2
浦島太郎のひと仕事 富山大学名誉教授 桂木健次 1970 大学院博士課程中途退学 経済と環境保全の二律背反を超える仕事と教育活動 私は一旦法学部政治学科卒後勤めていた福岡県庁を退職し数年遅れて進んだ 九大大学院では、髙木暢哉先生一門、荒牧正憲助教授の許で今で言う持続可能 という視点からフランスのシモン・ド・シスモンディというひとの経済学を研 究していたのでしたが、助手を終えて富山大学に開設され間もない社会環境論 の講義科目を宛てがわれて遥か彼方に誰ぞ棲むの思いで赴任した地に居着いて 四半世紀をすっかり過してしまいました。その間に公害問題の収束課題が経済 学にも課せられたということで、通産省や環境省周りから日本自動車工業会や 自治体からの研究依頼はもとより、金沢大学の総合大学院〈後期博士課程)開 設のお手伝いもあって、あっという間に世紀変わりには定年を迎える時期に来 ていたのです。そうしたある年の暮、お二方のご来訪がありました。関東から 某クルマメーカーが 30 年後を見通した研究所を立ちあげるとのお誘い、そして 福岡工業大学からは青木和男学長が文系からの環境学部の開設というお話でし た。大学院の頃お世話になった統計学の大屋祐雪先生からのお電話もあってこ ちらのお話に協力をさせて頂くことになったのですが、当時の私は文科省から 教育関係の断るに気が引ける外郭の仕事を命じられていました。開設に向けた 学部構想と体制づくりには仕事合間に駆けつけるに吝かでないが即着任という わけに行かなくなってしまいました。そこで大屋先生を煩わせることになって しまいましたが当時九大経済学部をご定年になさったばかりの農業経済がご専 門の宮川謙三先生に学部長予定者をお引き受け頂き、私は富山・金沢ー東京ー 福岡を回るようにして2001年の学部開設に漕ぎ着けることが出来ました。 しかし先生は体調が勝れず福岡高裁を退官の小長光先生に学部長はお願いし大 学本部顧問として関わり頂き、私も授業を非常勤でこなして富大定年の 04 年か ら身を正式に九州に移すことが出来ました。尚、当時は環境系大学・学部開設 のブームが来ていて広島修道大学からも強い要望があって学外教員ということ で完成年度限り毎年夏期に纏めて講義に出掛けていました。 大学院の開設と国公私立四大学コンソーシアム福岡の設置 工業系の私立大学というのは私には初めての経験、とくに学生の気質が永年 の国立大と違っているのと受持つ授業科目の多さに戸惑うばかりでしたが、フ ィールド調査をメインとした授業を組み立て、戸塚ヨットスクールではないが

浦島太郎のひと仕事 S tl

Embed Size (px)

Citation preview

Page 1: 浦島太郎のひと仕事 S tl

浦島太郎のひと仕事

富山大学名誉教授

桂木健次

1970 大学院博士課程中途退学

経済と環境保全の二律背反を超える仕事と教育活動

私は一旦法学部政治学科卒後勤めていた福岡県庁を退職し数年遅れて進んだ

九大大学院では、髙木暢哉先生一門、荒牧正憲助教授の許で今で言う持続可能

という視点からフランスのシモン・ド・シスモンディというひとの経済学を研

究していたのでしたが、助手を終えて富山大学に開設され間もない社会環境論

の講義科目を宛てがわれて遥か彼方に誰ぞ棲むの思いで赴任した地に居着いて

四半世紀をすっかり過してしまいました。その間に公害問題の収束課題が経済

学にも課せられたということで、通産省や環境省周りから日本自動車工業会や

自治体からの研究依頼はもとより、金沢大学の総合大学院〈後期博士課程)開

設のお手伝いもあって、あっという間に世紀変わりには定年を迎える時期に来

ていたのです。そうしたある年の暮、お二方のご来訪がありました。関東から

某クルマメーカーが 30年後を見通した研究所を立ちあげるとのお誘い、そして

福岡工業大学からは青木和男学長が文系からの環境学部の開設というお話でし

た。大学院の頃お世話になった統計学の大屋祐雪先生からのお電話もあってこ

ちらのお話に協力をさせて頂くことになったのですが、当時の私は文科省から

教育関係の断るに気が引ける外郭の仕事を命じられていました。開設に向けた

学部構想と体制づくりには仕事合間に駆けつけるに吝かでないが即着任という

わけに行かなくなってしまいました。そこで大屋先生を煩わせることになって

しまいましたが当時九大経済学部をご定年になさったばかりの農業経済がご専

門の宮川謙三先生に学部長予定者をお引き受け頂き、私は富山・金沢ー東京ー

福岡を回るようにして2001年の学部開設に漕ぎ着けることが出来ました。

しかし先生は体調が勝れず福岡高裁を退官の小長光先生に学部長はお願いし大

学本部顧問として関わり頂き、私も授業を非常勤でこなして富大定年の 04年か

ら身を正式に九州に移すことが出来ました。尚、当時は環境系大学・学部開設

のブームが来ていて広島修道大学からも強い要望があって学外教員ということ

で完成年度限り毎年夏期に纏めて講義に出掛けていました。

大学院の開設と国公私立四大学コンソーシアム福岡の設置

工業系の私立大学というのは私には初めての経験、とくに学生の気質が永年

の国立大と違っているのと受持つ授業科目の多さに戸惑うばかりでしたが、フ

ィールド調査をメインとした授業を組み立て、戸塚ヨットスクールではないが

Page 2: 浦島太郎のひと仕事 S tl

県庁時代の後輩が定年後継いだ農家のお世話で手労働と有機栽培の米作りを学

生たちと一緒に取組み、秋には収穫祭を大学のフロアで学長や事務の方々もお

招きして総勢で催させて頂きました。

こうしているうち、大学院を置くことの必要が出てきて、私がその準備委員

長(初代研究科長候補)を預かり、本部事務方との文科省折衝詣が始まり、大

学院教員資格者三名の補充に九大から定年の先生をお迎えして07年に開設の

運びとなりました〈経済からは加来祥男先生)。しかしこの間に宮川先生をお見

送りすることになりました。お通夜に駆けつけたその晩は先生のお近くにとの

思いでかつての私が県庁時代最後の勤務地でもあった柳川に宿をとりました。

先生の蔵書はご遺志をありがたく文庫として頂き、事務方の渡辺亮太君と後日

ペリカン3台で受け取りに行き大学院生研究室に常設しました。

また、時代は大学院教育と研究のアジアに目を向けた共同化を促しており、

山藤馨学長〈当時)並びに学長参与の NEDO顧問・久留島氏と諮って九州大学・

福岡県立女子大学・西南学院大学の国公私立四大学法人によるコンソーシアム

福岡機構を08年度から設置することになり、文科省からも三年間の事業助成

金を頂けることになり私が最後の奉公としてその初代取組担当を命じられたの

でした。いまは東京に置いたサテライトも入れて各大学院をネットワークで結

んだ共通連携授業と研究が着実に進められているとお聞きしています。ここで

もまたして朋友を失いました。福岡県立女子大学学長席だった高木誠さんで、

彼は私の大学院時代の恩師高木暢哉先生のご長男、大学からは化学工学に進ん

だひとだが高校時代以来の同窓です。合掌。

他人事に、私の九州浦島太郎の暴れも時代に報われたかと、眼前の越中立山

連峰の銀嶺を仰ぎながら微笑んでおります。そのマンションの真横では北陸新

幹線の駅舎建設工事の真っ最中、みなさんご機会がありましたら新田次郎の小

説『劔、点の記』が描いた山々をご案内いたします。