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1 8.孤愁:Saudade(サウダーデ) 著者:新田次郎、藤原正彦 文芸春秋、2012 年 11 月 30 日発行、2100 円 新田次郎(1912-1980)長野県生まれ。気象庁に勤務しながら作家活動を始め、1956 年に「強力伝」で第 34 回直木賞を受賞。「八甲田山死の彷徨」、「孤高の人」など の山岳小説を数多く手がける。「孤愁」は氏の未完の絶筆。 藤原正彦(1943-)旧満州新京生まれ。新田次郎の次男。東京大学卒業、理学博士、 数学者、お茶の水大学名誉教授。「若き数学者のアメリカ」で日本エッセイスト・ クラブ賞受賞。「国家の品格」はベストセラーになった。 右は、藤原正彦氏の講演「モラエス、父、私」のポスター。ポスターの右上の人物 は、徳島時代のモラエス。左は、上から順に、おヨネ、コハル、藤原氏。 (1)前書き 私(筆者の林久治)は徳島市の出身である。毎日、眉山を見て育った。少年時代 には、友人達とよく眉山に登った。そのころは、ロープウェイはなく、頂上には小 さな茶店が数軒あっただけであった。その後、眉山の頂上が次第に開発され、ロー プウェイが通じ、戦没者慰霊のパコダ塔やモラエス館などが建設された。 本年(2013 年)の5月、私は中学の同窓会に出席するために徳島に帰った。その 際、親友のS君と眉山の頂上に行った。次の写真は、その時に眉山の頂上から徳島 市街を撮影したものである。画面を横切る大河が、吉野川である。正面の小島が沼 島で、左の大島が淡路島である。

8.孤愁:Saudade(サウダーデ) 著者:新田次郎、藤原正彦 文芸春秋、2012年11月30日発行、2100円 新田次郎(1912-1980)長野県生まれ。気象庁に勤務しながら作家活動を始め、1956

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8.孤愁:Saudade(サウダーデ)

著者:新田次郎、藤原正彦 文芸春秋、2012 年 11 月 30 日発行、2100 円 新田次郎(1912-1980)長野県生まれ。気象庁に勤務しながら作家活動を始め、1956

年に「強力伝」で第 34 回直木賞を受賞。「八甲田山死の彷徨」、「孤高の人」など

の山岳小説を数多く手がける。「孤愁」は氏の未完の絶筆。

藤原正彦(1943-)旧満州新京生まれ。新田次郎の次男。東京大学卒業、理学博士、

数学者、お茶の水大学名誉教授。「若き数学者のアメリカ」で日本エッセイスト・

クラブ賞受賞。「国家の品格」はベストセラーになった。

右は、藤原正彦氏の講演「モラエス、父、私」のポスター。ポスターの右上の人物

は、徳島時代のモラエス。左は、上から順に、おヨネ、コハル、藤原氏。

(1)前書き

私(筆者の林久治)は徳島市の出身である。毎日、眉山を見て育った。少年時代

には、友人達とよく眉山に登った。そのころは、ロープウェイはなく、頂上には小

さな茶店が数軒あっただけであった。その後、眉山の頂上が次第に開発され、ロー

プウェイが通じ、戦没者慰霊のパコダ塔やモラエス館などが建設された。

本年(2013 年)の5月、私は中学の同窓会に出席するために徳島に帰った。その

際、親友のS君と眉山の頂上に行った。次の写真は、その時に眉山の頂上から徳島

市街を撮影したものである。画面を横切る大河が、吉野川である。正面の小島が沼

島で、左の大島が淡路島である。

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写真 8.1 眉山の頂上から、徳島市街を撮影(2013 年)。

眉山頂上のロープウェイ駅のとなりに、モラエス記念館がある。(次ページの写

真 8.2 に、モラエス記念館の入口と案内板の写真を掲載する。)モラエス記念館に

は久しぶりに行ったので、内容が昔より充実しているのに驚いた。来客は私共二人

きりであったが、案内のボランティアーのオバサンが親切に説明して下さり、大変

好感を覚えた。モラエス自身が徳島に残した膨大な資料は、戦災で全焼してしまっ

た。しかし、徳島のモラエス関係者が国内外から彼の資料や本を熱心に収集して、

館内には沢山の資料が展示されていた。(p.4 の写真 8.3 に、復元されたモラエス

の書斎を示す。)

私は約半世紀前に、佃實夫が出版した「わがモラエス伝」を読んだことがある。

しかし、その内容を殆ど忘れてしまった。ただ、「神戸領事を退職したモラエスは、

亡くなった愛人のおヨネの故郷である徳島に隠居して、日本や徳島に関する本を本

国・ポルトガルでたくさん出版した」ことと「モラエスの徳島における晩年は孤独

で、糞だらけになって亡くなった」ことしか憶えていなかった。

ボランティアーのオバサンから、「モラエスはポルトガルでは文豪の一人で、紙

幣にもなっている」と教えられ、実際の紙幣も見せていただいた。また、彼女から、

「孤愁」という題の「モラエスの伝記」が最近出版されたことも教わった。これら

のことは徳島では周知の事実なのであろうが、徳島を長らく離れているS君と私に

とっては初耳であった。(本文は、p.4 に続く。)

