20
151 イタリアのなぞなぞ ── オイディプス王ライフイズビューティフルの間で 橋本 勝雄 1. イタリアのなぞなぞインドヴィネッロ 1.1 民衆のインドヴィネッロ ことばを使った三つのゲームクイズしりとりなぞなぞを考えてみると知識の有無や正誤 を争うクイズは基本的に翻訳可能であり言語に依存しない同一の現実を指示対象とする百科事 典を複数の言語で書くことができるという条件のもとで出題者と回答者が理解しあえるならばイタリア語で出題した問題に日本語で答えることができるそれに比べてしりとりは日本語に限定される遊戯である日本語における最後の文字はイタ リア語や英語の最後の文字と同一視することができないしモーラの概念は日本語固有 であってイタリア語や英語のような音節概念とは異なっているもちろん語末の音節を次の語頭 の音節とするというルールを定めることでpiano – notte – tesoro – rosaという語の連鎖を考える ことはできるだろうしかしそうしてできた語の連鎖を他言語へ翻訳することは難しいこうしてそれぞれの言語に言語固有の性質を用いた翻訳不可能な遊びが存在することは想像できるなぞなぞは翻訳しやすいクイズと翻訳しにくいしりとりの中間に位置するように見える小説 作品から詩作品まで文学作品を翻訳する困難さに幅があるように表現内容と表現形式のどちらに 比重が置かれるかによってなぞなぞの翻訳の難易度にも幅があるなぞなぞはクイズと同じ問いと答えの形式であるがその問いが一見して理解できないよう な曖昧さ難解さを含んでいるイタリアのなぞなぞインドヴィネッロの例をロベルトニーニの映画 La vita è bella(『ライフイズビューティフル1997からあげてみよう 1 喜劇俳 優ベニーニが第二次世界大戦の強制収容所を舞台として製作したこの映画では主人公グイドとドイツ人軍医との間でいくつかのインドヴィネッロが交わされるPiù grande, meno si vede. - l’oscurità. 大きければ大きいほど見えないもの暗闇Benigni e Cerami 1998: 41Quando fai il mio nome, non ci sono più. Chi sono? - il silenzio. 君が私の名前を口にするとき私はもういない私はだれ-沈黙Benigni e Cerami 1998: 85これらはとくに説明の必要のない翻訳可能な謎である問いの表現が曖昧さや矛盾を含んでいて一見するとありえないものに思われるが比喩やアナロジーによって答えが導かれる1 Cfr. Bullaro 2005).

1. イタリアのなぞなぞ インドヴィネッロhidedoi/151_170_hashimoto.pdf152 橋本 勝雄 アリストテレースは『詩学』22 章1458a20 において、謎は、一見不可能な事柄を比喩によって

  • Upload
    others

  • View
    2

  • Download
    0

Embed Size (px)

Citation preview

Page 1: 1. イタリアのなぞなぞ インドヴィネッロhidedoi/151_170_hashimoto.pdf152 橋本 勝雄 アリストテレースは『詩学』22 章1458a20 において、謎は、一見不可能な事柄を比喩によって

  151

イタリアのなぞなぞ ──『オイディプス王』と『ライフ・イズ・ビューティフル』の間で

イタリアのなぞなぞ ──『オイディプス王』と『ライフ・イズ・ビューティフル』の間で

橋本 勝雄

1. イタリアのなぞなぞ:インドヴィネッロ

1.1 民衆のインドヴィネッロことばを使った三つのゲーム、クイズ、しりとり、なぞなぞを考えてみると、知識の有無や正誤を争うクイズは基本的に翻訳可能であり、言語に依存しない。同一の現実を指示対象とする百科事典を複数の言語で書くことができるという条件のもとで、出題者と回答者が理解しあえるならば、イタリア語で出題した問題に日本語で答えることができる。それに比べてしりとりは日本語に限定される遊戯である。日本語における「最後の文字」はイタ

リア語や英語の「最後の文字」と同一視することができないし、拍(モーラ)の概念は日本語固有であってイタリア語や英語のような音節概念とは異なっている。もちろん、語末の音節を次の語頭の音節とするというルールを定めることで、piano – notte – tesoro – rosa…という語の連鎖を考えることはできるだろう。しかしそうしてできた語の連鎖を他言語へ翻訳することは難しい。こうして、それぞれの言語に、言語固有の性質を用いた翻訳不可能な遊びが存在することは想像できる。なぞなぞは、翻訳しやすいクイズと翻訳しにくいしりとりの中間に位置するように見える。小説

作品から詩作品まで文学作品を翻訳する困難さに幅があるように、表現内容と表現形式のどちらに比重が置かれるかによってなぞなぞの翻訳の難易度にも幅がある。なぞなぞはクイズと同じ「問いと答え」の形式であるが、その問いが一見して理解できないよう

な曖昧さ、難解さを含んでいる。イタリアのなぞなぞ「インドヴィネッロ」の例を、ロベルト・ベニーニの映画 La vita è bella(『ライフ・イズ・ビューティフル』1997)からあげてみよう 1。喜劇俳優ベニーニが第二次世界大戦の強制収容所を舞台として製作したこの映画では、主人公グイドと、ドイツ人軍医との間でいくつかのインドヴィネッロが交わされる。

Più grande, meno si vede. - l’oscurità.(大きければ大きいほど、見えないもの―暗闇)(Benigni e Cerami 1998: 41)

Quando fai il mio nome, non ci sono più. Chi sono? - il silenzio.(君が私の名前を口にするとき私はもういない。私はだれ?-沈黙)(Benigni e Cerami 1998: 85)

これらはとくに説明の必要のない翻訳可能な謎である。問いの表現が曖昧さや矛盾を含んでいて、一見するとありえないものに思われるが、比喩やアナロジーによって答えが導かれる。

1 Cfr. Bullaro (2005).

Page 2: 1. イタリアのなぞなぞ インドヴィネッロhidedoi/151_170_hashimoto.pdf152 橋本 勝雄 アリストテレースは『詩学』22 章1458a20 において、謎は、一見不可能な事柄を比喩によって

152  

橋本 勝雄

アリストテレースは『詩学』22章 1458a20において、謎は、一見不可能な事柄を比喩によって結びつけることにあると言う。こうした比喩を用いた謎の答えは主に、時間、昼と夜、太陽や月といった日常の品々、自然現象が答えであることが多い。

Qual è il frutto che ha dodici spicchie trecentosessantacinque semi,mezzi neri e mezzi bianchi? – l’anno(12の房があって/ 365粒の種があり/半分は黒く半分は白い、その果物は何?-年) (Bartezzaghi 2009: 39)

Va sull’acqua e non si bagna i piedi,batte nel muro e non si rompe.passa tra le spine e non si buca,entra in casa senza chiaveva in prigione e non ci resta. – il sole.(水の上を歩いても足が濡れず、/壁にぶつかっても壊れず/とげの間をとおっても破れない/鍵を持たずに家に入り/牢屋に入ってもとどまらない―太陽)(Lapucci 1994: 248)

こうしたインドヴィネッロは農耕文化に関連し、わらべ歌や数え歌、民話のように口伝えによる民間伝承、フォークロアとして収集研究の対象となった。先の「暗闇」「沈黙」に関する別の形を見てみよう。

Qual è quella cosache più si vede e meno si vede,e quando si vede benenon si vede affatto? – il buio.2

(見えれば見えるほど見えないもの、/よく見えるときには/まったく見えないものは/何か―暗闇)(Lapucci 1994: 81)

Se il mio nome voi sapete,non lo dite o lo rompete. – il silenzio.(私の名を知っていても/口に出さないで、でないと壊してしまう-沈黙)(Lapucci 1994: 246)

Nessuno lo vide e nessuno lo sentì,eppure tutti lo trovano dove non si sente e dove non si vede. – il silenzio.(見た者も聞いた者もいないが、聞こえも見えもしないところにみんながそれを見つける。―沈黙)(Lapucci 1994: 246)

民間伝承のほとんどがそうであるように、どこで、いつ、誰が、こうしたなぞなぞを創ったのかを特定することは難しい。おそらく無名の作者を含む小集団の間で共有されたものが、口伝えで拡がり、それぞれに修正を加えられて受け継がれたものだと考えられる。こうした «民衆の謎かけindovinello popolare»は世界各地に存在する 3。

2 この種類の謎では、類義語による複数の答えが成立する(l’oscurità, il buio「暗闇」).

