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1 第5章 最初の〈ツーリスト〉はルソー:スイスとコルシカ 最初のツーリストはジャン・ジャック・ルソーであるとするのが通説である。最初の辞 書であるラルース言語辞典(初版 1875 年)は《ツーリスム》tourisme の説明に長文の解説 を付し、最初のツーリストはルソーであると判定している。次の通りである。 馬車と川船の時代、ツーリストはほとんどおらず、いたのは旅行者だけであった。…しかし、便 利な交通手段がなくても、18 世紀に J.J.ルソーが長期にわたる徒歩旅行でスイスとイタリアをめ ぐることによって、ツーリストの実例を示した。彼は背嚢を背負い、手に杖をもち、黒パンと乳 製品とさくらんぼを食べながら、真に自然の子としてこの長旅を完遂したのであった。 実際ルソーは自分の足で至る所を歩き回っている。後世はルソーの旅は楽しみが目的であ って必要に迫られての旅ではなかったと信じた。なぜならルソー自身がそう言っているか らである(『エミール』第4章&『告白』第 5 章)。ラルース辞典は単なる言葉の定義だけで なく、一歩踏み込んでツーリズムと徒歩旅行を結びつけたのであった。 D.モルネの著書『フランス人の自然への感覚;ルソーからベルナルダン・ド・サンピエ ールへ』以来人々の共通認識となった自然と人間の関係の変化を見てみよう。〈自然への感 覚〉と〈田園への愛着〉とい二つの感性を最初に導き入れたのはルソーの『新エロイーズ』 だったが、ルソー自身はそのどちらも言葉では表現できなかったかもしれない。だがそれは どうでもいい、彼は人にそれを知らしめることができたのである! アーサー・ヤングがそ れを証明した。優れた旅行者であったヤングはイギリス人の田舎への愛着を充分知ったう えで、「〈田舎の家〉(maisons de campagne、 都市の外の別宅)の魅力をファッションにまで高 めたのはルソーの魔術のような表現力だ」と言ったのであった。 『新エロイーズ』の物語がアルプス山地という額縁の中で展開されたから、19 世紀の 文筆家の多くがルソーこそアルプスの発見者だと書き記した。そして登山家レスリー・スチ ーブンが一段とそれを強調した。「ルソーはアルプス発見のコロンブスであり、山への信仰 告白におけるルターである」と(『ヨーロッパのプレーグラウンド』1871年)。事実、レイ シャールの『ヨーロッパ旅行ガイドブック』(1793 年)やラ・ブドワイエールの『サヴォア と南仏への旅』(1807 年)は、1800 年ごろ、ルソーが歩いた場所を辿ってロマンチスムの 聖地を訪れることを推奨している。シャルメットの田園地帯、レマン湖のほとり、スイスの 西部山岳地のヴァレ州などである。ところが 19 世紀に入ると、アルプス登山やピレネー登 山の歴史を記述する文学がたくさん出現し、その中でルソーは山に登ったことがない、一定 の高さ以上の場所の描写はゼロ、そもそもルソーは高山を見たことがあるのか、などと反論 を言い立てて、ルソーの果たした役割を矮小化しようとする言論が出はじめた。ルソーの名 はいわばシンボリックな価値である。それゆえサヴォア州はルソーの功績を記念して 200 周年に相当する 1962 年を〈ルソー年〉と宣言したのであった。ちなみに『新エロイーズ』 の刊行が 1761 年、『エミール』と『助任司祭の信仰職』は 1762 年の刊行であった。

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第 5 章 最初の〈ツーリスト〉はルソー:スイスとコルシカ

最初のツーリストはジャン・ジャック・ルソーであるとするのが通説である。最初の辞

書であるラルース言語辞典(初版 1875 年)は《ツーリスム》tourismeの説明に長文の解説

を付し、最初のツーリストはルソーであると判定している。次の通りである。

馬車と川船の時代、ツーリストはほとんどおらず、いたのは旅行者だけであった。…しかし、便

利な交通手段がなくても、18 世紀に J.J.ルソーが長期にわたる徒歩旅行でスイスとイタリアをめ

ぐることによって、ツーリストの実例を示した。彼は背嚢を背負い、手に杖をもち、黒パンと乳

製品とさくらんぼを食べながら、真に自然の子としてこの長旅を完遂したのであった。

実際ルソーは自分の足で至る所を歩き回っている。後世はルソーの旅は楽しみが目的であ

って必要に迫られての旅ではなかったと信じた。なぜならルソー自身がそう言っているか

らである(『エミール』第4章&『告白』第 5 章)。ラルース辞典は単なる言葉の定義だけで

なく、一歩踏み込んでツーリズムと徒歩旅行を結びつけたのであった。

D.モルネの著書『フランス人の自然への感覚;ルソーからベルナルダン・ド・サンピエ

ールへ』以来人々の共通認識となった自然と人間の関係の変化を見てみよう。〈自然への感

覚〉と〈田園への愛着〉とい二つの感性を最初に導き入れたのはルソーの『新エロイーズ』

だったが、ルソー自身はそのどちらも言葉では表現できなかったかもしれない。だがそれは

どうでもいい、彼は人にそれを知らしめることができたのである! アーサー・ヤングがそ

れを証明した。優れた旅行者であったヤングはイギリス人の田舎への愛着を充分知ったう

えで、「〈田舎の家〉(maisons de campagne、都市の外の別宅)の魅力をファッションにまで高

めたのはルソーの魔術のような表現力だ」と言ったのであった。

『新エロイーズ』の物語がアルプス山地という額縁の中で展開されたから、19 世紀の

文筆家の多くがルソーこそアルプスの発見者だと書き記した。そして登山家レスリー・スチ

ーブンが一段とそれを強調した。「ルソーはアルプス発見のコロンブスであり、山への信仰

告白におけるルターである」と(『ヨーロッパのプレーグラウンド』1871 年)。事実、レイ

シャールの『ヨーロッパ旅行ガイドブック』(1793 年)やラ・ブドワイエールの『サヴォア

と南仏への旅』(1807 年)は、1800 年ごろ、ルソーが歩いた場所を辿ってロマンチスムの

聖地を訪れることを推奨している。シャルメットの田園地帯、レマン湖のほとり、スイスの

西部山岳地のヴァレ州などである。ところが 19 世紀に入ると、アルプス登山やピレネー登

山の歴史を記述する文学がたくさん出現し、その中でルソーは山に登ったことがない、一定

の高さ以上の場所の描写はゼロ、そもそもルソーは高山を見たことがあるのか、などと反論

を言い立てて、ルソーの果たした役割を矮小化しようとする言論が出はじめた。ルソーの名

はいわばシンボリックな価値である。それゆえサヴォア州はルソーの功績を記念して 200

周年に相当する 1962 年を〈ルソー年〉と宣言したのであった。ちなみに『新エロイーズ』

の刊行が 1761 年、『エミール』と『助任司祭の信仰職』は 1762 年の刊行であった。

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第 1 節 ルソーの功罪:旅の再生と風景の発見をめぐって

