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Title 後漢の三公にみられる起家と出自について Author(s) 永田, 英正 Citation 東洋史研究 (1965), 24(3): 298-322 Issue Date 1965-12-31 URL https://doi.org/10.14989/152701 Right Type Journal Article Textversion publisher Kyoto University

Title 後漢の三公にみられる起家と出自について 東洋史研究 ......李通(南陽 五) 資融 (右扶風 戴渉(清河) 韓散(南陽)侯窃(河南宋弘(京兆部局(南陽

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Title 後漢の三公にみられる起家と出自について

Author(s) 永田, 英正

Citation 東洋史研究 (1965), 24(3): 298-322

Issue Date 1965-12-31

URL https://doi.org/10.14989/152701

Right

Type Journal Article

Textversion publisher

Kyoto University

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後漢の三公にみられる起家と出自について

』主

ある時期の政治鎧制がレかなるものであったかというこ

とを検討する場合に、先ずその政治がどのようお官僚によ

って行われたかということが問題となるが、

そのためには

同時に、彼らがどのような登用法によって官僚になったか

を考えることも、

また必須の後件である。

周知のように、漢代では、従来の世襲的あるいは特権的

な官吏登用法に加えて、新しく庶民の中から有能な人材を

選事する方法が採用されるようになった。

たとえば賢良方

博士弟子、

孝廉、茂才などといった科目がそれであ

298

る。中でも、前漢武帝の時に制定された孝康の科目は、後

漢に入るとしだいに法制化され、後漢一代を通じて、官吏

の登用はあたかも孝康の選準がすべてであるかの如き観を

呈する程の盛行をみるに至る。

そこで、本稿は、後漢時代に三公に就任した人物につい

て、先ず彼らがどのような官吏登用法をうけたかという起

- 53ー

家の方法と、

また彼らがどのような階層の出身であったか

ということを分析し検討するとともに、

以上のように後漢

時代に入りとくに盛んに行われた孝康の選奉が、後漢の官

僚制の中で、いかなる役割をはたしたかということの、

躍の見通しをたてんとして試みたものである。とくに三公

をとりあげた理由は、三公が嘗時の官僚の到達しうる最高

それらの人物の中に見出される官吏登用の方

の官であり、

法とか、また官位昇進の過程というものは、嘗時の官僚の

たどる代表的なものであっ1~と考えられること。

また官吏

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299

登用の方法とか、あるいはその人の出自を検討する場合に

』土

ある程度詳細な経歴を知りうる材料が残されている

」とが必要である。この粘からすると、

三公に就任した人

物は、全一位からみて本停のあるものが比較的多いという、

以上の二つの理由によるものである。

また最初にことわっておかねばならないことは、官吏登

用法といった制度をとりあげる場合に、

首時の政治と密接

に関係する多くの問題をはらんでいることはいうまでもな

ぃ。しかし

この際は繁雑を避けるために、

一腰政治との

関連については後日にゆずり、

本稿では、以上のような観

黙からして専ら制度的な面を中心に検討を進めていくこと

にする。なお史料は原則として活時の後漢書によるが、

部、李賢の注とか王先謙の集解、

あるいは隷棒、隷績など

によって補った場合もある。最後に、本稿の執筆に嘗って

は、とくに江幡興一郎氏の「西漢の官僚階級」(東洋史研究

一一

l五・六、

一九五ニ)

および玉井直弘氏の

「後漢時代の

官吏登用制「昨召」

(歴史事研究一七八、

につレて」

一九五

四)に多くの示唆をえた。

文中にいちいちことわってレな

い場合もあるが、あらかじめ記して謝意を表する。

公にみられる官吏登用法

後漢時代、太尉、司徒、司空の三官をとくに三公と稽し

た。三公は

一切の政務を組理する最高の官で、後世の宰相

に相嘗するものである。建武元年すなわち光武帝即位の年

るまでの凡そ一八四年間に、

から、曹操によって三公の守口が贋止される建安一三年に至

延べ二二

一人を数える。

一就名任でしあてる@い》る

場i込口

もあり

この三公の位についたものは

しかし、この中には同一人で数回

それを除くと寅際には総員一五

と、次のとおりである。

いま就任の時期にしたがって姓名を列奉する

)内の地名は出身地を、数字

-54-

は後漢書列俸の巻数をしめす。

光武帝期

臭漢(南陽

八'-../

王梁(漁陽

一一一)

伏湛〈破邪

一六)

李通(南陽

五)

資融

(右扶風

戴渉(清河)

〆戸、

部局(南陽

宋弘(京兆

侯窃(河南

韓散(南陽)

一-'-./

欧陽激(繁安

察茂(河内

六)

一六)

一六)

六九上)

一六)

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朱浮(浦

玉況(京兆)

趣意(南陽

鴻紡(南陽

明帝期

虞延(陳留

沼運(浦)

牟融(北海

王敏(西河)

章帝期

第五倫(京兆

郵彪(南陽

宋由(京兆)

任陣(南陽

和帝期

丁鴻(頴川

劉方(卒原)

3∞

張奮(京兆

韓稜(頴川

一一一二〉一六)

二一二)¥、ノ

一六)

一一、、J

三四〉

一一〉

二七)

二五〉

三五〉

杜林(右扶風

張純(京兆

鴻勤(親

李新(東莱)

郭丹(南陽

伏恭(浪邪

邪穆(南陽〉

飽呈(上薬

桓虞(左鴻捌)

鄭弘(曾稽

衰安(汝南

弔ア睦(河南)

張輔(汝南

日蓋(河南〉

集堪(泰山〉

一七〉

張百円(趨

二五)

徐防(浦

一六〉

安帝期

梁鮪(河九〉

周章(南陽

七、J

夏勤(九江)

六九下)

劉憧(彰城

馬英(泰山〉

九'-J

李部(漢中

楊震(弘農

劉憲(東莱)

一一一ニ)

順帝期

三五)

陶敦(河南)

朱侵(九江)

劉光(柿)

鹿参(河南

三五)

劉崎(弘農〉

施延(浦)

王卓(河東〉

三四)

三四)

一一一ニ)

二九)

七二上)

四四)

」ノ

魯恭(右扶風

陳寵(浦

弔ア勤(南陽〉

張敏(河開

李僑(頴川)

司馬萄(山陽)

哀倣(汝南

陳褒(虚江)

劉授(彰城)

鳴石(南陽)

朱寵(京兆〉

張暗(健篤

許敬(汝南)

王襲(山陽

孔扶(魯)

責向(南郡)

郭度(左官明朗〉

一五)

六〉四¥ノ

三五〉

- 55ー

四六)

四六)

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301

劉議(長沙).