Page 3: 1. イタリアのなぞなぞ インドヴィネッロhidedoi/151_170_hashimoto.pdf152 橋本 勝雄 アリストテレースは『詩学』22 章1458a20 において、謎は、一見不可能な事柄を比喩によって

  153

イタリアのなぞなぞ──『オイディプス王』と『ライフ・イズ・ビューティフル』の間で

日本語の「なぞ」の語源は「何ぞ」であるが、そうした問答が子供たちの教育効果を持っていたことを柳田(1976: 27-28)は指摘している。そのときに、日ごろの言い方とは異なり、一見理解しがたい表現、つまり「謎」が果たす役割は大きい。

ともかく国語の力、言葉のはたらきがどれほどまで大きいかということを、なぞというものによって初めて知った者は多かったのである。同じ一つの物でも事でも毎日私たちが言いあらわしている形のほかに、もっとおもしろくまたは美しく、すこし考えて見てそれからわかるような言い方が、あったことに心づいたのは、文芸の芽ばえといってもよい。(柳田 1976: 14)

柳田のいう「言葉のはたらき」、「言葉のあや」は、アリストテレースの「比喩」とつながっていると考えてよいだろう。アリストテレースは『弁論術』第 3巻第 10章 1410b10-20において、心地よい表現とは、当たり前のことでも、語られても理解できないことでもなく、それまでの知識がなくても、語られると同時にそれが理解できるか、もしくはさほどでもなく遅れずに理解がくるようなものであると述べており、同じく第 11章 1411b20でも、謎が解けると学び知ることになり、謎が比喩の形で表わされているがゆえに、快いと指摘する。インドヴィネッロ、すなわちなぞなぞについて我々が最初に思い浮かぶイメージは、こうした子

供たちの遊戯であり、特殊な言語表現(比喩、問答)という特徴を備え、口承文芸として伝えられてきた「民衆の謎かけ」だろう。トドロフ(2002: 313)が、なぞなぞの質問の基準を「…であるようなこの物(生き物)の名前は何か?」と定式化するときに念頭においていたのも、こうした種類のなぞなぞである。

1.2 エニグミスティカのインドヴィネッロしかしすべてのインドヴィネッロがこの性質を共有するわけでもなく、異なる文化圏では異なる形式と内容が発達してきた 4。この「民衆の謎かけ」に対し、詩、劇、小説など文学作品に登場するものや知識人が創作したものを «教養層の謎かけ indovinello colto»と位置付けて、話しことばに対する書きことば、無名性に対する作家性といった対立を見ることはできる。ただし注意しなければならないのは、こうした対立が歴史の中で複雑に影響しあって、単純に区分することが不可能な、あいまいな領域を作り出していることだ 5。さらに形式の点でいえば、比喩表現でなく、多義語・同音異義語や、置換・合成・削除などのさ

まざまな文字(または音声)の操作、文字の形象性など、いわゆる「ことば遊び」を基にしたものも多数ある 6。近代に成立した «エニグミスティカ enigmistica»における「インドヴィネッロ」は、問答の形式

3 Cfr. 柳田 (1976); Cousineau (1999).4 日本では中国の影響を受けて、漢字を読み解く「字なぞ」や、掛けことばつまり同音異義語を用いた謎かけが盛んであった。宮中で行われた謎合いや謎歌は、«教養層の謎かけ indovinello colto»に属すると言えるだろう。18世紀に「~とかけて、~と解く、その心は~」という三段謎が登場し、「~は何ぞ」という形の二段謎に替わって明治時代まで流行した。Cfr. 鈴木 (1985).5 Cfr. Rossi (2001: 53).6 Dossena (2004: 122-123; 82-83) は、複数の語の関係を問題にする「ことば遊び」(gioco di parole)と、一つの語が持つ内的性質(文字の配列や構成など)を問題にする「分子構造」(componenti molecolari)に区分しているが、本稿ではこの両者を区別せずに「ことば遊び」という表現を適用する。

Page 4: 1. イタリアのなぞなぞ インドヴィネッロhidedoi/151_170_hashimoto.pdf152 橋本 勝雄 アリストテレースは『詩学』22 章1458a20 において、謎は、一見不可能な事柄を比喩によって

154  

橋本 勝雄

ではないし、一見して不可能な事柄を描写しているわけではない。エニグミスティカとは、Bartez-

zaghi (2009: XV-XVI) によれば、「詩作あるいは句、単語や文字、タイポグラフィーや絵などを、さまざまな性質の隠す工夫を通じて、答えとして提示する技法」とされる 7。語 enigmistica (enimmi-

stica)は 19世紀末に使われはじめ、正式に確認されるのは 1901年である。一般的には、19世紀末に定期購読の専門誌でなされた enigmistica classica(古典エニグミスティカ)に対して、クロスワードがイタリアに紹介された 1925年頃から始まり大衆雑誌(1932年創刊の Settimana Enigmisticaなど) で広まった enigmistica popolare(大衆エニグミスティカ)が区別される。Bartezzaghi (2009: XVII)は、その両者にも属さないことば遊び、地口などを第三のエニグミスティカとしているが、この広義のエニグミスティカは、Rossi (2002: 247)の ludolinguistica(ルドリングイスティカ、言語遊戯学)に対応させることができるだろう 8。例として、次の謎かけを考えよう。答は「パン」である。

Quale è quella cosa che, quanto più è calda,tanto più è fresca? (熱いほど冷たいもの、それは何?) (Rossi 2001: 53)

ここでの曖昧さは、主題に対して一見矛盾する二つの性質 caldo / freddo「熱い/冷たい」が提示されていることであり、語 frescoに多義性(「冷たい」と「新鮮な、出来立ての」)を見ることによってその矛盾が解決される。この場合、同様な多義性を持つ語を対応させないかぎり、うまくこのなぞなぞを翻訳することは難しいであろう。

一方、同じ答え「パン」でも、エニグミスティカのインドヴィネッロは別の形をとる。

Il Corriere della SeraIl noto quotidiano di gran formato. (Rossi 2001: 54)

1行目の『コッリエーレ・デッラ・セーラ紙』は表題であり、2行目の本文は「有名な大判の日刊紙」と読み取れる。なぜその答えが「パン」になるのかといえば、di gran(de) formato「大型の判型の」という表現が、formato di grano「小麦でできている」と再解釈できるからである。ここでは本文の内容自体に矛盾や曖昧さはなく、表題は、本文の「見かけの意味」を示唆する。インドヴィネッロという指示がなければ、異様さは感じられない。インドヴィネッロとして提示されることで、一見当たり前の表現の下に何か別のもの、「隠された意味」を探すように求められるのである。カイヨワ(1990: 45)は遊びの分析の中で、四つの領域アゴン(競争)、アレア(運)、ミミクリ(模擬)、イリンクス(眩暈)と、二つの相反する極パイディア(遊戯)とルドゥス(競技)を設定する。障害や規則を、忍耐と能力、技能によって克服するルドゥスの性格は、剣玉やヨーヨーのような遊

7 エニグミスティカの遊びには、「インドヴィネッロ」や「エニグマ」だけでなく、複数の単語を組み合わせるもの(シャラーダ)、文字操作を伴うもの(アナグラム)など、ことば遊びを利用した、多岐にわたるジャンルが含まれる。Cfr. Bar-tezzaghi (2009); Dossena (2004); Rossi (2001, 2002).8 Dossena (2004: 161)は、「エニグミスティカがインドヴィネッロ(謎かけ)を作るのに対して、ルドリングイスティカはインドヴィネッロの基礎にある gioco di parole(ことば遊び)それ自体を扱う」としている。

Page 5: 1. イタリアのなぞなぞ インドヴィネッロhidedoi/151_170_hashimoto.pdf152 橋本 勝雄 アリストテレースは『詩学』22 章1458a20 において、謎は、一見不可能な事柄を比喩によって

  155

イタリアのなぞなぞ──『オイディプス王』と『ライフ・イズ・ビューティフル』の間で

びに見られる。謎かけゲーム、言語パズルとしてのエニグミスティカも、道具を使わないが、同様の性質を持つゲームに分類される。

最後に、クロスワード、数学パズル、いろいろな種類のアナグラムやオロリイム詩やロゴグリフ、また探偵小説(犯人を当てる遊びとしての)への没頭、チェスあるいはブリッジの課題などは、それぞれ、道具なしでできる、最も大衆的で最も純粋なルドゥスの形態である。(カイヨワ 1990: 72)

