1912年/ 大正元年
9
文学科の英文学科第一部を甲・乙に分けて作家志望者を乙に編入〈 記要 22・119,② 718,⑤ 612〉
9
理工科,3学期制採用〈記要 22・119〉
9
牧野賢吾,電気工学科主任辞任し,山本忠興就任〈② 319〉
11・17
早稲田道の会,発会式開催〈② 1060〉
この年
理工科卒業生で引続き大学に留まり実験その他の教務補助を行う者を助教として採用〈学報
203・3,② 706〉
この年
早稲田工手学校の親睦会である稲友会,『稲友会雑誌』創刊〈③ 226〉
1913年/ 大正 2年
2・9
早稲田工手学校,第 1回卒業式挙行〈② 334〉。首席卒業生には大隈綾子寄贈の賞品が授与さ
れ,大隈綾子死去まで続けられる〈③ 645〉
2
明治 43年に購入した池袋の土地を売却〈② 296,1009〉
4・1
高等師範部第二部,第 1回卒業式(数学科 9人,理化学科 5人)挙行〈学報 218・5〉
6・1
主要寄附者を招待して理工科設備完成披露式を挙行〈② 294〉
7・5
文学科の英文学科第二部,和漢文学科,史学科は最後の卒業生を,理工科の採鉱学科,建築
学科は最初の卒業生を,高等師範部第一部の国語漢文及歴史科,英語及歴史科は最初の卒業
生を,それぞれ送り出す〈記要 22・119−120〉
9・1
藤井健治郎,高等師範部長退任し,中島半次郎就任〈学報 236・3〉
9
文学科の英文学科第一部乙は英文学科第二部と改称〈記要 22・120〉
9
高等師範部第一部の国語漢文及歴史科,英語及歴史科は歴史関係の科目を廃止して国語漢文
科,英語科と改称し,新 1年生より適用〈記要 22・120〉
10・17
創立 30周年記念式典挙行し,大隈重信総長,教旨を宣言。このとき校旗,教職員の式服・式帽
を制定〈② 681〉
10・19
校友大会において高田早苗学長の欧米巡遊を決議〈② 767〉
12・13
維持員会,校友大会の決議を承けて高田早苗学長の欧米巡遊費用の支出を決議〈② 767〉
この年頃
早稲田大学と改称後の卒業生から成る若手教員の会であるセコサン会発足〈② 848〉
1914年/ 大正 3年
1・12
学生監督部,学生課と改称〈沿革,② 975〉
1・17
広告研究会(会長田中穂積)発足〈② 1058〉
2
大隈重信『国民小読本』刊行〈② 715〉
3・12
維持員会,高田早苗学長欧米巡遊中は天野為之を学長代理とすることを決議〈② 767〉
4・12
高田早苗学長,欧米巡遊に出発〈② 768〉
4・13
大隈重信総長に組閣の命令が下る〈② 781〉
4・16
第 2次大隈重信内閣成立〈② 798〉
4・16
大隈信常,早稲田中学校長辞任し,平沼淑郎就任〈『早稲田中学校創立六十周年記念録』22〉
6・19
14日開催の早稲田大学校友有志大会に端を発する大隈伯後援会が東京で結成,のち後援会組
織は各地に及ぶ〈② 800〉
9
文学科に史学及社会学科増設〈② 716−717〉
9
商科は 2学期制を採用し,従来の学年制を学期制に変更〈記要 22・121〉
10・18
田原栄高等予科長死去〈学報 237・13〉,12月 3日の維持員会は当分の間高等予科長を空席と
し,安部磯雄に科長事務取扱を嘱任することを決議〈維持〉
11・6
高田早苗学長,欧米巡遊より帰国〈② 768,780〉
11・28
学風を向上させ学生間の意思疎通を図るため,商科各組より選ばれた 3人ずつ計 30人を初の学
生委員に任命〈③ 205〉
12・7
安部磯雄,高等予科長事務取扱就任〈学報 248・2〉
12・7
国分寺に 13,275坪余の土地購入〈学報 248・3,② 1010〉
この年秋
明治大学野球部の主唱により早慶明の三大学連盟が結成され,野球部は慶応義塾野球部に対
する絶縁決議を取り消すが,早慶戦復活までには至らない〈『早稲田大学野球部五十年史』115〉
この年
標本陳列館閉鎖〈② 440〉
1915年/ 大正 4年
1・16
野球部,マニラ遠征出発〈学報 239・17〉
2・1
天野為之,学長代理解任〈学報 240・12〉
2・19
野球部,マニラ遠征から帰国〈学報 241・17〉
5・6
競走部(部長安部磯雄)発会式挙行〈② 1076〉
6・20
大学敷地と運動場との間の土地 3,300坪余を購入して整地〈② 835−836,1010 〉
7・5
文学科の英文学科第二部は最初で最後の卒業生を送り出して消滅し,これに伴い英文学科第一
部の呼称は以後英文学科となる〈記要 22・121〉
7・5
高等師範部第一部の国語漢文及歴史科と英語及歴史科は最後の卒業生を送り出す〈記要 22・121〉
7・27
校友会,麹町区内幸町にクラブハウス用家屋を購入し登記〈② 1111〉
8・9
高田早苗,学長辞任を表明〈② 973〉
8・10
高田早苗,第 2次大隈重信内閣の文部大臣に就任〈② 973〉
8・14
維持員会で天野為之の第 2代学長就任を決議,また理事高田早苗・理事市島謙吉・教授坪内雄
蔵の辞任を承認し,維持員 15名を 18名以内に,理事 2名または 3名を 4名以内に改めて,塩
沢昌貞・田中穂積・田中唯一郎を理事に,前田多蔵と中村康之助を幹事に嘱任するとともに,「名
誉教職員規定」を制定し,高田早苗を名誉学長,市島謙吉を名誉理事,坪内雄蔵を名誉教授と
することを決定〈② 973−974〉
8
天野為之,早稲田実業学校長辞任し,杉山重義就任〈学報 247・20〉
9・1
早稲田倶楽部創立総会,内幸町のクラブハウスで開催〈② 1111〉
9・20
新旧学長交迭式挙行,天野為之学長,図書館新築と研究室整備を趣旨とする御大典記念事業
計画を発表〈② 828−832,③ 227〉
9・21
高田早苗文部大臣,学制改革私案「大学令要項」を教育調査会に諮問〈② 1164−1168〉
9・22
御大典記念事業資金募集の組織(委員長市島謙吉)と募金総額(30万円)を決定〈② 828,③ 227〉
9・25
理工科の助教を助教授と改称し,教授・講師の下に置く〈② 706,978〉
9・25
