12
手むとに詳しい資料がない のだが たしか一年前 戸市に姉妹港オランダのロッテルダムかり、遊 a d u んでいる子供の仰が開 つれてきたニとがあった。そ のマ l プル玉遊びを、多くの人が日本のラムネ玉遊 びのよう主むのだと考えたが、実際は巡 った遊 びだ という新聞記事があったように思う。おそら これ は、日 本のお手玉と同じ遊びではないかと、弘は』 と考えた。 小豆を小 さな布袋に入れて、 男児 のジ 4 ンげり川 よりは幾分大き目に作るお手玉は 、昭 十年代ま 、神 戸の小学校でむ休み時間などに見 勺れたらの だが、私は淡抽出と日本的な遊びだろうと考えていた ころ 一九八五年にニュージーランドから来 プラスチ y ク製のナ クル・ l 個で一 y 遊び 方は日本のお手玉と同じ方治 l a s 1988 4 30 大国正美 神戸 深江 生活文化史料館 副神戸市 W 区深江本町 3 1 5 i 7 A 078 4 53 49 80 尭編 m XZ 問主マ ッス dk 講師 神戸河 a1J 文化史料館理官 日した 友人 を連れて、兵山県存寺町の日本玩円ハ博物 館を訪 た折に 遊べるコーナーにあったお手玉で lAVl お一つ 勾二っとやったところ すぐその友人は同じことをやってみせた。 「ニュ 1 l ラノドにむ 同じ遊びがあります。 ただ道具は 羊の前足の指の第三 骨を使う んです。 γ37ndhf それで その遊びの名は R Zcn R 「何回 C Z (拳 什) 』。以前は肉昆さんに頼んで引を貰ったむので すが 、今 では什の形にしたプラスチ y ク製のもので 遊ぶんです」というニとであった。 実際にニュージーランドに来てみると、街のおも ちゃ匝でプラスチックのナヅクル ボーンはす ぐ入 手できた。該み 近所の 学生に使って 以うと、本 当に 日本 のお手玉と同じ遊び方である。 毛羊を飼っていた英国の遊びであり このニュー ジーランドにむ英国人が伝えた b ので 、隣 国オース トラリアにむ阿織に伝えられた。 ところが 調べてみると、おむしろいことがわか った。 初めてニュージーランドに来航した英国人ジ l ムズ y ク鉛長の報告によると、彼らはニュ ージ l のマオリ人の子 供たち の遊びの中 に. 英国 のナソクル - H| ンと同じものがある 消いてい・ 1 つまリ . 一七六九 年にク ック始長の一 行が来 hd 前から マオリ人の削にはアヤトリ 遊び と共に ナッタル ボーンつまり日本の行手 五と 同出聞 の准びが伝ポされて いた o ただ ての呼 31r R0 22 といい 丸いすべすべした小石を使うので ある。今日でむ地方 伝統的生活を続けているマ オリ人は 小石で遊んでいる。 九八八年 一月にニュジランドの兵 休みを利 して仰向した私は、明石市教育安日会から間学当 件寄 マープリング・キ yズ{畢

によせて - Coocanfukae-museum.la.coocan.jp/pdf/bunka11.pdfIa st movemenl wil1 be regarded as“c31ch of four".) Action 2: Five bones in the palm. Sc. ,lI cr thc boncs fr orn

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手むとに詳しい資料がない

のだが、たしか一年前

に神戸市に姉妹港オランダのロッテルダムかり、遊

町司

adu

んでいる子供の仰が開・つれてきたニとがあった。そ

のマ

lプル玉遊びを、多くの人が日本のラムネ玉遊

びのよう主むのだと考えたが、実際は巡った遊びだ

という新聞記事があったように思う。おそらくこれ

は、日本のお手玉と同じ遊びではないかと、弘は』

と考えた。

小豆を小さな布袋に入れて、

男児のジ4ンげり川

よりは幾分大き目に作るお手玉は、昭和三十年代ま

で、神戸の小学校でむ休み時間などに見・勺れたらの

だが、私は淡抽出と日本的な遊びだろうと考えていた。

ところが、

一九八五年にニュージーランドから来

プラスチ

yク製のナ

ツクル・

lン。王個で一

セyト。遊び

方は日本のお手玉と同じ方治

l明なa s川

1988・4・30

神戸

・深江

〒副

市W航海区深江本町315i7

世話

A078》

453

4980

尭編行 m

X

Z問主マ

ッス

dk学講師

神戸河

a1J文化史料館理官

ノ、

日した友人を連れて、兵山県存寺町の日本玩円ハ博物

館を訪ねた折に、遊べるコーナーにあったお手玉で、

オlAVl一フ、お一つ、勾

すぐその友人は同じことをやってみせた。

「ニュ

1ジ

lラノドにむ、同じ遊びがあります。

ただ道具は、羊の前足の指の第三骨を使うんです。

γ37ndhf

それで、その遊びの名は『RZcnR「

CZ開印

(拳

の什)』。以前は肉昆さんに頼んで引を貰ったむので

すが、今では什の形にしたプラスチ

yク製のもので

遊ぶんです」というニとであった。

実際にニュージーランドに来てみると、街のおも

ちゃ匝でプラスチックのナヅクル

・ボーンはすぐ入

手できた。該みに近所の小学生に使って円以うと、本

当に日本のお手玉と同じ遊び方である。

毛羊を飼っていた英国の遊びであり、このニュー

ジーランドにむ英国人が伝えた

bので、隣国オース

トラリアにむ阿織に伝えられた。

ところが、調べてみると、おむしろいことがわか

った。

初めてニュージーランドに来航した英国人ジ

ェlムズ

・クyク鉛長の報告によると、彼らはニュ

ージ

lランドのマオリ人の子供たちの遊びの中に.

英国のナソクル

-H|ンと同じものがあるのを見て

消いてい・

1つまリ.

