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九肌にしみる ような晩 の冷 たい風にゆら 'ゆらとそよいで いる芹のかたわ らに、烹で荷 だけが赤い鴨が ' 数十羽群をなし て泳いでいた。 , 1 その向う側には 白ず,を抱いたヒ 1 マラヤが雲向く 僅、' そ^えている。 三、 '叩 それはシスネヒ ゛= , , マールとハト一フ ' 〆、シヒマーレの山 、群であろう。訪 れる人とてほと , ↑, タラ村のチ,ルテンんどないこの山 玲0削は、その神秘性とあいまって、いつの 頃からかララ湖と呼ばれている。この削は周 囲二十キロメートル、腎三千メートル墨 々たる大湖である。 十一ガ十三日にカテリーⅡのラムタリ村 で、ジユムラに は、カプリー川姦る ラ削に釧着し九われわ ま霜五卜局の予定で、日水 めての.四北ネハール横断をh ~ ある。メンバーは私と松村刀、それ L手なシェルハのラク。ハツェリンと ーリー(人犬)である。芙しいスィス もこれにはおよふまいと思われろ素晴らしい 則めこ光を危ぐわれわオの足もつしぢきと められて、舌を削¥過してしまっ九。 れわれのコックは近くのチャープル村で什入 れ九二ワトリを:匹しめて、一[,誘な口ースト チキン予作るのにてんて一気いで、いつもク ークーと文句ば力りいってしるわれわオの胃 袋も、ムーΠだけは衝泓足のことであろう 附近の住民は賀で、衣類は黒く、肌の色 はさらに黒い。劃洛には牛糞かたくさん散ら ばり、煮吊に多くのハエが北かり、その不潔 なことはララ湖の美し、さとあまりにも対照的 であっえ。この湖には九くきんの魚絵んで いるとい・つことであるが、冬期は湖底にあっ て火 し、モンスーン刈に上ってくるので、 その時捌になると判人は原始的な網で熊をと ララ湖からの眺め 紅葉した山々にそろそろ新雪が舞い降bよ うとしている十一刃の詮、われわれはネバ ールで最も美しく最も火きい剥の叫に幕営し ヒマラヤ登山隊 1儿i 北ネハ ル横断 福田勝 38 !』▲

1儿i 北ネハ ル横断 - Doshishaたい風にゆらような晩耿の冷九肌にしみる し 、 'ゆらとそよいで だけが赤い鴨がらに、烹で荷いる芹のかたわ

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  • 九肌にしみる

    ような晩耿の冷

    たい風にゆら

    、し

    'ゆらとそよいで

    いる芹のかたわ

    らに、烹で荷

    だけが赤い鴨が

    '

    数十羽群をなし

    て泳いでいた。

    ,1

    その向う側には

    白ず,を抱いたヒ

    1

    マラヤが雲向く

    僅、'

    そ^えている。

    三、

    '叩

    それはシスネヒ

    ゛=

    ,

    ,

    マールとハト一フ

    '

