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2012 年度 ヨーロッパ文化(社会文化系)卒業論文概要 石津 古代ギリシアにおける死生観 青木 優希子 フェルメールの作品解釈 川澄 亜希 カトリック両王のスペイン統一 雲村 花穂 ポントルモの絵画作品研究 桑原 美花 エル・グレコの宗教画の影響関係 芳賀 千尋 「死の舞踏」に関する文化史的考察 長谷川 美樹 フェルメール絵画の構図と表現 前田 拓馬 レオナルド・ダ・ヴィンチの絵画制作に関する考察 石川 インディアス論争と「正しい戦争」 市川 優作 リソルジメントとイタリア王国の成立 小林 諒子 フランコ体制崩壊後のスペイン 高橋 めぐみ ナチズムと強制収容所 富樫 美里 ピルグリム・ファーザーズとアメリカ建国神話 羽下 優子 ヨーゼフ・ハイドンのロンドン旅行 橋本 浩也 オーストリア第二共和国とナチズムの過去 山崎 琢郎 19 世紀イギリスの帝国形成とヴィクトリア女王 横山 ソ連の外交と独ソ不可侵条約の成立

2012 · 1492年、スペインはカトリック両王によって、政治・宗教・言語の面で統一されたと理 解されている。近年その説は否定されていながらも、両王が近世スペインの土壌を作り、

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2012 年度 ヨーロッパ文化(社会文化系)卒業論文概要

