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日仏協会雑誌FJKyoto2010年号収録。
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フランス医学史(第四回目)
ルーダンの悪魔憑き事件 — 17世紀カトリック教会と精神病
加納 由起子
紀元 3世紀からおよそ 14世紀にわたってヨーロッパを支配したガレノス医学は、体液生理学と「動物精気」の観念にもとづいていた。体液生理学とは、人
体には四種類の体液(血、粘液、黒胆汁、黄胆汁)があり、その間の作用が様々
な機能を作り出す、というもの。体液の間の均衡は人によって様々であり、こ
れを「体質」と呼ぶ。「動物精気」とは、脳において血が生命の息吹を受けて変
わる目に見えない謎の霊気。この精気が、知覚、感覚、感情、有意運動などの
心身現象を引き起こす。ガレノスは動物精気が心身の統合をはかり、個体と環
境の調和ある一致を生み出すと説いた。中世においてキリスト教の影響で、動
物精気は「(キリスト教徒の)魂」と混同された。非常に簡略化して述べれば、
中世における内因性の病気は、体液の間の不均衡か動物精気の変調・変質の二
大原因によって起こるものと考えられていた。 中世からルネッサンスにおいて、もうひとつの病因がそこに加わる。「超自然」
の要因、体質や心身統合の機構を崩す、防ぐことができない外部の要因である。
中世からルネッサンスにおける「黒死病(ペスト)」の蔓延も、外部から来る「悪
(virus)」への恐怖に拍車をかけた。キリスト教絶対神の信仰は、古代の異端の神々の像を悪魔の姿として蘇らせた。「異端審問」は厳しさを増したが、さらに
文化的に重大な事件は、「疫病」とまで呼ばれた「魔女裁判」である。ミシュレ
は、中世から 17 世紀まで連綿と続き、総計 10 万人以上の死刑(絞首、火刑)を出した魔女裁判は、中世民衆の劣悪な生存条件とともに、古代から存在する
「女」への根源的恐怖が生み出したものだと言う。 魔女裁判には司祭や司法官とともに、医者が必ず加わった。悪魔憑きの判定
を下すのは医者であった。医者は嫌疑者の体を調べ、痣やほくろなど、「悪魔と
の契約のしるし」とみなされている身体的特徴を洗い出す。そればかりではな
い。動物精気の理論を念頭に、体のあらゆる表面とくぼみに長い針を刺し、痛
みと出血の度合いをはかるという検査も行う。痛みが少なかったり、出血がな
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かった場合、悪魔が憑いているとされた。検査は数時間にわたって綿密に行わ
れ、嫌疑者は数センチの針を体中に差しこまれ続けたのだった。 検査が身体部位についてのみ行われたにも関わらず、教会が定めた悪魔憑き
の認定指標はきわめて非物質的(「超自然」)なものだった。1632年、ボルドー大司教は悪魔祓いを行う司祭たちにこう指示している。「超自然現象の徴候を探
すこと。例えば、3 人の悪魔祓い師の間でこっそりささやかれたことを察知し、距離からして決して聞くことはできなかったことを知っているような返答をす
ること、数カ国語で、八つから九つのセンテンスを用いて正確に話すこと、そ
して、寝台に横たわり、手足を縛られたまま、誰にも触れられないで、空中に
一定時間以上浮き上がること」。カトリック司祭による悪魔祓いの儀式は、悪魔
憑きの徴候指標に劣らず魔術的な性格のものだった。祭壇をしつらえ、その前
でローマ教会典の「悪魔祓いの書」を数人の司祭が朗誦し、手足を縛られベン
チに寝かされた嫌疑者に十字架を突きつけて自白を強要し、秘跡を受け入れる
よう促す(聖餅を口に押し込む)のだ。嫌疑者が拒否しなければ治ったものと
された。カトリックの壮麗趣味に合わせて様式化されたこの儀式は、今でも中
世と同じやり方で執り行われる。 一方、教会によって派遣され、教会のために診察を行うべく定められていた
医師たちは二つの任務の間に引き裂かれていた。彼らには「治療」と「(魂の)
救済」の役割が期待されていたわけだが、仕事の質は全く違ったのである。17世紀の「治療」の骨子は、医師ギー・パタンが言うように「とにかく瀉血、浄
化、吸引、必要と判断されれば酒を与える。あるいは断酒させる」という単純
なもの。恒常的に使われていた薬草はほとんどが下剤だった。しかし、「動物精
気」の変調の症状と、悪魔の徴候がこれほど違った体系の中にあり、治療の方
法がないとき、医者たちの仕事は検査に検査を重ね、症状を詳述し、異変のあ
る身体部位と教会の悪魔のリストを照合させるという不毛なものにならざるを
得なかった。ガレノス医学にも「精神病」の項目はあったのだが、原因不可と
されていた。癲癇など脳の器質的問題による疾患と、現在言われるところの人
格障害は混同されていた。教会はそこに、「超自然」の概念を急速に持ち込んだ
