29
調 μ , . , φ : : : : : : 0 沿 - : . . . 5 7 , 9 0 . . , , , . ; : : 4 和州 : : U . 9 : : : : : : : 8 , , , 9 O 0 7 , . , σ φ : : O J : m 0 9 , , O , . O , , 9 , . : 1 O O O . 0 9 . O b 9 . , - 1 5 ` O , . O e O O O O , 9 9 O . O O , 7 . 2 0 9 . , O . . O . O . . , . , O O : : 2 6 , O 6 . 6 o O O , 9 , . 2 8

a...ê Í · û Å Í F ½ { v é Ì u F ê Ä ½ Ê Ì ½ ß î o à Æ µ É ð A Ì i õ F ö ä Ì ¼ O É ¨ ¯ F ½ Ì ¾ é q È É ¨ ¢ Ä î o Ç É A A ã { ð É z ½ Ì

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少和珂円成寺の縁起類の調査と翻刻

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寺の

池を

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『和州

忍辱山円成寺縁起

について

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『和州忍辱山本尊弥陀如

来霊応伝』

について

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『知恩院縁記』

について

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『円成寺伽藍宝物略縁記』

と『和州忍辱山円成寺略言志』

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翻刻0

『和州忍辱山円成寺縁起

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『和州忍辱山本尊弥陀如来霊応伝』

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『和州忍辱山円成寺略言志』

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28

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354

一一.4わs'鵤o'

A StudyoftheHistoriesofWashuEnjojiandtheirReproduction:

KazumasaHINATA

"Enj61iengi"(ThehlstoryofWashαNinnikuseilEnj6temple),"Wash且NinnikusenHonzon

MidanyoraiRei6den"(MiraculoussignsfromAmitabha,theprincipalimageofEngoji),`℃hion。in

Engi" (Theh童storyofChion-intemple)andsoon,havebeenhandeddowninEnl6jiinNara.They

have neverbeenstudiedyet.InthisessayIwouldliketoshowtheircontentsandthedatesofcompo一

sitions, andalsoreproduceeachhistory.

``Enj6jiEngi"statesthattheex -EmperorShomuaskedKoroOshotofoundthetempleinthe8th

yearof Tenpy6sh6h6(756).Accordingto董t,thetemplehadnotbeencalledEnjojiuntilSaintMyozen

(My6zenSh6nin)reconstructeditin出emid-eleventhcentury.

``EnjojiEngi"istheauthentichistoryofEnjojifromitsoriginuptothe17thcentury.Itiscom一

posed ofepisodesabouttheachievementsofprincipalpriests,forexample,Kor60sh6,whovisited

Japan withGanjin,andSa董ntMy6zen,whowastherestorerofthistemple.

"WashUNinnikusenHonzonMidanyoraiRei6den"dealswithgoodomensandresponsesfrom

Amitabha,theP血cipalimageofthetemple,tothefaithofsixteenpriestswhodevotedthemselvesto

theBuddhafromthe12thtothe13thcentury.Theemphasisthroughoutisverymuchonpraisingthe

priests' deepfaith.Thereareonlyafewepisodesinitthatemphasisethegoodomensorresonses

themselves.Bothof"Enj6jiengi"and``WashaNinnikusenHonzonMidanyoraiRei6den"werewrit一

tenearlyinthe17thcntury.

`℃hion -inengi"recordsthatMasterEik6(E三k6Ajari)senthisdisciplestoKoreatoaskfor

Tr星pitakaSutraandbringitbackinthelate15tllcentury.Itisimportantasoneoftherecordsof

relationsipbetweenKoreaandJapaninthisperiod.Itwascomposedinthemid-eighteencentury.・

一2一

Page 3: a...ê Í · û Å Í F ½ { v é Ì u F ê Ä ½ Ê Ì ½ ß î o à Æ µ É ð A Ì i õ F ö ä Ì ¼ O É ¨ ¯ F ½ Ì ¾ é q È É ¨ ¢ Ä î o Ç É A A ã { ð É z ½ Ì

和州円成寺の縁起類の調査と翻刻

本稿は奈良・

円成寺に伝わる『和

州忍辱山円成寺縁起』『和州忍辱山本尊弥陀如来霊応伝』『知恩院縁談』『円成寺伽藍宝物略縁譲』『和州忍辱山円成寺略言志』について、今まで未調査であったものなので、その内容や成立などを明らかにするとともに、各『縁起』を翻刻するものである。以下円成寺の沿革と各『縁起』について略記する。

寺庭園考

によれば昭和十七年頃に、

『大和名所図会』(二)

に見るのと同様の、つまり今日の復元された苑池と変わらない形態が保存されていたようである。清水氏は当時の苑池が「『大和名所図会』に見ゆる挿絵と目下地割上の差異は見られないから、少くとも江戸末期以降に於てはさしたる異動もなきものと思はれる」と記している(仲川明

森辰蔵編著『奈良叢記』

騒々

堂書店、

昭和十七年、

所収)。

清水論文

円成寺の苑池をめぐっ

には建物につ

て触れるとこ

ろがないか

ら、

その様子は

分からないが、苑池についていえば昭和十七年から二十年までの三、四年のうち

3一

奈良市街から柳生

に向う街道の山間に円成寺はひっそりと好む。

に一

気に荒廃

したということであろう。

戦争の影響というほかあるま

在の円成寺は境内の東側

に勧請縄が張られ、

そこを入ると直ぐ左側に浄土庭園が復元されている。だが、昭和二十年に晋山したという老住職田畑賢住氏によると、戦後も長らくこの苑池は県道が横切り庭園の面影はなかっただけでなく、苑池から階段を登った所にある楼門も、阿弥陀堂である本堂も荒れ放題であったという。本堂他の修理が昭和三十三年から文部省、奈良県教委などによって行なわれ、庭園は昭和五十、五十一年に森藩氏を中心に復元され、今日見るような優美な苑池に復旧できたという(奈良県教育委員会事務局文化財保存課『重要文化財円成寺本堂及楼門修理工事報告書』昭和三六年。田畑賢住「忍辱山円成寺沿革史」『大日如来奈良円成寺』毎日新聞社、一九九六年)。だが、そうした荒廃がいっからのことかというと、清水卓夫「円成

