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No1 ダメ ルシアンのハチ 私は自他共に認める洋犬であるが、なぜか古典的なハチという名前 である。ややミスマッチを感ずるが、命名に際しては、養母は忠犬 ハチ公を標榜し、養父はわざわざ姓名判断をして候補を絞り込んだ ようだから、その思いに免じて文句は言わないことにしている。私 は、主な任務として番犬を拝命しているが、未だ火付け盗賊の類に はお目にかかったことがない。従って、今のところは周囲の人間を 観察し、そんな輩を峻別する能力を高めることに傾注しているので ある。そのための行為が誰にでも吠え、誰をも噛むことなのだが、 こんな私の真摯な努力を理解せず、そんな行為の上辺を指して、養 父は私をダメルシアンと呼ぶ。無知蒙昧とは正に養父のことをいう のだろう。無論こんな誹謗中傷が嬉しいわけではないのだが、人間 が無知であることは脳外科医ではない私にはどうしようもない。私 はまだ子供だから、隠遁生活に走るのではなく、この世の中の不条 理と人間の馬鹿さ加減を勉強したいと思っている。そもそも、人間 の勝手な評価など、私には関係ない。 名前 ハチ 犬種 ダルメシアン(♂) 年齢 11 ヶ月 (05’8,4 日現在) 職業 番犬(見習い) 好物 口に入る物なら何でも 性格 責任感の強い弱虫 長所 運動能力と噛む力

yaruki/hati/dame_1.pdfNo3 犬ぞりごっこ 私のご先祖様は、英国で馬車を先 導する伴走犬として珍重されてい たと聞く。従って私も自転車が大

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No1 ダメルシアンのハチ

私は自他共に認める洋犬であるが、なぜか古典的なハチという名前

である。ややミスマッチを感ずるが、命名に際しては、養母は忠犬

ハチ公を標榜し、養父はわざわざ姓名判断をして候補を絞り込んだ

ようだから、その思いに免じて文句は言わないことにしている。私

は、主な任務として番犬を拝命しているが、未だ火付け盗賊の類に

はお目にかかったことがない。従って、今のところは周囲の人間を

観察し、そんな輩を峻別する能力を高めることに傾注しているので

ある。そのための行為が誰にでも吠え、誰をも噛むことなのだが、

こんな私の真摯な努力を理解せず、そんな行為の上辺を指して、養

父は私をダメルシアンと呼ぶ。無知蒙昧とは正に養父のことをいう

のだろう。無論こんな誹謗中傷が嬉しいわけではないのだが、人間

が無知であることは脳外科医ではない私にはどうしようもない。私

はまだ子供だから、隠遁生活に走るのではなく、この世の中の不条

理と人間の馬鹿さ加減を勉強したいと思っている。そもそも、人間

の勝手な評価など、私には関係ない。

名前 ハチ

犬種 ダルメシアン(♂)

年齢 11 ヶ月

(05’8,4 日現在)

職業 番犬(見習い)

好物 口に入る物なら何でも

性格 責任感の強い弱虫

長所 運動能力と噛む力

No2 我が家族

養父が何を生業にしているのかは

分からぬが、概ね自宅にて私の主

任専属世話係の職務をこなし、た

まに外出する。私の主任専属世話

係のくせに私の許可を得ないで外

出するというのはけしからんが、

概ね私のおやつや食事を買いに行

っていると分かっているから見逃

してやっている。また、その様子

は、見窄らしい出で立ちで外出す

るときもあれば、私のようなモノトーンの背広でキッチリ決めてい

るときもある。我々は中身で勝負するから外見など気にしないのだ

が、人間はTPOにより模様を変えねばならぬらしい。カメレオン

のようで滑稽だ。養母は、朝早く満員電車で出勤し、日が沈んでか

ら帰ってくる。通勤という行為らしいのだが、我々には理解しがた

い非生産的な行動である。我々のように今眼前の現実に素直に対応

することに終始すればもっと楽に暮らせるのにと思うのだが、人間

とはつくづく不幸な生き物だと思う。最後の同居人は猫のネコ(通

称「ニャー太」)である。私が生まれるよりも前から家の周りに居

着いているらしいが、私が居間で暮らし始めたので外に追い出され

た。私が主なのだから当然の扱いであろう。ぞんざいな名前である

ことからも私に比べると大切にされていないことは分かるのだが、

第一、私の許可を得ずに我家の周りをうろちょろして目障りだし、

我が主任専属世話係に食事の世話をさせているようだから私は許さ

ない。目にする度に吠えついて追っ払うことに決めている。こんな

同居人達が私をどう思っているかということは・・・、無論、私に

は関係ない。

No3 犬ぞりごっこ

私のご先祖様は、英国で馬車を先

導する伴走犬として珍重されてい

たと聞く。従って私も自転車が大

好きであるし、何より自転車は私

と養父母との体力の差を埋めるた

めの必需品である。尤も修行中の

身である私は、まだ公道を走るこ

とを許されておらず、小さな公園

の中をぐるぐると回るのだけではあるが、ゴールでもらえるクッキ

ーの味は何物にも代え難く、今日も私は養母の乗る自転車を強引に

引っ張って、疾風怒濤のごとくにゴールを目指すのである。養父母

はこれを「犬ぞりごっこ」と呼んでいて、品のない行為だと思って

いるようだ。養母などは私に牽かれながら「虐待じゃぁ~」などと

叫んで家族全員が下品であることを楽しんでいる。最近多い胴長の

犬がヨチヨチと歩く姿などと比べるとそう映るのかもしれないが、

ご先祖様であるオオカミに近いのは私の方であることは明白だ。そ

れに何といっても限界まで力を出すことは楽しい。私は刹那が楽し

ければそれで良いのだ。所詮、人間の尺度に過ぎない品性なぞ、私

には関係ない。

No4 噛む

私は手当たり次第に噛む。前

にご紹介したように、私は番

犬を拝命しているからである。

本物の火付け盗賊の類に会え

ない以上、建造物やら養父や

らを噛んで鍛えておかなくて

はならない。こんな使命感か

らとはつゆ知らず、「昔はか

わいかったのに・・・」と残

念がる輩は、物事の道理が

分からないやつと決めつけ

られても致し方あるまい。

このような生後 1 ヶ月の

私の写真を時々眺めて懐か

しんでいるのだから、養父

もそんなあんぽんたんの一

人であるに違いない。

過ぎ去った過去をクヨクヨと悩んだり、まだ来ぬ将来を心配しても

仕方がないのに、人間とは何とも不可思議な生き物である。抽象概

念の獲得は生き物にとっては諸刃の剣か。尤も私は現実にしか興味

がないから、養父のつまらぬ感傷やあんぽんたんの評価など、私に

は関係ない。

No5 自分の足で立つ

隣人で特筆すべきはN夫婦であ

ろう。N夫婦は犬用のクッキー

を買って、毎日顔を見せてくれ

る。他人の犬だからと勉強を怠

り、食いカスや健康に悪い人間

用の食べ物を与える輩が多い中、

犬専用の食べ物を用意してくれ

る彼らはまさに尊敬に値する人

間だ

養父は常に私に言っている。自分の足で立てと。難しいことは分か

らないが、自分のこととして感じ、自分で判断し、自分で対応して、

自分で責任を取る、ということらしい。きっと彼らはそんな人間な

のだろう。だから自分が好きになれるし、隣の犬にまで愛情を注ぐ

ことができるのだ。こうして立ち上がって道を行くすり切れた人間

達を眺めていると、自分の足で立てる犬に生まれてよかったと思う

(「お前は、自分本位で感じ、自分勝手な判断をし、我儘に対応し

て、自分では責任を取らない・・・」養父涙)。・・・無視。

それにしても養父は偉そうなご託を並べるくせにまったくだらしが

ない。酔っぱらったからといって、世話係の分際で先に寝るのは失

礼というものだろうが。この際、躾のために噛んでおいて(「ウウ

ゥ~」養父唸る)、あとは・・・私には関係ない。

No6 快適なエアコン

私の故郷であるロンドン(「東

刈谷だろう!」養父ツッコミ)