増子喜一郎,田原栄の後任として会計監督に就任〈学報 248・2,② 984〉
10・10
前島密,評議員会長辞任し,松平頼寿選任〈学報 249・11〉
11・25
維持員会,学制調査会の設置を決定〈② 978,記要 22・122〉
この年夏以前
音楽会,大学の後援を得て早稲田大学音楽会(会長安部磯雄)と改称〈② 1055−1056〉
1916年/ 大正 5年
2・27
理工科の専任講師を助教授と改称〈② 978〉
3・25
野球部,第 3回アメリカ遠征に出発〈『早稲田大学野球部五十年史』126〉
4・15
経済学会,発会式開催〈② 1041−1043〉
4・25
安部磯雄,高等予科長嘱任〈学報 255・24〉
4
森村豊明会より 56,000円の寄附を受け,御大典記念事業資金の募金総額を 50万円以上と改
める〈② 725−726,1013〉
4
大学敷地と運動場との間の土地 927坪および下戸塚の土地 1,786坪を購入,また運動場整理
のため相馬永胤所有地 900坪と大学所有地 900坪とを交換〈② 836,1010〉
5・25
高等予科の名称を変更し,第一高等予科を高等予科第一部,第二高等予科を高等予科第二部,
第三高等予科を高等予科第三部,第四高等予科を高等予科第四部,第五高等予科を高等予科
第五部と改称〈記要 22・123〉
6・12
高田早苗文部大臣の「大学令要項」,審議延期となる〈② 1168〉
7・5
高等師範部第一部の国語漢文科および英語科は最初の卒業生を出す〈記要 22・123〉
7・14
大隈重信,侯爵に昇爵〈② 821〉
7・17
野球部,第 3回アメリカ遠征より帰国〈『早稲田大学野球部五十年史』126〉
7・29
早稲田実業学校,財団法人への組織変更願を文部大臣に提出〈『早実七十五年誌』154−155〉
9・2
早稲田実業学校,財団法人への組織変更認可,9月 16日登記〈『早実七十五年誌』154−155〉
9・25
阪田貞一,理工科長退任し,浅野応輔就任〈学報 260・2,② 868〉
9
大学部政治経済学科と専門部政治経済科は大学部商科に倣って 2学期制を採用〈記要 22・123〉
9
第二外国語にロシア語を配当〈② 718−719〉
9
戸塚町に信愛学舎開設〈『追想 向谷容堂』138,③ 262〉
10・5
第 2次大隈重信内閣総辞職〈② 764〉
10・7
矢沢千太郎,寄宿舎長辞任〈② 1152〉
10・20
井上留治郎,寄宿舎長就任〈② 1152−1153〉
10・25
御大典記念事業の一環として鴻池ら 3名より軽井沢の土地 21,000坪の寄贈を受けたことが維持
員会で報告される〈維持,② 1072〉
10・31
大隈侯後援会解散〈学報 261・23〉
11・5
芝公園内の大隈重信銅像(朝倉文夫作)除幕式挙行〈学報 261・23〉
12・5
ゴードン夫人より図書その他の寄贈を受け,ゴルドン文庫と名づける〈学報 263・4〉
12・18
校庭に大隈綾子銅像建設の動きを察知したセコサン会所属教員,会合を開いて建設中止を大学
当局に要求することを決議〈② 848〉
12・30
大学改革を目指すセコサン会所属教員(プロテスタンツと自称),総会を開いて改革案の起草を
橘静二に委任〈『大学改革の先駆者 橘静二』24〉
1917年/ 大正 6年
1・25
臨時学制調査会設置〈記要 22・123,② 714〉
1
小池佐太郎,採鉱学科主任辞任し,徳永重康就任〈学報 264・2〉
2・1
相撲部(部長内ヶ崎作三郎)公認され,7日に土俵開き挙行〈沿革,② 1074〉
2・11
臨時学制調査会の答申に基づき,高等予科の修業年限を 2年に延長,高等師範部第一部の予
科の修業年限を 1年に延長,4月の新入生より実施〈記要 22・123,② 714,729〉
2・24
理工科の採鉱学科,採鉱冶金学科と改称〈記要 22・124,② 727〉
2
橘静二,教授会の権限拡大を基調とする大学改革案(プロテスタンツ原案)作成〈『大学改革の先
駆者 橘静二』25,283−372〉
3・9
理工科の人事に不満を持つ機械工学科の若手教員 6名,天野為之学長に質問書を提出するも
無視される〈② 871−872〉
3・19
早稲田会計学会(会長吉田良三)発足〈② 1059−1060,学報 267・19〉
3・27
中川常蔵,機械工学科主任辞任し,福原俊丸就任〈沿革,学報 366・2〉
4・25
維持員会,商科の卒業期を大正 7年より 7月から 4月に繰り上げることを決定〈② 728〉
4
教員資格を認められなかった高等師範部第二部(数学科および理化学科)の生徒募集を停止
〈② 730〉
4
プロテスタンツ原案の修正案成る〈② 856〉
5・4
プロテスタンツ,高田早苗に大学改革案を提出して高田の学長復帰を要請するも,高田は回答を
保留〈② 857〉
5・26
9月の大学部理工科応用化学科発足を控えて,河合勇,応用化学科主任に就任〈沿革,② 724〉
6・19
早稲田大学校友会有志名義の鉄筆版の印刷物(田中唯一郎理事の会計不正,天野為之学長排
斥・高田早苗学長復帰の動きを批判)が都下の新聞社に配付され,「早稲田騒動」の発端となる
〈② 902−903〉
6・22
維持員会の席上,天野為之学長が任期満了の 8月末日を以て学長退任を発表し,塩沢昌貞・田
中穂積・田中唯一郎も理事辞任を表明,また高田早苗に校規改正案の立案を委任〈② 979〉
6・30
維持員会,天野為之無能論をめぐって紛糾〈② 909〉
7・5
文学科の史学及社会学科は最初の卒業生を送り出す〈記要 22・124〉
7・6
校友大会,幹事選挙制等をめぐって紛糾〈② 912−914〉
7・10
維持員会,高田早苗の校規改正案を一部承認,天野為之の学長再選を決定〈② 915−917,979〉
7・10
井上留次郎,寄宿舎長辞任〈② 1153〉
7・13
維持員会,天野為之提出の校規改正案を否決〈② 916〉
7・16
維持員会,理事は学長が指名するとの天野為之案を否決〈② 916〉
7・24
大隈重信,天野為之に辞職を勧告するも,天野は 27日にこれを拒否〈② 924〉
