百三十

    高文と、同じく

    『太租貫録』笑卯

    (至正二十三年)十二月の僚

    に、「是凸刷費源局裁鈎銭三千七百九十一高有奇」とあるだけで

    ある。いずれにしろ微々たる額には違いない。

    帥群雄の中では、張土誠が天佑遜賀、韓林見が龍鳳通貨、徐詩

    輝が天曲目通貨と天定通貨、陳友諒が大義通費などを鋳造してい

    る。彰信威前掲『中図貨幣史』第六章金元的貨幣。

    MW

    『太租賃銭』洪武元年一一一月辛未朔

    命戸部及行省談鈎洪武通貨銭。其制九五等。賞十銭。重一一問。

    蛍五銭。

    重伍銭。蛍三銭。重三銭。蛍二銭。重二銭。小銭。

    重一銭。

    『太組賀録』洪武四年二月了卯。

    明初における銅銭

    MW

    市古尚三

    前掲

    『明代貨幣史考』第二章

    による貨幣制度の樹立。

    『支那経済史紙読』第十章

    貨幣(弘文堂書房

    四四〉

    『太租貫録』洪武七年正月庚午。

    肋加藤繁前掲『支那経済史概説』

    参照。

    同註帥参照。

    帥『太租貫録』洪武八年三月辛酉朔

    詔道大明質紗。時中審省及在外各行省。皆置局以鼓鋳銅銭。

    有司貧民出銅。民閲比由一殿様物以輪開官。鼓鋳甚品目。而姦民復多

    盗鈴者。叉商賀穂易。銭重道遠。不能多致。

    頗不便。上以宋

    有交曾法。而元時亦嘗造交紗及中統至元資妙。其法省便。易

    於流勝。可以去鼓総之害。途詔中書省造之。:::中略:::。

    毎紗

    一貫準銅銭一千・銀

    一一問。其徐皆以是魚差。其等凡有

    六。日一貫。日五百文。四倍文。三倍文。二倍文。一倍文。

    禁民間不得以金銀物貨交易。遺者治其罪。有告護者。就以其

    物給之。若有以金銀易紗者聴。

    凡商税課程。銭紗粂枚。銭什

    三。紗什七。一倍文以下。則止用銅銭。

    『太租貫録』

    洪武八年一一一月辛巳。

    『太租貧録』洪武九年六月己酉。

    『太租貫録』洪武九年七月甲子。

    立倒妙法。

    中書省奏。園家行紗日久。量無昏燭。宜設牧換以

    使行使。於是議令所在置行用庫。毎昏嫡紗一貫。牧工墨直三

    十文。五百以下辺滅之。

    - 90一

    帥同 ω

  • 553

    同前註伺並びに『太租貧録』洪武九年二月庚子の僚に「毎銭

    千・紗一貫。各抵米一石」とある。

    伺交易に金が用いられることはあまりなく、専ら銀が使用され

    た。加藤繁

    『唐宋時代に於ける金銀の研究』第十一章階以前及

    び元以後に於ける金銀第二項明(東洋文庫一九一一六)

