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J.-J. ルソーの思想観 土問一加 J.-J. ノレソーは 37 才のとき, ディジョン・アカデミーの 1750 年の!窓口問題¥ ( r 学問と芸術の復興は習俗の純化に寄与したか J )に応募した論文の当選 H: よって,一躍フランスのみならずヨ ーロ ッパ中の知的社会の反留を呼び, 輝かしい名声を手に入れることになった。後年『マノレゼルプ宛ての手紙J (1762.1.12) で, I こうしてわたしはそんなことはぜんぜん考えてもいなか- ったときに著作家 l ζ なったのであり,心ならずもと言ってよいくらいです」 (P t 1136; r エミール J 下, 30) (1)と詑-ること l ζ なる , ノレソーの思想家として の有名な出発点である。 (以下『学芸論』と呼ぶ〉は,ディドロ の援助のもとに出 版され(授災決定は 1750 7 月,公刊は 11 月),それに対 して体制 j 側 ・反体 制側を問わず, 賛否あわせて 68 点にものぼる論文の反うりがあった。 (2) ルソ ー はそれらの主要なものに, f l 乙完胞なきまでに, f1寺に荘重な文体で反論を加 (以下『不平等論Jと略す) にく原理>として展開される諸観念を徐々に表明して行く。だがこれらの熱 っぽい論戦とそれに伴う社会的名声.の増大,そして理論の発展の一方では, 乙の論争の後期にすでに「自分自身と ともに生きることを好む孤独者J とい う「稀有な立場 J cr ポノレドへの第二の手紙の序文J 草稿,1753 P ,][, 103) が, 理論構築や真理の探究とその忌悌ない表明を保証するという自覚が見られる ととに注怒せねばならなし、。 w 学芸論Jと初期の論争でのノレソーの l:l :1 (.ζ 指摘 されるような, (S) ジュネ ーウ申人であると同時にフランス人であるというこ重 性の戯れを利用した匿名の立場は,無名の新人にのみ可能であった。だが今 や名声のただ中にいるノレソーは, 自分への批判が,普かれた論説の思想内容 に向けられると同時に,詩や音楽を作る人間であるという自分の采姓と学問 芸術批判の主張との聞の矛盾,ひいてはそのような矛盾を犯してはばからな い彼自身の人格に向けられていることに直面する。そして一方-では,主とし て故国ジュネ ーヴの下層階級の背年の r:IJ に, w 学芸論 J への支持者, という C 289 )

J.-J. ルソーの思想観dlisv03.media.osaka-cu.ac.jp/contents/osakacu/kiyo/DBd...J.-J. ルソーの思想観 四 土問一加 幸 J.- J. ノレソ ーは37才のとき,ディジョン・アカデミーの1750年の!窓口問題¥

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J.-J.ルソーの思想観

四土問一加 幸

J.-J.ノレソ ーは37才のとき, ディジョン・アカデミーの1750年の!窓口問題¥

( r学問と芸術の復興は習俗の純化に寄与したかJ)に応募した論文の当選

H:よって,一躍フランスのみならずヨ ーロ ッパ中の知的社会の反留を呼び,

輝かしい名声を手に入れることになった。後年『マノレゼルプ宛ての手紙J

(1762.1.12)で, Iこうしてわたしはそんなことはぜんぜん考えてもいなか-

ったときに著作家lζなったのであり,心ならずもと言ってよいくらいです」

(P, t 1136; rエミ ールJ下, 30) (1)と詑-ること lζなる, ノレソーの思想家として

の有名な出発点である。

『学問芸術論~ (以下『学芸論』と呼ぶ〉は,ディドロ の援助のもとに出

版され(授災決定は1750年 7月,公刊は11月),それに対 して体制j側 ・反体

制側を問わず, 賛否あわせて68点にものぼる論文の反うりがあった。(2)ルソ ー

はそれらの主要なものに, f時l乙完胞なきまでに, f1寺に荘重な文体で反論を加

える。その過程で彼は1753年の『不平等起源論~ (以下『不平等論Jと略す)

にく原理>として展開される諸観念を徐々に表明して行く。だがこれらの熱

っぽい論戦とそれに伴う社会的名声.の増大,そして理論の発展の一方では,

乙の論争の後期にすでに「自分自身と ともに生きることを好む孤独者Jとい

う「稀有な立場Jcrポノレドへの第二の手紙の序文J草稿,1753, P, ][, 103) が,

理論構築や真理の探究とその忌悌ない表明を保証するという自覚が見られる

ととに注怒せねばならなし、。 w学芸論Jと初期の論争でのノレソーのl:l:1(.ζ指摘

されるような,(S) ジュネ ーウ申人であると同時にフランス人であるというこ重

性の戯れを利用した匿名の立場は,無名の新人にのみ可能であった。だが今

や名声のただ中にいるノレソーは, 自分への批判が,普かれた論説の思想内容

に向けられると同時に,詩や音楽を作る人間であるという自分の采姓と学問

芸術批判の主張との聞の矛盾,ひいてはそのような矛盾を犯してはばからな

い彼自身の人格に向けられていることに直面する。そして一方-では,主とし

て故国ジュネ ーヴの下層階級の背年のr:IJに, w学芸論Jへの支持者, という

C 289 )

Page 2: J.-J. ルソーの思想観dlisv03.media.osaka-cu.ac.jp/contents/osakacu/kiyo/DBd...J.-J. ルソーの思想観 四 土問一加 幸 J.- J. ノレソ ーは37才のとき,ディジョン・アカデミーの1750年の!窓口問題¥

-2-

よりむしろノレソーの信奉者,追随者が生み出されている。自分という人間を

知らないで思想に共鳴 してくれる者の存在を見出したノレソーは,突然の名声

が大きい程,あらたに踏み出した思想家 としての,<書く こと>の影響力の大

きさに当惑 したにちがいない。 これらの状況が表裏をなして,論争の最終段

階で,ノレソ ーに「わたしだけJの問題を語らせ crナノレシス序文JP, 1I, 973 ;

