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Title T・S・エリオットとアーヴィング・バビット
Author(s) 角倉, 康夫
Citation 英文学評論 (1979), 41: 71-97
Issue Date 1979-03
URL https://doi.org/10.14989/RevEL_41_71
Right
Type Departmental Bulletin Paper
Textversion publisher
Kyoto University
T・S・エリオットとアーヴィング・バビット
角
倉
康
夫
エリオットは一九〇六年、ハーグァードに入学、一九〇九年に卒業した。四年の課程を三年で終えたわけであ
①
るが、こういうことは当時としては比較的珍しかったとのことである。卒業したエリオットは引き続き修士課程
英文学専攻に進み、これを一年で修了した。この間、六つの講義に出席したが、その一つは英文学ならぬ、フラ
ソス文学に関する講義であった。この講義が縁となって、エリオットは彼の価値観や態度に深い影響を与えるこ
ととなる教師に出会った。その教師の名はアーヴィング・バビット(I⊇ing田pbbitt)、講義題目は「十九世紀の
フラソス文芸批評」(;Eter害yCriticismin咄イ呂CeWithSpeci巴ReferencetOtheウニneteenthCentu苛)。この講
義は一九一二年に公刊されたバビット著『近代フランスの大批評家』(3?音邑芸三下宗をさらぎ畏C主旨訂且
のもととなったと思われる。
バビットは当時まだフランス文学科のaSSistantprOfessOrであったが、エリオット総長の大学教育の理念に
真向から反対し、「力と奉仕」(pOWerandse邑ce)のための訓練にたいし、「英知と人格」(wisdOm呂dcharl
②
acter)のための訓練を主張した。彼は徹底した保守的思想家で、現代文明のほとんどあらゆる相-民主主義
であれ、産業主義であれ、文学におけるロマン主義であれーにたいして否定的であった。
T・S・エリオットとアーヴィソグ・.ハビット
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エリオットは教師としてのバビットを、また、その講義振りを次のようにつたえている。「彼は教師仲間では
おもしろい、エクセントリックな、反逆的な人物と考えられていた。当時流行していた教授法にたいし彼があか
らさまに示した軽べつは不人気で聞こえていて、それがいく人かの明敏な学部学生や大学院生をひきつけたので
あった。彼の学生にとってさいわいなことに、当時の彼のクラスは小さく、講義は小さなテーブルをかこんでお
こなわれ、くだけたものだった……彼の講義はうわべは、ほとんど無方法だった。彼は書物、紙、メモをどっさ
りもって教室へはいって来たものだった。それを彼は講義時間中、あちこち動かし、まぜあわせた。席につく前
から話しはじめ、どこからでもはじめ、どこででも終るので、言いたいと思うことのすべてをわれわれに話すの
には一生は短かすぎるのだという印象を与えた……彼の講義や談話にまとまりを与えたのは彼の知的情熱-知
的狂暴といってもよいようなもの-であり、それに一貫性を与えたものは彼の主要な思想のたえざる反復であ
り、それをよろこぼしいものにしたのは、それが形式ぼらず、打ちとけたものであったことであり、精神の敏活
を要求したことであり、彼が嫌い、彼の学生も嫌うようになったものをざっくばらんにディスカスしたことだっ
③た」。「古典主義」、「伝統」の重要性についての観念をエリオットの心にはじめて植えつけたのはバビットだった。
エリオットは一九〇八年に公刊されたバビットの『文学とアメリカの大学』(卜告等已ミ缶旨軋こ訂ゝ薫きSCQ患毘
からも深い影響を受けたであろうと思われる。しかしエリオットはバビットのとことん忠実な弟子というわけで
は決してなかった。後年、エリオットはバビットのヒューマニズムに、また、キリスト教より儒教をえらぶ傾向
に異議を唱えることとなった。バビットはバビットで彼のかつての学生が愛情と称讃を表明すると必ずそのあと
で彼の見解にたいする鋭い批判を加えたので腹を立てた。「エリオットは手紙を.DearMaster、ではじめるが、
⑥
私について書く時はいつでも私を攻撃する」とバビットはこぼしたとハワースはつたえている。また、ベートソ
ソはこんなことを書いている。「アーヴィソグ・バビットがかつて私との長い私的な会話(「それは一九二八年
か二九年のことだった」とベートソソは記している)の中で話したところによると、大学生(under笥adu翼e)とし
てのエリオットは実に出来の悪い学生(二㌢くurraP。OrSt00dent、)だった。このことはその時、私を驚かせた。
バビットは若いエリオットの知的英雄の一人であったことを知っていたし、また、エリオットの反ロマン主義…
…はあきらかにハーグァードにおける有名なフラソス批評に関する講義に由来するものである。エリオットはこ
の講義に熱狂的に出席したことが知られている。私自身もそれから約四十年後に、(それほど熱狂的ではなかっ
たが)その講義に出席した。大学生のエリオットが出来の悪い学生だったというバビットのことばが正しかった
⑤
かどうかは私は知るすべもない……」。
ベアゴソチがいうには、エリオットの無能は、かりにそういうものがあったとしても、知的能力の欠如という
⑥
よりはむしろ怠惰の一面に由来するものであったに違いない。バビットがエリオットについてべートソソに語っ
たとされることで一つ気になるのは「大学生のエリオット」というところである。エリオットがバビットをはじ
めて知ったのは大学院生(gr已uatestudent)としてであったからである。また、ベアゴソチの「怠惰」というこ
とについていえば、べートソソもいうとおり、エリオットはバビットの講義に「熱狂的に出席した」のであり、
ハワースもまた、「エリオットは.astee-ypassiOn、をもって大学の課程をアタックし、並みの成績ではあっ
⑦
たが、四年の課程を三年ですませ、修士課程は全優の成績で修了した」と書いている。もっとも、「大学生のエ
リオット」は生来の内気を克服するためにつとめてダソスやパーティーに出席し、ボクシソグの練習もしたとは
伝えられている。
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それはさておき、エリオットは、バビットと意見を異にするようになってからも、それまでと変らず、バビッ
トにたいする愛情、称讃、感謝の気持ちをもちつづけた。マーゴクリスはエリオットのバビヅト批判を.m-Oで
⑧
er-squarre-.といっているし、ハワースも「エリオットはバビットを「攻撃」したとはいえない。彼は先生と
⑨
議論したのだ、しかも共通の立場を分かちあうものとして」と書いている。以下、主としてそういう視点からエ
リオットとバビットとの関係を見てゆきたいとおもう。
