12
宗教法人  東洋最高道徳学会 296号 宗教法人  東洋最高道徳学会 令和 3年 7月1日発行 『夏越の大祓い』

294号294号 令和3年3月1日発行 宗教法人 東洋最高道徳学会 『水輪壇』 人びとの仕合わせのために・・・・・・天真会教団 宗教法人 東洋最高道徳学会

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Page 1: 294号294号 令和3年3月1日発行 宗教法人 東洋最高道徳学会 『水輪壇』 人びとの仕合わせのために・・・・・・天真会教団 宗教法人 東洋最高道徳学会

宗教法人 東洋最高道徳学会296号

宗教法人 東洋最高道徳学会令和3年7月1日発行

『夏越の大祓い』

人びとの仕合わせのために・・・・・・天真会教団

Page 2: 294号294号 令和3年3月1日発行 宗教法人 東洋最高道徳学会 『水輪壇』 人びとの仕合わせのために・・・・・・天真会教団 宗教法人 東洋最高道徳学会

宗教法人 東洋最高道徳学会医療法人 天  真  会

名誉総裁

伏見 博明 殿下今月のことば

 信 仰

前会長 故

長岡

■ 南高井病院■ 南高井デイサービスセンター■ 小規模多機能ホームつよし ■ サービス付き高齢者向け住宅みなみの杜■ みなみの杜デイサービスセンター

■ 地域連携室■ 南高井ホームヘルパーステーション

■ 南高井病院介護医療院■ 南高井訪問看護ステーション

■ 南高井居宅介護支援事業所■ ショートステイみなみ

〒791-1112 愛媛県松山市南高井町333 TEL(089)976‐7777

 幸こ

うふく福とは、きわめてささやかなものであります。

神かみ

を信し

じる人ひ

は、そのささやかな幸こ

うふく福を求も

めて努ど

りょく力します。

 その努ど

りょく力を宗し

ゅうきょうてき

教的には信し

んこう仰といいます、信し

んこう仰をもつ人ひ

は、

その信し

んこう仰の力ち

から

で人に

んげん間を成せ

いちょう長の方ほ

うこう向に導み

ちび

いて行ゆ

きます。

 そして、その人ひ

の霊れ

いかく格は目め

だたずに、だんだんと昂た

かま

って

神かみ

のみこころに近ち

ずくとともに、神か

を信し

ずることにより

つねに幸こ

うふく福であります。

天真296号 目次今月のことば『信仰』前会長 故 長岡 悟

題字:前会長 故 長岡 悟/表紙:『夏越の大祓い』

芳闕嵐史 ⑤

神木考(一)

山びこの賊 第 24 回 

田窪さんのぶら〜り山歩き

情報伝言板 ・天真会 夏越の大祓いについて

天真俳壇

01

04

06

08

09

10

前会長 故 長岡 悟

前会長 故 長岡 悟

加藤 恵一

Page 3: 294号294号 令和3年3月1日発行 宗教法人 東洋最高道徳学会 『水輪壇』 人びとの仕合わせのために・・・・・・天真会教団 宗教法人 東洋最高道徳学会

 

二条じ

ょう

の道み

ちひらきょう

平卿には再さ

いにん任して左さ

だいじん

大臣に直な

し、菅か

んし氏の長ち

ょうじゃ者になされ

て諸しょじ事を掌つ

かど

らしむ、これによりて関か

んぱく白職し

ょく

は置お

かれざるなり。

 

これ、主しゅじょう上みずから聴き

し召め

すべき故ゆ

なるべし、久く

我がながみちきょう

長通卿右う

だいじん

大臣

に再さいにん任し、洞と

ういんきんかたきょう

院公賢卿を内な

いだいじん

大臣に再さ

いにん任せられてより、元げ

んこう弘の乱ら

んに流な

されたる輩や

から

は皆み

放ほう

免めんせられて京き

ょうと都に帰か

さる。

 

足あしかがたかうじ

利髙氏の勲く

んこう功を賞し

ょう

して、鎮ち

んじゅふしょうぐん

守府将軍に補ほ

し治じ

ぶ部卿き

ょう

に任に

じ、従じ

四しいのげ

位下に敍じ

さる、同ど

うしゃていただよし

舎弟直義を左さ

まのかみ

馬頭に任に

ぜられたり。

 

さて、髙たかうじ氏

は源み

なもとのよしいえ

義家十代だ

なるが、足あ

しかがさまのかみよしうじ

利左馬頭義氏より六代だ

いの孫ま

にして、清せ

いわげんじ

和源氏の裔え

なれども累る

いせい世

北ほう

条じょうし氏

と内な

いえん縁

を結む

すびて、相あ

いした親

き故ゆえ

所しょりょう領も多お

かりき家い

なり。

 

また、新にったこたろうよしさだ

田小太郎義貞も同お

じ源み

なもとのよしいえ

義家十代だ

なるが、

新にったおいのすけよししげ

田大炊介義重よりは八代だ

いの孫ま

なりしが北ほ

うじょうし

条氏に 

られけるゆえ、

其そ

の家い

微び

び々

となりていしが、今こ

んど度

官かん

軍ぐん

を起お

して大た

いこう功

を立た

てたるによ

り再ふたた

び源げ

んけ家

を興お

しぬ。

 

また、楠くすのきたもんひょうえのじょうまさしげ

多聞兵衛尉正成は井い

で出の左さ

だいじん

大臣諸も

ろえこう

兄公の裔え

にして、

橘たちばなし氏

を名な

の乗り河か

わち内

の国く

金こんごうさん

剛山の麓ふ

もと

に住す

みて、世よ

を微び

び々

として襲し

ゅうきょ居

たりしが、帝ていかさぎ

笠置に臨り

んこう幸ましまして、御お

んゆめ夢を見み

給たまいしにより占う

らな

い給た

うて、召め

しおかれ味み

かた方に参ま

り大た

いこう功を立た

たるにより、天て

んか下に美び

めい名を轟と

どろ

かせたり。

 

また、河こうのまたたろうみちつな

野又太郎通綱は其そ

の族や

から

、次じろうみちたね

郎通胤その子こ

彦ひこくろうみちます

九郎通増、

並なら

びに彌や

さぶろうみちこと

三郎通言等ら

と同お

じ、神か

むにぎはやひ

饒速日の命み

こと

の裔え

にして、孝こ

うれいてんのう

霊天皇

の皇み

こ女、倭や

まととももそひめ

迹々百襲媛の御み

こ子、大お

おいちのみこと

小市命の王み

こ子、(小千)乎お

ち知の

国くにのみややっこ造より連れ

んめん綿として、伊い

よ予の国く

に住じ

ゅう

し、河こ

うのいよのかみみちきよ

野伊予守通清六

代だい

の孫ま

なる、得と

くのうやたろういよにゅうどうどうや

能弥太郎伊予入道道治の嫡ち

ゃくなん男なりしが、承じ

ょうきゅ久

の乱らん

後ご

は衰す

いび微して河こ

うの野の正せ

いとう統なるにもかかわらず、末ま

つけ家なる

九くろうざえもんじょうつしまのかみみちもり

郎左衛門尉対馬守通盛に超こ

されしを、遺い

かん憾慷こ

うがい慨の思お

もい年ね

んらい来あり

しより今こんど度の勢い

きお

いに乗の

り、官か

んぐん軍を起お

して大た

いこう巧を立た

て、多た

ねん年の蟄ち

を一

開かい

して、英え

いめい名を世よ

に普あ

まね

く轟と

どろ

かしたるなり。

 

