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震災 の認億 私た ちの想 ここr_― は、住民 ′人 ′人の 度災体験 と ア手 を /_―い を自由r_~書 いてぃたださ ま とた。 町外 避 難 され てい るオ や、 とな ク町 イの も の もあ クます。 70歳 代の 2人 姉妹 気がついた時は戸が開分 FJい真 つ暗な状態 。助 けてと大 き FJ声 を出し、近所 の人が、玄関の扉をぶち破 ノ、戸を壊してやつとのことで外に連れ出して <れ た。 どこへいつていいか分からず、小曽根モ ルに人が集まつていたの で、そこで寒さに震えていた。少しして、天理教の人に案内され、神殿に落ち 着 いた。す ぐに、敷 き布団、掛 け布 団、毛布 2枚 、枕を準備してくれたので、布 団に潜 ′込んで休んでいた。暖房がきいていたので寒くななつた。 朝、昼は食べられなかつたが、夜、焼いたお餅を 1つ づついただいた。涙が 出た.美 味しかつた。次の日の朝はお雑煮、昼と夜はバンを頂いた。 3日目からは、3度3度 、お味噌汁が付いた暖かいご飯で、おかずもい 3い 3 ′、不 自由し FJかつた.2週 tた たないうちに、マイクロバスで加古川の温 泉まで、連れて行つてもらつて、お風呂にゆつ′つかれ た。 'オ t石 t いただいた。よその人には申し訳ないくらい面倒を見ていただいた。 ひのきしん」といつのですが、皆さん手弁当でした。そのお弁当tど つぞ食 べて下さいといわれ、涙が出た.朝 昼晩、私たちの食事が終わつてから、教会 の皆さんの食事でした。 5月11日までお世話に FJし ノました。天理教には足を向けて寝られません。 私七天理教にお世話にな ′ま した。寒 さ知 らず、食事 七十分、お風呂七、2、 3日 1度 の温泉行き、天国でし た。 10日ほどたつたらテンプラやお刺身、食事の後の果 物まで出て、毎日涙と 緒に頂きました。隣の方の体の 具合が悪く FJつ たときは、野村病院に連絡して、すぐに 車で点滴に連れていつて、何時間,あ と、元気になつて から、また連れて帰つてきました。他人事で|さ な く、有 ノ難か つた。4月26日、仮設 にいきま した。命の思人で す。 38

桜木町意見書~市長への手紙~震災と住民不在の須磨多聞線 038 058 第1部 震災の記憶・私たちの想い

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震災の認億・私たちの想い

ここr_― は、住民 ′人 ′人の度災体験 と ア手 をへ /_― 想いを自由r_~書 いてぃたださ

まとた。町外へ避難 されているオや、 となク町のオイの ものもあ クます。

70歳代の 2人姉妹

気がついた時は戸が開分FJい真つ暗な状態。助けてと大きFJ声を出し、近所

の人が、玄関の扉をぶち破しノ、戸を壊してやつとのことで外に連れ出して<れ

た。

どこへいつていいか分からず、小曽根モータープールに人が集まつていたの

で、そこで寒さに震えていた。少しして、天理教の人に案内され、神殿に落ち

着いた。すぐに、敷き布団、掛け布団、毛布 2枚、枕を準備してくれたので、布

団に潜し′込んで休んでいた。暖房がきいていたので寒くななつた。

朝、昼は食べられなかつたが、夜、焼いたお餅を 1つづついただいた。涙が

出た.美味しかつた。次の日の朝はお雑煮、昼と夜はバンを頂いた。

3日 目からは、3度 3度、お味噌汁が付いた暖かいご飯で、おかずもい3い 3

あし′、不自由しFJかつた.2週間tたたないうちに、マイクロバスで加古川の温

泉まで、連れて行つてもらつて、お風呂にゆつ<ι′つかれた。

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いただいた。よその人には申し訳ないくらい面倒を見ていただいた。

