37
祇祇祇祇祇祇 祇祇祇祇祇 1096 祇祇―― 祇祇祇祇祇祇 祇祇祇祇祇祇祇祇祇 祇祇祇祇祇祇祇祇 ()。 『』 祇祇祇祇祇祇祇祇祇 20141109 祇祇祇祇 祇祇祇祇 祇祇祇祇祇祇祇 祇祇祇祇祇祇祇祇祇祇祇祇祇祇 1096祇祇祇祇 祇祇祇祇祇 ~1099 祇祇祇祇 祇祇祇 祇祇祇祇祇祇祇祇祇 祇祇祇 祇祇祇祇 祇祇祇祇祇祇祇祇祇祇祇 祇祇祇祇祇祇祇祇祇祇祇 、、、・。 祇祇 祇祇祇祇祇祇祇祇祇祇祇祇祇祇祇祇 。。

「祇園御霊会と南海トラフ地震」 東海学春日井シンポジウム講演

Embed Size (px)

Citation preview

Page 1: 「祇園御霊会と南海トラフ地震」 東海学春日井シンポジウム講演

「祇園御霊会と1096年の東海大地震」――『山王霊験記』(沼津日枝神社所蔵)の世界を考える。20141109東海学シンポジウム保立道久はじめにⅠ 地震と山王神道Ⅱ 地震静穏期の終わりと院政時代Ⅲ 1096年東海地震~1099年南海地震おわりに御嶽山、蔵王権現であるが、本来、大己貴・少彦名命を祭っている。これは白山の大汝につらなる。神坂峠からは富士と御岳がみえる。

Page 2: 「祇園御霊会と南海トラフ地震」 東海学春日井シンポジウム講演

はじめにーー9世紀という時代9世紀①怨霊の時代

応天門の変の伴善男菅原道真の雷神化

9世紀②ーー大地動乱の時代。 富士大噴火 869年、東北沖大津波(M9以上。

3・11と同規模・同型) 887年、南海大地震

869年奥州津波 3・11

9世紀③ーー神話の時代から宗教の時代へ。スサノオ=オオナムチ(大国主命)は地震神・火山神   スサノヲが高天の原に駆け上がるとき   「山川ことごとく動み、国土みな震りぬ」 厚い津波痕跡の砂層が20年

ほど前から確認されていた。

Page 3: 「祇園御霊会と南海トラフ地震」 東海学春日井シンポジウム講演

「根の国」のスサノヲから娘を奪うオオクニヌシ

オオクニヌシは「根の国」から「琴」と娘を盗んで逃げ出す。娘をオンブし、「琴」を背負ったが、「琴」が「樹に払れて地動鳴みき」(地震の呪具)。

 

根の鍛冶(カタス)の国

スサノヲは、坂の上から叫ぶ。「娘を正妻とし、宝物を使って地上の王者となれ、大国主命と名乗れ」と呼びかける。

地下の Valcanの国3,11噴砂。幕張

Page 4: 「祇園御霊会と南海トラフ地震」 東海学春日井シンポジウム講演

 山崎断層スサノヲの住処

出雲から播磨

播磨のダイダラボッチの伝説。「昔、大人ありて、常にかがまり行きき、その踏みし迹処は、あまた沼となれり」(『播磨国風土記』)

もののけ姫のダイダラボッチ スサノヲは巨人。その巨歩が地震

Page 5: 「祇園御霊会と南海トラフ地震」 東海学春日井シンポジウム講演

868 年播磨地震(兵庫県から京都の大地震 M 七.〇以上)

京都市街を直撃した始めての被害地震。震源は播磨山崎断層。ボーリング調査で9世紀の地震痕跡を確認。

① この年、伊豆で死去した応天門の変の「犯人」伴善男の怨霊が地震の原因。播磨に伴善男伝説が残るのはそのためか?② 播磨断層近辺のスサノヲ神社(=広峰社)が地震の原因

Page 6: 「祇園御霊会と南海トラフ地震」 東海学春日井シンポジウム講演

普通の考え方① 御霊会は伴善男などの怨霊鎮めの祭り。② 祇園会は疫病祓いの祭り

プラス祇園会は地震鎮めの祭り 播磨からスサノヲ+怨霊伴善男が京都移座。 それだから祇園の本社は播磨広峯神社 869年祇園御霊会開始

869年 5 月、陸奥大津波翌6月祇園会開始

Page 7: 「祇園御霊会と南海トラフ地震」 東海学春日井シンポジウム講演

花折

断層

感応寺の建立伝説一演が寺地を求め、貞観年中に鴨川西岸に至った時、「此地揺震、紫雲降垂」。(『元亨釈書』)