『エミール』を再読してみよう、とくに第 5巻の〈旅する技術〉について。ルソー以前に

このような視点でものを書いた人はいなかった。その後に出たスターンの『センチメンタ

ル・ジャーニー』もゲーテの『イタリア紀行』もこの点では到底ルソーに及ばない。ミシェ

アはゲーテの『イタリア紀行』がルソーに負うている箇所を列挙し、とくに〈旅の教育価値〉

と〈ホームシックからの回復〉の二つはルソーから受け継いでいると強調した。ゲーテの感

傷的記述の大筋は『新エロイーズ』からの借用だというわけである。ミシェアは旅の技法を

革命的に変化させたのはルソーであり、スターンより前だと言っている。(Michéa『ゲーテ

のイタリア紀行』より)。

『エミール』第5巻は若者への助言という形式で書かれている。ルソーは「若者が家庭

教師付きで旅をし、図書館から骨董屋に連れて行かれている」と嘆いたあと、彼自身が実践

したまったく異なるタイプの旅を奨励する。すなわち「古代の裸足の哲学者のように足で歩

こう」、「植物や農作物にも関心を向けよう」、「読むのではなく自分の目で見なければいけな

い、そして人々を発見しよう」と説く。ルソーは何よりも旅行の教育的役割を強調したので

あった。もし彼が旅の技法に革新をもたらしたとするなら、それは教育分野の革新に対応し

たものである。このことはサントブーヴが『風景画家としてのテプフェールに関する考察』

の中で明確に指摘している。サントブーヴは新しい画家であり教育者であるテプフェール

の作品の中に明確にルソーの精神を見出したのであった。1853 年8月 16日の『考察』の冒

頭をサントブーヴは次のように始めている。「バカンスの時が来た。スイスを巡り、アルプ

スを訪れる時が」。

では自然とは何なのか? ルソー以前に誰か自然を知っていただろうか? ダニエル・

モルネは昔ながらの言葉を使ってそう問いかけた。彼は 1750 年頃に自然 nature という言

葉の意味が変化したと主張する。サン・ランベールや国際人カラッチョーネのようなフラン

ス人が同時代人は自然を知らないと嘆いているが、それなら言っている本人は自然を知っ

ていると考えているのだろう(サン・ランベールは 1749 年、カラッチョーネは 1758 年の

発言)。1750 年以後、多くの作家があからさまに攻撃的口調でフランス社会がこの時点まで

田舎を蔑視してきたと批判するようになった。同じころ、ルソーやサン・ランベールや重農

主義者たちが〈都市と田舎の対立〉というテーマを発展させていた。つまり、強欲で背徳的

な都市は無垢にして道徳的な田舎の素朴な生活を知らないが、都市を再生しうるのは田舎

である、都市は〈人類の浪費の場所〉(ミラボーの言葉)である、と論じたのであった。ルソ

ーはかくして何世紀も続いてきた都市対田舎の価値観を逆転しようとしていたのであった。

ギリシャ・ローマの時代からポリスにしろ、ウルブスにしろ、チヴィタにしろ、都市は文明

の証明であった。都市性と礼節と政治は百姓農民のアンチテーゼであり続けてきた。ようや

く 18 世紀に至って革命的といえる価値観の逆転が生まれようとしていた。田舎は欲求の対

象となり、都市の富裕者は〈田舎の家〉maisons de la campagne に憧れるようになっていく

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…。

18世紀半ば以前には自然蔑視の思想にほとんど例外はなかった。古典時代の旅人の自然

景観に関する叙述の貧弱さは驚くべきもので、ほんの少し触れはするものの、まともな描写

は一切しておらず、ありきたりの教訓的形容語句が散見されるだけであった。サントブーヴ

は絵画に関する考察の中で、風景画家を念頭に置いて次のようなコメントを残している。

スイスに風景はあったが風景画はなかった。…それが生まれるには J.J.ルソーを待たなければな

らなかった。

いったい人々は〈自然〉Natureをどう理解していたのだろうか。歴史家は、人間と自然と

の関係を考察に観光移動を含める必要性を感じて〈自然〉という言葉を使用しはじめた。当

時の理解では、自然とは人間が生み出したもの以外の物質世界全体、すなわち鉱物、植物、

動物などの総体を表す用語として受容され、その枠組みの中で観光と関連づけられたので

あった。物質世界は人間の外にあるもの(自然=景観)であると同時に、人間の内部にある

もの(対自然の感情)でもあった。テプフェール(風景画家、1799~1846)やロマン主義

者たちはそのように理解していた。

18世紀には自然に対するこのような解釈はまだなく、あっても主流ではなかった。R.

モ-ジ Mauzi は、18世紀は自然という言葉を美化したかもしれないが、混乱させもしたと

いう。18 世紀前半では自然はまだ曖昧にして幸福感に満ちた観念として存在しているのみ

で、野生の自然が記述されることはほとんどなく、山はフランスではまだ無視されていた。

後年 J. エーラール Ehrard がリュシアン・ フェーブル論の序章で言っているように、自然

という観念が歴史家のジビエ(獲物の肉)であるならば、景観という現実を扱う観光史家に

とってほとんど役に立たない。ちなみに、サントブーヴが『風景画家としてのテプフェール

に関する考察』で語っているのは自然ではなくて景観であった。

ところで、本当に 1750 年を境に自然についての考え方に変化が生じたのだろうか。こ

の点はまだ疑って見る必要がある。サン・ランベールは〈知覚が内面に与える影響〉の分析

を続け、著作『季節』では「ひとつひとつの景観にそれぞれ相応しい人の心の状態が存在す

る」と論じ、季節はその移り変わりによって人に影響を与えるし、森は人に最も深い感動を

与える植物界であると主張した。かくて彼は「森よ、お前は心地よい恐怖を私に与える!」

と叫んだのであった(Saint Lambert; Les Saisonsより。)

山についてはスイスで変化が起っていた。まず英人アブラハム・スタンヤン(1669~

1732)が 1714 年に、次いでスイス人のヨハン・ヤーコブ・ショイヒツァー(1672~1733)

が山の神秘を採り上げた。二人はそれぞれ山の恐怖(龍などがいる…)や不可思議な逸話(ク

レバスに落ちた人間の奇跡的生還…)を紹介しただけでなく、《神秘の国スイス》を世に広

めていった。この神秘の国スイスという観念がハラーからルソーとコックスに受け継がれ

る。〈チューリヒのテオクリトス〉と呼ばれた詩人ソロモン・ゲスナーは、1752 年、アルプ

スの山並みに中に田園恋愛詩を展開して見せたのであった(『アルベールの死』)。その前の

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1733 年にはアルブレヒト・ハラーの詩『アルプスの山々』Die Alpen(1729 年)が人々に

アルプスを愛することを教えたのだが、この詩は 1750~52年までフランス語に訳されなか

ったため読者が少なかった。それゆえ続いて登場した強力なルソーの『新エロイーズ』(1761

年)の陰に埋もれてしまった。両者のメッセージの意図するところは同じだったのだが、ル

ソーの読者はけた違いに多かった。『新エロイーズ』は発刊されると先駆者たちを凌駕し駆

逐してしまった(C.E.エンジェル)。この点については、C.E.エンジェルのほかに、ベルナ

ール・ギュイヨンが次の様に論評している。

世の中が待っていたのはこういうガイドブック、つまりジャン・ジャック・ルソーだった。『新

エロイーズ』は 1761 年に出版され、小説として輝かしい成功に包まれた。ついに山が発見され

たのだ。この作品は誕生からたちまちほぼ全世界に熱狂を生み出した。少なくとも一世紀の間、

主人公ジュリーは多様な分野の最上の人々の精神をも捉えたのであった。カントとナポレオン、

バルサックとスタンダール、ラマルチーヌとスタール夫人、フローベールとジョルジュ・サンド

などなどである…。

ルソーにはもちろんハラーをはじめとする先駆者たちに負うところがある。しかし、ルソー

の才能は全く別もので彼独自のものである。ルソーはサヴォア地方もヴァレ地方も、ジュリ

ーを置くことにしたレマン湖周辺も熟知しているという利点がある。ルソーはこれらの地

方を在ジュネーブの物理学者ドリュク兄弟と一緒に歩き廻ったのであった。18 世紀末から

ロマン主義時代のルソー後の旅行者たちは、小説の舞台となった場所を現実世界の中に探

し求め、ひとつひとつ確認したのであった。ジュリーの中に彼らは《歓喜》、《激情》、《恍

惚》、《慕情》などなどを発見し、彼女を囲む額縁としてのレマン湖をも新たに発見したので

あった。その景観は組み合わされたイメージで、心地よい快晴の日から吹きすさぶ嵐の日ま

で、ジャン=ジャックの移ろいゆく魂の状態を反映していた。取り巻く自然は共犯者となり、

メイユリーはサンプルーに絶望をもたらし、他方陽光降り注ぐレマン湖の対岸はヴォルマ

ール夫人の優しさを体現していたのであった。

感じやすいヨーロッパの日糸人にルソーが発見させたのは湖であった。1761 年、ルソ

ー自身はこんな風に説明している;

小説の登場人物の滞在地をどこにしようかと考え、それまであちこち遍歴してきた中で最も美

しかった場所をいくつかをあらためて見て回った…。私はかねてからマッジョーレ湖にあるバロ

メ諸島はどうかと考えていた。その甘い優しさが私を幻惑させていたからだ。しかし、この島は

私の主人公たちにとって装飾が多過ぎ、人工物も多過ぎた。それでも私にはどうしても湖が必要

だったから、結局私の心がいつもさまよい行く湖を選ぶことにした。

『告白』の中で彼は「ジュネーブ湖の光景とその賛嘆すべき両岸は、私の眼には限りない魅

力を有していた」と書いている。にもかかわらずルソーは自分の愛する場所の描写をまった

くしていない。イメージを喚起するだけで充分と彼は考えていたのであろう。

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緑豊かな環境にいると悲しいとか不快な思いをすることはない。しかし、砂とむき出しの岩場だ

