F. Nietzsche, Sämtliche Werke: Kritische...

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2015年8月1日GACCOH教養講座 「やっぱり知りたい! ニーチェ」第一回 人生と思想の変遷

ナビゲーター 谷山弘太

はじめに:哲学するとはどういうことか? 

哲学を学ぶことはできない、[…]哲学することを学びうるのみである

(カント『純粋理性批判』)

 本日はお集まりいただき誠にありがとうございます。今回は、19世紀ドイツの哲学者、フリードリヒ・ヴィルヘルム・ニーチェについてお話しさ

せていただきたいと思います。さっそくですが、みなさんはニーチェについてどのようなイ

メージをお持ちでしょうか? 「神は死んだ」というニーチェの言葉は、広く哲学史の中で最

も人口に膾炙した言葉の一つでしょう。キリスト教の批判者、道徳的秩序の破壊者ニーチェ、

というイメージは一般にも定着しているかと思われます。事実、カントが典型的な思想体系の

建築家であるとすれば、ニーチェは典型的な体系の解体者であると言えます。しかし、ニー

チェが破壊するのは、他人が苦労してせっせと積み上げた体系ばかりではありません。何より

も、ニーチェ自身の中でその都度形成される体系(らしきもの)をこそニーチェは絶えず突き崩

していきました。前提一般に対する鋭い嗅覚。体系の前提というものは、それがまさに体系を

支える前提であるが故に、当の体系の中では問うことができず、それどころか問いの存在すら

認められません。そのようにして自明視される、あるいはそのことすら意識されない前提を、

ニーチェは絶えず掘り起し、問い直していきます。弛まぬ問いの営みこそが哲学であるなら

ば、ニーチェはこの点でまさに哲学者と呼ばれるにふさわしい。ニーチェ思想には、「神の

死」や「永劫回帰」といったそれ自体魅力的な教説が多くありますが、私にとって最も魅力的

で感動すら覚えるのは、生涯変わることのなかったニーチェのこの哲学的な姿勢です。本日

は、そうした哲学的姿勢が生み出したニーチェの思想の変遷を可能限り追ってみたいと思いま

す。ニーチェの激動の生涯を通じて、哲学するとはどういうことか? をみなさんと一緒に改

めて考えるきっかけとなればと願っています1。

ニーチェの生涯

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1 ニーチェのテクストは次のものを使用しました。F. Nietzsche, Sämtliche Werke: Kritische Studienausgabe. hrsg.v. G. Colli und M. Montinari, München, Berlin/New York, 1999. 原文の強調は全て省略。強調その他は全てに筆者による。訳出に際しては、白水社とちくま学芸文庫のものを参考にし、適宜訳を変更しました。

年表1844年 10月15日フリードリヒ・ヴィルヘルム・ニーチェ誕生。

ライプチヒ西南のレッケン村にて。父カール・ルードヴィヒは牧師。父ニーチ

は1849年ニーチェ5歳のときに他界。1858年 名門プフォルタ学院に入学。1864年 ボン大学神学部入学。神学と古典文献学を学ぶ。しかし、信仰を失う。1865年 ボン大学からライプチヒ大学へ。ショーペンハウアーの『意志と表象としての世界』

を読む。

1868年 音楽家リヒャルト・ワーグナーと出会う1869年 恩師リッチェルの後押しもあり、バーゼル大学の古典文献学員外教授に就任。当時24

才。翌年正教授。1872年 処女作『悲劇の誕生』刊行。1876年 第一回バイロイト音楽祭にてワーグナーの「俳優ぶり」に失望。体調不良。

1878年 『人間的、あまりに人間的』刊行1879年 体調悪化のためバーゼル大学退職。1881年 シルス・マリーアにて「永劫回帰」思想に襲われる。1882年 ルー・ザロメとの出会い。『悦ばしき知識』刊行。1883年 『ツァラトゥストラ』第一部刊行。

1887年 『道徳の系譜』刊行。1888年 『偶像の黄昏』を含む5冊を1年で書き上げる。1889年 1月3日 イタリア、トリノにて、御者に鞭打たれる馬の首に抱きつき、発狂。1900年 8月25日 ワイマールにて、肺炎を患い死去。享年55才。

幼少期から青年期 ニーチェの生涯については年表にある通りですが、時期を区切ってもう少し詳しく見ていくことにしましょう。キリスト教の批判者としてのイメージばかりが広がっているように思われますが、まず注意

していただきたいのは、ニーチェがプロテスタントの牧師の家に生まれているということで

す。実際、すでに幼少期には「小さな牧師さん」とあだ名されるほどに聖書や賛美歌に親しんでおり、ニーチェ自身将来は父の跡を継いで牧師になることを目指していました。すでに当時からその優れた知性は周囲の注目を引き、将来を嘱望される子供だったようです。実際、14才のときに、名門プフォルタ学院への入学が認められています。ニーチェのこの出自は重要です。というのも、後年のニーチェのキリスト教批判には、それ

がニーチェ自身の自己批判であったという側面があるからです。そして、この自己批判というものは、ニーチェ思想全体を通して重要なモチーフでもあるのです。ともかく、後年の秩序の破壊者としてのニーチェからは想像もできないほど、当時のニー