「ひのきしん」といつのですが、皆さん手弁当でした。そのお弁当tどつぞ食

べて下さいといわれ、涙が出た.朝昼晩、私たちの食事が終わつてから、教会

の皆さんの食事でした。

5月 11日 までお世話にFJしノました。天理教には足を向けて寝られません。

私七天理教にお世話になし′ました。寒さ知らず、食事

七十分、お風呂七、2、 3日 に 1度の温泉行き、天国でし

た。10日 ほどたつたらテンプラやお刺身、食事の後の果

物まで出て、毎日涙と一緒に頂きました。隣の方の体の

具合が悪くFJつたときは、野村病院に連絡して、すぐに

車で点滴に連れていつて、何時間,あと、元気になつて

から、また連れて帰つてきました。他人事で|さなく、有

しノ難かつた。4月 26日 、仮設にいきました。命の思人で

す。

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須磨区横尾 Mさ ん 男性 40歳 代

阪神大震災によつて、多<の人々が色々な被害にあいました。家屋の崩

壊、火災、多くの死者、ライフラインの切断等、天災の恐3しごを見せつけ

られました。一方で被害をもつと少なくできたのではFJいかと言われていま

す.

予算を出せないからと想定震度を低<した防災計画、各種建造物、金儲け

優先の手抜き工事の住宅、関西には地震は来FJい と思つていた日々の生活

等、過去の教訓を生かせFJかつた我々の過ちとし、油断とも言え3と思いま

す。我々の時代にはもつ大地震は来FJいでしようが、台風、大雨、火災は今

年にも、明日にも来3かも分かし′ません。

家の中、身の回しノには今すぐにでも改善できることがあ3で しよう。老齢

化社会とな3中 で、将来を見据え、日先の損得やエゴにとらわれないで考え

3べきことが多々あると思います。

須磨寺町 中学校 2年生 丁君 男性

ゴーという地鳴しノと同時に、家がゆれ、お父ごんが「ふとんをかぶつて ノ」と

叫んだ。

おちついて起きあが3つとしたが、何かが倒れて、僕は「起き上がれない」と

叫んだ。

外に飛び出た。空はいつまでも灰色で、僕たち家族、町の人々は恐怖におび

力、そして近所のタバコ屋のおしいちやん、おばあちやんが僕たちの目の前でが

れきの下敷になつていた。誰七助けられない。救助隊七何七来ない。この時、僕

は人間の無力さを知つた。

近所に住む僕のおばあちやんは無事だつた。僕はとても安心した。でも、おば

あちやんの家はま3でおばけ屋敷のように砂にまみれてくずれていた。

後でお店t倒れたことな知つた。

お父さんは去年 1年間、お店の再建のためにがんばつた。僕たちが住む須磨寺

七、つぶれた店が多く、特に僕は文房具屋さんと本屋ごんがFJいことにとて七不

自由を感した。

人間は自然の力の前では無力だつたが、立ち向かつてい<力強さを、僕は自分

の体で感じた。

1日 七早く地震前の町の姿を取じノ戻してぼしいと思います。

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下さん 女性 50歳 代

わたしはいつものように 5時 40分ご3起床。神経はまだ眠つたまま、体だ

けが階下へ降しノていく。顔き洗おつとしていたその瞬間、突然家が動き始め

た。とつごに洗面所入しノロの戸枠につかまつてい3。 地震だ ノと思つた.が、

これまで経験したグラグラつとした揺れ方ではFJい。激し<ガタガタガタガタ……と揺れ、家中大きな音がす3。 不安と恐3しこのあましノ、大声でウワア、

ウワアと叫んでい3。廊下き隔てて洗面所とは反対側にあ3台所から食器類の

ガラガラと落ちて割れ3音だけが、いやに強く響いている.それがひきがねと

なつてあらゆ3tのの破壊これてい<音が身に押し寄せて<3ようであ3。 不

