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大唐西域求法高僧伝

足立喜六訳注 岩波書店刊

電子化 田口重久

大唐西域求法高僧伝

目次

序説3

大唐西域求法高僧伝 巻上6

大唐西域求法高僧伝 巻下(並重帰南海伝)44

又重帰南海伝有師資四人76

義浄法師西遊年表91

大唐西域求法高僧伝

足立喜六訳注 岩波書店刊行

序説

昭和七年十一月宮内省図書寮御蔵の大蔵経を拝観して大唐西域求法高僧伝を精査する機会を得た。帖は紺紙金泥の帙(ちつ)に納められ、長一尺一分、欄内八寸一分、幅七寸四分五厘、六行十七字詰めにて、上巻・下巻共に題と跋とがある。上巻の題は

福州開元禅寺住持伝法賜紫慧通大師了一謹募衆縁恭為 今上 皇帝祝延 聖寿 文武官僚資崇禄位円成周雕造 毘廬大蔵経板一副 旹(じ)紹興戌辰閏八月 日謹題

とあり、跋は

閩(びん)県崇賢里奉仏弟子潘(はん)師文与室中薛(せつ)氏十一娘謹施浄財開通字経板流通聖教祈保 各身平安願延寿算者

とある。下巻の題・跋は上巻に同じく、浄財を長財に、祈保各身平安を各為自身祈保平安、寿算を福算に作る。これは紹興戌辰(1148年)八月に閩県崇賢里の潘師文等の寄進により、福州(福建省閩候県) 開元禅寺の住持慧通大師の開彫せる所謂開元禅寺版大蔵経本なることが知られる。<2>高麗版(新)大蔵経。黄檗版大蔵経及び近来刊行せる諸大蔵経中の大唐西域求法高僧伝に対校して多くのか訛誤錯簡を訂正することができた。

本書は宮内省図書寮本を底本として、大唐西域求法高僧伝の原文に句読・訓点を施し、且之を邦文に翻訳して詳細なる注解を付記したものである。本書の注解は一切経音義に極めて簡略なるものがあるのみである。また近年刊行せる大蔵経には本文に句読点を加えたものもあるが意義の通ぜざる箇所が甚だ多い。Samuel Beal氏はThe Life of Hiuen-Teiang.(London new edition, 1911)の緒論の一節 Kau-fa-kao-sang-chuenに求法僧の行動を概説して唐代のインド・シナの交通路を求めんとしている。また西暦1894年にEdouard Chavannes氏は Voyages des pelerins bouddihistes.を著して、全編の仏訳と主要なる名辞の注解を施し、且義浄の西遊。唐代求法僧の行路・義浄のシナ仏教史上の位置・宋高僧伝義浄伝の仏訳などを付記してある。これは本書解説の唯一にして最も原始的なものである。

大唐西域求法高僧伝は義浄三蔵が室利仏逝国に滞留中に撰述して、天授二年に之を則天武后に伝献したもので、その重寄南海伝は帰還後に追録したものである。全編は之を個別的にみれば当時の求法僧六十余人の略伝であり,之を総合的に見れば義浄法師の西遊自叙伝である。またその内容は<3>西域・南海・インドの宗教・地史の実録にして、撰述の目的は仏教興隆の建白書である。叙述は簡潔・精緻にして、陸海の行路・ナランダ寺の規模を詳述せる如きはけだし稀観の秘冊たるべく、所々に挿入せる詩偈は孰も詠誦しておきがたきものである。特に詩偈は義浄の最も得意とするところにして、絶句・律詩・伽陀、祇夜の核をとれるはもちろん、その句を長短にしその韻を転換して巧みに旋律を調整している。その妙技には驚嘆せざるを得ぬ。然るに従来これらの韻文は本文と相混して、頗る鑑賞に不便であった。それゆえに特に節・句を分かち韻字を標記してその便宜を図った。

惟(おも)うに、シナ仏教史・東西交通史の資料として、また仏教文学の精華として、本書の価値は法顕の仏国記・玄奘の大唐西域記とともにシナの緇(し)徒の著せる世界的三大偉書と称すべきものである。仏国記と大唐西域記は仏蹟順礼に重点を置けども、大唐西域求法高僧伝は求法伝灯の事蹟を強調したるものなれば、自ら海陸の行路・講学請益の事情が重んぜられている。それゆえに本書の講説に当たりてインドの仏蹟および西域・南海の行路を概観しておくことは必要なる予備条件である。しかるに仏跡の概説は、法顕の紀行は簡明にして最もその要を得たるもので、大唐西域記はその詳細を極めたるものであるから、これに再説せず。ただし義浄は法顕・玄奘と仏跡の呼称を異にせるものが多い。これはその各項に詳説するところであるが、便宜のため、あらかじめ顕著なるものの対照表を挙げておく。<4>

義浄

法顕

玄奘

祇園・祇樹、祇陀

祇洹

逝多林・孤給園

竹苑

迦蘭陀竹園

迦蘭陀竹園

天階

僧伽施国

劫比他国

菴園

菴婆羅女園

菴没羅園

鹿林、[遷-辶+亻]園、山園

仙人鹿野苑

鹿野苑・施鹿林

鷲峰、祇山、霊鎮

耆闍崛山

姞栗陀羅矩吒山

尊嶺・雞嶺、山穴

鶏足山

屈屈吒播陀山

鵠樹・鶴林

双樹

沙羅林

祥河・龍河

尼連禅河

金河

希連河

阿恃多伐底河

菩提樹・覚樹

貝多樹

菩提樹。畢婆羅樹

獅子州・宝渚

獅子国

僧伽羅国

信者寺

湿吠多補羅僧伽藍

贍部州

天竺

贍部州・印度

<5>

また唐代におけるシナとインドとの往来は頗る頻繁にして、その航路のごときは玆に詳説するに遑(いとま)ない。唯求法僧の往復に関係ありと認むる海陸の主要航路を左に表記するに留めておく。すなわち

陸路

1.北道高昌 (Turfan)→烏夷 (Karashar)→疏勒(Kashgar)→[忄+市]捍 (Kokand)→颯秣建Samarkand (烏夷-碎葉 Tokmack-[口編に旦]羅新 Taras-赭時 Yusgum-颯秣建)→鉄門→縛喝 Balkah→迦畢試 Bagialam→健駄羅 Peshawar

2.巴密爾越 疏勒(Kashgar) →掲盤陀 Tashkurgan→商称Iskasham→婆羅[尸の下に羊]羅嶺 Bajur Mts. →濫波 (Lagman) →健駄羅 Peshawar

3.カラコルム越于闐Khotan →子合 Kugiar→於麾Agzi→迦湿弥羅Srinagar→闍蘭陀羅Jallandhar

4.尼波羅道[善におおざと]城(大散関・四川)→多弥道Chamdo→蘇毘Shabando→拉里Laargo→吐蕃Lhasa→子羊同Shigatze→[口編に旦]倉法関Talalablang→末上加三鼻関Manbiasi→尼波羅Khatmandu→毘舎離Basarh <6>

5.牂[丬に戈]道四川(湖南・広西・安南)→昆明→大理→騰越→伽摩縷波Kamrup→贍波Bhagalpur→摩掲陀Patna

海路

1.沿岸航路広州(屯門・神湾・合浦)→贍波Kuang-nang→設那比Sanho→霊山Khamrang→門毒Mytho→郎伽戌Rajburi→鶏籠島Kelantan→軍突弄山Kuantan→質峡Singapore str. →室利仏逝Jambi→羯荼Kedah→蒲甘Pegu→訶利雞羅Arakan→三摩咀吒国Sahabghatta→耽摩栗底Tamluk

2.中間航路広州→設那比→蛮山峡Mantang chan.→室利仏逝→羯荼Koeta-raja→裸人国nicobar→耽摩栗底 (羯荼→獅子州Ceylon・那伽鉢亶那Nagapatam)

3.外洋航路広州→設那比→室利仏逝→訶陵Pekalongan→スンダ海峡Sunda str.→箇羅Benkulen→婆魯師Baros→獅子州→没来Quilon→羅荼Weda→呫婆Cambetum→蘇刺[口編に乇]Surastrene→朅[山遍に齊]伐羅Barbarike→波斯湾

足立喜六識

大唐西域求法高僧伝 巻上

本書の表題は、大津師伝には西域求法高僧伝両巻とあり、南海寄帰内法伝巻第一には大唐西域高僧伝二巻とある。智曻の続古今訳経図紀には大唐西域求法高僧伝一部二巻とありて、その開元釈教録巻第九には従西国還在南海室利仏逝撰寄帰と注記を附してある。而して智曻以後は一般に大唐西域求法高僧伝と称する。また宮内省図書寮本には大唐西域求法高僧伝並序及び三蔵法師義浄法詔訳と題記あり、高麗蔵経本には更に沙門義浄従西国還在南海室利仏逝撰寄帰並びナランダ(那爛陀)寺図と付記してある。かくのごとく名称にも異同があるが、それらの付記はすべて後人の添加したものである。また次の一節は全編の総序である。

<原文略> <4>

かの古より神州の地、生を軽んじて法に殉ぜし賓(ひと)を観るに、顕法師{1}は則ち創めて荒途を闢(ひら)き、奘法師{2}は乃ち中ごろ正路を開く。その間、あるいは西紫塞{3}を越えて孤征し、あるいは南滄溟を渡って単逝す。みな聖跡を思い五体をつくして帰礼し{4}、ともに踵を旋して四恩{5}を報じ、以って望みを述べんことを懐わざるはなし。然り而して勝途は多難、宝処は弥長し{6}、苗の秀ずるもの{7}は十に盈ちて而も蓋し多く、実を結ぶものは罕(まれ)にして一而も全く少し。寔(まこと)に茫々たる象蹟・長川は赫日(かくじつ)の光を吐き{8}、浩浩たる鯨波・巨壑は滔天の浪を起こすに由り、独鉄門の外に歩し万嶺を亘って身を投じ{9}、孤(ひとり)銅柱の前に摽(とげう)ち千江(跋南国に千江口あり)に跨って命を遣る{10}。あるいは飡(さん)を亡う数日、飲をやむる数晨。思慮は精神を銷(しょう)し、憂労は正色を排すというべし。去(ゆ)く者の数は半百に盈たしむるも、留まるものはわずか幾人かあるを致す。設令(たとえ)西国に至るを得る者も、大唐は寺の飄寄し、棲然として客となるもの無きを以って、遑遑(おうおう)として停託する所無く、遂に流離萍転して一処に居ること罕ならしむ。身既に安からず、道寧ぞ隆(さかん)ならんや。嗚呼、<5>実にその美は嘉すべし。誠に芳を来葉に伝えんことを冀(こいねが)い、粗(ほぼ) 聞見によって行状を撰題すと爾(しか)云う。その中の次第は多く去(ゆ)く時の年代・近遠・存亡を以って先後を比せり。(人名表は略す)。