子供の遊戯である謎かけが、問題を出す側と解く側の競争であるとすれば、エニグミニスティカにはそうした競争はなく、あるとしても専門誌を購読する愛好家同士で競われるものである。ここでの出題者の態度は、読者に挑戦するというよりゲームへの招待であり、適度な障害を提示し、それを解く楽しみを提供するものである。また、前者は口頭で行わるが、後者からは音声的な側面が排除されて書記上のことば遊びに限定されるという点からも、それぞれの違いが生じることは理解できる 9。続いて、子供の謎かけ遊びとエニグミスティカの差を念頭に置きながら、西洋におけるインドヴィネッロの歴史をさかのぼって考察する。

2. 古代ギリシアにおける謎

2.1 神から人へ:神託民話の起源が神話にあるように、インドヴィネッロのルーツはギリシアの「エニグマ」10にたどることができる。西洋でもっとも有名な謎は、ギリシア神話でスフィンクスがオイディプスに対して出した問い「朝は四本脚、昼は二本脚、夜は三本脚の動物は何か」であろう。これも比喩を用いた謎である 11。四つんばいで這う赤ん坊、二本足で立つ成人、杖を突いて歩く老人の姿を脚の数としてとらえ、人間の幼年、成人、老人を朝、昼、夜の時間の比喩によって表現する。しかしなぞなぞのように隠された答えをあてる問答形式ではあるが、神話における知恵比べとし

てのエニグマは、生死を左右する悲劇的性格を持つ。スフィンクスの謎に答えられなかった旅人は殺され、そのスフィンクスもオイディプスに謎を解かれて死ぬ。インドヴィネッロはその語源である動詞 indovinare(占う、予言する)からわかるように、神が

人に与えるお告げ、神託につながる。予言者を介して告げられることばは「曖昧なメッセージ」という点で謎であり、オイディプス神話において登場人物の行動を支配しているのはデルフォイの神託である。ラーイオス王は生まれてくる息子に殺されるという神託を受けて息子を殺そうとする。そのオイディプスは、実の両親が誰であるかを知ろうと赴いたデルフォイで、やはり父を殺し母と結ばれるという神託を受け、コリントスの育ての親から離れた旅先で、ラーイオス王と遭遇し、殺

9 Cfr. Dossena (2004: 101-102).10 「曖昧に語る」に由来するギリシア語「エニグマ」。11 一般的なこの形に対して、より古い複雑な表現も伝えられている。「地上に、声は一つなのに、二本足でも、四本足でも、三本足でもあるものがいて、地上と空中と海中のすべての生物の中で、ただ一つだけ性質を変える。しかも、もっとも多くの足で歩くときに、足の速さがもっとも劣る」吉田(2011: 22).

Page 6: 1. イタリアのなぞなぞ インドヴィネッロhidedoi/151_170_hashimoto.pdf152 橋本 勝雄 アリストテレースは『詩学』22 章1458a20 において、謎は、一見不可能な事柄を比喩によって

156  

橋本 勝雄

害する結果となる。オイディプスはスフィンクスの謎を解き明かしたが、神託の真の意味(自分の父と母が誰である

か)を理解することはできなかった。予言の成就のためにはその曖昧さが必要であり、自分の運命を変えることができないことが悲劇なのである。ソフォクレスの悲劇『オイディプス王』の中でオイディプスは、オイディプス自身が先王ラーイオスを殺害したことを告げる予言者テイレシアースをののしり、予言の力で解決できなかったスフィンクスの謎を解いた自分の知恵を自慢する。このとき強調されるのは、神の予言に対する人間の知恵の優越を主張するオイディプスの傲慢さである。

Rossi (2001: 22)が指摘しているように、スフィンクスの謎は、人間一般の一生を表わすと同時に主人公オイディプス自身の一生を表わす曖昧さを含んでいると考えることも可能だろう 12。もちろんその両義性に気が付くのは悲劇の当事者オイディプスではなく、観客であり読者である点も、神託と謎の共通点である。不可解な神託が結末から見れば単に真実を述べていたことが判明するように、謎もやはり、答の側から見れば単純で明らかなものである。

2.2 人から人へ:占いと知恵人間に敵対的な神の「曖昧で恐ろしい挑戦」のことばであり、動かしがたい運命的なものであった本来の神託が、その神聖で絶対的な領域を離れて、自然界の兆しを「正しく解釈する」能力の問題となることがある。こうして予言は、神託という代弁行為から人間個人の解釈能力へと変化し、占い師同士の対立が生じる。神対人間、怪物対人間の問答から、人間対人間の知恵比べとなる。アポロドーロス(1978: 196-197)の語るところでは、トロイア戦争に参加した予言者カルカースは、「より優れた予言者に出会ったら死ぬ」と予言されており、モプソスと予言の技を競って敗れ、落胆して死ぬ。そこでの問いは「イチジクの木に実が何個あるか」「孕んでいる牝豚の腹の中に子豚が何匹あり、いつ生まれるか」というものである。あきらかにここでの問いは「謎かけ」とうよりも予知能力であり、神託の色彩を強く残している。

しかしアリストテレースが定義したような、一見不可能な事柄が表現されているように見える問い、つまり現在の謎かけに近いエニグマもある。ヘラクレイトス(2008: 352)は『自然について』(断片56)で、詩人ホメロスが、虱取りをしていた子供から「見つけて捕えたのは置いて行くが、見つからずに捕えなかったものは持って行く」という謎を出されてだまされたエピソードを語っている。ヘラクレイトスの主張は、この謎にギリシア一の知恵者であるホメロスがひっかかったように、

人々は明々白々なものを知るのに欺かれているということらしい。しかしホメロスがなぜ解けなかったのか、ホメロスと謎かけがどのような関係にあるのかは、これだけでは理解しにくい。アリストテレースの失われた著作『詩人について』(断片 8)は、この挿話にいくつかの細部を付け加える。

ホメロスは自分の両親と祖国について神託に問い、神は答えた。「イオス島がお前の母の故郷であり、お前はそこで死ぬであろう。若者の謎に注意するがよい」 その後イオス島にやってきたホメロスが岩に腰かけていたとき、浜をやってくる漁師を見かけて、何が獲れたのかとたずねた。漁師たちは何も獲れず、魚の代わりにシラミを取っていたので、「獲れたものは置いてきたが、獲れなかったものは持っている」と答えた。その謎は、捕まえたノミは殺して捨て、捕まえら

12 Cfr. 吉田 (2011: 21-29).

Page 7: 1. イタリアのなぞなぞ インドヴィネッロhidedoi/151_170_hashimoto.pdf152 橋本 勝雄 アリストテレースは『詩学』22 章1458a20 において、謎は、一見不可能な事柄を比喩によって

  157

イタリアのなぞなぞ──『オイディプス王』と『ライフ・イズ・ビューティフル』の間で

れなかったノミは服の中に持っていることを暗示していた。ホメロスは謎が解けず、落胆して死んでしまった 13。

こうしてみると、虱取りをしていた子供たちではなく「漁から帰ってきた漁師たち」とやり取りをしていたホメロスが魚を念頭においていて、まさに目の前の状況に欺かれたことがはっきりする。アリストテレースは『弁論術』第 3巻第 11章 1412a10で、聞き手に別な予想を立てさせることによって味のある表現が生まれると述べている。「取ったもの/取らなかったもの」「捨てたもの/持っているもの」の対比は、インドヴィネッロによくある、一見不可能な構造であり、アリストテレースの言う謎である。しかしそれを解けなかったことがホメロスの死因とされており、さらにその前段において神託によって死が告げられていることは、予言者カルカースのエピソードと共通する。

3. 見せかけのなぞなぞ

3.1 解けない謎一見するとなぞなぞの形でありながら、実際にはそうでないなぞなぞがある。物語において、謎を出す側からみれば、どれだけ難しい謎を作れるかが知恵の証明となる。その典型的な例が、自分の経験をもとにした謎である。聖書のサムソンの謎を例にしよう。

食べる者から食べられるものが出た。強いものから甘いものが出た。(士師記 14章 14)

サムソンは、殺したライオンの死骸の中に蜜蜂が巣を作っているのを見つけてその蜂蜜を食べ、自分の体験をもとにこの謎を作る。なぞなぞの言説的分析を試みたトドロフ(2002: 315)は、なぞなぞは「対話のかたちをとった定義」であるとする。したがって、類義性のない、宗教的あるいは科学的知識を問う試験だけでなく、主観的で個人的な知識を要請するサムソンの謎も、トドロフは「本来のなぞなぞ」から除外している。たしかに、こうした個人的な経験を問う謎かけは「ルール違反」であり、通常の比喩を用いた謎ではない。だからこそ謎をかけられた側は、サムソンの妻を脅して答えを聞き出すという行動に出る。だが、主人公が謎を解くにせよ謎をかけるにせよ、物語の聞き手や読者が関心を寄せるのは、その知恵とひらめきであり、曖昧な謎と明快な答えの鮮やかな対照である。民間伝承としてのなぞなぞ遊びにおいても、答えるよりもそのやり取りを楽しむことが重要であり、答えがわかっていても繰り返して楽しめるものだと言える。民話では、サムソンと同じように、体験をもとにした「解けない謎」のモティーフがしばしば見

られる。例えば、カルヴィーノ編『イタリア民話集』の「ミラノ商人の息子」には、商人の三人兄弟の末っ子メニキーノが、フランスに行く父親について行こうとして途中ではぐれてしまい、妖精

13 アリストテレースのこの断片は、偽プルタルコスの『ホーマー伝』(De Homeri vita et poesi, 3-4: frag.76R).英訳Aristotle (1987: 63-64)を参照した。古代ギリシアの知恵とエニグマの関係について、cfr. Colli (1980: 174-178).

