1 初任務 - アルファポリス€¦ · 前から武器屋の外壁に貼られていた紙をベリッと 剥 がします。は その大きな貼り紙には、ある人の似顔絵が描かれていました。

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次剣つるぎの

求婚

7

書き下ろし番外編 

初任務

355

剣つるぎの求婚

9 剣の求婚1 8

けれど、そこに勇者様は現れませんでした。魔王が消滅して以降、彼の消息は誰にも

掴つか

めません。

王様は彼を探すべく、街のあちこちに似顔絵を貼って情報を求めます。この平和をも

たらした救世主に、どうしても御礼を言いたかったのでしょう。

それでも勇者様は現れません。

だからみんな、勇者様は魔王と戦った時の傷が原因で亡くなったのだろうと、諦あ

きらめ

いました。

もちろん、私――フェイシア・イールスもその一人です。

「勇者様……。平和になった世界を見ないまま逝い

ってしまわれるなんて」

窓を開けたまま溜息をつくと、湯気のように白い息が立ちのぼっていきます。季節は

初冬となり、最近はめっきり冷え込んできました。

窓の外に手を出してみると、北風が指先を痛いほど冷やしていきます。

「こんな寒さの中も、勇者様は一人で旅をしていたんですね」

もちろん、問題は寒さだけではなかったのでしょう。魔王討伐のために旅をした三年

間は、彼にとって気の休まらない日々だったに違いありません。世界中の人々からの期

待を一身に集めていた上、魔族が攻撃の手を緩ゆ

める日などなかったでしょうから。

一章 

剣つるぎ

の求婚

大陸中央部の小国家イシュヴァーン。長きにわたり魔王の軍勢に蹂じ

ゅうりん躙

されてきたこの

国に、三年前、一人の勇者が誕生しました。

誰も名前を知らない、孤こ

高こう

の勇者様。

国王陛下に魔族討と

伐ばつ

を命じられた彼を支えるため、魔法使いや僧侶や戦士など、多く

の強つ

者もの

が同道しようとしました。けれど、勇者様は頑が

として首を縦に振らず、結局一人

きりで魔王の軍勢と戦い、そして勝利を収めたのです。

魔王の消滅と同時に魔族は姿を消し、混乱の極みに達していた世界には平和が戻りま

した。

闇に怯お

える日々が終わり、人々は歓喜して、それはそれは盛大なパーティーを催も

よおし

した。

幾夜にもわたる華やかなパーティー。勇者様を讃た

える歌が響き渡ります。

11 剣の求婚1 10

「ん? 

何だか、やけに騒がしいですね」

窓から身を乗り出してみると、遠くに黒い点がたくさん見えます。歓声も聞こえてく

るので、あれは人なのでしょう。

波のように緩ゆ

やかに押し寄せてくる黒い点は、次第に人の姿になり、この大通りに向

かってきます。しかも、こちらに近づくにつれて少しずつ数を増していました。

お祭りでもあるのでしょうか? 

そんな話は聞いていないのですが。

不思議に思ったものの、私には関係のない話です。ですから、そのまま考えるのをや

めてしまいました。

今日は父が刃物の修し

ゅうぜん繕

をすると言っていたので、その手伝いをしなければならないの

です。お祭りになんて参加していられません。ちょっと楽しそうですけど、誰にも誘わ

れていないんですから行っても寂しいだけでしょう。

……お友達はそれなりにいるはずなのに、誰からも誘われないというのは、なかなか

心が痛いものですね。

でも、湿っぽいことばかり考えていられません。そろそろ一階に降りて準備をしな

いと。

よしっと声を出し、窓から離れてドアに向かいます。その途中で、ふと足を止めま

それなのに、ようやく重荷を降ろせたかと思えば、彼は尊と

うとい

命を失ってしまったので

す。私は勇者様にお会いしたことはありませんが、それでも他の人達と同じように彼を

悼いた

む気持ちでいっぱいでした。

窓枠に腕をかけて街を見下ろすと、馬車が通り過ぎていきました。石畳を踏みしめる

蹄てい

鉄てつ

の音が高らかに鳴り響いています。最近まで馬達も魔族に怯お

えて厩き

ゅうしゃ舎

から出られな

かったのに、それを感じさせない堂々たる足取りです。

思わず顔を綻ほ

ころば

せる私の眼下には、王都に続く大通りが伸びていました。その両脇に

は宿屋や雑貨屋、八や

百お

屋や

などのお店が立ち並んでいます。

私の家族が営い

となむ

武器屋もそのうちの一つで、大通りに面した場所に建てられていまし

た。残念ながら端の端にあるので、あんまりいい立地ではありませんが。

早朝とはいえ、すでに日が昇り始めていることもあり、大通りにはたくさんの人が行

き来しています。もう開いているお店もあるようで、商人さんの元気な声が響いていま

した。

こんな風に活気づいたのも、ごく最近の話でした。今までは完全に日が昇ってからで

ないと、誰も外を歩けなかったのです。早朝や夕暮れ時は、ひっそりと静まり返ってい

ました。

13 剣の求婚1 12

「何なんですか、一体」

こっちは今、それどころじゃありません。魔剣イブリース……もとい勇者様への弔ち

ょうい意

で胸がいっぱいだというのに。

そう思っていたら、階段を踏み抜きそうな足音を立てて誰かが二階に上がってきま

した。

反射的に後あ

退ずさ

ると、目の前で勢いよくドアが開かれました。あまりの勢いに、私の前

髪が揺れます。

「フェイシア、起きてるかい!?」

あ、危ない! 

