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「聴覚障害のある先輩の体験」 羽生 薫氏 1.自己紹介 みなさん今日は。先程丈先生がご紹介くださった、羽生薫と言います。今 25 歳です。 私は先天ろうです。家族は全員聴者ですが、母の兄、伯父もろう者です でも、同じ家で伯父と一緒に暮らしたわけではありません。伯父は世間体が悪いからと母 屋の外にあった物置に 1 人で暮らしていたんです。 家の中で生活し、食べさせてもらい、洗濯もしてもらえる。母の世話になっている私と は違って、変だなあと思っていました。 ◆伯父のこと 伯父は先天ろうで、家は農家でした。昔は貧しかったために、学校にやるお金もありま せんでした。そこで祖父母は仕方なく伯父に簡単な読み書きを教えるだけでしたので、伯 父はコミュニケーションをとることができませんでした。社会の出来事をテレビや新聞で 見たり、読むこともできません。娯楽があるという事も知らず、喜怒哀楽という感情も持 ち合わせていない伯父でした。 私は小さい頃からその伯父を見ていて、同じろう者でも、私はろう学校に通い、手話で言 葉を習いみんなと楽しく話をしているのに、伯父は違うというふうに凄く違和感を持ちな がら大きくなりました。 その伯父と、家族が誰もいない時にこっそり話をすることがありました。 2 人だけに通じ る手話を作っていました。例えば「明日」の時は手話の「1」と「寝る」で表し、「明後日」 は手話「2」と「寝る」というふうに。そして伯父は「1」「ランドセル」「行く」で「明日 学校に行くの?」と聞いてきます。私は頷いて答えます。また朝には「日が昇る」「照らす」 「時計 8」「ここ家」「車運転」「行くよ」と私が表すと、伯父は頷くというように会話をして いました。 でも、家に両親が戻ってくると 2 人は話を止めて知らん振りをします。 伯父と一緒にいると両親に叱られました。それは、伯父の影響を受けて話ができなくなる のではないかと、病気でもうつるかのように心配して離れるようにと言うのです。 ◆高校は調理科へ 両親は学校の先生でとても厳しかったのです。毎日小言を言われました。だから、宮ろ う中学部1年の時に調理専門学校に行きたいという思いが湧いて両親に話したのですが、 当然親たちは反対しました。私は中学 1 年から 3 年までその思いを抱き続けていました。 そして、たまたま明成高校に調理科があると聞いたのです。我慢してろう学校の高等部 までいき、その後に専門学校に入らなくても、高校で調理師の免許がもらえるということ がわかりました。それで明成高校に入りたいと申し出た時に先生や親は反対。友だちにも 反対されました。反対の理由は、私が中学生の 15 歳になるまで、聴者と話した事がない。

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「聴覚障害のある先輩の体験」

羽生 薫氏

1.自己紹介

みなさん今日は。先程丈先生がご紹介くださった、羽生薫と言います。今 25 歳です。 私は先天ろうです。家族は全員聴者ですが、母の兄、伯父もろう者です でも、同じ家で伯父と一緒に暮らしたわけではありません。伯父は世間体が悪いからと母

屋の外にあった物置に 1 人で暮らしていたんです。 家の中で生活し、食べさせてもらい、洗濯もしてもらえる。母の世話になっている私と

は違って、変だなあと思っていました。 ◆伯父のこと 伯父は先天ろうで、家は農家でした。昔は貧しかったために、学校にやるお金もありま

せんでした。そこで祖父母は仕方なく伯父に簡単な読み書きを教えるだけでしたので、伯

父はコミュニケーションをとることができませんでした。社会の出来事をテレビや新聞で

見たり、読むこともできません。娯楽があるという事も知らず、喜怒哀楽という感情も持

ち合わせていない伯父でした。 私は小さい頃からその伯父を見ていて、同じろう者でも、私はろう学校に通い、手話で言

葉を習いみんなと楽しく話をしているのに、伯父は違うというふうに凄く違和感を持ちな

がら大きくなりました。 その伯父と、家族が誰もいない時にこっそり話をすることがありました。2 人だけに通じ

る手話を作っていました。例えば「明日」の時は手話の「1」と「寝る」で表し、「明後日」

は手話「2」と「寝る」というふうに。そして伯父は「1」「ランドセル」「行く」で「明日

学校に行くの?」と聞いてきます。私は頷いて答えます。また朝には「日が昇る」「照らす」

「時計 8」「ここ家」「車運転」「行くよ」と私が表すと、伯父は頷くというように会話をして

いました。 でも、家に両親が戻ってくると 2 人は話を止めて知らん振りをします。

伯父と一緒にいると両親に叱られました。それは、伯父の影響を受けて話ができなくなる

のではないかと、病気でもうつるかのように心配して離れるようにと言うのです。 ◆高校は調理科へ 両親は学校の先生でとても厳しかったのです。毎日小言を言われました。だから、宮ろ

う中学部1年の時に調理専門学校に行きたいという思いが湧いて両親に話したのですが、

当然親たちは反対しました。私は中学 1 年から 3 年までその思いを抱き続けていました。 そして、たまたま明成高校に調理科があると聞いたのです。我慢してろう学校の高等部

までいき、その後に専門学校に入らなくても、高校で調理師の免許がもらえるということ

がわかりました。それで明成高校に入りたいと申し出た時に先生や親は反対。友だちにも

反対されました。反対の理由は、私が中学生の 15 歳になるまで、聴者と話した事がない。

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聴者と言えばお父さん、お母さん、親戚や先生くらいなものでした。他は手話でのコミュ

ニケーションが大半なので、「聴者に囲まれた生活は上手くできない」というものでした。

私は不安よりも調理の勉強がしたいという思いと、ろう学校を出たいという気持ちがあっ

たのです。それは、ろう学校の雰囲気に馴染まなかったのです。普通学校も同じだと思い

ますが、女子同士が対立していていじめがあったり、私が男子生徒と話しているだけで生

意気と言われたり、そういう雰囲気が嫌だったんです。だからろう学校を出たいと思って

いました。普通学校は人数が多い。1 対 1 で付き合えば楽しいのではないかというイメージ

を持っていました。 結局、高校の入試が迫って来た頃にやっと両親が受験を認めてくれました。親には、不

合格かもしれないと言われていましたが、とにかく受験し、合格できてホッとしました。

2.普通高校(調理科)へ入学

高校に入学してからの 1 学期の間はきこえる人たちの中になかなか入れず、話もどうや

ってすればいいのか、例えば筆談も真面目な文章を書いて見せると、きこえる学生は引い

てしまいます。筆談した話題で話が盛り上がるような雰囲気にもならず、一生懸命考えて

面白い内容に書いたつもりで相手に見せても、「だから何?」みたいな反応がかえってきて

なかなか友だちになれませんでした。 どうやったらいいだろうと考えていた時に、私が中学生だった時、教育実習に来たろう

の大学生の丈さんのことを思い出しました。ろうの大学生だから詳しい情報を知っている

だろう、会いたいと思いました。 ろう学校の先生にすぐ連絡をして繋いでもらって、やっと丈さんに会う事ができました。

高校 1 年の時でした。会っておしゃべりや悩みを話し合ったら、もうスッキリしました。 丈さんはろう学校の経験は無いけれども、聴者との係わり方について教えてくれました。

