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Ⅲ「道頓堀地区」について (「道頓堀川」については、1頁・参照)

1.「宗右衛門町」について

(1)「宗右衛門町」 … 道頓堀川北岸・「道頓堀川」の1筋北の通りが「宗右衛門町通り」で、通りを挟んで堺筋の西側に東西に広がる両側町が「宗右衛門町」である。(堺筋から東は、島之内になる。)・道頓堀川開削とともに成立した「道頓堀川八丁」のひとつで、町名は開削に関わった人物

の一人で ”町年寄” を務めた「山ノ口屋宗右衛門」の名に由来する。 明治5年の町名改正 までは「道頓堀宗右衛門町」と称した。

㊟ 道頓堀川八丁は、 道頓堀川北岸の東から、大和町・宗右衛門町・御前町・久左衛門町、芝居

 小屋が並ぶ南岸の東から、立慶町・吉左衛門町・九郎右衛門町・湊町をいう。

・安政4年(1857)に茶屋株50軒が免許されて以降、昭和初期まで「南地五花街」のひとつとして繁栄し、今なお庶民的な”社交の街”、”飲み屋街”として多くの店が軒を並べている。

・南地五花街は、かっての 宗右衛門町・九郎右衛門町・櫓町・阪町・難波新地をいい、数百軒のお茶屋や料亭が黒塀を連ねていた。 中でも宗右衛門町には、明治36年で芸妓店が7店、芸妓が287人居たといい、太左衛門橋・北東の置屋「南地大和屋」、その西の「富田屋」が有名であった。

 最盛期の昭和10年ころの「南地五花街」には、お茶屋750軒、芸妓2,800人、娼妓1,800人を数えたとされる。もともと”お茶屋” は、寺社の門前などで湯茶を提供したのが始まりで、その後、飲食のほか

唄や踊りも提供しようと発展してきたもので、料理屋でないため板前は置かなかった。 全盛期の船場の旦那衆は、お茶屋を情報交換の場、社交の場ともしていたが、その遊び方はケタはずれで、”お座敷に土を持ち込んで木を植え、マッタケを用意して『マッタケ狩り』をしたり、畳の下に、こんにゃくを敷き詰めて芸妓たちを呼び『地震や、地震や』と騒いだり、『洋行ごっこ』と称して、お座敷で大宴会のあと道頓堀川から船を繰り出し、再び船で帰ってくるという遊びに興じたとされる。

・平成25年3月には、宗右衛門町通り(御堂筋〜堺筋)の“石畳の道”設置と電線地中化が完成している。・最近では、訪日観光客によるインバウンド消費を背景に、「戎橋」北東袂にある「クリサス心斎橋」の地が、平成30年の地価公示で「キタ」を抜いて初めて大阪のトップとなっている。

また、昭和47年発売の歌謡曲「宗右衛門町ブルース」(歌:平和勝次とダークホース)のヒットでこの町名が全国に知れ渡った。

「南地大和屋」   宗右衛門町5-15

・明治10年(1877)開業の置屋(芸妓扱所)であった「大和屋」は、明治43年に芸者学校「大和屋芸妓養成所」(=昭和48年閉鎖)を創立して芸妓の育成に努め、明治21年から始まった芸妓による舞踊公演「芦辺(あしべ)踊り」の隆盛を図るとともに置屋をお茶屋に改めた。・昭和40年には建物をビル化(地上5階・地下2階建て)、し、中に能舞台を設えていたが、平成15年に閉鎖され、今は百貨店での出店(「大和屋」、「大和屋三玄」)で営業している。

その跡地には、平成20年竣工のホテル「ホリデイ・イン大阪難波」(314室)が建っている。

・明治45年に料理部を創設していたが、割烹「𠮷兆」から仕出しも取っていた。

・贔屓にした有名人として、松永安左ヱ門、永野重雄(新日鉄会長)、小泉信三(慶應義塾

塾長)や司馬遼太郎が挙げられる。

お茶屋「たに川」 南地花街の伝統を引き継ぎ、今も芸妓を呼べるお茶屋  島之内2丁目4

昭和44年開業の「島之内たに川」は、もともと芸妓だった谷川恵美子さんが料亭を買い取り

創業したもので、昭和63年に黒塀の木造2階建てを4階建てビルに建替え、数寄屋造りの

お座敷を設けて、今でも月1回の「お茶屋サロン」で伝統的な芸者遊びを教えている。

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(2)道頓堀川に架かる宗右衛門町の橋

「日本橋(ニッポンバシ)」

・堺筋(もと紀州街道)に架かる橋。元和5年(1619)に架けられた道頓堀川で唯一の公儀

橋(長さ約40m、幅約7m)で、現在の橋は昭和44年に地下鉄建設に伴って架け替えら

れており、長さ28.8m、幅28mの鉄桁橋で、橋詰めに旧橋の親柱が残されている。。

・江戸時代には、橋詰に京や琴平詣りの船着き場があり、水陸交通の要所だったことか

ら、橋筋は長町とよばれて、道の両側に旅籠が軒をならべ、南詰の西側には幕府の高札

場が設けられていた。 現在、橋の北詰に橋の歴史を記した「由来碑」がある。

「相合橋(アイアウバシ)」

・最初に架けられたのは貞享年間(1684~1688)で、当初は中橋と呼ばれていたが、宝永の頃(1704~)から相合橋と呼ぶようになったとされ、長堀川の中橋と玉屋町筋で結ばれていることから、”中橋と相い合う橋” として相合橋になったともいわれている。 江戸時代絵図のなかには、「相生橋」、「アヒオヒハシ」と表示されたものもある。

