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1 ピエール・ペローの『世界の存続のために』について ドキュメンタリーの驚き― 加納由起子 遅い春の陽気の中、引き潮の沖まで船でやって来たレオポルドとアベル。腿 までの長靴を履いた二人の足は、沖の河床に組まれた「罠」に向かう。春と言 っても沖合の風は強く、冷たい。遠くには街路樹のような高い木の列が見える。 「罠」である。その向こうには、広大なセントローレンス川が広がっている。 さらにその向こうには合衆国が、大西洋がある。待ちきれないレオポルトが長 老アベルを先導する。先に叫ぶのはレオポルドである。 「かかってる!」 1962 年のこの春、伝説の獣ベルーガ(フランス語ではマルスワン、字幕では 「イルカ」とした)はクードル島に帰って来た。はるかな地平線を背景にたっ た一頭大洋に取り残され、罠にかかってもがくベルーガは、迷った子供のよう に見える。しかし、この動物を待ち望んだ二人の目には、まぎれもない天から やって来た光り輝く獣なのだ。大空に響く波と風の音に負けじとばかりに、二 人は「見事だ、美しい、素晴らしいやつだ!」と声を張り上げる。しかし、ア ベルの目は、レオポルドが確認するずっと前から、伝説の海獣の姿をとらえて いなかっただろうか。今年 76 歳のアベルは、「やっと会えたな、 38 年ぶりだ!」 と言いながら、動物の上にかがみ込む。そして、信じられない気持ちと限りな い愛情を込めて、両の手の平でその背に触れる。彼の目に映ったベルーガは、 群れから離れた一頭の白い生き物というだけではなかっただろう。それは、か つての漁で何度となく出会ったベルーガであったろうし、漁が途絶えた後も記 憶から消えたことのなかったベルーガだったろう。また、38 年ぶりに再開した 漁に奮起し、望遠鏡を通して毎日待ち望んだベルーガだったろう。現実のベル ーガは理想を裏切らない。反対である。いかなる理想にも増して美しいのだ。 島の人々の記憶と期待が作り出した「この世で最も美しい獣」の伝説は、現実

『世界の存続のために』解題日本語

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当解題改訂版は、2011年9月発行の日本ケベック学会雑誌『ケベック研究』第四号に掲載されます。A modified version will be published in "Quebec Studies" of the Japanese Association for Quebec Studies (AJEQ), Nr. 4, in September 2011.

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ピエール・ペローの『世界の存続のために』について —ドキュメンタリーの驚き―

加納由起子

遅い春の陽気の中、引き潮の沖まで船でやって来たレオポルドとアベル。腿

までの長靴を履いた二人の足は、沖の河床に組まれた「罠」に向かう。春と言

っても沖合の風は強く、冷たい。遠くには街路樹のような高い木の列が見える。

「罠」である。その向こうには、広大なセントローレンス川が広がっている。

さらにその向こうには合衆国が、大西洋がある。待ちきれないレオポルトが長

老アベルを先導する。先に叫ぶのはレオポルドである。 「かかってる!」 1962年のこの春、伝説の獣ベルーガ(フランス語ではマルスワン、字幕では「イルカ」とした)はクードル島に帰って来た。はるかな地平線を背景にたっ

た一頭大洋に取り残され、罠にかかってもがくベルーガは、迷った子供のよう

に見える。しかし、この動物を待ち望んだ二人の目には、まぎれもない天から

やって来た光り輝く獣なのだ。大空に響く波と風の音に負けじとばかりに、二

人は「見事だ、美しい、素晴らしいやつだ!」と声を張り上げる。しかし、ア

ベルの目は、レオポルドが確認するずっと前から、伝説の海獣の姿をとらえて

いなかっただろうか。今年 76歳のアベルは、「やっと会えたな、38年ぶりだ!」と言いながら、動物の上にかがみ込む。そして、信じられない気持ちと限りな

い愛情を込めて、両の手の平でその背に触れる。彼の目に映ったベルーガは、

群れから離れた一頭の白い生き物というだけではなかっただろう。それは、か

つての漁で何度となく出会ったベルーガであったろうし、漁が途絶えた後も記

憶から消えたことのなかったベルーガだったろう。また、38 年ぶりに再開した漁に奮起し、望遠鏡を通して毎日待ち望んだベルーガだったろう。現実のベル

ーガは理想を裏切らない。反対である。いかなる理想にも増して美しいのだ。

島の人々の記憶と期待が作り出した「この世で最も美しい獣」の伝説は、現実

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の獣を美化する。いや、現実であるからこそ美化する。伝説が現実によって肯

定されるのであれば、その対価は、ただ美しいと驚嘆する気持ち以外にはある

まい。ベルーガに身をかがめたまま、アベルは的確な指示を与える。「これは俺

たちのものだ、俺たちのものだぞ!」伝説は、もう宙に浮いた言葉の切れ端で

はない。現実を生み出し、現実に生み出されることで、共有を許すものなのだ。

アベルの手の中のベルーガは、その記憶を守って来た島の人々の未来を象徴し

ている。 映画について 『世界の存続のために』は、1961 年から 1962 年にかけて、カナダ東部のケベック州、セントローレンス川流域の小さな島、クードル島で行われた古漁再

