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巻3・4 ( ) ( )

) 中京法学 巻3・4号( 年) 論 - chukyo-u.ac.jp · 台 湾 統 治 に お け る 台 ... 長 宛 に 、 台 湾 に お け る 警 察 官 の 配 置 に 関 し て 、

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外地統治と警察官吏

――台湾統治における台湾総督府警察官――

問題提起

第一節

台湾総督府の警察制度

総督府警察官制度の確立

総督府警察官への道

総督府警察官の階級と陞等制度

第二節

台湾統治と総督府警察官

中京法学��巻3・4号 (����年)���(���)

台湾統治行政と総督府警察官

蕃地」

行政中の総督府警察官

霧社蜂起事件」

中の

蕃務」

警察官たち

第三節

総督府警察官の生活の諸相

総督府警察官の人間関係

総督府警察官の生活史

本島人の

義愛公」

小括問

題提起

官吏は、帝国憲法下の軍人・裁判官・警察官を除いた、一般に文官を指し、世間では、官員と呼んでいた」 (

1)

戦前期における裁判官と警察官について文官中に分類できるかどうか、定説はないようである。これは、別問題に

して、いずれにしても警察官は、一般文官と異なった身分を持っていたといえよう。確かなことは、戦後、治安維

持を専務とする警察官に比べ、戦前期の警察官には、内地治安に勤務する警察官、外務省の手先機関に勤務する

外務」

警察、及び外地に勤務する外地警察がある。中でも、ほぼ内地警察制度を踏襲した台湾総督府警察官には、

高等官より充てる事務系警察官と、主に治安維持をする巡査のほか、蕃地行政をする

蕃務警察」

がある。かれら

外地統治と警察官吏 (王) ���(���)

は、治安維持、戸口管理の外、「

匪徒」

掃討への協力、保甲との連携に従事し、内地警察より大いに活躍した。

ところが、こうした台湾統治上に重要な存在であった台湾警察制度は、戦後における研究が空白に近い状態となっ

ている。先行研究の成果として、戦前期において、台湾総督府警務局が編纂した

台湾総督府警察沿革誌』

と、中

島利郎・吉原丈司らが編纂した鷲巣敦哉自らの経験談である

鷲巣敦哉著作集』

等僅かな著書が挙げられるだけで

ある

(

2)

。上記の研究は、総督府警察諸制度上の変遷、沿革に関する法令上の列記と、逸話に近い述懐録であるが、総

督府警察制度の実態、就中、台湾統治中における警察官の役割についての研究は、全く行われていないとも言えよ

う。戦後、かかる台湾五〇年統治上における糖業政策の大成功、児玉後藤コンビの治台功績、台湾皇民化運動、同

化政策の変遷等についてはあれほど研究されていることを考えれば、総督府警察制度に関する研究は対照的である。

本稿は、上記の研究上の現状をふまえ、台湾統治五〇年あまりの史上において、台湾統治の

守り者」

としたる

警察官が果たした役割、警察官人事を始めとした総督府警察制度を検討することにしたい。

第一節

台湾総督府の警察制度

総督府警察官制度の確立

(

1)

千々岩英一の警察官設置意見書と総督府警察制度の設立

明治二八年六月二〇日、総督府内務部警保課長千々岩英一は、水野民政局長宛に、台湾における警察官の配置に

関して、次のように上申書を禀申した

(

3)

中京法学��巻3・4号 (����年)���(���)

本島ハ本月十七日始政式御挙行以来着々施政ノ歩ヲ進メラレ候処、抑モ警察ノ事タル行政上一日モ忽諸ニ附ス

ヘカラサルハ呶令贅言スル迄モ無之、就中今日ノ場合ハ其配置誠ニ最緊要中ノ最急務ト思料致候、依テ本島ノ

広褒及人口ニ照シ警察官吏配置ノ方法ヲ審案セント欲シテ之レカ取調ヲ遂クルモ、如何セン実地拠ルベキ材料

一モ無之故ニ不得己種々ノ図書ニ就キ観察ヲ為スニ、凡ソ土地ノ広サ英里東西十里南北二百四十里ニシテ人口

三百万ヲ下ラサルモノノ如シ、是固ヨリ精確ニ非スト雖モ亦決シテ大差ナカルヘキヲ信認セリ、而シテ其人口

ハ台北最モ多キヲ占メ台南之ニ次キ、台湾又其次ナルヘクト考量セラレ候得共素ヨリ其区別ヲ為ス能ハサルカ

為メ、予メ三県ヲ通シテ各百万ト仮定シ人口二千ニ対シテ巡査一名、此ノ数千五百名ヲ要スルヲ以テ、先ツ毎

県平均五百名ノ配置ト仮定シ、且巡査十名ニ付警部一名此ノ総数百五十名ナルヲ以テ、即チ毎県平均五十名ノ

警部ヲ要シ候、此ノ外別ニ巡査二百名警部二十名ヲ要シテ、漸次生蕃ノ感化ニ従事セシメ度、故ニ本島ニハ合

シテ警部百七十名巡査千七百名ノ必要有之、(

中略)

是実際ノ状況ニ応シ万不得己ノ事情ニ有之、而シテ前述

ノ通リ警察官吏ノ配置ハ目下最モ緊急ヲ要スルモノニ付、速ニ内地ニ至リ募集致度右上申候也

明治廿八年六月二〇日民

政局警保課長心得

千々岩

英一

民政局長官

水野

遵殿

千々岩が上申書を禀申した時期は、樺山総督一行が台湾に上陸し、軍隊と憲兵隊が主体となり全島各地に蜂起し

外地統治と警察官吏 (王) ���(���)

た「

匪徒」

を討伐し、治安が未だに回復の運びになってい

ない時期である。言い換えれば、千々岩警保課長心得が警

察官配置を上申した当時は、台湾の治安が軍隊と憲兵隊に

より維持されていることから、千々岩の上申書は、前向き

の計画書とも言えよう。さて、千々岩が描いた総督府警察

官配置基準は、人口二千人に対し、巡査が一名という配置

であり、当時内地の警察官配置基準に比べ、必ずしも高い

基準ではない。次の第1表は、同年における内地府県の巡

査一人が受持つ実際の人口数を集計したものである。

つまり、明治二八年一二月現在、東京の現住人口の数が

一八六七九一三人に対し、巡査は三三三四人が配置され、

巡査一人の受持人口は、五六〇人となっている。同時期に

おける沖縄県は、人口が四三九五八人に対し、巡査は一六

四人であり、巡査一人の受持人口は、二六八〇人となり、

内地では、最低となっている。さらに、同時期、内地人口

合計が四三〇四八二二六人に対し、巡査総数が二六八八九

人であり、巡査一人の受持平均人口は、一六〇一人となっ

ている。いずれにせよ、警視庁警視から総督府内務部警保

中京法学��巻3・4号 (����年)���(���)

第1表 内地府県巡査1人の受持人口数集計表(明治��年現在, 単位:人)

府県 人口 府県 人口 府県 人口 府県 人口 府県 人口

東 京 ��� 茨 城 �� 岐 阜 ��� 富 山 ���� 高 地 ����

京 都 ��� 群 馬 ��� 宮 城 �� 鳥 取 ���� 福 岡 ���

大 阪 ��� 栃 木 ���� 福 島 ���� 岡 山 ���� 大 分 ���

神奈川 ���� 奈 良 ���� 岩 手 ��� 広 島 ���� 佐 賀 ���

兵 庫 �� 三 重 ��� 青 森 ���� 山 口 ���� 熊 本 ����

長 崎 ��� 愛 知 ���� 山 形 ���� 和歌山 ���� 宮 崎 ���

新 潟 ���� 静 岡 ���� 秋 田 ���� 徳 島 ��� 鹿児島 ���

埼 玉 ���� 山 梨 ���� 福 井 ��� 香 川 ��� 沖 縄 ����

千 葉 ��� 滋 賀 ���� 石 川 ���� 愛 媛 ���� 北海道 ����

長 野 ���� 島 根 � 平均:����

出典:本表は、 内務省 『内務省統計報告』 (第��巻 日本図書センター ����年復刻 ��頁と�頁~�頁) にまとめられた明治��年度分、 各府県人口数、 巡査数により集計したものである。 なお、 本表中の人口数は、 四捨五入の数となっている。

課長に転任した千々岩は、こうした内地の巡査配置事情を知らないはずはないことから、台湾総督府は、台湾治安

の容易な回復、または台湾の治安維持が依然として軍隊、憲兵隊が主導することにのいずれか想定されてているこ

とが伺えよう。このうち、当時、台湾各地に蜂起した

匪徒」

による治安が悪化しつつある最中、警保課長である

千々岩は、蜂起した

匪徒」

を鎮圧した後、内地府県より、多数の警察官を配置することを考えておらず、軍隊、

憲兵隊が主導する台湾治安体制の維持を想定していた可能性が高いと考えられる。

いずれにしても、同年、千々岩警保課長の意見書を採用した総督府は、千々岩を内地に派遣し、総督府警察官募

集を命じた。ところが、千々岩の内地警察募集はうまくいかなかった。おりしも当時、戦時給与規則により総督府

文武官傭人の俸給は、陸軍省から支給されることから、総督府警察官の募集は、事前に陸軍省の承諾を得なければ

ならないこととなる。このため、総督府が事前に陸軍省との連絡、協議を充分行うことができず、千々岩の警察官

募集は、意外にも陸軍省乃至大蔵省から激しく抵抗されたのである。同年七月三一日、警察官募集の事務を命じら

れた千々岩警保課長が九州、京都、大阪を経由し、上京をしたところ、台湾総督府事務局総裁伊藤博文は、総督宛

に次のように通牒を発した

(

4)

貴府文武官傭員ノ俸給其他ノ給与ハ戦時給与規則ニ準拠シ支給ノ事ニ去ル五月中内閣総理大臣ヨリ指令相成居

候処今般千々岩総督府員ヲ以テ募集セシメラル候警察官ハ同府員ノ申立ニ依レハ別段ノ俸給手当等被定右ノ指

令ニ準拠セラレサルモノト被存候就テハ本月一六日内閣総理大臣訓令第六項ニ依リ本局ヘ詳細報告相成度此段

及御通牒候也

明治二十八年七月三十一日

外地統治と警察官吏 (王) ���(���)

台湾事務局総裁伯爵

伊藤博文

台湾総督府子爵

樺山資紀殿

このように、伊藤は、大蔵省、陸軍省からの総督府警察官らの俸給支給が戦時給与規則に準拠せずとのことを伝

え、総督府警察官の募集に難色を示した。この通牒を受けた総督府は、翌月一九日、台湾事務局、会計検査院にそ

れぞれ書簡を寄せ、同府警部と巡査俸給規程を添付したうえ、警察官募集の必要性を訴えた。総督府警察官募集を

めぐって、総督府と、陸軍省及び大蔵省とは、意見が対立した。このうち、同年八月二九日、陸軍省はこうした膠

着状態の打開策として、同府千々岩警保課長の警察募集を越権行為とし、千々岩に休職を命じ

(

5)

、他方、千々岩が九

州地方と関西地方で募集した警察官の台湾への赴任を許可し、総督府と大蔵省の間の妥協を図ろうとした。

さて、同月、総督府の警察募集事務を引き継いだ滞京中の総督府内務部長牧朴真は、内地で募集した総督府警察

官警部四四人、巡査四九二人を引率し、同年九月二四日、基隆に上陸した

(

6)

。九月二九日、総督府は、豊永高義・矢

矧昇二・小松良・財部正彦ら五名を警部心得とし同府警保課に、警部心得堀口珍器・川添為一ら三名を澎湖島に、

巡査心得本田伊藏外二四名を台北県に命じたことを始め、それぞれ同府警保課、台北県庁、義蘭支庁、基隆支庁、

新竹支庁、淡水支庁などに配置することとした

(

7)

これを端緒とし、総督府警察官は、明治二八年、六八四人から、翌年一二〇〇人、さらに明治三〇年三一〇〇人

へ、進んで明治三一年三二九一人の定員が決められた

(

8)

ところが、かかる総督府の巡査定員数にもとづく、島内の人口に対する受持人口数は、決して高くなかった。当

初、総督府は、島内の治安維持を主に島内に駐在する軍隊、憲兵隊に頼っていたが、このうち、乃木総督が任期内

中京法学��巻3・4号 (����年)���(���)

に制定した三段警備体制がそれである。

おりしも台湾領有当初、台湾南部の

匪徒」

掃討の主役は、軍隊と憲兵隊であった。台湾北部と中部は、おもに

憲兵隊がその治安維持の任にあたった。警察官吏の配置は、台北城、淡水を始め、台湾北部の都市部に限定されて

いる。さらに、総督府仮条例乃至民政復帰初期において、内地府県制度の焼き直しにすぎない総督府行政体制が実

施され、その警察事務は、総督府本府では地方行政、監獄、土木、地理及び戸籍とともに総督府内務部に所管され、

各県庁では警察部、その下に警察署が設置された。警察事務は、地方行政の補助、所謂衛生と戸籍管理強化が主な

業務となっていた。

一方、明治三〇年、島内各地に猖獗する

匪徒」

の掃討に力を入れようとした総督府は、軍隊、憲兵、警察の連

携を図ろうとし、同府陸軍部第一課長楠瀬幸彦の上申案を採納した。同年、楠瀬は、乃木総督に、「

台湾全島ヲ数

区ニ分チ各区ニ適応ノ統治策ヲ定ムル」 (

9)

とし、島内の治安状況に応じ、全島を軍隊、憲兵、警察の警備区域に画定

するよう上申した。同年六月、楠瀬課長の意見を採択した総督府は、全島を一、二、三等地に分け、「

匪徒」

の猖

獗を極める山地一帯を一等地にし、軍隊の警備区域とし、「

匪徒」

の騒乱が少ない平地街庄を三等地にし、警察官

の警備区域とし、この間の地帯を二等地にし、憲兵を主とし、警備を担当することとし、いわゆる三段警備体制を

策定した。

ところが、軍事論理上では理想的な三段警備体制は、既に民政復帰し、行政統治が実施された台湾では、軍隊・

憲兵・警察といった三段警備区域が行政区域の区画と一致せずに、いくつかの支障が生じ、就中、行政と軍事の対

立を深めるばかりとなった。

外地統治と警察官吏 (王) ���(���)

(

2)

明治三一年総督府官制改正と警察官

かかる体制の不整合による軍隊と行政の対立、各地に設置する弁務署と警察署との効率の悪化等の諸問題を抱え

る総督府は、明治三一年、児玉総督と後藤民政局長の就任を迎えた。

同年六月二〇日、台湾総督府は、台湾総督府官制を改正し、行政官僚を中心とした台湾統治構造の確立を図ろう

とした。この官制改正では、総督府は、従来民政局と同格であった財務局を撤廃し、財務事務を新設した民政部の

一部署に変わった。さらに、民政部は、従来民政局が管轄していた

民政及司法ニ関スル一般ノ事務」

から

民政

及司法ニ関スル一切ノ事務」

と変わり、司法業務の民政部管轄権の区分を明らかにした。

また、総督府は、こうした民政部を台湾行政の中心とし、軍人勢力の行政干渉を制度上から防止をしようとした。

総督府は、総督府官制上について、従来の

陸軍幕僚海軍幕僚民政局財務局」

民政部、陸軍幕僚、海軍幕僚」

という順位に変えたり、陸軍幕僚参謀長及び海軍参謀長の総督府評議会の列席を

軍事ニ関渉スル場合ニ」

限るな

ど、軍人勢力による行政関与と容啄を禁止するようになった。

一方、同日公布した総督府地方官官制改正案により、従来県庁下に併設した弁務署と警察署を併合し、新たな弁

務署を設立した。このうち、新設した弁務署に

「第一課他課ノ主務ニ属セサル一切ノ事務」

第二課警察ニ関スル

事務」

、「

第三課蕃人蕃地ニ関スル事務」

を掌る三課が置かれるようになった

(

�)

。下記は、同日、新地方官制の施行と

ともに任命された弁務署長人事である

(

�)

台北県弁務署長

桑原戒平・與倉東雄・佐野友三郎・宮ノ原藤八・足立忠八郎・浅井元齢・折田一郎・山本徳

次郎・中村勝治・永田直之丞・米山俊信

中京法学��巻3・4号 (����年)���(���)

台中県弁務署長

後和巽・家永泰吉郎・熊谷直亮・長野義虎・越智元雄・稲田綱吉・岡田宜寿・坂崎半也・矢

矧昇二

台南県弁務署長

田辺啓藏・郷田侃・高山喜英・岡田信興・隈元禎三・須田綱鑑・川田久喜・川上親賢・野口

智朝・甘粕春吉・佐倉孫三

このうち、弁務署長人事に警部が就任したことのほか、弁務署に警察課を新設することにより、警察の機能が行

政の一環として植え付けられたことは、注目すべきであろう。

(

3)

明治三四年総督府官制改正と警察本署の成立

明治三四年一月二五日、総督府は、次のように総督府地方官官制改正案を起案した

(

�)

民県第一〇四号

明治

年一月二十三日決判

明治

年一月二五日発送

主任

瀬能

[

荘一]

(

朱印)

参事官

中山

[

成太郎]

(朱印)

参事官長

石塚

[

英蔵]

(

朱印)

総督

[

児玉源太郎]

(

花押)

民政長官

後藤

[

新平]

(

朱印)

文書課長

加藤

[

尚志]

(

朱印)

外地統治と警察官吏 (王) ���(���)

人事課長

大鳥

[

富士太郎]

(

朱印)

県治課長

松岡

[

弁](

朱印)

警保課長

[

太郎]

(

朱印)

主計課長

台湾総督府地方官官制中改正ノ件

右別紙ノ通御禀申相成可然哉仰高裁

台湾総督府地方官官制中改正ノ必要ヲ認メ候ニ付別紙勅令発布方御詮議相成度理由書相添此段及禀申候也

総督

内務大臣宛

勅令案

台湾総督府地方官々制中左ノ通改正ス

第一条中台東庁ノ下

及」

ヲ削リ澎湖庁ノ下ニ

「恒春庁」

ヲ加フ

第二条中警部ノ次ニ

警部補」

ヲ加フ

第三条中台東庁ノ下

及」

ヲ削リ澎湖庁ノ下ニ

恒春庁」及警部ノ次ニ

警部補」

ヲ加フ

第八条中警部ノ下ニ

警部補」

ヲ加ヘ

六百七十二人」

「九百七十四人」

ニ改ム

中京法学��巻3・4号 (����年)���(���)

第十九条第二項ニ台東庁ノ下

及」

ヲ削リ澎湖庁ノ下ニ

恒春庁」

ヲ加フ

第二十四条ニ左ノ一項ヲ追加ス

警部補ハ警察課又ハ弁務署、弁務支署ニ分属シ警部ノ職務ヲ補助ス

第二十九条中巡査ノ下ニ

及巡査補」

ヲ加フ

第三十六条中

五百五十人」

五百四人」

ニ改ム

第四十二条第一項中

各其ノ上席主記、警部又ハ技手」

上席判任官」

ニ改ム

第四十三条中警部ノ下ニ

警部補」

ヲ加フ

附則

本令ハ明治三十四年四月一日ヨリ施行ス

理由書

台南県下恒春地方ハ従来台南県ノ所轄ニ属シ恒春弁務署ヲ置キテ之ヲ統治シ来リタルモ該地方ハ本島ノ

最南端ニ隔在シ各地トノ交通海陸共ニ頗ル不便ナリ故従来県ニ於テ之ヲ監督シ諸般事務ヲ整理スル上ニ

於テ常ニ遅滞ヲ生スルコトヲ免レサリキ加之該地方ハ人情風俗等台南地方全ク其趣ヲ異ニシ且該地ニ於

ケル主要ノ行政事務ハ固ヨリ蕃界ノ開発ニ在ルヲ以テ一ノ弁務署ヲシテ之ヲ統治セシメンヨリハ独立官

衙タル庁ヲ置ヲ以テ該地方政務ノ改善ヲ図ルニ最モ利便ナリト認ム是レ恒春弁務署ヲ廃シテ恒春庁ヲ新

設スル所以ナリ

巡査ノ監督ニハ従来内地同様巡査部長ヲ置キ以テ警部ノ職務ヲ補助セシメタルモ其身分待遇ノ仝一ナル

外地統治と警察官吏 (王) ���(���)

ヨリ充分ノ効果ヲ得難キ場合尠カラス且本島ノ如キ官階ヲ重スル地方ニ於テハ警察事務ノ執行上監督的

ノ職務ニ当ル身分及待遇ヲ高ムルヲ以テ其事務ノ執行上最モ利便ナリトス是レ従前ノ巡査部長ヲ廃止シ

新ニ警部補ヲ置キ警部ノ職ヲ補助シ巡査以下ノ監督ニ従事セシメントスル所以ナリ

従来本島人ヲ巡査補ノ名称ヲ以テ使用シ巡査ノ職務ヲ補助セシメタルカ警察力ノ充実ヲ図ル上ニ於テ頗

ル良好ノ成蹟ヲ得タリ故ニ将来ハ之ヲ警察ノ一機関トシ巡査ノ職務ヲ補助セシメントス是レ巡査補ヲ新

置スル所以ナリ

このように、恒春庁の新置と、警部の職務を補助するため、新たに警部補の職位を加えることとなっている。こ

の案は、総督府官制改正案とともに、法制局と内閣を経て、同年五月一日、勅令第七四号と第八七号を以て公布さ

れた。

かかる警察職位の調整、職員の増減に着目した官制改正に比べ、同年一一月に施行された総督府官制改正は、警

察制度、地方制度等の総督府行政組織上の大変革であった。

同年九月二〇日、総督府は、総督府地方官官制と総督府官制及びそれに伴う総督府評議会章程、警視特別任用令

等の二四件諸官制改正案を内務大臣に禀申したが、その原案は、総督府本府が、従来の警保課、文書課、主計課、

学務課等の一四課制を廃止し、そのかわりに総督官房、総務局、財務局、通信局、殖産局、警務局及び土木局を設

置するとし、地方について、従来の台北県、台中県、台南県、宜蘭庁、台東庁、澎湖庁、恒春庁との三県四庁体制

を廃止し、台湾全土に新たに二〇庁を新置するとの改正案であった。

改正の理由について、総督府は、「

従来台湾ノ地方制度タル或ハ総督府ノ支庁ヲ各地ニ配置シ或ハ県ヲ置キテ其

中京法学��巻3・4号 (����年)���(���)

ノ管内ニ県ノ支庁ヲ配置シ或ハ県及庁ノ下ニ弁務署ヲ配置シタルヤ如キ数次ノ変遷ヲ経タルモ

(

中略)

然ルニ爾来

ノ経験ニ依ルニ専ラ地方事務ノ衝ニ当ルモノハ弁務署ニシテ県及庁ハ単ニ総督府ト弁務署トノ間ニ介在スル一種ノ

取次機関タルニ過キス必シモ県及庁ヲ設置セサレハ処理スル能ハサル程ノ政務ハ殆ント之レアルヲ見ス」

とし、ま

た、「

従来総督府民政部ノ事務ハ之ヲ人事、文書、外事、県治、警保、法務、衛生、学務、殖産、税務、通信、主

計、会計及土木ノ十四課ニ分チテ掌理セリ然ルニ爾後ノ経験ニ依レハ分課ノ数多キニ過クルノミナラス各般ノ経営

其ノ歩ヲ進メ来レルニ随ヒ各課ニ於ケル事務ノ繁劇亦往々ノ比ニアラス到底総督又ハ民政長官ニ於テ直接ニ各課ノ

事務ニ付一々細密周到ナリ指揮ヲ取レ難キニ至リ加フルニ今般地方官官制ノ改正ヲ行フノ結果総督府ノ事務ヲ一層

繁劇ナラシメントス故ニ現在ニ於ケル数課ノ事務ヲ統一整理シ以テ上官ニ対シ其ノ責ニ任スル中局機関ヲ設置スル

ヲ必要トスルニ至レリ是レ本按改正ヲ必要トスル所以ナリ」 (

�)

と、地方官官制と総督府官制改正の理由を明かにして

いる。

就中、内務大臣に禀申したこの官制改正諸案につき、総督府と中央官庁との間の最大の争点は、警察機構の設置

問題である。この禀申の少し前の八月一七日、同府石塚参事官長は、かかる官制改正諸案を成立するため中央省庁

との折衝役として上京を命じられ、同月二〇日、台北を出発したのであった。ところが、かかる深刻な

土匪」

蕃人」

の跳梁に、どうしても警察機関の機敏な対策と全島警察の統一を必要とした後藤民政長官は、同年九月八

日、急遽在京中の石塚参事官長に、次のように打電をした

(

�)

欄外注:発送済

明治三十四年九月八日

外地統治と警察官吏 (王) ���(���)

参事官

[

大島久満次]

(

花押)

民政長官

[

後藤新平]

(

花押)

電報案

此回ノ改革中最モ注意ヲ要スヘキノハ警察制度ナリ其後ノ攻究ニ依リ特ニ総督府ニ警察本署ヲ置キ警察事務

ノ監督並ニ或場合ニ於ケル直接執行ニ当ルノ組織ヲ明カニシ警察」

[

朱筆にて削除]

務局長ヲ置カス警視総

長並警部ヲ置キ巡閲区画ヲ定メ全島警察ノ統一ヲ期スルニアラサレハ土匪密輸入其他ニ対シ警察ノ機敏ヲ缺

クニ至ルノ虞アリ依テ右特別制度ヲ設クルノ必要ヲ認メタリ依テ修正案次便ニテ送クル

このように、後藤は、官制改正の原案にあった警務局にかわり、新たに警察本署という全島統一的な警察機関の

設置をするという指示を下した。このため、同月一二日、後藤民政長官は、在京中の児玉総督に打電し

(

�)

小官帰任後間モナク石塚参事官長上京ノ途ニ就キ当時ノ形勢ヲ了得スル暇ナカリシモ其後見ル所ニ依レハ宜蘭

台北台中管内蕃人ノ跳梁甚タシク特ニ苗栗地方ニ於テ最モ甚タシキヲ以テ警察官吏隘丁合同シテ之ヲ討伐セン

コトヲ人民ヨリ知事ニ申請シ知事ハ之ヲ旅団長ニ計リ目下交渉中ノ由ニシテ追テ総督ヘ禀申ノ運ニ至ルヘシ斯

ノ如ク蕃界ニ事ヲ生スレハ土匪其隙ニ乗シ地方ノ安寧ヲ害スヘク此等ノ形勢ニ徴スルモ今回改正案ノ如ク警察

系統ヲ一貫シテ其動作ヲ敏捷ナラシメ取締ヲ厳重ニスルノ必要ヲ認ム其蕃人ヲ討伐スルヤ否ヤハ大ニ攻究スヘ

キ問題ニシテ御帰府ノ上ニ非サレハ容易ニ之ヲ決スルヲ得スト雖目下ノ形勢斯ノ如クナルヲ以テ御内報ニ及フ

中京法学��巻3・4号 (����年)���(���)

と、官制改正案の変更について児玉総督の理解を求めようとした。

一方、新たに後藤民政長官からの指示を受信した石塚参事官長は、同月一七日、次のように後藤民政長官に打電

し(

�)

九月十七日

訳電

参事官長

民政長官宛

民政長官

[

後藤新平]

(

花押)

総督府官制案中警察ニ関スル規定ハ是非左ノ如ク修正シタシ

十七条十八条中警察本署ヲ削リ

十七条中五局ヲ六局ニ改メ、総務局ノ次キニ警務局ヲ加ヘ

十九条中警視総長ヲ削リ同条ニ局長タル警視ハ勅任ト為スコトヲ得ノ一項ヲ追加シ

二十二条ヲ削除シ

外地統治と警察官吏 (王) ���(���)

三十三条ノ次キニ

警務局長ハ警視ヲ以テ之ニ充ツ、警務局長ハ前条ノ外警察事務ニ就キ直チニ庁長以下

ヲ指揮スルコトヲ得」

ノ一条ヲ加ヘ

二十六条

()

項中三人ヲ十四

(

?)

人ニ警察本署ヲ警務局ニ改メ同条二項ヲ削ルコト

と、石塚本人の意向を伝えた。この石塚参事官長の返電の二時間後の同日午後二時ごろ、児玉総督も東京から後藤

民政長官宛てに打電し

(

�)

九月十七日

訳電

民政長官

[

後藤新平](

花押)

総督

民政長官

警察ノ統一ト敏活トハ今回改正中ノ眼目タルヘキハ勿論ナルモ之レカ為メ総督府ニ警察本署ナル特別機関ヲ設

ケ警視総長ヲ其長トシ直接ニ庁長以下ハ指揮監督セシムルハ余リ重キヲ形式ニ置クノ結果其精神アル処ヲ誤解

セシメ関係各機関ノ間ノ円滑ヲ欠キ却テ其目的ヲ誤ルノ虞アリ百般ノ民政事務ハ民政長官ノ一身ニ集中シ之ヲ

経テ円滑ニ上下ニ疎通スルコト最モ肝要ナリ依テ警察本署及警視総長ヲ置クヲ止メ警視四人ヲ置キ其内一人ヲ

中京法学��巻3・4号 (����年)���(���)

以テ警務局長ニ充テ之ニ庁長以下ヲ指揮シ得セシムルコトニ修正可然

と、児玉総督も同じく警察本署の設置に反対した。

総督と参事官長からの反対に遭った後藤民政長官は、翌日、児玉総督と石塚参事官長へ打電し、総督府上層部の

結束を図ろうとした。同日、児玉総督宛の電報に、後藤民政長官は

(

�)

民政部ハ独リ警察事務監督ノミニ止マラズ直接之レカ執行事務ニ当ルコトヲ明カニスルニハ他ノ五局ト一種異

ナル組織ノ特設機関ヲ置クノ必要アリ若シ他ノ各局ト同一機関ノ如クセハ却テ誤解ヲ来シ直接執行ノ場合ニ於

テ円滑ヲ欠クノ虞アルカ故ニ警視総長以下順次監督ノ階級ヲ明カニスルコト規律上欠クヘカラスト信ス然ルニ

警視ヲ府内ニ置キ警察事務ニ当ラシメ其一人ヲ勅任トシテ警務局長ニ充ルコトトスレハ警視総長ヲ置クノ制度

ト実体ニ於テ差異ナク却テ責任ヲ軽カラシムルノ嫌アリ且形式備ハラサルヨリ実行上ニ惑ヒヲ生スル恐アリ今

後三四年ノ間ハ外部ニ関スル地方行政ノ主体ハ警察ナルコトヲ示メシテ進行スルニアラサレハ徴税事務モ専売

ノ取締モ十分挙ラス且大租権ノ整理ヲ全クスルニモ余程ノ困難アルヘク前途警察機関ノ力ニ待ツコト多キハ明

白ナリト思ハルルカ故ニ此際ニ於テ其名称ハ何レニモセヨ警察本署ノ如キ系統一貫ノ特別制ヲ置カレンコト切

望ニ堪ヘス尚ホ御賢断ヲ乞フ

民政長官

総督宛

外地統治と警察官吏 (王) ���(���)

と、総督からの警察本署設置案の同意を求めようとした。

また、石塚参事官長宛の電報に、後藤民政長官は

(

�)

警察系統ニ関スル総督ヨリノ電報ニ対シ理由ヲ具シ御再考ヲ願ヒ置ケリ警察ハ形式上鮮明ナラサレハ却テ誤解

ヲ来タシ円滑ヲ欠クノ虞アリ小生一個ノ考トシテハ寧ロ総督府ニ警視二十三名ヲ置キ内二十名ヲ庁長ニ補スル

ノ制トシ此処二三年純然タル警察行政ノ系統ニ致シタシト思考スル位ナリ否ラサレハ全島ノ統治ニ於テ或ハ功

績ヲ挙クルニ難キヲ感スヘシ憲兵モ減少スル暁ニ於テ保甲制度ノ普及モ此後一チニ警察ノ振作ニ依頼セサルヲ

得スト思考ス依テ総督府ニ監督官ヲ置クヨリモ主トシテ執行ノ責任スル警察制ヲ設ケ度キ見込ナリ右貴官ノ御

参考迄電報シ置ク宜ク御取捨ヲ乞フ

民政長官

参事官長宛

と、石塚参事官長にたいし新官制改正案において警察事務の執行責任をする警察本署の設置を再考の上、当局と交

渉するように、総督府内の上層部の結束を求めながら、中央政府との交渉を強く示した。

ところが、この電報を受信した石塚参事官長は、翌日、後藤民政長官に返電し、「

警察機関ノ件ハ総督同意セラ

レタルモ内務省法制局等ノ交渉ハ困難ナラシ」 (

�)

と、総督府警察機関の件をめぐり、中央政府内の反対の意を伝え、

総督府上層部における総督府と中央政府の意見対立という図式に進んでいることを示唆した。ここに、警察本署の

中京法学��巻3・4号 (����年)���(���)

設置について児玉総督は、はたして同意したか、またはどれほど納得していたかは、疑問が残されている。

このうち、同年一〇月一日、後藤民政長官は、滞京中の児玉総督に打電し、「

官制本日閣議ノ由警察本署ヲ改ム

ル法制局案不幸ニシテ閣議通過セハ下官ハ此ノ如キ机上論ノ所定ニ従ヒ責任アル実務ニ服スルコト能ハス警察系統

ノ一貫制度ナクシテ全島ノ統治ノ責ニ当ルヘカラスト確信ス、下官敢テ軽ク進退ヲ論スルモノニアラス下官国家ノ

為メ必要ト信スル処今日ニ明言スルハ止ヲ得サル事情アルコトヲ御洞察アランコトヲ望ム」 (

�)

と、自分の進退を決意

する旨を披瀝した。さらに、後藤民政長官は、同年一〇月一四日、東京から帰府した児玉総督と懇談し、児玉総督

の同意を得た。このため、翌日、児玉総督は、桂首相に、「

小官案スルニ之ヲ強テ法制ノ体裁ニ泥ミ実際ニ適セサ

ル法文ヲ布キ事実ニ於テハ警務局長ハ原案ノ警視総長ト異ルナキカ如キ寧ロ当局者タル民政長官ノ意見ヲ採用スル

ニ如カス、殊ニ二十ノ独立庁ヲ置ケハ従テ警察ノ連合動作ノ数ヲ増スコトハ小官在京中考慮ノ及ハサリシ所ニシテ

此新事実ハ実行上原案ノ如クナラサレハ意外ノ困難ヲ来スヘク、故ニ本島ノ警察ハ民政上唯一ノ機関ナルヲ以テ重

キヲ民政長官ノ意見ニ置クヲ必要ト認メタリ御一考ヲ乞フ」 (

�)

、総督府と内務省乃至法制局との間に膠着状態となっ

ている総督府警察本署の設置につき、総督として改めて立場を表明した。この児玉総督の首相宛の電報文の作用か、

警察本署設置を含む総督府官制改正案は、ほぼ総督府側の主張のままに閣議と枢密院の諮問を経て、同年一一月八

日、天皇の御裁可を得、一一日、公布に至った

(

�)

ちなみに、官制改正案が公布された同日、総督府は、大規模な人事異動を行った。同日、総督府事務官祝辰巳が

総督府財務局長に、法制局参事官兼同局書記官鹿子小五郎が総督府通信局長に

(

�)

、総督府参事官大島久満次が警察本

署警視総長に、総督府技師新渡戸稲造が殖産局長心得に、同府技師高橋辰次郎が土木局長心得に

(

�)

、それぞれ命じら

れた。また、同日施行した

台湾総督府官房並民政部警察本署及各局分課規程」

では、総督府は、警察本署を警務

外地統治と警察官吏 (王) ���(���)

課、保安課、衛生課に分け、総督府警視中田直温、同原修次郎、事務官加藤尚志がそれぞれ同本署の警務課長、保

安課長、衛生課長として任命された。下記は、同分課規程に、警察本署の各課の事務分掌である

(

�)