後ろに下がっていなかったら、ドアが顔に激突していました。

私は冷や汗をかきながらも、ドアの向こうにいる母に苦い顔をしてみせます。

「起きてますけど、いきなりドアを開けたら危ないじゃないですか。避よ

けられたからい

いものの、もし避けていなかったら、私の顔は熟う

れたリコの実みたいに、ぐっちゃぐ

ちゃに――」

「そんなことはいいから、さっさと下に降りな!」

よほど焦っているのか、母は信じられないほどの力で私の腕を掴つ

み、ぐいぐいと引っ

張りました。

した。

「そういえば、勇者様の魔剣はどうなったんでしょう」

勇者様は国王陛下に召喚された際、一振りの魔剣を携た

ずさえ

ていたそうです。

魔剣の名はイブリース。それまで誰にも存在を知られていなかったその剣は、今や伝

説の武器として知れ渡っています。武器業界で働く人々はもちろんのこと、子ども達の

憧れの的にもなっていました。

私は子どもと言うには少し大きくなりすぎましたが、それでも武器屋の娘として、魔

剣イブリースへの興味は人並み以上にあるつもりです。

「うーん、せめて魔剣だけでも一目見てみたいものですが……」

残念ながら魔剣が発見されたという噂う

わさは

聞こえてきませんでした。

いい武器は使い手を選ぶとされています。伝説級の武器ともなれば猶な

更さら

でしょう。勇

者様という使い手を失った魔剣は、新たな使い手が現れるまで、どこかで深い眠りにつ

いているのかもしれません。

大きく溜息をつき、がっくりと肩を落としました。ドアに向かう足取りも重くなって

います。それくらいショックが大きかったのです。

ドアノブに触れたところで、大通りから聞こえる歓声が、ひときわ大きくなりました。

15 剣の求婚1 14

「貴あ

なた方

がフェイシア・イールス殿か」

その口調は硬く、どことなく疲れているようでもありました。

それも仕方のない話でしょう。これだけたくさんの人に囲まれながら歩いてきたとす

れば、精神的に疲ひ

弊へい

していても無理はありません。

目の前に立ち、じっとこちらを窺う

かがう

その人は、背の高い男性でした。

明るい亜あ

麻ま

色いろ

の髪に、スプリンググリーンの瞳。どこかで見たことのある、優しげな

顔立ち。深緑色のマントがとても似合っています。

私は質問に答えないまま、彼の横を通り過ぎました。人垣をかき分けて外に出ると、

一ひと

月つき

前から武器屋の外壁に貼られていた紙をベリッと剥は

がします。

その大きな貼り紙には、ある人の似顔絵が描かれていました。『この人物を見つけた

ら至急王城へ!』などという、何も知らない人が見たら重罪人かと思うような言葉が添

えられています。

店内へ戻った私は、貼り紙をまじまじと見てから、目の前の男性を見ます。何度も何

度も見比べた後、ようやく口を開きました。

「勇者、様……?」

私が震える声で尋ねると、彼は柔らかく微笑みました。

「ちょ、ちょっと何なんですか、母さん!」

「それはこっちが訊き

きたいよ! 

ほら、あれを見てみな!」

一階まで強引に連れていかれた私は、母に両肩を掴つ

まれて、武器屋の店内の方を向か

されました。

「……本当に何なんですか、これ」

思わずそうこぼしてしまいます。

だってだって、明らかにおかしいんですよ。

木造の店内に所狭しと飾られた剣。これは見慣れた光景だからいいんです。むしろ安

らぎさえ覚えます。けれどこの、店内にみっちりと詰まった人々は何なんでしょうか。

よく見れば、彼等はみんなご近所さんで、見知らぬ男性を半円状に取り囲んでいます。

そして一階に降りてきた私を好奇心に満ちた瞳で見つめていました。

まるで、これから起きる何かに胸を躍お

らせているようでもあります。

母と一緒になって怯お

えていると、奥で仕事の準備をしていた父まで現れて、「何だこ

れは!」と声を上げました。

私は母と手を取り合いながら、『人々に取り囲まれている誰か』をちらりと見てみま

した。すると、向こうも私を見て口を開きます。

17 剣の求婚1 16

「知りませんってば!」

私達が言い合いをしている間も、勇者様はじっとこちらを見ていました。

混乱するのももっともだと、納得している風にも見えます。納得するぐらいなら最初

から混乱を招かないでくださいよ! 

……これも言える雰囲気ではありませんが。

とにかく、このままでは埒ら

が明きません。

私は意を決し、お腹にぐっと力を込めて一歩前に踏み出します。

「あのー……勇者様? 

私と勇者様は初対面ですよね?」

「ああ。私も旅に出るまでは、貴あ

なた方

の名前すら知らなかった」

「では、一体どうしてここに?」

わからないことは訊き

くしかないのです。訊かなければ、誰も教えてくれないのです

から。

私の質問を受けた勇者様は、しばらく黙っていました。一体どう答えたらいいものか

と思案しているご様子。

ギャラリーがじっと息を詰めて見守っています。私もその一人で、質問の答えを今や

遅しと待ち続けました。

すると勇者様が、あろうことか床に片膝をついて私に頭を下げたのです。

もう一度貼り紙を見れば、そこには彼そっくりの似顔絵が描かれています。

彼は、イシュヴァーン王家が血ち

まなこ眼

になって探している勇者様、その人だったのです。

でも、どうして? 

私は勇者様の生存は絶望的だと聞かされ、すっかり諦あ

きらめ

ていたのです。ええ、今この

瞬間まで。それなのに何で彼が目の前に立ち、しかも私の名前を知っているのでしょ

うか。

ますます怖くなった私は、勇者様の問いに「違います」と答えたかったのですが、そ

れが許される雰囲気でもありません。勇者様を取り囲む、街の人達の視線が突き刺さり

ます。

思わず後あ

退ずさ

る私の肩を、顔面蒼そ

白はく

の両親が大きく揺さぶりました。二人も目の前の男

性が勇者様だと気付いたようです。

「お、おいフェイシア! 

どうして勇者様がお前を訪ねてくるんだ?」

「もしかして、何か粗そ

相そう

でもしたんじゃないだろうね!」

「わ、わかりません。でも勇者様にお会いしたのは初めてのはず。粗相のしようがあり

ませんよ!」

「じゃあ一体何なのさ!?」

19 剣の求婚1 18

見つめ続けていました。心の中を見み

透す

かされてしまうのではないかと怖くなるような

目で。

……そういえば、勇者様は魔力が強いと聞きました。

この目に魔力を込められたら、私は魅み

入い

られてしまうのではないでしょうか。

私の手を取る彼の指先に、軽く力が込められました。

「フェイシア殿」

もう一度私の名前を呼んだ唇が、そのまま言葉を紡つ

ぎます。

「結婚してほしい」

……結婚?