右総て五十六人。先のものは多く零落せり。浄来る日{11}に無行師・道琳師・慧輪師・僧哲師・智弘師の五人有りて見在せり。計るに垂拱元年に当たり無行師と別に西国に執れり。今は何処に存亡するかつまびらかにせざるのみ。

1.顕法師 東晋の沙門法顕。法顕は弘始元年、義浄に先立つこと271年、長安を発して流沙を渡り、葱嶺を踰(こ)え陀歴道より北天竺に至る。中天竺・獅子国を経て遍く仏蹟を歴訪し、遂に南海を過ぎて建康に還える。その間実に13年4ヶ月である。法顕渡天の事蹟は出三蔵記集伝巻第15・高僧伝巻第3・法顕伝などにある。

2.奘法師 唐の大慈恩寺三蔵法師玄奘。義浄の前41年即ち貞観3年に長安を発し、北道を取って印度に入り、五印度を周遊して悉く地理・風俗・仏教を視察し、また戒賢に就いてナランダ寺に学び、貞観19年中道を経て長安に帰る。その事蹟は大唐西域記・大慈恩寺三蔵法師伝・続高僧伝巻5・長安興教寺大遍覚法師塔銘等にある。

3.紫塞 万里の長城の異称。風俗通に秦築長城。土皆紫色謂之紫塞。とある。河南の黄土に対して北シナの土壌の黝(ゆう)色なるためである。古来玉門関と陽関とがあるが、唐代には更に瓜州に玉門関を置いた。西越紫塞とは万里の長城の終点なる玉門陽関を出て西域に向かうをいう。<6>

4.罄五体而帰礼 五体は頭体と四肢、また筋・脈・肉・骨・毛皮をいう。帰礼は帰命頂礼の略。帰命は心身を仏に捧げて信仰すること、頂礼は自己の頂にて仏足を戴く最上の敬礼である。ゆえに帰礼は心身をささげて仏に信仰帰依することである。

5.四恩 天地の恩 国王の恩・父母の恩・衆生の恩。あるいは父母の恩・衆生の恩・国王の恩・三宝の恩。あるいは父母の恩・師長の恩・国王の恩・施主の恩を指すこともある。

6.勝途多難宝処弥長 印度に勝法を求むる困難とその途の良縁なるをいう。妙法蓮華経巻第三化城品に、

譬如、五百由旬険難悪道昿(むなしく)絶無人怖畏之処。若有多衆欲過此道至宝処。

とある。

7.苗秀 論語子罕に

子曰苗而不秀者有矣夫。秀而不実者有矣夫。

とあり。不秀者は学に志して進歩せざるもの、不実者は学は進歩するも成功に至らざるものをいう。ゆえに苗秀は求法に志してインドに向かうもの、結実は志望を達成して帰還するものである。前者は多けれども後者は其の十が一にして極めて少なきをいう。

8.象蹟・長川吐赫日之光 象蹟は大沙漠・流沙・パミール嶺等の巨大なる沙蹟、長川は長大なる大河である。沙漠地方にては沙塵が常に飄盪して空気が混濁せる故に、朝夕の斜陽は著しく熾紅に且大きく見ゆる。この紅<7>陽が象蹟・長川に映じて荒寥たる光景を呈する。海路の鯨波・巨壑とともに求法順礼僧の最も危難を感ずる処である。

9.独歩鉄門之外互万嶺而投身 鉄門は羯霜那国の東南にある中世代朱羅紀の石灰岩の断壁の間を通ずる狭隘路にして、両側の懸崖は六百呎(200m)以上に及びて自然の関門をなす。大唐西域記には鉄扉を設け鉄鈴を懸くとあれども、現在にてはその遺跡を認めずという。(The Duab of Turkestan, Kichmer Kichmers)。この鉄門以外を覩貨羅(トカラ)の故地とす。鉄門を出てOxus R. を渡りHindu-Kush嶺を越えて北印度に向かう。

10.孤摽銅柱之前跨千江而遣命 後漢書巻24馬援伝の註に

広州記曰援到交趾立銅柱為漢之極界也。

とあり。交趾は交州・交府とも称す。安南都護府のある処にして今の河内府付近にあたる。摽は□にて身を捐(す)つなり。高麗蔵経本を標に作り、黄檗本に漂に作るは訛である。また千江の位置は不明。註に跋南国有千江口とあり。跋南国は扶南国・真臘国ともいい、今のCambodiaの地方に当たる。隋書巻82に(真臘)西有朱江国。とあり。朱江国しRin-Ho湖の地方に当たる。千江口の口は国の古字なれば千江国は朱江国の訛ならんか。

また旧唐書巻197に(真臘)地僥瘴癘毒(中略)。五六月中毒気流行。

とあり。跨千江而遣命とは真臘地方の瘴毒に斃るる南海路の惨害をいう。

11.来日 帰来の日の略。すなわち垂拱元年に無行禅師に送られ、ナランダ寺を出発して帰途に就きたる時である。<8>

以上は義浄の自序なして軽生殉法の由来・西域南海の危険・求法請益の困難を叙して、順礼僧の為に印度にシナ寺を特設してこれを救済すべきことを強調せり。その中に掲ぐる求法僧名の序列は諸書に頗る異同あり、また本文との差異も甚だ多い。たとえば表にては同州を州名にあらずと解し、また律師・法師・師等の尊称の用法に深き用意あるに拘らず、表には錯雑せる如きである。思うに後世添削を加えられたる結果ならん。

また帰来の時に尚彼地に留まりし五人の他に、義浄が親しく相交遊したるものは、玄照・仏陀達摩・大乗灯・貞固・懐業・道宏・法朗等の諸師がある。就中無行禅師とは交情最も深りしが如し。これ等は各伝に就いて見るべきである。

本表に掲げてある56人に重帰南海伝の4人及び義浄を加えて総計61人となる。これを国別にすれば

太州

1人

齊州

3人

新羅

7人

覩貨羅

1人

扞州

3人

京師

2人

大唐

4人

吐蕃

2人

益州

4人

同州

2人

交州

4人

愛州

2人

康国

1人

高昌

2人

洛陽

3人

荊州

5人

潤州

1人

晋州

1人

襄州

2人

灃州

1人

高麗

1人

梁州

1人

鄭州

1人

汴(べん)州

1人

北地

1人

不明

4人

<9>

また其の往返の行旅によって別てば

陸路を取りしもの

23人

陸路を取りしもの

10人

1. 往路

海路を取りしもの

40人

2. 帰路

海路を取りしもの

9人

不明のもの

2人

不明のもの

5人

但し往返して再行せる玄照・玄太・僧伽跋摩・義浄を別々に計算して延べ人員65人となる。また之を行動によって概観すれば

1. 印度または獅子国に達せざりしもの25人

滞留せしもの

1人

途中より帰還して

国に帰りしもの

8人

往路途中に

死亡せしもの

14人

行方不明のもの

行方不明のもの

1人

2. 印度または獅子国に達せしもの 40人<10>

滞留せしもの

4人

彼地にて

死亡せしもの

11人

行方不明のもの

10人

帰還の途に就き

途中にて

滞留せしもの

1人

死亡せしもの

4人

行方不明のもの

5人

国に帰るを得しもの

5人

<12>

沙門玄照法師は太州仙掌の人なり。梵名は般迦舎末底Prakāsyamati (俗に昭慧という)。その祖・その父は冠𣆶相承く。而るに総髺の秋簪を抽いて俗を出て、成人の歳に聖蹤を礼せんと思う。遂に京師にゆきて経綸を尋聴し、貞観年中を以って大興聖寺の玄証師の処に於いて初めて梵語を学ぶ。是に於いて、錫を杖き西にすすんで想を祇園に掛け、金府に背いて流沙を出て、鉄門を践みて雪嶺に上る。香池に漱ぎては結念して畢く四弘を契り、葱阜に踄っては翹心して三有を度せんことを誓う。途は速利を<13>経て覩貨羅を過ぎ、遠く胡疆に跨って吐蕃国に至る。文成公主の送を蒙りて北天に往き、しばらく闍蘭陀国に向かう。未だ至らざるの間、長途の険阻に賊のために拘えらる。既に商旅は計窮まって控告する所無し。遂に神写を援いて伏聖の明衷に契ひ、夢見て徴を感ず。覚めて見れば群賊皆眠る。ひそかにみちびかれて団を出て、遂に便ち難を免る。闍蘭陀国に住して四載を経、国王に欽重せられ之を留めて供養するを蒙る。経律を学び梵文を習うて、既に少なく通ずるを得たり。漸次南上し、莫訶菩提に至って復四夏を経たり。自ら恨む、生まれて聖に遇わざることを。幸いに遺蹤を観て慈氏所制の真容を仰げば、精誠を著して替わることなし。爰(ここ)に翹敬の余りを以って、情を倶舎に沈めて既に対法を解し、想を律儀に清めて両教斯に明らかなり。後でナランダ寺に行き、留まり住すること三年。勝光法師に就いて中・百等の論を学び、また宝師大徳に就いて瑜伽十七地を受け、禅門の定瀲亟(すみや)かに関涯を観て既に宏綱を盡せり。遂に弶伽河の北に往いて国王苫部の供養を受け、信者などの寺に重して復三年を歴たり。後に唐使王玄策帰郷し、表奏して其の実徳を言うに因り、遂に勅を降し重ねて西天を指し、玄照を追うて京に入らしむ。道は泥波羅に次す。国王は遣いを発し送るを蒙る。吐蕃に至って重ねて文成公主に見え、深く礼遇を致し資を給して唐に帰さる。是に於いて、西蕃を順渉して東夏に至る。九月を以って苫部を辞し、正月便ち洛陽に至る。五月の間に途は万里を経たり。時に麟徳年中、駕東洛に幸<14>す。闕庭に訪謁して遂に旨を蒙り、羯湿弥羅(カシミール)国に往いて長年婆羅門盧迦溢多を取らしむ。既に洛陽の諸徳と相見て、略仏法の綱紀を論ず。敬愛寺の導律師等薩婆多部律切攝を訳せんことを請う。既にして勅あり促してゆかしめ、本懐を遂げず。将(もたら)す所の梵本は悉く京下に留む。是に於いて、重ねて流沙を渉りまた磧石を経たり。崎[山遍に区]たる桟道の側に半影を曳いて斜めに通し、搖泊たる縄橋の下に全躯を没して傍いて渡る。吐蕃の賊に遭い首を脱して全きを得、凶奴の寇に遇いて僅かに余命を存す。行いて北印度の界に至り、唐の使人の盧迦溢多をみちびくを見て、路にて遭遇う。盧迦溢多複玄照及び使傔(けん)数人をして、西印度の羅荼国に向かいて長年薬を取らしむ。路は縛渇羅(Balkah)を過ぎて、納婆毗(ひ)訶羅(唐に新寺という)に至り如来の澡缶及び諸聖跡を観る。暫く迦畢試(カービシー)国に至りて如来の頂骨を礼し、香華を具さに設けて其の印文を取り来生の善悪を観る。復信度(シンドゥー)国を過ぎて方に羅荼に達す。王の礼敬を蒙りて安居すること四載。南天を転歴し諸雑薬を将らして東夏に帰るを望む。金剛座に到り、旋ってナランダ寺にゆき、浄と与に相見て平生の志願を盡し総(とも)に龍花に会せんことを契る。但泥波羅道は吐蕃擁塞して通せず、迦畢試の途は多氏投じて度り難きを以って、遂にしばらく志を鷲峰に棲うて情を竹苑に沈む。毎に伝灯の望ありと雖も而も落葉の心に諧(かな)わず。ああ、苦行摽誠の利生も遂げず、攀雲の駕を思うて翼を中天に墜す。中印度の菴摩羅跋(Vailzaalii))国に在り疾に遭うて卒す。春秋六十余。(多氏というは即ち大食国なり)<15>

