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4.課外活動(ゼミナール)の思い出の記 ―279―

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4.課外活動(ゼミナール)の思い出の記

―279―

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「集落地理ゼミナール」創立の頃

高山 裕二(1969 年卒)・深谷 元(1968 年卒)

1.ゼミ創立頃の地理学科

昭和 30年代末の駒沢大学地理学科は,1学年

が60名で全学生合わせてもおよそ240名という

小所帯でした。地理学科の施設は,地理学科研

究室一室と地理資料室のみでした。この地理資

料室は岩石・地形標本・機材などを保管してい

ましたが,地理学科学生の研究室としても利用

されていました。学生は 1日 1回は必ず資料室

に顔を出し,駒沢地理学会の動向をキャッチす

る事になっていました。また,ゼミナール活動

や学生同士のディスカッションの場,学生の憩

いの場としても大いに利用されていました。

2.ゼミの創立

昭和 30年代末の駒沢大学地理学会では,毎年

大学祭に出展するために調査研究を行っていま

した。調査の中心は,すでに活動をしていた自

然地理ゼミ・人文地理ゼミのメンバーで,昭和

39 年には青梅市の地理学的調査が行われまし

た。この調査にフリーで参加していたのが,集

落地理ゼミを設立した当時 2年生だった本間・

長屋両先輩でした。この調査で,両先輩は新町

の新田集落の調査を担当しましたが,この調査

が,後の集落地理ゼミ設立のきっかけとなりま

した。

翌年の昭和 40年,地理学科内に各種ゼミが設

立されましたが,本間・長屋先輩もこの 2年間

の経験を活かし,「集落地理ゼミ」にしようと活

動を始めました。当時学生の面倒をよく見てお

られ,よく相談にのってくださった大和英成先

生に相談し,この年から「集落地理学」の講座

を担当されることになった上坂修夫先生に指導

教官をお願いし,当時の 2年生数名で集落地理

ゼミが発足しました。

3.設立当初の活動

集落地理ゼミの最初の大きな活動は,昭和 40

年 8月の多摩川支流・秋川流域の檜原村の山村

調査でした。東京都西多摩郡檜原村数馬で合宿

し,檜原村全域の集落をくまなく調査,とくに

兜造り民家の研究を行いました。その成果は大

学祭に発表し,大好評を得ました。この檜原村

は,集落地理ゼミの原点であり,後輩たちも巡

検や新入生歓迎会,卒業生追い出しコンパなど

でたびたび訪れました。その他,日帰り巡検や

研究会などを実施するなどの活動を続けてきま

した。さらに,水郷巡検・武蔵野台地巡検・川

崎巡検などの日帰り単位巡検の企画に集落地理

ゼミの先輩方が企画を担当するなど,地理学科

内でも認められた組織となっていました。当時

(写真)桧原村数馬の兜造りの民家

(昭和 40年頃の岡部家)

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の地理学科年間行事を見ると,自然地理,人文

地理ゼミの合宿調査とともに,集落地理ゼミの

合宿調査も記載されていることからもこのこと

がうかがえます。

当初は 2 年生数名で出発しましたが,2 年目

以降は 1年生・2年生などの多数の加入があり,

2~30 名を越す規模になり,活動も一層活発に

なってきました。第 2回合宿調査は,栃木県那

須野原台地で,明治期の開拓集落をテーマに調

査研究を行いました。3 年目以降,川越・駒ヶ

根・水戸・小川などで合宿をし調査研究を行い

ました。その他,三富新田・檜原村・多摩丘陵・

九十九里・上野原などの研究会主催の日帰り巡

検も毎年数回実施し,お互いの見聞を広めてい

きました。

ゼミの活動は研究のみでなく,マイクロバス

を借り中津川渓谷へバーベキューに行き楽しい

1 日を過ごすなど,学生同士の親睦行事もたび

たび行われました。当時の集落地理ゼミは組織

力があり,地理学科内でもユニークな活動をす

る研究会としても評判で,当時のメンバーたち

は,勉学に遊びに楽しい学生生活を送っていま

した。

後年,集落地理ゼミの名称も集落地理研究会

と変わりましたが,その活発な活動は 20年以上

にわたって後輩の皆さんに受け継がれてきまし

た。しかし,いまでは集落地理研究会が消滅し

てしまったと聞き,大変残念でなりません。

昭和四十年代の「人文地理ゼミナール」

玉井 建三(1969 年卒)