・江戸時代から明治にかけて、北側の宗右衛門町と南の道頓堀を挟んで「坂町」(元伏見坂町)といった花街が広がっていた。 明治になると、男女の仲が切れる「縁切り橋」との風評が立ち、遊女などは相合橋を渡ることを避けたと言われている。・昭和37年までは木橋であったが鋼橋に架け替えられた。昭和58年には幅を両側へ拡幅し、橋上に ”憩いの広場” が設けられ、さらに平成16年に川沿いの「とんぼりリバーウォーク」が整備された際に、橋から遊歩道へのアプローチ階段が設置された。 橋上(西側)に「相合橋碑」があり、橋の東北詰に初代・中村鴈治郎の座付き作者であった

食満南北(1880~1957)の句碑 「盛り場を むかしに戻す 橋ひとつ」 が設置されている。

「太左衛門橋」  

・橋の名は、橋の東南角で歌舞伎の小屋を開いた興行師・大坂太左衛門に由来している。寛永3年(1626)に道頓堀の南側に芝居と遊郭が公許され、大坂太左衛門ら6名が京都から進出してきていることから、架橋時期はその頃とされている。・現在も木製である橋(幅4m)は昭和33年に架け替えられたもので、近年は、道頓堀川

の水辺整備に合わせて、本橋の西側と東側に側道橋(幅4m)が設けられ、川辺へのアプローチも整備されている。

「戎橋」

・心斎橋筋と戎橋筋を結ぶ橋で、架橋は道頓堀川の開削とほぼ同時であったのではない

かとされている。現在の橋(長さ26m、幅11m)は老朽化を理由に平成19年11月に建て替えられたもので、大正時代の橋の一部分を保存しながら、中央部分に円形の広場や川

沿いの遊歩道へ続くスロープなどが設けられている。橋には「戎橋銘文」と称する説明版が取付けられている。・名前の由来は、”今宮戎神社にお参りする参道であったから” と ”西宮神社の社札が配られたことから” との2説があるが、前者が通説とされている。・江戸時代から、今宮戎への参詣、千日墓地への墓参や橋の南側にできた芝居小屋へ行く多くの人々で賑わった。記録によると元禄7年(1694)から明治11年(1878)に鉄橋に架け替えられるまでに13回の修理および架替工事が行われたとされる。

・昭和60年の阪神タイガース優勝時以降、サッカー日本代表が重要な勝利をあげた時や年始のカウントダウン等において道頓堀川に飛び込む若者が多く、死亡者も出ている。

先年までは、軟派スポットとしても有名だったことから、「ひっかけ橋」という異名もあった。・橋の南西袂にあるグリコランナーが描かれた巨大広告の「グリコサイン 」(高さ20m、幅約11m)は、昭和10年(1935)に設けられ、現在のものは6代目(平成26年設置)となる。

・平成19年11月、国内外を対象としたデザインコンペを基に架け替えられた現在の橋に

について、設置された「戎橋銘文」と称する銘板には次の通り記されている。。

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「戎橋を南に渡ればその賑やかなこと…

 元和元年(1615)、道頓堀川の開削により橋は架けられ、400年もの長きにわたって、 大阪の賑いを見守り続けてきた。その名は、今宮戎の参道であったことに由来する。 十日戎には、商売繁盛を祈願する参詣人が列をなし、宝恵駕がなにわの初春を彩る。

    ”宝恵駕に雪がちらつく戎橋”  よしの 橋の歴史や街の賑わいを絶えることなく今日まで守り伝えのは、ミナミの町衆である。

 水都の夏の風物詩、役者衆の船乗り込み。かって天下随一の芝居町であった道頓堀 の姿に思いをはせる。人は、この橋を訪れるとき、街にうまれた文化に触れ、大阪の

 やさしさにつつまれる。    ”友だちはよいものと知る戎ばし”  水府 今ここに、橋は新たにうまれかわる。姿かたちはかわろうとも、ゆきかう人から人へ、 過去から未来へはしわたす、なにわびとの魂は、とこしえにかわることはない。    ”大阪はよいところなり橋の雨”  水府