◆聴者との係わり方 そこから気持ちを立て直して高校に通うようになりました。例えば昼休みのお弁当の時、

みんな机を囲んでお喋りしながら食べています。その時私は一番先に行って、先ず机にカ

レンダーの白い裏紙を広げます。周りにみんなの弁当を並べて、そこにカラーペンの袋を

置きます。そうして食べながら注文を書くように書きこむのです。ピンクの色が好きな人

にはピンクのカラーペンを渡して書き込みます。緑色で書いたり、うさぎの面白い顔を描

いたり、みんな面白がって書きます。それを毎日毎日繰り返し続けました。放課後もみん

な帰らずに、私の所に集まってきてカレンダーをはがしてきては漫画や文章を書いたりし

ました。例えばある女の子は、「昨日彼氏とデートした。キスした」なんて絵を描いて、周

りで「へぇー!」とか、「ショック!」だとか言いながら、やっと友だちと一緒に行動がで

きるようになりました。 それから、授業の時の私の席は真ん中の列の一番前でした。先生が目の前で話をするの

を読み取ろうとするのですが、初めは目が疲れました。また、先生の話を見てはノートに

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書き込もうと頭を上下に振るというのもできるものではありません。結局、黒板に書かれ

たものだけを書くということになりました。それだけでは情報不足なので友だちのノート

を借りました。でもそのノートには何も書いてありませんでした。それでクラスのガリ勉

タイプの眼鏡をかけて髪を後ろに束ねている、暗い雰囲気で昼休みも本を読んでいるよう

なタイプの人がいたので、その人にお願いしてノートを借りました。彼女は細かくノート

をとっていたので毎日そのノートを書き写しました。 最初は放課後に先生に授業の内容について質問をして教えてもらっていましたが、それ

はいつの間にかなくなり、それよりも友だちに会うことが楽しくなりました。調理科の友

だちと一緒に残った食べ物を食べたり、野菜を切ってみたり、冗談を言い合っている方が

楽しいと思いました。 高 2、3 は勉強そっちのけで調理にだけ集中して、みんなと実習しながらおしゃべりをす

るのが楽しかったのですが、問題もありました。 ◆調理実習の問題(音で判断)

調理実習の時は、生徒 5 人でグループを作ります。そして、先生が調理をしながら説明

をします。先生はピンマイクで話をするのですが、その音がきこえない。生徒の背中で見

えないのです。例えば、米を炊く時の基本に「赤子泣いても蓋取るな!」という諺があっ

て、米を炊いている時に噴いてくる音がした時に蓋を取ってはいけない。それが治まって

から蓋を取るのはいいけれどという説明があったそうですが、私はわからなかったので蓋

を取ってしまったのです。それで周りのみんなから「あっ!米が硬いよ。今から蓋をして

も無理」と言われました。私はショックでしたし、周りからは怒られ、私は謝るしかあり

ませんでした。 調理の時はどうしてもいろんな音をきかなければいけませんが、私は補聴器をしても細

かい音はきこえません。例えば何かを切る時のリズムを調べた事があります。ベテランの

人は、とん、とととん、ととと…というリズム。見た目は上手でも実際に切ったものが細

かったり太かったりする場合は、とん、と・とん、という音がするそうです。周りの人た

ちはいろんな音、情報を当たり前のようにきいていて、先生もその音をきいて OK を出し

ている。 でも、私は切る時のリズムを音でわかることが必要だと言われてもわかりません。だか

ら細くさえ切ればいいのかなと思っていたので、調理の先生に「切る時にどうしてリズム

が必要なのですか?」と尋ねました。先生は、「調理の時、例えばお客様のオーダーはさま

ざまで、注文を受けたら何から作っていくのか、その手順(テンポ)を考えて切ったり炒

めたりしなければいけない。例えば一人で 5 人分のオーダーを受けなければならない時に、

聴者の場合は自然に頭の中で自分流の音楽を作ってその音楽と一緒に調理が進んでいく。 そしてその音楽のさびのところで、「あっ、オーブンから出さなくては!となる。そういう

やり方があります」という話をきいて「そうなのか」とわかりました。 私はテンポなんてわからないし、リズムもわからないし、音楽というのもわかりません。

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高校の先生方に「調理の仕事は難しいと思う」と言われました。 まぁとにかくできるところまでやってみようと思い、調理の勉強を続けました。その後も

やっぱり先生の話がわからず、情報不足で、本を読んでもわかりませんでした。 ◆情報保障(ノートテイク) たまたま、調理科だけで春休み、夏休みに特別授業というのがあり、普通の授業とは別

で立派な店の店長さんやコックさんが来て学べるというのが毎回あって、私は是非参加し

たいと思いました。しかし話がわからないので、まず情報保障と言えばここの手話サーク

ル、HANDS がノートテイクをやっているということを聞いて、高校に来てノートテイク

をやって欲しいとお願いしました。その時学校に来てくれたのが、前原さんです。覚えて

います?覚えていない。その時のノートテイクが初体験でした。ノートを見たら情報がい

っぱい書いてあり、内容がわかったので感動したものです。先生が冗談を言ってみんなが

笑っている時に私も一緒に笑えた。先生が珍しい事を話した時も、周りは「えっー!?」、

私も「えっー!?」と声が出てみんなの気持ちと一体感が持てた。雰囲気を共有できた。

初めての経験でした。情報保障は必要なんだなあと思いました。 あとあとの勉強会の企画がある時も HANDS にお願いしたいと思ったのですが、HANDS

は大学内の活動を目的としていて、外部からの依頼には応えられないということでした。 私はノートテイカーや手話通訳者をどこが頼んでも派遣ができるきちんとした団体が欲

しいと思いましたが、当時はありませんでした。それで、どうしたらいいのか方法を考え

て、学校の先輩にお願いしてノートテイクをやってもらいました。でも先輩たちはノート

テイクの方法がわからないと言うので、また HANDS にお願いをしてノートテイカーの養

成方法の資料をコピーしてもらい、私が先輩に教えました。 ノートテイクの方法や「私自身のろうとは何か?」「きこえないとは何なのか?」という

ことから先ず説明をしました。その後に通訳のやり方、通訳者の立場と通訳を受ける立場

についても説明しました。先輩たちはいろいろ学んでくれて、その後、毎日ノートテイク

をしてくれました。でも、先輩はすごく上手なわけではありません。記入漏れがあったり

したのでもっともっと情報が欲しいと思いました。 やっぱり手話通訳がいいと思って、県庁に通訳の派遣制度、例えば病院に行く時に会話

ができないきこえない人に手話通訳が同行して通訳してくれる、また学校の PTA の集まり

にきこえない親が参加する時には通訳が派遣される制度です。でも、講義や授業には派遣

できないと初めは断られましたが、何とかお願いをして個人的に通訳に来てくれました。

そんな様子を周りが知ることで(広まって)同級生や高校の先生方も障害ってこういうこ

となんだと理解してくれるようになりました。 高校 3 年生あたりには、みんなが協力してくれて、逆に「手話を教えて欲しい」と言わ

れるようになり、手話サークルを立ち上げてみんなで楽しくおしゃべりができました。 私が高 3 の時に手話を積極的に学んでいた 1 年生の後輩がいました。今その人は、ろう

学校の近くのレストランでウエイトレスをしています。ろう学校の学生やろう者が来ると

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手話で応対しているときいて、嬉しいですね。

3.短大に入学(ノートテイカーの養成、海外旅行、就職活動)