大学闘争の駆け抜けた時代は,駒沢のキャン

パスにおいても荒れた時期であった。講義は休

講が続き,学年末の試験はレポート提出等,人

間関係までもが,どこかギスギスしていた時代

であった。最高学府としての,本来の教育環境

を取り戻せない時期に,私は学部時代から大学

院時代を,駒沢で過ごさせていただいた。

そうした空しい時期に指針を与えて下さった

のが,「人文地理ゼミナール」の指導教授であら

れた故大和英成先生であった。先生の「君も入

会するかね」というお言葉を頂戴したことが,

直接ご指導を仰ぐきっかけになったと記憶して

いる。丁度昭和 40年の初秋で,正門右手,銀杏

の老樹が色づくころであった。

学究の基本も知らない私を,末席に置いてい

ただいて 8年。当時大和英成先生のご指導を賜

ることは,直ちに「人文地理ゼミナール」に所

属することでもあったから,よけい学問に没頭

できたのである。大学紛争の時期,家庭的雰囲

気のなか,ご教示下さった先生にゼミ生一同感

謝申し上げている。

当時大和先生を慕ってくる学生は多く,ひい

てはそれがゼミ生の増加にもつながり,昭和 43

年には総勢 30余名もの大所帯となった。その所

帯を束ねて活動するには,ゼミ生がそれぞれの

立場から,精力的に参加できる環境づくりが不

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可欠であったため,毎年共通するテーマを設け

資料収集と調査,そして報告書を編むことが必

要であった。それを大和先生の熱心なご指導と,

先輩後輩の垣根をこえた家庭的ゼミで解決させ,

活動の継続が可能となったのである。まさに大

和先生とともに歩んだのが,昭和 40年代の「人

文地理ゼミナール」である。

その成果は「黒部川扇状地の農業」「山形県東

根市の農業」「三浦半島の農業」「埼玉県奥秩父

山村の日向斜面の農業」「北上川流域水沢・江刺

の農業」となって編まれている。巡検調査とし

ては五島列島の水産養殖業,島原半島の馬鈴薯

栽培,南予の機械化養蚕,瀬戸内海島嶼部の柑

橘栽培,天水田地域の農業,白根市の農業など,

全国各地を踏査している。ここで学んだフィー

ルドワークが,現在私の学生指導にも活かされ

ている。気がついてみると,一時代が過ぎてい

た。

写真 1 「人文地理ゼミナール」三浦半島コン

パ(昭和 43年 2月)

このコンパがきっかけとなって,「三浦半島の農業」

が報告された。写真のメンバーは 2,3,4年ゼミ生。

写真 2 三陸海岸巡検調査(昭和 44年 8月)

写真右から 2番目が大和英成先生,左端が筆者。

「山村地理学ゼミナール」の創設とその後

山野 明男(1969 年卒)