得とくのうやたろうみちむら

能弥太郎通村は、伊い

よにゅうどう

予入道と号ご

し、道ど

うや治と法ほ

うめい名せり、嫡ち

ゃくし子

又またたろうみちつな

太郎通綱は備び

んごのかみ

後守に任に

じ、従じ

ゅう

五位い

じょう上に叙じ

ょせらる。

 

伊いよのくに

予国を総そ

うりょう領して河こ

うのし

野氏を名な

の乗り、周す

ほう防、安あ

き芸、備び

んご後、備び

ぜん前、

讃さぬき岐、六ヶ国こ

くの諸し

ょとう島悉

ことごと

く押お

うりょう領しければ、各か

くこう港 

別べっせん銭、船せ

んぱくぎょぎょう

泊漁業に

到いたるまで、進し

んたい退の裁さ

いだん断厳げ

んじゅう重なり。

 

当とうけるいだいふなつかさぶぎょう

家累代船司奉行の綸り

んし旨に任ま

かせて、勤き

んおう王する古こ

れい例に復ふ

したり。

 

入にゅうどうどうや

道道治正し

ょうごい

五位に叙じ

さる、弥や

さぶろうみちこと

三郎通言を左さ

こんしょうげん

近将監正し

ょうろくい

六位に、

次じろうみちたね

郎通胤、彦ひ

こくろうみちます

九郎通増父ふ

し子を従じ

ゅうごいのげ

五位下備び

中ちゅうのかみ守に任に

ぜられる。

 

これ、ひとえに当とうけ家の面め

んぼく目なり、これに続つ

き諸し

ょこく国の武ぶ

け家各お

のおの々

勲くんこう功

により位いかい階を賜た

わる者も

多おお

し、

 

先せんてい帝重じ

ゅう 

の後の

は、正し

ょうきょう慶の年ね

んごう号は廃は

いてい帝の改か

いげん元なればとて、これを

禁きんき棄せられ元も

との如ご

く元げ

んこう弘の年ね

んごう号に復ふ

さる、賞し

ょうばつ罰法ほ

うれい令悉

ことごと

く公く

げ家一い

っぺん偏

の政せいに出で

る。

 

元げんこう弘三癸み

ずのととり酉六月が

、護もりながおおじ

良皇子には征せ

いいたいしょうぐん

夷大将軍に任に

ぜられ、これ

大だいとうのみや

塔宮の御お

んことなり。

 

この月つきの十七日に

は志し

き貴をお立た

ちて八や

はた幡に社し

ゃさん参、七日か

御ごとうりゅう

逗留にな

りて同どう

廿三日に

御ごにゅうらく

入洛、行ぎ

ょうれつ列

の行ぎ

ょうしょう粧

、天てん

下か

の壮そ

うかん観

を尽つ

しぬ。

 一番ばんに赤あ

かまつにゅうどうえんしん

松入道円心、二番ば

んに殿と

のほういんりゅうちゅう

法印良忠、三番ば

んに四し

じょうしょうしょうたかすけきょう

条少将隆資卿、

四番ばん

に中ち

ゅういんちゅうじょうさだひらきょう

院中将定平卿、ついで公く

家げ

武ぶ

け家の面め

んめん々

には、湯ゆ

あさ浅

、山やまもと本

伊いとう東

、加かとう藤

を始は

じめ、畿き

ない内

近きんこく国

の勢せ

廿萬ま

七千余よ

き騎なり、それにより後の

に、妙み

ょうほういんみや

法院宮には四し

こく国

の勢せ

を召め

し倶ぐ

せられ、河こ

うの野

、土ど

い居、羽は

とこ床

、香こうさい西

前会長 故 長岡 悟

05

01  天 真01  天 真

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高たかまつ松の面め

んめん々

にて詫た

くま間を出い

で立た

ち給た

うて上じ

ょうらく洛あり。

 

さきに、主しゅじょう上

笠かさぎ置

へ落お

させ給た

まいしとき、六ろ

くはら

波羅の處し

ょぶん分

にて解か

いかん官

停ていにん任せられし、忠ち

ゅうきん勤の人ひ

とびと々

の死し

ざい罪或あ

るい

は流る

けい刑に逢あ

いし其そ

の子し

そん孫等ら

を、

此ここかしこ

所彼所より召め

し出い

され、各お

のおの々

の者も

のへ相そ

うとう当の御ご

ふじょ

扶助を賜た

まわ

るにつき、

各おのおの々

ら一時じ

に蟄ち

んかい懐を開ひ

けり。

 

ここに足あしかがたかうじ

利髙氏が人じ

んぼう望あるにより、ついには朝ち

ょうてき敵となるべき勢い

きお

にあることを、宮きゅうちゅう中及お

び征せ

いいたいしょうぐん

夷大将軍の宮み

にても知し

り給た

えば、急き

ゅう

殺さつがい害せんと謀は

り奏そ

うじょう上するに、主し

ゅじょう上には御ご

きょよう

許容せられざれば、高た

かうじ氏驚お

どろ

き惧お

それ

れて、護も

りながおおじ

良皇子の継は

は母、准じ

ゅんこう后藤ふ

じはら原の康こ

うし子に賂

まいない

して此こ

の難な

を避さ

け免ま

ぬが

る。

 

同どう

七月が

、千ちはやじょう

劔破城へさきに攻せ

め寄よ

せたる大た

いしょうすうはい

将数輩降こ

うさん参

面めんめん々

その無ぶ

れい礼

を責せ

め正た

し、皆み

誅ちゅう

に伏ふ

せらる、阿あ

そだんじょうしょうひつときはる

曽弾正少弼時春、

大だいぶつうまのすけさだなお

佛右馬助貞直、江え

まとうとみのかみ

馬遠江守、佐さ

すけあきのかみ

介安芸守を始は

めとして拾じ

ゅうさんにん

参人、

外ほか

に長な

がさきしろうざえ

崎四郎左衛門も

んのじょう尉

並なら

びに二に

かいどうではにゅうどうどうおん

階堂出羽入道道蘊以い

か下関か

んとう東

勢ぜい

侍さむらい

、五捨じ

ゅうよにん

余人皆み

般はんにゃじ

若寺に入い

りて、入に

ゅうどうしゅっけ

道出家の身み

となり逃の

れ去さ

らん

となしたりけるを、定さだひらあそん

平朝臣これを請う

け取と

りて高た

かて手

小こ

て手にいまし

めて、皆みな

京きょうと都へ送お

られ同ど

七月が

九日か

に到い

り、十五人に

は阿あ

みだがみね

弥陀ヶ峰にて

誅ちゅうばつ罰

せらる。

 

