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機シ:統計熱力学 2019 (松本):p. 19 3 エントロピーと温度 この章では,互いに相互作用する2つの系 について考察し,どのような巨視的状態が実 現されるかを考える.この結果,温度 temperature の概念が統計力学的に(つまり微視的 に)導入されることになる. 3.1 問題設定:接触している2つの系 2つの系を考える.例えば,前章で扱った 自由電子気体 の系を考えよう.問題を簡単 にするために,それぞれに1つずつの電子が閉じこめられており,各々の体積は V 1 V 2 エネルギーは E 1 E 2 とする. まず,それぞれが完全に 孤立 した系(isolated system :体積不変で,外部とのエネルギー のやり取りもない)だとする.このとき,それぞれの系の巨視的状態 V E はもちろん 不変である. 次に,2つの系の間にエネルギーのやり取りがあると考えてみよう(図 3–6).例えば, I の電子が高いエネルギー状態から低いエネルギー状態に遷移 transition(特に,エネ ルギーが下がる変化は,脱励起 de-excitation と言う)したとする.これは,通常,エネル ギー変化 E 1 に応じた光(輻射)を放出 することによって可能である.このエネルギー 量子力学の知識によれば,振動数 ν の光子 photon はエネルギー 持っている.そこで,振動数 E 1 /h の光子を1つ放出することでこの遷 移が可能である. 【問題】一辺が 1μm の立方体の箱 の中に1つの電子が閉じこめられて いる.第1励起状態から基底状態に 遷移する場合に放出される光の波長 を求めよ. (略解) 前章で求めた立方体中の電子の 固有エネルギー,(2–44) , から基底 状態と第一励起状態のエネルギー差は E = E(2, 1, 1) - E(1, 1, 1) = 3 × h 2 8mL 2 である.光(電磁波)のエネルギーと波 長の関係から 波長 λ = c ν = c E/h = c 3 h 8mL 2 = 3.0 × 10 8 [m/s] 3 6.6×10 -34 [J s] 8×9.1×10 -31 [kg]×10 -12 [m 2 ] 1.1[m] これは「超短波」と呼ばれる電磁波領域で ある.もし,可視光(0.38 - 0.75 μmを得ようとすると,もっと小さな「箱」 に電子を閉じ込める必要がある.最近, 量子ナノドット quantum nanodots いう技術が進歩し,いろいろな波長の光 を取り出すことができるようになってき た. 発光する量子ナノドット (Wikipedia より) はすべて系 II に吸収されるとする.この結果,系 II の電子のエネルギー状態も変化(excitation)する.しかし,2つの系をあわせて考えると,全体としてはエネルギーは 保存される. 本章の問題設定 このようなエネルギーの授受が頻繁に起きている2つの系を長時間にわたって観察する と,我々は平均としてどんな巨視的状態を目にすることになるだろうか? ただし,電子自体はそれぞれの系に閉じこめられている(即ち 物質の移動はない)ものと し,また体積も変化しない(つまり 仕事のやり取りも発生しない)と仮定する. ... ... System I System II hv 3–6: 2つの自由電子系の間のエネルギー授受の模式図

3 エントロピーと温度 - 京都大学...System ISystem II hv 図3{6: 2つの自由電子系の間のエネルギー授受の模式図 機シ:統計熱力学2019 (松本):p

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機シ:統計熱力学 2019 (松本):p. 19

3 エントロピーと温度

 この章では,互いに相互作用する2つの系 について考察し,どのような巨視的状態が実

現されるかを考える.この結果,温度 temperature の概念が統計力学的に(つまり微視的

に)導入されることになる.

3.1 問題設定:接触している2つの系

 2つの系を考える.例えば,前章で扱った 自由電子気体 の系を考えよう.問題を簡単

にするために,それぞれに1つずつの電子が閉じこめられており,各々の体積は V1と V2,

エネルギーは E1 と E2 とする.

 まず,それぞれが完全に孤立した系(isolated system:体積不変で,外部とのエネルギー

のやり取りもない)だとする.このとき,それぞれの系の巨視的状態 V と E はもちろん

不変である.

 次に,2つの系の間にエネルギーのやり取りがあると考えてみよう(図 3–6).例えば,

系 Iの電子が高いエネルギー状態から低いエネルギー状態に遷移 transition(特に,エネ

ルギーが下がる変化は,脱励起 de-excitation と言う)したとする.これは,通常,エネル

ギー変化∆E1 に応じた光(輻射)を放出 することによって可能である.このエネルギー

量子力学の知識によれば,振動数 νの光子 photon はエネルギー hν を持っている.そこで,振動数∆E1/hの光子を1つ放出することでこの遷移が可能である.