一七六九年にク

ック始長の一

行が来hd

前から、マオリ人の削にはアヤトリやバト

ン遊びと共に、ナッタル

・ボーンつまり日本の行手

五と同出聞の准びが伝ポされて

いたo

ただ、

ての呼称

3

1

r

R022といい、丸いすべすべした小石を使うので

ある。今日でむ地方の、伝統的生活を続けているマ

オリ人は、小石で遊んでいる。

一一一

一九八八年一

兵休みを利

川して仰向した私は、明石市教育安日会から間学当

件寄

マープリング・キ yズ{畢

Page 2: によせて - Coocanfukae-museum.la.coocan.jp/pdf/bunka11.pdfIa st movemenl wil1 be regarded as“c31ch of four".) Action 2: Five bones in the palm. Sc. ,lI cr thc boncs fr orn

lランド教育古カリキュ

ラム開発叫絹

「マオリ由選ぴと踊

り」より

政怠

〉三党医

Fig. I

Actlon 1: Hold fivc bonc:s in the palm of your hand -A, 8, C, D, E. Throw up all fivc bonc:s at once just high c:nough 10 allow lime 10 tum your hand with thc palm down and fingc:rs slightly sp同 ad,fig. 1, so thnt you can catch as many bones, as possible on thc: back of your hand, fig. 2. Throw up thosc c3ught on Ihe back of thc: hand and calch thcm again in Ihc palm. Put thc:se aside in a Iittle heap, kcc:ping one as a “thrower'¥E. Throw up E, pick up onc of Ihose not caught on the back of thc hand during Ihe firsl movemcnt, calch the “throwcr" as it falls in the same hand. Put the onc picked up aside with the heap, kceping E as the "thrOwer". Continuc throwing up E and picking up any more bones which were nol in the heap until they are all in a heap except E. Throw up E, pick up all four (thc: heap), and calch E. (This Iast movemenl wil1 be regarded as“c31ch of four".)

Action 2: Five bones in the palm. Sc.,lIcr thc boncs frorn an uplurncd palm by withdrawing the palm. Pick up “throwcr", E. Throw up E al¥d pick up A, c3tching E as it falls; put asidc A. Rcpcat picking up n, C, D, in turn until Ihcre is a hc:ap consisting of A, D, C, 0, thcn “catch of four"

を話し手にしたフォーラムの司会役を依頼されたロ

州市教委の友人雌升苫年氏りの担当する別行中央行

年大学という市民講座の一環であるこのフ

ォーラム

の当円、払はお手玉を削山学生たちにやって見せた。

オーストラリア

・中肉

・インドネシア

・アメリカか

Fig.2

一憾に,てれぞれの凶にこの遊び

が迎った辺只で行ねれていると発、はして、害加した

別有市の山口者に強い印後を残した。小川ではけ本州

憾の布の小袋だということであ

った。

t

wL

お手玉と呼ぷにせよ、

7ックル

・ポ

、マlプ

ル玉遊び、コルルと呼ぶにせよ、

一体この遊びは

日山

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町日

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0

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W山

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らの留学生たちは

Actlon 4: Five bones in hand. Throw up E, and when it is in the air put down on Ihc ground in onc comcr of al¥ imaginary square A, B, C, D, and catch E Throw up E and pick up D, C, D, and calch E. This leaves A in one corner of an imaginary square. Throw up E and put down 8, C, 0 in the next cornc:r, and c31ch E. Throw up E, pick up C and D, Icaving B in that comc:r. Throw up E, put down C and 0, in thc ncxl corner, and calch E. Throw up E and pick up D, leaving C in thc comcr. Throw up E and put down D in the lasl corncr, catch E. A. n, C. 0, should be in thc four corners of a squarc:, fig. 3

どこかりいっ伝帰したらのか。点洋に始ま

ったのか‘

凶洋から来たのか。身近な生活の中にある、人矧学

の研究対象である。

二九八八

・二

・二五}

(制者一H)

この除はマ

lプリング

・キ

yZ品開といい、

メリケンパ

lクの神戸向洋間物館点問の広均にある。

仰ド港とロ

yテルダム港の姉妹

mMmニ」I周年を氾念

し、六十二年五月.ロッテルダム港より附られた。

伐の説明文には「二人の子供が遊びに削興じているビ

ー玉は、オランダから最初に神戸に伝えられた

bの

です」とある。

Act10n 5: E in hand, olhc目 incorners. Throw up E. Pick up A bctwecn thc first fingcr and thumb, fig. 4, catching E at Ihc basc or the palm. Throw up A 3nd change E with n bul as E is put in lhc corncr or n pick up D with h唱crand lhumb catching A 31 basc or thc palm. Conlinuc scqucnce round thc squarc with cach bonc in turn 。