思議FJ事に、洗面所でい3んな物が落ちたしノ壊れたしノしているのに。その様子

はまつたく目にも耳にt止まつていない。

激しいゆごぶしノが長く続く。家が根こそごひつくしノ返しノそうである。本当に

地震FJのか?いつたい何なのか?得体の知れないものへの恐怖がますます大き

くなつてくる。数分間、いや数十分t続いているように感じ3。 永久に続くの

では?と こん思つ。

やがて動きが止まつた。私の五感がビタ lノ と止まつた。―瞬、頭の中が真つ

白にな3。 1995年 1月 17日 午前 5時 46分。わたしに、わたしの家族に、近隣

の人々に、そして広く淡路及び阪神地域の人々に大地震が襲つた。

家の中はどう手をつけていけばよいかゎからFJい ぐらい、家財道具が散乱し、電気七ガス七水道七全てストップ、電話での通信t容易ではFJいといつ大

変FJ状況の中に置かれたのであ3。

でも、わたしの家族はみんな無事である。ことに90歳近いおばあちゃんは

部屋中、山積みにな3ほど家具が倒れているのに、身の丈だけすき間ができていて傷 1つな<助かつたことと、あの地震の瞬間の恐怖すら覚えずにすんだこ

とは本人|き もとよιノ家族にとつて大変幸いなことであ3。 そして家七損壊せ

ず、しつかしノと建つてい3。 これぼどあιノがたいことが他にあ3だ 3つか。その上に少し離れた所にすむ肉親からの心づくしの水や食べ物の差し入れ、

町内にあ3天理教教会での 3度の炊き出し援助、車の根活動で提携してい3有

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Kさ ん 女性 60歳 代

震災から 1年。復興は日一日と進んでい3。 人々の生活七よつやく落ち着きを取しノ

戻してきたかに見為3が、これはあ<までも復興へのスタートラインに過ぎない。町

のなかの人々はちじノぢじノになしノ、あちこちの倒壊家屋tやつと撤去これて、一時は野

原同様になつて玄関先の道路からは須磨の沖が見えた。最近はそれぞれの思いで家の

修復t始ましノ、新しい家屋七遅々としてではあるが建ち始めた.道路のセツトパツク

t自主的に行われている。震災前の静かで穏やかな町に帰3であ3つ希望でつれしく

思つ今日このごБである。

にもかかわらず急浮上してきた須磨多聞線の街路計画。こんな小さな町を寸断しな

いでほしい。今までよそごとのように思つていたが、聞けばわが家のすぐ庭先に高架

の橋ゲタが出来3とか。びつくしノした。騒音、振動、排気ガス、大気汚染などを想像

しただけで七殺伐ごを感じ、考え31ぎどに誠に焦燥感き覚える。精神状態に非常によ

Бしくない。このこじんましノとまとまつた須磨き、桜木町を見渡せば、震災後t桜木

市民公園あたしノにはまだ常緑樹がたくさんあ3。 自分の土地、住みFJれた場所は自分

たちで守らなくてはと、みFJ一生懸命わが家わが町の復旧に命をかけ、今まこに動い

てい3。 _須磨多聞線については、い3い 3と意見、見解が出てしヽ3。 行政は大きく眼を開い

て、今だからこそ、住民の側に立つてほしい。もしあなたの家族がそこにいたらどつ

す3?市民、住民きないかしБにしないでほしい.どこの家族にもルーtンがあ3。 あ

る時代からはゼロから出発したはずの人たちもいると思つ。

互いに英知をしぼってよじノ良き方法、変更と、ごらには撤回にと思つ。天丼桟敷の

人々の声に納得のいくメツセージが|び しい。このメッセージこそが現在、付近住民ヘ

の良き精神安定剤にな3であ3つ。

市はまず、ライフラインに密着したことから。町内の雨水路の側溝など、コンク

リートがよく痛んでいる。こんFJこ とからまず手がけてほしい。

街路計画、再開発と種々難問題が山積してい3。 私たちの街、個人の権利の調整を

どう対処するのか、出来3のか。1日 七早い街の再生に向けて、多くの人たちは努力