7・27
増子喜一郎,会計監督辞任〈学報 272・2,② 984〉
8・2
評議員会,学長問題調停委員を選任し,解決に当らせるが,成功せず〈② 927−932〉
8・22
高田早苗,維持員辞任とともに名誉学長辞退〈② 980〉
8・25
維持員会,7月 10日の天野為之学長再選決議を取り消し,9月以降は学長空席とし,この日選
任の理事 6名(金子馬治,坂本三郎,田中穂積,塩沢昌貞,安部磯雄,中島半次郎)が校務を執
ることを決議,また市島謙吉の図書館長辞任を承認〈② 980−981〉
8・31
天野為之,任期満了により学長退任,また塩沢昌貞と田中穂積,任期満了により理事退任,更に
田中唯一郎,理事辞任,中村康之助,幹事辞任〈② 941,981,学報 272・2〉
9・1
学長問題につき誤解を生まないようにと,田中穂積と塩沢昌貞が起草し坪内雄蔵ら 11名が署名
した『学長問題経過概要』を全国の校友および在学生の父兄に発送〈② 941〉
9・1
維持員会は校規のうち理事 4名以内を 7名以内と改め,「学長ノ欠ケタルトキ又ハ事故ニヨリ校務
ヲ執ルコト能ハザルトキハ他ノ理事ノ互選ヲ以テ定メタル理事其職務ヲ行フ」を追加すること,8月25日選任の理事のうち 4名(金子,坂本,田中,塩沢)を新理事,そのうち坂本を学長として法人
理事変更登記を行うこと,改正校規が認可され次第他の理事 2名(安部,中島)を登記することを
決議し,文部大臣に校規変更認可願を提出〈② 941−946,982−983〉
9・3
改正前の校規に基づき 9月 1日付で学長・理事就任の登記を完了〈② 982−983〉
9・7
改正校規および学長変更,文部大臣の認可を得る〈② 983〉
9・12
学長・理事坂本,理事金子・田中・塩沢・安部・中島,辞表を提出〈② 983〉
9・26
維持員会,坂本らの辞任を承認,平沼淑郎・内ヶ崎作三郎・徳永重康・宮田脩・吉田東伍の 5名を新理事に選出,うち平沼を代表者理事とし,当分学長を置かず平沼が学長の職務を行うことを
決定,更に,宮川銕次郎が増子喜一郎の後任として会計監督に,吉田東伍が図書館長事務取扱
に就任〈② 983−984〉
9・26
維持員会,中川常蔵ら 4名の理工科教員を解職,彼らは 12月に『早稲田大学理工科問題の真
相』を作成して関係者に配付〈② 883〉
9・29
新理事 5名の登記を完了〈② 984〉
9
大学部理工科に応用化学科新設〈② 711,724〉
10・1
維持員会,校規改定調査委員会を設置〈② 985〉
10・9
天野為之,講師辞任届を提出〈② 984〉
10・15
理事平沼淑郎を本学代表者とする変更願が文部大臣の認可を得る〈② 984〉
10・20
福原俊丸,講師および機械工学科主任を辞任し,浅野応輔理工科長が同学科主任事務取扱に
就任〈学報 284・3〉
10・26
天野為之,維持員辞任願を提出〈② 984〉
11・2
維持員会,天野為之の講師および維持員辞任を承認〈② 984〉
11・26
早稲田倶楽部,麹町区永楽町に新築の日清生命保険会社の 3階に移転〈② 1111−1112〉
12・15
維持員会,会計不正の告発内容を否定する「会計調査報告」を承認し,大正 7年 2月発行の『早
稲田学報』にこれを掲載〈② 969−971〉
12・24
野球部,台湾およびフィリピン遠征に出発〈② 1071〉
12・28
早稲田倶楽部,永楽倶楽部と改称〈② 1111−1112〉
1918年/ 大正 7年
2・12
浅野応輔,機械工学科主任事務取扱辞任し,松本容吉,同学科主任心得就任〈学報 284・3〉
2・15
吉田東伍死去(1月 22日)に伴い,平沼淑郎,図書館長事務取扱就任〈維持,学報 276・5〉
2・15
維持員会,寄宿舎の廃止および建物売却を決定〈② 1154〉
2・23
早稲田哲学会,発会式挙行〈学報 280・13〉
3・23
野球部,台湾およびフィリピン遠征より帰国〈学報 277・18〉
3
恩賜記念館増築工事完了〈② 835〉
4・1
これまで中学校卒業生に無試験入学を認めてきた高等予科,入学試験を実施〈記要 22・124〉
4
初の 1年制予科修了生を迎えた高等師範部第一部,本科開講〈記要 22・124〉
4
商科,卒業試験を実施,ただし卒業式は 7月他学科と同時に行う〈記要 22・124〉
6・18
維持員会,校規改定調査委員会の審議結果を承けて学長を再び置くことを謳った新校規を決議
し,翌 19日改正校規の認可願を文部大臣に提出〈② 986〉
6・29
「教授会規定」改正〈② 992−993〉
7
早稲田車庫が完成し,市電,江戸川橋から早稲田まで開通〈② 1129〉
8・10
軽井沢グラウンドおよび野球部合宿所開場式挙行〈『早稲田大学野球部五十年史』140〉
9・3
改正校規,文部大臣の認可を得る〈学報 283・3〉
9・27
平沼淑郎,早稲田中学校長辞任し,中野礼四郎就任〈『早稲田中学校創立六十周年記念録』24〉
9
森村豊明会の寄附金による応用化学実験室「豊明館」竣工〈② 835〉
10・3
安部磯雄,高等予科長辞任〈学報 284・5〉
10・8
新校規に基づく最初の維持員会が開かれ,大隈信常を維持員会長,松平頼寿・平沼淑郎・浅野
応輔・塩沢昌貞・田中穂積を理事,平沼淑郎を第 3代学長,三枝守富・宮田脩を会計監督(監
事)に決定〈② 994〉
10・9
新理事 5名の登記を完了し,平沼淑郎の学長就任認可願を文部大臣に提出〈② 994〉
10・11
維持員会,経常費の不足を補うために賛助会を設立することを決定し,27日の創立 35周年記念
式典で公表〈② 1004〉
10・19
各科部で教授会を開いて新校規に基づく科部長選挙を行い,政治経済学科長に塩沢昌貞,法
学科長に中村進午,文学科長に金子馬治,商科長に田中穂積,理工科長に浅野応輔,高等師
範部長に中島半次郎,高等予科長に平沼淑郎が当選し,11月 8日維持員会で任命〈学報 285 ・24〉
10・26
平沼淑郎学長就任式挙行〈② 995〉
10・27