い。

ところで、

現在の境内と『大和名所図会』

とを比べ

て見るど、

現在は苑池の東端に勧請縄の張られた入り口があり、そこが山門代りになっているが、かつてはその東側に現在の境内とはほぼ同程度の寺域があり、そちらに裏門があって、裏門を入ってすぐ右手奥に『知恩院縁記』の知恩院があったことが知られる。表門は苑池の西側にあったが現在はない。また同『図会』で見ると、池には二つの中島があり、楼門に面した島は対岸から太鼓橋が掛かっていて、楼門に向う形になっている。現在橋はないが、近年まであったとのことである。その池のできたのは平安末期であろうと清水論文はいう。『円成寺縁起』によれば十二世紀末には迎講が行なわれたと見られるが、その

Page 4: a...ê Í · û Å Í F ½ { v é Ì u F ê Ä ½ Ê Ì ½ ß î o à Æ µ É ð A Ì i õ F ö ä Ì ¼ O É ¨ ¯ F ½ Ì ¾ é q È É ¨ ¢ Ä î o Ç É A A ã { ð É z ½ Ì

356

蕪麟1蕪繋懲懲馨塾攣

r大和名所図会』よリ。

左手前に表門、右端に裏門がある。裏門を入ってすぐ右手奥に知恩院がある。

円 七 興 あ が 多 上 寺 と そ 六 重 す の め 野 一 る と 蓬 め と 時

綴織難問 な ○ に の 覚 よ は と の い 年 摘 念 れ に 聖L理 式 一 て 掛が の 四 よ 聖 大 れ'忍 時 う(と を た 洗 俗 に 想 な 本 は か残 で ○ る 縦 師 ば 命 辱 に が 七 し 表Lひ 二 な 郷 半 庭 き るる'× 再 で)宇 禅 施 何'五 て 現 も 清 分 る た 池 は わ 橋

一4一

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が、

益信の円成寺についても少々

見ておく。

淑子と益信との出会いがいつかは判然としないが、

淑子が病悩の

益信の円成寺と

は、

尚侍藤

原淑

子が寛平元年(八八九)

の頃に東山

時、

益信の験を得て病が癒えたので、

淑子は椿ケ峰の西麓の家を寺に

の椿ケ峰の山麓にあった山荘を寺として、

益信を別当に迎えたのに始

した(『伊呂波字類抄』)

伝えられ、

『臼本紀略』

(寛平元年三

月二

まる。

この寺は淑子の夫藤原氏宗の終焉の地で、

淑子の発願によって

五口条)

には、

淑子が円成寺を建てたとある。

また

寛平九年(八九七)

「仁祠」

が建てられたが、

宇多天皇の時代に「尚侍

の付属たるによっ

の「願文」

には、

淑子が円成寺を宇多天皇の「聖慮」

によっ

て荘厳し

翻叡礪纈嚥嚇

て修造を加えしめ」

たので、

もっ

ぱら「御願」

に同じだといい、

この寺を益信に委ねて、宇多法皇によって伽藍は興隆したという(「太政官符」延喜六年九月十九日「応師資相伝令領知寺41雑務事」)。これが益信の円成寺の発祥であった。尚侍藤原淑子は延喜六年(九〇六)に六十九歳で嘉ずるが、その伝記については角田文衛氏の論に詳しい(「尚侍藤原淑子」『紫式部とその時代』角川書店、昭和四十一年所収)。それによれば彼女は二十三歳で従五位上掌侍に任じられて以来、麗ずる時まで典侍、尚侍として後宮を宰配したのみならず、兄基経による陽成天皇の廃位と光孝天皇の擁立、光孝崩御の直前における宇多の立太子などにおいて、基経に協力する一方では宇多の「養母」として、宇多即位のために基経を説

たこと、

霜油や僧坊衣鉢がなお乏しいので、

封戸五十姻を施入する旨を記す(「為尚侍藤原氏封戸施入円成寺願文」岩波大系本『菅家文革菅家後集』)。「聖慮による荘厳」とは宇多法皇の御願によって宝塔を起こし、定額寺とし、年分度者三人を贈ったことなどを指すと、川口久雄氏はいう(同上)。さらに延喜六年に淑子が麗じた直後に.寺の管理運営をめぐって、氏宗の孫の僧と益信の弟子との間で、誰が寺務を領知するかで議論が起っていたようであり、それに対して太政官符は、「益信の弟子と氏宗の苗商の中から、年膳是れ高く衆望躬に在る者を以て、彼此相定めて領知せしめよ」と下知している(上掲「太政官符」「応師資相伝令領知寺中雑務事」)。以上、円成寺の発祥の時期を中心に概観したが、この寺が尚侍藤原

5 

網和

伏せる

ほどの活躍をしたとい

う。

宇多が

位した直後の仁和三

年(八八七)十一刀、尚侍としては異例破格の従一位に叙せられたのは、宇多の感謝の現われであったという。一方、益信は出自は紀氏、幼少時に奈良の大安寺に入り出家。源仁により潅頂を受け、源仁の奏状により仁和三年阿閣梨、同四年権律