してい3。 日々の生活、安全で安心FJ町づ<じ′を、確かFJ復活の姿勢を、見届けたい。

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◆◆◆

枚方市 Nさ ん 女性 50歳 代

いつものよつに自分の部屋で気持ちよく眠つていた私はあの日の朝、気がつくと無意識

のうちに頭からかぶつたふとんの中で乾燥機の中の洗濯物のようにふιノ回されておしノまし

た。その間、屋根がわらが落ちて割れ3音、ガラスが割れ3音、家具が倒れる音FJど、七

のすごい音がしていたはずなのに音の記憶がな <、 ただ 1人静寂と孤独の中、たつた数十

秒が長く感じられました。やつと揺れがおこまつて恐怖の時が過ぎ、外で近所のおばさん

が 1人暮しのお年寄じ′の方々に「大丈夫ですか、大文夫ですかJと声をかけておられ、そ

の聞きなれた声を聞いてやつとぼつといたしました。下で寝ていた母も、私七おかげでけ

が七なく無事でしたが、わが家は 2階の東側の柱が折れて、お隣へ傾き、6月 に更地にな

しノました。

どうしたらこんなことにな3の、といつ<らいにおび為FJがら全然つながらない電話き

ブツシユし続けて、やつと枚方の妹に無事を知らせました。そして何をどうすればいいの

かわからないまま時間が過ぎました。停電、断水、ガス漏れの臭い、余震、そして西へ延

焼してきてい3らしい火事、けたたましく走じノ回3サイレン。今夜はここにいられないと

判断し、でも「自分の生まれた家だから、どつFJつてもいいからここに残しノたい」といつ

74歳の母を説得して、お向いのご夫婦と一緒に明3い間に北須磨小学校に避難しました。

広い体育館にはすでにたくこんの人が毛布やふとんなかぶつて座つたしノ、横になつたしノ

していました。私たちt入しノロの横に毛布をひいて、ふとんなかぶしノ、座じノ込みました.

そこではテレビで何度弁見た光景があしノました。ボ /`ボVしゃべ3人の声と、携帯ラジオ

の音と、人の出入LJと、余震″あると少しごわめく以外 |き、つす暗がしノの中、静かでした。

ただ、夜遅くにFJつ て垂水のケーキ屋ごんから小ごなケーキが届いた時と、少しして区役

所打ら 1人に 1個ずつあにごしノが届いた時だけは、アッといつ間に、こんなに大勢いたの、

といつくらい集まつてきて200個 のおにごしノきtらえなかつた人がたくさんいたのには驚

きました。

避難先の体育館の中で後は明3く な3のを待つしかないと思つていた夜中の12時過ぎ、

とても寝られないと思つていたとき、妹の主人と姪 (めい)とが枚方の方から 13時間が

かしノで火事の中を、倒れた電柱の下きくぐつて来てくれたのです。東の夜空を焦がして燃

為続けてい3火事、暗闇の中、家へ荷物を取しノに帰3気になれず、その時|さ「生命ご力助

かれば」と思つてすぐに車に乗せてもらつて出発しました。山麓バイパスを通つて三ノ宮

へ|さすぐに着きました。そして山手幹線から国道 2号線へ入3こ 3から大渋滞が始ましノま

した。車はほとんど動かな<なつてしまいました。

そして、道路の両側の家t商店七ビルtほとんどが崩壊したしノ、傾いたしノして、住んで

いた人は無事だつたのだ3つかと思つ情景が続い・ているのです。明3<なつてく3と、そ

の前の歩道き頭から毛布やふとんなかぶしノ、大きな荷物を抱えた人々がぞБせ3と走しノ抜

けていくのです。行けど七行けども同じ光景で、姪は公衆電話を見つけるたびに車から下しノて家で心配してい3妹に電話をかけに走3のですがほとんどかからなくて連絡が取れFJ

46

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Page 11: 桜木町意見書~市長への手紙~震災と住民不在の須磨多聞線 038 058 第1部 震災の記憶・私たちの想い

