16
「真下飛泉伝」の試 七六 「真下飛泉伝」の 「戦友」成 真下飛泉は平和を求めてやまたい明治の教師であった。 の学校と家庭用唱歌として作った「戦友」は軍歌として歌われ ら戦争の悲惨さを訴える反戦詩であったのではたいか。忘れられた 明治の反戦詩人真下飛泉、これが私が本誌十七号にひきっづき彼の 伝記を書く理由である。 飛泉真下滝吉は明治十年(一八七八)十月十日、京都府加佐郡河 守村(現大江町)に生まれた。土地の高等小学校を卒業後、二十八 年四月、京都師範学校に入学し、先輩の和郷木船金雄の影響で『文 庫』に創作を発表するようになった。木船和郷は『少年文庫』やそ の後身の『文庫』の熱心な投書家で、新体詩人の名を得ていた。和 郷は同じ投書家の堺の河井酔茗、常陸の横瀬利根丸(夜雨)、信濃 の塚原伏竜(島木赤彦)京都府立医学校の伊良子す父しろのや達と 交際が生じていた。伊良子す£しろのやとは学校 親密な行き来があった。飛泉も和郷の縁です£しろの ようになった。 明治三十年四月、大阪在住の投書家達に1よって、 「浪華青 会」が結成され、機関誌『よしあし草』が発刊された。幹事長は春 雨中村吉蔵、幹事梅渓高須芳次郎で、会員には天眠小林政治がいた。 三十二年三月、飛泉は京都師範学校を卒業し、京都市立有済尋常 小学校の訓導となり、関西青年文学会(三十二年一月、浪華青年文 学会を改称)に入会、創作を載せた。七月には、京都支会を組織し て幹事の一人となった。 明治三十三年四月、 『明星』が創刊されるや、早速会員となって 投稿しはじめ、そのうぢ幾首かは『明星』に発表された。三十五年 一月二目、金尾文淵堂主人金尾思西、小林天眠が発起人となり「関 西文学同好者新年大会」が開かれると、京都から西川百子等と参加

じ め 「真下飛泉伝」の試みdoshishakokubun.koj.jp/koj_pdfs/02107.pdf · 一月二目、金尾文淵堂主人金尾思西、小林天眠が発起人となり「関 西文学同好者新年大会」が開かれると、京都から西川百子等と参加

  • Upload
    others

  • View
    0

  • Download
    0

Embed Size (px)

Citation preview

Page 1: じ め 「真下飛泉伝」の試みdoshishakokubun.koj.jp/koj_pdfs/02107.pdf · 一月二目、金尾文淵堂主人金尾思西、小林天眠が発起人となり「関 西文学同好者新年大会」が開かれると、京都から西川百子等と参加

「真下飛泉伝」の試み 「戦友」成立を中心として

七六

「真下飛泉伝」の試み

       「戦友」成立を中心として

宮  本

正  章

じ め

 真下飛泉は平和を求めてやまたい明治の教師であった。そして彼

の学校と家庭用唱歌として作った「戦友」は軍歌として歌われなが

ら戦争の悲惨さを訴える反戦詩であったのではたいか。忘れられた

明治の反戦詩人真下飛泉、これが私が本誌十七号にひきっづき彼の

伝記を書く理由である。

 飛泉真下滝吉は明治十年(一八七八)十月十日、京都府加佐郡河

守村(現大江町)に生まれた。土地の高等小学校を卒業後、二十八

年四月、京都師範学校に入学し、先輩の和郷木船金雄の影響で『文

庫』に創作を発表するようになった。木船和郷は『少年文庫』やそ

の後身の『文庫』の熱心な投書家で、新体詩人の名を得ていた。和

郷は同じ投書家の堺の河井酔茗、常陸の横瀬利根丸(夜雨)、信濃

の塚原伏竜(島木赤彦)京都府立医学校の伊良子す父しろのや達と

交際が生じていた。伊良子す£しろのやとは学校も近かったから、

親密な行き来があった。飛泉も和郷の縁です£しろのやと交際する

ようになった。

 明治三十年四月、大阪在住の投書家達に1よって、 「浪華青年文学

会」が結成され、機関誌『よしあし草』が発刊された。幹事長は春

雨中村吉蔵、幹事梅渓高須芳次郎で、会員には天眠小林政治がいた。

 三十二年三月、飛泉は京都師範学校を卒業し、京都市立有済尋常

小学校の訓導となり、関西青年文学会(三十二年一月、浪華青年文

学会を改称)に入会、創作を載せた。七月には、京都支会を組織し

て幹事の一人となった。

 明治三十三年四月、 『明星』が創刊されるや、早速会員となって

投稿しはじめ、そのうぢ幾首かは『明星』に発表された。三十五年

一月二目、金尾文淵堂主人金尾思西、小林天眠が発起人となり「関

西文学同好者新年大会」が開かれると、京都から西川百子等と参加

Page 2: じ め 「真下飛泉伝」の試みdoshishakokubun.koj.jp/koj_pdfs/02107.pdf · 一月二目、金尾文淵堂主人金尾思西、小林天眠が発起人となり「関 西文学同好者新年大会」が開かれると、京都から西川百子等と参加