Page 8: 1. イタリアのなぞなぞ インドヴィネッロhidedoi/151_170_hashimoto.pdf152 橋本 勝雄 アリストテレースは『詩学』22 章1458a20 において、謎は、一見不可能な事柄を比喩によって

158  

橋本 勝雄

に出会う 14。その妖精から、ポルトガルの王女が、解けない謎を出した男と結婚するという話を聞かされる。そしてポルトガルに行く途中、妖精から託された犬が毒入りのピッツァを食べて死に、それを食べた三羽の烏、さらにそれを食べた六人の山賊が死ぬ。メニキーノは、それら一連の出来事を謎として王女に出し、結婚の約束を迫る。

Pizza ammazza BelloE Bello salva me.Un morto ammazza treE tre ne ammazzan sei.Io sparai a chi vidiE presi chi non vidi.Mangiai carne non nataCuociuta con parole.Ho dormito né in cielo né in terra,Indovinate voi, mia Reginella.(ピッツァがベッロを殺し/ベッロが僕を救う。/ 1人の死人が 3人を殺し/ 3人が 6人を殺す。/僕は目にした者を撃って/見なかった者を手にした。/生まれていない肉を/ことばで調理して食べた。/僕が眠ったのは空の上でも地上でもない/王女様、当ててください)(Calvino 1993: 369)

121話「ムーア人の骨」にも、体験による「解けない謎」が登場する 15。一人息子を持った王が再婚したのちに死去する。継母である女王は、王子のことは気にせず、一人のムーア人を寵愛する。王子は狩りのときにそのムーア人を殺して森に埋める。死体を発見した女王はそのことを秘密にしたまま、死体の骨を使ってカップと椅子と、鏡の枠を作る。それをもとに謎かけをし、王子がそれを解けなけばムーア人殺しの罪で死刑にすると宣告する。王子は農家の娘の知恵を借りてその謎を解き明かす。Domenico Giuseppe Bernoni (1828-?)が 1875年に発表した物語 L’Indovinello『なぞなぞ』をはじめとして、イタリア南部、ドイツ(グリム童話 22話「なぞなぞ」)、フランスに類話があるが、いずれにしても、主人公の奇妙な体験が謎かけに先行するのが特徴である 16。そして、スフィンクスの謎を解けなかった旅人が殺され、解いたオイディプスがテーバイの王の

座を手にしたように、こうした謎かけ/謎解きは、民話の主人公が乗り越えるべき試練となり、そこには生死と王位が賭けられる。民間伝承の謎かけにおいて、しばしば問いの前後に「これが解けたら学者様に/女王/皇帝/王様になれる」という囃子文句がつくのも、その名残といえるかもしれない 17。生死を賭けた謎解きの物語といえば、プッチーニのオペラ Turandot (『トゥーランドット』初演

1926)が有名である。ここでは先の「ミラノ商人の息子」とは逆に、王女の出す謎を解くことが結婚の条件であり、解けなければ死刑となる。しかし実際には、王女トゥーランドットが出す三つの

14 Il figlio del mercante di Milano in Calvino (1993: 365-377).15 Le ossa del moro in Calvino (1993: 666-668).16 Cfr. Rossi (2002: 55). 16世紀のエニグマ作家であるGiulio Cesare Croce (1550-1609)の Le sottilissime astuzie di Bertoldo (1606) でも、同様の「体験をもとにした」謎が見られる。Cfr. Rossi (2002: 107).17 Cfr. Lapucci (1994: 8).

Page 9: 1. イタリアのなぞなぞ インドヴィネッロhidedoi/151_170_hashimoto.pdf152 橋本 勝雄 アリストテレースは『詩学』22 章1458a20 において、謎は、一見不可能な事柄を比喩によって

  159

イタリアのなぞなぞ──『オイディプス王』と『ライフ・イズ・ビューティフル』の間で

謎を解いたカラフが、結婚の約束を守ろうとしない王女に対して謎をかけるという立場の逆転が生じる。そこで問われる「自分の名前」は、まさに体験をもとにした「解けない」謎のタイプなのである。このプッチーニの『トゥーランドット』に見られる謎物語は、カルロ・ゴッツィの同名戯曲(1762)

を経由して、フランスの東洋学者ペティ・ド・ラ・クロワが書いた小説Mille et un jours (『千一日物語』1710-1712)の物語 Histoire du prince Calaf et de la princesse de la Chine「カラフ王子と中国の王女の物語」にまで歴史的にさかのぼることができる 18。ペティ・ド・ラ・クロワの物語で、王女が出す三つの謎は以下のようなものだ。

Quelle est la créature qui est de tout pays, amie de tout le monde, et qui ne saurait souffrir son semblable?(どの国のものでもあり世界中と仲良しなのに、自分の同類を認めない被造物は何か)

Quelle est la mère, qui, après avoir mis au monde ses enfants, les dévore tous quand ils sont devenus grands?(自分の子供たちを産んだあとで、その子らが大きくなると飲みこんでしまう母親は何か)

Quel est l’arbre, dont toutes les feuilles sont blanches d’un côte et noires de l’autre?(一面が白く、もう一面が黒い葉を持つ木は何か)(Pétis de La Croix 2000: 57-58)

それぞれ «太陽 le soleil»、«海 la mère»、«年 l’année»が答えである。フランスの Jacques-Philippe

d’Orneval(-1766)と Alain-René Lesage(1668-1747)が同様の喜劇 La principessa de la Chine (『中国の王女』1729初演)を書いており、その際の謎の答えは «氷 la glace»、«les yeux目 »、«結婚相手 un

epoux»である。ゴッツィの戯曲では «太陽 il sole»、«年 l’anno»、«アドリア海の獅子 il leone dell’

Adriatico»(ヴェネツィア)となり、フリードリヒ・フォン・シラーがゴッツィをドイツ語に訳した版では «年 das Jahr»、«目 das Aug»、«鋤 der Pflug»となる。そして、プッチーニのオペラでは «希望

la speranza»、«血潮 il sangue»、«トゥーランドット Turandot»となる 19。謎の内容は変わってもいずれも比喩を用いた謎という点では変わらない。そして何よりも、約束を守るのを嫌がるトゥーランドットに対して、三つの謎を解いたカラフ王子が逆に自らの名を謎として問い返すという形は保たれている。カラフ王子の出す謎が、王女が出したような通常の謎かけではなく、王子自身の名前という「解

けない謎」である理由について、上述したサムソンと民話の例が手掛かりになるかもしれない。王女がその謎が解けないことを、登場人物と読者が、そして誰よりその王女当人が理解することが重要なのである。

3.2 不確定な謎ホイジンガ(1973: 223)の説に従えば、古代世界においては知識が魔力であり、謎問答が祭祀としての性格を持っていた。言説構造からなぞなぞを分析したトドロフとは違って、ホイジンガ(1973:

230)は歴史的文化において謎遊びを考察し、その神聖な、したがって危険な性格を指摘する。生

18 Cfr. Rossi (2002: 342).19 Cfr. 最上 (2009).

Page 10: 1. イタリアのなぞなぞ インドヴィネッロhidedoi/151_170_hashimoto.pdf152 橋本 勝雄 アリストテレースは『詩学』22 章1458a20 において、謎は、一見不可能な事柄を比喩によって

160  

橋本 勝雄

命を賭けた謎問答は、ドイツ文学に見られる「首の謎」のテーマや北欧神話『エッダ』の質問競技に見つけることができる。こうした神話・伝説に見られる謎問答では、問いの中の情報をもとに答えを推論する能力と、世界を認識する能力、簡単に言えば「知恵」と「知識」の間に線引きはなされず、世界の始まりや宇宙の構造といった形而上的問いが投げかけられる。