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写真 8.2 上:眉山の頂上にある「モラエス館」(2013 年)。下:「モラエス館」

の案内板(2013 年)。

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「孤愁」(以後、本Ⅰと書く)は新田次郎の未完の絶筆だそうである。残された

資料やメモを参考にして、次男の藤原正彦が後半を書き継いで、本書が最近出版さ

れたそうである。新田次郎といえば、私は彼の「八甲田山死の彷徨」に感動したこ

とを憶えている。藤原正彦といえば、私は彼の「国家の品格」を読んで共感を覚え

たことがある。

佃の「わがモラエス伝」(以後、本Ⅱと書く)は力作であったが、彼は無名の芥

川賞候補者に過ぎなかった。この本は 1966 年に出版されたが、今は絶版になってお

り入手は極めて困難である。従って、有名な新田・藤原親子が「モラエスの伝記」

を出版したことで、モラエスの業績と生き様が後生に伝わることになる。

幸い、私は本Ⅱを所有している。そこで、本Ⅰと本Ⅱを読み比べて、感想文を書

いてみようと思いたった。その作業をしている最中に、東京外大の岡村多希子教授

がモラエスの著書をたくさん日本語に翻訳しておられることを知った。日本におけ

るモラエス研究の第一人者である岡村は、「モラエスの旅・ポルトガル文人外交官

の生涯」(以後、本Ⅲと書く)というモラエスの伝記を 2000 年に出版していた。

彼女は「従来のモラエス伝には、想像力の産物が事実と誤解され、繰り返し孫引

きされ定説のようになっている」と述べている。そこで、彼女は「ポルトガルと日

本に存在するモラエス関係の資料を渉猟して、判明した事実だけを資料として客観

的に語らせるという手法」でモラエス伝を書き上げたそうである。そこで、私は

「本Ⅲも読んで、感想文を書こう」と思っている。(本文は、p.6に続く。)

写真 8.3 「モラエス館」の内部に復元された「モラエスの書斎」(2013 年)。

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写真 8.4 上の写真:ポルトガル・リスボンにあるモラエスの生家。下の写真:窓

の間にある案内板を拡大したもの。

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本書(本Ⅰ・孤愁)の前半(「美しい国」から「日露開戦」まで)は新田が執筆

し 1980 年に文芸春秋より出版されている。後半(「祖国愛から「森羅万象」まで)

は藤原が執筆している。モラエスの一生に関しては、未だ不明な部分が多い。

新田と藤原はモラエスの著書や現存する資料を精査し、彼が滞在した地域(日本

では徳島や神戸など、外国ではポルトガルやマカオなど)を実地に調査している。

それでも不明な点は、二人の創作による所が少なくないようだ。したがって、本書

はモラエスの学術的な記録ではなく、「孤愁」に象徴される彼の人生を文学的に表

現した芸術作品である、と私は思っている。

本感想文では、モラエスの物語を詳細に紹介することはしないこととする。彼の

伝記の詳細に興味のある方は、本書や本Ⅲを直接読まれることを勧める。ここでは、

モラエスの経歴を簡単に記載するだけに留め、彼の人生で興味深い箇所を、本書を

拠り所にして考察することに主眼を置く方針である。(なお、人名には敬称を用い

ないことを、予めご容赦願いたい。)

(2)モラエスの略歴

本書(本Ⅰ・孤愁)は芸術作品であるせいか、彼の経歴は本書のあちらこちらに

分散して記述されている。従って、本書から彼の経歴を正確に把握するのは容易で

はない。そこで、私(林)は彼の略歴を、本Ⅱや本Ⅲも参考にして以下に要約する。

本書を読む際にも、以下の略歴は便利だと思う。

Wenceslau José de Sousa Moraes (ヴェンセスラウ・ジョゼ・デ・ソーザ・モラ

エス)は 1854 年5月 30 日に、ポルトガルのリスボン市に生まれた。彼の生家には、

写真 8.4 のような案内板があり、現在でも日本人観光客の人気スポットの一つにな

っている。彼の父は軍人の家系であるが、父は役人で給料だけで生活していた。そ

のため、彼の生家は質素であった。彼の母は軍人の娘で、知的でやさしい人であっ

た。子供は彼のほかに、姉エミリアと妹フランシスカがいた。写真 8.5 の左に、彼

の5才の時の写真を示す。

モラエス家には遺伝的な神経症があり、彼は若いころから絶えず病気や死の不安

にとらわれ、食欲不振、頭痛、発熱、不眠などの様々な症状に苦しんできた。彼は

自分に似た妹を気遣い、父親代わりに晩年まで文通を続けていた。彼の膨大な書簡

はモラエス研究の貴重な資料となっている。(「モラエスの絵葉書書簡」と題する

分厚い本が、岡本教授の訳で 1994 年に発行されている。)