石津 彩 古代ギリシアにおける死生観

青木 優希子 フェルメールの作品解釈

川澄 亜希 カトリック両王のスペイン統一

雲村 花穂 ポントルモの絵画作品研究

桑原 美花 エル・グレコの宗教画の影響関係

芳賀 千尋 「死の舞踏」に関する文化史的考察

長谷川 美樹 フェルメール絵画の構図と表現

前田 拓馬 レオナルド・ダ・ヴィンチの絵画制作に関する考察

石川 舞 インディアス論争と「正しい戦争」

市川 優作 リソルジメントとイタリア王国の成立

小林 諒子 フランコ体制崩壊後のスペイン

高橋 めぐみ ナチズムと強制収容所

富樫 美里 ピルグリム・ファーザーズとアメリカ建国神話

羽下 優子 ヨーゼフ・ハイドンのロンドン旅行

橋本 浩也 オーストリア第二共和国とナチズムの過去

山崎 琢郎 19世紀イギリスの帝国形成とヴィクトリア女王

横山 翔 ソ連の外交と独ソ不可侵条約の成立

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古代ギリシアにおける死生観

石津 彩

古代ギリシアで広く流布したギリシア神話の英雄たちの生と死は劇的、理想的に語られ

ているが、現実のギリシア人たちの生、そして死の扱い方とは共通点あるいは乖離点が見

受けられる。ホメーロス的、またそれとは異なる観点からとらえられた理想の生と死の姿

に対し、現実では生と死をどう扱っていたのか。理想と現実を対比、照合して古代ギリシ

アにおける死生観を、先行研究を参考にして考察した。

第一章では、理想の死の例としてホメーロスの叙事詩における死者や霊魂の扱い、冥界

の描写に注目する。生の栄誉に重きを置いていたホメーロス的思想では、冥界の暗い描写

は生の美しさを引き立たせる役割を担う。一方で死後のあり方について力点を置く思想も

ヘーシオドス以後出現し、特に古典期に向かうにつれ厭世的な傾向が顕かになっていく。

またこのどちらとも一線を画し、人間の魂が神から生じ神に帰すると考えるオルフェウス

教のような思想も存在した。

第二章では現実における死の捉え方について、アルカイック期から古典期にかけての変

化を見ていく。古典期の墓の儀礼では生者と死者は互恵関係にあり、アルカイック期では

地上に手出しができないとされていた死者たちの影響力が強くなっているのがわかる。発

掘品から冥界はあまり恐ろしくない場所と考えられていたらしく、ホメーロスとは大きく

イメージが変化している。戦場の栄誉と名声を重んじる生き方はアルカイック期のギリシ

アでは好まれていたが、古典期へ向かうと逆にみじめな生を疎んじる傾向へ陥った。厭世

観の広まりから自発的に死ぬ人々が現われたが、神話の英雄たちの苦渋に耐えしのんだ末

の死と、後代の実際のギリシア人がちょっとしたきっかけで生を捨てるのとでは大きな隔

たりがあったのである。

ホメーロス的な死生観と死後に重きを置く死生観とはほぼ並行して継続、発展していっ

た。厭世観は古典期にかけて広がり出したが、その発端は美しい生への渇望に対する現実

のみじめな生への失望であったものの、後世に行くにつれ生の苦悩や不幸の面を強調して

嘆く様子が強くなっている。ただし、それは死後の世界や生まれ変わった次の人生に期待

していたわけではなく、あくまで人々の観点は「現在の生」にあった。ギリシア人はホメ

ーロスやヘーシオドスをもとに培った死生観を、現実において富の誇示などの現世利益や、

生きるあるいは死ぬモチベーションとして役立たせていたのである。

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フェルメールの作品解釈―風俗画の中にみる寓意性

青木優希子

17世紀のオランダにおいて、市民階級に支持され発展した風俗画は、20世紀になるまで

オランダの情景をありのままに描いたものであるとみなされてきた。しかし、1970年代に

美術史家エディ・デ・ヨングが、風俗画は写実的な描写の下に教訓的な内容を隠している

という論を発表したことで、17世紀オランダ風俗画観は大幅な修正を迫られることとなっ

た。卒業論文では、フェルメールの風俗画の作品からはどのような寓意や意味が読みとれ

るのか考察した上で、フェルメールが 17世紀オランダの画家の中でどのように位置づけら

れるのか結論づけた。

第一章では、17世紀オランダにおいて風俗画などの世俗的なジャンルの絵画が発展した

背景について考察し、それらがどのように解釈されてきたかについて先行研究をまとめた。

第二章では、フェルメールが多く描いており重要であると思われる「室内の女性」を描

いた風俗画の中から 7点を取り上げて分析した。解釈が容易な作品も存在するが、モティ

ーフの意味が両義的であったり、当初描かれていたモティーフが塗りつぶされてしまった

りしたために、解釈が難解になっている作品も多い。たとえば、《窓辺で手紙を読む女》で

は当初描かれていたキューピッドの画中画が塗りつぶされているため、《真珠の首飾り》で

は真珠や鏡などの両義的なモティーフが描かれているために、意味が曖昧になっている。

《眠る女》は、当時流布していた「怠惰な女召使い」という型を借りてきているものの、

教訓性は薄い。《天秤を持つ女》は、自分の行動を天秤にかけ、節度を守って生活すべきで

あるというメッセージを伝えている。《牛乳を注ぐ女》や《レースを編む女》は、勤勉に働

く女性を称揚している。《恋文》は、数多くの愛を象徴するモティーフや、人物の表情など

から、画中の手紙が恋文であるということが推測できる。

第三章では、なぜフェルメールが室内の女性を多く描いたのか、また風俗画の中に意味

を込めようとしたのかという点について考察した。当時のオランダにおいて家の中は女性

の領分であり、女性は家庭の美徳の体現者として評価されていた。そこから、風俗画にお

いて室内の女性が多く描かれた理由が推測できる。また、当時の美術理論書は歴史画を対

象にしたものではあったものの、絵画の中に意味を込めることを推奨しており、画家達は

風俗画に意味を込めることで、その価値や地位を向上させようとしたとも考えられる。

しかしながら、作品の意味を分かりにくくしていたというのはフェルメールに限ったこ

とではなく、彼に影響を与えたとされる画家にもその傾向はみられた。そしてそれは、当

時の買い手が、意味が曖昧な洗練された表現を好むようになっていったこととも関連して

いる。フェルメールもまた、風俗画の中に教訓や寓意をさりげなく盛り込むことを意識し、

家庭内や女性の中の美徳を認めたオランダの画家の一人であったといえる。

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カトリック両王のスペイン統一

―近世スペイン人と「反ユダヤ感情」への拘泥―

川澄 亜希