けだったら話にならない。

ルソーが暮らしていた場所であり、かつジュリーを育んだ土地は、今日の言葉で言えば見る

べき場所 videnda であり、観光地であり、観光の対象になっていった。自然に対するルソー

の目は 18 世紀人のそれであった。カール・バルトがいみじくも言ったように、ルソーの自

然は「人間によって、人間の感性と快楽のために人間化され、優雅に理想化された自然だっ

たのである」。ルソーは野性味のほとんどない自然を愛しただけだったから山岳アルプスの

発見者にはなりえなかった。アルピニストたちは、こういう見方はシャトーブリアンが言い

そうなただの噂話だと考えていた。山を嫌い、ルソーを嫌っていたシャトーブリアンは、

山とルソーを同列に嫌悪していたのであり、彼は『モンブランへの旅行』の中で山とルソー

を貶めるために、ルソーの山への賛辞を捧げる数箇所を引用し、結局それらがルソーと山を

語る際の決まり文句として後世に伝えられていくことになった。最も有名な個所は『告白』

の中の次に一節である。

平原ではダメなのだ。いくら美しくても私の目に美しくは映らない。急流があり、岩場があり、

樅の木があり…つまり私に怖れを抱かせる山が…、断崖絶壁が傍らに必要なのだ。

これは時空を特定しない信仰告白である。水はルソーにとって山以上に重要なテーマであ

り、ルソーはこれをシャンベリ周辺の前アルプスやエシェルの急流を念頭に書いたのであ

った。シャトーブリアンはほかに『新エロイーズ』次の一節に強く反発している。

高山に登ると瞑想は偉大にして崇高なものとなる…。人の住む村落を下に見てさらに上に登る

と、人は愚かな俗界の感情は地上に置いてきたという思いに駆られるのだ。

ルソーはこういう気持の変化にこそ自然の大義を見出している。サンプルー(新エロイーズの

主人公のひとり)の手紙を引用しよう。

自分の居るこの場所の清純な空気の中で、私は自分の気持ちの変化の真の理由を発見しました。

この環境の中で長らく忘れてしまっていた心の平穏が戻ってきたのです。

事実、これは誰でも経験する感覚だろうと思うのですが、空気がきれいで優しい高山では、

呼吸はずっと楽だし、体はずっと軽く、心はずっと平穏なのです。

有名なこのくだりは、単なる感傷の表出ではなく山の実存の表現である。サンプルーは自分

の内面に無我の境地を確認している。ただ、間違ってはいけないのは、ここで言っている高

山とはレマン湖上方の丘に過ぎないという点である。山岳を高く上るにつれて空気が希薄

になるという登山家の体験をルソーは知らないのである。これはルカミュがすでに述べて

いるし、後にラモンとセナンクールも触れることになる。

18 世紀に書かれたサンプルーの手紙にも、ジュリーの手紙のどの一行にも、高山の描

写は全く見当たらない。ヴァレ州であれサヴォアであれ、ルソーが高い山に登っていないこ

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とは認めなければなるまい。1733 年に彼はクリューズで 1 か月過ごしているが、それ以上

奥に行ってはいない。モンブランはもちろん見ているが一言も触れていない。イタリアに行

くためにシンプロン峠かモンスニ峠を通ってアルプスを何度も越えているのに、途中で見

える山の頂上についてただの 1 行も書いていない。彼はレマン湖畔の町や村に長らく滞在

しているのだから、ダン・デュ・ミディやサレーブなど近くの山々を眺めて過ごしたであろ

うに、やはり山については何も書いていない。ルソーは高山の山頂などには興味がなかった

のである。では氷河はどうなのか。ルソー自身はどこであれ氷河の上に出たりしてはいない

が、サンプルーにはメイユリーで氷河のことを語らせている。しかしエビアンでは氷河は見

えないのだから、これは描写ではなくドリュク兄弟から借用した観念的氷河を語らせてい

るに過ぎない。ルソーはシャルメットからグランド・シャルトルーズに出かけた時、宿帳に

「標高が高い!」と書き込んでいる。これがルソーが高い山を呼ぶときの決まり文句であっ

た。この点サントブーブの次の言葉のとおりである。

ジャン=ジャックはスイスのことを山の中腹までしか知らなかった。彼の湖、彼ののどかな小さ

な家々、そして彼の果樹園を知っているだけだった。彼はいつもわれわれをシャルメットに連れ

戻してしまうのだ。彼は山の中腹ないし人のいう第2レベルの地域にすら行ったことがなく、ゆ

えに山を細かく描写することはなかった。

サントブーヴは山の自然を3つのゾーンに区分したテプフェルを称賛する。区分の試みは

17世紀にルカミュのような人も行っているが、これを明確にしたのはテプフェルであった。

サントブーヴは、この区分の下のゾーンが最初に発見されるのは当然として、その発見の功

績はやはりルソーに帰せられるべきであるというのであった。

ルソーの成功によってアルプスに関する偉大な紹介書が誕生した。ド・ラボルドと支援

者が作成した大作で、地形・地理から政治、文学、観光にいたるスイス百科というべき豊富

な情報が沢山のイラスト入りで紹介されていた。かくして〈ルソーのスイス〉は一群の専門

版画家を生み、マルク・テオドール・ブーリはこの分野で名を成すことになった。他方、ア

ルプスの文学はルソー以後に発展はなく、C.E.エンゲルは「ルソーがアルプスの文学的、芸

術的アスペクトを歪め、かつ固定してしまったために、山のもたらす霊感が再生されること

はなくなった」と次のように論じている。

新エロイーズのもたらした結果はかくの如しである。旅行者も詩人も、絵描きでさえも風景を自

分の目で見なくなった。小説が彼らの霊感と想像力の代わりを務めてしまったのだ。かつてひた

すら恐ろしいものとされていた自然のイメージの上に、山腹の田園恋愛詩という逆説で接ぎ木

をし美化してしまった。これは捨てるにはあまりにも辛く、あまりにも古典主義的であり、そし

てあまりにも素朴であった。ルソーは山の文学的様相を固定化し、かつ歪めてしまい、いわば、

ギアがニュートラルに入ってしまったのである。以後長期にわたり、ある意味では永遠にサンプ

ルーとヴァレの風景が自然のアルプスを隠してしまったのである。

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第 2 節 自然への開眼:ルソーのスイスを求めて

『新エロイーズ』の成功は旅行者の群をルソーのスイスに招き寄せた。彼らは〈水源〉

への巡礼に出かけたのであった。1761 年から 1789 年にかけて、D. モルネはスイスに関す

る 80 種の著作の合計 130 版以上の目録を作成した。1777 年にはロラン夫人が「スイス旅

行が大流行となった」と証言し、新時代のスイス旅行を書いた主要作家のひとりメイエルは

1784 年に「子どもにお乳を飲ませる…、クラランに来る、二つは同じことなのだ」と書き、

ダニエル・ロカンはさらに美化して「クラランは不滅となった」とまで言った。

スイスを舞台に〈ルソーの自然〉の足取りを段階的に追ってみよう。まずはレマン湖の

ほとりのメイユリーである。ジョン・ムーアは 1781 年にここを訪れて「来てみて二人の恋

人たちが佇んだ場所が分かったと」と叫んだし、スイスに3回旅行したゲーテはメイユリー

に来て涙している。レマン湖に駆けつけたフランス革命世代の旅行者を全部紹介するのは

無理だが、旅の動機は皆同じで、「いとしいジュリーの国を知るため」であり、「ジュリーの

恋人の崇高なる絶望を自ら感じる」ことだったとテオドル・ ブーリが書いている。農学者

アーサー・ヤングも例外ではなかった。彼はサヴォワに到着すると、農学研究をそっちのけ

でシャルメットに駆けつけてルソー賛美を声高に叫んだのであった。

サヴァオ人たちは熱烈な外国人巡礼者たちの来訪にすぐに慣れ、旅館の主らはどの部

屋にルソーが泊まったかを喜んで教えた。ニコライ・カラムジンはフランス旅行を巡礼の心

をもってレマン湖のルソーゆかりの地からから始めたと書き、メイユリーで次のような味

のある言葉を書き残している(『ジュネーブからのロシア人の手紙』)。

百姓はまた物好きがやって来たのを見て、冷笑を浮かべて私に言った。ムッシューも多分『新

エロイーズ』をお読みになったんでしょうな。

『ウィリアム・コックスの手紙』でもルソーゆかりの地が大きな位置を占めている。コック

スは他のイギリス人仲間と 1776 年、1779 年、1785 年と 3 回スイスに旅行し、旅の模様を

当時流行の〈フィクションの手紙〉という手法を使って記述した。彼はローザンヌで『新エ

ロイーズ』を購入し、行く先々で当該部分のルソーのテキストを読んでは「自分自身が観察

した結果とルソーの叙述を対比した」と書いた。こうした流行がシャルメット(ヴァランス

夫人とルソーが住んだシャンベリ近くの田舎の家)を聖別し、後年条例によって国民文化遺産に指

定されるという恩恵をもたらすことになる。1793 年にはエロー・ド・セッシェル Hérault

de Séchelles がここで市の祭事を行ない、ルソーのポートレートを飾らせ、エピネー夫人作

とされる次のような墓碑銘も刻まれた。

ジャン=ジャックの居住せる小部屋

お前は彼の才能を呼び起こす

彼の孤独、彼の自尊心を、

そして、彼の不幸と狂気をも

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ミラン Millin はこの〈ルソー記念館〉の詳細を書き残し、「ここは多くの旅行者や外国