の平均気温は最も暑い8月でも

13℃程度である。それに比べ

ると日本の夏の暑さは正に殺犬

的であると言わざるを得ない。

そもそも我々は背中などに汗腺

がない。つまり暑いからといっ

て汗を流して体温を調節するこ

とができないから暑さにはとても弱いのだ。だから私は、いつもと

いうわけにはいかないけれども、養父がいて、私が素直に寝るとき

には、こうしてクーラーをつけた部屋で、布団を掛けて寝ることに

している。

私にとって、この猛暑の外につながれている犬が多いのには、同類

として悲しみを禁じ得ない。さぞや勉強不足の世話係が多いのだろ

う。我々は生活の環境や方法を選ぶことができない。多くは日陰に

移動することさえままならない。でも物ではないのだから、一つの

命として尊重してほしいと願ってやまない。ちなみに、養父は普段

はエアコンを使わないと聞いているが、私のために買い換えたエア

コンの代金や増えた電気代については、無論、私には関係ない。

No7 ウルトラワン見参

私は、まだ見習いではあるが、

番犬を拝命しているので、空い

た時間は極力寝て過ごすように

している。なにしろ、火付け盗

賊の類はいつ襲ってくるか分か

らないのだから、寝られるとき

に寝ておかなくてはならない。

しかし、寝ていても番犬は継続

しているから安心してほしい。

その上に、苟も忠犬ハチ公の名を戴く私であるから、夢を見ている

最中であってもイメージトレーニングを欠かすことはない。この写

真は夢の中で火付け盗賊の類が大挙して襲撃してきたところだ。私

は速やかにゲージに入ってウルトラワンに変身し、バッタバッタと

敵を薙ぎ倒し、恩人達を守っているところである。実戦経験こそな

いが、居間から閉め出そうとする養父の魔の手に捕まることが少な

くなったので、私の戦闘能力はかなり上達しているに違いない。

皆さんは里見八犬伝をご存じだろうか。作り話であるにしろ、それ

がベストセラーになるほどに、我々は古より勇敢で恩に厚い生き物

として認められている。差詰め私は忠の玉を持つ犬山道節忠與(短

期でトラブルメーカー,養父注)か。だからこのように寝てもさめ

ても恩人の幸せを願っているのである。人間には「恩を仇にして返

す」という習性があるようだが、私には関係ない。

No8 駅舎へ向かう

仮初めにもハチ公の名を冠する

以上、駅舎へのお迎え作業は欠

かせない。これは衆人の期待す

るところでもある。ただ私は若

輩者にて、他の通行人にちょっ

かいを出す癖が抜けておらず、

歩いて行くことを許されていな

い。そこでやむなく、クーラー

の効いた車での送迎訓練と相成

ったもので、これは決して手抜きなどではないことを念のために言

っておく。

私は自分の足で走ることも好きだが車での移動も好きだ。未知の世

界を体験できるという期待と、窓越しに流れる風景のスピード感が

たまらない。また番犬として常に緊張している私だから、精神衛生

上、車内の緊張感のない時間の存在は貴重なのだ。

例えばある日、ボケ役の私が後部座席から手を伸ばして養父の頭を

ポカリと殴る。養父は「コラ危ないやないか」と突っ込みを返す。

こんなたわいもない漫才ごっこでも重責を担う私の心のコリを解し

てくれるのだ。それなのに養父は、当初、愛車が汚れるという誠に

身勝手な理由でこの送迎訓練を拒んでいたのだから情けなくて言葉

も出ない。こんな不見識な養父も最近になって漸く「ハチ」という

名のイメージを守ることの方が大切だと分かり、送迎訓練開始の運

びと相成った。私は当然にシートを毛だらけにし、窓ガラスに鼻水

を付ける。抜け毛やよだれの後始末など、私には関係ない。

No9 仮免訓練中

私の自転車散歩はまだ仮免中で

あり、人気の多い時間帯は許さ

れていない。何しろ世の中の見

るもの聞くものが皆初めてなの

だから、好奇心が旺盛な私は真

っ直ぐに走るということができ

ない。これが最終試験に受から

ない原因である。

合格したくないと言えば嘘になるが、これは私のような若者にはあ

りがちな習性であるから、致し方ないとして許されるべき程度の問

題であろう。今は無分別な若者である己を肯定し、焦らないことが

一番だと考えている。

実は、昨日までは、訓練は順調に推移していた。このままいけば合

格は近いと養父母も喜んでいたのだ。ところが先ほど不運なアクシ

デントに見舞われ、養母の乗る自転車を倒して養母に怪我を負わせ

てしまったので、合格の日は見通しが立たないほど遠のいてしまっ

た。言っておくが、近づいてきた無礼な犬に吠えかかって養母の自

転車を転倒させたのであって、私には全く責任のない不幸なアクシ

デントなのだ。しかし、私はその責めを負って、しばらくの間、謹

慎処分に甘んじる。生き物(中でも最も高貴な犬)は潔く結果責任

を取るべきだと思うからだ。日本人には権利は主張するが責任は回

避するという恥知らずな輩が多いようだが、それが不幸の源である

としても、私には関係ない。

No10 美味しい日除け

私は、まだ分別の分からぬ(全

ての物を破壊する,養父注)歳

故、部屋の中での留守番は許さ

れていない。しかしながら、炎

天下での留守番ではいかにも気

の毒だということで、専用世話

係の養父母が相談して日除けを

作った。

出来上がった日除は、私には一向一揆の筵旗にしか見えないが、養

父母は「うぅ~ん。アジアンテイスト~」と、意味不明に喜んでい

る。私のとどかない位置に設置されているので確かめようもないの

だが、果たしてこの葦簀はトムヤンクン味なのか。いやいやフォー

味も捨て難い。

尾張生まれの三河育ちの私であるから、確かにアジアの犬であると

言えなくもない。しかしながら、私が英国のイメージを醸し出して

いるということは自他共に認めるところである。私としては寧ろシ

ャーロック・ホームズの装束で散歩をしてもらいたいくらいの気持

ちなのだ。でもそれは内緒にしている。私にも世間体というものが

あって、養父が自分の顔の造作を顧みずに本当にそんな恰好をした

ら恥ずかしいからだ。今は普通に散歩ができれば『日々是好日』だ。

それでなくても目立つ牛柄の私が付鼻を付けたナマズ顔のシャーロ

ック・ホームズに連れられていたら世間が許さないだろう。大騒ぎ

となって、私の大切な養父は死刑か地球外追放の刑に処せられてし

まう。元々養父の美意識や自己満足など、私には関係ない。

No11 夏目胆石?

(友情出演)