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チェは品行方正な子供だったようです。あるいは、品行方正過ぎると言うべきかもしれません。当時のニーチェの性格をよく表しているエピソードがあります。ニーチェが小学生の時、下校時に烈しいにわか雨が降ったことがありました。他の児童が走って帰る中、ニーチェだけはゆっくりと歩いて帰ったそうです。そのせいでびしょ濡れになったニーチェを見て、母親が

そのことを叱ると、ニーチェは大真面目に答えたそうです。「けれどママ、校則にはこうあります、―生徒は下校の際に跳んだり走ったりせず、ゆっくりと行儀正しく家へ帰らなければならない、って。」(エリザベート・ニーチェ『ニーチェの生涯(上) 若きニーチェ』、浅井真男監訳、河出書房新社、34頁) このエピソードに触れるたびに、後年のニーチェが執拗にまで道徳的規範を攻撃したことは、幼少期の反動であったのではないかと思わされます。しかしそれは

推測の域を出ません。無論、年相応のやんちゃもあったようですが、しかしそれもかわいいもので、非の打ちどこ

ろのない優等生というのが当時のニーチェでした。しかし大学に上がるころになると、転機が訪れます。信仰の喪失がその一つです。ダーヴィット・シュトラウスの『イエスの生涯』を読んだことが大きな影響を与えたようです。いずれにせよ、そのことでニーチェは母親と大喧嘩を

しています。こうしてニーチェは古代ギリシアの研究を旨とする古典文献学の世界にのめり込んでいくことになるのですが、その一方でこの時期に哲学者アルトゥール・ショーペンハウアーの主著『意志と表象としての世界』に出会っています。古本屋でこの本を購入したニーチェはそれを下宿に持ち帰り、読みふけります。ショーペンハウアーのペシミズムは以後ニーチェの哲学に多大な影響を及ぼすことになりますが、その最大の影響は、「生きることに意味

はあるのか?」という問いをショーペンハウアーから受け継いだことです。人間の生を如何に肯定するか? これこそニーチェが生涯追求し続けた問いに他なりません。

前期ニーチェ:芸術家―形而上学 当時ニーチェの指導に当たっていた古典文献学の権威フリードリヒ・リッチュル教授は、

ニーチェの卓越した知性に圧倒されます。リッチュルの強い推薦を受けて、ニーチェはバーゼル大学の古典文献学客員教授に24才の若さで就任し、翌年には正教授になります。これは当時としても異例の出世であり、ニーチェは期待の新星として一躍脚光を浴びます。これがニーチェが生前に公の注目を浴びる最初の機会であり、そして最後の機会ともなります。ニーチェの評判を失墜させたのが、処女作『悲劇の誕生』(1872年:以下『悲劇』と略記)の出版でし

た。『悲劇』を出版する数年前、ニーチェにある重大な出来事が起こります。音楽家リヒャル

ト・ワーグナー(1813-1883)との出会いです。ニーチェは、芸術によって新しい時代を築かんとする革命家の姿をワーグナーの中にみとめ、すぐにワーグナーに夢中になります。あるいは、早くに亡くした父親の影をワーグナーに重ねていたのかもしれません(ワーグナーとニーチェの

父親は同い年)。ワーグナーはニーチェにバイロイト祝祭劇場の建設計画を語ります。『悲劇』は、その思想的な後方支援という性格を持っているのです。

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<『悲劇の誕生』>ここで『悲劇』の内容を簡単にお話しましょう。その思想を一言で表せば「芸術家―形而上

学」となります。『悲劇』の表向きのテーマは古代ギリシア悲劇の誕生を純粋に美的な現象と

して説明することにあります。古代ギリシア悲劇は、造形・秩序を司る神アポロンと破壊・混沌の神ディオニュソスとの奇蹟的な結婚によって成立したとされます。ニーチェによれば、人間には絵画などの造形芸術を産み出す「アポロン的」衝動と音楽などの非造形芸術を産み出す「ディオニュソス的」衝動があり、ギリシア悲劇は容易には両立し難いこれら両衝動を同時に満たしてくれる稀有な芸術として特徴づけられます。しかし当然ながら、話は芸術作品として

のギリシア悲劇だけでは終わりません。悲劇は、当時のギリシア人をして現実の世界をも悲劇として見ることを可能にしたとニーチェは言います。彼らにとって世界は、悲劇が悲劇作家によって作られるように、ある根源的な芸術家によって作られたものとして感じられた。この「悲劇的世界観」は、美的な快感によって、世界の悲惨の実相をもありのままに肯定することを可能にします。生存の美的肯定。これこそが、「生きることに意味はあるのか?」というか

の問いに対して、当時のニーチェが与えた解答です。こうして、

ただ美的現象としてのみ生存と世界は永遠に是認されている(『悲劇』第5節)

という有名なテーゼが導出されます。しかし、ギリシアの悲劇時代の繁栄は短かった。理知主

義を信奉するソクラテスの影響によって、悲劇から形而上学的要素が剥ぎ取られ、悲劇は単なる現実の皮相な模写へと堕していきます。それと同時に、生存の美的肯定もまた失われることになりました。ニーチェにとって、この苦難の時代に彗星の如く現われたのがワーグナーでした。ワーグナーこそ古代ギリシア悲劇とその「悲劇的世界観」を復活させる救世主に他ならない、というわけです。こうして『悲劇』はワーグナー讃美をもって大団円を迎えます。