し、四日にはこの会のため西下した与謝野鉄幹夫妻や『文庫』記者

小島鳥水を京都に迎えて、案内してまわった。この会から、新詩杜

京都支部が飛泉の下宿があてられ、この蒲団屋の二階が毎月の例会

々場となった。例会参加者の中に、若き日の相馬御風の顔があった。

三十三年八月、『関西文学』と改めた『よしあし草』も、有力会員

の相つぐ上京のために三十四年二月に廃刊していた。

 明治三十六年三月十目、有済尋常小学校訓導、飛泉真下滝吉は福

田平蔵の六女タカと緒婚し、左京区東三本木丸太町上ル上ノ町に新

居をさだめた。二人の結びっきは当時では珍らしい恋愛であったが、

その馴れ初めにっいてはよくわからない。飛泉の勤務する有済校に

タカの弟達が在学していたことが、二人の相知るに至った原因かと

思える。飛泉の遺品の中に二人の恋文が残されていて、飛泉のもの

は、 

 花あり燭漫として春を騎る。下を流る二名無川、常に其姿を見、

 其影を宿し、其君を思へども、花はただ枝にか二りて、得るの期

 を知らず。

於是 彼は常に目を閉ざして其下を流れ、綿々と恨みを曳く。鳴

呼、君は花なり、我は名無の小川の流れならざるか。春雨情あり

     「真下飛泉伝」の試み 「戦友」成立を中心として

 て落花流水、相抱きて希望の海にそ二ぐは何れの目ぞ。偏へに君

 が心にあり、如何。

恋人を桜花に愉え、白分を名無川にたとえるといった発想は「明

星」派の短歌に自分の表現活動のすべてを託していた当時の飛泉に

は、ごく自然に着想された表現形式であったろうが、春に矯る燗漫

の花に瞼えられたタカは甥の真下和夫氏の許にある写真を見ても華

やかな雰囲気に包まれた豊頬の人で、それが決して空疎な措辞でな

いことがわかる。

 タヵの返書には、あしたの春風に咲き散りて、君と楽しき一生を

送ることこそ、妾が願いといった意味のことが流麗な和文で認めて

ある。こうした恋文が交わされてから、どれほどの時間が経過した

のか知るよしもないが、もう一つの恋文には、

  結婚を申し込みましたら、御承諾下さるでせうか。一世一代の

 重大な事、終生変らぬ御答へが願ひたい。私の方は終生変らぬ愛

情をっ父けます。御返事次第お母さんに申し込みますから。

とある。この文章は、飛泉の小型の名刺の裏にー走り書きされており、

                          0

タヵの追憶にょれぱ「ひそかに賜はりし」ものであったという。た

まさかの逢う瀬を得た男女の短かい語らいの果てに、男が女の秋に

                       

そっとしのばせた絵模様が想像できる。タヵの返書は、

  妾風情の身に余る嬉しき御言葉、生をかへても決して忘れませ

                     七七

Page 3: じ め 「真下飛泉伝」の試みdoshishakokubun.koj.jp/koj_pdfs/02107.pdf · 一月二目、金尾文淵堂主人金尾思西、小林天眠が発起人となり「関 西文学同好者新年大会」が開かれると、京都から西川百子等と参加

     「真下飛泉伝」の試み 「戦友」成立を申心として

 ぬ。唯ままならぬ世や身を卿ちます。

と書かれて、飛泉の申し込みを受け入れることのできない事情の存

在することを歎いている。こうしたタカの返り事に飛泉は、

  ままならぬ世やの御嘆き今ぞ知りぬ

      知りて夜すがら我が身を泣きぬ

   @

と詠んで、二人の恋の行くての容易でないことを嘆じている。

 飛泉がタカに結婚の申し込みをしてから、約三年後に二人は結ぱ

れたというが、タヵの両親の承諾を得るまでにこれ程の時間がかか

ったのは、よほど強い反対理由があったのであろう。二人の結ぱれ

              

たことをタヵは「奇しきえにし」といっているから、一時は破談の、

ところまでいったのであろう。

                  ◎

 飛泉は新妻タカに次のような歌を贈った。

  汝を措きてあだし心を我持たぱ

      藍の加茂川朱ともなりなん

二人の新居は頼山陽の「山紫水明処」も近く、夕刻には加茂川が藍

に染まり、比叡山をはじめとする東山三十六峰が紫に染まるのを望

む、情趣深いところにあった。隣家は逼息中の山科伯爵家で、その

御曹司の芳麿は春目小学校の二年生であったが、飛泉の家へよく遊

びにー来た。また同じ町内の慈光寺子爵家の令嬢仲子も小学生で遊び

に来るようになった。飛泉は二人の小学生に暮色に染む山や川を眺

                     七八

めながら、アラビアソ・ナイトを語り聞かせたり、月見草の咲く河

                  

原に出て、一緒に唱歌をうたったりした。

 この年の十月、飛泉は京都府師範学校附属小学校訓導となった。

三十六年に訓導として就職した人物を京都学芸大学の『紫郊会客員

及会員名簿』にみると、中に高木六郎の名がある。この人物は国文

                         ¢

学者高木市之助博士の父君であって、博士の『国文学五十年』によ

れぱ、この四月に山形中学から京都師範に移ったという。また、前

年の三十五年度就職組の中には黒本植の名が見える。この人は明治

三十年十月十目の第五高等学校第七回創立記念日に夏目漱石が朗読

した「祝辞」の筆者であると共にその文章の起草者であったろうと

いわれており、漱石はその人問的な人柄や教育への愛情にひかれ、

                 @

深い交遊を結んでいたと考えられている。高木六郎はおくとしても、

五高教授から師範学校教諭となった黒本植にとっては、ここは不遇

としかいいようのない職場と思える。しかし、師範出の小学校訓導

にとって、母校の附属小学校の訓導になることは、非常な出世であ

り、早い時期に市立小学校長の椅子が約束されていた。

 『文庫』の投書家として名の知られた飛泉が訓導となって赴任し

て来るのを喜んだのは、文学愛好家の師範学校生達であった。彼等

は一年ほど前から寄宿舎で「交友会」と名づける同好会を組織し、

機関誌も発行していた。たかには、 『中学世界』 (博文館発行)な

Page 4: じ め 「真下飛泉伝」の試みdoshishakokubun.koj.jp/koj_pdfs/02107.pdf · 一月二目、金尾文淵堂主人金尾思西、小林天眠が発起人となり「関 西文学同好者新年大会」が開かれると、京都から西川百子等と参加

どに投稿して、度々入選している者もいて、なかなか活澄な会であ

った。早速、飛泉を中心にいろいろな会を催すことになった。まず

できたのは「韻文朗読会」で、声自慢の生徒の一人は得意の美声を

放って、当時詩壇の注目を集め、天下の青年の愛諏するところであ

った薄田泣革の「公孫樹下に1たちて」を吟じた。

      かなた  いたりあ

  あ二日は彼方、伊太利の

  古き都の大寺や

  白き廊下の石に伏す

  つづれ      かたゐ

  撞複青なる乞食らが

    へ      くりすます

  月を経て来む降誕祭

  市の儲けを夢みつ上

     え

  ほくそ笑みする顔や射む

                 『小天地』 (第二巻第四号)

                『中学世界』 (第五巻第一号)