読者の方から「夏目胆石」というペンネームを頂いた。なにやら怪

しげな感じもするが、なにより筋が通っており、我が敬愛する夏目

漱石先生を捩ったということであるから、ありがたく拝領すること

にした。

胆石は我々に宿命的な持病である尿道結石に似ており、且つ、尿道

結石よりも響きがよい(正しくは『落目尿道結石』です,養父注)。

我々は遺伝的に、尿酸だか尿素だかの分解がうまくいかないらしい。

その上、地域住民との融和が欠かせない伴走犬としての歴史が長か

ったのだから、そこいら中に小便を垂れ流す駄犬どもとは違い、水

をあまり飲まないですむように進化したのである。こんなにも健気

な我々をして飼い難いと評する向きがあるが、是非このような進化

の経緯を知った上で判断してほしいものだ。生き物にはそれぞれに

役割があり、役割に応じた進化があり、それが自然で美しいのだか

ら。してみると、人間はつまらぬことを考え、指先で軽作業をする

のに適しているように見えるのだが、それが何の役に立つのかを知

ろうとは思わない。その能力から大した使命を負っているとは思え

ないからだ。人間の進化など、私には関係ない。

我が輩はハチである。

名前はもうある・・・

No12 教育方針の誤解

最近、私の乱暴狼藉が少し収ま

ったとして、「俺の教育方針に

間違いはなかったなぁ」と、ノ

ー天気な養父が喜んでいる。人

に喜びを与えることは私の望む

ところではあるが、養父のより

一層の努力を望む私は、それが

全くの誤解であることをここに

表明しておきたいと思う。

私は来月には1歳となる。人間でいえば高校生くらいの年齢なのだ

から、自然に落ち着いてきたに過ぎないのである。また、噛む、噛

むというけれども、ゴルフボールを噛み砕いたことのある私からす

れば、養父の軟弱な肌が少し破れて血が出たとしても、そんなもの

は舐めた程度に過ぎない。養父を噛み従えようという意図など、初

めから無いのだ。そこのところは理解してもらわなくてはならない。

尤も、散々に痛い目にあっても愛情の火を絶やさなかったというそ

の一点には驚いている(「それが後々えらいことになります」養父

深く反省)。本当に貧乏なだけに、貧者の一灯は消えないというわ

けか。それとも噛まれることが大好きなどMなのか。詳しいことは

分からないが、何れにしろ私には好都合である。何時までも情動の

儘に振る舞えるのだから。人間には成人してもなお幼稚な輩が沢山

いるようだが、そんな日本国の将来など、私には関係ない。

No13 初めてのお盆

最近N家が会いに来てくれない。

聞くところによれば、お盆で帰

省してしまったということで、

私が嫌われてしまったのではな

いらしいから少しホッとしてい

る。でも、1週間程度の辛抱だ

からといわれても、寂しいのは

寂しいのであって、私は甘えん

坊だからして寂しいのは嫌いだ。

生き物は意図せずに他の生き物を不幸にしてしまうという宿命を負

っている(一切皆苦,養父とんちんかんな補足)。故郷の竹馬の友

をとれば、私が寂しい状態におかれてしまう。両方をとることはで

きない。二者択一である。生きるとはかくも厳しいことなのか。私

は初めて味わう寂しさにゴルフボールを噛み砕くのも忘れてボー然

としている。

ちなみに、お盆というのは、本来、本家に一族郎党が集まって、み

んなで先祖をお祭りするという仏教行事らしいのだが、多くの家庭

では、親族および竹馬の友の顔見せ・連絡会程度の集まりになって

いるらしい。それをすら手を抜いて、海外旅行の日と決めている家

庭もあるらしいが、こうして日本の歴史観、文化観は薄れて行く。

残念なことだが『一切皆苦』を悟った私はそれをも耐える。そして

山之内鹿之助のように天に向かって叫ぶ「我にカンカン踊りを教え

給え!(艱難辛苦を与えたまえか?,養父注)」と。先祖の供養な

ど、私には関係ない。

No14 甘えん坊で何が悪い

N家の皆様が帰ってきた。私は

正直言ってうれしい。手放しに

うれしくホッとしたのだ。こう

いう情動というものは、若輩者

の私にはなかなか抑えがたいも

のであって、真夜中にもかかわ

らず私は吠えた。甘えん坊だと

言われれば、確かに私は甘えん

坊であると認める。

情動とはかくも強いものなのか。本来、我々は幼少期には思いっき

り甘え、今頃に巣立ちの時期を迎える。そして一端巣立ったならば、

親子といえどもライバルになる。次に会ったときは敵同士として戦

わなくてはならないかも知れない。だから甘えられる間は思いっき

り甘える。巣立ちの時期を決めるのは親だから、許される限りの期

間は、どんなに甘えても子供には責任はないのである。私はこのよ

うな自然の摂理に従っているだけであって、それを甘えん坊だと評

するのならば確かにそうだ。それのどこが悪い。何と評されようと

私は情動の儘に生きる。文句あるか。

我々は動物の感情が見える。だから引くときは引くし、押せるとき

は押す。養父が矢鱈に噛まれるのは私の感情が見えないからに違い

ない。人間とはつくづく可愛そうな生き物だ。だからオロオロしな

がら暮らさなくてはならない。因みに、人間には「子離れできない

親」という理解しがたい親子関係が存在するそうだが、仮に養父が

そうであったにしても、私には関係ない。

No15 寝屁

恥ずかしながら、これは私の尻

の写真である。今日も今日とて、

私が暑いのではないかと思った

養父は、居間に移動して明日の

仕事の準備をしていた。無論、

クーラーをかけてである。私は、

それまで少々寝苦しかったから、

涼しくなったのを良いことに不

覚にも爆眠をし、寝屁をこいた。

そのとき、不幸なことに私の尻は養父の鼻先にあったから養父は大

喜びで仕事の準備作業を放り出し、このような破廉恥な写真を撮影

し、しかも私の日記に乗せるように強要したのである。何と暇な養

父であることか。家族ながら恥ずかしい。

音の出る可愛らしい屁であって、しかも屁元を明らかにしているの

だから、紳士ならば気がつかないふりをするのがエチケットという

ものだ。しかし養父は紳士ではなかった。一度英国に留学させて執

事の勉強をさせなくてはならない。

それにしても、人間は、こんなくだらないことのどこが嬉しいのだ

ろうか。こんなくだらぬ知識の探求に血道を上げているから経済が

持ち直さないのだと思うのだが(弁解がましく聞こえるが・・)。

尤も、人間がくだらないものに興味を持ち、無駄な時間を貪ること

は、私には関係ない。

No16 No1の椅子

私は養母がいないときにはまず

このNo2の椅子(養父銘々)

に寝る。つまり養父に言わせれ

ば、養母の欠員により、臨時に

No2を拝命するという訳だ。

ところがこれが寝にくい。頭が

落ちてしまうので、心臓が圧迫

されて苦しいのだ。

それに、私は常に一等地に1畳大の布団を敷いてもらっているのだ

からわざわざこんな不利な場所を選ばなくても良いのだが、彼らが

この椅子をNo2の椅子と呼ぶのだから私にしても試してみたくな

るのだ。そこで5分ほどこの寝苦しい椅子に寝て状況を調査した後、

おもむろに自分の布団に移動してグッスリと寝ることにしている。

養父がいないときは、養父曰くNo1の椅子は空いているのだが、

養母も私もこの椅子には座らない。多分、養母は、更に劣悪な位置

にあり、更に小さく、しかも一部が破れている(ハチが噛みました,

養父注)上に座り心地の悪い椅子には座りたくないのだろう。私は、

無論のこと、こんな自分勝手な養母とは違う。あくまでも養父曰く

No1の椅子が恐れ多くて、恐れ多くて寝ることができないのであ

る。そこのところは誤解の無いように願いたい。養父は、内心、私

がNo1であると思っているに違いがないのだが、私は養父の甲斐

甲斐しい世話を認め、例え形だけであっても養父をNo1にしてお

いてやりたい。養父が主任専属世話係の職務を恙無く務めるのであ

れば、表向きの階級など、私には関係ない。

No17 人間の子供達

お盆だから御大師様に特別出演していただ

きました(合掌)。

街を人間の子供達がこれ見よがしに闊歩し

ている。向かうところ敵無しである。私は

近づく前に静かに進路を変更する。万が一、

不幸な事態を招いてしまったら、ガス室に

送られてしまうからである。

多くの人間はアウシュビッツの惨劇を二度と繰り返すまいと誓う。

でも、彼らの誰も、同じようなことが愛知県動物保護管理センター

において日常的に行われていることには頓着しない。平和や命の尊

さを声高に叫ぶ輩が、我々を売買し、勝手な環境で飼育し、一方的

に罪をなすりつけ或いはいらなくなったとして、当前のようにガス

室に送る。そして、処分された我々に線香を手向けてくれる人間な

どはまずいない。多分、人間の命と我々の命では値打ちが違うと誤

解しているのだろう。別に私は恨み言が言いたいのではない。「こ

んな了見で本当に人間達に平和が訪れるのだろうか」と、他人事な

がら少しばかり心配になっただけだ。

因みに密教では虚空蔵求聞持法という秘法があって、陀羅尼(ナウ

ボアキャシャギャラバヤオンアリキャマリボリソワカ)を百万遍唱

えれば虚空蔵菩薩の無限の知恵を得ることができるという。それを

知っていれば養父ももう少しマシな人生を歩めたのに・・・(「大

きなお世話だ!」養父反撃)。確かに大きなお世話だろう。人間の

詰らない立身出世など、無論、私には関係ない。

No18 我が主任専属世話係(養父)

