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43 「タカラヅカ共同体」の世界 ──雑誌『歌劇』『宝塚 GRAPH』におけるタカラジェンヌの表象 山本 美貴 はじめに 宝塚歌劇団は1914年に宝塚新温泉の余興を担う団体として誕生した。「宝塚少女歌劇」としての始ま りは、「新たに消費者となった女と子ども、つまり「少女」をターゲットに加え、家族本位の健全な娯 楽産業へ転換する目的があった」〔川崎 1999;2324〕とされる。そのため近代の女学生、つまり川村 邦光が注目した「オトメ」〔川村 1993〕たちの誕生とタカラヅカは関係が深い。少女雑誌群の愛読者で あった「オトメ」はタカラジェンヌをアイドルとして支持していたからである。「オトメ」たちはタカ ラヅカを観劇し、また雑誌などを楽しむ事により、当時女学生の間で禁じられていた異性恋愛や、男性 社会の抑圧からは無縁な「女の園」への憧れを抱いていた。 では「見合い結婚」が「恋愛結婚」に取って代わった1960年代以降、タカラヅカはどのように表現を 変えていったのだろうか。本稿はタカラヅカが刊行する雑誌分析に重点を置き、雑誌から見えてくる現 在の「タカラヅカ共同体」の世界を明らかにする。 特に2000年以降、ファッション誌から誕生した「女子」ブームはタカラヅカに対しても大きな影響を 与えた。『現代用語の基礎知識2014』には「女子」という言葉が加わり、現代女性を表す言葉として 「女子」は、「自由な生き方」と並列されるようになった。 本稿では1970年代から現代までを分析することで、「タカラヅカ」がその時代ごとにどのような存在 であろうとしたのかを考察する。資料として『宝塚 GRAPH』と『歌劇』を用いた。『歌劇』は1918年 (大正7)、『宝塚 GRAPH』は1928年(大正13)に宝塚歌劇団によって創刊され、これら 2 冊の月刊誌 はタカラヅカの公式雑誌ともいえる。 第 1 章第 1 節では、宝塚歌劇団の概要とその研究史を挙げ、第 2 節で女性雑誌の表象を扱った研究史 から「少女」「オトメ」「女子」といった概念の枠組みを論じる。第2章では1970年代から1990年代まで の記事を基にし、結婚観の変遷などの点から分析する。第 3 章で2000年以降の記事と「女子」という概 念を用いて近年のタカラヅカについて考察する。 第 1 章 タカラヅカの概略 第 1 節 宝塚歌劇団の歴史と概略 宝塚歌劇団は1913年(大正 2 )に、小林一三による宝塚唱歌隊として始まり、1914年(大正 3 )に宝 塚新温泉で開催された「婚礼博覧会」の余興として、第 1 回公演が行われた〔津金澤 2006:2 〕。それ 古事 天理大学考古学・民俗学研究室紀要 第22冊 2018(平成30)年 3 月31日 pp.43~58

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「タカラヅカ共同体」の世界──雑誌『歌劇』『宝塚 GRAPH』におけるタカラジェンヌの表象

山本 美貴

はじめに

 宝塚歌劇団は1914年に宝塚新温泉の余興を担う団体として誕生した。「宝塚少女歌劇」としての始ま

りは、「新たに消費者となった女と子ども、つまり「少女」をターゲットに加え、家族本位の健全な娯

楽産業へ転換する目的があった」〔川崎 1999;23─24〕とされる。そのため近代の女学生、つまり川村

邦光が注目した「オトメ」〔川村 1993〕たちの誕生とタカラヅカは関係が深い。少女雑誌群の愛読者で

あった「オトメ」はタカラジェンヌをアイドルとして支持していたからである。「オトメ」たちはタカ

ラヅカを観劇し、また雑誌などを楽しむ事により、当時女学生の間で禁じられていた異性恋愛や、男性

社会の抑圧からは無縁な「女の園」への憧れを抱いていた。

 では「見合い結婚」が「恋愛結婚」に取って代わった1960年代以降、タカラヅカはどのように表現を

変えていったのだろうか。本稿はタカラヅカが刊行する雑誌分析に重点を置き、雑誌から見えてくる現

在の「タカラヅカ共同体」の世界を明らかにする。

 特に2000年以降、ファッション誌から誕生した「女子」ブームはタカラヅカに対しても大きな影響を

与えた。『現代用語の基礎知識2014』には「女子」という言葉が加わり、現代女性を表す言葉として

「女子」は、「自由な生き方」と並列されるようになった。

 本稿では1970年代から現代までを分析することで、「タカラヅカ」がその時代ごとにどのような存在

であろうとしたのかを考察する。資料として『宝塚 GRAPH』と『歌劇』を用いた。『歌劇』は1918年

(大正 7)、『宝塚 GRAPH』は1928年(大正13)に宝塚歌劇団によって創刊され、これら 2冊の月刊誌

はタカラヅカの公式雑誌ともいえる。

 第 1章第 1節では、宝塚歌劇団の概要とその研究史を挙げ、第 2節で女性雑誌の表象を扱った研究史

から「少女」「オトメ」「女子」といった概念の枠組みを論じる。第 2章では1970年代から1990年代まで

の記事を基にし、結婚観の変遷などの点から分析する。第 3章で2000年以降の記事と「女子」という概

念を用いて近年のタカラヅカについて考察する。

第 1章 タカラヅカの概略

第 1節 宝塚歌劇団の歴史と概略

 宝塚歌劇団は1913年(大正 2)に、小林一三による宝塚唱歌隊として始まり、1914年(大正 3)に宝

塚新温泉で開催された「婚礼博覧会」の余興として、第 1回公演が行われた〔津金澤 2006:2 〕。それ

古事 天理大学考古学・民俗学研究室紀要 第22冊2018(平成30)年 3月31日 pp.43~58

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から現在に至るまでの宝塚歌劇団の変遷は、『宝塚歌劇 華麗なる100年』〔朝日新聞出版 2014〕を元

に表 1にまとめた。

1913(大正 2) 宝塚音楽学校の前身「宝塚唱歌隊」が発足。1914(大正 3) 宝塚歌劇スタート「ドンブラコ」

第 2期生を募集 三年間の修業で科目は声楽・楽器・ダンス1918(大正 7) 初の東京公演、帝国劇場に登場。1919(大正 8) 劇作担当者と生徒の結婚第 1号 坪内士行と娘役雲井浪子1923(大正12) 少女歌劇場(大劇場の前身)全焼。1924(大正13) 宝塚大劇場が完成。