高校を卒業した後、福島県に移り、栄養士の資格を取るために、郡山女子短期大学に入

りました。その学校には前にもろう学生は数人いたそうですが、大学からの支援は全くな

かったそうです。 私はまたノートテイカーを育てるために大学と大学院の先輩たちにボランティアの募集

を始めました。ノートテイカーの養成をして講義に付けてもらったり、卒業した子育て中

のママや主婦の人たちにも呼び掛けてテイカーさんは最高で 20 人くらいいました。そうし

て朝からずっと講義に付いていただき凄く助けて頂きました。 ただ、問題は、専門用語が書けないことでしたが「書けなくてもいいよ、話の流れが書

いてあればいいよ」と言って書いていただきました。そして授業が終わった後に先生の所

に行き、専門用語について教わるという繰り返しでした。 夜は毎日居酒屋で調理のバイトをし、学生会の会議がある時は福島から仙台に戻って参

加して企画をしたり、お互いに悩みを持ったろう者同士が集い、一緒に活動するのはとて

も楽しいものでした。 私は高 1 から大学 1 年までの 4 年間一緒に活動した後、少しずつ自立というか、一人の

時間が欲しいという気持ちが湧いてきて学生会の運営委員を辞めて、大学 2 年生の半分は

就職活動と残りの半分は海外旅行に行きました。イタリア、アメリカ(ハワイ)などに。 バイトのお金を貯めて行きました。英語はさっぱりわかりませんが、表情や身ぶりで通じ

て、特に困る事はありませんでした。 困ったのはテロが起きて電車が止まったときです。飛行機が飛ばなかったことくらいで

その他は買い物もホテルでもコミュニケーションの問題はありません。今も英語はできま

せんが、問題はありません。 ◆就職活動

短大を卒業した後は、勿論調理師の仕事をしたいと思っていましたが、ろう者というこ

とで断られてばかりで、なかなか仕事が見つからずにいました。そんな時、たまたま老舗

の有名なフランス料理店に採用が決まり喜んでいたのですが、忘れもしません。12 月 31日の大晦日の夜に初詣に行き「来年は調理師の試験に合格しますように」とお願いをして

アパートに戻った時、特別郵便が届いたのです。何だろうと封を開いて見たら「採用は白

紙になりました」と書いてありました。凄いショックを受けました。「何で?何で?」と。

そして落とされた理由を聞いたら、店長は採用を決めたけど現場の調理スタッフが反対し

たそうです。「今までのペース、リズムや流れがある。そこにリズムのわからないろう者が

入ってきたらペースが乱れて困る」という反対意見があちこちから出たために、店長もや

むなく採用を撤回することにしたという返事でした。 それを聞いてショックで傷心旅行に、四国一周一人旅に出かけました。講義はサボって。

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「ろうの調理師は無理なんだ」と悩みながら周りました。たまたま香川県の四国学院大学

に教師を目指したろうの大学生が 10 人くらいいました。珍しかったですね。ウインズクと

いう学生会のようなろう大学生だけの集まりがあって、いろいろ話をしたのですが、その

大学には寮があり、調理師として働いたらどうかということになりました。私はチャンス

だと思い、「はい、来ます」と即答しました。 4.調理師として

宮城の実家に戻って両親に話したところ、母は「香川?」とあきれ顔でした。調理師に

どうしてもなりたい。私は「調理師になれるのならどこでも行く」と言いました。父は今

でも調理師になることには反対しています。反対の理由をきいたところ、調理師は毎月安

定した収入が得られない。いつ店が潰れるかわからない。それからボーナスがないし、土

日は休みじゃない。クリスマス、お正月、バレンタインも休めない。もし、祖父母や親が

亡くなっても葬儀に参列できない。だから親の死に目にも会えないことを覚悟の上で調理

師にならなければいけない。そういう世界だから父は反対しています。 ◆香川での 2 年間

でも、私は無理やり香川に移り大学の寮で働き始めましたが、寮の調理師は私 1 人だけ

でした。寮の権限は大学にありましたが、その後大学が寮を閉鎖することになりました。

閉鎖=私の働く場がなくなるということ。そこで大学と折衝をして食堂だけ借りることに

なりました。食堂の責任者は私のまま、店長という立場で、オーナーは大学という形にな

りました。 自分でメニューを考え、経営全てを担当しました。大学のみんなが食べに来てくれて営

業を続けました。土日もやりました。朝食、昼食、夕食と出しますが、昼食後から夕食ま

での間はケーキを作って売りました。1 人で 2 年間食堂を経営しました。まぁ、楽しかった

です。 大学が夏休みの間は東京、北海道、沖縄などきこえない子どもの親の会などの企画を受

け入れて、泊まり込みで食事を提供するというのを当たり前のこととしてやりました。 残念ながら東北からは来ませんでしたね。東北は障害者福祉の面では全国的でも遅れてい

るためなのか残念です。来ていただいた人の中には有名な方では、薬剤師の早瀬さんも来

て食べて頂きました。手話ニュースの井崎さん、米内山さんやろうの有名な方が来て食べ

てもらえたので凄く嬉しかったです。 2 年間仕事をしましたが、時々店を閉めて一人で旅行(イタリア)に出かけました。私イ

タリア料理が大好きです。本当はイタリア料理専門でやりたかったのですが、なかなか職

場がありません。だから独学で学びました。 ◆イタリア旅行でのエピソード

初めてイタリアに行ったのは高校 3 年の夏休みで、両親に内緒で行きました。空港に着

いたのはいいのですが、その後の計画は何にも考えていませんでした。とにかく観光案内

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所に行って、安いホテルを尋ねました。英語は喋らず、紙に「HOTEL」と書いて、財布を

開いてお金がないことを示しました。担当者は、私が持ち合せの金も少なく、安いホテル

を求めているのだとわかってくれました。そして紹介してもらったホテルに行きました。

そこは、1 泊 300 円と安いホテルでしたがシャワーは水しか出ません。部屋も個室ではなく

大部屋でベッドが沢山あり、いろんな国の人が男女の区別もなく一緒にいました。「安いと

いうのは、こういう事なんだ」と理解しました。 私は怖いので部屋の隅のベッドを確保し、リュックを盗られないように抱えたまま寝ま

した。最初の 1 週間はリュックを抱えたままで寝ていましたが、後は慣れました。 宿泊している人たちは、黒人、白人、イギリス人にアメリカ人などで、言語もそれぞれ

違うのに食事にも飲みに行く時もみんな一緒に行くので珍しいなあと思いました。私も試

しに一緒に参加してみました。「みんなはどうやって伝えあっているのかな?」と思ってい

ましたら、食事をしながら普通に表情や身ぶりで伝えあっていたのです。「へぇ!こんなふ

うに伝えあっていたんだ」って。その様子は面白かったです。 当然みんな聴者で少し英語の話せる人はいたけれど、複数の国の人とのコミュニケーシ

ョンをするというところまでは無理。日常生活で面白かったのは、それぞれが報告をする

時に言葉が要らなかったこと、身ぶりだけで会話をしていることでした。例えばイタリア

と言えばローマ。ローマと言えば「ローマの休日」という映画が有名ですよね。知ってる?