傷んで曰く

卓たる壮志、頴(よう)として生田に秀で

頻りに細柳を経て、幾たびか祁(ぎ)連を歩み

祥河の流に濯ぎ、竹苑の芊(せん)を揺がす

翹心は念念、渇想は玄玄

専ら演法を希いて、志は提生に託す

嗚呼遂げず、愴□(いたましい)かな成るなし

両河に骨を沈めて、八水に名を揚ぐ

禅乎(よいかな)死を守って、哲人は利貞(両河は即ち西国にあり。八水は乃ち東郡に属す)

1.太州仙掌 太州は即ち華州、仙掌は華州華陰県にして、今の陝西省華陰県に当たる。新唐書地理誌に

華州(中略)  垂拱二年避武氏諱曰太州。(中略) 華陰(註)望、垂拱元年更名仙掌

とある。西嶽華山の北にあるゆえに華陰といい、また華山のの奇巌が雲表にそびえて壮観なるゆえに仙掌とも呼ぶのである。

2.冠𣆶相承 𣆶は大夫以上の冠。祖・父以来相承けて大夫以上の文官たりしをいう。

3.総髺之秋 児童の髪を頭の両側に結び上ぐるを総髺・総角という。転じて未だ冠せざるを義とす。すなわち成人とならざる時に簪を抽き出家したのである。

4.大興寺玄証師 大興聖寺は長安通義坊の西南隅にあり。長安志巻九に

(通義坊)西南隅興聖寺 (註) 高祖龍潜宅。武徳元年以為通義宮、貞観元年建為寺。

とある。また広弘明集巻二十八に 貞観三年造興聖寺詔 を載す。但し興聖寺は現存せず。高麗蔵経本に興聖寺を興善寺に作る。

5.掛想祇園 祇陀園・祇樹園・祇樹給孤独園・祇林等といい、その聖舎を祇園精舎という。最も有名なる仏蹟である。

6.背金府而出流沙 蘭州に金府及び金城関あり。蘭州は甘粛省蘭州府にて、西域に通ずる要衝である。金府、金城府は蘭州の異称である。また瓜州の北に莫賀延磧あり、法顕伝には敦煌の西に流沙あり、大唐西域記巻十二には于闐の東に大流沙がある。ともに行旅の最も危難とする処である。ゆえに背金府而出流沙は蘭州を出発して流沙の険を度るをいう。

7.漱香池以結念畢契四弘 香池は雪嶺中香山の南にある伝説的の池にして阿那婆答多池(無熱悩池)という。

贍部州の中地と考えられ、弶(きょう)伽河・信度河・縛芻河・徒多河は皆この池中より分流するものとする。今の印度河及びBramaputra R.の上流にあるManasarowar lakesは即ちこれである。Hedin博士はこの地方を踏査<17>し其の諸河源を探求した。(Trans-Himalaya, by Sven Hedin, Vol. II 1910)。またChavannesはIssikkulを、王樹[木ヘンに尹]は哈喇庫勒を以って阿那婆答池に比定しているが適当でない。

四弘は四弘誓願の略。往生要集上に

衆生無辺誓願度煩悩無数誓願断

法門無数誓願知無上菩提西岸証

とある、これを菩薩の四大誓願または四弘誓願という。

8.陟葱阜而翹心誓度三有 葱阜は葱嶺である。葱嶺は一般にはPamir山彙を指せども本来葱嶺は砂山の義にして雪山と相対する語である。西北喜馬拉、karakoram, Pamirの荒寥たる沙石の凍嶺を総称するがも茲(ここ)に葱普阜 葱嶺)というは西蔵の西境に当たる西北比馬拉山系を指すのである。また欲有・色有・無色有を三有と称する。欲有は欲望の世界の業因。果報を実在とすること、色有は物質界の因果を実在とすること、無色有は識心の世界の因果応報を実在とすることである。

9.覩貨羅(トカラ)  覩貨羅は大月氏の属にして漢の大夏の地に占居す。大唐西域記巻第一に

(覩貨羅国)其地南北千余里、東西三千。東阨(あい・え)葱嶺、西接波刺斯、南大雪山、北拠鉄門。縛芻大河中境西流。自数百年王族絶嗣。酋豪力競各檀君長。依河拠険分為二十七国。雖律畫(かく)野区分捴(そう)役属突厥。<18>

とある。而して覩貨羅の故地に就き、大唐西域記巻第一には十五国、巻第十二には十三国、合計二十八国を挙げてある。しかるに、咀刺健国は遠く波斯の境にあるので二十七国の計算の中ではない。

10.吐蕃 土蕃・衛・前蔵・西蔵・布達拉と呼ばれる。唐代朁普の牙帳は[羅にしんにゅう]婆川(拉薩)にある。玄照法師が蘭州を出て吐蕃に至る行路は、その文章が三段に分かれているが、これを総合すれば直ちに明瞭となる。即ち

A背金府出流沙践鉄門登雪嶺漱香池陟葱阜

経速利過覩貨羅

B跨胡疆到吐蕃

C金府→流沙→速利→鉄門→覩貨羅→雪嶺→香池→葱阜→吐蕃

である。故に玄照法師は北道を取って鉄門を出て、覩貨羅の故地を経、縛芻河及び印度河を遡って西北喜馬拉山脈を越え、香池を訪い、Bramaputra R.に沿うて下り拉薩に到ったことが知らるる。

11.文成公主 貞観十五年太宗は弄朁朁普の懇請を納れて、宗室の女文成公主を吐蕃に嫁す。吐蕃はこの婚を栄誉とし、公主を遇すること甚だ厚く、特に一城を築いてこれを奉ぜりという。公主は吐蕃にあること約四十年。唐の文化を鼓吹し、求法の唐僧を擁護せしめしこと極めて厚し。永隆元年痘を病んで崩ず。

12.闍蘭陀国 今の闍蘭達羅Jullundurに当たる。山間の大国なれども全印度の僧事を総監し仏教隆盛であった。玄照法師が拉薩よりここに到れる行路は、再びBramaputra R.を遡りて西行し、西蔵の西境を越えてSutlej R.に沿うて闍蘭陀国に達したものにて、この間に賊に為に捉えられたのである。この行路は今日にて<19>も交通頗る危険である。

13.莫訶菩提 莫訶菩提Mahabodhiは仏陀伽弥の聖菩提樹の北にある莫訶菩提僧伽藍即ち大覚寺である。大唐西域記巻第八に

菩提樹北門外摩訶菩提僧伽藍。其先僧伽羅国王之所建也。庭宇六院観閣三層。周堵垣牆高三四丈。極工人之妙窮丹青之飾。(中略)僧徒減仙人習学大乗上座部法。律儀清粛戒行貞明。

とありて、僧伽羅国(獅子国)王の建立したる縁起を詳述している。元来その国僧の印度に遊歴するものを宿泊せしめんが為に建立したもので、寺僧は皆僧伽羅国人である。然るに唐僧は寄託すべきシナ寺なき故に此の大覚寺に就いて寄寓請益するものが多くある。

14.慈氏所制真容 菩提樹の東の大精舎(仏陀伽耶大唐)に弥勒菩薩所制の座仏の画像がある。高一丈一尺五寸、右手は地を案じて降魔物の祥相を顕す。義浄は之を逸掌儀という。逸(すぐ)れて尊き御掌のお姿の意である。大唐西域記巻第八に其の縁起を詳説してある。この画像は世の敬仰してしかざる所にて、玄照法師が精誠を著し、目のあたり聖に遇うと替わるなしといい、また義浄が模写して還りたる金剛座の真容一[金偏に甫]はこの逸掌儀である。しかし大唐西域記巻八に

像今尚在。神工不虧(き)。既処奥室灯炬相継。欲覩慈顔莫由審察。必於晨朝持大明鏡引光<20>内照、之覩霊相。

とあるを見れば、其の画像はかなり模糊たりしが如く思わる。また義浄は持作(もって)如来等量袈裟親奉披服といえば、塔内には別に如来の容像ありしことも想像せらるる。但し現在大塔内にある振魔の石仏像は西紀1876年塔の発掘後に他より将来したものである。

15.沈情倶舎既解対法 対法とは阿毘達磨Abidharma。Abiは対、Dharmaは法にて、論または論蔵という。大乗起信論義巻一に

阿毘達磨蔵或云阿毘曇。古訳為無比法。謂阿毘云無比達磨云法。即無分別智分別法相、更無有法能比於此。故云無比法。今訳為対法。阿毘是能対智、達磨是所対境法。謂以正智妙盡法源。簡択法相分明指掌如対面見。故云対法。

とある。無分別智とは一切の情念を離れたる無相の真智にて世間迷相の分別智ではない。論蔵はこの真智を以って一切の境・法を対面に見るが如くに顕明する故にまた対法というのである。阿毘達磨界身足論(世友著玄奘訳)三巻(煩悩の性質を詳説し、三界・九地・五位修断の行法を明らかにす)・阿毘達磨発智論(迦旃延著玄奘訳)二十巻(有漏無漏・百八煩悩・十智・三業・四大種・根性・八禅定・六十二見の八犍度(薀)を論ぜる故にまた阿毘曇り八犍度とも称す)・阿毘達磨大毘婆沙論(玄奘訳)二百巻(迦膩色伽カニシカ王が罽賓国に於いて世友を上座として仏典を結集し、その要義を論究して銅板に鏤写し、これを石函に緘封したりと伝う)のごとき論蔵は之を対法論と称する。<21>

また倶舎Kosaは包蔵にして、要義を包蔵含蓄する義である。阿毘達磨倶舎論本頌(倶舎頌)・阿毘達磨倶舎論(倶舎論)(前者は六百頌一巻、後者はこれを解釈せるものにて三十巻あり。ともに世親著・玄奘訳)の如きは対法論中の要義を摂餌包含するものである。故に対法論に対して特赦を対法蔵と呼ぶこともある。玄照法師は大覚寺に於いて専ら倶舎を沈情研修して既に対法論の要義を理解しえたのである。