『学芸論j210),実生活面では有名な<自己改革>に踏み切らせることにな

る。そしてここでの問題はすでに晩年の 『対話』で展開される モチー フを基

本的に提出 している のである。それはノレソー自身の言葉を借りれば,((mes

ecrits)) と ((ma personne)) の関係である crボノレドへの第二の手紙の序文J

P, ll[, 104)。

スタロパンスキーは, WJ.-J.ノレソー,透明と障害』の序文で, r正当な根

拠があるか否かは別として,ノレソーは彼の思想と個人,理論と個人的運命を

切り離すことに同意しなかった。ノレソーをあるがままに,存在と思想との乙

のような融合と混同において受け取らねばならなし、。 そうすれば,ジャン=

ジャックの文学的創造は,それが想像上の行動 (action)を表わすかのよう

に分析され, 彼の行動 (comportemぬのは, それが生きられた虚構を形成

しているかのように分析されることになろうJ(4)と彼自身の視角を要約して

いる。私たちもまた同様の視角から,ノレソーが自分の思想をどう考えたかを

調べてみたいと思う。今見てきたように, 彼の思想的な出発点をなすさまざ

まの体験が特に重要となるが,この問題を十分に見るためには,初期の文章

自体にあ らわた考え方はもちろん,それが後期の文章にどのように受け継が

れ,深化された り変容させられたりしている か,さらに自伝作品の中で自己

の思想的出発がどのように意味づけられているか,と いった種々の角度から

検討する必要があるであろう。

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みIl1. 思想と体験のー側面一一いわゆるヴァンセンヌ体験について ‘'‘

『学芸論』を応募する直接のきっかけとな り,さらにノレソ ーの全政治思想

の根本原理を一瞬に把握させ, 彼に不幸な作家生活への道を歩ませたものと

して,後年『マノレゼ、ノレブ、への第二の手紙~ (1762.1.12.), W告白J第八巻

(1769年頃執筆),w対話,ノレソーがジャン=ジャックを裁く~ (1772-1776)

の 「第二の対話」に前後三度にわたって述べられて大きな意味を与えられて

(290 )

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そして乙の桓の体験がつねに

の現在を根拠づけるものとし一

づけが不可分の側面を構成し

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きたいと居、う- づ -・'‘・'" ~¥画、ー・~ のディドロに会うためヴ γ ンセンづ山

こふれた瞬間Jレソーを盟っ九

こ諮られ, L告白』ではさらにーヴ7 ンセ

つけわえられる。プレイヤード版の稿者カ串

モメントJ(5) と呼んでいるのはきわめて示唆的

>は乙の二つの契憶を本質とするものとしてと

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< く > ソー ー~""""'"ディドロと

エピソードの二つ

<ヴえる必要がある。その理由は次の通りである

つうヴ 7 ンセン兄体訟は1762年1月の「マノレゼノレプあての手紙」の時一

heureux basard) 1としてとらえられ,同年5月の l.!エ

う悲劇的な迩命の転回をへたのち,亡命地モチ

こ Lクリストフ ・ド・ポーモンへの手紙』ではもはや「幸

「アカデミーのくだらぬ設問 (lniserable中 estio,n

川 cad釘nie引が37Eされる乙とになる JC} というようにE ヴァンセンヌ炉問山

ノレソーのとらえ方の迫3前後の変化が言われる。しかし唖それは正

ルソーが|宰注rJ_偶然」といったのは,あくまで「十五分のあ

下でわたしに光明をあたえてくれた無数の偉大なti理Jの

-~ちり,たしかに乙の手紙以後は,この<啓示>

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>;c く岨,哩回・

え去り,

り(,手ゐくまで

りれているのである n 乙の聞の窓識の照明の移動はたしカ…

公刊後のl迫3による心理的な比重のかけ方のちがいからく Z

,く啓示〉そのもののとらえ方が迫3前後で正反対に変わった

ム作家となった不幸についても"迫3以前にすー青山

…」を認った『マルゼノレプへlの手紙』の少し前の,ノレ

「私が著作を印刷してもらいはじめて以

の苦労,苦悩,苦痛以外のものではあり

J.'J:の友人をもったのは無名時代

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( :291 )

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る。

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,‘、、自分に全アカデミーのくだらぬ設聞が,意、に反して私の精神をふるい立たせ

く向いていない仕事の中に私を投げ乙みました。(P,IV, 920)

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ここで「意に反して私の精神をふるい立たせJというのは,<啓示>その

ものをさしている のだろうか。むしろ不幸な政治的迫害の渦中で,<啓示>

の幸運な体験の想起は行われず, r精神をふるい立たせた」という表現は,

『学芸論Jの応募のため夜を徹 して構想を練った作業をさすと考えられる。

次にかなり時をおいた 『告白』の中では二つのモメン トの分離が明確にな、6

る。

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3の;

句J~

ある日, lrメノレキ ューノレ ・ド・フランスJをもって歩きながら読んでいると,

ふとディジョンのアカデミ ーから出された翌年度の懸賞論文の題が自にと まっ

た。…乙れを読んだ瞬間 (Al'instant de cette lecture),私は別の世界を見

別の人聞になったのである。それからうけた印象のなまなましい思い出は今も持

っているが,詳細はマノレゼ、ノレブ、氏への四つの手紙の一つにさらけ出してしまって

以来,夜、から逃げてしまった0 ・

いまの場合, はっきりおぼえているのは, ヴァンセンヌに着いたとき, 熱狂

(delire)に近い興奮状態にあったととだ。ディドロはそれに気づいた。私はその

原因を話し,カシの木の下で鉛筆書きにしたファブリキウスの熱弁を彼に読んで

きかせた。彼はそうした私の諸観念を発展させて懸賞に応募するようすすめた。

私はそうした。そして乙の瞬間から (dお cetinstant) 私は破滅したのだ。そ

の後の私の生涯と さまざまの不幸はとの錯乱の瞬間 (cetinstant d'egare-

111ent)の不可避的な結果なのである。 (P,I, 351)

乙こで印象的なのは,記憶の中で『マノレゼノレブへの手紙Jでの前景が返

さ,新たな記憶が後景からせり出してきて前景をしめるような交代のさまで

ある。ここでは明瞭に二つの瞬間が語られていて, rこの錯乱の瞬間」とは,

ディドロのすすめに従って懸賞に応募する決心をした瞬間いがいを指してい

るのではない。たしかにく啓示>のエピソード 〈第一のモメント)の中には

熱っぽい興奮状態をあらわすいくつもの語句が出てくるが, egarementとい

う語は一度も使われていない。これはそうした興奮状態をあらわす同義語群

に属するのではなく, erreurの同義語,<錯誤>ととるべき単語なのであ•

だけですJ(7)と書かれてお り, ζ れらの二つの要素(啓示の幸運と作家生活

の不幸)は,ほぼ同時期に区別 してとらえられている乙とがわかるのであ

さて問題の『ボーモンへの手紙』では乙うなっている。

(292 )