    〆、シヒマーレの山

    、群であろう。訪

    れる人とてほと

    ,

    ↑,

    タラ村のチ,ルテンんどないこの山

    玲0削は、その神秘性とあいまって、いつの

    頃からかララ湖と呼ばれている。この削は周

    囲二十キロメートル、腎三千メートル墨

    々たる大湖である。

    十一ガ十三日にカテリーⅡのラムタリ村

    で、ジユムラに向う本隊と分れたわれわれ

    は、カプリー川姦ること. U問で、このラ

    ラ削に釧着し九われわれはこれ力らホカラ

    ま霜五卜局の予定で、日水人としてはじ

    めての.四北ネハール横断をhおうというので

    ~ノ

    ある。メンバーは私と松村刀、それに料叫・の

    L手なシェルハのラク。ハツェリンと三人のク

    ーリー(人犬)である。芙しいスィスの風景

    もこれにはおよふまいと思われろ素晴らしい

    則めこ光を危ぐわれわオの足もつしぢきと

    められて、舌を削¥過してしまっ九。

    れわれのコックは近くのチャープル村で什入

    れ九二ワトリを:匹しめて、一[,誘な口ースト

    チキン予作るのにてんて一気いで、いつもク

    ークーと文句ば力りいってしるわれわオの胃

    袋も、ムーΠだけは衝泓足のことであろう

    附近の住民は賀で、衣類は黒く、肌の色

    はさらに黒い。劃洛には牛糞かたくさん散ら

    ばり、煮吊に多くのハエが北かり、その不潔

    \ノ

    なことはララ湖の美し、さとあまりにも対照的

    であっえ。この湖には九くきんの魚絵んで

    いるとい・つことであるが、冬期は湖底にあっ

    て火鯲し、モンスーン刈に上ってくるので、

    その時捌になると判人は原始的な網で熊をと

    ララ湖からの眺め

    紅葉した山々にそろそろ新雪が舞い降bよ

    うとしている十一刃の詮、われわれはネバ

    ールで最も美しく最も火きい剥の叫に幕営し

    ヒマラヤ登山隊

    1儿i 北ネハ ル横断

    福田勝

    38

    !』▲

  • らえるのだそうである。目の^剛にこれだけ^氷

    晴らしい湖をもちながら、ここの住民は何の

    恩恵にも浴していないように見受けられ九。

    ただ、この附近に櫁むカモシカなどの動物だ

    けが水を飲みにくるくらいのものである。

    習H 訓のーこあるゴマ村のマラ十剖ω氷

    育を訪ねてみ北0 ネハールもインドもそうで

    あるが、田舎に行くと家に便所がなく、みな

    雛ぞ血る。それも家の周囲や村のはずれで

    剛を九すので、どこの村でも、その入口附近

    には多くの人難を見かける。よく気をつけて

    ないとぅつかりこれを踏んづけてしまう。私

    はゴマ村の近くであれだけ気をつけてい北の

    にとぅとぅ人燕を踏んづけてしまった。よく

    見ると周剛は人埜の内でょけて通ることもで

    きす、あきらめてその上を歩くことにした。

    バハドゥル

    ジンマール.ミン

    マラ.タク

    .

    .