淑子、

益信、

宇多法皇とい

う三人の密接

な関係の中で出発したことが知られる。この円成寺は応仁元年(一四.六七)九月の合戦で南禅寺などとともに類焼し、以後再建されることはなかったが、『山城名勝志』巻十三には、応仁の乱後円成寺が和州忍辱山に移ったとある。しかし、この伝えば誤りであろう(角田文衛「円成寺」『平安時代史辞典』

師、

寛平二年(八九〇)

律師、

同四年権少僧

都、

同五年(八九三)

東寺長者、同六年東大寺別当(兼任)、同七年権大僧都、昌泰三年(九〇〇)僧正に任じられた。昌泰二年十月宇多上皇が仁和寺で出家した時、益信が御戒師を務め、延喜元年(九〇一)十二月東寺において益信が宇多法皇に潅頂を授けた(『仁和寺御伝』)というように、宇多法皇の信任を得ていたことが窺われる。

角川書店

平成七年)。奈良と京都の二つの

円成寺がその発祥

を異にしていること、

京都の円成寺が消滅する以前に、奈良の円成寺がその名前を名乗っていたことからして、京都の円成寺の移建説は成立しえない。しかし、『知恩院縁記』がいうような益信の聖跡だということにちなんで円成寺の名前が付けられたとの寺名の由来説ば移建説とは別である。真偽のほど

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は不明であるが、

円成寺中興の命禅

上人が仁和寺

の寛空阿閣梨に教えを受けた僧であること、両寺がともに仁和寺の末寺である点で、命禅が益信にちなんで格式の高い京都の円成寺を借名した可能性はある。三『和州忍辱山円成寺縁起』について今回調査した縁起は『和州忍辱山円成寺縁起』『和州忍辱山本尊弥陀如来霊応伝』『知恩院縁譲』『円成寺伽藍宝物略縁談』『和州忍辱山円成寺略言志』である。(以下、前二者はそれぞれ『円成寺縁起』『霊応伝』と略記する。)はじめに『円成寺縁起』に触れる。『円成寺縁起』は巻子本一巻、天地三四・五㎝、前長一三六五・五㎝。なお内閣文庫に『大和国添上

、ミ

》`翠鎗写.

`

i

,

撚剣難

纏湖

璽襟鋸

鎌離

職^

透で真言文

童翫

郡忍辱由縁記

』(外題)

として、

『円成寺縁起』

と『霊応伝』

が合冊で

収められている。

その末文には「明治十年一

月巡回之節謄写

内務

人による律橦

再興と如法経書

写のこと、

迎接会は摂州四天王寺の弥陀

6

御用掛従六位岡谷繁

実」

の記載がある。

但し内閣文庫本はすべて漢字

の立像や二十五の菩薩面などを譲り受けて、

後白河院の建久年間に始

カタカナ交じり

文である。

「給」

を「行」

に誤

読するなどのことがあ

まっ

たとい

う由

来とその会式

のこと、

法蔵

僧都と冥府入りのこと、

るが、

概して正確な写しである。

また東京大学史料編纂所には『円成

尊弥陀如来の霊応が支那国に感応

したこと、

栄弘阿閣梨によって明国

寺縁起

秋篠寺

縁起」

(外題)一

冊がある。

内題は「和州忍辱山円成寺

から大蔵経や千手観音などが将来

されたこと、

重慶阿閣梨の往生決定

縁起」

とあり、

その

末尾

には次のようにある。

の符印に関する冥府伝説及び鬼が重慶を慕ったことなどである。

「右円成寺

縁起

大和国添上郡忍辱山村円成寺蔵本

明治十九年十

これらの記事の中で興味を引くのは迎接会に関する記事

で、

四天王

月修史局編修星野恒採訪二十一

年一

月影写了」。

これは原典

の美麗

寺で迎接会のための仏菩薩の法衣や宝冠理

路などを新調するので、

「影

写」

本である。

物を後白河院の勅許を得て譲り受けたということ、

その会式が池上に

『円成寺縁起

は円成寺の正

伝といっ

てよい

ものである。

その概略

長橋を東西に渡

して、

橋の東の隅に娑婆屋を構え、

橋の西から弥陀、

は聖武天皇の御願により、

鑑真に従っ

て来朝した虚瀧和尚によっ

て創

観音、

勢至以下

の聖衆が来迎するというのであり、

その間境内には幡

建されたという由来に始まり、

中興の祖命

禅上人のこと、

本尊弥陀如

蓋が垂れ、

弦の響きが雷のごとくであっ

たとい

う。

これは今日調査

来が定期作で元は藤原道長の法成寺の本尊

であったとの由来と、

迎接

確認されている迎講の中でも形式のよく整った事例であることを伺わ

上人経源

の俵、

寛遍

僧正によっ

て真言の一

流派となっ

たこ

と、

実範上

せる。

特に池に長橋を渡したという舞台

設定は特色あるものであり、

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今日分かっ

ている迎講の中で、

寛喜元年(一

二九)

に行われた三

慶阿

閣梨と二

話あるが、

これらは類型的なものといっ

てよい。

海岸

における海上の迎講のような例もある(『吾妻

鏡』

巻二十七、

,

ところで、

本縁起

は開創

の由来か

ら歴代の十人の僧伝について、

年二

月廿一

日条)