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J . -J .ルソーの思想観 - 5 -

る。

以上でヴァンセンヌ体験を二つのモメントに分けねばならない〕宮山を示し

たが,それでは これらのモメントはそれぞれ何を窓口長する のだろうか。

<啓示>の体験は次のように記述されている。

なにか突然、の霊感といったようなものがあったとしたら その課題を読んだと

き,夜、の内部に起った動きはまさにそういったものです。急花形、はあふれる光に

局神が照らされるのを感じました。いきいきとした無数の観念が同時に,ひじよ

うな力強さと豊かさをもってそとにあらわれF 言いあらわしがたい混:乱のうちに

私を投げζみました。夜、は酔った時のように頭がしびれるのを感じました。はげ

しい勤俸が私をしめつけ,彩、の胸をふくらませました。歩きながら呼吸する乙と

もできなくなって,私は道ばたの木かげに倒れるように身を横たえ,そこでひど

、盟都合のうちに半時聞をすどしました。立ち上った時気がついてみると,上着の

前のほうがすっかり涙にぬれていたのですが,私は涙を流したととなど知らなか

ったのでした。(~マ ノレゼノレ 7.への手紙j P. 1, 1135; rエミーノレJ 下, 300-

301)

きわめて純化された,典型的な啓示体験の記述である。体験はまさに個的• • 身体のレベソレを裂い,くさまざまの観念>を結晶させる。その観念の核とは

「人l間は生れっき よい者であること, 人 々が悪くなる のはただその制度のた

めである乙とJ (向上〉という確信である。 そして重要なことは, それがmr _.sJL的な社会思想なのではなく,当時-のノレソーがパリの社交生活のq:1で身をもって感じていた白からの不器用さと居心地の悪さという,いわば関係な

識の障害を転位し昇華した観念だということである。懸33問題の文章は,ア

カデミーが読者に提出した問題という社会的な怠味を失い,あたかもノレソー

自身の潜在意識の中からもう一人の新しいノレソ ーを解放し,そのノレソ ーが発

した問いとしてっきつけられる。 「私と同じ人間について私の心悩はたえず

私の精神 と矛盾した乙とを感じて,夜、はかれらを憎む多くの恕i却をもちなが

ら,それでもなおかれらを愛したいという気持が自分にあるととを感じてい

たJ (向上〉というふうに表現されている, 当H寺の彼の心情と精神の重苦し

い混とんの中で,今や精神の方に一つの観念の核が形成され,ノレソーの自我

にとって幸福な統ーをもたらすととになる。

ヴァンセンヌ体験の中からく啓示>の部分を切り離して怠味づけようとす

るノレソーのモチーフを理解するために,私たちは<啓示>によってもたらさ

(293 )

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- 6-

れた乙の幸福な統一の状態を,ノレソー自身による人類史の幸福な状態につい

ての『不平等論』の見解に引きよせてみよう。理論において自然の優位をと

く川ーは,幸福嶋するかぎり,原初の自然状態ではなく,一種の中間状

態に求めようとしている。

』,M

if.

ζの人間能力の発達の時期は,原始状態ののんきさと,われわれの自尊心の手

に負えない活動とのちょうど中聞に位して,もっとも幸福でもっとも永続的な時

期だったにちがいなし、。 cP, ][, 171 ;邦訳95)

‘・

しかしこの人類の黄金時代が外からの偶然によって破られたように,あの

「錯乱の一瞬」が<書く こと>への道へとふみはずさせることになる。<書

くこと>によって,この観念の核のまわりに自我が引きょせられる。 rわたしの感情はおどろくほどの速さで,思想と同じ高さまでかけのぼったJcr告

白~ P,I,351)。それは自己革命を通じて一つの理想の自我となり,ついには

彼の<自然の性向 penchantsnaturels>との聞に分裂をもたらすのである。

ヴァンセヌ途上の<啓示>体験は,そこから生まれた諸観念が社会批判の

方向性をもっていたにせよ,その原点において対自的な本質をもち,いわば

<自己が自己に透く>現象だと言える。多くの論者が指摘するようにそこに

<神>があらわれない点で,いわゆるく回心>の体験と異る。だがさらに重

要な乙とは,く神>の問題よりも近い将来ノレソーの思想の前面に出てくるこ

とになる祖国ジュネーヴ共同体で形成された観念基層が,乙の体J験の核心で、

は直接の役割を果していない点である。乙の点で離郷者ノレソーの体験は,単

なる習俗的な葱イ衣現象とも異る。当時のノレソーが, ジュネーヴのカノレヴィニ

ズムからカトリックへの不安定な改宗者であったという位相において,神と

共同性(言いかえればカトリシズム思想 ・文化とジュネ ーブ共同体)の両者

からの影響力は相殺しあっている。そこにノレソーの<啓示>体験の独自性を

見る乙とができるし,その後のノレソ ーの思想〈とくにその宗教観と共同体論)

の特異性を解く一つの手がかりがあると考えられるf)

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つぎにヴァンセンヌ体験を構成する第二のモメントに移ろう。それは,ヴ

ァンセンヌの牢獄でのディドロのすすめによって,ノレソーが自己の啓示から

得た思想を<書きあらわす>ことにふみきったという点である。

ところで後年このモメントをめぐって生じた大きな問題は,アカデミーの

設内に対して否定で答える(学問芸術の復興が習俗を腐敗させた)という選

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. -J . )レソーの心

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-8 -

との対立が決定的となって以後のものなのである。 w告白』を書いた時点で

ノレソ ーはすでに,フィロゾーフたちが自分に対してはりめぐらせた陰謀が存

在することを信じており,ディドロの証言の時点ではディドロはすでにノレソ

ーが少数の知人たちに何度かにわたって朗読して聞かせた『告白』の内容の

大略を知っている。したがって,く事件の真相>を明 きらかにするためにデ

ィド ロの証言を使う場合でも,それが全く公正な立場で書かれているから と

いう よりは,むしろ証言の傾向性を認めた上で,対立者によってなされたか

ら乙そ,少なくともノレソーに不利でない証言は信頼しうる,という論理によ

っている。しかし上に引用したディドロ の証言の文脈は,はた してそのよう

な事実問題自体の解明のための利用に耐えるものだろうか。私たちはむし

ろ,双方の証言の傾向性そのものを通して,ノレソーの思想的出発が内包じて

いた問題を明きらかにしたいと思う。十八世紀後半の知識社会でノレソ ーの思

想が獲得していった自立性は,ノレソ ー自身が出発点で身を置いていた当の知

識人社会における関係意識の異和に 乙そ根拠をもつからであり,それが後年

のノレソ ーの思想と人格をともに対象とした攻撃と,それにたいするノレソ ーの

自己弁護に,単なる思想対立を 乙えた陰惨な様相を与えるのである。

『告白』の中でヴァンセンヌ城をめぐる思い出を書 きとめる機会に,ノレソ

ーの意識には,かつて彼が最も信頼していた友人である ディドロ に対する関

係意識の異和をかなり鮮明に意味づけようとする動機があるように思われ

る。

ヴァンセンヌの啓示体験を語る直前に置かれているのは,逮捕され幽閉さ

れていたディドロが 8月21日に独房から解放され,友人と面会を許された直

後 (25日頃と推定),ノレソ ーが最初に彼を訪ねる エピソードである。

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-三・四世紀も待ち ζがれた思いの後で,私は乙の友人の腕の中にとびこん