現のプロセスを追った映画である。クードル島は大西洋から来た大河が急激に

狭まったところにあり、16 世紀にフランスの航海士がカナダに初めて上陸した一帯に位置する。対岸には、現在観光地として知られたベイ・サン・ポールが

あり、数十キロ東に向かって進んだ対岸にケベック市がある。映画のコンセプ

トは、長く忘れられていた島の伝統、おそらく 16世紀にフランス人航海者がカナダに初上陸した時にすでにあったと思われる一種の罠漁を、島の人々が自分

たちの努力でよみがえらせる行程を描くことだった。英語でベルーガ、フラン

ス語でマルスワンと呼ばれる白い一種のイルカを特に狙った漁で、島の沖合 3マイルのところに、150 本ほどの伐採した木を、干潮を待って楕円形を描くように河床に植え、泳いでいるベルーガを生きたまま閉じこめる。数ヶ月にわた

る大変な労力を必要とする漁である。モントリオールの映画人に説得されて、

38 年前まで行われていた漁を覚えている老人たちが、「昔の跡を残すために」、「世界の存続のために」、その全行程を再現することに賛成した。 この映画は、全編をケベックの特殊なフランス語が流れる史上初の長編映画

である。また、「カナダの歴史と地理を、映像を通して記録する」目的で、1939年創立されたカナダ国立映画庁(Canadian National Film Board / Office National du Film du Canada)が初めて製作した長編映画でもあった。発案者兼監督はピエール・ペロー(Pierre Perrault, 1927-1999)、カメラマンはミッシェル・ブロー(Michel Brault, 1928-)。1956年、カナダ国立映画庁がオタワからモントリオールに本部を移したのに伴ってフランス語部門が設立され、現

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地の仏語系スタッフが公募された。この二人はその時雇われた仏系カナダ映画

人の第一世代である。 もともと弁護士だったペローは言葉への情熱やまず、50 年代前半には法律の仕事をやめ、ラジオ・カナダの仏語放送でフリーのシナリオライターとして働

くことを選んだ。セントローレンス川流域の村々を訪れて、「書き言葉を持たな

い人々」の声を録音し、電波に乗せるうち、彼は話し言葉こそケベックの生き

た伝統の源泉だと確信するようになった。クードル島とはちょうどこの頃出会

い、映画撮影に先立つおよそ 8 年間をこの映画に登場する人々と過ごし、彼らの感情を通して、彼らの目から見たケベックを学んで行った。ブローは、映画

庁フランス語部門の処女短編『かんじきレース』の「走るカメラ」を成功させ

たカメラマンで、後にフランスのジャン・ルーシュと組んで民俗誌ドキュメン

タリーのカメラを受け持った。1961 年、『世界の存続のために』の企画が通った時、ペローは映像に関してはテレビの撮影随行の経験しかなく、ブローは録

音について何も知らなかった。数年前なら出会わなかったこの二人が映画撮影

において協力出来たのは、1950年代末の映画庁の再編に負うところが大きい。 ペローは、『世界の存続のために』の後、クードル島を舞台としたもう二作品

を作っている。70年代のケベックナショナリズムの動乱の時期には、『なんておかしな国!』や『アカディア、アカディア!?!』といった政治的なテーマの

作品を撮った。しかし 80年代以降は、社会派ドキュメンタリーを離れ、もっぱらアメリカインディアンの伝統や北極の自然に目を向けて行くことになる。ブ

ローの方は、70年代に現れた映画庁の第二世代と共鳴して独立し、社会派の「ドキュフィクション」へと転向した。1974 年の『指令』では、監督もこなした。両者とも、ケベック映画史のみならず、「ケベック」という 1960 年代以前には存在しなかった民族アイデンティティーを確立した偉大な先人として、今でも

同国人から深い尊敬を受けている人物である。 『世界の存続のために』が公開された 1962年、この二人は国際的には完全に無名だった。この映画は公開されると同時に、翌年のカンヌ国際映画祭にカナ

ダ映画としてはじめての正式出品作品として選ばれた。フランスの批評家や映

画史家はこの映画に「ドキュメンタリー映画」の全く新しいあり方を発見し、

予想外の賛辞を浴びせた。その賛辞に、制作者と監督たちは面食らうばかりだ

ったと言う。その後数十年経って、1960年代のドキュメンタリーの試みが過去のものとなった今、『世界の存続のために』はケベック映画史上の古典としての

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地位を固めている。2005年には、ケベック映画としては初めて、映像ランキングの権威である北米メディアフィルム社から「傑作」レーベルを与えられた。