2008年3月  寄贈 戎橋筋商店街振興組合 」

(3)「宗右衛門町商店街」

江戸焼うなぎ「 菱富」  宗右衛門町7ー6

 明治中頃創業のうなぎ一筋の店の本店

金なべ 「明陽軒」  宗右衛門町4ー4

 昭和3年創業の老舗料理店。18金の特注鍋「金なべ」による"すき焼き"が有名。

「食道園」  宗右衛門町5ー13

 昭和21年、千日前で創業の焼き肉店。昭和43年、宗右衛門町に店を移し本店とする。

菓匠館「福壽堂秀信」  宗右衛門町3ー14

 昭和23年11月、宗右衛門町で創業の老舗和菓子店。帝塚山に本店店舗を出している。

Bar「マスダ」  心斎橋筋2丁目3

 昭和33年創業のカクテルバー(世界の銘酒・カクテル)。

「ドン・キホーテ」道頓堀店  宗右衛門町7ー13

 東京に本社を置き、全国展開する総合ディスカウントストア。 長円形大観覧車「えびすタワー」がミナミのシンボルになっ ており、店裏川沿いの太左衛門橋船着場から、20分間の

 道頓堀クルーズ「とんぼりリバークルーズ」が発着している。 「えびすタワー」(77m)…4人乗り32基のゴンドラが15分 で一周する。(平成20年に不具合があって停止していたが、

 平成30年1月から運用再開した。)

*かってのダンスホール、キャバレー等

キャバレー「富士」

 昭和28年(1953)にオープンした巨大なキャバレーで、1階にはダンスホールがあり、

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 2階は飲んで食べれるサパークラブ「パテオ富士」、3階がキャバレーになっていた。

 現在は宗右衛門町モータープール?

キャバレー(ダンスホール)「メ ト ロ」

 戦後まもなくの開店で、昭和28年にはダンスホールに改装された。

アルサロ「ニューメ ト ロ」 その西隣にあり、アルサロの走りであった。 この2軒の跡地には、現在、平成8年9月竣工の「メトロポリタンビル」(地上14階・地下1階)になっており、その中に平成28年2月リニューアルオープンしたホテル「イビススタイ

ルズ大阪難波」(343室)が入っている(旧「ホテルメトロThe21」)。 

(4)「とんぼりリバーウォーク」

・日本橋から浮庭橋までの道頓堀川両岸沿いに設けられた約2kmの遊歩道で、平成16年12月に誕生した。イベントスペースもあり、各種イベントの開催や物品販売も行われる。・日本橋、太左衛門橋、湊町の船着場があり、「とんぼりリバークルーズ」が巡っている。

<参考3>

「宗右衛門町」の移り変わり・現 在

・昭和34年頃

2.「道頓堀」 … 道頓堀川南岸

・ここでは、日本橋 から 大黒橋(御堂筋の西側2筋目)までの道頓堀通沿いに広がる繁華街について記す。なかでも戎橋以東はかって「道頓堀五座」が立地した芝居町にあたり、道頓堀通の南側には芝居小屋、北側(浜側)に芝居茶屋が並んでいたため、現在も通の南側に娯楽施設、北側に飲食店が多く、最近では平日の午前中から外国人観光客で溢れている。

(1)「道頓堀五座」・戎橋南詰から東側に存在した、「浪花座」・「中座」・「角座」・「朝日座」・「弁天座」の5つの劇場のことで、承応2年(1653)に芝居名代5株が公認され、「五つ櫓」とも言われた。・昭和初期までにこれらの劇場は全て松竹の経営に移り、一部は映画館に転向した。

*「浪花座」(承応元年[1652]開業)は、芝居街の西端にあったので ”大西芝居” とも呼ばれたが、天保期(1830‐44)末年から「筑後芝居」と改め、明治9年(1876)に焼失して再建後は「戎座」と改名され、明治20年には再び「浪花座」と名を変え、松竹芸能の本拠地となった。平成14年1月に閉館し、現在は「道頓堀ZERO GATE」が建っている。(後述)

*「中座」は、承応元年(1652)に京の塩屋九郎右衛門が創設し、浪花座と角座の中間にあ

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ったため、”中の芝居” と呼ばれた。大正9年(1920)に松竹の経営となり、歌舞伎や松竹

新喜劇の興行が続けられたが、経営不振などの理由で平成11年10月に閉館となった。現在は、「中座くいだおれビル」(後述)となっている。なお、昭和23年に2世・渋谷天外がここ中座で旗揚げした松竹新喜劇からは大スターの

藤山寛美が生まれ、一世を風靡した。。*「角座」は、承応元年(1652)に京の大坂太左衛門が創設し、太左衛門橋を南へ渡った角

にあったため”角の芝居” と呼ばれた。宝暦8年(1758)には世界最初の回り舞台を設置し、大当たりした。

明治期前半に松竹の手に渡り、昭和33年には演芸場に転換して隆盛を誇ったが、漫才ブームの終了で失速し、これも昭和59年に閉館した。  昭和61年には映画館の入った商業ビルとなり、平成25年に松竹芸能がお笑い劇場「DAIHATSU MOVE 松竹芸能 道頓堀角座」を開場していたが、平成30年に閉館され、新たなライブスペースとして、平成31年1月、東心斎橋1丁目のビルに「心斎橋角座」を開設している。なお、角座ビル跡地には、令和3年開業予定で12階建てホテルを建設予定である。