オードリーヘップバーンが階段を、アイスを食べながら上がっていくシーンがあります。

インド人の男性が「僕 階段 アイス 食べる 上る アハハ(手をたたく)」と言うので

す。映画と同じ、身ぶりで表現してくれたので「そうだったんだ!」と話がわかりました。 他の女性も「花を買おう かごを引いて売っている花屋 お金を払おう お金はいらな

い 喜んで持ちかえる 中に 虫 ビックリ」という表現をする。手話がなくても話が通

じました。 ハワイから来た女性は「ねえねえ、みんな、私ねえ、花 花 花抱える お金 払う ニ

コニコ 抱える 中に 虫 いない アハハ(手をたたく)」という具合に、みんな身ぶり

で表現している。ここはパントマイムだけの世界なのかと思うくらい面白く、毎日毎日み

んなと一緒に行動しました。18 歳の私が一番若かったので、みんなに可愛がってもらいま

した。また、一人で街に出かけた時に、浴衣を持って行ったんです。ユニクロの安い浴衣

を着て出かけたらアイスをただでもらったり、コーヒーを無料でもらえて得しましたね。

夜に出かけなければ、問題はない。心配はありません。面白かったです。 日本に戻った後は、両親にひたすら謝りました。帰国してばれたのは、お盆に実家に帰

った時に勢いよく「ただいま!」と言い、イタリア土産も一緒に出して「イタリアから帰

った!」と言ったら、「えっ?何なの!」って叱られました。短大時代も何回もイタリアに

行きました。両親も呆れて仕方がないと思ったんだかどうだかね。 香川で 2 年間働いて有名なろう者と会って話をしてなるほどと思った事は、有名な大人

も子どもの頃は情報が少なく大変だった、辛かったということ。そして今は有名になり、

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みんなから凄い凄いと言われるけれど、そう言われるのは嫌だということでした。その理

由は、「みんなが凄いと言うということはまだ不便な生活をしている。そういう環境にいる

ということであって、みんなから普通だねと言われるまで活動を続けたい」という話でし

た。話をきいてなるほどと思いました。 ◆京都での調理師としての仕事とコミュニケーション

香川で、2年間1人で仕事をしてきましたが、やっぱり経営の勉強がもっと必要だと思い、

たまたま京都の店長から副店長として引き抜かれました。店長に「経営の勉強をしてもい

いよ」と言われ、店を閉じて京都に移りました。 そこは、和食で自然食をテーマにしたお店で副店長は 3 人おり、聴者 2 人と私の 3 人で

それに店長が加わって毎日経営の事について勉強しました。「やっと調理の世界で聴者と対

等に調理師として仕事ができた、良かった!」と嬉しかったのですが、実際は凄く厳しす

ぎて毎日毎日泣いてばかりいました。それは、周りは男性ばかりで、調理の世界は男女の

区別はなく、男性と同じ仕事を求められます。私は文科系専攻で、中学生の頃は放課後に

図書館で本を読むのが好きで、スポーツは苦手でしたので、そのための力がない。フライ

パンは重いし、大きいから両手で持つしかありません。お陰で今では両腕に力こぶがあり

ます。 泣いた理由の1つは、調理師としての腕が未熟だということ。その前に元々コミュニケ

ーションが足りない。人間関係を作るためのコミュニケーションが取れない。例えば悪い

癖で何か言われた時、本当はわからないのに相槌を打ってしまう。そして後で間違ってし

まい「さっき説明したでしょう」と怒られる。怒られたのに、翌日またわかった振りして

頷く。いつも人の話を聞き流しては怒られる。「もう明日から仕事に来なくていいよ」と言

われてビクッとする。 これは周りの人にろうという立場について理解してもらえないこともあるし、私自身が「ろ

うとは、きこえないとは」ということをきちんと説明をしてこなかったのでどちらも悪か

ったのです。そういうこともあって、店が閉まってからみんなが集まり打ち合わせをする

時に、口頭だけでの説明ではわからないので紙に書いて欲しいとお願いしました。 時間がある時は冷蔵庫にホワイトボードを張り付けて、買い物したものをペタペタ貼って

いるのでそこに書いてやり取りをしました。 お客さんが何人も待っているような忙しい時は身ぶりや指さしで。身ぶりというか、店の

中だけの手話をつくろうかという話になって相談しましたが、2、3 人、協力してくれる人

がいるのですが、その他のほとんどの人には無視されました。 「仕事ができないのなら辞めてもいい」と言われましたが、私も「わかんないったら、わ

からない」と言い返しました。 もしも、「これとこれ、これで本当にいいのかな。さっき、これって言われたから、これで

いいか」というような曖昧な、確信の持てないままに客に出してしまうと必ずダメだと怒

られてしまいます。みんなが忙しい時に「これでいいの?」と確認すると、イライラして

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いて「さっき言っただろう」って怒鳴られてビクッとしてしまいますが、それでも、「どっ

ちがいいの?」ときいて、「こっち」と確認をとってから盛りつけました。 怒鳴られてもいい、怖い顔をされてもいい。とにかく細かく確認を取って行いました。

情報が足りないから、自分の持っている情報だけでは自信がないのです。流れをわかった

つもりでも本当に合っているのかどうか不安でした。いつも確認ばかりしているので周り

からはうるさい人というように見られています。それでも構わないですけれど。 仕事は半年後に店長候補に立候補し、採用されました。店長候補というのは、将来店を

開く時のための勉強会に参加しなければいけないし、店長が不在の時には店長代理として

「店長代理の羽生と申します。よろしく!」と挨拶ができる立場になるので、嬉しくて一

生懸命勉強を続けました。 ◆体を壊す

しかし、体を壊してしまいました。腱鞘炎って知っていますか?フライパンとか持ち過

ぎて左の甲を 3 回手術しました。3 回手術しても元通りにはなりませんでした。障害が少し

残ってしまいました。障害の程度は、手が震えて手紙を書くことが出来ません。作文を書

くレポート用紙にも震えて書けません。短い文は問題ないですが、長いものは書けません。

だから、筆談でのやり取りも難しいので困りますが、仕方ありません。調理のフライパン

も震えて痛くて持てません。その影響で味覚障害になり、味がわからなくなってしまいま

した。病院できいたら「ストレスだと思う」と言われました。男の中に女が入り一生懸命

対等に仕事をしようとしてやりすぎた。1 日 16 時間勤務が毎日続く。それが当たり前の世

界です。そういう生活は 4 年が限界でした。香川でも長時間仕事はしていましたが、1 人職

場だったのでまだ楽でした。京都では周りに大勢の人がいてコミュニケーションをとらな

ければならないし、更に聴者と対等な技術も必要だということで目まぐるしく、ストレス、

疲れがピークに達したのです。手の甲は痛いし、味覚障害はあるし、病気を 3 つも背負っ

てしまいショックでした。更に私は水が苦手なのです。手洗いをする度に皮がむけるんで

す。あかぎれよりもっとひどい。むけたところから血が出る。湿疹みたいな病気で調理の

時にそのまま材料に触れられないのでゴム手袋をして調理しなければならない。火を使う

からゴムが溶ける。もう悪循環になってしまって。 もう自分も調理師としての限界になってしまって、会社を泣く泣く辞めました。京都に

行って 1 年間で辞めて、これからどうしようかと。とにかく病院に行く時間が必要だから

正職の仕事は無理なので、朝はマクドナルドで仕事。昼は病院に行って訓練を受け、夜は

居酒屋の板前という生活になりました。 大きな病気を抱えながらも調理師の仕事を辞めようとは考えられませんでした。調理師

の仕事を辞めるというのは私が死ぬのと同じ事だと思いこんでいました。

5.仕事を辞めて…障害者の働きやすい環境作りに係わって

マクドナルドに入った最初の頃は簡単なハンバーガーを準備するだけだったので淋しか

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ったです。つい最近まで忙しく調理師としての仕事に携わっていたのに、今はハンバーガ