【問題】一辺が 1µmの立方体の箱の中に1つの電子が閉じこめられている.第1励起状態から基底状態に遷移する場合に放出される光の波長を求めよ.

(略解) 前章で求めた立方体中の電子の固有エネルギー,(2–44) 式, から基底状態と第一励起状態のエネルギー差は

∆E = E(2, 1, 1) − E(1, 1, 1)

= 3 ×h2

8mL2

である.光(電磁波)のエネルギーと波長の関係から

波長 λ

=c

ν

=c

∆E/h

=c

3 h8mL2

=3.0 × 108[m/s]

36.6×10−34[J s]

8×9.1×10−31[kg]×10−12[m2]

≃ 1.1[m]

これは「超短波」と呼ばれる電磁波領域である.もし,可視光(0.38− 0.75µm)を得ようとすると,もっと小さな「箱」に電子を閉じ込める必要がある.最近,量子ナノドット quantum nanodots という技術が進歩し,いろいろな波長の光を取り出すことができるようになってきた.

発光する量子ナノドット (Wikipediaより)

はすべて系 IIに吸収されるとする.この結果,系 IIの電子のエネルギー状態も変化(励

起 excitation)する.しかし,2つの系をあわせて考えると,全体としてはエネルギーは

保存される.

本章の問題設定

このようなエネルギーの授受が頻繁に起きている2つの系を長時間にわたって観察する

と,我々は平均としてどんな巨視的状態を目にすることになるだろうか?

ただし,電子自体はそれぞれの系に閉じこめられている(即ち 物質の移動はない)ものと

し,また体積も変化しない(つまり 仕事のやり取りも発生しない)と仮定する.

...

...

System I System II

hv

図 3–6: 2つの自由電子系の間のエネルギー授受の模式図

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機シ:統計熱力学 2019 (松本):p. 20

3.2 観測される巨視的状態

 このような問題設定においては,もはや各々の系のエネルギー E1, E2 は定数ではない.

しかし,仮定により,その総和 (全エネルギー) E1 + E2 ≡ E は一定に保たれている.そ

こで,この問題は次のように言い換えることができる.

問題の統計力学的記述

E = E1 + E2 が一定という条件の下で,最もよく観測される巨視的状態を求めよ.

 どのような巨視的状態が観測されやすいかは,その多重度の大きさに比例すると考えらよく上げられる例として,サイコロの目を考えよう.1つのサイコロを振るとき,「偶数の目が出る(多重度は 3)」確率は「1の目が出る(多重度 1)」確率の3倍である.このように,確率は多重度に比例すると考えられる.これを,等重率の原理 principle of equal probabilityとよぶことがあるが,ある意味では自明,あるいは同義反復(トートロジー, tautology)である.

れる.各々の系の多重度が,エネルギーの関数 g1(E1),  g2(E2)としてわかっているとす

ると,2つを併せた系の多重度はもちろんその積 g1(E1)g2(E2) によって表される.そこ

で,次のような数学の問題に帰着する:

問題の数学的記述

E = E1 + E2 が一定という条件の下で,g1(E1)g2(E2)が最大となる状態は何か?

これは,条件付き極値問題 conditional extremum problemと考えてもよいが,E2 = E−E1 Lagrange未定乗数法を用いて条件付き極値問題として扱うこともできる.各自で考えてみよ.によって E2 を消去することでもっと簡単に解くことができる.

極値条件⇐⇒ ∂

∂E1[g1(E1)g2(E − E1)] = 0 (3–53)

よって,∂g1(E1)

∂E1g2(E − E1) + g1(E1)

∂g2(E − E1)

∂E1= 0 (3–54)

両辺を g1g2 で割って

1

g1(E1)

∂g1(E1)

∂E1+

1

g2(E − E1)

∂g2(E − E1)

∂E1= 0 (3–55)

ここで,∂g2(E − E1)

∂E1= − ∂g2(E2)

∂E2

∣∣∣∣E2=E−E1

(3–56)

に注意すると,この条件 (3–55) は次のように表せる:[1

g1(E)

∂g1(E)

∂E

]E1

=

[1

g2(E)

∂g2(E)

∂E

]E−E1

(3–57)

あるいは,対数微分の公式を用いるとd log x

dx=

1

x(∂ log g1∂E

)E1

=

(∂ log g2∂E

)E−E1

(3–58)

おもしろいことに,左辺は系 Iのみ,右辺は系 IIのみの性質で決まっている.