*「朝日座」(承応元[1652]開業)は、明治41年(1908)に松竹が買収し、明治44年から

映画興行を始めていたが、昭和20年の大空襲で焼失し一旦廃座となった。その跡地に昭和30年(1955)3月、「大阪東映劇場」(のちに「道頓堀東映」と改称)が建てられたが、建物の老朽化もあって、平成19年4月に閉館し、現在は、平成28年竣工の「道頓堀ベニ

スビル1」(後述)となっている。*「弁天座」は、慶長5年(1600)に創設されたが、元和2年(1616)に竹田出雲が譲り受けた

ことから”竹田の芝居” と呼ばれた。その後も持主が転々とし、明治9年(1876)に「弁天座」

と改称され、大正5年(1916)に松竹の手に渡った。昭和20年の戦災で焼失したが、戦後に再建されて昭和31年に「道頓堀文楽座」として、人形浄瑠璃の常打劇場となったが、昭和38年には松竹の手を離れて「朝日座」と改称(五座の名を継承)され、引き続き人形浄瑠璃興行も定期的に行われていたが、昭和59年2月に閉館した。現在、その跡地は駐車場になっており、東隣には「スギドラッグ道頓堀東店」がある。なお、人形浄瑠璃興行の場は、同年に開設された日本橋の「国立文楽劇場」に移った。

「道頓堀五座」

(2)その他の主な芝居小屋

「竹本座」(西の芝居)

貞享元年(1684)に竹本義太夫が創設した人形浄瑠璃の芝居小屋で、近松門左衛門が座付作者となり、「曾根崎心中」、「心中天網島」、「仮名手本忠臣蔵」らが初演されたが、人形浄瑠璃の衰退とともに明和8年(1771) に閉座した。  (「浪花座」の西側にあった)

「豊竹座」(東の芝居)元禄16年(1703)に竹本義太夫の弟子である竹本采女が独立して豊竹若太夫と名を改め、「豊竹座」を開設した。竹本座との両座で競い合い、心理描写を得意とする西風(竹本座)

に対し、美声を売りとする華麗な芸風の東風(豊竹座)と異なる魅力で人気を二分したが、

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明和5年(1768)に閉座した。その後、歌舞伎小屋に転じるも、明治9年(1876)に焼失し、「阪恵座」と名 を変えて開場したが、明治10年に、またしても焼失してしまった。現在は、「WINS道頓堀」(後述)になっている。

(3)「大阪松竹座」  道頓堀1丁目9(戎橋南詰・西)…泊茶屋「大七」の跡地

・ミラノのスカラ座をモデルにした日本初の鉄骨・鉄筋コンクリート造りで、大阪初の洋式劇場として、大正12年(1923)5月に開館し、梅田の北野劇場と並ぶ、大阪の洋画の殿堂と

して上映を行ったほか大阪松竹少女歌劇団(OSSK)のレビューも行われた。 ・平成9年2月、外観を残しつつ最新設備を備えた劇場として新築開場し、歌舞伎や新劇・松竹新喜劇を中心に歌劇、ミュージカル、コンサート等も上演されている。(定員1141名)また、平成16年からは、大阪松竹歌劇団(現・OSK日本歌劇団)によるレビュー「春のおどり」が66年ぶりに復活し、毎年の恒例となっている。・地上5階・地下2階建てで、客席は3~5階に1033席。 地下1・2階には食事処がある。

(4)「はり重 本店」  道頓堀1丁目9

・大正8年(1919)に堺市で開業し、新世界を経て、昭和23年(1948)に現在の店を構える。

”すき焼き” ”しゃぶしゃぶ”のほか洋食グリルとして、芝居好きの食道楽や花街のお姉さま方に伴われた役者、芸人、文化人達で評判を呼び、映画全盛期には大スターや有名歌手

も足繁く通ったとされる。 「はり重カレー店」も隣り合ってある。現在も隣接する松竹座の幕間弁当や芝居やショーの観劇客で賑わっている。

(5)「新歌舞伎座」(初代)  難波四丁目3

・昭和33年10月、御堂筋に面した西側(「なんば大映」跡地)に開館した大劇場。客席は三層、収容人員は1638名で、村野藤吾デザインによる唐破風を備えた桃山風の外観と豪華な造りの内装が人目を引いた。・「大阪新歌舞伎座」と命名されたが、昭和35年以降、歌舞伎興行は次第に少なくなり、新しく映画スターや歌手を中心とした「座長芝居」「歌手芝居」を月替わりで公演する方式に切り替えられていき、例えば、三波春夫が昭和35年3月の初公演以降20年にわたって毎年3月興行を恒例とし、杉良太郎の座長公演や中村美律子の座長公演が評判を呼

んだ。 最後の公演も”五木ひろし・コロッケらによる歌謡ショー” であった。 ・建設から約50年が経過し、老朽化が進んだことから平成21年6月に閉館し、上本町6

丁目の近鉄劇場跡地(劇場は平成16年に閉鎖済)に建設された地上13階建て再開発ビル(YUFURA)内に設けられた「2代目・新歌舞伎座」に引き継がれた。・跡地は、平成24年に冠婚葬祭大手の「ベルコ」が跡地を買収し、結婚式場を併設した「ホテルロイヤルクラシック大阪」(地上20階・地下1階)が新築され、令和元年12月に