駒澤大学文学部地理学科 75 周年おめでとう

ございます。昭和 39年の東京オリンピックの翌

年に入学した私ですが,当時は駒沢公園が完成

し芝や木々も植込んだばかりでしたが,今では

鬱蒼とした並木になっているようです。月日の

経つのが早く感じられ,学生服で渋谷から玉電

に揺られて通学した毎日を,懐かしむ年頃にな

りました。

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さて,私が 2年生のとき,当時の農林省農業

技術研究所経営立地室長であられた上野福男先

生が大学院設置のため教授で赴任されました。

上野先生は,当時日本地理学会で農業地理学の

重鎮であられ,とくに高冷地山村の研究で理学

博士の学位を取得され,山村に深い造詣があり

ました。

この時期,地理学科では学生主体の地理学会

が運営されて,その傘下に学生による自主ゼミ

がいくつかありました。もちろん,顧問は専任

の教授陣でした。私も集落地理学ゼミに参加し

活動しておりました。地理学会の企画委員とし

て単位巡検の世話をしているとき,水郷潮来巡

検の事前調査で上野先生と出会い,それ以来先

生のご指導を仰ぐようになりました。そこでは,

先生の博識と蔵書数の多さに驚かされました。

このようなことから,山村関係の蔵書が多く,

アドバイスもいただけるのなら,上野先生に顧

問をお願いし,いっそ新しく山村地理学ゼミを

設立しようと思い立ったのです。当時,新しい

ゼミを設立するには,本学の地理学会の承認を

必要としたので,同じゼミにいた 1年後輩の藤

原亨君に申請を出してもらい,学会の承認を受

けました。また,藤原君の同級生や後輩を誘っ

て計 9名のメンバーで,翌年の昭和 42年 4月か

ら正式に発足いたしました。それから平成 10

年頃まで,この山村地理学ゼミナールは約 30

年余りも続きました。

私は大学院に院生として 5年間,山村ゼミの

様子を見ることができましたが,その後は,5

年後輩にあたる貫江博之君が,駒澤大学の職員

として大学に残ってくれたため,ゼミを陰から

支えてくれました。

上野先生が退官されるのを機に,ゼミの顧問

がいなくなるのを心配しましたが,東京都立大

学から赴任された気候学の中村和郎教授が顧問

を快諾下さり,山村ゼミを指導していただきま

した。このように顧問の先生方や貫江君の援助

により,順風満帆なゼミ活動が行えたと感謝い

たしております。山村ゼミ会員の卒業生だけで

も,110名を超えております。

このような経過をたどった山村ゼミでしたが,

最初は家族的な集まりだったように思います。

毎週,時間を決めてゼミを開きましたが,上野

先生の別刷や山村関係の文献を読んで,討論し

ていたように思います。

最初の年の夏休みには,長野県の菅平に 3泊

の現地調査に全員で出掛けました。ゼミ員 9名

のうち 1名が女性であり,宿には 1つの小さな

浴室しかなく,その女性が入浴の際には,他人

が入らぬよう門番を立てて見張っていたという,

懐かしい思い出もあります。この調査の成果は,

「菅平の立地と土地利用」と題する報告書を出

すことが出来ました。また,当時発行していた

駒澤大学地理学会の機関誌「デルタ」4 号にも

「菅平における高冷野菜の生産」と題して報告

が出ています。その後も,いくつかの報告書が

出されております。

4 年の卒業時には,追い出しコンパが恒例と

なり,このとき数名の OB も駆けつけ,卒業生

を祝うようになりました。20周年を記念して東

京で OB 会(同窓会)が開かれた際,OB 会を

地方の持ち回りで開催することが決定されまし

た。平成元年には,まず名古屋で,その後も埼

玉,北九州,奈良,八王子,仙台,松山,千葉

の順に,各地において隔年で開かれております。

地方幹事は,この時とばかりにハッスルして地

域を案内し,OB 会は大変意義のある会となっ

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ています。OB 会の開催は,夏休みが多く,土

曜日の夕方宿舎に集まり懇親会をもち,翌日の

日曜日に周辺の巡検を行っています。毎回 20

名を超える参加者があり,最近は家族連れでの

参加が目立つようになりました。

卒業後の進路は,まちまちで,多方面に活躍

されています。小学校から大学までの教員や民

間会社,自営業,農業,公務員など多彩であり,

ほとんどの人が山村地理学と何の関係ない職業

なので愉快です。

なお,12期生の池永正人君が山村研究を続け,

2001年にアルプス・チロルの山村研究で千葉大

学から博士(学術)の学位を取得したことは,

ゼミとして特筆すべきことです。

顧問であった上野福男先生は,退職後も研究

を続けられておりましたが,2000年 5月に天寿

を全うされ 91歳で永眠されました。

数年前には,2 期生の水谷和彦君の尽力で,

インターネットのHPにおいてこの「山村地理

学ゼミナール」が開設され,いつでも閲覧並び

に掲示板に書き込みができるようになりました。

HPのアドレスは下記の通りですので,ご覧

いただき,OB間の連絡や親睦にぜひご利用くだ

さい。http://www5e.biglobe.ne.jp/~sanson/

写真 1 平成 5 年度駒澤大学山村地理学ゼミナ

ール同窓会平尾台巡検(平成 5年 8月 23日)