同どう

八月が

、足あしかがたかうじ

利高氏には昇し

ょうきゅうじゅうさんみ

級従三位に叙じ

し武む

さしのかみ

蔵守に任に

ず、帝て

御おんいみな諱

の一いちじ字

尊たか

の字じ

を賜た

まわ

る、高た

かうじ氏

を改あ

らた

めて尊た

氏うじ

と書し

す。

 

主しゅじょう上

には、すでに公く

げ家一偏ぺ

んの政せ

を施ほ

どこ

さる、准じ

ゅんこうこう

后康子し

ら内な

いへい竈

の申も

により、賞しょうばつ罰

の正た

しからざるより天て

下か

却かえって

武ぶ

け家を慕し

たって、公く

げ家の行お

こな

いとどかざるを嫌き

う。

 

この事ことつとに中ち

ゅうなごん

納言藤ふ

じはらふじふさきょう

原藤房卿には、より諫い

め奉

たてまつ

るも御ご

きょよう

許容な

きままに、聖せいうん運の開ひ

けざりしと悲ひ

たん歎に沈し

ずみしとききぬ。

 

同どう

十月が

、北きたばたけさんぎあきいえきょう

畠参議顕家卿には陸む

つ奥の国こ

くし司に任に

じて下げ

こう向されて

出で

は羽、陸む

つ奥、両り

ょうこく国の人ひ

とびと々

皆みな

服ふくじゅう従す。

 

元げんこう弘四甲き

のえいぬ戌年正し

ょうがつ月、足あ

しかがたかうじ

利尊氏正し

ょうさんみ

三位に叙じ

せらる、同ど

十二日に

大おおだいりぞうえい

内裏造営を始は

めらる、同ど

二月が

、源みなもとながみちきょう

長通卿右う

だうじん

大臣を辞じ

さる、

近このえつねただきょう

衛経忠卿右う

ふ府に再さ

いにん任

せられり。

 

この春はる

、足あしかがたかうじ

利尊氏に武む

さし蔵

、常ひたち陸

、下しもふさ総

を賜た

まわ

る、新に

田たよしさだ

義貞に上こ

うずけ野

播はりま磨を賜た

わる、足あ

しかがなおよし

利直義に遠と

うとうみ江を賜た

まわ

る、新に

田たよしさだ

義貞の舎し

ゃてい弟脇わ

きや屋義よ

しすけ助

に駿するが河を賜た

わる、足あ

しかが利直な

おあき顕に越え

ちご後を賜た

わる、楠く

すのきまさしげ

正成には攝せ

っつ津、河か

わち内

を賜たま

わる、名な

わ和長な

がとし年に因い

なば幡、伯ほ

うき耆を賜た

わる、河こ

うのみちむら

野通村、同ど

通みちつな綱に

伊い

よ予を賜た

わる、土ど

い居通み

ちたね胤、同ど

うみちます

通増に伊い

よ予、讃さ

岐き

、備びちゅう中の群ぐ

んとう島を賜た

る、得とくのうみちこと

能通言に周す

ほう防、安あ

き芸、備び

んご後の群ぐ

んとう島を賜た

わる、菊き

くちたけしげ

池武重、同ど

武たけみつ光

に肥ひ

ご後を賜た

わる。

 

この外ほか

、公く

家武家の輩や

から

に二ヶ国ご

、或あるい

は三ヶ国ご

を賜た

わりけるが、さし

もの軍ぐんちゅう忠ありし赤あ

かまつえんしんにゅうどう

松円心入道には播ば

んしゅう州佐さ

よ用の一庄し

ょう

ばかり賜た

わりて、

他ほか

に恩お

んしょう賞

を賜た

わりわらざれば、ひとり朝ち

ょうか家

を怨う

らみ奉

たてまつ

りしとなり。

 

同どう

年五月が

三日か

、護もりながしんのう

良親王には讒ざ

んしゃ者

のため関か

んとう東

へ流な

さる、これ

足あしかがたかうじ

利尊氏、同ど

直ただよし義

らの謀む

ほん反

によりてするところなり。

 

直ただよし義

謀はか

りて此こ

の君き

を預あ

りて、鎌か

まくらにかいどう

倉二階堂の獄ご

くちゅう中

へ押お

し込こ

めたり、

これ継は

は母准じ

ゅんこう后の尊た

かうじ氏兄き

ょうだい弟に頼た

まれ讒ざ

言げん

される故ゆ

えにかくなりゆくこ

となり。

 

護もりなが良の近き

んしん臣、法ほ

ういんりょうちゅう

印良忠ら殺こ

さるるは、實じ

に残ざ

んこく酷なることな

り、また主しゅじょう上

の第だ

八の宮み

、成しげながしんのう

良親王を征せ

いい夷

大たいしょうぐん

将軍とならしめて、

左さまのかみただよし

馬頭直義を執し

っけん権

にして、相さ

模みのかみ守

に任に

ぜざれて鎌か

まくら倉

に居お

らしむ。

 

また、この春はる

筑つくし紫

には、規 

掃部介高政、糸い

とだ田

左さ

近こんたいふしょうげんさだよし

大夫将監貞義

という者もの

、平へいし氏

の族や

から

なるが前ぜ

んじつ日

亡ほろ

びたる余よ

るい類

を集あ

つめて、国く

にじゅう中

を乱み

んと企くわだ

ておれり。

 

また河こうち内の国く

の賊ぞ

くとう党には、北ほ

うじょうけんぽうそうじょう

条憲法僧正という者も

を取と

り立た

飯いいもりやま

盛山に城じ

ょうかく郭を構か

えて合か

っせん戦の用よ

うい意をなす。

 

また伊い

よのくに

予国にては赤あ

かばしするがのかみ

橋駿河守が子し

そく息、駿す

るがたろうしげ

河太郎重時と

という者も

立たてえぼし

鳥帽子が峯み

ねに城し

を構か

え四し

へん辺

の庄し

ょうえん園

を掠か

すめり。

 

これらの凶きょうと徒

は法ほ

うい威

を武ぶ

りょく力

に加く

えて退た

いじ治

せずんば、早さ

っそく速

静せいひつ謐

天 真 02

Page 5: 294号294号 令和3年3月1日発行 宗教法人 東洋最高道徳学会 『水輪壇』 人びとの仕合わせのために・・・・・・天真会教団 宗教法人 東洋最高道徳学会

り難が

しとして俄に

かに紫し

しんでん

震殿の皇こ

うきょ居に高た

き壇だ

を構か

え、竹た

けうちじげんそうじょう

内慈厳僧正

を召め

され天て

んかあんちん

下安鎮の法ほ

をぞ行お

こな

われける。

七 

中なかせんだいほうき

先代蜂起の乱ら

んの事こ

 

