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稿 想の特性を際立たせること。そのために親鷽(一一七三-一二六 二)と、同じ浄土仏教の範疇に入れられる法然(一一三三--一二 二)・一遍(一二三九-一二八九)とを影響比較的に考察する。そし 3- 確化したいと考えている。鈴木大拙(一八七〇-一九六六)はその 便

仏 - jacp.org · 研 究 論 文 2 〉 日 本 浄 上 教 思 想 と キ ェ ル ケ ゴ ー ル は じ め に 本 稿 の 狙 い は 二 点 あ る 。 ひ と つ は 自

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〈研

日本浄上教思想とキェルケゴール

稿

想の特性を際立たせること。そのために親鷽(一一七三-一二六

二)と、同じ浄土仏教の範疇に入れられる法然(一一三三--一二

二)・一遍(一二三九-一二八九)とを影響比較的に考察する。そし

ル (S

. A

. Kierkegaard

. 1813-1855)

確化したいと考えている。鈴木大拙(一八七〇-一九六六)はその

『日

釋  

徹 

る。仏

教と

キリスト教を比較研究する場合、キリスト教を「救い」

タイプと

「悟り」

タイ

プに類型化することが多い。今回も宗教を

便宜上

「覚

悟型」

と「被救型」

に類型して考察を進めて

ゆき

たい。

然・親鷽

・一遍

の三者

とキェル

ケゴ

ールとを比

較す

る場

合、

「被救型」

というおそらくあらゆる文化

に確認す

ることができ

あろう宗教形

態である点は同じ、とすれば理解を容易にするこ

とができ

るためである。つまり三者と

キェル

ケゴールの比較は、

土壌が違え

ば「被狡型宗教」にもこ

ういう差異がある、というこ

とを確認することができる。またそれぞれの人格によ

って

、どう

いう相違が生まれるのかも明確化できよう。

一 

によ

教解

まず

批判

見て

みょ

(一

一七三-一二三二)の『摧邪輪』である。「ここに近代上人有り、

一巻

選択

迷惑

し、

諸人

を以

、反

妨ぐ

。」(浄土宗全書

8-p.375)

とし

、『選

開す

は非

る邪

であ

る。

また道元(一二〇〇-一二一五三)は、

「又

読経

つと

にう

るや

なや

たし

をう

なし

る、

なし

に擬

ほく

いよ

なり

。」(『正

法眼蔵弁道話』大久保本道元禅師全集p. 20)

が様

な宗

仏す

るだ

の仏

、と

批判

特質

考え

批判

は修

一補

的手

た念

だけ

を選

の行

排除

いや

「阿

って

往生

る」

の要

ただ

往生

は南

。」(「一

枚起請

文」『法

然上

人全集』p

. 416)

「凡

いえ

は戒

・定

の三

に過

ぎず

(中略)

の身

は一

をも

一も

これ

て断

の正

(中略)

に予

・定

・慧

の器

。」(弁長

『徹選択集』浄土全

7-p

.95)

仏教思想の基礎構造であった「戒-定-慧」(siam-samadhi

lpanna)を否定するということは、道元が言うようにもはや仏教

れて

い。

の主

だけ

に止

いう

自体

の読

とど

って

たな

デリ

(J. Derrida)

の概

に従

の思

、「仏

の解

築」

る。

っき

た被

の再

「戒-

定-

(Deconstruction)

る、

たこ

は明

二 

概観

に、

一念

向と

分類

の基

々あ

るが

一念

ァウ

タリ

ムと

うべ

・救

強調

タイ

たそ

ンチ

ゼの

うな

であ

一念

に対

マテ

ィズム的保守浄土教

タイプで

あるといえよう。これを法然

引き寄せて見

れば、双方確認することができる。法然の言行

には

一念義

的思

想も多念義的思想もある。法然における

ラディカルな

側面が

一念

義系統を生み、天台僧としての保守的側面が多念義系

統を生

んだともいえるのではないか。そしてこの一念義傾向を極

にまで

推し進めた形態が智真房一遍という人物であ

る。

三 

によ

る日

法然

によ

って解体された仏教は一遍において極

めて日本的

に再

築される。しばしば一遍は、法然・親鸞と

いう流れで

はなく、

平安浄

土教で

ある

空也(九ニ

九七二)、融通念

仏を主張

した良

忍(一〇七二-一一三二)の系列の中で捉えられてきた。近年に

なって

、柳宗悦や唐木順三が日本浄土仏教の完成者として紹介す

るようにな

ったのである。一遍本人は、

「念仏の機に三品あり、上根

は妻子を帯し家

に在りながら、著

せずして往生す。中根

は妻子を棄つると

いへども

、住処と衣食

を帯して、著せずして往生す。下根

は万事

に捨棄して

往生す。」

(「播磨法語集」『一遍上人全集』p. 154)

