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東大土木メールニュース 23 号 Mar. 3rd, 2017

目次

1.「先輩の声」シタラムさん(ADB アジア開発銀行、1990博)

2.「私の同期会」明治 43 年 平井喜久松さんご子息、喜郎さまより

3.「私の同期会」昭和 54 年 高野佳博さん「先輩の声」

東大土木メールニュースは、同窓会のウェブ名簿にご登録いただきました会員さまに、東大土木の今をお

知らせする情報をお届けするものです。月 1 回程度配信する予定です。また、会員さまからのご投稿や

「こんな情報を知りたい」というリクエストも歓迎いたします。 ご意見、ご要望は、[email protected] までお寄せください。

(東大土木メールニュース 編集部一同)

表紙の写真:1989年 2 月、中村英夫先生ご夫妻とミヒャエル ウェーゲナー先生が、シタラム

さん宅を訪ねた時の写真。シタラムさん(右端)と奥さま(左端)、奥さまのお母さまと生ま

れたばかりのイシュワル君(中央)。

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1.「先輩の声」シタラムさん(ADBアジア開発銀行、1990博)

Prakhar (以下、P) お忙しいスケジュールの中でインタビューの機会をいただき、ありがとうございます。

簡単にご経歴を拝見しましたが、インド工科大学マドラス校の機械工学科を卒業後、タイのアジア工科大

学において産業工学とマネジメントで修士号を取得され、その後、東京大学大学院工学系研究科の土木

工学専攻で博士号を取得されていますね。当時はまだ多様な分野、しかも複数の国で学業を修めること

が珍しい時代だったと思いますが、なぜこのような学位取得への道を歩んできたのですか?

Dr Seetharam (以下、S) 私はチェンナイ(インドの旧マドラス)近郊の小さい町の出身です。IIT-JEE と

いう国が実施する学力試験(日本のセンター試験のようなもの)で高得点を取り、コンピューターサイエン

スなどを学べるカンプール校にも行けたのですが、両親が近くの大学にしてほしいと強く希望しましたの

で、一番近いマドラス校で機械工学を学ぶことにしました。(インド工科大学はインド各地にあり、学生は試

Dr. K. Easwaran Seetharam

●シタラムさん(中央右)1990 年博士課程修了(指導教官:中村英夫先生)アジア開発銀行、2009

年より東京大学工学部フェロー。 ●インタビュアー:プラカール ミスラ(中央左、竹内研D2、インド出身)キットラットポン ナ

ンティコーン(左端、竹内研M2、タイ出身)

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験の結果と希望する学科で各校に振り分けられる。) しかし勉強を始めてみて、自分はものを組み立てた

り、製作する技術よりも、何かを分析する方法を学びたいと思うようになりました。そこで卒業後は TELCO(現タタ自動車、インドを代表する複合企業)に就職しました。TELCO は当時、生産供給ラインの管理にコ

ンピューターシステムを導入したばかりで、IIT での私の専門や興味を知った先生方が IBM のパソコンを

使った分析の仕事は私にぴったりだと思ったのでしょう、タタ氏のオフィスに私を紹介してくれたのです。そ

して 1 年もしないうちに私はフランスから奨学金をもらい、今でいう MBA の資格を取るためにアジア工科

大学(AIT)で生産工学及び経営工学(Industrial Engineering and Management)を勉強するために留学

できることになったのです。 AIT では、学生連合のリーダーをし

ていたので、当時、学術担当副学長

だった西野文雄先生と直接話し合い

をすることもありました。 AIT にいた

2 年間で、彼のことをよく知るようにな

ったある日、西野先生が「普通、学生

運動のリーダーはあまり成績が芳しく

ないものだが・・・」と前置きしながら、

私の学業成績の良いことにふれ、日

本の東京大学で始める“Foreign Student Program in Civil Engineering”に参加しないかと誘って

くれたのです。

P 東京大学ではどのような研究をされていたのですか?