越戒(窃)

胡贋(南郡

橿帝期

李固(漢中

杜喬(河内

英雄(河南)

房植(清河〉

韓績(不明)

祝悟(中山)

虞放(陳留)

劉矩(柿

楊一来ハ弘農

周景(鹿江

劉茂(彰城)

彊帝期

王暢ハ山陽

許訓(汝南)

郭嬉(頴川〉

三四)

@

五三)

五三)

六六)

四四〉

三五)

四六)

桓鷲(桁

越峻(下部)

家、湯(汝南)

張飲(河内)

黄現(江夏

丑ノ煩(河南)

孫朗(北海)

盛允(梁)

神島(河南

劉寵(東莱

許槻(頴川)

陳蕃(汝南

宣都(汝南)

間人襲〈柿)

劉嵩(長沙)

橋玄(梁

七'-.J

李戚(汝南〉

宗倶(南陽)

揚賜(弘農

唐珍(頴川)

劉逸(南陽〉

陳球(下郊

五一)

実務(陳)

裳逢(汝南)

張済(汝南)

部盛(弘曲皮)

四六〉

経烈(琢〉

六六〉

許相(汝南)

曹嵩(柿)

五六〉

劉弘(南陽)

劉虞(東海

献帝期

資碗(江夏

萄爽(頴川

四一)

科梯(河南

四四)

四六)

六一二)

五一〉

五二)

四六〉

来鐙(南陽)

亥随(汝南〉

段頴(武威

陳抗(東海)

劉寛(弘農

孟爾(河南〉

張顎(常山〉

劉部(河聞〉

許材開(舎稽)

張温(南陽)

張延(河内〉

丁宮(柿)

奨陵(南陽〉

馬日碍(右扶風)

楊彪(弘農

王允(太原

趨謙(萄〉

五五)

一五〉

- 56一

四四〉

五六)

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淳子嘉(済南〉

皇甫嵩(安定

朱僑(曾稽

一)

周忠(鹿江〉

六一)

趨温(局〉

張喜(汝南〉

以上の一五一名であるが〉これを更に各時期別に整理し

たものが、衣の表ーである。

表 I

, 縦、 有 比年 停

員 者 率

% 光 武 帝 32 20 16 80

明 干否 19 8 5 63

章 帝 12 7 5 71

和 帝 18 12 8 67

安 帝 19 16 6 38

1頂 帝 20 19 5 26

桓 帝 23 22 9 41

盤 干音 22 35 7 20

献 帝 19 12 7 58

184 1151 I 68 I 45 %

組員一五一名のうち、

列俸に記載されているものは六八

名である。この六八名という数字は穂員の必%であ

って全

睦として決して多い数とはいえず、また表のーをみてもわ

かるように、後漢後牟期において列俸のあるものが相封的

に少いということも、本稿の目的とする種々の検討の上に

大きな障害となるが、

しかし一躍の見通しをたてることは

可能であろう。

さて、これら後漢時代の三公が、

官位昇進の過程でどの

ような経路をたど

ったかをみるわけであるが、

それに先だ

って漢代官僚の昇進方法について、簡車に概略を述べてお

く必要があろう。

漢代の官僚は、秩寓石といわれる最高の三公は別格とし

- 57-

て、およそ秩二千石の高級官僚から百石以下の下級厨吏に

すべて俸緑によ

って差等がつけられ、その間

@

は、原則的には功第によ

って下級から上級へと昇進した。

いたるまで、

しかし、下級の属吏から出鼓して、すべて功労のみによっ

て上級官吏に昇進しえたかというと決してそうではなく、

その聞にはいくつかの関門を経なければならなかった。そ

の最初にして、

しかも最大の関門は、

百石から二百石に至

る場合、すなわち中央官願や郡牒の属吏から二百石以上の

勅任官となる場合である。

漢代、勅任官の登龍門としてとくに重きをなしたのは郎

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303

のお郎よ官

そも茨ふのくよめうてなーも般のにが二あ百つ石た⑦の。開

門を遇

官であるが、

過する方法には、

パ門良家子といわれるもので、陣西、

天水、安定、北地、

上郡、西河の六郡の上流階級の子弟で、

武術に達したもの

を選んで郎とするもの。

ω任子、すなわち父兄が二千石の公卿に相官する身分に

のほった場合は、任期が満三年になると、

子弟一人を保謹

して郎とするもの。

同入賞によるもので、飢鑑などの時に、穀物ならば六

O

O石、穀債にして三

O寓を納めたものを郎とする。

帥漢代、いわゆる選挙と呼ばれるもので、皐問とか盤墓

などにより、地方長官などの官位を有する人から推薦され

て試験に合格したもの。賢良方正、孝康、茂才、高第、直

言、有道などといった諸科がこの中にふくまれる。

伺太侍、大賂軍、三公などの中央の長官に召されて登用

されたり、あるいは天子に直接徴されて登用されるもの。

」のような方法を一般に酔召というが、

天子みずから召す

場合には、

とくに徴召と呼んで直別する。

国の徴召、昨召については後にゆずるとして、

以上付か

ら帥までのうち、とくにハ円から旬までは護生的にみても、

かなり早い時期から存在した制度で、

いずれも高級官僚と

か世襲的身分のあるもの

あるいは資産家とか豪族などと

いったものの特権的性格のつよいものである。

これに針し

これら従来の世襲

て伺のいわゆる選拳と呼ばれるものは、

的、特権的な官吏の登用を改め、廉く天下に人材を求める

ベく、漢代において始めて行われた登用法として注目され

るものである。先にも若干の例を示したごとく、

この選奉

その中でも最も重

には数多くの科目が設けられていたが、@

要観されたのが、孝廉の選拳であ

った。漢代、孝康の選奉

は、武帝の元光元年(前

二ニ四〉に始まる。嘗時園敬とし

'hυ

ての地位を獲得した儒教の精神にのっとり、毎年郡園の守

相が在野の民あるいは下級の属吏の中から孝なるもの廉な

るもの一人||のちになると人口二

O高人につき一人の割

合ーーを選んで中央に推薦し、中央では改めてその事責を

調査し

その事買に誤りなきことを確認した上で、始めて

のちになると所定の試験

郎中に任ずるという制度である。

が課せられるようになるが、

しカ通

しその場

も合しで推も薦、

さ推れ薦たノと

いうことが大きなウエイトを占めており、

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人物に事寅に反するようなことが判明した場合には、推薦

者は選事不買をもって巌罰をうけねばならなかった。郎中

というのは、九卿の一つ光旅勅の配下に属する三箸の郎中

で、秩は比三百石である。嘗時、大蘇の丞・尉で秩四百

石、蘇長ならば秩三百石であるから、もし彼らが地方官と

して轄任した場合には、大懸ならば丞・尉、小鯨ならば蘇

長の官が輿えられる地位にある。したがって、孝廉にあげ

られて郎中になるということは、将来の築準に向って、非

常に有利な出護黙に立つものであったということができ

る。このことは、

一生を下級の属吏で移るかもしれない少

吏をはじめとして、在野無官のものにいたるまで、康く高

級官吏への出世の可能性が聞かれたことと共に、漢代孝廉

の選奉が非常に盛行した大きな理由である。

漢代の官吏登用法についてその概略を述べてき

これを念頭において、後漢時代、三公についたもの

以上、

た。が、最初にどのような登用法をうけたかを表示したのが、

衣の表Eである。

表中の(

)内の数字は有停者以外のもので登用経路の

304

剣明するものである。これは後漢書の中に嘗人の詳細な列

表 E

総 有 孝 茂 有 任 徴 E手 不

縛明

員 者 廉 才 道 子 召 召他其

光 1201161

明 181 51 1 1 1 1 1 1 1 21 1

章 171 51 31 1 11 1

和 112181 21 I 21 31 1

安 116161 31 1 1 1 1 1 1 1 順 119151 31 1 (1)1 1 1 |叫桓 1221917(1 1 1 1 1 1 1 霊 135 1 7 1 5(2)1 (1)1 1 21 献 112171 31 1 1 1 1 1 1 1 1 計 11511ω126(3)1叫(1)151 4 1ロ(1)120