これにつき、甲か

っちゅう冑の武ぶ

し士四し

もん門を堅か

く固か

む、その役や

目め

には

結ゆうきひちろうざえもんじょうちかみつ

城七朗左衛門尉親光、楠く

すのきかわちのかみまさしげ

河内守正成、塩え

んや冶判ほ

うがんたかさだ

官高貞、

名なわほうきのかみながとし

和伯耆守長年なり。

 

この法ほう

の高こ

うけん験にや河か

わちいいもり

内飯盛の城し

に楯た

てこも篭る所と

ころ

の北ほ

うじょう条憲け

んぽう法らは、

楠くすのきまさしげ

正成に攻せ

め落お

さしむる綸り

んじ旨を下く

さる。

 

伊いよのくに

予国立た

てえぼし

帽子の城し

に楯た

てこも篭る赤あ

かはししげとき

橋重時らは、河こ

うのい

野伊予よ

にゅうどう

入道、

同どうびんごのかみ

備後守、同ど

うさこんしょうげん

左近将監、土ど

いびちゅうのかみ

居備中守らに攻せ

め落お

さしむる綸り

んじ旨を賜た

わる。

 

筑つくし紫

の凶き

ょうと徒

らは、菊き

くちひごのかみ

池肥後守、大お

おともしょうに

友少貳、松ま

つうら浦

らに綸り

んじ旨

を賜た

わる。

 

これによりて所しょしょ々

の合か

っせん戦

激はげ

しく、遂つ

に誅ち

ゅうばつ罸

終おわ

りて朝ち

ょうてき敵

の首し

るし級

悉ことごと

く京き

ょうと都へ送お

り、獄ご

くもん門にぞ懸か

られたり。

 

これによりて、東とうごくさいごく

国西国已す

に静せ

いひつ謐となりて、筑つ

くし紫よりは菊き

くち池、

大おおとも友

、少しょうに貳

、松まつうら浦

の者も

ども大お

おふね船

七百余よ

艘そう

にて上じ

ょうらく洛

すれば、この外ほ

かの

国くにぐに々

の武ぶ

し士は一ひ

とり人

も残の

らず京き

ょうと都

に上の

られける。

 

新にったさまのすけ

田左馬助、同ど

うひょうごのすけ

兵庫助にも七千余よ

き騎にて上じ

ょうらく洛

しければ、王お

うじょう城

富ふ

き貴は日ひ

び々

に百ひ

ゃくばい倍

して大お

おいに賑に

わうなり。

 

この如ごと

く天て

んかいっとう

下一統に帰き

すといえども、今い

まに朝ち

ょうてき敵

の余よ

とうかんとうかんさい

党関東関西に

有あ

りて、その中な

かにも北ほ

うじょうさがみじろうとき

条相模次郎時行ゆ

なる者も

、信しなの濃の国く

により起お

りて、

鎌かまくら倉を攻せ

めんとするの風ふ

うぶん聞より凶き

ょうと徒誅ち

ゅうばつ罸のため宣せ

んじ旨ありたり、こ

れを中なかせんだいほうき

先代蜂起の乱ら

と號ご

しぬ。

 

同どう

七月が

、紫ししんでん

震殿の上う

に怪か

いちょう鳥

鳴な

き渡わ

る、隠お

きひろあり

岐廣有これを射い

落おと

したり、この前ま

に伊い

よのくにいしづちやま

予国石鉄山に生う

れたる名め

いよう鷹

を得え

て、

守しゅごおおだてさまのすけうじあきら

護大舘左馬介氏明の宮き

ゅうちゅう中へ奉

たてまつ

りしもの、この怪か

いちょう鳥の羽は

ねの下し

に喰く

い入い

りしが、ついに射い

落おと

したるとき、この名め

いよう鷹

も死し

したるなり。

 

この月つき

、元げんこう弘

の年ね

んごう号

を改あ

らた

めて、建け

んむがんねん

武元年と號ご

す、同ど

二月が

出いずも雲

国くに

より龍り

ょうま馬

を献

たてまつ

り進し

んらん覧

す、同ど

三月が

中ちゅうな納

言ごん

藤ふじふさきょう

房卿遁と

んせい世

し給た

う時と

岩がんぞうぼう

蔵坊へ書か

き置お

ける一首し

ゅに

 

住すみ

捨すてる山や

を浮う

きよ世の人ひ

問と

わば

    

嵐あらし

や庭に

わの松ま

つに答こ

たへむ

 

げにや四よ

じ十齢に未い

だ足た

らぬ人ひ

との妻さ

いし子を捨す

て、父ふ

ぼ母に離は

れし身み

なり給たま

うこそ御お

んいたわしけれ。

 

西さいおんじだいなごんきんむね

園寺大納言公宗は、かの北ほ

うじょうたかとき

条高時が弟

おとうと

、左さこんたい

近大夫ふ

けいせい

恵性謀む

ほん叛を

企くわだ

て、恵け

いせい性を還げ

んぞく俗ならしめ北ほ

うじょうときおき

条時興と称し

ょう

しぬ、

 

また、高たかとき時が子こ

、相さがみじろうときゆき

模次郎時行は関か

んとう東に起お

り、その一族ぞ

名なごしたろうときかね

越太郎時兼は北ほ

っこく国に起お

りしに、陰い

んぼう謀顕あ

らわ

れて西さ

いおんじきんむね

園寺公宗に誅ち

ゅう

せら

れたり。

 

同どう

七月が

十六日に

の暁

あかつき

、北ほうじょうし

条氏の乱ら

んに驚お

どろ

き、足あ

しかがただよし

利直義には成し

げながしんのう

良親王

を倶ぐ

し奉

たてまつ

りて、鎌か

まくら倉

を落お

ち出い

でて上じ

ょうらく洛

をせむとする時と

、渕ふちべ辺

伊い

が賀を

遣つか

わして、護も

りながしんのう

良親王を土つ

ちの獄ご

くちゅう中に弑し

し奉

たてまつ

りたるは残ざ

んこく酷なり。

 

伊い

が賀剣つ

るぎ

を持も

って親し

んのう王の口く

より差さ

し貫つ

らぬ

かんとなせしとき、御み

は歯にて

刃やいば

の先さ

をかみ折お

り給た

まいし侭ま

まにて首く

を打う

たれしが、其そ

の首し

るし級

は辺あ

りの

薮やぶなか中

に投な

げ捨す

てたるこそ御お

んいたわしけれ。

 