(前略)

第八条

警務課ニ於テハ左ノ事務ヲ掌ル

警察配置ニ関スル事項

隘勇ニ関スル事項

任用教習賞罰及規律ニ関スル事項

巡査巡査補退隠料及遺族扶助料等ニ関スル事項

経費並保管金ニ関スル事項

地所建物船舶物品及銃器ニ関スル事項

第九条

保安課ニ於テハ左ノ事務ヲ掌ル

司法警察ニ関スル事項

監視執行及囚人護送ニ関スル事項

保甲及戸口調査ニ関スル事項

清国人労働者取締ニ関スル事項

密輸入及海港取締ニ関スル事項

樟脳食塩専売取締ニ関スル事項

中京法学��巻3・4号 (����年)���(���)

山林及蕃人取締ニ関スル事項

前各項ノ外行政警察ニ関スル事項

第十条

衛生課ニ於テハ左ノ事務ヲ掌ル

伝染病及地方病ノ予防検疫其他総テ公衆衛生ニ関スル事項

医製薬並売薬ニ関スル事項

阿片専売取締ニ関スル事項

医学校ニ関スル事項

さらに、総督府は、新たに設置した二〇庁を二つの警察管区に分け、台北庁、基隆庁、宜蘭庁、深坑庁、桃仔園

庁、新竹庁、苗栗庁、台中庁、南投庁、彰化庁などの台湾北部を第一警察管区とし、斗六庁、嘉義庁、塩水港庁、

台南庁、鳳山庁、阿猴庁、恒春庁などの台湾南部を第二警察管区とした。総督府警視原修次郎と、中田直温が、そ

れぞれその第一と第二警察管区長となり

(

�)、「警察ノ各部署ニ於ケル紀律ノ弛緩服務ノ勤怠処務ノ整否法律命令実施

ノ状況及適否其ノ他警察ニ関スル諸般ノ事項ヲ査察シ法律命令ノ普及並事務ノ統一ヲ計リ事急ナル場合ニ至テハ庁

長以下ヲ指揮シ直接執行務ニ当ルモノトス」

との権限を付与された

(

�)

いずれにしても、かかる明治三四年総督府官制改正を通じ、総督府は、総督府警察機関の充実を実現した。次の

第1図が示すように、明治三四年総督府官制改正によって、警察本署が民政部の諸部署のなかでも特別の部署とな

り、総督府諸高等文官中において、警察本署警視総長は、総督、民政長官に続いて、三番目に地位が高い高等文官

となり、緊急の場合、警視総長が各庁長を指揮する権限を持ち、総督府においては、優位な地位を確立することが

外地統治と警察官吏 (王) ���(���)

できた。

こうした警察本署を中心

とした総督府警察体制は、

明らかに東京警視庁を始め

とする内地及び日露戦後に

成立した朝鮮総督府、樺太

庁、関東庁等の警察体制と

は、相違がある。

本来ならば、内地では、

東京警視庁とその他の府県

の警察機関は、相違がある

わけでなかった。他の府県

庁では府県庁の下に警察部

を設置するに対し、東京で

は政治経済の中心である首

都との特別な事情により、

東京府庁の他に、内務省が

直轄した警視庁が存在して

中京法学��巻3・4号 (����年)���(���)

第1図 明治��年前後総督府部署中の警察部署比較

明治33年現在

総 督

総督官房

民政長官

会計課

外事課

人事課

主計課

税務課

法務課

通信課

殖産課

学務課

衛生課

土木課

県治課

警保課

文書課

明治34年以後

総 督

総督官房 (秘書課, 文書課)

民政長官

土木局

殖産局

通信局

財務局

総務局

警察本署

警務課保安課衛生課臨時防疫課(明治36年設置)蕃務課 (明治39年設置)

いる。これに対し、朝鮮、台湾、樺太乃至関東と内地とは、全く異なる方向に展開していた。例えば、明治四三年

一〇月発足した朝鮮総督府では、内務部、度支部、農商工部、司法部といった総督府内局の外に総督府の所属部署

として警務総監部がある。警務総監、部長人事はもとより、その警察構成もほぼ同地に駐屯する憲兵隊であった。

ところが、内地と異なる外地の警察体制は、各地の独特な事情により、やや異なる警察体制が形成された。

このうち、朝鮮総督府における憲兵警察といった治安体制は、領有初期における台湾、樺太、関東州にも敷かれ

たが、台湾は明治三一年、樺太は明治四〇年から、普通警察が治安維持の主役に入れ替わった。さらに、南洋群島

では大正三年一〇月、占領当初から、臨時南洋群島防備隊が駐屯し、その兵員が地方警備の任に当たり、海軍兵員

を海軍警吏に充てたが、大正一〇年七月、従来の海軍警吏を海軍警部と海軍警部補に、海軍警吏補と警吏を海軍巡

査に置き替えた。いずれにしても、外地である朝鮮、台湾等においても同一警察体制は敷かれなかった。

総督府警察官への道

(

1)

巡査募集規則の制定

総督府警察官は、官等上において、警察本署又は警務局の課長、県庁又は州庁の警務部の部長に就く高等官と、

上記の諸部署に配属される警部、警部補となる判任官及び雇員にあたり、後に判任官待遇とした巡査に分けられる。

つまり警察官の学歴、職歴により、警察本署警視総長、蕃務本署総長、又は警務局長及び各課長は、総督府事務官

といった高等官より、警察署長、司法主任、弁務署長、州庁の警察課長等の職位は、警部、警部補などの判任官よ

り、そして平地と

蕃地」

の第一線に、雇員、後に判任文官待遇者とした巡査と、本島人が中心としたる隘勇、警

手による充てる。総督府警察官は、総督府文官と同じく、ピラミット式の厳しい階級制度が存在している。

外地統治と警察官吏 (王) ���(���)

このうち、領有初期、総督府巡査は、内地に勤めている現職巡査、司獄官吏から募集したのである。記述したよ

うに、明治二八年、台湾総督府は、内地現役巡査らを台湾巡査として迎え、そして島内各地に配属した。ところが、

内地から募集した現役警察官は、一旦台湾に到着したところ、「

病者続出日ならずして五名早くも病死し病気の為

め後送せられたる者、巡査八名入院及病後任地へ出発し兼ね台北へ滞在中の者警部二名巡査十六名に及へるが」

また、「

台北県庁所在地以外ノ警察出張所及派出所ノ執務ノ実況報告ニ依レハ、詰員ノ過半ハ疾病ニ罹リ勤務ノ如

キハ当時戸口調査衛生警察等ニ従事セシムル外、缺勤者ノ多キ為メ完全ナル事務執行シ能ハサルモノノ如シ」

とさ

れ、「

十一月に至りては、巡査の死亡十四名に及び尚病気の為め内地へ後送せられたる者警部二名、巡査三名、任

地到着後も罹病任に堪へざるもの尠からざる数に達せり」 (

�)

と、思いもかけぬ事態に遭遇し、総督府下の各警察出張

所及び派出所に警察官の欠員が相次いだ。これについて、同時期、かつて総督府巡査として赴任した鷲巣敦哉は、

後年、その述懐録にこう回顧している

(

�)

(

前略)

巡査の免職になった人が一年巡査百人に付二十四人にも及んだと云ふのでありますから、折角やって来ても事

志と異り、或は当時猖獗を極めていました風土病等の為め、辞職帰省したものも多かったと見るべきでありま

す。従って之が補充は当時の警察界に於いては大きな問題だったと思ふのでありますが、之が対策として明治

二十九年の五月には、当分の内巡査は、警部巡査は勿論陸軍下士、警察雇、看守の履歴を有し、総督府部内判

任官の推挙するもので適当と認められるものは、試験を要せず採用すると云ふ寛大な取扱さへ為しています。

然し、当時は凡て総督府で巡査の任免をして来たのでありますが、間もなく巡査看守の進退は地方長官に委任

中京法学��巻3・4号 (����年)���(���)

せられましたので、何等の標準なくして無試験にて採用すること

このように、鷲巣は、当時の巡査の欠員、そして巡査欠員による巡査採用上の混乱状態を物語った。かかる深刻

な巡査の罹病、巡査の辞職による巡査定員不足を直面した総督府は、内地現職巡査の募集を続行し、明治二九年、

内務部警保課長平野貞次郎を内地へ派遣し、一挙一六〇〇人あまりの内地現職警部と巡査を募集した。

しかし、内地からの数多くの現職警察官募集は、内地の警察機能に影響をするおそれがあり、そのうえ、台湾に

おいて、巡査らの病死者続出又は行政機能が拡張するとともに、治安維持をするため警察官吏の量的な需要は、内

地現役警察官に頼るだけでは不可能であるため、総督府は、「

内地巡査看守募集内規」

、「

台湾総督府巡査採用規則」

及び

台湾総督府巡査看守教習所官制」

を制定し、内地からの募集にあたり無経験者中からの巡査募集事業開始に

取り掛かろうとした。

同年四月二九日、総督府は、訓令第四一号を以て、次のように

台湾総督府巡査採用規則」

を公布した

(

�)

台湾総督府巡査採用規則

第一条

巡査ハ必試験ノ上採用スヘキモノトス但警察官吏及司獄吏ノ前職ヲ有シ若ハ陸海軍現役満期ノ者ニシ

テ下士適任証書ヲ有スル以上ノ者ハ学術試験ヲ要セス

第二条

地方庁ニ於テ巡査ヲ採用スルニハ左ノ事項依ルヘシ

巡査精勤証書ヲ有スル者ニシテ体格試験ニ合格シタル者

台湾総督府警察官吏ノ前職ヲ有シ退職後満五年以内ノ者ニシテ体格試験ニ合格シタル者

外地統治と警察官吏 (王) ���(���)

第三条

地方庁ニ於テ巡査ニ缺員アルトキハ直ニ台湾総督府巡査看守練習所ニ其補缺ヲ請求スヘシ

第四条

巡査志願者ハ品行方正年齢二十一年以上四十年未満ニシテ徴兵ニ相当セス且左ノ事項ニ抵触セサル者

タルヘシ

重罪ノ刑又ハ重禁錮ノ刑ニ処セラレ若クハ同上ノ刑ニ処セラルルヘキ罪ヲ犯シ単ニ監視ニ附セラレタ

ル者及軽禁錮ノ刑ニ処セラレ満期後五年ヲ経過セサル者但旧法ニ依ル施体ノ刑ニ処セラレタル者ハ総

テ本文ノ権衡ニ準ス

賭博犯処分規則ニ依リ懲罰ニ処セラレタル者

巡査看守懲罰例又ハ官吏懲罰例ニ依リ免職セラレ若ハ誓約年限内ニ故ナク巡査看守ノ職ヲ辞シ二年ヲ

経過セサル者

身分不相応ノ負債アル者又ハ家資分散者タルノ宣告ヲ受ケ未タ復権ヲ得サル者又ハ従前身代限ノ処分

ヲ受ケ未タ弁償ノ義務ヲ終ヘサル者

酒癖アル者又ハ暴行ノ癖アル者

第五条

巡査体格ノ検査ハ左ノ諸項ニ適合スル者ヲ以テ合格トス

体格善良ニシテ姿勢容貌醜悪ナラス四肢完具シ全身諸機関ノ機能健全ニシテ険難ニ堪フル者

身幹五尺一寸以上ニシテ胸囲大約身長ノ半ニ等シク呼吸縮長ノ差一寸以上ノ者

視力聴力完全ノ者

充分ノ発声ニ堪フル者

精神完全ナル者

中京法学��巻3・4号 (����年)���(���)

第六条

巡査技芸ノ試験ハ左ノ諸項ニ適合スル者ヲ以テ合格トス

台湾ニ施行セル法令ノ大要ニ通スル者

刑法刑事訴訟法警察諸法規ニ適スル者

本邦歴史ノ大要ニ通スル者

普通往復文ヲ作リ楷書行書ヲ書キ得ル者

算術加減乗除ヲ為シ得ル者

(

以下略)

以上のように、内地現職警察官の募集を続行しながら、「

品行方正年齢二十一年以上四十年未満ニシテ徴兵ニ相

当セス且左ノ事項ニ抵触セサル者タルヘシ」

ものが総督府巡査志願者として認められた。そのうえ、総督府巡査志

願者は、①普通国文の講読、釈読、②普通往復文、③算術四則応用、④本邦地理の大要、⑤本邦歴史の大要、⑥刑

法、刑事訴訟法の解釈、⑦楷行の細字等、合わせて七科目の採用試験の合格が必要となった。いずれも、同巡査採

用規則第一条を除けば、内容がほぼ明治二四年九月に内務省が発した訓令第二一号

巡査採用規則」

と同じもので

あり、総督府は、内地巡査採用規則を参照しながら、起案したものだと容易に推測できよう。

(

2)

総督府警察官及司獄官練習所の設立と

土語」習得

同月一〇日、総督府は、巡査看守教習所を発足させた。同官制の制定理由によれば、「

本府巡査は土語其他特種

の教習を要し且巡査に缺員を生し之を補充せんとするときは其都度内地に供給を仰かさるへからさる等大に内地と

其趣を異にせり殊に昨二十八年十月より本年九月に至る巡査の缺員を調査するに千三百六十三人に対し凡百九十四

外地統治と警察官吏 (王) ���(���)

人内外の死亡及免職を見る此比例を以て来年度即ち三十年度に於て増加すへき巡査三千五百人の巡査に対照すると

きは一箇年殆んと四百九十八人強の補充を要する割合なり然るに各県及島庁に於て各別に教習所を設け之を教習す

るときは多数の費用を要するのみならす養成の統一を期する能はさるに依り当府直轄として警務練習所を置くの必

要を認めたる所以なり」 (

�)

とし、「

土語」

習得等、内地と趣を異なる台湾巡査養成のため、台湾なりの巡査教習所の

設立目的を物語っている。

続いて、翌年六月、総督府は、警察幹部養成を目的とし、従来の総督府巡査看守教習所を改廃し、新たに総督府

警察官及司獄官練習所を成立した。同練習所は、警察官と司獄官部に分けられ、さらに警察官部と司獄官部に、甲、

乙科があり、警察官部に警部と警部補養成をするための甲科と、巡査を養成するための乙科を設けるようになった。

このうち、甲科練習生は、総督府現職の巡査を知事又は庁長の推挙を得て、一〇箇月間入所することとなる。と

ころが、地方長官の推挙を受けて入所した甲科練習生が入所中、無許可外出をしたり、妓楼通いを繰り返したり

素養なく教授上支障が尠ならず」

と、練習所紀律違反が多くなるため、明治三三年四月、総督府は、総督府警察

官及司獄官練習所規則の改正をし、甲科練習生として練習所に入所するため、その甲科練習生入所試験の合格者か

ら選抜すると改正した。乙科練習生は、内地及び本島から巡査採用試験、体格試験及び身元調査に合格したもので

ある。乙科練習生の入所期間が五箇月間となり、その五箇月の教課を終え、島内各県庁の警察機関に配属すること

となる。

ちなみに、総督府の乙科練習生、即ち総督府巡査採用制度は、内地巡査採用制度とは、異なっているところであ

る。当時、内地では、一旦巡査採用試験に合格したものは、いちおう巡査に命じられ、勤務現場で見習をする。そ

の一定期間を終えた新任巡査は、専ら新任巡査のために設けた巡査教習所に入所し、そして教科を終え、また職務

中京法学��巻3・4号 (����年)���(���)

外地統治と警察官吏 (王) ���(���)

警察官部の教課として

警 察 官 部 学 術 科 目 表

号 甲 科 毎週授業時数 号 乙 科 毎週授業時数

一 警察法 三 一 警察法 三

二 行政法 三 二 服務心得 一

三 法院条例 三 三 法院条例 三

四 刑事訴訟法 四 刑事訴訟法

五 刑法 三 五 刑法 三

六 警察法規 二 六 警察法規 二

七 阿片制度 一 七 阿片警察 一

八 土語 一二 八 土語 一二

九 兵式操練 五 九 兵式操練 五

一〇 射的 一 一〇 射的 一

一一 撃剣 三 一一 撃剣 三

一二 捕手 三 一二 捕手 三

司獄官部の教課科目として

司 獄 官 部 学 術 科 目 表

号 甲 科 毎週授業時数 号 乙 科 毎週授業時数

一 監獄法 三 一 監獄総論 二

二 刑法 二 二 刑法 二

三 刑事訴訟法 二 三 刑事訴訟法 二

四 監獄法規 三 四 監獄法規 二

五 会計法 一 五 服務心得 一

六 簿記法 一 六 数学 二

七 土語 一二 七 土語 一二

八 戒具使用法 三 八 戒具使用法 三

九 捕手 九 捕手

一〇 撃剣 三 一〇 撃剣 三

一一 兵式操練 五 一一 兵式操練 五

一二 射的 一 一二 射的 一

現場に復帰するという形になっている。

さて、総督府警察官及司獄官練習所に、警察官部と司獄官部に、それぞれことなる教課科目を設けた。その教課

科目と授業時間数は、次に示した通りである

(

�)

周知のように、台湾領有後、日本政府は台湾統治にあたり、「

土人」

である台湾人と意思疎通のできる者の不足

に直面した。このうち、「

土語」

に通じる者が台湾赴任の選任用件のひとつとなる。例えば、初代の総督府民政局

長官であった水野は、赴任する前、かつて中国を留学をした経験したことが栄進の一つ要因であろう。

ところが、中国語ができても、台湾のどこでも通じるわけではない。中国福建等沿海からの移民からなる台湾社

会では、住民の言語は、中国語の方言である「

福建語」

と「

広東語」

である「

客家語」

が共通語であった。そこで、

統治初期において、台湾人との意思疎通をするには、極端な通訳例とし、まずは日本語の通訳を介して、中国語に

訳させ、それから、「

福建語」

又は

「客家語」

中国語」

に通じる通訳は、中国語を

福建語」

又は

客家語」

に訳するということとなっていた。いずれにしても、住民と最も

至近距離」

的に接する巡査は、「

土人」

である

本島人との意思疎通を図るため、「

福建語」にしろ

客家語」

にしろ

土語」

習得の必要性が生じた。

そこで、明治三一年四月、総督府内務部警保課は、全島巡査警部を対象とし、①

土語」

に精通する者、②

語」

に通する者、③稍々

土語」

に通する者との三階級を設定し、警察官の

土語」

習得状況調査を各県庁警部長

に依頼した。同年五月、各県庁から回収した調査表を集計した結果、総督府警察官の

土語」

習得は、次の第2表

に示したようである

(

�)

ちなみに、明治三〇年現在、総督府には、警部が二七五人、巡査が三〇八〇人の合わせて三三五五人がいた。つ

まり、総督府警察官は、六人の一人に、「

土語」

が通ずることとなる。このうち、「

土語」

を通ずる判定基準、すな

中京法学��巻3・4号 (����年)���(���)

わち

土語」

を通ずる警察官が住民たちとの意思疎通の能力判定

は、史料の限り解明できないが、とにかく普通文官より本島人と

が接することが多い警部と巡査は、「

土語」

に通ずるかどうかが

台湾統治に直面した一大問題である。

こうしたことを背景に、総督府及び各県庁は通訳官と通訳を官

制に設置しながら、総督府文官官僚の

土語」

習得に力を入れる

ようになった。就中、「匪徒」

の検挙、流行病の監視、阿片制度

の強化等統治の前線に置かれた警察官らの「

土語」

習得のために、

警察官の教育と教養の一環として、総督府警察官及司獄官練習所

での習得のほか、専ら

土語」

習得を目的とした教習所を開設す

ることになった。このうち、明治三二年九月、台南県が専ら警察

官吏向けに

土語」

講習場を開設することになった。同講習所開

設のための訓令第九〇号

警察官吏土語講習規程」

によれば

(

�)

第一条

警察官吏ハ本規程ニ依リ勤務トシテ土語講習ヲ為ス

ヘシ警部又ハ土語通訳兼掌者及三十歳以上ノ巡査ニ

在リテハ志願ニ由リテ講習ヲ為サシムヘシ但志願者

ト雖モ一旦志願セシ以上ハ他ノ講習生ト同一ノ勤務

外地統治と警察官吏 (王) ���(���)

第2表 台湾総督府警察官 「土語」 習得調査表-明治��年4月現在

県庁名 土語ニ精通スル者 土語ニ通スル者 稍々土語ニ通スル者 計

警部 巡査 警部 巡査 警部 巡査 警部 巡査

台北県 � �� � �� � ��� �� ���

新竹県 � ― �� � � � ���

台中県 ― - � �� �� �� ���

嘉義県 � � � �� � �� ��

台南県 ― � ― �� � �� � ��

鳳山県 � �� � �� � � � ��

宜蘭県 � � � � �� � ��

澎湖庁 ― ― ― � ― � ― �

計 �� ��� �� �� � ���

ニ服スヘシ

第二条

土語講習場ハ弁務署及警察官吏派出所ニ之ヲ設クヘシ但弁務署所在地ノ警察官吏派出所ニ於テハ弁務

署ニ於ケルモノト合併スルコトヲ得ヘシ但時宜ニ依リ本島人ヲシテ補助セシムルコトヲ得

第三条

(

略)

第四条

講習科目左ノ如シ

会話

簡易ナル訳文及作文

職務上必要ナル熟語練習

第五条

土語講習時間ハ大祭祝日ヲ除キ毎日二時間トス但時間割ハ弁務署長之ヲ定ムヘシ

第六条

弁務署長ハ隔日勤務ノモノハ非番当日日勤務ノモノハ隔日ニ講習セシムルヲ以テ標準トシ其講習順序

ヲ定メ報告スヘシ但之ヲ変更シタルトキ亦同シ

第七条

土語講習期ハ一箇年トス

第八条

弁務署長ハ講習生ニ対シ二箇月毎ニ小試験ヲ施行シ定期ノ講習ヲ終リタルトキハ修業試験ヲ施行スヘ

第九条

修業試験合格者ニハ弁務署長ニ於テ附録様式ニ依リ修業証書ヲ付与シ其成績優等ナルモノニハ特ニ賞

状ヲ付与スルコトアルヘシ

第十条

定期ノ修業ヲ終ラサルモ弁務署長ニ於テ土語ニ習熟セリト認ムルモノニハ特ニ試験ノ上修業証書ヲ付

与スルコトヲ得

中京法学��巻3・4号 (����年)���(���)

(

以下略)

と、講習期間が一年、講習科目は、会話、簡易な訳文と作文及び職務上必要なる熟語練習とした。台南県の警察官

吏向けの

「土語」

講習場の外、台北県、嘉義県等でも

土語」

講習場開設が相次いだ。

一方、第一次世界大戦後、内地において憲政擁護と民主運動の影響を受けた台湾知識人を中核とし、台湾同化会

と台湾文化協会、台湾共産党等の社会団体による台湾自治運動、台湾議会設置請願運動、農民組合等の社会運動が

活発化するようになった。このうち、共産主義等社会思想とその運動の台湾への蔓延を危惧とした総督府は、大正

一一年一二月、悪名高い

「治安警察法」

の台湾施行を決定した。この法の施行に伴い、政治集会の取締権限を総督

府警察に付与した。つまり、総督府警察官は、政治結社と集会の取締権限を持ち、特に講演場に臨監し、安寧秩序

を妨害する虞がある講演の現場における中止権限を付与された。

ところが、「

今日も明日も文化講演の名目の下に煽動演説が行われる」

台湾文化協会は、講演に当たって、台湾

語を使用し、「

彼等は一流の諷刺を以て、婉曲に施政其他を論難する為め、中々尻尾を捉へることが困難であった

のであります。それが為め臨監の幹部諸氏は、あまり得意でない台湾語の智識を以て、全神経を耳に集中して、彼

等の謂はんとする所を傾聴したのでありますが、中々単独で之を理解し、急所をついて注意、中止を与へると云ふ

が如きことは困難でありましたので、予め通訳の巡査に、如何なることに論及したら合図を為し、これに依って、

幹部は注意中止を命ずると云ふのやうな、奇妙な取締を為す者があった」 (

�)

と、「

治安警察法」

の台湾施行にあたり、

総督警察官吏は、講演者の台湾語使用により職務執行が実際上不能といった現実な問題に遭遇した。かかる現実的

な状況にたいし、大正一二年八月、総督府は、台湾語の習得をするために警察官及司獄官練習所に語学特科を設け、

外地統治と警察官吏 (王) ���(���)

各州庁から推薦した警部と警部補を入所させ、より上級の台湾語の習得を奨励することになった。前記の鷲巣の述

懐録によれば、第一期生は、警部補以下三四人となり、もともと習得期間一年と予定したが、さらなる一年間を延

長させ、合わせて二年、台湾語を学習した。こうした猛勉強を経た特科生は、一旦卒業してから、直ちに警察官及

司獄官練習所甲科に入所すると、台湾語の成績が極めて良好となるため、一時語学特科が大人気となった。

いずれにしても、大正期に、内地とともに気勢を上げた台湾政治民主運動と

治安警察法」

の台湾施行との背景

に、内台の

一視同仁」

と国語教育強化が唱えられる最中に、却って総督府警察官は、まるで時代錯誤のように、

土語」

である台湾語を猛勉強しなければならぬこととなった。

(

3)

警察官吏中の本島人採用

明治二八年七月六日、台湾総督府は、総督府総督府陸軍局長官、海軍局長官、中央会計部長、台湾県知事、台南

県知事及び台北県知事宛に、次のように通牒を発した

(

�)

明治二十八年七月六日

主任

高橋

[

虎太]

(

朱印)

民政局長官

[

水野遵]

(

花押)

秘書課長

木下

[

新三郎]

(朱印)

[

欄外注:七月六日達済]

清国人又ハ台湾島民雇用方ニ付通知案

各局部又ハ各県ニ於テ清国人又ハ本島民ヲ雇用セントスルトキハ曾テ他ノ部局又ハ県ニ雇員用セラレタルコト

中京法学��巻3・4号 (����年)���(���)

ナキヤ又現ニ雇用セラルル者ニアラサルヤ否ヤ及雇用スルモ不都合ナキヤ否ヤヲ取調タル上ニアラサレハ雇用

セサルコトニ致度且本人陳述上詐偽ノ申立アルコトヲ発見シタルトキハ仮令雇用後ト雖モ直チニ解雇致候事致

度此段予テ及御通知候也

官房

民政局長官

民政局長官

陸軍局長官

回達

海軍局長官

中央会計部長

台湾県知事

台南県知事

各通

本件の発端は、同日、台北県知事心得田中綱常からの照会文であった。同日、田中知事心得は、民政局長水野宛

に次の照会文を寄せた

(

�)

各局部又ハ各県ニ於テ支那人ヲ雇入候際ハ過去又ハ現在他ノ局部県等ニ採用ノ有無確ニ間糾シ若シ有之候ハバ

一応其向ヘ照会候様致度幸ニ御同意ニ候ハバ予メ陸海軍局ヘ御照会之外貴局各部等ヘ御通知相成置度尚又右間

外地統治と警察官吏 (王) ���(���)

糾之際詐欺ノ陳述致候事他日発見候節ハ直ニ解雇ノ事ニ致置度此段併テ及御照会候也

台北県知事

田中綱常

[

台北県知事公印]

民政局長官水野

遵殿

これは、本島人を雇った場合に関する注意であった。

さらに、翌年一〇月一三日、台湾総督府は、本島人の採用につき、次のように内訓を発した

(

�)

土人傭員中私ニ土匪ノ買嘱ヲ受ケ又ハ之ト気脈ヲ通シ官情ヲ漏通スル者有之哉モ雖計趣相聞ヘ候条自今土人ヲ

採用スルトキハ其身元ヲ取調フヘキハ勿論相当資産ヲ有シ身元確実ナル者ノ保証書ヲ徴スヘシ右内訓也

ここからは、本島人の採用に当たっての強い警戒感が垣間見られよう。

ところが、この民族的偏見を底流として本島人に根強い不信感を示しながら、台湾地理、人情に極めて不詳であ

る総督府は、台湾の治安が悪化している最中、「良民」

匪徒」

の識別をするため、保良局を設置許可の上、警

察的事務の補助員として警吏と巡吏の職を設け、本島人の治安維持への参与を容認せざるを得なかった。明治二八

年六月二五日、台北県は、治安が悪化する最中に、憲兵隊の不足に鑑み、試験的に本島人三一名を採用し、警察的

事務の補助員とし、台北城内、大稲�、��等の三箇所に配属した。身分は、臨時傭員とし、職務内容は、犯罪の

捜索、軍事上の探偵及び通訳事務であった。これを発端とし、同年嘉義県も新竹県等も本島人を警吏として採用し

た。

中京法学��巻3・4号 (����年)���(���)

一方、総督府は、平地における本島人の警吏への採用をし、旧清政府が山地に住んでいる

蕃人」

の加害を防止

するため、「

蕃地」

の境に設置した隘勇、隘丁制度を踏襲しつつ、明治三〇年から、北部の台北、台中、宜蘭など

「蕃地」

境界線に新たに

警丁」

を設置した。さらに翌年一二月一日、総督府は、北部の警丁を廃止し、「

蕃地」

の境界線を警備していた警丁と隘勇及び隘丁を「

隘勇」

に統一した。隘勇は、総督府地方費から支弁され、管轄は、

初期における各県知事の管轄から、明治三四年一〇月の官制改正を通じ、新設された警察本署に移管された。待遇

は、初期から明治三八年まで、傭員として雇われたが、明治三八年三月から、総督府は、「

隘勇傭使規程」

の改正

を契機とし、本島人を傭員待遇から雇員と改正し、隘勇の待遇向上を図った。

進んで、明治三二年七月六日、総督府は、訓令第二〇四号を以て、「

台湾総督府巡査ノ職務ヲ補助セシムル為警

察費予算範囲内ニ於テ巡査補ノ名称ヲ以テ本島人中志願ノ者ヲ傭員トシ使用スルコトヲ得」 (

�)

ることとし、従来平地

に設置した警吏制度を廃止し、新たに本島人警吏を巡査補に改めた。これに伴い、同日、総督府は、巡査補採用及

教習規則を公布し、巡査補は、「

学術及体格ヲ試験シ其合格者中ヨリ採用スルモノトス但再職ノ場合又ハ特種ノ技

能ヲ有スル者ハ学術試験ヲ要セス」

、「

学術試験ハ台湾普通往復文ヲ作リ及楷書行書ヲ書キ得ル者ヲ以テ合格トシ」

と、巡査補の資格要件を示した。また、巡査補の採用資格と体格試験の用件は、巡査補の採用につき、①

年齢一

八年未満又ハ四〇年以上ノ者」

、②

重罪ノ刑又ハ重禁錮ノ刑ニ処セラレ若ハ同上ノ刑ニ処セラルヘキ罪ヲ犯シ単

ニ監視ニ附セラレタル者若ハ軽禁錮ノ刑ニ処セラレ満期後一箇年ヲ経過セサル者」

、③

阿片ヲ吸食スル者」

、④

酒癖又ハ暴行ノ癖アル者」

、⑤

身分不相応ノ負債アル者又ハ家資分散ノ処分ヲ受ケ未タ復権ヲ得サル者」

、⑥

懲戒ニ依リ巡査補ヲ免セラレ一箇年ヲ経過セサル者」

を採用資格外とし、体格が、①

姿勢容貌醜悪アラス四肢

完備シ全身諸機関ノ機能健全ナル者」

、②

身幹五尺一寸以上ニシテ胸囲大約身長ノ半ニ等シク呼吸縮長ノ差一寸

外地統治と警察官吏 (王) ���(���)

以上ノ者」

、③

視力聴力完全ナル者」

、④

「充分ノ発声ニ堪フル者」

、⑤

精神完全ナ

ル者」とされ

(

�)

、ほぼ巡査採用規則と同じで

あった。

一方、同じ外地である朝鮮、南洋庁、関

東庁も現地人を警察の補助員として採用し

た。朝鮮において、旧韓国総監府時代から

ごく少数の朝鮮人の警視、警部及び警部補

の留任を容認していたが、総督府は、朝鮮

人を憲兵補助員と巡査補として大量採用し

ている。また、内地人警視、警部及び巡査

の下に、巡査の事務補助として、南洋群島

では巡警、関東州では巡捕として、現地人

の採用を認めた。

次の第3表は、朝鮮総督府、台湾総督府、

南洋群島、そして関東庁に採用された現地

人警察補助員、内地人警察官の数に対する

集計と、その割合である。

中京法学��巻3・4号 (����年)���(���)

第3表 外地巡査と本島人補助員集計・比較表(単位:人・%)

明治33年 明治44年 大正6年

巡 査 ---- ---- 4308

朝 鮮 補助員 ---- ---- 7556

割 合 ---- ---- 175

巡 査 4121 5019 5886

台 湾 巡査補 1245 1595 1461

割 合 30 32 25

巡 査 ---- 740 900

関 東 州 巡 捕 ---- 338 295

割 合 ---- 46 33

警 吏 ---- ---- 18

南洋群島 巡 警 ---- ---- 34

割 合 ---- ---- 189

表注:①大正6年、 朝鮮総督府において、 内地人巡査は����人の外、 本島人巡査は���人である。なお、 同年の巡査数に、 本島人憲兵隊上等兵����人を普通警察的事務に従事していた巡査補数に算入している。②台湾と関東州の巡査数に、 臨時増員としての巡査数は算入しなかった。

出典:関東と南洋群島、 台湾、 朝鮮の巡査と巡査補等の数は、 それぞれ関東庁 『関東庁施政二十年史』 (原書房、 ���年、 復刻版)、 関東局 『関東局施政三十年史』 (原書房、 ���年、 復刻版)、南洋庁 『南洋庁施政十年史』 (影印本、 沖縄県教育委員会、 ����年、 復刻版)、 台湾総督府『台湾総督府統計報告書』 (逐年)、 及び同府 『台湾総督府民政事務成蹟提要』 (台湾成文出版社、 ����年、 復刻版)、 朝鮮総督府 『朝鮮総督府統計年報』 などから作成した。

この表が示したように、朝鮮と南洋群島では、現地人である憲兵補助員、巡査補と巡警の数が内地人の巡査、憲

兵上等兵及び海軍警吏実数のそれぞれ一七五%、一八九%を占めており、現地人の警察事務補助員は、内地人の巡

査より遙かに多かった。また、台湾と関東州では、現地人の巡査補と巡捕の数は、それぞれ内地人の巡査の実数の

二五%、三〇%となり、ほぼ内地人巡査実数の三分の一であった。

ところが、これほど高い比率を占めている現地人の巡査補と憲兵補助員は、待遇がそれほど好いとは言えない。

文官任用、文官俸給において、内地と異なる朝鮮、台湾、関東乃至樺太は、各自に巡査採用規則をもって巡査を

採用していたものの、巡査俸給においては、内地において施行されている巡査俸給令を外地である朝鮮、台湾、関

東、樺太の巡査に適用した。例えば、明治三一年六月一八日、台湾総督府は、「

明治三十年勅令第百四十九号巡査

看守俸給令ハ台湾総督府巡査及看守ニ適用ス」

とし、昨年五月二一日に公布した内地巡査看守を対象とした俸給令

を外地である台湾に適用すると規定した。続いて、明治三九年、相次いで設立された韓国統監府と関東都督府にお

いて、同府巡査の月俸が内地巡査俸級令に準拠すると規定した

(

�)

。なお、外務省系の各在外日本公使館領事館に在勤

する巡査の俸給に関して、内地巡査を対象とする巡査看守俸給令に準拠するとの法令は存在しないが、明治三二年

四月二六日に改正された

外国在勤警部巡査任用及支給規則」

によると、各在外日本公使館領事館に勤務する巡査

の月俸額は、「

九円乃至拾五円トス」 (

�)

と規定されていることから、外務省系の巡査の月俸が内地巡査、乃至外地で

ある台湾等の巡査月俸と同一基準であったことが分かった。

いずれにしても、この時期において、内外地巡査の月俸額は一級が一五円、二級が一四円、三級が一三円、四級

が一二円、五級が一一円、六級が一〇円、七級が九円と定められ、七級の俸給制度が設けされていた

(

�)