1927(昭和 2) 日本初のレヴュー「モン・パリ(吾が巴里よ!)」上演 ラインダンスと大階段を初めて披露。

1930(昭和 5) 「パリ・ゼット」を上演 主題歌が今でも歌われている「すみれの花咲く頃」「おお宝塚」である。

1933(昭和 8) 「星組」誕生。1934(昭和 9) 東京宝塚劇場が開場。

1937(昭和12) 歌劇の演目に「軍歌レヴュー『皇国のために』」や「軍国バレエ『砲煙』など戦争を題材にしたものを上演。

1938(昭和13) 宝塚少女歌劇団の生徒13名で皇軍慰問団を結成し、約 1ヶ月にわたり日本軍兵士を慰問して回る。

1938(昭和13) ドイツ・イタリアへ初めての海外公演。1939(昭和14) アメリカ公演を行う。

宝塚少女歌劇団から宝塚歌劇団へ  男性を加入させ大人向けの本格オペラの上演を目指す。

1941(昭和16) 「宝塚歌劇唱歌隊」を結成し軍需工場や軍の病院を慰問  満洲公演も 2回行われる。1944(昭和19) 宝塚大劇場・東京宝塚劇場が閉鎖される。1946(昭和21) 歌劇「カルメン」とレヴュー「春のをどりー愛の夢」で公演を再開。1951(昭和26) 宝塚大劇場で 3ヶ月のロングラン公演を行い、観客数は過去最高の30万人に達する。1967(昭和42) 宝塚歌劇で初のブロードウェーミュージカル「オクラホマ!」上演される。

1974(昭和49)1972年「週刊マーガレット」で連載された池田理代子「ベルサイユのばら」を初上演。再演を重ね「ベルばら」ブームを巻き起こす。 2年間で上演560回、観客140万人、全国ツアーを含めると707回、160万人に達した。

1977(昭和52) 「風と共に去りぬ」を上演。1978(昭和53) 宝塚大劇場の第二劇場となる「バウホール」を開場。1993(平成 5) 新宝塚大劇場を開場。1924年に開場した宝塚大劇場は1992年11月24日幕を閉じる。1995(平成 7) 1月17日、阪神・淡路大震災により公演を中止する。

3月31日、宝塚大劇場の公演を再開。1996(平成 8) 「エリザベート」を上演。

1997(平成 9) 東京宝塚劇場が閉場され、新東京宝塚劇場ができるまでの間「TAKARAZUKA1000 days劇場」が使用される。

1998(平成10) 「宙組」誕生。2001(平成13) 新東京宝塚劇場が開場。2004(平成16) 宝塚歌劇団90周年を迎える。2008(平成20) 「逆転裁判」の上演で、宝塚とゲーム初のコラボレーションを果たす。2009(平成21) 「太王四神記」が上演。ペ・ヨンジュン主演の韓国ドラマを舞台化。

2012(平成24)「戦国 BASARA」を上演。再びゲームを舞台化。「戦国 BASARA」は2005年の発売以来累計320万本を出荷し、武将のイケメンぶりが女性の人気を集め「歴女」ブームのきっかけになる。

2013(平成25) 柚希礼音率いる星組が初の台湾公演を行う。2014(平成26) 宝塚歌劇100周年。

表 1 宝塚歌劇団の年表

註)『宝塚歌劇 華麗なる100年』〔朝日新聞出版 2014〕より作成

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 1927年(昭和 2)に日本初のレヴュー「モン・パリ」が発表された。欧米から移入したレヴューを独

自のかたちで公演を深化させていった。男役と娘(女)役の技芸の分化と蓄積も宝塚の特徴のひとつで

あり、川崎賢子によると、男役トップスターと呼ばれる存在が宝塚に台頭するのは1930年代に入ってか

らで、男役と娘(女)役との芸の分化が確定するのは第二次世界大戦のことであると指摘している〔川

崎 1999:11〕。

 宝塚歌劇の戦後については後述するとして、次に宝塚歌劇に関する研究について述べる。宝塚歌劇の

研究が盛んになったのは1990年代以降のことであり、1991年には宝塚を中心とする小林一三の事業を分

析した津金澤聰廣の研究が発表された〔津金澤 1991〕。2000年には、日本の近代という文脈の中で宝塚

のセクシュアリティを考察したジェニファー・ロバートソンの『踊る帝国主義──宝塚をめぐるセク

シュアルポリティクスと大衆文化』が翻訳された〔ロバートソン 2000〕。

 宝塚ファンについては以下のような研究がある。宮本直美の『宝塚ファンの社会学』〔宮本 2011〕で

は、著者がファンクラブに入っていた経験から、ファンクラブでの活動内容と宝塚歌劇の人事システム

の相互関係を明らかにし、なぜファン行動をとるのかを分析している。宮本は、トップスターという人

事システムが、観客を「人事の読み合いというゲーム」〔宮本 2011;36〕に参加させると述べ、ファン

クラブの「劇場内での生徒の序列を劇場外で可視化する」機能などから、「人気があるからトップなの

ではなく、トップだから人気があるという構造ができあがっている」〔宮本 2011;182〕と指摘してい

る。

 東園子は『宝塚・やおい、愛の読み替え──女性とポピュラーカルチャーの社会学』〔東 2015〕で宝

塚ファンと「やおい」に集う女性たちから「恋愛物語を楽しむ」「相関図消費」という類似性を見出し

分析している〔東 2015〕。タカラヅカにおいては「ホモソーシャル」という概念を用いて同性同士の結

びつきを論じているが、宮本は「この概念を使用した分析の妥当性については検討が必要」〔宮

本 2011;12〕と指摘している。

 これまで川崎賢子『宝塚──消費社会のスペクタクル』〔川崎 1999〕のように文化的背景から宝塚の

動きを追い分析している研究はあるが、現代の「タカラヅカ」を構成する女性たち、タカラジェンヌと

ファンを社会背景の変化に焦点を当て論じたものはない。本論はその点からも、これまでの研究に新た

な視点を加えることができる。

第 2節 女性雑誌における女性の表象

 「女子」という表現が雑誌に現れるのは2000年以降である。これまで、近代から「少女」「オトメ」

「主婦」といった時代ごとに女性を表現する概念の研究がなされてきた。

 誌面において初めて現れた女性の表象は「少女」であり「女子」の源流であると言える。「少女」の

誕生は「少女雑誌」が次々と創刊されていった1920年代にまで遡る〔本田 1991;12〕。本田和子は、実

体を持たず誌面上にのみ存在するコミュニティを、感性や想いを共有する「少女幻想共同体」と称した

〔本田 1990;186─187,1991;16─19〕。また川村邦光は、1900年以降に普及した少女雑誌群の中から派

生した感性をもつ女性を「オトメ」と称し、『女学世界』(1901~1925)などの「女学生文化」からそれ

を考察した。

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 大正期から昭和初期にかけては新聞や雑誌が大衆化していった時代で、「主婦」という新しい女性の