"a,

ー ;$;:.三ごζ部 ,

Fig.4

2-

フ三塁手

Fig.3

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特別展

「近代の着物に見る生活史」によせて

ー館蔵資料の整理と民俗資料の語ること

館政資料の献血却を本格的にはじめてはや二年がた

つた。それまでに深江の深山氏をはじめ多くの方々

かう脊問いただ

いた資料は、約六千内にのぼってい

た。当時は、替問者名と大まかな分額がやっと分か

るというところで、日開示がえを行うにもどんなもの

がどζ

に収められているのかを、飢のスタ

y7の記

憶に頼って行っている状態だった。そ札が兵庫県情

物館協会の研修会や、主献による勉強山間み重ねに

より、資料のF71タを記峨したカ

lド作リに行手で

Zるまでになったのが、

二年前の

ことである。なぜ

ド作りが大切なのか。博物館の資料は、どこに

何があるのかがナぐにわからなくては、研究にaUM開

示にら使えない。制抑使寄りや白所

・名前がわかつて

はじめて郵便が告京に届:ように、資料も分混信号

や名前、収めてある地所をわかるようにしておかな

くては、探し出すことができなくなるのである。

まず分額需号の体系は何によるのかを決めるのが

問題となった。当館が収脱している資料は、

一般の

博物館と違い、生活維怒と呼ぶにふさ

bしい持段の

生活で使われたむのが中心。いわゆる美術工芸品と

いったむのはほとんどない。したがって専門

3に紹

介されている一般の博物館向けの分知方法では、該

当する資料が一つむない需号があるかと思うレ六も

っと細かく分けなくてはならむい番号があったりで、

カバーし

ZAないのである。ニの資料は何に分額さ

士一料館研究員伊

れ匂のか、いや何に使われたのかのレベルで論却が

分かれるものむあった。

カードの基本とお号のつけ力が決まると、今度は

資料一点一占に番号をつけ、捕まないと判断したら

のには揺りを記入したンルを貼リ、写只を蹴

って

いく作喰がある。名前と帯りの花入されたどけ

のカ

ードでは、それが何号指すのかが具体的にわかうな

いので、写真が必要になって〈る。主た川じょっな

形の股が何占'らあると、どのn'J点がどのカ

lドに対

応するかわかうなくなるので、話円守札全一緒に

mmり、

カlドにネガとての札の番号をいいU3込んで、間瓦心

苦闘ベふ一吋能にして右く。ン

lル貼りし時間のかかる

n主だった~。短冊形に切ったン

lルeZMHりをHH3、

資料に貼ったり、それがで主ない時よ資料を箔」ヘ

れ,てれに貼ったり、といd

た引を.2H-

内について

行った。

また大きさもまちまちの川収不品を並べての展示計

附を立てる時のために、カードには物のト八

3さを紀

録してむかなくては伝うない。どニふ一計れば物の大

きさを的確に表わすことができるか、初会一自の前に

して、うなり戸su山る。

次に川相になったのは、資料を収める助所だった。

名前や番号をつけカ

lドを作ってら、その資料がど

こにあるのかがつかめていなければ何にむなり会い

かうである。しかし、大小様々合資料を明り

nって 子

山帆山川ら

ωは慨しい引である。腕や腕は前心るに呪ね

-J

れず、やっと術には入れたけれと二度と聞けたく

ないと思うこ

IP--限りある収納場所を効率良く使

う~ほとワすればよいか、お上て円本中の家庭と同

し悩みが、七料館で

bqしたのである。

以上のような作官をくり返すこと-一怯余、やっと

ほとんどの日料に弘前や諮りがつ主、カードがで占

た。ニ山作官のおかけで、向山資料がどのくらいあ

るという、全体の情成もつかめるようになった。

今回特別凶として企阿した行物似

b、これ心の中

かJ

パーまれた。抑制時の段附でざっと見附ってむ三|

占は下りないと思われていたかり、それ生りのまと

めがで

3るのではないかと巧えたのであるロ

しかしての成浪は間山中には得J

れそうになかった。

展示をご覧いただければわかるように、収蔵品の荷

物は.ムワ私達が日頃目にしている背物ーとは少し違っ

たむのばかりなのであるe

A

,ではガゼ地やタオル

地内服に変わってしまって見ることができない乳幼

児の白物、訂正月や成人の日にたけはつ仮愉とは柄

id色使いし進う行物述

F

どう組み合わせておる山か、

なぜ桐聞や京地と現地の問に綿が入っていたりするの

か、柄は何と

仁にねからないニとばかりかうのスタートとなった。

しかし幸いな

-ZMに調査に加わっていただける専門

家が見つかった。京都府立大学の奥村万也子先生と

奈良主下大?の相川住

f子先生である。調布と帥担問棋

はまず「J

点の蹴影と保寸、収蔵品全体の特徴をつか

むことかウ始まった。そして一通り基従デlタが揃

ったところで、一占一占の官物に名前をつけて行っ

た。での過程で、色々なことがわかってきた。例え

3ー

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ぱ私述スタ

Y7が何だろう?と首をかしげた'けの作

は、実はお葬式で喪主、またはそれに準ずる人が活

た喪服と分かる、ということもあった。

一年半に及ぶ鞍型の結果、衣料資料の収蔵品はれ

物五十五占

・帯八占

・医療用衣服を含むその他の資

料十一占、という梢成であることが明怖になった。そ

れらのなかには、ロ

シア語のスタンプの押された手

術用の白衣・往診時に若たと思われる男物の被布(コ

l卜)など医療の方而から見てむ興味深いむのがあ

る。また五

f五点の活物のうち、肌に品b近いれ物

である儒枠と、上衣と情伴の間に泊る間着が

3訓を

占め、組になるはずの」衣がないというコレクショ

ンよの特徴があるζとが分かった。出川附いたどいた

深山氏によると、終戦後食加を川町るために上衣を先

ったからだといい、山山hぬところに峨やの跡を

μた

思いがした。このように

一見附在る古析と思える衣

料のうらにむ線々な大史がある。この他に白、生主

h

れたばかりの子供が告たと忠われる和地匹

m文線縮

緬綿入れ康衣には、内側に波のようなしわがたくさ

ん残っていた。これは子供が足をバタパタと動かし

て、蹴ってできた生前の跡なのである。

民俗資料がな味を持つのは、こういった事を資料

がおった時だろう。使った人の生き方、その叫HMMと

なった時代のあり方といったむのは、残された逃具

や衣服に慌実にしるされていく。今後ら継続されて

いく経理や調査によって、それは次第に明

E

りかにな

っていくと思う。当館にM開示されているような資料

を使ったこと、いや見たことむなかったという方々

は、民一市n川から使われていた時代のことを考えてみ

て欲しい。使ったことがあるという方々はモの思い

山を弘達に教えていただきたい。より多くのζ

とを

資料が必れるように。でして

A物にバかれた庇史だ

けではなく、

什刊の前にある物との対抗告通して庇山人

を感じるという事む、大切だと思うのであ・00

葬儀用自特

n屯匝白量減討結説λれ注圭

f下手

西日ホの特色を示す唐箕(様式図)図 t東日本<TJ特色を示す唐箕(様式図)