創立 35周年記念式典ならびに応用化学実験室(豊明館)開館式挙行〈② 995〉
10
蹴球部(部長北沢新次郎)新設〈学報 297・25,② 1078〉
11・8
科外講義の企画・実施ならびに賛助会会員との連絡用の『早稲田叢誌』の編集を行う編集及講演
部を設け,内ヶ崎作三郎,部長に就任〈維持,③ 490−491〉
11・8
森村開作,理工科商議員嘱任〈維持〉
11・27
平沼淑郎の学長就任,文部大臣の認可を得る〈② 994〉
11・30
河合勇,応用化学科主任辞任〈学報 297・4〉
12・1
小林久平,応用化学科主任就任〈学報 297・4〉
12・6
「大学令」(勅令第 388号)および「高等学校令」(勅令第 389号)公布,大正 8年 4月 1日施行
〈② 1170,1172−1174〉
12・10
維持員会,早稲田大学出版部の株式組織への変更を承認〈② 1036− 1037〉
12・17
株式会社早稲田大学出版部,創立総会を開催,高田早苗,取締役部長に就任し,大学と新たな
契約書を交わす〈② 1036−1038〉
12
早稲田採冶会,『早稲田採冶会会報』創刊〈③ 166〉
12
杉山重義,早稲田実業学校長辞任し,天野為之就任〈『早実七十五年誌』165〉
1919年/ 大正 8年
1
目標額 150万円の大学基金募集開始〈③ 42−43〉
2・21
民人同盟会,発会式兼記念講演会開催〈③ 299−300〉
3・1
『早稲田叢誌』創刊(年 2回刊行の予定であったが,大正 9年 7月 13日発行の第 3集を以て廃
刊)〈③ 491〉
3・8
維持員会,高田早苗を名誉学長に再推薦。名誉理事に推薦された田中唯一郎はこれを辞退
〈② 995〉
3・8
平沼淑郎の図書館長事務取扱を解き,安部磯雄,図書館長嘱任〈学報 290・3〉
3・8
社会問題研究会,第 1回研究会開催〈学報 291・18,③ 165〉
3・29
高等師範部第二部,最後の卒業式を挙行して廃止〈記要 22・125〉
4・14
高等予科修了式兼大学部始業式挙行,2年制高等予科初の修了生を迎えた大学部は学年開始
期が 4月となる〈記要 22・126〉
4・18
電気工学科の無線電信装置完成に伴い 1月に逓信省に提出していた無線電信局設立認可願の
許可を得る〈学報 291・13〉
4
文学科は哲学専攻科(東洋哲学専攻,西洋哲学専攻,社会哲学専攻)と文学専攻科(国文学専
攻,支那文学専攻,英文学専攻,仏蘭西文学専攻,独逸文学専攻,露西亜文学専攻)と史学専
攻科(国史専攻,東洋史専攻,西洋史専攻)との 3専攻科 12専攻に分けて 4月進学の新 1年生
より適用,また各専攻科に教務主任を置き,哲学専攻科教務主任に関与三郎,文学専攻科教務
主任に片上伸,史学専攻科教務主任に煙山専太郎が就任〈② 719−720〉
4
専門部,学年開始期を 4月に変更し,新 1年生より適用。この結果,工手学校を除く全学の学年
暦が 4月開始翌年 3月終了となる〈② 730〉
5・8
松本容吉の機械工学科主任心得を解き,山内不二雄を機械工学科主任に嘱任〈維持〉
5・22
都市政策学会(顧問高橋清吾・豊川順弥),第 1回総会を開き,会則を採択〈学報 293・14,③ 165〉
6・10
大学令実施準備委員会(主査田中穂積)設置〈③ 10−11〉
6・13
各科連合教授会,優等卒業生に対する授賞および特待生規定の廃止を決定(工手学校を除く),
7月 3日の維持員会で承認〈③ 643〉
6・20
塩沢昌貞,政治経済学科長辞任〈沿革〉
6・28
平沼淑郎,政治経済学科長事務取扱嘱任〈維持〉
7・11
高等師範部第一部の 3年生が卒業し,以後,第一部・第二部の呼称が消滅するとともに高等師
範部の学年開始期は予科・本科とも 4月となる〈記要 22・125〉
7・23
高等試験令に関し 2年制高等予科は高等学校・大学予科と同等と認定され,7月以降の大学部
卒業生に高等文官試験の予備試験免除の特典が与えられる〈② 731〉
8
穴八幡下の運動場敷地に大正 9年 4月開校予定の高等学院の校舎建築に着工〈③ 61〉
9・1
大学令実施準備委員会,大学令実施に関する全議案を議了〈③ 12〉
9・8
維持員会,「大学令」に依る大学の各学部開設期を大正 9年 4月 1日,大学予科の名称を高等
学院と決定して,大学設置申請を行うことを決議〈③ 12〉
9・10
大学設置を文部大臣に申請〈③ 12〉
10・8
9月 20日の政治経済学科教授会で科長に選出された安部磯雄,維持員会で承認・嘱任〈学報
297・3〉
10・18
建設者同盟結成〔日付には諸説あり〕〈③ 300−302〉
11・20
新聞研究会(会長田中穂積,顧問大隈重信),創立記念講演会開催〈学報 298・13〉
12・25
文部省専門学務局長松浦鎮次郎ら,大学設置調査のため来学〈③ 12〉
12・26
高等学院用敷地に隣接する陸軍所有地 4,048坪余を運動場用地として借り受ける〈維持,
③ 13,61−62〉
12下旬
野球部,専任監督を置くことになり,飛田忠順就任〈③ 517−518〉
1920年/ 大正 9年
2・5
「大学令」に依る早稲田大学の設立,文部大臣の認可を得る〈③ 13〉
2・6
早稲田大学学則の認可願を文部大臣に提出〈③ 14〉
2・22
早稲田購買組合解散〈学報 301・17〉
2・26
「大学令」による大学への昇格に平仄を合せた改正校規の認可願を文部大臣に提出
〈③ 134−135〉
2
工手学校,修業年限を 4ヵ月延長して 2年 10ヵ月となる〈③ 212〉
3・18
高等学院長に中島半次郎,教頭に野々村戒三を嘱任〈③ 62〉
3・18
三枝守富,会計監督辞任し,上原鹿造就任〈維持〉
3・31
早稲田大学学則,文部大臣の認可を得る。大学院,政治経済学部(政治学科,経済学科),法学
部,文学部(哲学科〈東洋哲学専攻,西洋哲学専攻,社会哲学専攻〉,文学科〈国文学専攻,支
那文学専攻,英文学専攻,仏蘭西文学専攻,独逸文学専攻,露西亜文学専攻〉,史学科),商学
部,理工学部(機械工学科,電気工学科,採鉱冶金学科,建築学科,応用化学科),早稲田高等