この巡査の俸給等級と俸給額の設定に対し、本島人を対象とした台湾巡査補の俸給額と俸給等級は、一級から六

外地統治と警察官吏 (王) ���(���)

級までを設け、一級が一四円、二級が一三円、三級が一二円、四級が一一円、五級が一〇円、六級が九円となり

(

�)

明らかに巡査看守俸給令を参照しながら、巡査俸給との差額を設定している。

一方、俸給の外に、総督府官吏を対象とした手当支給制度において、本島人巡査補は対象外とされた。

明治二九年三月、台湾総督官制の公布と共に、政府は、勅令第一〇一号を以て

台湾総督府巡査及看守手当支給

規則」

を公布した。この支給規則によると

(

�)

、「

土地ノ状況ニ依リ」

、巡査勤務地を一等乃至三等地とし、一等地が一

〇円、二等地が一二円、三等地が一五円と分け、手当金支給等級を設けることになった。これは、明治三一年六月、

勅令第一一七号により、上記の勤務地による手当金の等級設定制度が廃止され、そのかわりに、均等的に手当金を

一二円とし、その上、「満二年間台湾総督府巡査看守ヲ勤続シタル者ニハ前項ノ金額ニ対シ更ニ其ノ十二分ノ一ヲ

増加シ満二年以上ハ一箇年ヲ加フル毎ニ十二分ノ一ヲ増加」 (

�)

することとなった。また、外地である韓国統監府、関

東都督府において、明治三九年五月と八月に、それぞれ巡査手当の支給規則が公布された。樺太では、翌年四月に

おいて、樺太庁に在勤する巡査に月額二〇円の手当を支給する規則を公布することとなった。いずれにしても、外

地である朝鮮、台湾、関東、樺太において、巡査は、本給とほぼ同額ぐらいの在勤手当を支給されている

(

�)

かかる巡査と巡査補との間に待遇上の差別が存在しているうちに、総督府は、巡査補の待遇改善を図ろうとした。

明治三四年五月二〇日、総督府は、勅令第一〇八号をもって従来巡査補の傭員身分を判任文官の待遇者にして、巡

査との地位を同一化した

(

�)

。また、同年八月一日、内地巡査看守退隠料及遺族扶助法の台湾導入をするとともに、当

局は巡査看守治療料、給助料及弔祭料給与令を台湾巡査補にも適用すると決定した。

しかしながら、職務上、待遇上において巡査と巡査補との間には差別が依然として存在している。明治三二年七

月、本島人である警吏と巡吏を特別採用にして巡査補にした同月、総督府は各県庁宛に巡査補の業務に制限を設け

中京法学��巻3・4号 (����年)���(���)

る次のような内訓を発した

(

�)

巡査補は警部又は巡査と同行する場合にあらされば、其の職務を執行せしむることを得ず但し左の各号の事項

はこの限にあらず

一、現行犯の軽重罪犯人の逮捕

二、特に命せられたる捜査

三、路上に於ける酔倒人の保護

四、路上に於ける負傷及疾病者の救護

五、路上に於ける放歌高声喧噪の制止

(

中略)

七、乞丐及強売の制止

八、人命及水災の救護

九、棄迷児の救護

一〇、狂犬の駆除撲殺

巡査と巡査補との待遇上、職務上における差別をするのは、官位と官職上の設定によるものであり、当然のこと

ともいえようが、巡査補を登竜門とし、巡査に選抜されても、内地人巡査と本島人巡査のあいだには依然として差

別が存在していた。

外地統治と警察官吏 (王) ���(���)

明治四四年一月、総督府は、訓令をもって、巡査補に人物才幹優秀の者から巡査に採用するとして

巡査看守採

用規則」

を改正した。これにより、同年桃園庁、新竹庁、台南庁、阿�庁に合わせて七名の本島人巡査がはじめて

誕生した。ところが、巡査補中の才幹優秀な人物から選ばれた本島人巡査は内地人巡査の下班に置かれ、俸給上に

於いても、「内地人タル台湾総督府巡査ニハ一箇月二十五円以内ノ加俸ヲ給ス、台湾人タル台湾総督府巡査ニシテ

蕃地ニ勤務スル者ニハ一箇月十円以内ノ加俸ヲ給スルコトヲ得」 (

�)

るとし、同じ巡査といっても、俸給上にも差をあ

けられるようになった。

さらに、大正九年八月、巡査補制度廃止とともに、従来の総督府巡査補は、一律に巡査に昇格されたが、巡査乙

種として内地人巡査と区別されることとなる。そして、総督府警察官及司獄官練習所に選抜試験で合格しても、巡

査乙種である本島人は、内地から採用した巡査練習生と同じ乙科練習生としてしか入所できない。内台の

一視同

仁」

を唱える最中の大正九年になっても、内地人である巡査と本島人である巡査との差別は、依然として存在して

いた。

総督府警察官の階級と陞等制度

(

1)

総督府警察官の階級制度と陞等制度

既述したように、総督府警察官には巡査補、巡査から巡査部長へ、巡査部長から警部補、警部、それから警部か

ら警視への陞等及び等級制度が存在している。ところが、戦前期の日本文官制度では、総督府官僚は、勅任官と奏

任官が高等文官、判任官が普通文官に区分され、いずれも高等文官試験、普通文官試験を合格しなければ、原則的

に高等文官と普通文官への任官資格がない。このうち、台湾総督府においては、総督府警察官の官等区分に、警視

中京法学��巻3・4号 (����年)���(���)

総長、蕃務総長又は警務局長が勅任官、警視が奏任官、警部と警部補が判任官としている。言い換えれば、原則的

に中学卒業を水準として採用された巡査は、警部補と警部への陞等には普通文官試験合格、そして、警部補と警部

の警視への陞等には高等文官試験合格が必要とされている。このように、総督府警察官の陞等は、近代文官制度の

資格制限に制約された。

このひとつの解決は、領有初期において、総督府の警視・警部・警部補の特別任用令にほかならない。早くから

明治三四年五月と一一月に、総督府は、「

台湾総督府警部、警部補特別任用令」

、「

台湾総督府警視特別任用令」

施行することとなった。折しも台湾総督府において、総督府警視への陞等は、最初、その警視に任用する資格者が

少なかったため、高等文官試験資格者であった事務官と特別任用令により警部長又は弁務署長中から選任したわけ

で、就中、事務官より任命されたものが多かった。例えば、明治三五年、総督府警察本署長大島久満次を始め、警

視図師庄太郎、同高橋伝吉、同原修次郎、賀来倉太らの警察本署の中堅幹部及び台北庁などの地方庁に配属された

警視らは、半数ほど東大、日大卒業又は高等文官試験乃至普通文官試験合格者であった。これは、同時期における

総督府の他部署に高等文官資格者が少ないことと比較した場合にまさしく対照的なものとなっていた。しかし、大

正期後半、特に昭和期に入ると、警部からの選任、所謂

特進組」

の警視は、事務官からの就任より圧倒的に多く

なった。例えば、昭和一七年七月現在、総督府に、合計三〇人の警視がいた。このうちに、一〇人が大卒又は高等

文官資格者であることに対し、一七名が巡査を振出して、警部補と警部を経て、警視になった

(

�)

これは、警部の在職年数、及び警視の定員が警視への陞等を左右することに対し、巡査の警部補及び警部への陞

等には、警視の特別任用令と並行して、総督府警察官練習所の甲科生としての教育、及び巡査の所謂平素の考察と

筆記試験による巡査の警部補と警部特別任用制度の道があった。

外地統治と警察官吏 (王) ���(���)

(

2)

総督府巡査考試制度と巡査の出世

明治三四年五月、総督府は、総督府地方官官制改正による地方行政の拡張と警察機関の充実に伴い、勅令第九四

号をもって

台湾総督府警部、警部補特別任用令」

を施行することとなった。同令によれば

(

�)

、台湾総督府巡査が

在職満三年以上ニシテ精勤証書ヲ有シ現ニ其ノ職ニ在ル者ハ実務ノ成績ヲ考査シ及学術ヲ試験シ台湾総督府警部

補ニ任用スルコトヲ得其ノ優等ナル者ハ警部ニ任用スルコトヲ得」

(

同令第一条)

とされ、同府警察官及司獄官練

習所甲科を卒業した現職巡査について、明治三三年九月までの卒業生は、上記の学術試験をせずに、実務の考査を

経て、警部補に任用し、優等なる者は、警部に任用するとされ、また、「

警部補ニシテ満一年以上其ノ職ニ在リ更

ニ学術ノ試験ヲ経タル者ハ台湾総督府警部ニ任用スルコトヲ得」

(

同令第四条第二項)

との旨の特別任用令を発す

ることとなった。この特別任用令の施行に伴い、同月一一日、総督府は、訓令第一五〇号を以て

台湾総督府巡査

考試規程」

を公布し

(

�)

、巡査の警部補昇進をするための考試規程につき詳細を規定することとなった。同規程は次の

通りである

(

�)

台湾総督府巡査考試規程

第一条

巡査ヲ警部又ハ警部補ニ任用セントスルトキハ先ツ実務ノ成績ヲ考査シ優等者ヲ選抜シテ更ニ学術試

験ヲ行フモノトス但シ明治三十三年九月以前ニ台湾総督府警察官及司獄官練習所成規ノ甲科ヲ修了シ

タル者ニハ学術試験ヲ行ハサルモノトス

第二条

実務ノ成績ハ左ノ事項ニ就キ考査スルモノトス

職務執行ノ当否

中京法学��巻3・4号 (����年)���(���)

勤務ノ勉否

書類報告ノ整否

姿勢礼式服装其ノ他紀律ノ整否

応問ノ成績

非常召集ノ成績

操練及操銃ノ熟否

武術ノ熟否

土語ノ熟否

(

中略)

第六条

知事庁長ハ前条ノ考査表及意見書ニ依リ其ノ優劣ヲ判定シ毎年二月七月ノ両期ニ於テ学術試験ヲ行フ

モノトス

第七条

学術試験ハ左ノ科目ニ就キ之ヲ行フモノトス

憲法及行政法大意筆記又ハ口述

刑法、刑事訴訟法、台湾総督府法院条例筆記又ハ口述

警察ニ関スル諸法規

口述

会計法規ノ大要

口述

算術

(

比例マテ)

筆算又ハ珠算

土語

口述

外地統治と警察官吏 (王) ���(���)

第八条

学術試験成績ハ百点ヲ以テ満点トシ各科目ノ平均点数六十点以上ノモノヲ合格トス但シ一科目三十点

以下ノモノアルトキハ他ノ科目ニ於テ優等ナリト雖モ合格者ト為スコトヲ得ス

(

以下略)

それと同時に、総督府は、翌年六月、訓令第一七二号を以て

台湾総督府警部補学術試験規程」

を公布し、警部

補の警部への昇進には考査の外、学術試験の必要を明らかにすることとなった。

いずれにしても、巡査の警部補又は警部への昇進には、同府警察官練習所の甲科卒業生にしても、実務の成績考

査を受けながら、学術試験をすることが必要となった。つまり、総督府は、巡査にとっては登龍門である警部補又

は警部へ昇進するため、実務の成績考査の上、学術試験を必要とすることとなる

(

�)

この新巡査考試規程による学術試験は、翌年五月、まず第一警察管区内で、同年九月、第二警察管区で行られ、

合格者はそれぞれ二八人と一四人で、合わせて四二人であった

(

�)

。続いて、翌年三月、総督府に設置した巡査学術試

験委員会が主催した同試験の合格者は、明治四〇年まで、それぞれ一六人、二二人、二一人、一八人

(

�)

と三五人とな

り、毎回実務成績の優等者が一〇〇人以上推挙された内、二〇人前後の学術試験合格者しかいないことから、試験

の厳しさが伺えよう。

(

3)

総督府警察官及司獄官練習所甲科練習生とその出世

ところが、かかる考査と学術試験による警部補への昇進制度が施行される最中、総督府巡査の警部補への任用に

は、実際上もう一つの昇進ルートが存在していた。

これは、総督府警察官練習所警察官部甲科を卒業した巡査への特典にほかならない。既述したように、明治三四

中京法学��巻3・4号 (����年)���(���)

年五月、勅令第九四号

台湾総督府警部、警部補特別任用令」

によれば、明治三三年九月以前の同府警察官練習所

警察官部甲科卒業生を対象とし、学術試験が免除され、実務の成績が優等であれば、警部補へ昇進することができ

るのに対し、明治三三年九月以後の同府警察官練習所警察官部甲科卒業生は、学術試験を免除しないことが示唆さ

れた。ところが、同年一二月、総督府は、同条を新たに改正した巡査考試規程を削除し、同府警察官練習所警察官

部の甲科卒業生は、学術試験を免除されることを示し、実際上、総督府巡査にとっては学術試験による昇進と総督

府警察官部甲科卒業による昇進との二つの出世ルートが開かれることとなった。

ここに、この時期において、総督府警部補へ昇進したかつて阿�庁巡査であった菱沼宇平

(

茨城県出身、明治一

二年生まれ)

、嘉義庁巡査小山政太郎

(

岡山県出身、明治一五年生まれ)

、台中庁巡査武田駒吉

(

山形県出身、明治

一一年生まれ)

らの履歴と学歴を検証したところ、上記の五名全員は、小学校を卒業してまもなく、渡台し、同府

警察官練習所警察官部乙科練習生として、六箇月の講習を受け、総督府各県庁の巡査に命じられるという共通経歴

がある。このうち、菱沼は、明治四一年七月同練習所第一二回甲科練習生、小山は、明治四二年七月、同練習所第

一三回甲科練習生、武田は、明治三六年六月、同練習所第七回甲科練習生であった者で、ほぼ全員が卒業した翌月、

警部補へ昇進した。このうち、上記の者は、全員が同時期の総督府巡査学術試験合格者名簿に記載されていないた

め、五名全員が総督府警察官部甲科卒業生の資格で警部補へ昇進したことが容易に推測できよう。

そもそも、明治三一年、総督府巡査教習所から改正された警察官及司獄官練習所は、当初、巡査教習所の設立理

由書に述べられたように、「

本府巡査は土語其他特種の教習を要し且巡査に缺員を生し之を補充せんとするときは

其都度内地に供給を仰かさるへからさる等大に内地と其趣を異にせり

(

中略)

然るに各県及島庁に於て各別に教習

所を設け之を教習するときは多数の費用を要するのみならす養成の統一を期する能はさるに依り当府直轄として警

外地統治と警察官吏 (王) ���(���)

務練習所を置くの必要を認めたる所以なり」 (

�)

と、「

台湾語」

の習得と警察官の養成の統一を期するための警察官幹

部の素質向上を図ろうとした養成機関である。言い換えれば、総督府警察官練習所は、当初の設立目的が台湾総督

府なりの巡査及び警察幹部の養成の資格校の性格色彩が濃厚であった。確かに同練習所が設立された翌年一月三一

日、総督府は、同所初回の甲科練

習生として総督府現職警部二一人

を卒業させた

(

�)

。このように、同所

は、ほぼ毎年一〇箇月から一二箇

月を一期とし、現職巡査を甲科練

習生として収容し、講習が続けら

れた。昭和一一年までの同所警察

官部甲科卒業生の数は、次の第4

表に示した通りである。

この表が示したように、何らか

の原因で中退した者を除けば、同

所は、毎年平均四〇人乃至五〇人

ぐらいの甲科練習生を卒業させて

いる。これは、ただ単なる同所の

予算及び練習所の収容能力の問題

中京法学��巻3・4号 (����年)���(���)

第4表 総督府警察官及司獄官練習所甲科卒業生統計(昭和��年現在)

卒 業 年 月 人数 卒 業 年 月 人数

1回・明治��年1月 �� ��回・大正6年8月 ��

2回・明治��年6月 �� ��回・大正7年8月 ��

3回・明治��年3月 �� ��回・大正9年3月 ��

4回・明治��年7月 �� ��回・大正��年3月 ��

5回・明治��年7月 �� ��回・大正��年3月 ��

6回・明治��年6月 �� ��回・大正��年3月 ��

7回・明治��年6月 �� �回・大正��年3月 ��

8回・明治�年7月 �� �回・大正��年3月 ��

9回・明治�年7月 �� ��回・大正��年3月 �

��回・明治��年8月 � ��回・昭和2年3月 ��

��回・明治��年8月 ��回・昭和3年3月 ��

��回・明治��年7月 �� ��回・昭和4年3月 ��

��回・明治��年7月 �� ��回・昭和5年3月 ��

��回・明治��年7月 �� ��回・昭和6年3月 ��

��回・明治��年7月 �� ��回・昭和7年3月 ��

��回・明治��年7月 �� ��回・昭和8年3月 ��

�回・大正2年6月 �� �回・昭和9年3月 ��

�回・大正3年7月 � �回・昭和��年3月 ��

��回・大正4年8月 �� ��回・昭和��年3月 �

��回・大正5年8月 ��

出典:本表は、 台湾総督府 『府報』 (明治��年から昭和��年まで) に記載された卒業生の数を集計したものである。

を意味しているだけではない。毎年口述

又は筆記試験といった試験官個人の好み

の判断により合格した学術試験合格者が

二〇人にすぎないことに比べ、総督府の

統治方針と意図を徹底的に教授され、且

つ数的に

安定供給」

できる総督府警察

講習所の甲科卒業生の警部補への高採用

率を意味している。

さらに次の第5表は、明治四二年と昭

和一二年現在、総督府本府及地方県庁並

びに地方州庁に勤務している警部と警部

補の資格である学術試験合格者と総督府

警察官練習所の警察官部甲科卒業生を対

象とし、集計した結果である。ちなみに、

この両年を限定して集計しようとした理

由は、大正九年八月、勅令第三五七号

判任文官特別任用令」の施行とともに、今まで台湾に施行されていた

湾総督府警部、警部補特別任用令」

が廃止されることにより、学術試験が暫く中止となった。それで、大正一四年

三月、総督府は、府令第一四号をもって

台湾総督府、州及庁警部、警部補特別任用考試規程」

を公布し、学術試

外地統治と警察官吏 (王) ���(���)

第5表 総督府警部, 警部補学歴調査一覧表

明治��年 昭和��年

学術試験 �� ��

練習所甲科 ��� ���

兼 有 � ��

兼 任 �

其 他 �� �

小 計 �� ��

学術試験 � ��

練習所甲科 ��� ���

兼 有 � �

兼 任 ��

其 他 ��� ��

小 計 ��� ���

合 計 �� ��

出典:台湾新民報社 『台湾人士鑑』 (昭和9年)・(湘南堂書店、 ���年復刻版)、 興南新聞社 『台湾人士鑑』 (昭和��年)・(湘南堂書店、 ���年復刻版) と、 田中一二 『台湾の新人旧人』 (台湾通信社、 昭和3年)、 橋本白水 『評論台湾之官民』 (南国出版会、 大正8年)、 橋本白水 『台湾統治と其功労者列伝』 (南国出版会、 昭和5年)、 林進発 『台湾人物評』 赤陽社、 昭和4年)。

表注:本表は、 学術試験者と練習所甲科卒業生を主な比較対象としたため、 普通文官試験合格による、 または、 台湾に在勤した陸海軍及憲兵隊の曹長以上を対象として採用した警部と警部補を統計の対象外とし、 本表では 「其他」 として列記することにした。

験制度を再開した。上記の明治四二年と昭和一二年は、いずれも、学術試験制度が施行されてからちょうど一二年

目ごろだからである。

さて、この表が示したように、明治四二年、総督府は、警部と警部補合わせて六二二人のうち、明治二九年内地

から招聘した現職警察官と、総督府書記、属から任用した警察官と、普通文官試験に合格をした巡査及び退役した

陸海軍、憲兵曹長からの任用を含む

其他」

で二六四人となり、同警部と警部補数の四三%を占め、トップとなっ

ている。二位は、総督府練習所甲科卒業生の二四一人で総数の三九%である。このほか、学術試験合格者が九三人

おり、総数の一五%となっている。これに対し、昭和一二年、総督府警察官警部と警部補の総数四九六人の内、練

習所甲科卒業生は、普通文官合格、退役した陸海軍、憲兵曹長から任用した警察官を抜いて、合計三一四人、六三

%を占めるようになった。学術試験による採用した警部と警部補は、明治四二年における九三人、一五%であり、

昭和一二年における三一人、六%であった。

また、台湾統治初期において、内地から募集した現役警部、警部補と警察官、総督府書記、属といった判任文官

クラス及び陸海軍、憲兵隊から退役した曹長以上からなる警察官は、二六四人で、警察官の構成において第一位を

示したことに対し、昭和一二年ごろ、総督府属、書記といった普通文官資格者及び陸海軍、憲兵隊から退役した曹

長以上からなる警察官の数は、一挙に八四人、二九%に落ち込んだ。

このようにして、総督府警察官練習所甲科は、「

警部、警部補及監吏の候補を養成するものとし、一般志願者及

巡査又は看守にして成績優良な者を入学せしめ、卒業者は普通文官たる資格を得せしめ」 (

�)

るとして、甲科練習生は、

普通文官試験合格資格者と学術試験合格といった考試による警部補へ採用するルートを抜き、警部補と警部への採

用の主流となった。このため、当初の警察官の素質向上と警察官の養成を目的とした警察官練習所は、甲科教育に

中京法学��巻3・4号 (����年)���(���)

おいて、考試巡査から警部、警部補への昇進資格校へと変質することとなった。

第二節

台湾統治と総督府警察官

台湾統治行政と総督府警察官

(

1)

保甲制度中の総督府警察官

記述したように、台湾領有初期、本島人からの激しい抵抗のため、軍隊と憲兵隊がその討伐と治安維持の主体と

なり、総督府警察官は、少人数が主に台北、台南等の主要都市部に配置され、司法、行政等の主流の傍系に位置づ

けられた。従って、総督府警察官は、こうした治安維持を優先課題とするなか、その業務遂行及びその効能が限定

されていたことはまちがいない。

総督府警察官の台湾統治への介入は、明治三〇年の保甲制度の施行からである。先に紹介したように時の総督府

内務部長古荘嘉門は、本島人である林武�と林逢青といった地方有力者の建議書を採択し、「

匪徒」

が猖獗する嘉

義及び雲林地方に本島人の連庄保甲制を施行し、後に台北、台中、台南三県及び澎湖庁へ設置するようになった。

そこへ、明治三一年八月、総督府は、律令でこの保甲組織を制度化した。

保甲制度は、中国古来から施行された街庄民らの治安維持の自治組織である。保甲制度はいくつかの変遷を見た

が、基本的に、村・屯・街・庄民をいくつかの保と甲に編入し、保正

(

保長又は里正)

と甲長

(

甲正又は牌長)

設け、国家の租税、共同体の負担金の上納と兵役、衛生、治安の相互監視について責任を連帯する、住民自治と行

外地統治と警察官吏 (王) ���(���)

政組織の補助機関という色彩が強かった。

総督府は、単純に清国時代の保甲制度のままを踏襲したわけではない。同年八月に公布された

保甲条例施行細

則」によれば

(

�)

、「

甲長ハ甲ニ於テ之ヲ選挙シ保正ヲ経テ所轄弁務署長ヲ経テ地方長官ノ認可ヲ受クヘシ、保正ハ保

ニ於テ之ヲ選挙シ所轄弁務署長ヲ経テ地方長官ノ認可ヲ受クヘシ」

、また、「

保正ハ所轄弁務署長若ハ支署長ノ指揮

監督ヲ承ケ保内ノ安寧保持ニ任ス」

、「

保及甲ニ壮丁団ヲ設置セントスルトキハ保正甲長ヨリ所管弁務署長ヲ経由シ

地方長官ノ認可ヲ受クヘシ」

と、保正と甲長の選任、保甲の活動には地方長官の認可が必要とされ、保甲制度は、

明らかに行政機構の下に置かれた補助機関であった。

一方、地方行政官の管轄下に置かれた保甲組織は、総督府官制改正に伴い、総督府警察官の介入が強くなり、保

甲組織は、末端行政機関の補助機関から総督府警察機関の補助機関の色彩が強くなった。

折しも、保甲組織中に、保甲規約、壮丁団の訓練、指導及び銃器の取扱は、総督府警察機関の所轄であり、特に

保甲制度の中核とも言える壮丁団の編成に関しては、総督府警察官の影響が強い。このうち、明治三〇年一一月、

総督府が施行した壮丁団編成標準は、次のように規定しており

(

�)

(

前略)

第九条

壮丁団員は匪賊又は匪賊に通ずる疑ある者及其他挙動不審なる者について直に警察官吏若は憲兵に報

告すべし

第十条

壮丁団員は匪賊生蕃の凶暴及火災水害の急変あるに当り一面には警察官吏又は憲兵に急報し一面には

便宜の方法を以て各団員を招集すべし

中京法学��巻3・4号 (����年)���(���)

(

中略)

第十二条

警察署長はその管轄区の各壮丁団をして時々進退動作を訓練し兼て操銃方法を演習せしむべし

第十三条

警部長は毎年一回以上警察署長は二回以上各壮丁団を巡視し紀律の保持器具の整備等を検査すべし

第十四条

警察署長は予て壮丁団員名簿を備へおき毎年二回

(

一月七月)

其現員を県知事庁長に報告すべし

と、壮丁団に関する警察官吏の管轄と監督が明らかとなった。この趨勢は、総督府地方官官制改正により一段と強

くなった。翌年六月、総督府は、従来各県庁の下に設置した警察署、撫墾署を新置した弁務署に整理し、この弁務

署の第二課が

警察ニ関スル事務」

、第三課が

蕃人蕃地ニ関スル事務」

を掌理することとなり、そして各弁務署

の下に支署を置き、主記、警部又は技手が弁務署支署長に就任できるようになった

(

�)

。しかし、各弁務署の下に置か

れた支署の長官である支署長は、実際上、ほぼ警察官が就任している。このうち、明治三二年現在、台北、台中、

台南三県、及び宜蘭庁、澎湖庁に設置された弁務署支署についていえば、台中県下に三支署、台南県下に一支署と

宜蘭庁下に一支署の支署長に主記が就任したことを除き、他の支署長以下全員が警察官が就任していることが分かっ

た。こ

の結果、総督府の行政機関と警察機関とが一体化し、保甲組織も、従来の単なる

匪徒」

防止、治安維持との

設立目的から、戸口調査、出入者取締、犯罪者捜索、阿片弊害矯正、伝染病予防、及び害虫駆除、道路橋梁下水の

修繕等の行政的、警察的な補助組織へと変化するようになった。

就中、「

本島における警察官の苦労と保甲壮丁団員の助力を無視することが出来ません」

とされた衛生行政は、

保甲組織と警察官との連携が目立っている。これについて、かつて総督府警察官、警察官練習所教官、総督府警察

外地統治と警察官吏 (王) ���(���)

沿革誌の嘱託等を歴任した鷲巣敦哉は

(

�)

大正八、九年流行のコレラ病も又多くの人を殺してゐます。私も、大正九年のコレラ病流行の際、その中心地

であった彰化地方に派遣せられ、防疫事務を指揮した経験があります。毎日数十名に及ぶ発病者を収容するだ

けて余力がなかったことを経験しました。あの時若し保甲壮丁団がなかったなら、警察官だけでは、どうにも

ならず、結局部民が呼び出されて、防疫事務に従事せしめられたのでありませう。そして、今迄警察と何等関

係のない人々が、毎日代わる代わる出て来ても、到底保甲壮丁団の半分の活動も出来なかったでありませう。

ペスト防遏も又左様であります。ペスト流行時は、一庄全部が病毒に汚された処も少くありません。病毒が猛

烈でペストの撲滅は、台湾に於ける一大事業で、私共は保甲役員及壮丁団が、一生懸命防疫に従事してゐる所

を実見したものであります。

と述懐しており、流行病の防疫につき、保甲組織と総督府警察官との間の強い連携を物語っている。

(

2)

警察官の行政官への兼任

明治三四年一一月、当局は、総督府官制と地方官官制を大幅に改正した。総督府官制改正により、総督府本府に

警察本署が置かれ、その長である警視総長は、総督府各局長の首席とし、「

総督及民政長官ノ命ヲ承ケ其ノ主務ヲ

掌理シ事急ナル場合ニ在リテハ其ノ主管事務ニ付キ庁長以下ヲ指揮スルコトヲ得」 (

�)

るとされた。また、総督府地方

官官制改正において、従来地方機関であった県庁を二〇庁に改めることになり、この庁の下に、支庁を置き、その

支庁長は

属、警部又ハ技手ヲ以テ之ニ充」 (

�)

てることとなった。しかし、その翌年の明治三五年から大正九年に総

中京法学��巻3・4号 (����年)���(���)

督府地方官官制が改正されるまでの一八年間に、事務官、属、技手が支庁長に任命された事例は、明治三五年の阿

�庁下の一例と台東庁下の一例、及び翌年の恒春庁下の一例と基隆庁下の一例との僅かに四例であり、加えて、こ

の四例はいずれも属を支庁長代理とするものであった。支庁長は、実際上、ほぼ総督府警視、警部乃至警部補より

充てられたのであった。さらに各支庁長の下に配置した職員にも、警部、警部補がその大半を占めていることがわ

かった。

結局、かかる地方官官制改正を通じ、総督府警察官吏の地方行政への介入が強化された。

しかし、本来のかかる警察本署の設置、警察官の支庁長への就任といった警察政治施行の背景は、総督府行政統

治権限の強化と行政権の統一を目的とするよりも、台湾島内にわたる

匪徒」

の猖獗への対策からであった。

明治三一年二月、乃木総督の後を受け、台湾に赴任した児玉総督と翌月民政局長として赴任した後藤は、乃木総

督府時代の軍隊、憲兵、及び警察による三段警備を廃止し、「

匪徒」

討伐をしながら、「

匪徒」

の招降策を掲げた。

かかる恩威併用の

匪徒」

討伐政策下、翌年一月、「

匪首」

陳秋菊、三月、「

匪首」

黄国鎮、柯鉄、頼福来、五月、

匪首」

林少猫、一二月、「

匪首」

林維新らが

匪徒」

を率い、相次いで帰順した。ところが、かかる招降策は、台

湾全島にわたる

匪徒」

を徹底的に根絶したわけではなかった。特に

招降策は南部地方に於いても、北部と同時

に試みられたが、南部は、総督府を距ること遠く、事情亦遍く疎通せざるものがあり、加ふるに、匪魁多くは猜疑

を以て之を迎へたので、俄かに招徠することが出来ざるのみならず、偶々地方税の実施は民心に多大の不満を惹起

せしめ、匪徒をして之に乗ずるの機会を與へた」 (

�)

とされ、「匪徒」

の被害は、依然として厳しかった。このうち、

総督府は、「

匪徒」

の根絶策として、本島人の有力者の建議を採用し、本島人のみを対象とし、清国政府時代に実

施した保甲制度を復活した。この保甲の活動をよりよく監視または指導するために、末端組織である支庁長以下の

外地統治と警察官吏 (王) ���(���)

人事を総督府警察官より充てるという総督府の政策の意図は、明らかにである。

このようにして、かかる

匪徒」

の沈静化、治安の安定上において、成果を見た警察官支庁長制度は、大正九年

七月、「内台一視同仁」

を唱えて、総督府が全島に郡、市を設け、本島人に一定の自治権を認めるまで、存続した。

(

3)警察官と文官官僚の境界

明治三九年一〇月、総督府秘書課は、蕃薯寮庁と次のような公文を往復した

(

�)

(

文書A)

甲秘第一三八〇号

明治三十九年十月十五日受

明治三十九年十月一八日決裁

明治三十九年十月十五日立案

明治三十九年十月十八日施行

総督

委任

民政長官

鹿子

[木小五郎]

(

朱印)

秘書課長

大津

[

麟平]

(

朱印)

主任

中北

[六三郎]

(

朱印)

川中子

[安治郎]

(

朱印)

詞令案

窪田直人

任蕃薯寮庁属

給七級俸

十月十八日付発令

中京法学��巻3・4号 (����年)���(���)

六級俸ノ判任官ニシテ本島ニ満五年以上在官ノ経歴アリ又文官普通試験合格者ナリ

[

朱筆による加筆]

通知案

例文

十月十九日

(

文書B)

蕃秘発第六〇号

窪田直人当庁属ニ任用内申方ニ付キ秘甲第一〇五二号ノ一ヲ以テ御回答ノ次第モ有之候処先般出府ノ際代理官

ニ打合置候ニ付キ詞令御送付可相成被存候致度処未タ其儀無之右ハ如何致度哉至急発令ノ運ヒニ成様御配慮煩

ハシ度此段及照会候也

明治三十九年十月十二日

蕃薯寮庁長

石橋享

(

蕃薯寮庁公印)

秘書課長大津麟平殿

(

文書C)

蕃秘発第五九号属

任用之義ニ付内申

窪田直人

外地統治と警察官吏 (王) ���(���)

任蕃薯寮庁属

給七級俸

右当庁属ニ採用致度候条頭書ノ通御任命相成候様致度此段及内申候也

明治三十九年八月廿三日

蕃薯寮庁長石橋享

(

蕃薯寮庁公印)

台湾総督府子爵佐久間左馬太殿

(

文書D)

履歴書

原籍山口県厚狭郡高千帆村三百七十八番邸

当時新竹庁新竹尋常高等小学校官舎高木平太郎方居住

窪田直人

明治五年七月十七日生

明治三十一年五月

巡査ヲ命ス七級

鳳山県

東港弁務署勤務

同上

同三十二年九月

六級俸

台南県

同三十三年一月

四級俸

同上

巡査部長

同上

中京法学��巻3・4号 (����年)���(���)

同三月

警察官部甲科練習生

明治三十二年七月

警察官部甲科練習々

[

ママ]

同七月

阿猴弁務署勤務

台南県

同三十四年五月

任台南県警部補

同上

給四級俸

同上

同三十四年九月

蕃薯寮弁務署勤務

同上

同三十四年十一月

任蕃薯寮庁警部補

総督府

給四級俸

同上

同三十五年三月

給三級俸

同上

同十一月

台中庁ヘ出向

蕃薯寮

任台中庁警部補

総督府

給三級俸

同上

同三十六年七月

任台中庁警部

同上

給八級俸

同上

警務課勤務

同上

同三十六年

台湾南部地方騒擾ノ際尽力ノ功ニ依リ金弐拾円ヲ賜フ

賞勲局総裁

同三十六年十一月

台湾総督府第一回統計講習修了

同三十七年五

[

ママ]

台湾総督府文官普通試験合格

外地統治と警察官吏 (王) ���(���)

同九月

給七級俸

総督府

同三十七年

台北地方法院台中出張所検察官代理

同上

同三十九年七月

給六級俸

同上

明治三十九年七月十八日

依願免本官

総督府

事務格別勉励ニ付金六十円ヲ給ス

同上

在官満五年以上ニシテ退官ニ付月俸二ヶ月半分ヲ給ス

同上

(

文書E)

蕃秘発第六〇号

本月廿三日付ヲ以テ元台中庁警部窪田直人ヲ当庁属七級俸ニ任用ノ義及内申候処本人義ハ本年七月十八日疾病

不堪職ノ理由ニ依リ依願免官トナリタル者ニシテ爾来専ラ療養ヲナシタル結果全然健康躰ニ復シ今日ニ至リテ

ハ執務上毫モ差支無之ニ付及内申候次第ニ付至急御詮議相成候様御配慮煩ハシ此段及照会候也

明治三十九年八月二十三日

蕃薯寮庁長石橋享

(

蕃薯寮庁公印)

秘書課長大津麟平殿

(

文書F)

[

第甲一〇五二号

八月三十一日発送

森田]

中京法学��巻3・4号 (����年)���(���)

三十九年八月三十一日

秘書課長

大津

[

麟平]

(

朱印)

川中子

[

安治郎]

(

朱印)