祇園社のたつ場所は花折断層の直上。

地主神が登場し、「我有神力、能除魔障、去疫癘、又結好夫婦、調適産育、所謂牛頭天王者也」

伴善男→スサノヲ=牛頭天王

Page 8: 「祇園御霊会と南海トラフ地震」 東海学春日井シンポジウム講演

疫病の鬼のもつ槌=地霊を呼び出す力打出の槌ー地面を打つ世間には小さき槌をもて、その物の出こと云て、地を打たば、随打、物出来」(知恩院本和漢朗詠注)

鬼の後ろ腰の「槌」

病人

牛頭天王=スサノヲは「疫病の神」+「地震の神」地震波は不可視。それが不可視の疫気・毒気と結びついた。 地震の巨霊が「千万の人の足音」のような地鳴りをさせて陰陽師を追跡。

「気色悪しくて異なる香ある風の温かなる」がどこからともなく吹き、「地震の振るように暫し動きて過ぎぬ」(『今昔物語集』巻二四―一三)

Page 9: 「祇園御霊会と南海トラフ地震」 東海学春日井シンポジウム講演

Ⅰ 地震と山王神道ーー10世紀9世紀の最大の怨霊=地震神=菅原道真吉野山の地下の地獄に醍醐天皇を押し込める。眷属「火雷大気毒王」などが「山を崩し、地を振ふ」

「この(金峰山の)金をとれば、神鳴、地震、雨ふりなどして少しもえ取らざんなる」(『宇治拾遺物語』巻二ー四)。

吉野は黄金鉱山。蔵王権現の山。地下=地獄の王国の主=道真

(1)10世紀という時代と比叡山

松崎天神縁起

Page 10: 「祇園御霊会と南海トラフ地震」 東海学春日井シンポジウム講演

(2) 地震神・道真を鎮霊する修験の力修験者日蔵(道賢)の夢  941年、吉野金峰山にこもり、「国土の災難」をはらって「鎮護天下」

を実現することを祈祷。 「黄金光明」の「金峰山浄土」において蔵王菩薩の引導を受け、道真の霊に遭遇。

 道真は、地獄に落ちた醍醐・時平の姿を日蔵にみせ、その「日本太政威徳天」としての神格を誇示。

眷属「火雷大気毒王」などが「山を崩し、地を振ふ」(『扶桑略記』天慶四年三月条)。

将門反乱が怖れられた理由 938年(承平8)4月15日畿内大地震 「天下舎屋顛倒、東西に兵革あるべし」との預言(『扶桑略記』)、余震大。 天慶改元 翌年939年(天慶2)3月武蔵国司将門謀反を報告 将門は「柏原天皇(桓武)五代の孫」と称し、菅原道真の霊告によって「新皇」に即位したと号した(『将門記』)。

将門調伏の中心、比叡山 940年(天慶3)。三善清行の子、浄蔵が、叡山で将門調伏の修法=「大威徳法」を修する(『扶桑略記』)。浄蔵は祇園の南、東山雲居寺に居住。

浄蔵は道真の調伏者としても著名

Page 11: 「祇園御霊会と南海トラフ地震」 東海学春日井シンポジウム講演

(3)976年(天延四)近江地震の衝撃地震の概略(京都)  6月18日、京都の八省院・豊樂院・東寺・西寺・極樂寺・清水寺・圓覺寺

(北白川粟田山荘、清和の崩御した寺)等が顛倒する地震。 白河・清水を中心に相当の激震。余震も多い。地震の概略(近江)  近江では、崇福寺法華堂が南方に頽れて入谷底に落ち込み、時守堂の僧千聖が