メディアフィルム社は、20 世紀初頭から今日にいたるまで世界中で製作されたあらゆる映像作品に7段階評価のランキングを与える企業であるが、7段階の

最高評価である「傑作」レーベルは非常に難関であることで知られている。こ

れまで同レーベルを受け取ったのは 120 本あまりに過ぎない(その中には黒澤明の『七人の侍』と小津安二郎の『東京物語』がある)。さらにノンフィクショ

ンとなればそのうちわずか 4本。『世界の存続のために』は 4本中の 1本である。 映画史の観点からすると、『世界の存続のために』は 1950年代半ばから 1960年代はじめにかけて北米で生まれた「ダイレクトシネマ」の系統に入るとされ

る(同時代の高名な監督には、アメリカのワイズマンやメールズ兄弟がいる)。

一方、仏語圏では「シネマ・ヴェリテ(cinéma-vérité)」と呼ばれている。学術的文脈において言えば、クロード・ランズマンの『ショアー』(1985 年)以来理論化された「生きられたシネマ(cinéma du vécu)」という「ジャンル」の一つに数えられることもある。 ペローのドキュメンタリー理念が、こうしたジャンルそれぞれが下敷きとす

る美学や思想と、ある程度共通したものを持っていることは確かであるが、体

系的な比較分類を行う映画史は、ケベック映画史に固有な流れを十分に考慮し

ていないように思われる。 1983年、ピエール・ペローは「ドキュメンタリーとは、人々が伝説を創造する禁を犯している瞬間をとらえる営為である」と言った。定義のように聞こえ

るが、実は何も観念的なことは言っていない。ペローがこの美しい表現で伝え

ようとしているのは、「ダイレクトシネマ」、「シネマ・ヴェリテ」などの映画史

上の分類枠を成立させている観念連合のレベルに比べて、はるかに具体的な内

容である。まず、この言葉の起源には『世界の存続のために』があり、それ以

前に 10年にわたってペローが見いだした、セントローレンス河口の小さな島での生活の経験がある。ペローはこの島で、老人たちの記憶の片隅に眠っている

切れ切れの言葉を集めて出来た伝説が、言葉を記録され、映像を与えられるこ

とで現実として蘇るのを見た。ペローにとってドキュメンタリーは、ある特殊

な経験に常にその意味を汲む、ひとつの生きた総体とでも言えるものだった。 だから、、、

、『世界の存続のために』は、今でも我々を驚かせる。美しいショット

や人物の存在感といったもの以上に、この映画がドキュメンタリーである、、、

とい

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うことに、どの時代の観客も驚きを禁じ得ない。この驚きこそ、何の注釈も必

要ない作品理解といったものなのかもしれない。驚きの感情は、特殊なもの、

個別なものの言葉を先んじた認識と結びついているからだ。この映画と、この

映画が証明しているピエール・ペローの「ドキュメンタリー」は、普遍的な驚

きを喚起する芸術作品全てがそうであるように、きわめて特殊な何かなのであ

る。 ドキュメンタリーの驚き もちろん、『世界の存続のために』は、決して歴史上の大事件を扱っているの

でもなければ、英雄の生涯などといったものを語っているのでもない。ペロー

の言葉を借りれば「文学からも、映像からも見捨てられ、忘れ去られて、日々

の経験のみをたよりに人生について学ぶしかない人々i」が、心の奥に秘めた過

去への追憶と慎ましい財政を集結して行った、カナダの田舎のささやかな地元

復興活動のプロセスを追っているに過ぎない。なぜ、半世紀も経って、あらゆ

る非日常的な「実録」映像に慣れた我々がこの映画に驚くのか。 映画の終わりのジェネリックには、「1962 年、クードル島の人々はこの映画の出来事を実際に経験し、演じた」という一文が挿入される。この文章は、映

画の冒頭に現れる「クードル島のベルーガ漁は 1924年に途絶えたが、1962年、映画監督に励まされた島の人々は、島の記憶を保存するために漁をよみがえら

せた」という注意書きに呼応する。ペローは後に、「こうした注意書きがないと、

この映画に演出がなかったと信じてもらえないだろうと思ったので加えた」と

述懐している。 この映画がドキュメンタリーである

、、、ことの驚きには、一方に、内省的な視点

の転換によって、見えていると思っていた現実に見えていなかった価値が現れ

る現象への、奥まった、すぐには意識出来ない理性の反応があるだろう。フレ

デリック・ネフが『形而上学とは何か』で区別した「ツーリストは知らないこ

とのまさに知らなかった部分に驚き、哲学者は知っていると思っていたことの

知らない側面に出会って驚く」というふたつの驚きのうちの「哲学者の驚き」

であるii。思索を通じて、情報としての「事実(ファクチュアル)」と、ある視

線の支配を受けた「現実(リアル)」が区別されて生まれる驚きである。他方で、

現実が物語のように語られているということへの驚きがある。これは常識の抵

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抗とでも呼べるものである。 後者の驚きをより詳しく述べてみよう。まず、一般に膾炙したドキュメンタ