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展示品との対話同

史料館所蔵の唐箕について

はじめに

史料館には、

日本人が日常生活の必要さから、技

術的に作り出した民具が致多く収蔵されている。し

かしこれらの民具をただ収蔵して展示するだけでな

く、その製作技術

・機能などの研究を進めることが

我々

にとっては必要なのではないだろうか。それら

の民只研究により、民兵そのむのの特徴だけでなく、

その恨本にある、日本人の生活文化の椛造や体系を

追究することが出来るのではないかと考える。

そこで本航では、史料館所践の唐箕を取り上付、

その機能などを追究し、その形態の特色を見ると共

に、府箕に利かれてある紀年銘か・り、流通形態につ

いてむ考察し、人々の生活に民兵{唐箕)が、どの

ような影締を及ぼしたかについて探っていきたい。

(l)慨念

まず庇筑とは何であるかについてだが、わかり易

く解説してあるのが、『日本民俗事典」の説明で、そ

れには

「風力を利用して、品目物の梢枝とくずわら

などのゴミとを選び分ける設機具。箕と同じ仕事だ

が、能率よく機械化されているので唐箕とい

う」と

注《l》

一記されている。殺粒を選別する段具には、殺物の比

重によって風選するむのと、殺物の大ささによるむ

のの二つに分けることが出来るが、箕や底箕等が前

者にあたり、千石とおし

・万石とおしが後者にあた

t一判断研究

u望

る。

使川方法は府箕のヒの山川斗部に性物を抗し込み、

正而の右についている翼車の把手を回す-』とによっ

て風を起こし、第一

の口

(重い割引枝)、第二の口(軽

いくず粒}、第三の口(ちり)主どへそれぞれ落ち

る。作業は一人が挺車を回し、

一人が伎物を流し込

んで作業をおこなう。流血何しは燥しい作慢なので、

年配者が行なったという。

底箕はその名が示すとおり、中国から江戸時代(元

緑川削)に伝わったむので、際家にとってはそれまで

使用していた箕より進歩し、震安された民兵であっ

.。1

(2)特色

町箕の形態は大別すると、東日本型と西日本型の

ニ純傾になる(図11

をの迎いとしては、東日本型

が漏斗部と本体とが一体になっているのに対して、

凶日本型のは、山川

4部が取り外し白山になっている

p

』と。来日本型が鍛物の吹さ出す一括口が正問側に、

二需口が袈側についているのに対し、西日本型は両

方の口とむ正而側に

ついている。そして来日本製が

正問側から見た形として、正方形に近いの

に対L.

西日本型は、慌が縦より約

一・三倍ぐら

い長く、長

方形の形をしていることなど、その他に

b多くの相

退点がある。史料館所蔵の唐箕b、図

2を見てわか

るように、

西日本型の特徴を兼ね備えている。特に

図2

史料館所蔵の唐箕正面図

左上の編斗部が究けており‘把手がつ

いて

いる柱のところに「大阪農人橋弐町司

EE

3》屋

治兵衛」の畳書がある・唐箕町中では

かなり大型的部類に入る。典型的な西日本

裂の特色を示している(図l挙照).「芦屋町

生活文化史」{芦屋市教育委員会発行。

一九

七九)よリ転載.

