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錦絵春画と検閲 Nishiki-e shunga to ken'etsu (El shunga polícromo y la censura)

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Artículo publicado en la revista Bessatsu Taiyo 別冊太陽, para el número especial Nishiki-e shunga 錦絵春画, del 25 de agosto de 2015.Versa sobre la censura hacia la producción de estampas eróticas shunga, en el Japón de los siglos XVII al XX.

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一般的な出版物だった春画

江戸時代の春画に対する取り締まりや検

閲の歴史を理解するためには、その時代の

大衆文化と出版業界において浮世絵春画が

どのような位置を持っていたかを検討する

ことが非常に重要である。つまり木版画の

春画を江戸時代の他の出版物から分離して

特別なものとして評価することは不適切で

あり、浮世絵春画は江戸時代の市場の需要

を満たした多種多様な出版物の単に一つの

ジャンルであったとみるべきである。そし

て出版市場における春画の需要はたいへん

大きく、市井の本屋や貸本屋によってその

要求が満たされたのである。

肉筆春画と違って、浮世絵春画は主に絵

本として販売されていたので、木版画の春

画は、江戸時代の大衆文学の中で発展した。

そのおかげで、今日、草双紙類の中に多く

の艶本を見出すことができる。また、浮世

絵春画の製作や販売に従事していた絵師、

彫師、摺師、版元は、同時に他の多くの大

衆本や浮世絵の生産、販売を担っていた。

したがって、江戸時代の春画に対する検閲

ということで言えば、春画が直接検閲の対

象になったことは非常に少なかったという

錦絵春画と検閲

アマウリ・A・ガルシア・ロドリゲス

ことに留意したい。

浮世絵春画は出版界の他のジャンルと同

様に、その時代の一般的な出版物の発行や

販売の取り締まりを受けていた。実際には

非常に特殊な場合を除き、出版取り締まり

令で春画を直接指名する必要はなかった。

春画と検閲との関係は、出版界の挙動とと

もに出版物の生産に対する幕府からの特定

の懸念に依っていた。したがって出版物の

問屋仲間に対して発布された一般的な出版

取り締まり令は、間接的に春画にも影響を

与えたことが見られる。

浮世絵春画の隆盛と

享保の改革の禁令

享保の改革の初期(一七二一─二三)に、

幕府は問屋仲間の統制下における 出版物

の新たな規制を確立した。主には徳川家の

一族に言及しないこと、珍奇なことや新奇

なことを書かないこと、また豪華な出版物

を作らないことといったものであった。し

かし江戸時代には、木版画の春画の生産と

販売は、版元に課された禁令の目を逃れて、

しばしばアンダーグラウンドで行われてい

たことを忘れてはならない。それによって

春画は幕府の取り締まり令にもかかわらず

広く人々の人気を得ていたである。

ある文化的な制作に与えた検閲の影響を

検討する場合に、禁令によって引き起こさ

れた負の影響だけが論じられがちであるが、

しかしその制御によって逆に生じた陽性の

結果を忘れてはなるまい。浮世絵春画の隆

盛は、幕府の禁令に対処した江戸時代の作

り手たちの優れた戦略を示すいい例である。

当時の浮世絵や大衆文学と同じように、浮

世絵春画は禁令をかいくぐる新しい趣向を

編み出したのであった。浮世絵春画は禁止

されたテーマを隠すために、アンダーグラ

ウンドの特質を利用して、木版画の新しい

技法やパロディーという趣向を試みたので

ある。したがって、こうした新しい技法や

趣向を模索することは、春画の生存のため

だけでなく、町人文化の出版文化全体の繁

栄ためにもいいことであった。そのために

さまざまな工夫をこらした版元・絵師・彫

師・摺師の役割を認めることが必要である。

江戸時代の出版取り締まり令の中で艶本

への最初の言及は、問屋仲間に向けた寛文

