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政策倫理 過去の事例から考える「水俣病」

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政策倫理過去の事例から考える 「水俣病」2015.10.15政策情報学部 政策情報学科  731 教室政野淳子参考図書:『四大公害病』、中公新書 (2013)

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講義内容の確認(政策倫理) • 地域政策推進において、公務員は公権力を行使して政策実行するもので責任は重い。• 産業活動のあり方は社会の質をきめる。• 学者・研究者などは、公共や民間の政策決定の根拠となる情報を提供し判断形成の助言を行うので、その社会的責任は同様に重い。• 公務員、企業人、専門家には高い倫理観が求められる。• だが、現実には企業や行政などで不祥事が報道されることや、公衆の意向とは大きく異なる合理性が疑われる判断がなされることもある。• 本講義は、政策決定過程とその政策実行における専門家の倫理がいかに重要か、専門家としての倫理を貫くにはどうしたら良いかをともに考えてゆく。

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倫理は歪められたのか。何故か。• 当時、誰が何をできたか、どうすれば良かったか、何故できなかったか、倫理の観点からメモを取ってください。

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四大公害病共通の教訓1. 人体被害よりも先に生態系に被害の兆候が現れた。2. 原因究明や結論が先延ばしされている間に対策が遅れ、被害が拡大した。(=企業が情報を隠して因果関係を否定、行政が企業利益を優先し、原因究明と対策を遅らせ、被害を拡大させた。)3. 企業の加害責任と不法行為を明らかにしたのは、被害者側(原告、弁護団、専門家)が国と企業を被告として提起した損害賠償訴訟。一部の被害者の勝訴判決をもとに、企業との交渉で被害者全体の補償に反映させた。4. 国は公害健康被害補償法を根拠に策定した認定条件や地域の線引きにより「未認定患者」を生んだ。5. 差別などを恐れて認定申請を行わなかった「未申請患者」も存在し、今日に至る。専門家がいかに早く「異常」に気づき、社会に警告を発し、被害を最小限に抑えるか

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水俣病とその特徴• 熊本県の不知火海沿岸で魚介類を食べる人びとに発症。• 症状は、死亡、麻痺、けいれんといった急性劇症から、知覚障害、視野の狭窄、聴力障害、手足の感覚障害まで様々。• 1956年5月、チッソ水俣工場の付属病院が、手足がしびれ、口がきけず、食事ができない少女らの「原因不明」の病を水俣保健所に報告。• 1965年5月、第二水俣病「新潟水俣病」発症の報告。• 1968年9月、「原因」は、チッソ水俣工場/昭和電工が排出した「メチル水銀化合物」だったと国が特定。• 水俣における被害の「拡大」、新潟での被害の「繰り返し」の「原因」は「倫理」の欠如だった。• 現在も終わっていない。

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不知火海沿岸(八代海)=閉鎖性水域熊本県 八代市、 芦北町、 津奈木町、 水俣市 天草の島々、鹿児島県 出水市、 阿久根市、 長島など

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出典:「水俣病の教訓と日本の水銀対策」(平成 23 年1月 環境省)

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水俣病発生までの経緯1<発端>• 1952年夏、 魚の死滅事件。水俣市漁業組合(水俣市丸島)からチッソの排水を調査して欲しいとの要望• 熊本県水産課の三好礼治・振興係長が経緯と現地調査。• チッソは1932年のアセトアルデヒドの生産開始後、その工場廃水を漁港と百間港に流していたが、漁港にある生け簀の魚が死滅したため、百間港だけにした。百間港でも、カーバイド残渣の堆積物が6.5メートルの深さに達し、満潮時以外は船舶が出入りできなくなった。• 県は、百間港の浚渫を計画、チッソに事業費負担を要請。• 終戦前のチッソ水俣工場長が水俣市長 → カーバイド残渣を自然の堆積物だと主張→水俣市が負担• 「工場の排拙物として考えられるものは、一般的排水とカーバイド残滓がある」

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水俣病発生までの経緯2<不作為>• 三好係長は、チッソ水俣工場に排水の成分について説明を求めたが、「あまり害はないと考えている」とのチッソの回答を受け、以下を県への報告書で提案。1. 排水の成分を明確化2. 漁民の被害の実情を漁民側の資料に基づいて検討3. 排水の直接被害と長年月にわたる累積被害を考慮• しかし、県は、報告内容を実行せず。• 浚渫は継続。浚渫により、堆積物の7~8割程度までが「浮泥」と化して沖合に流出• 漁獲は1950年から1956年までに5分の1に激減。• この廃水こそ、1932からから36年間で70トン~150トンとも言われる汚染源(メチル水銀化合物)だった。