一九二八年七月、エリオットは「フォーラム」誌(ヨ訂hg幸阜)に「アーヴィソグ・バビットのヒユーマニズ
⑲
ム」(;TheHum呂ismOhIコing田abbitt。)と題するエッセイを発表した。このエッセイは同年十一月に公刊され
た『ラーソスロット・アソドルーズのために』(き:訂ミ賢テき邑曽ま)におさめられ、最新のエッセイとして巻
末におかれた。『ラーソスロット・アソドルーズのために』は著者の発展の方向を示そうとした評論集であるが、
巻末のこのエッセイがもっとも重要である。「伝統と個人の才能」(。TraditiOnaロdtheHndiまdu巴Ta-ent、、)が
⑯
一つの文学的マニフェストであったとすれば、この「アーヴィソグ・バビットのヒューマニズム」は一つの思想
的マニフェストといえはしないか。『ラーソスロット・アソドルーズのために』におさめられているそれ以前の
⑫
エッセイの多くにおいてそうであったように、エリオットはこのエッセイにおいて、ずっと前から関心を抱いて
いた問題にクリスチャンとしての新しい視野からもどったのである。ただ、それ以前のエッセイでは彼のキリス
ト教的信仰(Chと訂tianitSは潜在的であったが、このエッセイではそれが顧在的となった。グリスチャソとしての
エリオットは今やバビットの思想のなかにいくつかの弱点を兄いだし、それをこのエッセイで暴露したのである。
しかし、バビットのヒューマニズムの不十分さを論じながら、エリオットは彼を近ごろ、アングロ・カトリック
主義へと導いた論理をいくらか暗示した。そのことの方が一そう重要である。
ところで、エリオットにそのキリスト教的信仰を公表するようにすすめたのはほかならぬバビットだった。
「文学においては古典主義者、政治においては王党員、宗教においてはアソグロ・キャソリヅク」(;C-assicist
in-iter鼠ure:Oy巴istiロp。-itics-angFCath。-iciロre-igi。n。)というあの有名な自己規定のことばを『ラーソス
ロット・アソドルーズのために』の序文に書きいれるようにいわばそそのかしたのはバビットであった。その間
の事情はエリオットが一九六一年、リーズ大学でおこなった講演「批評家を批評する」(。TOCriticiNetheCritic。)
のなかでこう説明されている。「問題の一文(。Thegeロera-pOintO鴫5.のWmaybedescribedgC-assicistin
-iter巳urPrOy巴istiロp01itics-呂g-?C告hO-icinre茸iOロ㌧、)は一つの個人的な経験によって触発されたものであ
った。私の負うところの非常に大きい旧師アーヴィソグ・バビットがバリーそこで彼は講義していたのである
Iからハーグァードに帰る途中、ロソドソに立ち寄った。私はバビット夫妻と食事を共にした。私が彼に会う
⑬
のは数年振りのことであり、私が近ごろ、洗礼と堅信礼とを施されて英国教会の一員となったという、私の狭い
⑭
範囲の読者にはまだ知らせていなかった(というのは、これは一九二七年のことだったと思う)事実を彼に知ら
せる義務があると感じた。彼の弟子がそのように変節したことを知れば、彼はショックを受けるであろうことを
私は知っていた。彼の親友であり、盟友であるP・E・モアがヒューマニズムから脱落してキリスト教に帰依し
たときに、はるかに大きなショックを受けていたに違いないのだが。だがバピットはただ、「君は君の立場をは
っきりと表明すべきであると思う」とだけいった。バビットのこのことばに私は少し腹を立てたのかもしれない。
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そうしてあの引用しやすい一文が私の編集中であった評論集の序文のなかにあらわれた……」。そういう序文が
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必要であったということは、それまでの数年問にエリオットがその知的発展の途上において歩んだ距離を示すも
のだった。そのことをさらに詳細に示したのが「アーヴィソグ・バビットのヒューマニズム」というエッセイで
あった。
ついでながら、このエッセイが発表された一九二八年という年で直ちに思い出されるのは、『聖なる森』(3鴫
紆C苫叫ヨQS再版(一九二八)のこれまた有名な序文である。その序文によると、一九二〇年から二八年までの八
年間に、エリオットの関心は「われわれが詩を考えている時には、まず、それを詩として考えるべきであって、
他の何ものとも考えてはならない」という主張から「詩とその時代および他の時代の精神的、社会的生活との関
連の問題」に移った。「詩を批評する際には、われわれのもっている感受性のすべてと他の詩についてもってい
る知識のすべてとを懐けて」、詩の手法からはじめるべきであるが、詩はまた、道徳や宗教、おそらく政治とさ
えかかわりをもつものであり、「なぜシェイクスピアの詩よりもダンテの詩を好むかとたずねらるれば、ダンテ
の詩の方が人生の神秘にたいするより健全な態度を説明しているから、と答えねばならないだろう」。
「アーヴィソグ・バビットのヒューマニズム」はおそらくはそのヒューマニズム批判のゆえにもっとも記憶に
値するものであろうが、バビットの思想の再評価をこころみるエリオットの旧師にたいする称讃はハーグァード
時代のそれにくらベて少しも劣っていない。そのことを認めるのが大切である。
何年間にもわたってエリオットはバビットを推称する文章を書いてきた。一九二二年七月、「ダイアル」誌
(3恥b邑)の「ロソドン通信」(..LOndOnLetter。)で、サー・ウォルター・ローリー(SirW巳terR已ei昔)の
⑯
死去で欠員となったオックスフォードの英文学教授にバビットを推せんすることを提案した。一九二六年一月の
「クライティーリオン」誌(3hC註鼠且正のせたエッセイ「文芸評論誌の理念」(。TheIdeP。hLiteraqR等i。W。)
のなかで、同誌の古典主義の模範として役立つ書物の一冊としてバビットの『デモクラシーとリーダーシップ』
⑰
(b芸。=ぷ七宝軋下呂礼芸已告(一九二四)をあげた。それから六ケ月のちの一九二六年六月の「クライティーリオ
ン」誌に、これは彼自身の文章ではないが、アメリカにおける熱烈なバビットの支持者の一人であるマンソソの
エッセイ「アーヴィソグ・バビットのソクラテス的美徳」(;Th①SOCraticくirtues。fHrくing出pbbitt。)を掲載し
⑬た。そうして一九二七年十二月二十九日号の「タイムズ文芸付録」(憲二芋蔓こ汝云蔓り鼻音重畳)に「ブラッ
ドリーの倫理学研究」(。Br註-ey、sEthica-Studies。)と題するエッセイを発表した。このエッセイは「フランシ
ス・ハーバート・ブラッドリー」(。Fr呂CisHerbert官ad-ey。)と改題されて、『ラーソスロット・アソドルーズ
のために』に、さらに『評論選集』(∽註蔓乱的簑莫)におさめられているものであるが、そのなかでエリオット
は簡単にではあるがバビットにふれ、彼のことを「現代においてもっとも注目すべきわが国の批評家の一人であ