という有名な第一連たどは、吟ずる方も聞く方も興奮して、会場に1

している附小の唱歌教室が熱っぽい琢囲気にーっっまれたという。目

曜日などには会員達は三本木の飛泉宅へおしかげ、終目作歌したり、

                          

雑談にふげったり、持ち寄った創作を批評し合ったりした。

二「真下飛泉伝」の試み

「戦友」成立を中心として

 明治三十七年五月二十八目は地久節(昭憲皇太后の)で、附小の

学芸会が師範学校講堂で行なわれた。飛泉の受持ちは五年生であっ

たが、彼は自作の「出征」という唱歌を歌わせた。

      出 征

  ちちうへははうへ

  父上母上いざさらぱ、

      わたし

      私はいくさに行きまする。

  となり   を     うま

  隣家に居った馬さへも、

     ちよ1はつ      い

      徴発されて行ったのに、

  わたし ひと  うま

  私は人と生れきて、

      し    だんし

      而かも男子とある者が、

  おくに ため  ごほーこ

  御國の為の御奉公は、

            まつ

      いつであらうと待うおに、

  きなう       あか

  昨日とどいた赤だすき、

         いさ    ゆ

      かげて勇んで行きまする。

    (以下二連・略)

ちちうへ        ごろ1たい

父上あなたは御老麗、

    やま  はたけ

    山や畑のおしごとも、

   ご むり

どうぞ御無理をなさらずに、

    あさぱん       ねが

    朝晩おやすみ願ひます。

七九

Page 5: じ め 「真下飛泉伝」の試みdoshishakokubun.koj.jp/koj_pdfs/02107.pdf · 一月二目、金尾文淵堂主人金尾思西、小林天眠が発起人となり「関 西文学同好者新年大会」が開かれると、京都から西川百子等と参加

     「真下飛泉伝」の試み 「戦友」成立を中心として

  ははうへ       ぴよ1き

  母上あなたは病気がち、

            ごよ1じよー

      がまん匁さらず御養生。

   いもーと

  オ・妹よおふたりを、

      たいじ   こーこ1たの

      大事に孝行頼むぞや。

    (以下一連・略)

といったものであった。当目は出征丘ハ士武雄役の他に村人その他の

役割があったというから、オペラ風に独唱と合唱の組み合わせで演

じられたらしい。後、これを版行したときも劇的構成で演じること

      o                      @

を指示している。学芸会の日、主役の武雄になった田村真男が後年

                    @

これを演じたおりの有様を次のように述べている。

 師範学校の講堂で、或る日学芸会があって、私のクラスは真下先

 生が特にその目の為めに作られた唱歌を歌ふことになって居た。

 私は「武雄」の彼を振り当てられて、 「村の人」其他色々の役割

 を演ずるクラスメートと共に、足を震るはせながらステーヂに立

 った。

 講堂に一ぱいの笑顔が私達を見てゐる。私はいきなり声を張り上

 げて歌ひ出した。

  ちちうへははうへ

  父上母上いざさらば

      わたし いくさ ゆ

      私は戦に行きまする

         うま

  となりにをった馬さへも……

                     八○

                          、  、  、

 歌ひ始めると場内はだんだん静まって行って、暫くするとみんな

 の顔から笑が消えてしまった。そして冷たい様な静けさの中にあ

             、  、  、

 ちらこちらから忍びやかなす二り泣きがもれはじめた。歌は進む。

  ちちうへ        ごろーたい

  父上あなたは御老体

      やま  はたけ   しごと

      山や畑のお仕事は

     ご む り

  どうぞ御無理をなさらずに…・

 誰も彼もうっむいてしまって、顔を上げて居る人が無くなった。

                   、  、  、

 ふと眼をやれぱ校長先生もほかの先生もみんな泣いて屠られる。

 たよりにする真下先生の眼にも露が光って居る。場内のあちらこ

 ちらで白いハソヶチがちらちらする。幼い私はどうなる事かとオ

 ドオドと胸をと£ろかせて何とはたしに、自分も泣き出したい様な

 のをこらへこらへて、なほ歌ひ続けた。

   ぱんざい  ぱんざい  ぱんぱんざい

   万歳 万歳 万歳

  一同のコーラスが終る。びっくりする様な抽手が湧き起った。

  父を、兄を、息子を、戦場に送ったであらう人々に、此歌は涙

 なくては聞かれない歌であった。

  始めて「出征」が歌はれた時の有様である。

また飛泉自身の記すところによれぱ「幸ひさる所に地久節の学芸会

があって、うたってもらった所が、多くの人が涙を流してきいて下

      @

さった」とある。その結果、

Page 6: じ め 「真下飛泉伝」の試みdoshishakokubun.koj.jp/koj_pdfs/02107.pdf · 一月二目、金尾文淵堂主人金尾思西、小林天眠が発起人となり「関 西文学同好者新年大会」が開かれると、京都から西川百子等と参加