期(一六六一─七三)の禁令に見いだされる。

その禁令では、「軍書類、歌書類、暦類、

好色本類」などの疑わしい注文を受けとっ

た場合は、御番所からの指示を求めるべし

と通知されている。ここで「好色本」が、

既成の「軍書類、歌書類、暦類」と同様に

取り扱われていることに注目されたい。さ

らに加えてこの禁令が、江戸の菱川師宣(一

六一八~九四)や京都の吉田半兵衛(?─一

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まざまな社会的に異なる階級の女性を描い

ており、それが社会的身分制度を厳しく維

持することが重要であった武家政治の理念

を逸脱していると見なされたというもので

ある。第二の理由は、西川祐信が当時最も

有名な浮世絵師であり、彼の描いた本がど

れもベストセラーとなっていたので、出版

物取り締まりの効果を最大にするために、

見せしめとして祐信が罰せられたというも

のである。

錦絵春画の繁栄と

出版取り締りの強化

享保の出版取り締まり以後、艶本のかな

りの量がアンダーグラウンドになってしま

った。そして大衆本から艶本の予告広告が

消え、艶本から作家・絵師・版元の実名が

隠されるようになった。この禁止令はその

後も変更を加えながら守られていたので、

版元仲間はその存続のために対策を実施せ

ざるを得なかった。享保二十年(一七三五)

には、大坂の版元仲間は販売を禁止すべき

七点の好色本のリストを発行し、元文五年

(一七四〇)には、浮世絵春画を販売する版

元に対して罰金を実行した。また明和八年

(一七七一)には、京都の版元仲間が『禁書

目録』という書籍を発行しその中にいくつ

かの艶本の題名を掲載した。

幕府の取り締まり令、版元仲間の自己規

制、自己検閲にもかかわらず、浮世絵春画

の出版は停止しなかった。禁令が発布され

た最初の頃は確かに避けられていたが、や

がてすぐに春画の出版は回復し、新しい展

開を見せながら繁栄していった。特に十八

世紀半ばから、「錦絵」という多色彩の摺

技術が発明されると、浮世絵春画は黄金期

を迎えることになる。

享保七年(一七二二)の取り締まり令が

再び強化されたのは寛政期(一七八九─一八

〇一)の改革の時であった。そこでは好色

本類が再び禁止され、書物の奥書に作者と

版元の実名を記すことが強調された。この

寛政の新たな取り締まりでいかなる春画本

が検挙されたかを示す証拠がまだない。し

かし朋誠堂喜三二、恋川春町、山東京伝と

いう有名な作家が寛政期に出版した書籍に

よって検閲されたことは知られている。

六九二)といった浮世絵師たちの旺盛な春

画制作に先立っていたことも注目されるべ

きである。

そうした先行した師宣や半兵衛の勢いは、

その後の二人の絵師、江戸の杉村治兵衛(?

─?)と京都の西川祐す

信のぶ(

一六七一~一七五〇)

によって強化され、空前の浮世絵春画の成

功につながった。特に祐信は最も有名な艶

本絵師の一人であり、後の絵師たちへ大き

な影響を与えた。彼は膨大な数の版画浮世

絵を描いたが、同時に数多くの浮世絵春画

を描いており、幕府の好色本規制のかっこ

うの標的となった。祐信が最も生産的であ

った時期が、享保の改革という江戸時代の

最初の改革期と一致していた。この時に幕

府が春画の木版画の生産と流通を規制する

禁令を直接に実施したことが初めて記録さ

れている。

その事件の詳細な記録は残っていないが、

享保八年(一七二三)に祐信が『百

ひゃく

人にん

女じょ

郎ろう

品しな

定さだめ』

とその

春画バージョンを制作出版

したことによって処罰され、版木は削って

絶版にされたという記録が残っている。『百

人女郎品定』は艶本ではなく、記録で言及

している春画バージョンについては異なる

見解もあるが、『百人女郎品定』の刊行の

日付は、好色本等の出版の取り締まり令が

公布された数ヶ月後であったと知られてい

る。この事件については好色本の取り締ま

りということだけでなく、別の理由も考え

られる。第一の理由は、両本とも当時のさ

西川祐信 享保 8 年(1723) 墨摺大本二冊 大英博物館蔵さまざまな身分・職業の女性たちが描かれ、この図では娼妓たちが支度をする様子が描かれている。宮廷や武家の女性たちとこのような遊女を一緒に並べた本書は発禁の対象となった。