だ。ああ,いうにいわれぬその瞬間/ディドロはひとりきりではなかった。…だ

が入ったとき 彼の姿しか見えなかった。ただひととび,ひと叫び,顔を顔にぴ

ったり押しつけ, しっかり抱きしめながら口もきけず,ただ涙をながし,すすり

泣くばかり。愛情と喜びで息がつまる。わたしの腕からはなれる と,彼はまず僧

侶の方を向いて乙う言った。 iどらんなさい,友人たちは乙んなにぼくを愛して

いるんで、すよ。」私はすっかり自分の感動に身をまかせていたので, その時は,

そんなふうにそれを利用するやり方をかえり見るひまはなかった。だがその後,

ときどきその乙とを考えてみると,もしわたしがディ ドロの立場にあったら,ま

ずあんなことを思いついたりはしなかったろうと,いつも思った。 (p, I ,350 ;

岩波,中, 118-119)

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同.

(296 )

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J . -J .ノレソーの思想観 -9-

ノレソーは!日l己の感情のありさまとその身体的な表出をいかKもノレソ ー的と

百得させるよう?と描いている。そして彼の眼にとらえられたディドロの姿や

ふるまい方も真実だったであろう。ω誰しもディドロの当惑が般に浮ぶよ う

である。おそらく彼が乙の箇所を読んだとすれば,彼我のパーソナリティや

必 ιの質のちがいを今さらのよう K確認したかも知れないし,自分の性格へ

の無理解や,当時の自分の心境(ディドロは獄中で一種の転向宣誓によって

打ちひしがれていた〉への思いやりのなさをノレソ -H::責めたくなるかも知れ

ない。それ以上K彼は,自分の方では忘れてしまった些細なふるまいによる

れ i少な異和がどのような深淵を開くものであったかK思いをいたして傑然と

したであろう。

のエピソードはノレソーのヴァンセンヌ体験のいわば序曲をなしている。

(ヴァンセンヌ体験が先K述べた二つの「瞬間J~r凝縮されているように,

v のエピソードも,ノレソーがディドロの腕Kとびζ んで行った「瞬間」を契

としている。〉それK続くヴァンセンヌ体験の時期が, じっさいKは少な

くとも一カ月以上あとの10月であるの I~r , :11749年夏Jと記されているのは,

その年暑さがかなり遅くまで続いたという事情Kもよるけれども,そうした

気象条件の記憶のつながりを背景として,おそらくは乙れらのエピソードを

語るさいのノレソーの無意識の引き寄せが作用しているのではないだろうか。

ふして,乙のような引き寄せの中で,ヴァンセンヌ体験の第二のモメント

-c:-li再びディドロに大きな役割がふりあてられるのである。もう一度この部

分のテクストを読み返していただきたい。そ乙では緊迫したドラマの中の科

自のやりとりのように,<私>とく彼>が各文ごと I~r主客を交代しているの

ーある。乙の箇所にみるかぎり,二人のやりとりのダイナミズムがせきを切

った流れのようにノレソーの破滅の瞬間, さまざまの不幸を不可避的な結果と

して身!ζ招いた瞬間へと導いて行くようにとらえられている。つまり ,ノレソ

ーの破滅と不幸はディドロとの合作だというかのように,である。先述の<

三曲>の部分でもそうだが,ノレソーのディドロに対する芯識はやや陵妹で,

~1皮を個人的に非難しているようにだけ読むのは単純にすぎよう。むしろ ,

乙れらのエピソードの認述が示す芯味は,純粋に個体を襲った<潜示>とは

なり,)レソーによって不幸とみなされるものが,当時の彼の対他怠識のfJ1

棋に起っているという乙とである。ノレソーが否定的に用いている用訟を使っ

て:socia'bi1iteの傾域と言いかえてもよい。 乙うして彼のくむく乙と>の不

ーの出発は,必ずしも白分の本芯ではない偶然に婦されるのである。

(297 )

'.

'

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- 10 -

ひるがえってみれば,第一のモメントをなす<啓示>体験にしても,ノしソ

ーは『マノレゼノレブへの手紙』 においては , iその課題を読んだとき私の内部

に起った動き」を「突然の霊感」とよび,むしろ経験の内在性を強調し七:

たのに反して, wエミーノレJ刊行による迫害をえた後では,その経験のき

っかけとなった「アカデミ ーのくだらぬ設問 une miserable question

d' Academie J (Wボーモンへの手紙j)), iアカデミ ーの不幸な設問 une

malheureuse q uestion d' Academie J ( W対話j))という ,外部からの偶然が

分離されて,その不運の方にアクセント が移るのである。その上忘れてはな

らない乙とは, W学芸論j) , W英雄にもっとも必要な徳は何かj)(1751), W不

平等論j)(1754) という初期のノレソ ーの思想的著作がすべて, 乙の同じアカ• • •

デミーの課題に答えるために書かれたものだったという事実である。

以上見てきた こと から言える乙とは,ディドロ の証言を根拠にしてノレソー

の思想的出発の自立性を擁護しようとするルソー研究家の意図とも,また

<ノレソ ーはノレソ ーだ>,<ディジ ョンの設問がなく ても ノレソ ーは自分の論文

を同じように書けただろう>という趣旨のディドロ の発言とも裏腹に,乙 の

『告白』 におけるノレソ ーの意識の中には, 自己の思想的出発を他者から,あ

るいは外部から強いられた不幸 とみなす視点がみられるのである。ノレソーは

乙うして<書く乙と>による自己の破滅と不幸の原因を,彼自身の内的必然

に帰する ζ とを拒否したがっているのである。おそらく このような意識の身

ぶりは , W対話j)~こ先立つ『告白J においてすでにノレソ ーが自分の失墜の意

味を, W不平等論』で理論として描いてみせた自然人の堕落と重ねて理解し

ようとしていたととを示すものであろう。彼はそ乙でまさに次のように書い

ていたのである。

…改善能力や社会的な徳やそのほか自然人が潜在的に授った諸能力は,それ自

体では決して発達しえなかったし, とれらの諸能力が発達するためには,いくつ

かの外的な原因一一それはけっして起らないとともありえたし,それがなければ

自然人は永久にその原始的な構成のうちにとどまっただろうーーが偶然それに協

力する必要があった…(P, ][, 162; r不平等論J83)

2. 思想と人間と

ディドロは「エノレヴェシウスの『人間論J反駁」の別の箇所で,次のょっ

に言う 。

( 298)

.

...