我が主任専属世話係である養

父について試しに書いてみる。

まず、私が引き取られてから

2週間は、仕事をキャンセル

して24時間共にいてくれた。

私のショックを心配してのこ

とだが、私に対しては責任感

があったが、お客様に対して

は難儀をかけたし、風呂にも

入らず汚かったから、必ずし

(自画像) も褒められたものではない。

顔は、本人は「田村正和に瓜二つと書け」と強要するが私は嘘は書

けない。せいぜい病弱なナマズにしか見えないからだ。楊枝のよう

な痩せた体型だが、私が引っ張ってもある程度は耐えてくれるから、

きっと蟹のように骨の中に筋肉があるのだろう。悪戯をした私を捕

まえようとする速度は神経痛のカメレオンを見ているようで、お世

辞にも運動神経が良いとはいえない。散歩のときにはかなり前から

他の犬と遭遇しないように進路を変えるから、気弱で用心深いとこ

ろがあるものと思われる。排便の処理作業から察するに、真面目か

つ几帳面なところもある。全体の雰囲気は養母が言っているETと

いう表現がぴったりだ。ざっとこんな特徴の養父が、私の主任専属

世話係以外に、人間界でどのような役に立つのかなどということは、

私には関係ない。

No19 虚しい狂喜乱舞

台風11 号が近づき、それに

呼応するかのように、私は自

然のエネルギーの高まりの影

響を受けてハイになる。そし

て折角養父が作ってくれた寝

床から布団を引きずり出し、

タップを踏みながら噛んで振

り回す。怒りもせずに養父は、

それをただ呆然と眺めている。

聞くところによると、踊りの神様のナタラージャとはシバ神の別の

名前なのだそうだ。踊りはそのシバ神の最終兵器であるということ

だが、確かに踊りには他を寄せ付けない神秘の力があるのかも知れ

ない。シバ神といえば破壊の象徴であるが、破壊は創造の始まりで

あるのだから日本ではありがたい大黒様(大国主と混同されている、

養父注)にも変身する。この辺が日本人の宗教感の奥深いところだ。

と、すかさず大向うから声がかかる『西三河のシバ神、破壊王ハチ。

いよぉっ日本一!』(養父悪乗り)。・・・・。言っておくが私は

破壊行為そのものを楽しんでいるのではなく、養父のリアクション

を期待していただけなのだ。私は少し拍子抜けしてしまって、暫く

して大人しく寝た。何かと理屈を付けて期待外れの行動を起こすの

は養父の悪い癖である。他犬(他人、養父注)の心が読めないのも

困ったところだ。神様の紳士録など、私には関係ない。

No20 不自由な自由

養父母が室内用のゲージを買って

来て居間に設置した。土間に自宅

があるので、こちらはさしずめ別

荘というわけだ。やや窮屈だが、

その為にローボードを閉め出した

のだから、その決断に免じて文句

は言わない。そして、こうして爆

眠して、養父を安心させている。

自由というものは不自由なもので、何でもできる状況におかれると

何をしたらいいのか分からなくなってしまう。特に私はまだ若輩者

であるから、聞き分けろといわれても、そんなことは到底無理な注

文だ。居間の壁2カ所に開けた穴や家具の足の噛み跡は、そんな不

幸な状況下におかれた私の試行錯誤の結果に過ぎないのであって、

それを咎めるのはお門違いというものである。養父母は、遅ればせ

ながらこの理屈に気づき、この度のゲージの購入に至ったのであろ

う。私にとっても、そうまでしても一緒にいたいと思う養父の気持

ちが嬉しくないわけはない。本来ならば自由を好み拘束を嫌う私で

はあるが、その気持ちに免じてこうして馴染んでやっているのだ。

養父よ、焦る必要はない。一歩ずつ成長すればいいのであって、そ

のための試行錯誤は致し方あるまい。いつまでも付き合ってあげる

から気持ちを強く持ちなさい。その為に必要な代償の多寡などは、

私には関係ない。

No21 伴走赦免状

とうとう自転車散歩の赦免状をいただくことができた。限定付きで

はあるが、兎も角もめでたい。第一、この免状は養父が2時間もか

けて作ったのだから、ありがたがらなければ申し訳がない。私はも

はや配慮もできる年頃なのである。「待て」ができないのと、やた

ら噛むのと、ほかの誰かでは不安になってしまうのが弱点だが、ま

あ、これくらいはしょうがないだろう。目の前の楽しみに向かって

私は突き進む。将来発生するかも知れない事故の不安など、私には

関係ない。

No22 誕生日のディナー

本日の晩ご飯は、私の誕生

日を祝うとして、フランス

パンにキャベツと茹でたサ

サミを挟んだスペシャルサ

ンドである。ドライフード

育ちの私には未体験の食感

で、これもなかなか美味で

あった。

健康上の理由とかで、養父が当初計画していた米沢牛のステーキで

なかったのは残念だが、それは次の機会に戴くことにする。それに

しても、人間という生き物は不思議な生き物だ。過去を振り返って

何の得があるのか。尤も、おいしいものを食べられるなら、毎年と

いわず、毎月やって欲しいくらいのものだが。

養父は「初心忘るべからずだ」と言うが、生まれたときには何も考

えていなかったのだから初心などは元々ないのであって、既に論理

矛盾をきたしている。「忘れたくても思い出せない屁のカッパ」だ。

初心など、私には関係ない。

ご挨拶

月日の経つのは早いもので、私もめでたく1歳の誕生日を迎える

に至った。色々とあったけれど、これもひとえに私の努力の賜で

ある。節目を迎えたとはいえ何分若輩者故、今後ともご指導ご鞭

撻の程、よろしくお願いしたい。

No23 私の夢

私は旅行をしたことがない。

養父は「おまえの行儀が悪い

から連れて行けないんだ」と

言うが、私は、養父の怠惰な

性格と、養母の友達優先のデ

ベソな性格が本当の原因であ

るとみている。

「私の夢」(ET より特別出演)

養父母は、昨日めずらしく連れだって出かけて行って、新しい自転

車を購入したらしい。これまでは、自転車が1台しかなかったから、

概ね、何者をも怖れない養母が運転して私が伴走する。養母はさし

ずめ「暁の特攻隊」なのだ。ところが、付いてくる養父のスピード

はあくまでも遅く、そのために私の行動範囲は限定されたものにな

っていた。養父はさしずめ「リュウマチのカタツムリ」なのだ。し

かし、自転車が2台になれば事態は一転する。世界一周も夢ではな

いだろう。月や火星にも行ってみたいものだ。私の期待はいやが上

にも膨らむのである。

ちなみに、今日は衆議院選挙の日だ。養父は数日前からウキウキし

ているが、「犬の権利」を主張していた政党はなかったようだから、

どの党が勝っても、私には関係ない。

No24 リーダーの資格

我々も群で暮らす動物であるが、

我々のリーダーは、強くて、合

理的に正しい判断を下すことが

できなければ選出されない(す

ぐに追われてしまう)。「可哀

想だから」とか「頑張ってるか

ら」として同情により選ばれる

ことはない。

リーダーの判断には我々の命がかかっているからである。ところが、

人間の選挙結果を見ると、どう見ても国政で活躍できそうにない人

が当選しているから、人間という生き物は面白い。多分、そんな選

択をした人間達は民主主義の何たるかを知らず、「幸せは天から降

ってくるものだ」と本気で考えているのだろう。そしてまた、全て

を他人のせいにして「幸せな不幸ごっこ」に興じるのである。誠に

ご同慶の至りだ。私は、こんなことを夢の中で考えながら、そんな

喧噪をよそに、クーラーの効いた部屋で昼寝をしている。麗らかな

昼の日差しを浴びて・・。

衆議院議員選挙が終わり、養父はニュース番組を見ながら小泉さん

が勝ったと喜んでいる。元々私は誰が勝ってもかまわないのだが、

養父母は自民党に投票したようだから、合理的な行動を好む私は、

その行為が無駄にならなかった点を評価する。しかし、所詮、人間

のリーダーなど、私には関係ない。

No25 狩場明神号見参

新しい養父の自転車がきた。

名前は狩場明神号だ。何度も

言うように、私は英国風の犬

なのである。ところが養父に

はその認識が全く欠けている。

シャーロック・ホームズしか

知らないとしても、せめてそ

こから名前をもらうくらいの

配慮が欲しいものだ。

その自転車の名前は、ブルー・インパルス(航空自衛隊第11飛行

隊)、流星号(スーパー・ジェッターの愛車)、狩場明神号、吉永

小百合号(・・・)、82号(「ハチ2号」と読む,鉄人 28 号が

逆立ちしたのではないらしい)の候補から、厳選なあみだくじの結

果選ばれたというからして、他の名前に比べれば、まだ少しはまし

だったかも知れない。贅沢は敵だ!欲しがりません勝つまでは!