1492年、スペインはカトリック両王によって、政治・宗教・言語の面で統一されたと理

解されている。近年その説は否定されていながらも、両王が近世スペインの土壌を作り、

近代化への架け橋となったことは共通の認識となっている。

これを踏まえ、卒業論文では両王によるスペイン統一とはいかなるものであったのかを考

察した。論を進めるにあたり、「カトリック信仰」の“統一”と両王が利用したと思われる

ユダヤ教徒の“排除”という考えを中心に据えた。

第 1章では、まず動乱の時代であった中世末期のスペインの状況を概観する。次にイベ

リア半島におけるユダヤ教徒の存在と、動乱の時代を経て強まった民衆の反ユダヤ感情を

詳しく見ていく。そして、近世スペインの閉鎖性の象徴として挙げられる「血の純潔規約」

と異端審問制の成立・存続した背景を見ることで、本論の中心となるカトリック両王によ

るスペイン統一と「敵としてのユダヤ教徒」のイメージについて触れる。

第 2章では、前章で述べた動乱の時代を背景とした民衆の反ユダヤ感情を、カトリック

両王がどのように受け止めていたかを分析する。結果として、反ユダヤ感情は異端審問制

の導入に見られるように両王の手によって制度化された反ユダヤ主義となり、「敵としての

ユダヤ教徒」のイメージの構築に繋がった可能性を示す。

第 3章ではカトリック両王によるスペイン統一が後世に与えた影響を見ていく。その上

で、両王の統一の特殊性を明らかにし、当時のスペイン人とユダヤ教徒の敵対関係の歴史

に触れ、そのような関係性にありながらも両者の歴史的経緯が重なることを指摘する。

近世スペインにおいて、カトリック両王の治世下ではなによりも国の秩序を安定させるこ

とが最重要課題となった。彼らはこの課題を達成するために、民衆をカトリックの理念の

下まとめあげ、国の統一を図った。しかし、その“統一”は両王の宗教的熱意ではなく、

また年代記作家が擁護するような「神の摂理」に基づくものでもなく、民衆の中に渦巻い

ていた反ユダヤ感情を両王の手によって制度化したものであった。両王の治世下における

宗教的な統一とは、純粋なキリスト教徒を目指すというよりも、「反ユダヤ感情」に拘泥し

た結果生まれたのであると考えられる。こうして生成された「ユダヤ教徒を敵とするスペ

イン人像」は後世にまで引き継がれていくのであった。

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ポントルモの絵画作品研究

―『十字架降下』の作品解釈―

雲村花穂

初期マニエリスムの画家ヤコポ・ダ・ポントルモ(1494-1556)は、宗教画を中心に多くの

作品を残している。1525年から彼はフィレンツェのサンタ・フェリチタ聖堂のカッポーニ

家礼拝堂における装飾を始めた。本卒業論文ではこの礼拝堂にある『十字架降下』に着目

し、構図を中心とした様々な視点から本作品の主題とポントルモ独自の描写を考察した。

第一章では、『十字架降下』に描かれている人や物を特定することで、本作品の主題を考察

した。作品には「十字架降下」、「ピエタ」、そして「ピエタ」から「埋葬」へと移り変わる

間の 3つの場面を表現するものが描かれている。すなわちひとつの作品に 3つの主題が混

在しているのである。

第二章では、『十字架降下』の構図や配置について分析し、作品に含まれる描写の考察に

繋げた。本作品には蛇状曲線の構図と楕円形構図が取り入れられており、見る者の視線を

ジグザグ、楕円状に誘導する。奥行きのない空間や極端に強調された絵画空間のボリュー

ムを特徴とするこれら 2つの構図は、動的、奔放、無秩序、不安定さを表現し、イタリア

戦争や宗教改革などの歴史的革新に直面し混乱した社会状況や人々の不安定な精神を映し

出した。また楕円形構図は正確な楕円を形作っており、この焦点に描かれたハンカチーフ

と女性の顔は悲しみと聖母マリアを表現している。すなわち、主題に「ピエタ」が含まれ

ていることを裏付けている。またこの作品には人物の配置によって十字架の形が表現され

ており、ここにおいても主題「十字架降下」が表されているのである。

第三章では、ポントルモの芸術論と人物像を見ていき、これらが彼の作品にどのような

影響を及ぼしたのか、解釈を試みた。ベネデット・ヴァルキへ宛てたポントルモ自身が記

述した手紙には、反自然主義的思考や意匠の重視といった彼の芸術論が垣間見える。同じ

くポントルモ自身が記述した『ポントルモの日記』や同時代の芸術家ヴァザーリの『ルネ

サンス画人伝』からは、彼の内向的な性格が見られる。この芸術観や人柄は、本作品の混

沌とした不安定な空気感や他にない独自の表現に拍車をかけた。さらに彼は異常なほど死

に対する恐怖心を抱いており、この心情は『十字架降下』においても表現されている。こ

こにおいて死せるキリストは「死」の象徴と化し、キリストの周りの人々は誰一人涙を流

さず物憂い不安げな表情をしている。右端の陰で足先まで描かれることなく幽霊のように

こちらを見ているポントルモの自画像は、見る者に死への恐怖を投げかけているのである。

ポントルモは複数の主題と当時の混乱した社会状況や人々の精神、そして自身の死に対す

る恐怖をも、この『十字架降下』というひとつの作品に込めた。そしてこれは彼独自の芸

術論や人柄があってこそ生まれたものであった。『十字架降下』はマニエリスムの土台を作

り上げる重要な作品のひとつとなり、それ以降の芸術の発展に大きく貢献したといえるだ

ろう。

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エル・グレコの宗教画の影響関係

桑原美花

エル・グレコはギリシャ人画家で、彼はヴェネツィアとローマで活動した後、スペイン

に渡る。彼の作品の中でも有名なのが、かつてドニャ・マリア・デ・アラゴン学院の祭壇

画であった《受胎告知》である。この作品にはティツィアーノの作品からの影響が見られ

る。また、エル・グレコの制作活動には、カトリック教会の対抗宗教改革とスペインの関

係が影響している。本卒業論文では、これらの影響によって、アラゴン学院の《受胎告知》

を中心に、エル・グレコの宗教画がどのような展開を見せたのかを考察した。

第一章では、対抗宗教改革期のスペインにおける美術統制とエル・グレコが起こした係

争問題について考察した。対抗宗教改革期には、トリエント公会議が開催され、トリエン

ト公会議で決議された事柄は、トリエント教令という形で公布された。その教令の中には、

「聖像に関する教令」も含まれていた。また、キリスト教絵画の描き方の具体例が示され

た『絵画芸術』が、フランシスコ・パチェーコによって刊行された。このような中、エル・

グレコはスペイン到着後の制作活動において、依頼主との間に係争を起こしている。この

係争は、エル・グレコの作品が「聖像に関する教令」に抵触したために起きたのであった。