 それからといふものは、あちらからもこちらからも、写させてく

                @

 れ、きかしてくれとの依頼をうけます。

ということになって、歌詞の希望者には蘭窮版で印刷して渡してい

                          @

たが、ひきもきらぬ希望に音をあげて、京都市内の五車楼書店から

出版することにした。発行は三十八年六月二十八目で、菊半裁楽譜

付、定価二銭であった。

』征出『版店書楼車五

 『出征』の歌詞は言文一致体をとっている。この詩形にしたこと

                  @

について、その序文に次のように書いている。

私がいっも残念に思ってゐる事は、子供がうたふ軍歌や唱歌の、

 ことぱがむつかしい為めに、うたひつ上感興に入るといふ様なの

 が少ないことです。でこ二に試みに出します「出征」は、そうい

     「真下飛泉伝」の試み 「戦友」成立を中心として

 う所に-注意して作ってみたのです。

飛泉は唱歌や軍歌の用語を間題にしているが、当時の小学唱歌の歌

詞はどのようたものであったのか。弥吉菅一氏によれば、日本の国

家的新体制が要求した学校唱歌が整備されたのは伊沢修二編の『小

学唱歌』が出版された明治二十五、六年であり、当時の学校唱歌の

特徴は、大体において、

 ○り 詞章が文語調でこどもには難解。

 似 内容が教訓的でありすぎる。

 ゆ 伝承童謡が抹殺されている。

           @

の三点に1要約できるという。このような唱歌に加えて、明治二十五、

六年から同四十年頃にかけては軍歌流行の時代となり、軍歌が兵士

のためのものにとどまらず、 「小国民ヲシテ奮テ義勇奉公ノ壮志ヲ

誘興シ、敵蠕ノ心ヲ喚起セシムル方法」(「大捷軍歌』緒言、明治二

十七-八年)として、 「高等小学校教科用二充ツル」(「戦争唱歌』

明治三十七年)ことになった。軍歌が教育の場に流れ込んで来たの

であった。この十五、六年間には、おびただしい軍歌が作られ、軍

歌集が出版された。

 当時世間に流布した軍歌のほとんどは、詞も内容も児童達の理解

を越えていた。ここに二十六歳の小学校訓導が前人未踏ともいえる

言文一致の軍歌を作ろうとした理由があった。飛泉は『出征』の表

                     八一

Page 7: じ め 「真下飛泉伝」の試みdoshishakokubun.koj.jp/koj_pdfs/02107.pdf · 一月二目、金尾文淵堂主人金尾思西、小林天眠が発起人となり「関 西文学同好者新年大会」が開かれると、京都から西川百子等と参加

      「真下飛泉伝」の試み 「戦友」成立を中心として

紙に「小学校適用言文一致叙事唱歌第一編」と角書しているが、こ

れは小学生に適用可能な、唱歌としての言文一致軍歌のつもりであ

ろう。.

言文一致軍歌の試みは、当時としては破天荒なことではあったが、

それが生まれる土壌は存在した。なるほど、当時の学校唱歌は弥吉

氏の研究のような文語調の難解なものであったが、幼年対象のもの

は、田村虎蔵(当時東京高等師範学校教官)が-&いにはしムいの

    、  、  、

ことぱでこどもの生活感情に合った唱歌を与えなげれぱならないと

いう主張から、盛んに言文一致唱歌を創作し、彼が音楽家納所弁次

郎(当時学習院教官)と共編の『幼年唱歌』(全十冊、明治三士二

                 @

年)には言文一致唱歌が満載されていた。

 一方、明治三十年代の詩壇は十五年の『新体詩抄』以来、文語定

型詩が主流であったが、三十四年以来盛んになった言文一致運動の

影響を受けて、年少者のことぱで、年少者の詩情を年少者の表現形

式で発表するといったものではあったが、言文一致詩が文芸雑誌に

毎年幾編かずっ発表されるようになった。この種2言文一致詩が人

見圓吉氏の調査によると、明治三十六年には、堀内新泉、巌谷小波、

平井晩村、山本露滴、上田万年、桑田春風等によって三十編も発表

       @

されているという。こうした教育界や詩壇の趨勢も飛泉に影響を与

えて、言文一致軍歌の誕生となったといえよう。

 さて、

には、征脚

×臥}

『出征』

オ0

  f

2  ク

3■ヲ

ー.・サ

2ーザ

泌一イ

3 {

3■ウ

. ハ

3-ハ

引. 、

5一ウ

2ロチ

乳・チ

             八二

の序の上段に次のような譜がついていて、

0 〃

一〇■

2■ス

玖・マ

6■、

伽68

 昌

5.廿

6・〃

6’イ

ー■へ

8.・7

38ク

恥.フ

譜の下

 曲譜は三善和気君が軍隊で流行

 ったものを少しく改めて作られ

 たのであります。内容には甚相

 応したものと信じます。

とある。

事実、この譜は石黒行平作詞、永

井建子作曲の「道は六百八十里」

         @

の転詑した「兵隊ぶし」の方に少

し手を入れただけのものである。

堀内敬三によると、この「兵隊ぶ

し」は三十七・八年頃丘ハ隊の行軍に盛んに歌われたものであったと

いう。『出征』の譜ができた事情を想像するに、この頃の軍歌出版者

は、歌詞を委嘱作製し、適当な古い譜を見っげて来て、それを付げ

                   ゆ

て出版するのが常套手段であったというから、五車楼書店側は、飛

泉が先の地久節の学芸会で使った「丘ハ隊ぶし」を利用するぐらいの

っもりではなかったか。ところが飛泉が新しい作曲を希望して、師

                            @

範以来の親友で京都市第五高等小学校の訓導であった撫水林田久吾

                  ゆ

に相談し、撫水が同僚の音楽教師三善和気に依頼して、三善が一応

Page 8: じ め 「真下飛泉伝」の試みdoshishakokubun.koj.jp/koj_pdfs/02107.pdf · 一月二目、金尾文淵堂主人金尾思西、小林天眠が発起人となり「関 西文学同好者新年大会」が開かれると、京都から西川百子等と参加

                   ゆ

作曲したのが前掲の曲譜であったと考えられる。

 『出征』はよく売れたらしく、約四ヶ月後の明治三十八年十月八

日発行の『戦友』の広告には「第一編出征第二十二版」となってい

る。この好評が飛泉に続編を書かせることになったらしい。一ヶ月

後の八月二十六日に、 『露営』が五車楼書店から発行されている。

  はいなうまくら くさ

  背嚢枕に草のうへ

         よ-』

      ごろりと横にたったれど、

  いさ          せんさう

  勇ましかった戦争が

            ねむ

      まだちらついて眠られず。

で始まるもので、主人公武雄が露営の夢からさめて、故郷の父母妹

』友戦『版店書楼車五

「真下飛泉伝」の試み

「戦友」成立を中心として

からの便りを思いかえし、また取り出して読むとき、夜襲のラッパ

の響き、すわ敵と出撃した後は、キラキラと照る月の光ばかり、や

がて遠くであがる勝閲といった内容である。前編と同じく言文一致

体で、

  折から柳にっないだる

       のりうま

   隊長殿の乗馬も

  吹く川風が寒いやら

   イヒソ〈とないている。

という風に表現されている。作曲は三善和気であった。

 『戦友』が発行されたのは、三十八年九月十二日であった。

      くに  なんぴやくり

  ここはお国を何百里

  はな         まんしゆー

  離れてとほき満州の

  あか  ゆ1ひ

  赤い夕目にてらされて

  とも   のずえ  いし  した

  友は野末の石の下

の有名な第一連で始まり、第十四連の、

  ふで  はこ

  筆の運びはつたないが

  あんど        おやたち

  行燈のかげで親達の

  よ       こころ

  読まるる心おもひやり

  おも         ひとしづく

  思はずおとす一雫

                     八三

Page 9: じ め 「真下飛泉伝」の試みdoshishakokubun.koj.jp/koj_pdfs/02107.pdf · 一月二目、金尾文淵堂主人金尾思西、小林天眠が発起人となり「関 西文学同好者新年大会」が開かれると、京都から西川百子等と参加