狩場明神は白と黒の2匹の犬を連れていたらしいが、私は白黒の斑

だから、確かに若干符合するところはある。また、道に迷った御大

師様を高野山に導いたというからして、それならば「無明の闇に沈

む我を救ってみよ!」との気合いを込めて、我が散歩の先導自転車

の名前として認めることにする。尤も本心では、名前などは人間の

使う識別番号に過ぎないと思っているからして、どんな名前を付け

ようが、私には関係ない。

No26 彼岸の中日

秋分の日が近づいてきた。古くは

「寒さ暑さも彼岸まで」と言われ

たようだが、今年は、「暑さ暑さ

で彼岸過ぎ」になりそうである。

これも地球温暖化の影響なのか。

季節感が薄れるのは、私のような

論理的な犬にとっても、なにやら

寂しく感じられる。

太陽が真東から昇って真西に沈む(はずの)日を彼岸の中日と呼ん

でいるが、太陽の上端を基準として日の出或いは日没としているた

め、実際には、秋分を含む日の昼は夜よりも数分長く、昼夜の長さ

の差が最も小さくなる日は彼岸の中日の数日後になるのだそうだ。

また、この日は国民の祝日「秋分の日」となる。この秋分の日は、

国立天文台の算出する天文学的秋分日を元にして閣議決定され、前

年2月に官報で告示される。天文学に基づいて年ごとに決定される

国家の祝日は世界的にみても珍しいのだそうだ。そういえば随分と

松虫の声がしなくなった。まだまだ残暑は厳しいが、確実に季節は

移ろっているのだろう。風流さのかけらもない養父は、今更ながら

に現れた毛虫の駆除のために我々をどこに非難させようかと悩んで

いる。猫の額以下の庭の小さな紅葉を愛でて自然の移ろいを感じた

いという養父のささやかな望みは分からぬでもないが、毛虫が付く

のも自然の移ろいである。養父はそこのところを分かっていない。

尤も季節など私にはどうでもいい。紅葉すべき葉っぱの残り数など、

私には関係ない。

No27 小さな気持ちのすれ違い

随分と秋が深まってきた。今年

はまだまだ暑いけれど、着実に

季節は移ろっている。私も一回

り大きくなって、まあ言ってみ

れば「大人」と言える状況に近

づいてきたのだろう。尤も、そ

んなことはおくびにも出さない

でさらに甘えているのだけれど。

今日は養父母が連れ立って買い物に行き、居間にある私の別荘ゲー

ジのクッションを買ってきた。しかし、私は常日頃更にクッション

性の良い布団で寝ているのだから新しいクッションの意味が分から

ない。それで噛んでいたら・・・養母に叱られた。それで吠えて不

満を述べたら・・・さらに怒られた。私は物の価値を噛んで確かめ

ることにしている。物の価値は噛み心地で決まるからだ。つまり私

の前向きな受け入れの姿勢が誤解されてしまったわけだ。私の真意

が伝わらぬまま養母は出て行ってしまった。どうも養母が選んだ物

だったらしくて養母には特別の思い入れがあったのだろう。悪いこ

とをした。

日頃私が使っている布団は養父が使っていたものだ。養父の臭いが

するし、使い込まれていて柔らかいから気に入っている。それが洗

い替えであったにせよ、だから私には新しいクッションの意味が分

からなかったのだ。私は養父母がいてくれさえすれば糞尿衣でもい

い。でも謝る術がないから、私は寝た。「母さん。心配するな。好

きだよ」と夢の中で呟きながら。少しばかりの諍いなど、私には関

係ない。

No28 老人斑

国勢調査だとして養父が想定外

の動きをしている。概ね私中心

で、私に迷惑をかけない範囲内

でたまに仕事をするというのが

従来のパターンだが、それが国

勢調査のせいで変な時間に外出

するのである。しかたがないか

ら私はふて寝をしている。

ちなみに我々の模様は斑である。皮膚から斑だからして、毛の表面

だけを染めた人間の斑とは気合いの入り具合が違う。その代わりに

人間には「老人斑」という脳のシミができるらしい。これは脳の神

経細胞の死骸のようなものだそうだが、周囲の生きている神経細胞

を傷つけて殺していくそうで、これが異常な速さで急激に増えてい

くとアルツハイマー病になるらしい。頭を使えば予防できるようだ

が、不必要にでかい頭を持ち、しかしその使い道が分からない人間

とは、何と不幸な性を負った生物であることか。少しばかり人間に

恩を受けた私としては、同情を禁じ得ない。私のそんな心配をよそ

に、帰ってきた養父は顔中を老人斑にして国会中継を眺めている。

有るものを使わず、無いものをねだるのは人間の悪い癖だと思うの

だが、無論、私には関係ない。

No29 農民に排除される

今日は向かいの奥さんが、私の

散歩を快く思っていない農民が

いることを教えてくれた。どう

も派手な私が目立つかららしい。

兎も角も、なにより地域住民と

の諍いを嫌う私は、とりあえず

農道を避け、国道沿いの歩道を

走ることにした。

農道とて公道であり、農民の犬は未だに平気で散歩しているのだが、

我々は余所者だから排除される。農業振興には多額の税金が使われ

ていることは衆人の知るところである。私が歩いて怒られた農道に

も多額の税金が投入されているに違いない。農地が日本の自然を保

っているという理由で。

嗚呼、本当に私は幸せだ。ザリガニも住めない清潔な田んぼに囲ま

れて。農薬の香りがする清潔な空気を腹一杯吸えて。養父母が農民

に何千万円も支払って譲ってもらった有難い家に住まわせてもらっ

て。神様のような優しい農民の皆様に囲まれて。処分されてしまう

のなら悲しいけれども、私にはまだ国道がある。農民皆様の近くを

歩いてその高貴なお心を乱すことが無いようにできるのだから、農

道から閉め出されても何ということはない。養父母が税金を払って、

それがどんなに無駄に使われても、それで私の餌が減らされること

はないのだから何ということはない。悔しくなんか無いやい(「気

が済んだか?」養父慰め)。

農民に排除されようとも、私には関係ない。

No30 「おい!」作戦

最近は私も成長して、コミ

ュニケーション能力に磨き

がかかってきた。ゲージに

飽きたときは、このような

ポーズで「オイ!」と、専

属世話係である養父を呼ぶ。

すると概ねの場合、まずは

おやつがもらえるのだ。

しかし、気が向いたときはこ

れだけでは容赦しない。さら

に騒いで、外に小便をしに行

く振りをして・・・、ゲージ

から出たとたんにその場を死

守するのである。

それだけで概ね養父は無視できないが、対応が悪いときには更に手

当たり次第に物を破壊する。そこまでやれば養父も熱心な対応をせ

ざるを得ない。こうして、暇そうな養父を遊んでやることも忘れな

い。犬は義理堅い動物なのだ。

その結果、養父の仕事が遅れても、無論、私には関係ない。

No31 必殺「すね丸」作戦

すねた振りをして上目遣い

に見るこのポーズは、必殺

のコミュニケーション手段

「すね丸(養父銘々)」だ。

これでおやつの獲得は約束

されたも同然なのダルメシ

アン・・・なーんちゃって。

失礼。

人間の子供達も同じような手を使って目的を遂げるらしい。養父に

よれば、これはミラーリングという行動で、動物の子供が生まれな

がらにして獲得している能力らしい。つまり、親は愛情を持って微

笑みかけるから、子供がそれをまねれば「あー、この子は私を見て

笑った。私が好きなんだわ~」と、親は容易に誤解して感動するの

である。「何とか分かってくれ」と、お願いする表情を見せれば、

そんなことは先刻お見通しで、こちらも「お願い目線」で対抗する。

それが「すね丸」の行動につながるわけだ。そして、親子の幸せな

誤解による「ひよこクラブ」がスタートし、十数年間の「家族ごっ