⑲
り、大ていの問題について基本的に正しく、また非常にしばしば、正しい唯一の人」といっている。
かくエリオットは旧師バビットにたいする尊敬の念をしばしば表明してきたのであったが、一九二八年のバビ
ヅトのヒューマニズムを批判したエッセイのなかでも、それに続くヒューマニズムに関する論争においてと同様、
エリオットのアプローチは建設的であった。エリオットはこのエッセイのはじめの方で、批判の姐上にのせる
『デモクラシーとリーダーシップ』についてさえも、その理論が建設的であることを認めた上で、「私がこのユ
⑳
ッセイでしょうと欲していることは、バビット氏の建設的な理論について若干の質問をすることである」といっ
ていとも低姿勢に出ている。低姿勢ではあるが、論が進められるにつれて、辛らつなことばも飛び出す。しかし
次のようにエッセイをしめくくり、エリオットが企てたものは、バビットの思想の攻撃というよりはむしろ、そ
の業績の批判的評価であることを示している。「むしろヒューマニズムのいろいろな弱点を直ちに認識し、それ
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を考慮に入れ、そうすることによってヒューマニズムというこの構造物を過度の重圧の下に押しっぶされないよ
うにし、それがわれわれにたいしてもっている価値とその創始者にたいするわれわれの恩義とをいつまでも認識
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することができるようにした方がよいと私は信じている」。このことは、このエッセイの発表された年の翌年、
つまり、一九二九年の八月に発表された「ヒューマニズム再考」(.読ec。ndTh。u富tspb。ut呂um呂ism、)のはじ
めの方で次のように重ねて強調されている。「私のさきの覚え書き(「アーヴィソグ・バビットのヒItマニズム」を
さす)は偏狭な党派的見地からするヒューマニズム「攻撃」と解されたのではないかと思う。私はバビットの弟
子として出発したものであり、また実際、彼の教えのなかで積極的な価値をもっているものは何ひとつとしてし
りぞけたことはないと思っているから、私にはヒューマニズムを「攻撃」する資格なぞなかったのである。私の意
図はむしろ、ヒューマニズムの防御面における弱点を指摘し、本物の敵がその弱点につけこまないようにするこ
とであった。ヒューマニズムはきわめて大きな価値をもつことができるものである-そうして既にきわめて大
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きな価値をもっている。しかし手おくれにならないうちに、それに批判、検討を加えておくことが必要である」。
一九二八年までにエリオットは秩序、訓練、伝統といったヒューマニズムの原理の重要さについての確信を棄
てたわけではもちろんなかった。彼は、しかし、それらの価値は根底的には宗教的なものであると感じるように
なったのである。「ヒューマニズムの問題は宗教の問題と疑う余地なく結びついている」ことはエリオットにと
って明らかであった。しかるに、バビットの最近作(といってもその時には公刊されてから既に四年経ってい
る)『デモクラシーとリーダーシップ』を読んでみると、その随所でバビットが「自分は宗教的見地に立つことヽ
はできない。つまり、いかなる教義も啓示も受けいれることはできない、そうして、ヒューマニズムは宗教に取
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って代わるものである」と主張していることをエリオットは知ったのである。エリオットにとってはあきらかに
ヒューマニズムは宗教を離れては存在することはできない。「結局、ヒューマニズムはそれだけで独立して働く
ことのできる人生観だろうか。それとも、歴史のなかで短期間だけ、そうしてバビット氏のような高度の教養を
身につけた若干の人たちだけにとってのみ働くことのできる宗教の派生物だろうか……いいかえると、ヒユーマ
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ニズムは一世代または二世代以上続くことができるものだろうか」とエリオットは問う。ヒユー了一ズムは、い
やしくも存続するためには、「ある他の態度に依存しなければならない。というのはそれは本質的に批判的-
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寄生的(parasitica】)とさえいってよいーであるから」と彼は信じていた。そうしてヒューマニズムの依存度が
もっとも高いと彼が見た態度はもちろんキリスト教的態度であった。
宗教の教義を受けいれはしないのに、その教義から生まれてくる宗教の倫理的原理を盗用した、そういうバビ
ットのやり方にエリオットは異議、反対を唱えたのである。エリオットのいうところによると、バビットのヒュ
ーマニズムは「十九世紀のきわめて自由主義的なプロテスタント神学に驚くべきはど似ている、実際、それはプ
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ロテスタント神学の最後の苦悶の産物-副産物Iである」。バビットは「正統的宗教の外的拘束が弱まれば、
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それは個人の自己にたいする内的抑制によって補われ得る」と考えたようだ。ロマソティシズム嫌いのバビット
のそういう考え方の中にエリオットは皮肉にもある種のロマンティシズムを見てとったのである。エリオットは
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いう。「もしバビットのように外的抑制と内的抑制とをそのように峻別するなら、個人は自己を抑制するのに自
分一己の考えや判断にたよるほかなくなってしまう。こういう考え方や判断はまことに当てにならない(prel
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C註OuS)ものである」。宗教はもっとしっかりした、実質的な倫理的権威を提供するとエリオットは主張するの
である。
繰り返しいうが、このエッセイにおけるエリオットの意図は破壊的なものでなく、建設的なものであった。エ
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ッセイの終り近くで彼はいう。「……私の目的はバビット氏の哲学にとって不吉な結末を予言することではなく、
「ヒューマニズム」のあいまいな諸点が明らかにされた場合、彼の哲学が辿るであろうと私が思う方向を指摘す
ることであった。結局到達する結論は、ヒユー了一スティックな見地は宗教的見地を補足するものであり、それ
に依存するものだということだと私は思う。われわれにとっては宗教とはキリスト教であり、かつまた、キリス