リーの認識は「現実の記録」であるが、この場合の「現実」は「現在時の出来

事(アクチュアリティー)」と大きく重なる。映像の分野においてはなおさら、

「現在時」は偶然の支配下にあるもので、それゆえ「再現・表象(リプレゼン

テーション)」の外にあると考えられるのが普通である。反対に、記憶や物語は、

伝統的にリプレゼンテーションの領域とされる。その意味で、ドキュメンタリ

ーとフィクションの間に社会的常識が確立している対立は、偶然に支配された

「現実」と必然に支配された物語の間の認識論的対立に依拠すると言える。こ

の点の保証として、やや衒学的になるが、1980年代の現象学的物語論および歴史記述学の大家ポール・リクールの言葉を援用しておこう。「実際、我々はどう

して我々は、人生をあたかも生まれつつある物語として語れようか。生活の時

間で生まれるドラマを知るためには、どうしたってそれについて他人や自分自

身によって語られる話が必要になるではないかiii。」リクールが言っているのは、

現在時の現在時による物語は不可能である、という一般の了解を成立させてい

る、もっと深く文明に根ざした現実意識のアポリアである。 現在商業的なドキュメンタリーにおいては、全ての技術革新が編集された映

像に偶然の印象を与えるために利用されているが、これは上記の現実認識とい

ささかも齟齬するものではない。ともあれ、『世界の存続のために』の全く偶然

らしくない語りは、こうした映像に養われた「常識」のセンサーに引っかかる。

この映画の録音の処理や映像編集には、ひとつの人生のサイクルに方向性と意

味を与える意志が見えるからである。映画の全編を通して、ペローが撮影の何

年も前に録音し、ラジオで放送した、この映画にも出て来るグラン・ルイやア

レクシの「名台詞」の録音と、後から綿密に編集された映像が、交互に語りの

役を引き受ける。つまり、彼らのアヴァンチュールは「現在時」の積み重ねで

ありながら、明らかに「語られている」、しかも堂々と。ペローが観客の不信を

予測したのはまさにこの点においてである。彼は、自分のドキュメンタリー理

念を貫く、「人生によって演出されている現実」という考えが、いつの時代もフ

ィクション消費者の立場を保証する現実認識と相容れないことを知っていた。

ドキュメンタリーが嘘をつけばつくほど、観客はそれを「実録」と受けとりや

すいということをよく知っていた。 哲学的な驚き(簡単に言えば「知っていると思ったのに知らなかった」)と常

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識の抵抗(同様に、「現実は予測出来ないから語れないはず」)は、実は同じひ

とつの驚きに帰着する。「現実」というものは人の意識の外にあって、我々はそ

れを部分的にしか経験ないしは説明出来ない、という認識の基盤が揺らぐ、と

いった驚きである。一方で、ジャーナリズムやメディアはいつの時代も予測不

可能なことへの恐怖あるいは期待をあおる傾向にある。その行き着くところ、

偶発的で全体が不可視であるからこそ「現実はフィクションよりも奇」に違い

ないという短絡的な理屈である。19 世紀の科学主義と大衆文化におけるイメージの氾濫が生み出した、現代の懐疑論とも言えるだろうか。もちろん、ペロー

はこうした謬見に逆らって予定調和説を復活させている訳ではない。彼が現実

認識と言葉による語りの間の関係をどうとらえていたのかという疑問の答えは、

以下のようなくだりに見つけられると思う。

(『世界の存続のために』は)新しい漁の始まりを語っている。古い漁の証拠

としての新しい漁だ。現在の確証としての漁だ。クードル島はここで、理想

的な、記憶するにふさわしいクードル島に似始める。それまでのクードル島

は伝説としていずれは忘れ去れる運命にあった。個々の記憶に刻まれた伝説

は、記憶を超えて生き延びられないからだ。記憶は生きた経験が自らを語る

ことによってしか続かないiv。 ペローは「シネマ」の語を忌避して、「ドキュメンタリー」をその対極にある

思想であり実践であると考えた。彼の嫌った「シネマ」の中には、再構成され

た歴史映画から伝記映画といったノンフィクションも入る。また、政治的プロ

パガンダとしてのドキュメンタリーとも一線を引いていた。そうした「ドキュ

メンタリー」も、彼にとっては一種のフィクションに他ならなかった。ペロー

にとって、ドキュメンタリーの顔をしたフィクションと彼のドキュメンタリー

を隔てるものは、「生きた経験は語られなければ現実にならない」という意識を

反映しているか否か、という一点にあったと思われる。『世界の存続のために』

が「ドキュメンタリーらしくない」と思わせる理由はここにもあるだろう。 歴史から見たドキュメンタリーの通念 ペローの「ドキュメンタリー」思想の特殊性をよく知るためには、現在通念

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となっているドキュメンタリーという概念ときちんと区別することが必要であ