n3

zu

俸はないが、他人の俸に附載された簡車な附俸とか、ある

いは李賢の注、王先謙の集解などによって加えた。また光

武帝期の一六人については、ここでは一躍その他の項目の

中に入れておいた。これは、そのほとんどが王朝交替期の

特殊な事情のもとで、三公にあがったものであり、したが

って嘗時のいわゆる選奉もふくめた官吏登用法の範鴎に入

らないため、しばらく除外することにしたものである。

さて、この表Eによると、登用の鰹過の判明するものの

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305

うち、孝燦にあげられたものが二六(二九)名と第一位を

占め

ついで貯召の一二(二ニ〉名、任子の玉名

以下徴

召、茂才の順になっている。

」の孝廉の二六ないし二九名

というのは、総員一五一名から光武期の二

O名を除いた

二名についていえば

二割足らずの人数であるが、経歴

のわかる五二名については

五割とその半数を占める数

である。

概して最初に孝康の選翠をうけた

ものがとくに多かったことが、先ず注目されるであろう。

したがって、

ところでこの表Eは、嘗人が最初にうけた登用法を分類

列翠しただけのものであって、

この中には被登用者の意志

は全く考慮されていない。というのは、

列停の記載をみれ

ばわかる如く、後漢時代では

かりにある一つの登用をう

けても、被登用者は悉くみなそれに腔じたというのではな

く、場合によっては病気などを口買にそれを拒絶し、改め

て別の登用をうけて官に就くなどといった、貫際の就官ま

でにはかなり複雑なケlスが存在したからである。

いまそ

れをニ・三の例から具睦的にしめしてみよう。

江夏安陸人。貌郡太守香之子也。:・

理初以父任鯖太子舎人。僻病不就。遭父憂。服闘。五府

w黄現。

字世英。

倶降。連年不躍。永建中公卿多薦理者。

於是合間稽賀純贋

漢楊厚。

卸奔議郎。

梢遷向書僕

倶公車徴。:::理至。

射。:::遷向書令。

(後漢書列侍五一)

」れは最初の登用をことわり、別の登用をうけて官につ

いた例である。賞理の場合では先ず任子による登用を拒絶

しているが、これはひとり任子にかぎったことではなく、

一般的にいえば、下は孝廉を筆頭とする各選奉科目から上

は天子の徴召にいたるまで後漢時代の全ての登用の場合に

みられるもので、

列侍中で「不就」「不慮」「不起し「不行」

ハHV

b

「不至」

といった言葉で表現されるのが、

このケlスで

ある。

公の中では賞理一のほかには李回、

王暢、楊賜、黄

碗、楊彪、萄爽らにみられる。

制陳蕃。字仲翠。汝南卒輿人也。:::初仕郡。翠孝廉除郎

中。

遭母憂。

服闘。

棄官行喪。

刺史周景昨別駕従事。

以諌争不合。

投侍而去。

翠方正。

太尉李固表薦。

侍五六)

徴拝議郎。

再遷震繁安太守。

(後漢書列

元来、官吏がその官職をしりぞく場合には

「坐事菟官」と

か「以疾克官」

の如く副知官、があるだけで、その外の事由に

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よる自分勝手な辞職や退職は許されなかった。

数主義の隼重された漢代、とりわけ後漢になると、儒数の

躍に従って親属の喪に服することが盛になり、他方朝廷で

も結局はそれを黙認したかたちをとったため、官吏がその

しかし‘、瞳

職を放棄して喪にはしることが頻繁に行われた。後漢もと

くに後牢期の人々の列俸の中に「以憂去官」とか「以父喪

去官」、

「以母憂棄官」などといった言葉で表現されるの

@

が、それである。そして、

」のように一度去官ないし苑官

になった場合、

再び官吏になるためには改めて登用をうけ

ねばならなかったことは、

この陳蕃の例にみられるとおり

カ1

彼の例では辞召をことわって徴召に麿じている

一般的にいえば降召されたり、また賢良方正、茂才な

である。

どの選穆のほか、時には再度孝廉にあげられる場合もあっ

た。このような陳蕃にみられる再登用の例は、

三公の中で

は他に第五倫をはじめとしてたとえば、鹿参、

矩、段頴、劉寛、橋玄、劉虞、皇甫嵩ら多くの場合にみら

張敏、

れる。

306

村社喬。字叔柴。河内林慮人也。少矯諸生。奉孝廉。畔可

徒楊震府。精遷魚南郡太守。

ハ後漢書列侍五三〉

」れは先の黄理や陳蕃の場合とは異り、ー連績して登用を

うけたもので、この杜喬にみられる孝廉から僻召という以

外の例としては、

,たとえば酔召から茂才にあげられた楊

震、辞召から高第にあげられた郭丹、野召から直言にあげ

られた魯恭らがある。

主として列俸の記載にしたがいながら、賓際に遁用をう

けた登用法までの過程を分類すると、基本的には以上の三

種に大別される。

したがって、表Eはその登用に鷹じる麿

じないにかかわらず、

全て最初にうけた登用法についての

しかし彼らが貫際に適用を

-61ー

み注目してきたわけであるが、

うけ、官位昇進の出護貼とした登用法は何であったかとい

うことをみるためには

以上のような手績のもとに個々の

場合について改めて検討を加えなければならない。表Eは

このような手績のもとに、その移動を示したものであり、

窪リ

表町は表Eを整理したものである。

また表Eの符践のうち

"

^

〉は付のケl

スをそれ

r・1

〕は刷

〉は先の刊、

ぞれしめし、

+・一の符挽と数字は、

その去就と人数をし

めしたものである。

さて、この表Eをみるに、

一見してそれぞれに非常に複

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307 表直

不総有 孝 直 高 任 徴 辞明

員 者 股 才正 言 第 子 召 召其他

明18151 [1 <ー1〉(く+1)1 lく+2〉l1く 1)1 12く一1)1 1 章171 513 fl-1] 1 1 [+lJI 1 1 和112181 lt!?l 12 [+ 1J 13 < -1) 1 1 安1161中〔一1]1く+1>1 1 11 [+ 1J 11く1)1順1191513[一1J1 1 1 [+lJ 1 1

桓1221917~ =~~ 1 I [+1] 1 12111(川i:;ii13lM

1351715 t =~j 1 く十ぺ [ li:ijl |〔+3〕!2;;jjlM震 351715 [-4J 1 [ -1J 1 [+ 1J

献H713 ~=:1j 1 litij|1(一1〉|lit;j|1日1itii

表 IV

有孝!茂方直不

高 任 徴 時明

者燦 才正 言 第 子 召 召其他

明 8!51 1 21 1 1 1 1 章 I71 51 21 1 1 1 1 1 1 和 112181 21 1 31 21 1 安 11616 1 2 1 1 1 1 1 1 21 順 119151 21 I 1 I 1 1 1 I 桓:22[ 91 1 1 1 1 3 i 41 1 湿 135171 f3l |献1-121711[1 1 I 41 1 1 1