9・5

J

4 司

-5ー

133.5 181.5

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目州斗部が欠けている占、については、西日本型のもの

は、取り外しが自由だったため、寄附者の佐久間武

一氏の話によると、運搬中に落としてこわしてしま

ったか、あるいは漏

4部ごとどこかへいってしまっ

たのではないかという。

そして西日本型のものだという決定的な証拠には

THV

杷手がついている祖のところに、「大阪政人柄弐口口

・・四度治兵衛」という墨で告かれた銘がはいっ

いることである。大阪段人柄には京産という、民円れ

昨年春、史料館で企聞した小さな特別日開

「郷土玩

具にみる生活文化史」が縁で、先日、思わ由来訪を

受けた。山中市教育努只会の勝川本子さんである。

私が大学卒業後も参加し続けている研究室の古文出

合宿で知り合った人で、現在は文化財担当の属託開

口をして

いる、

という。

この特別展は、

m辺見人前館長が文部省の交換教

師として、一年間ニュージーランドに派山された後、

残されたスタγフで取り組んだ初企聞だ

った。

その概要と狙いについては、本誌九号に、道谷卓

研究員が詳しい阪稿を減せている。私達がこの特別

肢を迎じて訴えたかったのは、郷土玩八九は単なるお

もちゃではない、ということだった。民俗行事をモ

チーフにしたもの、宗教と結びついたもの、首座奨

励など江戸時代の務政策を象徴したむの、木工集団

「木地師」や

「鍛冶屋」など、ある時代、社会的に

語嬰な役削を果たしながら、長い庇史の波にむまれ、

泡の如く消え去った人々の足跡。そんな隆史と民

などを製造販売していた応が、江戸時代中頃から大

正時代末期まで存在して

いた。

『東区史

・経済編』の中でも「明治初年の頃には、

政人情二丁目に京医じ兵術

・同泊兵衛

・問治兵衛

又農人橋詰町に京屋太兵衛等の商舗があった。」と記

住戸時

i

されている。このように史料館所蔵の唐箕は、大阪

政人柄の京躍で製造された西日本型の特色を持った

唐箕だということが以上のことから考証される。

(つづく}

俗の息吹が、

一つ一つの作品の中に生きている。そ

れを伝えたかったのである。

。一山l市教餐は、コレクターからの寄附で、

約百をずす~%,,~'J~~%,,~'J~~'J~~'J~~'J~~'J~ 四

t:;;'J~~\,~'J~~'J~~'J~~'J~ず~ ~'J~~'J~~'J~ t:l~

一史料館からの手紙

文化財と Lての

郷土玩具

占の郷土玩具を所献しているという。政川さんが担

当するのは、考古学泌物を除く文化財全般の路邸だ

が、郷土玩日討を調べるうち

に、

そのおむしろさにの

(l)大塚民俗M'子会編

「日本民俗市中山(」、

二年

(2)芳井敬郎

「位具尚についての民兵論的考

山県」

『日本常民文化研究所訓白報告』第八

集、

一九八一年

(3)『東区史経済編』

一九七

一九四一年

めり込んだ、そう言うのである。

二人で、そんな訴をしているうちに、私達の考え

が間違っていなかったことに、改めて羽びを感じた。

しかし、これまで郷土玩具の研究は、美術家、収

集家の立場から専り行われ、文化財としての地位を

」l

分冊立するに亙っていないの

b事実。勝川さんが

来館したのら、そんなギヤ

yプの中で、自分の考え

を確かめたいと思ったからのようだつた。

勝川さんと官見の一致をむぷと同時に、郷土玩HA

を文化財としてとらえる迩勢の乏しさ、庇史学、民

俗学の立場かうの再検討の必要を揃感日ざるを仰な

かった。

-0ー

一つの小さな俣示が、広がりをもった。その事実

をまず科ひたい。そして、郷土玩只の文化財として

の地位確立を、改めて強調したい。そして、いず札、

第二弾の郷土玩具股b、と秘かに思っている。

(館長代行大国百五)

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展示品との対話山内

史料館所蔵の「寛永通宝L

について

「寛永通宝」は究本三年(一六二六)、水戸の佐藤

新幼によ

って造られたのが始まりと言われている。

但し、これは幕府発行の

「寛永通宝」の先駆的主義

をむつむのではあったが、性佑的には水戸藩の弘鋳

鋭とで

bzHうべきbのであった。

U

市府が公鋳銭としての「究水中VA」を発行したの

は覧本十三年(一六三六)のことである。以後、部

府は明治初期までの約二四

0年間に全国に銭謹こ

六三六年、幕府が銀座年寄秋田宗吾に命じ江戸芝

近江坂本に銭貨の鍛造発行のために設けたのがはじ

まり)を設け「究永通宝」を鋳造し、

一般庶民の銭

貨として判明しまれてきたのである。といってむ、技々

には時代劇の「銭形平次」で使われている古銭と言

ったほうがおなじみであろう。

当初は銭貨に鋳造した年の年号を記入していたが、

後に幕府は鋳造した年の年号にかかわりなく「究永

通宝」という四字の銭文を使用し(従って、江戸時

代の銭貨は宝永通宝

・天保通宝

・文久永宝以外は全

て寛永丸山宝である。)、長期にわたり鈎造されていた

ため、その組組は数百躯に及ぷと

3われている。

尚、現在、古銭家の聞では「江本通宝」を鋳造技

術の上からニ

つに分類し、鈎ほ銭{ナずぽせん)を

用いて、母銭{鋳型のこと)の密体を通用銭にその

まま伝えることができるようになって以後のものを

史料耐山間冗

um出

「新党永」といい、

呼んでいる。

それ以前のむのを

「古克永」と

一一

次に「古究永」と「新究永」について見てみよう。

(l)「古官十水」について

「古克永」は寛文八年二六六八)

に、

後述する

文鍛の鋳造が始まる以前、日本各地において鋳造さ

れた「従永通宝」に対する絶祢である。これには江

戸の芝

・浅草、近江の坂本、仙台、吉

m、怯本、両

国、岡山、官町竹田、

川之品、一Mmの辿仁寺、駿河

の沓谷、江戸の鳥越などの地で鋳造された貨幣があ

る。むとむとは江戸の芝と近

Uの絞本のニヵ所だけ

で鋳造されていたのであるが、幕府が「寛永通宝」

を全国に疏通させようと考えたため前記のような全

国各地に鋳造所を作ったというわけである。

(2)「新寛永」

について

「新克-水」は寛文八年二六六八}江戸の仙出戸村

で幕府直結によって鋳造されたのが始まりである。

この仮初の「新江永」は「文銭」と古い、これは立

文年代にできたことを示すために銭の背而にある内

郭の上に「文」の一字が鋳込まれていることからき

ている。この「文銭」については新井白石の

『折た

く柴の記」にら「寛文の時、凡十六年の問、百九十

七万貨の銭を鋳出せり」と記されており、この時期

;;~ 史料館「寛永通宝J 所蔵リスト

名 称 年代(西暦) 位致 鋳造場所

{古'fi.永)浅草銭 先永13年(J636) 江戸浅草

(新究永)島屋文 1E文 8j1三(1668) 2 江戸亀戸村

11 )正字文 M 11 2 11

11 )延宝l閤鍛造銭 延宝元年(1673) 2 11

11 )四ツ宝銭(広永) 31永5年(1708) 3 11

11 )丸屋銭 正徳 4年(1714) 11

11 )草保j問(背広佐) 事保2年(1717) 越後国佐渡郡中目川

11 )京都じ条銭(退永) 事保11年(1726) 京都七条

11 )鹿ノ尾小字(十万坪) 元文元年(J736) 江戸深川十万坪

11 )細字背元(大坂) 'J'i保元年(1741) 2 大坂高iIl新地

11 )IE字11波(四文銭) nJj和 6年(J769) 5 江戸深川千田新田

-7-

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に非常に多くの鍛貨を

m帥附したことがうかがえる。

しかし、江戸時代も中期以後になると紫材の不足か

ら鉄で造った欽一文銭や、明和則二七六四

i一七

七こには一文銭よりひと回り大きい、叫けに波型の

ある凶文銭(一枚で四文に通用)が登場したのであ

った。このような「新立永」はその後、明治二年二

八六九)までの二百年間、庶民の銭貨として親しま

れ、日本各地で造られ使用されたのである。

三数百樋と言われる

「江本通白血」の中で、史

料館には合計二十一日政の「兆永一通宝」が所蔵されて

いる。これらの

「覧車泊安」を芦副市教育袋nH会の

岩本昌三氏に御協力いただき、組類の選別をしてい

ただいたところ、十一刷新の「立氷通宝」に分知で

さることがわか

った。その内わけは「古江本」が一

一枚、「新克永」が十組二十枚であり、「新克永」

の中には四文鍛が一刷五枚含まれているよ詳しくは

前頁の史料館「克永通宝」所蔵リスーを参照)