第二章では、エル・グレコがティツィアーノをはじめとするヴェネツィア派の画家から

受けた影響について考察した。エル・グレコがイタリアで修行をしていた頃、絵画におい

て重要なのは素描か彩色かという議論があった。これに関して、エル・グレコはヴァザー

リの『美術家列伝』とウィトルウィウスの『建築十書』の書物に自分の意見を書き込んで

いる。その書き込みから、彼は彩色に高い価値があるというヴェネツィアの絵画論を重視

していたことがわかった。『美術家列伝』への書き込みはティツィアーノに関するものが多

く、彼に「自然の最大の模倣者」と賛辞を送っている。

第三章では、アラゴン学院の祭壇画であった《受胎告知》を分析した。ここでは、対抗

宗教改革期の《受胎告知》に見られる表現、アラゴン学院の《受胎告知》に見られるティ

ツィアーノの作品からの影響や色彩・身体表現、アラゴン学院の寄進者であるドニャ・マ

リア・デ・コルドバ・イ・アラゴンの聴罪司祭であったアロンソ・デ・オロスコの思想を

表現したモチーフについて考察した。

エル・グレコは対抗宗教改革下の美術統制に則って制作活動を行う中、広く知られてい

るティツィアーノの作品の構図やモチーフを参考にするなど保守的な態度をとったものの、

身体表現や色彩表現においては、独特の世界を描き出したのである。

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「死の舞踏」に関する文化史的考察

芳賀千尋

ヨーロッパでは 13世紀末から 16世紀にかけて、死をテーマにした文芸が多数流布した。

「死の舞踏」は 15,16世紀のヨーロッパにおいて壁画や版画などの媒体にあらわされ広く

流布した主題である。1526年にハンス・ホルバインが制作した『死の舞踏』は民衆の間で

人気を博した。この作品はホルバインの作品以前に制作された「死の舞踏」のモチーフを

受け継ぎつつ、新しい解釈が施されている。卒業論文では、ホルバインの『死の舞踏』に

おける流行の背景と新しい解釈について考察した。第 1章では 3つの「死の舞踏」を概観

した。まず最古の「死の舞踏」であるパリのサンジノサン墓地回廊壁画、バーゼルの「死

の舞踏」にふれ、それらの起源や成立,図像の示していた意味について論じた。さらに、

ホルバインの『死の舞踏』の出版の経緯についても述べた。第 2章では「死の舞踏」と宗

教改革の関係性を考察した。ホルバインの『死のアルファベット』(1523年か 24年頃)は、

宗教改革理念を広めるためのビラとして用いられた。登場人物の類似からこの作品はホル

バインの『死の舞踏』の構想だったとされている。また、ホルバインの『死の舞踏』では

登場する聖職者全員が批判的に描かれている。よって、ホルバインの『死の舞踏』は出版

時期やその内容から、宗教改革のプロパガンダとして制作された可能性がある。しかし、

批判的表現は改革以前の「死の舞踏」にも存在し、ホルバインはその表現を踏襲しただけ

ではないかと思える。また、ホルバインは改革に対し消極的であったことから、この作品

は改革派のために制作されたとはいえないと考えられる。第 3章ではホルバインの『死の

舞踏』の図像とテキストを分析し、ホルバインが自身の作品に施した解釈について考察し

た。この作品では従来の「死の舞踏」と比べて死に襲われる瞬間の人間がより詳しく描写

され、死という局面に立たされた人間に焦点が当てられている。また、死は人間の身分に

より接する態度を変えており、権力者には批判的、弱者には同情的である。このような死

の態度の変化は人間的であり、作者や観者の感情を込めた結果である。ホルバインは図像

とテキストの関係性においても新たな形式を取り入れた。従来までの「死の舞踏」の図像

とテキストは、一方がもう一方を単に説明するだけという主従の関係であった。しかし、

ホルバインの作品では図像とテキストの両方を見ることで、図とテキストどちらか片方だ

けを見ていた時よりも、作品の意味がより深まるという現象が起きる。図像とテキストの

対等な関係がホルバインの作品の中で描かれているのである。以上、ホルバインは中世末

期における「死の舞踏」に使用されているモチーフや構図などを受け継ぎつつ、死に直面

した人間に焦点を当て、死の態度に画家または観者自身の感情を投影した。これがホルバ

インの施した新しい解釈である。そして、彼はまた図像とテキストが対等な関係であると

いう形式を新たに作りだした。また、ホルバインの『死の舞踏』の流行の要因の 1つとし

て宗教改革時代に出版され、かつ作品が聖職者批判的内容を含んでいたことがあげられる

のである。

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フェルメール絵画の構図と表現

長谷川 美樹

17 世紀オランダの画家ヨハネス・フェルメール(1632 - 75)の作品には、写真のよう

な特徴がみられることから、カメラ・オブスクラという機器を用いて制作されたのではな

いかと指摘されている。カメラ・オブスクラとは、写真用カメラの前身であり、暗室や箱

に開けられたピンホールを通過する光線により、外界の光景が映し出される装置である。

画家はその像をなぞることによって、実際の光景によく似た下絵をつくることができる。

しかし、フェルメールのデッサンやスケッチは残っておらず、彼の技法を明らかにする文

書も見つかっていないため、カメラ・オブスクラ利用説は、唯一の証拠である彼の作品の

みにもとづいている。本卒業論文では、フェルメールが実際にカメラ・オブスクラを用い

て作品を制作したのかどうかについて、また具体的にどのような点が写真のようだと言わ

れるのかについて考察した。

第一章では、フェルメールが活動していた 17世紀オランダの時代背景や、彼に影響を与

えたと思われる画家、当時流行していた視覚機器について考察した。17世紀のオランダで

は、科学と芸術は現在よりはるかに近しい関係にあった。当時の画家たちにとって、視覚

機器を絵の制作に利用することに大きな抵抗感はなかったと考えられる。

第二章では、フェルメール作品の構図について考察した。ここでは、《眠る女》、《紳士と

ワインを飲む女》、《兵士と笑う女》の 3点の室内画を中心に分析した。初期の作品を除き、

フェルメール作品の空間は透視法的にきわめて正確である。消失点部分に地塗り層の欠損

が見られることから、フェルメールはカメラ・オブスクラの像をなぞったのではなく、糸

と粉を使った方法で正確な透視法の作品を制作していたと考えられる。また、同時代の画

家ピーテル・デ・ホーホの室内画と構図が類似している作品が数点あり、周りの画家たち

から大きな影響を受けていたことが窺える。

第三章では、フェルメールの光の描き方に焦点をあて、その独自性について考察した。