ライフスタイルに照準をあわせた商業婦人雑誌が登場した〔木村 2010;19,23〕。戦後1955年頃からも

婦人雑誌では「主婦」が強調される。それ以前の社会や女性を「封建的」と切り捨て、「働く女性」や

「趣味」「地域活動」などに従事する新しい女性像を発信する動きはあったが、「台所の中心はあくまで

も女性」で「母」としての囲い込みにすぎなかった〔中尾 2012;125〕。

 その後、高度経済成長以降の1970年代前半は、若い女性が自分の趣味やファッションにお金を使う大

量消費の時代を迎え、『an・an』(1970年~)『non-no』(1971年~)などが創刊された。「女の義務」で

ある家事や花嫁修行を「女の子の趣味」へと変えた時代である〔橋本 2012;168〕。そして1980年代に

入ると、晩婚化、高学歴化、就労化といった多様化した女性のライフスタイルに合わせ、創刊雑誌数が

過去最多の「雑誌の時代」を迎える〔橋本 2012;171─172〕。しかし90年代に入ると、バブル経済崩壊

による経済格差や、ライフコースの違いによって雑誌の内容に差異が現れた。

 2000年以降、「主婦」ではない新しい女性の表現である「女子」が現れる。「女子」は元々、「「女」で

は少し乱暴過ぎるが、「女性」だと丁寧すぎるというときに、フラットな表現として「女子」が使われ

ることが多かった」〔『現代用語の基礎知識 2014』;1160頁〕のだが、ファッション誌において、特別な

意味を含んで使われるようになった。つまり「年齢や立場を問わず自分の好きな「かわいい」服を着

る」女性のことである〔米澤 2014;43〕。米澤泉によると、本来「女の子」や「女子」と呼ばれる年齢

を過ぎている女性に向けて、確信犯的に「女の子」と呼びかけ、大人のかわいいファッションを発信し

ていったのは宝島社の『Sweet』であるという〔米澤 2014;34〕。そして、安野モヨコが化粧情報誌

『VoCE』(1998年~)のエッセイコーナー「美人画報」で、『Sweet』のようなファッションに身を包む

女性を「女子」と称し多用したことが「女子ブーム」の始まりだと言われている〔米澤 2014; 3 〕。

 「女子」とは、「母親らしく」「妻らしく」といった規範から自由になった存在であり、ファッション

においての「自由」に留まらず、「自由なライフスタイルを選択する女性」にまで意味が拡大されてい

る〔米澤 2014;69〕。また「女子」と共に台頭してきた「女子力」は、『現代用語の基礎知識2014』に

おいて以下のように記されている。

 日本の女性誌のテーマはバブル期以降、「輝く生き方「自分探し」「自分磨き」「もてること」「愛さ

れる」ことであり、バブルがはじけてもその傾向に大きな変化はない。その女性誌文化から生まれた

のが「女子力」だ。[中略]いつもきれいでセンスがよく気が利いて、男性にもてるだけでなく女性

受けもいい。「結婚」も子どもも仕事も趣味も全て手に入れる」ためには女子力が必要であるという

わけだ〔『現代用語の基礎知識 2014』;1163頁〕

 上記の「女子力」は「他者から好かれる」ためのスキルで「ファッション誌の女子力」はこちらの意

味に近い。しかし、たとえば「女子力」をブランド戦略として掲げる甲南女子大学は、社会に通じる

「生涯能力としての女子力」と拡大解釈している〔米澤 2014; 7 〕。また『産経新聞』で、甲南女子大

学副学長の荒賀直子が「学生に期待する女子力とは?」の質問に対して「男性とも対等な真の人間力」

(『産経新聞』2015.5.16)という表現をしている。

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第 2章 雑誌『歌劇』『宝塚GRAPH』の分析

 「少女」「オトメ」といった概念はタカラジェンヌを分析する際にも当てはめることができる。タカ

ラヅカは1914年に「宝塚少女歌劇」という名前で創設されるなど、「少女」「オトメ」とタカラヅカが関

係の深いことはこれまで述べてきたとおりである。現代において「少女」「オトメ」といった、その時

代特有の女性を表す概念は「女子」である。本章では、雑誌に現れるタカラジェンヌの表現から、今日

における「女子」と「タカラヅカ」の相互関係を明らかにすることである。よって、自由な人生を謳歌

する「女子」が誕生する以前の、女性が一定の「結婚観」に従い「結婚が人生のゴール」であったとさ

れる時代から遡り分析する。

 東園子は『歌劇』『宝塚

GRAPH』など宝塚公式の

出版物を「公式メディア」

〔東 2015;91〕と称し、

その記事内容は以下の 3つ

に大別されると指摘する。

①公演に関することや劇団

の動向を紹介するもので、

舞台写真や出演者とスタッ

フによる公演についての座

談会がこれにあたる。

②スター個人に焦点をあて

たもので、スターの私服姿

のポートレート写真やイン

タビュー記事などがある。

③劇団内の様子や団員同士

の間柄を伝えるもので、舞

台上の笑えるハプニングや

楽屋・稽古場等での面白い

エピソードを団員自身がつ

づったエッセイや、スター

同士の対談記事などがある

〔東 2015;119〕。

 この指摘を受けて本章で

は、1970年代からの『歌

劇』『宝塚 GRAPH』の記

事を提示し、各時代の「結

婚観」などと照らし合わせ

出版年月 号数1955年(昭和30)1月 352号1955年(昭和30)3月 354号1960年(昭和35)8月 416号1967年(昭和42)4月 499号1968年(昭和43)4月 511号1968年(昭和43)5月 512号1968年(昭和43)6月 513号1968年(昭和43)10月 517号1969年(昭和44)4月 523号1969年(昭和44)10月 529号1970年(昭和45)4月 535号1970年(昭和45)10月 541号1971年(昭和46)4月 547号1971年(昭和46)10月 553号1973年(昭和48)3月 570号1973年(昭和48)9月 576号1974年(昭和49)1月 580号1974年(昭和49)3月 582号1974年(昭和49)9月 588号1975年(昭和50)3月 594号1975年(昭和50)9月 600号1976年(昭和51)3月 606号1976年(昭和51)9月 612号1977年(昭和52)7月 622号1977年(昭和52)12月 627号1978年(昭和53)8月 635号1985年(昭和60)3月 714号1985年(昭和60)5月 716号1985年(昭和60)12月 723号1989年(平成元年)2月 761号

出版年月 号数1990年(平成2年)8月 779号1993年(平成5年)11月 818号1995年(平成7年)8月 839号1998年(平成10年)11月 878号2001年(平成13)1月 904号2003年(平成15)4月 931号2004年(平成16)3月 942号2005年(平成17)10月 961号2009年(平成21)4月 1003号2011年(平成23)3月 1026号2013年(平成25)8月 1055号2014年(平成26)4月 1063号2015年(平成27)4月 1075号1977年(昭和52)7月 362号1984年(昭和59)2月 441号1991年(平成3年)1月 524号1993年(平成5年)4月 551号1995年(平成7年)3月 574号1998年(平成10年)1月 608号2000年(平成12年)4月 635号2002年(平成12年)4月 659号2003年(平成15年)2月 669号2005年(平成17年)11月 702号2006年(平成18年)7月 710号2007年(平成19年)10月 725号2008年(平成20年)8月 735号2009年(平成21年)10月 749号2010年(平成22年)5月 756号2014年(平成26年)1月 800号2015年(平成27年)4月 815号