.‘

-..... 、

-

.. •

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J . -J .ノレソーの思想観 - 11 -

1

J

・4

みれ」こ〈エルグェシウス〉はペンをとれば誠実であるが,ノレソーはぺンを離し

〉一世工包ポ711、。彼は自分の詑弁!とだまされた最たる者だ。ノレソーは人間が

でと信じ,あなたは性悪だと信じている。ノレソーは社会が自然人を堕溶させ

ートうにしかで‘きていないと信じ,あなたは自然の原初的な悪を正す ζ とができ

ヲのは社会の良法しかないと信じている。 …ノレソーは演劇への反対論を書きなカε

り骨酬を作る。未聞人,すなわち教育きれない人聞をほめ上げながら教育論を作

ー ーの哲学一ーもしそんなものがあるとしてーーはちぐはぐな寄せ集めだ。あ

h 七の哲学は一貫している。私はなるとすれば多分あなたより彼{ζなる方がよい

, ~の著作を物すよりはあなたの著作を物した方がよい。。

ディドロば乙の時点で、もかつての友情の中で最も近くからノレソーを知って

、十者として,ノレソ ーの人柄を信じているが,その一方でノレソーの著作とそ

.,.. -,-.:‘ E 会主された思想、原理は全否定している。その矛盾を結びつけるものがノレ

ソーのくペン>だったと言う。ディドロが彼K対して理解を及ぼすのは乙乙

までである。乙のノレソーの<ぺン>の内実は,ディドロにとってはほぼく雄

弁>でしかない。 (i彼が雄弁だったとしても,雄弁を ζ れ以上[乙悪く用いた

と言っておかねばならない。J)ω ディドロはノレソーの生にとって

く呑く乙と>がどのような意味をもっていたのかという点の理解を完全K欠

苔させている。いや,理解するには互いに遅すぎたと言うべきだろう。彼の

言う「ペンを離した時」のノレソーとは,ノレソーにとっては『学芸論~ ~r よっ

て作家として出発する以前の,白からの自然の性向Kしたがって生きえた時

片 rそ乙には告かれざる政治 ・社会観の形成も含まれる),すでに取りもどし

ようのなくなった時代でしかなかったのである。思想によって徳を讃美 ・鼓

,人格によって徳、を実践する という 道を選んだ時からすでにp 彼は自己

の内なる自然一社会のさまざまの悪を蒙り, もはや回復不能となった自然

ー抗しうる倫理を見出すべく思想的悪戦を強いられていたのである。

ふれ!と対してディドロの評価は, )レソーの思想と人間性を分離する乙とによ

って後者を救抜しようとする窓図はつものであるが,乙 の選択はノレソ ーが

/舟く乙と>の道を歩みはじめた初期からすで同も鋭敏開戒していた点

である n lf学芸2命』をめぐ る論戦の最後広告:かれた『ポノレドへの第二の手紙

の序文』草稿!ζは乙の自覚が明言されている。

一、したように,私の君、見lは多くの作家によって熱心に反論された。乙れまで

の私ら回答する労雌すると思われ問者にはすべ、て答えたし,将来もその労を

とる決心でいる。それは私自身の名牲のためではない。というのは私が弁箆した

( ,299 )

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-12 -

いのは, ジャン=ジャ ック ・ノレソーではないからである。 彼はしばしば誤づてい

たにちがいない。 そうだと思われる場合にはいつも私は遠慮なしやすやすと彼

を見捨てるだろうし,たとえ彼が正し くても彼自身の問題にしか関わっていない

場合にはやはり そうするだろう。それゆえ私が悪い著作を発表したとか,推論が

下手であるとか,言葉の間違いや歴史の誤りをおかしているとか,書き方がまず t

いとか機嫌が悪いとかで非難されても,こうした非難にはすべ、て腹もたてず驚き

もせず,決して答える乙ともないだろう。だが私が主張した<体系>について

は,それが真理と徳の体系であると確信しているかぎり,全力で ζの体系を擁護

するだろう。 (p,][, 105)

これは断固たる決意で、ある。そして自己の思想を擁護するための必死の努

力は, 晩年の『対話』 にいたるまで倦むことなく続けられる。それはむし

ろ,乙の時点で彼がすでに遭遇し,予想もしていた非難の所在がそれ以後も

変わる乙となく,予想を越えた激しさにまで終生拡大され続けたからであ

る。そしてディドロの評言もまさにその系列に入るものであった。

ところで, 上の引用文で興味深いのは著者としてのく私>とジャン=ジャ

ック・ノレソーという個有名詞の分離である。それはきわめて単純な形ではあ

るが,モチーフ自体においては,晩年の『対話』における,より複雑な多重

化 (対話者の一人としての<ノレソー>と話題の対象としてのくジャン=ジャ

ック>, さらにつけ加えるならば『対話』の作者としてのくジャン=ジャッ

ク・ノレソー>)を予見させるものと言ってよい。しかし,根本的な差異は次

の点にある。上に引用した初期の文章においては,ノレソーは個体としての自

己と自分の思想体系を分離した上で,後者の擁護のみを企てている。この当

時のノレソーは, w告白』以後の態度とは全く異なり, 自分自身のことを語る

乙とを意味のないことと考え,思想の個人的刻印を排除しようとしているの

である。こ のことは『ポーランド王への回答』に明言されている。

自分自身について語るのは,何の得にもならないものです。強いられて自分自

身について語るときでさえも,それは公衆がなかなかたやすくは許さない不謹慎

な乙とです。真理は,それを攻撃する人,それを防禦する人にかかわりなく独立

しているものですから,真理について論議する作者たちは,お互いに他人のこと

を忘れるべきです。 (p,]I, 40; r学芸論J72)。

こうした初期の態度がすでに, 20年後のディドロのノレソー観と正確に反対

方向をさすことに注芯しよう。そして同じ20年後において,すでに『告白J

(300 )

"