ここでは、《牛乳を注ぐ女》、《音楽の稽古》、《真珠の首飾り》、《レースを編む女》の 4点の

作品を中心に分析した。フェルメールの点綴法や、ピンボケしたような画面は、カメラ・

オブスクラ特有の現象と結び付けられることがあるが、これらは印象的な空間をつくりだ

すためのフェルメール独自の工夫であった。

フェルメールは他の画家の作品から主題やモチーフの配置を学びつつ、当時の理論書に則

って厳格な透視法を用いていた。さらに、彼はそれを発展させ、自然な画面をつくること

に力を入れた。光の表現においても、伝統的な描法や周りの画家たちから学びながら、彼

らには見られないような斬新で独創的な作品をつくりだした。フェルメールがカメラ・オ

ブスクラに関心を持ち、その像を参考にした可能性はあるが、それをそのまま映しとった

とは考えにくい。伝統的な描法や科学の成果を利用し、彼の優れた観察力と表現力を発揮

した結果、写真に近いフェルメール作品が生まれたといえる。

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レオナルド・ダ・ヴィンチの絵画制作に関する考察

前田拓馬

盛期ルネサンスを代表する人物の一人であり「万能人」と評されたレオナルド・ダ・ヴ

ィンチは絵画こそが詩や音楽や彫刻に比べ優れた芸術であると考えた。本卒業論文では寡

作であった彼が描いた絵画の中でも『モナ・リザ』を取り上げ、彼がこの作品をどのよう

な意図で制作し、何故、最後までこの絵を持ち続けたかということについて考察した。

第一章では『モナ・リザ』制作の背景として 1499年から 1503年頃までの彼の周辺人物

と素描などから彼の『モナ・リザ』制作前の動向をみた。そしてその頃に描かれたデッサ

ンなどから『モナ・リザ』のモデルをイザベラ・デステであるとする田中英道氏の説を有

力であるとした。

第二章では風景表現とその技法について分析した。遠近法などの技法と共に、ぼかし技

法とも呼ばれるスフマート技法が『モナ・リザ』の風景などにどのように影響を与えてい

るかを考察した。

第三章では彼の残した膨大な手稿の中の主にウィンザー手稿から人体の解剖に関するも

のを用いて『モナ・リザ』を分析した。レオナルドの解剖が先人たちの芸術解剖学と決定

的に異なる点は、人体のすべての運動の基礎にある構造と機能を探ろうとしたことである。

まず人体の比率についての手稿から『モナ・リザ』の身体や顔に関する比率を考察し、彼

の手稿の記述との一致を見出した。

解剖を始めた頃のレオナルドは感覚神経系、特に視覚に関係のある部分の解剖や頭蓋骨

の解剖を行っており、その脳と視神経の解剖からレオナルドの研究において重要な部分で

ある「共通感覚」についての分析をした。彼は「共通感覚」とは全ての感覚の合流点であ

り、判断という行為は全てここで行われると考えた。そしてそれは霊魂の座でもあり脳に

あると考えたのだ。彼は、視神経を視力が「共通感覚」に向けて通過する霊魂の窓である

とし、人間の魂が表情に出るのは眼であるとした。彼は『モナ・リザ』に霊魂を持たせ、

まるで生きている者がそこに存在するように描こうとしたのである。

『モナ・リザ』はその腹部を覆うような手の状態などから妊婦であるとも言われ、また

その微笑みはどこか見る者に不気味な印象を与える。それは左右で異なる状態の唇による

効果であり、『モナ・リザ』が妊婦であるとするならば、向かって左側の引き締めた唇は

母の強さを、右側の微笑みの唇は母の優しさを表していると考えられる。また彼はマドリ

ッド手稿の一部から無原罪の御宿りを意識していたところが見られ、科学的にそれを解明

しようとしていた。手稿と『モナ・リザ』の制作時期、そして彼が私生児であるという点

から『モナ・リザ』にそれを照らし合わせていた節がある。『モナ・リザ』は生命の営み

の尊さ、神秘そのものを示す「母性」そのものを描いたものであり、死に対しての復活を

意識した彼の心の拠り所であった。それ故彼は『モナ・リザ』を持ち続けたと考えられる。

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インディアス論争と「正しい戦争」

石川 舞

1511年に当時植民地経営の拠点であったエスパニョーラ島においてドミニコ会の神父

アントニオ・デ・モンテシノス(?-1540)が行った説教が発端となり、征服戦争の正当性に

ついて議論がなされるようになった。この議論はインディオの人間としての適性の有無や、

インディオの生得の諸権利とスペインの征服事業の正当化を含む重要な問題とみなされて

いた。本論では征服戦争の論拠や時代に因るその論拠の変化を比較・分析し、そこから見

る大航海時代におけるキリスト教徒による「正しい戦争」の思想がいかなるものであった

か考察した。

第 1章ではインディアス征服が行われるまでのヨーロッパ・キリスト教における「正し

い戦争」を分析した。中世の十字軍はキリスト教世界から異教徒を排除し、キリスト教世

界を拡大するという宗教的課題を武力によって解決するという思想が根底にあり、これが

全ヨーロッパ・キリスト教徒の使命となって聖地の回復のみならず、キリスト教徒の地で

あったことがない北方へも戦線を拡大させていった。この北方十字軍が奪回・防衛のみで

あった十字軍が攻撃・征服へと変わっていった契機となった。

第 2章ではインディアス論争の経緯、その中心となった人物を考察した。インディアス

問題が表面化するとセプールベダや、ラス・カサスを筆頭としてインディオがスペイン人

と同じ思慮分別のある「人間」なのか激しい論争が繰り広げられた。

第 3章ではラス・カサス、セプールベダやその他の人々の主張をさらに考察し、また同

時代の人々のインディオに対する価値観を比較・分析した。セプールベダや国際法学者た

ちが、征服戦争の根拠としたのは自然法に反しているとされたインディオの人身犠牲の習

慣であった。この野蛮からの解放が根拠とされ、これには宗教的要因は問題とされなかっ

た。クロニカによって「平定」(pacificación)という言葉を用いて征服戦争がインディオ

に恩恵を与えるものであるというイデオロギーの転換がなされ、恣意的に歪められたイン

ディオ像が人々に植えつけられた。その結果芽生えた野蛮に対する蔑視によって文明が野

蛮を文明化させることが使命であると考えられ、これがこの時代の通念となっていった。

この通念に対抗するようにラス・カサスは「未キリスト教徒」とキリスト教徒は本来比

較されるべきではないという問題意識の下で、スペイン人と同一の自然法によってインデ

ィオを裁こうとする主張を一蹴した。しかし野蛮/文明の対立構造の中で考えることを批判

していたのはラス・カサスだけであり、セプールベダ、ビトリア、グロティウスを始めと