学院(文科,理科)を置き,学部の修業年限と,中学 4年修了以上を入学資格とする高等学院の
修業年限とを 3年とする〈③ 14−16〉
3・31
中島半次郎,高等師範部長辞任〈学報 303・5〉
3
高等学院 1年生を収容できる校舎 2棟が竣工〈③ 61,261〉
4・1
高等学院最初の入学試験を 3日まで実施〈③ 63〉
4・5
高等予科最後の入学試験を 7日まで実施〈学報 303・6〉
4・8
高等予科各部に教務主任を置き,第一部兼第二部教務主任に内ヶ崎作三郎,第三部教務主任
に永井一孝,第四部教務主任に小林行昌,第五部教務主任に氏家謙曹を嘱任〈維持,③ 75〉
4・10
新設の専門部商科,入学試験を 25日との 2回に亘り実施(これまで無試験入学同然であった専
門部において初の入学試験となる)〈学報 303・14,③ 90〉
4・16
高等学院入学式挙行〈③ 64〉
4・17
2年制高等予科修了生を 1年生に迎えた大学各学部と高等予科の始業式挙行〈学報 303・7〉
4・25
高等学院開院式挙行〈③ 64〉
4
従来の学科長を学部長と改称し,初代の政治経済学部長に安部磯雄,法学部長に中村進午,文
学部長に金子馬治,商学部長に田中穂積,理工学部長に浅野応輔を嘱任。なお,中村進午は
間もなく法学部長を辞任し,当分の間法学部長を置かず,寺尾元彦を教務主任に嘱任
〈③ 17−18,維持〉
4
別格制度を設置。大正 6年に 2年制高等予科に入学し本年 3月時点で大学部各学科第 1学年
を修了した者は,そのまま大学部に在籍し続けて 2年後に卒業するコースと,新制度の学部卒業
生と同等の資格を得るために各学部別格第 1学年に移行して 3年後に卒業するコースとを選択
できた〈③ 76〉
4
従来の「専門学校令」に準拠する専門部に商科(3年制)を新設し,高等師範部を高等師範科(国
語漢文科,英語科)と改称して専門部に編入のうえ 1年制予科を廃止して 4年制に改めるとともに,
大学部各科長の兼任であった科長を廃止して各科に教務主任を置き,政治経済科教務主任に
五来欣造,法律科教務主任に遊佐慶夫,商科教務主任に小林行昌,高等師範科教務主任に宮
井安吉を嘱任〈③ 89〉
5・14
改正校規,文部大臣の認可を得る〈③ 135−136〉
5・25
野球部,戸塚運動場で開催された来日中のシカゴ大学野球部との第 3回戦で対シカゴ大学戦初
勝利を収める〈『早稲田大学野球部五十年史』154〉
5
民人同盟会所属の学生を中心に暁民会結成〔7月説や 8月説もあり〕〈③ 302〉
6・8
山内不二雄,機械工学科主任辞任し,松本容吉を主任心得に嘱任〈維持〉
7・6
「学位令」(勅令第 200号)公布〈③ 45−46〉
7・7
高等学院運動場用地 747坪余を陸軍省より借り受ける〈③ 261〉
7・11
大学部理工科応用化学科,最初の卒業生を出す〈記要 22・128〉
7・29
改正専門部学則,文部大臣の認可を得る〈③ 89〉
9上旬
5月の対シカゴ大学野球戦勝利を記念して,木柵であった戸塚運動場の外周を鉄筋コンクリート
の塀で囲う〈『早稲田大学野球部五十年史』150〉
10
山岳スキー部発足〈③ 543〉
12・13
「学位規程」の認可を文部大臣に申請〈③ 46〉
12
松本容吉の機械工学科主任心得を解き,沖巌に機械工学科主任嘱任〈沿革,学報 311・5〉
12
演劇研究会(会長中村吉蔵)発足〈③ 778〉
1921年/ 大正 10年
2・7
中学卒業を入学資格とする 2年制の高等学院第二部(文科のみ)の新設と,前年設置の 3年制
の高等学院の高等学院第一部(文科,理科)への改称とが,文部大臣の認可を得,4月より実施
〈学報 313・5,沿革〔ただし学報 322・2には「1月 27日」認可とある〕〉
2・8
維持員会,「聴講生規程」および「職員退職手当規定」の制定,田中唯一郎の名誉理事推薦,学
生全員からの体育部費徴収を決議〈③ 50−51,651−653,795−796,維持〉
3・10
高等学院学友会,『学友会雑誌』創刊〈④ 671〉
3・11
「聴講生規程」が文部大臣の認可を得て 4月より施行され,女子にも門戸が開かれる
〈③ 50−51,795−796〉
3・16
「体育会規則」を制定,従来の体育部は 4月より体育会と改称〈維持,③ 532〉
3・27
野球部,第 4回アメリカ遠征のため横浜出航〈『早稲田大学野球部五十年史』162〉
3・31
前年に専門部へ編入した高等師範部(4年制)を再び専門部より分離・独立させるための学則変
更が文部大臣の認可を得,4月より実施〈③ 89,記要 17・131〉
4・1
高等学院第二部最初の入学試験を 4日まで実施〈③ 72〉。また,高等予科は生徒募集を停止〈記
要 17・131〉
4
文学部・商学部・理工学部に初の女子聴講生十余人が入学〈③ 51,795−796〉
4
学歴水準の異る外国人および外地出身者の入学資格を緩和するための特科生制度が発足
〈④ 632〉
5・9
外国人および外地出身者を試験実施の上正科生として入学させてよいとする文部省通牒により,
前月発足の特科生制度が自然消滅〈③ 50,④ 632−633〉
5・9
佐藤功一,建築学科主任辞任し,内藤多仲就任〈沿革〉
5
馬術会設立〈③ 545〉
6
発足後間もなく分裂した民人同盟会に所属する学生が中心となって文化会結成〔4月説もあり〕
〈③ 303〉
7・29
野球部,第 4回アメリカ遠征より帰国〈『早稲田大学野球部五十年史』162〉
8・19
「学位規程」,文部大臣の認可を得る〈③ 46−47〉
9・15
維持員会,翌年 4月より高等学院第一部を第一高等学院と,高等学院第二部を第二高等学院と
改称することを決定〈維持,③ 73〉
9・21
理事田中穂積,欧米の教育制度視察のため横浜出航〈学報 320・18−19,③ 52〉
9・26
名誉理事田中唯一郎死去〈学報 320・12〉
10・4
維持員会において,政治経済学部長に安部磯雄,法学部長に寺尾元彦,文学部長に金子馬治,