回答案

拝啓

元台中庁警部窪田直人御採用ノ件ニ関シ去ル二十三日付第六〇号御照会ノ処右ハ疾病退官後間モナキ者

ニ付三十七年七月秘甲第一六七九号通牒ノ旨趣ニ依リ当分詮議不相成次第ニ付約三ヶ月モ相立候ハレ更ニ御内

申相成差支無之儀ト被存間此様御了知相成度此段御回答申上候

草々

既に明らかにしたように、本件は、元台中庁窪田直人の蕃薯寮庁属への任用をめぐる辞令案件である。上記の文

書によれば、窪田直人は、明治五年七月、山口県厚狭郡に生まれ、明治三一年五月、鳳山県巡査を振出しに、明治

三三年七月、総督府警察官及司獄官練習所を卒業し、翌年五月、台南県警部補に命じられ、それから、明治三五年

一一月、台中庁に転任し、翌年七月、警部補から警部に陞等した所謂ノンキャリアの

特進組」

であった。明治三

七年五月、文官普通試験に合格した同年、窪田は、台北地方法院台中出張所検察官代理を命じられ、そして明治三

九年七月一八日をもって、疾病に罹患し、職務に堪えずとの理由で辞職願を提出し、本官を免じられ、内地に帰還

せずに新竹庁にある友人の家で療養生活を過ごした。同年八月二三日、蕃薯寮庁は、同庁長石橋享の名を以て元警

部であった窪田が病気快癒につき、同庁に七級俸を給し、属に任用するとの旨の内申書を総督佐久間、秘書課長大

津宛にそれぞれ提出した。これに対し、総督府が詮議した結果、同年一〇月一八日をもって、窪田の蕃薯寮庁属に

任用するとの旨の辞令案を発令するとのことであった。実に文書Bと文書Fが示したように、この窪田の人事辞令

は、従来総督府自らが決めた人事任用上の規定を破る、極めて特例となる人事辞令である。

記述したように、窪田は、同年七月一六日付で、「

昨年以来麻列里亜ニ罹リ続テ慢性症ニ変シ殊ニ客月以来一層

外地統治と警察官吏 (王) ���(���)

ノ劇甚ヲ加ヘ到底職務ニ難耐」 (

�)

との理由で、辞職願を提出した。これを受け取った台中庁は、同日、総督佐久間宛

の次のような内申書を起案した

(

�)

中秘第五四号

内申

給六級俸

警部

窪田直人

右者近来麻刺利亜ニ罹リ療養中ノ処今回別紙ノ通リ疾病職ニ堪ヘサルノ故ヲ以テ退官願出候ニ付事実取調候処

医師診断書之通全ク病状巳ヲ難キモノト被認候就テハ本人ハ平素職務格勤現級在職一年三ヶ月以上ノ者ニ付特

ニ頭書ノ通リ昇給御詮議ノ上文官分限令第三条第一項第二号前段ニ依リ免官相成度尚本人ハ三十四年五月台南

県警部補拝命以来勤続ノ者ニ付免官御発令ト同時ニ賞与トシテ金六拾円御支給相成候様致度此段及内申候也

明治三十九年七月十六日

台中庁長岡本武輝

(

台中庁公印)

台湾総督府子爵佐久間左馬太殿

追テ本人ハ受恩給者ニ無之候申添候也

これに基づき、同月一八日、総督府秘書課は、次のような辞令案を起案した

(

�)

秘甲第八七三号

明治三十

明治三十九年七月十七日決裁

中京法学��巻3・4号 (����年)���(���)

明治三十九年七月十八日立按

明治三十九年七月十八日施行

総督

委任

民政長官

鹿子

[

小五郎]

(

朱印)

秘書課長

大津

[

麟平]

(

朱印)

主任川中子

[

安治郎]

(

朱印)

詞令案

現七級

台中庁警部窪田直人

事務格別勉励ニ付金六十円ヲ賞与ス

給六級俸

依願免本官

疾病不堪職

[朱筆にて加筆]

三十四年五月台南県警部補任命以来五年以上勤続

三十八年三月三十一日給七級俸

[朱筆による加筆]

七月十八日付

このように、窪田は願により本官を免じられた。つまり、窪田は、免官辞令日から、再び蕃薯寮庁に任用される

まで僅か三箇月で、且つ前職の警部から属への任用辞令である。

ここに、いくつかの不思議な点がある。前述したように、文書Bと文書Cは、ちょうどこの内訓が発された二年

後の頃、窪田の採用をめぐる官庁間の協議文書である。そこで、この辞令案中の中心人物であった窪田は、明治三

六年七月、台中庁の警部に昇任し、既に判任文官となった。ところが、既に判任文官となった窪田が、翌年三月一

外地統治と警察官吏 (王) ���(���)

〇日から一二日までの総督府文官普通試験委員会が主催した文官普通試験に参加し、そして、翌月同試験に合格し

た(�)

が、その試験に参加した理由は、なんのためだったのか、そして、二年後である明治三九年七月、窪田は、「

性麻拉里亜」

病に罹患し、「

到底職務ニ難耐退職」 (

�)

することに至った。妙なことに、退職後、一箇月を経、新竹庁

の友人の宅に静養した窪田は、不思議に

全然健康躰ニ復シ今日ニ至リテハ執務上毫モ差支無」 (

�)

となり、蕃薯寮庁

より同庁の属採用の内申がを起案された。ここに、関連文書を調べた限り、窪田と蕃薯寮庁上層部との人脈関係が

不明のままとなっているが、一応、蕃薯寮庁と総督府秘書課との折衝により、窪田は、宿願である警部から属への

変身が実現できた。

記述したように、総督府の判任文官の官職内に、警部補、警部との警察官職務と、属、書記との事務系の職務、

及び技手、医師等の技術系の職務があり、この三者間に業務内容、業種等により、それぞれの昇進体制がある。一

般的には、技手は、専門学校又は大学理工科系出身で、勤務年数が達すれば、技師、技師長へと昇進が可能となっ

ている。属は、文官高等試験に合格し、勤務年数が達すれば、高等文官である総督府課長、部長または局長へとの

昇進が可能である。このうち、総督府巡査、警部補、警部、それから警視という総督府警察官には、独特な昇進シ

ステムが存在している。通常、総督府巡査は、同府警察官練習所甲科卒業又は学術試験に合格すれば

(

�)

、警部補へ陞

等する、また精勤証書があり、勤務年数が達すれば、警部補または警部へ陞等する。さらに、文官高等試験合格又

は勤務年数が達すれば、警部から警視又は警察関係課長へとの陞等が可能である。ところが、警部から警視への陞

等、又は警察課長クラスの昇進はそれほど容易ではない。警部から警視への陞等は、警視の定員が僅かなこと、文

官任用令には、警視への陞等には文官高等試験の合格を必要としていることから、巡査を振出しとする総督府の警

部補と警部で、かつ文官普通試験を通過していない

特進組」

にとっては、警視への陞等はまさに竜門登りの

中京法学��巻3・4号 (����年)���(���)

所」

である。ましてや、警視への採用はほぼ文官高等試験者が優先され、「

特進組」

であった警部らにとって警視

への陞等はほぼ無縁の存在であろう。そのうえ、属等の事務系からの警部、警部補への転任、転勤を除けば、技手

等の技術系、及び警部補、警部の警察関係者が属等の事務系へ転職、転任することは、極めて稀である。就中、警

部補、警部から属乃至書記へ転任する人事辞令は、珍しい事例であった。これはただ単なる業務内容上の異なる原

因ではなく、警察官自身の問題である。

折しも、警察官の仕事は、危険な職業であることは、いうまでもない。特に、統治初期における台湾では、統治

の最前線に置かれた総督府警察官は、流行病、風土病等の病魔、「

匪徒」

乃至

蕃害」

による被害が大きかった。

かつて日露戦役に従軍し、明治四〇年一二月四日、総督府巡査として渡台をし、大正一三年三月、辞官をした宮城

県仙台出身の内藤守寿は、後年、その自伝作である

僕の略歴」

(

�)

明治四十年十二月四日、台湾総督府巡査を拝命し、直ちに桃園庁に赴任角板山討伐に参加したるを始めとして

宜蘭及花蓮港管内の討伐に転々し更に台東庁巴

衛支庁下

チャリギス」

討伐に転じたり。此の間の苦闘筆舌

に尽せぬものあり同級生百四名拝命のものが大正十三年三月三十一日退職の時は僅か十二名となる。蕃害に倒

れたるものと風土病に斃れたものを通じて全数の七割とし後と辞職其他二割と云ふ状態に依り推測出来るのです。

巡査部長となり警部補を経て退職となれり全く天祐と感謝いたします。

と、「

奇跡」

的に退職できて、感慨千万であったと認めている。内藤と同期に巡査を拝命した同級生一〇四名余り

の総督府警察官が、大正一三年三月三一日、同氏の退職の時に僅か一二人となり、このうち、「

蕃害に倒れるもの

外地統治と警察官吏 (王) ���(���)

と風土病に斃れたるものを通じて全数の七割とし後と辞職其他二割と云ふ」

総督府警察官の職業の厳しさが浮き彫

りとなった。

かかる深刻な被害の状況に、総督府巡査の服務期限が満期となり、または総督府警部補又は警部へ陞等した警察

官は、疾病に罹患したとの理由で退職願

を提出するものが後を絶たない。そして、

治安も風土病も治まった昭和八年になっ

ても、総督府警察官の

「敵前逃亡」

が抑

えきれない。統計によれば、昭和八年、

総督府警察官の増加数は四二六人であっ

たの対し、同年の総督府警察官の退職又

は転出者数は四九二人で、転出者数が遙

かに増加数を上回っていた

(

�)

。また、同年

の総督府警察官の勤務年数を見れば、次

の第6表が示したように、同年、総督府

警部二四一人のうち、一年未満から一〇

年未満までの勤続者数が二〇九人、一〇

年以上一三年未満の勤続者数が一八名、

一三年以上三一年未満の勤続者が一四人

中京法学��巻3・4号 (����年)���(���)

第6表 総督府警察官勤続年数統計一覧表(昭和8年現在)

警部 警部補 巡査部長 甲種巡査 乙種巡査

1年未満 �� �� � ��� ���

1年以上 �� �� � �� ���

2年以上 �� �� � ��� ���

3年以上 � �� �� ��� ��

4年以上 �� �� �� �� �

5年以上 � �� �� ��� ��

6年以上 �� � �� ��� ��

7年以上 � �� �� ��� ��

8年以上 �� � �� ��� �

9年以上 �� � �� ��� �

��年以上 � �� � �� ��

��年以上 � �� �� ��� ��

��年以上 � �� � ��� ��

��年以上� �� �� ��� �� ��

計 ��� ��� �� ���� ����

平均勤続年数 � � � � �� � � � �

表注:①本表は、 台湾総督府警務局 『台湾の警察』 (����年、 ��頁) から作成した。②�は、 ��年以上から、 ��年未満の勤続者の数を指す。

であり、平均勤続年数は五・三年であった。警部補が任官してまもなく警部に昇任するため、一年未満から六年未

満のところに集中している。また、甲乙種巡査合わせて五八九二人のうち、一年未満から六年以下のうち勤続者が

二七〇六人、六年以上一三年未満の勤続者が一四六一人、そして一三年以上から三一年未満の勤続者が一七二五人

がおり、甲種、乙種巡査の平均勤続年数がそれぞれ六年と五・九年となることが分かった。このうち、一三年以上

勤続をし、何らかの理由で長く勤務しても昇進できず、所謂

万年巡査」

が意外に少ないことが明らかとなった。

このようにして、あまりにも危険な職場に勤める総督府警察官らが一旦勤務年限切れ、又は

登竜門」

である警部

補又は警部になるために、危険な職場を遠のく文官官僚へ転任する希望者が増えている。このため、早く明治三七

年七月、総督府は、各庁長宛に次のような内訓を通牒し

(

�)

警察官吏ノ職ニ在ル者ハ事務ノ便宜ニ因ルト本人ノ希望ニ出ツルトヲ問ハス之ヲ他ノ官職ニ転セシムルコトヲ

得ス又本人ノ願ニ依リ其ノ官職ヲ免シタル者ハ爾後満二箇年間警察官以外ノ官吏若ハ準官吏ニ採用スヘカラス

特別ノ必要ニ因リ前項ノ規定ニ依ルコト能ハサルトキハ其ノ事由ヲ詳細具申スヘシ其ノ委任権限内ニ於テ採用

セントスルトキハ認可ヲ経ルコトヲ要ス

右内訓ス

と、在職の警察官の他の官職への転任はおろか、一旦警察官を辞職しても二年以上を経たないと、他の官吏への採

用も原則として禁止した。

この通牒について、総督府警務局の説明には、「

警察官吏は一般行政官吏とは較や趣を異にするものありて相当

外地統治と警察官吏 (王) ���(���)

の経験を有し且民情に通暁するを要するは勿論専心一意其の職務を始終するの志操を有し

(

中略)

濫に他の官庁に

転せしむるか如きは警察事務の発達を阻害するのみならず延て一般警察官吏の志操を薄弱ならしむるの結果不都合

尠からず」 (

�)

と、当局の思惑を隠そうとしたが、隠しれきれない事実が明らかとなった。

いずれにしても、かかる警察官の深刻な

敵前逃亡」

を防止するため、総督府は、警察官らに基本給以外に、子

女教育手当、内地警察官以上の在勤手当、僻地勤務手当、旅費を支給し、警察官の

流失」

防止を図ろうとした。

総督府文官と警察官は、依然として超えられぬ境界が存在した。

蕃地」

行政中の総督府警察官

(

1)「

蕃務」

警察の誕生

明治三〇年九月、時の総督府内務部長杉村濬は、「

生蕃凶行取締ニ関スル建議書」

を乃木総督宛に提出した。同

建議書は、昨年設置した撫墾署の掌理事項をまとめた上、「

理蕃」

事業にあたり、蕃界警察の設置、蕃界警察規則

案、また

生蕃」

に対する刑罰令案を案出した。同建議書の提出理由に、杉村内務部長は、「

本島一半ニ散在栖息

セル所謂生蕃ハ人文未ダ開ケズ徳化未ダ及バズ猶闇黒ノ社会ニ属シ其ノ性行慣習固ヨリ常情ヲ以テ律スベカラズト

雖モ近来彼等ノ凶行日ヲ重ネ月ヲ遂フテ益々激甚トナリ土人ト内地人トヲ問ハズ其ノ凶害ヲ被ムルモノ枚挙ニ遑ア

ラズ撫蕃ノ至困至難ナル」

と唱え、現今施行された撫墾署といった

総督府ノ蕃民ニ対スル方針ハ蕃民ノ撫育ト蕃

地ノ開墾産業ノ発達ヲ専ラトセラレ未ダ其ノ取締ニ関シテハ何等ノ施設アルヲ聞カズ故ニ蕃民ハ恩ニ慣ルルモ未ダ

威ニ畏ルル所アルヲ見ズ」

と、総督府が

蕃地」

資源開発ばかりに専念しているかわりに、「

蕃地」

乃至

蕃人」

に対する取締に関する何等かの施設をしていないことを指摘した。これにより、「

蕃民凶行ニ対スル取締ハ実ニ刻

中京法学��巻3・4号 (����年)���(���)

下ノ要務ナレバ其ノ方法」

として

(

�)

第一

蕃界警察ヲ組織スベシ

蕃民ニ対スル固ヨリ普通警察ヲ以テ当ルベカラズ隘勇隘丁若クハ警吏ノ如キモノヲ使用シテ特殊ノ警察

ヲ組織セバ経費少額ト普通警察力ノ削減トヲ防ギ而カモ蕃民ノ性行習慣ヲ悉知シ取締上ニ便利ナラン

第二

蕃民懲罰法ヲ設定シ以テ膺懲ノ実ヲ挙グベシ

蕃民ニ対スル固ヨリ紀律ヲ以テスベカラズ故ニ懲罰ノ法ヲ設定セラレタシ

第三

撫墾署職制第一ノ中取締事項ヲ内務行政ニ移シ以テ内務部所管ニ属セシムベシ

現行ノ如ク単ニ蕃民ノ撫育ト蕃地ノ開墾ニ止メバ殖産部所管ニ於テ敢テ差支ナキモ若シ蕃界警察ヲ組織

シ特別懲罰法ヲ設定シ蕃民取締ヲ励行セバ其ノ行政タル殖産部ノ主管ヲ脱シ全然内務行政ノ一部ニ属ス

故ニ之ヲ改ムルノ必要ヲ生ゼリ

と、「

蕃地」

を、従来の殖産部所管から内務部の下に移管し

蕃民ヲ綏撫シ兼テ其凶害ヲ予防シ山林取締ヲ以テ目

的ト」

する蕃界警察の組織を設置すべしと主張した。また、「

蕃民」

の凶行を予防するため、杉村は、「

生蕃刑罰令

案」

を施行し、そして、「

本令ニ抵触セザルモノハ帝国刑法ノ総則ヲ適用ス」

蕃害」

に対し、厳罰を唱えた。

もとより杉村内務部長が指摘した撫墾署官制は、その昨年四月、民政復帰とともに、当局が清国政府時代に、専ら

台湾山地に住んでいる

蕃人」

撫育をするため設置された撫墾局体制を踏襲し、公布したものである。同撫墾署官

制にもとづく撫墾署は、「

蕃人ノ撫育授産取締」

、「

蕃地ノ開墾」

、及び

蕃地」

の山林で採ることのできる樟脳を製

外地統治と警察官吏 (王) ���(���)

造するために設置されたものであり、普通行政区画と異なる機構である

(

�)

。続いて、同年五月、総督府は、府令第一

二号で、叭哩沙、大��、五指山、南庄、林�埔、大湖、東勢角、恒春、埔里社、蕃薯寮、台東に撫墾署を設置す

ることとなった

(

�)

。このうち、同月二三日、総督府は、撫墾署の人事として、小野三郎、宮原藤八、山口義耀、水間

良輔、佐竹義和、西田又二、曾根俊虎、檜山鉄三郎、相良長綱、椙山清利らにそれぞれ撫墾署署長を命じた

(

�)

このように、総督府は、総督府の末端行政区域として、平地には弁務署、「

蕃地」

には撫墾署との両機構が併設

されることとなった。

さて、杉村内務部長の意見書は、総督府内に相当の議論を惹起させたようである。反論者は、殖産部、及び殖産

部配下の撫墾署らの

蕃務」に係わる者であった。その内、殖産部長代理沖龍雄が提出した殖産部案に、「(

中略)

内務部ヨリモ蕃界警察案ヲ提出セラレタリ茲ニ於テ深思熟考スルニ所謂蕃界警察ノ制度ハ一時人民ヲシテ安堵セシ

ムルニ足ルモノアルベシト雖モ其ノ設置ノ目的単ニ懲罰膺懲ニ在ルヲ以テ其弊ハ遂ニ蕃人ト深怨ヲ構ヘ争闘絶ヘザ

ルニ至リ其結果屡々討伐兵ヲ煩スニ至ルベシ是レ本島統治上ノ得策ニアラザルナリ」 (

�)

と、杉村内務部長の持論に正

面から反対し、別に

蕃地」

機構を置くことではなく、「

蕃地」

開発の視点から

蕃地」

事務を殖産部の所管にす

べしと唱えた。撫墾署当局も杉村内務部長の

「生蕃刑罰令」

に対し、「

今日ノ生蕃ニ対シテ実施スルコトハ不可能

ナリ」

と主張し、杉村内務部長と意見が対立した。

蕃地」

行政をめぐり、かかる意見対立の中に、総督府は、杉村内務部長、横沢次郎事務官、殖産部技師有田正

盛、同部技師横山壮次郎、事務官関宗喜、法務部長山口武洪、参事官大島久満次からなる蕃地取締方法調査委員を

命じ

(

�)

、次のような決定がなされた

(

)

中京法学��巻3・4号 (����年)���(���)

第一

蕃界警察署ハ議案ノ如ク将来特殊ノ警察ヲ設置セズ蕃人凶行ヲ予防スル為メ更ニ警察費ヲ増加シ普通警

察ヲ拡張シ其必要ニ応ジテハ蕃界若クハ蕃界附近ニ警察署分署派出所ヲ増設シ尚ホ化蕃若クハ熟蕃ヲ使

雇シ以テ専ラ蕃民凶行ヲ予防スルニ充ツベキ事

(

中略)

第四

決議ニ基キ警察官配置ノ方法箇所警察官増加見込員数及其経費等夫々詳細調査ノ上知事庁長ヲシテ具申

セシムル事

このように、既存する撫墾署体制の下に、警察官の増加を図り、「

蕃界」

警察署といった特殊な警察官の設置議

案を取り下げることとなった。

ちなみに、翌年六月、勅令第一〇八号総督府地方官制改正により、撫墾署と警察署を弁務署に併合し、従来警察

署と撫墾署の事務を弁務署の第二、第三課の事務とし、「

蕃地」

行政は、警察署とともに弁務署管下に移管するこ

ととなった。

一方、かかる平地の

匪徒」

討伐と

蕃地」の樟脳と林業資源獲得を重視していた総督府は、「

蕃地」

統治に対

し、樟脳局、又は樟脳会社が

蕃害」

防止をするための民設隘勇制度を容認したが、樟脳局と樟脳会社の事業費か

隘勇」

費用が捻出されたことから樟脳製造業の重い負担となり、樟脳局はもとより、台湾現地有力者である林

紹堂を始めとする樟脳会社が隘勇制度の是正を強く要望した

(�)

このうち、明治三三年三月二八日、総督府は、次のような文書を立案した

(

�)

外地統治と警察官吏 (王) ���(���)

民警第四八四号

明治三十三年三月三十一日受領

文書課

明治

年四月六

日決判

警察第九九号

明治

年四月九日発送

浄写

校正

明治三十三年三月二八日立案

主任

警保課長

[

浦太郎」(

朱印)

総督

[

児玉源太郎]

(

花押)

殖産課長

[

柳本通義]

(

朱印)

民政長官

[

大島久満次]

(

朱印)

文書課長

不在

主計課長

[

峡謙齋]

(

朱印)

陸軍幕僚参謀長

不在

[朱筆]

隘勇傭使規程設定ノ議

台北台中両県及宜蘭庁下蕃地並蕃界ニ隘勇ヲ置カル事ハ曩ニ御内訓相成候処茲ニ隘勇ノ採用及俸給並ニ勤務懲

罰休暇等ニ関スル規則モ内訓ヲ以テ之ヲ定メラルルノ必要ヲ認メ左ニ内訓案ヲ具シ御高裁

内訓第二七号

隘勇傭使規程左ノ別紙ノ通リ定ム

右内訓ス

総督

中京法学��巻3・4号 (����年)���(���)

台北台中両県知事及宜蘭庁長宛

この内訓に附されている別紙の主旨は、次の通りである。

隘勇傭使規程

第一章

採用

第一条

隘勇ハ品行方正年齢満十八歳以上四十五歳以下ニシテ左ノ各段ニ抵触セサル者ヲ採用ス

但伍長適任ノ者ハ四十五歳以上ト雖採用スルコトヲ得

重罪ノ刑又ハ盗罪詐欺取財ニ依リ重禁錮ノ刑ニ処セラレ若ハ同上ノ刑ニ処セラルヘキ罪ヲ犯シ単ニ監

視ニ附セラレタル者

阿片ヲ吸食スル者

酒癖又ハ暴行ノ癖アル者

身分不相応ノ負債アル者又ハ家資分散ノ処分ヲ受ケ未タ復権ヲ得サル者

[

朱筆にて削除]

懲戒ニ依リ隘勇ヲ免セラト一箇年ヲ経過セサル者

第二条

隘勇ノ体格ハ左ノ各段ニ適合スル者タルヘシ

体格健全ニシテ険難ニ堪フル者

視力聴力完全者

充分ノ発声ニ堪フル者

外地統治と警察官吏 (王) ���(���)

精神完全ナル者

第二章

[

朱筆にて削除]

給料

第三条

隘勇ノ俸

[

朱筆による削除]

給料ハ月給トシ左ノ如シ

[

朱筆にて削除]

区別ニ依リ之ヲ支給ス

拾円以上拾五円以下伍長ノ勤務ニ服スル者

七円以上拾壱円以下普通勤務ニ服スル者

第四条

給料ハ毎月末日之ヲ支給ス但休日ニ当ルトキハ繰上トス

[

朱筆にて加筆]

第五条

俸給

[朱筆にて削除]

給料ハ採用昇給降給復給トモ発令ノ翌日ヨリ計算シ解傭ノ月ハ日割ヲ以テ計算

第五

[

朱筆にて削除]

六条

官ノ都合ニ依リ解傭シタルトキ又ハ死亡シタルトキハ当月分ノ給料

[

朱筆にて加

筆]

全額ヲ支給ス

第六

[

朱筆にて削除]

七条

病気ノ為執務セサルコト三十月ヲ踰ユル者及私事ノ故障ニ依リ執務セサルコト十

日ヲ踰ユル者ハ日割ヲ以テ月俸

[

朱筆にて削除]

給料ノ半額ヲ減ス但公務ノ為傷痍ヲ受ケ若ハ疾病ニ

罹リ又ハ忌服ヲ受クル者ハ此限ニアラス

第七

[

朱筆にて削除]

八条

本令ニ規定セサル事項ハ明治二十九年訓令第十九号嘱託員雇員傭員給与規則ニ拠

[

朱筆にて削除]

依ル

第三章

勤務

第八

[

朱筆にて削除]

九条

隘勇ハ警察官ノ指揮監督ヲ受ケ規定ノ勤務ニ服スルモノトス

第九

[

朱筆にて削除]

十条

隘勇中品行方正職務勉励ニシテ且ツ熟練ノ者ヲ選抜シテ伍長ヲ置キ監督者ヲ補助

中京法学��巻3・4号 (����年)���(���)

セシム

第十一

[

朱筆にて加筆]

隘勇ハ指定ノ隘寮ニ在テ見張ニ従ラレ

[

朱筆にて加筆]

又ハ巡回ヲ為シ昼夜間断

ナク受持区内ヲ警戒スヘシ

第十二

[朱筆にて加筆]

隘勇左ノ事項ヲ見聞シタルトキハ相当処置ヲ為シ一面

[

朱筆にて削除]

所属警察

官ニ急報スヘシ

蕃人凶器ヲ携帯出没シ危険ノ所為アリト認ムルトキ

多数ノ蕃人集合シ不穏ノ模様アルトキ

前二項ノ外緊急ノ事件アルトキ

(

後略)

このように、隘勇の採用、給料付与額及び服務等を規定することにした。これは、同年、従来台北、台中両県、

及び宜蘭庁の

蕃界」

附近に設置された民設隘勇から官設隘勇へ政策転換を示したものであり、従来それぞれ設置

されていた隘勇と

蕃地」

に駐在する警察官とが接点を持つようになった。

続いて、明治三七年七月、総督府は、訓令を以て、改めて

隘勇線設置規程」

隘勇傭使規程」

を制定し、隘

勇線に配置すべき警備機関を警部、警部補、巡査、巡査補及び隘勇からなる

直轄隘寮分担区並所属監視分区ノ監

督及警備ニ従事」

する隘勇監督所と、監視分区として巡査、巡査補、及び隘勇に配属された隘勇監督分遣所、並び

に分担区として隘勇のみ配属された隘寮に設定した。

かかる総督府官制改正による総督府行政権の強化並び地方庁への委任事項の拡大の最中に、総督府の

蕃地」

外地統治と警察官吏 (王) ���(���)

政上の政策転換は、意味が大きい。大規模な

匪徒」

討伐又は招降による

匪徒」

の攪乱が大方平静化したことを

背景に、平地、山地とも植民地行政に肝要なる警察治安権の統一が図られたことを意味している。また、官設隘勇

の設置及び警察官の指揮監督による警察権への

接続」

は、総督府警察官が平地治安はもとより、「

蕃地」

行政と

治安においても参与することとなり、警察権限の拡張をも意味している。これは、まさしく総督府警察官と内地警

察官との大きな差違であった隘勇への指揮監督、「

蕃地」

の警備、「

蕃人」

への授産、及び

蕃童」

への教育に従事

する総督府独特な

「蕃務」

警察官の誕生にほかならない。

(

2)「

蕃務」

警察官への特待

台湾総督府

蕃務」

警察官は、職務が次第に明確化されるに従い、その採用体系、指揮体系、待遇にもその独特

な性格があらわれ始めた。

もとより明治三五年二月、総督府は、新たな巡査看守採用規則を公布し、「

特務及蕃界警備ニ従事セシムル巡査」

が無試験で採用とされた。続いて、翌年九月、総督府警部、警部補特別任用令が改正され、「

台湾総督府判任文官

(

警部警部補ヲ除ク)

ニシテ蕃人蕃地ニ関スル事務ニ従事シ若ハ雇員嘱託員ニシテ満三年以上蕃人蕃地ニ関スル事

務ニ従事シ現ニ其ノ職ニ従事シ在ル者又ハ台湾総督府巡査ニシテ満三年以上蕃人蕃地ニ関スル事務ニ従事シ現ニ其

ノ職ニ在ル者ハ巡査ニ付テハ実務ノ成績ヲ考査シ当分ノ内蕃人蕃地ニ関スル事務ニ従事スル警部警部補ニ任用スル

コトヲ得」 (

�)

ることとなる。これは、明らかに平地警察官と異なる昇進制度である。

記述したように、通常、平地の警部と警部補への昇進は、総督府警察官練習所甲科卒業生から、あるいは学術試

験の合格者からの任用が主たるものとされ、実務経験はともかく、法学的な知識が必要とされた。すなわち、平地

において筆記試験による巡査への採用、学術試験又は総督府警察官練習所の甲科卒業による警部補、警部への昇進

中京法学��巻3・4号 (����年)���(���)

といった実務経験を重視しながら、法学知識の取得を重視する総督府警察官の採用

体制であっただけに、無試験による蕃務巡査の採用、又は蕃務巡査の警部補、警部

への昇進は、平地警察官と比べ異例な

特殊待遇」

であった。

そもそも無試験で

蕃地」

警察官を採用する理由は、原住民の悪習である出草に

よる被害が相次いだ

蕃地」

には蕃務巡査が

普通ノ採用法ノミニ拠リ難キモノア

ル」 (

�)

からである。「非文明人」

である原住民を普通行政区画外とされた

蕃界」

戒にあたり、警察官の学術より、警察官の実務の方が優先されるべきとの総督府の

特別考慮を容易に推測できよう。

かかる

蕃務」

警察官へ与えた「

特殊待遇」

は、蕃務警察官の配置とその待遇上

においても見られよう。

次の第7表は、明治四四年一二月現在、普通警察職員と

蕃務」

警察職員の定員

比較一覧である。

この表が示したように、明治四四年において、普通警察官は四六三七人、蕃地に

勤務する蕃務警察官

(

隘勇を除く)

は一六七七人であった。平地で普通事務に従事

する警察官のうち、巡査と巡査補の定員比率が二六八二人と一三八二人となり、巡

査補は、巡査の二分の一を占めている。これに対し、「

蕃地」で

蕃務」

に従事す

る蕃務警察官のうち、巡査が一三二三人

(

�)

、巡査補が二一四人となり、巡査補の配置

比率が平地より遙かに少ない。こうした平地警察官と

蕃務」

警察官定員は、「

外地統治と警察官吏 (王) ���(���)

第7表 平地警察職員と 「蕃地」 警察職員定員比較一覧表(明治��年��月現在, 単位:人)

警視 警部 通訳 警察医 警部補 巡査 巡査補 隘勇 小計

平地 � ��� � �� ��� ���� ���� � ����

蕃地 � � � �� ���� ��� ���� ����

合計 � �� � �� �� ��� �� ���� �����

出典:台湾総督府警務局 『台湾総督府警察沿革誌』 (Ⅰ、 緑陰書房、 ���年復刻版、 ��頁~��頁)から作成。

社」

討伐による隘勇線の拡張とともに、特に佐久間総督が任期内に制定した

理蕃五箇年計画」

を終えた大正初期

ごろ、はじめて

蕃務」

警察官の定員が平地警察官の定員を超えている。さらに、大正一二年になると、「

蕃地」

に勤務する警察職員、警視、警部、警部補、巡査、警手

(

�)

及び公医の定員が五六六五人となった

(

�)

。「

蕃務」

警部と警

部補及び巡査を中心とした

蕃地」

警備体制は明らかであろう。

かかる

蕃務」警察官は、普通警察官よりその採用基準が緩やかであった一方、普通警察官以上の待遇を受けて

いる。

本来ならば、無試験で採用された蕃務巡査と警部補、警部はいずれも

蕃地」

の勤務に限定され、普通警察官と

異なる人事であったが、総督府は、明治三六年、総督府警部、警部補特別任用令と、翌年三月に改正した巡査看守

採用規則により、「

勤続満一年以上ニシテ実務成績優等ナル」

蕃地」

に勤務する警部、警部補、及び巡査が学術試

験を経て、普通警察事務に従事できるとし

(

�)

、「

蕃務」

警察官の平地勤務も可能とした優遇措置をとった。さらに、

総督府は、「

交通不便物価高値之ニ加フルニ危険ノ虞アル地域に屯スル」

との理由で、隘勇線又は蕃地派出所等に

勤務する蕃務警察官に対し、警察官吏月額旅費の最高額を支給することとなり、平地に勤務する警部、警部補、巡

査、及び巡査補の平均月額旅費はそれぞれ六円、五円、三円五〇銭、一圓五〇銭であるのに対し、蕃務警察官は、

警部が八円、警部補が七円、巡査が五円、巡査補が三円と、官等別に月額旅費を支給することとなった

(

�)

。また、総

督府は、平地警察官より、「

蕃地」

に勤務する警察官たちに本給以外に、「

蕃地」

勤務特別加俸と「

蕃地」

勤務手当、

それに既婚者が就学子女加俸と妻帯加俸を支給する等の優遇を付与した。

このように、隘勇線に配置した

蕃務」

警察官は、採用上と待遇上において平地に勤務する警察官より優遇され

たことが明らかとなった。

中京法学��巻3・4号 (����年)���(���)

(

3)

教育者としての

蕃務」

警察官

「蕃務」

警察官は、「

蕃地」

の警戒、討伐と隘勇線の指揮監督の外、蕃地の物品交換、授産等を業務対象として

いる。就中、蕃童への教育は、注目すべきことであろう。

蕃童」教育は、明治二九年九月二日、恒春管下猪

束社に設置した国語伝習所分教場

(

�)

に始まったと言えよう。

それ以来、国語伝習所分教場とし、「

蕃地」

に設置した

蕃童」

教化の施設は、明治三七年まで続いた。明治三八

年二月、総督府は、各地に設置した国語伝習所を廃止し、そして、「

人道の要義に基づき社会的生活に導き順良の

臣民たらしむるにある」ため、「

未だ試験的事業」 (

�)

とし、「

蕃童」

教育を公学校に編入することとなった。

かかる総督府学務課又は内務局関係による公的な

蕃人」

教育体系と並行し、総督府地方県庁下に置かれた撫墾

署も「

蕃童」

に「

国語及作法等を教授していた」

。後者は、明治三一年六月、撫墾署官制の改廃にともない、「

蕃童」

の国語及び作法の教育は、弁務署

「署長適宜の所置に一任の形」 (

�)

とされ、弁務署に移管された。

いずれにしても、「

蕃童」

教育にあたり、総督府には総督府が直轄する国語伝習所又は

蕃人」

公学校の教育体

系と、「

蕃人」

、「

蕃地」

を管轄する撫墾署による

蕃童」

教育体系との二つの

蕃人」

教育体系が存在していた。

明治三四年の総督府官制改正により新置された警察本署は、警務課と保安課を設け、従来の隘勇線と

蕃人」

取締を掌理することともに、隘勇線附近に設置した蕃務警察官派出所が隘勇を指揮監督したことから、実際上

界」

警備を担当することとなった。これに伴い、従来殖産局が所管していた

蕃地」

事務を警察本署に移管し、警

察本署は、全面的に

蕃人」

蕃地」

を取り締まる機関となった。かかる

蕃地」

行政の激しい変化のなかで、

明治三五年、台湾南部の

蕃界」

又は隘勇線附近に設置された警察官派出所に、前述の弁務署の事務を受け継ぎ、

蕃童」

を招集し、国語並び礼法を教授する

蕃童」

教育所が誕生した

(

�)