と述べたと

されて

おり

、法然や親鸞そ

の他の法然門下

を意

識して

いたことが知られ

る。こ

の上・中・下根の分類

はま

こと

に奇異で

ある。こ

の場合

の上根

は親鸞、中根

は法然、下根

は一遍自身であ

ると言われ

るが

、妻帯在家生活

をしながら

の往生

が出

家生活

の往

に捉

いる

にあ

いこ

うで

い者

ので

る。」

つけ

は仏

る。

一遍

めら

た浄

土仏

念で

のも

であ

る。

はや

は自

の境

さえ

って

一遍

の特

にあ

る。

、す

べて

ただ

「南

無阿

に同

「自

無阿

いへ

。」

(『一遍上

人全集』p

. 160)

無阿

弥陀

の外

、能

。」(前掲書p

. 184)

信も

臨終

ない

は同

一化

れて

る。

も不

「信不信をいはず、有罪無罪を論ぜず。」(前掲書p. 175)

「称

われ

かりけ

。」(「補遺」前掲書p

.231)

の札

を配

算」

いう

い形

の根

は、

西

「白木

念仏

があ

る。

だほ

無阿

仏こ

そ理

る。

、白

へ還

よう

たその状態を是とする日本的人間

観を見

ることができる。

法然

によ

って構築され

た「覚悟型宗

教であ

る仏教

におけ

る被狡

型宗教」である浄土仏教

は、一遍

によ

って

日本文化の宗教的心性

であ

る「中空・同質化」の傾向が強化

され

ること

により完成す

のである。

四 

の立

『教行証文類』は、仏教と

いう構造

の中で法然思想の正当性を証

明しようと書かれたも

のであろ

う。『選択集』

をほとんど引

用し

い不自然さがそれを表して

いる。親鸞

は相次ぐ法然への批判に

対して、様々な文献をも

って答えようとした。法然は決して仏教

を解体した異端者ではなく。本来仏教

の中で連綿と受け継がれて

きたものを主張したのだ、そう内外

に示すことが

『教行証文類』

制作の意図である。しかしその目的

は達成

されたのであろう

か。

この著作がその後、法然の正当性・妥当性

の証文として広く用

られ

ること

はなか

った。その意味

において

『教行証文類』

は不遇

の書である。しかし親鸞の強

い個性

は好むと好まざるとに

かかわ

らず主張されることとなり、結果として

『教行証』は親鸞のオリ

ナリティを、法然との相違を顕在化することとなる。

「戒-

定-

慧」という仏教構造の解体

は親鸞

においてさら

に進め

られる。プ

ロセスそのものさえ否定されるかのごとき側面さえ見

せる。「信一念」である。

ただ

たす

心が

って

「仏

のプ

ス」

に比

べれ

、「信

定」

「正

いう

つ。

「法

心往

いう

は正

はな

い。

立脚

一度

いな

い。

はそ

。「某

の念

は本

のか

。」

続け

の構

って

親鸞

の場

「救済

ので

る。

に背

自己

こと

「摂取

の左

ニグ

オワ

トル

ナリ

に仏

から

続け

のが

いう

から

(T’a

n-luan 476-542)

ので

る。

「偏

(Shan-Tao 613-681)

る。

『観

寿

かし

『無

寿

経』

る。

(Vasubandhu 4C)

『無

寿

およ

『無

寿

舎願

大き

く依

から

。『教

いる

容易

理解

る。

は親

のよ

っき

かず

に、

続け

る自

いだ

「悪

にや

し 

り 

るゆ

へに 

づけ

る」(「正

像末和讃」『真

宗聖教全書』2-p.527)

「愚

禿

り」(「愚

禿

鈔」

2-p

.464)