ト教は教会の概念を含んでいると私は思う。学殖が深く、すぐれた才能をもち、影響力の大きい、そうして現代
のもっとも重要な問題にあのような関心を抱いているバビット教授がこの点に到達することができるなら、それ
⑳
は単に興味深いことであるのみならず、はかり知れぬ価値をもつことであろう」。
『ラーソスロット・アソドルーズのために』におさめられている他のどのエッセイにおいてよりも、いや、そ
の序文においてさえよりも、このエッセイにおいてエリオットの新しい宗教的立場は明らかにされた。では彼の
この発展はどのように受けとめられたであろうか。
一九二八年十二月六日号の「タイムズ文芸付録」に「エリオット氏の新評論集」(。Mr・E-iOt、S宅ewPsPyS。)
と題する『ラーソスロット・アソドルーズのために』の書評がのった。匿名であった。ジャレットはカーもいっ
⑳
ているように、この書評は大きな尊敬の調子ではじまり、おのおののエッセイを取り上げて、その質のゆえに、
寛大な讃辞を呈するのであるが、巻末の「アーヴィソグ・バビットのヒューマニズム」についての批評に至って、
議論が表面に浮かびあがるのである。ここではこの書評の詳細を紹介するかわりに、それにたいするエリオット
の反応を見ることにしよう。
少し時間的にずれがあるが、一九三一年に発表された「ラムベス会議後の省察」(。Th。ughtsa詳rLambeth。)
のなかでエリオットはこういっている。「……数年前、私が『ラーソスロヅト・アンドルーズのために』という
小評論集を出したとき、「タイムズ文芸付録」の匿名批評家がそれを機会におべっか死亡記事としかいいようの
ないものを書いた。非常に真面目な、そうして明らかに誠意のこもったことばで、私が突然、進歩を止めた-
それまでどの方向に私が進んでいたと彼が思っていたのかは私にはわからない-、しかも困ったことに、明ら
かに間違った方向に行きつつあると指摘した。とにかく私は失敗したのであった、そうしてその失敗を認めたの
であった。私は迷える指導者でないとしても、少くとも、迷える羊であり、なおその上、一種の裏切り者であっ
た。荒地を越えて約束の地に行くことになっていた人たちは、新しい聖徒の名簿から私の名前が脱落しているこ
⑳
とに涙を流したのかもしれない」。
バビット自身はどうだったか。彼は「フォーラム」誌の主筆に直ちに手紙を書き送ったが、それが同誌の一九
二八年十月号に「ヒューマニストの見解」(..Theロumaロist-Sくiew。)と題して掲載された。そのなかでバビット
は「私が発展させようと企てつつある立場の解説および批判としてのエリオット氏の「アーヴィソグ・バビット
⑳
のヒューマニズム」は混乱し、屁理窟をならべ、重要ないくつかの点で明らかに不正確である」ときめつけてい
る。そ
れからさらに三ケ月後、一九二九年一月号の「フォーラム」誌にバビットは「エリオット総長とアメリカの
教育」(。Pre監entE-iOt呂dAmeric呂Educati。n。)と題するエッセイを発表した。そのエッセイのなかでも、
簡単であるが「アーヴィソグ・バビットのヒューマニズム」にたいする批判が見られる。バビットはいう-宗
教の本領は瞑想(medit註。n)である。真正の瞑想には自然人の、高次の意志への服従を伴うものである。つま
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り、謙虚ということである。この高次の意志への服従は、キリスト教でも厳格な教派では、自然人の欲望すべ
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ての否認ということになるかもしれない。ところが、ヒューマニストはこれらの欲望に中庸もしくは端正(de・
cOrum)の法則を課することで満足している。ヒューマニストの本領は調停(BediatiOP)ということばで要約で
きよう。宗教とヒューマニズムは回心(cOn忌rSi昌)の観念において一つとなるのみならず、もしヒユー了一スト
が自然主義的レヴェルにまで落ちこむ危険を避けようとすれば、彼のへmediatiOn.は宗教の.meditatiOn.の
なかに一定の背景をもつことが必要である。「だからといって」と、バビットは続ける、「ヒューマニズムは当
てにならない(precari。uS)、寄生的(pprasitica-)なものであり、特に西洋人(Occid昌t巳man)にとっては、教義
的啓示宗教(aOgmp已C呂dre霊a-ed邑i的iOn)に支えられなければ、それは急速に崩壊する(cO詳p且運命にある
とのT・S・エリオットによって展開された命題を受けいれなければならないということにはならない。今まで
に世界で見られたもっとも重要な形態のヒューマニズムー古代ギリシアのそれーはそういう支えはもってい
⑳
なかった」。気炎あたるべからず、である。
右の引用文中に見られる這recariOuS㌧.parasitica-㌧言0--apse.などの語は「アーヴィング・バビットのヒ
ューマニズム」のなかでエリオットが用いたものであった。また、バビヅトの「西洋人」はユリオヅトでは.the
EurOPeanraCeS、となっている。なおまた、同じエッセイのなかでエリオットは「バビット氏はよく「ヒユーマ
ニスティックな、かつ、宗教的な伝統」(.tr巳itiOnhumanisticandre冨iOuS、)といういい方をするが、これは「ヒ
ヽ
ヽ
ヽ
ユーマニスティックなまたは宗教的な伝統」(.tr註iti。nhumanisticQ、re冨iOuS-)ということができるであろうこ
⑳
とを暗示している」といっている。そういうことにほおかまいなし、バビットはこのエッセイでも、エリオット
の∵Fumaロisticaロdre-igiOuS、ではないが、.re-igiOuSandhumanistic-といういい方と、エリオットの占ul
manistic等re-蚤OuS.ではないが、.re-i乳OuSQヽhumanistic、といういい方をそれぞれ四回用いている。
一九二九年六/八月号の「新アデルフィ」誌(r訂>ざま苺畳にエリオットは「ヒューマニズム再考」(読。C。。d
⑳
ThOught∽abOutHum邑smJというエッセイを発表した。その書き出しはこうである。「一九二八年七月、私は
「フォーラム」誌にアーヴィソグ・バビットについての覚え書きを発表した……私がバビット教授の見解を誤っ
て伝えていると教授は考えておられると私は聞いている。しかしまだ私はどの「ヒューマニスト」からも詳細な
訂正を受けていないので、何のことやらさっぱりわからずにいる。私が誤っているということも大いにあり得る。
なぜなら、一方では、私に同情的な友人たちが私を誤解しているということを示す批評を彼らから聞いているか
らである。だからこのエッセイは攻撃しようとする意図よりはむしろ私の立場を一層はっきりさせようという意
㊨
図から書かれたものである」。そしてエリオットは、このエッセイではバビット自身の著書よりもノーマン・フ