外地統治と警察官吏 (王) ���(���)

台湾教育会

台湾教育沿革誌』

によれば、台湾統治初期に設立した

蕃童教育所」

には、蕃薯寮庁蚊仔只警察官

派出所内の蚊仔只蕃童教育所(

明治三七年設立)

、嘉義庁達邦警察官派出所内の達邦蕃童教育所(

明治三七年設立)

台中庁白毛

蕃務」

官吏駐在所内の白毛

蕃童」

教育所

(

明治四〇年設立)

、深坑庁屈尺

蕃務」

官吏駐在所内の

屈尺

蕃童」教育所

(

明治四一年設立)

、斗六庁内の楠仔脚万

蕃童」

教育所

(

明治四一年設立)

、台中庁内の稍来

蕃童」

教育所

(明治四二年設立)

、桃園庁内の角板山

蕃童」

教育所

(

明治四二年設立)

などがある

(

�)

。教授科目に

は作法、国語、会話、算術、習字、体操、農業等あり、国語伝習所又は

蕃人」

公学校と異なり、「

蕃人」

頭目又

は有力者の子供に限らず、一般

蕃人」

の子供も自由に入所ができるなど、間違いなく

蕃童」

向けの学校であっ

た。このうち、「

蕃童」教育所の教授は、「

蕃地」

に勤務する

蕃務」

警察官たちであった。

ところが、この

蕃童」

教育所の設立経緯が示したように、「

蕃童」

教育所は、官制により設立した総督府国語

伝習所又は

蕃人」

公学校と異なり、設立目的、経費、教授方法等が規定されておらず、あくまでも

蕃人」

の文

明教化乃至

蕃人」

との

親和意志の疎通を図る」

こと、そして

漸次我カ風俗習慣ニ化熟セシムルヲ以テ目的ト

シ」 (

�)

たもので、且つ各庁の都合で自発的に設置されたものであった。このため、各自の各教育所の教授時間、教授

科目、使用教材等がいずれも異なっていた。

こうした各地の

蕃務」

警察官派出所の警察官による

蕃童」

教育の放任状態に鑑み、総督府は、明治四一年三

月一三日、「

蕃童」

教育標準、「

蕃童」

教育綱要乃至

「蕃童」

教育費額標準を制定し、「

蕃務」

警察官による

蕃童」

教育所の制度化を図ろうとした。こうした結果、実際上、「蕃地」

において、総督府内務局学務系の

蕃人」

公学

校と総督府警務系の

蕃童」

教育所との二つの

蕃人」

教育体制が生まれた。このうち、後に制度化した

蕃童」

教育所の成長は、「

蕃人」

公学校を追い越す趨勢が見られる。ここに昭和四年の統計をあげてみれば、同年、総督

中京法学��巻3・4号 (����年)���(���)

府内務局に所属する

蕃人」

公学校が五〇箇所、就学する

童」数が六九七〇人であり、これに対し、警務局系の

蕃童」

教育所が一七二所、児童収容数が六〇八三人に達し

(

�)

、「

蕃童」

教育所と「蕃人」

公学校の収容学生数は、ほぼ同じぐらいとなっ

ている。さらに統治末期の昭和一八年の統計によれば、同年四

月、台北州、台中州、台南州、及び新竹州等管下の各

蕃地」

に設置された

蕃童」教育所は、合わせて一五四箇所となり、

昭和四年より数的に減少したが、同時期、山地内に設置された

公学校は、高雄州内の屏東郡徳文公学校、同州潮州郡内獅頭公

学校、萃芒公学校、及び同州恒春郡高士佛公学校の四校しかな

かった

(

�)

。総督府の山地統治政策における

「蕃童」

教育所の位置

づけ高さを伺えよう

一方、「

蕃童」

教育所職員を勤める警察官である警部、警部

補及び巡査は、「

蕃務」

警察官としても重要な位置を占めてい

る。次の第8表は、昭和一八年四月現在、「

蕃童」教育所で

蕃童」

教育に従事する職員の集計一覧である。

この表が示したように、「

蕃童」

教育所職員、合計三九一人

の内、警部と警部補である所長と

蕃務」

警察官の補助員であ

外地統治と警察官吏 (王) ���(���)

第8表 「蕃童」 教育所の警察官集計一覧表(昭和��年4月現在)

育所

職 員

州 庁 所 長 教 育 担 当 者 合計警部 警部補 巡査 警手 嘱託 雇 計

台 北 州 �� � � �� � �� � �� ��

新 竹 州 �� � � �� �� � �� �

台 中 州 �� � �� � � � � ��

台 南 州 � � �� �� � �� �� ��

高 雄 州 �� � � �� �� �� �� �� �

台 東 庁 �� � � �� �� �� � �� ��

花蓮港庁 �� � �� �� �� � � �� ��

計 ��� �� �� ��� � �� �� �� ��

出典:本表は、 台湾総督府警務局 『高砂族の教育』 (台湾成文出版社、 �年復刻版、 �頁) から作成。

る「

警手」

を除けば、「

蕃童」

教育中の巡査数は、一八五人となり、職員の半数を占め、「

蕃務」

警察官は、「

蕃童」

教育の主役であることが分かる。

このように、「

蕃地」

に勤務する

蕃務」

警察官は、隘勇線の指揮監督、「

蕃人」

への警戒、乃至

蕃人」

への授

産だけではなく、「

蕃童」

乃至

蕃人」

の教化にも介入し、「

蕃人」

、「

蕃地」

の行政、教育、経済にわたり深く関与

していたと言えよう。

霧社蜂起事件」中の

蕃務」

警察官たち

(

1)「

霧社蜂起事件」から見た

蕃務」

警察官

霧社は、台湾中部中央山脈濁水渓附近に周辺に霧が多いことにその名の由来がる。霧社附近は、古くからマヘボ、

ボアルン、スーク、ボカサン、タロワン、ホーゴー、ロードフ、カツツク、タカナン、パーラン、トウガン、シー

パウ等の原住民の一二部落があり、当時、その人口は二一〇〇人である

(

�)

当時、総督府は、原住民を

文明化された」

程度により、「

生蕃」

、「

熟蕃」

又は

化蕃」

に、地理的要因により、

北蕃」

南蕃」

に、言語と種族により、タイヤル、ブヌン、ツオウ、パイワン、アミ、ヤミ、サイセットにと、

いろいろな区分をしていた。前述の霧社附近に居住する一二部落は、このタイヤル族に属する原住民である。タイ

ヤル族は、部族内に「

各人皆平等同権ニシテ貴賤貧富門閥等ニ依ル身分的階級ナク個人的差別」 (

�)

がない種族であり、

生活手段が狩猟を主にし、外の種族に比べ、人口が多く、生活区域の大きい種族の一つであった。

霧社附近の一二

蕃社」

は、明治三一年、台湾横貫鉄道線路探査のため派遣した深堀安一陸軍歩兵大尉を始めす

る一四人が霧社附近で行方不明になるという事件を機として、総督府に討伐され、周囲に、隘勇と鉄条綱を設置さ

中京法学��巻3・4号 (����年)���(���)

れ、「

膺徴のため厳重なる封鎖を施」 (

�)

された。そして、明治三九年五月、長年の封鎖によって

困窮其極ニ達シ」

た霧社

蕃社」

は、総督府に提示された条件に従い、帰順式が行われ、台中庁埔里社支庁の管下に置かれた。明治

四一年一一月、総督府は、霧社に

蕃地」

官吏派出所を設置し、霧社の

蕃人」

行政が始まった。それ以来、当局

は、「

蕃務」警察官を中心とし、「

蕃人」

授産所、「

蕃人」

交換所及び

蕃童」

教育所を続々設置した。このうち、

大正九年八月、総督府地方官制改正に伴い、霧社は、新設された台中州能高郡霧社警察課分室の管下に置かれるこ

ととなった。

霧社蜂起事件」は、この官制改正のなされた一二年の後、すなわち昭和五年のことであった。同年一〇月二七

日早朝、霧社附近の「

蕃人」三〇〇人余りは、霧社分室、警察官駐在所、郵便局及び霧社尋常小学校、霧社公学校、

及び

蕃童」

教育所の合同運動会現場を奇襲し、内地人官民一三〇人余りを殺傷した。これは、かつて

昭和未曾

有の一大不祥事」

、「

我が植民史上中外に対する一大汚辱」 (

�)

と言われる

霧社蜂起事件」 (

�)

の最初の一幕であった。

事件直前、「

霧社」

には、霧社分室、霧社駐在所、万大駐在所、立鷹駐在所、トロック駐在所、ボアルン駐在所、

能高駐在所、マシトバオ、マレツパ駐在所及びマリコワン駐在所等二四箇所の警察官駐在所、「

蕃務」

警察官が深

く関与する

蕃人」

撫育機関であるマヘボ、ボアルン、万大、トロック、及びタウツアとの五つの教育所、霧社、

マレッパ、ボアルン等一一個所に設けた公医診療所、警察医療養所及び

蕃人」

交易所等があった。駐在職員は、

蕃務」

警察官九六人、警手一一〇人、合わせて二〇六人であった。その首脳である分室、及び各駐在所の人事は、

次の通りである

(

�)

霧社分室:佐塚愛祐

(

警部、分室主任兼霧社監視区監督)

外地統治と警察官吏 (王) ���(���)

奈須野喜一郎

(

巡査部長)

霧社駐在所:山本鉄太郎

(

巡査部長)

万大駐在所:坂本磯次郎

(

巡査部長)

立鷹駐在所:千葉磯治

(

巡査部長)

トロック駐在所:樺沢重次郎

(

巡査部長)

ボアルン駐在所:柴田静太郎

(

警部補兼ボアルン監視区監督)

能高駐在所:三浦庄兵衛

(

巡査部長)

マシトバオ駐在所:福田徳治

(

巡査部長)

マレツパ駐在所:神之門源助(

警部補兼マレッパ監視区監督)

マリコワン駐在所:内田善六

(巡査部長)

この事件に、霧社に駐在する「

蕃務」

警察官九六人のうち、二九人が、就中、駐在所首脳である一一人のうち、分

室主任佐塚愛祐警部、能高駐在所巡査部長三浦庄兵衛、霧社駐在所巡査部長山本鉄太郎、ボアルン駐在所警部補柴

田静太郎、及び分室巡査部長奈須野喜一郎ら五人が巻き込まれ、死亡した。霧社の「

蕃地」

行政は打撃が大きかった。

(

2)

霧社討伐における総督府

蕃務」

警察官

霧社蜂起事件」

の現場から、かろうじて難を逃れていた能高郡視学菊川孝行は、眉渓駐在所に駆けつけ、警察

電話で事変の経過を能高郡警察課に第一報をした。時刻は、午前八時五〇分であった。総督府理蕃課がこの晴天の

霹靂のような大凶報を受けたのは、同日一〇時三〇分であった。皮肉なことに、総督府理蕃課が最初この情報を受

中京法学��巻3・4号 (����年)���(���)

けたのは、事件発生地の管轄官庁である台中州からではなく、新聞記者からの問い合わせだった

(

�)

。いずれにしても

総督府は、凶報を受けたショックを隠せなかった。

この第一報を受けた能高郡警察課、台中州理蕃課、総督府警務局は、それぞれ管下の警察官を緊急召集し、霧社

周辺の要所に駆けつけ、緊急配置をした。同日、能高郡警察課は、小形宇一郎警部補を始めとする巡査一四人の警

察隊を獅子頭方面に緊急配備した。埔里方面は、台中州内には緊急召集をして集まった州下各郡警察職員を配備し

た。同

日午前、総務長官人見次郎は、滞京中の石塚英蔵総督に打電し、事件を報告した。同日、これを受信した石塚

総督は、早速台湾軍司令官宛に打電し、「

台中州能高郡管内霧社蕃反抗シ能高越路線方面一帯ノ蕃情亦不穏ニ付安

寧保持ノ為所要軍隊派遣相成度台湾総督府官制第三条ノ二ニ依リ」 (

�)

と軍の緊急出動を要請した。さらに、同日午後

一時頃、総督府警務局長石井保は、総督の命により台湾軍司令部に軍司令官を訪ね飛行隊の出動を要請した。翌日、

総督府警務局が緊急召集し集まった台北、新竹、台南州、花蓮港庁、及び警察官練習所ら総数九五〇人の警察隊と、

台中州警務部長三輪幸助之を隊長とする捜索隊とともに、能高越道路本道と霧社南部にあるパーラン社と二つの方

面から霧社へ向けて進撃した。

霧社」

事件に際し難を逃れた

蕃務」

警察官の対

蕃社」

工作は注目すべくところである。事件が発生した同

日、タウツア駐在所巡査小島源治、千葉磯治、小花長太郎らと万大駐在所巡査部長坂本磯次郎、巡査早川治義らは、

それぞれ管内の

蕃人」

を集め、「

心得違なき様注意を与へたる」 (

�)

うえ、当局への協力を説得し動員した。万大社

では、坂本らは、「

蕃丁等の動揺甚しく、中には不穏の形勢さへ認められしかば、要注意人物三十七名を選抜し、

早川、古堅両巡査に引率せしめ銃器受領に名を籍り干卓万方面に下山せしめたり」

した。さらに、当局は、「

霧社

外地統治と警察官吏 (王) ���(���)

蕃社」

間の敵対関係を生かし、未蜂起の

蕃社」

を蜂起

蕃社」

への討伐に動員した。

一〇月三日、当局は、「

蕃地ノ事情ニ精通シ遙ニ官憲ノ活動ニ勝ルモノアルヲ以テナリ。故ニ討伐ガ或程度ニ進

捗シ反抗蕃ガ奥地深ク避難シタル場合ニハ相当強力ナル蕃人捜索隊ヲシテ捜索偵察等ノ任務ニ当ラシムルハ有利ニ

シテ仇敵関係ニ在ル蕃人中ニハ進ンテコノ任ニ当ランコト」 (

�)

とし、タウツア、トロック、白狗社、万大社等の

人」

をそれぞれ川西常吉

(

台中州東勢郡、警部補)

部隊、高井九平

(

台中州警部)

部隊及び神ノ門源助

(

能高郡マ

レッパ駐在所、警部補)

部隊の

蕃人奇襲隊」

に編成した。この

味方蕃」

の中の万大社は、もともと霧社蜂起事

件の総指揮者であるモーナルダオの呼びかけに応えて早朝に

蕃社」

を出発し、片道三時間の山道を急行のうえ、

連合運動会場に殺到しようとしたところ、既に韋駄天走りに会場に先着した同社の壮丁ウカンカハより蜂起の口火

を切られて、内地人への襲撃が終了し、出る幕はなかったため、「

蕃社」

に帰還した。この万大社の

蜂起」

から

味方」

への転換は、同社に駐在した坂本巡査部長らの

工作」

の結果であることは間違いない。

味方蕃」

が動員された当時、霧社トロック駐在所に勤務する樺沢重次郎巡査部長らの

蕃務」

警察官の姿も見

える。霧社事件に巻き込まれ、妻サイと長男徹、次男覚との家族三人を失った樺沢巡査部長は、事件当時、トロッ

ク駐在所に当番していたため、難を逃れた。樺沢は、新潟県北魚沼郡出身で、「

トロック・タウツア・セーダッカ

語の堪能なること霧社分室管内の筆頭であると言ってもよい。彼は、勤務した部落に於ては極めて平民的で威厳を

張らず、人を選ばず交友する為に、語言も通じ各社の頭目勢力者に交誼が深かった」 (

�)

ベテランの「

蕃通」

であった。

証言霧社事件』

の証言者である、事件当時、蜂起

蕃人」側の少年であったアウイヘパハによれば、同年一一月

三日、モーナ・ルーダオの娘マホン・モーナをマヘボ洞窟に、カホン・モーナの兄タダオ・モーナの投降勧誘に行

かせたのは、樺沢巡査部長であった。

中京法学��巻3・4号 (����年)���(���)

樺沢は、「

蕃人」

を操縦し、討伐中、「

蕃人」

側に奪われ、問題と視された陸軍の機関銃の回収に成功した。

これよりさき、同年一一月四日、霧社附近一文字高地といった所に進撃した台南歩兵第二聯隊第三中隊が蜂起

蕃」と遭遇し、蜂起

蕃」

側がモーナ・ルーダオの次男バツサオ・モーナ以下一二人、第三中隊側が甲斐軍曹敏

雄以下一五人の戦死者をだした。同中隊の菊花模様入りの一一年式軽機関銃二挺が蜂起

蕃」

側に奪われたほどの

遭遇戦であった。このうち、軽機関銃二挺を奪われた軍の失態を隠そうとした総督府は、樺沢巡査部長に、「

蕃人」

を工作して、機関銃を回収することを命じた。樺沢は、マホン・モーナ及び

同社蕃丁アウイ・タツコン等五名を

附して捜索せしめ同月二五日先づ其の游底のみを発見し、同月二七日其の他の部分を発見」 (

�)

した。続いて、樺沢は、

同じ手段で、もう一挺の機関銃と三八式歩兵銃八挺、拳銃一挺の回収に成功した。この手柄によるか、同年一二月

四日、樺沢は、巡査部長から警部補に昇任し、さらに、昭和七年一月、総督府が行った霧社事件の論功行賞では、

勲七等に叙され、銀杯一個を授与された。

(

3)

事件の報告書と事件原因

事件第一報をキャッチした総督府は、早速軍隊の出動を請求しながら、蜂起による被害の実態、特に事件の原因

究明を図ろうとした。これは、今後の

理蕃」政策の検討並びに事件の責任所在の問題に係わるため、最も総督府

の神経をとがらせることであった。事件発生の三日目の一〇月二九日、総督府は、事件原因を究明するため、樺沢

巡査部長ら三人を現地に派遣した。続いて、翌月一日、内閣は、拓務省管理局長生駒を台湾へ派遣することにした。

同年一一月一三日、樺沢は、捕獲したスーク社

蕃人」

の取調に基づき、三輪幸助台中州警務部長宛に、事件の調

査書を提出した。同月二八日、台湾から帰京した生駒管理局長は、当局に「

霧社蕃騒擾事件調査復命書」

を提出した。

生駒の事件調査復命書は、事実の発掘という点では総督府提供の資料に依拠せざるを得なかったという情報源の

外地統治と警察官吏 (王) ���(���)

制約を持つものであるが、石塚総督の

理蕃」

行政の批判と蜂起との因果関係に関心を集中させている

(

�)

。また、事

件の原因究明は、決して徹底的ものではない。「

今回ノ事件ハ霧社蕃ノ先住民族トシテ官憲ノ保護干渉ヲ嫌フ沿革

的反官気分ト出役其ノ他蕃人ノ不平ヲ生ズル諸因、平和ニ慣レテ生ジタル理蕃行政ノ間隙並

モーナルダオ」

ノ性

格、境遇等ガ交錯シテ一種ノ反内地人的雰囲気ヲ生ジ更ニ小学校寄宿舎材料運輸ニヨリテ一層高メラレ遂ニ吉村巡

査殴打事件、ヒポサツポノ自棄的境遇ニヨリテ点火ヲ見ルニ至リタルモノ」 (

�)

と、「

蕃社」

の蜂起が

蕃人」

の自棄的

境遇によるものと考えられ、総督府の「

理蕃」

政策自身への反省と受け止めは、少しも見えない。また、翌月一日、

生駒が起案した「

霧社事件調査書」

によれば、生駒は、事件の背景を賦役回数の増加、蕃婦関係とマヘボ社頭目モー

ナ・ルーダオの不平、乃至蕃婦の差別待遇、無理解に基く拘禁、ピホサツポ事件、ひいては出役問題、総督府の人

事問題及び郡警分離問題を挙げ

(�)

、事件原因について細かく究明を図ろうとしたが、いずれも問題は、主に霧社蜂起

蕃人」

側にあると考えられていた。

当時、総督府が拓務省大臣の監督下に置かれていたため、同省管理局長である生駒の事件調査復命書と事件報告

書は、拓務省の公式見解の性格が強い。ところが、この事件の報告書にはいくつかの制限がある。調査書は、総督

府より発表または提供したものはいうまでもなく、生駒自身が総督府と直接につながっていた。

生駒は、兵庫県の出身者である。大正二年七月、東大経済学部を卒業した同年、生駒は、大蔵省に配属され、同

省専売局書記に命じられた。その後、生駒は、内務省に転任し、警視庁、岡山県理事官を歴任してまもなく、大正

八年、田総督とともに渡台し、台湾総督府事務官に命じられた。記述したように、生駒は、現任田総督の実兄の娘

和子の婚約者であるため、渡台してまもなく、総督府学務課長となった。「

叔父に総督あり、周囲又総督恩顧の家

臣のみであった当時の府内は、余りに譜代跋扈の嫌ひあって外様連は指を食へて徒らに観望するに過ぎなかったの

中京法学��巻3・4号 (����年)���(���)

だ、げにや彼は各国の教育大会に列するといふ理由の下にアメリカに洋行と出掛け」 (

�)

た総督府閨閥官僚であった。

田総督が台湾を去った後、生駒は、「

大正二年組がこの群を抜いて」

、「

伊沢時代危なかったのが、逆転振り鮮かな

立身出世は流石にどこか認められたに相違ない」 (

�)

、勅任事務官に昇進し、内務局長を命じられた。昭和三年七月、

生駒は、佐藤続のあとを受け、台中州知事に転任した。そして翌年七月、川村総督の辞任とともに、生駒は、台中

州知事を免じられ、内地に帰還し拓務省管理局長を命じられた。つまり、かつて事件発生地の前州知事であった生

駒が、事件調査書に、過去の

理蕃」

行政への政策批判または指摘を極力回避したことは不自然ではなかろう。

上記の事件報告書のほか、台湾軍司令部がまとめた

昭和五年台湾蕃地霧社事件史」 (

�)

、台湾総督府警務局

霧社

事件誌」 (

�)

、台中州能高郡警察課

霧社事件ニ関スル概況説明書」 (

�)

、台湾総督府

霧社事件の顛末」 (

�)

等の総督府関係公

式見解を示した事件調査書がある。事件の原因については、次の第9表に示した。

この表が示したように、台中州能高郡、総督府警務局等は、いずれも霧社の総頭目の凶暴な性格、その息子と吉

村巡査との喧嘩事件、霧社小学校寄宿舎建設のための木材運搬による不平乃至

蕃婦」

の不遇、「

蕃務」

警察官の

冷遇又は定員不足等の聊かなことによる非計画的な偶然の事件として位置づけ、総督府統治の根幹である

理蕃」

政策への反省または批判は、全く見当たらなかった。

折しも、総督府は、内地人、漢民族であった本島人と原住民に対し、差別待遇をしていた。このうち、総督府は、

漢民族を中心とした本島人を

土人」

と呼び、そして

「文明開化」

の主な対象とし、保甲制度下に保と甲の相互監

視体制に取り込み、ないし

民意の暢達」

を図るための諮問機関である総督府及び各州庁協議会の会議員として選

出した。しかし、大正九年の地方官官制改正による本島人への

「参政権」

の付与という統治者からの恩恵は、山地

に居住する原住民らに対し、依然として無縁な存在であった。原住民らにとっては、諮問機関である協議会は、耳

外地統治と警察官吏 (王) ���(���)

中京法学��巻3・4号 (����年)���(���)

第9表事件後,当局の事件原因についての見解比較

報告者・件名

事件

原因

列記

の要

約出

(台湾軍司令部)

「霧社事件史」

①「蕃族ハ剽悍ニシテ闘争ヲ好ミ且伝来ノ迷信ニ依リ吉凶禍福等極メテ簡単ナル日常ノ事象ニ関

シテモ馘首闘争ヲ敢テスル奇怪ナル習癖ヲ有シ一度其性癖勃発シ更ニ群集心理ノ之ニ雷同スル

ヤ意外ノ結果ヲ惹起ス」

②「建築材料運搬ノ苦痛並賃銀支払遅延ニ対スル不平」

③「蕃婦問題」-ホーゴ社蕃丁「ピホサッポ」ハ少年ノ頃ヨリ性質狡猾ニシテ官命ニ従順ナラス」,

又,「ピホナウイ」カ素行常ニ治マラス家庭不和ニシテ妻ハ之カ為縊死スルニ至リ社衆ノ信用

ヲ失フコト甚シク自棄的態度トナレリ」

④「マヘボ」社頭目「モーナルダオ」ノ反抗心-同氏は「性凶暴傲岸ニシテ争闘ヲ好ミ十七,八

歳ノ頃ヨリ剽悍ヲ以テ附近ニ名アリ」,また,吉村殴打事件に「我ニ危惧シ居リモノ」

春山明哲編『台湾霧社事件

軍事関係資料』11頁。

(拓務省管理局長生駒高常)

「霧社蕃騒擾事件調査復命書」

今回ノ事件ハ霧社蕃ノ先住民族トシテ官憲ノ保護干渉ヲ嫌フ沿革的反官気分ト出役其ノ他蕃人ノ

不平ヲ生ズル諸因,平和ニ慣レテ生ジタル理蕃行政ノ間隙並「モーナルダオ」ノ性格,境遇等ガ

交錯シテ一種ノ反内地人的雰囲気ヲ生ジ更ニ小学校寄宿舎材料運輸ニヨリテ一層高メラレ遂ニ吉

村巡査殴打事件,「ヒポサツポ」ノ自棄的境遇ニヨリテ点火ヲ見ルニ至リタルモノ」

同上,319頁

(拓務省管理局長生駒高常)

「霧社事件調査書」

賦役回数の増加,蕃婦関係とマヘボ社頭目モーナ・ルーダオの不平にある。

部分的原因とし,蕃婦の差別待遇,無理解に基く拘禁,ピホサツポ事件によるものである。

一般原因とし出役問題,総督府の人事問題及び郡警分離問題がある。

現代史資料二二『台湾』二

692頁~703頁

(台湾総督府警務局)

「霧社事件誌」

①蕃人の本性

②マヘボ社頭目モーナ・ルダオの反抗心

③バツサオ・モーナの家庭的不満

④吉村巡査殴打事件

⑤警察官の規律の弛緩

⑥警察官の蕃婦妻帯問題

⑦事件前の諸工事

⑧霧社小学校寄宿舎建築工事

⑨不良蕃丁の画策

⑩本島人の策動

⑪人事行政の欠陥

前掲春山明哲編『台湾霧社

事件軍事関係資料』368頁

~382頁

(台湾総督府)

「霧社事件の顛末」

①建築材料運搬の苦痛並に賃銀支払遅延に対する不平

②「ピホサツポ」並に「ピホワリス」等の画策

③「マヘボ」社頭目「モーナルダオ」の反抗心

④「蕃婦の不遇」及び吉村殴打事件

前掲現代史資料二二『台湾』

二585頁

~587頁

(台中州能高郡警察課)

「霧社事件ニ関スル概況説明書」未記載

を貸すことはおろか、彼等は、依然として

蕃人」

と呼ばれ、行政区域であった街庄にも編入されず、電気鉄条網

で厳重警戒する隘勇線に囲まれたまま、統治者が設けた差別的城壁の影に暮らしている。彼等は、「

峻厳なる弾圧

を加ふる等恩威併ひ行ひ寛厳宜きを制し以て王化の普及に努力せざるべからず」

非人間である」

、転任する「

蕃務」

警察官の後に、ぞろぞろ連れられる険しい山道の荷物運搬夫でもある。かれらは、来訪する偉い人物の前に民族舞

踊披露をするための

人類活標本」

でもあり、人類学者の

生きた化石」

にすぎない。

いずれにしても霧社蜂起事件は、統治者の心底からの

蕃人」

蔑視、人間である

蕃人」

の意志を無視している

理蕃」

政策の根幹にたいし蜂起が惹起されたことを指摘しなければならない。

(

4)

蜂起

蕃」

への復讐

マヘボ社の牙城と言える洞窟は、既に

味方蕃」

が攻め込んだ。蜂起

蕃社」

の指揮者であるモーナ・ルダオが

未だに行方不明であるが、蜂起

「蕃社」

からのまともな抵抗がなくなった。霧社蜂起

蕃社」

を討伐するための軍

隊と警察隊も解隊したが、蜂起

蕃」の取調と復讐は、いまだに終わらない。

アウイヘッパハは、元霧社蜂起

蕃社」の少年であった。討伐軍と激戦後、食糧不足に苦しんだあげく、こっそ

り下山し、厳しい取調と復讐を生き抜いたアウイヘパハは、戦後に、当時の取調を次のように生々しく物語った

(

�)

(

前略)

男たちは、必ず尋問をうけた。子供でも同じだ。(

中略)霧社では順番に聞かれた。やったか、と聞く。正直

に、やったと答えた者は、右側へ行けと言われる。今の霧社郵便局のところに本部があって、その後ろに行か

せられた。すぐ殺しているらしい。ダアン、と音がする。刀の試し切りにしていて、穴に落ちるようになって

外地統治と警察官吏 (王) ���(���)

いるらしい。

二番目のパワンナウイは、中央山脈へ狩りに行ったと言って、頑張った。左側へ行け、と言われた。助かった

のだ。

三番目と四番目の泣き声がしたかと思うと、ダアン、と音がして、静かになった。

そのきびしい取調の結果、「

日本軍に投降してから殺された者の数は、戦場で戦って死んだ者の数より、はるか

に多かった」 (

�)

と証言した。降参した蜂起

蕃人」

への処分は、銃殺だけではない。

戦後、元霧社分室附近の建設工事現場で、二〇年あまりの歳月を経、針金と三〇数体の白骨死体が土中から姿を

現した。これについて、霧社蜂起事件が発生した当時、ホーゴー社の少年で、生き抜いて生存した高永清の回想に

よれば、「

死を恐れて早々降参した者を次々と逮捕して八号鉄線で両腕を縛り、足趾骨間から四寸釘を打込んで檜

板の上に人体を固定し」 (

�)

と当時の虐殺を証言した。

また、事件発生の前年の昭和四年末、総督府の調査では、霧社一一社の「

蕃」

人口総数の二一七八人のうち、パー

ラン、トーガン、シイパウ味方三社の数を除くと、霧社蜂起

蕃」

人口総数が一四二五人であった

(

�)

。これに対し、

霧社蜂起を鎮圧した後、総督府が討伐中、戦死、飛行機による爆弾死、砲弾死、「

味方蕃」

による馘首、縊死、銃

自殺、刀自殺、病死、焼死者に分け、蜂起

蕃」

側のマヘボ、ボアルン、ホーゴー、ロードフ、スーク、タロワン

等の六社の

凶蕃戦病歿者調」

によれば、上記の蜂起

蕃人」は、合わせて六四四人が死亡したことが判明した

(

�)

つまり、事件後七八一人が生存しているはずの蜂起「

蕃人」

は、翌年四月、第二次霧社事件直前、ロードフ及びシー

パウ収容所に収容された

保護蕃」

こと

蜂起蕃」

人数が合わせて五一四人しかおらず

(

�)

、この間の二六七人の

中京法学��巻3・4号 (����年)���(���)

起蕃人」

が消えた。

このように、蜂起

蕃」

が降参したとしても、当局の厳しい取調中、ひそかに

処分」

、虐殺された事実が明ら

かになった。

さて、翌年四月二五日未明発生した味方

蕃」

人が

保護蕃」

を収容する収容所を襲撃する事件により、「

保護

蕃」

一九五人が殺害され、一九人が自ら縊死し、合わせて二一四名死亡し、「

保護蕃」

の人数は、僅か二九八名し

か残っていなかった。本来ならば、収容所に隔離され、「

蕃務」

警察の厳しく監視している収容所にあり得ない悲

劇の発生は、警備する

「蕃務」

警察官の責任は重い。ましてやこれは、能高郡警察課長宝藏寺と小島源治巡査部長

らの暗黙的な示唆で行われた悲劇は、許せない犯罪である。

しかし、「

保護蕃」

への復讐は、まだ終わっていない。同年一〇月一五日挙行された

反抗蕃」

帰順式場に、総

督府は、蜂起の参加者と認定された三九人の

蕃人」

を逮捕し、それぞれ一等を三年、二等を二年、三等を一年

の留置処分としたが、三八人の留置者

(�)は、一斉

気候及食物の変化と運動不足に起因する胃腸障害、脚気又はマラ

リア等に依」

留置場に於いて病死を遂げたり」 (

�)

と、無事出所者が一人もいなかった。

(

5)

事件後における総督府人事と

理蕃政策大綱」

霧社事件は、総督府にも大きな変動ももたらした。昭和六年一月一六日、同事件の責任をとり、石塚総督が依願

免官され、関東庁長官太田政弘が石塚総督の後を継ぎ、次期台湾総督を命じられた。この人事変動に伴い、翌日、

総務長官人見が依願免官され、兵庫県知事高橋守雄が人見の後をうけ、総督府総務長官となった。続いて、同月二

〇日、総督府警務局長石井保と台中州知事水越幸一も免官され、佐賀県知事井上英と高雄州知事太田吾一がそれぞ

れ総督府警務局長と台中州知事に命じられた。この一連の総督府中枢部の人事異動を受け、総督府、台中州の警察

外地統治と警察官吏 (王) ���(���)

関係課長クラスも異動が行われた。昭和五、六年の総督府、台中州警察課長らの人事異動は、次の第��表に示す。

つまり、昭和六年における人事異動は、総督、総務長官、警務局長及び台中州知事だけの人事異動ではなく、総

督府乃至台中州の警察課長クラスも人事異動の対象となったことが分かった。つまり、これは、大正八年以来、慣

例化した総督の更迭による総督府局長乃至事務官等の中枢人

事だけの変動と異なり、台中州の警察部課長までも更迭され

たため、明らかに霧社事件の責任に係わっている人事異動で

あろう。

この

蕃務」

に係わる人事の更迭に示したように、総督府

には、窃かに

蕃地」

政策の見直しをする動きが見られる。

同年一一月一九日、新任総督府警務局長井上英は、各州知

事庁長宛に次のような通牒を発し

(

�)

(

前略)

蕃地勤務警察官の選任配置に関しては理蕃の重要性に鑑

み平素最善の注意を払はれつつありと信ずるも従来因襲

の久しき今尚人事の適正を缺き殊に成績不良者にして蕃

地に配せられたるものあり加ふるに監督の方法徹底を缺

き蕃地勤務警察官通有の弊習とも称すべきものにして之

中京法学��巻3・4号 (����年)���(���)

第��表 総督府, 台中州警察官僚異動比較表(昭和5・6年)

昭和5年9月現在 昭和6年7月現在

総督府 警務局長 石井保 警務局長 井上英

衛生課長 石井龍猪 衛生課長 森田俊介

保安課長 山内継喜 保安課長 小林長彦

警務課長 木原圓次 警務課長 藤村寛太

理蕃課長 森田俊介 理蕃課長 石川定俊

警務部長 三輪幸助 警務部長 福田直廉

台中州 警務課長 宮尾五郎 警務課長 伊藤英三

保安課長 宮尾五郎 保安課長 空席

衛生課長 鈴木外男 衛生課長 鈴木外男

高等警察課長 山下義清 高等警察課長 谷山静三

出典:本表は、 台湾総督府総督官房 『台湾総督府職員録』 (昭和5年と昭和6年)と台湾総督府 『府報』 から作成。

が�正を見ざるもの尠からず為に蕃情に対し甚だしき悪影響を与ふるものあるは甚だ遺憾とする所なり就ては

今後蕃地勤務警察官の配置には一段の注意を払ふと共に蕃社受持の駐在所に対しては可成独身者配置を避け万

止むを得ざる場合には能く其の人物を考査し周到なる監督を加へ

(後略)