して多くの人々が、征服の正当性を論じる場合にインディオが「未キリスト教徒」ではな

く野蛮であることを理由に挙げた。

以上のようにインディアス論争を通じてヨーロッパ・キリスト教世界においては戦争の正

当性を論じる上で宗教的要因が、文明から野蛮が排除されていくようになっていった。

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リソルジメントとイタリア王国の成立

市川 優作

1861年、サルデーニャ王国を母体とするイタリア王国が成立したことでイタリアの民族

運動リソルジメントは終了する。しかし、その最初期からリソルジメントを牽引していた

のは民主主義者、1830年代以降においてはジュゼッペ・マッツィーニであり、1848年革命

以前のサルデーニャ王国にはリソルジメントに積極的に関わる意図はほぼなかった。

第一章では 1848 年革命直後の動きを分析した。1848 年革命後、サルデーニャ王国では

憲法がイタリア半島で唯一維持されたため、イタリア諸邦で弾圧された自由主義的な亡命

者が流入した。一方、マッツィーニは 1848年革命を自己の理論の正しさを証明するものと

判断し、以降もその路線を変更しなかった。こうした姿勢には他の民主主義者から批判が

加えられたが、マッツィーニに代わる民主派の指導者は現れなかった。

第二章では 1859年の第二次独立戦争までの期間を扱った。この間マッツィーニは、1853

年のミラノ蜂起を始めとしてイタリア全土での蜂起を促すべく活動したが、いずれも失敗

した。自己の理論に固執して犠牲を出し続けるマッツィーニの行動には厳しい批判が向け

られ、彼から離反した人々はサルデーニャ王国へと接近した。サルデーニャ王国はクリミ

ア戦争への参戦などによってイタリア内外に存在感を示し、リソルジメントの旗手、イタ

リアの代表としての地位を築いた。また、1856年 5月以降、互いに相手を利用しようとす

る意図の下に、サルデーニャ王国とマッツィーニの間で秘密裏に接触があったとされる。

第三章では第二次独立戦争を扱った。サルデーニャ王国は 1858年のプロンビエール協定

でフランスと軍事同盟を結び、1859年 4月オーストリアと開戦した。開戦後、中部イタリ

アではサルデーニャ王国への合流を望む臨時政権が成立した。この想定外の事態を受け、7

月にナポレオン三世はオーストリアと講和したが、中部イタリアは最終的にサルデーニャ

王国へ併合された。また、ジュゼッペ・ガリバルディのシチリア遠征により、8 月にはシ

チリア全土が、9月には南部イタリアが征服された。その後、ローマ進軍を巡るカミッロ・

カヴールとの駆け引きに敗れたガリバルディは彼が制圧した地域を国王に献上した。

マッツィーニを始めとした民主主義者にとって君主制による統一は望ましいものではな

く、カヴールらサルデーニャ王国側にとって遅れた南部地域を併合することは想定外のこ

とであった。1861年のイタリア統一は、それを主導した誰が望んだものとも異なる形でな

されたものであった。

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フランコ体制崩壊後のスペイン

小林諒子

1936年から 1939年のスペイン内戦に勝利したフランシスコ・フランコは、1975年の彼

の死まで独裁体制を維持し続けた。40年近くにおよぶフランコ独裁体制は、抑圧の時代で

あった。このフランコ体制が崩壊すると、民主化と地方分権化が進められた。卒業論文で

はフランコ体制の崩壊とその後の過程、またそれが現代に与えた影響について考察した。

特にバスク・ナショナリズム、カタルーニャの言語政策、「歴史記憶法」に注目した。

第一章では、フランコ独裁体制化の抑圧政策を取り上げた。そしてなぜそのような独裁

体制が 40 年も続いたのかリンスの権威主義体制の研究を参考にフランコ体制の存続の在

り方について考察した。

第二章では、まず 1975年のフランコ体制の崩壊から 1978年の新憲法(現行憲法)制定

までのスペインの民主化への過程を概観し、その後地方分権化の動きについて分析した。

そのなかでもフランコ体制下で結成されたバスクの独立・自治を求める民族組織 ETA

(Euskadi Ta Askatasuna 祖国バスクと自由)の活動、フランコ期に弾圧されたカタルー

ニャ語の復権をめざすカタルーニャの言語政策に注目した。ETA の武力闘争はフランコ期

には、フランコの独裁に対抗するための手段として容認された。しかしフランコ体制が崩

壊し、民主化が達成されてからは、彼らの活動は目的を失い、テロ活動として問題視され

た。カタルーニャでは「言語正常化法」、「言語政策法」が制定され、多方面でカタルーニ

ャ語の使用拡大がはかられ、教育面では「言語漬け」と呼ばれるシステムが採用された。

第三章では、フランコ体制崩壊から 20年が経っても諸政党の間で内戦、フランコ体制の

抑圧政策の話がタブーとされていたというスペインの歴史認識と、2007年に成立した内戦

とフランコ体制の被害者の名誉を回復するための法律「歴史記憶法」を分析した。同法は

被害者の名誉回復に重点が置かれ、加害者の特定、責任追及が行われなかった。結局、「歴

史記憶法」は被害者にとっては不満に満ちた内容となり、加害者を特定しなかったこと、

責任のとり方が曖昧だったことが激しい議論を呼び、多方面から批判を受けた。

ETAのテロ活動、カタルーニャの言語政策にはフランコの抑圧政策が影響を与えている。

ETAのテロ活動によって、バスク地方全体が問題視され、カタルーニャでは「言語漬け」

に対する違憲立法訴訟が起こった。このように問題はフランコ体制が崩壊してからも続い

ており、フランコ体制は内戦、フランコを知らない世代にまで影響を及ぼしたといえる。

「歴史記憶法」では、フランコ体制の問題解決へ向けた議論をスペイン全土に起こし、被

害者の名誉回復はある程度達成できた。しかしフランコ体制の真相究明と責任の追及とい

う課題が今後に残された。フランコが残した問題の解決はこれからも続いていくといえる。

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ピルグリム・ファーザーズとアメリカ建国神話

冨樫 美里

17世紀初頭、ピルグリム・ファーザーズの一行が信仰の自由を求め、イギリスのプリマ

スを出発した。1620年の冬にニューイングランドに到着した彼らはプリマス植民地を創設

した。上陸前に取り交わされたメイフラワー誓約はアメリカ合衆国憲法の基礎となり、入

植 2年目の秋にインディアンを招いて行われた祝宴は今日の感謝祭に直接つながる起源と

されている。この物語は学校教育を通じて一般に広く受け入れられている。本稿では、ピ

ルグリム・ファーザーズの歴史的事実をみていき、彼らが神話化の対象となった要因と 19