謎問答の答は思慮分別とか論理的判断、推理によって見いだされるのではない。それは文字どおり、質問者が被問者にかけた鎖が解けるものとして解決される。(…)そしてその答えは、遊びの規則を知っていれば見いだすことができるのである。遊びの規則とは、この場合、文法的なもの、詩的なもの、あるいは祭式的なものがそれである。(ホイジンガ 1973: 233)。

ホイジンガ(1973: 236)は、当初は聖なる遊びとしてあった謎が、秘教的教義になる方向と、社会的娯楽の方向に分岐していったと説明する。ギリシアで、宴会の最後に行われたという謎かけ競技は、社交的遊びの例である。ギリシアでは、唯一の答えが想定される謎 «エニグマα νιγμα, enigma»に対して、«グリプスγρύψ ,

grýps»と呼ばれる謎が区別されていた。「曖昧に語る」という語源を持つエニグマがアリストテレースの言う「謎」であり、比喩表現を用いてある事物を暗示するものだが、「魚を捕る筌、網」を意味するグリフォスは、答える人を混乱させるための「罠」のような問いで、一つの答えではなく、複数の答えの可能性がある。ソロイのクレアルコスによれば、饗宴の遊びの中で、出された謎に答えることに名誉がかかっており、解けなかった者は罰として酢を混ぜたワインが飲まされたとい

う 20。こうした謎は、あらかじめ質問する側が解答を用意しているのではなく、相手を窮地に追い込む

ためのものに思われるが、実際には、むしろ答える側が機転をきかせ、意見を自由に展開する場となる。プルタルコスの『七賢人の饗宴』では、コリントスの僭主ペリアンドロスによって宴会に招かれ

た賢人たちが、国家や宇宙の正しい支配について語り合う。エジプトの王アマシスがエティオピア人の王から「海を飲み干す」という難題を出されて困っていることを聞いた賢人ビアスは、海に注ぐ河川をせき止めるよう相手に命じよ、と助け船を出す。なぞなぞというよりとんち話といえよう。続いてアマシスが出した問題に対するエティオピアの王の答えが読み上げられ、それを吟味したタレスが自らの答えを述べる。

「最も古いものは何か――神」とタレスは言った。「なぜなら、神は生成の始まりをもたないから。最も大きいものは何か――空間。なぜなら宇宙は他のいっさいのものを包含するが、空間はその宇宙を包含するからである。最も美しいものは何か――宇宙。なぜなら、秩序あるものすべてが宇宙の一部だからである。最も賢いものは何か――時間。なぜなら、時間はさまざまなことがらをすでに発見し、残る他のことがらを今後発見することになるからである。最も共通したものは何か――希望。なぜなら、ほかには何ももっていないものにも、希望は備わっ

20 Cfr. Rossi (2001: 181).

Page 11: 1. イタリアのなぞなぞ インドヴィネッロhidedoi/151_170_hashimoto.pdf152 橋本 勝雄 アリストテレースは『詩学』22 章1458a20 において、謎は、一見不可能な事柄を比喩によって

  161

イタリアのなぞなぞ──『オイディプス王』と『ライフ・イズ・ビューティフル』の間で

ているからである。最も益するものは何か――徳。なぜなら、うまく用いることによって、他のものを益あるものにするからである。最も有害なものは何か――悪徳。なぜなら、それがあれば大半のものを害するからである。最も強いものは何か――必然。なぜなら、これだけには打ち勝ちがたいからである。最も容易なものは何か――自然のなかにまかせること、なぜならば、人はしばしば快楽には倦むことがあるからである」。(プルタルコス 2001: 219-220)

こうした一連の問答もなぞなぞとはほど遠い。むしろ初期ギリシア哲学における、万物の根源的原理アルケーをめぐる問いを連想させる。経験論的に不可知な疑問あるいは不確定な疑問であるからこそ、答える人の考え次第なのである。共同体としての共通の意見を持つことは可能だが、エティオピアの王の答えが間違っていてタレスの答えが正しいという客観的な判定はできない。ここでの謎は、問いの中ではなく、答えの中の神や希望、必然といった抽象概念の解釈をめぐっ

て生じる。したがって、日本の三段謎のように、「AはBである」の部分ではなく、「なぜなら・・・だから」という最後の説明が全体を支えているように見える。

4. なぞなぞの仕組み

4.1 比喩となぞなぞ:「ヴェローナの謎歌」ふたたびアリストテレースの定義「謎とは一見不可能な事柄を比喩によって結びつけること」に

戻って考えてみよう。比喩(暗喩)がインドヴィネッロと密接な関係があるとして、両者の差はどのようなものであるのか、あるいは比喩なしでインドヴィネッロは成立するのだろうか。イタリア語が俗ラテン語から派生した過程を示す歴史的言語資料「ヴェローナの謎歌」は、イン

ドヴィネッロとしても、ギリシア、ラテン世界とイタリア語をつなぐ位置にある。1924年に文献学者 Luigi Schiaparelliが、ヴェローナの司教座聖堂参事図書館に保管されている古い祈祷書の余白に、写字生によると思われる書き込みを発見する。8世紀初頭のスペインの方言モザラベ語で書かれたこの祈祷書は、カリアリ、ピサを経由して、ヴェローナに運ばれた。3行の書き込みは、8世紀末から 9世紀初頭のものと推定され、その 3行目はラテン語による感謝のことばである。「謎歌」とされる最初の 2行にはさまざまに解釈が分かれているが、ここでは Rossi (2001:

48)から引用する。

Se pareba boves alba pratalia araba(et) albo versorio teneba (et) negro semen seminaba. (牛を押し、白い畑を耕した/(そして)白い犂を持ち、(そして)黒い種を撒いた)

謎かけとしてみた場合、答えは「書く行為」または「書く人、写字生」であろう。牛はペンを持つ指、白い畑は紙、白い鋤はペン、黒い種はインクである。この解釈は、イタリア各地の方言、そしてヨーロッパ各国に、同じような「民衆の謎かけ」があることから裏付けられる 21。しかし Dossena (2004: 139)のように、この表現は、謎かけというより一種のエピグラム、「書くこと」のメタファーであるという主張もある。その証拠として、783年にオルレアンの僧院で筆写されたとされるパウルス・ディアコヌスの写本に同種の表現があると指摘される。

Page 12: 1. イタリアのなぞなぞ インドヴィネッロhidedoi/151_170_hashimoto.pdf152 橋本 勝雄 アリストテレースは『詩学』22 章1458a20 において、謎は、一見不可能な事柄を比喩によって

162  

橋本 勝雄

Vos autem lectores, qui istum libellum legeritis, manus vestras bene diligite, et digitos estros longe ponite ad scripturam; quia qui nescit scribere nullum labore estima, quia quinque berni arabant, tres operabant sulcisque faciebant. O quam grave pondus scriptura! (読者よ、手をきれいに保ち、文字から遠ざけておきなさい。書くことを知らない者は、その苦労を知らないのだから。5人のしもべが耕し 3人が畝を作る。書くことはいかに大変な苦労であることか!) (Roncaglia 1987: 175)

Santano Moreno(2003)は、「文字を書く」ことが耕作作業と深い関係にあることをまとめてい

る 22。ラテン語 versus「詩行、行」にはもともと「轍、畝」の意味があり、動詞 arare「耕す」その複合語 exarare, inarare, paerarareが、文章を書く行為として用いられる。「畝」が「文章の行」としての意味を持つようになったことに、中世の神学者セヴィリアのイシドルスは、かつて使われていた犂耕体(scrittura bustrofedica)との耕作作業の類似を見ている 23。古代ローマでは、ロウ版に文字を書く(刻む)ことが、arare in ceram, arare campum cereum「ロウを耕す、ロウの畑を耕す」と表現されていた。ロウ版とそれをひっかくペンから、羊皮紙とペン、インクに変わったとき、こうした耕すイメージに加えて、白い畑と黒いインクの対比が加わったように見える。ラテン語の「なぞなぞ集」として大きな影響を残した 4世紀の Simposioの例を見ると、こうした比喩による描写がラテン語でのエニグマ(謎)の特徴であったことがわかる。

De summo planus sed non ego planus in imo,Versor utrimque manu, diverso et munere fungor:Altera pars revocat, quidquid pars altera fecit.(一方は平ら、他方は平らでない/両方の側を反対の役目で使う/一方で引いたものをもう他方で取り消す) (Rossi 2002: 379).