この頃ころ

、足あしかがたかうじ

利尊氏には勅ち

ょくめい命

を蒙こ

うむ

り、相さ

がみじろうときゆき

模次郎時行を追つ

いとう討

の為た

東とうごく国

へ趣お

もむ

かんとするに臨の

み、頓に

わか

に東と

八箇か

国ごく

の管か

んりょう領

たらんことを望の

願ねが

いて、許ゆ

しを受う

けしより尊た

かうじ氏

京きょうと都

を発は

し鎌か

まくら倉

へ往ゆ

く途と

ちゅう中

、遠とうとみ江

にて直ただよし義が遁の

れ上じ

ょうらく洛する路ろ

じ次に会お

うて事こ

を謀は

り、同ど

うどう道して鎌か

まくら倉へ

発はっこう向する處と

ころ

に同ど

八月が

、遠とうとみ江、駿す

るが河、伊い

ず豆、相さ

がみ模の間あ

いだ

にて拾じ

ゅうよど

余度合か

っせん戦

の末すえ

、北ほうじょうときゆき

条時行敗は

いそう走して行ゆ

方え

を知し

らずなりたり。

03  天 真

Page 6: 294号294号 令和3年3月1日発行 宗教法人 東洋最高道徳学会 『水輪壇』 人びとの仕合わせのために・・・・・・天真会教団 宗教法人 東洋最高道徳学会

 

古こらいしんぼく

来神木として、カシ、オガタマ、

サカキ、マサキ、ツルマサキ、ツバキ、

タブノキなど数か

ずおお多くあるが、桂かつら

は神かみがみ々

が降こ

うりん臨し給たま

う霊れいぼく木として、古こ

事じ

き記や

日にほんしょき

本書紀にも何なんれい例かあり、いずれも

降こうしん神

の憑よりしろ代

としていることに、注ちゅうもく目

して考こ

うさつ察して見み

たい。

 

平へいぼんしゃ

凡社の世せかい界百ひゃっか科大だいじてん

事典によると、

「桂か

つら

は山さんち地

に自じせい生

する落らくよう葉

大だい

高こう

木ぼく

で、

葉は

の裏うら

が粉ふんはくしょく

白色を呈てい

して、細ほそ

長なが

い枝えだ

の両りょうがわ側に葉は

が美うつく

しく並なら

び、幹みき

は一いち

米メートル

以いじょう上に達たっ

し、木き

の皮かわ

は縦たて

に裂さ

ける。

 

葉は

は細ほそなが長い枝え

で対たいせい生し、広こうらんけい

卵形、

長なが

さ二〜二.五糎せんち

で、ヘリには細こま

かい

波なみがた形のぎざぎざがある。

 

雌しゆう雄別べつかぶ株で、四し

〜五ご

月がつ

ころ葉は

に先さき

だって葉ようえき腋

に小ちい

さい花はな

が咲さ

き、雄おばな花

には多た

すう数

の雄お

しべがあり、葯やく

は線せんけい形

で紅べ

にいろ色

、雌めばな花

には淡たんこうしょく

紅色の糸いとじょう状

の桂ちゅう

頭とう

がある。

 

実み

は三さん

〜五ご

個こ

、円えんちゅうけい

柱形で長なが

さ十じゅうご五

粍みり

ばかり、日にほん本の特とくさん産で、材ざい

は建けんちく築、

楽がっき器

、器き

ぐ具、製せいずばん

図版などとし、葉は

抹まっこう香

の原げんりょう料

となる。」

 

と、記し

されている。この桂かつら

が我わがくに国

最さいこ古

の文ぶんけん献

である、古こ

き事記に最さいしょ初

見える記き

じ事は、古こ

き事記上かみつ

巻まき

の「葦あしはら原

中なか

つ国くに

の平へいてい定

・天あまのわか若

日ひ

こ子」の条くだり

に、

 「故か

爾ここに

鳴なきめ女

、自てんより天

降くだり

到いたりて

、居あめ

天の

若わか

日ひ

子こが

之もん

門なる

湯ゆつ

津かつら

楓の

上うえに

而いて

、言まつぶ

委さに

曲あま

如つかみ

天の

神おおみ

之こと

詔ごと

命いいき

。」

 

とあり、雉き

じ子の鳴なきめ女

が、天あめの

若わか

日ひ

こ子

の門も

の前まえ

にある、神しんせい聖な桂かつら

の枝えだ

にと

まり、天あ

津つ

神かみ

の詔みことのり

をくわしく申もう

し伝つた

えた、ということが書か

かれている。

 

第だいに二には「日ひ

子穂穂出手の命みこと

、わ

たつみのいろこの宮み

」の条くだり

に、

 「故か

、隨おしえ

教しまに

少まにす

行こしい

、でまし

備けるに

如つぶ

其さにそ

言のこと

、のごとくなり

登き、す

其なわち

香そのか

木つらに

以のぼり

坐まします

。」と、あり、火ほ

お遠理りの

命みこと

塩しおつち椎

神のかみ

の教おし

えしままに行ゆ

くと、その

言ことば葉

通どお

りであったので、わだつみの

いろこの宮み

の門もん

の前まえ

にある、泉いずみ

のほ

とりの神し

んせい聖清せいじょう浄な桂かつら

の木に登のぼ

り坐ましま

た、これもやはり、降こ

うしん神の依よりしろ代とし

ての神し

んぼく木として記しる

されている。

 

日にほんしょき

本書紀にも同おな

じ意い

み味をもって、

六ろくれい例にわたって記しる

されているが、い

すれも神か

の降こうりん臨

する神しんせい聖

な霊れいぼく木

とし

ている。

 

ここに、名な

古屋市在ざいじゅう住

の植しょくぶつがくしゃ

物学者、

杉すぎはら原

信しんじ司

氏し

の調ちょうさ査

による現げんざい在

全ぜんこく国

ある桂か

つら

の名めいぼく木

と、その木き

にまつわる

伝でんしょう承や由ゆらい来を列れっき記して見み

た。

国指定天然記念物

海かいちょう潮

の桂かつら

株立周囲一九米

高さ三十米の樹令千年余

島根県大原郡大東町

日ひばら原

神じんじゃ社

所有

国指定天然記念物

竹たけざき崎

の桂かつら

株立周囲十五米

高さ三十米 

樹令千年

島根県横田町竹崎

竹たけざき崎神じんじゃ社所有

 

この竹た

けざき崎の桂かつら

は、古ふる

くから神しんぼく木と

され、素す

さのおのみこと

戔嗚命が八やまたのおろち

俣大蛇を退たいじ治し

て、天あ

めのむらくものつるぎ

叢雲剣を得え

た地ち

と伝つた

えられて

いる。

市指定天然記念物

鉢はちぶせやま

伏山の桂かつら

株立周囲七米七十糎

樹令三百年

敦賀市阿曽原鮒ヶ谷

敦つるが賀市し

所有

 

この桂か

つら

も昔むかし

から神しんぼく木とされ、地じもと元

では「お桂か

つら

さん」と呼よ

び、崇すうけい敬され

ている。

県指定天然記念物

白はくさん山

神じんじゃ社

の桂かつら

株立周囲一三米

七〇糎 

樹令千年

福井県大野市下打波

白はくさん山

神じんじゃ社

所有

 