計 11511681 91 1 1 31 1 41 2 171川6

-62一

雑な登用の過程を程ていることがよくわかるが、これを先

ず年代的に注意して眺めると、先の伺にあげた去官、、菟官

のケlスが章帝・和帝頃よりみえはじめ、とくに後期の桓

帝以降になると大部分が去官であるが、その数が非常に多

くなってくること、同時に仙の不就・不麿のケlスも後期

に入って額著になってくることが注目される。したがって

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後漢も後期になると、最初の登用だけで三公に至るケ

lス

が非常に稀になり、大多数のものが数種の複雑な登用を鰹

ていることが指摘されよう。

次に登用を、その項目別にみると、昨召の場合にはあま

り襲動はみられないが、表Eで塵倒的に多かった孝廉が後

期に入ると急激に減少し、逆に表Eではごく僅かの例しか

やはり中期から後期にかけて急に

みられなかった徴召が、

増加の傾向をたどり、

全置からすれば徴召、昨召、

ついで

孝簾の順にな

ってきている。

しか、も表匝でその内容をみる

に、昨召がプラスとマイナスほぼ相い宇ばしているのに針

し、徴召の場合は一例を除いて全てプラス、孝廉の場合は

@

同じく一例を除いて全てマイナスばかりという、非常に輿

味ぶかい事責を提供してレることは、

とくに注意しなけれ

ばならない。

このように後漢も後期になると、

とくに孝廉の数が激減

し、しかもその場合にほとんど全てマイナスばかりである

ということは一種何を意味するのであろうか。端的に結論

なるほど高級官僚へ

をいえば、孝簾にあげられることは、

308

至る重要な一つの開門を通過するものではあったが、

し台、

しそれはあくまでも車に通過しただけのことであって、

して孝廉だけでは高官にのぼる完全な僚件を具備するにい

たらなくなったということである。

」の黙に閲しては、

台、

って玉井直弘氏が「孝廉は官位昇進の必要僚件ではあった

が充分保件ではなかったと考えて誤りあるまい」

@

されたが、これは非常な卓見であった。

と指摘

それでは、後漢も後牢期に入ると何故このような現象が

生じてくるのかということが、次に問題となってくる。そ

こで以下項を改め、

とくに孝廉と辞召、

徴召の三者をとり

- 63ー

あげて考えてみることにしたい。

孝廉と扉召、徴召について

孝廉にあげられると郎中に除せられるわけであるが、こ

の郎中というのは比三百石であり、

そのまま地方官として

轄出した場合でも大豚ならば丞・尉、小鯨ならば蘇長などの

いわゆる蘇の長吏のポストがあたえられるもので、官吏昇

進の遁として非常に有利な出費黙に立つものであったこと

は、既に述べたところである。

ては、巌耕墓氏の

この漢代の郎の制度につい

「秦漢郎吏制度考L

に詳述されておい

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309

」こで再び繰返すつもりはない。

しかし、この郎官の制度

において、

一つだけとくに注意したいのは、

郎には定員が

なかったということである。漢の郎には比六百石の議郎・

中郎と比四百石の侍郎、

それに比三百石の郎中の四階級に

分けられるが、漢書百官公卿表および績漢書百官志によれ

ば、いずれも「無員」とある。

しかもこれらの郎は、最高

の一議郎は例外として、

みな宮殿の宿衛と車騎として出充す

るほかは、

とくにこれといった定った役職があるというの

ではなく、

本来はこの期間に材能を試みられる、

いわば官

僚の汲備軍ともいうべき性格のものであった。すなわち、

これらの郎が鯨の令長となる方法には、大きく分けて下級

また光旅

の郎から上級の郎へと順次昇格してなる場合と、

勅の茂才

・四行などにあげられ抜擢されてなる場合とのこ

つがあったが、しかしいずれの場合においてもその昇進抜

擢には、才能や徳行のほかに功次による基準も設けられて

いたから、郎がその材能を試みられる期間というものは、

かなりの歳月を要したことが知られる。

しかもこの場合、

官吏の需要と郎の供給との聞に均衡の保たれているうちは

明叫慣迫キJh

工、:、

l

題tTL、刀

しかし時代が下り祉舎がある程度安定して

くると官吏のポストもしだいに固定する傾向にあり、

まし

て定年制のない嘗時にあっては、需要は減少していくばか

りであったと考えられる。

しかるに郎の方は孝廉科だけで

も毎年凡そ二

OO人の割合で増加してくる。

しかも郎に除

任されるのはひとり孝廉の選挙ばかりではなく、

始めにも

述べた如く賢良方正とか明樫といった選撃のほかに任子な

どの登用法によるものもあったから

その数は毎年相首な

数字にのぼったことは容易に想像される。楊棄の停による

と桓帝の頃のことコニ署の見郎七百絵人」(後漢書列停四四)

-64

とあり、,同じ頃陳蕃の停では

「三暑の郎吏二千人」

(後漢

書列停五六)などとみえているが

恐らく後漢も中期以降

になると、常時千人前後から時によっては数千人にのぼる

郎が待機していたと考えて間違いはなかろう。

」のようにみてくると、

なるほど孝廉の選参によって郎

中へあげられるということは

将来高級官僚へと準む遣を

一歩前進したとはいえるが、

しかしながらその登用は原則

として郎官までの登用であり、

僚珠備軍であり、

しかもその郎官の地位は官

また無定員であるがために、非常に不安

定なものであったといわねばならない。

したが

って今度は

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多敷の郎の中からいかにして上階準級の道をひらくかが、

一つの大きな問題となってくる。

二百石の勅任官待遇をう

けるのが官僚出世街道の第一の開門とすれば、

これはまた

第二の難関とでもいうべきものである。

そこで、次に大き

くうかび上ってくる登用法が、

いわゆる辞召であり、徴召

である。

漢代においては太侍、大将軍、三公、九卿、郡の太守と

か都尉、あるいは牒の令長などといった中央や地方の長官

は、自己の属僚を自由に選任することができた。これを一

般に蹄召とよぶが、しかし貫際の官吏登用法の上からとく

に問題となるのは、なかでも太侍、大将軍、三公などいわ

ゆる五府の昨召(降命〉である。すなわち、昨召という場

合は多く太停、大将軍、

ものである。

三公に召されて公府の擦属となる

そこで、

いまこれら公府の援属の構成を太尉府の例から

みてみよう。績漢書百官志の太尉の僚に

長史一人千石。本注目。書諸曹事。嫁史属二十四人。本

3-10.