が、

池に

橋を

渡して

舞台と

した例はない

ようで

の生存時期、

特に没年を具体的に記すので、

それに誤りがなければ

る。

れは迎講に「二

河白道」

観念が重なっ

たのではないかと思われ

『円成寺縁

起』

の記事の年代は天平勝宝八年(七五六)

の開創から、

る。

たとえば当麻寺の迎講では曼茶羅堂から真直

ぐ娑婆

堂に向かって

慶重

阿閣梨の

没年の慶長十七年(一

六一

二)

までのこととなる。

成立

橋を渡すが、

曼茶

羅堂の手前に左右に小さな四角い池があって、

橋は

時期

は慶長十七年以

後となるが、

いっかは分からない。

但し『知恩

池に

挟まれる形になる。

端的にい

えば池は「二

河」

を象徴し、

橋は「白

縁記

には『円

成寺

縁起』

を「暗で書く」

とい

う類の注記があり、

『知

道」

を意味すると考えられる。

迎講が元来聖衆来

迎の具体化であった

恩院縁記』

成立は寛政元年(一

七八九)

なので、

『円成寺縁起』

とすれば、

当麻寺の迎講は「二河白道」

観念が投影した形であるよう

成立を慶長十七年からそう遠く遅らせる必要もないであろう。

に思われる。

池に長橋を渡したという円成寺の

迎講は、

さらに「二

『円成寺縁起』

年表

にすると、

次のようになる。

白道」

観念を明確に示すものと思われる。

それがいつ

絶えたのか、

天平勝宝六年(七五四)

鑑真とともに虚瀧来

のくらいの期間行なわれたのかも分からないのは残念だが、

本縁起の

天平勝宝八年(七五六)

聖武上皇崩、

御願により虚瀧開創

成立時期にはまだ菩薩の持ち物は残っ

ていたという。

現在はその類の

天平神

護二年(七六六)

虚瀧没

類起

物は一

切伝わらない。

安和二年(九六九)

法蔵没

7

また本尊弥

陀如

来が定期作

で元は道長の法成寺の本尊であったとい

万寿三年(一

〇二六)

命禅円成寺を再興

うが、

その通りであるとすれば、

この弥陀如

来は法成寺の阿弥陀堂の

長久元年(一

〇四〇)

命禅没

九体の阿弥陀

仏のうちの一

つであっ

たとい

うこ

とになる。

法成寺は中

天永三年(

=一

二)

経源、

本尊阿弥陀

を法成寺より移す

央の池を囲んで東に薬師堂、

五大堂などがあり、

西に阿弥陀堂、

北に

保安四年(

=

ご三)

経源没

金堂があった。

興味深い記事である。

ちなみに円成寺多宝塔の大日如

仁平三年(一一

五三)

寛遍高野山詣

米座縁については、『円成寺縁

起』

第六「当山迎摂会来

由の事」

に後

仁安三年(一一

六八)

寛遍没

白河院が運慶に命じて大日如来を作らせたとあり、

大正十、

十一

年の

建久年中(一一

九〇~

=

九八)

四天王寺から迎講の弥陀

立像、

解体

修理で運慶作

を示す自筆

の銘文が発見され、

平成五年に国宝指定

薩面などを譲り受ける。

本尊

弥陀

支那国に

された。

弥陀如来

縁も同時期に調査されたが、

定期作を示すようなも

霊応あり。

のはなかっ

たらしい

(上掲、

田畑賢住「忍辱山円成寺沿革史」)。

『円

文明九年(一

四七七)

栄弘没

成寺縁起

の大日如来運

慶作の記事が事実であったことからすれば、

文明年中(一

四六九-

四八六)

栄弘弟子を支那国に派遣

し大蔵

弥陀

如来

が法成寺の阿弥

陀堂のものであったという伝えも信悪性をも

他を将来(『知恩院縁記』

では支那ではな

つことになろうかと思う。

その他、

冥府

に関する伝承が法蔵僧都、

く朝鮮、

時期も文明十三

-十四年)

Page 8: a...ê Í · û Å Í F ½ { v é Ì u F ê Ä ½ Ê Ì ½ ß î o à Æ µ É ð A Ì i õ F ö ä Ì ¼ O É ¨ ¯ F ½ Ì ¾ é q È É ¨ ¢ Ä î o Ç É A A ã { ð É z ½ Ì

慶長年中(}

五九六

-…

六一

四)

家康大蔵経を請い、

円成寺に百五

石を給う

由慶

七な十

(一

六一

二)

重購媒

没 .

『和州忍辱山本尊

弥陀如来霊応伝』

について

馬瀬

-

蓬.

『和州

忍辱山

奢弥陀如来

霊応伝』

は巻子

巻・

天地三四・

五c・・

論噸

3

全長一

四一

六・

五㎝。

右に触れたように内閣文庫に『円成

寺縁起』

...

ー、

寧-

合冊の写しがあるが、

東京大学

轟編纂

所にも『円成寺弥

襲皿

応記』

誌 .セ

隷鎌

撫補

綴.饗端

脚繍麟

騰鱗

 麟

+

'

.、

.、.

、跳

即謬

.…

る。

勲騒騒圏

溝辮駒

鱗諜端

縫勧懲

没した義弁まで、

=

四年間の時期

の僧たちの話である。

清尊

の生年

Page 9: a...ê Í · û Å Í F ½ { v é Ì u F ê Ä ½ Ê Ì ½ ß î o à Æ µ É ð A Ì i õ F ö ä Ì ¼ O É ¨ ¯ F ½ Ì ¾ é q È É ¨ ¢ Ä î o Ç É A A ã { ð É z ½ Ì

が一

〇四三

年であるから、

それから数えると義

弁の没年

までちょ

うど

灸「

,,ぎ

孕ヂ

.雪

『階雪月.