ちょっと待ってください。何かの間違いですよね?

「結婚ですか?」

「そうだ」

「何ででしょう」

「貴あ

なた方

しかいないんだ。いいだろう?」

「よ、よくありません!」

何ですか、その強引な言い草は。爽さ

やかな顔して、随分なことを言うじゃありませ

「ゆ、勇者様!? 

頭を上げてください!」

ありえない。こんなことはありえません。

私はただの武器屋の娘で、元は両親を魔族に殺された孤児でした。誇れるものといえ

ば武器の種類に詳しいことくらいです。

そんな私が、どうして勇者様に頭なんて下げられているのか、全く理解できません。

住んでいた街を魔族に襲撃された時よりも混乱していました。

「フェイシア殿」

私の顔を見上げて、勇者様ははっきりと言いました。そして手袋を外し、私の手を取

ります。

「この私の、一世一代の頼みを聞いてもらえないだろうか」

「たの、み?」

そんなものは両親にしてください。勇者様なら店中の武器をタダにしてもらえるで

しょう。ええ、きっとそうなります。私がそうさせます。

ですから、さっさと解放していただけませんか。ちゃっかり手を取られて動けないん

ですが。動きたいんですが、私。

彼に素手で触れられて、私は思わず身を固くします。そんな私を、勇者様はまっすぐ

21 剣の求婚1 20

結婚したくありませんでした。

「ゆ、勇者様とは結婚できません!」

「私とは?」

恐ろしさに震える私の言葉を聞いて、勇者様が不思議そうに首を傾か

げます。そして、

何かを思いついたように言いました。

「ああ、いや。そうじゃない」

「え?」

意味がわからず、私はきょとんとしてしまいます。

勇者様は立ち上がって逡

しゅんじゅん

巡した後、首を横に振りました。

「結婚は、私としてほしいわけじゃない」

「では、どなたと?」

ギャラリーを除けば、ここには勇者様しかいません。そもそも彼に仲間はいないはず

です。

何やら不穏な空気を感じながらも、もはや逃げることはできないと腹をくくった私は、

黙って彼の言葉を待ちます。すると、勇者様はどことなくほっとした様子で、自分の背

中を指差しました。

んか。

内心でツッコミを入れる私の肩を、両親がバシバシ叩いてきます。

「よくやった! 

フェイシア、あんたは果か

報ほう

者もの

だよ!」

「まさか、こんな上じ

ょうもの物

を捕まえるとはな……嫁にやらんとは言えんじゃないか」

ちょっと父さん、泣くのが早すぎじゃありませんか!?

周囲の人々はどよめき、涙する人もいれば、満面の笑みで手を振ってくる人もいます。

でも私には、今の状況がどうにも信じられませんでした。

「私と勇者様が、結婚……?」

魔王の軍勢をたった一人で倒した人と結婚?

少し考えて、すぐに嫌だと思いました。

私は普通が好きなのです。平凡ながら優しい旦那様と結婚して、慎つ

ましやかに暮らし

たいのです。

年頃の娘が抱くにはあまりに地味な夢かもしれませんが、私は何よりも穏やかな生活

を望んでいました。

もし勇者様と結婚したら、一生面倒なことに巻き込まれそうじゃありませんか。常に

人目にさらされ、危険な目にだって遭あ

うかもしれません。自己防衛の意味でも、彼とは

23 剣の求婚1 22

「ちょっとあんた、みっともないからよしなよ!」

武器一筋の父は私以上に興奮しているらしく、魔剣を食い入るように見つめています。

母も口ではみっともないと言いつつ、顔がにやけていました。

何を隠そう、我が家は揃いも揃って武器が大好きなのです。レアな魔剣が見られるの

なら恥も外が

聞ぶん

も捨てられます。

ああ、それにしても、何て綺麗な剣でしょう。

実用性一い

辺ぺん

倒とう

の造りであるにもかかわらず、漆黒の鞘からは色気すら漏れ出ているか

のようです。

ついさっき結婚してほしいと言われたことなどすっかり忘れ、私は魔剣に見入ってい

ました。

ずっと見たかった魔剣を前に、鼓動は高鳴りっぱなしです。まるで恋をしてしまった

かのようでもありました。それほどまでに魔剣は美しかったのです。

今すぐギャラリーを追い払い、勇者様に頼んで鞘から抜いてもらいたいところです。

製作者はおろか材質も公表されていませんから、この機会に父さんに調べてもらうのも

いいかもしれません。

好きな人のすべてを知りたいという恋する乙女の気持ちが、今ならわかるような気が

「私が今日ここに来たのは、貴あ

なた方

に彼と結婚してもらうためだ」

「彼? 

と、言われましても……」

勇者様が指差す先にあるのは、太めの革ベルトで固定された剣つ

るぎで

した。

「――剣?」

ええ、剣です。どこからどう見ても。

勇者様の背中には、真っ黒な鞘さ

に収められた大剣が一振り。その由緒を示すような紋

章も、華美な装飾もありません。至って質素な漆し

黒こく

の剣でした。

こ、これはもしや噂う

わさの

……

その剣に釘づけとなったまま、私はごくりと唾つ

を呑み込みました。

「勇者様が持っていらっしゃるってことは、これが魔剣イブリース?」

勇者様が魔王を討と

伐ばつ

した時に振るったと言われる超名剣。まさにレア中のレアです。

私が見たくて見たくてたまらず、『勇者様は最悪お亡くなりになっててもいいから、魔

剣だけは無事でいて!』などとうっかり願ってしまったほどの代物です。

それをこんな間近で見ることになるなんて。私は高鳴る胸に手を当てます。

そんな私の体を押しのけ、父がずいと前に出ました。

「うお、すげぇ! 