注目。漢奮注。東西嫁比四百石。儀擦比三百石。:::令

史及御属二十三人。本注目。漢奮注。公令史百石云云。

とある。この太尉府においては長史一人、援属は二四人で

これに令史御属二三人を加えると組計四八人であ

る。同様に司徒府では長史一人、嫁属三一人、令史御属三

六人の計六八人、司空府では長史一人、嫁属二九人、令史

御属四二人の計七二人である。またそのほか太侍府では四

@

七人ゅ大将軍府では凡そ六

O数人である。したがって嘗

あり、

時、公府の属僚は凡そ玉、

六O人から七

O人程度の定員で

構成されていたことがわかる。

しかもその場合に千石の長

史一人は別格としても嫁で比四百石から比三百石、属で比

@

三百石の俸様をうけている。すなわち、

Fhu zu

」れからしでも公

府の援では既に郎中に相嘗する俸様であり、属の比二百石

でも勅任官待遇に準ずる俸稔をうけていることが知られ

る。したがってこの場合には、郎を経ないで二百石の関門

を通過する方法が、既に制度化されていたわけで、昨召を

考える場合には、この貼とくに注意しなければならない。

しかも彼ら嫁属は一生を公府の嫁属として移るのではな

く、中央官地方官として韓出することも可能であるのみなー

@

らず、また辞召者である太停、大将軍、三公には、それぞ

れ官更を弦擢する茂才、廉吏、高第といった選奉擢がある

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311

ため、

いきおい彼らは相封的に少い人数の中から、非常に

有利な候件で長吏に抜擢される機舎に恵まれていたという

」とができる。その

一例をあげても、昨召から茂才にあげ

られ四選して剤州刺史とな

った楊震

同様に辞召から高第

にあげられて侍御史となった科晶、陳球、

王允などがあっ

た。このようにみてくると、昨召というものは、官吏登用

の上での法制的盲貼をついた一種有利なバイパスとでもい

うべき性格の登用法であって、そのことは表皿の跨召の項

でプラスとマイナスが錯出すること自佳、

何よりも雄捕に

物語るものである。

同時にこの跨召の有利な馳は、被召者

は故吏として賂来が保誼されていたことにもあり、

もやはり見逃すことのできない事質である。

」の黙

徴召は

はじめにも述べたように、

太侍、大将軍、一二公

など高級官僚の推薦により

天子が直接本人を徴して登用

するもので、徴命ともよばれる。

この徴召、徴命をうけた

ものの中には直接中央や地方の要職に抜擢される場合もあ

@

るが、その多くは議郎に除せられている。議郎も郎官の一

つでやはり定員はないが、しかし郎官の中では最高の地位

にあり、秩は六百石で天子に具申することも許されてい

るo ~

またこの議郎とレうのは、漢代とくに後漢の選翠除任の

上からいうと、賢良方正などにあげられ針策において首位

あるいは上位にな

ったものが除せられる官であった。たと

えば戴

封。字卒仲。済北剛人也。・::詔書求賢良方正直言之

士有至行能消災伏異者。公卿郡守各翠一人。郡及大司農

倶牽封。

公車徴陛見。針策第一叶擢奔議郎。遷西華令。

(後漢書列縛七一)

張失。字然明。敦煙酒泉人也。:::翠賢良。針策第一。

擢奔議郎。永寄元年遷安定属園都尉。

- 66-

(後漢書列侍五五〉

魯不一。字叔陵。・::建初元年粛宗詔。翠賢良方正。大司

農劉寛掌不一。

時劉策者百有除人。

唯不在高第。

除魚議

郎。遷新野令。

(後漢書列侍一五)

蘇章。{子孫文。扶風卒陵人也。::;安帝時翠賢良方正。

針策高第。魚議郎。:::出魚武原令。

@

とあるのがそれである。したが

って議郎というのは郎官の

(後漢書列侍二一)

中では最前列に位置するものであり、

それだけに郎中など

といった他の郎とは異

って、その昇進は早かったものと考

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えられる。そのことは先の魯不一、戴封、蘇章はいずれも後

漢前期から中期にかけての人であるが、全て遷りて牒令に

補せられてレるし、また中期から後期の人張失になると属

-園都尉になっていることからもわかるが、

ついてみても、徴召されて議郎を拝した陳蕃は再遷して繁

たとえば三公に

安太守となり、同じく皇甫嵩は遷りて北地太守となり、

た責理は議郎から尚書僕射を鰹て向書令となり、楊彪は同

じく侍中を経て京兆予となっていることなどからもうかが

@

われる。

ところで、このようにその有利性がみとめられる徴召に

一つ注意しなければならないことがある。それは

既に述べたように、徴召される場合にはいずれも太侍とか

おいて、

大将軍、三公といった中央の高官の推薦によるものであっ

たという黙である。そのことは先の寅理・陳蕃の例でもみ

られるが、そのほかたとえば責璃の俸に、

太尉楊賜上書。薦萌有接範之才。由是徴拝議郎。擢篤主円

州刺史。

(後漢書列縛五一)

とあるのがそれである。このように徴召においてその推薦

312

者である太停、大将軍、三公は、

他方辞召の場合の野召者

であることは、既にみてきたところである。

とすれば、表

面では徴召というかたちをとっていても、

その貫質は先の

昨召から茂才や高第にあげるといったケlスの特殊な場合

と考えることができるのではなかろうか。すなわち、私見

よりすれば、徴召という登用法は、

山高官の辞召の範暗に属する特殊例的な側面をもつもので

その内容からいって同

あったと考える。

以上のように僻召あるいは徴召は、孝擦の場合に問題と

なったいわゆる三署の郎中を鰹ない登用法であるが、中で

-67-

も賠召は、公府の援腐は自由に選任できるという粗法が、

しだいに旗大、流用されたものとして、制度的にはとくに

注目されるものである。

」のように資料に現れた官位昇進の経過の上から判定す

るだけでも、僻召とか徴召といった登用法が孝康の選奉よ

りもかなり有利であったことが知られるが、それではこれ

ら僻召や徴召が孝廉にくらべてどの程度に有利でありまた

捷径であったかということを、若干の例により三公に至る

までの具鐙的な年数によってみてみよう。

和帝のときに三公の位についた丁鴻、張福岡、徐防、陳寵

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313

先ず張扇は永卒八年(六五)に孝擦にあ

についてみると

げられ、永元一二年(一

OO〉

に太尉を奔するまで三五年

を要し、同様に徐防は永卒中(五八J七五)

に孝康にあげ

られ、永元一四年(一

O二)に司空を奔するまで二七

i四四

年、中をとると大建三五年を要している。

」れに劃して、

辞召された陳寵の場合

では

明帝末章帝初年(七四J七

九)から永元一六年(一

O四)

まで二五J三O年、中をと

ると凡そ二八年であり、

また徴召をうけた

丁鴻の場合で

は、永卒一

O年(六七)