写真 2 菅平での現地調査(昭和 42年 8月)

自然地理ゼミナール

角田 清美(1970 年卒)

手元に,『自然地理研究会MEIBO』と題する,

セピア色をした薄い名簿がある。刊行は昭和 46

年度となっているので,私が学部を卒業してか

ら 2年後に出されている。役に立ちそうにもな

いので,捨てようとも思うのだが,なぜか捨て

られない。どこかに学生時代の想い出が残って

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いそうな気がするので,本棚の隅に並べている。

変色した表紙を巡ると,4 年生には荻原 茂

君・鈴木恒雄君・平岡俊光君を含めて 5 人,3

年生には鈴木宣夫君・北原佳代子さんを含めて

4人,2年生には石綿しげ子さん・山口一俊君・

宮原俊一君を含めて 9人,そして 1年生には河

内敏弘君を含めて 7人,合計 25人の氏名が掲載

されている。大人数の所帯である。住所を見る

と自宅からの通学者は少なく,多くはアパート

や下宿の住所で,帰郷先が併記されている。

さて,私が地理歴史学科地理学専攻に入学し

た昭和 41年春には,「○○地理ゼミナール」と

称する団体が 5~6あった。その前に,駒澤地理

学会と称する団体があり,地理学専攻に入学し

た学生は会員として,地理学会に自動的に加入

することになっており,地理学教室の先生方は

顧問であった。あやふやな記憶だが,入学して

から 2週間目だった頃,本館 2階の講堂で,学

会の総会があり,その席で各ゼミナールの紹介

が行われた。そこでは,専門分野の紹介の後,

‘ゼミの入会は強制ではないが,駒沢に入学し

たのだから,地理の勉強をするためには出来る

だけ入会するように’といった内容の説明が,2

年生の泉 理章さん(長崎県出身)からあった。

入学早々親しくなった浅野徳一郎君(大分県出

身)や岩崎和彦君(千葉県),あるいは鈴木克博

君(栃木県)・矢吹峰男君(広島県)・吉井俊秋

君(佐賀県)といった近くの友人に相談すると,

鈴木克博君は大和英成先生が顧問の人文地理ゼ

ミにすでに顔を出し,あるいは岩崎和彦君も上

坂修夫先生が顧問をされている集落ゼミに入っ

ているとのこと。矢吹峰男君はラテンアメリカ

研究会に入会したので,ゼミには入らないと言

う。また吉井俊秋君は箱根駅伝を目指して陸上

部に入ったので,やはりゼミに入らないと言う。

周囲の学友の話を聞くと,皆が目的を持って地

理学科に入学している立派な人たちのように見

え,取り立てて言えるような目的を持って駒澤

に入学したとは言えない自分を省み,どうにか

しなければと考え,「浅野,どうする。どこかに

入ろうか。」と言うことになり,説明会の席で説

明が最も良かった田賀野登美雄さんの「自然ゼ

ミナール」に,なんとなく浅野君と一緒に入会

することにした。数日後,入会希望者は 2号館

の 214教室に集合するようにとの連絡があり,

行ってみると,浅野君のほか,安達 寛 君(北

海道)・安藤晴江さん(神奈川県)・小池 洋 君

(新潟県)・坂入 誠 君(茨城県)・民繁正信君

(山口県)・野中久嗣君(福岡県)・永保須以子

さん(神奈川県)・美濃部吉永君(岩手県)・山

内公子さん(神奈川県)などがいた。

3 年生の田賀野さんの説明には迫力があり,

また魅力的であった。同席された西田修爾さん

は,口数は少なかったがカリスマ的な話しぶり

で,色々な話を聞いているうち,自分もヤット

大学生になったような気がした。その後,少し

ずつ分かったことだが,「自然ゼミナール」は昭

和 35年頃に成立したとのこと,親睦会としての

性格ではなく,当初から研究会としての性格が

強いとのこと,毎週 2回程度で 1回につき 2時

間程度の勉強会を行うとのこと,休日には巡検