まで

は異

るこ

続け

ので

る。

して、絶対に異質だから同一なのだ、異のまま同、という論理は

に曇

のも

ので

る。

「生

」(曇鷽

『無量寿経優婆

提舎願生

偶註』下巻

『浄土論註

総索引』真宗教学研究所刊p

. 85)

「不

」(前掲書上巻p

. 46)

のこ

は親

に違

い。

よう

「仏

に背

る自

自覚

親鸞

の体

から

た実

う。

えば

はし

ばし

に改

読し

はす

べて

弥陀

の真

妄性

対比

れて

る。

。」(「一遍上人聖絵」『一

遍上人

全集』p

. 33春秋社

1989)

「山

。」(前掲書pp

. 221-22)

五 

1 通底部への考察

dou

bt

調

である。」(拙訳、The Sickness Death, Princeton, p. 126)

。」

ibid

, p. 114

底す

ェル

ケゴ

一を

って

って

(paradox)

でも

っき

って

ェル

ケゴ

い。

った

二項

いる

調す

に捉

る、

姿

「阿

に往

る。」

に明

一遍

ェル

のよ

な緊

確認

一遍

にお

いて

はす

べて

一化

・無

る方

から

ィリ

(P

. Tillich 1886-1965)

日本

かれ

の性

と述

に対

「それは親鷽を知らないからだ。」と反論しているが、つまりそれ

いう

あろ

2 相違点の考察

ろが

べて

は同

一化

(曇

に)

いう

「神

って

「仏」

ので

か。

「神

「阿

。「阿

は私

。」

いう

を示

る。

キリ

浄土

ェル

ケゴ

「神

ので

「罪

はり

「罪

る 

ほり

のご

て 

ほり

し 

おほ

に徳

」(「高僧

和讃」『真宗

聖教全書』2-p

.506)

「本

にあ

ぬれ

ば 

すぐ

るひ

き 

て 

煩悩

の濁

なし

」(前掲書

2-p

.502)

いう

に、

いに

質化

るこ

ので

る。で

「他

問題

はど

うで

おけ

の文

、親

「御

同行

いう

言葉

想す

る人

は多

に違

い。

「一人

の人

んら

の意

は信

るよ

こと

はで

い。」(The point

of View

「田淵義

三郎訳

『わが著作活

動への視点』

キェル

ケゴール著作

集 

水社

18-p

.47)

「私

。」

(ibid,

 p.94)

「著

。「

。」

(拙

Fear and Trem

blin

, Princeton

1983,

 pp.63-64)

「真

「私

。」(ibid

, p. 12」

姿

(thou shalt)

、「還

って

一遍

的(一七一五-一七四六)に言うならば、この同一化・中空化は日

本仏教の「くせ」なのである。その証拠に浅原才市(一八五〇-

一九三二)、お園(不詳)、庄松(一八二〇-一八九二)など妙好人は

(dialectic of qualities)

って

姿

(1) メンシング(G. Mensching)’ハイラー(F. Heiler)など。し

かし

キリ

ト教

ルト

の強

い思

「救

い型

るこ

のと

る。

(2)『長阿含経』二 大正蔵1-p.12

(3

) 法

によ

る解

にそ

かと

こと

は、

「唱

から

る。

オリ

ィを

って

る。

(4) 

は原

理主

タイ

にあ

際、

はこ

の系

った

(5) 

った

め、

のひ

つで

(6) 

いて

「親

一遍

の比

に関

一考

」「中

本文

ただ

(7) 

に関

る著

んど

時期

問視

はご

りで

(8

「浄

」『定本

聖人

2-p.51.

(9) 

「第

の深

「第

の深

とを

おり

のよ

うな

はな

(10) 

親鷽

おけ

る絶

他者

」参

ルと

の仏

・哲

版 

(11) 

る限

「悟

「救

い」

は根

源的

て区

いこ

康四

は論

。「仏

『悟

店 

p. 15

(12) 

「中

・近

おけ

」『宗

収 

(13) ibid, The Sickness una Death

, p. 115.

(14) テ

ィリ

ヒが

特性

「同

」、

「関

こと

は多

の示

。し

かし

「日

いて

(しゃく・てっしゅう、比較文化・比較宗教思想。