表 2 資料とした雑誌『歌劇』『宝塚GRAPH』

48 49    

ることで、誌面のあり方を分析する。また、分析に使用した『歌劇』『宝塚 GRAPH』の年号は表 2に

まとめた。

 現在『歌劇』『宝塚 GRAPH』などの宝塚歌劇団の公式メディアとされる雑誌では、タカラヅカの世

界観を壊さないよう、異性との恋愛話は規制されているため、誌面にその話題が載ることはない。しか

し、1980年以前は、恋愛に関する記事が何の規制もなく掲載されていた。

 1973年『歌劇』 3月号に掲載された「えと文」におけるバレンタインデーに関する記事で次のような

ものがある。

 やっぱり関心の深い二月十四日「バレンタインデー」について……。[中略]イヤー……困った

わァーホンマは上げたいねんけど……彼なんて居てないし……年頃やのに……ホンマニ困ります[中

略]。神様は一体何を考えているでしょう……こんな可愛い私に(?)一人も彼をみつけてくれない

なんて……(『歌劇』570号 1973年 3 月,88頁)

 「えと文」とはタカラジェンヌによるエッセイで、『歌劇』における人気コーナーのひとつである。

文中に「彼なんていてないし……年頃やのに……」「こんな可愛い私に(?)一人も彼を見つけてくれ

ないなんて」とある。

 また、1977年 7 月号の『宝塚 GRAPH』の「カッちゃん美女絵巻シリーズ」という元男役スターの

カッちゃんこと幸こう

和かず

希き

がタカラジェンヌにインタビューしレポートするコーナーがある。以下は元娘役

の城月美穂(アッコ)にインタビューした記事である。「姉上(アッコ)としちゃ、人を好きになった

ことはある。相手側も、アッコが好意を持っていることご存知なのに、いつも実らず……。」(『宝塚

GRAPH』622号 1977年 7 月,42頁)

 この後も城月は「亭主関白の日本古来の男性が理想」と述べた上、「そのような男性と結婚できたら、

私は一生その方の陰でいたいのです」と語る。つまり、娘役の城月美穂がプライベートでの恋愛経験を

語り、結婚における理想の男性像を語っているのである。

 現在のタカラジェンヌには「役名」「芸名」「愛称」「本名」という 4つの顔があり、「愛称」は全ての

タカラジェンヌにつけられるもので、本名に由来するものがほとんどである。東園子によると、役者は

物語上の「役名」の存在だけでなく、個々の作品を超えて役者が作り上げている「芸名」の存在も演じ

ており、素の役者本人である「本名」の存在とは分離されているが「芸名」の存在と関連付けられつつ

も同一ではない「愛称」の存在が、舞台裏の姿と舞台上の姿を連続的なものにしているという

〔東 2015:98〕。

 この記事において「城月美穂」は芸名で「アッコ」とは愛称のことであるが、「本名」の領域の恋愛

話である。つまり、1970年代においては「愛称」で呼んでいても、誌面で「プライベートでの恋愛話」

をしていることから「本名」の存在と区別がほとんどない。

 また『宝塚 GRAPH』1984年 2 月号の読者投稿コーナー「言いたい放題」では、次のような記事があ

る。

48 49    

 私の妹は高校一年生。ミネちゃんの大ファンで、部屋には公演ポスターがベタベタ貼ってあります。

この妹、中学二年生の頃から、どういう訳か、私の部屋で着替えをするようになりました。「どうし

て自分の部屋で着替えないのよ」と怒ると、「だってミネちゃんが見てるから恥ずかしいんだもん」

という返事。[中略]着替え真っ最中の妹の前に、バッと『アルジェの男』のプログラムを掲げると、

案の定、咄嗟にない胸を隠し「キャー、姉貴のアホッ。ジュリアンはプレイボーイなのよっ」と叫ん

で行ってしまいました。(『宝塚 GRAPH』441号 1984年 2 月,90頁)

 ここに出てくる「扮装」とは「役の衣装」を着ている時のことであり、それ以外の私服、つまりオフ

ステージ姿の男役を「女」とみなしている。そして、「ミネちゃん」から「ジュリアン」へと呼び方を

変えていることからも、「役名」と「愛称」の存在を区別していることが伺える。

 現在のタカラヅカファンは、舞台裏のタカラジェンヌの姿を舞台上の「役名」にも投影(ナポレオン

を演じる柚希礼音を見るなど)して楽しむ。しかしこれらの記事から、この時期においては、舞台上の

「役名」の存在に「本名」の存在が投影されていることがわかる。つまり「ジュリアン」がかっこいい

から「ミネちゃん」もかっこいいのである。

 1970年代までは、経済の高度成長期と同時に恋愛結婚の普及期で、「結婚は人生のゴール」という規

範意識に基づく「近代的恋愛」が普及した時期であった〔山田 2007;171─172〕。よって、当時は「最

高の幸せ=結婚」という価値観をもった多くの女性たちがタカラヅカを観ていた。そのため、タカラヅ

カに求めるのは理想の男女関係であり、「役名」であるジュリアンという「理想の男性」を男役のミネ

ちゃんに投影し、ファンとなったのである。また、「芸名」は「役名」に追従するものであるため、誌

面でプライベートな恋愛トークを広げても問題ないし、むしろ、同じ女の花道を目指す憧れのタカラ

ジェンヌの恋愛トークを読者は聞きたがるのである。

 1989年 2 月号の『歌劇』における「えと文」で、轟悠が執筆した「バレンタインデー」に関する記事

で以下のようなものがある。

 [前略]さぁ、ところで私は誰にチョコレートを渡そうとしていたのでしょうか……。わかりませ

んか?そのチョコレートの行方は同級生の女の子達内で交換する〝義理チョコ〟だったのです。[中

略]さぁ、皆さんは、どの子を選びますか?沢山の中から選ぶというのは、大変なことですよね。私

も腕まくりをして、五人の男性へ……と思ってます。五人共、私の大切な、大好きな人達です。待っ

てて下さいね。宝塚から人吉へ、大きなくろねこヤマトの宅急便が届くのを。(『歌劇』761号 1989年

2 月,94─95頁)