ーを扱うなんて淋しい。そう落ち込んでいた時に同じマクドナルドに障害者が 2 人いまし

た。1 人はダウン症で、もう 1 人は顎に障害があって話ができない人でした。それにきこえ

ない私。 その 2 人は長く勤務しているのに周りから排除されていたのです。その状況を見た私は、

怒りを覚えてきこえるみんなとこの 2 人の橋渡しをしようと考えました。この 2 人は私と

一緒に働いているのですが、きこえる人たちがお喋りをしている時に、この 2 人を呼んで

あげました。 ダウン症の人は話の内容がわからないので簡単な言葉で説明してあげたり、絵を描いて

説明すると笑ってやり取りができました。顎の障害の方は話せないので「手話を覚えたら

どう?」と話し教えて上げたら段々手話を覚えていきました。その後パート希望のろう者

が 3 人いたので店長にお願いして雇ってもらいました。ろう者が 4 人になり、他の障害者

が 2 人とで 6 人になり、京都で一番障害者の多いマック店になりました。 一緒に働けて嬉しいし、とにかくきこえる人たちとも一緒に仲よくなれたという事がき

っかけで、マクドナルドの本部から連絡がきました。本部では障害者の雇用を本格的に考

えていました。障害者が働きやすい環境を作るためにはどんな方法がいいのか、詳しく報

告してほしいという要請がありました。 時々店長と一緒に東京の本部に出向き、大勢の店長のいる前で手話通訳を介して働きや

すい環境について話をしました。ろう者の場合、例えばオーダーがわからない時の改善策

として、オーダーが入ると、作業台の上にあるテレビに「ハンバーガー1、オレンジジュー

ス 1」というように表示されます。同時に聴者にはポンポンとか音を出すようにしています。

けれども、ろう者は下を向いて作業をしていると音がわからないので、遅れて画面を見て

慌てて準備をするということが多かったのです。なので、改善策として声の代わりに腰に

バイブのリモコンを着けることによって、きちんとオーダーに合わせる事ができる。是非

準備をお願いしたいと申し出ました。このようにお願いをしたことで、私の働いている職

場だけ特別に障害者の環境条件に関する予算が上がりました。お客様が来た時にライトが

点滅する。オーダーが画面に出た時に腰か胸にぶら下げているリモコンが振動するという

具合に改善されました。 もう 1 つ、私たちは「きこえない」「話ができない」という事を書いたカードと腕章を作

ってもらいました。 その後京都のろう学校から生徒たちが見学に来て、「マクドナルドはろう者が働けるん

だ!」と、参考にしてもらうことができて凄く嬉しかったです。 居酒屋の場合は、ろうあ協会はよく飲み会をするでしょう。うちの店にきてくれるよう

頼み、来てもらいました。調理場の前の席に座ってもらい、ろう者からも調理をしている

ところを参考に見て頂きました。「ろう者は調理ができるんだ!」と驚いていました。左手

は無理ですが右手は使えるので刺身をおろすことと、バーテンの 2 つを担当しました。も

Page 11: 3 15shienshitu.miyakyo-u.ac.jp/wp-content/uploads/081203...う中学部1年の時に調理専門学校に行きたいという思いが湧いて両親に話したのですが、 当然親たちは反対しました。私は中学1

うフライパンを持つ事はできませんでした。カウンターの前に控えていて注文を受けると

刺身を綺麗に盛り付けてお出しする仕事をしていました。 京都でろうの調理師が一生懸命、輝いて仕事をしているということが伝えられるように

なりました。病院にも通院し、時々海外にも出かけて行きました。

6.海外でのボランティア活動

そうして去年アフリカとアフガニスタンに行きました。知ってる?戦争中で、黒人や難

民が大勢いる所です。ボランティア、青年協力隊がいつも派遣されています。派遣期間は 5年間ですが、5 年はね。1 週間体験ができるというのを見て申し込みました。他の聴者は、

関心を持っている大学生が 4 人に私の 5 人でアフリカに行きました。 行く前はアフリカは砂漠みたいなところに樹木があってライオンやキリンやカバがいる、

凄い所なんだろうと想像して車に乗りました。はるか遠くまで来ましたが樹木はない。水

もない。ただただ広く、空は暗く灰色で汚い感じでした。古いテントのようなものいくつ

もありました。戦争中で家を失くしたり、親を亡くした子どもたちは、食糧不足でお腹が

膨らんでやせ細った状態でした。私は子どもたちを見てショックでした。 私の役割は食事担当でした。薪で火をおこし、大鍋でいろんな野菜を入れて煮ます。そ

れは豚汁みたいなもので、出来上ったら子どもたちの持っている器によそってあげます。 大学生 4 人と一緒でしたが、私以外の 4 人は翌日帰ってしまいました。現地の厳しい現実

を見て、日本は恵まれており、家もあり、結婚もできるのとはあまりに違いすぎる状況に

ショックを受けて、手伝おうというより、愕然としてしまい、「明日日本に帰りたい」と言

って帰ってしまったのです。私1人だけで 1 週間手伝いました。 子どもたちは勿論学校もないので言葉がわからないし、書けません。つまりろう者と同

じだなあと思いました。支援に来ている聴者は読み書きを教えていますが、子どもたちは

わからない様子です。言葉とは何なのかということ、言語というものは何なのか、コミュ

ニケーション手段もわかりません。この子たちはどうやってコミュニケーシをとり、遊ん

でいるのだろうと子どもたちを見ていたら、身ぶりを使っていました。誰かがサッカーを

始めたら他の子どもたちがどっと集まってきてサッカーを始めます。サッカーのルールも

ないけれど、誰かが案を出す。「手を使ってはダメ」と言えばみんなが了解して足だけを使

ってやるというように自然にやっている。正式なスポーツだよと簡単に話したら、「知らな

かった!」と言っていました。世界にはきこえていても言葉を知らない、言葉というもの

を知らない人が大勢いるという事を知りました。参考になりました。

7.情報保障について

今まで、いろんなろう者やろう大学生に会ってきましたが、私の勝手な考え方なのです

が、学校の中で情報保障をきちんと受けた人たちと、受けていない人たちとが成人になっ

た時にはっきり違いが出ます。

Page 12: 3 15shienshitu.miyakyo-u.ac.jp/wp-content/uploads/081203...う中学部1年の時に調理専門学校に行きたいという思いが湧いて両親に話したのですが、 当然親たちは反対しました。私は中学1