Yさん 男性 40歳 代

宇宙が生まれて150億年と言われてい3。 地球は約40億年のまだ若い星だ。これま

でい3んな生物がこの地球上に生まれてきた。中で七人間はまだひよつこの分際であ

3。 現世人類になつてから、FJに し3たつたの1万年ぐらいしか歴史がないのだから。

恐竜の方が|さ 3かに長いこと生きていた。人間よしノ良く地球を知つていたんだ。

恐竜は流星群の落下によじノ地球の生態環境が破壊されて、住めFJく なつたために、

滅びてしまつたと言われてしヽ3。 恐竜は 1億年以上の長い歴史の間、種を絶やすこと

なく地球とつきあつていけた。

一方、人間は流星のような外からの侵略でなく自分たちの決めた愚弁FJこ とによしノ、

自らの手で地球き破壊しよつとしている。空気はよごす、緑の山iさ削3などなど。車

とアスフアルトの道路などんどん造つてきた人間は、ここ数十年の間に少ないながら

も続しヽていた良い環境を、取しノ返しのつかない状態にしてきたのです。将来の子孫が

住み難い地球に変えよつとしてい3。地球の生態環境きま七つていくことは現代に住

む我々の責任ではないのか?それこそこのまま地球を汚して我々の環境が悪くなると、

1000年どこ3'100年ご為ttたな<FJつ てしまつ。遅ればせながら、みちを身近な

問題として考え3千ヤンスを与えられた今こそ、環境を自分たちの手に近づけること

が出来3のです。

この私たち人間はほんの出だしの所でもつ地球を破壊しかかつてい3んだから、人

間はなんと愚かな生物なんだ3つと思わないかい。なにし3私たちのまわしノに『環境

をむちやくちやにしよつとしている』人がいるんだから。私たち人間はまだ地球のこ

とを良く知らFJいのにもう地球を変えることしか考えられFJ<FJつ てしまつたノノノ

私が今から約30年前の鼻たれ小僧のとき、良く夜空を見上げて『あれが北斗七星

か?あんFJにたくこんの星があつては七つの星が数えに<いなあ』とじやまにしか思

えなかつた満天の星が、もつ三度と見られFJ<なつてい3。 今の子どしたちは、星が

まばらにしかみんないのは当然であしノ、車の騒音や多聞線そばの排気ガスのにおいは

当たしノ前のこととFJつ ているのだ。さらに次の世代に生まれて<3子どもは、どんFJ

環境が当たし′前というのだ3つ。いま、私たち大人が踏ん張らFJい と、子供たちとの

楽しい自然の中での語らいなんかは不可能にな3かt知れない。

この度の大地震で地球の動き、天変地異のすごこのぼんの一部にふれた。今まで地

理や歴史の教科書で地球の大陸移動の話、日本という国の成しノ立ちとか、い3いБ教

わつてきたが、いつt自然現象は他人事.今回の大地震は1000年 に 1度あ3かどう

かの大きFJ地震であιノ、私たちはその運命的な瞬間に遭遇してしまつた。1000年 とい

えば、農耕文明が始まつてから今までの 1万年の間、たつたの10回 しか起こらない

ような時間的スケールである。不幸中の幸いにも私たち生き残つた者はこの体験を後

世に語しノつなぎ、記録き残す必要があると思つ。

私たちの子ど七が育つ、自分たちが心やすらげ3、 住みやすいまちに変えていきた

い。どんどん道を広げて車を通しても、どんどん環境は悪化す3!ぎかしノで少しもここ

に住む生活者のためにはなしノません。私たちこのまちに住んでい3者は、空気、みど

じノ、水、声のかけられ3隣人のいる住みやすい『まち』にしたいと願つているのです。

48

Page 12: 桜木町意見書~市長への手紙~震災と住民不在の須磨多聞線 038 058 第1部 震災の記憶・私たちの想い

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Page 13: 桜木町意見書~市長への手紙~震災と住民不在の須磨多聞線 038 058 第1部 震災の記憶・私たちの想い

小学校 2年生 Kさ ん 女性

地震があつたとき、わたしは、ねていました。どつかんぐらぐらと、じしんがあつて

みんな目をさまして、こくらごんこつの前にいきました。あさごはんは、バンを食べま

した。昼に、おばあちやんとおしいちやんと犬のさんし3が家に来ました。昼ごはんに、

カップラーメンを食べました。カセツトコンロとみずとカツプラーメンがあつたのでカツ

プラーメンが食べれました。

いとこの家にひなんしました。しlJら くいとこの家にいました.

おかあさんのおばあちやんの家にいきました.