る。現在我々が考える「ドキュメンタリー」は、実はその歴史的形成の段階で、

その諸側面を補足してきた複雑な概念である。 ドキュメンタリーという語は、現在日常生活に定着し、映像の歴史において

はあたかも既存のジャンルのように扱われることが多い。しかし、定義は非常

に難しい。例えば、文学におけるフィクション/ノンフィクションの対立と類

比させる定義も、エッセーというジャンルを射程に入れるといきなり不安定に

なるように、ドキュメンタリーとルポルタージュの間にも微妙ながらも本質的

な違いがある。 映画の歴史は記録映像から始まったとされるが(リュミエール兄弟)、1920年代にトーキー映画が登場する以前において、すでに作家の名前を冠したドキ

ュメンタリーと、主に戦時下の時事映像であるニュース映画は区別されていた。

ニュース映画の監督であったロシア人ジガ・ヴェルトフが、1928年にスターリン治下のオデッサで撮った無声映画『カメラを持った男』は、実験的ドキュメ

ンタリー映画の歴史の最初の傑作とされている。一方北米では、1921 年、30年後にフランスのジャン・ルーシュによって完成される民俗誌ドキュメンタリ

ーの先駆けとなる『ナヌーク・オブ・ザ・ノース』が誕生していた。監督であ

るアメリカ人ロバート・フラハーティーは、『ナヌーク』を撮るために、一年間

完全にエスキモーの部族と生活をともにした。1926年、同監督はサモア諸島に赴いて、同じコンセプトの『モアナ』を撮った。 この頃、現代的な「ドキュメンタリー」の用法が初めて英語に登場した。1926年、カナダ国立映画庁初代コミッショナーであった英国人プロデューサーのジ

ョン・グリアーソンが、ニューヨークの新聞に寄稿した『モアナ』評にそれが

見られる。「もちろん、『モアナ』はポリネシア人若者とその家族の毎日の出来

事を視覚的に記録しているという点で、ドキュメンタリーとしての価値を持っ

た作品である。」v「ドキュメント」という語は、英語の文脈ではそれまで書かれ

た資料、多くが教材としての資料を指していたのだが、グリアーソンが「事実

の正統的な記録」という意味で使って以来、映像作品のジャンル名としての知

名度を急激に獲得していく。 1930年代には、カトリックの国々で、それまで映画を「不道徳」と見なして禁止していた教会が、ドキュメンタリーの製作に乗り出した。特に入植地にい

た司祭たちは映像が持つ教化の力を認め、植民地での新生活を賞揚する映像を

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残した。ケベック・ドキュメンタリー映画は教会の教化映画で幕を開けたと言

える。アベ・アルベール・テシエとアベ・モーリス・プルーが残したアビチビ

入植者の映像は、今でも現代ケベック創成前史を知る貴重な資料である。国家

や教会がドキュメンタリーに制度的認知を与えたのは、それが「教育」的効果

を持っていたからである。この「教育」の側面は、現在もドキュメンタリーの

通念を強く支配している。 第二次大戦中には各国政府主導で大量のニュース映画が制作されたが、時勢

をとらえたドキュメンタリー映画も名作を残した。ナチ政権の支援を受けて製

作されたレニ・リーフェンシュタールの『意志の勝利』(1935 年)は、時事映画、あるいは政治的プロパガンダ映画の枠を超えた美的価値とドラマ性を兼ね

備えており、記録映像を映像詩に高めたと評価された。一方でこれらの映像と

ともに、戦後見つかった極秘映像がその後のドキュメンタリーの意味を変えた。

スターリン・ロシアやナチスドイツの強制収容所の映像、あるいは日本軍の中

国における行為を撮影した映像は、記録映像に「史料(アーカイブ)」(フーコ

ー的な意味での)という立場を与えのたである。 他方、戦争末期に焦土と化した母国の光景は、先進国ほとんどの国民の記憶

に焼き付いた。そこから、例えばロベルト・ロッセリーニのイタリア・ネオレ

アリスモの映画などに見られるような、フィクション映像が記録映像と迫真性

を競うという現象が生まれた。第二次大戦は人類史上初めて動画映像で残され

た戦争である。その記憶は、「記録映画」の概念によりショッキングな「実録映

画」の性質を加えたと言える。現在のドキュメンタリー映画に陰に陽に付随す

る「衝撃の映像」のコノテーションは、おそらくこの時に端を発する。 1950年代は、それまでのラジオに代わってテレビ放送が始まったが、戦後の大衆文化のスターはやはり映画だった。50 年代から 60 年代にかけて映画は国際的文化という性質を強め、映画祭に非西洋国の秀作が出現すれば世界的なニ

ュースとなる時代だった。映画は消費出来る娯楽であるとともに主観的な美学

を表現する可能性を無限に持つものと思われた。世界映画史上第二の黄金時代

である。ダイレクトシネマ、ヌーヴェル・ヴァーグ、クロサワ、フェリーニ、

ベルイマン、こうした歴史的な名前はこの時期に続々と現れた国際的な映画を

指している。平和な時代が戻り、映像の消費者たちは映画にさらなる多様性を

期待していた。 ジャン・ルーシュやピエール・ペローの映画が現れたのもこの頃である。新

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しいドキュメンタリー映画の手法は、市場の要求と相まって、主観的な美学の