3

蝿…門

棚配備類

二百年間のこととなる。

生存時期の明らかでない

他の六人の僧たちも同期間の人々と考えてよいであろう。この『霊応伝』について、末尾の文で「古伝」には四十人の記事があった中から十六人を選んだとあり、また経源、寛遍、妙智、栄弘、重慶の伝は「別巻の縁起」にあるから省いたというが、「別巻の縁起」は『円成寺縁起』であろう。『円成寺縁起』第三「中興本尊弥陀如来の縁起」にも、この弥陀の霊応を讃える記事の後に、「其余の霊験別巻に見え侍り」とある。この「別巻」は『霊応伝』を指すことは間違いない。これらの記事から『霊応伝』の成立は『円成寺縁起』成立の直後、ほぼ同時期と考えられる。加えて『円成寺縁起』と『霊応伝』とは明らかに同一人の筆跡と見なされるからである。『霊応伝』も『円成寺縁起』の成立した慶長十七年直後の時期に成立したと考えられ

 

'

4。落

鯨% .

,∵更訂魂毒犀毒筆葡琶4

汽逆

毛帝

寝毒

禦麟

ゑ権

ち矛

3早

あを

微霧

鮮方

響、

驚難熱

熱、

氏..

島蔑

[

る。

方、

「古伝」

の存在の信悪性には疑問が

ない

わけではないが、

9

『霊応伝』

が『円成寺縁起』

と同時期の成立であるとすれば、

『霊応伝』

雪辱

…、尊

∬略ゐ

陰.

撃3雪

糞噂

鯖網和

の内容が

十二、

三世紀に限られている点で、

何らかの「古伝」

の資料があったと考えてよいと思われる。ただその「古伝」資料がはたして四十人の伝を記すものであったかどうかは分からない。

.

{㍉

7拶ゑ

漁協%

峯ム

一}

義瓢禦

61

知恩

院撮

記』

につ

て『知恩院撮記』は巻子本三巻、上巻、

天地三一

㎝、

全長五一

八.

五c皿、中巻、天地三一㎝、全長五四八・五㎝、下巻、天地三一㎝、全長五〇五㎝。挿し絵が上巻に三図、中巻に四図、下巻に二図あるが、中巻の二図のみ白描で、その他はすべて彩色してある。上下巻ともに末尾に「昭和三十四年八月表装了円成寺住職田畑賢住」とあるが、中巻は同年「七月」となっている。書体は判読しにくい箇所がいくつかあ

辮難

磁、

騨麟灘 「-

-

船脚

3

Page 10: a...ê Í · û Å Í F ½ { v é Ì u F ê Ä ½ Ê Ì ½ ß î o à Æ µ É ð A Ì i õ F ö ä Ì ¼ O É ¨ ¯ F ½ Ì ¾ é q È É ¨ ¢ Ä î o Ç É A A ã { ð É z ½ Ì

り、

また同一

人物の名前が

連舜、

鶴舞と異なるとか、

巻序の

記載が「巻上」と始まりながら「巻二」「巻三」となるなど、雑な記載がある。また、下巻末に「仏像記」の一文が付載される。冒頭に著者良助の寛政元年(一七八九)七月の「自序」があり、成立は明らかである。序文は栄弘阿閣梨が弟子を高麗に遣わして三蔵経を請来した由来を後世に伝えるためであるという。その故は良助が先師の故宅の槙壁の中に詩経渡海記という古文二十有余紙を発見したが、それが錯乱紛々たるものであったのを、他の資料と合わせて概要

巻三は「詩経由来」

のタイトルがあるように、

栄弘は常に三蔵経を歴覧していたが、それが灰儘となったことを悲しみ求得したいと念じて、大和管領を通して朝廷に奏聞し渡韓の牒を得て、二人の弟子を朝鮮に派遣したこと、二弟子は歎難の旅を続けたが、文明十三年(一四八一)閏七月古新羅という浜に着き、十月都府に入ったこと、康靖王が諸経の法師の来たことに感激し、大蔵経の高句麗の原本の他千手大悲像などを賜わったこと、二弟子は心から喜び謝して帰途につき文明十四年二月に釜山浦に着くが、嵐が止まず、海浜に大般若経を謁議し

を得たので、

それを補綴して『知恩院縁記』

名付

けたというのである。

て順風を祈っ

たことなどが記される(以上中巻)。ようやく天候も落着いて同年五月に泉州潟の浦

帰着

七月知恩院

本文の内容は巻上が円成寺の略史であるが、

『円成寺

縁起』

で触れられない記事があって興味深い。たとえば円成寺という寺名について、延喜の頃宇多上皇の潅頂の師で、京都東山の円成寺にいた益信僧正がこの忍辱山に止宿して喩伽の三昧に入ったことがあり、益信はその後京都に帰ったが、その聖縦であるということから命禅上人が円成

に帰り、

大蔵

経を持ち帰った由を大和管領に申し、

朝廷からは国家法護の為宝庫に納め伝課すべしとの指示があった。この大役を果たし

た栄助は栄弘の伝灯を継いで知恩院二世の住職となり、その往生の時には聖衆来迎の円形があった(以上下巻)。なおこの時の航海記録であるコ一合船日記』の断簡が残っている。

[

10一

寺と号したとい

う。

まり命禅が万寿三

年(一

〇二六)