を行うとのこと,少数精鋭で活動するので退会

は自由といったグループであった。当時の 4年

生には,別章に追悼文がある広島三朗さん(東

京都出身)・真鍋勝三さん・菅原さん(新潟県)・

小森雅彦さん(北海道),3年生には田賀野登美

雄さんや西田修爾さんのほか,高橋美樹さん(愛

媛県)がいた。高橋さんは異常と思えるほどの

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勉強家で,学習会の予習を怠ってくると,同級

生であっても真面目に叱り飛ばしていた。私な

どは,叱られるのがイヤなため勉強している状

態であった。2 年生には竹山洋司さん(福島

県)・青木紀人さん(北海道)・太田二三夫さん

(山形県)・宮田 満 さん(広島県)などがお

り,いずれも勉強家であった。私が入学した 4

月より 1ケ月前に卒業された門脇和博さんは,

東京都立大学大学院へ進学されたこともあり,

自然ゼミの先輩たちは探求心に燃えている方々

ばかりであったが,私を含めたヒヨコたちは,

先輩たちに叱咤激励されながら,右往左往して

いるばかりであった。

私が 1年生の秋頃におけるゼミの状況は,週

に 2回程度,2号館の空いている教室に集まり,

久野 久 著『火山および火山岩』の輪読会であ

った。この本をテキストに決めたのは,真鍋勝

三さんだったと言う。日本語で書かれた本であ

ったが,地学についての知識が全くなかった私

は,当初はほとんど理解できなかった。理解で

きないままに聴いていると,西田さんなどは「質

問せよ」と言う。そう言われても,当方として

は,何を質問していいか分からない。そうする

と,高橋さんに叱られる。叱られるのがイヤで,

美濃部君や民繁君はゼミをサボる。辛い勉強だ

ったが,どこかで満足していた。いつしか多田

文男ほか著の『自然地理学』がテキストになり,

これは面白かった。分からないところは,執筆

者の多田先生に直接,質問をすることが出来た

のも楽しいことであった。

輪読会は辛かったが,野外巡検は楽しかった。

湘南の葉山海岸への巡検・多摩丘陵への巡検・

青梅への巡検など,先輩たちはわたしたちヒヨ

コを,色々な場所へ連れて行ってくれた。さら

に,それぞれの現場で,適切な説明をし,質問

にも丁寧に答えてくれた。校内の教室における

退屈な授業に比べ,野外巡検での学習は,自分

の進路を左右するまでになった。

1年生を終える 3月中旬,顧問の小池一之先

生の指導で「富士山東麓」の巡検があった。4

泊 5日の日程で,町田 洋 著

『Tephrochronology による冨士火山とその周辺

地域の発達史』(地学雑誌,73 卷)をテキスト

として,地形調査の基本を学ぶ巡検であった。

そのころ,まだ 20歳代の小池先生は無知な私た

ちを,叱咤激励され指導された。褒めること 4

割,けなすこと 3割,無視すること 3割で,朝

から夕刻まで 12~13 名の参加者を引きずり回

してくれた。集落ゼミであったにもかかわらず,

ゼミのメンバーではなかった 3 年生の深谷 元

さん(東京都)と秋元 勇 さん(富山県)も参

加されていた。彼らがワーク・ソングのメロデ

ィーに併せて作詞された唄は,当時の状況をリ

アルに現している。

1.小池さんに 引っ張られて 朝から晩まで

でっかい露頭目がけて ハンマーを振り下

ろす

チョットそこ除け ぶち割るゾ

デッカイその岩

さあ 退け さあ 退け

まだ宿には 帰れない

2.先生 おいらが描いた柱状図は

デタラメとゴマカシが すべてなのサ

チョットそこ除け ぶち割るゾ

デッカイその岩

さあ 退け さあ 退け

まだ 酒にはありつけない

御殿場線の山川駅から御殿場を経て富士吉田

