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099 098DIVER
水中考古学
五島列島の1つ、中通島の東部に位置する潮し お や ざ き
合崎は、幕末の偉人、坂本龍馬が設立した亀山社中の小型木造船『ワイル・ウエフ号』が沈没したと伝わる場所だ。
『ワイル・ウエフ号』は、亀山社中が薩摩藩の援助を受けて購入した。慶応2(1866)年4月28日、薩長連合成立による親善のため、鹿児島に向かう途中に長州の蒸気船ユニオン号に曳航され長崎を出港。しかし甑
こしきしま
島沖付近で暴風雨に遭遇し、同年5月2日未明に中通島沖にたどり着いたが、潮合崎にて座礁・転覆したという。 地元の史料には、座礁・沈没した後の船の始末や、積み荷の引き揚げの様子が詳細に残されている。それによると、騒動を聞きつけた地元集落の人々により乗員が救助されたが、龍馬の部下である池内蔵太など12人が死亡。鉄鋼、地金、大砲、小筒、ライフル銃などが海中に沈んでいたらしい。死亡者は地元の寺の住職により葬られたが、後に龍馬の依頼で慰霊墓が建立された。地元の民宿には、ワイル・ウエフ号のかじ取り棒と伝わる約4mの材木も残されている。 それらの情報をきっかけにして、平成22年10月、潮合崎付近の潜水調査を実施することとなった。幕末の志士たちに思いをはせながら、周辺を丹念に調査したが、結果としてワイル・ウエフ号に関係する直接的な遺物を水中で発見することはできなかった。昔の記録では、沈没直後1か月半にわたり入念に荷揚げ作業が行われたとされ、その後も地元潜水夫や海女により遺物が引き揚げられたと推測されることから、目につく範囲の遺物はすべて引き揚げられていたのだろうか? 調査中には、碇
そ せ き
石と推測される角型石材の遺物を3点確認することができたのだが、碇石は同じ五島列島の小値賀島でも長年にわたる潜水調査により、多数発見されている。中通島も、水中文化遺産を有する地域であることが判明した。今後も継続して調査を行えば、『ワイル・ウエフ号』に関連するような、新しい発見があるかもしれない。いつまでも、ロマンが残る場所である。
坂本龍馬の船『ワイル・ウエフ号』沈没地?長崎県、新上五島町潮合崎
陸の遺跡とは違いまだ手つかずのものが多い水中遺跡、遺物の数々。そんな、水中に眠る日本各地の遺物を追う。第32回目は長崎県の中通島。悲劇の歴史が刻まれた、潮合崎に眠っているはずの『ワイル・ウエフ号』。その船の全貌はいまだ謎のままだ。
vol.32
考古学では何がどこにどのような状態であるかを確認することがもっとも重要です。3つの原則を守り、遺物かな? と思うものがありましたら、DIVER 編集部までお知らせください☞>[email protected]
考古学3つの原則「遺物には触らない」「遺物を動かさない」「遺物を取り上げない」
水中文化遺産カメラマン/アジア水中考古学研究所(ARIUA)研究員/水中考古学研究所会員/南西諸島水中文化遺産研究会会員/ The International Research Institute for Archaeology and Ethnology 研究員
写真=山本 遊児山口大学大学院人文科学研究科考古学専攻修了。中津市役所勤務。NPO法人アジア水中考古学研究所会員。
文・解説=吉川奈央
1.【発見された碇石①】小型の角柱型の碇石が発見された。スケールで大まかな大きさを測る。2.【発見された碇石②】長さ約 85㎝。先端に向かって細くなる先細りタイプの碇石。先端は折れた痕が見られた。3.【発見】自然の作用ではできないような形を見つけることがコツ。4.【伝承者】江ノ浜郷に居住している原 一利さんの祖父は救助活動に参加し、その様子は代々言い伝えられてる。『ワイル・ウエフ号』の座礁やその後の救助活動を歌った「汐や騒動の唄」なるものもある。5.【龍馬像】潮谷崎の方向を向かい合掌している。当時「寺田屋事件」で傷を受け、鹿児島で療養中だったが知らせを受けてすぐに駆けつけたという。
はら かずとし
5
1
2
43
中通島
山本遊児 × 吉川奈央
○潮合崎