円成寺

を再興した時に、その名前がついたというのである。あるいはまた仁和寺の

『円成寺伽藍宝物略縁記』

と『和州忍辱山円成寺略

寛遍大僧正がこの地に止まり、

草庭を払い鏡池

を掘って広沢の法水を

言志』

使えたという。『円成寺縁起』

にはこれら益信や銀地の記事はない。この綾地はあるいは現在の浄土庭園の起こりかもしれないと思われるが、上掲清水論文は寛遍による鏡池築造説は附会の説であるとして、地割法からして平安末期作庭の池として命禅によって作られ、寛遍によって修築されたものではないかという。毛越寺庭園、浄瑠璃寺庭園と軌を一にする地割法であるという。

『円成寺伽藍宝物略縁起』

は内閣文庫本であるが、

外題は『大和国添上郡忍辱山路縁記』とあり、内題は「大和国添上郡忍辱山村円成寺伽藍宝物略縁記」とある。内容は内題のとおり伽藍や宝物についての記録一覧と、慶長七年と慶長十六年に徳川家康から合せて二百三十五石を賜わったことの記事である。成立時期は不明。なおこれは円成寺

以下、

巻二

では知恩院が文正二

年(一

四六七)

の頃、

凶賊のために伽藍坊舎が羅災したことを、栄弘阿閣梨が嘆いて再建に奔走し、まもなく再建したことを記す(以上上巻)。

には原本がない。『和州忍辱山円

成寺略言志』

は外題は単に『略言志』

とのみあり、内題に「和州忍辱山円成寺略言志」とある。袋綴じ十三葉、天地十一

Page 11: a...ê Í · û Å Í F ½ { v é Ì u F ê Ä ½ Ê Ì ½ ß î o à Æ µ É ð A Ì i õ F ö ä Ì ¼ O É ¨ ¯ F ½ Ì ¾ é q È É ¨ ¢ Ä î o Ç É A A ã { ð É z ½ Ì

一,

翻刻

P

O

原文には句読点や段落はないが、

適宜句読点を補い段落を設け

た。

9

稀に

送り仮

名を補っ

箇所、

また脱

字を

補っ

箇所などがある

が、

その場

合には()

を付けた。

濁音

の表記は原文のままとした。

老麺

{一

盛㌦、

一、

.翻∴和帰塁辱内裂寺黒

垂ρ

蓄旛

美童

葱冬蘇

轟チ

・す

愈歳

む馨

忌、

か裁

礎叢

迄含

蓄銃

`

'

;

黒丸懐

霧驚黍

旧字、

略字、

異体字は通行の漢字に改めた。

Nや

くはそれぞれ直前の仮名に直した。

書き癖や衛字

と見なされる箇所で原文の表記のとおりにした場合

ママ

には、

ママ

とルビを付した。

例えば「縁起」

を「縁記

表記し

一ている場合などである。11一判読できなかった字は□とした。…e『和州忍辱山円成寺縁起』

ξ

当山開創井

本尊観世音の縁起附開山虚瀧和尚の伝

四㎝、

幅十五㎝の小冊

子である。

内容

は当山が聖武天皇の勅願になり、帝の崩御の時から今享保四年まで九六四年に及ぶとあり、それま

当山中興の事附

中興命禅

上人の伝一中興本尊弥陀如来井念仏会来由の

事附経源上人の伝一当山を以て真言の一流と称する事附寛遍僧正の伝

での主要な寺史の概略である。

成立は本文中

に「享保四年まで何年に

恒例如法

経書写来由の事附実範上人の伝、

及ぶL

という記事が

頻出するので、

の年(一

七一

九)

の成立と見て

当山迎摂

会来

由の事

い。

法藏僧都

袈裟

の来由開法藏

僧都の伝

当山本尊

弥陀

の霊応支那国に感せしむる事附

妙智居士の伝

当山大蔵経来

由の事附

栄弘阿閣

梨の伝

Page 12: a...ê Í · û Å Í F ½ { v é Ì u F ê Ä ½ Ê Ì ½ ß î o à Æ µ É ð A Ì i õ F ö ä Ì ¼ O É ¨ ¯ F ½ Ì ¾ é q È É ¨ ¢ Ä î o Ç É A A ã { ð É z ½ Ì

重慶阿閣梨符

印の来由附重慶阿閣

梨の伝

輪寺

に住す。

万寿三年、

諸の梵刹を経歴して聖像を礼謁するに、

偶当山にいたる。山岳幽遠にして林樹梢しけり、禅観の便りあなれは、錫

第一

当山開創井

本尊観世音縁起附開山虚瀧和尚の伝大和州添上郡忍辱山円成寺は第四十

五世襲武帝の御願、

天平勝宝第

をここにとと

め、

本尊十一

面大悲の像につかへ

奉り、

梵行

いささか欠る事なくて、第六十九世後朱雀院の御宇、長久元年二月入日に入滅。世寿七+八、滋強若干。

八丙甲年開創する処也。

本尊十

面観世音菩薩

の像は大唐の仏工稽文会、稽主動か作る所なり。妙手の彫刻なれは宛も生身に向ふかことし。朝野の敬信、日ををひ年をかさねて、いとあらたなる霊像になんましましける。されはにや一膿一禮の値遇に依て、諸の危難をまぬかるる者あけてかそふへからす。開山虚瀧和尚は聖武の御宇、鑑真律師来朝し給へる時ともなひき給へりける。此山の絶境をあまなひて、伽藍を建立し律瞳をたてて四衆を度す。錫を留る事十有三歳、化縁尽て第四十八世称徳帝、天平神護二年丙午五月十日に示寂す。其後若干の星霜を経ぬれは、伽藍僧舎等も頽敗に及むて、さはかりの霊場かたはかりそ残れりける。