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水俣病発生までの経緯3<チッソ城下町>• 1908年、東京帝国大学卒の電気技術者・野口遵 ( したがう ) が天草諸島で採れる石灰石を原料にカーバイトから化学肥料を製造する「日本窒素肥料株式会社」を設立。• 1932年、アセトアルデヒド生産開始。• 1960代当時、水俣市の人口約5万人に対し、チッソおよび関連下請け工場の従業員は約5000人。一世帯5人なら2万5千人(人口の半分)がチッソ関係者。

• 1954年8月1日『熊本日日新聞』記事「ネコてんかんで全滅、ねずみの激増に悲鳴」 「水俣湾周辺の漁村(茂道)では、6月くらいから100匹あまりいたネコがほとんど全て狂い死に」↓

• 水俣市 ねずみ駆除剤を各家庭へ配布

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水俣病発生までの経緯4<公式確認>• 1956年春(ネコ狂い死にから2年)、5歳と2歳の姉妹が、チッソ水俣工場付属病院に入院。• 4月12日の朝、前日まで元気に外を走り回っていた姉がトロンとして口が回らず、朝食の茶碗も持てず、靴を履くこともできない。靴を履いたと思っても転んで歩くことができないが、市立病院で小児麻痺と診断。妹も同じ症状で入院。• 伝染病を疑った小児科医の野田兼善が院長細川一に相談。• 細川院長自身も前年に似たような患者を2名診ていたが、原因不明のまま2、3ヵ月で死亡。• 内科医の三隅彦二も、類似の症状を持つ患者を入院させていた。「原因不明の脳症状患者4名が入院した」と水俣保健所に報告=水俣病の公式確認

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原因究明までの経緯1• 1956年5月28日、水俣保健所は、水俣医師会、水俣市衛生課、水俣市立病院、チッソ病院と「水俣市奇病対策委員会」を発足• 1953年末頃から「奇病」は発生していたと判明(アルコール中毒、脳梅毒、脳腫瘍、脳卒中、脊椎性小児麻痺等と診断)• 「水俣市奇病対策委員会」は 8月 24 日、熊本大学に調査依頼。• 1956年末までに54人の患者を確認、17名が死亡。• 1957年5月から、チッソ病院とチッソ技術部は水俣湾内の底土や魚介類をネコに与える実験を開始。• 熊大研究班でもネコ実験。33~65日で全てのネコが、この地域で自然に水俣病を発症したネコと同様、マヒやけいれんを起こし、走り回って死ぬなどの症状を起こした。• 公式確認から1年目で「原因」は明らか同然だった。

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原因究明までの経緯2• 1957年3月からは、熊大・武内忠男教授の要請で、当時、研究生だった水俣保健所の伊藤蓮雄所長が、水俣湾内で獲った魚介類で5/7匹のネコが発症と、県衛生部に報告。• 熊本県は「水俣奇病対策連絡会」を庁内に設置し、以下決定  ①原因究明の促進、②入院患者の措置、③魚介類の摂食自粛指導、④漁獲自粛・漁場転換の指導、⑤浜松アサリ貝事件における静岡県の対応調査(死亡被害も出た中毒事件。1947年に食品衛生法成立、48年施行後、1950年に再び12人の患者発生、原因物質が特定されない中で静岡県知事が食品衛生法を適用し、アサリ販売を禁止。)• 厚生科学研究班も、ネコ実験で「本症の原因が湾内魚介類にあることは判明した」と発表。• 公式確認から1年目で、国も「原因」を知っていた。

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対策先延ばし1• 熊本県衛生部は食品衛生法に基づき漁獲禁止を決定し、厚生省に照会(法律上は照会の必要なし)。厚生省は矛盾する2つの回答。• 「水俣湾特定地域の魚介類を摂食することは、原因不明の中枢性神経疾患を発生させるおそれがあるので、今後とも水俣湾の魚介類が摂取されないよう指導すること」。• 「水俣湾内特定地域の魚介類のすべてが有毒化しているという明らかな根拠が認められないので、当該特定地域にて漁獲された魚介類のすべてに対し食品衛生法第4条第2号を適用することはできない」。 

• 当時の食品衛生法第4条第2号は、「有毒な、若しくは有害な物質が含まれ、若しくは付着し、又はこれらの疑いがあるもの」は採集、販売してはらないとの規定。・熊本県/厚生省は対策を先延ばした

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汚染の拡大• 1958年7、厚生省公衆衛生局長が「化学毒物は主としてセレン、タリウム、マンガンが疑われる。これは新日本窒素肥料水俣工場の廃棄物が影響している」と通達、チッソは反論。 • 1958年9月、チッソは工場排水の排水口を、水俣湾に注ぐ百間排水口から、湾外に流れ出る水俣川河口に切り替えた。• 川の流れに押し出されて不知火海全体へと拡がり、水俣湾に限定されていた発症者は、不知火海北部の津奈木町や対岸の天草でも発生• 「人体実験ともいえる排水路変更の影響は新たな患者発症と汚染地域の拡大という重大な結果を招くことになった」(国立水俣病総合研究センター「水俣病に関する社会科学的研究会」報告書『水俣病の悲劇を繰り返さないために』)