人が好んで訪れる巡礼の地だ」と書いている(ラ・ブドワイエール『サヴォワと南フランス

への旅』1807 年より)。ロマンティクという呼称はすでに 1793 年のレイシャール Reichard

のガイドブックが使っているが、彼はこの語をこの地方全体に対して使った。プレロマンチ

スム趣味とフランス革命が共鳴してルソーゆかりの地の名を高め、同時にヴォルテールの

フェルネへの道も開いたのであった。

ヴォルテールの存命中、旅行者たちはクラランやメイユリーなどのレマン湖畔の町と

ヴォルテールの居宅を組み合わせて訪れていた。ヴォルテールの家はジュネーブを訪れる

外国人の主要な関心事の一つで、スルザーやシャーロックの場合もそうであった。ドイツ人

のスルザーはベルリンでヴォルテールと喧嘩したのだが、ニースに行く際フェルネに寄り

たくてジュネーブ経由で行っている。長老に面会するのが主目的ではなく、小村フェルネを

見てヴォルテールの有名な庭園を愛でるためであった。1776 年にはイギリス人シャーロッ

クがイタリアからの帰途、複数の紹介状を持参して哲学者ヴォルテールに面会を求め、老人

との面談結果を報告するために4通の手紙を書いた。来訪者たちは彼の住居にはほとんど

関心を示さず、お目当ては庭であった。なぜならこの庭は英国式庭園であり、ヴォルテール

が好んで来訪者をここに案内したからである。ただし、当時の来訪客は、庭を見ても周辺の

景色を見てもそれほど感激している様子はない。シャーロックは長ったらしい記述をしな

がら、次のような月並みな一文しか書いていない。

彼の庭からはアルプスの山々と湖、そしてジュネーブの町と周辺ののどかな光景が見えました。

ヴォルテールは(英語で)「いい景色でしょう」と言いました。彼の発音はまあまあでした。

ヴォルテールの居宅への関心は薄かったが、彼がフェルネに建設した村と教会、とくに時計

工場について来訪者は賛辞を惜しんでいない。

1778 年にヴォルテールは死んだが、彼のつくったフェルネがただちに忘れられたわけ

ではなかった。ベルンの学識ある司法官シンナー・ド・バレーグが自身の著作『スイス西部

への歴史と文学の旅』(1781 年)でフェルネの紹介にページを割いている。もっとも彼はス

イスそのものではなく、スイス周辺の仏領ジェッスク Gex 地方のみ扱ったもので、ルソー

ゆかりのサヴォアはもちろん、氷河などスイスらしいものは何一つ採り上げていない。ヴォ

ルテールの死後の数年間は、1782 年の若き日のラロシュフコーのように、あえて旅をジュ

ネーブ経由にしてフェルネに立ち寄って行く旅行者はけっこう多かったのだが、長続きは

しなかった。これはルソーとの不仲が原因で、ルソーを持ち上げるあまりヴォルテールを忌

避したフランス革命のせいでもあった。ヴォルテールの死後まもなくフェルネは世の関心

を失った。高名なる老人と面談することがここを訪れる主たる動機だったからである。ヴォ

ルテールの英国庭園が忘れられるのも早かった。英国式庭園にはすでに新鮮味をたず、来訪

者が来て見て失望するのもやむを得なかった。レイシャールはつぎにように書いている。

フェルネはヴォルテールが死んですっかり変わってしまった。彼を目当てに移住してきた連中

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もいなくなり、大半の家は廃墟と化している。

全盛期にフェルネを知るために人々が読み、旅行ガイドブックも引用していたシンナーの

著作は、ヴォルテールのもたらした経済効果を過度に強調して次のように書いていた。

ヴォルテールが移住してきた 1759 年当時、フェルネには8軒ほどの農家があるに過ぎなかった

が、1775 年 10 月に町の人口 1 万 2 千人に達していた。

ただし、ヴォルテールの甥の息子ドルノワ d’Hornoy が 1775 年にシンナーに宛てて書いた

手紙を発見した J.D.カンドーは、上の数字はドルノワがゼロを 1 つ付け足した誇張に過ぎ

ないと言っている。

第 3 節 プレロマンチスム時代の感性;新しい観光地と新しい視線

ルソーが旅行者の趣味関心に革命を起こした結果、18 世紀中葉以来ジュネーブはグラン

ドツアーに組み込まれ、欠かせない目的地のひいとつとなっていた。フランスに出入りする

外国人旅行者は出か入りのどちらかでジュネーブを経由し、フェルネを見物し、ルソーの聖

地詣でするようになった。ジュネーブを中心に周辺の自然景観を見て回り、それまで無視さ

れてきた自然に新しい関心を持つようになったのである。かくしてローヌ川の消滅現象(当

時ベルガルドからセイセルまでローヌ川は地底河川になっていたが、後年ジェニシア・ダムの建設で見る

ことができなくなった)も、1778 年にここを訪れたド・ソシュールによって次のように紹介さ

れ、世の関心を集めていた。

今ではリヨンからジュネーブに行く旅行者で、この異様な眺めを見るために立ち止まらない人

はほとんどいなくなった。クーピーの農民たちは旅行者にこの不思議な光景をぜひ見て行くよう

に勧め、下に降りて行けるようにハシゴも懸けられた。

ソシュールはこの現象を説明するのに 10ページも費やし、彼がローヌ河にものを投げ入れ

てみた経験を長々と語っている。ゲッタールは『科学アカデミーへのメモワール』なる小論

において、ローヌ消滅の現象は〈ドーフィネの奇跡〉というより、18 世紀の科学への関心

により強くアピールすると言っているし、ラロシュフコーも『フランスへの旅』で次のよう

に述べている。

水に係る詩情は新しい感受性を揺り動かしてくれる。実際に現場に立ってみなければ、消えてい

くローヌの光景は想像のしようがあるまい。あまりにも不思議な光景に見とれて、いつまでも佇

んでいたいくらいだった。

カラムジンはさらに抒情的である。

風がうなり、川が突然地底から現れる様は、全体としてオシアン伝説に出てくるような不可思議

な光景を現出させている。

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18 世紀に〈ドーフィネの七不思議〉として挙げられた自然と人工の奇勝(選び方によっ