映像表現にはずみを与えた。1950 年代から 60 年代にかけて、ドキュメンタリー映画は、日常の刹那の瞬間や、大衆の目でとらえた大衆の動きを撮影するこ

とが出来る技術を獲得した。ダイレクトシネマの隆盛、それに続くヌーヴェル・

ヴァーグの新鮮な美学は、50 年代の映画制作に関する制度的改革とともに、同時期の技術革新の成果である。 1950 年代後半にドイツのレンズ会社アリ社が開発した 16 ミリ移動型カメラArriflexが登場し、そして 60年代初頭には初めてのシンクロレコーダーNagra IIIが販売された。この時からドキュメンタリーは記録映画を離れて、多様化の一途をたどるようになる。 Arriflexは 20キロもあったとは言え、肩にかついで移動出来る初めてのカメラだった。ブローはこのカメラで、国立映画庁初のフランス語短編ドキュメン

タリー『かんじきレース』(1956 年)を撮った。ちなみに「肩にかついだカメラワーク」という、今では映像ジャーナリズムの常套となった撮影方法はミッ

シェル・ブローが考案したもので、銀幕に登場するや否やダイレクトシネマの

特徴として、世界から注目を浴びた。それまでフィクション映画の撮影は主に

スタジオで行われており、記録映画にもカメラワークはほとんどなかったが、

Arriflexのおかげでロケ撮影の方法が大きく変わった。 Nagra IIIの方は、カメラに接続して撮影と同時に音を収録し、タイムコ

ードをテープに刻み込むことが出来

る初めての機器であった。もちろん、

カメラと同じくらいの重量と 200 フィートという長いケーブルを引きず

ってはいたものの。『世界の存続のた

めに』では、こうした技術革新の恩恵

をいち早く取り入れ、田舎道の馬車や

沖合の船の動きに合わせた映像を成

功させている。とりわけ、議論やダイ

アローグのシーン(漁の初回準備の後 アベルの家に集まった人々の会話や、

鍛冶場でのアレクシとレオポルドの

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議論など)が同時録音出来たことは、

ペローを歓喜させた。とは言え、携帯

カメラの作動音は録音をかき消すほ

どであり、ペローとブローはケーブル

に足を取られる反面、カメラの音を消

すのに四苦八苦したという。

1960 年代後半から 70 年代にかけて、ドキュメンタリー映画の内容は社会化の度を加え、マルクシズムの急成長のもと、マイノリティーの政治的抵抗運動

の道具ともなる勢いだった。新植民主義と資本主義に抵抗するドキュメンタリ

ーは、ケベック(ドニ・アルカン、ピエール・ファラルドー)や南米(ヘチー

ノ、ソラナス)で最盛期を迎えた。政治的プロパガンダとしてのドキュメンタ

リーはこの時期まで政府が制作するものであったが、カメラが大衆の動きのま

っただ中に降りて行った時から、大衆の視点で作られるものとなったのである。

今日、「社会派」ドキュメンタリーと我々が言う時、そこには 70 年代の闘争の名残を秘めた「ラディカル・マイノリティーの思想」という意味が付随してい

る。 西側先進諸国においてテレビは 1950年代からすでに家庭にあったが、日常のコミュニケーションを今ほどにテレビ映像が左右するようになったのは、1980年代以降である。世界の映画市場はアメリカのフィクション映画によって占め

られ、多くの国で 70年代まで社会派ドキュメンタリーを撮っていた監督たちはフィクションに転向した。打倒資本帝国主義を目指す過激な運動が、多くの国

で実際の政治活動において頓挫したからであろう。ケベックでも、60 年代ダイレクトシネマの騎手であったクロード・ジュトラ、フェルナン・ダンスロー、

アルカンと言った名監督たちは、市場の要請に応えてフィクションを撮り始め

た。反対に、テレビでは「ドキュメンタリー」プログラムが増えた。テレビと

いう媒体を得て、ドキュメンタリーの語は急激に日常化した。報道記録の映像

を含めば何でもよかった。自然ドキュメンタリー、社会ドキュメンタリー、歴

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史ドキュメンタリー、科学ドキュメンタリー、などと細分化されたカテゴリー