16.清想律儀両教斯明 戒は身・口・意の悪を断って、一切の罪悪を制し善に進む教法である。また律は戒に依って行為を判断し罪の犯・不犯・軽重を規する制裁である。而して戒と律とを戒律・毘那耶Vinayaという。

大乗起信論義記巻一に

毘那耶蔵或云毘那耶或云毘尼。古翻名滅。謂身・語・意焚焼行者義同火然。戒能止滅故称為滅。或云清涼以能息悪炎熾相故。今翻為調伏。謂調是調和、伏是折伏・則調和控御身・語・意業。制伏除滅諸悪行。

とある。また梵網経・四分律・五分律等の如き戒本を律蔵といい、四分律を所依とする宗派を律宗といい、戒律に通ずる沙門を律師といい、以下率に準拠して守るべき儀則をを律儀といい、戒律の検束を戒検といい、戒律の浄行を戒珠といい、戒律の尊厳を戒献という。

また仏教の大乗教・小乗教に分かつ。大乗教は仏教の真理を顕明し盡して自利・利他を要義とするもので、小乗教は自己の転迷開悟を主として未だ仏教の真理を顕明し盡さざるものである。戒律は小乗教に属する部分甚だ<22>多けれども、元来両教に通ずるものであって、梵網経等の菩薩戒の如く大乗利他の戒律もある。故に玄照法師は律儀に精進して大小両教の戒律を体得したのである。

17.那爛陀ナランダ寺 ナランダ寺は恆河の南、華氏城の東南二十駅、仏陀伽耶の東北七駅、王舎城の西北一駅にある大伽藍である。当時、護法・戒賢等の諸大家輩出し、高僧・俊才は四方より雲集して、実に仏教の淵叢であった。大慈恩寺三蔵法師伝巻第三に

僧徒主客常有万人。並学大乗兼十八部。爰至、俗典・吠陀等書因明。声明・医方、術数亦倶研習。

とありて宛然たる仏教の総合大学であったことが知られる。玄奘・義浄・悟空を始め、唐の求法高僧の此処に学ばざるものは殆どない。また道希法師・慧業法師等の伝にもある如く、唐訳の経綸も多く所蔵してシナ僧の研究に便せしことも見え、また外道・異学の人も此処に学びたることはナランダ寺の寺制によりても明らかである。新唐書巻212には徳宗親ら鐘銘を製してナランダ寺に賜うたという事実も伝えている。

また大唐西域記巻第九には護法・護月・徳慧・堅慧・光友・勝友・智月・戒賢等のナランダ寺の明徳八人を挙げてあるが、尚玄奘・義浄の所説・続高僧伝・続古今訳経図記・大乗起信論義記・宋高僧伝等を通観すれば玄奘の時には

戒賢 智月 智光 仏陀跋陀羅

義浄の時には<23>

智月 勝光 宝獅子

開元・貞元の際には

達磨掬多(Dharma Gupta) 智友 進友 智護

等の諸大徳がナランダ寺な居りて一世の巨匠と仰がれしことが見られる。また唐代にナランダ寺の学徒のシナに来錫布教せるものは

波羅頗迦羅密多羅(明知識)武徳九年12月到。続高僧伝巻三

地婆訶羅 (日照) 永隆初歳至。華厳経伝記巻一

釈跋日羅菩提(金剛智)開元己未至。宋高僧伝巻一

戌婆掲羅僧訶(善無畏)開元四年至。宋高僧伝巻一

般刺若(智慧)貞元元年至。宋高僧伝巻二

釈牟尼室利(寂黙)貞元16年至。高僧伝巻三

の如きは最も顕著である。

18.就勝光法師学習中・百等論 勝光法師は当時のナランダ寺の大徳である。中論中観論ともいう。中論(竜樹菩薩造鳩摩羅十訳)四巻あり。観因縁品・観光去来品・観六情品・観五陰品・観六種品・観染染者品・観三相品・観作作者品・観本住品・観然可然品・観本際品・観苦品・観行品・観合品・観有無品・観縛解品・観業品・観法品・観時品・<24>観因果品・観成壊品・観如来品・観顛倒品・観四諦品・観般若品・観十二因縁品・観邪見品の27品を開説して不生・不滅・不断・不常・不一、不異、不去、不来(八不)の妙理を顕揚し、以って小乗教の僻見を破し、外道の妄執を排して中道の教義を建設したものである。また百論(堤婆菩薩造鳩摩羅什訳)二巻は竜樹菩薩の弟子堤婆菩薩が外道の僻見を破するために、捨罪福品・破神品・破一品・破異品・破情品・破塵品・破因中有果品・破因中無果品・破常品・破空品の十品を開説して、これを百偈となしたる故に百論と称するのである。中論と百論とに十二門論(竜樹菩薩造鳩摩羅什訳)一巻を併せて三論と称する。

19.就宝獅子大徳受瑜伽十七地 宝獅子大徳は当時のナランダ寺の大徳である。瑜伽は大乗教の深遠なる一派である。瑜伽yogaは相応の意、相応は契合の義である。一切の境・行・果などは相応するが故に瑜伽と称する。境とは根・意・心・智等の対象即ち法。行とは作用、果は因な対して起きる行の結果である。而して性(本性・体)は自有にして因縁に依ることなし。而して境能く性に随順すれば其の本性を発揮し、行・果も共に相応して、正理に合し正教に順ずるを得べしとなす。此の理を明らかにせる聖教を瑜伽論と称し、之を修行して自法身(仏の真身が地上の菩薩身に応現すること)を増長するものを瑜伽師と称する。故に瑜伽師はこの聖教に順じて境・行・果・聖教ともに相順応することを修行するのである。瑜伽師地論(弥勒菩薩説玄奘法師訳)百巻は極めて詳細にこの理を論述せるが以上は瑜伽師地論訳(最勝子等造玄奘法師訳)一巻に拠って大意を略説したのである。

瑜伽師地とは瑜伽師の所依・所行・所摂の境界である。瑜伽師地論の本地分(五十巻)には瑜伽師の地を五識<25>身相応地より等正覚地に至るまで十七地に分かって之を詳論して居る。茲に其の名目を挙ぐれば

1.五識身相応地

2.意地

3.有尋有伺地

4.無尋有伺地

5.無尋無伺地

6.三摩呬多(samâhita)地

7.非三摩呬多地

8.有心地

9.無心地

10.聞所成地

11.思所成地

12.修所成地

13.声聞地

14.独覚地<26>

15.菩薩地

16.有余依地

17.無余依地

なり。これを瑜伽十七地と称する。但し瑜伽師地論には更に摂決択分(三十巻)・摂釈分(二巻)・摂異門分(二巻)・摂事分(十六巻)がある。玄奘のごときもナランダ寺に於いて瑜伽論を聴くこと三回に及び、戒賢法師は玄奘の為に特に開筵して、その講演は十五月に及びたりという。

20.禅門定瀲 禅門は禅定の法門である。漸は禅那Dhyanaにて三昧、三摩地・定・静慮・思惟などという。禅定というは梵漢双舉である。禅定の法は心を一処に定めて妄念を去り、思慮を静寂にして真理を思惟し、以って智慧を開き心神を鍛錬する修養である。而して禅定の湛寂なる新疆を例えて定瀲という。瀲とは清水の湛湛として[さんずいに承]波を浮かべて溢るる貌である。故に禅定によって悟道するを関涯を覩るという。また禅定の静寂を禅寂といい、禅門の徒を禅枝。禅葉といい、禅定に達する人を禅師という。禅定は真正の知恵と涅槃とを得べき主要門にして瑜伽師の修業は主に禅定によるものなれば、玄照法師は宝獅子大徳に就いてすでに其の関涯を覩て宏綱を盡したのである。

21.往弶伽河北受国苫部供養 弶伽河は恆河Ganges R.にして国王苫部は菴摩羅跋国王苫部である。菴摩羅跋国は昔の毘舎離国なしてその国の王族をLicchavi(梨車・離車・栗千呫婆)と称す。苫部Champuは<27>Licchaviの略音である。苫部は深く仏法を信じてシナ僧を礼遇すること厚く、また泥波羅道に当たるので唐の求法僧は此処に帰宅してその供養を受くるもの甚だ多くある。

22.信者寺 大唐西域記巻第七に

七百賢聖(毘舎離城の東南十四五里)南行八九十里至湿吠多補羅僧伽藍 層台輪煥重閣翬飛。僧衆清粛並学大乗。

とあり、湿吠多Subhutiは善現・善業、補羅Purusaは士・丈夫なれば訳して信者寺という。菴摩羅跋国の王寺なり。義浄の時にもまた隆盛にして、此処に留学せしは甚だ多くある。

23.王玄策 法苑珠林巻五十五に

大唐太宗文皇帝命朝散大夫衛寺丞上護軍李義表・副使前融州黄水県令王玄策等二十二人使至西域。前後三度。

とあり。唐代には王玄策行伝なるものありしが、伝わらず。法苑珠林・旧唐書・資治通鑑等に散見する王玄策の事蹟を総合すれば、第一回は貞観十九年王舎城に至って大覚寺及び菩提樹下に碑を建て、同二十二年に阿羅那順を虜にして長安に還る。第二回は再び、摩掲陀国に使し帰路維摩の故宅を見る。此の時玄照法師を信者寺に訪い、帰郷してその実徳を奏上せり。時は龍朔年中のことである。是より更に印度に到り、玄照に勅命を伝えて唐に帰らしめ、自ら長年婆羅門盧迦溢多を求めた。之はその第三回である。<28>

24. 泥波羅 喜馬拉山中の大国にして、都城は今のKathmaduである。玄照法師は高宗の勅命を受けて泥波羅道より帰途に就いた。吐蕃の文成公主に送られ、西蕃の各地(西蔵の東。青海の南境の地方)を歴訪して洛陽に還った。時に麟徳二年である。また新唐書巻221に長安・天竺間を9600里といえば、之に長安・洛陽間850里を加うれば。玄照法師が途経万里といえるは大約当たれる数である。

25.羯湿弥羅国 今のKashmir。漢代の罽賓の地にて仏教史上有名なる処である。主都は主にSrinagarの地方にあったが唐代には他に移ったこともある。玄照法師が重渉流沙とは玉門関の西と于蘭の東とにて両度流沙を度れる意、還経磧石とは朱駒波国よりカラコルム嶺をこえて羯湿弥羅国に至ったのである。朱駒波と懸度との間に喀什塔什嶺(磧石嶺)がある。