世紀のアメリカがなぜ建国神話を必要としたのか、建国神話がもっていた意味を分析した。

第一章では、ピルグリムが新大陸へ向かった経緯を追い、プリマス植民地を創設できた

理由について考察した。植民地創設、新大陸での生活はインディアンの助けなしでは不可

能であった。

第二章では、メイフラワー誓約の内容で 3つの部分に注目し、検討した。それを踏まえ

て 1802年のジョン・クインシー・アダムズの演説について考察した。アダムズの演説がメ

イフラワー誓約について再認識させ、「メイフラワー誓約=社会契約論の先駆け」が成り立

った。

第三章では、初めての感謝祭であると言われている 1621年の秋の祝宴と、その後の感謝

祭の変遷について考察した。献身的な宗教心、熱心な愛国心という性格が含まれる感謝祭

は、多くの国民を惹きつけ、「感謝の日」と結び付き、国民祝日となった。

第四章では、神話の成立過程について考察した。ジャクソニアン・デモクラシーによっ

て、ニューイングランドのピューリタンに国の起源を求める動きが強まり、アメリカとい

う国家の神話が作られはじめた。もともと神話を形成する側が求めている愛国心や人間像

に沿って神話は作られていくものであり、ピルグリム・ファーザーズの神話化もその流れ

に即している。

プリマス植民地は高い志にも関わらず、消滅してしまう。このことはアメリカ国民に同

情と共感を与えた。そして歴史を恣意的に選択した結果、ピルグリム・ファーザーズは“賢

明で誠実な祖先”というイメージが作り上げられ、大きな神話的要素をもった。アメリカ

国民にとって、彼らは人種や信仰に関係なく、人民の代表であり、精神的な祖先であった。

祖先の栄光を語ることで、その延長線上にある自分たちの存在を肯定してきたのだ。

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ヨーゼフ・ハイドンのロンドン旅行

羽下優子

フランツ・ヨーゼフ・ハイドン(Franz Joseph Haydn)は晩年,ロンドンへ 1791年から

1792年,1794年から 1795年と期間を分けて旅行をしている。本稿ではハイドンが訪れた

ロンドンの音楽環境がどのようなものであったか,彼の旅行の動機は何か,演奏会や演奏

会以外の活動を基に彼の旅行がどのようなものであったか,彼のその後の音楽活動への影

響はどのようなものであったか、について考察した。

第一章では 18世紀ロンドンの社会と音楽について検討した。当時のロンドンはオペラ公

演が盛んであり,国王から勅許が与えられイタリア・オペラを中心に上演した公式の劇場

と,イギリス・オペラを中心に上演した非公式の劇場が存在した。18世紀後半,料金を支

払い,演奏を聴く公開演奏会が盛んとなり,予め演奏会シリーズのチケット購入する予約

制が主流であった。また,16世紀をはじめとした古い音楽作品を扱う演奏会や,ヘンデル

記念祭が行われていた。

第二章では,ハイドンの二回にわたるロンドン旅行の出発前と旅程,旅行中の演奏会を

考察した。旅行前のハイドンの手紙から,交響曲よりもオペラを主眼としていることがわ

かった。また,旅行期間中は,オックスフォード大学から博士号を与えられたり,聖パウ

ル大聖堂のチャリティー礼拝儀式を見に行ったりと,演奏会以外の活動も行っていた。し

かし主眼としていたオペラ公演は中止となっている。ハイドンが参加していたザロモン・

コンサートシリーズの 1791年から 1793年までのプログラムから,ハイドンの作品である

と明確にわかる記述でプログラムを新聞などに掲載していること,また,彼の新作が曲順

において休憩後の第二幕一番に配置され,遅れてやってくる聴衆にあわせられていること

から,ハイドンの人気の程がわかる。

第三章では,鍵盤楽器に注目し,旅行前に作られたクラヴィーア・ソナタ第 59番(変ホ

長調 Hob.XVI/49)と第二回ロンドン旅行中に作曲されたクラヴィーア・ソナタ第 60番(ハ

長調 Hob.XVI/50),第 62番(変ホ長調 Hob.XVI/52)を考察した。ハイドンのクラヴィーア・

ソナタにおけるロンドン旅行前後の違いとして,ウィーン式のピアノとイギリス式のピア

ノの想定があげられ,ロンドン旅行中に作曲され,帰国後に出版された第 60番と第 62番

は,イギリス式のピアノの力強く響く音やペダルの機能,音域の広さを生かしたものであ

った。

以上のことから,オペラや公開演奏会が盛んであったロンドンにおいて,ハイドンが特

別に人気のある音楽家であったこと、彼の旅行の動機は交響曲の演奏だけでなく,オペラ

公演やイギリス式の鍵盤楽器への接触を含んでいた可能性があること、鍵盤楽器への接触

は,旅行中に作られたクラヴィーア・ソナタに反映されていることが確認された。

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オーストリア第二共和国とナチズムの過去

橋本浩也

1938年のナチス・ドイツによるオーストリア合邦は、当初多くのオーストリア国民から

歓迎された。ナチズムに共感を示し、ナチ党やその関連組織に加担したオーストリア国民

も多く見られ、その人々は積極的にユダヤ人迫害にも加担した。終戦後の新生オーストリ

アでは、ナチズムに関連した多くの国民と、オーストリアという国家自体を、どのように

位置づけて、国家を再建するのかが課題となった。本論では、第二次世界大戦後のオース

トリア第二共和国において、ナチズムの過去の捉え方の変遷について考察した。

第一章では、戦後間もない頃にかけて行われたオーストリアでの非ナチ化について考察

した。非ナチ化は、モスクワ宣言に基づき、オーストリアはナチズムの犠牲者であること

を強調して実行された。レンナー臨時政府期では、元ナチ党員を可能な限り国民へと復帰

させる政策が行われ、フィーグル政府期には、元ナチ党員に恩赦を与える動きが見られた。

また、「真の犠牲者」とも言えるユダヤ人が、自らの被害を強く主張しなかった事もあって、

オーストリア国民がナチ党に協力した責任は追及される事が少なくなっていった。さらに、

冷戦が激化する国際社会において、オーストリアが永世中立国として東西をつなぐ役割を

巧妙に果たした事から、次第とオーストリアのナチズムの過去が忘却されるに至った。

第二章では、オーストリア第二共和国での、歴史的アイデンティティ追求の動きについ

て検討した。1946年の「オーストリア」生誕 950年の祭典では、オーストリアはドイツと

は歴史的に異なる国家であると主張され、「オーストリア国民」国家を成立させるために、

ナチズムやドイツと、オーストリアとを乖離させる政策が行われた。

第三章では、1980年代後半以降、ナチズムの過去を、オーストリア国民が再検討してい