とよ春小学校 (東京都)にかよいました。とよ春小学校では、<つばこがあ3、 きゆ

うしよくは、じぶんがとしノにい<FJど、西すま小学校とちがつとこ3がいつばいあしノま

した。

あ3日 、夜、おばあちゃんちでししんがあじノました。

「こんどは、おばあちやんちでししんがあつたらどうしよう。」と、思いました。

学校七FJれて、ともだちの家で、あそぶことが多くFJじ′ました。

しゅうぜようしき七おわつて、春休み。こうべに帰3日 がやつてきました.

「ごようなら。」「ごようFJら .」

電車にのつて新かんせんにのつて、こうべにつきました。なんか、FJつかし<て、

ひごしぶしノなよつなきがしました。「やつばしノこうべはいいな。」と、思いました。

(注 )震災直後、東行きの交通機関がないため、岡LL空 港から東京に避難したそうです。

小学校 5年生 M君 男性

ゴトゴトゴトとゆれてきた。ぼくは、「地震だなJと思つた。すごいゆれかただつた.

ぼくは すヽぐにふとんにもぐつた。べlン トが左右に動いているのがわかつた。ぼくは、日

フトでねていたので、何七落ちてくるようなものはFJかつた.

「おしノてこ―いJと、お父さんが言つた。

はしごが曲がつていたので、ぼくは、おそ3おそ3おしノた。それで、自分の部屋に行つ

たら、タンスやテレビが落ちていた。やつと、トアから出られ3ぐらいにかたづけて、ぼ

<は、部屋の外にでた。

そこに、お父さんとお母さんがいた。それから、毛布なかぶつて、おばあちやんとお

姉ちやんが出てきた。そして、下のたたみの部屋へ行つた後で、お父さんがかい中電灯

を3つほど持つてきた。

次に、鳥を見に行つた。鳥かごが曲がつていて、1羽にげたけど、お母さんがつかま

えた。お皿やガラス七た<さん割れていた。

しばらくして、お父さんがおじいちやんを連れてきた。そして、電気がちよつとつい

たけど、またすぐに消えた。3日 後、家の外に出てみた。とFJじノの家のかわらが、ほとんどな<なつていた。離宮

道の下の方へ行つてみたら、へいがたおれていたしノ、電線が垂れ下がつたしノしていた。

ぼ<の家は、トアがしましノにくくなつていた。ほかにはおふ3場にきれつが入つたしノ、

庭に少し、地割れができていたしノして、すごかつた。

だけど、家族みんな無事でよかつた。

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Page 14: 桜木町意見書~市長への手紙~震災と住民不在の須磨多聞線 038 058 第1部 震災の記憶・私たちの想い