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市へのコースは,私はもちろんのこと,参加者

全員の学問観や人生を変えたようにも思う。

朝,8 時前に旅館を出て,小池先生が設定し

たコースを露頭を探しながら歩く。露頭の前で

は,小池先生が丁寧な説明をすると同時に,い

くつかの質問をする。景観を観察しながら説明

した後,質問をする。先生に代わって菅原さん

が説明や質問をするときもある。禅問答のよう

な,質疑応答。露頭を切り,岩を叩いて観察す

るが,何が何だか分からない。フィールド・ノ

ートの書き方を先輩達に教えてもらう。夕刻,

小池先生が現地で「ここで解散。各自,旅館に

戻れ。」と言う。数人でひとかたまりになり,オ

リエンテイリング風に地形図を手懸かりに旅館

にたどり着く。毎晩の食事が終わると,ホッと

するまもなく机を並べての勉強会。先輩達にア

ドバイスを受け,どうにかレポートを作成し,

チーフの菅原さんに提出すると,「ここはこのよ

うになっていなかった。おかしい」「もう一回,

地形図とフィールド・ノートをきちんと見て,

書き直し」となる。たまには,服装や挨拶と言

った私的な言動についても,指導を受ける。

翌朝は,眠い目をこすりながら起床し,食事

を済ませてから旅館を出発。昨晩の勉強で教え

を受けたことを常に意識しながら,地形図を片

手に地形を観察したり,露頭をスケッチする。

そして夕方になると,またオリエンテイリング

風に近道をたどりながら旅館に向かう。夕食後

は,勉強会。良く頑張った 3泊 3日であったが,

4 泊目の晩は,先日までとは大きく違った勉強

会であった。何と,夕食に酒が出たのである。

生まれて初めての,先生を囲んでの大宴会。皆,

お金が無いというのに,酩酊するまでワイワイ

ガヤガヤと騒いで飲んだ。ワーク・ソングはエ

ンドレステープのように,繰り返して唄った。

にもかかわらず,翌朝にはドロがこびり付いた

靴を履いて,良い露頭を探しながら,夕方まで

歩いた。そして,富士急線の十日市場駅で解散

した。

この巡検は,私はもちろんのこと,すべての

参加者に自然地理学の面白さや,真実を探求す

ることの楽しさを体験させてくれた。

4 月から,新しい体制になった。竹山洋司さ

ん・青木紀人さん・太田二三夫さん・宮田 満

さんたちがリーダー的存在となり,新しく 2年

生が数人,そして見理文之君(東京都出身)・徳

田光治君(福井県)・磯野充治君(富山県)を含

めて 4~5人の新入生が加わった。卒業生の数よ

りも新参者の数が多かったため,30人を越える

大世帯となり,勉強会と言うよりは親睦会的な

雰囲気に陥った。今年度のテーマは何にするか

について相談した結果,テーマは,「富士山の噴

出物と桂川の河岸段丘」となった。それからは

機会あるたびに,日帰りで富士吉田付近から都

留市を経て大月まで,約 1年間を掛けて調査を

行った。古富士泥流や猿橋熔岩の分布,テフラ

の層序を明らかにするための柱状図作成などを

行ったが,これらはすべて小池流であった。後

に,徳田光治君は卒業論文のテーマとし,また

大学院修士課程に進学され,研究テーマとして

「桂川の河岸段丘」に取り組むことにもなった。

桂川のほか,三浦半島や多摩丘陵などへの巡

検を繰り返すなかで,参加しない人たちも現れ,

いつの間にか,親睦会的な雰囲気も次第に薄れ,

元通りの研究団体的な性格に戻っていった。こ

れより前のことだが,多賀野さんや竹山さんは,

進歩的な地学団体研究会(地団研)の会員であ

った。自然ゼミのメンバーに入会することを勧

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めたこともあり,自然ゼミの多くは入会した。

ゼミでは「富士山の噴出物と桂川の河岸段丘」