第三

中興本尊弥陀

如来の縁起井念

仏会の来由の事附経源上人の伝当山中興の本尊弥陀善逝の嫁は、仏工定朝法橋か作る

所なり。

元は是北京法成寺の本尊、御堂関白道長公命して作らしめ給ふ。御たけ坐像四尺、妙容端厳威霊魏々たり。然るにかの寺世移り時変して、伽藍等も朽損し、仏像も霜露にをかされぬへく成侍りける。ゆへ有て命禅上人遷化の後八十七年を経て、第七十四世鳥羽院の御宇、天永三年壬辰、当国小田原の院主迎接上人、此山に移して本尊と崇め奉る。毎月十五日小田原より此山に詣で、本堂において往生講一座を修し、阿弥陀経六巻を読奉る。凡弥陀の悲願は余尊にこえて利益を群機にかふむ

一12一

第二

当山中興の事附中興命禅上人

の伝かくて後数百年を経て第六十

八世後

条院の御宇、

万寿三丙寅年、命禅上人再興して大伽藍を建立し、仏菩薩の像を厳節す。農鐘夕梵山川に響徹し、大士の霊応もむかしにいやまさりて、綱索貴賎都鄙遠近となく、険難の労を忘れて、参詣の輩四時に怠らす。謂つへし、法は人に依ておこると。、金神上人、俗姓は小野春晴の息なり。妙令にして薙髪し、大安寺に捜して相宗を学ひ、後に仁和寺の寛空阿閣梨に従て鍮伽の密旨をうけ、其余の顕密の教法悉く修学し、持律巌壁にして声名を四方に播す。常に観世音につかへてはなはたつとめ侍る。嘗て当国三輪の大御

らしめ給ふ。

されは

牟尼世尊一

代説経滅後の諸大士、

国諸宗の賢哲、讃歎挙揚せすといふ事なし。わきて此本尊は霊応日々にあらたにして、むかしょり今に至るまて王后卿相より庶人の道俗に及ふまて、現当の利益を蒙る事枚挙するにいとまあらす。或は異域に妙応をあらはし、或はいまた此山の名をたにしらぬも夢に慰して来て敬礼す。共糸の霊験別巻に見え侍り。迎接上人、名は経源、洛京の人なり。初興福寺にをり、相宗を学ひ後に小田原の蘭若に住して密法を修す。暮年微疾にそみ門弟子に語て云く、我三日の後まさに往生すへしと。それより毎日沐浴し臨終のまうけにとて、みつから製する所の紙服を着て本尊弥陀に向ふ。門弟子等問て云く、平生勤修区々たる中、何れの行業をもて往生浄土の正因

Page 13: a...ê Í · û Å Í F ½ { v é Ì u F ê Ä ½ Ê Ì ½ ß î o à Æ µ É ð A Ì i õ F ö ä Ì ¼ O É ¨ ¯ F ½ Ì ¾ é q È É ¨ ¢ Ä î o Ç É A A ã { ð É z ½ Ì