     「真下飛泉伝」の試み 「戦友」成立を中心として

でおわるこの言文一致詩は、飛泉の名を近代詩史に永久に留めるこ

とになった。この連には悲傷感がただよい、それが厭戦の情に結び

つき、反戦詩と次っている。

 なぜ第三編「戦友」にあふれるような反戦の情が歌われることに

なったのか。その秘密は、この編が次のようた成立事情をもってい

ることにあった。

  「戦友」は実は此のK達の父で当事軍曹で目露の役に出征して

 ゐたのから聴いた事実で私は真実な心持ちで、事実の上に立って、

 感激して筆を執った。

これは『飛泉抄』の「戦友」の譜の下に記されている文章であるが、

K達のKは妻タヵの姉りょうの息子福田貫太郎で、その父とは姉り

ょうの夫直吉であった。福田直吉は深草後備歩兵第三十八連隊に入

隊した。この連隊は第四師団(編成地大阪)の後備部隊である後備

第八、第九連隊と共に後備歩兵第四旅団に編入され、旅順攻撃のた

めに第三軍に配属された。直吉軍曹が負傷したのは、第三次総攻撃

であったらしい。この戦闘は十一月二十六日に開始され、十二月五

目二〇三高地の占領で終わったが、目本軍は一万七〇〇〇人を失っ

た。直吉は帰還後、凄惨な戦場の有様を飛泉に語った。義弟飛泉は

胸中に湧き出た戦争憎悪の気持ちを率直に歌いあげた。第四連の戦

友がハタと倒れたのを、

                     八四

  ぐんりつ       なか

  軍律きびしき中なれど

     み       お

  これが見すてて置かれうか

           だ  おこ

  『しっかりせよ』と抱き起し

  かりほ1たい  たま  なか

  俊繍帯も弾丸の中

には、特にヒューマソな人問感情がみられるが、これなども直吉か

ら聞いた実話に感動して、そのまま詩にしたのであったと思われる。

当時の軍律では仲間同志の負傷者の介護を戦闘カの低下をきたすも

             @

のとして、厳しく禁止していたが、その非人問性に対する批判の気

           ゆ

持ちをこめたものであった。

 飛泉は『戦友』の序文に、

  第一編、第二編に於ては柳か「父母に孝に兄弟に友)なる御勅

 語の精神をこめてみたっもりです。そこで本編の「戦友」は前に

 つづいて「朋友相信じ」の御趣意を以てかいてみました。

と書いている。この序文をそのまま読むと、この歌は戦争に協力し、

軍国主義、国家主義の方向に児童を教導していくために書いたとと

れる。しかし、勅語の「朋友相信じ」などはこの詩の背後にある強

い厭戦思想におしやられて、まったく感じとることなどできはしな

い。序文のことぱは師範学校訓導としての立場が言わしめたもので

あろう。飛泉が生来人道主義的な考え方の持ち主であったことは、

Page 10: じ め 「真下飛泉伝」の試みdoshishakokubun.koj.jp/koj_pdfs/02107.pdf · 一月二目、金尾文淵堂主人金尾思西、小林天眠が発起人となり「関 西文学同好者新年大会」が開かれると、京都から西川百子等と参加

明治三十四年十二月三目付の新詩杜宛の歌稿からもうかがえる。

 もろこしに我生まれしと思ひみよいかにかたしき世のみだれなる

 人の子を船に投げ込み油かけてやきっくせしと聞くはまことか

 もろこしにはびこる国のさま見れぱ神のカの頼まれざるよ

 石くれをパソとなしたる神の子の力のほしき世の乱れかな

 この勺戦友』の譜圭二善和気の手になり、曲譜のできた事情を三

         @

善が知人の後藤捷一郎に語ったところによると、作曲の依頼を受げ

たのは三十八年八月の下旬か九月のかかりであった。当時、彼は二

十歳で京都の二条出ル狭屋町に下宿していた。依頼を受けた目の晩、

ヴァィオリソの爪びきで五っ六っの曲を作ったが、最初に作曲した

のが気にいったので、それをつげることにした。それが今、世間に

流布している短調の西洋音階の曲譜である。またこの曲には、三味

線のムーブメソトが入っていて、二上りで完全に1ひげるが、それは

彼が幼年の頃から三味線に興味をもち、三味線の曲を西洋音譜に,写

すことをよくやっていた関係上、おのずからそうなったものであっ

たという。こうした曲調は日本人の好みに合い、この歌を世に広め

ることになった。作曲家の山本直純氏は「西洋音階で歌われていな

                      ゆ

かったら、現代まで歌い継がれていなかったでしょう」といってい

る。

        、  、  、  、

 しかし、飛泉は丘ハ隊ぶしでないと一般に受げ入れられないと思っ

     「真下飛泉伝」の試み 「戦友」成立を中心として

友 胸作紙

和・

善三職

)しぶ隊兵(

)子煎二羽“(

0・■

   ワ

76ロク

○  午

・1・ビ

78ソ

孔.ナ

6昌,

6..8

68グ

6.一オ

3口一

&ロハ

383

3・ヨ

友残子担一嗣^

0-

3. ノ

ー ・

4一.’

6..7

4■ソ

小・マ

68キ

加一一

68む

6・・〉

・1旨デ

7・y

・19ナ

・1..^

〇一

3・

5日

6一

.18

・1・

・3一・

・3・

・2■

・1・

・28

・2.