初めて見た!」

24

します。私も目の前にある魔剣のすべてを暴あ

きたい気持ちでいっぱいでした。

ですが、そんな私の恋にも似た気持ちは、すぐに終わりを迎えることになったのです。

「嗚あ

呼あ

!」

突然響き渡った声に、私はびくりと身を竦す

ませました。

「……今の声はどこから?」

周囲を見回してみたものの、店内を埋め尽くしているのはご近所さんばかり。みんな

顔見知りですから、彼等の声じゃないことはすぐにわかりました。

ざわめく店内に、勇者様が溜息を一つこぼします。それから肩にかけたベルトを外し、

剣をこちらに差し出しました。

その瞬間、再びあの声が響き渡ります。

「私だ、フェイシア」

とても低く、しかし澄んでいる美しい声。光すら反射しない漆し

黒こく

の鞘さ

が、わずかに震

えたように見えました。

「……嗚呼、こうしてお前と向かい合って話ができる日が来ようとは」

「ま、魔剣が喋し

ゃべ

ってる!?」

驚きょうがく愕

する私達をよそに、魔剣は感極まったように喋り出します。

27 剣の求婚1 26

とか言っています。しまいにはさめざめと泣き始めましたが、そんなことされても困り

ます。

まず第一に――

「貴あ

なた方

、涙なんて出ないでしょう。なに勇者様に頼んで水滴を垂た

らしてもらおうとして

るんですか」

「本当に長かった。三年だぞ? 

三年もお前に会えなかったなんて」

「無視ですか!」

勇者様の方も、なぜハンカチを貸してあげてるんですか。なぜ「水ありますか」って

訊き

いてくるんですか。

ドン引きする私を盾にして、両親がすっと後ろに下がっていきます。よく見れば、周

囲のギャラリーまでもがゆっくりと後退していました。しかし、魔剣は空気を読まずに

話を続けます。

「嗚あ

呼あ

!」

感極まった魔剣の声が、またしても響き渡ります。

「フェイシア、私の可愛い人。今すぐお前を貫つ

らぬい

てしまいたい、性的な意味で!」

その台せ

りふ詞

を聞いた私は、カウンターの奥に隠れてしまった父に向かって叫びました。

「フェイシア、ようやくお前に会えた! 

この時をどれだけ待ちわびたことか」

「は、はぁ……?」

私に魔剣の知り合いはいないはずですが。

「待ちわびたも何も、私達って初対面ですよね? 

なのに、どうして私の名前を知っ

て……」

いえ、それよりも、どうして私は勇者様から魔剣との結婚を勧められているんですか?

大事なことを思い出し、あまりのことに目を丸くする私を無視して、魔剣はなおも語

ります。

「お前に会うためにこんな男に力を貸し、世の中を平和にしたんだ。さあ、もっと傍そ

寄ってくれ、フェイシア」

「いや、ちょっと話が飛躍しすぎていて、わけがわからないんですけど」

というか、本当に初対面……なんですよね?

名前も住所も知られていると思うと急に不安になってきたので、できる限り記憶を

遡さかのぼっ

てみます。ですが、やっぱり魔剣と出会ったことなどありません。家が武器屋です

から、普通の武器との出会いならそれなりにあったのですが。

私がうーんと唸う

っている間にも、魔剣は「お前に会うために苦労したんだぞ」とか何

29 剣の求婚1 28

の……っ!」

魔剣が喋し

ゃべ

ったことも驚きですが、ずっと憧れていた魔剣の性格がこれほどひどいだな

んて。もしこれが夢なら今すぐ覚めてほしいぐらいです。

しかし勇者様は私に謝るどころか、とんでもないことを言い出しました。

「悪いが耐えてくれ。一応、こいつのおかげで世界が救われたんだ。俺は実質ただのオ

マケだから、こいつに文句は言えない」

……勇者様、それはぶっちゃけすぎではありませんか。王様が聞いたら卒倒しますよ。

硬い口調をやめて素す

で話し始めた勇者様を、私はきつく睨に

みました。ですが、彼の言

うとおり、この魔剣は確かに世界を救ったのです。

私には魔力を感じ取ることなどできませんが、それでも魔剣が宿す力の大きさはひし

ひしと伝わってきます。今まで見たどんな武器よりも強大な力を持っていると、一目見

てわかりました。

葛かっ

藤とう

する私をうっとりと見つめながら、魔剣は溜息をつきました。もちろん魔剣に目

はついていませんが、さっきから見られている気がしてならないのです。

第一、声がどこから出ているのかすらわからないので、その辺りのことは考えるだけ

無駄な気がしてきました。

「父さーん! 

ハンマー持ってきてください! 

オリハルコン製のかったいやつ!」

すると、魔剣が笑いながら言います。

「はは、硬いものならちゃんとここにあるのに、シャイだなあ」

「何の話ですか!」

魔剣はないはずの両腕を広げ――私にはそう見えました――歌うように言葉を紡つ

ぎま

した。

「さあ、こちらに来い。私がお前のすべてを受け止めよう。大丈夫、痛いのも怖いのも

最初だけだ」

「行きません!」

大声で拒否した私は、ぜいぜいと息を吐きながら脱力しました。

魔剣の発言がことごとくひどすぎて、ツッコミが追いつきません。

「私の苦労がわかっていただけただろうか、フェイシア殿」

勇者様が遠い目をして言いました。

この魔剣と三年にもわたって旅をする――確かに想像を絶する苦労でしょうが……

ぐっと握りしめた拳こ

ぶしを

彼に叩きつけたいのを我慢しながら、私は肩を震わせます。

「ええ、よぉくわかりました。でも知りたくなんてありませんでしたよ、こんな

31 剣の求婚1 30

した。

「魔王を退し

りぞけ

たのは魔剣だ。もし魔王が復活した時に魔剣がへそを曲げていたら、世界

は今度こそ滅びるぞ」

……魔王が復活?

「魔王は倒したんじゃないんですか?」

「倒した。だが魔王は不滅だ。しばらくは冥界にこもっているだろうがな」

「復活する予定は……」

「わからない。だが、いつか必ず復活するだろう。千年前にも一度倒されたのに、わざ

わざ復活してきたくらいだぞ」

――何てことでしょう。

私は目め

眩まい

を覚え、くらりと倒れそうになります。

まさか、いずれ魔王が復活するだなんて。

私達の話をこっそり盗み聞きしていたのでしょう。近くにいた人が青ざめ、唇を戦わ

なな慄

かせていました。周囲の人達がそれに気付き、あっという間に話が広まってしまいます。

「そんな! 