同じく谷に落ち入って死亡、鐘堂顛倒、弥勒堂の上岸が崩落して堂の上の崖にあった大石が落ちて乾角を打損じた。

 国分寺の大門が倒れ、仁王が碎損し、瀬田唐橋の東1㎞の丘陵上、國府廳と雑屋の卅餘宇が顛倒した。関寺大佛の腰上が崩壊。

史料崇福寺法華堂南方頽入谷底。時守堂僧千聖同入谷死。鐘堂顛倒。弥勒堂上岸崩落。居堂上一大石落。打損乾角。又近江國分寺大門倒。二王悉碎損。國府廳并雑屋卅餘宇顛倒。關寺大佛悉碎損。腰上已無矣。其後一兩日間。頻震不止(〔扶桑略記〕天延四年六月十八日条)。

震源は不明――東海地震? 近江、美濃以東か。京都強震、長く続く余震

  前の東海地震、887年。次の東海地震1096年。ほぼ中間

Page 12: 「祇園御霊会と南海トラフ地震」 東海学春日井シンポジウム講演

(4) 976年(天延四)地震と『宇津保物語』の「琴」形は異なっても地震琴の神話的イメージは続く 『宇津保物語』(俊陰)の地震史料 「一声かき鳴らすに、大きなる山の木こぞりて倒れ、山さかさまに崩る。立ち囲めりし武士、崩るゝ山に埋もれて多くの人死ぬれば山さながら静まりぬ」(山を占拠した東国武士を埋める)。

 ペルシャから琴を得てきた遣唐使・俊陰が死去し、その娘は貴族の男に愛されたが、生き別れとなって没落の道を歩み、その男とのあいだの男児にみちびかれて山で暮らすところに追い込まれた。賀茂川の北の近江に近い山々という設定。

 京都にやってきた東国の武士が国堺の山を占拠し、宿敵を狙い、偶然に母子の周囲を取り囲んだ。その災禍を逃れようとして、宝の琴を弾いたところ、地震が起き山々が崩れた。北野御幸にでかけた男児の父親が琴の響きをきいて、女を再発見したという物語。

琴音によって地震が起きた。オオナムチの琴の呪力と同じ。 『宇津保物語』の成立は970年代以降。前記の976年近江山城地震

を反映している可能性が高い。

Page 13: 「祇園御霊会と南海トラフ地震」 東海学春日井シンポジウム講演

(5 ) 天台修験と山王神道による地主神・地震神・火山神の編成日吉大神は「日本国総地主」として主要な地主神を編成していく。北野社務を握る 比叡山西塔の東尾房(曼殊院=竹内門跡)を作った是算(菅原氏出身)が、94

7年、北野社創建のしばらく後に北野別当職に補任。多武峯を末寺化飛鳥の近傍、古くから鳴動の怪異。南に越えれば吉野。 984年(永観2)鳴動(『藤原実資日記』)。このころ別当は増賀(良源弟子) 大和の吉野金峯山を相対化していく。祇園社を別院化、974年(天延2) 天台座主良源の時代。興福寺から帰属替書写山円教寺、966年(康保3) 地震を自由に起こし停める力をもつという開山性空は天台座主良源の弟子。 霧島で修行し、火山の龍の発する光を追って播磨書写山に至る。 書写山は広峯神社のそば。白山末寺化と客人宮の建立(白山にはオオナムチ峰をもつ火山) 天台座主慶命の時代( 11 世紀第二四半期)。神人(宮籠)が白山宮を招致。

代表的な地震神・火山神を編成し、その中枢を祇園とする。

Page 14: 「祇園御霊会と南海トラフ地震」 東海学春日井シンポジウム講演

(6)山王神道と地主神「山王三聖」(大宮・二宮・聖真子)大宮=三輪山オオモノヌシ=オオナムチ

天智天皇が近江京の守護神として大和から移祀。 近江京の神として賀茂・松尾と関連をもって、古くからの神 平安時代に全面的に復活・強化

二宮=大山咋神(山末の大主神)=オオナムチの子神 「吾をば、倭の青垣の東の山の上にいつき奉れ」といひき。

こは御諸山の上に坐す神ぞ。故、その大年神―アメチカルミズ比売に娶して生みませる子―大山咋神、その名は山末の大主神。この神は近淡海国の日枝山に座し、また葛野の松尾に

座す。鳴鏑もつ神なり」(『古事記』)

どちらの神も山神=地霊=地震神である。牛尾山の麓に東から西へ神社が発展。

二宮の本体は「山」。その上に八王子宮と三宮 「鳴動」する神(『藤原宗忠日記』嘉承三年3月2日条) ここから神輿を担ぎ下ろす祭り、日吉山王祭り

Page 15: 「祇園御霊会と南海トラフ地震」 東海学春日井シンポジウム講演

二宮(東本宮)が小比叡神=大山咋神(山末の大主神)=オオナムチの子神

(5)山王神道と地主神「山王三聖」(大宮・二宮・聖真子)