    帥前註帥参照。

    MW

    『太租賀録』洪武十年五月丙午、十三年七月辛丑、十

    一月戊

    子、十七年三月壬子、十九年九月己未、

    二十二年四月戊申、六

    月甲子、二十四年五月己丑、等々。

    帥『太租貧録』洪武二十三年十月戊辰。

    註帥参照。

    伺『太旭貫録』洪武二十七年八月丙戊

    詔禁用銅銭。時雨漸之民。重銭軽紗。多行折支。至有以銭百

    六十文折妙一貫者。一踊建・雨庚・江西諸慮。大率皆然。由是

    物債湧貴。而紗法盆擾不行。上酒論戸部向書郁新目。園家造

    妙。令輿銅銭相粂行使。本以使民。比年以来。民心弓詐。乃

    以銭紗任意厳折行使。致令妙法不行。甚失立法便民之意。宜

    令有司悉枚其銭蹄官。依数換紗。不許更用銅銭行使。限半月

    内。凡軍民商買所有銅銭。悉迭赴官。敢有私自行使。及埋議

    棄段者。罪之。

    制『蔦暦舎典』巻一三戸部一八妙法。

    伺『太租貫録』洪武三十年一一一月甲子、

    『太宗貫録』永祭元年四

    月丙寅、同二年三月庚氏、同十七年四月壬寅、『仁宗貧録』洪

    熊元年正月庚寅、『宣宗寅録』宣徳元年七月美巳、同三年十一

    月乙丑。

    宗貧録』

    永繁二年八月庚寅。

    「明代の戸口食堕法に就いて」〈『祉曾経済史皐』

    一一一一

    ー三一九四三〉

    帥佐久間重男「明代における商税と財政との関係(一

    ・二)」

    (『史拳雑誌』

    六五|

    一-一一一九五五)

    帥永江信枝前掲「明代紗法の嬰遷」

    奥拾前掲「記大明資妙」

    制加藤繁前掲『唐宋時代に於ける金銀の研究』第八章

    時代の金銀出産地及び其の輸出と輸入。

    コ冗時代の包銀制の考究」二元初華北での

    通貨欣況。

    帥加藤繁「南宋時代に於ける銀の流通並に銀と曾子との関係に

    ついてL

    Q支那経済史考誼』下各所牧東洋文庫一九五二)

    帥安部健夫前掲「元時代の包銀制の考究」

    制前田直典

    コ冗朝時代に於ける紙幣の債値襲動」(『元朝史の研

    究』所牧)

    帥小林新三コ元朝における銀の賜輿について」(『元史刑法士山の

    研究霧註』所枚数育書籍一九六二)

    帥同右。

    帥愛宕松男「斡脱銭とその背景||十三世紀モンゴルH元朝に

    おける銀の動向||〈上・下)」〈『東洋史研究』

    一一一一一|一・一一

    一九七三)

    嶋本史料は、前掲岩村論文によって所在を知った。

    帥例えば

    『元史』巻六四河渠一禽通河に、

    - 91ー

  • 554

    延一路元年(二三四)二月二十目。省匡言。江南行省起運諸

    物。皆由曾通河以遠子都

    0

    ・・

    ・中略・:。始開河時。止許行

    百五十料船。近年権勢之人。弁富商大賞。貧噌貨利。造三四

    百料或五百料船。於此河行駕。以致阻滞官民舟橋。-

    とあり、江南の富商大賞が多くの貨物を船舶に積載して、大都

    との開を往来していたことがわかる。

    制宮崎市定

    「中園近世銀問題略説」(『アジア史研究』

    第三各所

    牧東洋史研究舎

    一九六七〉

    同『元典章』各二

    O紗法住罷銀妙銅銭使中統紗

    至大四年四月

    0

    ・:中略::。比者向書省所設新沓銅銭。具

    有縞数。其民閲宿裁者。所在充溢。不可勝算。::

    『園初事蹟』

    太組克江州。

    a-

    中略::・・。是命親姪文正潟大都督府左都督

    節制中外諸軍事。往銀江西。:::中略・

    ・。宣期荒淫惟任嫁

    史術迷可等小人魚心腹。専用民間閏女。用則留数十日。不用

    即投之於弁。矯激甚多。九過太組差人到彼。公幹多以銀段餌

    之。受者蔽而不言其悪。

    ~9)

    高見賢奏。嫁史張有道賀選。太組ム叩楊憲絢之。有道招受同郷

    徐君瑞買求植密嫁史銀十雨。律該杖一百。

    (李文忠〉比到京。太粗大悦。撫之甚切。賜以好馬銀雨。

    一例として

    『太租笈鍛』洪武元年十二月辛卯の僚に、

    今喪飢之後。中原草郡弁。人民稀少。所謂田野闘。戸口惜。此

    正中原今日之急務。若江南。則無此畷土流民笑。

    とある。

    「『元末の反飢』とその背景」(『歴史聞学研究』一一一六

    一九七

    O)