以上が『悲劇』の(極めて乱暴な)概要になりますが、それに対する周囲の反応は、ワーグナーや一部の友人を除いて、大変冷ややかなものでした。それもそのはずで、『悲劇』は、古典文献学の実証的手法からは完全に逸脱しているからです。無論そこには旧態依然とした当時の古典文献学へのニーチェなりの批判もあったようです。しかし、恩師リッチュルもニーチェ

のこの奇行には強く失望しました。こうして古典文献学界でのニーチェの評判は地に落ちることになりました。

1876年、完成したバイロイト祝祭劇場における第一回バイロイト音楽祭での事件がニーチェにさらに追い打ちをかけます。ニーチェがそこで目にしたのは、芸術による世界の救済者ではなく、パトロンや取り巻き連中の間で巧みに振舞う「俳優」としてのワーグナーでした。その

俗悪な姿に幻滅したニーチェは上演途中で席を後にします。

中期ニーチェ:形而上学・道徳の批判

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 ニーチェは反省を余儀なくされます。『悲劇』であれほど望みをかけたワーグナーも所詮ブルジョワ社会の一員に過ぎませんでした。壮大な形而上学や天才崇拝といったそれまでの傾向はもはや維持できない。ニーチェに最初の深刻な自己批判が訪れます。先に見たように、『悲劇』では形而上学という前提に則って生存の意味が論じられました。今や形而上学というこの

前提そのものが批判の対象となります。なるほど、生存は形而上学によって肯定されるかもしれない、しかし何故に形而上学なのか、と。ニーチェの批判が向かうのは、人々が、そして他の誰よりも自分自身が、形而上学を必要とするその心性です。そしてニーチェはそこに「人間的、あまりに人間的な」卑小で些末な心性を見て取るのでした。そのような自己批判から生まれた著作がまさに『人間的、あまりに人間的』(1878年:以下『人間的』と略記)と題された中

期ニーチェを代表する著作なのです。

<『人間的、あまりに人間的』> 中期ニーチェ哲学に位置づけられる著作には『人間的』、『曙光』、『悦ばしき知識』(1882年:以下『知識』と略記)がありますが、『知識』は除くにしてもこの時期の著作は一般

にはあまり知られていません。しかし、後期ニーチェにまで続くその後のニーチェの哲学はこの時期に大きくその方向性が決定されています。とりわけ、『人間的』はその意味では重要な著作であると言えます。というのも、『人間的』で打ち出される形而上学批判はニーチェが晩年まで堅持する基本姿勢であるからです。またそのための方法論としての歴史学という発想も後に有名な「系譜学」へと受け継がれていきます。ここではニーチェの形而上学批判の基本的

戦略を簡単に確認しましょう。

  これは戦争である。ただし火薬も硝煙もない戦争、戦闘的身構えも、激情もなく、手足がねじれたりすることもない戦争である―そんなものがいくらあったって、それはまだまだ「理想主義」だ。私の本の中では、誤謬が次から次へとそのまま静かに氷の上へ置かれ

る。つまり理想は別に反駁されるわけではなく―ただ凍え死ぬだけなのだ・・・たとえばここでは「天才」が凍え死に、その先少し行った所では「聖者」が凍え死に、そうかと思えば、太い氷柱の下では「英雄」が凍え死んでいる。そして最後に「信仰」が、いわゆる「信念」が凍え死に、「同情」もまた著しく冷却する―ほとんど至る所で「物自体」が凍え死んでいる・・・ (『この人を見よ』)

 晩年に書かれた自伝『この人を見よ』(1888年:以下『この人』と略記)でニーチェは『人間的』の批判をこのように振り返っています。その最大の特徴は、形而上学に対してまさに真っ向からの批判―形而上学の誤謬を明らかにするという意味での批判―を控えるという点にあります。この逆説的な戦略は、無論、形而上学というものに対するニーチェの深い洞察に基づいて

います。その洞察とは、カントが『純粋理性批判』で主張したように、形而上学的問題はその真偽を究極的には決定できないというものです。例えば、神の非存在を証明することは、神の存在を完全に証明するのと同様に極めて困難です。ほとんど不可能であると言ってもよいで

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しょう。逆に言えば、神の存在証明に対してその反対証明を、その反対証明に対してさらにその反対証明を提出することはどこまでも可能なのです。そしてこれは再三繰り返された歴史的事実でもあります。ここで、一つの疑問が生じてきます。「なるほど、神の非存在を証明することはできない、その限り、神の存在を信じることは可能である、しかし何故むしろ神の非存

在を信じないのか? 何故敢えて神の存在の方を信じるのか? 神の存在も同様に証明不可能であるにもかかわらず」。問題は、理論の領域にあるのではない。むしろ、その理論を信奉する人間の方にあるのです。証明不可能な形而上学的世界をそれにもかかわらず信じようとする人間の心性を認識すること。こうした認識にこそ『人間的』のニーチェの批判の核心があります。さて、ニーチェの答えはこうです。「君たちが理想的な物を見る所で、私は―人間的な、あ