ァースター(ぎヨ呂句OerSt且の「すぐれた」(briロi冒t)著作『アメリカの批評』(ゝ更意SC主計訂且(一九二
八)に言及する方が有効であろうという。しき莞きざ…Cを㌻訂豆のfu-=it-eは』茜雲ぎ芸C註註箋∴㌧〓ぎき
亀ト寮ミミ二3悪童、萱ミbgP:豪こざ慧鼓であって、エリオットが言及しようというのはその最終章。The
TwentiethCentury‥COnCFsiOn。である。エリオットの考えによると、「このファースター氏の本は弟子の
著作として……バビヅト氏の著作よりも、「ヒューマニズム」がどのようなものになりそうであるか、また、ど
⑳
のようなことをしそうであるかということについて一層はっきりとしたヒントを与えてくれる」。次いでエリオ
ットは既に引用したところの、「アーヴィソグ・バビットのヒューマニズム」がバビットにたいする攻撃ではな
いとの丁重な弁明をこころみる。このエッセイのなかでのバビットへの直接的言及は「ファースター氏だけでな
⑳
く、バビット氏さえ宗教的見解よりもルソーの見解に近いと感じずにはいられない」との一箇所だけである。そ
ヽ
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うしてこのエッセイは次のようなことばで結ばれる。「宗教的な態度と純粋なヒューマニズムとの問にはなんら
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の対立もない。両者は相互にとって必要である。ヒューマニズムが最終的には不信を招くことを私が恐れるのは
ヽ
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ファースター氏流のヒューマニズムが不純と思われるからである」。純粋なヒューマニズムとはみずからが「宗
㊨
教にとって補足的なものであり、かつそれに依存している」ことを認めるヒューマニズムのことであろう。
筆者は、雑誌に発表されたかたちでのこのエッセイを見ていない。『評論選集』におさめられているものを知
っているだけだが、それについてみて筆者の注意を引くものがある。それは「大学における哲学の研究が一般に
⑳
無味乾燥になった」という本文につけられた注である。この注は二段から成っていて、前段には「しかしこれは
主として教師たちの落度というわけではなく、哲学の教授がその一部をなしている教育制度の落度である云々」
とあり、後段には「ヒューマニズムの最大の貢献は現代教育にたいする批判である。数年前、「フォーラム」誌
にのったエリオット総長についてのバビットの称讃すべき(admirab-e)エッセイを見よ」とある。筆者が問題に
したいのはこの注の後段である。さて、「ヒユーマ:ズム再考」が発表された一九二九年の数年前に、「フォー
ラム」誌に掲載されたエッセイで、エリオット総長に関するものはと、『スペイソ人の性格および他のエッセイ』
(注㊧参照)の巻末につけられているバビットの「著作目録」について探してみるに、ついに見あたらない。思う
に、この注のこの部分は一九三二年に「ヒューマニズム再考」を『評論選集』におさめるときに書きそえられた
ものではなかろうか。というのは、一九三二年の三年前の一九二九年には、既に紹介したように「エリオット総
長とアメリカの教育」なるエッセイが「フォーラム」誌に発表されているから。この推測が正しいとして話をす
すめることを許してもらおう。既述のとおりバビットはこのエッセイにおいてエリオットのヒューマニズム批判
にたいして反批判を加えている。そういうエッセイであるにもかかわらず、エリオットはこれに高い評価を与え
ることを惜しまない。筆者はそういう事実に注意を向けたいのである。
⑳
「ブックマソ」誌(ヨ訂L洋弓ぎ更芸)の一九二九年十一月号にエリオヅトは「批評の実験」(。E竜erimentiロCrit・
icism、.)と題するエッセイを発表した。そのなかにバビットおよびバビットのヒューマニズムへの言及が見ら
㊨
れる。少し長くなるが大要を紹介しよう。
よい文学とよい人生との双方の背後に基本的な原理を兄いだそうとするいろいろなこころみは現代におけるも
っとも興味深い「実験」の一つである。このようなこころみのなかで、今までのところもっとも注目に価するの
は「ヒューマニズム」の名で知られ、主としてハーグァード大学のバビット教授の仕事に源をもつものである。
こういって、エリオットはバビットのことを「現代におけるもっとも博学の人の一人」といって称揚する。つい
でながら、同じエッセイのなかで、エリオットはコウルリッジのことを、バビットの場合とほとんど同一の文句
で「その時代のもっとも博学の人の一人」といっている。ところで、そのバビットはある程度、サソト‖プーヴ
の弟子である。現代生きている人で(多くの他のこととならんで)バビットほど文芸批評史の全体に通じている
人はない。彼の著作においては、サント=ブーヴの著作の場合よりも一そう明確に、文芸批評は現代社会の諸相
を批評する手段とされてきた。彼は古典の教育を受け、古典的趣味をもった学者である。現代文学の弱点は現代
文明の弱点の徴侯であることをよく知っていて、うまずたゆまず大きな努力を僚けてこの弱点を分析する仕事に
たずさわってきた。その結論は『ルソーとロマン主義』(知宣旨§‥翠㌣聾幸昌買掛且と『デモクラシーとリーダ
ーシップ』の二著に見られる。モラリストとして、またアングロ・サクソソ人として彼は一面においてサソトーー
プーヴよりもマシュー・アーノルドとより多くの共通点をもっている。どちらかというと、診断はするが療法は
指示しないというのがフランスの「ユマニスト」の傾向である。アングロ・サクソン人にとっては、病気の診断
はするが、その療法は指示しないということは耐えられぬことである。アーノルドやサント=ブーヴと同じく、
T・S・エリオットとアーゲイソグ・パビット
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バビットは宗教的教養の衰退が社会に重大な損害を与えたことを発見する。彼はアーノルドやサソトーープーヴと
同じく、宗教的教養にもどるという療法を受けいれようとはしない。また彼はアーノルドと同じく、しかしサソ
ト‖ブーヴとは違って.別の療法を提示する。啓示とか超自然的な権威または援助というものとは無関係の、人
間の経験に基づいた、人間としての人間の必要や能力に基づいた実証的倫理の理論がそれである。「アーヴィソ
グ・バビットのヒューマニズム」においてエリオットはバビットのまさにそういう点を批判するのであるが、こ
のエッセイではエリオットはバビット氏の明白な貢献とか、彼がどの点でバビットと意見を同じくし、どの点で
意見を異にするかを論ずるつもりはなく、ただ、主として、そうしてその発端において文芸批評内での運動であ
るきわめて重要な運動に注意を喚起しただけという。
この運動が重要なのは、現代の文芸批評家は自己の領域の外での「実験者」でなければならぬということを示
しているからであり、また、今日では文学の問題はすべて否応なくより大きな問題、より大きくて、より困難な