と、「

蕃地」

に勤務する警察官の選任方針の是正を示した。

続いて、翌月二八日、総督府は、各地方長官宛に

理蕃政策大綱」

を通達した。いうまでもなく

太田総督以下

当局鋭意理蕃行政の再検討を加へ」

、起案したこの

理蕃政策大綱」

は、霧社蜂起事件の教訓を生かした大集成で

ある。次は、同大綱の主旨である

(

�)

一、理蕃は蕃人を教化し其の生活の安定を図り一視同仁の聖徳に浴せしむるを以て目的とす。

二、理蕃は蕃人に対する正確なる理解と蕃人の実際生活を基礎として其の方策を樹立すべし

三、蕃人に対しては信を以て懇切に之を導くべし

四、蕃人の教化は彼等の弊習を矯正し善良なる習慣を養ひ国民思想の涵養を致し実科教養に重きを置き且つ日

常生活に即したる簡単なる知識を授くるを以て主眼とすべし

五、蕃人の経済生活の現状は農耕を営むを主とすと雖も概ね輪耕作にしてその方法極めて幼稚なり将来一層集

約定地耕を奨励し或は集団移住を行ひ彼等の生活状態の改善を図ると共に経済的自主独立を営ましむるに

努むべし又蕃人に関する土地問題は最も慎重なる考慮を払ひ其の生活条件を圧迫するが如きことなきを期

外地統治と警察官吏 (王) ���(���)

すべし

六、理蕃関係者殊に現地に於ける警察官には沈着重厚なる精神的人物を用ひ努めて之を優遇し漫りに其の任地

を変更せしむるが如きことなく人物中心主義を以て理蕃の効果を永遠に確保するに努むべし

七、蕃地における道路を修業して交通の利便を図り撫育教化の普及及徹底を期するに努むべし

八、医療投薬の方法を講し蕃人生活の苦衷を軽減すると共に依て以て理蕃の実を挙ぐるの一助たらしむべし

つまり、「

霧社事件」を受け、総督府は、「

蕃人」

の弊習改良、農耕生産の改善、道路の修築による交通の改善及

び医療の改善という

蕃人」の撫育教化と生活安定の重視を

理蕃」

の政策とし、「

理蕃」

政策上における重大な

政策変化を示したわけではないが、霧社蜂起事件の教訓から

理蕃」

警察官の選任と人事上の安定及び

蕃人生活

の苦衷を軽減する」

という政策方針への転換姿勢を示した。

第三節

総督府警察官の生活の諸相

総督府警察官の人間関係

(

1)

警察官の郷土意識

総督府は、発足してまもなく、総督府及び各官署、地方県庁に配属した文官官僚の間で、官庁の縦割りによる結

んだ上下級関係以外に、学校別、出身別、血縁別の横割りの人間関係を形成した。総督府官僚に出身校別に、東京

中京法学��巻3・4号 (����年)���(���)

帝国大学、京都帝国大学、札幌農学校

(

後に北海道帝国大学)

、中央大学、日本大学等の大学別の集団がある。中

でも、総督府高等文官において大半を占めている東京帝国大学法科大学卒業生、いわゆる

赤門組」

は、赴任して

まもなく、「

一番早い時には六箇月位で高等官に昇任したもの」 (

�)

もおり、出世は早かった。特に大正期半ばから、

帝大出の有資格者、野口、浅野、今川と云ふ若い人々が属から振り出すことになり、本島官界に一生面を開いた

ものであります。爾来有資格者採用が年々殖へ、多い時には一年に十二名も採用した」 (

�)

。東京帝国大学法科大学卒

業生が総督府に直接任用される事例が増加することに伴い、総督府、各官署、及び地方官庁にわたる東京帝国大学

卒業生の進出が目立っている。このうち、総督府本府には、東京帝国大学出身に、総督府中央研究所には東京帝国

大学出身と京都帝国大学出身に分けられ、総督府医院では東京帝国大学派、京都大学派、内地医専派と台湾医専派

という学閥、各学校では高師出身者と大学派という学閥がそれぞれ形成された

(

�)

また、出身別の同郷会組織には、「会員相互ノ親睦ヲ計リ福利ヲ増進シ併セテ会員並ニ家族ノ慰安ヲ計ルヲ以テ

目的」 (

�)

とした

台湾在住香川県人会」と、山口県出身及び縁故者を中心とした

山口県同郷会」

、及び同主旨で結

成した

福井県郷友会」

等の県別に結成された各種な同郷会があった。領有初期における総督府官僚中に東北出身

者が多いことはともかく、昭和期にも、郷土関係で結ばれだ郷土閥も総督府人事に見られる。このうち、「

山形県

は地理的関係もあるだらうが、本島に活動してゐる人は極めて少数」

だったが、太田総督の就任を契機とし、総督

府高等官に秘書官小林鉄太郎の外、文教局長大場鑑次郎、逓信部庶務課長鶴友彦、新竹郡の警察課長庄司源吉等の

同県出身者が出てきた

(

�)

。このほか、ゴルフ、テニスなどの趣味で結成されたゴルフ倶楽部、テニス同好会のような

スポーツ倶楽部と、業主別に結成した弁護士会、警察協会、床屋協会等の組織もある。

血縁関係、人脈により結ばれた総督府官僚には、領有初期における樺山総督とその甥である殖産局長山口文蔵と、

外地統治と警察官吏 (王) ���(���)

中村財務局長とその実兄である鈴木宗言覆審法院長があり、大正期において、田総督家族等がある。このうち、総

督府には、在任中及び台湾を去った後も、その影響力が相当残されている後藤民政長官が中心とした

後藤閥」

挙げられる。薩長藩出身でもない東大卒でもない後藤は、台湾に赴任しているうち、長州出身の軍人児玉総督と親

密な関係を持ちながら、総督府事務官祝辰巳・長尾半平・長谷川謹介・鈴木宗言・中村是公等の東大卒のキャリア

組から信頼を得、後藤民政長官を中心とした

後藤派」

が形成された。明治三九年、後藤が満鉄総裁に赴任した後

も、総督府顧問として総督府上層部人事に君臨し、その配下の子分である中村、祝をそれぞれ満鉄副総裁と民政長

官に就任させた。

ところが、巡査練習生として渡台し、学術考査試験または総督府警察官練習所甲科卒業により出世し、警部補か

ら警部へ昇進した総督府警察官すなわち

ノンキャリア」

らにとっては、東大、京大等の学閥、高等文官向けのゴ

ルフ倶楽部は、無縁な存在である。地方警視と退職間近の郡守のポストへの出世の夢を持ちながら、「

蕃界」

警戒

線、または言語も不通な辺鄙な地方に配属された彼等は、定期的に開いた県人会への出席さえも不可能であった。

前述の

台湾在住香川県人名簿」

(

昭和一四年四月一日現在)

によれば、昭和一四年四月一日現在、台北市にある

本部会員二一九人の内、巡査らの現役警察関係者が二〇人、また台南支部に、一三五名の会員のうち、現役警察関

係者が一三人しか現れていない。これは、当時香川県出身者の大半が花蓮郡吉野村及び屏東郡常磐村に移民するた

ため渡台した農家と、公学校教諭、訓導及び旅館、履き物などの商売人であるためで、総督府高等文官はおろか、

現役警察官なども、数的にそれほど多くないからであろう。

もともと総督府には、台湾との地理関係で、総督府警察官は九州・中国地方出身の警察官が圧倒的であった。

次の第��表は、昭和八年現在、総督府警務局が集計した同府警察官の出身別一覧表である。この表が示したよう

中京法学��巻3・4号 (����年)���(���)

外地統治と警察官吏 (王) ���(���)

第��表 総督府警察官及び関係者出身別統計一覧表(昭和8年現在 単位:人)

区 分 事務官 警 視 警 部 警部補巡 査

警 手 計 合 計部 長 甲 種 乙 種 計

北海道 �� �� �� � � �� � �� �� �� ��

台 湾 �� �� �� � � ��� ��� �� ���� �� ��

東北地方

山 形秋 田福 島宮 城岩 手青 森

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関東地方

千 葉茨 城栃 木群 馬東 京神奈川埼 玉

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中部・北陸

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近畿地方

滋 賀京 都兵 庫大 阪奈 良和歌山三 重

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四国地方

香 川愛 媛徳 島高 知

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中国地方

岡 山鳥 取島 根山 口広 島

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九州地方

福 岡長 崎佐 賀熊 本鹿児島宮 崎大 分沖 縄

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合 計 � �� ��� � ��� ��� ���� ��� ���� ����

出典:本表は、 台湾総督府警務局 『台湾の警察』 (��年) により集計したものである。

に、昭和八年現在、総数が一〇一二三人の総督府警察官中に、台湾を除けば、鹿児島、熊本、福岡を代表とする九

州地方の出身者は、三五三六人となり、総数の三四・九%を占め、巡査と警手と何れも他府県の出身者より圧倒的

に多い。いうまでもなく、これは、地理と交通の便によるものだと考えられる。このうち、警察官出身の多さは、

一時総督府首脳部の人事の更迭により左右される時があった。例えば、佐久間総督の任期内には仙台出身の警察官

が多い。これは、「

故佐久間総督は純仙台人ではないが、二師団長をした関係上仙台の地を第二の故郷として居る

が、その佐久間総督時代は大に仙台人を移入したものでその当時の残党がいく分あるとしても他は全然別個に渡台

した者のみだ、何にしろ佐久間総督時代には、師団の関係もあったらうがドシドシ警察官や司獄官に到る迄移入し

たものだった、そんな縁故関係から今でも警察畑には仙台人が多い」 (

�)

との背景があった。しかし、これは、あくま

でも一時的なものであり、総督府警察官は、全体的に依然として九州地方出身者が大勢を占めていた。

(

2)

総督府警察官練習所と警察官

練習所四箇月の生活、仮に教官の講義が如何に拙くとも、本人並に、直接の監督者と云はず警察界一般の為め

に、決して無益爾ならざるを信ずる。練習所四箇月の教養に堪えざるものの如きは、実務につきても到底一人前の

巡査にはなり得ないであらう」 (

�)

。これは、かつて総督府警察官練習所乙科練習生として入所した台北州警部補中野

厳の総督府警察官練習所の入所感想文一節として、鷲巣敦哉の文に引用されたものである。乙科練習生として総督

府警察官及司獄官練習所に入所した総督府警察官らは、まるきり軍隊式訓練を強いられた超多忙な、且つ窮屈な練

習所生活中に、「

朝夕起居を共にするとは云ふてみても、僅か四箇月余の短時日だ。そこに何等か特徴か、胸憶に

銘ずる出来事でもない限り、例へ同期生だと云ふて見た処、名前さへしっかり頭に浸み込みことの出来ない」

、四

箇月寝食を共にした同期生がそうであったし、ましてや

班主任が誰であったかを、今も思ひ出し得ない位」 (

�)

とな

中京法学��巻3・4号 (����年)���(���)

り、短時間のうちに円滑な人間関係を結ぶわけにはいかない。

一方、総督府が毎期募集した乙科巡査練習生は、必ずしも一府県に限定しておらず、ほぼ全国府県に及んでいる。

例えば、明治三六年七月二八日、総督府第六回警察官部乙科練習生の卒業者八六人のうち、岡山県と広島県出身者

がそれぞれ一二人、一一人となり、最も多く、大阪、鹿児島県がそれぞれ六人と四人がその次となり、その他府県

が一人から三人となり

(

�)

、一府県に集中するわけではなかった。

その一方、警察官練習所の甲科練習生として入所し、一年間寝食を共にした総督府現役警察官である巡査、警部

補の同期生、警察界で最も親しいはずであった甲科練習生として卒業した警察官らは、まともな郷土閥と学閥まで

が結成できなかった。彼等は、あくまでも

特進組」

の連中に属し、出世の限界として各県庁の課長クラスと郡守

までであり、総督府高等文官乃至総督府統治の中枢までの進出はできない。ましてや、総督府統治の最前線に立っ

た警察幹部らが、流行病に罹患され、「

匪徒」

討伐、「

蕃界」

隘勇線に倒れたり、辞職が続出されている中、出世の

ため頑張っている連中の数は、僅かであろうと容易に考えられる。大正一一年三月一九日、かつて総督府警察官第

二五回甲科練習生として卒業した鷲巣は、昭和九年、その著作

警察生活の打明け物語」

に、同期入所した甲科警

察官らの状況について、次のように回顧し

(

�)

入所したとき、司獄官を交へて五十二名

[

警察部甲科練習生が四五名、司獄官甲科練習生が七名―筆者注]

あったものが、爾来十五年、不幸病魔に侵されて、任官間もなく死亡せられた人は、平林、深谷、小田、長谷

[

平林長行

(

入所時点花蓮港庁巡査)

、深谷今介

(

入所時点台北州巡査)

、小田謙吉

(

入所時点台東庁巡査)

長谷川節義

(

入所時点台中州巡査)

を指す―筆者注]

君数人に及ぶし、病気で辞職した人には村上、児玉、今

外地統治と警察官吏 (王) ���(���)

泉、菅野[

村上美次郎(

入所時点台南州巡査)

、児玉浩気(

入所時点同州巡査)

、今泉朝七(

入所時点同州巡査)

菅野義衛

(

入所時台北州巡査)

を指す―筆者注]

私等七八人もあらう。その他の理由で、職を離れたものは二

十名に近く、既に、警察界に残留せるもの当時の三分の一に過ぎぬが如くである。辞職はしても、台湾の土地

は離れかねると見えて、安田

[

清三郎―筆者注]

君の交通局、山崎

[

角次―筆者注]

君の税関、前田

[

民三―

筆者注]君の宜蘭郡、その他大部分は尚踏み止って居る

と、大正一一年三月、卒業した後の鷲巣を始めとする四五名の甲科警察官の状況を克明に記録した。

このような台湾における厳しい現実において、総督府警察官練習所の甲科卒業生の連中らは、到底警察官練習所

閥」

のような勢力を形成できなかった。

総督府警察官の生活史

(

1)

寂しい

蕃務」

総督府警察官たち

(

前略)

俺達も、村に帰れば之で立派な地方長官だよ。今度何十日振りで、帰ると云ふ通知でもしやうものなら、台車

の発着所には、保正甲長は勿論、部下の巡査諸君並に一家眷属が列を為し迎へてくれる。また、田舎で、何か

酒宴でも開かれやうものなら、いつも上座はこっちもので、祝辞の一席位はつきものだ

(

�)

中京法学��巻3・4号 (����年)���(���)

これは、鷲巣がその論文に収録された総督府練習所に入所しているある巡査部長の放言録の一節であった。折し

も巡査部長は、総督府警察官の階級序列において、高等文官相当の警視と、判任文官相当の警部、警部補の下に、

乙種巡査と甲種巡査の上に置かれるものであり、官等は、判任待遇者に過ぎない。ところが、かかる警察万能の時

代に、州、郡役所の警察部長や警察課長の巡回を迎えるため、予め沿道の清掃励行で出迎え準備もし、まるで皇族

として待遇

(

�)されるほど丁寧に出迎えさせた。ましてや村民に

大人

[

ダイジン]」

とされる最も身近な

地方長官」

巡査は、

どれほど威張っていたか想像できよう。

その一方、本島人前に濶歩し、威張っている総督府警察官らは、殆ど孤独な毎日を送っている。これは、総督府

警察官が配置された勤務地によるにほかならない。

ここに、大正九年、総督府地方官官制改正がされた直後、改正官制により新に設置された台中州管下の警察官配

置状況を見ることにしたい。

大正九年、官制改正により、新しく設置された台中州は、台中市、大屯郡、豊原郡、東勢郡、大甲郡、彰化郡、

員林郡、北斗郡、南投郡、新高郡、能高郡、竹山郡を擁し、台北州、台南州、新竹州、高雄州の中で大きな州となっ

た。この地方区画の変動に伴い、警察の監視区及監視区下に置かれる派出所、駐在所の位置を改めて規定する必要

があるため、同年九月一日、同州は、知事加福豊次の名を以て、州訓令第四号と告示第三号を発し、州下警察監視

区、その監視区下に置かれる派出所

(

平地)

、駐在所

(蕃地)

の名称、位置及び受持区域を規定することとなった。

その旨の訓令と告示は、紙面の関係から割愛せざるを得ないが、要するに、「

蕃地」

、「

蕃界」

に配置する警察官派

出所、駐在所及びその警察官は、同州警察官派出所と警察官中の三分の一あまりを占めていた。前述の訓令によれ

ば、同州街庄こと平地に一七一個所の警察官派出所が配置されることに対し、「

蕃地」

、「

蕃界」

に警察官派出所、

外地統治と警察官吏 (王) ���(���)

駐在所、分遣所、警戒所を一一〇個所設置することとなった

(

�)

前述したように、「

蕃地」

、「

蕃界」

に設置される警察官派出所、駐在所が山奥の

蕃社」

にあり、交通は、きわ

めて不便であった。そこで、かつて総督府警察官練習所乙科練習生を卒業し、霧社勤務を命じられた鷲巣は、その

勤務地について

(

�)

霧社から十一二里、サラマオ避難蕃の向ふ岸の新線分遣所

石坂」

が命ぜられた勤務場所だ。途中一泊、慣れ

たものには一日で行けやうが、始めての山途に閉口し乍ら、更に又、其の頃沿道に勤務してゐるた意地の悪い

連中にサンザンにおどかされ、石坂に行ったら、すぐにでも首がなくなる様に言はれ、ビクビクし乍ら漸くた

どりついた。昼尚暗き、サラマオ鞍部の一里もある大森林を、日暮れ近くなってトボトボ歩いて行く事は気持

のよいものでもなかった。その頃、不穏の気配に満ちてゐるたサラマオ避難蕃に備へる我勤務所は、方丈に充

たぬ茅葦の至極お粗末なものでった。

(

中略)

食物は、唯御飯に、手作りの野菜、干物はよい方、高野豆腐が一ぱしのご馳走で、缶詰は監督者の巡視でもな

ければ容易に出ない。作業に疲れて、休憩中に食べるゼンザイの味も、今だに忘れられないものの一つだ。

と述懐し、浮き世を離れた

蕃地」

生活の粗末さを生々しく物語っていた。

むしろ、かかる辺鄙地、「

蕃地」

警察官らにとっては、勤務地の生活の粗末さより、精神的な生活の寂しさに苦

しんでいる。折しも、台湾勤務をするため、「

土人」

と交流できる

「土語」

である福建語、客家語すなわち広東語、

中京法学��巻3・4号 (����年)���(���)

「蕃人」

と会話できる

蕃語」

の習得は、総督府警察官練習所の

必修科目であった。さらに、当局は警察官練習所に語学講習特別

科を設け、警察官らを入所させ、福建語、客家語等の「

土語」

と、

蕃語」を習得させ、そして、語学試験の結果により、等級を確

定し、本給以外に語学手当も支給されることとなった。ところが、

かかる

土語」

、「蕃語」

との語学奨励政策がどれほど効果がもた

らしたか疑問が多い。

例えば、昭和八年、総督府警務局の統計によれば、総督府警察

官の語学試験合格者は次の第��表が示した通りである。

ちなみに、表中の

国語」

は、本島人警察官を対象とした日本

語試験合格者の数であり、「

本島語」と

「蕃語」

の合格者数が内

地人警察官を対象とし、実施した語学試験によるものである。い

ずれにして、昭和八年、総督府警察官に合わせて三一三二人の語

学試験合格者のうち、福建語と広東語である

土語」と、タイヤ

ル、ブヌン、ツオウ、アミ、パイワン、ヤミ族の言語である

語」

の合格者が二二〇四人となっていることが分かった。これは、

同年総督府警部、警部補、巡査の総数である七一五二人のうち、

三分の一弱を占めている。この結果なら、本島人の

国語」

習得

外地統治と警察官吏 (王) ���(���)

第��表 総督府警察官語学試験合格者集計一覧表(明治8年現在)

区 分

本島語 「蕃」 語

合計福

タイヤル

ブヌン

ツオウ

パイワン

警 部 �� �� �� ��� � � � �� �� � �� ���

警 部 補 � � �� ��� � �� �� � � �

巡査部長 � �� � ��� �� � �� � � � � ���

甲種巡査 ��� � �� � ����� � � � �����

乙種巡査 �� �� �� � � � �� �� � �� �� ���

合 計 �� � ����� ������� � ����� �����

出典:台湾総督府警務局 『台湾の警察』 (���年) から作成。

率の向上に合わせ、警察官と本島人との交流、意志疎通は、問題ないはずである。ところが、問題は、語学試験そ

のものである。ここに取り上げたいことは、語学試験の合格の設定基準である。既に記述したように、総督府が例

年行う

「土語」

試験問題は、文章体裁の

土語」

国語」

の対訳が主流であり、つまり、総督府の

土語」

合格

設定の基準が

土人」

との交流を目的としているわけではなく、「

土人」

が官庁に提出した各種の文書、書類の解

読が目的ではなかろうか考えられる。この政策の結果は、総督府警察官が

土語」

に合格したとしても、本島人と

どれほど自由に会話できるか疑問が残っている。

ましてや、地方長官のように、統治者として君臨する総督府警察官らは、敢えて「

土人」

と会話する必要がない。

少なくとも、本来数多くならざる台湾警察官の回顧録と逸話に、本島人、「

蕃人」

との交流記録が見当たらない。

一方、総督府警察官は、内地人との交流は、運動会、同郷会等の集会に限られている模様で、交際もそれほど広

くない。台湾統治五〇年中に、内地人の台湾への集団移入は、東部海岸近くの吉野村、豊田村等の農業移民に限ら

れている。台湾在住の内地人の主流は、総督府官僚、商売人であり、且つ台北、台中、台南及び高雄等の都会に集

中していた。結局、辺鄙地と、「

蕃地」

に勤務した警察官は、まさに統治権を握っている

少数民族」

中の少数で

ある。このうち、昭和六年、霧社事件が発生する直前に、霧社の各警察官駐在所に勤務する内地人警察官の数を見

れば、能高駐在所に五人、眉渓、三角峯、ホーゴーに二人、ムカブーブ駐在所に僅か一人配置された。ちなみに、

霧社分室下に配置された警部補、巡査部長と巡査らは、近年転勤したものであり、半数以上が

蕃語」

不通であっ

(

�)

。このように、「

海抜数千尺、高山重畳、何処を見ても真闇。深夜に小便にでもおきやうものなら、うす気味の

悪い沈黙の下に、木の葉のささやくのにさへ気を配らなければならぬ」 (

�)

処に勤務した警察官の精神的の寂しさが垣

間見られよう。

中京法学��巻3・4号 (����年)���(���)

(

2)

酒食好きの警察官

かかる厳しい環境に勤務した警察官の楽しみは、何だったのだろう。これに関して、かつて総督府警察官経験談

である述懐録に一二言しかいなく、まともな回顧は、管見の限りに見当たらない。恐らく

我田引水」

式の回顧録

が、自分なりの功績を後世に伝えようとしたからこそ、自分の無法と悪事を意図的に

無視」

してしまったのだろ

う。ここに、関連史料をまとめた結果、かつて総督府警察官の

楽しみ」

としては、酒と女性のことが浮き彫りと

なっている。

折しも、総督府職員に対する懲戒辞令に、総督府警察官への懲戒は、最も多かった。このうち、巡査らの過失に

よる警部補、警部の監督不行届責任が問われる処分の次に、警察官の勤務中飲酒、非番中飲酒による上官、同僚、

土人」

への暴言、暴行及び器具損壊のためによる懲戒処分案件が目立っている。

明治三七年一〇月八日、総督府

『府報』

の彙報欄に、総督府は、同月三日、開催された総督府文官普通懲戒委員

会の決議文を次のように掲載した

(

�)

文官普通懲戒委員会ハ深坑庁警部補前田継太郎ニ対スル懲戒事件ヲ審査スルニ

右前田継太郎ハ明治三十七年八月十二日勤務中ニ部下巡査ト会飲シ互に酩酊ノ末巡査大岡義韶ト争論ヲ起シ遂

ニ格闘ヲ為スノ失体ヲ演シタルモノナリ

以上ノ事実ハ本人提出ノ始末書丹野深坑庁長ノ具申書及台湾総督ノ審査要求書ニ徴シ明白ナリトス

右ノ所為ハ文官懲戒令第二条第二号ニ該当スルモノタルヲ認ム依テ同令第三条ヲ適用シ三ヶ月間月俸五分ノ一

ノ減俸ニ処スヘキモノト決議ス

外地統治と警察官吏 (王) ���(���)

この決議文が示したように、総督府文官普通懲戒委員会は、同年八月一二日、勤務中、部下と飲酒をした前田警

部補に対し懲戒辞令を出している。ここに、注目すべきことは、懲戒辞令の当事者である前田警部補に対して適用

された懲戒事由である。もとより

文官懲戒令」

第二条によれば、文官が①

職務上ノ義務ニ違背シ又ハ職務ヲ怠

リタルトキ」と②

職務ノ内外ヲ問ハス官職上ノ威厳又ハ信用ヲ失フヘキ所為アリタルトキ」

、案件の軽重に応じ、

免官、減俸乃至譴責を下すこととなる

(

�)

。つまり、前述の前田警部補の懲戒辞令は、部下と飲酒及び監督不行届責任、

又は飲酒による

職務上ノ義務ニ違背シ又ハ職務ヲ怠リタル」

との事由に適合されておらず、明らかに部下との格

闘による

失体」

を生じた結果である

職務ノ内外ヲ問ハス官職上ノ威厳又ハ信用ヲ失フヘキ所為」

に対する懲戒

処分である。言い換えれば、この懲戒辞令は、勤務中における飲酒という行為に対し、不問とした。

もとより内地では、警察官の勤務中の飲酒行為に厳しい罰則が規定されている。例えば、明治六年一二月、愛知

県は、同県管下の警察官が、次の

「当番出勤ノ時限ヲ過クル者」

、「

不勤届ヲ延刻スル者」

等の行為と、「

誤て制服

器械ヲ損破スル」

、「

休憩中事ニ託シテ割烹店ニ登酒食ヲ喫食スル」

等の行為、及び

巡回中酒楼及ヒ遊里ニ立越遊

宴スル」

、「

局内ニ於テ飲酒又ハ吟声及謡歌スル」、「

局内ニヲイテ喧嘩口論スル」

等の行為に対し、それぞれ、半日

分、一日分、と二日分の罰俸処分を規定していた

(

�)。このうち、警察官が

局内ニ於テ飲酒又ハ吟声及謡歌スル」

為は、「

局内ニヲイテ喧嘩口論スル」

行為と同じく最高罰俸額の二日分の罰俸を受けなければならないとなってい

た。この勤務中の飲酒行為に対し、東京警視庁も愛知県とほぼ同じ罰則を規定した。警視庁が

凡屯営内酒禁ヲ犯

ス者ハ苦使五日、放歌スル者ハ一等ヲ加ヘ苦使十日、酔状明白ナルニ飲マスト偽リ及忿争スル者ハ又一等ヲ加ヘ苦

使十五日」 (

�)

、苦使一〇日の処分と、金が一円五〇銭の罰俸である。これは、当時下級巡査の月俸六円の六分の一に

中京法学��巻3・4号 (����年)���(���)

相当し、愛知県警察より相当痛手の処分であろう。

この懲戒辞令が示したように、内地警察官の罰則と対照的に、総督府当局は、警察官の飲酒、特に勤務中の飲酒

行為を黙認したようである。それどころか、管内巡回をしている警察課長、警部らは、慣例的に酒宴に招待され、

遠路態々巡視をして来られるご苦労に対し、人並に一杯差上げることが罪悪とも考へないし」 (

�)

、ましてや

古い巡

査の人達の中には斗酒尚辞せざる豪のものや、兎角一杯気分で尻を捲くり兼ねない巡査」 (

�)

らに

遭遇」

しても、見

て見ぬ振りをしても何も不思議がなかろう。

総督府がこの警察官の勤務中飲酒を見て見ぬ振りをする傍ら、「

蕃地」

、「

蕃界」

に駐在する警察官の買春行為、

又は女性との関係が流行していたようである。かつて総督府

蕃務」

警察官等を経験した大沼衛は、その述懐録で

ある

忘れられた日本人』

に、人里離れた山奥の

生蕃人」

の住む処に勤務した独身警察官の私生活史に触れてい

る。ここに、一節を抄録することにしたい

(

�)

。(

前略)

私は、かつて新竹州竹南部の蕃地との境界線近くの派出所に勤務していたことがある。そこには、毎日のよう

に蕃地入山を願い出る台湾女性の姿があった。彼女たちの入山理由は、蕃地勤務の友人を訪問するというもの

だった。行き先も氏名もはっきりしているので、これを許可するのは何の不思議もない。それに私とてまった

くの朴念仁ではない。遠く故郷を離れ、しかも人里離れた山里の蕃地で、生蕃人を相手に身に迫る危険を感じ

ながら孤独に耐えている同僚や先輩のことを思えば、彼女たちの願い出をなぜ拒否することができよう。それ

どころか、わが身を危険にさらしてまで蕃地の警察官を訪ねようとしている台湾女性のけなげさに胸に打たれ

外地統治と警察官吏 (王) ���(���)

る思いだった。

(

中略)

だが、彼女たちは、いわゆる一夜妻にすぎない。ひと月ほど蕃地に留まり、洗濯や炊事、もちろん夜の勤めも

十分に果たして彼らを満足させ、報酬をもらって下山してくる。(

中略)

その光景は、ほほえましいものだっ

た。これは、蕃地勤務者のみが知る一つの秘話といってもよいだろう。

実は、これが秘話であるわけではない。当時、台北、台中、台南を始めとする都会には、公設の公娼妓館、楽座、

貸座敷の娼妓、酌婦、芸者のほか、私娼妓、季節的に全島を渡り歩く

娘子軍」

らも暗躍している。淡水のある遊

廓街だけで、沿道の二〇軒以上の公娼妓館と、確認もできない暗躍する私娼妓館があったという。折しも、父なし

子供でも、「

子供の父親が内地人であった場合には、その喜びも倍増するものだった」 (

�)

時代に、かかる遊廓界の供

給過剰の激しい競争中に、高等文官を始めとする裕福な内地人警察官を含む総督府文官官僚らは、貸座敷、芸者、

娼妓等の遊廓界で大人気者であることは、想像も難しくなかろう。

かかる警察官の公然の買春が、純粋な私人的な行為であるならば、「

蕃務」

警察官と

蕃社」

頭目、勢力者の娘

又は妹との

婚姻」

は、当局からの公的な行為といってもよいであろう。

周知のように、「

蕃情の不穏打続き、蕃地の擾乱絶へざる為め、当局に於ては窮余の策として、有為なる職員に

対しては、受持部内の頭目、勢力者等の娘を妻として迎へしめ、以て蕃情の収拾を策したる」

とし、最初、南投庁

から、「

蕃務」

警察官の

蕃婦」

妻帯奨励策を実施した

(

�)

。この

「蕃情」

収集から、相当の成果を収めた総督府は、

当初の南投庁から周辺の

蕃務」

警察官へも広げた。ところが、当時、内地の戸籍法が台湾に適用されていないた

中京法学��巻3・4号 (����年)���(���)

め、内地人と本島人の親族関係は、法律上認られない。ましてや、「

未文明化」

とされた

蕃人」

女性との関係は、

法律上の有効な婚姻として認められない。このため、かかる警察官の

妻」

として迎えたのは、法律の保証・保護

もできない内縁妻に過ぎない。そして、実際上にも、かかる当局の公的な意図に結んだ内縁妻は、その夫である警

察官が転任、又は内地帰還をした後、殆ど遺棄された。このうち、既婚者、所謂家族持ちとして単身赴任をした警

察官が

蕃人」娘を

妻」

として迎える事例もある。しかし、本稿が見た資料の限り、かかる警察官と

蕃人」

との

婚姻」

関係を結んだ事例は、数的にそれほど多くなかった模様である。例えば、霧社事件が発生した昭和五

年一二月の時点で、判明した限り、マヘボ駐在所勤務をした巡査部長近藤儀三郎と同社総頭目モーナ・ルーダオの

妹であるテワス・ルーダオ、霧社分室主任佐塚愛祐警部と白狗

蕃」

社頭目の娘であるヤワイタイモ、マレッパ駐

在所の巡査下山治平とカムジャウ社勢力者であるリットク・ノーミンの娘及び下松巡査部長とサラマオ社頭目ユー

ミン・ワタンの娘との数組

結婚」事例しかない。なお、一旦捨てられた警察官の内縁妻、「

蕃人」

婦人とその子

供は、夫である警察官らに何らかの仕送りと世話をうけていた。例えば、前述の下山巡査の子供である下山一の述

懐によると、「

父は俸給を母に残していった」、なお、下山が下山一(

後に林光明と改名)

の結婚について相談に乗っ

てくれたり、国籍の変更も手伝ってくれたという

(

�)

、元総督府巡査であった下山が我が子へ愛情を込めていた姿が垣

間見られよう。

結局、かかる

婚姻」

に巻き込まれた

蕃人」

女性、その子供はおろか、当事者である総督府警察官も、総督府

に掛けられた政略

婚姻」

の犠牲品となっていた。

(

3)

警察官の家族

男性天国と言われる総督府警察官は、島内治安の回復に伴い、家族連れが多くなった。もとより領有初期におい

外地統治と警察官吏 (王) ���(���)

て、島内の内地人は、成年男子が適齢女子より圧倒的に多かった。このうち、未婚者はもとより、既婚者警察官で

も、かかる

匪徒」

蕃人」

による被害が頻発した統治初期においては、家族と別れ、単身赴任をするケースが

多い模様である。島内治安の回復に伴い、警察官の家族連れが多くなった。

かかる単身赴任現象は、いつ頃から減少しはじめたか、適切な資料が見つからないため、明確にできないままと

なっているが、一応大正期から、警察官の家族連れ、所謂帯妻者警察官が増加していると考えられている。その理

由としては、①厳しい討伐と勧降による

匪害」

蕃害」

の減少による治安の回復、②大正三年ごろから、第一

次世界大戦との背景とした、内地の物価暴騰、及び戦後における経済不況による生活の困窮と対照的に、台湾では

物価が割合に安定していたこと、③総督府の警察官家族手当の支給、子女教育手当も支給するという台湾定住促進

政策によるものではなかろうかと推定している。

かかる警察官の家族連れの増加は、山地であった霧社にも見られている。昭和五年一一月現在、すなわち霧社事

件が発生する直前、霧社分室管下の二四個所の警察官駐在所のうち、合わせて六六名の内地人警部、警部補、巡査

部長、巡査といった警察官が配属されていた。このうち、判明できた限りで、二名の内縁妻関係者を含み、合わせ

て四一名の警察官が家族連れで、山地で家族生活を送っている。当時、霧社には、郵便局、旅館、料理店、銭湯屋

等の公共施設が整備されたうえ、内地人子供向けの霧社小学校も既に開校され、家族生活の環境が整えられている。

さらに、霧社事件後、台湾総督府は、事件が総督府警察官と

蕃婦」

関係の不条理を事件の一因としているが、実

際上、既婚者警察官の採用を奨励していたこともこの警察官家族連れの増加の一因である。

一方、総督府が警察官に対して家族連れに当たる俸給を付与していることもその一因であろう。

もとより明治三三年八月二七日、愛知県会の会議場に、同県警部戸田義三、田中従義及び細谷鈴馬らは、議事参

中京法学��巻3・4号 (����年)���(���)

与の県委員として県会に列席した。翌年度予算中に

酷薄な待遇に呻吟するところの警官の待遇改善に関する」

問案の説明役であった

(

�)

。当時、明治三一年から施行した

巡査看守俸給令」

によれば、内地巡査の俸給は、教習中

の巡査看守には、六円乃至八円の月俸とし、巡査には外地巡査と同じく一級一五円、二級一四円、三級一三円、四

級一二円、五級一一円、六級一〇円、七級九円との七等級を設けた

(

�)