大宮(西本宮)は大比叡神。天智天皇の遷座。オオナムチ=オオノモヌシ=大三輪神

聖真子(宇佐宮)

Page 16: 「祇園御霊会と南海トラフ地震」 東海学春日井シンポジウム講演

琵琶湖側からみた牛尾山(八王子山)

Page 17: 「祇園御霊会と南海トラフ地震」 東海学春日井シンポジウム講演

日吉社八王子山の山頂磐座           東本宮からのぼっていく。7曲がりの急坂。380メートル。山王祭のとき、旧暦二月二の申の日、「お輿上げ」し、灯明を灯し、本祭で担ぎ下ろす。左が三宮、右が牛尾宮(八王子)。階段

と懸崖造りの下も岩盤。磐石の信仰は平安期の事実とみたい。犬が山に登って神殿を動かしたとある。平安時代は簡単な小屋組の神殿か。

Page 18: 「祇園御霊会と南海トラフ地震」 東海学春日井シンポジウム講演

山王祭と船渡御祭神を山上・各社から神輿に乗せて湖畔に下ろし、唐崎まで船渡御する祭り。

船渡御の由来オオナムチが日吉移座に当たって、唐崎で宇志丸宅で、船を借り、大樹の大枝に引っかけるという奇跡をみせ、宇志丸を祝部に任命したという伝説にそって行われる。

宇志丸の琴「敵人の来襲を感知して自ら鳴る琴をもっていたが、それを傷つけ失ったのちに大津浦の住人となっていた。

琴の神異との関わりで語られる山王=オオナムチの祭り

地震神オオナムチの神威に関わって語られたものであろう。津島神社の船渡御にも関係か。

Page 19: 「祇園御霊会と南海トラフ地震」 東海学春日井シンポジウム講演

Ⅲ 地震の再活発化と院政時代(1)10世紀後半から11世紀後半(摂関時代)は地震が少ない平穏期。地震活発化の起点。祇園焼亡と1070年地震。11世紀後半、後三条院の時代 1070年(延久二)一〇月地震。「洛中の家々の築垣崩れ、東

大寺の梵鐘落下、諸國の寺塔が壞損」(『扶桑略記』一〇月二〇日条)。余震も続く。

しばらく前、10月14日に祇園社焼亡。  「祗園やけぬ。あさましく思がけぬ事なりや。なゐ(=地震)

などおどろおどろしくふりて、むづかしきころをひなり」(『栄花物語』)。

叡山での祈祷 「地震及數尅、山洛無不恐怖、天文密奏、陰陽勘文、兵革前瑞云々、仍以長宴(干時權 | 律師)於台嶽令修之、伴僧八口」(『諸法要略抄』)

Page 20: 「祇園御霊会と南海トラフ地震」 東海学春日井シンポジウム講演

(2) 王権と比叡山の関係の密着化 日吉・祇園・稲荷行幸の開始  1071年(延久三)の日吉を皮切りに、祇園・稲荷へ天皇の神社行幸拡大。  1072年(延久四)3月26日。初回の祇園・稲荷行幸(『百錬抄』)。稲荷も延暦寺末社

 祇園は叡山の京都における活動基地。衆徒の集合場。

春日神輿強訴の開始。 1093 年 5 月の奈良春日山の鳴動(「山谷屡響」)を神意とみた神

人の行動。(『扶桑略記』大日本地震史料不採、実地震であった可能性)

堀河天皇の不予と祇園祈祷 1095年(嘉保2)8月に京都で地震。9月、天皇堀河の周囲に

物恠が跳梁。堀河、祇園社に立願。 1096 年(嘉保3) 2 月地震。 5 月、旱魃と疫病 祇園を中心とした大田楽の熱狂。

Page 21: 「祇園御霊会と南海トラフ地震」 東海学春日井シンポジウム講演

(3)日吉神輿強訴と神輿の立った矢日吉神輿がはじめて京都に動座する 1095 年(嘉保2) 10 月、美濃国司源義綱を訴え、はじめて神輿を動座し嗷訴に突入。関白師通「神輿を憚るべからず」と命令し、神輿と神人に瀕死の重傷