は枚挙にいとまがない。現在、我々が用いる「ドキュメンタリー」の語は、テ

レビによって日常的な消費物となった時事映像の総体を指す場合が多い。 国立映画庁の世界的な名声を考慮するまでもなく、ドキュメンタリー映画が

文化事業の大きなシェアを占めるカナダを例にとれば、現在の同分野の制作は

教育映画、科学映画、環境の映画という大きなジャンルに分けられる。カナダ

の映画上映システムの開発は 70 年代に大きく進み、80 年代にはアイマックスシステムを登用した半円形の巨大画面で宇宙や自然の映画を見せるシアターが

登場した。現在、先端科学の教育用ドキュメンタリーは国家が多額の予算を投

入している分野である。他方、社会派ドキュメンタリーという系列は、90 年代末からマイケル・ムアなどの「事件」を扱う作品に代表されるようになってい

る。 1960年代のダイレクトシネマやヌーヴェル・ヴァーグの特徴であったような主観性の美学はその後のフィクション映画(また、ある種の文学作品も)の語

り口を変えたが、ドキュメンタリーの通念を大きく変える新たな様式を生むこ

とはなかったように思われる。反対に、ウェブカムの普及で、現在おびただし

い「自伝」的なドキュメンタリー映像が生まれている。20 世紀半ばのダイレクトシネマは、主観的社会性あるいは社会的主観性の表現としての「現実」の認

識を形にした。しかし、その後の社会の変動とテクノロジーの改革を経て、ま

た、プライヴェートとパブリックの領域区分が社会において大きく転換したこ

とを受けて、今日ドキュメンタリーと呼ばれる映像は、その機能によって分類

されるテクニカルなジャンルになっている。最新の情報、教育、歴史的知識、

事件のセンセーション、日常の果てしない個別化、こうしたものを与えるのが

その機能である。それら機能の全ては「現実の幻想を与えること」に集約され

る。その共通の特徴は、対象の選択、メッセージの雄弁さ、映像の効果が、機

材の質に大きく左右されるということである。 1960 年代仏系カナダの「ドキュメンタリー」の希求 仏系カナダに 1950年代終わりから 60年代はじめにかけて『世界の存続のために』が制作された背景には、制度的・技術的条件が一同に介したという事実

があるのは確かである。しかし、こうした状況をとらえたのは内面的な要求だ。

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新しい機械の力強さに驚嘆した映画人たちは、その道を辿ることが使命だと

考えたのだ。現実と映画との類似は、偶然生まれたものではなく、、、、、、、、、、、、

、映画人た

ちの意志から生じた(傍点筆者)vi。

条件がそろったから映画のアイデアが生まれたのではない。手段が与えられ

たから見たいものが見えて来たのではない。「現実」はそれを見る者の目の中に

あり、彼が自分に忠実でありさえすれば形になるものである、というペローに

とっては自明のことだった考え方は、現在の洗練されたドキュメンタリー映像

からはすでに失われてしまっている。 『世界の存続のために』が 1960年代の仏系カナダに生まれるべくして生まれたと言えば言い過ぎになるだろうか。しかし、作った人たちがそう考えていた

ことは確かである。特にペローにとって、当時の仏系カナダの「現実」—「ケベックという名を持つことをまだ知らない現実vii」と彼はわざわざ断りをつけて

いる—をゆがめることなく表明する手段は、ドキュメンタリーでなければなら、、、、、、

なかった、、、、

。「この時期、我々は生のままの、映画のカメラに従わない現実を撮る

ためのカメラを探していた。そして、人生によって演出されることを待ってい

る映像をviii」と後年彼が言っているように、ドキュメンタリーは偶然を必然に

変える手段だったのである。 1950年代末、世界がアメリカを中心に新たな消費文化の到来に沸いていた時、ケベックはまだ「ケベック」ではなかった。「フレンチ・カナダ」あるいは「ロ

ウワー・カナダ(低カナダ)」と呼ばれるカナダ東部の一州にすぎなかった。公

式な使用を禁じられた言葉を話し、その言葉も教会によって統制されていた仏

語系の農民たちには、職業の選択はほぼなかったと言える。仏系カナダ人は 1960年代まで、およそ 3 世紀にわたって北米の「白い奴隷」だった。もちろん、大陸の民族と同列に並ぶような書かれた民衆の歴史など持っていなかった。唯一

その存在証明となるものは、数世紀の間自分たちの間だけで守って来た話し言

葉だった。書かれた歴史がないところに文化的アイデンティティーはない、こ

れは鉄則である。ペローが 1950年代前半にラジオを通して口語の録音と記録に情熱を燃やしたのはそのためである。ペローは 1950 年代を通して、「まだケベックという名を持つということを知らない現実」を信じ、その表現の手段が与

えられるのを待っていた。 1959年には国立映画庁のフランス語部門が独立採算化し、仏系カナダ人監督

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たちは個人的な映画のアイデアを実行出来る機会に恵まれた。1952 年から 62年にかけて、携帯用カメラとシンクロ録音機が手に入った。そして 1959年には、それまでほぼ 20年以上にわたって、ケベック州を統治していたカトリック保守派のモーリス・デュプレシ首相が世を去った。1960 年には保守派に代わって、ジャン・ルサージュ率いる自由党がケベック第一党に選ばれた。政権交代を境