標ひょうちゅう柱に「泰たいちょう澄大だいし師が白はくさん山巡じゅんしゃく錫の

折おり

、食しょくじ事

のあと、この地ち

にさした箸はし

が生せい

育いく

したのが、この桂かつら

と伝つた

えられ

る。現げ

んざい在

この神じんじゃ社

の神しんぼく木

として保ほ

ご護

されている。」と、

 

泰たいちょう澄

大だいし師

とは、白はくさん山

の開かいそ祖

で養ようろう老

年ねんかん間

の人ひと

。ここで注ちゅうもく目

すべきは、桂かつら

の木き

のまわりに五ご

・六ろく

トンの巨きょがん岩

六個こ

ばかりころがっているところで

ある。地じ

もと元の人ひと

に聞き

くと山やま

から落お

神し ん

木ぼ く

考こ う

(一)

前会長 故 長岡 悟= 降 神 の 霊 木 か つ ら の 木 =

天 真 04天 真 04

Page 7: 294号294号 令和3年3月1日発行 宗教法人 東洋最高道徳学会 『水輪壇』 人びとの仕合わせのために・・・・・・天真会教団 宗教法人 東洋最高道徳学会

『わだつみのいろこの宮』 青木 繁

てきたのだろうという。桂かつら

の根ねもと本

には湧わ

き水みず

で小ちい

さい池いけ

ができている。

出いずも雲

の「海かいちょう潮

の桂かつら

」の附ふきん近

には「鏡かがみ

の岩いわ

」だけでなく、多おお

くの岩がんせき石

が積つ

み重かさ

なっている。清しみず水が湧わ

く池いけ

を井せい

泉せん

にみたてれば、同おな

じような祭さいしじょう

祀場

があったことが推す

いそく測

される。桂かつら

と井せい

泉せん

と岩がんせき石の組くみあ合わせは、古こ

き事記の神しん

話わ

の世せかい界である。

 

(この記き

じ事は「古こだい代から中ちゅうせい世」杉すぎはら原

信しんじ司著ちょ

より抜ばっすい粋)

県指定天然記念物

仙せんにんだに

人谷の桂かつら

株立周囲十八米

高さ三十米 

樹令千年

敦賀市瀨河内 

敦つるが賀市し

所有

 

この桂か

つら

の根ねもと本に祠ほこら

があり、神しんぼく木と

して尊そ

んすう崇されている。桂かつら

の近ちか

くには

大おお

きな岩いわ

があり、これを的まといわ岩

といい、

昔むかし

天てんぐ狗

がこの岩いわ

の上うえ

から谷たに

の向むこ

うの

山やま

を的まと

にして、弓ゆみ

を引ひ

いたといわゆ

る伝で

んせつ説

があるという。

蛍ほたる

の宮みや

の大おお

桂かつら

株立周囲十一米

福井県丹生郡宮崎村

 

蛍ほたる

の宮みや

所有

 

この桂か

つら

も神しんぼく木で、社しゃでん殿も拜はいでん殿もな

く、石い

しどうろう

灯籠が両りょうがわ側に立た

っていて、桂かつら

の木き

がご神しんたい体で、しめ縄なわ

が張は

っている。

村指定天然記念物

今いまやまだ

山田の桂かつら

株立周囲十五米

高さ三〇米 

樹令千年

富山県婦負郡山田村今

山田 

牛うしだけ獄神じんじゃ社所有

 

以いじょう上が、杉すぎはら原氏し

の調ちょうさ査にかかる桂かつら

の木き

の名めいぼく木

があるが、東とうほく北

、北ほっかいどう

海道

にも国く

、県けん

指してい定の天てんねんきねんぶつ

然記念物の桂かつら

巨きょぼく木があるが、大おお

きさは大だいどうしょうい

同小異で

ある。

 

最さいご後にわが教きょうだん団所しょゆう有の大おおかつら桂を紹しょうかい介

する。

愛媛県指定天然記念物

初はつせ瀬

の桂かつら

株立周囲二十九米

高さ四十米 

樹令千年余

愛媛県上浮穴郡面河村大

成 

天てんしんかい

真会教きょうだん団所有

 

この桂かつら

は、明めいじ治

三十年ねん

筆ひっしゃ者

の祖そ

父ふ

、中なかがわ川

梅うめえもん

右衛門清きよなか仲

(通つうしょう称

初はつじ次

)が、

初はつじ次

の初はつ

の字じ

に因ちな

みて「初はつせ瀬

の桂かつら

と名な

づ付け、当とうじ時

すでに日にほんいち

本一を誇ほこ

ていたようである。

 

明めいじ治四十二年ねん

十一月がつ

二十日か

海かいなん南新しん

聞ぶん

の田たなか中

蛙あどう堂

氏し

らによる「面おもご河

探たんしょう勝

団だん

」が、面おもご河で最さいしょ初に観かんこう光したのが、

この桂か

つら

である。その探たんしょうき

勝記に、

 「樵し

ょうろ路大成部落に向むか

ふ、此このへん辺一帯

山高く水清しくして山さ

んし姿水すいたい態人ひと

の神しん

思し

を清らかしむるものあり、晩ばんしゅう秋す

でに逝ゆ

きて巌がんかく角を抱いだ

ける楓ふうじゅ樹皆みな

紅くれない

脱だっ

し、吹ふ

く風かぜ

凛りん

として己すで

に初しょとう冬の感かん

(中略)十一時じ

大おおなる成

に至いた

り、同どうち地

青せいねんだん

年団並なら

びに教きょうし師中なかがわ川相あいじろう

次郎(筆者

実父)高た

かおか岡宗そうたろう

太郎、竹たけもと本好よしぞう蔵其そのた他有ゆう

志し

諸しょし氏の歓かんげいかい

迎会に臨のぞ

む、大おおなる成は渋しぶくさ草

より道どうてい程

一いち

里り

所いわゆる謂

大おおなる成

山さんぷく腹

にある一いち

小しょうぶらく

部落にして、殆ほとん

ど別べっせかい

世界を為な

し居お

れり、この地ち

に有ゆうめい名

なる桂かつら

あり、樹じゅ

幹かん

柘つ

げ植の如ごと

く枝えだ

は槐えんじゅ

に似に

、葉は

は楓ふうよう葉

に類る

す、夏か

き季の候こう

梢しょうとお頭に紅あか

き花はな

を飾かざ

るという、高たか

さ二十余よけん間、其そ

の大だい

るもの十六而し

こう

して、其その

小しょう

なるもの

に至い

っては其その

数すう

幾いく

十じゅう

株かぶ

なるを知し

らず、

いづれも同ど

ういつ一基もとかぶ株より出い

でて樹じゅかぶ株の

周しゅうい囲百ひゃく

数すう

十じっ

間けん

、一ひとかぶ株にして小しょう

森しんりん林を

形けいせい成し居お

れり、聞き

く近きんじ時此こ

の處ところ

に大おお

成なる

公こうえん園を設もう

くるの議ぎ

ありと、午ご

ご后一いち

時じ

三〇分ぷん

同どうち地を辞じ

し、二に

じ時大おおなる成の風ふう

穴けつ

を見み

る。」と。

【続く】

05  天 真05  天 真天 真

Page 8: 294号294号 令和3年3月1日発行 宗教法人 東洋最高道徳学会 『水輪壇』 人びとの仕合わせのために・・・・・・天真会教団 宗教法人 東洋最高道徳学会