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機シ:統計熱力学 2019 (松本):p. 21

結局,先ほどの問題に対する答は,

エネルギーの授受がある2つの系について,最もよく観測されるのはそれぞれの系の∂ log g(E)

∂Eが互いに等しいときである.

 この一般論の結果を,自由電子系について具体的に調べてみよう.前章の結果 [式 (2–47)]

から,

g1(E1) =25/2πm3/2V1

h3

√E1

g2(E − E1) =25/2πm3/2V2

h3

√E − E1

(3–59)

である.そこで,問題は

g1(E1)g2(E − E1) =25π2m3

h6V1V2

√E1(E − E1) (3–60)

が最大となるような E1 を求めることに帰着する.√

x(D − x) は中心が D/2,直径が

D の半円であるから,E1 = E2 = E/2 のときに最大となることがわかる.つま

り,互いにエネルギーの授受がある2つの自由電子系においては,各々のエネルギーが

等しく分配された状態が最もよく観測されるであろう.もちろん この結論は,ここで考えているような自由電子系について成り立つ特殊なものであり,一般的なものではない.log g1(E1) = log

(25/2πm3/2

)− 3 log(h) + log(V1) +

1

2log(E1) (3–61)

などを使って,式 (3–58)から直接に E1 = E2 を導いてもよい.

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機シ:統計熱力学 2019 (松本):p. 22

3.3 熱平衡の条件:温度とエントロピー

 前節のようにエネルギーの授受がある2つの系が,条件 (3–58) を満たしていると,

それ以上の巨視的な変化は起こらないことが期待される.このとき,2つの系は 熱平衡 もちろん微視的状態は様々に,あるいは時々刻々,変化しているだろう.

thermal equilibrium状態 にあるという.逆に,熱平衡状態にない2つの系は,平衡状態に

比べてその微視的状態の数が少ないので,微視的状態の数が最大となるまでエネルギーの

授受が続く(すなわち系の変化が続く)ことになる.

 ところで,熱力学では,エネルギーの授受がある系について,我々は次のことを経験的

に知っている:

(熱力学の復習)

エネルギーの授受がある2つの系は,平衡状態において温度が等しい.

従って,条件 (3–58)に現れる物理量∂ log g

∂Eは温度と関連があるだろうと推測できる.そこ

で,温度 T と内部エネルギー Eの関係として使えそうな熱力学の関係式を探してみよう:

(熱力学の復習)

熱平衡状態にある系のエネルギーの微小変化について,エネルギー保存則から

dE = d−Q− d−W = TdS − PdV (3–62)

である.ここで,d−Qは系が外部からもらう熱量,d−W は外部に対してする仕事,S は

エントロピー entropy,P は圧力である.従って,導関数について次の表式が得られる:(∂E

∂S

)V

= T あるいは(∂S

∂E

)V

=1

T(3–63)

(∂E

∂V

)S

= −P あるいは(∂V

∂E

)S

= − 1

P(3–64)

我々が前節で得た結果と比較すると,次のように対応づけるのが自然だろう:

(3–62) 式において,熱量や仕事は熱力学量ではない(経路に依存する)ので,数学の意味での微分量では表せない.このため,d−Q,d−Wと書いて,微分量 dS や dV などとは区別した.

log g(E) =S

c(3–65)

このとき∂ log g(E)

∂E=

1

cT(3–66)

ここで,c は熱力学と比較して別途定めるべき 定数 である.

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機シ:統計熱力学 2019 (松本):p. 23

3.4 古典理想気体の例:温度単位を定めるために

 比例定数 cを,単原子理想気体の知識(経験則)を使って定めよう. 温度スケールを定義するには,他にもいろいろな方法がある.詳しくは,たとえば Kittel の教科書:付録Bを参照のこと.(熱力学の復習)単原子理想気体の性質

 体積 V の箱の中に閉じこめられた単原子理想気体 のエネルギー(内部エネルギー)

は,温度(絶対温度)T のみに依存し,体積にはよらない.また,定積比熱は定数であ

り,Cv = 32Rである.ここで,Rは気体定数であり,1モル当たりでは 8.314 J/(mol·K)

である.これらのことから,nモルの系では

E =3

2nRT (3–67)

であることがわかる.

 エントロピーは,一般的な熱力学関係式 ∂S∂E = 1

T を積分することにより

S(V, T )− S(V, T0) =

∫ E(T )

E(T0)

1

TdE (3–68)

と表されるが,T = 23nRE を使って

S(V, T )− S(V, T0) =

∫ E(T )

E(T0)

3nR

2

1

EdE =

3nR

2log

E(T )

E(T0)(3–69)

すなわち

S(V, T ) =3nR

2log T + const. (3–70)

あるいは,

S(V,E) =3nR

2logE + const. (3–71)

の形になることがわかる.

