Buddhism All-Japan Network
抜苦与楽 仏教の生きる意味を現代へ
通信コース[中級]29
この通信コースは、初級を修了した人を対象に、より本格的に仏教の理解を深める
コースです。半年で、仏教の言葉の理解が有機的につながり、本当の生きる目的
達成に向かって大きく進むことでしょう。
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通信コース29
抜苦与楽 仏教の目的を漢字4字で言うと、「抜苦与楽」です。
苦しみを抜いて楽しみを与えるということですが、これは、政治や経済、
科学、医学、法律、倫理、道徳、芸術、スポーツ、人間のやる一切の営み
の目的とまったく違います。
さらに、仏教以外のすべての宗教の目的とも違います。
仏教の抜苦与楽とはどんなことなのか、なぜ他の抜苦与楽と違うのか、今
回は、抜苦与楽について詳しくお話しいたします。
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仏教とは? 「仏教」とは、「仏の教え」ということですが、
仏様の御心を教えられた教えということです
仏様の御心とは、どんな御心なのかといいますと、
観無量寿経にこうあります。
「仏心」とは仏様の御心ということですが、
仏様の御心は、大慈悲心なのだということです。
ですから仏教とは、慈悲の教えであり、
慈悲の心一つを教えられた教えだということです。
では「慈悲」とは、どのような心なのでしょうか。
「慈」とは、抜苦の心。
「悲」とは、与楽の心をいいます。
「慈悲」とは、抜苦与楽の心なのです。
「抜苦」とは、苦しみを抜いてやりたいという心です。
仏心とは大慈悲これなり。(観無量寿経 P.146)
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子供が苦しんでいると、
親は何とかその苦しみを抜いてやりたいと思います。
夜中に子供が病気で苦しんでいると、自分が眠いのも忘れて
夜でも病院へ連れて行きます。
このような、何とか苦しみを抜いてやりたいと思う心が
抜苦の心です。
また、外で何か美味しい物が出ると、
自分が食べたいのを我慢して
包んで持って帰って、子供に食べさせます。
子供が喜んでいるのを見るのが、自分の幸せ
何とか楽しみを与えてやりたいと思います。
子供をはじめてディズニーランドへ連れて行った時の
思い出は、親にとって一生忘れられないといわれます。
それだけ、子供の幸せが自分の幸せということです。
このような、何とか楽しみを与えてやりたいというのが与楽の心、
悲の心です。
このことを教行信証にはこのように説かれています。
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これは曇鸞大師のお言葉を親鸞聖人が、引用されたものです。
「苦を抜くを「慈」と曰う」とは、
苦しみを抜いてやりたいというのを慈の心というのだ、
慈というのは抜苦の心なのだということです。
「楽を与うるを「悲」と曰う」とは、
楽しみを与えてやりたいというのが悲の心なのだ
悲というのは楽しみを与えてやりたいという心なのだということです。
「慈によるが故に一切衆生の苦を抜く」
慈の抜苦の心によって、すべての人の苦しみを抜いてやりたいと
仏様は思っておられます。
また
「悲によるが故に衆生を安ずること無き心を遠離せり」
苦く
を抜ぬ
くを「慈じ
」と曰い
う、楽ら く
を与あた
うるを「悲ひ
」と曰い
う。
慈じ
によるが故ゆえ
に一切衆生いっさいしゅじょう
の苦く
を抜ぬ
く、
悲ひ
によるが故ゆえ
に衆生しゅじょう
を安やすん
ずること無な
き心こころ
を遠離お ん り
せり。
(教行信証証巻 P405)
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とは、
「衆生を安ずること無き心」とは、
他人が苦しんでいようが、安らいでいようが関係ないということです。
苦しもうが苦しむまいが勝手にしろと
人を安んずる心がないのが私たちの心なのです。
人を安らかにしようなんて思っていない、
そんな無慈悲な心を遠離せり。
「遠離」とは、そんな心から遠く離れている
ということです。
何とかすべての人に幸せになってもらいたい
というのが仏様の御心なのだということです。
ですから慈悲の心とは、抜苦与楽の心、
仏様の御心というのは、抜苦与楽の心なのです。
他人の苦しみは私の……?