あ、あまりに人間的なもののみを見るのだ!」(『この人』) ニーチェは形而上学信仰の背後にある卑小で醜い人間的な心性を暴露します。そのようにして形而上学に対する一般的な幻滅を引き出すことに成功すれば、もはや形而上学上の論争に対する関心は失われることになるでしょう。認識による形而上学からの解放、ニーチェはこれこそ形而上学に対する唯一可能な批判であると考えたのです。

 しかし、そうした心性とはどのようなものなのでしょうか? これに対してニーチェは自らをその具体例として提示しています。つまり、『悲劇』において何故自分はあのような形而上学を、ワーグナー崇拝を必要としたのか? そこには、古典文献学を職業として選択したという事情があったとニーチェは言います。当時ニーチェはすでに古典文献学の意義に疑問を抱いていました。ニーチェの目には、当時の古典文献学はテクストの細かな解釈にのみ拘泥し、テ

クスト全体の意義というものをともすれば見失っているように映りました。とりわけニーチェにとって重要だったのは、古代ギリシア世界の存在意義でした。むしろそうした問題を扱う哲学をこそ自分は専門とすべきだったのではないか? こうした事情が自分を形而上学やワーグナー崇拝へと向かわせたのだとニーチェは診断します。それらは当時の迷いや不満を紛らわせ麻痺させるためのものに過ぎなかったのだ、と。

こうしてニーチェ哲学は180度の転回を迎えます。壮大な、空想的とも言える形而上学から、ニーチェは現実的・実証的な真理の認識へと大きく舵を切ります。上で見たように、その起点となった『人間的』は紛れもなくニーチェの自己批判から結実した著作です。そこには自らに錯誤や迷妄を厳しく禁ずるニーチェの誠実さが如実に表れています。真理に対するこの誠実さ

こそこの時期のニーチェが最も重視した徳に他なりません。私はニーチェのこうした姿勢に深い感銘を受けます。しかし本当に感動を禁じ得ないのは、ニーチェの誠実さがまさにこの「誠実さ」そのものに向けられることです。自らの誠実さまでも疑問に付さざるを得ないほどの誠実さ。それは「真理への意志」批判として後期ニーチェ哲学における重要な問題の一つとなります。ニーチェの最大の自己批判が敢行されるのはまさにこの時です。しかしそれにはもう少

し時間を要しました。

『人間的』の次に位置する著作『曙光』(1881年)においてニーチェの批判は道徳の問題へと

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収斂していきます。道徳こそ人間の実存を根底から規定するとして、ニーチェは道徳の批判に着手します。それは後にニーチェ哲学の代名詞となる「あらゆる価値の価値転換」の始まりでもあります。しかしニーチェの道徳批判は(あるいは一般に誤解されているように)単なる無秩序をよしとするものではありませんでした。そのことをよく表している一節を『曙光』から引用

しておきましょう。

自明なことであるが―私が愚か者でないとすれば―、非倫理的と呼ばれる多くの行為は避けられ、克服されるべきであるということを、私は否定しない。同様に、倫理的と呼ばれる多くの行為は実行され、促進されるべきであるということを否定しない。―しかし私は

思うのだ。前者も後者も、これまでとは別な理由からそうされるべきだ、と。[…] (『曙光』103節)

 ニーチェが道徳批判によって目指したのは、道徳の悪しき影響を認識し、よりよき生の可能性を探求することに他なりません。ニーチェの道徳批判については第二回の講座で詳しく論じ

るつもりですのでここでの詳論は避けますが、ここでこの「よりよき生」の内実が当然問題になります。しかし『曙光』のニーチェはこの点を必ずしも明らかにしていません。というよりもむしろニーチェはその探求自体に一定の意義を見いだしていたように思われます。概して中期ニーチェ哲学の特徴は、認識の内容そのものよりも認識そのものの意味を重視することにあります。先に「生きることに意味はあるのか?」という問いがニーチェ哲学の変わらぬ主題で

あると述べましたが、この時期のニーチェにとっては、認識によって形而上学や既存の道徳から身を引き剥し新たな生を探求することそれ自体が生きる意味であったと言い得るでしょう。

後期ニーチェへの移行:ルー・ザロメとの出会いと別れ 少し時間を遡りましょう。あのバイロイト音楽祭から数か月後、ニーチェはイタリアのソレ

ントでワーグナーと再会します。ニーチェは休暇旅行中であり、ワーグナーも家族を伴ってそこを訪れていたのでした。それは偶然の再会であり、そして最後の再会となりました。夕暮れ頃、ニーチェとワーグナーは二人だけで散歩に出かけます。ニーチェはそこでワーグナーから『パルジファル』の構想とキリスト教への転向の意向を聞かされました。それはニーチェにとっては決定的なことでした。「―そんなばかなことが! ワーグナーが信心深くなってし

まったなんて・・・」(『この人』) 日は沈みました。ニーチェは何も言えずにその場を後にします。以後二人が再びまみえることは二度とありませんでした。後年ニーチェはワーグナーとの友情を「星の友情」というアフォリズムで振り返っていま

す。長文ですが、美しい文章ですので、引用しておきましょう。

星の友情。―我々は友人であったが、互いに疎遠になってしまった。けれど、そうなるべきが当然であったのであり、それを互いに恥じるかのように隠し合ったり晦まし合ったりしようとは思わない。我々は、それぞれの目的地と航路とをもっている二艘の船である。