この答えは graphium (stilo)「尖筆」であり、片方のとがった先端で文字を書き、平べったい方でロウ版を滑らかにすることを指している。Rossi (2001: 36)によれば、Simposioのこれらの詩はヘクサメトロンの 3行詩で書かれ、謎の題材が「鍵」や「靴」、「箒」といった日常生活品や「カエル」のような動物であった。現代のエニグミスティカのような同音異義語を用いることもなく、対象がそのまま描写されている。問答形式ではなく答えが表題として先におかれる点も、「謎かけ」というより、「謎めかした詩」という印象を受ける。「ヴェローナの謎歌」を余白に書いた写字生が、ラテン語の比喩として書いていたのか、それとも母語である俗ラテン語で習い覚えた謎かけとして書き留めたのかを断定することはできない。その意味で、この「謎歌」はまさに、比喩表現とインドヴィネッロの境界線上にあるというべきだろう。

21 Rossi (2001: 48-50). ヴェネト «Campo bianco, semenza negra, / Do la guarda, zinco la mena.»(白い畑、黒い種、/ 2がそれを見て、5がそれを運ぶ).ロンバルディア «Campo bianco, semenza negra, / Duu che ara e trii che pena».(白い畑、黒い種、/2が耕し 3が苦しむ).マルケ «Terra bianga, sèmena nera, / Cingue buoi, ‘na pèrtica mena».(白い土地、黒い種/ 5頭の牛、一本の棒を運ぶ).サレント «Cinque su li stàntul / E unu lu pinnente. / Janca è la terra / e niura la simente».(5本の歯/一本の鋤/土地は白く/種は黒い).フランス «La semence est noire. / La terre est blanche. / Celui qui sème pense». (種は白い/地面は白い/種撒く人は考える).英国 «The land was white, the seed was black, / It’‘ll take a good scholar riddle me that».(土地は白く種は黒い、/私を解いたものは優れた学者だろう).22 プラトンの『パイドロス』(274-c-276a)に文字を種子に譬える例が見られる。23 Cfr. クルツィウス (1971: 455-457).

Page 13: 1. イタリアのなぞなぞ インドヴィネッロhidedoi/151_170_hashimoto.pdf152 橋本 勝雄 アリストテレースは『詩学』22 章1458a20 において、謎は、一見不可能な事柄を比喩によって

  163

イタリアのなぞなぞ──『オイディプス王』と『ライフ・イズ・ビューティフル』の間で

ボルヘス(2002: 57-58)は、数多くの隠喩を少数の単純なパターンに帰着させることが可能だが、つねに新しい変種を試みることが可能であり、その一方で、明確なパターンに帰着させられない隠喩が存在すると結論づけている。たしかに奇抜ななぞなぞは独創的で難解な隠喩から作られるが、ありきたりの隠喩であっても変更を加えることで新しいバリエーションを産み出すことができる。「ヴェローナの謎歌」の各地方での豊富な変種はその証拠であるといえるだろう。

4.1 多義表現となぞなぞ:性的なインドヴィネッロ1.1「エニグミスティカのインドヴィネッロ」で見たように、比喩を用いたインドヴィネッロに

対して、エニグミスティカのインドヴィネッロは表現の多義性を利用する。Bartezzaghi(2009: 55)の説明では、伝統的なインドヴィネッロが一見して意味がないように見えて実際には一つの意味(答え)を持っているのに対して、エニグミスティカのインドヴィネッロは(タイトルが示唆する)一つの意味を持っているように見えて、二つの意味を持っているテクストである。

La nonnaLavora d’ago fino a mezzanotteper raggiustare le mudande rotte.(「おばあさん」/真夜中まで針仕事/破れたパンツを直すため) (Bartezzaghi 2009: XV)

答えは la bussola 「方位磁石」である。mezzanotteには時刻の「真夜中」だけでなく、方角の「北」の意味もあり、rotteは過去分詞「破れた」のほかに、女性複数名詞として「航路」の意味もある。「変更すべき進路を修正するために、針が北を指す」という意味にも解釈できるのである。こうした二重の意味、「見かけの意味」と「本当の意味」の差異を利用する「民衆のインドヴィネッ

ロ」では、「見かけの意味」が性表現であることが多い。

Il papa ce l’ha e non l’adoperail prete ce l’ha e non lo dà a nessunol’uomo ce l’ha e lo dà alla donna,la donna quand’è sposata lo prende.– il cognome(教皇はそれを持っていて使わない/神父は持っていて誰にも渡さない/男は持っていて、女に渡す/女は結婚するとそれを受け取る-名字)(Bartezzaghi 2009: 45)

性的なほのめかしを含むインドヴィネッロは、子供の遊戯というよりも大人の冗談や小話の領域に近い。テレビやラジオのような娯楽のない時代の農民社会において、夜に炉を囲んで行う集団作業が、民話や謎かけを子供たちに語る機会であるだけでなく、若い男女の出会いの場でもあったと想像するのは難しいことではない。日常生活の中でタブー視される性表現に対して、二重の意味を持つインドヴィネッロはつねに逃げ道を用意しており、女性たちも「わからないふり」をしながら耳を傾けることができた。Rossi(2001: 56)によると、教会筋が批難したにもかかわらず、通夜の場でも、性的なほのめかしを含むインドヴィネッロをやり取りする習慣があったという。そこには、死に対する笑いを引き出し、生命と性を喚起するという役割があったと考えられる。

Page 14: 1. イタリアのなぞなぞ インドヴィネッロhidedoi/151_170_hashimoto.pdf152 橋本 勝雄 アリストテレースは『詩学』22 章1458a20 において、謎は、一見不可能な事柄を比喩によって

164  

橋本 勝雄

Bartezzaghi (2009: 46)は、こうした「ほのめかし」によるインドヴィネッロが、二重の意味を利用した現代的なインドヴィネッロの形式に近いことを指摘するが、こうした多義的な表現(anfibolo-

gia)そのものは、古くから知られていた。たとえば戦争に赴く兵士に下されたとされるシビラの神託がある。

Ibis redibis non morieris in bello. (Rossi 2002: 43)

休止の位置によって否定辞 nonが修飾する動詞が異なり、「お前は行き、帰るだろう、戦争で死なないだろう」とも、「お前は行き、帰らないだろう、戦争で死ぬだろう」とも解釈できる。民衆のなぞなぞに対するトドロフの定義「…であるようなこの物(生き物)の名前は何か?」で

は、「…であるような」の部分に矛盾や対照が含まれていて、存在しないと思われる物を探さなければならない。しかし、こうした二重の意味を用いたなぞなぞでは、「Aのように見えるが、そうではない別の名前は何か?」という問いに書き換える必要がある。解き手を混乱させる手段として、前者は矛盾や対立を利用するが、後者は、別の意味(見かけの意味)の下に答え(本当の意味)を隠すのである。言い換えれば、対象 Aを比喩的に描写してその矛盾を強調するのではなく、異なる対象 Bにも適用可能であるような記述を作り出す。こうした多義表現が口頭のなぞなぞになりにくいのは、「見かけの意味」と「本当の意味」すなわち答えとの落差が必ずしも明確ではないからだと考えられる。「性的なインドヴィネッロ」であれば、その違いははっきりとしており、答える側の戸惑いを引き出すことを狙ったからかい、冗談として機能する。

4.2 物からことばへ:クリットグラフィーア・ムネモニカとコンドラムここまで見てきたインドヴィネッロの答えは、「人間」「太陽」「愛」といった具象、抽象いずれにしても物や概念であった。したがって最初に述べたように、基本的に「翻訳可能」である。また類義語で置き換えても成立する。「暗闇」)が答えであれば、「闇」、「くらがり」でもよいし、「沈黙」が答えならば「静けさ」でも間違いとは言えない(註 2参照)。ふたたび、映画『ライフ・イズ・ビューティフル』から別のインドヴィネッロを取り上げる。

Biancaneve in mezzo ai nani! Risolvi questo enigma cervellone nel tempo che ti dà la soluzione. (小人たちの間の白雪姫。天才君、答えを出す時間のうちにこのなぞを解きなさい!) (Benigni e Cerami 1998: 42)

答えは fra sette minuti「7分後」である。映画では、主人公グイドがこう説明している。

«Fra sette minuti» è la soluzione! Biancavene in mezzo ai nani! I nani sono sette… e sono piccoli, sono minuti, Biancaneve che sta in mezzo a loro dove sta? «Fra sette minuti!»(「7分後」が答えです。「小人たちの間の白雪姫」、小人は 7人、そして小さい。小人たちの間にいる白雪姫はどこにいるか、「7分後」にいる)(Benigni e Cerami 1998: 45)