 「 5人とも私の大切な、大好きな人達です。待っててくださいね。宝塚から人吉へ」というのは、轟

悠の実家は人吉であり家族のことを言っている。異性の話と思わせて、実際は友達や家族であるという

オチになっている。

 1990年代以降このような恋愛話の規制を利用した言葉遊びが頻繁に見られるようになる。他にも、

1997年の『歌劇』「えと文」で「おとこちゃん(音羽)が、ケイコ場の廊下を歩いておりました。『男~

50 51    

~‼』。いや……『オトコ~~‼』と呼び止めたはっちんさん(夏美)」(『歌劇』878号1998;11月134

頁)や2005年の「えと文」でも「千秋楽の日、ゆみこさんが重大発表‼なんと博多で恋をしたそうです。

そう、めんたい子に」(『歌劇』961号 2005年10月,94頁)などがある。この言葉遊びについて天野道映

は以下のように述べている。

 みなが同じ幻想のなかで、言葉遊びによって異性装を無害化すると同時に、一方で倒錯をひそかに

幾重にも重ね合わせて楽しんでいるのである。その心的なメカニズムはかなり複雑といわなければな

らない〔天野 1990;37〕。

 天野の指摘の通り、言葉遊びをする「その心的なメカニズムはかなり複雑」ではあるが、この記事に

関しては、1973年の「バレンタイン」の記事と比べ、「異性」の話題が規制されたことに注目したい。

以上の変化を簡潔に述べると、1973年は「バレンタイン」から「異性」に関する話題に移り、これに対

して1990年はプライベートでの「異性」に関する話は規制される。そして、恋愛話と見せかけて実は違

うといった、規制に触れそうで触れない「言葉遊び」が記事に見られるようになる。現在、タカラジェ

ンヌには「すみれコード」と呼ばれる暗黙のルールがあり、在団中の恋愛話、年齢、スリーサイズ、他

人の悪口、給料などの話題が規制されている〔東 2015;93〕。この規制を用いた言葉遊びは恋愛話にお

ける「すみれコード」の誕生とも言えるのではないだろうか。

 また「公式メディア」で男役の外見に関して言及している記事においても変化がみられる。たとえば

以下のようなものがあった。

 日頃、大きいゝと言われているトシコサン(碧)。万博だったら外人も多いこと故、さぞ小さく見

えるであろう……と思ったのが大きな間違い。会場に行く人混みの中を歩いてると、ヒソゝ聞こえて

来た──「あれ女か?」「ウソや、男じゃ……」「ねぇーお母チャンあの人、絶対女と違うねェー。

[中略]トシコサン怒る事ゝ。まァゝとなだめすかして会場に入った。ところが今度はモテル事モテ

ル事。浴衣を着たお姉サマ達が「イヤー男前!」とメークをして衣装(男役)を着てトシコサンにサ

インをねだる。(『歌劇』541号 1970年10月,72─73頁)

 1970年『歌劇』の「えと文」の記事である。この記事から、当時のファンは化粧と衣装で扮装した

「男役」とオフステージの姿を区別するだけでなく、「男役」の姿のタカラジェンヌに価値をおいてい

ることがわかる。また、「役名」の衣装を着ている時が「男役」だという認識のあることがわかる。ま

た、1968年10月号『歌劇』の「えと文」の記事に次のようなものがある。

 秋のはじめのある日。月組の旅行で鳴門のうず潮見物に出かけました。皆思い思いの服装で。[中

略]その中で、可愛らしい(スイマセン)フリフリワンピースのスピッツさん(八重)「ワァ、かわ

いらしい服ですね。」と云う私に、「そうやねン、今日よっぽどGパンをはいてこようと思ったんやけ

ど、昨日まで舞台ではいてて、又、今日はいて来たら、舞台の続きみたいだからやめてンよ」とか。

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その為かしら、ずーっと見渡しても、男役の人でGパンをはいている人は一人も居なかった。(『歌

劇』517号 1968年10月,68─69頁)

 「昨日までGパン履いてて、又今日はいて来たら、舞台の続きみたいだから」や「男役の人でGパン

をはいている人は一人も居なかった」とある。このように、舞台から降りればタカラジェンヌ自身も

「男役」ではいたくないと語る。

 以上のように、1970年代のタカラジェンヌは「扮装」するか「素顔」でいるかしか選択肢がない。

ファンは扮装した「役名」のタカラジェンヌに価値を置き、また先述した通り、タカラジェンヌに「役

名」を投影しているため、扮装していない時に女の格好でいることに違和感はないのである。さらに

ファンは、「役名」の扮装をしていないとタカラジェンヌに気づかず、「男役」とはみなさない。このこ

とからも、ファンはタカラジェンヌ自身のファンというより「役名」のファンであり、男役から「理想

の男性像」を見出していた事が伺える。

 オフステージでも男装を始めたことは、「役名」と「本名」の間に「芸名」の存在が生まれたことを

意味する。その理由として以下の事が考えられる。

 1980年代以降、「恋愛のゴールは結婚である」というロマンチック・ラブ・イデオロギーが揺らぎは

じめ、婚前性交渉が普及し、恋愛を遊び感覚で捉え始め、結婚しなくても(セックスを含んだ)恋愛を

楽しんでも構わないという意識が高まった〔山田 2007;175〕。それにより、未婚者であるタカラジェ

ンヌが、誌面において恋愛話をすると「清く正しく美しく」のイメージにそぐわなくなった。そのため

恋愛話などを規制する必要がでてきた。よって、恋愛話の規制という「すみれコード」が誕生したのは

この時期であると考えられる。そして恋愛話という大きなトピックを失ったため、誌面には新たなもの

が必要となる。そこで、男役を男性に位置づけていくことで、失った恋愛話というトピックを補おうと

したのではないだろうか。そして「すみれコード」を使用した言葉遊びで、女性が男性を演じる「男

役」という新たなセクシュアリティにファンを引きつけていったと考える。

 よってこの時期は、雑誌において、オフステージでも「男役」を演じるタカラジェンヌの黎明期と位

置づけられる。

 「異性の話題」「男役の外見」の変化をまとめると以下のようになる。1970年代までは、「結婚は人生

のゴール」という規範意識に基づく「近代的恋愛」が普及した時期であった〔山田 2007;171─172〕。

そのためファンは、タカラヅカの男役から「理想の男性像」を見出しており、「役名」に追従する「芸

名」(ジュリアンがかっこいいからミネちゃんもかっこいい)という形をとる。つまり、舞台上の「役

名」とオフステージのタカラジェンヌを切り離して考えており、むしろ扮装しているときだけ「男役」

として見ている。そのため、舞台から降りた時のタカラジェンヌのポートレート写真は男装をしていな

いし、プライベートでの恋愛話もするのである。

 それが1980年代以降恋愛話は規制され、男役を「男性」に位置づけていくことで、オフステージでの

「男役」を演じることを定着させていった。また1980年代は女性就労者が増加し、1985年に男女雇用機

会均等法が制定されたように、男性の領域であった「職場」に女性が進出していったという側面が、

「男役」の男よりも男らしくあろうとする女性の「男性化」に象徴されているとも考えられる。こうし

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たことから、1980年代以降2000年頃までに、オフステージも「男役」を演じ、「芸名」「愛称」「本名」