に、政治・文化両面において、ケベック州ではケベック・アイデンティティー

獲得のための運動が始まった。この運動は「静かな革命」と呼ばれた。この運

動の一端を支えたのは、ドキュメンタリー映画である。ドキュメンタリーの自

発的創造に参加した仏系カナダ映画人たちの「意志」は、個人的な美学といっ

たものではなく、帰属集団への「責任感」に貫かれたみずからの特殊性の意識

だった。

カメラがその場で音とイメージを同時にとらえることが出来るという状況が

生まれた時、我々はこうして何倍にも拡大された人々の記憶を、責任を持っ

てあずからなければならない、と思った。カメラの新しい視線を使ってみる

以外に、その新しい視線をどう利用したらよかったのだろうか。ただ記録す

る以外に、彼らの美化された記憶をどう処理したらよかったのだろうか。結

局はアーカイブ行きなのかもしれない。それでもかまわない。大事だったの

は、幻想を描いて大衆を熱狂させる産業に属さないという特権を手にいれる

ことだったix。

この「人々」は、1960年代に仏系カナダ人のみが持っていた社会的・言語的状況の中で、個人的な記憶を現実と信じ、その共有と持続を願っていた人々で

ある。現実とは集団の過去である。彼らがこの現実を信じていなければ、ペロ

ーが彼らと出会うこともなく、彼の中で「責任」の意識が生まれることもなか

っただろう。カメラの視線は「人々」の記憶から現在を結びつけるものだが、

この視線は同時に、過去のケベックと生まれるべきケベックを結びつけるよう

に、ペローには思われたのだ。 ペローは後年、こうした最初の責任感をドキュメンタリー思想の原則にまで

発展させている。1995年、彼が「ドキュメンタリーは私の抵抗活動だx」と宣言

する時、これは社会に向けられた挑戦といったものではなく(そんなことが成

功しないことを彼はよく知っていた)、「ドキュメンタリー」の思想を確立すべ

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く邁進した自分の過去と現在の総決算ではないか。彼の「ドキュメンタリー」

の対極にあるもの、その存在を常におびやかすもの、つまり、書かれていない

伝説が、個人の記憶と辞書にない言葉を通して自らを語り出すところを映した

「生の映像」を前にして、観客を全く無感覚にさせてしまうようなもの、これ

は「フィクション映画」だけではない。マスメディア映像、文学、スポーツ、

社会科学、政治というあらゆる場所に偏在し、大衆を「自分自身から引き離し

て」、偽のアイデンティティーを身にまとうように煽動するような「シネマ」で

ある。そうした媒体の言表を構成する「本当らしく」て「夢のような」の映像

や観念の全てである。

そのような文化に育った者が、どうやってドキュメンタリーを見ることが出

来るのか。ドキュメンタリーが抱える最も困難な問題は、観客の視線にあるxi。

しかし、ここから始まる「ドキュメンタリー」の問題は、我々を『世界の存

続のために』の解説から遠く離れた領域に連れて行くだろう。

§ § §

最後に、もう一度『世界の存続のために』に戻ってみよう。そして、この映

画が喚起する驚きの源泉に。つまり、直接的な感動というものに。 ペローのドキュメンタリーの驚きが歴史的状況の産物であるにせよ、哲学的

な種類のものであるにせよ、その意識を観客にもたらすものは、やはり共感で

あり、感動である。この映画の各シークエンスを注意深く追って来た人なら、

映画の最後から 10分のところに位置するベルーガ捕獲のシーンで、河床を歩くレオポルドとアベルの心に生まれ、膨れあがっている感動が、決して他者には

理解出来ない種類のものであることに感動するはずである。長い労働に対して

自然から与えられた一頭の小さなベルーガを、エイハブ船長の白鯨以上に偉大

な獣であるかのように押し戴く彼らの心がよく理解出来、理解出来るから、感

動するはずである。ベルーガのあっけない姿と、それを「なんて大きくて美し

い」と思う二人の心の対照は、我々を感動させ、驚かせる。同じことは、ドキ

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ュメンタリーカメラについても言える。クードル島の人々が言葉と毎日の感情

で自分の存在を確かめる時、それを映すカメラもまた、その限定された視点が

自分にしか属さないことを確かめる。自分自身を語り、肯定する人々を映しな

がら、カメラも自分を語り、自分を肯定し、自分を生み出して行くように思わ

れるのである。 『世界の存続のために』の撮影の間、どのような自己肯定の力がペローとブ

ローを支えていたか、今日の我々には知る由もない。しかし、この特殊な映像

作品が自分自身の人生を生きようとした人々の物語であったことを理解すれば、

多くを知ったことになるだろう。この映画が「ドキュメンタリー」である、、、

こと

が今でも我々を驚かせるとすれば、それは、真に驚くべきことは自分の現実を

生きることに他ならないからだ、ということを。 i Pierre Perrault, « Discours sur la parole » in De la parole aux actes, l’Hexagone, Montréal, 1985. ii Frédéric Nef, Qu’est-ce que la métaphysique ?, Gallimard, 2004, p. 38. iii Paul Ricœur, Temps et récit, 3 vol., Editions du Seuil, 1983, t. I, p. 141. iv Perrault, Pour la suite du monde, récit, avec photographies de Michel Brault, l’Hexagone, p. 103 v Jack C. Ellis, Betsy A. McLane, A New History of Documentary Film, Continuum International, New York, 2005, p. 3. vi Perrault, Pour la suite du monde, op. cit. p. 8. vii Id., Cinéaste de la parole. Entretiens avec Paul Warren, l’Hexagone, Montréal, 1996, p. 17. viii Id., Pour la suite du monde, op. cit., p. 278. ix Ibid., p. 8. x Id., L’Oumigmatique, ou l’objectif documentaire, l’Hexagone, 1995, p. 23. xi Ibid., p. 17.