やっと平和になったと思っていたのに!」

「勇者様でさえ倒しきれなかっただなんて!」

思わず眉を顰ひ

める私に、魔剣が吐息まじりに囁さ

さやき

ます。

「愛しているよ、フェイシア」

「やめてください」

「私と結婚してくれるだろう?」

「お断りです」

「恥ずかしがることはない。勇者が邪魔か? 

それなら退場させよう。ギャラリーも全

員……ああ、ご両親には同席してもらわなければな。これから私の義理の両親になるの

だから」

「そういう問題じゃありません!」

何と言えばわかってもらえるのかと思案する私に、勇者様が慌てた様子で耳打ちし

ます。

「あまりきついことを言ってやるな」

「今言わなくて、いつきついことを言うんです!」

むしろここで折れてしまったら、私の人生が滅め

茶ちゃ

苦く

茶ちゃ

になります。言うべきことは

しっかり言っておかなければ。

そう思って反論したのですが、勇者様は魔剣に聞こえないよう、更に耳打ちしてきま

33 剣の求婚1 32

魔王が復活するというのは、恐らく間違いないのでしょう。他ならぬ勇者様が仰

おっしゃっ

いるからというのもありますが、それだけではありません。

実は千年前にも魔王が現れたことがあるのです。場所はこのイシュヴァーンではなく、

隣国のエルミナ共和国でした。

魔族に蹂じ

ゅうりん躙

された人々は村々から逃げ出し、行く当てもなく彷さ

まよ徨

うばかり。魔王が倒

された後も、国が落ち着きを取り戻すまでに長い年月を要したとか。

ちなみに千年前に魔王を倒したのは、勇者様と魔剣ではなく、エルミナの聖女と呼ば

れた女性と聖剣なのだそうです。

私はてっきり、その時の魔王と今回の魔王は別物だと思っていました。けれど勇者様

の話を聞く限り、同じ魔王だったようです。何てしぶといのでしょう。

いえ、それよりも問題なのは、目の前の魔剣です。

魔剣は魔王が復活するだなんて言いませんでしたし、自分がいなければ世界が滅びる

と脅お

すこともありませんでした。今もただプロポーズの返事を大人しく待っています。

けれど、脅された方が百倍マシというものです。

何も知らずに拒否して世界が滅びたら、私は一体誰に謝ればいいのでしょう。

いくつもの視線が私に集中し、言葉にはならない期待が肩にのしかかります。ただの

すっかり怯お

えきった人々が、勇者様に縋す

りつこうとします。店内は蜂の巣をつついた

ような騒ぎとなりました。

今にもパニックに陥お

ちいり

そうな人々を一い

喝かつ

したのは、父でした。

「やかましい! 

人の店で騒ぐな!」

「父さん……」

さっきまでカウンター奥に隠れていた人とは思えない格好良さです。拍手でもしよう

かと思っていると、母が隣にやってきて私の肩に手を置きました。

母も他の人達と同じく動揺を隠せないようでしたが、それでも気丈に問いかけます。

「勇者様。もし魔王が復活したら、その時はまた冥界とかいうところに戻せるんです

か?」

「魔剣さえその気になれば。そして、その気にさせるためには彼女の力が必要です」

そこで勇者様は私に視線を定め、残酷な言葉を浴びせてきました。

「フェイシア・イールス殿。貴あ

なた方

には是ぜ

が非ひ

でも魔剣の花嫁になっていただかなければ

なりません。この世界に暮らす、すべての人々のために」

怖いほどまっすぐな瞳は、悲壮感さえ漂た

だよわ

せています。魔剣のやる気を引き出すため

には私が必要だと、彼は本気で思い込んでいるのです。

35 剣の求婚1 34

できません」

この場で結論が出せないなら、いいとも嫌とも言わなければいいのです。

人はこれを問題の先送りと言います。

口元をぴくぴく痙け

攣れん

させながらも、どうにか言い終えた私に、魔剣が明るい声で答え

ました。

「そうだな、確かにそうだ。フェイシアが段階を踏みたいと言うのなら、私もそれに応

じよう。まずは私のことを知ってもらわなければ」

「ええ、ですから貴あ

なた方

は今すぐ王都に行ってください。気が向いた時に私の方から会い

に行きましょう」

きっとその方が幸せです。主に私と勇者様にとって。

しかし、魔剣は不思議そうに尋ねてきました。

「なぜここを出ていく必要がある?」

「え? 

なぜと言われましても、貴方魔剣ですし」

「剣なら武器屋に置いてあってもおかしくないだろう」

「それはそうですが、一応、超レア品ですよ。泥棒に狙われたらうちが困ります」

むしろ盗んでもらえた方がありがたいくらいですが、一応……本当に一応とはいえ、

ギャラリーとして店内に入り込んだ人々は、今や私にとってプレッシャーの塊

かたまりに

なって

いました。誰もが勇者様の言葉を信じ、私と魔剣を結婚させることが世界平和に繋がる

と決めつけています。

でも、私の気持ちはどうなるのでしょう? 

こんないきなり現れた人じ

外がい

から結婚を迫

られている私の悲ひ

哀あい

は、どこにぶつければいいのです?