オープンした。なお、新ビルの建築設計は東京歌舞伎座の高層化・復元工事に携わった隈研吾が担当し、ホテル前面(低層階部分)に新歌舞伎座の外装が復元・保存されている。

  「大阪松竹座」   「新歌舞伎座」

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3.「道頓堀通り」 … 道頓堀川の南岸 道頓堀商店街=昭和20年(1945)頃設立

(1)芝居小屋のその後

「サミー戎プラザ」と「道頓堀ZERO GATE」  道頓堀1丁目8(もと「浪花座」)

・「浪花座」跡地に平成16年7月、娯楽複合ビル「サミー戎プラザ」がオープンした。 ゲームセンターのほかフィットネスやカラオケルームがあり、5~7階には商店街テーマ パークとしての「道頓堀極樂商店街」が設けられていた。・運営していたセガミHDが不採算店の整理を余儀なくされたため、平成23年3月に閉館

となり、跡地に「道頓堀ZERO GATE」が新築された。

「道頓堀ZERO GATE」 前に「竹本座跡」碑

「パルコ」の都心型中低層商業施設として、平成25年4月開店の3階建てファッションビルで、全フロアにアメリカのファストファッション「FOREVER 21」(関西初)が出店している。

「中座くいだおれビル」  道頓堀1丁目7(もと「中座」)

・「中座」跡地に、平成16年、地上6階・地下1階建ての飲食店ビル「セラヴィスクエア中座」

が竣工したが、平成21年7月に閉店した「くいだおれ」の名称を借り受けて、「中座くいだおれビル」と改称され、看板人形であった「くいだおれ太郎」がビル前に据えられ復活した。・なお、もと「中座」の解体工事中の平成14年9月にガス爆発が起こり、隣接するビル及び

法善寺横丁16棟が全焼する事故があった。

「道頓堀東映」と「道頓堀ベニスビル1」  道頓堀1丁目4(もと「朝日座」)

・「朝日座」跡地を東映が買い取り、昭和30年(1955)3月に関西地区初となる東映系映画

館として「大阪東映劇場」がオープン。4年後に館名を「道頓堀東映」(660名収容)と変更

し、その後、地下に洋画のロードショー館「道頓堀東映パラス」(285名収容)が新設された。・建物の老朽化や「なんばパークス」内に「なんばパークスシネマ」がオープンしたこともあり、平成19年4月に閉館し、その跡地に「道頓堀ベニスビル1」が建てられた。

「道頓堀ベニスビル1」・平成28年竣工の7階建て複合テナントビルで、1階に「マツモトキヨシ道頓堀1丁目店」、2階に「エディオン道頓堀店」(免税専門店)、3~6階にウェディング&貸切パーティー の

「ルフール なんば道頓堀」がテナントとして入っている。

(2)”赤い灯、青い灯”時代の名店

・”赤い灯青い灯 道頓堀の 川面にあつまる恋の灯に 何でカフェーが忘らりょか” と唄わ

れた「道頓堀行進曲」(昭和3年(1928)発表)で、道頓堀の名が全国的に有名となった。

カフェー「パウリスク」 道頓堀1丁目7

・大正2年(1913)、浪花座の東隣に開店。今でいう喫茶店で、ブラジル政府から宣伝のため無償で送られた豆を用い、廉価でコーヒーを飲ませた。

カフェー「赤玉」(キャバレー) 道頓堀1丁目7

・昭和2年(1927)3月、中座の東隣に開店、営業中でも女給に客との外出をさせるなど、それまでの芸妓に代わって女給が通りを闊歩する新しい風景が生み出された。

キャバレー「ド・パノン」 道頓堀1丁目7

・大正2年(1913)、中座の向いに開店。芸術家や文士が集まるサロン的雰囲気のカフェー。

ジャズ喫茶「ナンバ一番」 道頓堀1丁目8

・昭和30年代初め、戎橋の南東角のビル5階に開店したジャズ喫茶。 グループサウンズ「ザ・タイガース」が「ファニーズ」の時代にライブ活動しており、”GSの聖地” とされた。 

昭和44年9月に閉店。 現在は「TSUTAYA戎橋店」になっている。 

(3)道頓堀商店街

「道頓堀 今井」 道頓堀1丁目7

・江戸時代には芝居茶屋「稲竹」を営んでいたが、大正5年(1916)、今井楽器店に転業し

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当時 まだ珍しかった舶来の楽器を並べて道頓堀に大正モダニズムの風を運んだ。

昭和21年にうどん屋に転向して現在に及ぶ。 軒先には、”城と御興(岩おこし)と鴈治郎はん” と言われ、大阪人の誇りとされた初代・中村鴈治郎を偲んで 岸本水府が詠んだ句

「頬かむりの 中に日本 一の顔」の碑が立っている。

「浮世小路」 道頓堀1丁目7

・今井の東から南の法善寺横丁に伸びる小路で、路地の両脇には、大正から昭和初期にかけての道頓堀の町並

みを再現した絵地図や、上方落語・吉本芸人など大阪の芸能を物語る品々が展示されている。・また、路地の中ほどには、”一寸法師が道頓堀川を上って京都へ鬼退治に向かった” という伝説から、「一寸法師大明神」を祀る小さな祠があり、パワースポットとして親しまれている。 (幅1.2m。長さ48m)