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もしかしたら我々は、すれ違うことがあるかもしれないし、かつてそうだったように相共に祝祭を寿ぐことがありもしよう、―あのときは、この勇ましい船どもは一つの港のうちに一つの太陽の下に安らかに横たわっていて、すでにもうその目的地に着いたように、そして同一の目的地をめざしていたもののように見えたかもしれない。しかしやがて、我々

の使命の全能の力が、ふたたび我々を分かれ分かれに異なった海岸と地帯へと駆り立てた。そして、おそらく我々は、またと相逢うことがないであろう―万が一、相逢うことがあるとしても、もう互いを見知ってはいないであろう。さまざまの海洋と太陽が、我々を別な者に変えてしまっているのだ! 我々が互いに疎遠となるしかなかったということ、それは我々の上に臨む法則なのだ! まさにこのことによって、我々はまた、互いに一層

尊敬し合える者となるべきである! まさにこのことによって、我々の過ぎし日の友情の想い出が、一層聖なるものとなるべきである! おそらくは、我々のまことに様々な道筋や目標が、ささやかな道程として包みこまれるような、巨大な目に見えぬ曲線と星辰軌道といったものが存在するのだ、―こういう思想にまで、我々は自分を高めようではないか! だが、あの崇高な可能性の意味での友人以上のものでありうるには、我々の人生は

あまりに短く、我々の視力はあまりに乏しい。―されば、我々は、互いに地上での敵であらざるをえないにしても、我々の星の友情を信じよう。(『知識』279番)

さて、この頃(1870年代後半)からニーチェの健康状態は徐々に悪化していきます。もともとニーチェは極度の近眼で、それに起因すると思われる眼痛や頭痛にたびたび悩まされていまし

たが、1879年にはついにバーゼル大学での教授職を辞職せざるを得ないほど病状は深刻なものとなりました。ニーチェは療養地を求めて各地を転々とすることになります。特にスイスのシルス・マリーアはニーチェのお気に入りの避暑地となります。「漂泊者」(『漂泊者とその影』1880年、後に『人間的』第二巻として再版される)としての生活の始まりです。そしてそれはニーチェが明確に哲学者としての道を歩む始まりでもありました。

ここで余談として、ニーチェが経験した数少ないロマンスの一つを紹介しておきましょう。有名なルー・ザロメ(1861-1937:当時21歳)との出会いです。1882年、共通の知人パウル・レーを介して、ニーチェはルー・ザロメと知り合います。ニーチェはすぐにザロメに恋をします。しかし厄介なことに友人レーもまた彼女に想いを寄せていたのでした。彼ら三人はそれぞ

れの学問的関心から共同の研究生活を計画します。ニーチェはそれを「三位一体」と表現しました。こうして三者は奇妙な三角関係に入っていきます。ニーチェの提案によって撮影されたという当時の(悪趣味な)写真が残されています。ニーチェとレーが馬車を運ぶ馬に見立てられており、御者であるザロメの手には鞭が握られています。『ツァラトゥストラはかく語りき』(以下『ツァラトゥストラ』と略記)の一節―「女のところに行くのか? ならば鞭を忘れるな!」

(『ツァラトゥストラ』第一部)―は、女性蔑視的なニーチェの価値観を表しているとも言われますが、この写真を見る限り、あるいはニーチェのマゾヒスティックな願望の現われとも解釈できるのかもしれません。

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いずれにせよ、ニーチェは15才以上も年下のこの女性が持つ美貌とその類まれなる知性にすっかり夢中になります。しかしニーチェの場合、そこには単なる男女の恋愛という以上の意味が込められていたようです。つまり、ニーチェはザロメを自らの哲学の後継者に育てようとも考えていたようです。それほどにこの才女の知性はニーチェを魅了したのでした。事実、

ニーチェはまだ公にしていなかった「永劫回帰」思想をザロメに打ち明けてもいます。しかし、ザロメへのニーチェの想いは無残にも打ち砕かれることとなりました。ニーチェはザロメに求婚しますが、その返事はつれないものでした。それどころか、ザロメはニーチェよりもレーの方を選びます。二人は、ニーチェを残してベルリンへと旅立ってしまうのでした。こうしてニーチェは、最愛の女性のみならず友人までも失うこととなり、さらにはザロメのこと

で、妹や母親とも不和に陥っていくのでした。

後期ニーチェ:ニヒリズムの極北と生の肯定 こうしてニーチェはますます孤独を深めていくことになりました。しかしその反面、ニーチェ哲学が全面的な開花を迎えるのもこの時期からなのです。伝記的な事実を確認すると、ま

ず1881年夏、シルス・マリーアのシルヴァプラーナ湖畔にて「永劫回帰」思想が啓示のようにニーチェを襲います。次いで翌1882年に公刊した『知識』において、「永劫回帰」、そして「神の死」が初めて公刊著作に現われます。さらに、後に『力への意志』と総称されることになる遺稿群が書き始められるのもこの時期です。続いて1883年初頭、ニーチェはこれまた突然『ツァラトゥストラ』の着想を得て、それから一気に『ツァラトゥストラ』第一部を書きま