    『太租質録』

    辛丑二月甲申、同二月丙午、同甲辰正月丁卯の

    各候。

    『鞄翁家蔵集』巻五一

    政桃源雅集記

    元之季。奥中多富室。字以高官修相官問。

    制愛宕松男「朱奥園と張奥園||初期明王朝の性格に関する

    考察||」(『文化』

    一七|六

    一九五三)

    泰次「明太組の針縫豪策|

    |特に張奥の戟犯及び蘇州の

    豪設について||」〈『史観』一一一八

    一九五二〉

    伺『太租貫録』洪武三年三月戊申。

    「明初祉舎生産力的設展」(『歴史研究』一九五五|一二)

    帥例えば、

    安部前掲コ克代通貨政策の設展」三六八頁には、次

    のように書かれている。

    要するに元時代をふくむ近世シナにあっては、一

    葉の紙片

    を化して交換媒介の手段たらしめるためには、或いは威、或

    いは信を必要とするというこ様の考え方が支配的であったの

    である。少なくとも観念要素的にはそうであったといえるの

    である。・::・中略・:。しかしながら更に籾って、緒幣(紙

    幣|筆者註)

    一般が何ゆえ免換緒幣とも不換緒幣ともなりえ

    たかという貼、更には免換緒幣制度にあっても「威」を必要

    とした貼などに思いをいたすならば、結論はさらに選ったも

    のとならざるを得ない。園家社舎の構造上、緒幣制度

    一般が

    もともと一の信用制度であると同時に、一の権力制度でなけ

    - 92一

  • 555

    ればならぬという、矛盾した要請をもつものであったためで

    あって、そのときどきの政治的経済的批禽的な紋勢如何によ

    り、信用制度的な性格を削減もしくは波却せざるを得ないよ

    うになると、そこに始めて不換稀幣が愛生して来たものと見

    られるのである。

    伺拙稿「明王朝成立期の軌跡||洪武朝の疑獄事件と京師問題

    をめぐって1l」(『東洋史研究』一一一七|一一一一九七八)