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J . -J .ノレソーの思想観 - 13ー

ザおいて「強いられて自分自身Kついて諮る」運命をたどったノレソ ーは,乙

うした思想と人格の分離からの回復を企てる『対話』を書くのである。それ

キバ三ヨーロッノマの知的社会{ζ<哲学者たち>の主導のもとに自分一人に対す

る陰謀がはりめぐらされているという迫答妄想、一一いわば関係の病いの極点

ず立ったく病者の光学>とも言うべきものである。

告白』は自己の歴史を内的真実として, 「秘められた感'陪の述鎖J<r告白』下宮き,p:, I, 1149)として語るものであった。 r私の存在の継起をしる

しづけ,また原因や結果となった諸事件の継起をそれ自身によってしるしづ

ける,感i情の連鎖J(P, I, 2i8)を唯一の若手き手とすることで,語-る主体ジ

ャン=ジャックと:,それを在らしめている語られる対象ジャン=ジャックと

の同一性 (i存在の継起J)が保証される。だが,こうした巧みな自己同一性

証明も, r告白』の最後で語られる『告白』朗読会での聴き手たちの沈黙〈し

たがって奇妙な乙と H:,ノレソーの<告白>に対する聴き手のちt黙による反応、

ま『告白』という作品{ζ内在化されている) ('Lしか直面しない。 r強いられ

て自分自身について語るときでも,それは公衆がなかなかたやすくは許さな

い不謹棋な乙とですJという初期の彼自身の言葉が何と予言的なひびきをも-・

って思い出される ζ とだろう。 w対話』はこの聴衆の沈黙を,もう一度作品

ゐ内部で解-き放とうという,不可能な一一それゆえ挫折を必然とする一一企

てにほかならなし-。

対話』の主題の一つは作者と作品と読者の関係という,ある窓味で全く

古典的な問題である l。乙の問題|は近年来フランス文芸批評において中心的な

テーマとなり,く作者の不在>とかくテクストの自律性>と lいった方向で精

設な理論が組み立てられている。したがって,こうした理論的な立場からも

う一度Jレソーの解決をほintegrerする試みも可能であろう。だが,ノレソー

はまさしくくテクストの自律性>とは逆の解決を引き出すために,彼自身の

人格と著作の原理との矛盾を非難するく哲学者たち>と生涯にわたって〈迫

害妄想にいたるまで〉戦いつづけたのであって,その解決の仕方には彼の思

必の金重量が乙められているといってよいのである。そこで私たちはノレソ ー

身の問題の出し方と解答を見なければならなし、。

は自分の背の単純さを考えるときはいつでも笑を禁ずることができない。私

は道徳の哲学についての本を読めば,必ずその著者の頑と原則をみぬいたと信じ

ていた。私は,乙れらすべての厳粛な作者たちを,謙遜で,賢明で,有徳で,非

のうちどとろのない人びとであるとみなしていた。私は彼らとの交わりによって

( 301 )

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- 14-

天使のような観念を形成比三??彼らの一人?家に近づくとき,必ずζれを聖

殿のように考えていた。ついに私は彼32会よた。との子供らしい偏見は,消安

去った。彼らのおかげで治った誤謬は,ただとれだけである。 crナノレシス序文7註j]P, rr, 962; r学芸論j]192)

"

初期にかかれたこの文章は恐ろしいくらい晩年の『対話』のモチーフと酷

似 している。それらを共に貫いているのは,ノレソーの生涯にわたる<書く乙

と>の危険の意識,作品が作者を裏切るととに対する恐怖だと考えられる。

若いノレソ ーが読者として,著作家の人と作品に見出したこの関係性の位相を

あえて『対話』の中で,今度は他者である<一フランス人>の,著作家ジャ

ン=ジャ ック に対する関係に転置 しながら,結論においてどうしてジャン=

ジャ ックのみをこの「誤謬」の対象から救いうるのか。 w対話』の弁証法に

課せられた問題は,まさしくそこにある。

私たちはこの迫害妄想のさ中に書かれた『対話』の構成にきわめて論理的

な構造が存在することを見出す。それは弁証法的な歩みと言えるものであ

る。 w告白』において主体一客体であったジャン=ジャックは,乙乙では単 ・

4ζ外部に存在する話題の対象となる。だが,公衆の代表としてのく一フ ラン

ス人〉の対話者として, ジャン=ジャ ック とは別の<ノレソー>という人物が

登場 し,いわば『対話』の弁証法の媒介者の役割を果す。まず舞台の背後の

状況として, i大衆的な陰謀の指導者たち」は,人間J.-J. (ジャン=ジャッ

ク)を知っていて,彼を悪人と考え,彼の作品を読んでいて,それを有害と

判断している。そして対話の中に入ると

第 1段階:くフランス人>C当時陰謀団のメンバー)は J.-J.を知らずに

悪人と思い,彼の作品を読まずに有害と考えている。<フランス人>によ

る,作品と J.-J.とのいつわりの同一視。 cw第一の対話~ )

第 2段階 :くノレソー>は,作品を読んでその著者を善人と考えている

が, J.-J.を知らないので,<フランス人〉に対して,悪人と見なされてい

るJ.-J.と,作品の著者を区別することを提案する。<ノレソー>による作者

=作品と J.-J.とのいつわりの分離。(W第一の対話~ )

第 3段階:<フランス人〉ははくノレソー>の忠告によって,作品を読ん

だあと,その著者を善人と判定するが, J.-Jは悪人だと信じ続ける。くフ

ランス人>による作者=作品と J.-J.とのいつわりの分離。(W第二の対

話~ )

第4段階 :くノレソー〉は J.-J.と会って面識をもった上で,彼を善人と

C 302)

• 1.

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1・ - 15ー

・圃 1・ -・田・・ー.. -司" レソー>に

:<フランス人〉ば 1・ 陀日の住者・ア点~ J...J't ,~ -

ーンス人〉による只の同一視。(L沼三の対

こうして.』 一

7 f r-u ム」主~ ,~ 'ri.. ... つ孟

こいたるのである。 、?ー同i 〆T、.J .~". ~司"~ iT、 rur1-杢そーーー士

宇 ILTよ),. """!r _.,J. r iγ) ̂ 目、It_ つ

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>で」一白 -・・ ,噌喝. ~司~. n '1._帽戸E

という形

という側面を通して果そうと

らうために,乙のよう

ってもよい。そうして.ルソー

"""""""量、ヲ F対

だと己って

JJ して

ン と

ソー

ソー

ソー

crJ'tur

Jレソー

303

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- 16 -

る。〉乙乙で,スタロパンスキーがノレソ ー附ける<誤解>の不安を見事に分

析した文章で引用し,さらにデリダが再度引用した(15)有名な『告白』のす名

な一節を想起できるだろう 。

4

もしわたしが,きまって人前では自分の不利なように見られるばかりか,自分

とは全くちがったふうに早られるのでなければ,他人と同じように社交好きであ

ろう。わたしが選んだ書くととと身を隠すという立場はまさにわたしlとふさわし

いものだった。わたしが姿を現わしていたら,決して(r分の真価は知られなかっ

ただろう。 (P,1, 116)

..