す。かの有名な「超人」思想が登場するのがこの本です。『ツァラトゥストラ』が書き上げられたその日は、奇しくもワーグナーがヴェネツィアで息を引き取ったのと同じ日であったとニーチェは言っています(『この人』)。その後ニーチェは『ツァラトゥストラ』を第4部まで順調に書きつづけ、1886年には『善悪の彼岸』を出版します。我々が次回以降扱う予定の『道徳の系譜』が出版されるのは翌1887年のことです。1888年には1年で5冊もの著作が書き上げられ

ました。しかし、この頃からニーチェの精神は安定を失い始めます。異常なまでの気分の高揚を伴う多幸症的症状が見られるようになるのです。1889年1月初め、イタリアのトリノでニーチェはついに発狂しました。御者に鞭打たれる馬を見て、突然その首に抱きつき泣き出した後、昏倒したというのです。友人たちに送られた常軌を逸した手紙によってニーチェの発狂は発覚しました。例えば、コジマ・ワーグナー夫人の手には次のような手紙が届きました。「ア

リアドネよ、我汝を愛す。 ディオニュソス」 手紙を見て、事態の異常さを察知した友人がニーチェの下に駆けつけ、ニーチェを連れて帰ります。家族の下に送られ治療が施されましたが、ニーチェが精神の闇を脱することは2度とありませんでした。発狂から11年後、1900年8月25日、ニーチェはワイマールで息を引き取りました。享年55才。

<「神の死」> それでは、後期ニーチェ哲学の内容の方に移りましょう。上で見たように、「神の死」・「力への意志」・「超人」・「永劫回帰」といったニーチェ哲学の代名詞とも言える諸々のモ

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チーフが登場するのは、全てのこの時期です。これらのモチーフは、それぞれ驚くべきほどの深みを持ち、また根底において互いに密接に関連しています。その全てをここで余すことなく紹介するなどということは望むべくもありません。そこで今回は、今後それらの理解を可能にするためにも、後期ニーチェがそもそもどのような問題と格闘していたのかを紹介するにとど

めたいと思います。その問題こそ、「神の死」の問題なのです。 「神は死んだ」と言うことでニーチェは実際何を考えていたのか? すぐに思いつくのが、それがキリスト教信仰の喪失であるということです。事実ニーチェは「「神は死んだ」ということ、キリスト教の神の信仰が信ずるに足らぬものとなったということ」(『知識』343番)と言っています。これは、キリスト教の批判者ニーチェのイメージにもぴったり合致します。し

かしあるいは意外なことかもしれませんが、ニーチェは必ずしも「神の死」を手放しで歓迎すべき出来事と捉えていたわけではありません。「神の死」が語られる最も有名な一節からそれを読み取ることができます。

狂気の人間。―諸君はあの狂気の人間のことを耳にしなかったか、―白昼に提灯をつけな

がら、市場へ駆けてきて、ひっきりなしに「おれは神を探している! おれは神を探している!」と叫んだ人間のことを。―市場には折しも、神を信じない人々が大勢群がっていたので、たちまち彼はひどい物笑いの種となった。「神さまが行方知れずになったというのか?」とある者は言った。「神さまが子供のように迷子になったのか?」と他の者は言った。「それとも神さまは隠れん坊したのか? 神さまはおれたちが怖くなったのか? 

神さまは船で出かけたのか? 移住ときめこんだのか?」―彼らはがやがやわめき立て嘲笑した。狂気の人間は彼らの中にとびこみ、穴のあくほどひとりひとりを睨みつけた。「神がどこへ行ったかって?」、と彼は叫んだ、「おれがお前たちに言ってやる! おれたちが神を殺したのだ―お前たちとおれがだ! おれたちはみな神の殺害者なのだ! […] (『知識』124番)

まず、神を殺したとされる「お前たちとおれ」とは誰なのでしょうか? それは、我々近代人です。より厳密に言えば、近代科学精神によって育まれた我々近代人です。事実、ニーチェが生きた19世紀後半には、近代科学の隆盛を受けて宗教の権威はすでに大幅に失墜していました。如何なる超越的原理にも頼ることなく世界を説明し尽そうとするのが科学の試みであるな

らば、科学の成功は神が不要になったことを意味します。中期ニーチェの取り組みもこの流れに掉さすものであったと言えるでしょう。しかし、これだけの内容では、ニーチェの「神の死」は当時広がりつつあった無神論の一般的な宣告以上の意味を持ちません。そこで注意すべきなのが、「神の死」は、神を信じている人々ではなく、まさに無神論者たちに対して告げられている、ということです。ニーチェが「神の死」を敢えて彼らに改めて突きつけるのは、彼

らがその出来事の重大さ、その真の意味をまるで認識していない、と考えていたからなのです。「神の死」の真の意味、ニーチェはそれをこう表現します。「至上の諸価値が価値を失うこと」(1887年遺稿)、すなわち、「ニヒリズム」。というのも、神とは、「至上の諸価値」

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を、つまり既存の諸々の生きる意味を底の底で支えてきた基盤であるからです。神という基盤が引き抜かれれば、その上に築かれてきた生きる意味の体系も瓦解することになる。例えば、平等・自由・愛なども、神なくしては、その究極の保証を失うことになるでしょう。「神の死」の帰結は、生きることの無意味さの露呈です。それは、「生きることに意味はあるの