情報保障を受けてきたグループが社会に出た時、勿論支援はないので、自ら体制を作り

協力者の必要性を申し出なければならないです。その際には自分のプライドを捨てられる

かどうかということ。そのプライドを捨てられず、辛いのを我慢して仕事をしている人が

多いのではないかと私は思います。 支援がなく不便だったり、支援を受けてこなかった人たちは、「ろうであるってどういうこ

と?」とか、障害を持っている自分を良くわかっています。 だから、聴者から「ろう者ってどんなこと?」と尋ねられたら、或いは情報保障の必要性

について尋ねられたら、どこからどこまでが支援が必要で、ここからは支援は要らない。

プライベートなところは支援が必要なのはどうして?そういう時に説明をしなければなら

ない事が多いのです。 私も学校や職場できこえないという事を言ってきましたが、ただきこえない。会話ができ

ないだけでは聴者には伝わりません。ろうの世界は聴者には全く想像できない世界です。 だからきちんと話が出来るようになるためには、みんなは多分手話サークルに通って聴者

の大学生や成人の人たちと接することには慣れていると思いますが、手話サークル以外で

手話やろう者とは全く関係のない聴者と全くゼロの状態から付き合い、慣れるという経験

は今は難しいと思います。そういう経験がないと、会社に入ってからトラブって首になっ

てしまうとか、自分から辞めてしまうということが多いです。 実は学校を卒業して仕事に入りますが、ろう学校では手話で話すのは当たり前で、支援

してもらえるのも当然のようですが、社会に出れば支援はありません。支援が必要です。「ろ

うだから支援が必要だ」というプライドがあります。また、ろう者というアイデンティテ

ィも必要です。出来ない事を上手く伝えられないために通じない状況が重なりストレスに

なって辞めてしまうという結果になるろう者が多いからです。 宮城のろう大学生はバイトがなかなか難しいという話をききますが、ある人がなかなか

バイトが見つからずどうしたらいいだろうかと相談に来たことがありました。私の知って

いる所を紹介して上げました。面接はまだですが、そこの店長が言うには、あなたは調理

の経験があるからいいけど、相談に来たろう者は自分がろう者であるという認識を持った

上で聴者と対等だという事ではなく聴者から学ばなければいけない。教わるという事が大

切だということを忘れないということ。聴者が障害者を支援しなければいけないというこ

とと、教えるということは別です。支援と言うのは、自分は何もやらなくても支援しても

らえるということで、教えるというのはいずれ自分の仕事を支援がなくても自分でやれる

ようになるためのものです。障害者はその区別がわからないので教わっているのに、本人

はそう思わないで手伝ってくれていると勘違いしてしまうことが多いです。それで、店長

から「そのろう者は区別がわかるの?」ときかれました。店長からそう言われて、私は「う

ーん…」と答えました。彼が普通の学校に行き、聴者の世界を経験しているのかどうかわ

かりませんでしたので、店長に「面接して話してみてください」と話しましたが、店長は

頭をひねっていました。

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その店には今までも数人のろう者から働きたいとの申し込みがあって面接をしていたので

すが、ろう者は支援を受けるのは当たり前という考えを持っていて、「支援が当たり前だと

いうのだったら給料は聴者よりも低くなるけどいいの?」と話したそうです。そうしたら

相手のろう者が怒りだした。「差別だ」と。聴者はびっくりしました。聴者は差別していな

い。障害者自身が障害者を差別している。教わるということと、手伝ってもらうことの違

いをわかっていない。そういうろう者が多いです。 みなさんは大学を卒業したら先生になるかわからない。学校の生徒も一人一人いろんな

仕事に就きます。組み立てとか事務、会計、建築設計とかいろんな仕事に就きます。逆に

先生は先生以外の仕事、社会経験がないというか、社会経験が少しだけという先生に対す

るイメージが生徒にはあるんです。実は学生の時、先生たちって仕事の相談は出来ないっ

ていうイメージがありました。だから、出来ればみなさんに大学卒業までの間にパートの

仕事でもやって社会経験をしてほしいなあと希望します。みなさんがパートの経験をすれ

ば、生徒も仕事が出来るんだというように世界(視野)が広がると思います。 まとまらない話ですがこれくらいで話を終わりにしたいと思います。

司会/質問をお願いします。 河田/どうして調理師になろうと思ったんですか? 羽生/両親は学校の先生でいつも帰りが遅かったです。味噌汁を作っておくのが私の担当

で小 3、4 年ころから毎日作っていました。母が帰って来てからおかずを作ってみんなで一

緒に食べるので夕食は 9 時からでした。それが当たり前の暮らしでしたからね。以前は土

曜日も午前中、学校があったのでお弁当を持って行きました。そのお弁当を私が作ってい

ました。自分で作るのは当たり前のことでいつもそうやっていたので、調理師の仕事がい

いなあと。今の仕事は調理師ではなく、東北大学病院で栄養士をしています。他に質問は

ない? 高橋/高校で友だちとご飯を食べている時にカレンダーの裏を使って机の上に置いてやろ

うということを思いついたきっかけは何でしたか? 羽生/最初は自分でメモ用紙を持っていって書いていました。何枚も使って書いてやり取

りしていたんですが、「前に書いたのは何だっけ?」と前に書いた所を探すのが面倒で、 それに話の流れが、私が書いた後に他の人が書く。また次の事を書いて順に書いていく。

書いては、読み返すという事がとても面白かったんです。という面白さと、私は絵が得意

なので漫画、似顔絵を描きたいのとでメモ用紙に文章を書いた後に絵を描くのにまたメモ

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用紙をめくって裏に書くが煩わしくて。それに聴者は書いては聴者同士で話す。書いては

喋るということをやっているけど、私には話しかけてこない。私も一緒に話したいと思っ

てカレンダーの後ろにいつも書くようになりました。毎日そうやって書いていたのでどう

してうちのクラスだけがごみが多いのって他のクラスから言われました。 河田/香川で食堂をやったと伺いましたが、注文の受け方はどうやっていましたか? 羽生/メニューは 2 つだけ。A ランチと B ランチで「A、B どっち?」ときいて「A?はい」

と作ります。1 食 750 円で予約制です。会員になっている人たちに前日にメールで「明日の

メニュー」と一斉配信してから注文を受けます。注文の数に合わせて調理して出していま

した。ろう大学生もいたけれど聴者の大学生も来てくれました。それは、大学のある所は

田舎でおしゃれなコーヒー店があると言えばモスバーガーくらいで、他にはラーメン屋く

らいでお店が凄く少ないんです。大学生や若い人たちはわざわざ電車で 1 時間もかけて高

松まで行くんです。だから街に出るのは大変。おしゃれな食事を出したらと言われました。 だから、ベーグルを作って出したり、ドライカレー、おしゃれなワンプレート、1 枚のプレ