Page 22: 「祇園御霊会と南海トラフ地震」 東海学春日井シンポジウム講演

日吉社八王子宮の磐崩れの物語比叡山の神人。八王子宮の前で師通を呪詛「鏑矢一つ放ち給へ」。「鏑矢鳴りて御身に祟れると御夢」(『山王霊験記』)

左が三宮、右が八王子宮。

『古事記』の伝説・神話がよみがえる。

Page 23: 「祇園御霊会と南海トラフ地震」 東海学春日井シンポジウム講演

叡山の方より、鏑矢鳴りて御身に祟れると御夢に御覧ぜられける。

四手付きたる榊、寝殿の狐戸に立ちたりけり」(『山王霊験記』)

師通邸

Page 24: 「祇園御霊会と南海トラフ地震」 東海学春日井シンポジウム講演

師通の夢。鏑矢が鳴り「比叡の大嶽頽れ割けて御身にかゝる」(『源平盛衰記』)。

三宮と八王子の間の巨岩。階段と懸崖造りの下も岩盤。

Page 25: 「祇園御霊会と南海トラフ地震」 東海学春日井シンポジウム講演

母麗子の祈祷によって「三年の命を奉る」(『平家物語』延慶本)。

母麗子、八王子宮の床下に籠もって祈祷。  『藤原宗忠日記』1095年(嘉保2)11月6日裏書「山騒動のことにより、夢想」。不吉な夢想。11日に師通子の忠実に語り、忠実祈祷あり。

「比叡の大嶽頽れ割けて」は「地震」の表象。

ここから三年の間に大地震が連続。

Page 26: 「祇園御霊会と南海トラフ地震」 東海学春日井シンポジウム講演

(4)母麗子の祈祷によって八王子から「三年の命を奉る」

母上、大殿ノ北ノ政所、斜メナラズ御歎有テ、御様マヲヤツシツヽ、賤キ下 ノ為ヲシテ「﨟 日吉ノ社ニ御参籠有テ、七日七夜ガ間祈リ申サセ給ケリ。 (中略 )不思議ナリシ事ハ、八王子ノ御社ニイクラモ並ミ居タルマイリ人ノ中ニ、ミチノ国ヨリハル ト上リタリケル童神子、〲 夜半バカリニ俄ニ絶入ケリ。遙かニカキ出シテ祈リケレバ、(中略 )半時バカリ舞テ後、山王下リサセ給テ、 (中略 )肩脱タルヲミレバ、左ノ脇ノ下、大ナル土器ノ口ホド穿ノキタルコソ、奇特ナレ。「コレガアマリニ心ウケレバ、イカニ申トモ始終ノ事ハ叶マジ。一定法花問答講行ハスベクハ、三年ガ命ヲ延奉ラム。ソレヲ不足ニ思給ハヾ力及バズ」(『平家物語』延慶本)。

Page 27: 「祇園御霊会と南海トラフ地震」 東海学春日井シンポジウム講演

 巫女は琴をもって「地祇」(オオナムチなど)を呼び出す。 『馬医草紙』(文永四年=一二六七年以前成立)に画かれ巫女「大汝(オオナムチ)」。

Page 28: 「祇園御霊会と南海トラフ地震」 東海学春日井シンポジウム講演

Ⅲ やっと本論に入ります。1096 年東海地震~ 1099 年南海地震

石橋克彦『南海トラフ巨大地震』によれば、地震学南海トラフ巨大地震は、形態や規模はさまざまだが、ほぼ100年間隔で発生する。 東海が先行し、南海が同時か、若干の年月をおいて発生する。 1096 年東海地震~ 1099

年南海地震は、その好例である。石橋によれば、この時にアムールプレート

の跳ね戻りが駿河湾奥で発生したかどうか。駿河湾地震を確認できるかどうかが大問題。

Page 29: 「祇園御霊会と南海トラフ地震」 東海学春日井シンポジウム講演

1096年 11月 24日、東海地震(M8~8,5)

直前、関白師通重病 1096 年(嘉保3) 8月23日、師通咳病。病臥長く続く。 祈祷・重病。 1096 年(嘉保3) 9月15日上表。(『大日本史料』)