「かに道楽 本店」 道頓堀1丁目6

・昭和35年(1960)2月、山陰の魚介料理店「千石船」

を開業し、昭和37年、現在地に「かに道楽」(現・道頓堀本店)を開店した。 「かにで儲けさせて貰ったから、かにで思いっきり、道楽をしてみたい。」 との熱意から

命名(HPによる)。この時に店の正面白壁に掲げた”白地に赤く、日の丸をイメージした動く大きな「かに」の看板” が、道頓堀のシンボルとして脚光を浴びることとなった。

・昭和43年、キダタロー作曲による”とれとれ ぴちぴち…♪” のCMソングも評判を呼ぶ。・平成2年には、6月22日を「カニの日」と制定し、毎年、色々なキャンペーンを行っている。 (星座占いの”かに座”が6月22日頃に始まること、ひらがなで「か」が五十音順での6番 目、「に」が同じく22番目にあたることから定めたとされる。)

「づぼらや 本店」 道頓堀1丁目6

・大正9年(1920)、新世界で創業の”ふぐ料理専門店”で、道頓堀店は、昭和41年に開店 した。 店頭に掲げた巨大なトラフグの提灯は、大阪名物のひとつになっている。

・しかし、令和2年春先からの世界的な新コロナウィルスによる海外からの観光客激減のあおりを受け、令和2年9月をもって閉店することになった。

「たこ梅 本店」 道頓堀1丁目6

・弘化元年(1844)創業の「関東煮(おでん)」と「たこ甘露煮」が名物の店。 「日本一古いおでん屋」とされ、今の店は昭和24年に開店し、平成19年にリニューアルした。 鯨の舌「さえずり」が、たこ梅独特の関東煮の深い味わいを作り出している。

大阪が誇る織田作之助、池波正太郎、檀一雄、田辺聖子、開高健といった作家や文化人に愛され、その作品にも登場している。 「たこ梅」の店名は、創業者の名前「梅次郎」から「梅」をとって名付けたとされる。

「元禄寿司 道頓堀店」 道頓堀1丁目6

・吹田市のビール工場で使われていたベルトコンベアをヒントに「旋回式食事台」を開発した創業者が、昭和33年(1958)4月に東大阪市で回転寿司1号店「廻る元禄寿司」を開店した。

・巨大なマグロの握り寿司が店頭の2階から客を呼び込んでいる。

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「くいだおれ」 道頓堀1丁目8

・昭和24年(1949)に開店。 屋号は「京の着倒れ、江戸の飲み倒れ、大阪の食い倒れ」からきたとされ、創業者はその遺言に、「”支店を出すな”・”家族で経営せよ”・”看板人形を大切にせよ”」 と記したという。・昭和34年に8階建ての「くいだおれビル」を建て、1階が総合食堂、2階が居酒屋、3階が日本料理店、4~8階を割烹お座敷とした。・平成20年7月、建物の老朽化や周辺環境の変化などを理由に閉店した。 閉店日には、関西の芸能人、文化人ら著名人を招待しての”最後の晩餐”を催し、「くいだおれ太郎」弟

の「次郎」が店頭に立って 「永いことありがとう。おおきに 太郎」 という言葉で挨拶した。翌年、3軒東のもと中座跡のビルが「中座くいだおれビル」(前述)と改称され、「くいだおれ太郎」 も同ビルに移して設置された。もとのビルは再開発も検討されたが、土産物店として1階で営業を続けており、くいだおれ太郎のグッズや食品が売られている。

マスコットキャラクター「くいだおれ太郎」

・店の1階正面に置かれたチンドン屋の格好をした広告宣伝用、の人形で、昭和25に登場以降1990年代には大阪の町を代表する観光名物として人気を博し、その知名度は全国に広まった。ところで、「くいだおれ太郎」という名前は、平成6年に関西国際

空港が開港した際、空港第1便となるオーストラリア行旅客機に”大阪を代表するオブジェ” として搭乗することになり、乗客名簿に記載が必要なことから正式名称として登録されたという。

・この人形は文楽人形を意識して制作されたもので、その顔は当時の喜劇役者をモデルとしており、その作者は淡路島の人形浄瑠璃の頭(かしら)師とされる。・昭和60年に阪神タイガースがセ・リーグ優勝した際、興奮した阪神タイガースファンが店頭の「くいだおれ太郎」を担ぎあげ胴上げしようとした時に、店の営業部長が一人で体を張って死守したため、代わりにケンタッキーフライドチキン道頓堀店の「カーネル・サンダース像」が戎橋から道頓堀川に投げ込まれた。 なお、平成4年のシーズンで優勝が濃厚にな

った時には、 今回は太郎が投げ込まれるとの噂が広まったため、口許から 「わて、泳げまへんねん」 と書かれた”ふきだし”風の看板が添えられ、浮き輪に水中眼鏡という特別バージョンが話題になったが、阪神が巨人と同率の2位に終わったため、事なきを得た。