3. 回 帰 不 能 性• -

awdFW

ノレソーは自分の作品でしばしば祖国ジ ュネーヴを直接 ・間接lζ擁設するモ

チーフをもっている。けれども自分の読者として特殊的にジュネーヴ人を対

象 とはしていない。 w対話』に登場する選ばれたく読者>はくフランス人>

という名を持っている。おそらくく陰謀>の中心がフランスである乙と, 彼

が終生フランスの読者を主たる対象として書いてきた ζ と,そして彼の社会

批判の最も現実的な対象がフランスであったこと,などの理由があげられる

が, このくフランス人>はむしろジュネ ーヴ人に対立する特殊な一国民とい

う意味をこえて,く読者>の資格として一種の普遍性をもっているというべ

きだろう。そして, 乙の乙とはとのく読者>に対して語りかける思惣家ノレソ

ーの方が,もはや単なるジュネ ーヴ人という特殊性をこえた存在である乙と

によって,はじめて可能となる。その最も深い意味は,ノレソーによって繰り

返し語られる次のようなことばにうかがわれるだろう。

,.,

9

• $,

-・

私は世間を離れているためlにと乙, ときiにζはなんの役(にζもたたない乙と{にζなるかも

知れませんが 同国人のあいだで暮していたとしたら,役彼,ら{にととつてもつと役役,1

立たない人間になるでしよう。 crマノレゼノレフeへの第四の手紙JP,工, 1143)

ある人が祖国のうちにいるよりは外にいるほうが阿国人にとっていっそう役γ

立つ乙とになる場合がある。 …異郷の生活そのものがその人の義務の一つなの

だ。しかし,善良なエミーノレよ,そういういたましい犠牲をきみは全然しいられ

ていない。入れ沿ふ二そ会去る説;会Cぃ役告をきみはひきうけているわけで

はない。 crエミーノレJP, 1V, 858-859) ‘

• •

(304 )

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上昇せ

J . -J .ノレソーの思想観 - liー

まど乙で現実(乙回帰するにしても,観念の普通化をめざしー

ならない。その時,ひとたび<書く乙と>によって思想家である

とを選んだ者の生身はもはや|出生の土地!と狩れる 乙とは許されなし、。ノレソ

,.田・圃-

、の政え子エミーノレK対して「同国人のいると ζ ろへ行って暮らすf

e ちよくつきあって,かれらと友情をむすぷがいし、」と言いつつ

の出自の喪失に耐えている。私たちは,ノレソ ーがその理論体系の中

>を設定したときも,それが帰るべき理想などではなくてP ふ

しろ回帰不能であるという先験性から出発していることをつねに想起すべき

であろう。あえていえば,乙の社会!とおいて人類と人間ジャン=ジャツク ζ

品、必本Jレソーがとも lζひとたび失えば,どんなK糧恨の悩-にかられでも回帰

しえないものがあるという認識の中でこそ , 'Iそれについての正しい観念を

。っととが,われわれの現在の状態をよく判断するために必要であるような

不平等冶~ P, m, 123)という<自然状態>ゃく自然人>の仮説

が,一極の思想的原像として定若されたのだし,そこではじめて『社会契約

が(その当否は別として〉思想の課題となりえたのだと考える乙とが明

己る。乙のド

あると言言aえる

への回帰不能性は,いわばルソーの思想における倫理で

土士 TK '.0 、J

たちは小治でノレソーのく哲学>と言わず,<思想>と言ってきた。.......,"'_'

では,彼の理白の内容そのものに深く立ち入るよりも,ノレソーがく考える v

と>とくむく 乙と>の芯味をどうとらえていたか,(ζ焦点をあてたかったカ

りである。そしてまた, fノレソーの哲学」というすぐれた論文において野田

民が示された次のような結論{ζ深く同意するからである。 fCヘーゲノレ

の〉政治哲学は, i告白Jを必要とする |自己をその対極としてもっていない

乙とが気付かれる。ヘーゲノレはヘノレダーリンと別れた時分に,若くしてす弔

乙そういう自己をきりすててp 客観的になろうとした。…政治ないし社会の

と,告白の哲学との,結者はまだついていないように見える。J~

合七:,私たちはノレソーの思想が形成された時代背景にもふれなかった。そ

の乙とはいずれ彼の社会批判や政治哲学の内容を検討する際に問題にした

い。ただ,乙乙でノレソーの思想が同時代の知性の一般的風潮とどのように根

するものであったかをうかがわせるに足る一文を引いておこう。

(305 )

"

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『百科全ftt (1751年)でダランベール!主 ζ う円い} 。

- 18-

-・・理性を啓践するよりは想像力!ζお るの!と向いているF |日 事

は段良の作lflIからはほぼ完全に追放されている。・・向h1411baiuの抑制Jti.

ても有益だったかもしれないし,哲学の復興のために必要でさえあったかもし

たい'0 当時はまだ正しく考える ζとより :1弘自身で会え右己A毛半ふ方が

ったからである。だが時代は変った。われわれの同で体系を臨央ずるような{

は時代遅れであろう。 ζ ういう精神が現在与えうる利益などは,それカ

不都合を相殺する ,lとは散が少なすぎるのだ。的

乙の考えが近代合理科学の発展を法磁づけたものである ζ とは蜂いなし

だが乙とに見られる1MfE宗主義知識人の思想家としてのオプチミスムは,JIVソ

ーの思想態度とは正反対のものである。ノレソーは ζ の文から三年後iζrf

と臨浪Uを手がかりとしてく自然人>の原像を見出し,彼自身の「体系J

、.

"

作り上げる。そして,自然科学i的口

自主体の形成の問題を扱う教育γ

明言するとと?となるのである。

1 ぷ ζ との1~も越:~\,

l折悶として次のよフ...

体系的な部分と呼んでいいもの, ζ こではそれは自然の歩みに!

が, 乙の点がな!とよりも読者をまどつかせるだろう '0 また乙の点で,

Jえだろう。…人は教育論を抗んでいるのではなく,ひとりの

♂家 (ο1VrjぬsioInm11MJ1nnInn114訂r吋の教育Ir巳ζついての互p;タt悲想!を銃んん4でいるような5誌毒がするだろう

しかしどうすればいいのか。わたしは他人の思想.で{I]いてい lるlのではない

の思想、で告いているのだ。 (P sH,;242; 「エミーJレJ上19)

J.

lass-' .,,

an

初期のルソーが思想、の というべ のについて

一いた美しいイメージを提示しておきたい。 f学芸治』の中で,

れていたスパルタの,文人困アテネ Ifζ対する優位を泣いたルソ-,.'L7ljνU

JJレドが噛ギリシャのすべて 1の国家がスパlレタの法をならっていたら"

l:と華々しいギリシ十時代の栄光を後世!ζ伝える也九仇't.J::L酌'..., ';J ,

む哲学も詩文も現在!とまで伝わる乙となく,それらJ

っからなかったであろう,と反歯してきた時, )レソーの按容は乙うである

,1,

論者はまた哲学者の思

すべての世紀の賞讃に供

を誇 1ってい立すo そ

るからなのです

ふ ζ う『:J二~停・綱.

;.,,-

‘・

衣服

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z-h制生ま

ムヲのを見るのだ。

まって何の痕跡も残らム

P

之さ神の記

七いのはそのよう?