中でも目をひくむのは「新立永」のうち、通称「品

展文」といわれる「見永通宝」である。これは寛文

八年二六六八)、江戸亀戸村で鋳造された、銭の背

面に

「文」という字がある「文銭」で、この「文」

という字の字体が「島屋文」という俗称で呼ばれて

いるむのである。この

「品川民文」の「立永通宝」は

現存する数が少ないためか、古銭家の問では訓常に

日制な舶がつ付られており、山

HRな資料と宮えよう。

数百舶ある「究-亭岨宝」のうち、わずか十一組、

二十一枚のそれではあるが、その

一枚一枚にはそれ

ぞれ違った飽きがあり、当時それを使った人々のぬ

さて

くむりが時代を越えて今ζ

こによみがえるようであ

る。「克永通宝」のほかに

b多くの貨幣資料が史料館

に所蔵されているが、それらについてb次の機会に

紹介してみたいと思う。

寛永通宝「島屋文」寛文目年 (1668)

寛永通宝「当四銭正字(11波)J明和 6

年 (1769)これ一枚で通常の寛永通宝

4枚に相当

取り扱い書籍

近世土地制度史料

一OOO円

近世山政民政史料

一OOO門

二五O内

三OO円

九八O円

LK〉守

ノノ〈

F

血邸巡の住

OO円

魚川出辺マyプ

O向

指い砂泌と背い尚

二OO円

兵仰の街道い占むかし

一000円

民仰の伝治前

一地

一OOO円

兵防の伝説第二県

一二

OO円

鎖国前夜の海外見てある記六五O門

旧加古郡の辺際朱i

五OO円

一九八三

九月1八四

・八月合間本

二五OO円

OO円

七OOO内

一OOO円

本庄付史資料編節

一巻

本庄村史資料制第二巻

神戸の歴史ノi卜

班漉歴史散些

神戸の歴史掠検

神戸の伝説倣宇

-8ー

道鹿児

鹿

削刊百号記念

選・神戸地方史の研究

兵庫の博物館

史料館オリジナルグ

yz

史料館lシャツ

(M-Ll}一二

OO門

史料館パッジ

二五O川

的以辺通行乎形

三五O何

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摂津の考古学からみた東灘臼

東灘区の周辺で、発砲調査という科学的手段が附

いられて実的の知りれてきた制文泣跡の附矢といえ

ば、誰ちが芦屋の朝日ヶ丘遺跡をあげることだろうロ

しかし、この泊跡は長い研究史があるにむかかわら

ず、定外とその性格はわかっていないのである。今

回はこの遺跡を紹介し、弘なリに問川四点のいくつか

を監理しておこうと思う。

報日ヶ丘遺跡(芦屋市朝日ヶ丘町)