か?」というかの問いが顕在化することでもあります。いずれにせよ、近代人はまだこの帰結に気が付いていない。「狂気の人間」は言います、

「おれは早く来すぎた」、と彼は言った、「まだおれの来る時ではなかった。この恐るべき出来事はなおまだ中途にぐずついている―それはまだ人間どもの耳には達していないの

だ。電光と雷鳴には時が要る、星の光も時を要する、所業とてそれがなされた後でさえ人に見られ聞かれるまでには時を要する。この所業は、最も遠い星よりもさらに遥かに遠いものだ―にもかかわらず彼らはこの所業をやってしまったのだ!」 (『知識』125番)

 このように見てみると、「神の死」という事態は少しも望ましいものではないかのようにす

ら思われてきます。しかしニーチェはむしろそれを積極的に推し進め、その最終的帰結を引き出そうとします。ニヒリズムの徹底のみがニヒリズムを超克する唯一の方法である、と言うのです。あらゆる生きる意味の無意味さを一度徹底的に認識するのでなければその先の展望は開けない。そのために、まず必要となるのが、「神の影」(『知識』108番)を克服することです。「神の影」とは、究極的には神信仰に由来するものの、今のところ理想としてまだ機能し続け

ている諸価値のことを言います。すでにその例として平等・自由・愛を挙げておきました。今、これらにもう一つ、「真理」という理想を加えてみましょう。かくして「神の死」の問題は「真理への意志」の問題に接続されることになります。ここに、ニーチェの最大の自己批判が始まるのです。

<「真理への意志」> すでに見たように、中期以来、「真理への意志」はニーチェ哲学の駆動力となってきました。「誠実さ」・「知的良心」とも言い換えられますが、それはさし当り、真理に最大の価値を置く意志のことを指します。そしてこの意志こそが、近代の科学的精神として神の殺害者となったのでした。神の存在が究極的には決して証明され得ない以上、「真理への意志」は神の

信仰を認めるわけにはいきません。さて、ニーチェは次のように問います。この意志は、「欺かれまいとする意志であるのか? それとも、欺くまいとする意志なのか」(『知識』344番)? と。この違いは重要です。というのも、前者の場合には、欺かれることは損失であるという意味で、問題は利害関心に収斂することになってしまうからです。しかしそうではないのです。「「真理への意志」とは、「私は欺かれたくない」」ということを意味するのではなく、むし

ろ―選択の余地なく―「私は欺きたくない、自分自身をも欺きたくない」ということを意味する」(『知識』344番)。要するに、無根拠な信念を抱懐することは、「良心に背く」(『知識』357番)というのです。

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しかし疑うことができないのは、我々に対してもやはり「汝なすべし」が語りかけ、我々もやはり、我々を越えた厳しい法則に服従する、ということである。―そしてそれこそ、我々にとってもやはり耳にすることができ、我々もやはりそれを生きることができる、最

後の道徳なのである。もしどこかでそうだとすれば、ここでこそ、我々もやはり良心の人間なのである。(『曙光』序文3節)

こうして「真理への意志」もまた一つの道徳的現象であることをニーチェは自覚します。この場合道徳的現象とは、無条件に、言い換えれば根拠を提示することなく、「汝為すべし」を

命じるもののことを言います。従って、根拠を問い真理を重視する「真理への意志」自体の根拠がこれまでは不問のままであったということになります。ニーチェの誠実さは今や自身の誠実さを問いたださなければなりません。すなわち、誠実でなければならないのは何故なのか? そもそも何故これほどまでに誠実という徳を重視するようになったのか? 無論、これはニーチェ自身の自己批判です。しかし、話はニーチェ個人だけにとどまるものでは到底ありません

でした。ニーチェがここで見いだす洞察は驚くべきものです。

そもそもキリスト教の神に打ち勝ったものの何であるかが我々には明らかである。それは、キリスト教的道徳性そのもの、いよいよ厳しく解された誠実性の概念、科学的良心にまで・一途一徹の知的清廉にまで翻転され昇華されたキリスト教的良心の聴罪師的鋭さ、

であった。(『知識』357番)

「真理への意志」はキリスト教に由来する。「キリスト教のひたむきな誠実さ」(『知識』377番)、自身の罪の有無をすすんで検閲にかける飽くなき自己批判の精神、その最終発展形態が「真理への意志」だと言うのです。その限り、この意志は神の存在を前提にしている、と言わ

なければなりません。「真理への意志」もまた「神の影」に過ぎない・・・そして、これは誠実性を重んじる「真理への意志」の前提自体が不誠実なものだったということを意味します。誠実であることは不誠実であるというこの逆説。今や、「真理への意志」は自己自身を批判せざるを得ません。

あらゆる偉大な事物は、自己自身によって、自己止揚のはたらきによって没落する。生の法則が、生の本質にひそむ必然的な<自己超克>の法則が、これを欲するのだ。―「汝自身の制定したる法に服せよ」という叫びは、ついにはいつも立法者自身に向けられるのだ。かくして教義としてのキリスト教は、おのれ自身の道徳によって没落した。かくして今や道徳としてのキリスト教もまた没落せざるをえない 『道徳の系譜』第三論文27節)

「真理への意志」とキリスト教は、初めは相対立する別々の二つの勢力に見えましたが、実はその根底を共有していました。どころか、前者はまさに後者の地盤から成長してきたものだったのです。そうだとすると、「真理への意志」によるキリスト教の神の殺害も、「真理へ