    リーω一獄はすぐにわかっ九。石を積み重ねて

    竹っ左階建ての白彬殊で、この村でいち

    ばん大き趣物である。この殊の一階のべラ

    ンダに七十才位の眼錨をかけ六老人が立って

    おり、彼かこの殊の主で、マラ而の末育で

    マラ王朝の末高

    あっ北。卵焼と紅茶の掘待を受けながら、私

    はマラ家について種々のこと゛ぜ聞きだそうと

    したが、彼は多くを語ろうとしなかった。そ

    の黄ネ。ハールとチベットの一部にまでその

    支配権をおよぽしてい九一国の王も、現在で

    は、約百力村四千人の百姓を支配する土倭

    なり下ってい九。彼は.二人の妻と十二人の十

    供を"ち、老いてますます盛んなようであっ

    九。ネハール政府のお墨付きを見せると心よ

    く米とアタ(小麦粉)を準備してくれた。わ

    れわれの行く手にそびえる高い峠は、もはや

    相当号におおわれていて越すことは不可能

    であるから引返しなきい、という親切なマラ

    曾忠告愚謝しながらわれわれはムグへの

    道を急いでいっ北。道すがら冬を低地で過す

    ために下ってくるチベット人の幾組かとすれ

    違っえ。ムグカルナリ川の流域には、チベッ

    トから逃げてきえ多くの避難民奪営してお

    り、かれらは今もつてダライラマを信仰し、

    中共の統治下に住めない人々であろ。いつの

    日かダライラマがふ九たびチベットに州るで

    あろうこと市信じ、その吋に共にチベットに

    知るのだと勢力れらの敵忙は愛愁力九力

    よってい九。

    はかどらないクーリーの足をせき六てなが

    ら十一月十九日の夕蓉迫る頃、ネハールとチ

    ベットの国境の町ムグに勲九。町の入口に

    はチベット特有のチ,ルテン(仏含利塔)が

    そびえ、家々にはタルチョー(経文と仏像の

    描かれ九のぽり)がたなびいている。あこが

    れていえチベットの町にとぅとぅやって来光

    のである。今まで見てきたネハール人の村落

    と様相ががらりと変り、何となく威庇的であ

    る。標高三千四百メートルのこの町は非常に

    箕、く、人々は羊の毛皮や織物、W身にまとい、

    チベッタンシユーズ(カンジェという)をは

    いてい一,。われわれは寅,先にチェックホスト

    を勘オることにし北この剛近は中日国境紛

    争の激化にともない、いよいよ重袈な拠点と

    なり、毘"」備隊としての箭も果している

    のでaる。ここの長であるインド人は非常に

    親御にわれわれをもてなしてくれ、着い北夜

    われわれを晩餐に招箱してくれ北か、その料

    埋はチリー(唐辛子)が良くきいていて非常

    に辛く、水なしには食べることができなかっ

    北。献立てはライスとチャ。ハティ条次粉を

    ツァンバとチャハティ

    39

  • ねってせんべい状に伸ばし、それを鉄板で焼

    いたもの)に羊肉のカレーそれにホテトと力

    りフラワ1の野菜煮で、この地域では最高の

    ものであった。仟民の小、添は貧しく、一局冷地

    のために農耕ができないので、羊での織物や

    チベット配の山帝、を卜の削落に迎び、食稠と

    交換する物々交換経済でその訴嘉持して

    いるである。チェック飛ストの役人の好高

    な態度に引き、かえ、住民の態度は冷九かっ

    北。生れてはじめて児る外国人に対して、そ

    の隠は排他的で、しかも町全体が、封鎖的

    であった。この町で最も敬意を表きれている

    のはラマ僧で、かれらは赤い衣服をまとい、

    チベッタンシユーズをはき、体格も良く、と

    くに眼光はするどい。貧しいこの町にあって

    ラマ僧へのお似物は鷲晶で、次から次に米、

    アタ(小務)、ツァンバ(麦こがし)祭運

    ばれてい九。

    われわれはムグからムグ川に沿ってしぱら

    く引返し、ドルポ地域のグルフ村に入り込ん

    ^。ここ^此^^^^^^^^^^^^Y^晶^^

    である。この村のラマ僧はそのほとんどが女

    帯しており、岫耕に従胴してい

    る。われわれ

    はここのラマ僧から食糧雰け吾ったチ

    ベット人のモ食はツプンパであり、これにバ

    ター茶(お茶にバターを入れて増で味付けし

    たもの)を入れて、こねながら食べるのであ

    る0 他にマッカイ(トゥモロコシ)やアタ、

    (そぱ)、コード(粟)等を使用して

    ハいる。剛食としては羊やヤク(高所に棲む牛)