問題、より大きくて、より暗い問題に通ずるということの証拠になるからである。文学の問題が一般的な問題に
不可避的につながっているということを認める文芸批評には一つの弱点、いやむしろ危険といってよいものがあ
る。その危険とはこうである。批評家が文芸批評から発生するこれらの重大な道徳的問題を把握したとき、彼は
公平な客観的態度を失い、その感受性を埋没させるかもしれない。あまりにも自分の精神と良心の奴れいになる
かもしれない。同時代の文学を整理分類して時代の社会的疾病のいずれかにあてはめてしまうことによって、そ
の文学をあまりにもじれったく思うかもしれない。そうして天才と業績との鑑賞をまずおこなうべきであるのに
直ちに教化を要求するかもしれない。しかしそういったいろいろな保留条件があるにもかかわらず、われわれは
ヒューマニズムの理論をしりぞけてはならない。そういう条件をしんしゃくしてわれわれはみずからその理論を
適用すればよいのである。
われわれはここでも一九二〇年から二八年にかけての八年間におけるエリオットの「関心の拡大」の投影を明
らかに見ることができる。一九二〇年の『聖なる森』ではバビットは「不完全な批評家」の一人にすぎなかった
のである。
一九三〇年二月号の「フォーラム」誌上にバビットは「私の信念1ルソーと宗教」(。WhptI出石ーieくe‥ROuSI
se呂呂dRe茸iOn。)と題するエッセイを発表した。そのなかで彼は「……宗教とヒューマニズムは今まで時に
⑮
は衝突したこともあったが、提携することの方が多かった」という。また、「精神的アナキーへと流れてゆく傾
㊨
向は主として教義的啓示宗教の衰微の一つの結果であったことはまず疑問の余地はない」という。そういいなが
らもなおかつ、こう続ける。「だからといって、精神的訓練を回復する唯一の希望はこういうタイプの宗教に復
帰することにあるということにはならない。自然主義者も超自然主義者もどちらもが人生にたいする第三の可能
な態度を過小評価する傾向があまりにも強すぎた。その第三の態度とは私がヒユーマニスティックな態度と定義
㊨
してきたものである」。バビットはがんとして自分の立場を変えようとはしない、主張を曲げようとはしない。
ついでながら、上のバビットのことばのなかにある「自然主義者も超自然主義者もどちらも云々」は、「ヒュー
マニズム再考」のなかでの「人は自然主義者であるか、または超自然主義者であるか、そのいずれかでなければ
⑳
ならない」とのエリオットのことばを思い起こさせる。
一九三〇年三月三十一日、エリオットは「ブックマン」誌の主筆にあてて手紙を書いた。そのなかには次のよ
T・S・エリオットとアーヴィング・パビット
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うなくだりがある。「……バビットその人の教えにたいしてこの上もなく感服し、バビット氏にたいしてこの上
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もなく深い感謝の気持ちを抱いている」。
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一九三三年七月十五日、バビットは六十七歳でマサチューセッツ州はケンブリッジの「狭い自宅」で亡くなっ
た。同年十月号の「クライティーリオソ」誌にエリオットはバビットを追憶する文章を書いている。それは「簡
㊨
なれども要を尽し、情理共に至ったもの」である。その一部は既に紹介したが(注④参照)、次のようなくだりも
ある。「彼はたぐいまれな魅力と大きな力とをあわせもっていた。それで彼を知っていた人は常に彼の欠点を愛
情をもって思い出し、他の人たちの人ざわりのよさは忘れられてしまうのに、彼のぶっきらぼうな言行を思い出
㊥
してはなつかしがるであろう」。また、こうも書かれている。「バビットは時どき「宗教」について人を欺くよ
うな言及をおこなったにもかかわらず、彼のキリスト教にたいする態度は依然としてまったくがん園であったと
いうことを筆者は遺憾としなければならない。しかしながらそれ以上に、彼の死の直後に書いていることとて、
次のことを遺憾とすることを許されるであろう1ある融通のきかなさのために、あるいは堅苦しさのために、
あるいは主義の過度といってもよいくらいの誠実さのために彼は十分進まなかった弟子たちはもちろん、彼から
見れば進みすぎた、しかし彼に負うところがきわめて大きいことを認砂、かつ、愛情、称讃、感謝から彼の記憶
㊥
を深く敬愛する人たちをも弟子として認めることができなかった」。
一九三三年、エリオットはヴァージニア大学で「異神を追いて」(..A詳rStrangeG。ds。)と題する幕演をお
こなった。それは明くる年、同名の書物として公刊された。この講演がおこなわれたのは、そのなかで「故アー
ヴィソグ・バビヅト」といっているからバビヅト没後のことである。この講演においてエリオットはバビヅト批
判をこころみるのであるが、バビットのことを「その記憶にたいして私が最高の尊敬と称讃を抱いている人」と
いっている。バビットにたいしてエリオットがそういう敬意を払っているということをつたえれば、今はそれで
足れりとしてよいのであるが、ここに展開されているバビット批判は、筆者がはじめて『異神を追いて』に接し
たときも、また、その後も、読み返すたびごとに一種の深い感銘をあたえるものであるから、いささか長くなり
㊥
すぎるがその大要を紹介することを許されたい。
バビットにはフランスの教養がしみこんでいたということは重要であった。思想の点でも、交際の点でも彼は
徹底的なコスモポリタンだった。彼は伝統を信じていた。長年の間、ほとんどただ一人で時代の強い傾向に対抗
して正しい教育理論を主張した。彼の教養の広さと知的折ちゅう主義は、伝統の狭さに極端に反抗することによ
ってそれ自体がかえって伝統の狭さの散候であると思われる。彼のキリスト教にたいする態度を見ると、彼が感
情的に知っていたキリスト教は下品な、教養のない型のキリスト教であると思われる。もっともそう判断するの
はまったく彼の公表した意見をもとにしてのことで、彼の生い立ちについての知識をもとにしているのではない。
彼は、普段着をなくしてしまって仮装服を着て歩きまわらなければならない人のように、コスモポリタニズムと
いう衣装を身につけているというのはいい過ぎであろう。しかし彼は生きた伝統の欠如をヘラクレスのような、
しかも純粋な知的、個人的努力によってつぐなおうとしているように思われる。孔子の哲学に熱中したのはその
証拠である。ドイツ語を知らずしては、また、生きているドイツ人と交わってはじめて得られるようなドイツ人
の心についての理解なしには真にカソトやヘーゲルを理解することはできない。それと同じく、いやそれ以上に、
中国語を知らずしては、また、中国の上流社会の人たちと長い間、交際することなしには孔子を理解することは
T・S・エリオットとアーヴィソグ・バピット
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〇