・2□

・2一

・2口

・2■

-■リク“ビソナナ8クオ‘^8,

一・て帖さムてにひ■ゆ-いかあ

〇一6

6□

6・

一〇一・

5・

・1■

6・

・18

・2口

・1;

6・

5;

■o・

ノー.-

ソソマキ・ホ、テソナハ

牝しのしいのヘサのは吃一セ

O・

小 デ

7‘レ

外ロサ

6;ラ

山一.チ

引昌

6・一ヒ

78-

一1.一呂

・3□イ

・加一カ

・3□.一

・3.一ア

0.・

  タ

32・・7

3・.ノ

39ツ

3・□イ

4;・ノ

6・.^

4目ズ

4.一ノ

38 ハ

2.・毛

3冒一

2一一}

    、  、  、  、

たのか、兵隊ぶしの譜を一つつけ

加えて、

  左の譜は『出征』のと同様、

 軍隊ぶしの一つです。此歌を此

 譜でうたふのもよからうと思ひ

 ます。

 と書いている。

 次の第四編は『負傷』と題して

主人公武雄が戦闘に。負傷し、広島

      八五

Page 11: じ め 「真下飛泉伝」の試みdoshishakokubun.koj.jp/koj_pdfs/02107.pdf · 一月二目、金尾文淵堂主人金尾思西、小林天眠が発起人となり「関 西文学同好者新年大会」が開かれると、京都から西川百子等と参加

     「真下飛泉伝」の試み 「戦友」成立を中心として

の病院へ後送されて親子対面するという筋になっている。発行は三

十八年十月六目、作曲はやはり三善和気である。

 第五編は『看護』で兄を戦役で失った看護婦が父の命令で従軍看

護婦を志願したいきさっを語る。三善和気作曲で三十八年十月十一

目発行である。

 第六編は『凱旋』で、国民の歓呼のうちに凱旋する武雄達の姿を

写し、勇士の苦労にこたえるべく農工商に励むという国民の意志が

述べてある。この序文に、

  余輩少しく感ずる所あり、言文一致を以て国事を叙事し来り、

 今や此第六編を以て一まず筆を欄くこと二しぬ。幸ひに大方諸氏

 の愛謂を屠くし、遂に……………中 略:・………………:・……道

                          ◎◎◎

 々之を朗詠して役の卑俗なる鼻歌に代らんとす。於是乎、更に新

 ◎◎◎◎◎◎  ◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎

 たに戦死勇士 十二人を選びて漸次刊行し、第一編は己に梓に上

                 、  、  、  、  、  、  、  、  、  、  、  、   、

 して近く諸君の前に現はれんとす。著者の志は我国民をして一は

 、、、、、、、、、、、  ◎00000◎O◎0◎◎◎◎0◎◎

 凱旋の勇士を迎ふと共に、国に殉じたる名誉の将士を忍ぱしめん

 ◎。。。。。 ◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎

 と欲するのみ、これ余輩の正に轟すべき所と信ずる也。

と書いている。飛泉はこの第六編をもって、この叙事唱歌を欄筆す

る意図であったようである。しかし、六編の軍歌集の好評は飛泉に

筆を折らせなかった。ちなみに、三十九年一月七目発行の林田撫水

の唱歌集『遺族の母』の裏表紙の広告をみると、六編の唱歌は次の

ように版を重さねている。

第一編『出征』

第二編『露営』

第三編『蛾友』

第四編『負傷』

第五編『看護』

第六編『凱旋』

第三十版

第二十版

第十八版

第十一版

第十一版

第二十四版

八六

なかでも三十八年十月七日発行の『凱旋』の売れゆきのよさに驚く。

三十九年三月発行の撫水作『お墓詣』の広告には「凱旋第三十六

版)となっていて、第三編の『戦友』三十一版をはるかにおいぬい

て小石。この『凱旋』の人気の秘密はどこにあったのか。目露講和

条約ひ調印は九月五目であるから、 『凱旋』の出版は一ケ月後であ

る。国民がつかの間の戦勝気分から醒めてみると、戦前にまして苛

酷な現実があった。低賃金と物価高に喘がねぱならぬ生活の中にあ

って、真に希求すべきは平和であるという感情のあらわれが、この

歌集の人気となったのではなかったか。

 飛泉が予告した「戦死勇士」の唱歌は作られず、 「戦後の難局に

                        @

入りて、更に国民をして饗ふ研を明らかにするの必要あり」という

理由をっけて、第七編『夕飯』が発表された。

   にいささ      で き

  「兄様御飯が出来ました

Page 12: じ め 「真下飛泉伝」の試みdoshishakokubun.koj.jp/koj_pdfs/02107.pdf · 一月二目、金尾文淵堂主人金尾思西、小林天眠が発起人となり「関 西文学同好者新年大会」が開かれると、京都から西川百子等と参加

     あが            いもう

    お食りなされ」と妹が

普ん         しる

膳をならべて汁をもり

    おやこそろ    ばし

    親子揃ふて箸とって

     ゆき

  外には雪がちらくと

      ふ    やみ  よ

      降って闇の夜寒げれど

     い ろり  あたた

  こふは園億憎の暖かに

      かま     ちや  に

      釜にはお茶が沸えてゐる

と一家団簗のありさまを叙し、生きて還った喜びを歌い、

    とし  め      ムたり

  「お年を召したお父母に

         ご くらうかけ

      いかい御苦労掛ました

      わたし はたら

  これから私が働いて

      きつとあんしん

      屹度安心させまする」。

   わたし         きやうだい

  「妾もさうよ」と兄妹が

         まこと てておや

      たつる誠に父親も

       これ    くはすき

  「いざく是から鍬鋤で

       くに  ため  かせ

      お国の為に稼がうよ」。

と結んでいる。

 次いで、第八編『墓前』で、武雄の友人で戦死した磯部某の墓に

     「真下飛泉伝」の試み 「戦友」成立を中心として

詣っていると、その母が子を連れてやって来る。幼い子は無邪気に

戦争の様子を語れという。武雄は亡き兄さんにかわってお母さんに

孝養を尽くせと語る。

 第九編は『慰問』で、廃丘ハの悲惨をリアルに歌い、いかに明治と

はいえ、勇気ある行為といえた。

 第十編は『勲章』で、武雄は武功により金鶏勲章を受けたが、ま

すます謙虚に身を持して人々から慕われるという筋。

 第十一編『実業』は世界の一等国となった日本の今後の進むべき

                      、  、  、  、  、

道を歌う。国民は実業に励まねぱならぬ。今度は平和の戦争の金鶏

勲章をもらうべく繕励すべしというのである。

 第十二編は『村長』で、武雄は与望をになって村長となる。この

中で飛泉の政治理念が歌われる。

  い            わがくに

  言ふまでもなく我国は

      うえ  てんわう

      上に天皇ましまして

  けんぽう

  憲蒼よりそれぐの

      やくし了        あそ

      役所をおたて遊ぱされ。

  ごせいち  くだ

よき御政治を下さる上

    そのごせいぢ   ぢち  ちと

    其御政治は自治が本

ち ち  ムと    いつそん

自治の本こそ一村の

八七

Page 13: じ め 「真下飛泉伝」の試みdoshishakokubun.koj.jp/koj_pdfs/02107.pdf · 一月二目、金尾文淵堂主人金尾思西、小林天眠が発起人となり「関 西文学同好者新年大会」が開かれると、京都から西川百子等と参加