のだった。悪魔憑きの徴候リストは数世紀にわたって綿密に作成されていたの
で、医師は教会の体系を疑う何の反証も提示できないままだった。 17 世紀に、中世的な意味での魔女裁判(魔女は悪魔と直接契約をしているため、教会司法は魔女個人を糾弾し、裁く)が終わりを告げた。裁かれるのは魔
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女ではなく、魔女を操る「魔術師」であり、特にフランスでは、魔術師と見な
された男の処刑は、カトリック教会と結びついた王権にとって大衆感化のため
の象徴的な意味を持っていた。17 世紀から、民衆の間にではなく、尼僧院で突発的に見られるようになった悪魔憑き事件(魔術師は決まって、尼僧に人気が
あり、かつ素行に疑いのある若い司祭だった)では、憑依された女性たちは魔
女ではなく、「被害者」の姿で現れる。尼僧たちの人間的理性を救うという任務
は、医者たちに治療の新しい考え方をもたらした。17 世紀前半のフランスはまた、宗教戦争が終結し、王権が確立したのみではなく、近代的理性が生まれつ
つあった場所だった。デカルトが 1637年にアムステルダムで発表した『方法序説』は、超自然な「魂」ではなく、「自由意志」によって統合された人格を描き
出して、この時代のあらゆる知性の努力の到達点を示している。 フランス精神史における 17 世紀の「悪魔憑き」という現象は、20 世紀まで精神科医の病跡研究の対象となり、歴史家は様々なアプローチでこの問題を考
えた。1970年、イエズス会の神父であり、社会史家でもあるミッシェル・ド・セルトーが発表した『ルーダンの憑依』は、そうした事件の中でも最も有名な
ルーダン尼僧集団憑依事件(1632-1638)を調査した傑作である。セルトーは聖職者しかアクセス出来ない貴重な文献を渉猟し、信仰と理性と権力の要請が
一致団結する歴史的瞬間を再構成した。社会史のみならず、特に精神医学史の
観点から、セルトーの研究はきわめて貴重な文献を提供してくれる。ここには
憑依現象に直接対面した 17 世紀の医者たちの正直な「驚愕と恐怖」、そして悪魔祓いを執行する司祭の手探りの自己分析を語った文献が載せられているので
ある。 前近代的な悪魔憑きの現象から、国家的な医学と司法の関わりが生まれ、同
時に近代的な「精神病」の観念が生まれたとされるルーダンの事件。これはど
のような物語なのか。 1632年、フランス西部のポワトゥー・シャラント地方の小都市ルーダン(当時の人口は一万人)で、ウルスラ女子修道院の17人の尼僧たちに異変が起きた。尼僧たちは夢魔に悩まされるようになり、祈祷の最中に言葉が乱れ、次第に四
肢の硬直、捻転、痙攣などの運動の異常を見せるようになった。彼女たちは痛
み、寒さ、空腹に無感覚となり、「庭の木にぶらさがって叫び続け」、「何日も雪
と霜に耐え、何一つ飲み食いしなくても平気だった」。尼僧たちは、近所の教会
の司祭ユルバン・グランディエが原因だと口を揃えて述べた。グランディエの
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身元調査が行われ、聖職者にあるまじき過去の女性問題が浮上した。噂は近隣
の都市の司教たちにも伝わり、まずポワチエ司教が、次にボルドー大司教が、
1633 年にはパリの神学博士たちが正式に悪魔憑きの事件であると認定した。1633 年末、ルイ 13 世の宰相リシュリューに派遣された行政官ローバルドモンがこの事件の全責任者となった。ローバルドモンは、すぐさまグランディエの
逮捕状を発行した。 1634年、ローバルドモンは悪魔祓いを執行する司祭とチームと医師のチームを再編成した。フランス各地から送られてきた医師たちは、このとき尼僧が「足
の先と頭頂だけで体を支え、腹を上に向けたまま、非常に素早い動きで祭壇に
駆け上がり、悪魔祓いの祈祷をやめさせようとし、止めに入った神父をおそろ
しい力で地面に投げ倒した」のを実際に見て、初めて「驚愕と恐怖」を覚えた。
ちょうどその頃、グランディエが悪魔と交わしたとされる「契約書」が、「偶然」
祭壇の下から見つかった。ルーダン事件の第二段階は、ローバルドモンを通し
てリシュリューが介入し、ルイ13世の命を受けた国家事業となった後、全国津々浦々にまで告知され、ルーダンに 1 万人あまりの観衆を集めたというグランディエの公開火炙りによって終わる。 しかし、魔術師が処刑されても憑依が終わったわけではなかった。尼僧たち
は相変わらず瀆神の言葉を吐き続け、秘跡を受け入れず、身体の動きの異常も
おさまらなかった。その間、医師たちは身体部位の詳述を続け、教会の定める
悪魔の「取り憑き場所」を確定しつつ、瀉血を繰り返し、下剤を投与し続けた。 1634年末、ボルドー司教からルーダンの新悪魔祓い監督として任命されたジャン・ジョゼフ・シュラン神父が修道院に到着した。彼は、尼僧たちを操って