モラエスは少年のころから文学好きの夢想的で感受性の強い気質で、匿名で新聞

に散文や詩を投稿していた。1875 年に彼が海軍士官学校を主席で卒業した時の成績

の中でも数学と語学が抜群であった。生物学や文学は彼の余技であった。(p.88)

彼は海軍少尉に任官し、1876 年に東アフリカのモザンビークに赴任した。15-16

世紀の大航海時代には、ポルトガルはスペインと世界を二分した植民地大国であっ

た。しかし、19 世紀のポルトガルは、英仏の進出に追われてモザンビークの他には、

インドネシアの東ティモールと南シナのマカオなどに植民地を所有する弱小国家に

成り下がっていた。(ちなみに、1543 年にポルトガル船が種子島に漂着して、日本

に鉄砲を伝えた。1549 年には、ポルトガル国王の命を受け、ザビエルが来日してキ

リスト教を伝えた。)

(本文は、p.8に続く。)

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写真 8.5 左:少年時代のモラエス(1859 年)。右: 神戸領事時代のモラエス

(1903 年)

写真 8.6

神戸市中央区加納町6丁

目の東遊園地にあるモラ

エスの胸像。彼の神戸領

事としての功績を記念し

て建てられたものと思わ

れる。なお、加納町はモ

ラエスの住居があった場

所である。

写真 8.5 と写真 8.6 よ

り、彼の繊細にして自尊

心の高い性格が偲ばれ

る。

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モラエスは 1886 年まで4回モザンビークに勤務して、本国と往復している。彼が

1886 年に海軍大尉としてモザンビークに居たとき、余暇に採取分類した海洋微生物

の研究は、ポルトガルのみならず西欧諸国の生物学界で認められ、博物学者モラエ

スとしての名を不抜なものとした。(p.363)

1888 年、モラエスはマカオに初めて赴任する。1891 年に、老朽砲艦「テージョ

号」を苦労してマカオからリスボンに回航した。その直後、彼は海軍少佐に昇格し

てマカオの港務副司令に任命され、再度マカオに向かった。これが、母国との永遠

の別れとなる。彼はマカオの港務副司令として 1898 年までマカオに留まる。マカオ

でモラエスは、中欧混血児の亜珍を現地妻として二人の男児を儲けている。亜珍に

ついては不明な点が多いが、詳細は後述する。

1889 年に、モラエスは始めて日本に出張し、日本の美しさに感動した。彼は姉に

「僕はいま美しい国、日本に来ている。この長崎にいて、この世にたぐいのない木

陰で余生を送りたい」と書き送っている。(p.37)1893 年からは、日本からの武器

購入のために毎年訪日している。1896 年、モラエスは海軍中佐に昇進した。1897 年

7月 14 日には、彼は公使館書記官の身分でポルトガル国・日本公使ガリアルドの随

員として、京都御所で明治天皇と皇后に謁見している。(p.212)なお、訪日の詳細

については、本書と本Ⅲでは多少の相違がある。この点も、後述する。

当時は現在ほど通信が発達していなかったので、世界の大手新聞社は国々に特派

員を派遣してニュースを集めていた。モラエスはポルトガルのある新聞社と契約を

して、シナや日本などの極東情勢を記事にしてマカオから定期的に送っていた。特

に、この時期には日清戦争や日露戦争があり、モラエスの日本に関する記事はポル

トガルで人気を集めていた。彼はそれらの記事をまとめて「極東遊記」という題名

の本を 1895 年に出版した。(p.205)

モラエスは晩年まで、母国の新聞に記事を連載し続け、それらをまとめて多くの

本を出版した。これらの本はポルトガルで極めて高い評価を得て、彼は同国では

(紙幣に載るほどの)文豪の一人となっている。本書は彼の作品についても分散し

て記載しているので分かり難い。彼の作品については、本感想文では詳しくは紹介

しない。本Ⅲの感想文で紹介する予定である。

1898 年6月、モラエスが日本に出張していた時、マカオで人事異動があった。そ

れは彼の自尊心を著しく傷つけるものであった。日本に大変興味を持っていたモラ

エスは、マカオやポルトガルで引退生活を送るより、神戸領事になって日本に滞在

することを望んだ。ガリヤルド公使や本国の親類・知人の尽力により、1898 年 11

月 22 日に彼は神戸・大阪ポルトガル副領事館臨時事務取り扱いの辞令を貰った。

(p.218-229)後に、彼は神戸・大阪ポルトガル総領事まで昇進している。

モラエスの神戸赴任に際して、彼は亜珍と二人の息子を日本に連れて来なかった。

この事情に関しても、諸説があるので、後述する。その代わり、彼は徳島出身の芸

者・福本ヨネを身受けして、日本人妻とした。彼とヨネとの出逢いに関しても、諸

説があるので、後述する。(p.149-152)