て異なる)は科学アカデミーの姿勢の犠牲になった。〈毒虫なき塔〉La Tour sans venin、〈燃

える泉〉fontaine ardente,〈ブリアンソンのマナ〉La manne de Briançon は、光明の世紀の

旅行者の関心には耐えられないおとぎ話とされたが、他のいくつかにはプレ・ロマンチスム

の感受性に訴えるものもあった。〈バルムの鍾乳洞〉les Grottes de Balme、〈サスナージュの

地底槽〉Les Cuves de Sassenage、エギーユ山、フランス革命勃発の場所となったヴィジル

城などがそうである。とくにグランド・シャルトルーズ修道院はそれ自体が偉大で 16世紀

から多くの隠遁修道者の生活に関心を持つ多くの訪問客を集めていた。ルイ 15 世によって

設立された宗務委員会 La Commission des Reguliers が修道会を廃止(1774 年)して以来、

自由の否認と見えるものへの世の関心は薄れてしまったのだが、シャルトルーズ修道院だ

けは訪問者が絶えず、むしろラ・ロシュフコーが言う理由から増加していた。

私はこれほど高い山々をこれほどまじかに見たのは初めてだった。樅の木やカラマツ、美しいブ

ナの木が生い茂っていた。これらの木々が低地の景観に不思議な効果をもたらしていた。一種荘

厳にして悲しみの様相を与えて、私の心を打ったのである。山岳を嘆賞しつつ、人はメランコリ

ックな気持ちになっていく…。とても恐ろしいけれど、とても美しかった。

ここでいう〈恐ろしい〉horribleという言葉は、18世紀末には言語本来の意味を保持してい

たから、山への恐怖はそのままに恐怖が魅力に転じたのである。あるいは語り口が変わった

と言えるかもしれない。谷間を上へ上へと高山に登っていくことを旅行者が面白いと思う

ようになり、その結果山へ行く最良の時期を選ぶようになった。「山に行くなら 7 月に行き

なさい。遅くても 8 月中でなくてはいけない!」とある旅行者は 1781 年に勧めているし、

1783 年に訪れた別の人は、景観を楽しむなら夏に限ると書いている。要するに〈新しい物

の見方〉が生まれたということで、1770 年以前は、エクスカーションに出かける時節を意

図的に選ぶなどということは全くなかった。

山の景色の最良の描写はイギリスの偉大なる詩人ウィリアム・ワーズワースの下記の

ような文であろう。彼はケンブリッジ大学を卒業するにあたり、伝統的なグランドツアーに

出かけたのだが(1790 年)、その際自分なりに二つの新しい課題を旅の目的に加えたのだっ

た。ひとつは今まさに始まろうとしているフランス革命を熱い心をもって観察すること、も

う一つがルソーゆかりのスイスを見ることであった。彼がグランド・シャルトルーズを訪れ

て残した数行の記述はそれ以前の人たちのものとはまったく趣を異にしていた。

行けども行けども続く森の、どれだけの高さがあるのか計り知れない高み、いつまでも変わらず

鳴り続ける滝の轟き…、青天の高みから落ちてくる急流、岩に砕け耳のそばで弾ける響き、水流

がしみ出る真っ黒な岸壁は、内部に何かが潜むかのようにわきを行く人間にささやく…。すべて

の事物ががひとつの思考のなせる業に似て、全体が一つの顔の造形、1 本の木に咲く花、大黙示

碌の暗示する多様な特性、永遠が現世に現れ出る際の形象と象徴…。

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ワーズワースは聖書を連想してテーマを展開している。高山(ここではグランド・シャルト

ルーズのこと)における孤高は〈すべての喜びの源泉たる神の実在〉を示すものにほかなら

ない、と。上の詩は詩人の死(1850 年)後に出版された選集『序曲』(プレリュード)に収

められている作品であり、優れた感性を持つ若き英国人の感動の表出である。このような感

動を彼以前に表現した人はおらず、この後に訪れる旅人にもそれはない。ただ、残念ながら

フランス革命に阻まれて出版が延期され、〈湖の詩人〉の名声を博した英国のロマン主義詩

人は、ワーズワースもクールリッジも、人々のアルプスへの情念の変化に影響を及ぼすこと

はなかった。残念ながら、類まれな才能によって自然への感覚を深化させたこの世代のイギ

リス人は、1792 年から 1815 年まで、フランス革命と続くナポレオン帝政時代に大陸への

ドアを閉ざされてアルプスを自ら見る機会を奪われ、やむなくスコットランドのカンバー

ランドに目を向けたのであった。

さて、視線の革新はサヴォワの僻地にまで達し、ルソー主義の感性から恩恵を汲み取る

ことができた。18 世紀末にはメイユリーとヴォークルーズを接近させ、メイユリー以外の

岩場、メイユリー以外の恋人たちを誕生させ、同様の感性を広げていった。デュパティは次

のように書いている。

私はあちこちの岩場に恋人たちの足跡を探して回った。ここだ、ここなんだ、彼らがいっしょに

座った場所は、ペトラルカが愛し多くの涙を流した場所は、と私は心の中でつぶやいていた。

デュパティは自身の『イタリアについての手紙』の第一書簡をヴォークルーズに捧げている。

彼はルソーとメイユリーの岩場を模写するだけでは満足せず、景観そのものを描写するす

べを知っていた。かくして、この地への旅行者たちはそれまで誰も描いたことのなかった岩

場や泉を景観として眺めるようになった。山岳地はアベ・ドリーユに詩の言葉を吹き込み、

アーサー・ヤングの情熱を掻き立てたのであった。

山々の連なりの間から、まるで巨大なじょうごの穴から噴き出るように、川が盛り上がり、突然

激しくごうごうという音をたて、泡立ち、しぶきをあげ、段差を駆け下る…、こうした光景は

詩人の筆も画家の絵筆も描くことはできないだろう。これがフォンテーヌ・ド・ヴォークルーズ

だ。一瞬後に川は当たり前のように穏やかに静まるのだが、それは先に荒々しさが来て、後で突

然やさしさが慰めるのが自然の在り方だと示すかのようだった。川はかくしてその波立ちを銀

色から青色に変えつつ流し込み、ころがり、そしてエメラルドの絨毯に向かって流れ落ちていっ

た。そしてこの川も、やがて数々の小川に分流してそれぞれ小さな谷を下って行くことになるの

だ(アーサー・ヤング)。

フランス革命前夜には伏流水の湧出がヴォークルーズ名物になっていた、とギルベール伯

爵は書いたが、その一方で、別の場所では次のような批判もしている。

アルプスやピレネーではこれよりもっと美しく、もっと不思議な水の奇勝を私はいくらでも

見た(ギルベール伯爵)。

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ただしこれに同調する者はいなかった。ヴォークルーズの人気は高まり、革命政府が自然に

ちなんで県名をいろいろ新設したときに、ヴナサン伯爵領を拡大してヴォークルーズ県と

した(1793 年)のだが、伏流水の再出現というような自然現象を県名とした例はここだけ

であった。もっとも川としては、ヴォークルーズを構成するガール川、ドローム川、ヴァー

ル川よりもデュランス川のほうが立派であるが。

山岳や湖水に向けられたプレ・ロマンチスム時代(1750~80)の感性は地中海へは向

かわなかった。地中海を見たルソーも海についてはひと言も書いていない。イギリス人たち

が 1763 年以来南仏を避寒地に選んだのだが、その理由は海辺だからではなかった。18世紀

から 19 世紀初頭にかけての時期の作家たちが山岳に対置したのは海 mer ではなく海洋

oceanであり、そのことはシャトーブリアンとベルナルダン・ド・サンピエールの登場しが

示している。

人々はアルプスやピレネーの山岳地へ行く旅行者を褒めそやす。彼らは彼らなりに楽しみや効

用を山岳に求めているのだろうが、私としては同じ目的で海沿いを旅する方が問題なく面白い

(ベルナルダン・ド・サンピエール)。

18世紀末の旅行者はまだ荒涼たる南アルプス、とくに石灰岩質のプロヴァンス地方

の荒れた土地柄を嫌っていた。ブロスの領主 President de Brossesは〈香水を振りかけた

娼婦〉と形容したし、プロヴァンス高地を横断したギルベール伯爵は砂漠のように荒れ果て

た景色、生命の泉のない混沌たる自然にうんざりしたと言った。しかし一方で、新しい感性

をもつ旅行者はジェムノス渓谷 Vallon de Gemenos の水流と台地の魅力を愛でるようにも

なっていた。外国人もここを訪れており、その一人アンヌ・プランプターAnne Plumptreも

この渓谷の賛美に4ページを費やしているし、ベルギーのリーニュ公 prince de Ligne は

1781 年にこの地の祭礼の数日間に 30 を超える団体が小川沿いに集合していると報告して

いる。また、ジャック・ドリーユは詩(L’Homme des Champs)によって《おゝ、のどかな

るジェムノス、おゝ、豊なる渓谷よ!》とうたっている。18 世紀末頃の旅行者の感性を再

発見するには、熱気球発明のモンゴルフィエ家の領地内の谷を奥深く散策するに勝ること

はない。そこには修道院の跡もあれば、熱気球工場の廃墟だってあるのだ!