 

この季節、猪伏の山々は褐色や

黄、赤にもみずり、それが青木の

緑にまじって一面まだら錦となる

が、おりしも朱金色の残照が雲を

染め、山肌に射して燃えるように

輝いている。

(そろそろ引き返そうか)

 

そうおもいながら、主膳正は小

石をひろって川に投げた。

 

ふと、童わ

らべのころ道後の石手川で

おなじことをして遊んだ記憶がよ

みがえる。父の宗清といっしょで

あった。

「遠くのほうへ投げてみろ」

 

宗清がけしかけるように言った。

顔中がわらっている。

 

主膳正は川上にむかって投げた。

 

石は音をたてて落ち、小さな波

紋が流れたかとおもうとすぐ川の

さざなみに消えた。

「おう、よう飛んだ。それに、川

上に投げたは賢さ

しい」

 

父は、強くなれ、そして、たえ

ず上に向かって精進せよと言った。

「汝な

んじは多田源氏の子ぞ」

 

そのひとことが、主膳正の生き

方を決定したといってよい。いか

なるときにもその誇りが行動を律

した。

 

主膳正はもういちど石をひろっ

て、こんどは思いっきり川上に投

げた。

 

そのとき、川下から馬蹄て

の音が

きこえた。速は

や足でちかづいてく

るが、道が曲がっているため山す

その岬にさえぎられて見えない。

「おお、やはりこちらでございま

したか」

 

露口清左衛門であった。

 

清左衛門が手た

づな綱をしぼると、馬

は三、四度ひずめを鳴らして足ぶ

みし、首を振ってとまった。

 

ひらり、と下りる姿に若武者ら

しい気どりがある。

「柄にもなく秋を愛め

でていた」

 

主膳正は、ちょっと含は

にか羞んだよ

うにほほえむと、急に真顔になっ

て、

「して、なにごとかあったか」

 

と、早口に聞いた。

 

主膳正がたずねたのは知津のこ

とである。

 

知津は懐妊し、夏になってから

大野直な

おしげ昌の館でやっかいになって

いる。

 

もともと華き

ゃしゃ奢なからだで身ご

もったうえに暑気あたりして、

「わが館にこられよ。姉の婚家で

ござるゆえお気がねにはおよびま

すまい。ゆるゆるすごされるがよ

ろしかろう」

 

という直な

おしげ昌

の好意に甘えた。

著 加藤

著 加藤

恵一恵一

第第2424回回

天 真 06

Page 9: 294号294号 令和3年3月1日発行 宗教法人 東洋最高道徳学会 『水輪壇』 人びとの仕合わせのために・・・・・・天真会教団 宗教法人 東洋最高道徳学会

天 真天 真

 

なんどもいうように、直な

おしげ昌

の母

と知津は、年こそ大きくへだたっ

ているが異母姉妹である。

 

露口清左衛門は主膳正が猪伏に

きて以来、自分の居城沖城を留守

にして猪伏に居ることが多かった

が、知津について久万へ帰ってい

る。沖城のある久万菅す

ごう生は大除城

に近かったので、

「お供は拙者がもっとも適任でご

ざろう」

 

とみずから買って出た。

「叔お

き父貴、吉報でござる」

 

このころ、清左衛門は主膳正を

叔父貴とよぶ、主膳正にすれば、

いっこう叔父になったおぼえはな

いが、清左衛門は自分の妻が大野

直なおしげ昌

の妹であるところから、

「大除の殿が主膳正どのの甥にあ

たられるのなら、その妹をめとっ

た拙者も甥でござろう」

 

と妙な理屈をつけた。

 

むろん血縁はないが、双方とも

よほど、う、

、まが合って、なまじな

親族より親愛の情が濃い。

「吉報も吉報、玉のような和わ

こ子で

ござるぞ」

 

はずんだ声で、自分が産う

んだよ

うに胸をそらせている。

「やあ、とうとう産まれたか」

 

主膳正は満面に喜色をあらわし

た。

 

主膳正三十三歳、知津二十八歳

にして、はじめて子にめぐまれた

のである。

 

おもわず、

「太郎と名づけよう」

 

と、大声でさけんだ。

 

男子なら、名はすでにきめて

あった。

 

遠く多田源氏の時代、嫡子は歴

代、太郎、小太郎、を幼よ

うみょう名と

した

故事に倣な

ったのである。

 

山の秋は日が落ちると、にわか

に冷気が増す。

 

主膳正は下女が紙し

しょく燭の火を燈台

に移すのを見とどけると、

「甥お

いっこ子どのに酒をふるまう、用意

してくれ」

 

と、上機嫌で言った。

 

ふだん使わぬ「甥お

いっこ子どの」といっ

たのは、「叔お

き父貴」に対する諧

かいぎゃく謔

のつもりである。

 

めったに冗談をいわぬ主膳正が

こんなことをいうのは、よっぽど

心が浮いているのであろう。

 

二人とも酒はつよい。

 

とくに主膳正はその雄偉なから

だでのむから、斗酒なお辞さぬほ

どにつよい。

 

ことに、肴さ

かながよかった。

 

嫡子の誕生と、館のまわりの草

むらですだく虫の声である。

 

猪伏の館では、周囲の自然がみ

な庭である。その庭で虫たちは

いっせいになく。

            

【続く】

07  天 真

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第五十四歩

第五十四歩

田窪さんの

「焚き火ご飯」

「焚き火ご飯」

梅雨の時期になりましたが、皆さんいかがお過ごしでしょうか。

コロナ禍と雨で、気が付かないうちにストレスも溜まっていると思います。

こんな時に自分を甘やかすことを悪いとは思っておりません(笑)。

■アウトドアのいいところ 最近、この天真の記事のおかげで、「雨だと焚き火ができなくて残念やな」と言われるようになりました。でも心配しないでください。雨天時に、タープ(雨除けの幕)の下でする一人焚き火はこれまた風情があり、天候関係なくストレス発散できております(笑)。 先日、「プロキャンパー」という肩書の人のドキュメント番組があり、その中で、ブルーシートで簡易テントを張ったり、空き缶でご飯を炊いたりなど、災害時に役立つ知識を教えていました。それを見ていた私も、ふと、空き缶でご飯を炊けるのかなぁ…と思い立ち、ちょっとやってみました。 いつも思うのですが、アウトドア雑誌の手順やら説明に、料理本みたいな書き方をしているのを読むと、読んだだけで嫌になります(笑)。いつか鍋でご飯を炊きたいと思ってはいたけれど、このハードルが高くてやる気が出ませんでした。それでも外で炊飯を何回か挑戦してみて思ったことは、お米の水が少なくて硬かったら水を足して炊き直せばいいし、水が多くてビチャビチャなら水を捨てて弱火で炊き直せばいいし…、そもそも失敗したら失敗したで、自分のおもしろ話が増えると思えるのが、アウトドアのいいところではないかと。そう考え出したら、味がちょっと違うだけで嫌味を言われる主婦の崇高なことよ! お返しに旦那に料理を作らせ、ちゃぶ台ごとひっくり返してやれ!と、独身の私は無責任にそう思います。