1900 年 11 月、二人は神戸・生田神社で神前結婚式を挙げた。モラエス 46 才、ヨ

ネ 25 才であった。ヨネはモラエスから「おヨネさん」と呼ばれた。彼女は日本的な

美人で心やさしい女性であったので、モラエスは心の安らぎが得られた。この時期

が彼の絶頂期で、領事としての公務と日本紹介の文筆活動に精励した。(p.337、

9

p.508)彼の神戸時代の写真と胸像を写真 8.5 と写真 8.6 に示す。神戸時代の二人の

写真を写真 8.7 に示す。

不幸にしてヨネには「心臓脚気」の持病があった。当時の日本では、結核と脚気

が二大国民病で、効果的な治療法がなく、多くの若者がこれらの病気で亡くなって

いた。1907 年ころからヨネの体調はすぐれなくなった。(p.517)ヨネは 1912(大

正元)年8月 20 日に亡くなった(享年 38 才)。ヨネを亡くして「もぬけの殻」の

ようになったモラエスは総ての官職を辞任して、1913 年 7 月1日にヨネの墓のある

徳島に移り住んだ。(p.575)彼が終の住処として徳島を選んだ経緯は、後述する。 写真 8.8(下)に、徳島市伊賀町にあるモラエス旧居跡を示す。ここで、彼はヨ

ネの姪(斉藤コハル)を家事手伝いに雇用して、徳島での生活を順調に開始した。

しかし、コハルは 1916 年の春に肺結核を発症し、モラエスの懸命な看病も空しく、

同年 10 月2日に死亡した(享年 23 才)。モラエスはヨネと同様にコハルの墓も作

ってあげた。(p.629-630)モラエスは 1929(昭和4)年7月1日に伊賀町の自宅

で孤独死をとげるが(享年 75 才)、彼の遺骨はコハルの墓に葬られた。(p.662)

二つの墓は戦災などで傷みが激しく、戦後になって新しく作り直された。三人の現

在の墓を写真 8.8(上)に示す。モラエスの徳島生活の詳細は、後述する。

(2)モラエスの女性関係 モラエスは多くの女性と関係を持っているので、一部には「彼は好色家であっ

た」という意見もある。私は彼の女性関係については「彼は生まれつきのロマンテ

ィストではあったが、彼が 19 世紀の植民地で勤務したという時代的背景も大きい」

と考えている。彼の人生に大きな影響を与えた女性としては、イザベル、亜珍、お

よびヨネが挙げられる。(本文は、p.11 に続く。)

写真 8.7 神戸時代の幸せ一杯なモラエスとヨネ。

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写真 8.8 上:徳島市潮音寺にあるモラエスの墓(中央)。右は福本ヨネの墓で、

左は斉藤コハルの墓。最初の墓は破損が激しく、戦後に作り直された。下:徳島市

伊賀町にあるモラエス旧居跡。

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イザベルは彼の青年時代の8才年上の恋人で、生家の隣に住む人妻であった。彼

女は彼がヨネに会う前に彼が本気で愛した唯一の女性だった。彼女は美しく教養あ

る人であったが、カトリックの厳格なポルトガルでは禁断の恋であった。この恋の

破局はモラエスの心に深い傷を残し、また姦通を犯したという罪の意識は、モラエ

スをカトリックから遠ざける一因にもなった。(p.459)