私は魔剣としばし見つめ合いました。

時折甘やかな吐息をこぼす魔剣は、性格も言動もひどいです。けれど、声はとてもい

い。そこだけは認めることもやぶさかではありません。

いっそ目を閉じていれば、長い結婚生活を我慢できないことも――いえ、やっぱり

駄目です。発言がひどすぎて声じゃカバーしきれません。

でも、それならどうすればいいのでしょう。

はっきりと断ることはできず、かといって受け入れることもできず。

散々唸う

って考えた後、私は一つの答えを出しました。

期待に満ちた空気の中、私の答えを待つ魔剣を見下ろします。そして、最大限の努力

をして笑顔を作ってみせました。

「私、段階も踏まずにプロポーズされるのは好きじゃないんです。ですから今は0

0

お返事

37 剣の求婚1 36

を売りに来た冒険者のようですが、もちろん魔剣を売る気などないのでしょう。預ける

気は満々みたいですけど。

喋しゃべる

魔剣と、その魔剣に付き従う勇者様。

世にも珍妙な光景に、ギャラリーは目を丸くしています。誰もが「おい、どうするん

だこれ」という顔でお互いに視線を交わした後、最終的に私の方を見ました。

私だって、そんな目をされても困ります。だから隣に立つ母に救いを求めました。

「母さん、どうしましょう」

「どうしましょうって言われてもね……。父さん、どうするつもりだいこれ」

カウンターの奥で魔剣から距離を取っている父に、母が尋ねました。

イールス家の家長として、「娘は嫁にやらん!」とはっきり言ってほしい……とまで

は期待していませんが、せめて魔剣を上手く追い払う手立てを考えてほしいものです。

父は勇者様と魔剣を何度か見比べた後、小さく息を吐きました。

「……この寒いのに、勇者様を野宿させるわけにはいかんだろう」

「つまりは、泊まってもらおうと?」

私の言葉に、母がうんうんと頷う

なずき

ます。

「まあ、それしかないだろうね。伝説の魔剣様をじっくり拝める大チャンスでもあるわ

魔剣は世界を救った武器。誰かに盗まれて悪用されたら大変です。

だから、ひとまず王都に行ってもらおうとしたのですが、魔剣はやはり首を縦には振

りませんでした。元々首なんてありませんけど。

私の言葉について考えているのか、しばらく間を空けた後、魔剣がしみじみと呟つ

ぶやき

した。

「そうか、私の心配をしてくれているんだな」

……どうしてそうなるのでしょう。

私は即座に否定しようとしましたが、その前に魔剣が言葉を続けました。私を安心さ

せようと(そんな必要ないのに)、低い声で優しく語りかけてきます。

「だが、安心してくれフェイシア。ここには勇者も残る。奴がいれば盗ぬ

人びと

など簡単に追

い払えるだろう。――付き合え、勇者。貴様の願いを聞いて魔王を倒したのだから、そ

れぐらいしろ」

「……はいはい」

いえ、ですから私の話を聞いてください。

勇者様もあっさり魔剣の言いなりになってますし……何なんですか、この状況。

勇者様は魔剣の柄つ

を握り、ややぞんざいな感じでカウンターに置きます。まるで武器

39 剣の求婚1 38

ターに置かれた魔剣としばし見つめ合っていました。何で見つめ合っているような気分

になるのかは、多分永遠に解明されない謎ですけど。

イールス家に滞在することが確定したからか、魔剣は言葉にはしないものの、満足げ

な空気を漂た

だよわ

せています。

嫌な予感しかしない私は、勇者様におずおずと尋ねました。

「あの、勇者様。王都に行かなくていいんですか……?」

勇者様だって、街中に貼られたご自分の似顔絵を見たはずです。魔王が倒されてから

一ひと

月つき

経った今も、王様は勇者様を探しているというのに、それを無視していいのでしょ

うか。

暗に王都に行った方がいいと提案したのですが、勇者様はそんな私の気持ちを知った

上で、思いきりスルーしました。肩を覆お

っていたマントを脱ぎながら、またしても爽や

かな笑みを浮かべます。

「必要ありませんよ。魔王が倒された今、私は用済みですから」

その声だけは、ひどく冷え冷えとしていました。

そうは言っても、いつ復活するかわからないんですよね? 

魔王。

口にできなかったツッコミは、当然勇者様の耳に届くわけもなく。彼は沈黙する私を

けだし」

「それが本音なんじゃないですか!」

二人とも、特に嫌がっている様子はありません。むしろ魔剣と一つ屋根の下で生活で

きることにワクワクしている風ですらありました。

みんな、当事者じゃないからってひどいものです。もちろん、私だって世界を救った

勇者様に野宿させるのは気が引けますけど。というか勇者様には泊まっていただいて、

魔剣は外に放置すればいいのでは。あるいは――

「宿屋があるんですから、そちらに滞在してもらえばいいんじゃないですか? 