ートに盛り合せにしたものを 750 円で出したりして、まあまあ人気があって収入がありま

した。私が責任者なので自分の都合で店を休むこともできるので、店を閉めて海外旅行に

も何度も行くことができました。 私よりも先輩のろう者の調理師が全国に 10 人くらい本当はいます。本当は、その人たち

にお会いしたいと思っているのですが、その人たちは自分がろうであるということを隠し

ているのです。だから手話は使わないで口話で話すという考えの年配のろう者が多いです。

私はそれには抵抗を感じます。しかし、私が食堂を開いた時はろう者が来れば手話で対応

し、聴者が来たら筆談でやり取りもしますが、大体はゆっくり話してもらっています。フ

ランスのパリではろう者のコーヒーショップが新しくオープンしましたが、聴者も口話だ

けではアウトだそうです。オーダーの時、画面のワイプの手話を見て手話で「コーヒー1 つ」

と注文しなければいけないそうです。新聞で見ました。でも結局半年で潰れました。当た

り前だよね。ろう者の世界をアピールするのはいいけれど、アピールが過ぎると聴者が引

いてしまうよね。 東京の葛飾ろう学校の専攻科に調理科があります。2 年前に新設されました。卒業すれば

調理師の免許が取れます。でも、ろうの先生はいません。実習の時には先生が来てコック

さんの説明を先生が手話で話しをしてそれを見て書きとるという方法でやっているそうで

す。それとは別に専門書を教科書として使っていて、それも調理師の資格のない先生は解

説が出来ないので調理師に来てもらい、先生が通訳するというやり方でやっているそうで

す。実はそういうやり方は見ていて馴染みません。卒業生の半分は有名なホテルのレスト

ランに就職しているときいています。でも、ホテルはレストランの調理部門と個人客対象

の部門と宴会とに分かれていてそれぞれ違うんです。ホテルやレストランに就職したら最

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初の 2 年間は皿洗いです。その次の1年間は野菜の皮むき。実際調理ができるようになる

までに 10 年かかります。そういう世界があるんです。そういうことを知らない。ろう学校

との連携がないんです。勿体ないなあと思います。 私が講師になって料理の世界の事を話せれば一番いいと思うのですが、私も宮城にいな

ければならない事情もあるので、宮城で頑張るつもりでいます。

高橋/前にバイトがしたいと思って友だちに代わりに電話を頼みました。その時、友だち

には「きこえない事を話してください」と頼んでから電話をしてもらいました。その結果、

「きこえないのでは難しい。ごめんなさい」と断られてしまいました。他にも 7 か所に電

話をしましたが結果は無理でした。やっぱり、自分で行こうと思って、自分からお店に行

ってここで働きたいということを言ったのですが、「人数が足りているから間に合っていま

す」と言われてしまい。運が悪いなあと思いました。 河田/そうです。この前羽生さんにアドバイスをもらいました。直接行って交渉してみた

らと。きこえないと電話が出来ないだけなのに、きこえないことで話せないというイメー

ジを持たれてしまうので直接行ってみた方がいいというアドバイスをいただいたのでいろ

んなところに行ってみましたが、ほとんど断られてしまいました。コンビニにも交渉して

みたら 1 週間試しにやってみたらと言われてやってみました。けれども難しいと言われ断

られました。 羽生/今、大学病院で栄養士の仕事と仙台駅前のモスバーガーと 2 か所で働いていますが、

他にも難聴の人が 2 人います。大学時代の福島はアルバイトが少なく難しかったですが、

パート募集の本を全部チェックしてやっと掴みました。その仕事は凄く厳しかったのです

が我慢して働きました。初めはどこでもいい。1 つ採用されれば次は簡単。最初は難しいで

すね。京都で副店長として働いている時にアルバイトの面接を私が担当していました。 その中で障害者やろう者の面接もしました。その時に障害者やろう者が一生懸命なのはわ

かるのですが、結果はお断りすることにしました。「どうして?」と言われましたが、言い

方は悪いかもしれませんが、障害者らしいから。私は馴染めないんですね。私はろうでき

こえないです。補聴器は着けていないのできこえません。栄養士の仕事をしている時も音

はきこえていないしわかりません。何か話がきこえたら方をたたいて教えてくれます。自

分が障害者だから支援が必要だという考えでは店長として採用までには至らなくなってし

まいます。店長としてはみんなに同じように手を貸さなければならない。その上に障害者

にはもっと支援が必要?う~ん…となります。聴者は障害者の手助けの方法がわかりませ

ん。もし(障害者が)失礼なことを言って客から怒られたら、そうなったら聴者は困りま

す。自分がろうだったら、障害者手帳を提示して年金をもらえますが、配慮は受けるけれ

ど自分が障害者という意識は全くありません。上手く言い表せないのですが丈先生、どう

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表現すればいいの? 例えば、障害者は聴者との間にどうしても壁、隔たりを両者が作ってしまいます。両者の

壁、隔たりをなくすための工夫というか。私の場合は相手の体を触ります。男女の関係な

くです。朝に職場で同僚に会うと「おはようございます」と頭を下げて挨拶するのが一般

的ですね。仲のいい人には手をあげて「おはよう!」と言う時に、相手の肩にポンと触れ

ます。男性はビックリしますが、慣れると男性の方から私の肩に触れるようになります。 冗談で自分の方からパンチをするしぐさをしたりという事で、お互いに聴者とか障害者と

いう意識がお互いに消えていきます。当然人間として一人ひとりお互いに対峙してコミュ

ニケーションができる雰囲気を作らなければいけません。それがなければ対等にはならな

いと思います。障害者はどうしても遠慮してしまいがちです。 例えば誰かがお菓子を持ってきて、それを配ったらお菓子が余った。余りを誰にあげよう

かという時に、みんな遠慮しますが、聴者の中には「おれ、もらう」と言って食べていま

す。そういうキャラを作る。みんなの前で「私もらう」と言ってみんなの前で食べる。す

ると、「ここで食べるの」なんて冗談を言い合う。私の場合は笑わせる。それが得意という

か、私のやり方です。私は負けず嫌いな性格だと思っています。 効果的な方法としては、例えば男性と一緒に仕事をしていて、私が簡単なミスをした時に 相手の男性が大げさに「アハハハ!」と指さして笑う。そんな時は私がパンチをし、相手

は「痛い!」と言って絡み合うのが効果的です。大きなミスをして叱られた時は当然謝り

ます。そういう時には絶対いい訳はしない。とにかく話を聞いて間違ったことを最初に謝

ります。「失敗しました」と言って相手から怒られている間は黙って相手に注目します。相

手の怒りが収まった時に、「わかりました。これからはそのように対応します」と言い、最

後に「すみませんでした」と言って相手が了解して終わります。聴者の怒られている時の

様子は、何か怒れてはぺこぺこして何か言い、また怒られては何かを言うというやり方を

しています。これでは怒る側は益々怒りが増して熱くなります。その様子を参考にして、

怒っている間はじっと相手を見ている。絶対泣かない。終わったら「すみません」と言っ

て下がる。次の日はまた普通にいつも通りに元気に挨拶をします。すると相手はぎょっと

した様子です。昨日怒ったばかりだから落ちこんでいると思いきや元気になっている。そ

の方が上司としては使いやすい人材として認めてくれます。まぁ、恥ずかしいという気持

ちもあるかもしれないけれど。そのやりかたの方が障害者としての存在を出していません。 だからみんな(同僚)も私を障害者とは見ていません。意識せずに楽しくおしゃべりして

います。 きこえない事はきこえないのだから、何か話があった時は「さっき○○さんがこう話して

いたよ」と言ってもらえれば「本当、わかりました。ありがとう」と言ったり、誰かが話

している時にその内容を伝えてくれたら、「ありがとうございました」だけでおしまいでは

なく、「そう!頑張れよ」なんて私が言うと、意外な返事をしてくれます。話を伝えてくれ

るのは楽しいからです。話を伝えても「はい、わかりました」といつも同じ返答だけでは、

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段々伝えるのが面倒くさくなってしまうという人もいます。そうではなく、私と接するの