これを
衆生苦悩我苦悩
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衆生安楽我安楽
ともいわれます。
「衆生苦悩我苦悩」とは、
すべての人の苦しみは、私の苦しみだ
あなたの苦しみは私の苦しみ
何とかあなたの苦しみを抜いてやりたい
あなたが苦しんだり悩んだりしているのをとても見ておれない、
じっとしておれない、何とか苦しみを抜いてやりたい、
という心です。
「衆生安楽我安楽」とは
あなたの幸せが私の幸せ
何とかあなたに幸せになってもらいたいという心です。
これに対して私たちは、
なかなか衆生苦悩我苦悩とは思えません。
他人が苦しんでいるのは、私の苦しみと共感して、
一緒に苦しんであげられたらいいのですが、
本心では、他人が苦しんでいるのを見ると、
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口では「お気の毒に」といいながら、
心の中では、何かほんわかとにんまりする心はないでしょうか。
新聞や雑誌は、何かいいことがあった記事よりも、
悲惨なことがあった記事の方が、みんな読むということで、
新聞や雑誌には悲惨な記事が多く載っています。
誰かが結婚したということより
誰かが離婚した、破局を迎えたという記事の方が、
雑誌は売れると言われているのです。
他の人の苦しみは、私の楽しみだと思うのは、
愚痴の心です。
仏様はそれとまったく反対なのです。
衆生苦悩我苦悩
あなたの苦しみは私の苦しみだと
とてもほうってみておれない
何とか苦しみを抜いてやりたいというのが仏様の御心です。
また私たちは、他人の幸せを自分の幸せとして喜べるでしょうか。
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他の人がお金が儲かったといって喜んでいたら、
自分のことのように喜べるか。
他人が、仕事で大成功をおさめたりすると、
「何と要領のいいやつだ」
他の人が試験に合格すると、
「何と運のいい奴だ、自分も努力したのに」
と思います。
とても人の幸せを自分のことのようには思えないのです。
喜べないどころか、ねたんだり恨んだりしてしまいます。
それが私たちの愚痴の心なのです。
ところが仏様は、衆生安楽我安楽
人々の幸せは私の幸せだ
あなたが幸せになるのが私の幸せ
何とかあなたを幸せにしてやりたいと思っておられるのが
仏様です。
衆生苦悩我苦悩
衆生安楽我安楽
何とか苦しみを抜いて幸せを与えてやりたいと思っておられるのです。
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ですから仏教の目的は、抜苦与楽、
仏教の目的を漢字四字で言えと言われれば
抜苦与楽、これで100点満点なのです。
抜苦与楽とは?
では、「抜苦与楽」とはどんなことでしょうか。
実は、仏教でいわれる抜苦与楽と、
仏教以外の全宗教でいわれる抜苦与楽は全く違うのです。
それどころか、
仏教でいわれる抜苦与楽と、私たちが行っている抜苦与楽も
まったく違います。
私たちが抜いてほしい苦しみはどんな苦しみかというと、
例えばお金がないということですね。
これは、ほとんどの人が、経験しているのではないでしょうか。
「お金があり余って困っているんです」
お金があることが苦しみという人はなかなか出会うことができません。
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みんな欲しいものがあるけれど、お金がないから買えない。
もっとお金があればいいのに。
自分はお金がないから苦しんでいるんだ。
お金があれば、もっと善い生活がしたい。
もっとおいしいものを食べて
もっといい服を着て
もっとリッチな生活が送りたい。だけどお金がないから我慢する。
自分が苦しんでいるのはお金がないからだ。
欲しい物が手に入らないのは自分にお金がないいからだ。
何とかこれを解決したいと思います。
また、自分は病気で苦しんでいる。
しかも人には言えない病気で苦しんでいるという人があります。
これは人には言えないけれど、非常に困っている。
だけど一人で苦しんでいる。
この病気さえ治れば幸せになれるのにと思います。
若いうちは健康だとはいえ、それでも色々あります。
例えば、虫歯になってしまって、
しばらくすると歯が痛んで苦しいとか、
虫歯というのも、痛くなると、じっとしておれないくらい
痛くなりますので、歯医者に行くしかなくなります。
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何とかはやくこの苦しみをとって欲しいと思います。
また、目が悪くなってしまった。
メガネとか、コンタクトレンズをしなければならない。
何とかもっと目がよく見えればいいのにと思ったりします。
また、自分は体が弱いからすぐに病気になってしまう。
年に一度は病気になるんだ
体が弱くて苦しんでいるとか、
自分は花粉症で苦しんでいる。
春になると、目が痛くて、くしゃみがでて、
とても普通に生活できないんだ。
それで苦しんでいる。
これが年をとっていくと、内臓が悪くなったとか、
色々悪いところが出てきます。
成人病などで、
食べたいものが食べられず、
食事の制限で苦しんだりします。
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こういう病気を治して欲しい、
この苦しみをとって欲しいと思います。