    の肉とじゃがいもをギー(バター)でいため、

    カレーと増、チリー(唐辛子)等で味付けし

    て食べている。チベット人が最も大切にして

    いろものはヤク、ヤギ、羊等の家畜で、これ

    らは衣料、食用だけでなく愉送機関として最

    も大雫なものになっている。

    チベット人との問にトラプルが起b、これ以

    上進むならわれわれを殺す、といきまくのを

    なだめたり、すかしたりしてキャラバンを続

    ゛、ノ

    けたのであろ。ぽろぽろの衣服是まとい、な

    ノルらの防寒貝も持たない彼ら樺とって喬は死

    を,急味したに遂いない。

    ラングー川の苦労の末、十一月三十日無打

    にピジョルガオンへ着いた碍はわれなからほ

    つとした

    盤豐下九門メートルのこの村の侘民は冬

    刈を低地で過すのが通例らしく、約半数が成

    つているだけで、村の巾はひっそりとしてい

    た。この附近は業少ないので、ヤクの炎を

    燃料に使っている。よく乾巻たヤウの炎は

    ^ψ^巾^よく^える^、き^^^向^を^^る^

    か欠点であろ。泗好きの松村村とラクハツェ

    リンの提案で、ヤクの干肉を肴に地酒のチャ

    ンでいっぱいやることにする。一農の関係も

    あってか、小ノしの油でょくまわり、良い気分

    になってしまった。一九航八年に山れたH本

    隊("戸田隊長の*いる四北ネハール学術洲

    否隊)のことを〕兌えているのか、なつかしそ

    、つにわれわれに括しかけてくる才もいたか

    れらは地通孃に卜刀を、、、、つドげているが、抜

    ダルフ村からピジョルガオン三週間

    は悪提双のラングー川に悩まきれ、この横

    断旅行中最も危険なところであっ六。途中に

    は一軒の家もなく、わずかに猟肺の通う踏み

    ^^あるだけで、それもいたる^で寸断され、

    危険極りないものであっ九。滑りやすいぎら

    ぎらした急斜面のトラヴァース、日もくらむ

    ような高操]き岩登りにつぐ岩登りと全く埼

    命の縮ま愈いであった。伶叫千八,ロメー

    トルの峠^えで吹^ヨにあい、ガイドに.^つ北

    ピジョルガオンへの道

    40

  • いて見せてくれた中身はきびついて吏えるシ

    口物ではなかった。最近では、ただの飾り純

    なっているようである。

    ヒジョルガオンカら光ω遭は、高,艾も上、、P

    り且千一力白メートルカら四千\貞メートレの

    宵際が続くので、准あ屈っことにし九。羊は

    ル、通ハキロから十キロの荷物を運ぴ、相当悪

    し道でも少くので非常紀重宅がられている。

    十ご月一Π、われわれの羊のキャラバンは

    。ヒジ,ルガオンを後にして、△仙断中最高の

    シェー叫日指して進んでいった。高所のせい

    力患仞れ力熟しく、ともすると木み、Pちにょ

    る来姦を振り返ると、北力のチベットと

    の倒境稜線にクビカンリーヒマールがくつき

    りとそびえきらにその向、つのチベント烹小

    は薄紫色のヴェールにつっまれてい六

    'ー、

    十二月: H、雲一つな倫天無まれて、

    f

    われわれは五千三百メートルのシェーN立

    つ峠力らの眺望は索噛らしく西の々~は力

    ンジロ,ヒマールカ'共近に控え、反刷の央

    の方には遠くドーラギリヒマールがそびえて

    しる^までもぐる.「の力^余一圓を^.、こドる

    一路交明へ

    と、その下の方に紺糾Uの焚しいホクサンド

    湖か静かに冬の日ぎしを浴びていた。水面に

    は十数沙の水鳥がそれそれ思い思いに0山よ

    げに泳いでいる。ここにもま左つ索噛らし

    い楽園があったのである

    ホクサンド沙の南端にあるツ寸バ村を皷後

    にチベット人の住む村は終り、ここから南の

    力にはネ。ハールのマガ}ル欣の村落が続いて

    いる砂まじりのチャハティに小ノ々いや八4の

    さしてきたわれわれは、'介酉凶という法

    外な仙段の米を倒今

    この浩仙な^にも

    やはり^心がたくさノル^うていたのにはげっ

    そりしてしまっ九0

    マガール欣の町タラコットまでドリてくる

    と、△、まであるいてきた商地の寒さが嘘のよ

    うな料さで、汀をふきふきあるかねぱならな

    力った力と恕うと休かちぢみあがるような

    媛までの波渉を畿も強いられたり、个くネ

    ノー^^^よⅥ^一じ^^、0

    艘までもぐるラッセルにあえぎながら四千

    ^、Πメート^^^を^し一一L、ト一^」トんー、

    ノノタンにーした呼はわれわれの空媛もで

    の征極していた食洲か北られず、この凶

    H門というものは毎↓トゥモロコシの才かゆ

    佐山

    であった。ドル。ハタンは、スィス赤十靴の

    人々がチベットの避嫌民を傑製する九めに作

    つ九本一七ウッタール"の」^^な小1↑.呆こ^匂

    している。ここに籍二百五卜人のチベッ

    人が佳みそれそれ象と耕地を与えらt、ス

    イス人力ら映粲技曾指導奮父け、チ!ズな

    ども作っている。

    ウッタールーの卵沈か、b^めたドーラギリ

    ヒマールの姿は、われわれの今までの一身を

    度に吹き熊ぱしてくれるほどみことなもの

    であったここからさらに一週削のキャラバ

    ンを続けて、

    Πに横断の終符馴

    」▲

    j

    ホカラに六どりついた。そこにはアンナプル

    ナヒマールの艇姿と文吻)利解飛h機がわれ

    われ兆方勾ち受けていた。かくしてサイハルの

    、ノ

    ベースキ十ンフをでていらい歩くこと五ト、ム

    ールの゛肉よ冬つたのである

    最後に<j川ω述列に際し郁々仙1X援卜きっ

    九攸友U ;1丁こ心力、"倒七一ご"しkナ、ゾ一)

    峨估を^ることこする。

    (剛'一'人絲京・サイJ、

    ネU)

    Π川 Uずしιロキロメートル一~およぶ内ヒ

    弔、

    ノ、

    41

    .ノ〕、