• 哩

J.-J.. )レソーの思如 - 19一一

こ日とともに,その状況とともに.その瞬間とともド

の四分の三は,あすKなれば前日のことが消えてし

ああ.少J とも一つのよき良心の

が行った善行の中{こ,そしておつ

るのです。 …おそらく論者は自分庁

、の思想じゃないと答えるのでしょう。けれども私は

こ値いしないと。 (rポノレド氏への最終回答

--.,-,.......あまりに :nloralisantな謁子は別としても s 人間の思想が伝えら

る乙の独特の形乙そ,ルソ ーが終生心の奥底から手放さなかった「透明j

への埼求をよく示すものである。乙れを,私たちが見てきたような, w対

こおけるおi維をきわめた伝達装置の果てに得られる<読者>との〈作品

とってく

乙の不

コミュニケーション!こ対比するとき,私たちはJレソ ーγ

く乙と>がもたらした究極の??理のすがたに直面するとともに,

と戦い続けた人間ルソ ーの生の窓味に思いをめぐらさざるをえ

~ .J,る

〉王) ノレソーのテクストからの引用は"プレイアー ド版全集による。 P,1, 1136は

Pleiade, TOlne 1, p. 1136の略。なお,岩波文庫に邦訳がある場合.セさコロ

ン(;)の後にその世名とページ数を付記したが,訳文は必要!と応じて,一部

-l-七は全文を変えでの2) c.L G,. R. Haven札 ,Edi~tio1.t crittOqu,e du Discours su.r μs Sciellces et !.es

e¥v York, 1¥'1. L. A,. A., 1946, p. 60, note" 19.2. なお.乙の問の

と士現行論争の早恒については 同 世 Introduction,Po 3ωOかか-6臼61lにと5詐詳?字エしレl,、

3F瓦hMイωLa釦u叫 JωaC勾q仰仰u,eω"eωωeωsR…肌釘ωωωf川的iωU仰di仰,1Z.ω z, ) Starobinski, エ-J. .Rousse,a,f,仏U,1.1'ωlSρρ,ar,eの1.zceet obsf,σacleム, Ed. GallÎlllard~

p,. 9. (松本勤訳,忠実社. 5 Jr{) P" 111, 11,z.f'rod:uctio12s, XXX・

cf. P, 1, p. 1135, note :2,.

corfesρOl.zda1tCe ω,'11Zρ必t,e,T. lX, p. 344., ,NO. 1603.

作田啓一氏は「ノレソーのユートピアJ上(r思想J四 5年同号, 7R〉で:,

h を可能にする条件として,共同の慣習〈行動係式〉と共同の利留の二つ

と徳との関係がJレソーの理論体系でそれほど毘要な位位を占めて

とを指摘している。その理由は特に述べられていないが,乙の問題は

主べた角度か減明できるのではないか。現実の祖国ジュネーさ共

幼少期の|離脱とそれに続く放浪生活はノレソーの思想、において土計ii印すると同l時lにその代償によって同時代の社会的視尖を恨底的lζ

(307 )

明‘

l・

Page 20: J.-J. ルソーの思想観dlisv03.media.osaka-cu.ac.jp/contents/osakacu/kiyo/DBd...J.-J. ルソーの思想観 四 土問一加 幸 J.- J. ノレソ ーは37才のとき,ディジョン・アカデミーの1750年の!窓口問題¥

- 20ー

批判する視点を与えた。 しかしながら, r社会契約論Jのよろにポジ手Jイ作

社会を構想するに際しては,乙の共同体からの疎外が<市民宗教>と仏 Jよオロギーによって補償されねばならなかったのである。

(9) cf. G. R. Havens,。ρ.cit., p. 7.

川上記以外に, ]. Guehenno, Jean-Jacques, Hz'store d'une consiencl!. L n

2 ! 0τ 2 1 4 j J . F a b r e , 《D e 1は F 戊的resenne

Luωmieres et Romaωntiおsmeム, p. 24ι一28;Pl泌6i均adeι,T. 111, 1n troductions XXV111-XXX. ; etc.

。1)Rousseauvint m'y voir,et par occasion me consulter sur Jeρarti qu'il

ρrendfait dans cette question.44Il nPy a pas a balancer,lui dis-ie らousρrendrez leμrti que tersonne neρrendra. Vous avez凶 sOnfme

repondit-il;et il travailla en COIls6queIIce.(ASS6zat,T.II,285)(イタ

リックは引用者〉

ことに見られる 2箇所のイタリック体の部分の時制の用法には共に ambi-guiteが含まれている。最初の過去未来の条件法は, le parti qu' il a pris (選

んだ立場)と 1epa凶 aprendre (選ぶベ、き立場)との中聞にあって,素直に

訳せば「選ぼうとしている立場」であり,それだとノレソーの選択の主体性を認

めるように解釈しうるが「とるべき立場(どちらをとればよいか)について相談

した」という解釈の可能性を完全に排除するものではない。 また, 2番目のデ

イドロの答えに含まれる未来形についても, プレイアード版の編者 FrancoisBouchardyが指摘しているように (P.111, 1ntrod., XX1X-XXX),命令

か助言か予想か(i君は誰もがとらない立場をと りなさい/とればよい /とる

ととになるだろうJ)は陵昧である。 乙れらの 2箇所の時制の用法は,デイ

ドロの 8年後の著作 「セネカ論第2版Jの中でもそのまま繰り返されている。

本稿の視点からは, 乙のデイドロの証言に素朴にノレソーの立場選択の独立性に

ついての事実関係の根拠を求めるよりは, む しろ乙の証言を書いている時点で

のデイドロの意図的な tactiqueを読み取るほう が<真実>に近いのではない

か。乙うした語法上の暖昧さを残している点からみて マノレモンテノレやモノレレ

の<曲解>に対してすらディドロ自身の責任が解除されるわけではない。

間 まるで乙の場面を念頭に書かれたと恩われるほど,おあつらえむきの自己分析

が,すでに 『告白j の第一部第三巻に出てくる。 iいま私のまえで,人の言う

乙とやする乙と,起こる乙と,すべてに関して私は何一つ感じないし,何一つ

のみとめない。その外形だけが私の注意、をひく。だがのちになって,そうした

すべてがよみがえる。私は思いだす。場所,時,口調,視線,身ぶり,情況,

何一つも らさずに。そうなってはじめであのように人がやったり言ったりした

のはどういう考えからであったか,という乙とを知る。その見当のはづれるこ

とはまず、なし、oJCP, I, 115) 03) CEuvres phi1osophiques,“ Classiques Garnier", p. 576.

U4) Diderot, Essai sur les regnes de Claude et de Nero1z, 1782. (Ed. par H. Nakagawa, p. 88)

U5) La transρarence et l'obstacle, p. 152; De la grammatologie,p. 204-205.

U6) rノレソー研究J第二版, 64→5頁。G力 L'Encyclotedie, T.I. xxxj.

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