を使い分けるタカラジェンヌが誕生した。

第 3章 女子とタカラヅカ

第 1節 2000年以降の変化

 近年の『歌劇』と『宝塚 GRAPH』の記事の特徴を述べると、①男役の外見が2000年代から現在にお

いて服装にフィット感がまし、メンズのような衣装から中性的なものまで、女性らしい体の線を出して

着る、②男役と娘役のタカラジェンヌ同士でバレンタインのチョコレート贈答が恒例行事になっている、

の 2つである。

 ①のような変化が現れたのは、2000年以降、年齢や立場によって服装を選ばない「ファッション誌の

女子」が台頭し、その生き方の体現者であるファッションモデルが女性の羨望の対象になったからだと

考えられる。タカラジェンヌも、「清く正しく美しく」の標語を掲げる上で、時代に合った美しさを身

に付け、羨望の眼差しを集める必要がある。その結果、現代女性の憧れの存在であるファッションモデ

ルのような体型と美しさを見せていくに至ったのではないかと考える。

 かつて1980年代には大地真央のような「線の細い体」は男らしくないとされていたが、現代の男役に

求められものは外見的な「男らしさ」ではない。衣装や髪型に男性のセクシュアリティが感じられるが、

体型や顔は女性そのものである。つまり、男役を演じる「芸名」「愛称」といった領域が確立し、等身

大の「男役」に関心が集まるようになったことが伺える。

 ②については、2014年 4 月号の『歌劇』の「えと文」の、「ついに今年もやってきました♥バレンタ

インデー♥毎年恒例のお渡しが 2組それぞれの稽古場で開催されました♪男役が一列に並ばされ、向き

合って娘役が並ぶ……男役は『何?』『何?』」と言いながら笑顔で速やかに(笑)並び、一斉にお渡し

してもらいます♥♥」(『歌劇』1063号 2014年 1 月,59頁)という記事からうかがえる。

 これについては、前述で1980年代以降、異性恋愛の話題がタカラヅカの「清く正しく美しく」のイ

メージに合わなくなり、男役を男性に位置づけていくことで失った恋愛話というトピックを補おうとし

ていると指摘したが、2014年には「男役」が「男性」の位置についていることから、この計画が成功し

ていることがうかがえる。しかし、近年のこの記事の特徴は、異性恋愛の話題を排除するためだけでは

なく、タカラジェンヌ同士の関係から「パーソナリティ」を見るための役割も果たしている。

 表 3は2001年以降の目次における「SPECIAL」と「STAGE INFORMATION」の小見出しをまとめた

もので、「舞台」に関する記事に「★」、「タカラジェンヌのパーソナリティ」に関する記事に「●」印

を付けた。(表 3)これを見る限りでは、以前まで「SPECIAL」に含まれていた公演に関する記事が

「STAGE INFORMATION」に分離されたことが分かる。そして、「パーソナリティ」に関する記事が

増加していることもうかがえる。

 第 2章第 2節で東園子が「物語消費的」な見方と指摘したように、ファンは、舞台上で「役名」を演

じるタカラジェンヌを見る時、舞台裏でのタカラジェンヌ同士の関係性を投影しながら楽しむ。誌面で

男役と娘役のトップコンビが相思相愛に描かれていれば、その舞台裏のエピソードが想起され、舞台上

でのラブシーンにリアリティが増すのである。

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出版年号 記事内容

2001年 1 月号SPECIAL

扉(春日野八千代)  静間潮太郎新しき世紀を迎えて  植田紳爾祝・二十一世紀 年頭の辞月組東京宝塚劇場公演『愛のソナタ』座談会 ★星組宝塚大劇場公演『花の業平』座談会 ★星組宝塚大劇場公演『夢は世界を翔けめぐる』座談会 ★花組『~夢と孤独の果てに~ルートヴィヒⅡ世』新人公演評 田川あかね ★稔幸退団発表星奈優里退団発表退団ご挨拶 水野ちはる・美舟 星河

2005年10月号SPECIAL

月組宝塚大劇場公演『JAZZYな妖精たち』座談会 ★月組宝塚大劇場公演『REVUE OF DREAMS』座談会 ★星組シアター・ドラマシティ公演、シアタードラマシティ東京特別公演『龍星』 ★宙組宝塚大劇場公演『炎にくちづけを』『ネオ・ヴォヤージュ』楽屋取材 ★宙組宝塚大劇場公演『炎にくちづけを』新人公演評  石井哲夫 ★退団ご挨拶  真汐薪

2009年 4 月号SPECIAL

新生宙組主演コンビ内定組替え異動発表星組宝塚大劇場新人公演『My dear New Orleans』評  山本千壽 ★安蘭けいサヨナラショー 〈安蘭けいサヨナラ特集〉 ★安蘭けい 芳醇なる舞台の数々 ★For My Dear……愛をこめて「またね」(送る言葉) ●星組宝塚大劇場新人公演『My dear New Orleans』『アビヤント』楽屋取材 ●〈遠野あすかサヨナラ特集〉 ★心からの感謝を込めて……(退団ご挨拶) ★遠野あすか 煌めく夢の軌跡 ★愛すべき あすかに……(送る言葉) ●良きライバルは自慢の同期(サヨナラ対談)  白羽ゆり・遠野あすか ●お日様の笑顔にサヨナラを……  立樹遥 ★華やかな夢を胸に……  和涼華 ★宝塚音楽学校文化祭対談ご挨拶  朝峰ひかり・紫蘭ますみ・涼乃かつき・星風エレナ・一輝慎・       麻尋しゅん第95期生の卒業式と入団式平成21年度初舞台生ご紹介

2011年 3 月号STAGE

INFORMATION

公演評『Dancing Heroes!』(月組宝塚バウホール公演)、『メイちゃんの執事─私の命に代えてお守りします─』(星組宝塚バウホール公演)  宮辻政夫 ★

座談会『バラの国の王子』『ONE』(月組宝塚大劇場公演) ★ミニ座談会『記者と皇帝』(宙組東京特別、宝塚バウホール公演) ★インタビュー『ヴァレンチノ』(宙組シアター・ドラマシティ公演) ★公演評『ロミオとジュリエット』(雪組宝塚大劇場新人公演) 山本千壽 ★MONTHLY MESSAGE from 5stars ●

2011年 3 月号SPECIAL

Talking to myself with photo   轟悠 ●組子アンケートによるイメージ大調査!  真飛聖 ●美の秘訣・舞台の工夫  野々すみ花 ●ON・OFFクエスチョン 20のキーワード  早霧せいな ●今、この人にズームイン  美弥るりか ●ちょっと CHAT from Coordination View 晴華みどり・紗央くらま・大湖せしる・蓮城まこと ●

夢つづりサイン帖  飛鳥祐、萌花ゆりあ、妃咲せあら、蓮水ゆうや ●退団ご挨拶  花夏ゆりん、凰華れの、希世みらの、千瀬聖、鈴蘭まあや

表 3  「SPECIAL」と「STAGE INFORMATION」の小見出し

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 このようなタカラジェンヌ同士の関係性を扱う記事が、「物語消費的」な見方をするための材料であ