を研究すると同時に,『共に学ぶよろこび』や『科

学運動』といった地団研の刊行物の輪読なども

行い,さらに今では幻の名著となっている,赤

表紙の『日本地形論』などでも勉強した。地団

研の定期刊行物である『地球科学』は難しかっ

たが,隔月に送られてくる『そくほう』と称す

るレターは,自然ゼミのメンバーに様々な形で

影響を及ぼした。必読書的な『共に学ぶよろこ

び』は,多田文男先生には軽んじられたが,講

師の鳥居栄一郎先生までも購入していただき,

「面白い。」との感想を頂いた。山口岳志先生な

ども読まれたらしく,自然ゼミの活動にアドバ

イスをされた。そしていつの間にか,自然ゼミ

は地団研の「駒澤大学班」となっていた。

「夏休みにも,大巡検をしよう」ということ

になり,その夏には 2泊 2日の日程で浅間火山

に登ることになった。参加したのはゼミのメン

バーの他に,若林宏宗・阿由葉(早船) 元 の

両先輩や,4年生の深谷 元・秋元 勇先輩であ

った。上野駅から長野行きの最終便(鈍行)に

乗り,深夜に中軽井沢(信濃追分)駅に着いた。

その晩の宿泊は駅舎で,寒くない程度のベンチ

にごろ寝で,早朝のバスを待ったが,一晩中,

おしゃべりをしているグループもあった。

一番バスに乗り込んだ我々は,羊腸のように

曲がりくねった坂道をあえぎながら登るバスに

揺られてから,小浅間山の近くのバス停で降り

た。そこからは,東京大学浅間火山観測所の脇

にある登山道を経て,浅間山に向かった。途中,

休息の間に,「小浅間は寄生火山だから,寄生火

山はどうなっているか見に行こう」と言うこと

になり,数人は小浅間山に登り,火口付近の状

況を観察した。小浅間の山腹は 30度前後の急傾

斜で,表面は浅間火口からのスコリアで覆われ

ていたため,登るときは苦労したが,下るとき

は砂塵を巻上げての行動であった。

登山道の途中からはイタヤやシダなどの草

木が少なくなり,一方,ガリ地形がいたるとこ

ろで見られるようになった。ガリでは底に降り

て内部を観察し,あるいはガリの形成について

登りながら討論した。前年『火山および火山岩』

の輪読会で勉強したことや,春の巡検で

『Tephrochronology による冨士火山とその周辺

地域の発達史』で覚えた事柄が,目の前に展開

したので,愉快であった。また,地団研で購入

した荒牧重雄著の『浅間火山の地質』を見なが

らの登山で,付近の地形と地質の関係を比べな

がら歩いた。約 3時間も登っただろうか,視野

が突然広がったかと思えば,そこは標高 2,568m

の山頂であった。火口の脇には,6 畳程の巨大

なパン皮状火山弾の小山が横たわり,また,一

帯にも様々な形をした大小のパン皮状火山弾が

散乱していた。某先輩などは,「構造を調べるた

めといいつつ,実は持って帰れないのがシャク

だ」と,その幾つかをハンマーで叩き割ってい

た。その時採取した火山弾のひとつは,今でも

教材として利用している。休息をした後,お鉢

を一周してから,外輪山の前掛山を経て,寄生

火山の石尊山の脇を通って,宿舎のユースホス

テルへ向かった。ホステルでは,夕食後,若林

さんと阿由葉さんから,火山地形やテフラの見

方をはじめとした内容で,講義を受けた。翌日

は,蒲原泥流を見に行く者と小諸方向へ向かう

者に分かれ,それぞれの行動であった。

翌年の夏休みは,赤城山へ登り,また周囲の

開拓集落を見学した。やはり鈍行の最終列車に

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ちは自主的に活動したかのような錯覚を持って

いる人もいるが,長沼先生たちの指導やアドバ

イスを抜きにしての,ゼミ活動はあり得なかっ

たことだけは確かである。

地質ゼミナール

伊部 忠行(1972 年卒)