百ひゃく

人に ん

女じ ょ

郎ろ う

品し な

定さだめ

© The Trustees of the British Museum c/o DNPartcom

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これらの三人の作家の中では、恋川春町

の事件が興味深い。春町は黄表紙という形

式を生み出した武家出身の作家であったが、

寛政の改革の一環として松平定信が実現し

ようとした緊縮政策を風刺した『鸚お

鵡む

返がえし

文ぶん

武ぶんの

二ふた

道みつ

』という本によって、寛政元年(一

七八九)に検閲を受けた。しかしその本が

検閲をうけた遠因として、春町が同じ年に

黄表紙の艶本を刊行していたことも関係が

あったかも知れない。その艶本の主人公は

夢の中で大名になるという下級武士で、遊

女や藩内の多くの女性と乱交をくり広げる

という生活を描いたものである。故林美一

氏は、その主人公はおそらく徳川家斉(在

任一七八七年~一八三七年)将軍の放蕩生活

を風刺したものと指摘されている。この艶

本は春町自身の『金き

々きん

先せん

生せい

栄えい

花がの

夢ゆめ

』という

本の春画パロディー本であった。林氏はこ

の本の題名を『遺い

精せい

先せん

生せい

夢ゆめ

枕まくら』

としている。

『鸚鵡返文武二道』が検閲を受けた理由の

一つとして、この艶本『遺精先生夢枕』の

存在があったという証拠はない。しかし両

本ともに武家社会の不様な状態を公にしよ

うとしていることは非常に興味深い。また

両本が幕府から取り締まり令が発布される

直前に刊行されていることも示唆的である。

春町は幕府から取り締りに呼び出されたが、

健康に問題が生じたとして出席せず、その

後すぐ死亡した。

十九世紀前半は江戸の出版界が最も繁栄

した時期である。この時期は浮世絵の各流

派がしのぎを削り、彫師や摺師のワークシ

ョップが成長した時であった。出版物の販

売が急速に高くなると同時に、庶民の識字

率と読解力が高くなった時期でもあった。

それとともに「錦絵」は前例のない技術的

発展を遂げ、木版画春画も新たなブームを

引き起こした。

そんな中で天保の改革(一八三〇─四三)