また、平成2年には、11月の天皇即位の御大典を祝福して、「バンザイ人形」と呼ばれる別バージョン人形が登場し、後に太郎の弟として、「くいだおれ次郎」 と名づけられた。

「金龍ラーメン 本店」 道頓堀1丁目1

・昭和57年創業のミナミを代表する老舗ラーメン店で、大きな龍のオブジェ看板が客を呼

び込む。 メニューは、「ラーメン」「チャーシューメン」の2種類のみで、白菜キムチ、ニラキムチ、きざみニンニクなどがセルフサービスで供される。

「本家 大たこ」・昭和47年創業で、看板には「道頓堀 たこ焼き発祥の店」とある。・「ミシュランガイド京都・大阪2016」に掲載された大阪のたこ焼き店11店舗のひとつ。道頓堀では他に「道頓堀赤鬼」が掲載された。

「たこ八 道頓堀総本店」 道頓堀1丁目5

・昭和54年創業のたこ焼・いか焼・お好み焼の店。道頓堀店は平成16年4月に開店した。

「道頓堀コナモンミュージアム」 道頓堀1丁目6

・コナモン(たこ焼・お好み焼など)の食文化を通して、道頓堀の文化・歴史を学び、体感もできるテーマパークで、2階には「コナモン歴史ミュージアム」、3階には平成24年7月発足の「道頓堀たこ焼連合会」の事務局が入る。

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「ウインズ道頓堀」  道頓堀1丁目3

・昭和53年10月に開設された日本中央競馬会 (JRA) の場外勝馬投票券発売所。

<参考4>

「道頓堀筋」の移り変わり・現 在

・昭和34年頃

4.「戎橋筋商店街」

・心斎橋筋商店街の南に続く商店街で, 2つの商店街によって長堀通りから難波・高島屋前まで一体化して繋がっている。 江戸時代に今宮戎に向かう参拝客のため、うどん屋や茶屋などの飲食店を開いたのが今の商店街の起源とされる。・大正2年(1913)、現・戎橋筋商店街振興組合の前身となる戎橋筋聨合会が発足し、昭和

37年にはアーチ型アーケードが完成し、平成7年にアーケードのカラー舗装も完成した。・商店街あげてのイベントとして、大正14年(1925)に戎橋が鉄筋コンクリート造に架け替え

られてから50年目にあたる昭和50年(1975)に、「橋が生まれて50年 戎橋祭」が開催され

ており、その時に催行された「ナイトバザール」がその後も毎年の恒例行事として継続され、現在も「はっすじ夏まつり」と名を替えて開催されている。

「をぐら屋」昆布店 難波1丁目6

・嘉永元年(1848)、心斎橋筋のびん付油商「をぐらや」で働いていた初代・松原久右衛門が暖簾分けを受けて昆布商を創業し、明治32年(1899)に戎橋筋に店を構えた。

「千鳥屋宗家 戎橋店」 難波3丁目2

・寛永7年(1630)、佐賀県で創業された老舗和菓子屋(現在、本家は福岡県)で、本家・中 

興の祖の3男が、昭和48年に大阪に出て「千鳥屋宗家」として開店した。

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・代表銘菓「本千鳥 -千鳥饅頭- 」は、長崎に伝来した南蛮菓子の製法を活かし、日本の

白餡を独自に包んだお菓子として生み出したのがその原型で、千鳥の焼き印がその名前を表している。

蒲鉾「大寅」 難波3丁目2

・明治9年(1876)創業の蒲鉾商「大岩」の婿養子となった小谷寅吉が、暖簾分けを受けて明治25年(1892)に大阪戎橋筋に開店し、屋号を「大寅」と定めた。 大岩の「大」と小谷寅吉の「寅」をとって屋号にしている。

自ら市場に赴いて大阪沿岸のハモやエソ等を仕入れ、作った蒲鉾はその日に売り切った。明治時代には当時珍しい「蒲鉾引換券」も発売し、2代目は業界初の全国組織として「全国蒲鉾組合連合会」(昭和15年12月設立。現「日本かまぼこ教会」)の設立に奔走した。

「丹青(タンセイ)堂 本店」 難波1丁目6

・江戸時代初期に羽二重等の白生地を扱う問屋「升屋」を開業し、明治7年(1874)に8代目が書画材料を商いとして、東区唐物町に「丹青堂」の看板を掲げた。・大正14年(1925)、戎橋に店を開き、昭和24年に5階建て店舗兼事務所ビルを建設して本社とした。平成22年に本社ビルを改築。

・屋号の「丹」と「青」は、古来より日本的な色彩の代名詞で、読み方が同じ”丹精”に通じることから「丹精を尽くす」 という意味を込めてつけられた。 看板は、富岡鉄斎の揮毫。

「ジャガーカバン店」 難波3丁目3

・教育者から貿易商に転じた初代のあとを受けて、2代目が昭和21年(1946)にかばん店を開店。3代目からはルイ・ヴィトンをはじめヨーロッパブランドのバッグや雑貨類を扱う。