1096 年 11 月 24日、東海地震京都、地震の様相 京都強震、余震きわめて多し。大極殿の柱ずれる、東寺九輪落下、 「地震之間近江國勢多橋破了、纔東西岸辺殘也、東大寺鐘落地者、藥師寺廻廊顛倒、東寺塔九輪落、法成寺東西塔立成金物落損、法勝寺御佛等光多損、凡所々塔多損云々(『藤原宗忠日記』)。 「後三條院御時大地震、今日地震良久云々」(『後二条師通記』、後三条院のときの大地震(祇園焼亡直後の地震)よりも、揺れが長かった。

津波被害、伊勢安濃津(現、津市)の住宅流失 (十二月九日裏書)後聞、伊勢國阿乃津民戸、地震之間爲大波浪多以被損云々、凡諸國有如此事、近代以來地震未有如此例也」(『藤原宗忠日記』) 津波堆積物の確認(志摩半島、遠州灘元島遺跡) 伊勢益田荘の揖斐川河口地帯の島々の水没、

Page 30: 「祇園御霊会と南海トラフ地震」 東海学春日井シンポジウム講演

1 099 年 1 月 24 日の南海地震について京都地震の様相 3年前の東海地震よりも京都の揺れは弱い。 余震はなし。 史料「廿四日、丁卯、早且陰、卯時大地震、參内即以退去、廿五日、戊辰、晴、無他行、興福寺昨日地震、西《金柱》{堂歟}小損、塔又破損云々」(『後二条師通記』

南海地震推定の根拠 土佐の地震・津波 土佐国あての弁官下文によれば、土佐で地震・津波があったらし

い(年代は一年誤記?) 史料「土佐国潮江庄康和二年正月□四日地震之刻、国内作田千余町皆以成海底畢、社領□江御庄依近海浜又以同前」とある(『兼仲卿記』紙背文書)。

Page 31: 「祇園御霊会と南海トラフ地震」 東海学春日井シンポジウム講演

地震直前に祇園宝殿震動、雷音 「去正月廿四日卯時寳殿大震動、其聲不異雷電、其後経一時許地震等也」(『続左丞抄』一、『鎌倉遺文』補163)

祇園の地震神としての噂を増幅した可能性は高い。祇園の関係などで「世間不静」の噂の記録多し(『後二条師通記』)師通風病師通、二月末に「風気」(『後二条師通記』康和一年二月二四日・二九日条)。三月下旬に発病。師通の容態

 「三年(地震の間が三年)が命を延奉らむ」という山王の猶予。その期限が切れる。 師通は6月半ばまで日記をつけ、気丈に行動しているが、6月25日に上表 上表文に「病痾所侵、近日もっとも酷」とある。

南海地震直前の祇園宝殿震動と師通の風病

Page 32: 「祇園御霊会と南海トラフ地震」 東海学春日井シンポジウム講演

はれ物=二禁 「二禁」(腫れ物)の病(『源師時日記』) 「この病は御髪際に出て悪瘡にて大に腫れさせ給へり、御看病に伺候したる輩、立烏帽子を着て前後に侍りけるが互いにみえぬ程に大に高く腫れさせ給ひたれば」(『源平盛衰記』)。「関白殿、今際にならせ給ひて、「いで先年の矢目みせん」とて、御■を押し退けさせ給へば禰宜が射られたりし所の程より■■■れ出てけり」(『山王霊験記』)

師通死去(6月28日)とはれ物

Page 33: 「祇園御霊会と南海トラフ地震」 東海学春日井シンポジウム講演

「関白殿薨去の後、八王子と三の宮との神殿の間に盤石あり、彼の石の下に雨の降る夜は常に人の愁吟する声聞へけり、餘多人の夢に見けるは束帯したる気高き上臈の仰には、『我はこれ前関白従一位内大臣師通なり、八王子権現我魂を此岩の下に籠め置かせ給へり、(中略)其苦堪え難きなり』」(『源平盛衰記』巻四)

師通死後の祟りの噂

Page 34: 「祇園御霊会と南海トラフ地震」 東海学春日井シンポジウム講演

1096年東海地震における駿河の津波と地震の状態評価

津波の可能性、大 「大地震、仏神舎屋百姓四百余流失」=津波であろう。 駿河国国解による報告 (十二月)廿三日、右少辨時範奏文書覧之、一々閲了之中、駿河國解云、去月廿四日大地震、佛神舍屋百姓四百余流失、國家大事也、民國之本也、見於書藉(『後二条師通記』)