できない。自分は中国人の心と中国文明とにたいして最大の敬意を払っている。また、最高の中国文明にはヨー
ロッパを粗野なものに思わせるような美点、美質があると信ずるにやぶさかではない。しかし自分としては孔子
を支えとするほど中国文明を理解することができるであろうとは信じられない。
こういう結論を下すに至ったのは一つには自分に同じような経験があるからである。自分はチャールズ・ラン
マソについて二年間、サソスクリットの勉強をし、ジェームズ・ウヅヅの指導のもとに一年間、迷宮のようなパ
タソジャリの形而上学を研究した。その結果はといえば、わかったようでさっぱりわからぬ、煙にまかれたよう
な状態に取り残されたということであった。イソドの哲学者たちの追求していることを理解する努力の大半はギ
リシア以来、ヨーロッパ哲学につきものの範ちゅうやいろいろな種類の区別を私の心からぬぐい去る努力であっ
た。インドの哲学者の精妙さときたら、ヨーロッパの偉大な哲学者の大部分を学童みたいに見えさせる底のもの
である。インド哲学研究以前におこなっていた、また、それと平行しておこなっていたヨーロッパ哲学の研究は
邪魔になるのがおちであった。そういうこともあり、また、ショーペソハウエル、バルトマン、ドイセソにおけ
るように、仏教思想のヨーロッパに及ぼした「影響」は主として、浪漫的な誤解(rOmanticmisunderst呂ding)
によるものであることがわかったので、自分はこういう結論に到達した-インド哲学の核心にまで入りこみた
いという自分の希望はアメリカ人またはヨーロッパ人としての考え方と感じ方とを忘れてはじめて実現できるだ
ろう。そうしてそういうことは感情的な理由からも、また、実際的な理由からもしたくなかった。中国の思想に
ついても同じことがいえるだろう。もっとも中国人の心はイソド人の心よりははるかにアングロ・サクソソ人の
心に近いとは思うが。中国は伝統の国である。あるいは、宣教師が中国を西欧思想へ導入するまではそうであっ
た。孔子は真空の中へ生まれてきたのではない。そうして網の目のような儀礼と慣習とは大きな相違を生じるの
である。しかし孔子は反逆的なプロテスタントにされてしまった。バビットは、そのいとも高貴な意図にかかわ
らず、あるいくつかの点で事態をよくするどころか、悪くしてしまったにすぎないと思われる。
以上のような『異神を退いて』におけるエリオットのバビット批判を読んでいて思い出されるのは「アーヴィ
ソグ・バビットのヒューマニズム」のなかの次のようなことばである。「われわれが称讃し、手本とするように
と彼(パビヅト)がかかげる偉大な人たちは種族、場所、時間という彼らのコンテクストから無理矢理、ひき離さ
れている。その結果、バビット氏もみずからをみずからのコンテクストからひき離しているように私には思われ
㊨る」。一
九三七年二月五日号の「プリンストン同窓会週報」(ささ宗ぎ:曽§冨「ヨ葉音)にエリオットは「P・E・モ
ア」(。Pau-E-merMOre。)と題する文章を書き、そのなかで、バビットとモアとをならべて二人のことを「私
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がこれまでに知ったもっとも賢明な人たちと私には思われる」といっている。
一九四一年には『人および教師としてのアーヴィソグ・ビバット』(甘まま∵詳邑三千∴昌芸:三軋り訂立至という、
三十九人の人によるバビットについての回想文を集めた本(注⑭参照)が出た。この本の編者は、ボズウェルの
『サムユユル・ジョンソソ伝』に匹敵するものをバビットについてつくることを編さんの目的の一つにしている
といっている。エリオットも一文を寄せている。その文章を結んでいわく、「バビットのもっとも重要な確信に
反対するように思われる確信を人が感じようと、またそういう見解を抱こうと、ほかならぬバビットがそういう
確信や見解の主な原因だったということを人は知っている。われわれのうちのあるものたちがバビットに負うと
T・S・エリオットとアーヴィソグ・バビット
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二
ころがいかに大きいかということは、われわれの同時代人によりは後世の人たちに一層はっきりとわかるはずで
㊨
ある」。
一九四六年九月号の「ポユトリ」誌(知邑蔓)にのせた「ユズラ・パウソド」(。ENraPOuロd。)と題するエッ
セイのなかでエリオットはこういっている。「バビットは私のteacherだった。私がtepcherというのはただ
tutOrというのではなく、あるいは私がその講義に出席した人というのでもなく、ある特定の瞬間に、今なおそ
㊥
の痕跡がはっきりと見られるような夙に私の関心を指導した人ということである」。
そうして晩年の一九六一年、「批評家を批評する」という講演のなかで「私の負うところのきわめて大きい旧
師アーヴィソグ・バビット」と述べていることは既に紹介したとおりである。
ハワースはいう。「バビヅトはもっとも強い教え子(pupi-∽)をひきつけ、彼らが彼と戦うことによって、彼ら
の性向と彼らの本来の信念(be-ie〇とを発見することを助けた。彼らは彼を離れてそういう性向や信念のほうへ
と去っていった。そこで彼は見捨てられ、取り残され、ただ一人でだんだんと悪化してゆく世界に立ち向かって
㊥
ゆかねばならぬ自分を兄いだしたーこれは彼の偉大であり、同時に彼の悲劇であった。」バビットは見捨てら
れたのではない。取り残されたのではない。少くともエリオットは終始変わらぬ敬愛と感謝の眼でもって旧師。ハ
ビットを見守っていたのである。
㊥④㊥㊥①注
Herbert呂OWarth‥≧吾:云哲きこ茸ミ3訂㌻㌫H{出芽品手nd。nHChptt。Windus∴麗∽)-p・-試
Cf.GO旨PmB.MunsOn‥=TheSOCraticくirtuesOニrくin的嬰旨bitt。(3bC註鼠昌Lune-⑫声畠の)
3qC蔓等訂声OctOber-呂∽ニー㌣P
HerbertHOWPrth.Qpcヂpp.一∽千明.
句.W.ぴatesOn‥。ThePOetryO"Learning。(日計こおお鳶甘註ぶed・byGr已pmMP註n-Mpcm≡an,-竃O,
P.∽帖)
㊥BernardBer笥nNi‥Hh.良計、(芳wYOrk‥Mgmi-Fn.忘㌶)-P・↓・
⑦Oや註..p.一…声
㊥lOhnD.MargO-i竺一Pph量ぎこ∴g訂簑賀冨已∴p遅蚤も蓋等-℃N㌣旨冶(Chic品○呂dLOndOn‥TheUniくerSityOf
Chic品OPress.-笥柏)-P.切.
㊥▲居:淳一p.-試.
㊥バビットのヒューマニズムにたいするエリオットの批判についてはMarg。-is.阜Cテesp・pp・}-?忘に負うところ
多大である。
㊤平井正穂『イギリス文学試論集』(研究社、昭和四十年)一五三ページ。
㊥すなわち、。Lance-OtAndrewes∵こOhロBrpmh巴↑。.こ室ccO訂MachipくeE㌧。Fr呂CisHe旨ert田rPd-ey㌧.