■焚き火 de ご飯 私が焚き火にて、お米を空き缶で炊いた時の手順です。① 350cc 缶で、お米 1 合なら水を飲み口 2cm下

くらいまで入れ、30分以上浸しておく(これ一番大事)。水は少し多めに入れたほうがいい(どうせ空き缶から吹きこぼれる)。

② 強火にし、時折、割りばしでグルグル混ぜてお米を攪拌する。

③ 吹きこぼれたら火の弱い場所を作り、アルミホイルで蓋をする。

④ 水分が無くなり香ばしい匂いがしたら完成(私は蓋を開けて何度も確認します)。

⑤ すでにお腹が減っているので炊き立てを、“わしわし”食べますが、少しでもご飯を蒸らせる大人の余裕があれば、芯が完全になくなり、なお美味しいです。

 ※ (誤字脱字のために試読してもらったら、“わしわし”とは何ぞや?と疑問を持たれたのですが、勢いよくムシャムシャ食べる感じがしないですか?(笑)

 最近、アウトドアが流行り、キャンプ場でテントを張ったり、バーベキューをしている人たちを見る機会が本当に多くなりましたが、それに伴ってゴミも多く見かけるようになりました。本当に野外で遊ぶのが好きな人たちなら、使用した場所や施設に痕跡を残さないで帰ることを知っていますし、一部の常識の無い人たちが捨てているのは頭でわかっていますけど、見つけると本当に嫌な気分になります。

① ③

④ ⑤

天 真 08

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清掃前

清掃後

■キャンプ場の掃除 先日、いつも利用させてもらっているキャンプ場で、明らかに生活ごみを持ち込み、燃やした焚き火の残骸を見つけました。キャンプ場でよく見かけるゴミは、炭化した薪、生ごみ、プラスチックのトレー、たばこの吸い殻などが多いのですが、今回は焼けた缶や瓶が十数本、雑誌、ドロドロに溶けて固まったプラスチック、鉄くずなどがあり、これを燃やした人たちはこんなに景色が綺麗な場所で、この生活ゴミを躊躇なく焼けるものだと呆れると同時に無性に腹が立ちました。 管理している所に連絡し、相応の処置をしてもらうべきかとも考えましたが、あまりにその場所をよく利用させてもらっているし、それ以上に、私の所属している部署にこのキャンプ場の近隣住人が多く、なんだかその人たちに疑い(?)の目を向けられているような気がして、自分で片付けることにしました(笑)。 焼け残った異臭のするゴミの中に手を入れ、可燃ゴミと不燃ゴミを分別するたび、『これを燃やした奴ら全員、☆※◇#■×してしまえ!』と、大声で怒鳴りながら片付けました(周りには誰もいなかったので 笑)。もし、アウトドアをこれから始めようと思っている人がいたら、どうか次の人が気持ちよく遊べるような状態にして帰ることを、切に願います。 ちなみに、回収したゴミは南クリーンセンターに持って行き、理由を話して正規に処分しましたので、あしからず…(笑)。

09  天 真

 向暑のみぎり 益 ご々清栄のこととお慶び申し上げます。

 当会に平素より格別なる護篤志を賜り厚くお礼申し上げます。 さて、今年の夏越の大祓いについてお知らせ致します。 今年は7月16日(金)に天真会本庁 芳雲殿にて催行予定でございますが、新型コロナウイルスの影響を鑑みまして、規模を縮小し、役員関係者のみで催行させて頂くこととなりました。当会ご関係者の皆様には大変ご迷惑をお掛けすることになりますが、何卒ご理解賜りますよう宜しくお願い申し上げます。

東洋最高道徳学会 会長 長岡 節子

医療法人天真会 理事長 清水 惠太

令和3年夏越の大祓いについて

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菰田菰田

美佐子

美佐子

鯉一尾跳ねて蛙の目借時

鯉一尾跳ねて蛙の目借時

名水を汲む人絶えず麦は穂に

名水を汲む人絶えず麦は穂に

若夏のおのずと閉まる居間のドア

若夏のおのずと閉まる居間のドア藤

田藤田

ひろむ

ひろむ

天界に半纏木の名残り花

天界に半纏木の名残り花

老鶯の谺呼ぶこゑ札所村

老鶯の谺呼ぶこゑ札所村

奥嶺見ゆ最も立夏らしき景

奥嶺見ゆ最も立夏らしき景

田中田中

ツネ子

ツネ子

青風夜勤ナースの声静かなり

青風夜勤ナースの声静かなり

里山を抱く万緑の極まわりぬ

里山を抱く万緑の極まわりぬ

中野中野

八千代

八千代

ていれぎに花や大師の水授けて

ていれぎに花や大師の水授けて

奉納の絵馬を浄める青時雨

奉納の絵馬を浄める青時雨

古歌偲ぶ万葉苑のわすれ草

古歌偲ぶ万葉苑のわすれ草

宮本宮本

里枝里枝

一願の福授地蔵に緑立つ

一願の福授地蔵に緑立つ

畑付きの体験住居島涼し

畑付きの体験住居島涼し

ワクチンの接種完了新茶汲む

ワクチンの接種完了新茶汲む

井上井上

恵子恵子

廃線の決まりし村や蕨採る

廃線の決まりし村や蕨採る

八つ塚を守り継ぐ村母子草

八つ塚を守り継ぐ村母子草

初雲雀八つ塚つなぐ畷径

初雲雀八つ塚つなぐ畷径

草地草地 たみこ

たみこ

後退りしてゆりの木の花仰ぐ

後退りしてゆりの木の花仰ぐ

島薄暑よろずやおかみ話し好き

島薄暑よろずやおかみ話し好き

艫網に五位鷺南風の船溜り

艫網に五位鷺南風の船溜り

栗田栗田

和子和子

葉桜の樹影に集ふ大真鯉

葉桜の樹影に集ふ大真鯉

草田男のふるさとの句よ風青し

草田男のふるさとの句よ風青し

今右衛門の墨はじき文壺涼し

今右衛門の墨はじき文壺涼し

◆作品募集

あなたの作品(未発表・楷書で)を、はがきに住所・

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〒791–1112

    

松山市南高井町338 「

天真俳壇」

宗教と文化 天 真 〈第296号〉

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3, 000円

令和 3 年 7 月 1 日

泉 田 孝 治

岡田印刷㈱

宗教法人 東洋最高道徳学会愛媛県松山市南高井町338TEL. 089‐976‐7777FAX. 089‐976‐6622

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