「真下飛泉伝」の試み 「戦友」成立を中心として

そんちやう       ひと

村長たるべき人にあり。

  いつそん        おさ

  一村まづよく治まって

      いつこくはじ   りゆうりゆう

      一国始めて隆々と

  と   さカ

  富み栄えもいたすなり

      たけを   にんむかろ

      武雄の任務軽からず。

 飛泉は立憲君主制を認め、政治の根本はまず最小単位の村の自治

から始まるとする。村長中心に村が自主的に治ったとき、一国の隆

盛もあるとするのである。第十一編『実業』の実業重視の平和た杜

会の建設を期待する内容とあわせ読むとき、戦争後の生活の安定向

上を期待しながら、見事に裏切られていく民衆の気持ちや国家権力

の重圧にいきどおる思いが伝わって来る。まさしく、苛酷た戦後の

現実に虚脱感を抱き、懐疑と幻滅に落ち込んでいこうとする民衆に、

理想主義者、人道主義者のこの詩人が「郷向ふところ」を示したもの

であったといえる。

 第七編『夕飯』は三十九年三月十六日刊。第八編『墓前』は同年

五月三日刊。第九編『尉間』、第十編『勲章』、第十一編『実業』は

不明。 『村長』は三十九年七月二十八目でこれは作曲者が藤田胸三

郎、他は三善和気である。

 この十二編の口語詩について、相馬御風は、

                     八八

                 @

 わが国の軍歌に一大革新を与へたもの

と評価し、河井酔茗は、

 当時、東京の詩界は有明泣堕氏などの象徴詩が持て灘されてゐた

 時に、口語の民衆的詩風を試みたのは確かに破天荒の企図であっ

 た。目本近代詩の発達上、真下氏の如きは隠れたる功労者として

 逸することが出来ないのである。

     ゆ

と述べている。こうした御風、酔茗の評価を受げるに至ったことが、

実は子供達が「うたひつ二感興に入る」という様な唱歌、軍歌を作

りたいという二十六歳の青年教師の当時の音楽教育への批判にもと

づくものであったのは、明治二十一年に山田美妙が言文一致体詩を

詩語の革新という目的から発表したのと比較すると、興味ある事柄

といえよう。そこには、教育的理想に燃えるが故に京都市学務局と

確執を生じ、教育界を退かざるを得なかった飛泉の後年の姿勢の萌

芽がみられる。

 さて、この十二編の「言文一致叙事唱歌」のテーマは『村長』の

序によると、 「武雄なる侵設的人物に意を寓し、以て愛讃者たる未

来の少年をして、紡佛そのたどるべき順路を示」すところにあった

という。しかし、この十二編が世間の好評に迎えられて次々と書き

次いだものであってみれぱ、 『村長』の稿の筆を欄くときはじめて、

いえたことぱではなかったか。第一編『出征』が書かれた頃は、緒

Page 14: じ め 「真下飛泉伝」の試みdoshishakokubun.koj.jp/koj_pdfs/02107.pdf · 一月二目、金尾文淵堂主人金尾思西、小林天眠が発起人となり「関 西文学同好者新年大会」が開かれると、京都から西川百子等と参加