本書の前半(新田の執筆部分)ではイザベルは登場しない。新聞小説としては、

モラエスの初来日から書き始める方が効果的であろう。本書はモラエスの学術的研

究書ではないのだから、新田はイザベルを最初に登場させず、後で書こうと思った

のかも知れない。新田の急死により、本小説の新聞掲載は途中で中止になってしま

った。藤原はそのような事情で、本書の後半でイザベルの件を簡単に記載したので

あろう。イザベルの件の詳細は、本Ⅲの感想文で紹介する予定である。

モラエスがマカオで亜珍を現地妻にした件に関しては、不明な点が多い。結果的

には、娼婦を人身売買する業者から彼が彼女を購入したことになる。彼女を購入し

た経緯が、本書に書かれているように、(p.122)比較的良心的だったかどうかは不

明である。もし藤原が本件に関する資料を持っているなら、ぜひ公表して欲しい。

兎も角、彼のマカオ滞在の 10 年間は、彼女と家庭を持ち二人の息子に恵まれていた。

モラエスが日本に移る際に、彼は亜珍親子を伴わなかった。本書では、モラエス

は彼女に「一緒に日本に行こう」と誘ったが、亜珍は日本行きを頑なに拒んだこと

になっている。(p.223)それ以後は、亜珍は本書には登場しない。日本におけるモ

ラエスを描くことが目的である本書では、亜珍は無関係になったからであろう。し

かし、本Ⅲによれば、亜珍は神戸にも徳島にも来て、モラエスに正式な結婚を要求

したそうである。その詳細は、本Ⅲの感想文で紹介する予定である。

モラエスが福本ヨネに出会った経緯に関しては、諸説がある。この件に関する本

書の記述(p.149、p.159)は不自然ではあるが、真相が不明なのだから、小説とし

ては仕方ないと思う。本Ⅲでは、本書の「1900 年に、二人は神戸・生田神社で神前

結婚式を挙げた」との記載(p.333)に対して、批判的である。藤原に反論があれば、

ぜひ公表して欲しい。二人が出会った詳細は、本Ⅲの感想文で紹介する予定である。

本書はモラエスに次のように語らせている。「気品に満ちたおヨネはまさに芸術

だ。自らの美的感受性はおヨネにより、もっとも深く充足させられた。そしておヨ

ネの自分への献身的な奉仕と身の回りのことへの繊細な心遣いなどと合わせ、自分

はおヨネとの結婚によって初めて、イザベルによっても、亜珍によっても得られな

かった、いやそれまでの人生で一度も得られなかった精神のやすらぎを得てい

る。」(p.459)

ヨネとの結婚生活の時期が、モラエスの絶頂期であった。彼は領事としての公務

と日本紹介の文学活動に精励した。(p.337、p.508)1902 年から執筆していたポル

ト商報への「日本通信」が、この頃のモラエスの主たる文学活動だった。ポルト商

報の社主カルケージャの依頼で、日本の自然や風俗、日本人、日本の地理、歴史、

芸術、文化などに関する知識を文章にまとめるのは愉しみであった。彼は暇を見つ

けては、日本に関する内外の書を渉猟した。このような勉強を通して日本を一層理

解することが、「日本通信」ばかりではなく、これからの文学活動における宝物に

なった。(p.490)

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1905 年に、「日本通信」の最初の二年分が、海軍時代からの親友であったエッサ

とロドリゲスの手で「日本通信、戦前(1902-1904)」と銘打ち、ポルトで出版され

た。(p.492)予想もしなかったことに、この本が出版され、この本がポルトガルで

売れ行きがよかったので、モラエスは熱狂的に執筆を続けた。その結果、「日本通

信第二集、戦争の一年(1904-1905)」と「日本通信第三集、日本の生活(1905-

1906)」が刊行された。モラエスの作家としての大成は、カルケージャにより種を

蒔かれ、ヨネという土壌で育まれたものであった。(p.495)

ヨネが 1912 年に死亡した後、モラエスは永原デンと斉藤コハル(ヨネの姪)とも

男女の関係を持つことになる。(p.552、p.587)その詳細は、後で「徳島隠棲の経

緯」で説明する。

(3)神戸領事就任

本書によれば、1898 年6月モラエスが日本に出張していた時、マカオで人事異動

があった。彼はマカオ政庁港務副司令の職を解かれ、海軍省軍務局広報部付きを命

じられた。広報部付きというのは、一年後の退職を意味するポストであった。

(p.220)モラエスは、前任のマカオ総督フランシスコ・カストロからは信頼され、

阿片密輸取締長官と広東総領事も兼務していた。(p.111)しかし、新任のマカオ総

督ロドリゲスはなぜか彼に冷たかった。(p.133)

この人事は彼の自尊心を著しく傷つけるものであった。日本に大変興味を持って

いたモラエスは、マカオやポルトガルで引退生活を送るより、神戸領事になって日

本に滞在することを望んだ。日本に着任していたガリヤルド公使は、モラエスが神

戸領事に就任することに尽力してくれた。(p.220)

本書は、モラエスの神戸領事就任に対して、以上のような経緯を書いている。そ

れは、小説としてはドラマチックな展開で、大変おもしろかった。しかし、本Ⅲに

は事実関係として違ったことが書かれている。本Ⅲでは、カストロ総督もロドリゲ

ス総督も登場しない。問題の人事異動は 1897 年2月で、3月にはマカオ総督にガリ

ヤルドが任命された。マカオ総督は日本公使も兼任していた。ガリヤルドはマカオ

に着任して間もなく、来日して7月 14 日にモラエスとともに天皇皇后に謁見した。

ガリヤルドは7月 27 日に神戸を発って、8月5日にはマカオに帰着している。「本

書と本Ⅲでは、どちらが史実を正しく伝えているか?」との疑問に対しては、私は

答えを持たない。

(4)徳島隠棲の経緯

1910 年には、ヨネは寝床から起き上がれない日が多くなった。モラエスは、姉

の斉藤ユキとその長女コハルに旅費と謝礼を払って、何度か徳島から神戸に来ても

らうようになった。モラエスの看病も空しく、ヨネは 38 才で 1912 年8月 20 日に亡

くなった。ヨネの葬儀が終わった後、ユキは一人となったモラエスを心配して、コ

ハルを家事手伝いとして神戸において徳島に帰った。(p.552)コハルは 18 才の元

気な娘ざかりとなっていた。(p.544)