商学部長に田中穂積,理工学部長に山本忠興を嘱任し,理事に松平頼寿・平沼淑郎・浅野応
輔・塩沢昌貞・田中穂積を,監事に宮田脩・坂本三郎を,第 4代学長に塩沢昌貞を決定〈維持,
③ 52〉
11・3
塩沢昌貞学長就任式挙行〈③ 53〉
11・27
第 34回擬国会開催,今回にて擬国会は消滅〈② 1022〉
11
学生の就職斡旋を扱う臨時人事係設置〈③ 365,沿革〉
12・2
11月に反軍ビラを撒いた(暁民共産党事件)暁民会の学生数名が退学処分を受け,民人同盟会
は消滅〈③ 302〉
12・8
維持員会,杉山重義を第二高等学院長に嘱任,翌年 4月就任〈維持〉
12・28
文部省の私立大学補助金第 1回分が交付される〈③ 43〉
12・29
大隈重信,摂護腺癌破裂と診断される〈③ 109−110〉
1922年/ 大正 11年
1・7−8
競走部,第 3回箱根駅伝に初優勝〈③ 540,『早稲田大学競走部七十年史』32−34〉
1・10
総長大隈重信死去,享年 83歳〈③ 110〉
1・17
日比谷公園で大隈重信の告別式挙行〈③ 114−115〉
1・27
維持員会,理事会の諮問機関として故総長大隈侯爵記念事業を検討するための内容充実方針
委員会の委員 4名と,大隈記念講堂の概要を検討するための建築委員 5名とを嘱任
〈③ 183,241〉
1
学苑生がしばしば集会に利用することになるスコット・ホールが早稲田奉仕園内に落成〈③ 262〉
2・20
維持員会,大隈信常からの大隈邸および庭園寄附の申し出に関し,条件の協議を 4名の交渉委
員に委ねることを決議〈③ 172〉
3・20
維持員会,大隈邸および庭園の受贈につき,謝礼を支払うとともにそれらを保存したいとの交渉
委員の協議結果を承認し,謝礼 100万円と記念講堂建築費 100万円の寄附金募集を検討
〈③ 174−175〉
3・20
維持員会,早稲田工手学校への女子入学許可を決議〈③ 799〉
3
第二高等学院校舎竣工〈③ 261,746〉
3
高等予科廃止〈③ 75〉
4・1
校医前田実,欧米の学校衛生視察に出発〈学報 327・27〉
4・17
大隈信常より大隈邸および庭園の寄附状を受領〈沿革〉
4
「故総長大隈侯爵記念事業趣旨」発表〈③ 185−187〉
4
第一高等学院および第二高等学院が発足し,前者は P,後者は Sの襟章で生徒を区別〈③ 73〉
4
早稲田工手学校,1学期 6ヵ月の高等科を増設して修業年限を 3年に延長〈③ 212〉
4
早稲田大学出版部,通信講義録『高等女学講義』創刊,優秀な卒業生には学部聴講生受験資格
を付与〈③ 51,800〉
4
御大典記念事業の一部として機械工学科水力実験室が竣工〈② 835,③ 229,442〉
5・6
理事田中穂積,欧米の教育制度視察より帰京〈学報 328・27,③ 52〉
5
『早稲田大学理工学部記要』創刊〈③ 166〉
6・6
故総長大隈侯爵記念事業後援会発足〈③ 187,189〉
9・1
学苑出身の教育関係者,早稲田教育会設立〈学報 332・11〉
9・16
早稲田大学出版部,日用品を販売する代理部を設置,10月 2日開店〈沿革,③ 496,500〉
10・20
学制頒布 50周年記念を兼ねて創立 40周年記念式典挙行〈③ 131−134〉
10・20
早稲田法学会,復活第 1回大会開催〈③ 763〉,また『早稲田法学』創刊〈③ 166〉
10・23−28
ニューヨーク市政調査会専務理事チャールズ・A・ビアードの講演会,4回に亘り開催
〈④ 663−665〉
10
早稲田応用化学会設立〈沿革,③ 765〉
11・5
新聞学会(会長田中穂積),『早稲田大学新聞』創刊〈③ 413〉
11・22
大隈信常,青山南町の新邸に転居し,大隈邸および庭園ならびに大隈文書その他の引渡しを完
了〈③ 175〉
11・29
ベルリン大学教授アルベルト・アインシュタイン来学〈④ 665−666〉
12・25
大隈重信の遺著『東西文明之調和』刊行〈① 48−49,③ 123−125〉
この年
青柳篤恒,校外教育部長就任〈③ 502〉
この年
馬術会と稲門乗馬会が合併して馬術部(部長浅井郁太郎)となる〈③ 545〉
1923年/ 大正 12年
1・19
校医前田実,欧米の学校衛生視察より帰京〈学報 336・16〉
1
学生団体としての建設者同盟が解散し,文化会の会員とともに文化同盟を結成〈③ 308,311〉
2・11
早稲田工手学校第 21回卒業式挙行,各科優等卒業生への大隈綾子の賞品授与は今回が最後
となる〈② 336〉
3・1
学外団体としての建設者同盟,結盟を宣言〈③ 308−309〉
3・14
維持員会,校規(寄附行為)改正を決議。教旨を反映させるため本大学の目的に品性の陶冶と学
術の普及を明文化し,総長・学長制を廃して総長制に一本化するとともに名誉総長制を新設し,
終身維持員と有期維持員の区別を廃して維持員会推挙維持員と評議員会選出維持員の 2種に
分け,理事の定員を 5名以内から 7名以内へ増員し,評議員会の権限を若干強化したほか,大
隈家寄附の土地は財団法人解散時に大隈家に帰属するという旧規定を削除〈③ 136−149〉
3・20
旧大隈邸を大隈会館と命名〈③ 176−177〉
4・1
大隈会館開館〈③ 177〉
4・4
学部卒業生に高等学校高等科教員無試験検定資格付与〈③ 48−49〉
4・5
学部卒業生および高等学院修了生に中等教員無試験検定資格付与〈③ 49−50〉
4・5
大隈綾子,慢性気管支カタル悪化〈③ 170〉
4・12
改正校規(寄附行為),文部大臣の認可を得る〈③ 138〉
4・15
第 40回卒業証書授与式(第 1回学部卒業生が出る)ならびに第一・第二高等学院第 1回修了証
書授与式挙行〈学報 339・16−20〉。別格制度消滅〈③ 76〉
4・20
故総長大隈侯爵記念事業に対し天皇より 5,000円下賜の御沙汰書を得る〈③ 193〉
4・28
大隈綾子死去,享年 72歳〈③ 170〉
4
第 1回学部卒業生を迎えて大学院発足〈③ 766〉
4