26.蘆迦溢多 蘆迦溢多Lokayataは肉体的欲望の満足を求めて道徳・聖教を比定する順世外道即ち印度の唯物論派にしてまた長年婆羅門である。唐帝には仙薬の厄に遭うもの多し。高宗も亦耽れて印度に方士と長年薬を求めた。新唐書巻225に

高宗時蘆迦逸多者東天竺烏茶人。亦以術進。拜懐化大将軍。

とあり。王玄策は先に勅命を玄照に伝え、それより直に迦湿弥羅に行いて蘆迦溢多を求めた。玄照法師は一旦洛陽に還ったが、再びカラコルム嶺を過ぎて来たり、此処に唐の使人(玄策)が蘆迦溢多を引きて唐に帰るに出会ったのである。而して玄照は使傔(兼は略)数人と蘆迦溢多の指示によって羅荼国に向かうた。<29>

27.敬愛寺導法師・観法師等請訳薩婆多部律摂 敬愛寺は洛陽にあり。麟徳元年に高宗は老子の像を芒山に送る。導律師が悍然として之を排撃せしことは続高僧伝巻29に見えたり。観法師は其の伝を得ず。

薩婆多部Sarvāstivādāは上座部より派出し、一切諸法の実有を立て其の因由を説くが故に説一切有部と称す。またその後説一切有部より、犢子部・正量部・経量部等を派生せし故に、これらの末派に対して説一切有部を根本説一切有部と称する。薩婆多部律摂は後に義浄によりて翻訳せられ、開元釈教録巻第九に根本薩婆多部律摂二十巻(尊者勝友集或十四巻久視元年十二月二十三日於いて東都大福先寺訳)とあるものこれなり。

28.崎嘔桟道之側曳半影而斜通、搖泊縄橋之下没全躯以傍渡。半影は険阻にて竪行するを得ず匍匐する貌。前句はカラコルム越を通過する実況にて、険阻なる桟道の側の懸崖に半影を摺り寄せて行くのである。後句は動揺する縄橋の下に全身を縋下し縄に傍うて渡るので、印度河の懸絚(こう)を過ぐる実情である。高僧伝中の法勇・智猛等の伝記と対照すべきである

29.羅荼国 摩訶刺吒国ともいう。主都は今のWadaである。大唐西域記によれば建志補羅Cenjeeveranの西北約4500里、耐秼陀河Narbadaの東南に当たる強国である。土地豊沃、人民強勇、数百の象軍を蓄え、戒日王は五印度の甲兵を挙げて来攻せるも遂に征服するに能わざりしという。仏教も甚だ盛にして伽藍百余所、僧徒五千余人あり、天祠異学も亦頗る興る。 

大唐西域記巻第十一に

(摩訶刺吒国)東境有大山。畳嶺連嶂重巒絶[山冠に献]。爰有伽藍基于幽谷。引長尺余巻可半寸。凡此三事毎至六斉王及大臣散花供養。<30>

重閣層台背巌面。(中略)精舎周彫鏤石壁作如来在昔修菩薩行諸因地事証聖果之禎祥入寂滅之霊応。巨細無遺備盡[金偏に隹と向]鏤。

とあるは、Sahyadriparvat嶺の南に現存するAjanta石窟に関する玄奘の記録である。尚このほかに数多の驚異すべき仏教その他の遺跡の現存するを見ても、羅荼国の文化を想像すべきである。これ唐僧の仏教を訪い或いは仙薬を求めて遠く此国に至るもの尠(すくな)からざる所以である。

30.過縛渇羅到納婆毘訶羅 縛渇羅は縛喝国Balkah。覩貨羅の故城にて小王舎城と称せられ、新寺・仏澡缶・仏牙等ありて聖跡順礼の要地である。大唐西域記巻第一に

伽藍百有余所僧徒三千余人。並皆習学小乗法教。城外西南有納縛(唐言新)僧伽藍。此国先王所建也。大雪山北作論諸師、唯此伽藍美業不替。(中略)伽藍内南仏堂中有仏澡缶。量可斗余。雑色炫燿金石難名。又有仏牙其長寸余広八九分。色黄白質光浄。

とあり。納縛毘訶羅Navaviharaは新寺、大雪山はHindukushを指し、美業の業は業業にて美麗宏壮の義である。

31.迦畢試国 遊軍の大国にて十余国を統率し、首都には仏教・外道の遺跡甚だ多し。慧超・悟空などは此の国を罽賓と呼ぶ。其の首都はKabuleの北に当たるBagi-Alamと考定せられてある。大唐西域記巻第一には

王城西北大河南岸旧王伽藍内有釈迦菩薩弱齢乳歯。長余一寸。伽藍東南有一伽藍亦名旧王。有如来頂骨一片。面広寸余、其色黄白、髪孔分明。又有如来髪。髪色青紺、螺旋右縈。<31>引長尺余巻可半寸。凡此三事毎至六斉王及大臣散花供養。

とあり。この如来の頂骨は烏率膩沙Usnisaと称して之を礼拝するもの甚だ多し。

32.信度国 信度河の下流にある大国にしても仏教盛んなり。主都は毗苫婆Sahwanである。玄照法師は迦畢試国よりLagman, Peshawar, Haranaを経て信度国に至り、之より東南に向かい羅荼国に至ったのである。

33.金剛座 仏陀迦耶にある釈迦成道の聖座である。今も大塔の側菩提樹の下に扁平なる円台の石座があるが後世の指定に係るものである。玄照法師が羅荼国より金剛座に至る経路は詳らかでない。南天竺の各地を転歴して長年薬を求めたるものなれども、其の間に約二年を要せし計算となる。

34.竜華 弥勒菩薩は釈迦如来の仏位を継ぎ、仏に先って入滅して兜率天の内院に住す。五十六億七千万歳の後に下生し華林園の竜華樹下に於いても三会の説法をなして、普く人・天を化すという。之を竜華会と称する。兜率天は兜術天・覩史多天ともいう。欲界の天所、其の内院は弥勒菩薩の浄土、外院は天衆の楽地である。

35.泥波羅道吐蕃擁塞不通。迦畢試途多氏投而難度 高宗の末年に当たり吐蕃最も強盛にして頻りに唐と事を構え、永隆元年文成公主も亦崩して兵乱絶えず。唐は剣南の兵を募り白蘭道を塞いでその通路を断ちし程なれば泥波羅道の行旅は極めて危険であった。故に吐蕃擁塞不通という。

龍朔年間(西紀662年頃)よりサラセン人は威を四方に振るい波斯を征服して印度に侵入し、東はTaxilaに及び、覩貨羅・速利の諸国は皆其の有に帰した。故に北道を旅行する仏教徒は其の迫害を蒙れり。多氏投而<32>難度とはこれである。投は足場を得る義にて侵入せる意、甲羅は梵・黄檗本に捉に作るは偽である。

36.棲志鷲峰沈情竹苑 鷲峰または鷲頭山・霊鷲山・耆闍崛山(ぎじゃくっせん、ぎしゃくっせん)という。五山中にある仏の霊地である。釈迦は在世中多くこの山中にありて妙法を説いた。妙法連義侠寿量品に

於阿僧祇劫 常在霊鷲山 及余諸住処 衆生見劫盡 大火所焼時。我此土安穏 天人常充満 園林諸堂閣 種種宝荘厳 宝樹多華果。衆生所遊楽 諸天撃天鼓 常作衆伎楽 雨曼陀羅華 散仏及大衆 我浄土不毀 而衆見焼盡 憂怖諸苦悩 如是悉充満。

とあり。此の如く霊鷲山は如来の報身の浄土なるが故に義浄は常に、霊鷲山を霊鎮と呼べり。

竹苑は竹林園。迦蘭陀竹園という。旧王舎城の北にあり。もと迦蘭陀長者の竹林なりしが、之を仏に奉じて精舎を建て竹林精舎という。僧園設立の初である。

37.未諧落葉之心 法句経老耄品に

老如白鷺 守伺空地 既不安戒 又不積財 老羸氣竭 思故何逮 老如秋葉 何穢鑑錄 命疾脫至 亦用後悔。

とあり。落葉は秋葉に同じ。老来白髪落葉の愁嘆を禁せざるをいう。玄照法師は既に六十を越え、いまだ所懐を遂げずして印度に淹滞する心境を指すのである。求法伝灯の壮志は断たぬが老羸氣竭には適せぬというなり。<33>

38.苦行摽誠利生不遂 苦行は異域に輾転往返せる艱難、摽誠は身命を擲っての赤誠である。高麗本。黄檗本に標誠に作るは非なり。利生は利益衆生の略にて四請願の一である。伝法の為に苦行して衆生を利益せんとの菩薩の西岸も遂に達せずして終わるを歎ずるのである。

39.生田 生死の田即ち現実の世界、娑婆というにおなじ。秀生田は世間に卓越したる壮士の意である。

40.頻経細柳、幾歩祁連 南海寄帰内法伝巻第二に

鴻河則合泚於文池 細柳乃睴於覚樹。

とあり。鴻河はシナの大河、鴻河Hung-hoは黄河Huang-hoに通ず。細柳はシナに多き楊柳にて詩経に東門之柳というが如く普通に見る樹木の義である。故に頻経細柳とは多年シナ内地を遍歴したる義である。また祁連は甘粛省張掖県の東南より陽関の西南に至る祁連山脈である。幾歩祁連とは祁連を越えて玉門関を出て数回西域の旅をなしたるをいう。

41.祥河濯流、竹苑摇芊 祥河は尼連河。尼連禅那河Nairanjana R.という。仏陀迦耶にあり。仏は成道に先だちこの河に浴して菩提樹下の金剛座に向かう。故に祥河・龍河・霊河ともいう。また芊は茂にて茂れる竹林である。竿に作るは非なり。濯流・摇芊は仏の成道の跡及び竹林精舎の成績を順礼する義である。

42.提生 菩提の生涯の略である。

43.両河沈骨、八水揚名 両河は恆河と印度河なり。印度の風俗にては死体を河に沈めて水葬するものもある故、両<34>河沈骨とは印度にて死亡したる義である。但し尼連禅河と希連河(涅槃の地にある)とを仏蹟の両河といえどもこれは別である。また註にある東郡は漢の東郡、唐のなー河南道に属す。六典巻第一に、河南道には伊・洛・汝・穎・沂(き)・泗・准(しゅん)・濟の八大水あり。故に洛陽の異称を八水という。但し涇・渭・洛を関中三水と称し、涇・渭・㶚・労・潏・澧・滻・滈を関中八水と称する故に、長安を三川。また八水と呼ぶこともあれども、義浄は常に洛陽を八水と異称せり。

44.哲人利貞 易経に乾元亨利貞とあり。乾は天にして元・亨・利・貞は天の四徳である。之を万物に就けば始・長・遂・成であり、之を気候に比すれば春・夏・秋・冬であり、之を道徳に配すれば仁・礼・義・智である。