S 私の専門は機械工学と都市交通のコンピューターシュミレーションでした。また、宮本和明先生(現東

京都市大学教授)とともに、道路沿線の騒音が周辺住居の賃貸価格に及ぼす影響や、騒音の影響を少な

くするための方法に関する論文を書いていました。私の専門はコンクリートや構造物のような土木工学の

基礎的な分野とは離れていたため、参考になる本もありませんでした。そこで、私の指導教官である中村

英夫先生が、当時つくばに設立されたばかりの国立環境研究所(NIES)の図書室と研究室で勉強するよ

うにアドバイスしてくれました。 当時はまだ GIS が生まれる前のことでしたが、私はすでに関連した仕事の経験もありましたので、コン

ピュータを使ったモデルの改良を行うことにしました。当時、私は学科で初めての UNIX コンピューターに

コードを書き入れたのです。その頃、ESRI(ArcGIS の制作会社)はアジアでソフトウェアを販売していな

かったので、交通や土地利用に伴う環境問題などを地図上で表示するために、自分たちでプログラムを

書いたのです。 ※ESRIは米国企業で地理情報システムのソフトウェア、データ、出版提供を行っている。

P 学生として過ごした東京で何か心温まる思い出はありますか? S とてもエキサイティングな経験をしました。あなた方とは少し違うかもしれません。私は新婚で妻と一緒

に東大に来ており、妻も学生となって東京大学の医学部で医学博士号を取得しました。子どもたち二人は

日本で生まれています。私の他にも妻子と一緒に来た人がいました。ですからその頃の大学での集まりと

いえば、学生だけでなく家族全員が含まれていたのです。

西野先生とともに

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Nuntikorn (N) 家庭生活と研究の両立は手に余る大変さでしょう。両立させるというチャレンジ精神はど

こで培ったのでしょうか? S 秘密を教えてあげましょう。私の先生は私に「ただ勉強だけしろ」とは言いませんでした。先生はいつも

私をわが子のように扱ってくれ、とても楽しかったのです。本当に特別な毎日でした。週末には先生とフィ

ールド旅行に行き、まだ若かりし清水英範先生がよく一緒に来てくれました。我が家の手作り弁当を食べ

た清水先生はそれを”Hando-meido bento”と呼んでいました。私たちは研究室でくつろぎ、時々寝泊りも

しました。もっと貴重だったのは、中村先生が研究テーマとは離れた内容で、一緒に仕事をする機会を与

えてくれたことです。先生は非常に権威のある教授でありながら、学会に行くときにはいつでも、私たちと

同行してくれました。私は先生と一緒に日本の各地を旅行し、様々な場所で日本語での発表もしました。

P その日本語はどのようにして学ばれたのですか? S 私たちは先生の奥さま方から日本語を学びました。私たちのクラスは西野章代先生に教えていただき

ました。授業は昼休みに行われ、子どもも含め家族全員が大学に来て学びました。その当時は他に楽し

みがなく、よく日本のテレビ番組を見ていました。 ※当時、土木工学科(現社会基盤学科)では学科で日本語クラスを用意し、家族も含めた留学生への日

本語教育を行っていました。(赤池)

N それならばホームシックにはかかりませんでしたか? S インド人のベジタリアン用の食材を探すのには苦労しました。扱っている食料品店はなかったので、日

本の材料を使ってインド風に味付けしたものを自分たちで作らなければなりませんでした。私たちはインド

哲学とサンスクリット語を専門にされていた故中村元先生(東京大学名誉教授、インド哲学者、仏教学者)

とともにインド文化愛好会を立ち上げ、ともにインドの祝祭を祝いました。私は何度か精進料理にも挑戦し

ましたがインドのベジタリアン料理よりもおいしく感じられました。ホームシックにかかりそうなときには、長

い手紙を書きました。当時は国際電話が 4 分で 3000 円と、とても高額でした。それに、KDD の電話ボッ

クスに行かなければなりませんでした。 今はスカイプやフェイスタイムがありますが、自分の子どもたちには、これらが視覚的には申し分ない交

流であっても、本当に出会うことで得られる価値は失われるのだということを言っています。当時の先生ご

家族は、日本での守ってくれる家族のような存在であり、子どもたちの面倒もよくみてくれました。

P 学位を取得した後、日本にとどまるのかインドに帰るのか、どのように決めたのでしょう。 S 当時は外国人が日本で働ける機会はあまりありませんでした。日本の会社への就職先を世話してくれ

た教授に、もしも JICA で働けば、間接的にであるが自分の国のために働くことができるといわれました。

IIT 卒業生はアメリカに行くのが普通で、私のようにタイから日本へ留学するものはほとんどいないでしょ

う。ですが、日本で働いてみて私は重要なことを学びました。アメリカで勉強した学生は、おそらく生涯アメ

リカに住み続けようとし、そのような人はやがて祖国とのつながりを失っていきます。ですが、私は全く違う

経験をしました。私は祖国インドへのとても強いつながりを保ちつつ、尚、自分が学んだ場所としてタイや

日本に強い愛着を持つようになったのです。

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私は日本のパスポートを持っていませんが、日本を第二の故郷と思っています。東京大学で受けた教