また、人間関係で苦しみます。
嫌いな人と、今日も会わなければならない。
ウマが合わない人と、今日も一緒に仕事をしなければならない。
気まずい雰囲気が流れます。
そんなことは嫌だ、何とか人間関係を維持しようと思うのですが
大変なストレスを感じます。
何とかこの人間関係の苦しみを抜いて欲しいと思います。
また、大切な人であっても、
ちょっとしたことで不安になります。
話しかけたら聞こえなかったのか、
無視された。
「一体あの人は、どうしたんだろう、嫌いになったんだろうか」
と思います。
毎日の人間関係の中からちょっとした変化で、
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あの人はどう思っているんだろうとか
ちょっとした誤解から人間関係が崩れたりします。
そういう、人間関係の苦しみを何とか抜いて欲しいということで、
色々なストレスを感じて、私たちは努力しています。
大体この、
お金がないとか、
病気であるとか
人間関係が苦しい、
こういった苦しみを私たちは抜いて欲しいと思っているんですよね。
これを抜いた時にえられる幸せは、どんな幸せでしょうか?
これが相対の幸福です。
お金が手に入るというのは、
今までに比べて収入があがったことを喜びます。
比べて喜ぶ幸せ、相対の幸福です。
また、他の人に比べていい車に乗っている、
いい服を着ている。
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このように、比べて喜ぶ相対の幸福です。
このように、仏教以外の全宗教で与えると行っているのも
相対の幸福です。
例えば「商売繁盛」というのはお金が儲かりますよといっているのですが、
これも相対の幸福です。
「病気平癒」とか「無病息災」などは、
健康になりますよ、ということで、やはり相対の幸福です。
また、人間関係でも、「恋愛成就」とか、
そういうものは人間関係がよくなるということです。
そういうふうに、色々な宗教が現世利益を与えてくれるというのは
相対の幸福なのです。
また、私たちが欲しいと望んでいるのも
そういった幸せです。
私たちの求める幸せの欠点
ところが、この幸せには、欠点がありました。
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それは続かないということなのです。
ですから、その苦しみが抜けて、幸せがやってきたとしても、
それは一時的で、しばらくの間、苦しみを和らげているということです。
お金が手に入っても、使えばなくなってしまいますし、
また、不況がくれば、収入が下がってしまうかもしれません。
病気が治っても、二度と病気にならなくなったわけではありません。
また病気になってしまう時があります。
人間関係がよくなったといっても、
それは一時的で、努力を続けなければ、いつ悪くなるか分かりません。
これらの苦しみというのは、
抜けたとしても、一時的なことなのです。
しばらくの間、喜びがやってきますが、それは続きません。
ですから、これは、まるで、痛み止めの注射のようなものなのです。
一時的に、傷みは止まるんですが、
根本的な解決ができたわけではありませんので
病気が治ったわけではりあませんので
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その注射が切れるとまた病気が戻ってきます。
「宗教は阿片だ」
といった人がいますが、
阿片というのは、麻薬ですので、痛み止めに使う物ですから
病気を治したわけではないんだけど、一時的に痛み止めをしている
ということです。
このように、私たちが求めている幸せ
また仏教以外の宗教が与えるといっている幸せは、
一時的な、痛み止めの注射のようなものなのです。
では仏教では? ところが、仏様というのは、そんなことは
全然願っておられません。
それは一体なぜかというと、
人生は、苦しみの花咲く木のようなものなのです。
この一つの花を何か一つの苦しみだとしますと
私たちは何とか苦しみを抜きたいと努力して頑張ります。
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そうやって苦しみが、なくなったと、この花がとれたとしますと、
今までその花に行っていた養分が別のところへいって
違う花が咲くのです。
そうやって私たちは、今度、その苦しみの花をとろうとして
努力します。
そうやって大変な労力や時間をかけて
やっとその苦しみがなくなったと思うと、
その枝に行っていた養分がまた違う枝へいって
また別の花を咲かせます。
このように人生は、苦しみの花をとってもとっても、
また新しい苦しみの花が咲きます。
苦しみが次から次とやってきます。
苦しみの花咲く木のようなものだと言われます。
ところが、この苦しみの花咲く木に養分をやっている
根っこのようなものがあるのです。
この根っこをばっさり切って、苦しみの根本原因を抜こうというのが
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仏様の目的なのです。
これを大無量寿経には、
生死勤苦の本を抜くと説かれています。
「諸」とは、色々の。
「生死勤苦」とは、苦しみ。
「本」とは根元ということですから、
色々の人の、色々の苦しみの根本原因となっているものを
抜いてなくしてやりたい、
仏様は、苦しみ悩みの根本原因を抜くと言われているのです。
苦悩の根元とは?