 一方,この系で,微視的状態の数を数える(=多重度 g(E)を求める)ためには,各粒

子がそれぞれ位置と運動量の自由度をもつことを考慮する必要がある. これは,古典力学の範囲内での話である.量子力学においては,位置と運動量は相補的であり,両者を完全に独立に与えることはできない(不確定性原理 principle of uncertainty).それでも,それぞれの方向に運動の自由度は 2 であると考えてよい.

(1) 位置の自由度について

 各粒子が独立に V に比例した微視的状態をとることができると考えられる.

(2) 運動量の自由度について

 全エネルギー E が与えられているので,条件

E =

N∑i=1

p2i2m

(3–72)

が課せられる.(mは粒子質量)すなわち,3N 次元の運動量空間 (p⃗1, p⃗2, . . . , p⃗N )の

うちで,この条件に当てはまるものだけが許容されることになる.自由電子系の場 半径 R の ν 次元の球の体積は,厳密に計算することができて,結果

はπν/2

Γ(ν/2 + 1)Rν であることが知

られている [Γ(n) はガンマ関数].しかし,後でどうせ対数をとるの

だから,ここでは,R の べき

冪  (指数,power) だけが重要で,これはもちろん ν である.

合 [式 (2–47)]と同様に考えて,

状態の数 ≃ 3N 次元の運動量空間の球殻の体積

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機シ:統計熱力学 2019 (松本):p. 24

∝ p3N (E +∆E)− p3N (E)

∆E

∝ E3N−1

2 (3–73)

以上の考察より,次式が得られる:

g(E) ∝ V NE3N−1

2 (3–74)

よって,

log g(E) =3N − 1

2logE +N log V + const. (3–75)

式 (3–71)と比べると,N が十分大きい場合に

R = NAc (3–76)

となる(NAはアボガドロ数 Avogadro number,≃ 6.022× 1023).すなわち比例定数 cは

c =R

NA≃ 1.381× 10−23 J/K (3–77)

と決めることができる.こうして決められた定数は,ボルツマン定数 Boltzmann constant

とよばれ,自然界の普遍定数の1つである.通常,kB,あるいは他の変数と紛らわしくな

Ludwig Boltzmann (1844–1906)ウィーン生まれ,イタリア国籍の物理学者.ウィーン中央墓地にある彼の墓は,S = k logW と刻まれていることで有名である.

写真と生涯 (抜粋) はWikipedia より

1877 年に発表した論文「熱平衡法則に関する力学的熱理論の第 2主法則と確率計算の関係について」においてボルツマンの関係式を導き,エントロピーと系のとりうる状態との関係を明らかにした.(中略)ジョン・ドルトンが提唱した原子論は当時の科学会では完全に受け入れられておらず,原子論の立場をとるボルツマンは、実証主義の立場から原子の存在を否定するエルンスト マッハやヴィルヘルム オストヴァルトらと対立し,激しい論争を繰り広げた.そのためもあって晩年はうつ病に苦しみ,アドリア海に面した保養地ドゥイノで静養中,家族が目を離したすきに自殺した.

い場合は単に kで表す.

 以上の考察によって,次の重要な表式が得られた.

多重度密度 g(E)は系のエントロピー S(E)と次の関係にある:

S(E) = kB log g(E) (3–78)

これは,Boltzmannの関係式と呼ばれている.この式は,微視的な物理量 gと巨視的な熱

力学量 Sを直接に関係付ける式として,統計力学と熱力学を橋渡しする重要な式である.

 なお,基底状態に近くてエネルギーの離散性が顕著な場合には,密度 g(E)ではなく多

重度W (E)そのもので考えるべきであり,この時は

S = kB logW (3–79)

と表現できる.適当に小さな∆E に対して

W (E) ∼ g(E)∆E (3–80)

によって密度 g(E)が定義されるのであるが,Boltzmannの関係式では,その対数 log g(E)が

重要であり,定数部分 log∆Eを特に考える必要はない.以下,この講義の中では,式 (3–78)

と式 (3–79)は特に区別することなく,主として式 (3–78)を用いることにする.

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機シ:統計熱力学 2019 (松本):p. 25

3.5 「エントロピー」についてのコメント

3.5.1 エントロピー増大則

  Boltzmannの関係式によって,多重度とエントロピーが一意的に結びつけられた.ある

いは,エントロピーの正体が統計力学により明らかにされた,とも言える.ところで,熱

力学において次の原理はよく知られている:

Rudolf Julius Emanuel Clausius(1822–1888) ドイツ生まれの理論物理学者.