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天神町 下さん 女性 50歳 代

あの日、いつものように5時半に起き石油ストーフに火をつけ身支度をしているとき

でした。最後の /`11/クスの片方に手をかけたときでした。

突然グラグラ。とつさにストーフに手を伸ばしました。左 (東)へすべつてゆ<。 あ

わてて左へ伸 l」すと、右 (西 )へまたすべる。3回 <しノ返し、自動消火装置が働いて止

ましノました。私は結局はいまわつただけで役に立たFJかつたわけです。桐のタンスは、

釘を打つのはおしいと止めていなかつたので、すぐストーフに倒れました.2つのタン

スは、止めていたので倒れませんでしたが、上にのせてあ3衣装箱が空中に舞つていま

した。ぼつ然と座つている頭に両方からコ千コ千当たしノます。

ギーコギーコ。電車にゆられてい3感触でした。長いゆれが終わつて外へ出ようとし

ました。七ちБん電気、ガス、水道は止まし′ました。懐中電灯き探しましたが、下の押

し入れはだめ。□一 /`ク は隣の押し入れで、物が散乱してふすまが開かず、はずしてみ

ようとしましたが、だめ。枕元を手ごぐしノで探してライターで廊下へ。同居の息子|さタ

ンスは倒れなかつたが、ビデオテープ、本が散乱して痛かつたといいます。玄関へ。つ

くしノつけの下駄箱から散乱してい3靴の山き踏み越えて外へ。近所の人と手をとしノ合つ

て無事を喜びました。庭からまわつて懐中電灯き出しましたが、乾電池が古いのでつか

ない.毎年の点検を怠つた報いです。つらの小屋の中から長男の結婚式でもらつたあの

大きな3つそくを使いました。

だんだん夜が明けてみると、光景のすごましごノノ向いの 2階がガレージにせι′出し

てい3。 まわしノの家はすべて倒れ、山陽の線路が見え、」Rが見え、キラキラ海が光つ

ていました。

道は西は石塀が倒れて行けず、東は神戸女子大寮の石垣が崩れて大石がご3ご 3。

1日 日、何と

'あ3tのでしのごました。熱源は石油ストーフだけ。2日 日、しかた

FJく お米からおかゆを作しノました。芯のあ3おかゆで、主人がまずお腹をこわしました。

使い水はお風呂の水を、飲み水 |さ霊泉の水を汲んでしのごました。2日 日、やつと大阪

市から水が届きました。在宅のものにはあιノませんでした。3日 日、神戸市から水がき

た。やつとバケツ 1杯分けてもらえました。私たちは地震のだいぶ前から、「おいしい

水」と霊泉を汲ませてもらつていましたが、「衛生に悪い」と何日tl日 中アンケートを

とつて汲ませまいとした市職員。いごという時は水tくれFJいで…….霊泉に私たち―

家は助けてもらいました。

食物は七ち3ん水t小学校にい3人だけのものとのことでした。

それがあ3つことか、ガスがきて 10日 程立つた 4月 始め、「ガセ ンヽトコンロとカセツ

52

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小学校 5年生 Yさ ん 女性

「ガタガタ、ガッシャーン」

1月 17日 、火曜日の午前 6時前に地震があつた。

その地震があつたしゆん間、私はふとんにもぐつた。

1分したたFJいうちに、私の頭の上に本だなやタンス、戸だなが全部倒れてきた。私は、

びつ<しノして、声七出せなかつた。

すぐに停電になつて、家中、真つ暗で何も見えなかつた。お父さんがかい中電灯で照

らしてくれたから、少し、見力3ようになつた。お父さんの寝てしヽた部屋は、ガラス物

がた<さん置いていた。地震で全部割れて、カベまで落ちてい3というのに、お父さん

は、無キズだつた.それに比べて私の部屋は、あましノひどくなかつたのに、私は、足を

少し、けがをしてしまつた。

外に出よつと思つても、トア七中にたおれて、花びん七割れて、くつ箱が全部たおれ

てふさがれていた.すぐに、お父さんがなおしてくれた。

外に出3と、前の家のかわらが落ちていたしノ、かべが落ちていたしノした。私のおばあ

ちやんの植木ばち七全部落ちてこわれていた。

私のお父ごんは、生きつめになつた人を助けに行つた。

私はその間、家の中のかたづけをしていた。

道汗ちゆう車場まで通れるようPcFJつ たので、ちゆつ車場まで行つた。

家族で話し合つた結果、北須磨小学校 Pcひなんすることにした.その夜七ガタガタとゆ

れて、すごくこわ,つた。

お父ごんはその夜、自動車でねていた。弟の淳史と翔平はずつと泣いていた。

みんなゆめに七思つていなかつたので、びつくしノしていた。すごく、こわかつた。

地震で盛 り上がった路面の

アスファル ト (天理教会西側 )

54

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瓦や壁が落ちてく3のや、電線の垂れ下がつたのに注意し、あ3所では火事が起こしノ、慌て

て別の道に逃げ、1時間近くかかつて警察につきました。事情を訴え、懇願すると、自衛隊

がどんどん須磨区内に入つてきたとこ3だつたので、即座に「○○部隊、天神町のこの奥様

の所へ行つてあげてくれ」と係の人が部隊長を呼び、地図を広げた。「私が誘導しますから車

に乗せて行つて下さい」といつと、「その方が早い。この奥様を乗せて教えてもらつてくれ」

と決ましノ、先頭の車に乗せてもらつてわが家に着き、救出作業がやつと始まつた。

1階の部分が圧縮され、全く形はな <、 1寸のすき間七ない<らいに壊れ、2階 |さ南へ飛

びねじれている。私が 2階で寝ていてかすじノ傷 1つなく助かしノ自力で脱出できたのが不思議

だと隊員さんたちに言われた。余程、運が強いのだ3つ。2階の床部分を <しノめき、1階に

はつて入つてもらつまで安全のための手順がかかし′、母の遺体を引き出すまで 2時間ほど

'かつた。救急車に私七同乗し、区民センター4階にやつと安置これた.