きっと

民家より快適ですよ。近くの宿屋に泊まってもらえれば、魔剣を見に行くこともできま

すし」

お金がないなら私の貯金箱から出すので、どうにか宿屋に行ってほしいものです。

私はそれとなく――もとい堂々と勇者様を追い出そうと提案したのですが、彼は爽さ

かな笑顔で背中の荷物を下ろしました。

「ご厚意に甘える形になり申し訳ありませんが、しばらくお世話になります」

……駄目です、この人。すっかり我が家に滞在する気になっています。

すぐにでも荷ほどきを始めてしまいそうな勇者様を止めることもできず、私はカウン

41 剣の求婚1 40

いな」

何て憎たらしい言葉なのでしょう。

そんなことを言われたら、一気にその気になってしまうじゃないですか。

母の言うとおり、これはチャンスだと思うことにしましょう。そう、魔剣からの求婚

はこの際、遥は

か彼方へ放り投げてしまうのです。

伝説の魔剣を間近で見られる機会なんて、そうありません。それに、ずっと見たいと

思っていた魔剣が自み

ずから

やってきてくれるとは、実にありがたい話じゃないですか。

そう自分に言い聞かせている間に、みんないなくなっていました。残されたのは私と

勇者様、そして魔剣だけです。

勇者様は先ほどと同じく爽さ

やかに微笑みかけてきました。

「貴あ

なた方

がイブリースの求婚を受け入れるまでの間、どうか仲良くしてほしい」

それに対して、私は肩を怒い

らせます。

「勇者様と仲良くするのは構いませんが、こんな面倒なことに一般人を巻き込まないで

ください」

「おや、つれない態度だな」

「こんな面倒を運んでこられたら、普通は怒るんです!」

よそに、笑顔のままギャラリーに言いました。

「そういうわけですので、私は王都には戻りません。私と魔剣が平穏に暮らせるよう、

どうか王都へは連絡しないでいただけますか?」

やたら威圧感のある笑顔に、怯お

える男性陣。

一方、女性陣は目をハートにしていました。

「はい!」

「もちろんです!」

「世界を救ってくださった勇者様のお願いなんですもの。何でも聞いて差し上げます

わ!」

恐怖よりも勇者様から話しかけられたという喜びの方が大きかったらしく、女性達は

先ほどの恐

きょうこう慌

状態からすっかり立ち直っていました。

彼女達の黄色い声をBGMにして、少しずつ事態が収束していきます。

父はさっさとギャラリーを追い出しにかかり、母は勇者様のお部屋を用意するために

二階へ上がっていきました。

その直前、私の肩を軽く叩いてこう言ったのです。

「まあプロポーズのことは置いといて。魔剣を愛め

でる最大にして最高のチャンスだと思

43 剣の求婚1 42

魔剣に遠慮しているというよりも、単に関わり合いになりたくないだけでしょう。

私も同じ気持ちですが、残念なことにもう逃げられませんでした。こちらがいくら

黙っていても、魔剣が勝手に喋り始めてしまうからです。

「嗚あ

呼あ

、今日も

0

0

0

素敵だフェイシア……。私はこんなにも身み

悶もだ

えているのに、お前はなぜ

体を許してくれないんだ」

「結婚してないからです」

「では今すぐ結婚しよう」

「さっきの私の言葉を忘れましたか? 

いきなり結婚するのは嫌です」

いきなりも何も、どれだけ時間がかかっても嫌なのですが、そこは世界の命運が絡ん

でくるので黙っておきます。

「しかし、その肌に触れられないのは残念だ。透けるように白い肌は、触れればさぞ滑な

らかなのだろうな。赤みがかった頬も、うなじも、そして特に胸が――」

「婚姻前の娘に卑ひ

猥わい

なことを言う剣は嫌いです」

いつまでも続きそうだった卑猥な台せ

りふ詞

は、それきりぴたりと止や

みました。あんなにお

喋りだった魔剣が、完全に口を閉ざしてくれたのです。もしかして、最初からこう言っ

ておけばよかったんじゃないでしょうか。

貴あなた方

への弔ち

ょうい意

で胸をいっぱいにしていた過去の私に謝ってください。

勇者様はカウンターに近づき、その上でテキパキと荷物の整理を始めます。私の怒り

なんてまるで無視です。何なんですか、この図々しさ。

こめかみに青筋が立ちそうな勢いで腹が立ってきたので、勇者様の服の袖を引っ張っ

て、こちらを向かせようとします。しかし、袖を掴つ

む前に魔剣の声が聞こえてきて、私

は固まってしまいました。

「私を見て驚いた時の顔も大層愛らしかったが、そうして怒りに眉を顰ひ

めている顔も、

実に可愛いな。決して嫌われたくはないが、その表情を見られるのなら、私もお前を怒

らせたい……」

「そもそも貴方が私を怒らせなかったことなんてありませんから!」

久しぶりに口を開いたかと思えば気色悪いことを言う魔剣に、私はつい毒を吐いてし

まいました。

魔剣が喋し

ゃべり

出す前まではうっとりと眺めていられたのに、喋り始めてからはそんな気

はまったく起こらなくなりました。勝手に恋をして勝手に失恋したようなもの。つまり

は最悪の気分です。

両親は今日に限って、仕事を手伝えと言ってくることはありませんでした。勇者様と

45 剣の求婚1 44

と言っても、カウンターを殴りつけただけですけどね。

思いきり振りかぶった拳をカウンターに叩きつけたせいで、手がじんじんと痛みます。

気付けば体が勝手に動いていて、抑えがきかなかったのです。

赤く腫は

れた手にフーフーと息を吹きかけていたら、ふと一つの疑問が頭を過よ

りました。

「さっき、今日も素敵だって言ってましたね。私と貴方は初対面のはずですけど」

そう、それがずっと疑問だったのです。私には一切覚えがないのに、魔剣は私のこと

を前から知っているようでした。

魔剣は私の問いに、何を言っているんだとばかりに返します。

「出会う前に愛せはしない。そうだろう?」

「微妙に答えになってませんけど‥…。どこかで会ったことありましたっけ」

少なくとも私には、伝説の魔剣に出会ったという記憶はありません。両親も何も言わ

なかったので、多分知らないのでしょう。

私達のやり取りを聞いていた勇者様が、荷物整理の手を止めて魔剣を見下ろします。

物言いたげな様子から察するに、恐らく何か知っていらっしゃるのでしょう。

ですが、そんな勇者様を制するように魔剣は告つ

げます。

「覚えていなければそれでもいい。私がお前を愛しているということは、こんなにも明

私に嫌われないようにと沈黙する魔剣に、そっと視線を落とします。

喋しゃべり

さえしなければ本当に素敵な剣なのに。私は残念な気持ちになり、はあっと溜息

をつきました。

「もし貴あ

なた方

に口があったら、無理やり鉄を注ぎ込んであげるんですが」

思わずこぼした言葉に、勇者様が言いすぎだとばかりに眉根を寄せました。けれど、

その心配は無用だったようです。

「注ぐ? 

口移しならいくらでも歓迎するぞ。もっとも注ぐのならば、私の方がしてや

りたいところだが」

「私の方がって、何を注ぐつもりですか。鉄なんて私は無理ですよ」

魔剣に鉄を注いだところで性能が落ちるだけでしょうが、人間は熱い鉄に耐えられな

いのです。

だから怪け

訝げん

に思って尋ねると、魔剣が「それはそうだ」とあっさり認めました。

「人間に鉄を注いだら死ぬだろう。それに、お前に注ぐものなど一つしかない。ほら、

あの――」

――ゴンッ!