(熱力学の復習)エントロピー増大の原理

 クラウジウスは熱力学第2法則の1つの表現を次のように与えた:

「自然界のエントロピーの総和は,その極大値に向かって増加し続ける.」

もう少していねいに言うと,「孤立系の中のエントロピーの総和は,一般に増加し,決して減少することはない.可逆変化の場合のみ不変である.」

 前節で導いたように,エントロピーが多重度に対応することを認めると,この エントロ

ピー増大の原理 は容易に理解できる.すなわち,「系内での変化は,必ず多重度が増加す

る方向に起きる」ということである.つまるところ,統計力学の立場では,エントロピー

増大の原理は,「より出現しやすい状態が出現する」という,ほとんど同義反復に近いこ

とを述べていたのである.

3.5.2 エントロピーの示量性

 エントロピーは多重度関数の対数で表されている.これにより,エントロピーが

示量性変数 quantitative variableであることが保証される.すなわち実際に観測可能な熱 系の大きさに比例して値の変わる物理量.例えば体積,エネルギー,質量など.反対語は,示強性変数qualitative variable で,系のサイズを変えても値が変わらない.例えば,温度,圧力,密度など.

力学量として通用することになる.例えば,全く同じ系をM 個用意したとすると,全体

の多重度は明らかに

g = g1(E1)× g2(E2)× · · · × gM (EM ) (3–81)

となる.このとき

S = kB log g

= kB [log g1(E1) + log g2(E2) + · · ·+ log gM (EM )]

= S1 + S2 + · · ·+ SM (3–82)

となるから,確かに,エントロピーは加算的,すなわち示量性であることがわかる.

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機シ:統計熱力学 2019 (松本):p. 26

3.5.3 非平衡状態におけるエネルギーの移動

 経験的には,温度の異なる2つの系を接触させると,「高温の系から低温の系へ」とエネ

ルギーが移動する.このことを,統計力学で説明してみよう.

 必ずしも平衡とは限らない2つの系の間に,エネルギーの授受があったとする.系 1か

ら系 2に微小なエネルギー∆E が移ったとすると,多重度の変化は

∆g = g1(E1 −∆E)g2(E2 +∆E)− g1(E1)g2(E2)

≃(g1(E1)−

∂g1∂E

∆E

)·(g2(E2) +

∂g2∂E

∆E

)− g1(E1)g2(E2)

=

(g1(E1)− g1(E1)

∆E

kBT1

)·(g2(E2) + g2(E2)

∆E

kBT2

)− g1(E1)g2(E2)

            (∵

1

kBT=

∂ log g

∂E=

1

g

∂g

∂E

)≃ g1g2

kB

(1

T2− 1

T1

)∆E    (∆E の1次項まで残した) (3–83)

従って,正のエネルギー∆E > 0が系1から系2に移動して多重度が増加 (∆g > 0)する

ためには,1

T2− 1

T1> 0,すなわち T1 > T2 でなければならない.すなわち,温度の異な

る2つの系が接触すると,高温側から低温側にエネルギーが流れることが,統計力学的に

証明された.

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機シ:統計熱力学 2019 (松本):p. 27

3.6 この章のまとめ

(1) 互いにエネルギーのやり取りがある2つの系について,多重度が最大になる状態を

求めると,次の熱平衡条件 が得られる:

∂ log g1∂E1

=∂ log g2∂E2

(2) 熱平衡にある2つの系は温度が等しいという熱力学の要請により,温度が統計力学

的に定義される:1

T= kB

∂ log g

∂E

それと共に,多重度とエントロピーが Boltzmannの関係式 により結びつけられる:

S(E) = kB log g(E)

ここで,kB は Boltzmann定数 1.381× 10−23 J/Kである.

 なお,この式を変形すると,多重度をエントロピーで表現する式が得られる:

g(E) = exp

[S(E)

kB

](3–84)

この式も,後の章でしばしば利用される.

(3) 熱力学の経験法則として知られている「エントロピー増大の原理」や「高温から低

温への自発的な熱の移動」も,Boltzmannの関係式に基づいて説明できる.

演習

前章で扱ったもう1つの例,「磁場中の孤立スピンの集団」について同様の扱いをしてみよ.すなわち,2つのスピン系の間にエネルギーの授受があるとき,観測される巨視的状態を求めよ.

演習

この章では,エネルギーの総和が決められたときにそれをどう分配したら多重度が最大になるかを議論した.類似の議論を,前章の演習問題で扱った「連結された棒のモデル」について行ってみよ.この場合には,エネルギーではなくて,2つの鎖が連結されたときに,各々の長さがどうなるかを考えることになる.