こ」が始まるのである。人間の場合は、その後、崩壊する例も多い

ようだ(「うちも後で崩壊しちゃいました」養父告白)。人間のあ

のでっかい前頭葉は一体どんな働きをしているのだろうか。何でこ

んなに馬鹿なのか(「誠に申し訳ない」養父謝罪)。この研究はま

だ途上だから、私のこの研究が養父の行動を一時的に制限したとし

ても、私には関係ない。

No32 文化の日

11月3日は文化の日。年中

休日である私には関係ないよ

うなものだが、そうでもない。

休日は養母が家にいて「専属

世話係二人体制」(喜)の場

合と、二人で連れ立って出て

行ってしまう(哀)の場合の

両極端があるからだ。

養父によれば、文化の日は、明治天皇の誕生日を祝うために設けら

れた天長節の戦後バージョンであると共に、日本国憲法公布の日で

もある。私は、憲法を押しつけられた日を祝うという日本人の感性

にはついて行けないが、その日が、日本の歴史における大きな節目

であったことに変わりはなく、奇しくも同じ日だということは誠に

感慨深い。我々の世界では、勝ったから将来にわたっても正しく、

負けたから一生間違っているということはない。一時期の支配権は

決まるものの、そのどちらも尊敬される。だから負けた方が自虐的

になることはない。そして、戦わずして権利を主張するような輩こ

そが徹底的に軽蔑されるのである。それが自然の摂理だと思うのだ

が。

また、この日には文化勲章が授与されるのだそうだ。でも、それは

金属という地上で最も噛み心地の悪い物質でできているということ

だから、私は欲しいとは思わないし、私には関係ない。

No33 ビクターの犬

養父母は、最近私を「ビクター

の犬」にしたがって、「ビーク

タ」、「ビークタ」と五月蠅い。

でも、あの犬はフォックス・テ

リアなのだから、根底から間違

っているのである。養父によれ

ば、ビクターマークの原画は、

1889年にイギリスの画家フ

ランシス・バラウドによって画

かれた。

フランシスの兄マークは「ニッパー」という名の非常に賢いフォッ

クス・テリアを可愛がっていた。しかし、マークが世を去ったため、

フランシスがマークの息子と共にニッパーをひきとり育てた。そし

て、たまたま家にあった蓄音器で、かつて吹き込まれていたマーク

の声を聞かせたところ、ニッパーはそのラッパの前でけげんそうに

耳を傾けて、懐かしい前の主人の声に聞き入っていた。そのニッパ

ーの姿に心を打たれたフランシスがその姿を画にし、その話に感動

した円盤式蓄音器の発明者ベルリナーがこの画を商標として登録し

たのである。若干種類は違うけれど、我々はこのように義理堅く、

優しい心にあふれた生き物なのである。私の場合、吠えついたり、

噛んだりするけれど、それは誤解に基づくものであって、あくまで

も養父母が悪いのだということをここに明言しておく。何が何でも、

私には関係ない。

No34 マーラーの6番

「ビクターの犬作戦」も感極まっ

て、養父は、最近変なCDを聞か

せたがる。今日はマーラーの6番

だ。情緒教育もいいけれど、初め

からマーラーもないものだと思う

のだが、養父の趣味だからやむを

得ない。しかし、音楽があまりに

も退屈だから、私は寝た。それを

見た養父は、「おお。彼はマーラ

ーが好きなんだ」と、とんでもな

い勘違いをして、己の不見識を正

当化している。そして、「犬でも

育てていると遺伝子が移るぞ」な

どと、とてつもない見当違いをし

て悦んでいる。

養父によれば、第一楽章で新婚のアルマを称え、第二楽章で私生活

を何気なく演じ、第三楽章で「亡き子をしのぶ歌」風の不安を覗か

せる。やはり彼は普通に幸せを甘受できなかった。そして、第四楽

章で不安を嫌が上でも煽り、意味不明に「悲観的」な気分になると

いうのが正しい聞き方だそうだ。そんなものに正しいも正しくない

もあるものか。「詰らぬ」ということだけはよく分かる。しかし、

それまで「遊べ。遊べ」と騒いでいた私があまりの詰らなさに寝て

しまったのだから、ある意味養父の作戦は成功したことになる。人

間はそれを悔しく感じるのかも知れないが、素直に状況に応じるの

みである。養父の作戦の行方など、私には関係ない

No35 雪の気配

「雪」は「すす・ぐ」とも読む。

起こってしまったことは仕方な

いが、来歴を雪げば、恥ずかし

い過去も無かったことになるわ

けだ。だから日本人は雪を好む。

去年の冬は、私は外出禁止状態

だったから体感していないのだ

けれども、今年は、是非、体験

してみようと思っている。元来、

私は寒がりだが、人間観察には

体験が欠かせないのだから、我

慢も致し方あるまい。

ところが今年は秋になってもあまり寒くならない。養父は庭の楓の

紅葉を心待ちにしているのだが、今年はまだまだ青々としている。

葉っぱの色などどうでもいいように思うのだが、人間は歳を重ねる

と何かにつけて死に急ぐものらしい。もっと素直に現実を生きれば

いいのに。

私は、今年こそは、暖かい部屋で、いっぱいおやつを貰った上で、

まず余裕で窓越しに雪を眺め、その後、おもむろに庭に出て、爪先

で少しだけ雪を触ってみようと思っている。なぜならば、雪と戯れ

るほど脳天気ではないからだ。明日は殺されるかも知れないけれど、

今日は精一杯ワガママを押し通し、そして何にでも興味を示す。こ

れが「オレ流」なのだから。我が人生に悔いはないし、小賢しい人

間共の考える「よい子」になるつもりなどさらさら無い。雪ぐべき

恥辱など、私には関係ない。

No36 ドジョウ掬い

朝の食事と運動会を終えると大掃

除の時間だ。私は、その間、こう

して隅っこにつながれている。糞

尿を片付ける養父をみていると、

ドジョウ掬いか猿のおもちゃのよ

うに見えて、ついつい興奮して尻

に組み付いてしまうからだ。無論、

私は悪くないのであって、私のテ

リトリーで珍妙な格好をする養父

がいけないのだが、そこは力関係

でやむを得ず、こうして神妙に作

業の終了を待っているのである。

ドジョウ掬いといえば安来節を思い浮かべる。ドジョウは一般的に

泥鰌だと思われているが、養父によれば「土壌掬い」という説もあ

るらしい。安来市周辺は古より良質な砂鉄が多く採れ、炭焼きも盛

んであったことから踏鞴製鉄が発展し、そんな歴史からこのような

説が出たらしい。安来鋼は日立金属安来工場で現在でもなお作られ

ていて、日本刀は無論のことカミソリの刃の材料としても世界一の

シェアーを誇っているというのだからこれは誇るべきことであろう。

ところが安来節は全国的に有名だが、安来鋼はあまり一般的に知ら

れていない。日本には、このように歴史と伝統を持った地域がある

のに、それを知らない日本人が多いことは誠に不幸なことだと思う

のだが、無論、私には関係ない。

No37 温風ヒーター

最近のお気に入りの場所は

温風ヒーターの前である。

養父は「おまえ臭くないの

か?」と心配するが、我々

は選択的に臭いを嗅ぐこと

ができるから、興味を引か

ない臭いは気にならないの

である。

「日陰では寒かろう」と、私

の室内用ゲージは朝日の当た

る一等地に移動してもらった。

養父にしてはそこで寝てもら

いたいのだろうが、温風ヒー

ター前の方がなお暖かいのだ

から致し方あるまい。

私が温風ヒーターにあまり

近づきすぎると「尻が焦げ

るて」と言って無理矢理に

引き離そうとするが、私は

踏ん張ってその場所を死守

する。何しろ尻尾が焦げた

ことなどないのだから、そ

う言われても意味が分から

ないのだ。

経験したことのない身の危険など、私には関係ない。

No38 寝起きでガブッ!

