8

図1 御殿守之たてぢわり(トレース図) - samidaresamidare.jp/yoshiaki/box/kan25s.pdf4 二 天 守 閣 図 面 の 性 格 何 城 の も の か を 示 す は ず

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3

②③

図1  御殿守之たてぢわり( ト レース図)

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4

天守閣図面の性格

何城のものかを示すはずの貼紙が本図裏面にあり

□□城繪圖

と記されている

しかし

肝心の

の上半分から上部がちぎれていて

城の名前がわか

らなくな

ている

恐らく〇〇城と記されていたと

思われるが

現状では不明とせざるを得ない

他に

図中に二箇所

文字が記されていて

一つは石垣を

説明したもの

もう一つは天守の立断面図は大体こ

のようなものであると説明したものである

石垣と天守の立面図の説明箇所を翻刻すると次の

ようになる

石垣の説明

石かきたかさ五間

此つほかす七拾つほ

かたおもて也

四方合弐百八拾つほか

天守の立面図の説明

御殿守之たてぢわり

大かたこれ也

但すみ正になくてならは

世上の目

木工の

むねにあるへし

角のかたの柱のつよミ

ひき物つかいに

なほ以大工人ゝの

口伝の大事あるべし

其心を以一筆如件

慶長拾年

櫻井越後守

十二月吉日

吉久

花押

天守の立面図の説明に

慶長拾年十二月吉日

井越後守吉久

とあり

本図を櫻井吉久が作製した

ことがわかる

一方

棚の図

小林家史料四〇

慶長十八年

一六一三

三月吉日

吉久から小

澤若狭守殿に差し出されたことが記されている

れによ

て天守閣図面も吉久から小澤光祐に送られ

たことが推測できる

また

五層目の屋根には文様が描き込まれている

菊紋と桐紋があしらわれているが

いずれも最上家

も使

ていたものである

本来は天皇家の紋である

最上家譜

山形市史

史料編1

によると

勅許紋とある

または最上家は足利一門であること

から

その繋がりによるとも考えられる

そして注

目されるのは

入母屋の頂部

拝の部分の丸瓦に

の一文字が描かれていることである

図2の

丸瓦には巴文や家紋が使われることが多いが

一文字である

実は

文字瓦は山形城でも

見つか

ている

しかも書体は独特で基本的に共通

することがわかる

ではなぜ

なのか

義光の

書状の中には自ら

山出羽守

のように記したもの

がある

たぶん

山形

の略と考えられ

自ら

一文字で表現していたのである

これは山形殿とい

うブランドを強く意識していたことによると思われ

さらに

文字瓦は聚楽第と大坂城でも見つ

ている

両城周辺に最上家の屋敷があり

そこ

にも

文字瓦が葺かれていたのである

恐らく

伏見城や肥前名護屋城などにもあ

たはずで

今後

見つかる可能性もあろう

このように本図には最上家の家紋や

文字瓦

が描き込まれていた

とするとやはり山形城の天守

の設計図かと思われそうだが

結局は櫻井吉久が作

製して光祐に送

たものでしかない

家紋などは光

祐が書き加えたのであろう

そこで注目されるのが

他にも天守の図面が二点あることである

一つは習

作だが

もう一つは立面図としておおよそ完成形の

ようである

小林家史料二三四

この図も何城

なのかは不明だが

恐らく光祐が作製したものと推

測される

これらの図面の存在から

義光から天守

造営を命じられた光祐が吉久に教えを求め

慶長十

一六〇五

吉久から本図が送られ

それを参考

にしつつ光祐が設計を進めていたが

同十五年

光は結局天守造営を断念したと推測できる

光祐自

身が技術の集成のため

天守の情報を収集していた

可能性もあると思うが

状況からするとこのような

ことだ

たかもしれない

としたら山形城に

も大天守閣が造られた可能性がある

歴史ロマンを