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原因物質「水銀」の特定• イギリス人医師D・ハンターとD・ラッセルが1940年研究論文。種子殺菌剤の工場でメチル水銀化合物を呼吸器から吸って運動失調、言語障害、視野狭窄の三つの症状を呈した。• 米国国立衛生研究所の疫学部長レオナルド・カーランドや、英国医師マッカルパインなど有機水銀中毒の可能性を示唆。• 1958年秋から、熊大研究班の武内忠男教授(第二病理)と徳臣晴比古助教授(第一内科)が水銀に的を絞って研究開始• 喜田村正次教授(公衆衛生学)が、百間排水口の泥土から水銀を検出。• 1959年、武内、徳臣、喜田村が「水俣病の原因物質は水銀化合物、特に有機水銀であろうと考えるに至った」と熊大研究班として発表。• 対策につながらず。

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対策先延ばし2• 1958年、製紙会社「本州製紙」の江戸川工場による排水で漁業被害が起きて、「水質二法」制定。• 「水質保全法」で水質が汚濁されるおそれがある水域を指定して排水の放流基準を設定、「工場排水規制法」で規制対象の工場を特定。チッソ工場には適用なし。• 熊本県からは、チッソ水俣工場の操業停止と漁民への補償を盛り込んだ特別立法、水俣市からは排水の完全浄化を盛り込んだ特別立法の制定が要望されていたが、実現せず。• 「するべきことが解っており、その気になればやれたはずのことを『原因不明』を口実に行わなかった『無策の時期』である。『行政決断の遅れ』ではなく、終始、素早く『対策を講じない決断』がされていた」と(宮澤信雄が『世界』(二〇〇〇年七月号)

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企業の情報隠蔽と医師の沈黙• 1959年8月、水俣市鮮魚小売商共同組合が水俣湾近海の魚貝類の「不買決議」→水俣市漁協が、同組合とチッソ水俣工場に漁業補償、ヘドロの撤去、排水浄化設備の設置を要請。• チッソは「水俣病の原因は未だ未確定である」と拒否• 漁民300人が団体交渉に出向き、警官隊と衝突• 熊本県知事→水俣市長→あっせん委員会設置→漁業補償と1969年 3月までの浄化装置設置を 8月 29 日に約束

1959年 10月 7 日、チッソ病院長 細川ノートネコ400号実験「失調、麻痺を起こし疑わしいため屠殺、病理所見により水俣病発症を確認」 ↓チッソ技術部長がネコ実験の中止を指示、情報隠蔽↓1970年裁判で原告側証人として証言

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「水銀説」へのチッソ、業界団体、通産省の反論• 1959年7月、チッソ「所謂有機水銀説に対する工場の見解」(7月)、「有機水銀説の納得し得ない点」(9月)発表• 1959年 9月、日本化学工業協会の大島竹治理事、旧海軍の爆薬原因説(熊大研究班の潜水調査で、すでに否定)。• 1959年 10月、厚生省食品衛生調査会「水俣食中毒特別部会」(代表:鰐淵健之熊本大学元学長)は、熊大研究班発表を支持• 1959年 11月、通産省軽工業局長から厚生省公衆衛生局長に「魚介類中の有毒物質を有機水銀化合物と考えるには、なお多くの疑問(略)一概に水俣病の原因を新日本窒素肥料株式会社水俣工場の排水に帰せしめることはできない」• 一方で、通産省は、水銀使用工場(アセトアルデヒド製造と塩化ビニール)に廃水の水銀含有量等を秘密裏に 11月 30 日までに報告するよう指示。

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通産省のサボタージュ、専門家加担• 1959年 11月、食品衛生調査会が水俣食中毒特別部会の結論を答申、渡辺良夫厚生相が閣議に• 池田勇人通産相が「有機水銀が工場から流出したとの結論は早計」と反対。• 水俣食中毒特別部会解散

↓• 1960年1月、経企庁主幹「水俣病総合調査研究連絡協議会」(共管:通産省・厚生省・水産庁)設置。清浦雷作東京工業大学教授(応用化学)が「有毒アミン説」、水銀説を否定。• 1960年 4月、日本化学工業協会「水俣病研究懇談会」(委員長:田宮猛雄・日本医学会長)設置。結論を出さずに自然消滅