故に玄照法師は伝法の素志は成らざれども、身を擲って義を行い、智あって其の本文を達したるものにて、天道の利と貞とを得たるものである。

玄照法師が麟徳二年に洛陽に於いて高僧に謁したる都市を起点としてその行旅と年次とを概算すれば

イ貞観十許年蘭州を出て北道を取って西域に向かい、鉄門を出て印度河の上流を遡り、葱嶺をこえて吐蕃に至る。

ロ吐蕃より闍蘭陀国に至り、永徽年間に仏陀迦耶に向かい大覚寺に居る。

ハ摩掲陀国・菴摩羅跋国に居り、のちに泥波羅道を経て洛陽に帰る。時に麟徳二年。

ニ再び洛陽を発しカラコルム越えを過ぎて羯湿弥羅国に至り、転じて縛渇羅・迦畢試・信度諸国を歴訪して羅荼国に至る。<35>

ホ羅荼国より南印度を転歴して再びナランダ寺に至り義浄と相見る。時は上元年間である。菴摩羅跋国信者寺に行きて遂に此処に終わる。春秋六十余。

である。その最初征西の年は玄奘の入竺の時と前後し、死亡の時は義浄のナランダ寺に至れる後久しからず。求法の為に西域・五印度に流離間関すること三十余年、遂に異域に終わってその偉業を伝うるなし。

<36>

道希法師は斉州歴成{1}の人なり。梵名は室利堤婆Srideva(唐に吉祥天という)その門は礼儀を伝え、家は搢紳を襲ぐ。幼にして玄門にすすみ、少なうして貞操を懐う。流沙の広蕩を渉って化を中天に観、雪嶺の嶔岑に踄って生を軽んじ法に殉ず。行いて吐蕃に至る。中途危厄にして戒検の護り難きを恐れ、遂に便(すなわ)ち暫く捨つ。行いて西方に至って更に復重ねて受けたり。諸国を周遊して遂に莫訶菩提に達し、聖蹤を翹迎して数載を経たり。既にナランダに住しも又倶尸国{2}に在り。菴摩羅跋国王の甚だ相敬待するを蒙る。ナランダ寺に在っては頻りに大乗を学び、輸婆伴娜{3}(涅槃の所に在る寺名なり)に住して専ら律蔵を攻む。復声明{4}を習って頗る項目を盡す。文情あって草隷を善くし、大覚寺に在って唐碑一首を造る。もたらす所の唐国の新旧経論{5}四百巻は並にナランダにあり。浄、西国に在って未だ相見るに及ばず。菴摩羅跋国に住し疾に遭うて終わる。春秋五十余。後に順礼に因って希公の住房を見、その不幸を傷んで聊か一絶(七言)を題す。

百苦も労とするなく独影を進め

四恩は念に在って流通を契る

如何せん未だ伝灯の志を盡さず

溘(こう)然、此に於いて途の窮するに遇う。

1.斉州歴成 歴成は歴城に同じ。唐の河南道斉州歴城県にて済南府である。

2.倶尸国 倶尸那国・拘夷那掲国Kusinagaraという、仏の涅槃の地である。一般にはKasiaに比定すれども、その位置に関しては異説が甚だ多い。義浄の倶尸国はKasiaにはあらざる如し。大乗涅槃経後分巻上に

大覚世尊入涅槃己。其婆羅林東西双合為一樹。南北二双合一樹。垂覆寶床蓋於如来。其樹即時惨然変白猶白鶴。枝葉・花果・皮幹悉皆爆裂堕落。漸漸枯悴摧折無餘。

とあり。故に仏涅槃の遺蹟を鶴樹・鵠樹。鴻樹等ともいう。

3.輸婆伴娜 娑般檀寺・般弾那寺・縛陀般弾那寺・周黎波檀殿・繋冠寺・天冠寺Bandhanaなどという。仏の涅槃の処にある寺である。然るに玄奘は其処にただ卒塔婆ありといえるに義浄は盛大なる輸婆伴娜寺を認め、慧超は塔の東南三十里に娑般檀寺といえば、輸婆伴娜は元の天冠寺にはあらざるべし。

4.声明 印度の学者の学習すべき五明の一にて言語文字に関する学である。声明に関する一切の書物を声明記論・毘伽羅Vyakāranaと呼び略して声論という。因に五明とは声明・工巧明(工芸技術算数)・医方明(医術)・因明(論理)・内明(自家の宗旨の学)である。而して其の概論を五明大論という。

5.新旧経論 翻訳名義集序に

唐玄奘法師論五種不翻 一秘密故如陀羅尼。 二含多義故如薄伽梵具六義。 三此無故如閻浮樹中夏実無此木。 四順古故如阿耨・菩提非不可翻而摩騰以來常存梵音。五生善故如搬<38>若尊重智慧軽浅。

とあり。玄奘の訳経には訳語を一定し翻訳に自ら法則ありて七十三部1330巻を著せり。自後の訳経家は皆範を玄奘に取る。因って玄奘以後の訳経を新訳、以前の訳経を旧訳と称する。

道希望法師は、流沙の広蕩を渉り、Karakoramの嶔岑に踄りて吐蕃に至り、泥波羅道を経て倶尸、莫訶菩提、ナランダ寺に学び、菴摩羅跋国の信者寺に終わった。玄太法師伝によれば道希法師は一旦帰国の途に就き、土峪渾より再び引き返せしが如し。また師鞭法師伝によれば信者寺に相見て共に疾に罹って命を終わったのである。また大乗灯禅師とは長安に於ける同遊の旧知であった。[熟から列火を取った文字]も各人の伝を参照すべきである。

師鞭法師は斉州のひとなり。禁呪を善くして梵語に閑う。玄照師と与に北天西印度に向かう。菴摩羅跋城に到り、国王の為に敬せられて王寺{1}に居る。道希法師と相見て郷国の好を伸ぶ。同じく一夏を居り疾に遇うて終わる。年三十五。

1.王寺 菴摩羅跋国王の寺即ち信者寺である。当時玄照・道希・師鞭などは皆この寺に病を養うて死した。<39>玄照・道希・師鞭・大乗灯・義浄等の伝を参照すれば、師鞭法師は玄照法師に従って永徽末年頃に西天よりナランダ寺に至り、玄照は義浄と相見、師鞭は道希と信者寺に相見るといえば、師鞭は玄照に先つて信者寺に来たり、道希を見て同郷の好を伸べ、夏坐を共にして其年に二人は病死したのである。而して義浄は上元元年夏始めてナランダ寺に到着して玄照と相見、上元二年に大乗灯と共に巡遊に上り、菴摩羅跋国に至って道希の旧房を訪うたのであるとの事実が推定せられる。

阿離耶跋摩ĀryaVarmaは新羅{1}の人なり。貞観年中を以って長安の広脇{2}(王城の山名なり)を出て、正教を追求し聖蹤を親礼す。ナランダ寺に住して多く律・論を閑い衆経を抄写す。痛ましい哉、帰心期する所に契わず。雞貴の東境を出て竜泉の西裔に没す。{3}即ち此の寺に於いて無常す。年七十余。(雞貴は梵に矩矩吒㗨說羅Kukkutaissara(パーリー語)という。矩矩吒は雞貴にて㗨說羅は貴、即ち高麗国なり。相伝えて云う。彼の国雞神を敬して尊を取る故に翎羽を載いで飾を表すと。ナランダ池あり名付けて竜泉という。西方高麗を喚んで矩矩吒㗨說羅となすなり。)

1.新羅 朝鮮は漢時より新羅・高麗・百済の三国である。唐の高宗は龍朔三年に百済を滅し総章元年に高麗の<40>十七城を抜きて是を亡す。義浄の時には高麗は滅亡後なれども註には高麗国といえり。

2.長安之広脇 脇は脅にして胸の両側をいう。胸は身体の中なるが如く天子の居城は国の中なる故に皇居ある付近を広脇という。註に王城山名というは王城の付近の山の義である。法住記(法苑珠林巻三十所引)に

尊者名目掲陀、与自眷属千三百阿羅漢多分住。在広脇山中。

とあり広脇山中は王舎城の周囲の山中即ち五山である。広脇山を特定の名詞に見るは非ざるなり。

3.出雞貴東境没竜泉之西裔 之は是・即の意。東境なる雞貴国(新羅)を出て、西裔なる竜泉(ナランダ寺)に没するというのである。

慧業法師は新羅の人なり。貞観年中に在り往いて西域に遊ぶ。菩提寺に住して聖蹤を観礼し、ナランダに於いて久しく聴読す。浄、唐本を検するに因り忽ち梁論{1}の下に記するを見るに、云く、仏歯木{2}の樹下に在りて新羅僧慧業写記すと。寺僧に訪問するに、云く、此に終わる。年は将に六十余ならんとすと。写す所の梵本は並にナランダ寺に在り。<41>

1.梁論 無着菩薩は摂大乗論を著して総標綱要分・所知依分・入所知相分・彼入因果分・彼修差別分・増上戒学分・増上慧学分・果断分・彼果智分の十一門に就き一切大乗の要義を摂論せり。之に仏陀扇多・真諦・玄奘の三訳がある。次に世親菩薩は摂大乗論釈を作りて摂大乗論を通釈せり。之に真諦・笈多・玄奘の三訳がある。また無性菩薩は摂大乗論釈を作りて無着菩薩の摂大乗論を通釈し玄奘は之を翻訳した。之を表示すれば

無着摂論摂大乗論無着菩薩造後魏仏陀扇多訳二巻

摂大乗論無着菩薩造梁真諦訳三巻梁摂論

摂大乗論本無着菩薩造唐玄奘訳三巻唐摂論

世親摂論摂大乗論釈世親菩薩造梁真諦訳十五巻梁摂論

摂大乗論釈論世親菩薩造隋笈多訳十巻

摂大乗論釈世親菩薩造唐玄奘訳十巻唐摂論

無性摂論摂大乗論釈無性菩薩造唐玄奘訳十巻唐摂論

如し。之を著者によって無着摂論・世親摂論。無性摂論と呼び、訳者によって梁摂論・唐摂論という。梁摂論は略して梁論と称するのである。

2.仏歯木 歯木は小木の橋を砕きて細條となし歯みがきに用う。所謂楊枝と称すれども、シナの楊柳とは別種なる<42>ことは南海寄帰伝に詳説せり。ナランダ寺の根本香殿の西にある仏歯木は仏に因縁せるものにて有名なり。

玄太法師は新羅の人なり。梵名は薩婆真若堤婆Sarvajnadeva。(唐に一切知天という)永徽年内に吐蕃に吐蕃道を取り泥波羅を経て中印度に到る。菩提樹を礼し経論を詳検して踵を東土に旋す。行いて土峪渾に至り、道希法師に逢い覆(また)相引致し還って大覚寺に向かう。のちに唐国に帰るも終わる所を知る莫し。