かけがえのないヨネを失ったモラエスは、コハルの世話の下でどうにか生きなが

らえているような状況だった。ヨネのしていた指輪を形見に貰ったコハルは、期待

に応えようと懸命に手伝った。「方丈記」などを読んでは嘆息ばかりついているモ

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ラエスを見て、友人のコートは転宅を勧めた。彼は「ヨネの思い出のつまった家に

居ては、もぬけの殻のようなモラエスは立ち直れない」と思った。(p.552)

六甲山開発の祖と呼ばれる英国人グルーム(1846-1918)は宮崎直を妻として

15 人の子供を儲けていた。(うち6人は早世)モラエス夫妻とグルーム夫妻は親密

な仲であった。直の手配で、モラエスはこれまでの山本通り二丁目からほど近い加

納町二丁目の堂々たる二階建ての日本屋敷に転居した。コハルはしばらくは手伝っ

ていたが、ある時、男友達との夜遊びをモラエスに厳しく咎められると、すねて徳

島に帰ってしまった。(p.552)

女中のいなくなったモラエスを心配した直は、健康で働き者ということで白羽の

矢を立てたのが永原デンであった。彼女は出雲生まれの 24 才で、男に騙されて家出

をして神戸に来ていた。彼女は男に捨てられて、職を転々としていたが、神戸の福

原遊郭で遊女として働いていた。そろそろこの仕事から足を洗って、故郷に帰って

身を固めて親孝行をしようと思っていた矢先、この話が耳に入ったのである。嫁入

り修行としてもよいし、給料が良かったので、彼女はこの話にすぐ応募したのであ

る。(p.552-554)

心身ともに憔悴し切ったモラエスにとっては、ヨネのような美しさや優雅さはな

いものの、健康溌剌としたデンはぽっかりと空いた胸の空洞をとりあえず埋めるの

に最適の人であった。間もなく、二人は寝室を共にするようになった。(p.554)な

お、本Ⅲには、二人の関係はヨネの生前からあったらしいと書かれている。

1913 年の2月、モラエスはマカオ生まれのコートと次のような会話をした。

モラエス「今、身の処し方を考えているのだ。」

コート「本国の革命にもかかわらず、あなたは先日には神戸・大阪総領事に昇格し、

イタリア領時と神戸筆頭領事も兼ねるなどの重職を立派に果たしているではないで

すか。作家としての不動の地位も築いたし、順風満帆、これまで通り公職と文筆を

続けることで、何かまずいことがあるのでしょうか?」

モラエス「故郷に帰ることも考えた。故郷が恋しいときもある。それに、私はポル

トガルを心から愛している。しかし、私にとってポルトガルはサウダーデ(孤愁)

の国になってしまった。戻るべき母国というより、遠くで想っては涙する国となっ

ているのだ。故国に帰っても家族は妹だけだし、友人達の多くは死んだり行方不明

になっている。帰国しても、私は異邦人にすぎない。それに、私の魂はもうすでに

日本に深く根を下ろしてしまった。実は、二、三年前からひそかに決心しているの

だ。私も今年で 59 才になる。日本流に言えば還暦だ。祖国のためにはもう十分義務

を果たしたと思う。そこで、領事職も軍籍も一切返上して、余生は静かに日本で暮

らしたい。」(p.552-554)

領事職と軍籍を返上することを決意したモラエスの次の最大の問題は、どこでど

のように隠棲するかであった。身体の衰えが目立ってきた自分を、誰に支えてもら

うか、誰に死に水を取ってもらうかが懸案であった。そのような時に、永原デンか

ら「私は出雲に帰ってタバコ屋を開きたいが、一緒に出雲に来ないか」との誘いが

あった。モラエスは「引退後の生活をそこでデンにみてもらうとすれば、懸案は一

遍に解決する」と思った。(p.559-560)

3月末、デンは二人の新居とタバコ屋を探すために出雲に発った。その翌週、徳

島の斉藤ユキから「いただいた大金で、徳島市の潮音寺にヨネの立派な墓が完成し

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たので、見に来て欲しい」との連絡があった。早速、モラエスは徳島に行った。彼