り、それらの記事が増加していることから、ファンの楽しみ方として定着していることがうかがえる。

また東は、舞台上のタカラジェンヌに投影して楽しむだけでなく、タカラジェンヌ同士の「友情物語」

を楽しむ視点でも分析しており、以下のように述べている。

 オフステージの領域では、団員の素顔を愛称レベルと本名のレベルに分離し、前者のみを公開す

るという操作によって、恋愛の可能性をはらむ部分を消し去っている。このようなあり方は宝塚以

外では難しいだろう。現代社会において女性のホモソーシャルな親密性の表象がいかに困難である

2013年 8 月号STAGE

INFORMATION

公演評『戦国 BASARA』(花組東急シアターオーブ公演)  宮辻政夫 ★座談会『愛と革命の詩─アンドレア・シェニエ─』『Mr.Swing!』(花組宝塚大劇場公演) ★

ミニ座談会『春雷』(雪組宝塚バウホール公演) ★インタビュー『若き日の唄は忘れじ』『ナルシス・ノアールⅡ』(雪組全国ツアー公演) ★

公演評『ロミオとジュリエット』(星組宝塚大劇場新人公演) 山本千壽 ★2014年前半公演演目 100周年記念行事 発表会

2013年 8 月号SPECIAL

Talking to myself with photo 轟悠 ●2つの質問きいてみよっ! ●舞台七変化  一樹千尋輝きの時  柚希礼音 ●徹底大絵剖!  愛希れいか ●9・ 9クエスチョン  明日海りお ●9・ 9クエスチョン  美弥るりか ●『フォーエバー・ガーシュイン』より公演メンバー座談会 ●A MOMENT 舞台に懸ける  愛加あゆ ●

2015年 4 月号STAGE

INFORMATION

公演評『黒豹の如く』『Dear DIAMOND!!』(星組宝塚大劇場公演)  小藤田知栄子 ★

楽屋取材『黒豹の如く』『Dear DIAMOND!!』(星組宝塚大劇場公演) ●公演評『黒豹の如く』(星組宝塚大劇場公演)  山本千壽 ★凰稀かなめ東京公演千秋楽

2015年 4 月号SPECIAL

夢・紡・人たち─演出家対談─  小柳奈穗子・稲葉太地ザッツ ranKING!~ 1番はだ~れ?~ ●Talking to myself with photo  轟悠 ●Toy to Story  明日海りお ●TURNING POINT “S” tage 望海風斗 ●TURNING POINT “S” tage 愛月ひかる ●宝塚浪漫紀行─中国・台湾─  壱城あずさ ●TAKUMI~ First step~  大海亜呼、冴月瑠那、琴音和葉、貴千碧 ●コラボレーション  朝月希和・和希そら、永久輝せあ・有沙瞳・星南のぞみ ●新花組生紹介新月組生紹介宝塚音楽学校文化祭平成27年度初舞台生ご紹介第101期生の卒業式と入団式「組レポ。」  鳳真由、紫門ゆりや、早花まこ、如月蓮、花音舞 ●

註)★舞台情報、●パーソナリティ

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かが、宝塚を通して逆に見えてくる。宝塚は、認識/表象されにくい女性の強固なホモソーシャリ