育は私に「祖国をわが母のように愛せよ」という使命を与えてくれました。地球規模で世界がとらえられる

時代、あらゆる国の最高学府の卒業生たちが世界のトップ企業や組織で働いています。私は彼らにいつ

もこう問います、「もしも私たちが敬愛する自分の祖国を助けることができなければ、誰がそれをやるだろ

う?」と。日本人のエリートの多くは日本の国を良くするために働いています。しかし、私はアジア出身の多

くの才能あるエンジニアが(海外の)IT 企業や金融会社で働いているのを見てきました。私から見ればそ

のことは、特に社会の問題を解決するために、私たちの才能の最良な使い方ではないと思っています。

P あなたはとても前向きで楽観的な方ですね。その秘訣はなんでしょうか? S 基本的には二つの言葉を実践しているからでしょう。“学ぶことと手本になること”です。いつも学ぶ意

思を持つこと、そして誰かの手本になろうとすることです。私は幾人ものお手本になる教授たちから多くの

ことを学ぶ幸運に恵まれました。ですから私は私の後輩や周囲にいる人たちの手本になれるようベストを

尽くします。学ぶことと手本になることはコインの裏表のようなものです。私はこのことを敬愛するタイ人の

大切な親友、Dr. Art-ong Jumsai から学びました。彼は NASA で火星に初めて着陸したバイキング3の

着陸ギアを設計した傑出した科学者ですが、故郷タイに戻ることを決意し、子どもたちの才能や人間的価

値を育てることに奉献する完全に独立採算の学校を立ち上げたのです。私と妻も彼のアドバイスに従い、

2000 年にフィリピンに小学校を設立しました。 あなたたちは、まだ若いのだからこれからもっとたくさんのことを成し遂げてくれるでしょう。

留学生仲間

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2.「私の同期会」明治 43 年 平井喜久松さんご子息、喜郎さまより

明治 43 年に東大土木をご卒業の平井喜久松さんのご子息平井喜郎さまより、このたびお父上の平井

喜久松さんの自伝を出版したのだが情報提供等でお世話になったので東大土木工学科にご本を寄贈し

たいと、昨年 12 月にお問い合わせがございました。本郷までお越しいただいた際に、明治 43 年卒の

ご同期で卒業 45 周年を記念して旅行した記録があるからと旅行記録原本と写真数枚をいただきまし

た。平井喜久松さんは卒業後、鉄道省に入り満鉄の副総裁なども務められました。喜久松さんのお父

様は平井晴二郎さんとおっしゃり、古市公威らと共に、文部科学省第一回外国留学生としてアメリカ

合衆国のレンセラー工科大学で土木工学の学位を取得後、北海道開拓使の鉄道技師となった方です。 昭和 31 年 4 月 5 日、丸の内から 2 台の車に分乗し、玉川上水を見学しながら小河内ダムを巡る一泊

旅行の記録のうち、中村廉次さんのものをご紹介します。

四三会 満四十五年記念奥多摩紀行(人名敬称略) 中村廉次

正確には満 45 年 9 か月、昨年 12 月菊地邸における会合の話が、山田、平井の肝いりで実を結んだ

ものである。芦田の高血圧、秋田の神経痛、また、あんなに待望していた三原と賑やかな鎌形が他用

の為欠席したのは残念であつた。もっとも急な催しで止むを得なかったのだろう。 4 月 5 日、連日の雨も晴れて当日は無風快晴温暖絶好の行楽日和、同勢六人古稀を過ぎた老人ばか

り。山田の自動車に山田、本間、平井の自動車には平井、菊地、保原 さすがに保原だけは新調のス

プリングコートを着て春らしいマフラーでリュウとして居るが、他は全部時代もののスプリングまた

は外套そのままの出で立ち。皆意気中々旺盛予定の通り 11 時丸ビル出発、小金井の桜はまだ咲いてい

ないが中には 2.3 本魁を誇って満開の姿を見せているものもある。

禿げ白髪着ぶくれのまゝ花見哉

明治 43 年 平井喜久松さん

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立川では砂川基地反対のビラを横目に見て一路青梅街道驀進(ばくしん)十二時半都水道羽村取入