「蓬莱本館」 難波3丁目6

・昭和20年(1945)創業、”豚まん”と”しゅうまい”でおなじみの中華料理店。戦後まもなく”豚まん”を作って広めたとされる。 1階で店頭販売を行い、2・3階には中華レストラン。

「551蓬莱 戎橋本店」 難波3丁目6

・屋号を決める当日、電話番号の上に“ここがいちばん”と書いてあったことから、“ここが一番を目指そう”という思いを込め、電話番号末尾の「551」を引用したとされる。

 ”551のある時〜、ない時〜♪” のCMで一躍有名になった。

「大阪ぼてぢゅう 本店」 難波3丁目7

・昭和28年創業で”ほんまもんのお好み焼”を銘打った老舗のお好み焼き店。「 "ぼてっ"とひっくり返して "ぢゅう" と焼く。」 ところからネーミングされた

アイスキャンディー「北極」 難波3丁目8

・昭和20年(1945)からアイスキャンディー一筋(当時、ミルク・あずき・パインの3種類で1本20円)。 かわいいペンギンのマークで知られ、冬期限定の回転焼も販売している。

「いちびり庵 本店」 難波1丁目7

・天正年間(~1591)に島之内で紙問屋を始めた「妹尾家」の流れを汲み、明治時代には戎橋筋で欧米文具店を開いた。現在は「(株)せのや」(昭和49年10月設立)として”大阪 

みやげ”の店が営む。 ”おもろいもんからこだわりもんまで” をキャッチフレーズに、人気

の大阪土産から、昔ながらの粟おこし等 ”浪華萬土産” を揃えており、「たこ焼キャンディ」「おみくじ綿棒」「大阪弁はりせん」といった”いちびり”な商品も人気を呼んでいる。道頓堀の中座くいだおれビル1階に、「くいだおれ太郎本舗」も構える。

「ナルミヤ戎橋画廊」 道頓堀1丁目9

・九郎右衛門町の町年寄であった木村彦右衛門が明治時代に「成見屋薬局」を開店した

が、昭和23年(1948)に画廊に転身した。

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Page 12: Ⅲ「道頓堀地区」について - KCNnozaki/kaiinnrepoto/oosakaminamimukasito...れており、長さ28.8m、幅28mの鉄桁橋で、橋詰めに旧橋の親柱が残されている。。・江戸時代には、橋詰に京や琴平詣りの船着き場があり、水陸交通の要所だったことか

2・3階に4室の展示場があり、各種展覧会に利用されている。

「東宝南街ビル 」・「南街会館」の跡地(「高島屋」向い)に、平成18年竣工した12階建ての複合商業ビル。B1階~7階までが「なんばマルイ」、 8~11階には9スクリーン1960席をもつシネコンの「TOHOシネマズなんば」が入っている。 東京の大型店「丸井」の大阪での出店は初で、関西では「神戸マルイ」に次いで2店舗目となる。

*その他、かっての老舗・名物店など 「丸万ビル」 (道頓堀筋・東南角)

・蒲鉾店「丸万中店」であったが、昭和4年(1929)に5階建ての近代的ビルが建てられ、食料品店になっていた。当時はモダン道頓堀の象徴として小出楢重の挿絵に描かれた。のちに、「三笠屋百貨店」から「太平マート」に変わり、現在は「ツタヤビル」になっている。 かって、音楽喫茶として有名な「ナンバ一番」がこのビルにあった。

魚すき 「丸万本家」・元治元年(1864)、能登出身の飯井藤吉による創業で、来阪した際、東大阪市の瓢箪山

稲荷神社で受けた辻占いに「西の賑やかな場所で商売せよ」とのお告げがあったことから、この地を定め、その時にお盆に饅頭を載せた人が通ったことから「丸万」の店名を決めたとされる。 場所柄から十日戎の帰りには ”丸万の魚すき”(魚のすき焼き)で一杯やるのが、大阪の風物詩とされた。

戦後、店は鰻谷に移設され、一時、その伝統が途切れそうになったが、瓦町での店を経て現在は帝塚山中5丁目でその伝統を受け継いでいる。

「丸万寿し」・明治27年(1894)創業で、「松前寿司」と「たぬきすし」を看板にしていた。 「松前寿司」は

鯖の姿寿司に昆布を載せ竹の皮で包んだもので、明治45年に商標登録された。 「たぬきすし」はビッグサイズの”いなり寿司”でキツネに対し洒落たもの。 (平成20年すぎに閉店)

和菓子「橘屋寿永(トシナガ)」  ・白あん羽二重饅頭の銘菓「焼巾頭(ヤキイントン)」は、饅頭の上が凹んだ形状から「へそ饅頭」と称され、落語の”まんじゅうこわい”にも登場する。 現在は東心斎橋2丁目1に移転。

「日本昼夜銀行」・相生町交差点の南東詰めに大正5年(1916)、浅野総一郎が創設した銀行。文字とおり、

朝8時から夜8時まで営業していた。その後、富士銀行からみずほ銀行の支店となった。

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