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の意志」の自己批判も、全てキリスト教の自己批判であったということになります。そしてこの過程は、前期から中期へ、中期から後期へというニーチェ哲学の自己批判の変遷過程にぴたりと一致します。ニーチェは自らの自己批判の内にキリスト教の自己批判が完遂されるのを見たのです。ニーチェはこのようにして自身の哲学に世界史規模の意義を見いだしたのでした。

改めて問いましょう。「神の死」とは何だったのか? あるいは何であるのか? それは、キリスト教が自身の精神に則って自己自身を止揚するという歴史的出来事の謂いなのです。ニーチェは言います。「―この出来事の閾に我々は立っているのだ」(『道徳の系譜』第三論文27節)、と。

結びに代えて―<「等しきものの永劫回帰」> 神とともに、あらゆる「神の影」もいずれは死を迎えます。平等・自由・愛はもちろん、真理さえも信じるに値しないのだということが明らかとなります。「生きることに意味はあるのか?」 生きることに意味はない。それがニーチェの答えです。もはや誤魔化し得ない「ニヒリズム」、これこそが後期ニーチェ哲学が格闘した問題なのです。そして、まさにこの文脈に

おいて、有名な「等しきものの永劫回帰」という思想が導入されることになります。 「永劫回帰」の思想とは、「あらゆるものごとが同じ順序でそっくりそのまま無限回に渡って繰り返される」というものです。ニーチェはこの命題の存在論的な証明も試みていますが、それはここでは置いておきましょう。さし当り、この思想が孕む二義性を理解することが重要です。すなわち、「永劫回帰」とは、一方では「ニヒリズムの最も極端な形式」(1887年遺稿)

であり、それと同時に「肯定の最高の形式」(『この人』)でもあるからです。「永劫回帰」が初めて叙述される『知識』では、この思想のある種不気味な雰囲気がよく表されている。

最大の重し。―もしある日あるいはある夜、デーモンが君の最も孤独な孤独の果てまでひそかに後をつけ、こう君に告げたとしたら、どうだろう、―「お前が生き、また生きてき

たこの人生を、いま一度、いなさらに無数度にわたって、お前は生きねばならぬだろう。そこに新たな何ものもなく、あらゆる苦痛とあらゆる快楽、あらゆる思想と嘆息、お前の人生の言いつくせぬ巨細のことども一切が、お前の身に回帰しなければならぬ。しかも何から何までことごとく同じ順序と脈略にしたがって、―さればこの蜘蛛も、樹間のこの月の光も、またこの瞬間も、この自己自身も、同じように回帰せねばならぬ。存在の永遠の

砂時計は、繰り返し繰り返しひっくり返される―それとともに塵の塵であるお前も同じく!」―これを耳にしたとき、君は地に身を投げだし、歯ぎしりして、こう告げたデーモンを呪わないだろうか? それとも君は突然に恐るべき瞬間を体験し、デーモンに向かいこう答えるだろうか。「お前は神だ、おれは一度もこれ以上に神的なことを聞いたことがない!」[…] (『知識』341番)

このアフォリズムのタイトルが「最大の重し」であること、「永劫回帰」を告知するのが、神や天使ではなく、デーモンであること、そして「永劫回帰」に対する反応が、「地に身を投げ

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だし、歯ぎしりして、こう告げたデーモンを呪」うというものであるかもしれないということに注意が必要です。というのも、「永劫回帰」は「肯定の最高の形式」であるどころか、絶望の最高の形式ともなり得るからです。悲惨な人生はもちろんのこと、たとえこれ以上ない幸福な人生であっても、それが無際限に繰り返されるとしたどうでしょうか? 人生はたどり着く

べき目的も目標も持たずただ同じところをぐるぐると永遠に周り続けるだけになります。そこでは死も救済とはなりません。それすらも繰り返されるのですから。これは考えられる中で最も恐ろしい絶望の形式になりかねません。その限り、「永劫回帰」の思想は、よく解釈されるように、人生の中の素晴らしい瞬間を取り上げ、それが無限に回帰することを願うといった、いわば生の賛歌ではないのです。むしろその正反対の解釈こそが正しい。「永劫回帰」思想の

神髄は、まさにどのような素晴らしい瞬間からもその特権性が奪い取られることにあります。「永劫回帰」の世界観に従えば、何らかの特権的な瞬間から生全体を意味づけるということは不可能になります。というよりも、生に意味を与えるということそのものが不可能となるのです。「永劫回帰」が「最大の重し」であり、「ニヒリズムの極端な形式」であるというのはこういう意味なのです。しかし、仮にそれでもこの生を肯定することができるとしたらどうで

しょうか? 生のある一部、ある瞬間ではなく、この無意味な生全体を肯定できるとしたら? それこそ生の究極の肯定に他なりません。ニヒリズムの極北において、ニーチェが模索したのはこのような肯定の可能性だったのです。 しかし、どうすればそんなことが可能となるのか? 無論これが問題となります。「超人」や「力への意志」といった後期ニーチェ哲学を支える他のモチーフがこの問いに答えるヒント

を与えてくれるでしょう。しかし、それをここで詳論することはできません。今回は、ニーチェの問題意識をある程度みなさんと共有できただけで満足したいと思います。

ご清聴ありがとうございました。

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