1.菩提樹 仏陀伽耶の金剛座にある聖菩提樹である。其の因縁は大唐西域記巻第八にある。春中に道俗集って菩提樹を洗うことは無行禅師伝に見たり。唐使王玄策が貞観十九年に菩提樹下に塔を建てたることは王玄策伝(法苑珠林巻29所引)にありという。然るにその後[さんずいに西土]滅して、現存の菩提樹は大塔。金剛座と共に幾多の変遷を経たるものである。

玄恪法師は新羅の人なり。玄照法師と与に貞観年中に相随って大覚寺に至る。既に礼敬を伸べ疾に遇うて亡ぶ。年は不惑の期{1}を過ぐるのみ。

1.不惑之期 論語為政に

子曰、吾十有五而志于学。三十而立。四十而不惑。五十而知天命。六十而耳順。七十而従心所欲不踰矩

とある。故に十五歳を志学、三十歳を而立、四十歳を不惑、五十歳を知命、六十歳を耳順と称する。

復新羅の僧二人あり、その諱を知る莫し。長安より発して遠く南海{1}に之く。舶を汎(うか)べて室利仏逝国{2}の西、婆魯師国に至り、疾に遇うて倶に亡ぶ。

1.南海 南溟・滄溟・溟渤ともいう。南海の語はもと南海県即ち広東地方を指し、後には交州・安南の辺を指し、義浄の時には室利仏逝・訶陵等を指す。またSunda海峡を出て蘇馬達(スマトラ)島の南部を指すこともある。茲に南海というはそれである。

2.室利仏逝国 室利仏逝に関する論議は甚だ多いが、室利仏逝が蘇馬達島の東南部に在りて、漸次その東北海岸一帯を領有するに至ったことは疑いない。而して義浄のいう室利仏逝がJambiに当たることは南海寄帰内法伝<44>巻第三にある日時計(日冠に各)観察によりても推定せらるが、尚新唐書巻222に

(室利仏逝)夏至八尺表 影在表南二尺五寸。

とある。二尺五寸の誤謬なるは明らかであるが、之を三尺五寸とみれば全くJambi地方(北緯1度35分)と一致する。また義浄が養生より室利仏逝に入港するに当たりて斜通巨壡といえるは、巨壡は馬刺加(マラッカ)海峡なれば西南に転向したることも首肯せられる。

また嶺外代答巻二に

三仏斉国在南海之中 諸蕃水道之要衝也。東自崑崙闍婆諸国、西自大食故臨諸国 無不由其境而入中国者 国無所産。而人習戦攻。服薬在身刀不能傷。陸攻・水戦奮撃無前。以故隣国咸プ服焉。蕃舶過境不入其国者、必出師盡殺之。以故其国富。

とある。三仏斉は室利仏逝である。風俗兇勇にして隣国を攻略し、形勝の地勢に拠って諸商舶を迫害した。洋舶のシナよりマラッカ海峡を通ずるものは多く竺嶼(馬来半島の南端の群島)の南に於いて方向を変ずるが故に、室利仏逝国の位置がJambiの辺にあるべきことが推察せられる。勿論室利仏逝国の位置は時代によって変遷したるものにて、瀛涯勝覧に浡淋邦・旧港の名称を伝うるより見ても一時はPalembangにありしならん。しかし義浄の時には既にJambiに転じたのである。スマトラ東部水路誌に

(Jambi河)右岸屈曲部の高台に欧州人の居留地あり、又同岸にシナ人街及び土人邑あり、その一なるSolohに<45>印度古式古代建物存在す。

とある。是れ明らかにこの地方が義浄の所謂室利仏逝国たるを示すものである。

室利仏逝国は略奪を以って富強を為せども、仏教は頗る隆盛である。シナの求法僧の印度に向かうものは此処に於いて語学・仏教の要義を修めて後に往くを常とする。根本説一切有部百一羯磨巻第五に

此仏逝郭下僧衆千余(中略)。若夫唐僧欲向西方為聴読者停斯一二歳。習其法式、方進中天又此佳也。

とある。

3.婆魯師国 婆羅沙国・婆露斯国・婆露国という。今のBarosにしてスマトラ島の西南部及びその地方の海権を領有して永く室利仏逝国と対立した。新唐書南海伝に郎婆露斯とあるはRaja Baros (波魯師王国)の音訳語である。<46>

仏陀達摩Budhadharmaは即ち覩貨(羅)速利国{1}の人なり。形模大にして気力足る。小教を習うて常に乞食す。{2}少なくして興易{3}に因って遂に神州に届り、ここに益府[4]に於いて出家す。性遊渉を好み九州{5}の地履まざるなし。のち遂に西タン{6}して聖迹を周観す。浄、ナランダにに於いて見る。後に乃ち転じて北天に向かう。年五十許

1.覩貨速利 覩貨羅速利の略。覩貨羅の胡国の意に解すべきである。序には覩貨羅仏陀達摩師とある。

2.習小教常乞食 小教は小乗教。乞食は自ら逝業を営まず、他人に衣食を求めて色心を保持す。十二頭陀行の一である。

3.興易 興易は商売なり。また興発に同じく世の変遷という義に用うることもある。

4.益府 唐の剣南道益州の府、また成都府という。今の四川省成都である。益州はまた蜀郡ともいう。

5.九州 向書禹貢に冀(き)・(えん)・青・徐・揚・荊・予・梁・雍の九州を挙げたり。シナ全土を九州に分かつことは時代に因りて差異あれども、要するにシナ本土の異称である。

6.西タン[端のリットウをしんにゅうに変えた文字] タンは屢(しばしば)往来する義にて、印度の各地を往来して聖迹を観礼したのである。

仏陀達摩は覩貨羅より吐蕃を過ぎて益府に至り、後に印度に行いて義浄とナランダ寺に相見、而して北道を取って覩貨羅に帰還せんとせしならん。但し往路にて益府より直に西タンしたるものなれば、吐蕃道を取れるか、また牂牁道に拠れるものなるべし。<47>

右十人は高麗本には右一十人とあり、黄檗本にはこの三字なし。おそらくは後人の付記ならん。以下また同じ。

道方師{1}は幷州{2}の人なり。沙・磧を出て泥波羅に到り、大覚寺に至って住して主人{3}となるを得たり。数年を経たる後、還って泥波羅に向かい、今に現在する。既に戒検を虧きて経書を習わず。年は将に老いんとす。

1.道方師 序・高麗本。黄檗本並びに道方法師とある。義浄は求法僧名に単に師といい、あるいは之を附せざるものもある。省略・訛脱と見るべきものもあれども、これは貶称の意を遇せるものなるが如し。

2.幷(へい)州 唐の河東道大原府、今の山西省大原府である。

旧唐書巻三十九に

北京太原府隋太原郡。武徳元年改為幷州総管。(中略天授元年置北都兼都督府。開元十一年又置北都改幷州為) 太原府。

とある。また幷州を幷川といい、幷州都督府を幷部処ということもある。

3.主人 主人はその寺院の一員として待遇せらるることである。普通に寄宿するものは単に飲食の供を受けて寺院内に起臥し客として待遇せられるのみである。<48>

4.道法師は幷州を出て流沙を渉りカラコルム越(磧)をこえて泥波羅を過ぎ大覚寺に至った。のちに亦泥波羅に至って滞留し遂に転退したのである。故に序文の現在諸師五人のうちにその名を列せざるなり。

道生法師は幷州の人なり。梵名は旃達羅堤婆Candradeva(唐に月天という)。貞観の末年を以って吐蕃路より往いて中国に遊ぶ。菩提寺に至って制底{1}を礼し[ごんべんに乞]り、ナランダに在って学ぶ。童子王のために深く礼敬せられて復此の寺に向かう。東行十二駅に王寺ありて全く是小乗なり。其の寺内に於いて停住すること多載なり。小乗三蔵を学んで正理を精順し、多く経像を齎らしてここに本国に帰る。行いて泥波羅に至り疾に遭うて卒す。およそ知命の年にあるらん。

1.制底 質底・質多・支提Chaityaともいう。制底は一切の功徳をその中に集積する義にて、土石を積み仏徳を頌しまた記念の為に建てたるもので、内に舎利を修めざるを言う。また仏塔には舎利・歯・髪・爪等の記念物を奉祠し、其の他種々の意義に於いて立つるものがある。これ等の仏塔及び制底を総称して卒塔婆Stupaとい<49>う。南海寄帰内法伝巻三に制底と卒塔婆との関係を詳述してある。しかし両者の画然たる区別は認めがたい。仏陀伽耶の成道の遺跡には一々制底を立て之を記念してあった。道生法師は大覚寺に至ってこれらの制底を順礼したのである。

2.童子王 東印度の迦摩鏤波国王拘摩羅Kumarなり。大唐西域記巻十に拘摩羅は唐に童子というとある。また童子王は学を好みて高才の沙門を敬慕せり。玄奘法師のナランダ寺にあるを聞き往返数回之を懇請して本国へ迎えた。のちに戒日王の召集に応じて玄奘と共に羯若鞠闍城におもむいたことを詳述してある。童子王は茲にまた道生法師を迎えたのである。但し王は戒日王の配下にして強兵を有し大徳を礼遇したが、婆羅門種にして自身は余り仏法を信ぜざりしという。

常[敏+心]禅師は幷州の人なり。髪を落として簪を投じ、緇を披て素を釈きしより、精勤して懈るなく、念誦して歇むなし。常に大誓を発して極楽に生まれんことをねがい、所作の浄業称念の仏名、福帰は既に広く、数は詳悉し難し。のちに京・洛に遊びて専ら斯業を崇め、幽誠の冥兆は感徴する所あり。遂に般若経{1}を写して万巻に満たさんことを願い、遠く西方に詣るを得て如来所行の聖迹を礼せんことを冀う。此の勝福を以って願生に廻向{2}せんとす。遂に闕に詣り上書して、諸州に教化し般若を抄写せんことを請う。旦心{3}の志す所や天必ずこれに従う。乃ち墨勅を授くるを蒙り、南江表{4}に遊んで般若を敬写し以って天沢に報ゆ。要心既に満ちて遂に既に海浜に至りて舶に附し南征して訶陵国に往く{5}。此れより舶に附して末羅瑜国{6}に往きも復此の国より中天に詣らんと欲す。然るに附する商舶の載物既に重く、纜を解いて未だ達せざるに、忽ち滄波を超ゆ。{7}半日を経ずして遂に便ち沈没す、没する時に当たり商人争って小舶に上がり互い相戦闘す。其の舶主は既に信心あり。高声に唱えて言く、師来って舶に上がれと。常[敏+心]曰く、余人を載すべし吾はゆかざるなり。然る所以のものは、若し生を軽んじて物の為にすれば菩提心に順う。己を亡して人を済うは其れ大士行なりと。{8}是に於いて西方に合掌し弥陀仏を称う。{9}念念の頃に舶沈み、身没し、声盡きて終わる。春秋五十余。弟子一人あり何許の人たる<52>を知らず。号[口編に兆]悲泣し亦西方を念じて是と倶に没す。其の済ることを得たる人具(つぶさ)に其の事を陳ブルのみ。傷んで曰く