ルソー後となると視線が逸話探し的になり、旅行者の関心は細部に向かっていく。広大

に開けた地平線は喜ばれず、生垣とか緑の小森などに眼が向けられるようになる。アーサ

ー・ヤングのグラデーションは個性的で、南はプロヴァンスのむき出しの裸地の広がりから

北はリムーザンの田園風景やフランス中部のラ・クルーズ川の景観にまで及んでいる。アル

プスの後はピレネー山脈がレイモンによって発見され、ヴォージュ山脈やセヴァンヌ山脈

には 1786~88年にプロテスタントの説教師ジョージ・フィッシュが訪れた。旅行者たちは

至る所にルソー風の滝や山国の純朴な住人たちを発見した。しかし、フィッシュはセヴァン

ヌの谷の美観には賛嘆を惜しまなかったが、むき出しの山頂の野性的雄大さには無感動で

あった。ルソー以降の旅行者たちはお決まりの場所の限られた景観にしか魂の感動を覚え

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なかったが、それでも古典主義時代の人工的に作られた景観への志向に比べればはるかに

ましだった。記号学的用語を借用すれば、この観点における 18 世紀の特徴は、〈子宮内の赤

子の幸福〉を象徴とする〈内面性〉の発見であったといえようか。実際ルソー以後、人々は

いつでもルソーのシャルメットの居心地のいい隠れ家、つまり〈ママ〉の元に戻って来るの

であった。時が下って 19 世紀のロマンチスムの時代になると、いうところの〈男根崇拝〉

的な垂直方向がこれに加わって、山の上下関係、支配-被支配の対話を生む雄大な景観も登

場してくるのだが、その時にはルソー的旅行者は山裾に留まるしかなくなるのであった。

第4節 神秘の国スイス

18世紀に誕生した〈旅行者のためのスイス〉は地理的にはスイス国を構成する 13州の

枠を超えており、その範囲内に公国や司教領、さらには多少なりとも 13 州と同盟ないし支

配下にある小共和国をも含んでいた。固有のスイスではヴァレ州が最も美しいとされてい

たが、ほかにサヴォア公国やジェックス地区、時にはジュラ地方などスイス外の地方までを

含んでスイスなのであった。ナポレオン失脚後の 1815 年以降も、旅行地スイスはウィーン

会議で定められたスイス領にとらわれず、当然のことのようにサヴォア州はもとより西部

アルプス全体を包含して語られることも多かった。エベル Ebel の『スイス旅行ハンドブッ

ク』(1805 初版、1895 年までに 9 版)をはじめ、その後のマレー、ベデカー、ジョアンヌ

などの国際的ガイドブック・シリーズ、そしてアレクサンドル・デュマの「スイス旅行記」

(全 3 巻)に代表されるロマンチスム時代のスイス旅行記はいずれも現実のスイスの国境

を超えており、今日風に言えば〈国境なきスイス〉のイメージが体系的に出来上がっていた。

言い換えればスイスは容器ではなく中身として認識されていたのであった。旅行地スイス

の評判はあっという間に広がった好例である。1776 年付のウィリアム・コックスの手紙は

早くもスイスを有名観光地としており(書簡集の出版は 1780 年)、レイモンによるその仏語訳

(1781 年)はスイスを中心に編纂されている。ほかにわずか数年のうちにスイスをとり上

げた文芸作品や事典などスイス紹介の書が続出し、ハラー(ジュニア)とシンナーSinnerの

著作もそれらに含まれていた。

フランス革命前夜に、〈神秘の国〉スイスはすでにイギリス人のグランドツアーの第一

目的地になっていた。若きタウンゼントは、1787 年にフランスではなくベルギーを経由し

て大陸に渡っている。彼の場合、スイス・ツアーとジュネーブ滞在がツアーの中心をなし、

ジュネーブの若き牧師エティエンヌ・デュモンを案内人として旅をしている。1793 年発行

のレイシャールの『ヨーロッパ旅行ガイド』は、スイスはイタリアとイギリスを凌駕すると

明言している。レイシャールは人々のスイスへの傾倒ぶりがすでに普遍化している事情を

次のように書いている。

美術関係を別にすれば、スイスはどれほどイタリアに勝っていることか。とくにアルプスの雄大

な眺め、驚異的な自然の恵み、そして何より自由にして温和なスイスの国民性はスイス社会の

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幸福を体現しているのである。

コックスのほうはスイスに関する手紙の第一号を次のように始めている。

この国は驚嘆すべき自然の恵みとともに、個性的な地方政府の集合という特性によって魅惑の国

となっている。

コックスの『書簡集』の仏訳の序文で、レイモンは別のテーマも付け加えている。別のテー

マとは〈アルプスの農民〉であり、〈彼らの風俗習慣〉であり、〈山そのもの〉である。旅行

者たちは相互に情報を補い合いながら、次のような様々な顔を持つ〈神秘の国スイス〉を作

り上げていったのであった。

・ジュリーの小説を片手に訪れるルソーのスイス;実際はかなりの部分がスイスの外

のサヴォア

・早くからロマンチックと認められた美しい景観のスイス;ローヌ河の消滅、サレー

ブの山、レマン湖、ブルジェ湖など多数の選択肢あり

・大いなる魅惑〈モンブラン〉

・政治の国スイス;コックスが描いたスイスの政治にレイモンが自由の王国のイメー

ジを追加した

・田舎が幸福なスイス;幸福の観念に変化をもたらした

このような多様な顔を持つスイスは 18 世紀を通じて段階的に現れて来た。18 世紀のはじ

めスイス人自身は、自国は知られざる国ないし蔑視されている国という意識を持っていた。

自国を知ってもらおうと知識人たちがいくつかの著作を世に問うている。1730 年にアルト

マンが『甘美なるスイス』Delices de la Suisseを書いたのもその目的からであった。

ヨーロッパの真ん中にありながら、スイスがほとんど知られざる国であることに私は驚かざる

を得ない。外国人だけでなく、自国の住民ですらスイスを知らない。

そして、外国人にとってスイスとは、と続ける。

スイスは穴を通してだけ太陽を見るという狼男が住む国だ…。もう一度言うが、ヨーロッパのど

こかに移住したスイス人など、アフリカからやっていた怪物ほどにも評価されなかった。

ところが 18世紀半ばになると、G. ゲスナーとハラーが翻訳される。ハラーは周知のとお

りアルプス信仰の生みの親とされているが、これは留保付きでと言ったほうがいい。ハラー

は高山を全く知らなかったし、そもそもほとんどアルプスに観光旅行などしたことがない

からである。だから彼の著作『アルプスの山』Die Alpenの記述は不正確であり、一例をあ

げればこんな調子である。

岩場の間に広がった湖は巨大な鏡のようだ。平穏な波間にきらめく炎が燃えている。

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ハラーやゲスナーの著作に人が見出すのは山ではなく、またしても〈新しい詩想〉ないし具

体性の乏しい田園詩に過ぎない。マルモンテルは『アルプスの牧羊娘』の舞台をモーリアン

ヌ(サヴォア)のどこかに設定したし、フォンタネは自作『羊飼い』でアルプスとジュラを

一緒くたにしている。モルネによれば、ハラーの有名な『アルプスの山』は「スイスが古代

ギリシャの楽園アルカディアを想起させるとて人々をスイスへに向かわせ、人々はスイス

に駆けつけて感涙にむせび、魂を込めて詩を朗誦することで文物に魂を吹き込んだ」のであ

った。旅行者たちはハラーを訪ね、熱烈なファンとなって帰国した。中にはナイーブにもそ

の熱狂をヴォルテールに語った連中もいたというが、もちろんヴォルテールが面白く思う

はずはない。ルソーはかくして誕生した熱狂の対象としてレマン湖とサヴォアというセン

チメンタルなスイスを与えてその流行を煽ったのであった。ハラーの『アルプス』は R. モ

ージ Mauziのテーゼに照らして読み返してみる必要があるだろう。主題は〈幸福〉である。

〈徳〉が〈幸福〉に導くのだが、〈徳〉は都市を去ってアルプス在住の人々の中に逃避した

のだという。その趣旨を彼が列挙した事項からいくつか拾ってみると;

4)自然の摂理;人々はまだ黄金の時代(ギリシャ神話)を知っている

5)足るを知ることで幸福な人々;過ぎたる富に幸運は微笑まない。過ぎたる富は諸悪

の根源である

6)自然がスイス人を守るべくアルプスを聳えさせたのなら、それは人間自身が最大の

災害だからということになる。

7)富という危険な優位性を奪われている幸福な人々

9)この国では本の中の宝物をひけらかすことはない。ギリシャやローマへの道のり

を計る者はいない

13)何故ならここでは自然のみが法だから。いかなる強制も快適な愛という名の帝国を

制約することがない

17)都会の煙害から遠く離れ、魂の静寂がこの地を支配する

スイスの景観は人を幸せにする。ルソーは『孤独な散歩者の夢想』の中で、アルトマンが提

示したスイスの〈イコン〉を以下のごとく拡大して見せた。

スイス全体がひとつの巨大都市にもたとえられる。道路の幅が広くかつ長く、森がそこかしこに

配置され、山岳によって分断され、家々は離れ離れに孤立していてそれぞれは英国風庭園によっ

てつながっている(7 番目の散歩)。

庭園学の理論家ヒルシュフィールドはこの景観を人間化された自然であるがゆえに愛

したのだが(『庭園の美学』1785 年)、本物の山はこれとはコントラストをなし、旅行者が

喜びを感じるのは山から谷へと降りて来てからということになる。カラムジンは 1790 年に

ジュネーブ訪問後にフェルネを通過しているのだが、同じことを次のように表明している。

(『フランス旅行』)。

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ヴォルテールは自室の窓からサヴォアのモンブランを見ることができる。モンブランはヨーロ