    宣宗貧録』洪照元年間七月葵亥。

    制『皇明名医現淡録後集』巻五

    兵部尚書廊公紳道碑

    永祭政宍巳(十一年)。奔監察御史。時車駕在北京。有言南京

    紗法阻滞。命公往察之。衆謂終起大獄。公往檎市豪一-一筋。

    奏日。市人関令。皆震催。今妙法己遁失。上額之而罷。

    伺森正夫「十五世紀前牢太湖周透地帯における園家と農民」

    (『名古屋大皐文拳部研究論集』一-一八

    一九六五〉

    伺佐久閲重男

    前掲「明代における商税と財政との関係(一)」

    倒『仁宗貧録』洪照元年正月庚寅。

    伺『宣宗寅録』宣徳三年六月己酉。

    久閲重男「明代の商税制度」(『祉舎経済史皐』一一一一|三

    一九四三〉同前掲「明代における商税と財政との関係(一・

    二)」市古尚三前掲『明代貨幣史考』第四章明朝の費紗制

    度の経過と物貨調整策。

    制例えば『宣宗貫録』宣徳五年正月丙寅の記載では「今妙法阻

    滞」とあり、同五年六月己丑では「至今紗来通行」とあるが、

    六年三月丁卯になると「近間妙法制情通」

    と、少しニュアン

    スが

    襲わってくる。ところが、翌七年正月美未には「妙法不通」と

    逆戻りしており、さらに同三月庚申朔には再び「今紗法頗通」

    とあるかと思うと、同五月己未にはまた「妙法不通」となっ

    いる。

    江信枝前掲

    「明代紗法の嬰遷」

    久間重男

    前掲「明代における商税と財政との関係〈一〉」

    宗貫録』宣徳七年五月辛未。

    宗貧録』

    宣徳十年正月壬午。

    宗貫録』宣徳十年十二月戊午。

    宣宗貫録』宣徳四年六月庚子

    行在戸部奏。

    比年亘商

    ・富民弁櫨貴之家。

    凡有交易。倶要金

    銀。以致紗不通行。

    帥星斌夫「金花銀考」(『山形大皐紀要〈人文科皐〉』

    九|一

    一九七八〉

    英宗貫録』正統元年八月庚辰。

    史』巻八

    英宗即位。牧賦有米奏折銀之令。途減諸納品紗者。而以米銀銭

    賞品妙。弛用銀之禁。朝野率皆用銀。其小者乃用銭。惟折官俸

    用妙。紗整不行。

    漬旦堕量司氏は、地方志の米債表示法に基づいて各地方の主要

    通貨を検討し、銭経済から銀経済への移行を、

    ω江南型、倒筆

    北型、。内陸型に区分されている。しかし、今はこの問題には

    燭れない。

    「明代の米債表示法と銀の流通||明代通貨史究書

    一一||」

    〈『新潟中央高等皐校研究年報』一五一九六九〉

    開重男

    前掲「明代における商税と財政との関係(一・

    二〉」

    onwM

  • 556

    松男

    コ冗の中閣支配と漢民族社曾」第四章

    江南(『岩波講座世界歴史』

    O)

    沙雅章『征服王朝の時代

    〈新書東洋史〉

    =一』(『講談社現代

    新書

    九七七)

    ωもちろん、口の問題についても、単に夜行額が時唱えたから

    診の償値が下落したというのではなく、無信用の不換紙幣とい

    元朝治下の

    う事貨が貨幣償値の下落を助長し、それがひいては夜行を促し

    て悪循環をもたらしたとも考えられる。付の銀偏重の風潮は、

    いわばこうした診の債値下落と表裏の関係にある。従って、付

    と口は厳密な意味では区別できず、その根底には紹えず不換紙

    幣という問題か横たわっているわけだが、

    本論では省時の人々

    の認識に則っ

    て、便宜上二黙に分けて論を進めたい。

    - 94ー

  •   

    But, because tV^eTa-Mt・ng pao■ch'aoas issued was a nonexchangeable

    currency, its value deteriorated year by year. 0n the other hand, the

    silver economy infiltrated the whole country. This meant that even the

    Ming, which politically ruled the South from the North, was unable to

    unify the North and the South in the economic sphere. Nevertheless,

    the issue of the Ta-Ming pao-cKaowasa stage the early Ming had t(〉

    go through ; in order to become a real unified dynasty.

      

    THE THREE SHANGHAI UPRISINGS AND

        

    THE CfflNESE COMMUNIST PARTY

    A historicalinvestigation of the Shanghai Revolution

    Banno Ryokichi

      

    This paper tries to investigate the three Shanghai uprisings, which

    formed one aspect of the climaχ of the National Revolution, while focu-

    sing on some problems of urban revolution・

      

    This article is broadly divided into the two following themes. The一

    丘rst is the problem of success and failure of the Shanghai uprisings, and

    the second is the problem of the strategy and tactics used by the Chinese

    Communist Party which fully committed itself to the cause. ぺA^ith regard

    to the first theme, the questions of how the epoch-making civil revolution

    of the urban masses won victory, why that became the impetus for th&

    coup d’itat of 12 april (55M yi-erh四・一二), and finally why it collapsed

    after a short period, are eχamined. ぺA^ith regard to the second theme,

    the hypothesis is eχamined in various ways whether the commitment of

    the Chinese Communist Central Committee under Ch'en Tu-hsiu 陳稲秀

    to the three uprisings didn't eχist as a real alternative within the Chinese

    Revolution, although it was never actualized.

      

    l take the following approaches towards these themes・

      

    1. A comparative inves£ieationof 哨e threeuprisings. The first。

    second and third Shanghai uprisings differed considerably in content.

    Moreover, the first one differed also from the second and third one in

    character and revolutionary vision. The third one was carried out under

    the leadership of the Chinese Communist Party which used tactics of its。

                      

    -5-

  • own.

     

    But the attainment of the Chinese Communist Party's target of

    establishing a civil government in Shanghai (t気巳αd hoccivil government)

    lead to the definite division within the ranks of the National Revolution.

       

    IT.  The liberation of Shanshaiand t