=出pude-巴reinOurTime-==ThOmaSMidd-etOn∵。A2〇teOnCrPShpw㌧-
㊥Lynda--GOrd昌‥hぎ語的ミ甘さミh(○已Ordand耳ewYOrk‥○已OrdUniくerSityPresⅥ二等コ.ppL∽01田に
よると、エリオットは一九二七年六月二十九日に洗礼を受け、翌朝、堅信礼を施された。それから約九ケ月後の一九二八
年二月ごろになってやっと「第三の、そうして彼にとってはおそらくもっとも重要な儀式」(最初の告白のこと)がおこ
なわれた。ゴードソはエリオットの改宗についてこう書いている-「彼は絶対秘密を欲した、彼は劇的な公衆の面前で
の改宗はいやだといった」(同書、一三〇ページ)
⑭。ThiswasHthi旨intheye雲霞当.、とエリオットは歯切れがよくない。MargO-is(阜Cヂp.一己)はこのエリ
T・S・エリオットとアーヴィソグ・パビット
T・S・エリオットとアーヴィソグ・.ハピット
オヅトとバビットとの会話がおこなわれたのは「一九二八年」としている。エリオットの記憶違いであろうか、マーゴク
リスの思い違いであろうか。エリオットは「批評家を批評する」のなかで、そのとき、『ラーンスロット・アンドルーズ
のために』を「編集中であった」といっているところからすると、この会話がおこなわれたときには「アーヴィソグ・パ
ビットのヒューマニズム」は既に発表されていたのではなかろうか。つまり、問題の年は「一九二八年」ということにな
りはしないだろうか。
さま虔当迦註巴〓‥し芸呈=芸料叫ぎ巨富-ed.by冒ederickM呂ChesterandOdel-Shep害d(2ewYOrk‥G.P.PutmPロ.S
SOnS〕宏一)にバビットの夫人DO=D.田abbittが寄せた.BiOg冒Phica-Sketch、(私i)によると、長年にわたるハ
7ヴ7-ド在任中、バビットが海外旅行をしたのはたった三回だけだった。第一回のは休暇年度一九〇七-八年で、その
一部をパリですごし、一部を英国の湖畔地方を歩いてすごした。次は一九二三年で、交換教授としてソルポソヌに滞在。
最後は一九二八年で、これはまったくの遊覧旅行で、イタリー、ギリシア、フラソス、イソグラソドですごした。パリで
「(バビットは)講義していた」というのもエリオットの記憶違いであろうか。
ベートソソ(叫醇もト豊q⊇童C違㌻塞亀H幸白鼠ed・byDa<id2ewtOn・DeMO-inp-UniくerSityO-LOPd。n-The
At-○ロePress二等♪p・∽)は「‥:アーヴィソグ・バビットは一九二七-八学年度の直前、Pソドンでエリオットと会
食したと思われる」とこれまた歯切れが悪い。「批評家を批評する」によったものであろうか。
㊥T・S・E-iOt‥ざC主計訂ねこ訂C主計(L。ロdOn‥Fabera已句PbeH∵霊∽)-P.宗.
㊥Mp宗○-is.OやCヂp.ロNgdHOWprth10やCヂp.-㌍
㊥他に次の諸事をあげている。知音鼠Q己簑こも註~買♪byGe。rgeSSOreご卜ゝe鼓、計ごま註督ミ♪byCh邑es
MaurrPS‥加苺長頁byJu-iengndだ∴ぜ宍邑已ざまbyT・ロ▼㌍已白e二奄註富=竃さぎ蔓箋眉byJg宅eS
Marit巴n・(3鴫之甘さC蔓等㌻きこaロup苛-u軍∽)
㊥注㊤参照。このエッセイの冒頭近くでマソソソはこういっている。「……事物を全体として見ようと欲する批評家は包
括的(cOmp完hensiくe)であると同時に凝集力をもた(C。hesiくe)ねばならない。そうして彼は多分、ソクラテスを師と
見なすであろう。パピットの特徴は、今ははやらないが、しかし過去のものとなってしまったのではないソクラテス的美
徳を身につけるベく努力しているという点にある。」
㊨㊨㊨㊧⑳㊥㊨㊥㊥㊥㊥㊨㊧㊥㊥㊥㊥@㊥㊥@㊨
的監註乱的巳卓的12ewEditiOn(一票-)-p.畠ド
ヽ豊礼.-p.烏ド
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旨試-p.畠O.
MPhtinlprretlKer‥。OhC-eric巳Cut。(包邑軋古き苫甘Cぎ♪ed.byG.Martin-p.柏屋
的巴毘ahを曇.P.∽宗.
QuOted昔OmM害gO-is-尽.C訂.、p.--P
h甘藍㌫C訂1宍蕾串已〇品等hs的童的(田OStOn呂d20名YO旨‥㌍○点htOnMi誹n二富○).p,NOP
h註亘乱匝…曇.Pふ詔.
『エリオット選集』(蒲生事房)五巻(昭和三十四年)「エリオット文献書誌」によると、雑誌に発表されたときのこ
のエッセイの表題は。SecOndThOughtsOnHum呂ism、、だったとのこと。
∽巴毘ahs旨呈p.ぉー.
恕置.P.怠-.
旨恥㌣p.串
旨試-P.畠-.
T・S・エリオットとアーヴィソグ・バビット
㊨㊥㊤
T・S・エリオットとアーヴィソグ・パビット
㊨㊨⑯@⑱㊥⑳㊥㊥㊥㊥㊥㊥
旨㌫.、p.命O.
旨㌫.IP.念声
これは「エリオット文献書誌」(注㊥参照)によったのであるが、内的的卓hbyT・S・E-iOt(K昌kyusha)p・NのNによ
ると「九月号」とある。この雑誌が季刊で「九/十一月号」だったのだろうか。
両次童hbyT.StE-i。t(Ken耳ushp)-PP.当輪.中村保男訳「批評の実験」(『エリオット選集』(蒲生書房)一巻)
を参照した。
紹宝計討C㌻薫活:要=三宅的簑雇Ip,匝一芦
旨軋㌣p.N∽∞.
旨&.-PP.蛇麗rP
的註亘乱如要望-P.ぉ印.
QuOtedfrOm試罵gO-is.阜こきp.-畠.
.his-itt-ehOuSe、HO鞠m呂窯ckersOn‥.こrくing出Pbbitt。(叫癖~ゝヨ芝C賢哲e訂ざ増ebrupry-3台.∽∞切.これと
ほとんど同一のエッセイが「クライティーリオソ」誌一九三四年一月号にのっている。
石田意次『信仰告白』(研究社、昭和十二年)四七五ページ。
3qC蔓等計声OctOber-誓∽-已∽.
旨㌫.、ロP
と㌻ふぎぷ篭p註(LOロd。n‥FpbeH呂dFpber〕∽∽亭pp・∽㌣芦中橋一夫訳「異神を退いて」(『エリオット選
集(蒲生書房)三巻)を参照した。
S註亘札内…望-PP,烏千切,
QuOted昔OmDaまdWPrd(H的・臼㌻二㌻ぎ寒害リ賢「至芸試.LOロdOn呂d出OStOn‥ROut訂dge紆KegaPPg-.
-笥∽-p・の)呂d昔OmKristi呂Smidt(無藍ゼ白き「浮ざヽ㌻こき二さま=斗↓∵ph寮.LOndOロ‥ROut-edge紆
Keg呂Pau-〕宏一Ip.-∽)
甘£虔∵迦払巴認㌧し重宝==丸叫が蚤訂.pL声
㊥QuOted昔OmM害gO-is二亨C-.㌻p.∽.
なお、この.teacher.なる語で思い出されるのはAustinWarrenの次のことばである。。He(i.e.出pbbitt)奄aS
冒tPShamedO蝿beingPteaCh声。(≧ghざ貰軍軋許を音AnnArbOr‥TheUniversityOfMichi等nPress.一害声
P・-∽-)
㊥重やCヂp∴試.
(後記)旨諷式∴ざ富寮こ.迂ぎ==礼↓㌻鼠空をお貸し下さった石田憲次先生に心から感謝する。
T・S・エリオットとアtヴィソグ・。ハビット
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