感じさせてくれる図面である

山形県立米沢女子短期大学日本史学科教授

参考文献

髙橋拓・吉田歓

庄内藩大工棟梁小林家文書

その

米沢史学

二七

二〇一一年

吉田歓

最上義光の大工頭小澤若狭と天守閣図面

最上氏と出羽の歴史

高志書院

二〇一四年

吉田歓

最上義光の天守閣計画

温故

四一

二〇

一四年

山形市史編さん委員会他

山形市史

史料編1

一九七三年

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瓦は

であり

土に

にそれが

する

ため

国には不

きの建築部

であ

後期の史料であるが

山形は

国故御

之瓦年

山形

山形市史編集資料

第六四

件により瓦が

すると

強く認識されていた

それにもかかわ

らず

頭の山形城の

修と同

に瓦が

用されるようになり

山形城

での瓦

用は

建築に

うこの

期特

的・

会的判断があ

ことは

に難くない

この

にお

る瓦出現期の様

その

てみたい

山形城本丸御殿

頭の瓦が出土しているが

多くに

が認められる

瓦を含む

これは瓦葺き建物が

たこと

を示しており

その年

がわかれ

瓦出現の

期を考える重要な

かり

となる

本丸の

十二月七日

最上義光書状に

其上本丸

事出来

田藩家蔵文書

とあるのが

一である

これは年

いているが

慶長四年説

山形市史

年表・

と同七年説

新一二〇一〇

県下に残る

の城

御殿

米沢市上

物館

戦国大

名と

の両説あり

この

どちらかとみてよいだろう

この

より以前に

瓦は

用されているので

ある

では

製作年

はどこまで

であろうか

山形城の

修は

一五九三

に最上義光が

うちたて

のほりふしん

家文書

につい

て家臣に

示していることから

この

うちたて

は後の本丸を

すとみられ

最上氏

は他に本丸の

の記

はなく

現在までの

は一

のみであるため

に製作された瓦が

慶長四

七年

したとみるべきであろう

山形城の瓦は

瓦を含め

されたのである

山形城で特

的に現れる

山文

丸瓦は

の聚楽第城下

屋敷でも

出土している

出土

市教

委員会

に描かれた最上義光

屋敷と

的に

この瓦は最上屋敷に使用さ

れたと考えられる

聚楽第城下

屋敷

天皇

をひかえて天正十九年の

中屋敷

えによ

て成立した

名の

である

ここで山文

丸瓦が

用され

本国の山形城

への

へとつなが

ていくのである

ところで

最上家の家紋は

足利家

であることから足利家と同じ

丸両

であ

なぜ

瓦の文様

に家紋で

山文

用した

のであろうか

現在のところ

確たる

ち合わせていないが

めて

されたのであろうから

状況が

したものと考えられる

の最後の

であ

足利義

はまだ存命であり

一五九七

天正十五年

一五八七

したのち

年に

したものの

吉から山城国

に一万石を認められ

や大坂を

まいとしていた

そのような状況で瓦

の紋

する際

足利家以

の紋を瓦に

用することはあ

りえなか

たと推測される

足利義

で重要な

ンを

ていたわ

ではないが

家の家紋と同様の紋

を最上家の瓦に

用することを

たい意図が

にあ

たことは十分考えられる

また

でも出土しているのであ

るから

山形

山形城

という

を示しているわ

ではない

の文

史学の

特に

最上義光は

山形殿

されている

ことが

られているが

自らの

山文

の文様の

用に

たので

あろう

山形城の瓦出現期の様

状況を

している

のである

山形市教

委員会

会教

〈山形城築城六六〇年記念〉

山形城の瓦出現期の

様相について

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現地研修会結果と

私家のル

ツは誰?