は福本家と斉藤家の人々と一緒にヨネの墓に参った。読経が終わり、皆が線香をあ

げ終わったとき、彼は「おヨネさん、一人で淋しいです。私が死んだら、ここに一

緒に入れて下さい」という言葉を思わず口に出してしまった。それに対して、福本

家の人々は良い返事をしなかった。(p.562-566)

その夜、ユキはモラエスが泊まっている志摩源旅館にきて、親類一同の不作法を

詫びた。彼女は「モラエスさんがどんな身分の方か、ヨネにどれほどのことをして

下さった方かも知らず、礼を欠く態度をとったことを親類一同に代わってお詫び申

し上げます。何分、学のない田舎者の他愛ない言葉としてお許し下さい」と言った。

(p.566)

ユキはさらに「もしよろしければ、徳島に来られませんか。コハルにモラエスさ

んの世話をさせます。まだ若いし、モラエスさんも三年以上前からコハルを知って

いますから、安心と思います」と誘った。彼女の夫の収入は少ない上に、酒や博打

に金を浪費していた。彼女は四人の子供を抱えて、モラエスから貰っていた様々な

謝礼が、家計の大きな助けとなっていた。ヨネの死とともにモラエスからの金が途

絶えたので、ユキは日雇いの仕事に出て、その日の食をつなぐ生活をしていた。

(p.567)

一足早く出雲に帰ったデンからは、「よい家が見つかったので早く出雲に来るよ

うに」との督促の手紙がしきりに来た。徳島のユキからも、「コハルが承諾した」

との手紙が来た。モラエスはディレンマに悩んで、持病の神経症が出てきて、夜は

眠れず、日中は激しい動悸に襲われた。(p.569)

モラエスはついに徳島へ行く決心をした。デンには長い謝罪の手紙を書いて、タ

バコ屋を開くための資金を送った。彼は「私と一緒に住んで面倒を見たいというデ

ンの言葉はありがたかった。その気持ちを私は踏みにじってしまった」と情けなく

思った。彼がデンとの約束を破ってまで、徳島へ行く決心をしたのは、やはり徳島

にヨネの墓があったからである。(p.571)

モラエスは「私はヨネに何もしてやれなかった。この罪滅ぼしを一生かけてしよ

う。ヨネの墓を守り、墓前でヨネと毎日話しをすることしか今は考えつかない。罪

滅ぼしというだけではなく、幸福になるためにそうしたいのだ」と思った。彼が徳

島を選んだ第二の理由は、彼が師と仰ぐラフカディオ・ハーン(1850-1904)が出雲

のことはよく書いていたからである。モラエスは「外国人が書いたことがない田舎

の徳島で、社交や儀礼から一切解放されて徳島の人々の中に溶け込んで、色々なこ

とを発見して発信したい」と考えたからである。(p.572-573)

(5)徳島のモラエス

1913 年7月に徳島市伊賀町の小さな長屋に移り住んだモラエスは、斉藤コハルを

家事手伝いに雇用した。彼は若くて元気なコハルに、老後の世話を託した。徳島移

住の直後のモラエスは「これから煩わしい人間相手ではなく、自然と対話し自然と

心を通わせながら生きて行ける」と歓喜に満たされた。(p.584)徳島で健康を回復

したモラエスはヨネの墓参や執筆に安定した日々を過ごした。(p.588)

好評裏に完結した「日本通信」の続きとして、モラエスはポルト商報のカルケー

ジャから、徳島の歴史、地理、風俗、生活などの記事を連載することを依頼された。

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彼は題名を「徳島の盆踊り」と決めていたので、徳島県内を精力的に歩きまわった。

鉄道が開通したばかりの池田町に行った。徳島の中心地の新町橋から天井の低い船

に三時間も揺られて撫養町に行き、そこからさらに鳴門海峡にも足を伸ばした。徳

島の郊外では、藤の名所である石井村・徳蔵寺や、海のリゾートとなっていた小松

島にも行った。(p.610)1916 年「徳島の盆踊り」がポルトで出版された。ポルト

ガルの舌筆鋭い評論家マルティンスは「傑作である!世界文学史上はじめて彼は日

本的文体を用いて完璧な散文を書くことに成功した」と絶賛した。(p.629)

モラエスは、徳島に来た直後にコハルと男女の仲になっていた。母のユキがそう

勧めたからである。モラエス 59 才、コハル 19 才であった。しかしモラエスの幸せ

は長く続かなかった。青年時代のモラエスのように、コハルには若い恋人がいた。

伊賀町のモラエスの家に住んでいたコハルは、夜しばしば姿を消した。2年間でコ

ハルは二回出産した。最初の子は生まれてすぐに亡くなったが、次の子は斉藤ユキ

夫妻の子供として届けられた。次の子は恋人の子供のようであった。なお、この子

は3才の時に事故で亡くなっている。(p.607-609、p.612、p.620)