悼ましいかな偉人、物の為に身を流す

明は水鏡に同じく、貴は和珍に等し{10}

ぬれども黒からず、磨けども[石偏に燐]らず

躯を慧[山冠に献]に投じて、智を芳津に養い

自国に在っては自業を弘め、他土に適いては他因とする{11}

将に沈まんとする剣難を観ては、己に決して親を亡す

物に在って常に[敏に列火]なるも、子や其れ隣寡し{12}

穢体は鯨波に散じて滅を取るも、浄願は安養に詣って神をのぶ{13}

道や昧からず、徳寧ぞ湮びんや

慈光を布いて此れ赫赫、塵劫を竟るも而も新新{14}

1.般若経 般若Prajñaは智慧、般若経は般若波羅密多経Prajñapāramitāの略である。般若波羅密多は真正の知恵を開きて生死の境界より涅槃の彼岸に済度する義なれば、智度と称す。之を説けるものは摩訶般若波羅<53>密経二十七巻 金剛般若波羅密経一巻などその種類甚だ多し、之を一般に7般若経と呼ぶ。また玄奘訳大般若波羅密多経六百巻は霊鷲山・給孤独園・他化自在天宮・竹林精舎の四処に於ける世尊の十六回の説法を説けるものにてもっとも完全なるも他の般若経はその一部分の説法を記したものである。

2.廻向願生 願生は願生極楽・願生彼国土・願生安養の略にて仏説阿弥陀経に説く所の極楽浄土に往生するを願うを言う。般若経万巻の謹写。聖跡順礼の功徳をその方に廻向して往生の本願を達せんというなり。

3.旦心 旦は明なり。懇誠の心、赤心に同じ。

4.江表 揚子江の左岸の地方、江南に同じ。湖南・江西の地方を指す。湖南には、長沙の智度山・湘西の三角山・衡州の石鼓山等がある。また江西には九江・廬山・新昌・袁州等ありて共に仏教の隆盛なる地方である。常[敏の下に心]禅師はこの地方を歴訪して遂に広州に至ったのである。

5.到海浜附舶南征往訶陵国 広州は珠江を遡ること約百唐里にあるが故に、唐代に洋舶に附するには屯門・神湾等の海浜にある港から乗船するものが多い。

闍婆・社婆・Java・喀留巴等は比較的に新しく、訶陵は主に唐代の名称である。Solimanの東洋航路の内にあるKadrengeは正にそれにして今のPekalonganである。其の付近にMenduet, Baraboedoer, Bramban(度欲:Prambananのこと)等の七八世紀の偉大なる仏磧が現存するを見ても当時この付近が訶陵国の文化の中心地たりし事が知られる

6.末羅瑜国 スマトラ島の東北岸にあってマラッカ海峡・印度洋の航路を有し海上に活躍したる強国なれどもその<54>位置は明確でない。無行禅師伝に室利仏逝国より十五日にて末羅瑜国に至り、また十五日にて羯荼国に至るとあれば、末羅瑜国は大約室利仏逝と羯荼との中間にありしことが推定せられる。根本説一切有部百一羯磨巻五に(末羅瑜国)今為仏逝多国矣。とあり。多はマレー語Tanah(国)にして仏逝多国は仏逝国に同じ。故に義浄の帰来の時には末羅瑜国は仏逝国の所領となったのである。

7.解纜未達忽超滄波。高麗本は解纜未遠起忽滄波に、増上寺南宋本は解纜未遠超忽滄波に、黄檗本は解纜未遠忽起滄波に作る。しかしこれは印度の海口に達する前の出来事と見るべきである。

8.若輕生爲物順菩提心。亡己濟人斯大士行。 菩提は覚、道。菩提心は正覚を求る心なり。大士は菩薩に同じ。布施・戒行。忍辱・精進・禅定・智慧の六波羅蜜を菩薩行という。

9.稱彌陀佛 仏説阿弥陀経に説く所の阿弥陀仏は西方極楽世界に住しもその名号を唱うれば来たって衆生を濟度すという。称阿弥陀仏は南無阿弥陀仏の称号を唱えたのである

10.明同水鏡。貴等和珍。 水鏡・和珍は常[敏の下に心]禅師の人格を賛美する譬喩である。水鏡は明徹をいう。晋書楽広伝に

衛瓘見広而奇之曰此人之水鏡。見之瑩然若披雲霧自覩青天也

とあり。和珍は楚の下和が文王に献じたる荊山の玉なり。その後秦の昭王は其の十五城を以って趙王の和珍に代えんことを策したるは有名なる史話である。

11.在自國而弘自業。適他土而作他因。業は身・口・意の造作なり。業は果を生ずる故に業因という。而して<55>過去の業因を宿業といい、現在の業因を現業という。また現業は自己自ら業因を作るものなれば自業という。常[敏の下に心]禅師は自国に在って自業を弘めたれども、他国に適いて不意の危難に遭い、善因が善果を生ぜず他因となりたるなり。

12.在物常[敏の下に心]、子其寡隣 論語里仁に

子曰徳不孤必有隣

とあり。徳高ければ之に類応する人多きをいう。常[敏の下に心]禅師は其の名の如く常に明敏聰慧なれども遂に不幸に終わるを歎ずるのである。

13.浄願詣安養自流神 浄願はわが心の浄き願にて心神、安養は安楽・極楽に同じ。即ち穢体は印度洋中に散ずるも、浄願なる心神は阿弥陀の浄土に至って満足するという意である。

14.布慈光之赫赫、竟塵劫而新新 慈光は諸仏大慈悲の光明即ち仏の威徳である。塵劫は点塵劫ともいう。絶大無限の劫数即ち長時間を指す。妙法蓮華経寿量品に

我実成仏己来無量無辺百千万億那由多劫。譬如五百千万億那由多阿僧祇三千大千世界<56>仮令有人為微塵、過於東方五百千万億那由多阿僧祇国乃下一塵。如是東行盡是微塵。諸善男子於意云何。是諸世界可得思惟校計知其数不。

とあり那由多は億、阿僧祇は無数にて、これ仏が無限大の数を思惟せしむる為の譬喩である。斯の如き長時間を塵劫という。常[敏の下に心]禅師が身を擲(なげう)って諸仏の慈光を流布したる行為は光輝赫赫として塵業を経るとも衰えうることなしと其の得の湮びざるをいう。

末底僧訶Matisimha (唐に獅子慧という)は京兆の人なり。俗姓は皇甫、本諱を知る莫し。師鞭とともに同遊し、倶に中土な至って信者寺に住す。少しく梵語を閑うて、未だ経論を詳らかにせず。故里に還らんと思い、路は泥波羅国を過ぎ、患に遇うて身死す。年四十余。

師鞭法師は玄照法師の弟子なる故に、末底僧訶は師鞭法師とともに玄照法師に従って信者寺に至ったのである。<57>

玄会法師は京師の人なり。云う、是れ安将軍の息なりと{1}。北インドより羯濕弥羅国に入り国王に賞識せらる。王象に乗り王楽を奏して日々龍池山{2}に向かって供養す。寺は是れ五百羅漢の供を受けし処、すなわち尊者阿難陀の室灑(しっしゃ)末田地が竜王を化けせし所の地なり。(室灑は訳して所教と為す。旧に弟子というは非なり。) 復羯濕彌羅王を勧化して大に恩赦を國内におく。死囚千余人あり、王に勧めて釈放せしむ。王宅に出入りして既に年載をすすむ。後に失意に因って遂に乃ち南遊す。大覚寺に至り菩提樹を礼し、木真池{4}を覩、鷲峰山に登り、尊足嶺{5}にわたる。稟識総叡にして多く工技をおさめ、復経過すること未だ幾ならざるに而も梵韻は清徹なり。少しく経教を携えて故居に返らんと思い泥波羅に到り不幸にして卒す。春秋は僅かに而立を過ぐるのみ。(泥波羅既に毒薬あり。所以に彼に至るもの多く亡ぶ。)

1.安将軍之息 安将軍は雍州司兵参軍韋安石ならんか、しかし其の参軍に任ぜしは永昌元年にて義浄が本書を献上せし三年前である。また新唐書巻き122には安石に二子あり、秀敏異常童。安石晩有子愛之とあれど<58>も事実相応せざるがごとし。

2.龍池山寺 大唐西域記巻第三に龍池山寺の縁起を述べて

(末田底迦阿羅漢)便来。至此、於大山嶺宴坐林中大神変。龍見深信請資所欲。阿羅漢曰願於池内惠以容膝。(中略)竜王曰池地総施、願恆受供。末田底迦曰我今不久無余涅槃。雖欲樹請可得乎。竜王重請五百羅漢常受我供乃至法盡。法盡之後還取此国為居池。末田底迦従其所請。時阿羅漢既得其地、運大神通力立五百伽藍。

とあり。其の五百伽藍は龍池山寺にて即ち五百羅漢受供之処、末田地竜王之地である。

3.尊者阿難陀室灑末田地 末田地阿羅漢を以って阿羅陀付法の弟子とし、仏涅般後約五十年、阿育王の時に罽賓に至って仏法を樹とするは付法因縁教・阿育王等の所伝にて異説甚だ多けれども、玄奘・義浄などは之に拠れるがごとし。また室灑Sisyaの字義につき所教の義にして弟子の意なしといえり。然るに論語学而に弟子入則孝、出則弟とあり。また根本説一切有部百一羯磨巻第一に師は応に父想を生ずべし、学ぶものは子想を生ずべしとあるを見れば、室灑を弟子と義訳するは必ずしも埠頭ではない。故に一般には弟子と称するもの多く、義浄も南海寄帰内法伝。根本説一切有部百一羯磨等に於いては弟子なる語を屡(しばしば)使用している。

4.木真池 目支隣陀龍池の略。仏陀迦耶の聖菩提樹の側にある。大唐西域記巻第八には目支隣陀龍王が身を以って七匝(そう)、入定の仏を擁護したることを記してある。

5.尊足嶺 屈屈吒播陀山Kukkudapada・鶏足山・雞嶺・尊足山Gurupada・尊嶺などという。仏陀迦耶の東南約20哩にあり。大迦葉尊者入滅の霊地として有名である。(尊者入滅の洞穴ありと伝うる故にまた山穴とも呼ぶ)

玄会法師の往路は北道・泥波羅道いずれか不明なれども、北インドより羯湿弥羅に至り、大覚寺、尊足山、霊鷲山、を歴訪し、泥波羅に至って卒す。年は三十余である。また注記にある泥波羅国に毒薬ありて旅行