は楽しいと思ってもらうために、伝えてくれた時私が「それ、必要?えぇ!そんなに長く

大変!」とか、「あれやると体が痛くなる、腰が痛くなるよね」なんて言うと、「そうそう」

っておしゃべりをして最後にありがとうと言って別れます。そういう明るい表現も。 羽生/みなさんはろう学校の先生、教員志望?みんな?二人も先生になるの?どこからき

たの? 谷/北海道です。 羽生/北海道のろう学校卒? 谷/中学校まではろう学校で、高校は普通高校です。 羽生/どこから来たの? 菅原/仙台です。 羽生/ろう学校卒? 菅原/幼稚部の年中まではろう学校で、その後はずっと普通学校にいました。 羽生/河田さんは知っているけど、宮教大に入った動機は? 菅原/私は高校の時海外に留学して、その時同じ聴覚障害の女の子に出会ってそれまで自

分の障害に関して考えた事がありませんでした。その女の子に会った後に詳しく知りたい

と思い、自分も聴覚障害のある子どもが普通の健常の世界に 1 人だけいる時に自分も助け

てあげられるような先生になりたいと思っていたので、先生になる事を決めました。 谷/私は中学部の時に(幼稚部から)ずっと友だちでいる事が嫌で、ろう学校を出たくて

普通高校に行きました。健聴の友だちとは凄く微妙な感じで、やっぱり健聴とろうは違う

んだと 2 年生の時に感じて、このままじゃ嫌だと思って健聴の友だちと話すようになりま

した。自分からいけば、お互いに合わせられると感じました。多分、他のろうのみんなも

健聴の世界とろうの世界があると感じていると思います。私はろう学校に先生になって、

自分から行動しなきゃ変わらないと思い、北海道でろう先生の免許が取れる大学がなかっ

たので、ここ宮教大に来ました。

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河田/いい先生に沢山恵まれて単純に先生になりたいと思っただけです。自分の障害につ

いても知りたいと思っていたのでその 2 つが結びついてろう学校の先生になりたいと思い

ました。 羽生/それが先生になりたい理由ですね。大学に入ってどうですか? 谷/ろう学校の免許が取れることと、やっぱり情報保障があることで有名な大学だときい

てここに来ました。 菅原/多分ここ以外に東北で聴覚障害について勉強出来るところはないときいたので、南

に行けば大丈夫だと思いますが、やっぱり出来るだけ近いところで勉強したかったし、そ

れだけです。 河田/私は、先生の息子が東北大学にいて、もう卒業したんですけど「仙台はいい所だね」

と言われて、「寒いけどいい所。おいしい物もいっぱいあるよ」と言われて仙台がいいなあ

と思いました。彼はここの大学の事を良く知っていて「ここ学食はおいしいよ」と言われ

て決めました。聴覚障害について勉強ができるんだったらどこでも良かったので、どうせ

ならごはんがおいしい所がいいなあと思いここに決めました。 羽生/この大学は情報保障に恵まれていますが、みなさんが大人になった時に逆に自分が

情報保障の制度を作っていく取り組みをしなければいけなくなる時が来ると思います。障

害者なら誰でもがそういう経験をすると思います。みなさんも言い方は悪いけど、大学の

中では聴者の世界がまあまあわかるし、社会の仕組みもわかります。みなさんは将来自立

できる力を持っています。そういうみなさんが未来の社会を作るために必要になります。

実際に宮教大と比べるのは失礼な話ですが、四国学院大学はろう学生がいっぱいて情報保

障は充分行きとどいていて手話通訳も大丈夫です。聴者の大学生のための、手話通訳にな

るための講座があって単位を取れば手話通訳者に、通訳士の国家試験が受けられる仕組み

も前に作っています。積極的にろう社会を作るために後押しをしていて、私が以前香川に

引っ越した頃はみんな恵まれている状況でしたが、その結果今は、ろう学生と通訳学生が

二分している状態です。ろう学生が通訳を受けるのは当たり前。更に、聴者の大学生と同

じようにノートテイクを真面目に受ける必要はないと。例えば、ノートテイクを見ていて

眠かったら眠ってもいい、ボーっとしていてもいい、そういう権利があるとろう学生が公

言しました。それをきいた通訳学生はガックリ。何のためにろう学生の支援をするのか?

通訳を受けるのはろう者として当たり前の権利があるから、聴者と対等だと。そうして眠

っている。聴者と同じ事をやってもいいはずというようにあっちこっちで公言しています。

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そのために今はあまり良くない状況になってしまっています。お互いにマナーというか、

お互い感謝の気持ちが必要ですね。自分は死ぬまで社会的な支援が必要です。でも、ずっ

といつまでも続くと思わないでください。年金も近い将来なくなると思います。年金がな

くなるというのは、不景気のことを含め、収入の少ない障害者がもっと増えると思われま

す。もしかしたら、ろう者は支援が受けられて幸せだと思っているのは今だけかもしれま

せん。明日はどうなるか、来年はどうなるのか、想像できません。 新しいろう学生が入ってきたら、きちんと情報保障についての意味や大切な事を教えな

ければならないかもしれません。実際に私が郡山女子短期大学でボランティアを募集し、

説明をしたり活動をしました。受けるのは私 1 人だけですが、1 人のために 20 人が一生懸

命書いてくれて喜んで手伝ってくれます。2 年後、卒業した時に、新しく 1 年生が、難聴の

女性が入ってきました。私は彼女にバトンタッチしようと思い、通訳が必要なのかどうか

尋ねました。彼女は難聴で、コミュニケーションには問題はないけれども、先生の話はわ

からないという事でした。彼女は自ら「私は難聴」きちんと「障害者です」と表明できな

い人でした。そのために、通訳は要らないと言うのです。「本当に要らないの?」「要りま

せん」というやり取りがあり、そういう訳でボランティアサークルは解散しました。私が

卒業した後、彼女は短大の 2 年間通訳なしで大変でした。私はその時香川にいましたが、

福島の彼女からよく連絡が入りました。「どう言えばいいかわからない。どうしたらいい

の?」と。「だからボランティアサークルを引き継げば良かったじゃない。あなたが要らな

いと言うから解散したじゃないの」と話しました。私に言われて彼女は「うーん…」と言

っていました。私は「とにかく私のように初めから募集をして立ち上げてみたら」と彼女

に言いました。彼女はおとなしい性格なので踏ん張ってやるという事ができません。 そうして彼女が卒業し、またろう学生が入ってきても、情報保障が必要な学生なんだけ

れども情報保障は何もありません。手伝ってくれる先輩も卒業してしまっているので先輩

から後輩に引き継ぐこともできない状況です。現在、大学にろう学生が 3 人いるのですが、

情報保障は何もありません。短大としては学生自ら「情報保障が必要です」と言ってくる

まで待つと言っています。ろう学生は「支援が必要です。私はろう者です。」と言えないで

います。勿体ないです。勿体ない事です。 情報保障は当たり前という考えを持たないでほしい。情報保障は当たり前の権利である

というのは確かですが、いつも続く権利とは言えません。なので、みなさんもわかってい

ると思いますが、通訳者に感謝の気持ちを忘れないでほしい。そのために新しいろう学生

が入ってきたら、情報保障とはなんなのか、またろうの世界について話をしていただきた

いと思います。

司会/他にききたい事はありませんか?そろそろ時間なのでみんながききたい事がなけれ

ば終わりにしたいと思います。ありがとうございました。