いるのが、最初の被害者である尼僧長ジャンヌ・デ・ザンジュであると確信し
た。この時から、シュランとジャンヌの間に長い息詰まる闘いが始まった。ジ
ャンヌは巧妙に、精緻な言葉の手段で、シュランに信仰への懐疑を植え付けた。
1635 年の 5 月にシュランが旧友に宛てた手紙には、「自分の中にもう一人の自分がいて、あらゆる暴虐を働きたがっている。本来の私は消えていない。ただ、
今私の中には、二つの自我が同時に共存しているのだ」という冷静かつ絶望に
満ちた自己分析が見られる。シュランはこのとき、自殺も図ったらしい。翌年
には、シュランの精神はますます危機的な状態に陥っていた。教会は任務の続
行は無理と見て、シュランをルーダンから解放した。 ルーダン事件が終結したのは、悪魔祓いの儀式が成功したからではない。シ
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ュランが去った 5ヶ月後の 1637年 2月、尼僧ジャンヌが突然病に倒れ、臨死状態の中で「啓示」を受けたと証言したときである。シュランはこの年の夏ルー
ダンに戻り、ジャンヌと再会した。10月、ジャンヌの両手に「イエス、マリア、ジョゼフ、アッシジの聖フランチェスコ」の名前がくっきりとスティグマータ
のように浮かび上がった。ジャンヌはこの手をもって、翌年からフランス全土
を凱旋した。リシュリューとルイ 13世その人も、ジャンヌを生きた奇跡の証明として迎えた。ジャンヌ・デ・ザンジュは後に改革キリスト教会の神秘主義に
帰依し、徳高い尼僧との評判を確立した。 ジャンヌが王侯たちに取り囲まれ、勝ち誇ったキリストの凱歌をあげている
間、シュランは沈黙したままだった。晩年、平静をようやく取り戻したかに見
えるかつてのルーダンの悪魔祓い師は、ジャンヌに宛ててこう書いている。「信
仰は誠実な心にもとづくものであるべきだ。あなたについて多くの人が多くの
ことを言っている。しかし、あなた自身の心の中に真実を探す精神を認めるこ
とはできない。」 ルーダンの尼僧「精神病」説はすでにあった。医師ラ・メナルディエールと
マーク・ダンカン、ダンカンとクロード・キエの間には、ルーダン事件をめぐ
る「判断力の疾患か想像力の疾患か」、「想像力の疾患かヒステリーか」という
議論が持ち上がっていた。しかし、こうした議論は、スコラ哲学の影響を受け
た唯名論的な精神能力の実体主義に基づいた、あくまで理論的なものだった。
そこには臨床がなかったのである。ルーダンで実際の精神的な臨床を行ったの
は、唯一シュラン神父だった。シュランは、デカルトと歩を同じくして、自ら
の「誠実な心」のみを頼りに、ジャンヌの心の闇に分け入ろうとした。 おそらくシュランにとっては、ジャンヌがヒステリーであるか(これは、19世紀末に精神科医シャルコーが与えた診断でもある)、あるいは現在言われる
「解離性人格障害」であるかは、さほど大きな問題ではなかっただろう。誠実
な心を精神活動の拠り所とする者にとって、「真実」は何らかの目的によって導
き出されるものではなく、探求の行程そのものに他ならなかったのだから。17世紀に生まれた近代的な理性の特徴として、光は闇の中に、真実は未知の領域
の中に見出されるという信条があったことも忘れてはならない(デカルト、ボ
シュエ、マルブランシュ)。シュランの煩悶は、17世紀において、この未知の領域が「超自然」の領域(悪魔の仕業)ではなく、むしろ一人の人格を統合する
心の闇といったものに移っていたことの証明ではないだろうか。近代理性にと
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って、恐ろしいのはもはや悪魔ではなく、人間の心なのである。 ルーダンの事件から 50 年後の 1682 年、ルイ 14 世の宰相コルベールは、すっかり時代遅れになった魔女裁判の禁止令を出した。フランスにおける「精神」
観念の歴史は、ここで中世と袂を分かった。しかし、人間精神の深層性への意
識が制度としての精神医学に変化をもたらすまでには、その後さらに 100 年以上を要した。1656年、貧民とともに精神病者を隔離する施設として王命で設立されたサルペトリエールが、革命後の 1793年、フランスで初めて臨床医学の場として生まれ変わるまでに。 参考文献 Michel de Certeau, La Possession de Loudun, Gallimard, 1990 (Julliard, 1970).ミッシェル・ド・セルトー著、矢橋透訳、『ルーダンの憑依』、みすず書房、2008年刊。 Jules Michelet, La Sorcière, 1862. ジュール・ミシュレ著、篠田浩一郎訳、『魔女』、岩波文庫(上下巻)、1983年刊。 Aldous Huxley, The Devils of Loudun, 1952. オルダス・ハクスリー著、中山容・丸山美知代訳、『ルーダンの悪魔』、人文書院、1989年刊。