では、苦悩の根元とは何かといいますと、
「無明の闇」という心です。
「無明の闇」とは、どんな心かというと、
「無明」とは、明かりがないと書きますように、くらい心なのです。
「闇」というのも、音が門の中に入っていますので、
諸もろもろ
の生死しょ う じ
勤苦ご ん く
の本もと
を抜ぬ
かしめたまえ。(大無量寿経 P.22)
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これはまっ暗なので、門に近づいて音を聞かないと中が分からない
ということで、くらいということです。
ですから「無明の闇」とは、
無明もくらい、闇もくらい
くらい心ということです。
では「くらい」とはどういう意味かといいますと、
これは電気を消して暗くなったような暗さではありません。
ハッキリしない、分からないということです。
例えば私はこの町ははじめてなので
地理にくらいですと言えば
この町の地理がハッキリ分からないということです。
また、私はパソコンにくらいですと言ったら、
私はパソコンのことがハッキリ分からない。
トラブルが起きたら、どうしていいか分からないということです。
このように、「くらい」とは、ハッキリしない、分からないということです。
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では一体何にくらいのか
何がハッキリしないのかといいますと、
後生ハッキリしない。
死んだらどうなるか分からない心が
無明の闇なのです。
また、人生の目的が分からない心といっても、
同じです。
今回は、この人生の目的が分からない心というのは、
どんな心なのかということについてお話しいたします。
人生の目的が分からない心 人生の目的が分からないといいますが、
人生の目的とは、
私たちは何の為に生まれてきたのか
何のために生きているのか
なぜ苦しくても生きねばならないのか
これが、人生の目的なのです。
私たちは、生きるために生きているのではありません。
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生きるというのは、手段です。
歩くのは、歩くために歩いているのではありません。
どこそこへ行こうという目的地があって歩いているのです。
走るのも、走るために走っているのではありません。
どこかへ早く行くために走っているのです。
飛行機が飛ぶのも、飛ぶために飛んでいるのではありません。
どこか目的地があって飛んでいるのです。
このように、歩いたり、走ったり、飛んだりするのは、
手段であって目的ではありません。
もし、歩くことが目的だったら、どうなるでしょうか。
歩くために歩いていると、その結果は、
歩き倒れあるのみです。
走ることが目的だったらどうでしょうか。
走り倒れあるのみです。
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飛ぶために飛んでいる飛行機はどうなるでしょうか。
墜落の悲劇あるのみなのです。
ですから、歩くことや、走ること、飛ぶことは、
目的ではなくて、手段です。
同じように、生きるために生きていたらどうなるでしょうか。
生きるために生きている人は、死ぬために生きているようなものです。
苦しんで、やがて死ぬだけになってしまいます。
ですから、生きるということは、
手段であって、目的ではないのです。
私たちが毎日努力している、
政治も、経済も、科学も、医学も、
法律も、倫理道徳も、芸術も、スポーツも、
その他、人間のやっているあらゆる営みは、生きるためのものです。
どうしたら、苦しみを減らして、快適に生きられるかという
いかに生きるかというものなのです。
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一番分かりやすいのは医学です。
医学というのは、一分一秒でも命を延ばすにはどうすればいいか
というものです。
やはり生きるためにあるのです。
ですから、たとえば医学が、命を延ばしたとします。
今まで、ずっと苦しい人生だった。
だけど医学が一日命を延ばしたとなったら
苦しい人生を延ばしただけとなってしまいます。
もし延びた命で何をするのか分からなければ、
もっと苦しめということになってしまいます。
それでは医学の立つ瀬があるでしょうか。
延ばした命で何をするのかという目的があってこそ、
医学が生きるのです。
目的なしで生きていても、苦しみがのびただけで
終わってしまいます。
ですから手段は、目的があってこそ生きるのです。
そもそも手段とは、目的を果たすためのものを手段というのですから、
目的がなければ手段はありません。