ティという夢を提供するとともに、それが他の場では成立しがたい夢でしかないことも同時に示し

ている〔東 2015;145〕。

 この東の指摘に従うと、2000年代半ば以降の「友情物語」記事の増加は、女性同士で強固なコミュニ

ティを作ることへの欲求が大きくなってきたことによるものと言える。

 1990年代は、若年労働不足や女性の自立志向や労働志向の高まりから、若年女性の正社員率は高く、

共働き世帯率が夫一人稼ぎ世帯を逆転した時期である〔岩上 2007;84〕。その一方で、ニューエコノ

ミーが逆行したことで非正規化が進み、労働状況が悪化していった時期でもあった。そして多くの現代

女性にとって、結婚や労働は経済的な理由で「せざるを得ない」ものになったと言える。

 そうした時期に、結婚や労働以外の場で「自由」への解放を求め、「ファッション誌の女子」が誕生

した。それは「年齢」や「役割(母、妻)」からの解放であり、同じ解放を求めた「女子」たちが集ま

ることで、自己解放できるコミュニティを形成し、不自由な社会からの安息所となっていった。2010年

に「女子会」という言葉が流行語大賞を受賞したことからも、女性同士で集まることに関心が高まって

いったことがわかる。

 その一方で、結婚も仕事もせざるをえない現代女性たちの間には、「結婚すれば、ラクになれる」と

いう「ロマンチック・マリッジ・イデオロギー」〔牛窪 2015;87〕が浸透しており、結婚願望は消えて

いない。そのため理想の収入や容姿、人格を兼ね備えた男性と結婚するための女性の競争率は高い。

よって「女子会」のメンバーは友人かつライバルでもあり、そういったことを連想させる男性の影があ

る限り、女性同士のコミュニティは一時的なものとならざるを得なくなる。つまり、女性同士の強固な

繋がりを得ることは困難だと考えられる。

 しかし、現代において強固な繋がりを可能にするのがタカラヅカである。タカラヅカは「未婚女性」

しか入れないという前提があり、また「異性」を連想させるワードはすべて「男役」(ほとんどトップ

スター)と結びつけられるため、恋愛の可能性をはらむ部分が消し去られている。しかもタカラヅカ内

の絆の形は、トップスターと組子、同期、トップスターと二番手・三番手、娘役と男役のコンビなど

様々な形で補強されている。単に「男役」が理想「男性」に成り代わり、理想の男女関係を見せてくれ

るからだけではない。よって、確かな根拠をもって、タカラジェンヌたちの親密性の強さを見いだすこ

とができる。それによりタカラヅカのコミュニティに留まらず、ファンも一体となったひとつの世界観

を作り上げているのである。

第 2節 女性同士の親密性の表現

 ではタカラヅカにおいての「女性同士の強固な親密性」の公開は、現代の女性たちにどんな作用をも

たらすのだろうか。

 2010年代後半の社会において女性たちが、理想の結婚や労働を求めて、外見、学歴、キャリアといっ

た「ファッション誌の女子力」「社会的な能力としての女子力」を向上させても、結婚難や就職難によ

り活用する場がなく、不毛に終わる可能性が高くなってきた。

56 57    

 そのため、現代においても外見を向上させるファッション誌的な「女子力」は、「〝女子力″というの

は、誰のためかわからないような努力を黙々と続け、しかもその努力を人には見せない修行僧のような

能力」〔ジレンマ+編集部 2013;106〕と社会学者の古市憲寿が指摘した「無駄な努力」として認識さ

れてしまう。江原由美子は「「性別役割分業」という社会通念が「短時間労働者を差別する雇用制度」

を構造構成しており、この社会構造のもとでは、女性がどのようなライフスタイルを選択しても生活困

難に陥ることは避けられない」〔江原 2015;69─70〕と指摘する。甲南女子大学の副学長が述べたよう

な「男性と対等に渡り合う力」としての「女子力」は、「短時間労働者を差別する雇用制度」という現

状から男女が対等でないため、現実味を帯びていない。

 しかし、タカラヅカには「完成された舞台芸術」という目標がある。そのため、外見の美しさ、ダン

ス・歌の技術、トーク力、プロ意識などの「女子力」を向上させることにおいては大いに意味があるの

である。つまりタカラジェンヌは、社会的な女性の総合能力としての「女子力」とファッション誌の

「女子力」のどちらも備えているだけでなく、「宝塚歌劇」という「女子力」の発揮される目的がきわ

めて明確な世界に生きているのである。そのことは、誌面で公開されるタカラジェンヌ同士の他愛もな

いトークやエピソードのような遊戯的な要素ですら、チームワークを向上させ「誰一人手を抜くことな

い宝塚歌劇」の成功に不可欠な要素へ変えてしまうのである。

 これらのことは他の芸能集団にもあてはまるかもしれない。しかし、タカラヅカが他と一線を画して

いるのは、男性を排除した「女性同士の強固な親密性」の演出、言い換えるなら「舞台裏を舞台」にし

たことで、現実社会とは切り離されているが、浮きすぎてはいない、タカラヅカ共同体の世界観を確立

できたことにある。この現実と虚構の絶妙なバランスの上にタカラヅカ独自の世界観が成り立っている

が故に、現実では困難に見える「明確な夢を持ちそれをみんなで実現している姿」や、「自由が約束さ

れた女同士の世界」がファンにはリアリティをもって感じられるのである。

おわりに

 1970年代から現代までタカラヅカの公式雑誌は、社会の動きに合わせて記事の形態を変えてきた。ど

の年代においても、現実社会で女性たちが求めている「理想像」を具現化する試みが見られる。つまり、

タカラヅカの雑誌におけるタカラジェンヌの表現が移り変わるのは、現代女性の「理想像」の変化によ

るものである。ゆえにタカラヅカは、いつの時代においても女性にとって「自由」の象徴になってきた

と言える。

 そして、タカラヅカが「舞台芸術」に留まらず、現代女性に「虚構」をリアルに感じさせる「タカラ

ヅカ共同体」を形成するに至ったのは、タカラジェンヌの私生活の一部を公開することによって、舞台

裏までも「物語」の舞台にしたことの効用が大きい。その舞台裏の中心は「女性同士の強固な親密性」

であり、『歌劇』『宝塚 GRAPH』などの雑誌を通してファンに発信されてきたのである。

 現代の女性たちは、自己の能力が社会で活かされるかわからない、不明瞭な未来に向かって生きてい

る。そのような現実では「女性同士の強固な親密性」「少女趣味」「女子力」などは、古市が述べた「〝女

子力″というのは、誰のためかわからないような努力を黙々と続け、しかもその努力を人には見せない

修行僧のような能力」〔ジレンマ+編集部 2013;106〕のように、「虚構」に見える。それゆえ「タカラ

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〈参考文献〉

天野道映

  1991 「かみつかれそうなマツ毛─宝塚の現代的な位置付け」川崎賢子・渡辺美和子編著『宝塚の誘惑──

オスカルの赤い唇』青弓社

牛窪恵

  2015 『恋愛しない若者たち──コンビニ化する性とコスパ化する結婚』ディスカヴァー・トゥエンティワ

江原由美子

  2015 「見えにくい女性の貧困」小杉礼子・宮本みち子編『下層化する女性たち──労働と家庭からの排除

と貧困』勁草書房

川崎賢子

  1999 『宝塚──消費社会のスペクタクル』講談社

  2001 「変貌するオスカル──〈複数の宝塚〉論に向けて その 1」『ユリイカ』33

  2005 『宝塚というユートピア』岩波書店

川村邦光

1993 『オトメの祈り』紀伊國屋書店

  1994 『オトメの身体』紀伊國屋書店

  2003 『オトメの行方』紀伊國屋書店

木村涼子

  2000 「『主婦のイコン』の誕生──美人画と婦人雑誌」『人間関係論集』17

  2010 『主婦の誕生』吉川弘文館

ジェニファー・ロバートソン

  2000 『踊る帝国主義──宝塚をめぐるセクシュアルポリティクスと大衆文化』(堀千恵子訳)現代書館

「ジレンマ+」編集部

  2013 『女子会2.0』NHK出版

津金澤聰廣

  2006 「宝塚少女歌劇の誕生──音楽・歴史・文化(小林一三による新しい “歌・舞・伎” 構想とその後)」

津金澤聰廣・近藤久美編著『近代日本の音楽文化とタカラヅカ』世界思想社

馬場伸彦・池田太臣

  2012 『「女子」の時代!』青弓社

ヅカ共同体」の女性たちは、すべての「女子力」が「舞台芸術」という確固とした目的に結び付けられ

るタカラヅカという特別な空間においてこそ、自己能力を発揮しているという体感がタカラジェンヌを

通して得られるのである。

《謝辞》

 本稿は、2015年12月に天理大学文学部歴史文化学科考古学・民俗学専攻に提出した卒業論文に手を加

えたものである。本論文を作成するにあたり、研究の方向性から詳細に至るまで熱心かつ丁寧にご指導

を頂いた、主査の安井眞奈美先生に心より感謝申し上げます。また、このような機会とご助力をくだ

さった考古学・民俗学研究室の先生方に深く感謝いたします。

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東園子

  2006 「女同士の意味──「宝塚」から読み取られる女性のホモソーシャリティ」『ソシオロジ』51

  2015 『宝塚・やおい、愛の読み替え──女性とポピュラーカルチャーの社会学』新曜社

本田和子

  1989 『フィクションとしての子ども』新曜社

  1989 『オフィーリアの系譜』弘文堂

  1990 『女学生の系譜・増補版──彩色される明治』青弓社

  1991 「戦時下の少女雑誌」大塚英志編『少女雑誌論』東京書籍

宮本直美

  2011 『宝塚ファンの社会学──スターは劇場の外で作られる』青弓社

山田昌弘

  2007 『少子社会日本──もうひとつの格差のゆくえ』岩波新書

  2014 『「家族」難民──生涯未婚率25%社会の衝撃』朝日新聞出版

  2015 「女性労働の家族依存モデルの限界」小杉礼子・宮本みち子編著『下層化する女性たち──労働と家

庭からの排除と貧困』勁草書房

山田昌弘・白河桃子

  2008 『「婚活」時代』ディスカヴァー・トゥエンティワン

米澤泉

  2014 『「女子」の誕生』勁草書房