最近私は、このNo2の座椅子で

寝ることにしている。養父母が、

店頭の座椅子全てに座ってみて決

めたこの座椅子は、私の場合少々

使い方が違うとしても、さすがに

寝心地がいい。それ以前は養父の

膝の横で、膝にくっついて寝てい

たのだが、養父が不用意に動いて、

それに驚いた私が養父の手を嫌と

いうほど噛んで以来、さすがの甘

えん坊の養父も、少し距離を置い

て寝て欲しいらしいから、その思

いに答えたのだ。

更にこの座椅子は温風ヒーターの吹き出し口の前方約150cmの

一等地に置かれてあるからして、暖かさ的にも、寒がりの私には申

し分ないのも事実だ。また、立派に成長した私は丸くなって寝るの

が癖になったから、座椅子に寝てもさほど寝苦しくなくなったのだ。

しかし養父は、この寝方が我々にとっては防備の体制であることと、

私の寝ぼけ癖を軽く考えていた。養父は私を起すまいと気を遣い、

静かに布団を掛けに来たからいけなかった。咄嗟に気配を火付盗賊

と視た私は反射的に反応し、その不信人物の手を思いっきり噛んだ。

無知というものは時として悲しい現実を招く。しかし、無知が故の

不幸は人生にはつきものなのであって、それを怖れていては生きて

は行けない。だからクヨクヨするな養父よ。

これが後々大変な噛み癖に発展してしまうのだが、今のところは、

私には関係ない。

No39 ワイキキビーチ

私が噛むのは「かまってもらえ

ないイライラ」が原因だと考え

て、養父母は、土日に私をドラ

イブに連れて行くことにした。

正しい判断だ。この写真は、吉

良町の「ワイキキビーチ!?」

に行ったときのものだ。真冬の

海水浴場は寒く、人影もまばら

で寂しいが、その分、落ち着い

て散歩できる場所ではある。そ

れにしても、なんとプライドの

ない銘々なのか。少しでも地元

に愛着があるのなら「ワイキキ

ビーチ」はないだろうに。

吉良といえば吉良仁吉。神戸長吉と穴太徳の縄張り争いにおいて、

次郎長は神戸長吉側に付き、杯だけの兄弟分である吉良仁吉を大将

に、大政と大瀬半五郎らを荒神山に向かわせる。べんべん。そして

慶応二年、荒神山の喧嘩で仁吉は戦死してしまう。少しばかりの恩

に報いるために恋女房と別れ、命を捨てた。吉良仁吉は男でござる。

ベンベンベンベン。

ご存じ広沢虎三先生の血煙荒神山でした。お粗末。それにしても最

近は嫌な事件ばかりで、こういう血湧き肉躍るニュースがないのが

断念ですなあ。尤も私は英国原産の上品な犬であるからして、人間

共の義理人情や任侠道など、私には関係ない(「好きなくせに」養

父チャチャを入れる)。

No40 1月1日

師走にしては何十年ぶりかの大

雪で、我が家の庭にも雪が積も

った。結果、自転車による散歩

が延期となり詰らぬが、大自然

の作用なのだから、まあ、しか

たがない。やたらに寒くなって

きたが、ふと気がつけばもう正

月まで一週間もないのだから無

理もないか。まさに光陰矢のご

としだ。日本人は「雪ぐ」のが

好きな民族だから、雪ぐために

は不可欠な「節目」である年の

節目をことさらに意識する。

1 月 1 日といえば、いわずと知れた年の初めであるが、しかし、何

故この日が年の初めになったのだろうか。養父によれば、古代ロー

マのミトラ教では、主神の太陽神ミトラが冬至に死んで、その3日

後に復活するとされたので、そのミトラ神の復活の日(12月25

日)は冬至祭としてローマをあげての祭りの日であった。その後起

源1~4世紀の間にキリスト教がミトラ教にとってかわるが、その

ときミトラ教の祭日12月25日は、キリスト生誕の日(クリスマ

ス)として受け継がれ、その8日後(キリストの割礼の日)が1月

1日と定められたのだそうだ。「え!チンチンの皮?」と突っ込み

たいところだが、めでたがっている人も多いから、犬の分をわきま

えて、コメントは差し控えたい(「しとるやないか」養父関西弁で

ツッコミ)。つまり、私には関係ない。

No41 貧者の一灯

何かと忙しない年末だが、私

の「イライラ解消ドライブ」

は毎週続けられている。ブラ

ボー!貧者の一灯。これは吉

良町のメイン海岸である宮崎

の海岸だ「(大向こうから)

待ってました!日本一!」。

気持ちいいよ。近くは干物の

産地だからして、養父母の最

近の朝食はマメ鯛の干物であ

ることが多い。大変美味しい

干物だからこれも私の「お・

か・げ」といえるのだろう。

「貧者の一灯」といえば、高野山では、十一世紀はじめ、平安中期

のころ、和泉国坪井の里(現、岸和田市)の農家の一人娘お照が両

親の菩提を弔おうと自慢の黒髪を売り払い、そのお金でようやく買

い求めた僅かな油を寄進したその一灯をいう。原典は古代インドの

話である。あるとき、釈尊が説法をするために町にこられるという

ので、人々は万灯をかかげて供養することになった。これを聞いた

貧乏な老婆は物乞いをし、わずかばかりのお金を手に入れて、一灯

を献ずるための油を買った。そして当日、人々の万灯が消え去った

後も老婆の一灯だけがあかあかと灯り続けていた・・・という話で

ある。現象の(自分にとっての)価値を現象の背景に焦点を当てて

論ずるのは一つの便法だろうが、私には納得できない。おやつはお

やつである。物事の背景など、私には関係ない。

No42 新年のご挨拶

(犬語) (人間語)

ワワワワン。 明けましておめでとうございます。

ワウーワウワウワワワアー。 本年も宜しくお願いいたします。

ワウ、 でも、

ワウワワン、 私噛みますので、

ワウウー。 ご注意下さい。

同時通訳:養父

No43 初噛み

私は温風ヒーターにあたりながら

カレンダーを眺めている。今年も

早一週間が過ぎてしまった。「ド

ッグイヤー」という言葉もあるけ

れど、まさに「光陰矢の如し」だ。

私が、こんな面白くもないカレン

ダーを眺めているのは、実は、酔

っぱらった養父が肉球をいじるの

で「初噛み」したら、まさに烈火

のごとく怒られて悲しかったのだ

けれど、どうしたらいいのか分か

らないからだ。

しかし、何で日曜日が週の初めにあるのか。土曜日と日曜日が私の

ドライブ候補日なのだから、土日を離さないで欲しいのだが。養父

によれば、イエスが十字架にかかった日はご存じ13日の金曜日で、

その三日後にイエスは復活したので、この神の栄光を示す最高の日

(日曜日)が週の初めになったらしい。私はイギリスっぽいカトリ

ックっぽい犬だからして・・・、こんな理由だと文句を付け難い。

その他の曜日はバビロニア生まれらしい。古代の人々は、7つの惑

星(水・金・火・木・土星と月・太陽)を特別な星であるとして神

格化し、その距離の遠い順に1時間ごとに1日(24時間)に割り

当て、その1日の初めに来た星をその日の「支配星」とした。それ

が土、日、月、火、水、木、金という並びの起こりらしいのだ。

こんな妄想に逃げ込んでいてもどうしようもないことは分かってい

るのだが、どうして良いのか分からないのだから、私には関係ない。

No44 自由犬

今週は養母が休みを取ってい

たので、何かとか構ってもら

える時間が多くて悦んでいる。

今日はのんびりとした平日の

昼下がりだ。作業服で行き交

う不幸な人間共を尻目に、私

は自由に浜辺を徘徊し、興味

に任せてそこいら辺の物品を

チェックする。

まだまだ寒いのだけれども、私にとってこの時間は何物にも換えが

たい至福の時間である。特に大海原に尻を向けて糞を垂れる時、私

の全身は満足感にうち震えるのだった(糞は持ち帰りました、養父

注)。ミッドウェーに尻を向ければ今なお敗戦の悔しさを抱く養父

も満足だろう。私は恩に律儀な犬なのだ。(以下宝塚風に)嗚呼そ

れなのに、それなのに、至福の時はあまりにも早く過ぎ去る。暇人

や暇犬の無用な散歩によって。安全のためという人間どもの身勝手

な理由で。放し飼い散歩が許されていない私が、やっと手に入れた

僅か半径15mの自由すら許されないというのか。確かに、吠える

声はすごく大きい。噛む力は尋常ではない。その上に、制止の命令

を無視して何にでもちょっかいをかける。だが、それがどうしたと

いうのだ。そんなの当たり前じゃないか。自由に近づき、取り敢え

ず喧嘩して、優劣を決めて安心する。何故そんな根源的なことも許

されないのか。嗚呼、嗚呼、嗚呼、私は自由を好む自由犬。あのカ

モメのように自由に生きたい。(たらのテーマと共に終幕)