政治経済学部および専門部政治経済科,3学期制を改め,1学期で講義を完結させる 2学期制
を採用(不評のため大正 13年に廃止)〈③ 256−257〉
4
専門部商科を第一部と第二部とに分け,第一部には実業学校教員志望者を,第二部にはそれ以
外の者を入学させる〈③ 90,258〉
4
軍事研究団,設立趣旨および趣意書発表〈③ 321−323〉
4
スケート・ホッケー部,体育会に加入〈③ 546〉
5・4
大隈綾子の葬儀・告別式挙行〈③ 170−171〉
5・5
改正校規(寄附行為)施行,塩沢昌貞学長は自動的に第 2代総長となる〈③ 139〉
5・10
軍事研究団(団長青柳篤恒),発会式挙行。反軍国主義を唱える臨席学生との間で激論が展開
(軍事研究団事件)〈③ 313−315〉
5・11
維持員会,大隈信常を名誉総長に推薦,理事を 1名増員して高田早苗を理事に推薦。塩沢昌貞,
総長辞任し,理事会,高田早苗を第 3代総長に互選〈③ 149−150〉
5・12
理事会,常務理事を新設し,田中穂積就任〈③ 155〉
5・12
雄弁会主催の軍事研究団撲滅大会が開催され,文化同盟と体育部および縦横倶楽部とが乱闘
〈③ 325−330〉
5・15
軍事研究団解散〈③ 333〉
5・20
文化同盟解散〈③ 335−336〉
5
篭球部,体育会に加入〈③ 546,『RDR60♢♢早稲田大学バスケットボール部 60年史♢♢』12〉
6・2
高田早苗総長就任式挙行〈③ 153〉
6・5
治安警察法違反の嫌疑を受けて,恩賜記念館内にあった佐野学および猪俣津南雄の研究室が
警察に捜索される(研究室蹂躙事件)〈③ 340−344〉
6・7
高田早苗の総長就任,文部大臣の認可を得る〈③ 153〉
6・11
早稲田大学出版部より総長用乗用車購入費が寄附されたことが維持員会に報告〈③ 497,維持〉
6・26
雄弁会主催の大学擁護演説会が開催され,研究室蹂躙事件で大学の独立と学問の自由に危機
感を抱いた大山郁夫,「大学の使命とその社会的意義」と題して演説〈③ 348−350〉
9・1
関東大震災により,大講堂および大隈会館付属土蔵 1棟全壊,応用化学実験室(豊明館)全焼
等の被害を蒙る〈③ 195−197〉
9・7
大山郁夫,憲兵隊により自宅から拉致されるが,同夜に解放〈③ 350−352〉
9・16
学苑生,関東大震災の罹災者を救護するための早稲田大学学生震災救護団を結成
〈③ 201−202〉
10・1
田中穂積,商学部長辞任し,平沼淑郎就任,安部磯雄,図書館長辞任し,林癸未夫就任〈学報
358・5〉
10・8
維持員会,佐野学および猪俣津南雄の講師解任を決定,14日付で発令〈③ 344〉
10・11
関東大震災のために遅れていた授業,再開〈③ 203〉
10・15
早稲田大学出版部の株式が早稲田大学関係者以外の手に譲渡されるのを防止するための協定
書に全株主が捺印〈③ 497−498〉
10
山岳スキー部が山岳部とスキー部とに分離・独立し,両部とも体育会に加入〈③ 543,544〉
11・1
学部・高等師範部・専門部を対象とする「学生委員会規則」施行〈③ 205−206〉
11・10
早稲田大学学生震災救護団を早大救護会に再編〈③ 202〉
11
防火・風致のため構内に約 400本の植樹を決定〈③ 260〉
12・12
金子馬治,文学部長辞任し,教授会で片上伸選出,翌大正 13年 1月 15日の維持員会で承認
〈学報 347・5,維持〉
12・15
第 1回学生委員総会開催〈③ 206−207〉
12・18
理工学部の助教授制を他学部も採用し,教授・助教授・講師制が全学で実施〈② 978,『自大正
十年度至大正十三年度教務関係書類』〉
12・24
安部磯雄,政治経済学部長辞任し,教授会で塩沢昌貞選出,翌大正 13年 1月 15日の維持員
会で承認〈学報 358・5,維持〉
この年春
政治学会,会則を制定〈③ 762〉
この年
臨時人事係,常設となって人事係と改称〈③ 365〉
この年
恩賜記念館内の物理実験室を基礎工学実験室に改装し,理工学部中央研究所基礎工学実験
室とする〈③ 916〉
1924年/ 大正 13年
1・25
新聞学会,五大学新聞連盟主催で普選問題講演会開催〈③ 418〉
2・1
1月 25日の普選問題講演会を契機に全国学生普選連盟結成〈③ 418〉
2・2
専門部商科第一部の実業学校教員無試験検定資格が文部大臣の認可を得,3月以降の卒業生
に適用〈③ 90,258〉
2・25
「専門学校令」に準拠する夜学の早稲田専門学校の設立認可を文部大臣に申請〈記要 17・134〉
4・1
第二高等学院に教頭を置き,定金右源二嘱任〈③ 73,維持〉
4・8
専門部に部長を,新設の早稲田専門学校に校長を置き,坂本三郎にその兼務を嘱任〈維持〉
4・19
早稲田専門学校(政治経済科,法律科,商科を置き,中学卒業を入学資格とし,修業年限は 3年),文部大臣の認可を得,開校式を挙行〈③ 210−211,214−216〉
4
理工学部電気工学科に電気通信科を増設して電気工学科との 2分科制を採用〈③ 1003,記要
17・134〉
4
高等師範部,予科を再設して,予科 1年・本科 3年となる〈③ 89〉
4
ア式蹴球部(部長島田孝一),体育会に加入〈③ 542〉
5・20
専門部および高等師範部,高等学校・大学予科と同等以上の学校と認定され,卒業生には高等
文官試験予備試験が免除されるとともに,選考試験を経て学部へ進学する道が開かれる〈③ 92〉
5
社会科学研究会(会長大山郁夫)発足〈③ 409〉
6・1
早稲田専門学校の学生委員会発足〈③ 207〉
6・5
「学生ノ会ニ関スル内規」施行〈③ 759−760〉
6・28
大山郁夫ら,新しい政党結成の第一着手として政治研究会の創立大会を開催〈③ 389−390〉
7・8
片上伸,文学部長辞任〈② 694,維持〉
7
第一高等学院生高石勝男,第 8回オリンピック(パリ大会)の水泳 100メートルおよび 1500メートルの自由形でそれぞれ 5位〈③ 511,539〉
8