芦屋市の東部、六甲山地南館の六鎚荘台地の西端

から南方沖叡平野に向って派出する削日ヶ丘尾般の

前而桃山間台地上に立地する。傑h川は五

Oぷふ白川後し、

南西方への見附うしが良好で.現在は林立する戸川町

で有数のマンション詐をながめることができる。

この遺跡は、一九六四年の

H+昌、市立芦民病院に

至る道路の造成工事中、一占の黒っぽい土器片を採

取した県立芦屋尚校の一生徒によって発見された。

発見者の佐々木幸雄氏は私が古川校時代入部していた

史学研究部の五年院先般であり、現在は一流会社の

エンジニアとなって海外で活開削しているつしく、考

古学からはすっかり述ざかってい心られるが‘当時は

芦の芽グルプきつての考古少年で、この追跡をみ

つけた時b、おそもく彼独特の直観力が働いたに違

いなl

当時、採集された烈っぽい土器のいくつかは藤川

M市軒町長UA2

術作氏宅に届け・つれたという。弥生土躍とは全く即時

なる色調

・総質の土加を一見して、これは古い

bの

だろうと藤川氏む推察し、同年四

1五月、村川行弘

氏が担当者となって緊急発侃剥査が行われている。

調査の機会

bmえた現在、この発砲を第一次調査と

岬んでいる。

第}次調査は、道路面の披地や側滑川削築時の応急

的な発械であったため、南北わずか三

OUと山限定さ

れた地域を調べたにすぎないが、この時、縄文前期

七開聞の岡市純包含岡山が確認されている。発抱区は

A1

Dの凹プロyクに分けられ、日地区では表土(耕

i}・粘土

M・砂白土附・灰出色粘土附・褐色粘土附

砂町土肘鉄分合侵悩が約一

・五幻堆航

L.その下

に叩味約三

OHMの縄文土器包含附がとうえうれたの

izの'o。

包含脳直下の地山一聞には堅くしまった加工而があ

り、ピットが宮製している。地山より一段向いベッ

ドの上に深さ約三

O今の竪穴を穿ち、床而としてい

たようで、附丸方形部告白するニとらあって、一応

住居晶状の生活社と推定されている。この泣怖から

は、三個体分の土碍む出土している。

D地区でら最下問におびただしい打製石鍬を伴う

縄文,川期土協の包含川が辿宵し、石匙

・6H斤・叩右

などの石器au多数倹出されている。

辿跡はこの調査後、本物的な発問問調査を経ないま 人

主、問辺で宅地化が進んだ。このままでは遺跡の全

容が明るくなら生いう白に消滅する危険性むある。

事態を深刻にとらえた芦の穿グループは、戸民市に

公開質問状今一出したり、遺跡保存に向けての要笠丹

を提出した。また、市民集会を開催して.白民巡品川

の向まりを希求した。時は一九七

O年の前後、下火

とはいえ、全共闘必助、大学闘争の協惣もあ

って、

地元の若者たちによる朝日ヶ丘遺跡の保存巡肪は、

今かう岡山えばかなり過激な部分

bあった。

当時、グループ員は朝日ヶ丘遺跡を附刑務制とと・勺

え、泣跡範附の依定、川副一市川造の実態などを論却し、

その削、純文集落論に旋風をまさ起していた水野正

好氏の二棟三単位の附造論主どに強い関心告示して

いたように記憶する。しかし、朝日夕丘遺跡で唯一

検出された住居祉状の退陣附のみでは、資料不足は宥

めず、行政む保存運動側む実態抜きの机上の空論に

走る怖れもあった。

そのような状況の下、市関係者の尽力bあって巡

跡の即位要部が公共用地として取得され、

一九七三年

には、国印補助引哲によっ範閤箆認調査が実施され

た。この謂査は今は亡き藤井祐介氏が担当した。縄

文土掠研究の権城山内山川列博士に師事して、関東地

方で組文時代や旧石総時代の研究を専攻した氏の能

力は、関西でむ末永雅雄問士の限にとまるところと

なり、時惜しい朝日ヶ丘遺跡での本領発仰が期待され

た。

-9ー

調査はとくに束西への遺跡の広がりを担撮するこ

とに掻占…が位かれ、東側に三トレンチ一一

発掘区が、

西側に八トレンチ二七発掘区が設定されている。そ

の結果、

w-X区と咋称された特定の発銀拡に遺物

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集中地内'が認められたが、M川日的に右刷出組成が担阪

できる発問問区は全く存在せず、多討の縄文則石山Mb

その山土状況に安定刊を欠い

ていた。

第二次初恋と呼んでいるこ

の発銅には、学生であ

った私

b何度b現幼にn止を巡び、制作者の牒引氏か

ら発掘の状況を直接教えてもらって

いる。当時、牒

引さんは、「なか生かいい石持が出るけど、包合川川が

ボルダー(流石群)で乱さ札、本体がなかなかっか

めない。辿併は残って

いないかむしれないよと、む

りしていた。ボルダーとは、この追跡の発掘状況を

淵べた地質学名

J

山間保夫氏が三

1一O万年,川くう

のむのとコメントをつけて使われた花山岡岩巨石昨の

乱取印刷を指して使われた川初であるが、その後、矧

似した現象を私も芦屋の多くの発侃現渇で尚認し、

その術訴を路興して

いる。だが、ボルダーの形成年

代を同定するζ

とはなかなか雑しく、朝日ヶ丘遺跡

の場合む前則土総単純附との関係がけっして明瞭に

なっているわけではない。

第二次却資から三

1間作をHMて、地跡向辺はます

ます宅地化が進み、市有地約二九五九平方れにも保

行所辿設の話など、公共川地利川のけ川両が山山された。

さりに、

一九八

一年になると、本決まりとなった市

1973年の第 2主調査風景

』地区民会所組設に伴う引前訓育、附附屯力-H

川正日制

鉄搭移設工事に伴う事前調査が計画された。

乙の訓有は、川石山川

ω研究者として世界的にむ広

く認めりれている山中

一郎氏が担当し、私色調査円以

として参加した。

第三払調査である。

この発協では、次第に出傷してきた文化財保護運

動の総指的立味

b旅ね、何度の純間協総訓査と告発

資料抽出のための土岐

・花粉など各組理化学分析調

内b品行して実施されている。

訓在地出H

は市迎京側

北半の苅所部に四か所、西側W-X区東方にグリァ

ド五か所、

'品川に近い州半部にト

レンチ三本がせれ

ぞれ設定され、初めて原佐川山論的な発掘が行われた。

w-F1ji

t

-

‘t

M川

'

lu

10ー

戸、-、

造情抽出地点付近にあった記念碑

T;

口 "'-, .."', ....:;~. .: ~::

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その結川市、道路東側の高位部では大阪出詳の刊堆

剛山状況が想定でき、ボルダーの多い凶側とは地質的

に大きく異なっていることが判明した。ポルダは

西方にいくにしたがい浅い位置となり、現在の道路

一間あたりが南北方向に微支谷を形成し、泣物の流動

がこの浅い谷づたいに顕著であったことを物語って

いる。

R一二区では、上回にあるボルダーかうクレ

ーンを使って除石し、困難な発明聞を進めたことを山比

えている。ニの区画か告は朝日ヶ丘遺跡で初めて弥

生土器片や中世の土釜片が出土し、妙に新鮮な気分

に浸一ったものである。

発掘深度が附すと、岩波はきりに大きくなり、山

中氏はこれをもって流土椴般の恨拠とみなし、旧石

器の良好主資料は得・りれにくいむのと判断した。

第二次調査の

w-X区に隣接する

R二O慌では、

OO点にむのぽる石烈遺物が服認され、散布の中

心が迫証されるとと

bに、その大部分が純文文化則

のむのと考えられた。この発銅区の粒度分析結巣は、

疏れの遅い粒度の鷲な椛剛山物の上併にポ

ルダ

の附

が存在し、それ〉は明・りかに風化し、パイラン土に

なっている部分zりある。

このように、朝日ク百追跡の川地形、織的環境は

非常に住維でめり、ために第一

1三次の調査の結mI

と解釈にも微妙な相違をむたらしている。

次号では、包含脳の制絡の違い、住居社様の地山

控形逃附の評価、出土純文土協の地域性など、さら

に細部にわたって、問題点に監理を加えていきたい。

{つづく}

朝日ケ丘遺跡の温景(一九七三年二月、車方より)

-スタッフから一言.