戦の頃であって、十二編『村長』が出版されたのは、明治三十八年

九月五目の講和条約調印後約一年である。この十二編には、その時

期その時期の国民感情に嚢うちされた飛泉の考え方が反映している

とみるべきであろう。戦争の惨状が明らかになるに1つれ、反戦の思

想が歌われ、戦後の深刻な民衆の疲弊を目にしたとき、平和の大切

なこと、国利よりも民福であることが歌われたのであった。この十

二編には明治の民衆の精神が流れているといえるであろう。

 真の児童のものという目的から作られたこの叙事唱歌も唱歌や童

謡の研究を本格的に■していた大正九年頃になると、こういった長大

な作品は児童生徒に歌わせるものとしては、失敗作であったと述べ

      ゆ

るようになった。

 私の「こ二はお国を何百里」の戦友の如きも、大低は半分頃から

 大分あやしくなって、後半は歌はれないで終ります。即ち焦歴長

 い、思想的な、首尾一貫した内容のあるものは必ず大人の作った

 歌謡です。

この考え方は図画教育におげる自由画主義の影響に-基づいていて、

唱歌においても自由画の主張にみるような児童本位の自発的動的た

ものであるべきであるとするところからきていた。

 さて、 『戦友』シリーズが出版されていた明治三十八年から三十

九年の間に、飛泉は次々と唱歌集を発表している。三十八年度には

     「真下飛泉伝」の試み 「戦友」成立を中心として

『凱旋第二十聯隊』、『凱旋第三十聯隊』、『東郷大将』、『乃木大将』、

『児玉大将』、 『大山元師』、三十九年にには『凱旋第九聯隊』、『広

瀬中佐』、 『南部中尉』、 『沖頑介と横川省三』、 『凱旋おむかへ』、

『目英同盟』、 『岩本大尉』、 『須知中佐』、 『祭目唱歌』、等々であ

る。こうした唱歌集の乱作は飛泉の詩藻の枯渇をもたらしたものか、

三十八、九年には『明星』に一首の短歌も載せず、 『文庫』誌上に

一編の創作も発表していない。しかし、三十九年には、友人の林田

撫水と教育思潮杜をおこし、 『教育思潮』を創刊し、韻文教育法の

研究をはじめている。小学校訓導中のエリートと目された師範学校

訓導にふさわしく教育の道をわきめもふらず歩き始めたのであった。

飛泉が中心になって組織していた新詩杜京都支都は解散に近い状態

になっていた。

 飛泉の『戦友』に影響されて、林田撫水が軍歌集を同じ五車楼書

店から出版していた。 『愛馬』 (三十九年一月)、 『勇士の涙』(同

三月)、 『廃兵』 (同三月)、 『お墓詣』 (同三月)等である。口語

詩ではあったが、生硬で詩情にも乏しく、飛泉に1は遠く及ぼたいも

のであった。一方飛泉の『戦友』は演歌師の独特の歌い方によって、

                ゆ

ますます広く知られ、歌われていった。

○  「悲しき記念目に」真下鷹子『飛泉抄』昭和二年十月二十五目。

@、@、@、@は◎に同じ。

                    八九

Page 15: じ め 「真下飛泉伝」の試みdoshishakokubun.koj.jp/koj_pdfs/02107.pdf · 一月二目、金尾文淵堂主人金尾思西、小林天眠が発起人となり「関 西文学同好者新年大会」が開かれると、京都から西川百子等と参加

「真下飛泉伝」の試み 「戦友」成立を中心として

@ 「あの方のお小さい時」真下飛泉『児童本位」第五号、大正五年十一

 月十日。児童本位杜。

◎ 『国文学五十年』高木市之助著、岩波新書、一九六七年一月二十日。

ゆ 「漱石の『祝辞』についてー漱石と黒本植」北山正殖、『文学』第四十

 七巻第十一号、昭和五十四年十一月に詳しい。

  「休暇漫筆」上島信三郎、掲載誌不明。甥真下和夫氏所有断片。

@ 『出征』歌詞の最後末に記載。

  此軍歌を若し多勢にて唱ふときは、甲乙二組に別ち、初めより「かげ

 て勇んで行きまする」といふ所までは、甲乙二組ながらうたひ、それか

 らは甲組丈「ほめて下され頼みます」までうたふ、今度は又全体が「若

 しも運よう……」より「決してないて下さるた」までうたひて、次に又

 甲組丈「妹よさらぱと立上る」までうたふと、次に甲乙両組共終までう

 たふなどするをよしとす、すべて悲しき所は其心もちにて、声をほそく

 し、勇ましき所、賑やかなる所は、その心もちにて勇ましく賑やかにう

 たふなり。

@ 故田村真男、元目赤京都第一病院長。

@  「追想断片」『飛泉抄』。

@@  『出征』の序。

@ 京都市御幸町姉小路北入、五車楼書店。

@ @に同じ。

@ 「第二章学校唱歌の時代」、「第二章軍歌流行の時代」『目本の児童

詩の歴史的展望』弥吉菅一、少年写真新聞杜、昭和五十年十一月五目。

@ 『目本唱歌集』解説、堀内敬三、井上武士編、岩波書店、一九五八年

 十二月二十目。

@ 「二十二言文一致詩論の胎動H(明治三十六年)」『口語詩の史的研究』

 人見圓吉、桜風杜、昭和五十年三月五目。

リ小”  星・  てに

侠  一と  し机

   }{  で弘

   多台  なバ

且 二  ち

v 二 宗

勿 簑  ま

犬   六」   う俗

ば    2

   気  の一

遂 乏  を

   〃屯

       がま

       ”や

九〇

ゆ 『定本日本の軍歌』堀内敬三 実目新書昭和五十二年十一月十日。

ゆ 林田久吾、号撫水、京都府舞鶴市出身、飛泉と京都師範で同窓、関西

 青年文学会、新詩杜京都支部に属す。京都市の小学校長を歴任、生没未

 調査。

@東京都出身、音楽学校ピアノ科(東音に非ずといわれる 堀内敬三)

 卒業。内村鑑三の紹介状を持って来京。京都の小学校訓導を経て、大阪

 楽天地の楽長とたり、宝塚歌劇団の専属作曲家となる。宝塚時代は歌劇

 の中に巧みに俗曲を生かしたことで知られる。夫人三善芳子さんが大阪

 府藤井寺市道明寺一-六-一七に。在住。この記事は芳子さんの筆者宛書

 簡による。

ゆ ここに、一つの異論がある。飛泉が林田撫水に典譜のことを相談する

 と、撫水は福知山連隊まで出かけて行って、色六軍歌を参考にして現在

 人の知る曲と外に今一つ作った。さうして、三善に十円を与えて作曲の

御礼として三善和気作曲とした。「真下の飛泉について」佐次木仁衛、

Page 16: じ め 「真下飛泉伝」の試みdoshishakokubun.koj.jp/koj_pdfs/02107.pdf · 一月二目、金尾文淵堂主人金尾思西、小林天眠が発起人となり「関 西文学同好者新年大会」が開かれると、京都から西川百子等と参加

@@ゆゆゆゆゆゆ

『岳南』福知山中学校、昭和十五年十二月二十五目。

 「ここはお国を何百里」團伊玖磨、金子潔、『歴史への招待』目本放

送協会、昭和五十五年三月一目。

 この連は第二次大戦中は士気をにぶらせるものとして排斥する動きが

あったというし、堀内敬三氏にょると、「軍律きびしき中たれど」は昭

和二一年ビクター音盤に吹き込むとき、「硝煙うず巻く中たれど」と直

したという。(『定本目本の軍歌』)

 後藤捷一郎、染色史家、民俗学者、澱江と号す。昭和五十五年没。

 この話は「『戦友』とその作者」倶奪庵主人抱石・凌宵舎主人澱江、

『染色』昭和十三年三月に見える。

 「『戦友』……歌い継がれて72年」『読売新聞杜』昭和五十二年八月十

四目版。

 第七編『夕飯』の序。

 「『ここはお国を何百里』の作者」『相馬御風随筆集』厚生閣、昭和十

一年。

 『酔著詩話』人文書院、昭和士一年十月。

 『童謡と其研究』真下飛泉、児童本位杜大正九年十二月十五目。

 演歌師の歌い方は「原曲の八分音符と十六部音符を逆にして,スロー

テソポで切々と歌う」ものであったという。「軍歌の移り変わり」八巻

明彦、@と同書。                S56一6.21

「真下飛泉伝」の試み

「戦友」成立を中心として

九一