もちろん黙らせました。今度は言葉でなく、拳こ

ぶしで

47 剣の求婚1 46

しかし、魔剣はちょっと不満げな空気を醸か

し出しました。

「お前には、もっと親しげに呼んでもらいたい」

というか拗す

ねているんでしょうか、これは。

私は頬に手を当て、首を傾か

げます。

「そもそも親しくないんですから、親しげに呼ぶ必要なんて……いえ、何でもありま

せん」

うっかり本音を漏らしかけて、勇者様に睨に

まれてしまいました。

ええ、わかっていますとも。魔剣を怒らせると後々世界が危なくなるんですよね。大

丈夫です、忘れていませんとも。

咳せき

払ばら

いで失言をごまかすと、私は渋し

々しぶ

口を開きました。

「イブリース。……これでいいですか?」

伝説の魔剣を呼び捨てにするのは気が引けるのですが、魔剣――もといイブリースは、

その呼び方をいたく気に入ったようでした。

決して耳元にあるわけではないのに、甘い吐息が耳にかけられたように感じます。

「ずっとこの日を待っていたんだ。お前と再会し、その可か

憐れん

な唇と声で名を呼ばれる日

を……フェイシア」

白なのだから」

こんなにもとか明白だとか言われても困ります。

魔剣は私が何も覚えていないことを、責めたり嘆な

いたりする素振りは一切見せません

でした。求婚の返事を保留にされても気にしていないようですから、根がポジティブす

ぎるのでしょう。

呆れるべきか尊敬するべきかと困惑する私に、魔剣がこんなことを言ってきました。

「覚えていないのは構わないが、一つだけ頼みたいことがある」

「結婚の話なら、まだ答えられませんよ」

そう釘を刺した私に、魔剣が小さく笑いました。

「それはお互いのことを知ってからということで納得している。そうではないん

だ。……フェイシア、私の名を呼んでくれないか。私はまだ一度もお前に名を呼ばれて

いない。私の方は何度もお前の名を呼んでいるというのに」

魔剣と呼ばれることはあっても、イブリースという名前では呼ばれていないという意

味でしょう。

名前を呼ぶ程度なら、お安い御用です。

「何だ、そんなことですか。……イブリース様。ほら、これでいいんでしょう?」

49 剣の求婚1 48

イブリースは私がいてこそ滞在する意味があるのだと言い張り、勇者様も両親もその

主張に押し切られてしまったのです。そのせいで、結局私が二人の相手をする羽目に

なったのでした。

ただでさえ会話に付き合うのが大変な相手と、一日中!

精神的なダメージが大きすぎて、何度か卒そ

倒とう

しそうになりました。主にイブリースの

卑ひ

猥わい

な発言のせいで。

とにかく私が何をしていても、彼は常に傍そ

にいたがるのです。

食事の時も隣に置くことを要求し、買い物に出かける際も持っていけと懇こ

願がん

する始末。

とはいえ、あんな大剣を持ち歩けるわけがないので、結局買い物は母に行ってもらいま

した。街の人達から面白おかしく見られるのも嫌ですし。

何より一番ひどいのはお風呂です。

あろうことか、イブリースは私と一緒にお風呂に入ろうとしたのです。剣なのに。

いえ、彼曰い

く一緒にお風呂に入りたいのではなく(その主張も怪しいものですが)、

私に何かあった時のために傍にいたいということでした。

ですが、何と言われても嫌なものは嫌です。全力で抗議して、浴室の外に立てかけ

ておくということで妥協してもらったのですが、入浴中も延々と話しかけてくるので、

私の名前を大切そうに呼ぶと、イブリースはようやく静かになりました。てっきりま

た愛しているだの何だのと言われるかと思ったのですが、彼はそれきり眠ったように沈

黙します。

「……まあいいです。静かになったのなら、よしとしましょう」

私はそうひとりごち、自分を納得させました。

静かになったところで母がやってきて、勇者様の部屋が用意できたと告つ

げます。

これで私もお役御免!

歓声の一つも上げたくなるような解放感の中、後のことは母に任せようとしたのです

が、世の中そんなに甘くありませんでした。

「つ、疲れた……」

すっかり日が暮れた頃、私はふらふらになりながら部屋の照明をつけ、ベッドに倒れ

込みました。

冷えたシーツが、お風呂に入って火ほ

照て

った体を冷ましてくれます。ついでに心身共に

疲れきっている私を優しく包んでくれました。

早朝にやってきた勇者様とイブリースは、私を夜まで離してくれませんでした。

51 剣の求婚1 50

「よくありません」

勇者様の声だと気付いた瞬間、即答していました。

彼の方はといえば、そんな私の反応には一日で慣れてしまったのか、爽さ

やかな声で続

けます。

「実は貴あ

なた方

に頼みがあるんだ」

「嫌です」

「そう言わずに」

「勇者様が頼み事をしてくる時は大体ろくでもない内容だと、今日一日で学んでしまっ

たのです」

勇者様も決して寡か

黙もく

というわけではありませんが、イブリースに遠慮してか、私とは

あまり話をしませんでした。そんな彼がわざわざ私の部屋に来たということは、十じ

ゅっちゅう中

八はっ

九く

面倒事でしょう。

ドアを開けられては困るのでしっかりと両手で押さえつけていたら、一緒に来ていた

らしい母から窘た

しなめ

られてしまいました。

「フェイシア、勇者様がこんなに仰

おっしゃっ

てるんだから、話ぐらい聞いてあげな。この寒い

のに、薄着のままで待っていらっしゃるんだよ?」

ちっとも落ち着きません。

濡れたままの髪で勇者様のところへ行き、強引にイブリースを押し付けて、ようやく

部屋に戻れたのです。イブリースからは、そんな格好で男の前に立つなと母親のような

ことを言われましたが、華麗にスルーしました。

私は両手と両足を伸ばしてベッドにうつ伏せになり、その心地よさにうっとりと目を

閉じます。

「一人って素敵」

どちらかというと一人は苦手な方ですが、今日ばかりは一人でいられる時間が至福に

感じられます。

ただ、ちょっと寒いですね。

早めにお風呂から上がったせいもありますが、開けっ放しの窓から吹き込んでくる風

が冷たくて、私はぶるりと体を震わせました。

窓を閉めてから寝ないと、風邪をひいてしまうかもしれません。

ベッドから離れがたかったのですが、どうにか立ち上がって窓に近づきます。すると、

背後からドアをノックする音が聞こえてきました。

「フェイシア殿、少しいいだろうか?」

EDITOR18
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