問い Biancaneve in mezzo ai nani. に対する答え Fra sette minutiは二重の意味を持つ。イタリア語の

Page 15: 1. イタリアのなぞなぞ インドヴィネッロhidedoi/151_170_hashimoto.pdf152 橋本 勝雄 アリストテレースは『詩学』22 章1458a20 において、謎は、一見不可能な事柄を比喩によって

  165

イタリアのなぞなぞ──『オイディプス王』と『ライフ・イズ・ビューティフル』の間で

前置詞 fraは、位置を示して「の間に、囲まれて」の意味を指すと同時に、時間表現を伴って「~後に」を意味しうる。minuti は「小さい」という形容詞(男性複数形)であると同時に、時間の単位を指す名詞「分」(男性複数形)でもある。さらに、数詞 setteは、名詞として「7つのもの/ 7人」でもあり、形容詞として「7つの」でもある。こうして、fra sette minuti というフレーズが持つ「小さな 7人の間に」と「7分後に」の両義性が、この「なぞなぞ」を成立させている。

dentro il bosco「森の中」とか nella cassetta「小屋の中」、tra sette ore「7時間後」といった答えは、イタリア語として両義的な表現でないために除外されるのであり、あるいは偶然に「7分後」という答えが思い浮かんだ、あるいは教えてもらったとしても、その両義性に気がつかなければ意味がない。さらに、物語『白雪姫と 7人の小人』を踏まえたこのなぞなぞは、言語だけでなく文化的コンテキストもかかわっている。エニグミスティカの分類からみると、これはインドヴィネッロというよりも、クリットグラフィーア・ムネモニカ(crittografia mnemonica)に近いといえる。クリットグラフィーア・ムネモニカとは、レブス(rebus、「判じ絵」)における絵の代わりに文字を使ってフレーズを作るクリットグラフィーアの一種である。エスポスト(esposto「ヒント、題」)から連想されるフレーズが、二重の意味を持っており、ダイアグラム(diagramma、「枠組み、図式」)は答えの文字数を示している。Bartezzaghi (2009: 242)から例を挙げる。

クリットグラフィーア・ムネモニカ(5, 6, 2, 13)CUCCHIAINO答:Mezzo minuto di raccoglimento

CUCCHIAINO「小スプーン」というエスポストから、答えMezzo minuto di raccoglimento「集めるための小さな器具」が連想されるが、それはまた「三十秒間の精神集中、瞑想」とも解釈される。mezzo minutoは、どちらを名詞とするかによって「小さな器具」でもあり、「一分間の半分= 30秒」でもある。un minuto di raccoglimento「(弔意を示す)黙祷」という慣用表現が示すように、raccogli-

mentoは「精神集中」の意味で用いられることが多く、「集めること、収穫」の意味ではあまり使われない。語が持つ多義性と同形(音)異語を利用して、二重の意味を持つ表現を作り出し、その日常的な

「明らかな」意味を答として、普段あまり意識されない「裏の」意味をエスポストによって示唆するという方法である 24。したがって、「白雪姫」のインドヴィネッロは、以下のように表せるだろう。

クリットグラフィーア・ムネモニカ(3, 5, 6 )BIANCANEVE IN MEZZO AI NANI答:Fra sette minuti

24 Dossena (2004: 89)は、利用される同形異義語として、campo / campo 「平地/陣営」のような同語源で、同じ品詞に属するタイプ、lancia / lancia 「投げる(動詞 lanciareの 3人称単数現在)/槍」のような同語源で、異なる品詞に属するタイプ、sei / sei 「ある(動詞 essereの 2人称単数現在)/数詞 6」のような語源が異なるタイプを挙げている。クリットグラフィーア・ムネモニカの意味論的構造について、cfr. Eco (1984: 267-280).

Page 16: 1. イタリアのなぞなぞ インドヴィネッロhidedoi/151_170_hashimoto.pdf152 橋本 勝雄 アリストテレースは『詩学』22 章1458a20 において、謎は、一見不可能な事柄を比喩によって

166  

橋本 勝雄

字数を指定するダイアグラムが付されていることから、求められる答えは物や対象ではなくことば自体、つまり、対象記号内容や指示対象ではなく記号表現であることがわかる。クロスワードパズルにおいてマス目によって文字数があらかじめ限定されているように、文字の配置が限定されることは手掛かりでもあり、類義表現を排除することになる 25。近代のエニグミスティカでは、「エニグマ」と「インドヴィネッロ」をのぞいて、ほとんどの場合、ダイアグラムによって答えの文字列が制限される。こうした謎かけがやり取りされる場が、口頭ではなく雑誌であることも関係しているだろう。しかし民衆のインドヴィネッロにも、同音異義語を利用したり、ことば自体、記号表現に注目し

たりするものがある。たとえば固有名詞を普通名詞として解釈しなおすタイプの謎かけがそうである。

Quale è la città più mattiniera? – Alba.(一番早起きな町はどこか―アルバ)(Lapucci 1994: 60)

Quale è la città più fastidiosa? – Mosca.(一番わずらわしい町はどこか-モスクワ)(Lapucci 1994: 186)

ここでは、「夜明け」alba、「ハエ」moscaの普通名詞と、アルバ、モスクワという町の固有名が同形であることが利用されている。次の例では、代名詞の結合形 ve lo「君たちにそれを」が利用される 26。

Ve-lo dicove-lo ho dettove-lo torno a dire di nuovose non indovineretetesta d’asino sarete. – il velo(君たちにそれを言う/君たちにそれを君たちに言った/もう一度君たちにそれを言う/もしわからなければ/お馬鹿さんだな-ヴェール)(Lapucci 1994: 6)

さらにシンプルなタイプでは、名前の中の文字が答えとなる。

In cielo non si vede,in mare no si sente,il Diavolo ce n’ha una,in Paradiso ce ne sono due,Tamara he ha tree in tutto l’universo non se ne trova nessuna. – La lettera A.(空に見えず/海でも聞こえない/悪魔は一つ持っている/天国には二つある/タマーラは三つもっている/宇宙全体には一つもない―文字 A)(Lapucci 1994: 55)

25 厳密に考えるならば、答えが一意的に決定されているわけではなく、わずかではあるが、異なる複数の答えが成立することは理論的にはありうる。26 Rossi (2002: 215)は、問いの中に答えがカモフラージュされて存在するタイプを、indovinello linguistico「言語的インドヴィネッロ」と呼んでいる。

Page 17: 1. イタリアのなぞなぞ インドヴィネッロhidedoi/151_170_hashimoto.pdf152 橋本 勝雄 アリストテレースは『詩学』22 章1458a20 において、謎は、一見不可能な事柄を比喩によって

  167

イタリアのなぞなぞ──『オイディプス王』と『ライフ・イズ・ビューティフル』の間で

Come cominciano sempre le favole? – Con la lettera F.(いつもおとぎ話はどう始まるか―文字 Fで)(Lapucci 1994: 128)

Qual è la cosa chesi vede una volta in un minuto,due volte in un momentoe mai in cento anni? – La lettera M.(一分で一度/一瞬では二度見えるのに/百年では一度も見えないものは何か―文字M)(Lapucci

1994: 174)

英語圏では、一般的な物や行為を答とする通常の「なぞなぞ」(riddle)に対し、こうした地口を含んだ謎を「コナンドラム」(conundrum)として区別している 27。同形異義語(多義語)を利用するクリットグラフィーア・ムネモニカやことば遊びを利用するコナンドラムを他の言語に翻訳することは難しい。前者であれば、一つの意味に対応することばを見つけるだけではなく、特定の複数の意味に対応するようなことばを見つけなければならないし、後者の場合は、まさに言語そのものが問題となっているからである。こうした種類の謎かけは、初めて出会ったときは答えを導くことはできないが、一度わかってし

まえば単純なものに思える。しかし興味の対象を、世界からそれを描写し理解する手段である言語そのものへ向ける、メタ言語的な観点を導入している。口承文化としてのインドヴィネッロが簡単な脚韻や単純な語呂合わせを利用し、教養人のインドヴィネッロが韻文詩で書かれたように、つねになぞなぞは言語形式の面を重視してきたのである。アリストテレースは『弁論術』第 3巻第 11章 1412a30-1412b10で、文字を置き換えることによ

る冗談と、同じ語を異なる意味において繰り返す「味のあることば」に言及している。そうした表現の快さは、聞き手の予想を裏切ること、いわば聞き手を一杯食わせるところにあるとする。聞き手にとって、一見して理解できない謎が解明されること、自らの予想とは異なる形で説明さ

れることは快い体験であり、柳田が言うように「国語の力、言葉の働き」の大きさを実感することでもある。そこには、問いかけによって生じた緊張と不安が答えによって解消されたという安堵感、世界の混沌に対する秩序の勝利という安心感もあるといえるだろう。スフィンクスの謎を解いたオイディプスや、解けない謎を出したカラフ王子は、謎を作り謎を解く人間の知恵の象徴である。だが、すべての謎に答えがあるのだろうか。