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チッソ「サイクレータ」による偽装/受注者 26年の沈黙• 1959年12月、チッソが通産省軽工業局長に指示された浄化装置「サイクレーター」を完成。• 完工式で、チッソ吉岡喜一社長がサイクレータの「処理水」を飲むパフォーマンス。• チッソは「処理前」「処理後」の排水を熊本大学入鹿山且朗教授に依頼。渡された水について「20ppm」と「0ppm」の結果報告、論文作成。1985年法廷で、サイクレーターを受注者の設計担当者が証言• チッソが発注した設計仕様には、水銀の除去機能はなし。• アセトアルデヒド製造工程の排水はサイクレーターを通過させていなかった。

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「公序良俗に反する」見舞金契約と空白期間• 1959年 11月、水俣病患者家庭互助会(働き手を失って生活が困窮した患者家庭の互助会)による工場正門前の座り込み。• 県知事設置の「不知火海漁業紛争調停委員会」に患者補償も加えるよう要請• 12月 30 日にチッソが条件付で「見舞金契約」• 将来、水俣病がチッソの工場排水に起因しないことが決定した場合、支払いを打切る/工場排水が原因であるとわかった場合も、新たな補償金はなし。→後の裁判で公序良俗に反するとして無効に。国際会議では、水俣病の原因物質が工場排水に含まれるメチル水銀化合物であると認識。

国内では「水俣病は終わった」との空白期間に

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胎児性水俣病・当時の医学の常識「胎盤は毒物を通さない」→「脳性小児麻痺」と診断。・脳性小児麻痺の発生率は通常0.02~0.2%、水俣病発生地域では9%(原田正純『水俣学講義』)

- アセトアルデヒド生産量…水俣湾内アサリ貝の水銀量●生年月と臍の緒の含有メチル水銀把握されている胎児性水俣病患者数は66名(うち死亡者13名)

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生産中止を待っての政府統一見解• 1968年5月、チッソ、アセトアルデヒドの生産を中止。• 1968年9月政府統一見解。

1969年 6月、 29世帯 112 人の原告が、チッソを相手取り、損害賠償を求め提訴↑

1968年1月、新潟水俣病の患者、弁護士らが水俣を訪れ、水俣病患者家庭互助会の中津美芳会長が謝罪。

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水俣病患者家庭互助会の謝罪 「私たちが第一回目の患者なのだから、あくまでも頑張って、命をかけて闘っていたら、新潟のあなた方を第二の水俣病患者にさせて苦しませなくてもよかった」「世間も公害に関心がなく、チッソあっての水俣市だったため、患者以外の市民・労働者はすべて私たちの敵でした。「思いあまって工場に殴りこみをかけたときは死ぬ覚悟でしたが、工員の息子が前に立ち塞がって止めることもありました。その後、市民、県民全部ににらまれて、泣く泣くわずかな見舞金で手を打ったために、あなた方に大変な迷惑をかけました。申し訳ありませんでした。「私たちはチッソから既にお金をもらってしまいました。今さらチッソ相手に闘えませんが、あなた方の運動は皆で応援していきます。」(坂東克彦「新潟水俣病現地見学会資料」)

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不法行為の立証と原告の全面勝訴(理由概要)・化学工場が廃水を工場外に放流するにあたっては、常に最高の知識と技術を用いて廃水中に危険物混入の有無および動植物や人体に対する影響の如何につき調査研究を尽してその安全性を確認しなければならない。・万一有害であることが判明し、あるいは又その安全性に疑念を生じた場合には、直ちに操業を中止するなどして必要最大限の防止措置を講じ、とくに地域住民の生命・健康に対する危害を未然に防止すべき高度の注意義務を有する。

・被告は、何ら注意義務がなかった、と主張する。しかし、このような考え方をおしすすめると、環境が汚染破壊され、住民の生命・健康に危害が及んだ段階で初めてその危険性が実証されることになる。それまでは危険性のある廃水の放流も許容されざるを得ず、その必然的結果として、住民の生命・健康を侵害することもやむを得ないことになり、住民をいわば人体実験に供することにもなるから、明らかに不当といわなければならない。

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認定を巡る闘い1.「水俣病」の定義が法律にはなく、認定される範囲が変化・熊本県審査会の固定的な狭い認定条件・大石武一環境庁長官の「疑わしきは認定せよ」・1973年熊本大学「10年後の水俣病研究班」による「水銀パニック」→石原慎太郎環境庁長官「 1977年判断条件」2. 1977年判断条件と実際の症状にズレ。判断条件の見直しが行われないまま、二度の政治解決で不公平感。

4.公害健康被害補償法で定めた「補償給付」は、患者が企業と直接交渉で結んだ「補償協定」で運用され、形骸化した。5.公健法の目的である「被害者等の迅速かつ公正な保護」に反し、裁判によって、被害者の保護までに長時間がかかる。

3 .国は、司法判断を反映した認定基準の見直を行わなかった(立法府の不作為)

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倫理は歪められたのか。何故か。• 倫理は歪められたのか。• 何故できなかったか• 当時、誰が何をできたか• どうすれば良かったか