が執行されて、出版界に対しても猛攻撃が

仕掛けられたのである。天保の改革におけ

る出版の取り締まり令は、浮世絵春画にと

っても新しい重大な事柄であった。またこ

の時期の文献や記録類は大量に保持されて

いるので、春画本に対して実施された検閲

事件に関して詳細に知ることができる。た

だこの時期の出版取り締まりは「好色本」

に対してだけではなく、「役者絵」や「美

人画」の生産と流通に対しても厳しく施行

されていた。そして「合巻」と「黄表紙」

という種類の出版物も同じく厳しく取り締

まられた。そして繁栄していた版元と共に、

著名な作家や絵師たちが検挙された。

『市中取り締まり類集』というような記録

によれば、天保十二年(一八四一)の終わ

りに、遠山金四郎という北町奉行所の奉行

が与力たちに出版事情を探らせたことが知

られている。与力の報告書によると、検閲

から逃の

れようとする書籍があり、取り締ま

り令を嘲笑するような書籍もある

。また

出版の準備にかかっている「人情本」や「読

本」の類の書名についても言及されている。

一方で出版を差し止めるべき春画本の「ブ

ラックリスト」が報告されており、取り締

まり令の狙いとして艶本の重要性を指摘し

ている。その「ブラックリスト」には歌川

国芳や歌川国貞が描いた『仮か

名な

手で

本ほん

夜や

光こうの

玉たま

』(一八二八年

)、『春

しゅん

情じょう

伎ぎ

談だい

水みず

揚あげ

帳ちょう』(

八三六年)、『吾あ

妻づま

源げん

氏じ

』(一八三七年)、『枕ち

辺ぺん

深しん

閨けい

梅ばい

』(一八三八年)などの

書名があがっ

ていた。

その後天保十三年(一八四二)の半ばに、

春画本の生産と流通を再び禁止するための

取り締まり令が発布された。

そして柳亭

種彦と為永春水という有名な作家が取り締

まりの対象となり、二人の『偐に

紫むらさき

田いなか舎源げ

氏じ

』という合巻と『春

しゅん

色しょく

梅うめ

児ご

誉よ

美み

』とい

う人情本が検閲の対象となった。しかし春

水に対する摘発の理由はその人情本によっ

恋川春町 寛政元年(1789) 墨摺中本三冊 立命館大学アート・リサーチセンター林美一コレクション黄表紙の名作「金々先生栄花夢」のパロディ本で、原作と同じく「邯鄲の枕」をテーマにしている。同書は「遺精先生夢枕(いせいせんせいゆめまくら)」の改題本で内容は同一のもの。

好こ う

色しょく

魂こ ん

膽た ん

遺い

精せいの

夢ゆ め

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てだけではなく、彼の『春色梅児誉美』の

艶本バージョン本である『春

しゅん

色しょく

初はつ

音ねの

之うめ

女』(一八四二年)という

春画本も同時に摘

発された。

明治以降に

「猥褻」という概念で検閲

さて、春画に対する江戸時代の禁止令の

理由はどこにあったのだろうか。

この問題を論じる際に、江戸時代と明治

以降の春画の検閲の理由が大きく違うこと

に留意することが重要である。いわゆる「猥

褻」という概念によって、道徳的な理由で

春画を検閲し始めたのは明治時代以降のこ

とである。春画が人に性的な邪念を催も

よお

させ

道徳的な嫌悪感を与えるという理由によっ

て検閲されたのは、明治時代以降のことで

ある。これに対して、江戸時代に春画が検

閲の対象となつた理由は、性そのものと関

連したことではなかった。幕府が懸念した

ことは、春画のみならず一般的な出版物や

町人文化が既成秩序を壊しはしないかとい

うことであった。したがって、江戸時代に

はすべてのエロチックな視覚作品が禁止さ

れたということではなかった。それは幕府

が立派な肉筆春画をまったく取り締まらな

かったことや、そうした作品を実際に所有

し賞美していたことによっても理解されよ

う。江

戸幕府が望ましくないものとして懸念

したのは、商業的に成功した浮世絵春画に

対してであった。実際、春画に対して取り

締まり令が発布されたのは、出版界におい

て春画が大きな人気を得て繁栄期に入ろう

とする瞬間であった。そして実際に検閲さ

れた作家や絵師、版元はその時代の出版界

において著名な人物たちであったため、そ

れは彼らに対する牽制として最も効果的だ

ったからである。しかしそれは反か

って浮世

絵春画の進化を煽り、大衆文化による経済

活動の成長を促し、幕府の統制的な経済秩

序の崩壊を大きく揺らがすことに貢献した

といえよう。

(エル・コレヒオ・デ・メヒコ大学院大学アジア・ア

フリカ研究センター教授)

歌川国貞 文政 11 年(1828) 色摺半紙本三冊 国際日本文化研究センター蔵浄瑠璃「仮名手本忠臣蔵」のパロディ本。討ち入りを擬して炭部屋で一儀に及んだり、珍しいお産の場面などがあったりと多彩な内容。

仮か な

名で

手ほ ん

本や

夜こうの

光た ま

歌川国芳 天保 9 年(1838) 色摺半紙本三冊 国際日本文化研究センター蔵曲亭馬琴の長編小説「新編金瓶梅」の艶本化。富豪の姦夫西門慶の強烈な欲望の世界が描かれている。

枕ち ん

辺ぺ ん

深し ん

閨け い

梅ば い歌川国貞 天保 13 年(1842) 色摺大本三冊 

国際日本文化研究センター蔵 為永春水作の人情本「春色梅)兒譽美(うめごよみ)」の艶本化。巻中に六人の婦女が登場するところから六女と書いて「うめ」と読ませている。

春しゅん

色しょく

初は つ

音ね

之の

六う め

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