4w近年の技術革新により、私達の身の回りかう、数

多くの伝統的な民共が急速に失われつつあリます。

史料館ではそれりの民円芳二つでも、後世に伝える

ため、収集に努力を続けています。今後ら資料寄贈

があ札ば上告しくお願いします。

(Y

M

)

*ただいま本庄共同基地を中心に石造辺品の調査を

行な

っています。近くにあるお地蔵さんなどの石造

迫品などのお話ございました・3

またおしえて下さい。

(H-M)

*現宜、戦争資料及び貨幣の調tH及び

成の

進行中です。尚、当館では戦争資料の中でむ、戦時

下の生活に関する資料、特に、防空ずさん、国民服、

モソ/ぺ、干人斜、慰問袋などの資料が不足しており

主10これりの資料をお持らの方は当館に寄附いた

だければ幸いです。

(T-M)

*三月初めより図川監理の活動を開始しました。こ

れかつがんばり主すので宜しくお願い

します。(F-

A)

*京税、と共に新しい生活が始まり、今、問中川悦紫の

状態です。おら

ついたら、がんばっていきます。

「「Ed

・N)

*今年一年間希望大学に余裕で受かるようにがんば

りますロ史料館の方はあんまり来れませんが来年に

は必ず彼州します。

(Y・O)

*前々からやろうとしていた図告の監理をやっと始

めました。今年は向か一つ大きな布引をやりたいと思

っております。

(N・A)

11-

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川口さっき

友の会 2n43回例会

第 5 回 f~tf!l近を歩く会(香川者 82名)

1-1本 Kーイスカウ i第65団カプスカウ 1. (見学町

小野柄小学校 3年生(見学者 26名)

友の会 W;4,1回例会(参加者 26名)

62年度伸戸史学会日授賞式

記念日理出 「兵庫の庭凶JiLIj H氏

友の合言145回例会(杏1111有 60名)

故若林恭氏 自作集Ijj版記念シンポジ ワム

;; I\1 i~i fJ忠史学とジ t ナリズム」干T引恭氏

「兵lilI以下の近世史研究と帯林氏J八木質浩氏

「経済史研究とi射しJ11辺洋太郎氏

「弥生時代山地甘梨市と伯母野山ill跡」森岡秀人J.,

18~,)

史料館司区務局主事史料館日誌抄

S62{手

10月10日

23FI

II ~I 3日

12月6日

友の会第'16回例会(参加町

史学 会第24四例会

rn合村の成立と 'f1H出制下のj也峨附iilJ大国I仁美氏

「石刊と石~î[殿について」 北湿聴一郎氏

魚崎小学校3年生(見学者 248名)

本山南小学校 3年生(見学者 101名)

東灘小学校 31:1生(見学者 218名}

本庄小学校3年生(見学者 215名)

本山2f:D 小学校 3年生(見学者 198名)

友の金 !n4i回例会 (参加1'1-" 105名)

パスツアー「盟徳太子のmをlWねるJ

友の会 第 18回例会 (参加的 38名)

史料館開設 7)'1年記念 ・友の金総会

的手irニ ュージーラ ン ドと日本との交沙史市説」 日 I辺 O~人J\:

fi'!i池小学校 3均生(見学r,. 146名)

35名)

56311'

1 )'117日

22日

23日

26日

2月5日

6日

7日

11日

研修会への館員派造

562. 10. 16

兵庫県同物館協会学芸以連絡会限

学芸員会議の趣旨説明と協議

見学特別展「姫路城とその時代」

(派遣館員館長代行大国正美)

562. 11. 20

兵附~;~博物館協会第 2 回研修会

見学 柿拍f文出「鬼rrにl闘する常設限」

伊丹市立博物品lf伊丹の自然とL'l史J副i川美術館「装飾と写生JI也

(派JJ1trtlw研究n辺谷!;J 望月友二)

561. 2. 4

N'戸大学教育学部六甲山総合力リキュ

ラム研究会

第 l四六甲山総合カリキ 1ラム研究

発表会

公|出俊業f.(~r,昆.ìûを訪ねて」

「六申J1Jの.'tい立ら」

研究協議

(派泊館只研究員望月友二)

563. 2. 18

昭和62年度判長物館資料l[ji扱研修会

資料のl恒級いについて

講義「資料取鍛の基本J木村盟主氏

(lltf立歴史問物館学芸部長)

間殺と突出j

「仏像O)I[ji敏方m戸佳文氏

(県立医史博物館学芸員}

「絵画 ・工芸のl[ji扱方Hi'村平氏

(県立歴史博物館学芸品)

「文占の取扱方」松判良枯!¥:

(fA立歴史博物館学芸員)

(派遣館員研究凸道谷卓 ・盟)'1友ニ)

神戸市教昨日安品会神戸市眼光訓

戸田市教育香川H会

区役所

同立神戸間船大学神ド史乍会

神戸市立高林植物附本U五位同

明石市立天文科学問ザンテレビ

伸一ド倍悦服巾人間物館大九百円山

口白河グループ

仰げ共川印刷附

日本玩HA博物館御影山校地阿川市

部臼刊少年協議会

時訂シpyピング七ンタ

20日

締/淡路文化史料館 ・科研/永井久主

男 ・ , r~裕 6 山/矢砧文子 ・ 防空 10 ん/出脇はつ ・ i立版図hlH~tðÍ'他 2 占/赤松tfl

附 ・古川柳うたUか。た/腸KiI帥也 ・五

イ奇術I'j風呂/小野朝雄 易経 2IHV今村

治子 ・:日時/寺本主山主 ・絵ハメf子

資料寄II活者ご芳名(刈

町lf(] (j 211~ 9月以降

敬紘略

大l司正主 』蹄/伊1J.!玲子 ・ ., I~柿/相原

正b1-:日結/7[(主党 ・';u気のカサ/ヨl月浩 ・紙幣 5市/杉浦和1J• 1, I ~ru95占ノ西

尾公一 ・世話16占/主塚市教育安民会 -

'r~I 1i'f ,1 内/尼崎市立地域研究史料館 ー ~.!..t

史料館員性民

一-一

-d脱

小帆

一一郎

志井

M

世間

附山内

山人

訓開山地二

大同

事輯周主事

川円九じっ

3

主任研究員

削日川

A松而,十

剛山

山部見知

山本

文脱

員向日正止

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友田会幹事

芯H引

山川

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大川

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作 W (,~i tri ).'t保雄前 '1三弘 三 b!if,-;

兵 III出 仲 i.i,'{ '>'J 小州大雄辺水 Bjぞ;11ifi.i帆 円 増

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