遺体の数は多<、 最初は体育館からつましノ、隣の区民センターは 2階、3階、4階へとつ

ましノ、廊下tロピーも遺体でいつばいだつた。これからは検死の順番を待たねばFJら FJい。こ

の状況を親戚に知らせねばと昨日から公衆電話をかけたが、どこにもつながらず、遺体の側

と電話を何度となく往復する。午後 5時こ3になると、電気七水道もない安置所がますます

薄暗く、寒くなつて<3。 検死の続きは明日にFJ3。 母には悪いが、1人でここで夜を明か

すには体力的にも自信がな<、 私が倒れれば代つてもらつ人がいFJいわが家では、私の健康

を維持していかねばと判断し、母に詫びつつ、自宅に向かつてトボトボ帰つて行つた。

再び暗黒と壊滅状態の町を空しく帰つて行 <。 目指す所にはわが家はな <、 昨晩と同じく

近所の方の車の中で泊めてもらつよしノ仕方FJい と思しヽつつ、西須磨小学校のそばまで帰つて

来たとき、校門に長い人の列を見つけ、列に加わしノ食料品をもらあつと並んでいると、暗闇

の中から名前を呼ばれた。「あんた無事だつたんやね。よかつたね。よかつたJ。 顔見知じノの

奥様だつた。「私 |さ無事だつたけど、母が亡<なつて、今、安置所からの帰じ′……」と放心状

態で告げた。「そしたら、あんたどこで今夜寝3の ?私の家は大文夫だつたから、2階は誰t使つていFJいから、ゆつくしノでき3から泊ましノにいらつしやいJと連れて下さしノ、その夜 |さ

落ち着いて眠らせていただきました。24日 本で泊めていただき、まさに「地獄で仏」でした。

私にとつて、しつかしノと建つてい3そのお宅の座敷は、天国のよつに安心ができ、再三の

強い余震にも恐3しいとも思わず過ごさせていただき、この世の中にもつ何七私にとつて恐

3しいものはない、死ご力恐れることはないと、そのとき思いました。

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'(中略)朝 9時から始ま3と いう検死だつたが、10時になつても医師が来ず、待つてい3人た

ちはイライラす3。 お昼近<に FJつ てやつと始ま3様子。この調子だと、今日中に順番|さ廻つ

てく3かどうか。毛布や布団にく3まつた遺体が床の上に転がこれて、見3七哀れだつた。手

を顔にかごし、上から落ちて<3tのから顔を守3つとしていたのだ3つ。裸足の足が冷た

い床に出ていて寒そう。1家 4人の遺体が、2人の子供を中心に両側に夫婦の遺体が、特に

痛々しかつた。わが子の遺体にとしノすがしノ、大声で泣き続け3母親七多<、 すすじノ泣<声、頭

に包帯を巻いた人、眼帯をつけ顔が紫色にはれあがつた人七数人、足をけがして歩行困難な

人。命からがら助かつた人たちが、肉親を失い、右往左住して泣いている。正直なとこ3、 そ

んな人たちを私は、あいかわらず無表情に日で追つていた。母を失い、1人にFJつ てしまつ

た私は泣くこと七忘れ、これから先の自分の成すべきことが山のようにあしノ、尋常でない事

態にどんな役割を果たすべきか、そのことで頭の中はいつばいだつた。そんなとき、明石に

住む従兄弟 (いとこ)が大きな荷物を抱えて入つてく3姿が見え、その後3に尼崎から自転

車で6時間かけて来てくれた従兄弟2人の姿を見つけたときには、喜びと安心とで全身の力

が抜け、涙が出てしまつた。(中略)

56

Page 20: 桜木町意見書~市長への手紙~震災と住民不在の須磨多聞線 038 058 第1部 震災の記憶・私たちの想い

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