。しかし、当時の調査統計によれば、内地の物

価は、米一石が四円七九銭、大麦一石が二円一八銭、醤油一石が六円五五銭、清酒一石が一二円七五銭であり

(

�)

、警

察官の俸給額は、決して高くなくて、就中、下級警察官は、困窮する生活を強いられている。かかる深刻な状況下

に、前述の愛知県当局は、翌年度の予算増額の一項目として、「

各自の生計を維持し、警察官吏たる体面を保持す

る能はざるに職由せずんばあらざるなり。依て地方経済の程度に於て為し得べき限り、其待遇を厚くせざるを得ず」

同県警察官の俸給平均額を一一円五〇銭から平均一二円に増加する旨の諮問案を県会に提出したのである

(

�)

。当時、

内地警察官の低賃金は、決して愛知県だけのものではない。首都である東京でも、「

巡査は等外といって、その地

位はきわめて低いものであった。したがって判任官である警部以上とは、地位も給与もはなはだしい差があったの

である。もっとも、当時は極端に官僚的で上に厚く、下にはきわめて薄く、階級が昇るにしたがって俸給も比較な

らぬほど多かった」 (

�)

といわれ、内地全体に巡査の俸給は低かった。

これと対照的に、台湾を始め、朝鮮総督府及び関東州、樺太庁といった外地警察官らは、俸給上において内地警

察官より恵まれている。もちろん、外地警察官といっても、内地警察官と同じ警察俸給令に適用しているため、基

本給においてかわりはない。外地警察官は、内地警察官より余分な手当制度が魅力的であった。就中、台湾総督府

警察官は、俸給令規定以外に、内地警察官にはない精勤手当、子女加俸、「

蕃」

地又は僻地在勤加俸外地在勤手当

があり、家族連れの警察官へは就学子女特別加俸、語学特別手当、勤務による特別手当、下宿手当が支給されてい

外地統治と警察官吏 (王) ���(���)

る。このほか、外地である台湾警察は、在勤加俸も内地警察官より多く、そして警察官初任者は、「

加俸は二十円

とし勤続二年目より二円宛増加支給し三十円に至って止む」 (

�)

、初任者の諸加俸額は、基本給とほぼ同額だった。例

えば、大正一五年八月渡台し、翌年一二月、新竹州巡査に命じられた大沼は、初任の本給額は、四〇円であり、内

地初任巡査と同額であった。ところが、このほか、大沼は、本給加俸、月額旅費、非番出勤手当があり、合わせて

四〇円の加俸手当が支給された。

一方、内地より低い物価は、総督府警察官にとっては魅力的である。昭和一一年、かつて総督府官僚であった井

出季和太は、内地の農業移民として台湾東部花蓮港庁に農業、畜産業を営んでいる豊田村、吉野村、林田村等三村

の農家の前年収支について調査を行った。その結果によれば、昭和一〇年、吉野村、豊田村、林田村等の三村の人

口は、それぞれ一五二三人、八五八人と七五五人となり、合わせて三一三六人であった。同年、三村の総収入は、

それぞれ六五一八三三円、三五八一三五円と四三七〇九三円であった。このうち、経営費を除き、生活費として使

われる三村の金額は、それぞれ一七〇一八一円、九四六九五円と一二八〇四八円になる。この調査に基づき、上記

の三村は、一人当たりの年収入額が、それぞれ四二八円、四一七円と五七九円となり、月あたりでは、それぞれ

三六円、三五円と四八円となっている。さらに、一人当たりの生活費年額は、それぞれ一一七円、一一〇円と一六

九円となり、一人当たりの月額が、それぞれ一〇円、九円と一四円となることが試算できる

(

�)

。これに対し、総督府

甲種巡査の月基本俸額は、昭和八年現在、最低額が三六円、最高額が五八円となり

(

�)

、諸手当を通常の基本給の一倍

に計算すれば、最低額は、七二円と最高額が一一六円となっている。ましてや、「

地方長官」

とされた警察官らは、

蕃人に銃を貸してやれば、帰途色々な肉を持参して呉れて、猪の肉、鹿の肉のサシミ、猿の肉などの馳走にも舌

皷を」

打ち、さらに、「

年の瀬のつまると共に駐在巡査さんの家の押入れには、村人の献納するお酒が山を為し、

中京法学��巻3・4号 (����年)���(���)

裏庭には、足を縛られたアヒルや鶏がウヨウヨして」 (

�)

いたことから、総督府警察官がとにかく内地警察官よりよい

裕福な生活を送っていたことが浮き彫りになる。

本島人の

義愛公」

(

1)

森川巡査とその

義愛公」

へ歩んだ道

一世紀近く前に植民地だった台湾で亡くなった横浜出身の台湾総督府巡査、森川清治郎が

義愛公」

と呼ばれ

る神様となり、いまも台湾各地の廟で庶民の信仰の対象になっている。最近になって森川さんの出身地が詳細

に確認され、「

里帰りしてもらおう」

と七日、信徒らが神像とともに

神様のふるさと」

である横浜を始めて

訪れることとなった。

これは、二〇〇〇年七月七日、「

朝日新聞」朝刊三面で、神奈川地方版の

義愛公の帰郷」

と題とする新聞記事

の抜粋である。

同記事によれば、森川清治郎は、文久元年に原籍地、神奈川県横浜市中区紅梅町一丁目に生まれ、明治三〇年五

月、横浜刑務所看守を辞め、総督府巡査として渡台した早期総督府警察官の一人である。

周知のように、森川の渡台時期は、ちょうど総督府が、専ら内地の現職警察官を募集していた時期であった。森

川が渡台をするまでは、横浜刑務所の看守であった、その体格と性格は、「

長ずるにしたがい、顎から胸にかけて

黒々とした見事なほおひげをたくわえ、小肥りで身長は五尺一、二寸(一五六センチぐらい)

と低いほうだったが、

外地統治と警察官吏 (王) ���(���)

昔かたぎの謹厳な人」 (

�)

であった。恐らく森川の職務が警察官に近く、且つ同氏の「

見事なほおひげ」

の人相により、

総督府巡査として採用されたのだろう。いずれにしても、森川は、台湾赴任をした後、総督府巡査教習所の教習を

経て、巡査として各地を転々とし、明治三二、三年ごろ、嘉義県東石港警察署下に転属した。さて嘉義県東石港警

察署管下副瀬部落

[

現在嘉義県東石郷副瀬村]

警察官派出所の責任者となった森川について、小松延秀がその

愛公と私』

に、次のように語っている

(

�)

森川巡査の日常は治安を守るということだけではなかった。

副瀬村は寒漁村で、住民は半農半漁の生活をしいられ、貧しい暮らしであった。そのうえ、盗賊の横行で人々

は生活の拠りどころを失い、さらに教育施設もないところから、住民のほとんどは無学文盲であった。このた

め農業漁業の生産技術も幼稚で窮状にあえいでいた。

着任後、森川巡査はこの情況を目撃して、副瀬の派出所に隣接する富安宮という廟内に寺子屋のような臨時の

学校を設けた。日本から呼び寄せた長男の真一も、就学適齢期であるのに正規の学校もないために、ここで学

ばせている。

日本から小学校の教科書を取り寄せて、国語は森川巡査が教え、国語以外の学科については教師を招いて勉強

させている。

教育したのは子どもだけではない。大人たちにも日本語を教え、本を読み、字を覚えさせる指導をしている。

これに要する費用は、いっさい森川巡査が自分の月給の中から支出していた。

(

中略)

中京法学��巻3・4号 (����年)���(���)

勉強が終わると、こんどは田畑に出て、住民たちに農耕の方法を教えた。当時、このあたりの農耕技術は未熟

であったために生産があがらなかった。森川巡査は月に一回は住民を一ヵ所に集めて、どうしたら生産があが

るかなど、農耕についての講義をし、さらに鍬をかついで畑に出て、野菜の作り方から肥料のほどこし方まで、

ひとつひとつ実地指導を行なった。(

中略)

このような毎日であったから、住民たちは森川巡査に親しみ

大人、大人」

と神様のように尊崇していた。

また、村で病人がでたと聞くと、森川巡査はすぐその家にとんで行き、病人に薬を与え、重病であれば医者を

呼ばせている。住民たちは貧乏なために治療代が払えないと尻ごみすると

心配しないでいい、医者代は私が

払う」

といって、診療の治療代、薬代などすべて森川巡査が薄給から自弁した。また、食べるものに困ってい

る者には、お金や品物まであたえていた。

ここには、教育、衛生等に全面参与する総督府警察官の像と、心が優しい森川巡査の像が浮き彫りとなっている。

確かに、かかる森川巡査の住民への愛情行為は、村民から尊敬された。

ところが、当時、住民の教育、衛生が警察官の責務とされた時代に、森川巡査は、警察官としてただ成すべきこ

とを遂げただけであるが、住民から神様のように尊敬されたことは、他の数多くの総督府警察官と対照的であろう。

運命を狂わせたのは、まさに森川巡査のなすべき責務の徴税が原因であった。

ちょうど森川巡査が勤務していた頃、「

総督府では、このとき始めて漁業税を制定し、税金を割り当てて負担さ

せることになった。そのため半農半漁の副瀬村も、漁労用の竹筏一隻につきいくらという税金が課せられてきた」 (

�)

しかし、ペストの流行で死者が続出したうえ、暴風雨の被害を受け、食料である芋粥さえ十分食べられない同部落

外地統治と警察官吏 (王) ���(���)

は、信頼深い森川巡査に、納税に耐えられない実情を訴え、税金の軽減を嘆願した。

そこで、村民の信頼を受けた森川巡査は、東石支庁長であった園部龍因の処へ、部落民の困窮を訴え、税金の軽

減を申し出たところ、「

森川巡査が住民たちを煽動して事を起こしたとして、実情の調査もせず、言い分も聞こう

としない。そのうえ非常に立腹して感情的にさえなって、森川巡査を懲戒処分」 (

�)

を余儀なくされた。

住民の税金軽減を願い出て、懲戒処分とされた森川巡査のショックが想像できよう。巡査として着任して以来、

慈愛深く住民と付き合った挙げ句、解職された不平と、台湾に安住する覚悟で、内地から妻子を呼び寄せたのに、

解職させられたため、今後の家族の将来への絶望に、森川巡査は、自殺を選んだ。明治三五年四月七日午前、森川

巡査は、副瀬部落付近の慶福堂廟内で村田銃で自殺した。享年四二歳の若さで生涯を閉じた。

銃声を聞いて駆けつけた村民は、森川巡査の死を見て、みな声をあげて激しく嘆き悲しみ、同廟前で告別式が行

われ、翌日、副瀬部落東南にある共同墓地に葬られた。

ところが、森川巡査の慈愛と厚恩は、葬儀とともに埋葬されるわけではない。大正一二年、同部落の年輩者の夢

に、森川巡査が生前の情け深い顔つきのまま現れた、そして、「

隣村のコレラなど伝染病を防ぐには、環境衛生を

重視し、媒介する根源を絶たなければいけない。平素の生活、とりわけ飲食には注意し、生もの生水を食べたり飲

んだりしないようにしなさい、そうすれば日ならずして平穏になる」 (

�)

。目が覚めた年輩者が森川巡査の指示に従い、

全村は、その流行病から守られた。流行病は、無事に過ごした村は、村を挙げて、大正一二年四月八日、「

正装で

椅子に腰かけている姿を、高さ五尺八寸の木像に仕上げ」、そして、森川巡査すなわち

義愛公」

の像を森川の生

前の子弟教育の場であった富安宮に誕生した。

中京法学��巻3・4号 (����年)���(���)

(

2)「

義愛公」

明治の呉鳳」

この

義愛公」

神の誕生過程が示したように、確かなことには、素朴な部落民らにとって、森川巡査は、媽祖の

ように、無病息災と村民の平安守りの神様であり、人間の鑑と仰がれるまでに昇華すべき存在である。ところが、

かかる素朴な部落民の宗教心も、総督府に巧妙に利用された。

統治政策の忠実な執行者である森川巡査の死亡は、総督府にもショックであったようである。森川巡査の死後ま

もなく、森川巡査の死亡に戸惑う総督府は、急遽懲戒処分を取消したうえ、「

森川巡査は、ペスト患者の治療に身

を挺して当たり、ついに感染してペストにより死亡した」 (

�)

と事実を隠そうとした。

総督府は、この失政抹殺を図ろうとした一方、森川巡査を

明治の呉鳳」

として讃えようとした。

昭和初期に、早くから地方官官制改正に伴い、東石支庁は、台南州管下に置かれ、その州知事今川淵が、同地方

を巡視したところ、警察官派出所の森川巡査の資料を見て、「

まさに明治の呉鳳」

と思わず激賞したという。皮肉

なことに、総督府統治の失政と、不当処分を受け、自殺した森川巡査は、一転総督府により公認された呉鳳式の義

人、本島人を文明開化へ導く当局の英雄へと変身した。しかし、「

台湾警察精神の権化」

とされた森川巡査の死亡

と、伝説中の清国時代の台湾義人である呉鳳の死亡とは、明らかに異なっている。伝説中の呉鳳は、四八年間にわ

たって台湾

蕃人」

の教化に努めていた挙げ句、「蕃人」

馘首」

悪習を矯正しようとするため、自ら死を選ん

だという。もちろん、森川巡査の死が住民らによって殺害されたわけではなかったし、副瀬部落の住民は、「

未文

明開化」

蕃人」

でもない。呉鳳が

蕃人」

によって殺害されたとすれば、森川巡査は、総督府統治政策により

殺害」

されたと考えれば妥当であろう。言い換えれば、森川巡査は、管下住民への慈愛と

愛」

を持ちながら、

総督府の統治政策を忠実に遂げなければならぬという

義」

の板挟みに、自殺の道を歩んだのである。結局、森川

外地統治と警察官吏 (王) ���(���)

巡査は、総督府統治政策により

殺害」

されたとしか考えられないであろう。

その一方で、当初、嘉義県の辺鄙な寒漁村の富安宮に合祀された

義愛公」

の神像は、いつの間にかに、嘉義県

から高雄・台中及び台北新荘の

新荘北巡聖安宮」

までに分霊された。これは、かかる住民たちの

恩義」

への尊

敬並びに根深い宗教心を示すかたわら、従来総督府の在来宗教への制限や弾圧政策に直接にかかわっているからだ

ろう。

もともと中国福建、広東から移民した島内住民らは、信仰心が深く、道教・仏教・儒教で、媽祖・城隍爺・関帝

君・文昌君・土地公等の祭神に根深い。これに対し、台湾領有後、本島人に国語教育を強いたことが端的に示した

ように、本島人の

内地化」方針を始終している総督府には、内地の神道、神社建造により本島在来宗教である道

教、仏教、儒教を排斥する方針が目立っている。就中、日中全面戦争に突入して、「

皇民化運動」

の最中に、「

寺廟

整理」

という方針を掲げ、台湾在来宗教を

宗教全体が霊験主義で功利的」

、「

信仰が附合雷同的」

、「

神体が荒唐無

稽なもの」

、「

呪術の根元となり人をまどはす」 (

�)

とし、台湾在来宗教に極端な弾圧を行った。この極端な在来宗教弾

圧政策は、内外地官民の不評で中止せざる得ないが、総督府による在来宗教の排斥策を伺えよう。

かかる極端な在来宗教の弾圧方針に基づき、従来本島人の心の頼りとして存在した媽祖廟・城隍廟・関帝廟・土

地公廟等のあらゆる自然神の神像及び廟堂が、総督府警察官の立会で、悉く破壊された。「

町を歩くと、神像が除

かれて廟宇が空家となり、ガランとして建物だけが残っている廟もあった」 (

�)

こうした総督府の厳しい宗教政策の環境にあって、住民らは、馴染み深い部落廟宇の解体防止をするため、むし

ろ総督府によって讃えられた森川巡査、「

義愛公」

像を各廟宇に分霊することを得策とし、各地に分霊する。もし、

この推定が成り立つならば、森川巡査、「

義愛公」

は、再び本島住民の宗教信仰の

保護神」

になっていることに

中京法学��巻3・4号 (����年)���(���)

まちがいない。

前述したように、憲兵により治安を主に維持する朝鮮総督府と異なり、台湾総督府は、弁務署や地方支庁職員を

警察より充て、更に警察を保甲制度の指導・監督、阿片専売取締、「

蕃地」

行政等の任に当たらせ、徹底的に警察

政治を台湾統治体制に取り込んだ。

総督府警察官は、高等官である事務系警察官僚、判任官である警部と警部補及び判任官待遇とされる巡査からな

る。このうち、平地においては、治安維持、衛生と流行病の取締、阿片専売の強化等をする平地警察官と隘勇線、

山地においては、「

蕃社」

警戒をする

「蕃務」

警察官がある。

就中、総督府警察定員の半数を占めていた

蕃務」

警察官は、隘勇線・「

蕃地」

に駐在し、隘勇線監視、「

蕃人」

の授産・教化・医療等に介入し、「

統治者」

、あるいは台湾統治行政なかの

行政官」

として君臨していた。

一方、治安・衛生・保甲・租税等の行政一般に全面的に介入し、そして本島人から

大人」

と尊われ、本島人の

前で闊歩する警察官の多くは、内地人が密集している都市部を遠く離れた僻地、山地、寒村に配置され、心身とも

寂しさに苦しんでいた。このうち、総督府官僚の傍系とされる判任官待遇出身の巡査たちは、一旦総督府警察官及

司獄官練習所甲科を卒業し、警部補、警部、さらに支庁長を兼任し、運がよければ警察畑を振り出し、郡守にまで

昇進するが、統治中枢への進出は、ほぼ不可能であった。

外地統治と警察官吏 (王) ���(���)

他方、総督府警察官は、内地警察官より俸給令外の手当加俸、服務規律等の種々の優遇を付与されていた。この

うち、人件費、物価が内地より低廉な島内で、総督府警察官は、本島人はともかく、内地警察官より裕福な生活を

送っていた。

注:

(

1)

朝倉治彦

『明治官制辞典』

、東京堂出版社、一九六九年、一三九頁。

(

2)

このほか、総督府警察経験談として、森田俊介

内台五十年:回想と随筆』

(

非売品、一九七九年)

、大沼衛

忘れられ

た日本人』

(

サンケイ新聞社、一九七五年)

、小松延秀

義愛公と私:台湾で神様になった男の物語』

(

台湾友好親善協会、

一九八九年)

、及び魚住悦子訳・�相陽著

日本人警察官の家族たち』

(

日本機関誌出版センター、二〇〇〇年)

がある。

(

3)

台湾国史館台湾文献館藏

『自開府至軍組織中台湾総督府公文類纂

九』

〇〇〇〇九―三。

(

4)

同上。

(

5)

台湾総督府警務局

台湾警察沿革誌』

Ⅰ、緑陰書房、一九八六年復刻版、三九頁〜四〇頁。

(

6)

同上。三七頁。

(

7)

台湾国史館台湾文献館藏

自開府至軍組織中台湾総督府公文類纂

四』

〇〇〇四五―九一・九二・九三・九八参照。

(

8)

明治三〇年の定員は、同年六月二三日訓令第六九号(

台湾総督府『

府報』

第一〇五号、明治三〇年六月二三日、三七頁)

明治三一年の定員数は、前掲台湾総督府警務局

『台湾警察沿革誌』

(

Ⅰ、七〇九頁)

による。

(

9)

台湾総督府警務局

台湾警察沿革誌』

Ⅰ、四二一頁。

(

�)

明治三一年六月一八日台湾総督府地方官官制改正第三七条。『

官報』

第四四九〇号、明治三一年六月二〇日、二四四頁。

(

�)『

官報』

第四四九一号、明治三一年六月二一日、二六七頁〜二六八頁。

(

�)

台湾国史館台湾文献館藏

明治三四年台湾総督府公文類纂

一』〇〇五八〇―八。

(

�)

台湾国史館台湾文献館藏

明治三四年台湾総督府公文類纂

一』〇〇五八〇―二二。

中京法学��巻3・4号 (����年)���(���)

(

�)

台湾国史館台湾文献館藏

明治三四年台湾総督府公文類纂

追加二〇』

〇〇六八〇―一〇。

(�)

台湾国史館台湾文献館藏

明治三四年台湾総督府公文類纂

追加二〇』

〇〇六八〇―一四。

(�)台湾国史館台湾文献館藏

明治三四年台湾総督府公文類纂

追加二〇』

〇〇六八〇―一九。

(

�)同上。

(

�)

(�)

。(

�)

台湾国史館台湾文献館藏

明治三四年台湾総督府公文類纂

追加二〇』

〇〇六八〇―二〇。

(

�)

台湾国史館台湾文献館藏

明治三四年台湾総督府公文類纂

追加二〇』

〇〇六八〇―二一。

(

�)

台湾総督府警務局

台湾警察沿革誌』

Ⅰ、一〇二頁。

(

)

台湾国史館台湾文献館藏

明治三四年台湾総督府公文類纂

追加二〇』

〇〇六八〇―三七。

(

)『

官報』

第五五〇八号、明治三四年一一月一一日、二〇九頁〜二一一頁。

(

�)

台湾総督府

府報』

第一〇五九号、明治三四年一一月一九日、四六頁。

(

�)『

府報』

第一〇六二号、明治三四年一一月二二日、六四頁。

(

)

明治三四年一一月一一日、訓令第三五四号

台湾総督府官房並民政部警察本署及各局分課規程」

。同前掲台湾総督府

府報』

第一〇五四号、明治三四年一一月一一日、二三頁〜二四頁。

(

�)『

府報』

第一〇六三号、明治三四年一一月二六日、六七頁。

(

�)

明治三四年一一月一一日訓令第三五九号

「台湾警察管区規程」

。『

府報』

第一〇五四号、明治三四年一一月一一日、二八

頁。

(

�)

台湾総督府警務局

台湾総督府警察沿革誌』

Ⅰ、四五頁〜四六頁。

(

�)

中島利郎・吉原丈司編

鷲巣敦哉著作集』

(

Ⅱ、台湾警察四十年史話)

、緑陰書房、二〇〇〇年、九八頁。

(

�)『

府報』

第七〇号、明治三〇年四月二九日、三九頁〜四〇頁。

(

�)

台湾総督府警務局

台湾総督府警察沿革誌』

v、七五三頁。

(

�)

明治三一年七月六日、総督府府令第四九号

警察官及司獄官練習所規則」

。『

府報』

第三二二号、明治三一年七月六日、

外地統治と警察官吏 (王) ���(���)

二六頁。

(�)

台湾総督府警務局

台湾総督府警察沿革誌』

�、九一六頁。

(�)同上、九一六頁〜九一七頁。

(

�)中島利郎・吉原丈司

鷲巣敦哉著作集』

Ⅱ、一〇九頁。

(

�)

台湾国史館台湾文献館藏

自開府至軍組織中台湾総督府公文類纂

一』

〇〇〇四〇―二一。

(

�)

同上。なお、台湾総督府警務局

台湾総督府警察沿革誌』

(

二一二頁〜二一三頁)

は、田中県知事の照会文を同日、

総督府民政局の通牒文としており、事実誤認をしている。

(

�)

台湾総督府警務局

台湾総督府警察沿革誌』

Ⅴ、二一三頁。

(

�)『

府報』

第五五三号、明治三二年七月六日、一三頁。

(

�)

明治三二年七月六日、訓令第二〇八号

巡査補採用及教習規則」

。『

府報』

第五五三号、明治三二年七月六日、一七頁。

(

)

韓国統監府では同年五月三〇日、勅令第一二八号、関東都督府では同年八月二九日、勅令第二三一号による。

(

)

明治三二年四月二六日、勅令第一八五号。『

官報』

第四七四三号、明治三二年四月二七日、三六五頁。

(

�)

明治三〇年五月一八日、勅令第一四九号「

巡査看守俸給令」

。『

官報』

第四一六三号、明治三〇年五月二一日、二五七頁。

(

�)

明治三二年七月六日、勅令第二〇六号

「台湾総督府巡査補俸給令」

。『

官報』

第五五三〇号、明治三二年七月六日、一七

頁。なお、明治三四年五月、勅令第一〇九号

台湾総督府巡査補俸給令」

によると、台湾総督府巡査補の俸給等級が従来

の六級制度から九級制度に変わり、これに応じ、俸給額が一四円から九級の六円まで幅が広がった。

(

)

明治三一年六月一八日、勅令第一一七号

台湾総督府巡査及看守手当支給規則」

。『

官報』

第四四九〇号、明治三一年六

月二〇日、二四九頁。

(

�)

なお、台湾では、巡査看守は

土語」

通訳を兼掌する場合、月当たりに七円以内の特別手当を支給されている。

(

�)

明治三四年五月二〇日、勅令第一〇八号。『

官報』

第五三六二号、明治三四年五月二一日、三七七頁。

(

�)

中島利郎・吉原丈司

鷲巣敦哉著作集』

Ⅱ、一二一頁〜一二二頁。(

�)

大正六年一二月二四日、勅令第二三五号。『

官報』

第一六二〇号、大正六年一二月二五日、七二三頁。

中京法学��巻3・4号 (����年)���(���)

(

�)

興南新聞社

台湾人士鑑

(

昭和一八版)』

(

湘南堂書店、一九八六年、復刻版)

、及び昭和一八年七月一日現在

職員録』

を参照したものである。なお、警視三〇名のうち、三名の履歴は不明である。

(�)

官報』

第五三五三号、明治三四年五月一〇日、一九三頁。

(

�)これに先立ち、総督府は明治三一年一一月一五日、訓令第三〇二号を以て

台湾総督府巡査看守考試規程」

を制定し、

総督府巡査及び看守の警部、看守長への昇進には実務成績と学術試験が必要とした。また、明治三三年二月、総督府は、

総督府警察官練習所の甲科の設置により、甲科卒業生の特典を盛り込もうとしたため、考試規程を改正した。なお、明治

三四年五月の考試規程の公布に続き、同年一二月、総督府は、訓令第四四八号を以て総督府警察官練習所甲科卒業生が学

術試験を必要とする条項を改正した。

(

�)『

府報』

第九五五号、明治三四年五月一三日、三四頁〜三五頁。

(

�)

なお、警部補への昇進には巡査を対象とする考査と学術試験制度の外、普通文官試験合格者、台湾に二年以上在勤する

憲兵曹長以上と軍曹及び伍長が退役した後一年未満の場合、無試験で総督府警部と警部補に任用するとの規程がある。

(

�)『

府報』

第一〇五〇号・第一二二七号、明治三五年五月二日・九月二七日、七頁・五七頁。なお、同年行った警部補学

術試験合格者は九名であった。

(

�)

この合格者の内の一人は、同年三月一七日、合格者名簿から取り消された。

(

�)

台湾総督府警務局

台湾総督府警察沿革誌』

�、七五三頁。

(

)

初回の甲科卒業生であった二一人のうち、非現職者一〇人を除く他の一一人全員が台北県、宜蘭県、台中県から推挙さ

れた現職警部であった。なお、同所の講習科目を終え、六人が病気罹患のため、内地帰還をしたかどうか等、状況把握が

できないままの外、一五人が現職に復帰した。さらに、この初回の甲科練習生の卒業後の進路について調べた限り、警視

への昇進者が一人もいなかったことから、当初第一回生、且つ現職警部練習生としての入所は、「

土語」

の習得が主要な

目的であったと推測できよう。

(

)

井出季和太

台湾治績誌』

、台湾日日新報、一九三七年、三一三頁。(

�)『

官報』

第四五六七号、明治三一年九月一七日、一九三頁。

外地統治と警察官吏 (王) ���(���)

(

�)

中島利郎・吉原丈司

鷲巣敦哉著作集』

Ⅲ、七六頁〜七七頁。

(�)

明治三一年六月一八日、勅令第一〇八号

台湾総督府地方官官制」

第三七条と第三八条。『

官報』

第四四九〇号、明治

三一年六月二〇日、二四四頁。

(

�)中島利郎・吉原丈司

鷲巣敦哉著作集』

Ⅲ、一二二頁。

(

�)

明治三四年一一月九日、勅令第二〇一号、第二二条。『

官報』

第五五〇八号、明治三四年一一月一一日、二〇九頁。

(

�)

明治三四年一一月九日、勅令第二〇二号。『

官報』

第五五〇八号、明治三四年一一月一一日、二一〇頁。

(

�)

井出季和太

『台湾治績誌』

三一八頁。

(

�)

台湾国史館台湾文献館藏

明治三九年台湾総督府公文類纂

進退一五』

〇〇一二三六―七三。

(

�)

台湾国史館台湾文献館藏

明治三九年台湾総督府公文類纂

進退一〇』

〇〇一二三一―三一。

(

)

同上。

(

)

同(

�)

(

�)

台湾総督府

府報』

第一五一二号、明治三七年四月一四日、三二頁。

(

�)

台湾国史館台湾文献館藏

明治三九年台湾総督府公文類纂

進退一〇』

〇〇一二三一―三一。

(

)

台湾国史館台湾文献館藏

明治三九年台湾総督府公文類纂

進退一五』

〇〇一二三六―七三。

(

�)

このほか、事務系の属、書記からの警部補、警部への直接任用のほか、かつて台湾陸軍、憲兵隊軍曹以上の階級を持っ

た退役者は学術考査試験及び練習所入所をせず、直接警部補、警部に任用する例と

匪徒」

及び

蕃人」

討伐にあたり、

功績を立てた総督府巡査は警部補、警部へ陞等する等の特例がある。

(

�)

内藤菱崖編

台湾四十年回顧』

所収、非売品、一九三六年、一二五頁。

(

�)

台湾総督府警務局

台湾の警察』

(

一九三一年、五六頁)による集計。

(

�)

台湾国史館台湾文献館藏

明治三七年台湾総督府公文類纂

八』

〇〇〇九三六―五二。

(

�)

台湾総督府警務局

台湾総督府警察沿革誌』

Ⅰ、二五七頁〜二五八頁。(

�)

台湾総督府警察本署

理蕃誌稿』

第一巻、青史社、一九八九年復刻版、七二頁。

中京法学��巻3・4号 (����年)���(���)

(

�)『

官報』

第三八二三号、明治二九年三月三一日、四九四頁。

(�)

なお、明治三〇年行った総督府地方官官制改正の結果、撫墾署官制改正もなされ、上記の撫墾署の併合を行い、それぞ

れ台北、新竹、台中、嘉義、台南県管下に置かれ、その位置と出張所は、次のようである。

台北県

大��撫墾署

屈尺出張所

新竹県

五指山撫墾署

十股庄出張所

内湾出張所

上坪出張所

大河出張所

南庄撫墾署

加礼出張所

大東河出張所

大湖撫墾署

獅潭底出張所

八角林出張所

水尾出張所

南湖出張所

台中県

東勢角撫墾署

大茅埔出張所

埔里社撫墾署

蜈蚣崙出張所

嘉義県

林�埔撫墾署

台南県

蕃薯寮撫墾署

鳳山県

恒春撫墾署

内埔出張所

宜蘭庁

叭哩沙撫墾署

天送�出張所

白米甕出張所

外地統治と警察官吏 (王) ���(���)

台東庁

台東撫墾署

花蓮港出張所

(�)

官報』

第三八八八号、明治二九年六月一六日、一九四頁。

(�)台湾総督府警察本署

理蕃誌稿』

第一巻、七七頁。

(

�)台湾国史館台湾文献館藏

明治三〇年台湾総督府公文類纂

甲種追加四』

〇〇二二九―二四。

(

�)

同(�)。七六頁。

(

�)

藤井志津枝

理蕃』

、文英堂、一九九七年、一〇八頁〜一一〇頁。

(

�)

台湾国史館台湾文献館

明治三三年台湾総督府公文類纂

六』

〇〇四七七―二七。

(

�)『

官報』

第六〇七三号、明治三六年九月二八日、四九〇頁。

(

�)

台湾総督府警察本署

理蕃誌稿』

第一巻、一七四頁。

(

)

このほか、同年、「蕃人」

を掃討するために、宜蘭庁に一九九人、桃園庁に二五五人、新竹庁に二八三人、台中庁に五

〇人、南投庁に二一五人、阿庁に一二人、合わせて一〇一四人の定員外の巡査が置かれている。

(

�)

大正九年、巡査補という呼称を廃止し、従来の巡査補を巡査乙種と改称することとなった。なお、従来の隘勇線に勤務

する本島人であった隘勇を警手と改称し、内地人の警手と同一の呼称とした。

(

�)

現代史資料二二

台湾』

(

二)

、みすず書房、一九八〇年、五三三頁。

(

)『

府報』

第一四九六号、明治三七年三月一七日、五八頁。

(

�)

台湾総督府警察本署

理蕃誌稿』

第一巻、二九七頁。

(

�)

中京大学社会科学研究所台湾史料研究会校訂

『台湾史料綱文』

上巻、一九八六年、七七頁。

(

�)

台湾教育会

台湾教育沿革誌』

、青史社、一九八二年復刻版、四六八頁。

(

�)

同上。四八三頁。

(

�)

同(

�)

。四八三頁。

(

�)

同(

�)

。四八四頁〜四八六頁。

(

�)

同(

�)

。四八六頁。

中京法学��巻3・4号 (����年)���(���)

(

�)

現代史資料二二

台湾』

二、四五一頁〜四五二頁。

(�)

台湾総督府警務局

高砂族の教育』

、台湾成文出版社、一九九九年復刻版、六〇頁〜八〇頁。

(�)昭和四年現在の統計である。部落名は、当時の呼称を踏襲する。なお、人類文化学者の間で呼ばれた

霧社」

タイヤル

族は、その原住民自らは、「

セイダッカ」

と自称する。

(

�)

台湾総督府民政部蕃務本署

台湾蕃族習慣研究』

第三巻、一九一三年、二頁。

(

�)

現代史資料二二

台湾』

二、五七三頁。

(

�)

拓務省管理局長生駒高常

霧社事件調査書』

。現代史資料二二

台湾』

二、六八三頁。

(

�)

この事件について日本人学者は、「

霧社事件」

又は「

霧社蜂起事件」

、「

霧社大惨事」

と、中国人学者は、「

霧社抗日事件」

又は

霧社山胞抗日起義事件」

、「

霧社山胞抗暴事件」

と、それぞれ後に名付ている。本稿は、研究の便宜のため

霧社蜂

起事件」

に統一する。なお、事件発生以来、事件の経緯、原因をめぐる資料集、研究書の刊行が後をたたない。主な刊行

物として、橋本白水

ああ、霧社事件』

(

南国出版協会、一九三〇年)

、吉川哲

霧社事件の真相』

(

新高新報、一九三一

年)

、戦後においては、『

台湾』(

みすず書房、一九八〇年)

、戴国�

台湾霧社蜂起事件―研究と資料』

社会思想社、一九

八一年)

、春山明哲

台湾霧社事件軍事関係資料』

(

不二出版、一九九二年)

、中川浩一・和歌森民男

霧社事件―台湾高

砂族の蜂起』

(

三省堂、一九八〇年)などが挙げられる。また、研究及び関係文献目録の詳細は、河原功編

霧社蜂起事

件関係文献目録」(

戴国

台湾霧社蜂起事件―研究と資料』

五八一頁〜五九八頁所収)

を参照されたい。

(

�)

拓務省管理局長生駒高常が昭和五年一一月二八日、同省に提出した

霧社蕃騒擾事件調査復命書」

(

同前掲戴国�

湾霧社蜂起事件』

―研究と資料

二六〇頁〜三四七頁所収)

及び台湾総督府警務局

霧社事件誌」

(

同書三八一頁)

によ

り作成したものである。

(

)

中川浩一・和歌森民男

霧社事件―台湾高砂族の蜂起』、三省堂、一九八〇年、一〇八頁〜一〇九頁。

(

)

台湾総督府警務局

霧社事件誌」

。同前掲戴国

台湾霧社蜂起事件―研究と資料』

、四二〇頁。

(

�)