ッパの最高峰であると同時に、緑豊かな平原であり、庭園であり、そして他の快適なるものを含

むのだ。一番目が好奇心の対象で、二番目以下が快適さをもたらしてくれるのである。

セナンクールは 18 世紀もどん詰まりの時期にスイスの田舎とレマン湖を徒歩で巡ったが、

彼が自ら〈アルプスの土地のロマンチスム〉と呼ぶものに最初に反応した者の一人であった。

彼は幸福とは心の状態であると確認したうえで、氷河に固執するイギリス人を批判し、本当

に幸せを感じるのなら、その場所スイス・ロマンド地方に留まってはどうかと挑戦し、次の

ように書いている。

私は単なる旅行者として、あるいはただの好奇心でスイスを歩きたいとは全然思っていない。私

はこの地方に住みたいと思ってその場所を探している。なぜならほかの場所では落ち着かないと

思うから…。私はジュネーブの青い空の下で本当に幸せだった…。

イギリス風の偏執によって危険を冒して氷河を眺めに出かけ、滝をデッサンし、くたびれて

帰ってくるのではなく、ここに住んではどうだろう。ヴォ―州は外国人にとって最も良き国

なのだから。

この一文は、1804 年時点でのイギリス人によるスイス観光の実態の証言として正確で

ある。美しい国の幸福なスイス人たち! 山岳地の人々の幸福の源泉は長老支配の素朴な風

習にあるというのがハラーとルソー以来のスイスのイメージであった。ルソーが『ヴァレ州

の人々に関する手紙』や『景観に関するダランベールへの手紙』を書いたり、ド・ウォルマ

ールの人物像を描いた時、彼は自らをフランスの影響に抵抗するスイス的ないしサヴォワ

的社会のこだまとみなしていたのであった。ジュネーブに外国人とくにイギリス人を惹き

つけるものがあるとしたら、それは第一にカルヴァンの町だからであった。ゆえに外国から

の移住者はジュネーブの禁欲的な風習を高く評価した。ウイリアム・コックスやミス・ウィ

リアムスはそのことに触れ、二人ともスイス人の家父長制習俗をパリの放縦な生活ぶりと

対比している。しかし翻訳者のレイモンは、コックスはアルプスの農民の表面しか見ていな

いと批判している。レイモンは自ら旅程も決めずにスイスをぶらつき、羊飼いたちと暮らし

た経験があったからである。彼はスイスの谷間は〈われらの時代の光で照らせば失われてし

まう純朴な徳の避難所〉であると考えていた。

コックスは重くかつ長くアルプス人種の甲状腺腫の病について語った後、これが山岳

民の苦しみの種なのだといったが、レイモンはその重要性を軽減しようと努め、高徳の山岳

民目当てに訪れる旅行者らのルソー的熱情を止めるものは何もないと論じている。もしレ

イモンがルソー以後有名になったスイスの山歌〈ランツ・デ・ヴァーシュ〉(牛の牧歌)とそ

のメロディーの価値を強調するのは、セナンクールが言うように、山岳民の山歌こそ彼らの

至福を端的に表しているからである。

この歌のメロディーが彼らの平和な職業、水辺、静寂…を表現するがゆえに、山岳の人々はこれ

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を聞くと大いに感動するする…

コックスの『書簡集』第 1 巻の 174 番は、スイスの宿代と馬の借り賃が滅茶苦茶高いと文

句を言っているが、レイモンはこれを否定して「私はそういうぼったくりは経験したことが

ない」と言い、「しかし、贅沢旅行や見せびらかしは止めるべきである。…スイスの居酒屋

の亭主は誰でも泊める客より自分がのほうが価値が上と考えている。だから、客はこの地で

偉そうな態度をとるのは止めたほうがいい。あなたたちが自分をそう見せたいとおもう程

度に応じて払わされるからだ」と書いている。

〈神秘の国スイス〉の最後のテーマは政治的自由である。このテーマはハラーやコック

スにとってはそれほど重要テーマではなかった。コックスは各州の憲法を貴族主義的なの

も民主主義的なのも主観をまじえずに紹介していて、各州の競争と競合により高い関心を

示している。そういう意味では、いわゆる〈スイス式民主主義〉への称賛を明確に表現した

最初の人がレイモンであった。ただ、レイモンもすべての人の同感を得るまでには至ってい

ない。シンナーSinner は人々の見るスイスは様々であると一般論を述べた後で、スイスは

ある人たちには自由の最後の砦であるが、別の人たちにとっては〈権力の乱用と不寛容の

国〉であるとして、堕落・贈収賄の一覧表まで掲げている。また、レイシャールのガイドブ

ックが幸せな小共和国群を讃えている一方で、共和主義者のミス・ウィリアムはスイス人は

自由を愛する人々だと信じていたのに、実際はお金だけを愛する人たちだったと幻滅して

いる。結局実際にスイスに移住したセナンクールが、スイスに来てよかった、幸福だといっ

ているのが結論であろうか。

第 5 節 自由の島コルシカへの最初の旅行

スイスとコルシカ、この 2 国が 18世紀後半において共通するものを持っていたことを

まず強調しておこう。両国はともに最初の来訪者たちの熱狂的な支持によって〈神話の国〉

となった点が共通している。それ以前はどちらも知られざる国であったのだが、とくにコル

シカはスイス以上に知られていなかった。1730 年頃までコルシカの最も知的な精神文化と

言えば、古代ローマ時代の文筆家数人以外に挙げうるものが何もなかった。しかしその一人、

コルシカに追放されたセネカの手ひどい島の悪口は、島のことを知ろうとする欲求を萎え

させるに充分であった。変化が起きたのは 1729 年のコルシカ独立革命勃発からである。当

初ヨーロッパの世論はこの騒動にさしたる関心を示さなかったが、それでもこの事件ゆえ

に最初のコルシカの紹介書が刊行されている。1732 年にオランダ語で書かれた最初の紹介

書が出版され、次いで 1736 年にドイツ語の紹介書が出されたのだが、これらはほとんど無

視された。書き手も不明のままだった。フランスは 1737~41 年に軍事遠征までしたのに、

島への関心をほとんど示さなかった。ただし、独立革命で一時的にコルシカ王となったテオ

ドール事件だけは全ヨーロッパで話題になったのだが、その知名度もテオドール政権と同

様短期に終わってしまった。1765~66年に最初のイギリス人訪問者、ボズウェルとバーナ

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ビーがここを訪れて、自国人がこの島についてまったく無知であることに衝撃を受けた。