から永元四年(九二)まで二五年

である。すなわち、これらの例からみると、孝廉と辞召、

徴召の場合とでは凡そ七・八年から一

O年ちかい差がみら

れる。」

れを一躍後漢前期の例とすると、中期の安帝・順帝期

では、孝康の場合に張敏で三

O年、李部で二五年、

胡庚で

二六年であり、降召された張暗で一七年、楊震で一一年、

徴召された劉慢では凡そ一五年である。

この時期になると

全世に約一

O年ちかい年月の短縮がみられるが、

その場合

でも孝擦と辞召、

徴召との差は、先の前期の例と同様に

O年前後のひらきがみられる。

橿帝以降になると、辞召の場合に楊棄で

二八年、杜喬で

周景で四J二九年、李固で

二五年、陳球で一五J二O年、

一一一J九年であり、徴召では皇甫嵩の二二年、陳蕃の二一年、

楊彪の一二

i一七年などがある。大鐙この後期においては

僻召、徴召ともに一

O数年から二

O数年というのが一般で

@

あったとみてよいであろう。

三公就任の年月日は本紀によって判明するが、他方登用

をうけた年になると列停でも記載されていることが稀であ

り、また後半期に入ると登用の過程が非常に複雑で、

ずしも精確を期することはできない。

必ら

-68一

しかしここにあげた

数例から判断するに、孝康と僻召、徴召とでは、

かなり早

くから大鐙

一O年前後の年数のひらきがあったことがわか

り、しかもその差は恐らく後期になるほど大きくなり、

には孝康のみではほとんど三公に昇進できなくなる程にひ

らいてレったと考えてよいではなかろうか。

入に引く崖寒の政論に、

北堂書紗巻六

三府援属。位卑職重。及其取官。又多超卓。或期月而長

州郡。或数年而至公卿。

とあるのも、

決して誇張された言葉ではなかったのであ

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る。したがって、このように郎、

とくに三署の郎中を経な

い登用の道がしだいに固定してくると、孝擦にあげられ、

いつになれば昇進抜擢されるのかわからず、またかりに昇

進してもかなりの年月を要する三署の郎中となるよりも、

むしろそれをあきらめてより確寅な昇進の道として辞召、

徴召が選ばれたといえるわけで、表Eのプラスとマイナス

が、これを如寅に物語っているといえるだろう。

そして更

に重要なことは

」の辞召とか徴召によって長吏になるも

必然的にそれだけ郎からの昇進の

遁がとざされてしまうという悪循環を生む結果におちいっ

のが多くなればなる程、

たことで、

」の黙は後漢末の政治とも関連して、

とくに注

意しなければならない問題である。

ともあれ以上、後漢の三公階層にみられる登用法におい

て、孝廉が中期から後期にかけてしだいに辞召や徴召にと

ってかわられてくることを指摘した。

しかしながら、この

事貧をもって、後漢時代の官吏登用の上で、孝廉の選事が

全くその存在債値を失

ったというのでは決してない。それ

は孝廉にあげられるということが、また辞召や徴召をうけ

314

る際の一つの有利な傑件になったと考えられるからであ

る。鉾召の場合をみるに、元衆院肘召には「四科、の辞」すな

わち一徳行、二明程、三明法、四剛毅という選考基準があ

m-

り、それぞれに鹿じて職が定められてレた。

しかしながら

寅際には課試などといった巌重な審査は行われず、「其の

@

@

賢なるを聞きて辞すL

とか、また「其の名を聞きて僻す」

とあるように、専ら聾望によっ・て辞召することが行われて

いたため、孝廉にあげられるということ、

既に野召をうける場合においても非常

またあげられた

ということ自睦が、

に有利ない傑件を有していたといえるからである。

したがっ

-69一

て、孝康の選拳が官位築湛のための充分僚件たりえなくな

ったとしても

やはり必要保件であったことには襲りはな

かった。むしろ、孝廉という濯拳が、

しだいに充分保件か

ら必要保件に移行していく主要な原因は、定員のない郎官

の制度と共に、

それは孝療の選奉制度の中に本来的に存在

する制度上の歓陥と、

またそれを巧に利用して行われる数

@

々の不正な行震に起因するものと考えられる。

三公の出自

前節において、後漢の三公がどのような官吏登用法をう

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315

けたかをみてきたが、それでは次に、彼らが後漢の吐舎に

いかなる階層の出身者であったかを考えてみた

おいて、

し、。次の表Vは、それを示したものである。

表V

| ll 侍 千百

員者公卿石石石室侯族詰

光 120 116 1 1 [ 2 1 3 I 2 [ 2 I [い(1)[5 明[81 51 1 1

章 171 51 1 2(1)1 1 1 1 和 11218[ 1 I 1 41 21 安 1161 6 1 2(1)1 1 [ I 1 1 順 11915[ 1 1 1叫 1 1 1 1 11川

桓 122[91州 1 41 1 1 [ 1 1 盛岡517[州叫刈(川 1 (2)1 11(1)1川

献 [1217[説4111i|1|||111i計 1151[ 68 114(14)[叫州叫 6[叫 11叫4(2)