5. 結びに代えて:答えのない謎

3.1 「解けない謎」で取り上げたサムソンの謎のように、答える側にとって解くことが不可能な謎かけがある。3.2「不確定な謎」の哲学問答のように、正解があらかじめ決定されておらず、答える側の機知と論証が答えを決める謎かけもある。

27 Cfr. オーガード(1991: 18-24).同書から一例を引用。「Why is Paris like the letter F ? パリはどうして Fの文字に似ているの。答:Franceの首都(capital=頭文字)だから」。

Page 18: 1. イタリアのなぞなぞ インドヴィネッロhidedoi/151_170_hashimoto.pdf152 橋本 勝雄 アリストテレースは『詩学』22 章1458a20 において、謎は、一見不可能な事柄を比喩によって

168  

橋本 勝雄

Lapucci (1994: 37)は、インドヴィネッロは知識を示すものというより、問題を巧みに見抜く能力、不条理な状況から抜け出す巧妙さにあるとする 28。したがって、謎を作る側も答える側も解くことができない謎、答えがないとされている謎があるとすれば、それはまさに脱出不可能な不条理を象徴するものだろう。映画『ライフ・イズ・ビューティフル』に登場する四番目のインドヴィネッロを見よう。

Grasso grasso, brutto brutto, tutto giallo in verità, se mi chiedi dove sono ti rispondo qua qua qua! […] Cam-minando faccio poppò, chi son io dimmelo un po’! (でぶで醜くて本当に全身黄色、どこにいるかと尋ねられると、ここ、ここ、と答える! […] 歩きながらうんちする、ぼくがだれだか当ててごらん) (Benigni e Cerami 1998: 171-172)

強制収容所に送られたグイドは、知り合いであるドイツ人軍医レッシングに再会し、収容所から脱する助けを求めようとする。しかしレッシングの頭は、友人から送られたこのインドヴィネッロを解くことでいっぱいになっており、グイドの置かれた状況にはまったく関心を示さず、ただその謎解きの能力を求めようとするばかりである。この謎が何を指すのかについては、作者であるベニーニとチェラーミは明言しておらず、研究者

によってさまざまな推測がなされている 29。Bartezzaghi(2009: 54)は、この怪物的な謎について、答えのないインドヴィネッロ、あるいは見かけの意味だけを持っていて本当の意味を持っていないものだと述べている。たしかに、矛盾して無意味に見えるものから本当の意味を引き出すことが謎解きだとすれば、強制収容所という不条理な現実に合理的な解釈を与えることの不可能性、もしくはジレンマを象徴していると考えられるだろう。比喩や言語の多義性、ことば遊びは、目の前に突きつけられた問題をより高い次元で解消するた

めの技巧、解釈ゲームの道具であり、その行き詰まりは、解決不能なの謎をそのまま受け止めることを意味する。禅の考案のような、言語による答えが存在しない問いによって、すべての謎に答えがあるという前提が揺さぶられ、人は不安のままに残される。それはまるで神のいない世界で、神託だけが存在するようなものかもしれない。

邦訳参考文献

アポロドーロス

1978 『ギリシア神話』高津春繁訳、岩波文庫。

アリストテレース

1997 『アリストテレース詩学・ホラーティウス詩論』松本仁助・岡道男訳、岩波文庫。

28 Franco Sacchetti (1332-1400)の Tretecento novelleの第 4話 Barnabò Visconti: e l’abate e il mugnaio(バルナボ・ヴィスコンティ:僧院長と粉屋)で「台地と天空の距離はどれくらいか、海の水の量はどれほどか、地獄では何をしているのか、領主は人としてどれほど価値があるのか」という問題に答える粉屋を例としている。29 映画に登場するインドヴィネッロの意味について、Cfr. Siporin (2002); Laviosa (2007).最後のインドヴィネッロは「ユダヤ人」あるいは「ナチスドイツ人」、またその両方を指すと推測されている。レッシング医師とインドヴィネッロについて、cfr. Bar-on (2005: 192-192).

Page 19: 1. イタリアのなぞなぞ インドヴィネッロhidedoi/151_170_hashimoto.pdf152 橋本 勝雄 アリストテレースは『詩学』22 章1458a20 において、謎は、一見不可能な事柄を比喩によって

  169

イタリアのなぞなぞ──『オイディプス王』と『ライフ・イズ・ビューティフル』の間で

1992 『弁論術』戸塚七郎訳、岩波文庫。

オーガード、トニー

1991 『英語ことば遊び事典』新倉俊一監訳、杉浦和芳・西原克政・富山英俊訳、大修館書店。

カイヨワ、ロジェ

1990 『遊びと人間』多田道太郎・塚崎幹夫訳、講談社学術文庫。

クルツィウス、E. R.

1971 『ヨーロッパ文学とラテン中世』南大路振一・岸本通夫・中村善也訳、みすず書房。

鈴木棠三(編)

1985 『中世なぞなぞ集』、岩波文庫。

トドロフ、ツヴェタン

2002 『言説の諸ジャンル』小林文生訳、法政大学出版局。

プルタルコス

2001 『モラリア 2』瀬口昌久訳、京都大学出版会。

ヘラクレイトス

2008 『ソクラテス以前哲学者断片集〈第 1分冊〉』内山勝利訳、岩波書店。

ホイジンガ

1973 『ホモ・ルーデンス』高橋英夫訳、中公文庫。

ボルヘス、ホルヘ=ルイス

2002 『ボルヘス、文学を語る』鼓直訳、岩波書店。

最上英明

2009 『《トゥーランドット》と《妖精》 プッチーニの遺作とワーグナーの処女作』、アルファベータ。

柳田國男

1976 『なぞとことわざ』、講談社学術文庫。

吉田敦彦

2011 『オイディプスの謎』、講談社学術文庫。

欧文参考文献

Aritotle

1987 The Poetics, tradotto da Janko, R. Indianapolis, Hackett.

Bar-on, Gefen

2005 Benigni’s life-affirming lie: Life is Beautiful as an aesthetic and moral response to the Holocausto, in Bullaro (2005: 179-200).

Bartezzaghi, S.

Page 20: 1. イタリアのなぞなぞ インドヴィネッロhidedoi/151_170_hashimoto.pdf152 橋本 勝雄 アリストテレースは『詩学』22 章1458a20 において、謎は、一見不可能な事柄を比喩によって

170  

橋本 勝雄

2009 Lezioni di enigmistica, ed. riveduto, Torino, Einaudi.

Benigni, R. e Cerami, V.

1998 La vita è bella, Torino, Einaudi.

Bullaro, G.R. (a cura di)

2005 Beyando Life in beautiful: Comedy and Tragedy in the Cinema of Roberto Benigni, Leicester, Toubador.

Calvino, I. (a cura di)

1993 Le fiabe italiane, Einaudi.

Colli, G. (a cura di)

1980 La sapienza greca – vol. III – Eraclito, Milano, Adelphi.

Cousineau, P.

1999 A World Treasury of Riddles, Boston, Conari Press.

Dossena, G.

2004 Il dado e l’alfabeto; Nuovo dizionario dei giochi con le parole, Bologna, Zanichelli.

Eco, U.

1984 Semiotica e filosofia del linguaggio, Torino, Einaudi.

Lapucci, C.

1994 Il libro degli indovinelli, Milano, Avallardi.

Laviosa, F.

2007 Roberto Benigni: giocoliere di parole in La vita è bella in «Italica», Summer-Autumn. Internet URL < http://findarti-cles.com/p/articles/mi_hb1432/is_2-3_84/ai_n29426556/>

Pétis de La Croix, F.

2000 Histoire du prince Calaf et de la princesse de la Chine, Paris, L’Harmattan.

Roncaglia, A.

1987 Le origini e il Duecento, in «Storia della Letteratura Italiana», diretta da E. Cecchi e N. Sapegno, Milano, Garzanti.

Rossi, G. A.

2001 Enigmistica, Milano, Hoepli.

2002 Dizionario enciclopedico di enigmistica e ludolinguistica, Bologna, Zanichelli.

Santano Moreno, J.

2003 Il sorco e il verso: il luogo della metafora in« Rivista di filologia cognitiva», 1/2003, Internet, URL <http://w3.uniroma1.it/cogfil/solco.html>

Siporin, S.

2002 Life is Beautiful: Four Riddles, Three Answers in «Journal of Modern Italian Studies» 7.