関東大震災で全焼した応用化学実験室,再建〈③ 261,442〉
9・15
各学部間の意思疎通を図るための「学部協議委員規程」施行〈③ 163〉
10・4
五十嵐力,文学部長嘱任〈② 694−965,維持〉
10
政治経済学部および専門部政治経済科,前期試験を実施せず,2学期制を 3学期制にもどす
〈記要 17・134〉
11
卓球部創立〈③ 547〉
12
校友会,校友の就職斡旋を行う職業相談部を開設〈③ 366,学報 357・4〉
1925年/ 大正 14年
1・17
中桐確太郎,高等師範部長嘱任〈維持〉
3・31
野球部の合宿所(のちの安部寮)竣工〈『早稲田大学野球部五十年史』242〉
3
大学部廃止〈③ 76〉
4・1
奨学金給与制度が設けられ〈③ 370−371〉,早稲田大学出版部奨学金が発足〈③ 496,維持〉
4・1
新卒業生の就職斡旋を扱う人事係,人事課に昇格〈③ 365,維持〉
4・1
大学が教職員に生命保険を掛け,当人死亡の際に遺族に保険金を支払う制度が発足〈③ 654〉
4・13
「陸軍現役将校学校配属令」公布〈③ 850−851〉
4・27
健康相談所(所長前田実),大隈会館内に開設〈③ 371〉
4
理工学部電気工学科の電気工学科を第一分科,電気通信科を第二分科と改称〈③ 1003〉,採鉱
冶金学科の第 3学年を採鉱専攻と冶金専攻とに分ける〈記要 17・135〉
5・5
第一・第二高等学院の軍事教練に関し,陸軍現役将校配属申請書を提出〈③ 856,維持〉
5・15
政治経済学会,『早稲田政治経済学雑誌』創刊〈③ 166〉
5・30
語学力の涵養を希望する学生や校友に英語を講習する 2年制の英語専攻科,開会式挙行(短
命に終る)〈③ 258−260,学報 365・5〉
6・1
早稲田商学同攷会,『早稲田商学』創刊〈③ 167〉
7・6
学部の軍事教練に関し,陸軍現役将校配属申請書を提出したことが維持員会で報告される
〈③ 856〉
8・19
早稲田専門学校,高等学校・大学予科と同等以上の学校と認定され,卒業生には高等文官試験
予備試験が免除されるとともに,選考試験を経て学部へ進学する道が開かれる〈③ 218〉
8
戸塚球場に 25,000人収容可能の観客席竣工〈③ 261〉
9・15
学部および高等学院に初めて配属将校が着任したことが維持員会で報告される〈③ 856〉
9・15
西武鉄道株式会社より保谷村所在土地約 25,000坪を寄附され,昭和 6年以降,東伏見運動場
として使用〈③ 261,1120〉
10・1
杉山重義,第二高等学院長辞任し,教頭定金右源二を院長事務取扱に嘱任〈『大正九年四月起
教員異動通知簿』〉
10・19
戸塚球場で復活早慶野球戦開催〈③ 522−523〉
10・20
御大典記念事業の図書館(現 2号館)と学生ホールが,製図教室および第一高等学院プール
(高石記念プール)ならびに正門(今日の通用門の辺り)とともに竣工し,開館式を挙行
〈③ 236−240〉
11・3
10月 15日に小樽高等商業学校で実施された軍事教練をめぐる事件に触発された新聞学会,雄
弁会,社会科学研究会等の学生の会が全早稲田軍事教育反対同盟を結成して軍事批判演説会
を開催〈③ 419〉
11・16
早稲田機友会,早稲田電気工学会,早稲田採冶会,早苗会,早稲田応用化学会の 5分会より成
る早稲田理工学会設立〈③ 765−766〉
12・1
学生の会の新設・継続の審査・承認に関する総長の諮問機関として科外教育審議会設置
〈③ 409,760−761〉
この年秋
東京六大学野球連盟結成〈③ 521−522〉
1926年/ 大正 15年
2
安部磯雄,野球部長辞任し,高杉滝蔵就任〈③ 527〉
3・15
中島半次郎,第一高等学院長辞任し,教頭野々村戒三を院長に嘱任,宇都宮鼎を第二高等学
院長に嘱任〈維持〉
3・15
維持員会,学生の指導・各種会合・保健・宿舎に関する事項を管掌する学監部を 4月 1日に設置
すると決定(実現せず)〈③ 410〉
3・30
政治経済学部卒業生に授与してきた政学士の学士号を,専攻により政治学士と経済学士とに分
ける〈③ 16〉
3・31
「学生ノ会ニ関スル内規」廃止〈③ 761〉
4・1
「学生ノ会ニ関スル規則」施行〈③ 761〉
4・28
政学博士を廃して政治学博士と経済学博士を設ける改正「学位規程」の認可を文部大臣に申請
〈③ 47,維持〉
4
第一・第二高等学院,定期試験を年 2回に改めて 3学期制を 2学期制に変更〈③ 257〉
5
早稲田大学学生消費組合,東京学生消費組合の最初の支部として正門前に開店〈③ 370〉
6・2
政治経済攻究会(春に政治学会が改称),第 1回会員研究報告会開催〈③ 762〉
6・28
改正「学位規程」,文部大臣の認可を得る〈③ 47,維持〉
6
安部前野球部長記念会,安部磯雄胸像建設資金および安部体育奨励基金の募金趣意書発表
〈学報 376・54−55〉
7・1
助手制度発足〈③ 166,④ 1134,学報 378・5〉
9・1
人事課内に中等教員紹介係(主任中島半次郎)設置〈③ 366,学報 380・16〉
9
早稲田工手学校予科に初めて女生徒 2人が入学〈③ 799〉
10
早稲田大学出版部の代理部閉店し,営業権を丸善株式会社に譲渡,昭和 20年 5月まで丸善早
稲田出張所として正門前で営業〈③ 500〉
10
神宮球場竣工,以後東京六大学野球戦はここで行われる〈③ 526〉
11・15
大隈侯八十五年史編纂会編『大隈侯八十五年史』第 3巻刊行(続いて別冊『風雲偉観』が 12月7日に,第 2巻が 12月 8日に,第 1巻が 12月 25日に刊行)
12・5
社会民衆党結成され,安部磯雄,委員長に就任〈③ 392〉
12・8
維持員会,「会計規程」を改正し,会計区分を経常勘定と基本勘定に改めるとともに基金を使用
目的別に分類,翌年度より実施〈④ 614−615〉
12・13
大山郁夫,労働農民党の中央執行委員長に選出〈③ 392〉
12
社会民衆党委員長となった安部磯雄,教授を辞して講師となることを申し出る〈③ 393〉