)内の数字は有侍者以外のもので、附博とか注

記によって知られるものである。またこの表は、主として

表弔の(

父租の官職を中心にしてまとめたものである。したがって

項目中、三公以下六百石にいたるまでの官に分類されたも

ののなかには、あとの項目すなわち宗室、列侯、豪族などの

中にも首然ふくまれるものもあるが、後者の分類は父祖の

官職が記載されていないものについてのみ、あげることに

した。官職については父から曾祖父までさかのぼり、それ

らの中で到達した最高の官をもって記入している。二千石

は太守・園相・都尉などを、千石は九卿の丞および大夫・

僕射などを、六百石は博士・鯨令などをそれぞれ指すο

た不明・其の他とあるものは、俸に記載のないものとか、

あるいは単に「家貧し」とか「家業を受く」といった記載

のあるもので、

-70一

一躍在野無官のものとしておく。

ところで、この表を先ず項目別にみると、全睦的に吏二

千石以上の子弟が匪倒的に多く、また時期別にいえば不明

や共の他の項にみられるいわゆる在野無官のものがしだい

に減少するのに反比例して、高級官僚の子弟の進出が顕著

になってきていることがわかる。この傾向は、とくに後期

の桓帝以降につよくみられ、吏二千石以上の子弟に宗室・

列侯・豪族の子弟の数を加えると、桓帝の時では総員三二

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人に劃して一一人の印%を、

同じく霊帝の時には印%、献

帝の時になると買に回%を占めるにいたっている。

しかも

この表では有停者以外の出自の判明しないものがまだかな

り残されているから

かりにそれが判明したとすれば、更

に高卒を示すものと想像される。

このように高級官僚の世

襲化の傾向、

とりわけ嘗時最高の官である三公の場合にお

いてさ之その子弟、子孫がまた三公にのぼるという、

ば三公の世襲化の傾向さえしだいにつよくなることは、

くに注意しなければならない。

四世三公、

四世太尉を出し

た東漢の名族と稿される汝南の亥氏、弘農の楊氏は別格と

しても、たとえば許敬と許訓と許相の三代りほか李部と李

園、劉慢と劉茂、劉崎と劉寛、

王襲と王暢、張散と張延

周景と周忠、科晶と紳梯らの父子とか、あるいは予睦と者ノ

頭、黄現と黄璃のような租父と孫、

更には趨戒を祖父にも

つ趨謙と趨温、

張隅を曾祖父とする張済と張喜の兄弟とい

った如くである。

」のような傾向は、後漢後期になるとむ

しろ一般的な現象とさえなってあらわれてきている。

そこで、問題をふり出しにもどし、最初にあげた表Eと

316

この表Vとを封照してみることにしよう。

この二つの表

は、個々の内容において必らずしも全部が一致するもので

はないが、組じて表

Eよりして先ず最初に孝廉に選拳され

るものが非常に多いことを指摘し、

また表Vからは中央や

地方の高官もしくは名家、豪族の子弟がしだいに多くなる

ということをみてきた。

したがってこの二つの事寅からし

て、後漢における孝廉の被選奉者は、

しだいに政治的、世

舎的な有力者によって濁占されるようになったことを推測

することができるであろう。

もし果してそうであるとする

ならば、これはもはや徳行とか才能といった一個の個人の

71

力量によって選抜されたのではなく、

むしろそれは政治的

な権力、あるいは世舎的な勢力によるものであり、

それは

また権門勢家の塵力によるものであったといわざるをえな

し、。

」のことを更に端的にいえば、中央や地方の高級官僚

の子弟とか

また地方の名家豪族の子弟は、

車に彼らがそ

れにつながる人間であるということだけで、孝廉選撃の劉

象となったといわねばならない。そして彼らが「就」、

ー寸

就」にかかわらず孝廉に選翠されると

それを一つの足が

かりとして高級官僚へいたる過程は、既に前節で述べてき

たとおりである。

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317

以上を綜合すると

孝廉の選挙というものは、

一方では

地方の一豪族を官僚として中央へおくりこむのにあずかつて

また他方では後漢時代の官僚

一つの大きな役割を果した

大きな力にな

ったと同時に、

貴族を形成する上においても、

と考えられる。

このようにみてくるならば、これは孝廉の

選懇制度が制定された首初の意圏、

すなわち世襲の官僚と

か豪族なとによる政治の腐敗を救うべく

天下に隠れた人

材を登用して政治の刷新をはかるとレう意固とは全く相い

反し

かえ

って官吏の世襲化と豪族の官僚化をますます促

進する結果とな

ったことになる。すなわち、後漢時代の官

僚の大部分が孝阪という古代閤家の理想的な登用法をうけ

ながら

しかも現買の政治の上には腐敗と監落が現れてく

るのは、孝康科が官位栄進の充分保件たりえず、その中間

に官僚相互間の私的な闘係を生み出す府召などをはさむこ

とと共に

一つ

には以上のような孝康の選穆そのものの饗

質にも起因するものであ

って、

いわば孝廉選壌の任子法的

性格化

入賞法的性格化こそ

むしろ後漢時代の孝際選準

制の大きな特徴であ

ったと考える。

」の場合におレても、

かかる結果をもたらした主要な原因は、

たとえば選翠が人

物本位の他薦制によるものであ

ったこととか

また選翠者

が郡園の長官であ

ったことなどとい

った孝康の制度そのも

のに本来的に存在する制度的紋陥と

またその絞陥を巧妙

に利用して行われる種々の不正行痛、

したがっ

てそこから

生れてくる選翠の不信の念など多くの関連的理由によるも

のであるが

」れらの貼については別に稿を改めて述べな

ければならない。

以上、後漢時代の三公をとりあげ、

-72一

その官吏登用法と出

身について分析するとともに、漢代の代表的な官吏登用法

の一つである孝肢の選翠が、後漢の官僚制の中でどのよう

な役割を果したものであるかにつレて述べてきた。要約す

ると、先ず登用法においては大多数が最初孝廉にあげられ

ているが

しかし主として定員のない郎官の制度に起因し

て本来は官吏昇進の充分保件であるべきはずの孝廉の選翠

が、時代がさがるとともに貯召とか徴召とい

った複雑な登

用法を鰹なければならなくなってい

った。

しかしこの際召

や徴召におレても、孝廉にあげられているということはや

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, 318

表VI(三会出身郡図表〉

調E

光武l 20 6 1 1 3 1 2 1 1 1 1 1 1

明帝 8 2 1 1 1 1

章手苦 7 2 2 和平E 12 2 2 1 1

安帝 16 3 1 順帝 19 3 2 1 桓帝 22 1 3 2 1 1 1 1

霊帝 35 6 3 1 1 1

献帝 12 1

1じ

持草

貌浪

右扶風

補南

陽1:1

1 萄

2 漢

2 九

1 河

1 河

1

鹿

2 彰

2 山

3 弘

4 卒

4 越

7 泰

10 穎

日一左官切揚

19 曾

言十

中江開東江城陽農原山111 稽南

1 1 1

1

2

1

1 1

1

1

1

1

1

1 1

1

1

1

2

1

1

1

14'i噌

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唱EA

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1

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i'iqUFOtょ

1

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1

1

1 1 1

3=不

2E太

2 安

2 F耳

2

添3一武

3一一常

3 陳

7 東

1 中

1 江

2 梁

7 健

2 魯

3 長

H一一下

明原定南郡威山海はl夏~ 沙ヨ三

1 1 1 2

1 1 1 1 1

1

-73ー

1 1

1

1 1

1

1

1

1

1

1

1

1

2

2 1

1

2 2 1 1

1

2

1

2 2 計

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319

はり有利な保件であって、

その意味では孝廉の選挙は官吏

登用の上の必要保件であったこと。

また出身については

やはり時代がくだるとともに中央や地方の高級官僚とか名

家豪族の子弟の進出が頼著となり、

しかも彼らの多くが最

初孝廉にあげられているということから、孝廉の選翠がし

だいに制定首初の意固とは反し、後漢官僚の官僚貴族化と

地方豪族の政界進出に一つの大きな役割を演ずるようにな

ったことを推測した。

そしてこれらにみられる孝廉の選穆

の錘質は

その制度の中に本来的に内在する制度的飲陥

と、またそれに使乗して行われる種々の不正によるもので

あろうことを推測した。

ただはじめにもことわった如く、

限られた資料と限定し

た硯野の中で分析し論述してきたこれらの推測が、

果して

嘗時の一般的傾向を示すものであったか否かについては、

更に一層廉い範園と康い覗野に立った検討を必要とするこ

とはいうまでもない。

しかし後漢時代の三公が、どのよう

な階層からどのような官吏登用法をうけて昇進したかを知

るとともに、

その中で孝廉の選懇が果した役割の概略につ

いてもひと通りの知識を得るとレぅ、首面の目的は一躍達

した。本稿を一つの手がかりとして、

漢代の選拳制度とく

に孝廉の制度については、改めて検討を加えてみたいと思

本稿ではとりあげるまでにいたらなかったが、

@

三公の出身郡園表(表珂)を附載しておく。

最後に、

註①

漢代の孝療に関する主要な研究には次のようなものがある。

市村墳次郎「後漢の儒数経謬及び孝康選奉と士風との閥係L

(同『支那史研究』所枚〉一九三四。

演口霊園「漢代の孝肢と綴吏」史筆雑誌五三七、一九四ニ。

鎌田重雄「漢代の孝般について」史摩雑誌五五七、一九四

四。

努総「漠代察挙制度考」中央研究院歴史語言研究所集刊一七、

一九四八。

殿耕笠「秦漢郎吏制度考」中央研究院歴史語言研究所集刊二

三上、一九五一。

漢代三公の組織と機構については、周道済氏の「漢代宰相綴

閥」(大陸雑誌一九

l一て一九五九)を参照されたい。

三公を代行したものが数人あるが、いまそれらは省略した。

梁鮪と次の罪勤の三公就任の時期は、それぞれ延卒元年(一

O六〉正月と六月で、ともに務・恰の時にあたるが、務帝の在

位期間はわずか八ヶ月のため、便宜上安帝期の中に分類し

-74 -

① ③①

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た李固の就任は沖帝の建康元年(一四四)八月であり、次の裳