口着、昼食。山田が紅茶まで用意しての上弁、食後菊地は水量調節弁操作の詮索、本間と保原は小便

のやり場にウロウロ。

年寄りの集まる席の問題は 孫の人数と尿の回数 青梅を過ぎる頃からの渓谷は実にすばらしい。採にはまだ早いが辛夷、老梅の花盛り山色水流悉く

春、途中寒山寺に詣づ。当地方から蘇州へ行った人が寒山寺から小仏体を得、帰来ここに寒山寺に模

し一堂を建立、日本寒山寺と名付けたりとのこと。あの有名な月落鳥啼の碑も建ててある。

寒山寺去歳の落葉に草萌ゆる 御岳橋附近鳩の巣附近の岩容水態殊に佳絶、鳩の巣にバンガロー点在一つの興趣を添う。

鳩の巣に人の巣もありバンガロー

小河内ダム現場についたのは二時半頃、ダムは高一五〇米のコンクリート大堰堤、あらゆる建設機

械を集めての大工事、七分位までの出来、材料運搬の為自動車道及び鉄道も通じている。この総延長

六キロ余、内半分が谷を渡る橋梁及び隧道、工事完成後は奥多摩人造湖の観光道路となり甲州へ抜け

る計画とのこと。 帰途氷川町で山田の奥多摩工業現場事務所で少憩後、現場設備見学。ここは山田が大英断をもって

今までの架空索道運搬を廃し、数億の巨費を投じ採石場直下まで隧道を掘索、ケーブル牽引のトロリ

ー運搬に改造して、爾来運搬の量は数倍し、費用は五分の一に低下したとの事。採石場直下から氷川

駅構内作業場全部がオートメイション式である。鋼索へトロリー挟子の離着、トロリーの転倒石材の

放出、各粒の仕分け各種別のベルト運搬等全部自動で広い作業場に二、三の監視員が居るだけ、見て

居ても愉快な操作である。これを立案完成した山田もさぞや得意でまた楽しいことであろう。 五時御岳橋畔河鹿園着、園の入口に玉堂の「駅出るや河鹿きこゆる橋見ゆる」との篆刻がかけてあ

る。本間「河鹿がなくかなー」と云う奇問を発す。「魚はなかぬよ」と云う中村の珍答。北陸でカジカ

(鰍)と云うのはハゼに似た河魚で腹部に吸盤を備え清冽な急流に住むもの。関東ではダボと云う所

が多い。

河鹿啼く耳を疑う越の客 渓流へ出張った最も景勝の地を占めた離れ座敷占領、一浴後山と川のあらゆる珍味を集めての豪華

な宴会、飲むほどに食うほどに昔話に花が咲き測量の実習でモテた話、モテなかった話など興尽きる

ところなし、出発が一時間も遅れおみやげまで頂戴して出たのが八時過ぎ。東京帰着は十時ちょっと

前! ここで次の大会を発案しておく、この元気では中々死なぬ。昭和三十四年が五十年に当たる会場は

北海道、時は七月頃。日航機で土曜日午前八時羽田発、十一時札幌着、見物定山渓泊まり、日曜日は

登別温泉着、月曜日解散。日航機に乗ればその日午后九時羽田着。奥地の見物もよいでしょう。現在

員一人も残らず参加を願う。 ※一部フリガナ、旧字体を現字に直しました。(赤池)

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3.「私の同期会」昭和 54 年 高野佳博さん

「私の同期会」では同期の方とどのような集まりをしているのかを紹介しています。今回は昭和54年

卒業生の幹事高野さんにメールにてお話を伺いました。 通称は「54会」。特に名称はこだわっていないのですが、懇親会会場のご担当の方に、予約の都合上、

会の名称を尋ねられた際には、便宜上、54会と答えています。 場所は固定していませんが、東京都内の居酒屋等で開催しています。 8月の第一金曜日に納涼会を、1月の最終金曜日に新年会を定期的に年2回、卒業直後より毎年開催

しています。本年の新年会は諸般の事情により1月20日(1月第3金曜日)開催となりました。幹事

は 同窓会評議員の利穂利彦さんと高野佳博さんがメールにて出欠を取り纏めています。人数は 20

~30名です。 そのほかの活動として、同級生が海外勤務より帰国した際に、適時、歓迎会を開催しています。また、

ほぼ、年に1回、ゴルフコンペを開催しています。将来は、年に2回のゴルフコンペを開催できればと

思っています。

昭和 54 年 高野佳博さん

東大土木メールニュース編集部

編 集 長:赤池あゆこ(H7) 副編集長:鳩山紀一郎(H13 修) 編 集 員:鈴木明子(H21)高橋佑弥(H20) 長谷川悠(H27)梅澤祥太(H27) 顧 問:伊藤學(S28) 英文校正:アレクサンダー・ギルモア先生


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