二度の出産と育児に疲れたコハルは、1916 年の春に肺結核を発症し、モラエスの

懸命な看病も空しく、同年 10 月2日に死亡した(享年 23 才)。モラエスはヨネの

墓のとなりにコハルの墓も作った。(p.629-630)

一人残されたモラエスにとって、死者の霊を供養することで、「死者の霊による

加護が得られる」という日本人の先祖供養の考え方が逆に大きな支えとなった。カ

トリックをとうの昔に捨て、仏教や神道に強く共感しながらも、完全にはそれらに

没入できないでいたモラエスにとって、霊供養、そして死者に対する追念や追慕が

ますます大きな慰めとなった。彼の信奉する宗教は、仏教(慈悲、輪廻、因果応報、

所業無常など)と神道とを加えた祭壇に、サウダーデ(孤愁)を祀った新しい宗教

であった。(p.631)

モラエスのそれまでの作品は、日本の文化、歴史、地理、風俗、戦争などをモラ

エス独特の新鮮な切り口で解説するものであった。1923 年に、彼は母国の人々には

隠していた日本での妻ヨネと愛人コハルに関する短編集を「おヨネとコハル」とい

う題名で出版した。この本は彼の内的世界を書いた初めての作品だった。この作品

の愛と死に鋭く迫る内容の深さは、ポルトガル人読者に大きな感動を与えた。感動

を綴るファンレターがポルトガルから届きはじめると、モラエス自身さすがに嬉し

かった。母国の読書界ではモラエス・ブームが起きていたのである。(p.641)

コハルの死後は、モラエスは一人で生活をしていた。日本食を自分で作って食べ

ていた。斉藤ユキが時々手伝いに来たが、モラエスは彼女の金をせびる態度を嫌っ

て、出来る限り彼女を呼ばなかった。彼は時折、新町橋のたもとにある「市川精養

軒」に、人目につかないように閉店間際に行ってビフテキを食べた。(p.600、p.61

7)なお、1945 年7月4日未明の米軍空襲で、モラエスの愛した徳島の古い町並み

の大半が燃えてしまった。勿論、「市川精養軒」も、今はない。次ページの写真

8.9 に、1901 年に撮影された「市川精養軒」を示す。

1924 年、モラエスは 70 才となった。持病の腎臓病の他に、心臓弁膜症や糖尿病

も悪化していた。(p.646)コート夫妻がカルネイロ公使のお供で、徳島までやって

きた。公使は神戸での療養をしきりに勧めた。しかし、モラエスは「ここで死ぬこ

とに決めています」と言うばかりであった。(p.655)

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モラエスは 1929(昭和4)年7月1日に伊賀町の自宅で孤独死をとげた。享年 75

才。彼の葬儀は7月3日に行われ、遺体は火葬された。(カトリックでは土葬であ

るが、彼は遺体が腐って行ったり、ウジ虫がわくことを嫌った。)彼の遺骨はコハ

ルの墓に葬られた。モラエスとヨネとコハルの三人を祀った仏壇は慈雲庵に移され

た。(p.662)彼の死の詳細は、本Ⅱの感想文に紹介する予定である。

本Ⅱによると、モラエスの死後、預金が 23,500 円(現在の1億円くらい)もある

ことが分かった。当時の利息は6%くらいなので、モラエスは利息で十分に生活が

出来ていた。彼の遺言により、遺産は、永原デンに1万円、二人の息子に5千円ず

つ、仏壇の永代供養料として慈雲庵へ5百円、家の片付けに3千円(余れば、斉藤

ユキに)贈られた。亜珍には遺産が贈られなかった。

モラエスの家にあった膨大な資料は、徳島県立図書館に寄贈された。残念なこと

に、1945 年7月の米軍空襲で、徳島県立図書館は全焼し、モラエスの資料も失われ

た。戦後、焼け残ったモラエスの仏壇から、ヨネとコハルの写真を含む若干の資料

が見つかった。現在、これらの資料は「モラエス館」に展示されている。 (記載:2013 年8月 14 日)

なお、本書の誤植等を指摘しておきたい。 ➀p.204 の 1893 年(明治 26 年)は誤りで、正しくは 1889 年(明治 22 年)。

➁p.43 の「islands」の「s」は不要で、each の後に単数が来るのは受験英語の常識

である。

写真 8.9 1901 年に撮影された徳島の古い町並み。この写真は、新町橋から徳島駅

方向を撮影したものである。中央の通りが西横町で、現在ではワシントン椰子が並

ぶ道幅 50mの元町通りになっている。西横町通りの左側にある四階建ての日本家屋

が「市川精養軒」である。(義兄・上田博章のHPより転載)

なお、写真 8.1 の中央に見える「ヤシ並木のある大通り」が、「元町通り」とそれ

に続く「新町橋通り」である。