人間社会のルールなど、私には関係ない。

No45 三河湾スカイライン

今日は日曜日。「お約束」のド

ライブだ。昨日も出かけたのだ

が、自転車に乗った怪しい人間

を見たので吠えついたら、ドラ

イブ中止になってしまった。私

は番犬を拝命しているから怪し

い人間を見過ごすことはできぬ。

しかしドライブも続けたい。私

の心は、ドライブのたびにこの

難題の狭間で揺れるのである。

残念といえば、我が第二の故郷である吉良の宮崎が潮干狩り解禁と

なってしまったのも残念なことだ。つまり、解禁で人が多く出ると

予想されるから、群衆の中で若干ナイーブな私(只のアホ犬、養父

注)のガラスの心臓は千々に乱れ、半狂乱に吠えまくると養父は心

配し、暫く宮崎の海岸に行くのを控えることにしたのである。それ

で今日はこの2月から無料となった三河湾スカイラインにより扇子

山頂上付近を訪れ、その散策道を文字通り散策しているのである。

ご案内の通り私は石畳が似合う都会派の犬なのだが、やはり自然の

中に身を置いてもさまになってしまう。二枚目は辛いなぁ(「よっ

色男。雌犬殺し」養父間の手)。でも、野性味を残したハードボイ

ルドの私でもあるから、大自然を前に野生の血が騒いでしまう。森

林は正に臭いのワンダーランドなのだ。私は思わず叫んだ「下痢気

味の爆竹だぁ!(芸術は爆発だ?養父フォロー)」。無駄な道路の

お手本のような有料道路だったが、無料化で貧乏な養父も利用でき

るようになったから、私はそれなりに満足だ。税金の無駄遣いなど、

私には関係ない。

No46 マテ(養父の油断)

最近私はマテができるように

なった。養父母は、「まだ少

し(数秒)しかできないし、

おやつを見せないとできない

からだめだ」というけれど、

私としては、断固、「大きな

譲歩だ」と評価すべきと主張

する。だいたい誰が「犬は人

間の命令を聞いて当然だ」と

決めたのか。

ニュースなどによれば、人間の子供には親を困らせる「不心得者」

が多くいるようだが、私はそんな輩とは断じて違う。噛むにしても、

それは噛んではいけないということが分からないからに過ぎない。

「パンツを一緒に洗わないで!」などと言って親父を忌み嫌う馬鹿

娘と一緒にされては犬のプライドに傷がつくので勘弁してほしい。

こちらは好きで飼われているわけではないのだ。そこのところを斟

酌して評価してほしい。思い返せば、私が貰われて行くとき、養父

は怖くて母犬に触ることができなかった。会った瞬間から、養父は

母の下の階級を認めたのだから、その子の私より下であることは当

然だ。私は養父の心の底にあるその恐怖を感じ取ったから、そんな

不甲斐ない養父に代わってリーダーのお役目を務めなければならな

いと考えている。結果として、それで私が不幸になるとしても、そ

んなことに私は頓着しない。私は養父が好きだ。だから唯一できる

「オレ流」で、我が身を捨てて養父を守るのみ。

その結果については、私には関係ない。

No47 クマ見参

私はとうとう一般市民を噛んで

しまった。それで長期謹慎状態

で、日記を書くことさえ許され

なかったので、愛読者の皆様に

はご迷惑をおかけしました。養

父は、一時、ガス室送りまで考

えたらしい。そんな悩める養父

はインターネットを彷徨い、左

のようなご面相の「出張トレー

ナー」なる訓練士(通称クマ)

を見つけて契約した。

クマ曰く。「養父母が間違ったシグナルを送るので、ハチは我が家

のリーダーとして振る舞わなければならないと思っている。しかし、

少し気が弱いので、怖くてすぐにパニックに陥ってしまって噛む。

また、人間は弱い生物だと少し人間をナメてもいる。だから飼い主

が強くて頼れるリーダーに変わらなくてはならない」と。そして、

取り敢えず今日から次の訓練日まで繋がれて、その上外界との視界

を遮られて暮らすことになってしまった。食事も養父の手からしか

食えない。今日は相まみえていないからよく分からないが、来週は

私とクマの頂上対決だ。今まで私は強い人間というものを見たこと

がない。確かにクマの顔は怖いし、ライオンのようなオーラを発し

ているが私は負けない。私は己の職務を全うする。例え殺されても。

次の訓練が楽しみだ。戦死の恐怖など、私には関係ない。

No48 クマの訓練

あの恐ろしいクに褒められた。クマ曰く。

「訓練前、ハチの心は荒んでいて、左上

の青色バックのヤクザな顔つきだった。

しかし、数日間の訓練の結果、右下の赤

色バックのような、本来のとても可愛ら

しいた顔に変わってきた」と。

訓練は、まず引っ張ると首が絞まる拷問首

輪(私銘々)を着け、短い距離でターンを

繰り返し、イライラした私がそれに逆らう

と首にショックを加えるという誠に野蛮な

作業から始まった。今の今まで弱虫で何も

できなかった養父が豹変し、これでもかと

私を引きずり回し、首にショックを与えるのだから、もう悔しさを

通り越して「青天の霹靂3回転半ひねり」ってなものだ。無論、私

は噛んで教えてやろうとガウガウと唸って威嚇するのだが、クマの

応援を背にした養父は妙に強気でいっこうに怖じない。争う私の唇

は切れ、耳は切れて、満身創痍の私の顔は血だらけだ。仕舞いには

私も疲れてしまって「勝手にしろ」と従うことにした。それから数

日間、同じような訓練を重ね、最近では、リードを引かれなくても

養父の左足を追えるようになってきた。腕白で逆らうにしては相手

が怖すぎるからだ。

状況に応じて最大に生きる。これは野生の掟だ。私が少し安全にな

ったとしても、これはひとえに私の努力のたまものだ。私がリーダ

ーを放棄して大変なことになっても、私には関係ない。

No49 繋がれる

クマが来て以来、私は

繋がれっぱなしだ。そ

の上、クマの助言によ

り、目隠しで外の世界

と隔離されている。こ

れで番犬としての仕事

が疎かになるがそれも

やむを得まい。全ては

クマの責任だ。

いっそうのことリーダー職を放棄して困らせてやろうかと、さすが

の責任感の固まりの私も、本気で考えているのだ。(是非そうして

くれ! 養父哀願)

クマは、「十分に訓練をし、飼い主を信頼しきっている犬であって

も、広々としたところでは安らかに眠れない」と言って無垢な養父

を騙し、私の不自由を決めさせた。構い過ぎない淡々とした関係も

クマの助言だ。それが悲しくて、専属世話係根性の抜けない養父は

胃薬を飲んでいる。そこに新しい家が必要になったのだから、それ

が嬉しくて、養父母は用品店を巡り、このような新しい住処を作っ

て満足している。「バリ島の宮殿みたいだ!」との養父の評価は我

田引水というより詐欺に近いが、かわいそうな養父母を慮って素直

にそこで寝ることにした。私はあくまでも義理堅い犬なのだ。因み

に溝板の上に置いた漬け物石は電信柱のつもりだ。そこに小便をし

てほしいらしいが、短すぎるから小便は母屋の壁にしている。そう

そう思い通りになるものか。養父は私を早くどうにかしたいらしい

けれど、そんな人間共の思惑など、私には関係ない。

No50 餌中毒作戦

クマの訓練は第二段階に入った。

養父が「苛めるのが辛くて胃薬を

飲んでいる」と訴えたから、クマ

がそれを慮ったのかもしれないが、

新しい作戦は「餌中毒作戦」だ。

数歩歩いたら「座れ」「こっちを

見ろ」「餌」なのだから、私は気

が抜けない。警備隊長を拝命する

私だが、餌が気になって周りを警

戒しているどころではないのだ。

餌の合図は、餌を握った拳を養父の口元に置く姿勢だ。「餌=命」

の私は当然にその拳を見つめる。この顔はそんな瞬間だ。養父やク

マは「アイコンタクト」だと言っているが、私の心は「噛んだらあ

の餌が盗れるのか」という当然の思いと「首を絞められるのはもう

嫌だ」というこれまた当然の思いの間で揺れている。これは実はそ

んな複雑な表情なのだ。無論養父のことは好きだが、愛情表現とい

うものは難しいのであって、噛んだら喜んでくれるのか、噛まなく

ても喜んでくれるのかが私には分からないのだ。だからして不安半

分の表情でこうして餌を待っている。未だに養父は分からないよう

だが、皆さんはこの私の顔をどう感じるのだろうか。クマが正しけ

れば、養父がこの表情を汲み取ったとき、養父と私とは新しい関係

を迎えるのかも知れない。人間にそんなことができるのかどうか分

からないが。何れにしろ私は臨機応変に生きて行く。それが野生の

生き方だから。養父が変わっても変わらなくても、世の中が変わっ

ても変わらなくても、そんなことは、私には関係ない。