歴史館の

ラブ

義光

の現

修会は

年ですと

していましたが

今年

上家伝来の

が六月に米

沢市上

物館で特

示されるとの

ことで

六月十二日に実

されま

した

のとおり

現在は重要文

として

とな

ており

なかなか簡

単に見る事が出来ませんので

会と判断したわ

です

参加者は

長以下事

局三名

会員三十五名

の計三十九名で

前七

に出

しました

日は

さん

やかな

分で出

した次第です

まず

所は

上山市に

ある

中山

でした

この

所は

天正十六年

のと最上

が義

あり

かつ

の母

でもある義

にの

りこみ八〇日間も

所とのことで

された

から

りで

く説明

をいただきました

い天

が一

でき

さん

でした

次に

たのは本

修会の目

ある

米沢市上

物館

です

そく

館内にて見学したのですが

物館の学

員による説明と

以前か

らお

いしていた前館長の

による

の説明をう

ました

の書面では書きませんが

についてもくわしく説明を

して

会員のみなさん

でした

さらに

内にある

殿にお

いても

による説明での見学と

なりました

その後

くの高

において

米沢

ンにした

しい

を頂きました

後は

家が築城したのでない

かと言われている

山城に

かい

山城

存会事

局長の小

んから説明をう

ながら

はじめとして

会員の方

な坂

りました

れた石垣を見て

から

か上

会員のみなさん

をな

ながらの見学とな

たの

ですそ

の後も

や山頂の物見

をかきながらなんとか

した

ですが

やはり

学での

識と

見て得た

識感

なり

い体

となりました

次に高

にある

たのですが

年間に長

井氏より建立され

その後

氏の学

として

もこの

で学

んだ

所とのことで

その

の思いを

せての見学となり

今は石

ており

ましたので

を見なが

それ

所となり

ました

この

をも

今年

の現

修の

しましたが

やはり

現物

に見ることが

いろんな

識への

ラスとなり

館内

内に

かせるのでないかと思

た次第です

次に

家の簡単な

ですが

字と家紋が恐れ多くも義光

と同じ

であり

よくお

さんから

関係につ

いて

されその

では

義光

し子の

と言

わせており

義光

判状と

でもしてみたら

わせます

義光

の方は

におり

ます

家では

言い伝えによると義光

された

長久の

の八

の来

蔵院に

われ

それ

れ大

最上

両家の裏に

あり

となり

家は

目最上大

れとなり

家の

と言われています

しかし

されたのに

字と家紋も同じ

とは不思議ですよね

その件につ

いて

史とか

ものがたり

家と最上家

との

関係

長久の

が義光の

とか

義光の長

が長久

日吉

の所説あり

があり

の件から謎がありそうですね

つまり

両家の

すぎて

られるか

また

十四

最上

前田家の

介で

家より

子が

えられたとの

があ

最上家で

その点に

ついて本来自分で

すべきところで

すが

にも他

的に

か謎

きをお

いしたいと思

ております

義光会

会長

最上

No.82018年3 月

最上義光歴史館サポーター

題字 齋藤蕉石

( ) て

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平成

年度事業

3 0

敢柑

敢柑

にお

る義光らの

は周

ことだが

それならお

下山形ではど

うだ

たか

さかの

ると一四〇〇年前後

最上

家の

には

足利

人にして連

が出羽に

在したと

いわれるから

山形にも連

をたしな

む人

がいたと見てよいだろう

ただ

残念なことに確かな史料は今のところ

見出せない会

出身の

一五

一〇

した連

は義光の

書だ

たし

自身の

もあるほどだから

家臣のなかに連

者が

なからず

いただろうと

される

される連

会に義光に

した最

上家

関係者

をあ

てみると次のよ

うになる

した人物は姓名字

義光

にのみ参加

それ以

はなし

年五月

中の

紹巴

紹巴自筆の

紙を入

している

もちろんこれ以

にもいたはずで

山形光明

に一花

とな

ていた

期には

義光

御一門方

之御会これあり

光明

とい

様だ

山形

とでも言えそうな

たのだろう

特に

心だ

たのが

根城

根で

した連

まで

ていた

慶長十二年七月二

十七日

あて

書状から

その状況がおおかた

れる

年は百

を見たとか

花が

られたとか

たとかの記事もある

しむらくは

の連

が見つからないことだ

庄内では

わずかな文書の断簡から

の二

を見つ

ることができた

世や

きそへ

子の日の

辺の

今日たつも世

にかはら

かな

庄内以

でも

最上

内のどこかに

羽人の作が

もれているかも

れない

となり

べかな

これは

義光の

にお

をし

肥前守の

世として伝えられ

る一

である

研究余滴

義光周辺の芸文活動

長谷勘三郎

豊烈神社

の御殿守之たてぢわり

齋藤