湯は本初元年ハ一四六〉閏六月で巌密には桓帝の卸位以前、

質帝の時期に笛るが、沖帝・賀帝の期闘を合しても一年一

0

ヶ月であるため、便宜上桓帝期の中に分類した。

功次については大庭僑氏の「漢代における功次による昇進に

ついて」(東洋史研究一二三、一九五三)を参照されたい。

江幡其一郎氏前掲論文および宮崎市定氏『九品官人法の研

究』第二編第一章参照。

註①参照。

川刊にみられる就官の拒絶と伺にみられる去官については、最

近に鈴木啓造氏の「後漢における就官の拒絶と棄官につい

て」ハ中国古代史研究曾編『中園古代史研究』第二所枚、一

九六五)が護表されている。

後漢書列停三一寒朗侍。寒朗字伯奇。魯園醇人也。:;:及長

好経由学。博通書待。以尚書教授。摩孝康。以謁者守侍御

史。・・・菟官。復血苧孝康。

個々の列停にみられる登用のケ

lスが非常に複雑であり、ま

た繁雑をきわめているため、

ζ

の表が完全なものだとはいえ

ない。しかし以下のような原則のもとに数聞に亘って整理し

精確を期したつもりである。刊の「不就」においては、いく

つもの登用を拒絶した場合は最初のものを採用した。たとえ

ば場彪の「初事孝康。州皐茂才。酵公府。皆不慮」という場

合であれば、孝康でだした。伺の「去官L

「菟官L

について

は、原則としてそのあとの登用法の制判明するものについての

⑤ ⑦ ①③ ⑬ ⑪

み採用した。ただし、後に述べるように、「去官」「菟宮」

のあとで議郎の宮に奔せられている場合にかぎり、徴召とし

て扱った。註⑫参照。

徴召と孝厳でほとんど例外的にみられるとの唯一の例は萄爽

である。省爽は先ず徴命を拒絶し、ついで至孝にあげられて

郎中を奔し、棄官して再び徴召に感じている。徴召を拒紹す

る例は列俸の中に多見するが、徴召を拒紹して選患に感じた

例は非常に稀である。

五井直弘氏前掲論文。

註①参照。

漢書百官公卿表上。郎中令。:::郎掌守門戸。出充車騎。有

議郎中郎侍郎郎中。皆無員。多至千人。議郎中郎秩比六百

石。侍郎比四百石。郎中比三百石。

綾漢書百富士山。

〔光線融制〕五宮中郎勝。

:・五宮中郎比六百

石。本注目無員。五官侍郎比四百石。本注目無員。五官郎

中比三百石。本注目無員。凡郎官皆主更直執戟。宿術諮殿

門。出充車騎。唯議郎不在直中。

殿耕望氏前掲論文参照。

光隊勅の茂才、四行においても功次が要求されたことは後漢

書列侍五一黄碗停に

奮制。先株翠茂才四行。以高功久次才徳尤異者。震茂才四行。

井』みのヲhv

市村潰次郎氏前掲論文を参照。あるいは濁夫論島恒三賀貢第、

通奥谷一三の注にも同じような数字がでている。

漢官(孫星術弱、漢官七種本)に

-75 -

⑬⑬⑬ ⑫⑬ ⑬ ⑬

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太侍長史一人。秩千石。嫁廊二十四人。令史御属二十二人。

とある。また漢官によれば「司徒擦属三十人、司空嫁廊三十

四人」とみえている。

拙相瑚明書百官志。将軍。:・

'長史司馬留一人。従事中郎二人。

嫁溺二十九人。令史及御廊三十一人。本注目。此皆府員職

也。

後漢書列仰一

O銚期待の李賢の注にも

漢官曲四日。東西宮後比四百石。険機比三百石。

とある。

後漢書列仰三六陳筒待。寵少尽州郡吏。附叶司徒飽日立府。是時

三府嫁印刷専尚交遊。以不常現場然高。筒常非之。濁動心物

務。敏内川口比隙前世便宜。申穴高其能。川判然僻曲。・

e=一造崩

宗初骨川尚」針。

五井一向弘氏前掲論文参同問。

なお砕召については大庭術氏より多くの御教師伐をいただい

た。乙こに記して謝意を表する。

三公の中では先に引用した質種や陳蕃の例にみられるが、そ

のほかには

後漢詩列侍六一皇甫山倒。出;:初血平孝燦茂才。太尉陳蕃大

将軍咽阿武述降。並不到。

鐙帝公市中徴。得議郎。濯北地太

守。

後漢郡列仰四四国側彪附問。彪・;:初摩孝版。州製茂才

P

醇公

府。並不態。烈卒中。以博期間帯問問。公車徴。奔議郎。遜侍

中京兆苦ノ。

後漢書列縛四六紳晶画体。器・・:懇孝際。野太尉府。血争高第。

@ @ @ @

@

順帝末矯侍御史。・:坐事菟筋。後司隷校尉翠希賢良方正。

不態。徴奔議郎。遜南郡太守。

後漢書列体五一資筑仰。臨時

・・

以公孫奔章子郎。僻病不就。

。光和米太尉錫賜上書。

桶川碗有援飢之才。由是徴奔議

郎。摺骨川訓円州刺史。濯侍中。中卒初出尽右扶風。

などがある。また三公以外では、たとえば

後漢書列山内二九淳子恭得。建初元年。新宗下前。美恭一系行。

告郡賜崩二十匹。遺詣公車。除骨川議郎。遜侍中騎都尉。

後漢書列仰五七宗慈体。慈・・血市孝版。九時公府。有道徴。

不就。後矯術武令。・・・途棄官去。徴奔議郎。未到道疾

卒。

後漢書列仰五七孔川北川川。星少習家周平。

大将軍梁災時。不思。

太尉怨方正。封策不合。乃僻病去。・・盤帝即位。公事

徴。奔議郎。補洛陽令。

などがその一例である。しかも乙の徴召から議郎というケー

スは中期から後期にかけてしだいに多くなってくる傾向にあ

るが、これは孝燦などの選恕もふくめた後漢の郎官の制度か

らも改めて検討する必要がある。

摘刷漢書百官志。光敵大夫比二千石。本注日。無員。凡大夫議

郎。皆掌顧問態封。

特殊な場合であるが、賢良方正にあげられ封策下第で郎中に

除せられたものに、つぎのような例がある。

後漢書列仰五五皇甫規山伸。沖質之問。梁太后臨朝。規加申賢良

方正。封策日。:;:梁紫念其刺己。以規箆下策。奔郎中。

なお前漢では賢良方正にあげられたものは、多くは豚令に術

-76-

@

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322

⑧@

せられている。

註@参照。

畳用から三公に至るまでの年激は、同時に三公就任時の年令

とも関係してくる。

ζ

の年令の剣明するものは、凡そ次のと

おりである。長印を付したものは概数,をしめす。

光武閣制禁茂六九百情動五七越惹五五由貿十融五三

t

郡高二四

明帝期郭丹八五伏恭六七飽長義六四

章帝期第五倫後七五

和帝期魯恭六九

安帝期楊震六七

順帝期張陪七七胡度五三

桓帝期楊乗七一賞理六六科嵩五九李国五二

霊帝期陳球六二橋玄五九劉寛五七

献帝期萄爽六二王允五四賀碗四九楊彪四八

光武期に非常に年令が低いのは後漢王朝初期の事情による・も

のであるが、乙れを除くと大種明帝章帝頃を頂鮎として以

後、後期にかけてしだいに年令が低くなってくる傾向にある

ととがわかる。とくに桓帝以降になると、五

O代、四O代の

三公が出現している。

ζ

れは一つには登用をうける年令がわ

かくなってきたζ

とにもよるであろうが、また登用そのもの

においても、野召とか徴召といった有利な澄用法を遁用一され.

たことにも起因すると考えられる。

漢奮儀容上(孫星ー街穂、漢官七種本〉に次のよ玉な記事があ

る。

(上略)丞栂設四十一科之腰。以博一選異'徳名士。::

第一科目徳

符高妙。志節貞白。二科目拳通行修。経中博士。三科目明

瞬法令。足以決疑。能祭章覆問。文中御史。四科目剛毅多

略。遁事不感。明足以照姦。勇足以決断。才任三輔劇令。

皆試以能信。然後宮之。第一科補西曹・南閣・祭酒。二科

補議曹。三科補四辞・八奏。四科補賊決。

⑮後漢書列停四四楊震停。

⑧後漢書列樽四一陳調停。

⑧F

選皐の不正については、楊聯陸氏の「東漢的豪族」(清撃事

報一一|四、一九一二六〉および市村増次郎氏前掲論文を参照。

ζ

の表によると、南陽の一九人を筆頭に以下汝南一四人、補

一一人、河南一

O人、額川、京兆、弘農各七人の順になり、

とくに南陽出身者の多いことが指摘される。南陽はいうまで

もなく光武帝の出身地であり、その地の人が多く官僚にとり

たてられたζ

とは、次の郭仮の言葉からも知られる。

後漢書列停二一一部仮侍。依言。選補島県職。首簡天下賢俊。不

宣専用南陽人。

また市村靖次郎民前掲論文では、郡闘の人口から毎年選翠き

れる孝康の定員を制割り出し、とくに南陽、汝南、頴川に多い

ことから此らの地方から人材がでたのは孝康の選単によると

された。

-77 ~