この研究会は,1968年に私が駒澤大学に入学

した年に,1 年先輩の 3 人と私ともう 1 人の同

級生で発足させた。最初は,顧問となる先生に

ついて誰にお願いするか話し合って,学部の中

で地質学を講義していた,(故)大森五郎先生に

お願いすることにした。

先生は,素人同然の学生にやさしく指導して

いただき,先生の研究室内に岩石の展示台を置

いたり,学生の入室を自由にさせていただいた

りした。

当初の活動は,1 週間に 2 回の勉強会で教室

がないため,先生の研究室がしばしば勉強会の

部屋に当てられた。また,1 ヶ月に 1 度は野外

巡検と称して郊外に出かけていた。

この時代は,学生運動の盛んなりし時であり,

学内が封鎖され構内に入ることができない状態

が 1,2年生の時には,1年間に 1回ずつ(約 3

ヶ月間程度のロックアウト)校内封鎖となって

いた。そのときに時間を見つけては野外巡検を

行い,実際に岩をたたいたり,クリノメーター

の使い方を練習したり,本当の初歩から勉強し

た。

研究会が発足して 2年目に,部員勧誘活動な

どを行った結果,倍の人員に増大し,女子学生

も参加した。このころになると,多方面に課題

を持った学生が集まり,ただ地質だけでなく,

化石や地形,土地利用や水利用など広範囲に興

味を示す分野の学生が集うサークルとなってい

った。

野外巡検として日帰りや合宿で観察に出かけ

る前に勉強会を行い,巡検報告書(写真 1,2,

3)の作成を行って先生や他のゼミの人たちとの

報告書の交換などが行えるようにもなった。そ

の頃の報告書はガリ版ずりで,印刷までに時間

がかなり必要であり,印刷用紙も今のような白

い紙でなくワラ半紙に印刷していた。その後も,

ゼミ員は増加し最大時には 15 人ほどのサーク

ルとなり,地理学科の中で一応ゼミ研究会とし

て認められたと自負している。

私の,学生時代でのゼミ活動は,研究会だけ

でなく旅行会なども行った。その中で一番の印

象に残ったことは,7,8人で行った山形への旅

行である(写真 4)。夜行でまず米沢に入り,町

の観光を行って,多分時間つぶしだったと思う

が新設されたばかりの美術館に入った。その時

は,気にしなかったが翌日の新聞(たぶん山形

新聞)に「開館日初日に東京の学生が熱心に鑑

賞していた」と,写真入で載っており,その新

聞を駅で購入してみんなで読みまわしを行い,

最後に私がその新聞をも持ち帰った。その新聞

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がつい最近まで私のダンボールの中に保管され

ていたが,つい最近整理のときに処分してしま

った。その後に今回の記念集の話があり,捨て

なければと悔しく思われる。

卒業後も何回か巡検に同行したが,仕事が忙

しい事等で学生たちとの交流が絶え,部署が変

わって再び先生との交流が始まったが,卒業後

約 10 年でゼミの活動が消滅したらしいことが

わかり,非常に残念に思っている。

現在の私は,建設コンサルタントに就職し,

測量・地質・水文・環境といろいろな部署をわた

りあるいて,現在は環境の中で,土壌汚染調査

部門で調査・解析業務を担当している。今でも,

学生時代のゼミ活動が現在の仕事に生かされて

いると感じている。また,学生時代にいろいろ

な先生の巡検に参加させていただき,巡検荒ら

しなどと言われたが今の仕事に大いに役立って

いると感謝しています。

写真 4:山形への旅行の時(1970年春)

写真 1:巡検報告書

写真 2:巡検報告書(ガリ版刷り)

写真 3:巡検報告書

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