コルシカとスイス。前者が自由の島となったころ、後者は島の如く孤立した幸福の国で

あった。二つの異なる〈集団抒情〉の発露はジャン・ジャック・ルソーという同じ源流から

発していた。『新エロイーズ』(1761 年)と『社会契約論』(1762 年)はともにコルシカ独

立運動の正統性を弁護しており、ルソーは「ヨーロッパにはまだ法律支配が可能な国がある、

それがコルシカ島だ」とコルシカの対ジェノア独立戦争を肯定し、さらに「私はこの島がヨ

ーロッパ全体を驚かす日が来る予感がする」と言っている。そして、そのすぐ後にコルシカ

独立軍の指導者パスカル・パオリ将軍が派遣した将官ブッタフォコがルソーの元にやって

きて、コルシカ憲法の草案作成を依頼した。ルソーとパオリの間で手紙のやりとりがあった

が、ルソーは依頼された憲法の素描を書いただけで、彼のコルシカ訪問は実現しなかった。

しかし、この申し出はヨーロッパ諸国に大きな反響を巻き起こした。パオリの依頼を嘲

った人たち(ヴォルテールもその一人)でさえ、コルシカの自由と民主主義への戦いを快挙と

讃えたのであった。その数年後にコルシカを旅したイギリス人のボズウェルとバーナビー

は、パオリが本当にルソーに憲法草案の作成を依頼したのかどうか確かめたいと思ってい

た。ルソーへの依頼はヴォルテール一流の世論操作だとの噂がヨーロッパ中に広まってい

たからである。そこでボズウェルは 1766 年に、バーナビーは 1767 年に真実を知ろうとコ

ルシカに出かけて行った。人々は彼らはイギリス政府の公式使命を帯びて行ったと噂した

が、ともかく彼らはパオリとブッタフォコに丁重に迎えられている。この時期はまだコルシ

カの愛国者たちとフランスの駐屯軍が相互に出方を窺っている時期であった。…バーナビ

ーは旅の日記を公開しなかったが(1804 年に出版)、ボズウェルのほうは実情を知るとまず

イギリスにおいて『コルシカ島記』(1768 年)を公刊し、これがいくつもの言語に翻訳され

て広まっていった。ボズウェルは故郷のスコットランドでパオリ支援の募金活動も行って

いる。二人はパオリとブッタフォコに憲法草案依頼の真偽を問い、ブッタフォコはルソーを

招待したことを認めたが、来訪は実現しなかった。ボズウェルは「この計画が実現しなかっ

たのはまことに残念だった」と書いている。

ルソーはコルシカのソロン(アテナイの民主主義を築いた古代ギリシャの政治家)にはなりそ

こねたが、コルシカの有効なるゲートキーパーになったとはいえる。というのは、ボズウェ

ルはコルシカに赴く前に回り道してスイスに立ち寄ってルソーに会い、パオリとブッタフ

ォコへの紹介状をもらっているからである。コルシカに行ったボズウェルの動機は、次のよ

うな彼のコルシカ観をみれば、まさしくルソー的発想そのものである。

ほかの場所では見られないものがコルシカでは見られる。それは自由のために戦う人々だ。

かつては貧しく、蔑視され、圧政に苦しんだ国民が今や独立し、繁栄する国家を作り上げて

いる。

かくして〈コルシカ問題〉への高揚とコルシカに行ってみようという〈ロマンチシズム

趣味〉がイギリスに広まった。理由は容易に推察できる。18 世紀ヨーロッパにおけるグレ

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ートブリテンの優位性に加え、海洋一般とくに地中海におけるイギリスの利害関係が絡ん

できたからであった。さらに、野党のホイッグ党が〈自由へのロマンチスム〉の影響で植民

地アメリカ側に好意的態度を取っていたのだが、1768 年にコルシカが独立問題にからんで

ジェノアからフランスに譲渡されると、反仏感情が大きな広がりを見せたのであった。

パオリへのイギリス人の熱狂はその多くをボズウェルのコルシカ旅行に負うている。

ボズウェルはコルシカで様々なテーマを拾い上げて『日記』として公開し、「私が自由のた

めに建立するこの記念碑をパオリに捧げる」と書き記したのであった。パオリは栄誉に値す

るというのがボズウェルの結論であり、「彼はプルターク英雄伝にしか見られない偉大なる

人物の一人である」と讃えたのであった。ボズウェルやスコットランド公(元帥)のような

大物がコルシカ擁護の論陣を張り、フランスとの戦闘に敗れたパオリはイギリスに亡命し

て歓迎された。詩、エッセーその他のあらゆる言論がコルシカ礼賛を続け、イギリス人旅行

者が大勢コルシカに旅行した。かくしてイギリスではまるで自国の一部でもあるかのよう

にコルシカ愛が広まり、とくにフランス革命の期間中奇妙なアングロ=コルシカ王国のご

とき現象さえ生まれたのであった。そして、これがイギリス人旅行者が広めた神秘の国コル

シカ変身の最後となった。

他方、フランス人のコルシカへの関心はどうだった。ボズウェルの日記が出版された時

期に一時的に高まりはしたが、長続きしなかった。アベ・ジェルマーヌが 1776 年に『コル

シカ革命史』を刊行したが、本人はコルシカに行ってもいなかった。コルシカ問題はすぐに

忘れられ、フランスによるコルシカの併合ですら実質的な関心の対象にならなかった。コル

シカへの旅行記の類もほとんど出版されず、フランス人は全くと言っていいほどコルシカ

に旅することもなかったのである。

理由はコルシカ島が当時旅行向きの場所ではなかったことである。ルソーが行こうと

しなかったのもそれが理由であった。『告白』の中でルソーはコルシカへの道中のリスクと

滞在する不便さを心配し、「日用品すらない国」なので、行くとなると「下着、衣服、食器

類、料理用具、紙、本などまで持参しなければならない」と書いている。ボズエルもコルシ

カの貧窮ぶりを肯定し、宿泊施設はほとんどないと言ったうえで、「それが何だ!その代り

に外国人への類いまれなコルシカのホスピタリティがある」と主張した。ボズウェルは行く

先々で次の泊り先を勧められている。宿泊はすべて民家であり、食べるにせよ寝るにせよ、

不安な思いで宿を探す必要は全くなかった。そういう次第だから、ラクソールWraxall のよ

うな快適な滞在を要求する旅行者は〈野生の島〉コルシカ行きを避けたのであった。ラクソ

ールは 1775 年にグランドツアーに出かけてマルセイユに4か月滞在し、その間にコルシカ

島とサルデニア島の訪問も考えたが、未開地で発見も楽しみもありそうにないからやめに

したと書いている。

18世紀末から 19世紀初頭にかけての頃、コルシカはあまりに遠すぎるし、往来に危険

が伴う上滞在は快適さに欠くとあって、観光の流れは生まれようがなかった。それでもルソ

ーのおかげでコルシカは少なくとも発見はされた。ルソーが広めた〈自由の大地コルシカ〉

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という神話が少なくともイギリスでは力を得ることができた。一方フランスでは、コルシカ

をフランス人に知らしめたのはナポレオンの登場とメリメの『コロンバ』(1840 年)である

というのが通説で、これを否定するに足る 18 世紀末~19 世紀初頭の旅行関係の出版物は

何一つ見つかっていない。しかも、ナポレオン生誕の地へのフランス人の関心が高まるのは

事実上ナポレオン伝説が誕生したあとのことであった。ナポレオン帝政の時代を通じて、皇

帝自身もフランス人も、コルシカなどまったくあるいはほとんど無視していたのであった。

コルシカへの旅行記や解説本の出版は 1780 年から 1820 年までの 40 年間にたった2~3

冊あるかどうかの貧弱さであった。

フランスではプロスペール・メリメ(1803~70)の類まれな才能のみがコルシカ人に

生彩を帯びたエキゾチックなイメージを与え、このイメージがコルシカへの旅のモチベー

ションになった(『マテオ・ファルコーネ』1829 年、『コロンバ』1840 年)。もっともコル

シカの諸特性はすでに 18 世紀末の旅行者によって伝えられてはいた。復習譚、義賊、家族

の絆の強さなどが一方にあり、他方には怠け者で迷信深いが純朴で正直であるという一面

があってその両面が伝えられていた。メリメはそれらを小説に活かしたのであった。

第 6 節 ルソーの限界

ルソーはその知名度において〈視線の革新〉の原点とされているが、彼は人の審美眼に

革命的進化をもたらしたわけではなく、また山を発見したのでもなかった。古典期の旅行者

のモチベーションに新しいテーマを付け加えただけというのが正しい。彼以前には世に知

られていなかった場所に人が訪れるようになり、ある種の新旧融合が現れてきた。デュパテ

ィがその一例である。彼の死後に編集者が強調したように、デュパティは〈イタリアに〉en

Italie に旅行したのであって、〈イタリアを超えて〉plus de 旅行したのではなかった。彼は

何度かウィンケルマンを引用して自身の新古典主義への傾倒を表現しているのだが、革命

前夜らしいアクセントで語ってもいる。例えば、アヴィニョンに行って遺跡のことは何一つ

書かず、たまたま行われた訴訟の不公平極まるやり方に怒りを露わにし、ツーロンでは漕刑

囚の受けた不当な扱いのみを語っている。

ルソーによる真の新しさは旅の内面化であった。かくして影響を受けたヘルダーは

1769 年にフランス全土を旅して回り、『1769 年のわがフランス旅行日記』というタイトル

の書を著したのだが、自分が見てきたものについては語らず、ひたすら内省を記述している。

1793 年にレイシャールのガイドブックが、スイスに向かうルソー主義者旅行者の新ら

しい趣味を説明して、旅の最大の魅力を次のように書いている。

旅の楽しみを最大にするのは、最上の体調と通常以上の精神の安定である。それらをもたら

すのは自由に呼吸する清涼の空気であり、運動の継続であり、旅の恩恵たる気晴しの連続

である。ほかに加えれば、悲しい出来事や面倒な仕事からの解放感であろう。