駿河湾奥(清水湊より奥)まで震源断層が動いたか? 駿河湾北岸の浮島ケ原の湿地堆積物調査で11世紀の湿地水位

の急上昇を検出。 「静岡県中部浮島ケ原の完新統に記録された環境変動と地震沈降」『活断

層・古地震研究報告 No. 7』 駿河湾地震の評価の上で大きな問題。

おわりに

Page 35: 「祇園御霊会と南海トラフ地震」 東海学春日井シンポジウム講演

山王霊験記の理解東海地方の人々は地震の震源を日吉の祟りと考えたのではないか。そして日吉信仰を深めたのではないか。地震を起こせる神社は、地震を鎮めることができる。

師通の母・麗子、息子の死を嘆いて、駿河沼津の田地を比叡山に寄進現地に日吉神社が建つ。『山王霊験記』は、この沼津日枝神社の所蔵 これまで摂関家領の一部を寄進と理解。しかし、大岡庄は摂関家領ではない

(福田以久生「岡野馬牧と大岡庄」)。 日吉社に寄進地を探していた北政所(麗子)に関係者から寄進があって、日吉社が建立され田地が寄進されたものかもしれない。

「北政所の御願として■■■の役にて今に勤め■。又、□□□も駿川国大岡庄の役にてはじめおかれ侍しか、たうじも退転し侍らずとそうけ給ふ。さればかの庄には□□□をいはひたてまつりて、おりおりの祭礼、日々の□□□□をうつし侍とかや」(『山王霊験記』)

Page 36: 「祇園御霊会と南海トラフ地震」 東海学春日井シンポジウム講演

駿河湾地震の影響下に地震を引き起こした神威を顕彰するために、被害地で比叡山への寄進の動きが起きたと考えられないか。 『山王霊験記』

は「駿川国大岡庄」の日吉神社に残る。

これは駿河湾奥にも津波・地震被害があったことを示すのではないか。

日吉社から狩野川を東に越えた香貫の地は義朝の子どもの希義がひそんでいたところとして知られ、武士が活動する水上交通の拠点であったことが注目される。

Page 37: 「祇園御霊会と南海トラフ地震」 東海学春日井シンポジウム講演

次期研究計画検討委員会(科学技術学術審議会、地震火山部会)専門委員の経験

2014年よりの五ヶ年の地震・火山噴火予知に関する観測・研究計画を検討中であり、秋にはまとめられる予定である。東日本大震災の後、地震学・火山学を中心とした自然科学分野と実学としての人文社会科学の相互連携の必要が明瞭となっている。人文社会科学の側からいえば、歴史地震・噴火の史料や発掘痕跡の分析などの災害要因にかかわる文理融合研究、地球科学の発展と地震列島における防災教育・地学教育の在り方の再検討、地殻災害の予知・警告や危機管理に関わる情報論、減災と経済計画・国土計画の在り方についての抜本的な検討など、さまざまな課題が明らかになっている。自然科学の側からは、まれにしか発生しない大規模地震や火山噴火に関する不確かな情報をどのように社会に伝えるかが問われている。これらの課題は実際には緊密に結びついた問題領域をなしており、フォーラム「地殻災害の軽減と学術・教育」を提案するのは、そのためである。ここで、「地殻災害」とは地震、火山噴火、津波など地殻の活動に誘因される自然災害のことを指す。この間、人文社会科学をこえて問題を検討してきた人々が一堂に会し、地球科学の側の研究の状況、学際領域における文理融合的な研究への要求を直接に聞き、今後の地震・火山噴火をめぐる文理の融合と連携をどのように実現するかを議論したい。現在、地殻災害をめぐって、学術の鼎の軽重が問われている状態にあるといってよいなかで、どのような研究計画と学術体制が必要になっているかについて前進的な提案をすることを目的とする。なお、科学技術学術審議会・測地学分科会・地震火山部会・次期計画検討委員会において2014年よりの五ヶ年の地震・火山噴火予知に関する観測・研究計画を検討中であり、秋にはまとめられる予定である。科学技術審議会の建議によれば、この計画も防災研究との連携や文理融合的研究を強調するものになるはずであり、その趣旨をふまえて学界における討議を行いたいと考える。