許介麟編・アウイヘパハ

証言霧社事件』

、草風館、一九八五年、七八頁。

(

�)

拓務省管理局長生駒高常

霧社蕃騒擾事件調査復命書」

。『

台湾霧社蜂起事件』

、三三〇頁。

外地統治と警察官吏 (王) ���(���)

(

�)

中川浩一・和歌森民男

霧社事件』

、一五九頁。

(�)

台湾総督府警務局

霧社事件誌」

。戴国�

台湾霧社蜂起事件』

、四四四頁。

(�)同復命書に関する春山明哲の解題。戴国�

台湾霧社蜂起事件』

、二五七頁。

(

�)拓務省管理局長生駒高常

霧社蕃騒擾事件調査復命書」

。戴国�

台湾霧社蜂起事件』

、三一六頁〜三一八頁所収。

(

�)

現代史資料二二

台湾』

二、六八二頁〜七〇七頁。

(

�)

橋本白水

『評論台湾之官民』

、台湾成文出版、一九九九年復刻版、一五四頁。

(

�)

田中一二

『台湾の新人旧人』

、台湾成文出版、一九九九年復刻版、一五四頁。

(

�)

作成時期が不明。春山明哲編

台湾霧社事件軍事関係資料』

、不二出版、一九九二年、三頁〜五〇頁所収。

(

)

作成時期は不明。戴国

台湾霧社蜂起事件』

、三五一頁〜五二〇頁所収。

(

)

昭和一一年推定。戴国

『台湾霧社蜂起事件』

、五二三頁〜五三四頁所収。

(

�)

作成時期が昭和五年一二月三〇日。同前掲現代史資料二二

台湾』

二、五八一頁〜五九六頁所収。

(

�)

許介麟・アウイヘッパハ

『証言霧社事件』

、一三一頁。

(

)

許介麟・アウイヘッパハ

証言霧社事件』

、八九頁。

(

�)

中川浩一・和歌森民男

霧社事件―台湾高砂族の蜂起』

、一三三頁。

(

�)

生駒高常

霧社蕃騒擾事件調査復命書』。戴国�

台湾霧社蜂起事件』

、二六一頁。

(

�)

台湾総督府警務局

霧社事件誌」

。戴国�

『台湾霧社蜂起事件』

、四六九頁。

(

�)

同上。五〇一頁〜五〇二頁。なお、中川浩一・和歌森民男

霧社事件―台湾高砂族の蜂起』

によれば、蜂起

蕃」

側の

少年であったピホワリス、日本名が中山清、中国名が高永清は、事件後、同級生の父親であった小島源治巡査の家に駆け

込み、翌年末までタウツア

蕃社」

に保護されたため、前述の収容所の人数に加算されていなかったのではなかろうか。

(

�)

三九名中のうち一人は、後に留置場の脱走を図ろうとし銃殺された。

(

�)

台湾総督府警務局

霧社事件誌」

。同前掲戴国�

台湾霧社蜂起事件』

、五一六頁〜五一八頁。

(

�)

台湾総督府

詔勅・令旨・諭告・訓達類纂』

(

二)

台湾成文出版、一九九九年復刻版、六〇五頁。

中京法学��巻3・4号 (����年)���(���)

(

�)

同上。六〇五頁〜六〇六頁。

(�)

鷲巣敦哉著作集』

Ⅱ、一一七頁。

(�)同上。一一六頁。

(

�)泉風浪

人と閥』

、南瀛新報社、一九三二年、二四頁〜三〇頁。

(

�)「

香川県人会規約」

第二条。香川県人会編

台湾在住香川県名簿』

(

昭和一一年三月一日現在)

、非売品、一頁。

(

�)

泉風浪

『人と閥』

、一八九頁〜一九〇頁。

(

�)

泉風浪

『人と閥』

、六二頁〜六三頁。

(

�)

同前掲

鷲巣敦哉著作集』

Ⅰ、一四頁。

(

)

同上。一九頁〜二一頁。

(

)『

府報』

第一三八六号

(明治三六年八月四日

三頁〜四頁)

による集計したものである。

(

�)『

鷲巣敦哉著作集』

Ⅰ、一七四頁。

(

�)

同上。一三五頁。

(

)

小松延秀

義愛公と私』

、台湾友好親善協会、一九八八年、一〇三頁。

(

�)

台湾総督府・台湾日日新報社

新旧対照管轄便覧』

、台湾日日新報社、一九二一年、一七五頁〜一八〇頁。

(

�)『

鷲巣敦哉著作集』

Ⅰ、一〇四頁。

(

�)

生駒高常

霧社蕃騒擾事件調査復命書」

。同前掲戴国�

台湾霧社蜂起事件』

、二七一頁。

(

�)『

鷲巣敦哉著作集』

Ⅰ、一〇九頁。

(

�)『

府報』

第一六〇九号、明治三七年一〇月八日、二二頁。

(

�)『

官報』

第四七一八号、明治三二年三月二八日、四九二頁。

(

�)

愛知県警察本部

愛知県警察史』

第一巻、一九七一年、四二九頁〜四三〇頁。

(

�)

警視庁史編纂委員会

警視庁史』

明治編、非売品、一九五九年、七一頁。

(

�)『

鷲巣敦哉著作集』

Ⅰ、一二二頁。

外地統治と警察官吏 (王) ���(���)

(

�)

同上。九二頁。

(�)

大沼衛

忘れられた日本人』

、サンケイ新聞社、一九七五年、八八頁〜八九頁。

(�)同上。同前掲八九頁。

(

�)台湾総督府警務局

霧社事件誌」

。『

台湾霧社蜂起事件』

、三七五頁。

(

�)

許介麟・アウイヘッパハ

証言霧社事件―台湾山地人の抗日蜂起』

、一一一頁〜一一二頁と一五一頁。

(

�)

愛知県議会事務局

愛知県議会史』

第三巻、非売品、一九五九年、二九九頁。

(

�)

明治三〇年五月一八日勅令第一四九号

巡査俸給令」

第一・四・五条による。『

官報』

第四一六三号、明治三〇年五月

二一日、二五七頁。

(

�)『

愛知県警察史』第一巻、三九二頁。

(

)『

愛知県議会史』

第三巻、二九九頁。

(

)『

警視庁史』

二三四頁。

(

�)

台湾総督府警務局

台湾の警察』、七五頁。

(

�)

井出季和太

台湾治績誌』

、台湾日日新報、一九三七年、一〇九〇頁〜一〇九一頁。

(

)

台湾総督府警務局

台湾の警察』

、七四頁〜七五頁。

(

�)『

鷲巣敦哉著作集』

Ⅰ、一〇五頁と四八頁。

(

�)

小松延秀

義愛公と私』

、一四頁。

(

�)

同上。一七頁〜一九頁。

(

�)

同(

�)

。二二頁。

(

�)

同上。

(

�)

同(

�)

。二五頁。

(

�)

同(

�)

。二四頁。

(

�)

昭和一八年六月付台湾総督府文教局

台湾の寺廟問題―旧慣信仰改善に関する調査報告第四」

。宮本延人

日本統治時

中京法学��巻3・4号 (����年)���(���)

代台湾における寺廟整理問題』

、天理教道友社、一九八八年、三七頁〜三八頁。

(�)

同上。四頁。

既述してきたように、日本は、台湾を支配した五〇余年の歴史の中で、まず、台湾総督府を設け、台湾総督を置

いて直轄統治をした。台湾総督は、武官総督制から文官総督制へ移行し、そしてまた、文官総督制から武官総督制

へと復活した。

台湾総督には、その職務として、初期から律令制定権という台湾での立法権と、行政権、軍政権とを付与されて

いた。ところが、台湾を統治した五〇年あまりの間に、台湾総督府官制は改正を重ね、台湾総督の権限は中央政府

に取り上げられ、または総督府内の総務長官、地方州知事へと委任され、総督の職務権限が縮小する傾向が見られ

た。ま

た、台湾総督の執務実態については、総督任期のほぼ三分の一にのぼる上京・滞京の日数から、台湾総督は、

任地である台湾での執務執行期間は短く、行政経験、法令立案に詳しい民政長官、または総務長官が実際上、総督

の補佐役として、台湾行政統治の中核を占めていたことを明らかにした。

一方、台湾総督は、中央政府の台湾統治の代表として、法制度上においては、律令制定権いわゆる台湾での立法

権、管轄内の軍政権、文官官僚の叙勲、陞等、昇級、恩給の請求権と指揮監督権等の台湾統治権限を付与されてお

外地統治と警察官吏 (王) ���(���)

り、その台湾統治上においての政治責任は重かった。これは、昭和初期に起きた

台中不敬事件」

霧社事件」

において、上山総督と石塚総督が引責で辞職したことから、台湾総督が、台湾統治において重い政治責任を負わさ

れていたことが理解されよう。

また、文官総督制へ移行するまでは、民政長官は例外として、台湾総督府内の各部署の長をはじめとする台湾総

督府高等官は、領有初期を除けば、内地からの派遣は少なく、総督府内からの昇進者により構成されていた。

ただし、台湾総督府総務長官は、内地からの派遣基準、いわゆる選任基準が変化したこと、つまり、武官総督期

における民政長官である水野をはじめとする曾根・後藤・祝・大島等は、武官総督の補佐役とされながらも、実質

的行政権限を掌握しており、就任以前の行政経験に基づく台湾に対する熟知度により選任されたのである。ところ

が、原内閣の成立に伴う文官総督の出現により、民政長官から改称された総務長官は、職務範囲に大きな変化はな

いものの、総督とともに更迭され、台湾への熟知度よりも、党派性や人的なつながりが重視されることとなった。

こうして総務長官は、武官総督期の統治における実質的行政権限者の立場から、文官総督の下での単なる行政事

務上の統括者の立場へと変化した。総務長官の地位と役割の低下は、台北帝国大学の発足により任じられた同学総

長が勅任官であり、官等では総務長官と同格で、さらに俸給額が総務長官より高かったことに象徴されていよう。

さらに、民政長官と同様に、台湾総督府高等官の人事も、内地の政治情勢と総督の文武官制度の変動により変化

を遂げた。まず、武官総督期においては、軍人と司法官の勢力を排除し、行政官僚を中心とした台湾統治体制が確

立された。台湾領有初期、伊藤内閣は、勅令で総督の下に、軍務局、民政局、そして司法機構である総督府高等法

院、覆審法院等からなる統治構造を確立し、内地に近い体制を作り上げた。この台湾総督の下に軍人、行政官、そ

して司法官が並立する体制に最も必要とされたものは、総督自身の軍人、行政官、司法官に対する統率力と、それ

中京法学��巻3・4号 (����年)���(���)

ぞれの事務に関する総合的な行政知識及び決断力であった。ところが、政府が台湾統治の中心として設置した総督

は、行政、司法に全く無知な武官に制限されていた。つまり、政府が想定していた台湾統治体制そのものは、当初

から欠陥が存在しており、そのため、軍人と行政官の対立、官僚腐敗の熾烈な摘発をめぐる行政官と司法官との軋

轢が生じていたのである。

明治三一年三月、台湾総督府は、児玉源太郎総督と後藤新平民政局長を迎える。児玉総督と後藤民政局長は、軍

人と司法官僚の行政干渉を排除し、総督府官制と地方官官制の改正により行政官僚の台湾統治の主導的地位を確立

する。次いで、児玉総督と後藤民政長官

(

明治三四年総督府官制改正により民政局長から民政長官に改称)

は、清

国統治期の保甲制度を復活して本島人を保甲制度に編入し、警察本署を設置して、総督府警察官が主導する治安体

制と台湾統治の行政基盤を整備した。また、総督の律令により総督府法院の規模と判官の定員が縮小され、司法官

僚は台湾行政統治の中枢から排除された。こうして軍人と司法官の勢力が衰退した結果、総督府行政官僚は、台湾

統治に君臨する唯一の勢力となっていった。

このように、行政官僚を中心とする台湾統治体制において、台湾総督府行政官僚は、内地官僚と相違するシステ

ムを展開した。総督府官制改正による総督府高等官の大幅な人事変動を除けば、武官総督期においては大幅な人事

異動はなされず、一部の高等官僚人事を除き、総督府属から課長、そして局長へという府内昇進体制が多く見られ

たのである。

しかし、この武官総督期とは対照的に、大正八年からの総督府高等官人事は、内地政局の影響下に置かれ、政党

内閣の交代に伴う更迭は、台湾総督と総務長官にとどまらず、台湾総督府の各部署長、総督府地方州知事、勅任官、

参事官、事務官にも及び、内地官僚の台湾進出が顕著となっていく。こうした内地官僚の台湾への進出、いわゆる

外地統治と警察官吏 (王) ���(���)

内外地間の人事交流は、昭和一七年頃から著しく活発となった。その背景としては、昭和一六年の太平洋戦争勃発

以降、日本政府は、台湾において本島人の徴兵制度を開始し、そして昭和一九年には、台湾人、朝鮮人の参政権を

認め、外地人の貴族院議員、衆議院議員が登場する。なかでも、昭和一六年に成立した東条内閣は、太平洋戦争を

遂行するために、中央省庁、地方府県にとどまらず台湾総督府、朝鮮総督府、関東局、南洋庁にいたるまで、行政

機構の効率向上のため、行政機構の人員整理と内外地一元化という閣議決定を行った。東条内閣は、行政機構改正

により整理された官僚を台湾総督府、朝鮮総督府等の外地機構および南方地域の新占領地に転任させ、それと同時

に、台湾総督府をはじめとする外地機構の官僚を内地官僚とともに陸海軍司政長官、陸海軍司政官に任命し、南方

地域の新占領地に転任させた。この台湾総督府から転任された官僚たちの、転任後の内地官僚との間でどのような

指揮関係にあったのか、また南方地域の新占領地の勤務終了後の進路については別稿に譲りたい。いずれにしても、

もし昭和二〇年の敗戦がなければ、この内外地官僚の交流によるその一元化体制の確立が果たされていたであろう。

また、一方では、台湾には議会がなく、また有力な政党、政治団体、軍人勢力が存在しておらず、島内の唯一の

勢力として台湾統治に君臨していた台湾総督府官僚は、行政ばかりでなく、経済活動全般にも進出した。この企業

への投資、または企業経営活動への参与により、総督府の機構と官僚は肥大化し、台湾総督府官僚の集団惰性化、

いわゆるパーキンソン怪法則に陥っていたことも明らかにした。

さらに、高等官でもない判任官でもない台湾総督府警察官僚は、最初から内地警察官の採用、俸給表及び階級制

度を準用して創設されたものの、在勤警察官の手当や果たしてきた役割においては、台湾総督府の警察官は、内地

の警察官とは異なり台湾統治に欠かせない存在であり、地域の治安だけでなく、保甲制度を通じて、伝染病防止、

衛生、租税、戸口行政等に全面的に参与し、行政組織の末端として住民と最も接する役人であり、官僚でもあった。

中京法学��巻3・4号 (����年)���(���)

なかでも、台湾山地に展開する

蕃地」

に勤務を命じられた

蕃務」

警察官は、隘勇線を警備しながら、原住民の

授産・医療・教育・衛生・土木・郵便補助等に参与し、原住民への統治に深く関わっていた。要するに、かれらは、

単なる治安維持のための警察官ではなく、住民の生活に深く関与していた役人でもあり、隣人でもあった。しかし、

このように台湾統治行政に深く関わっていたにもかかわらず、その多数を占めていた警察官は、近代日本官僚体制

においては、軍人でも文官でもなく、判任官である警部と警部補への昇進は難しく、総督府内の他の職位につくこ

とが原則として禁止されていた。結局、かれらは、総督府文官官僚体系においては傍系にすぎず、島内各地に配置

され、本島人は当然としても、島内在住の内地人との交流も十分になされておらず孤独な存在であった。

こうした台湾総督府の警察官は近代文官制度の傍系とされながらも、台湾での治安維持だけでなく、前述した行

政事務全般に参与し、台湾統治において重要な役割を果たしていた警察官について、第六章において記したように、

台湾島内の寒村に勤務し、村民の敬愛を集めた森川巡査が、死後も村民の保護神として像まで建てられ、「

義愛公」

として祭られていることは、島内住民が総督府の警察官に対して抱いたある種の熱い感情を表しており、森川伝説

ともいうべき心温まる物語が受け継がれていることも忘れてはならない象徴的な史実である。

以上、本稿においては、台湾総督と民政長官、後の総務長官の任用基準と台湾統治において果たした役割、特に、

その総督、民政長官・総務長官の日本本国政治情勢における位置づけの変遷をまとめてきた。これらの検討を通じ

て、外地統治機構である台湾総督府の統治の実態と内地との相違点について明らかにし得た思う。

また、台湾を支配した五〇年あまりの間において、台湾統治の中核をなした台湾総督府高等官僚の任用・処遇、

総督府機構の拡張にともなう総督府官僚の肥大化についても検討を加えた一方で、近代文官制度の傍系とされた台

湾総督府の警察官の執務実態やかれらが台湾統治に果たした役割を検証してきた。

外地統治と警察官吏 (王) ���(���)

統治者として台湾住民と日常的に接し、その生活内部にまで深く関わった警察官について触れることにより、総

督・民政長官という頂点ばかりでなく、統治機構全体の構造とその活動についてふれることにより、住民の側から

する統治は何であったのか、という視点から考察を加えることができたと思う。

台湾を領有した初期において台湾総督に付与された諸権限は、総督府官制改正により縮小され、それに伴い、台

湾総督の補佐役として任命した台湾総督府総務長官

(

民政局長・民政長官)

の選任基準、地位、その役割も変わっ

ていった。総督府官僚は、内地官僚より俸給が優遇されたうえ、住宅、制服等により島内在住の内地人、本島人と

区分される特権階層である。このため、台湾社会では、内地人対本島人より、総督府官僚対内地・本島民間人、い

わゆる支配階層対被支配者階層という厳しい階級社会であることがわかった。

しかし、領有初期において、内地文官制度と異なるシステムを展開した台湾総督府高等官僚を始めとする総督府

官僚は、大正八年の文官総督の導入を契機とし、内地官僚との交流が進むが、とくに昭和一七年、本国政府の政策

により、内地官僚との交流が定例となり、内地官僚と台湾総督府官僚の

一体化」

傾向が見られるようになる。同

化政策は日本の植民地統治の特徴であるとはよく指摘されることであるが、本稿では、総督府官僚制度に焦点を当

てて、どのようにその政策が推進されたかを取り上げた。

このような検討を通じて、本稿では、五〇年にわたる日本統治について、総督、民政長官・総務長官の権限、選

任などにより統治の上からの鳥瞰と、他方、住民と接する警察官という統治の末端からの照射により総督府統治に

ついてその全体像を取り上げた。一言で台湾統治とはいえ、そこにどのような歴史的変遷が存在したか、特に本稿

では、従来の研究では全く言及されなかった総督府の行政文書=

台湾総督府公文類纂」

を用い、その行政行為に

ついて、内部文書を参照することにより具体的に実証し得たと思う。

中京法学��巻3・4号 (����年)���(���)

主要参考史資料

文書史料

(

1)

台湾国史館台湾文献館蔵

台湾総督府公文類纂』

(

2)

外務省外交資料館藏

外務省記録』

(

3)

国立公文書館藏

公文雑纂』

(

4)

国立国会図書館藏

田健次郎日記』

(

5)

天理大学図書館藏

『下村宏関係文書』

MF版。

(

6)

奥州市立後藤新平記念館藏

後藤新平文書』

MF版、雄松堂、一九八〇年。

(

7)

防衛庁防衛研究所戦史資料室藏『

台湾総督府日誌』

(

8)

防衛庁防衛研究所戦史資料室藏

陸軍幕僚歴史草案』

(

9)

防衛庁防衛研究所戦史資料室藏

『日露戦争関係綴』

(

�)

防府市立防府図書館藏

上山満之進関係文書』

(

�)

伊藤博文関係文書研究会

伊藤博文関係文書』

、塙書房、一九七四年。

文献資料

(

1)『

都新聞』

(

2)『

日本』

(

3)『

萬朝報』

(

4)

台湾総督府総督官房

台湾総督府職員録』

外地統治と警察官吏 (王) ���(���)

(

5)

台湾日日新報社

台湾日日新報』

(6)

内閣官報局

官報』

(7)原奎一郎

原敬日記』

、福村出版、一九六五年。

(

8)原敬文書研究会

原敬関係文書』

、日本放送出版協会、一九九六年。

(

9)『

旧植民地人事総覧』

、日本図書センター、一九九七年復刻版。

(

�)『

昭和人名辞典』

、日本図書センター、一九八七年復刻版。

(

�)『

明治過去帳』、東京美術、一九七一年。

(

�)

市川生明

韓国併合資料』

、原書房、一九八六年。

(

�)

興南新聞社

台湾人士鑑』

、湘南堂書店、一九八六年復刻版。

(

�)

秦郁彦

日本近現代人物履歴事典』

、東京大学出版会、二〇〇二年。

(

�)

衆議院・参議院

議会制度七十年史―貴族印・衆議院名鑑』

、一九六〇年。

(

�)

戦前期官僚制研究会・秦郁彦『

戦前期日本官僚制の制度・組織・人事』

、東京大学出版会、一九八一年。

(

�)『

帝国議会衆議院議事速記録』、東京大学出版会、一九八〇年。

(

)

国立公文書館

枢密院会議議事録』、東京大学出版会、一九八五年。

(

)

台湾協会

台湾協会会報』

(

�)

台湾経世新報社

台湾大年表』

、緑陰書房、一九九二年復刻版。

(

�)

台湾総督府総督官房

台湾総督府統計年報』

(

)

台湾総督府総督官房企画部

家計調査集成』

、青史社、二〇〇〇年復刻版。

(

�)

台湾総督府総督官房臨時国勢調査部

昭和十年国勢調査結果表』

、一九三七年。

(

�)

台湾総督府

府報』

(

�)

台湾総督府

詔勅・令旨・諭告・勲達類纂』

、成文出版社、一九九九年復刻版。

(

�)

台湾総督府

台湾日誌』

、緑陰書房、一九九二年復刻版。

中京法学��巻3・4号 (����年)���(���)

(

�)

台湾総督府民政部

台湾総督府民政事務成蹟提要』

、成文出版社、一九九九年復刻版。

(�)

中京大学社会科学研究所台湾史料研究会校訂

台湾史料綱文』

、成文堂、一九八六年。

(�)内務大臣官房文書課

内務省報告』

、日本図書センター、一九八九年復刻版。

(

�)『

台湾文官試験問題答案集』

、新高堂。

研究資料

(

一)

単行本

(

1)『

激動の日本政治史―明治・大正・昭和歴代国会議員史録』

、阿坂書房、一九七九年。

(

2)『

佐久間左馬太』

台湾救済団(

非売品)

、一九三三年。

(

3)

愛国婦人会台湾本部

愛国婦人会台湾本部沿革誌』

(

非売品)

、一九四一年。

(

4)

安房先賢偉人顕彰会

安房先賢偉人伝』

、国書刊行会、一九三八年。

(

5)

石井光次郎

回想八十年』

、カルチャー出版社、一九七六年。

(

6)

石井満

新渡戸稲造伝』

、関谷書店、一九三五年。

(

7)

泉風浪

人と閥』

、南瀛新報社、一九三二年。

(

8)

戴国

台湾霧社蜂起事件―研究と資料』

、社会思想社、一九八一年。

(

9)

井出季和太

興味の台湾史話』

、南天書局、一九九七年復刻版。

(

�)

井出季和太

台湾治績誌』

、台湾日日新報、一九三七年。

(

�)

伊藤隆・野村実

海軍大将・小林躋造覚書』

、山川出版社、一九八一年。

(

�)

内田隆三・金原左門・古屋富彌

日本議会史録』

、第一法規出版、一九八一年。

(

�)

宇野俊一校注

桂太郎自伝』

、平凡社、一九九三年。

外地統治と警察官吏 (王) ���(���)

(

�)

大沼衛

忘れられた日本人』

、サンケイ出版サービス、一九八六年。

(�)

大浜徹也

乃木希典』

、雄山閣、一九六七年。

(�)崗義武・林茂校訂

大正デモクラシー期の政治―松本剛吉政治日誌』

、岩波書店、一九七七年。

(

�)外務省条約局法規課

外地法制誌』

(

全一三卷)

、文生書院、一九九〇年。

(

�)

香川県人会

台湾在住香川県人名簿』

(

�)

神埜努

『クラークの直弟子札幌農学校第一期生柳本通義の生涯』

、共同文化社、一九九〇年。

(

�)

上山君記念事業会

上山満之進』

、成武堂、一九四一年。

(

�)

許介麟・アウイヘパハ

証言霧社事件』

、草風館、一九八五年。

(

)

栗原健

對満蒙政策史の一面』

、原書房、一九六六年。

(

)

警視庁史編纂会

警視庁史』

、非売品、一九六〇年。

(

�)

現代史資料二二

台湾』、みすず書房、一九八〇年。

(

�)

洪敏麟

日拠初期官吏失職档案』、台湾省文献委員会、一九七八年。

(

)

小熊英二

日本人の境界』

、新曜社、一九九八年。

(

�)

戸水汪

台湾みやげ』

、非売品、一九〇五年。

(

�)

小松延秀

義愛公と私』

、台湾友好親善協会、一九八八年。

(

�)

小森徳治

明石元二郎』

、台湾日日新報、一九二八年。

(

�)

魚住悦子訳・�相陽

日本人警察の家族たち』、日本機関誌出版センター、二〇〇〇年。

(

�)

住屋図南

台湾人士之評判記』

、成文出版社、一九九九年復刻版。

(

�)

瀬戸山兼斌

官公吏通義』

、一九三四年。

(

�)

台湾教育会

台湾教育沿革誌』

、青史社、一九八二年復刻版。

(

�)

台湾銀行史編纂会

台湾銀行史』

、非売品、一九六四年。

(

�)

台湾総督府警察本署

理蕃誌稿』

、青史社、一九八九年復刻版。

中京法学��巻3・4号 (����年)���(���)

(

�)

台湾総督府警務局

台湾の警察』

、非売品、一九三五年。

(�)

台湾総督府警務局

高砂族の教育』

、成文出版社、一九九九年復刻版。

(�)台湾総督府民政部蕃務本署

台湾蕃族習慣研究』

、一九一三年。

(

�)台湾総督府法務部

台湾司法制度沿革史』

、一九一七年。

(

�)

田中一二

台湾の新人旧人』

、成文出版社、一九九九年復刻版。

(

�)

鶴見祐輔

『後藤新平』

、勁草書房、一九六五年。

(

�)

田健治郎伝記編纂会

田健治郎伝記』

、非売品、一九三二年。

(

�)

内藤菱崖

台湾四十年回顧』

、非売品、一九三六年。

(

)

永井和

近代日本の軍部と政治』

、思文閣出版、一九九三年。

(

)

長尾景徳

台湾行政法大意』

、杉田重藏書店、一九二三年。

(

�)

中川浩一・和歌森民男

『霧社事件―台湾高砂族の蜂起』

、三省堂、一九八〇年。

(

�)

中島利郎・吉原丈司

鷲巣敦哉著作集』

(

全五巻)

、緑陰書房、二〇〇〇年。

(

)

橋口兼清

橋口文藏遺事録』

、非売品、一九七二年。

(

�)

橋本白水

評論台湾之官民』

、成文出版社、一九九九年復刻版。

(

�)

長谷川清伝記編纂会

長谷川清伝』

、非売品、一九七二年。

(

�)

平塚篤

伊藤博文秘録』

、春秋社、一九二九年。

(

�)

福井県郷友会

福井県郷友会名簿』

、非売品、一九三七年。

(

�)

藤井志津枝

理蕃』

、文英堂、一九九七年。

(

�)

前田蓮山

歴代内閣物語』

、時事通信社、一九六八年。

(

�)

松下芳男

乃木希典』

、吉川弘文館、一九六〇年。

(

�)

水上熊吉

前台湾高等法院長高野孟矩剛骨譚』

、広文堂書店、一九〇二年。

(

�)

宮本延人

日本統治時代台湾における寺廟整理問題』

、天理教道友社、一九八八年。

外地統治と警察官吏 (王) ���(���)

(

�)

森有義

青年と歩む後藤文夫』

、日本青年館、一九七九年。

(�)

森田俊介

回想と随筆

内台五十年』

、伸共社、一九六九年。

(�)宿利重一

児玉源太郎』

、対胸舎、一九三八年。

(

�)矢内原忠雄

帝国主義下の台湾』

、岩波書店、一九三七年。

(

�)

山崎丹照

外地統治機構の研究』

、高山書院、一九三三年。

(

�)

劉明修

『台湾統治と阿片問題』

、山川出版社、一九八三年。

(

�)

林進発

『台湾統治史』

、民衆公論社、一九三五年。

(

�)

歴代知事編纂会

『日本の歴代知事』

(

全三巻)

、一九八一年。

(

)

台湾総督府警務局

『台湾総督府警察沿革誌』

、緑陰書房、一九八六年復刻版。

(

)

吉川哲

霧社事件の真相」、新高新報社嘉義支局、一九三一年。

(

二)

論文

(

1)

大江志乃夫

山県系と植民地武断政治」

近代日本と植民地』

(

四統合と支配の論理)

、岩波書店、一九九三年、三頁〜

二九頁所収。

(

2)

大谷正「

台湾における植民地統治機構の成立―総督府官制の検討に限定して」

、大阪歴史科学協議会『

歴史科学』

九九・

一〇〇合併号、一九八五年、五〇頁〜六五頁所収。

(

3)

岡本真希子

文官総督期の

総督任期論」

―政治的地位をめぐって』

、一九九七年中京大学社会科学研究所主催

一九

七七年台湾植民地統治史研究の再検討国際シンポジウム論文集』

所収。

(

4)

加藤聖文

植民地統治における官僚人事―伊沢多喜男と植民地』

、大西比呂志

伊沢多喜男と近代日本』

芙蓉書房、二

〇〇三年、一一一頁〜一三九頁所収。

(

5)

加藤聖文

政党政治における植民地支配の限界―斉藤内閣期の植民地人事交流問題をめぐる考察』

、一九九七年中京大

中京法学��巻3・4号 (����年)���(���)

学社会科学研究所主催

一九九七年台湾植民地統治史研究の再検討国際シンポジウム論文集』

所収。

(6)

加藤聖文

政党内閣確立期における植民地体制の模索―拓務省設置問題の考察』

、東アジア近代史学会

東アジア近代

史』

一九九八年三月創刊号、三九頁〜五八頁所収。

(

7)川上寿代

台湾銀行救済緊急勅令問題と枢密院」

、『

日本歴史』

第六四一号、二〇〇一年一〇月、吉川弘文館、七二頁〜

八九頁所収。

(

8)

菊池博

「裁判官の罷免―高野孟矩の抗争」

、菊池博

裁判官の罷免―裁判官の身分保障を命がけで守った人』

朝日大学

企業法律相談所、一九九二年、一頁〜二九頁所収。

(

9)

楠精一郎

明治三十年・台湾総督府高等法院長高野孟矩非職事件」

、手塚豊

近代日本史の研究』

Ⅲ、北樹出版、一九

八一年、二三四頁〜二七七頁所収。

(

�)

栗原純

明治憲法体制と植民地―台湾領有と六三法をめぐる問題」

、東京女子大学比較研究所

紀要』

第五四巻、一九

九三年、三七頁〜六二頁所収。

(

�)

小林道彦

一八九七年における高野台湾総督府高等法院長非職事件について―明治国家と植民地領有」

、中央大学大学

論究』

第一四巻一号、一九八二年三月、一〇三頁〜一一八頁所収。

(

�)

小林道彦

後藤新平と植民地経営―日本植民地政策の形成と国内政治」

、史学研究会

史林』

第六八巻五号、一九八五

年九月、一頁〜三二頁所収。

(

�)

呉文星

札幌農学校と台湾近代農学の展開―台湾総督府農事試験場を中心として」

、中京大学社会科学研究所台湾史料

研究部会

台湾の近代と日本』

、二〇〇四年。

(

�)

蔡易達

台湾総督府基層統治組織之研究―保甲制度與警察」

一九八八年、中国文化大学碩士論文。

(

�)

佐藤三郎「

児玉源太郎陸相の辞表捧呈」

、日本歴史学会『日本歴史』

第五〇六号、一九九〇年七月、八八頁〜九一頁所収。

(

�)

波形昭一「

植民地台湾の官僚人事と経済官僚」

、波形昭一・堀越芳昭『

近代日本の官僚』

、日本経済評論社、二〇〇〇年、

三〇三頁〜三三六頁所収。

(

�)

春山明哲

昭和政治史における霧社事件―植民地統治の政治過程分析」

、台湾近現代史研究会

台湾近現代史研究』

外地統治と警察官吏 (王) ���(���)

刊号、八三頁〜一二七頁所収。

(�)

百瀬孝

議員の宮中席次」

、日本歴史学会

日本歴史』

第四八八号、一九八九年一月。

(�)檜山幸夫

台湾総督の職務権限と台湾総督府機構」

、檜山幸夫

台湾総督府文書の史料学的研究―日本近代公文書学研

究序説』

、ゆまに書房、二〇〇三年。

(

�)

檜山幸夫

台湾総督府の刷新と統治政策の転換―明治三一年の台湾統治」

、中京大学社会科学研究所

台湾総督府文書

目録』第三巻、ゆまに書房、一九九六年、解説部三五一頁〜四六〇頁所収。

(

�)

檜山幸夫

「台湾統治の機構改革と官紀振粛問題―明治三〇年の台湾統治」

、中京大学社会科学研究所

台湾総督府文書

目録』

第二巻、ゆまに書房、一九九五年、解説部三二五頁〜四四〇頁所収。

(

�)

檜山幸夫「

日本の台湾植民地支配と外地統治論―台湾総督の緊急律令権を例に」

、大浜徹也『

国民国家の構図』

、雄山閣、

一九九九年、一二七頁〜一五二頁所収。

(

�)

檜山幸夫

文官総督制と明治天皇―日本近代史研究の研究方法をめぐって」

、一九九七年中京大学社会科学研究所主催

一九九七年台湾植民地統治史研究の再検討国際シンポジウム論文集』

所収。

(

�)

檜山幸夫『

台湾総督の律令制定権と外地統治論―「

匪徒刑罰令」

の制定と「

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中京大学社会科学研究所

台湾総督府文書目録』

第四巻、ゆまに書房、一九九八年、解説部四七一頁〜五七〇頁所収。

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植民地下の台湾総督府条例と武断政治」

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台湾高等法院長・高野孟矩罷免事件」

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棟方達也

日本統治期台湾のゴルフに関する研究一―台湾におけるゴルフの草創」

、弘前学院大学

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棟方達也

日本統治期台湾のゴルフに関する研究二―台湾ゴルフ倶楽部の組織化』

、弘前学院大学

紀要』

第三三号、

一九九七年三月、一七頁〜二三頁所収。

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台湾における軍事的統合の諸前提」

、中京大学社会科学研究所

台湾総督府文書目録』

第四巻、ゆまに書房、

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関東都督府官制の改革と関東軍の独立―原敬内閣と対満州行政機構改革問題」

、駒沢大学史学会

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台湾植民地統治と日本人官吏―史的観点からの実態研究」

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台湾総督府土木局の技師について」

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やまだあつし

台湾総督府民政部殖産局の技師について」

、名古屋市立大学

人文社会学部研究紀要』

第一二号、二〇

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、関西学院大学社会学部研究会

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原内閣における植民地官制改正問題―朝鮮総督府を中心に」

、慶應義塾大学大学院法学研究科

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新渡戸稲造における帝国主義と国際主義」

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近代日本と植民地』

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四統合と支配の論理)

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台湾総督府の

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近代日本と植民地』

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二帝国統治の構造)

、岩波書店、一九九三

年、三五頁〜六〇頁所収。

外地統治と警察官吏 (王) ���(���)