くようになったことを考察した。1986年のヴァルトハイム事件を契機に、オーストリアで

は、過去のナチズムへの関与について反省や謝罪がなされず、依然として反ユダヤ主義も

存在する事が国際社会上で批判的に論じられるようになった。そのためオーストリア政府

は、合邦 50周年の 1988年を、ナチズムと過去の「追想の年」として、様々な分野で過去

を再検討する活動を行い、その結果「オーストリアは犠牲者でもあり加害者でもある」と

いう「二つの真実論」がオーストリア政府の公式な解釈となった。

その後、オーストリアでは、1989年にハンガリーからの亡命者を受け入れベルリンの壁

の崩壊をもたらした一方、1990年代以降、国内で右翼政党によるナチ再評価が強まるなど、

複雑な状況が続いている。

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19世紀イギリスの帝国形成とヴィクトリア女王

山崎琢郎

アメリカの独立によって帝国の覇権に陰りが見られたイギリスは19世紀再び世界の中

心に戻ってきた。19世紀のイギリスでは、国王は強力な政治力を発揮して国家を動かすと

いう権力を行使することは少なくなり、むしろ国民にとって王室は権力のイメージは弱ま

り家庭の象徴の面が強調されるようになった。特にそれは産業革命を経たイギリス社会で

台頭しつつあった中産階級、いわゆるミドルクラスの理想象として捉えられていた。ミド

ルクラスでは女性の活動範囲の大半が家庭であり、こうした王室像は広く国民に受け入れ

られた。イギリスが帝国を拡大した 19世紀に君臨し、イギリス史上過去最も長い在位を記

録したのがヴィクトリア女王であった。ヴィクトリア女王は「妻」「母」といった家庭での

役割を打ち出すことで王室のイメージを変化させ、帝国統治においてもそのイメージを利

用する。

第一章ではヴィクトリア女王の女性性に注目した。デイヴィッド・ウィルキーの美術作

品を中心に王室画を観察し、ヴィクトリア女王が自身や家族をどのようなイメージで印象

付けようとしていたのかを考察した。さらにヴィクトリア女王の夫アルバートが逝去した

後 1860年代に隆盛し、実証主義者や自由党急進派が煽動した君主制廃止論を収めた一因が

ヴィクトリア女王の「母」としてのイメージであったことについて、また女王即位 50年の

ゴールデンジュビリーは、それまでの王室内部の祝い事から世界中の賓客を招きイギリス

の偉大さを、ヴィクトリア女王を通して投影することを意図したものであった。さらに女

王即位 60周年のダイヤモンドジュビリーでは帝国の母としてのヴィクトリア女王の母性

を強調することで世界に広がるイギリス帝国の紐帯の役割を果たした。

第二章では 19世紀イギリスが世界に拡大した帝国の中で最大の人口と面積を誇ったイ

ンドで発生したインド大反乱について考察し、1877年に正式に建国されヴィクトリア女王

が皇帝を兼務したインド帝国に至るまでの経緯を観察した。インドは経済上、ロシアをけ

ん制するため外交安全保障上イギリスにとって重要な支配地であった。インド大反乱はム

ガル帝国下のインドを、名実ともにイギリスの支配下に置きヴィクトリア女王が皇帝とし

て君臨するイギリス領インド帝国に移行させる契機となった。

第三章では世紀転換期に発生し、ヴィクトリア女王が崩御後に収束した南アフリカ戦争

は、単にイギリスとトランスヴァールの争いではなくヨーロッパ諸国がかかわる戦争であ

った。

ヴィクトリア女王は女性であったがゆえにその女性性を強調し、あるいは強調させられ

イギリスの帝国形成に重要な役割を果たした。しかし 19世紀の末期、ヴィクトリア女王の

在位末期から帝国の結びつきはほころびを見せ始め、南アフリカ戦争での各植民地や自治

州の関与の様子、戦後白人植民地が独立していく。ヴィクトリア女王の崩御が 19世紀の終

わりとイギリスの帝国拡大の終わりを意味しているのである。

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ソ連の外交と独ソ不可侵条約の成立

横山翔

第一次世界大戦後、国際社会からともに孤立していったソ連とドイツの 1920年代の関係

は、良好であった。しかし、1933年にドイツでヒトラーが首相に就任すると、独ソ関係は

悪化した。それにもかかわらず、1939年 8月 23日、突然独ソ不可侵条約が結ばれ世界中

に大きな衝撃を与えた。独ソ不可侵条約締結の際には、秘密付属議定書が作成された。秘

密付属議定書では、ソ連とドイツの東欧における利益範囲が決められた。本論文では、独

ソ不可侵条約が成立した理由と、その後の国際関係について考察した。

第一章では、1930年代のヨーロッパの国々の関係について考察した。ヒトラーはヴェル

サイユ体制の打破を進め、1938年にはオーストリアとチェコスロヴァキアのズデーテン地

方を併合した。イギリス・フランスはドイツの併合を認める宥和政策をとったため、イギ

リス・フランスに対する不信感を抱いた。

第二章では、ソ連・イギリス・フランスによる三国交渉と独ソ交渉について考察した。

ソ連では、イギリス・フランスとの交渉が行われる前の 1939年 5月、スターリンが外務人

民委員をイギリス・フランスとの関係を重視するリトヴィノフから、ドイツとの関係を重

視するモロトフへ変更した。これによって、ソ連は外交方針を変更して、ドイツとの接近

を目指すようになった。しかし、ソ連は集団安全保障を諦めきれず、8月 12日からイギリ

ス・フランスと交渉を行った。ソ連は交渉の際のイギリス・フランスの態度を見て、ドイ

ツとの不可侵条約の締結を決定した。独ソ交渉では、独ソ通商・クレジット協定が結ばれ、

経済関係の改善を行った。その後、ドイツ外相リッベントロップがモスクワを訪れ、独ソ

不可侵条約が成立した。

第三章では、独ソ不可侵条約成立後の国際関係について考察した。ポーランドは 1941

年 9月のドイツの侵攻の後、ソ連とドイツに分割され消滅した。バルト三国はソ連との相

互援助条約成立の後、1940年 8月、相次いでソ連に編入された。フィンランドはソ連との

相互援助条約の締結を拒否したため、1939年 11月ソ連との間に冬戦争が起こった。日本

では平沼騏一郎内閣が、「欧州の天地は複雑怪奇なる新情勢を生じた」という声明を発表し

て総辞職した。また、日本は独ソ戦開始直前まで日ソ独伊連合の成立に期待していた。

独ソ不可侵条約成立の理由として、外務人民委員の変更とイギリス・フランスの態度が

挙げられる。独ソ関係重視のモロトフの外務人民委員就任によってソ連の外交方針は変化

し、交渉に消極的なイギリス・フランスの態度によって、ソ連はドイツとの間に不可侵条

約を結ぶことを決めた。独ソ不可侵条約成立はポーランドやバルト三国をめぐる独ソの対

立を厳しいものにし、1941年 6月には独ソ戦が始まった。