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目的あっての手段なのです。
ですから目的がなければ手段は意味がなくなってしまうのです。
ですから政治も経済も科学も医学も、
生きる目的がなかったら、
存在意義が分からなくなってしまいます。
生きる目的があってこれらもいきるのです。
この生きる目的が分からないから、
これだけ経済が豊かになっても、
科学が進歩しても、
心からの満足ができないのです。
これだけ豊かになっても、苦しみ悩みがなくならないのは、
生きる目的が分からないからなのです。
たとえるなら、
私たちが生まれた時が飛行機が飛び立った時だとすれば、
地球には何十堕人もの人がいますので
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地球には何十億機の飛行機が飛んでいるようなものです。
ところが私たちはいつまでも飛び続けることはできません。
やがて必ず燃料が切れて、おりねばならない時がやってきます。
ですから世界では一秒間に何十人何百人の人が
死んでいるか分かりませんが、
一秒間に何十機、何百機という飛行機が墜落しています。
政治や経済、科学や医学、芸術スポーツというのは
飛行機の中でやっていることなのです。
目的地の分からない飛行機の中でなされているから
どんなに政治が変わっても、
どんなに科学が発展しても、
燃料が切れれば、飛行機ごと、おちていかねばなりません。
だからこれだけ科学が発展しても、
心からの喜びがえられないのです。
もし目的地のない飛行機にのっていたら、
どんなにおいしい機内食が食べられても、
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機内映画が観られても、楽しめるでしょうか。
機長からアナウンスがあって、
「皆さん、この飛行機は目的地がありません。
ですが燃料はあります。
あと5時間ほどは飛べますので、
みなさんごゆるりと空の旅をお楽しみください。」
そんな飛行機で、楽しめるでしょうか。
とても、楽しむどころではありません。
何とか、目的地を探して欲しい、
目的地はどこだと、暴動が起きるかもしれません。
そんな目的地のない飛行機の中で、
どんなに政治や経済、科学や医学に努力しても、
とても満足どころではないのです。
その目的地が分からないから、どれだけお金が手に入っても、
地位や名誉が手に入っても喜べないのです。
この人生の目的が分からないのが、
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苦しみ悩みの根本原因なのだと
仏教では明らかにされています。
ですから、仏様が、願っておられる抜苦与楽は、
お金がないとか、体が病気だとか、
人間関係の苦しみを抜こうといわているのではありません。
「それらの苦悩の根本原因を抜いて、本当の幸せを与えよう」
と言われているのが仏様の抜苦与楽です。
ですから仏教の目的は抜苦与楽、
苦悩の根源を抜き、本当の幸福を与えるというのが
仏教の目的です。
ですからどんな人でも仏教を聞けば、
苦しみの根元が抜けて、本当の幸福になれます。
その身になるところまで、仏教をお聞き下さい。
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まとめ
「仏教」とは、「仏の教え」、仏様の御心を教えられた教えです。
「仏様の御心」とは、慈悲の心です。
ですから仏教は、慈悲の教えなのです。
「慈悲」とは
「慈」とは、抜苦の心、「悲」とは与楽の心ですから、
「抜苦与楽」の心です。
ですから仏教の目的は、漢字四字でいえば「抜苦与楽」です。
ところが私たちが抜いて欲しい苦しみは、
お金がないとか病気だとか人間関係の苦しみです。
ところがこれらの苦しみは、抜けても一時的で
またすぐ次の苦しみがやってきます。
ですから仏様は、これらの苦しみを抜こうとしておられるのではありません。
苦しみの根元を抜き本当の幸福を与えてやろうと思っておられます。
ですから、仏教の目的である「抜苦与楽」とは、苦悩の根源を抜き、
本当の幸福を与えてやろうということなのです。
そこまで仏教を聞いて頂きたいと思います。
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覚えましょう
諸もろもろ
の生死しょ う じ
勤苦ご ん く
の本もと
を抜ぬ
かしめたまえ。
苦く
を抜ぬ
くを「慈じ
」と曰い
う、楽ら く
を与あた
うるを「悲ひ
」と曰い
う。
慈じ
によるが故ゆえ
に一切衆生いっさいしゅじょう
の苦く
を抜ぬ
く、
悲ひ
によるが故ゆえ
に衆生しゅじょう
を安やすん
ずること無な
き心こころ
を遠離お ん り
せり。
仏心とは大慈悲これなり。(観無量寿経)