とする。

答て曰く、

我毎月十五日小田原の蘭若

より此山に登り勤修供

座、

尊勝陀羅

尼一

千遍、

宝筐印陀羅尼経一

巻、

趣経六巻、

法華経一

養する事、

凡十二年寒

暑風雨といへとも疲厭せす。

此精進の行業をも

品、

阿弥陀

名号一

千遍なり。

或は一

万日を期とし不動尊

の護摩を修

て僅に往生の

因とすと語り終て、

掲をとなへ

て云く、

仏名聞十方、

す。

其後隠遁の素志

ふかく、

又は遠境に在て其任

にたへされは、

護持

純益衆生、

切具善根

以助無上心、

と弥陀の

宝号を唱へ、

宝印を結

僧職を

辞すといへ

とも、

勅許なけれはやむことをえす湿て、

洛陽東山

ひ安祥にして

逝す。

日を経て印相の辛いささか傾かす。

容顔いけるかことし。口より香気を出すに、其薫芳沈檀も及ふへからす。閨維の

に一

宇の精舎を建立し、

新忍辱山と号して移り住給ふとなん古伝に記し侍る。今年代とにへたたりて其伽藍の基趾を求るに、それさへ分明

時に至て、

西方の雲間に三十人はかりの声にて

称名

の声洋々

たり。

ならす。

示寂は第七十九世六条院の御宇、

仁安

年六月晦日なり。

衆聞て近地を見るにあへて人なし。

世寿八十五歳、

第七十四世鳥羽院

年六十七歳。

の御宇、

保安四年癸卯四月十日なり。

其後五百余歳の星霜をふれと

も、

毎年三月七昼夜不断念佛供養の大会、

退転なく勤修

し侍る。

其規

第五

恒例如法経書写の事

則別に記せり。

附実範上人の伝

当山において如法経を書写七奉る事は、

中川の実範上人より権輿せ

第四

当山を以て真言の一

流と称する事

り。

上人諸宗を捜索する中に、

われて律瞳の傾頽するをなけき、

開山

附寛遍僧

正の伝、

虚瀧和尚、

中興命禅

大徳遺法の

律をしたへ

とも、

まさしき師承なし。

13

当山を以て真言の一

流とする事は、

仁和寺前大僧正寛遍、

真澄膓

凡戒は伝授を

たつとふ。

我精究

すといへ

ともいかんかせむ。

師承なき

り。

第七十六世近衛院の御宇、

仁平三年僧正高野山に詣給ふ。

年ごろ

事を一

夕夢らく、

招提寺より銅箆をもて清水を中川に

通すと。

覧て思

隠遁の心さしおはしませは、

大師の塔畔

に在て往生浄土の業を修し、

ふに、

最好相なれは、

つとめて

招提寺に赴く。

此寺鑑真律

師入滅の後

海田弥陀尊

の護摩を修す。

時に霊夢を感して当山に来り、

本尊阿弥陀

数百年の寒暑をへ

て、

堂舎敗壊し僧衆をらす。

封彊半は田疇と成て、

如来を謄礼するに、

敬信心肝に銘して此世なからに楽邦にいたるかこ

人の

禿丁牛を挽て田を耕すを

見る。

上人間て云く、

此寺

に比丘なし

とし。

すなはち錫を此所にととめて、

大に密法

を弘め広沢六流の一

や。

答て云、

我儘和金からすといへ

とも、

往昔少

かりし時、

四分戒本

を起す。

是よりつたへ

て忍辱山の一

流となん名

付侍

りける。

をきくと。

人希有の想をなし、

やかて禿丁に請て授法を求む。

黎を

僧正は村上天皇第七皇子、

後中書玉具平親王の孫、

前大納言

源師忠

捨、

牛を放て、

吠水に

手を

洗ひ、

影堂の中にむか

ひ親しく戒法を

卿の息なり。

嘗て仁和寺成就院寛助大僧正の室に入、

三密の余流を汲、五智の法水を湛へ、乗戒無急にして顕密兼備の大導師になんまし

く。

上人すてに戒伝をえ、

中川寺に

帰り、

律講をひらき鵜磨を行ふ。是より戒法再ひ起る。又国家安泰利益衆生の為に、当山において新に

ましける。

鳥羽院の御宇

勒して東大寺の別当に任し、

又東寺

の長者

道場を建立し、

如法経を書写し、

十種供養

の軌則をととのへ

て、

となる。

護持僧の随一

なれは宝酢長久国家安寧の祈願をなし給ふに、

日を限り勤修し侍る。

今に至り

恒例と

成て

怠る事なくつ

とめ侍りけ

効験最上古の名徳にもをさをさ劣らす。

毎日所作の業、一

字金輪法一

,

る。

Page 14: a...ê Í · û Å Í F ½ { v é Ì u F ê Ä ½ Ê Ì ½ ß î o à Æ µ É ð A Ì i õ F ö ä Ì ¼ O É ¨ ¯ F ½ Ì ¾ é q È É ¨ ¢ Ä î o Ç É A A ã { ð É z ½ Ì

上人俗姓

は藤氏、

諫議大

夫顕実卿の子なり。

薙染の後興福寺にて相

ママ

第七

法蔵僧都袈裟の来由の事

宗を学び、

醍醐

に至り厳覚

に従って密法をうく。

又横川の明賢大徳の

附法蔵僧都の伝

許に行て台数を学ふ。

嘗て当山に在て花をとるついて、

中川の山に至

当山の什物、

法蔵僧都欝

多羅僧の袈裟

は、

旧東大寺の什物

なり。

り霊地勝絶

なるを見て、

官にうたへ

伽藍を建立

して成身院と名づ

く。

山観音院の住侶重慶阿闇梨は、

東大寺金

蔵院重祐阿閣梨

の弟子なり。

諸方

に化をさかんにして、

後に光明山に移りて

終をとる。

述作する所

此袈裟井に恵果和尚の阿字等を伝へて、

師資

伝法相承のしるしとす。

の大経要義七巻、

大に世に行はる。

法蔵むかし東大寺に在し時、

天帝釈の請に応して喜見城にいたり、

瑠璃観自在

菩薩の像を慶讃す。

の時、

帝釈にごふて

冥府

に入、

亡母

第六

当山迎接会来由の事

の受苦逼迫せるを見て悲しみに湛す、

妙法華を書写し、

冥福を追臆し

往古

当山に迎接会といへる法事.有。

此会式は往昔より摂州四天王寺

侍れば、

其功徳に依て忽苦趣

を離れて功利天に生す。

然れば此袈裟、

になん修し

来れりける。

第七十七代後

白河院の

御宇、

建久年中、

当山

正しく天宮

冥府を経歴する幕明らけきをや。

法蔵僧都は寛救に従て唯

に浮間房と云人あり。

元興福寺浮身

院の主たり。

奏して云く、

今天王

識の旨をうけ、

論を

延倣に学ひ、

密灌

を定助にうく。

村上天皇詔し

寺にある所の仏菩薩の法衣瓢敵艦

艶』構賦

物盈

撤抱

擁、

宝冠要略等

新に作りか

て東大寺に居し

む。

天徳四年、

維摩の講師となる。

冷泉院の

御宇

て、

旧きをもて当山に寄附し給へ

と。

即勅許有

て当山に賜ふ。

是に

和二

年正月三日示寂す。

依て此会式

を設る事になん成侍りける。

常本より当山の本尊

弥陀如来

14

を信敬

せさせ給ひ、

幡蓋葦登等

の仏具を寄附して仏を荘厳し給ふ。

第八

当山本尊弥陀の霊応支那国に感せしむる事

仏工運慶におほせて金剛界の大日如来を造らしめ、

当山に安置し、

本邦

第八十二世後鳥羽院の御宇、

建久年

間、

支那国に大乗信解

の優

は仏舎利井

に多宝の金塔を寄附

せさせましましける。

婆塞あ

り。

妙智居

士といふ。

常に浄土の業を修する事、

王日休にもは

抑此会式

の規則は、

其日にあたりて長橋を上院の池上に架し、

東西

ちす。

夕夢中に一

倍傍に有て告ていはく、

汝安養の往生

を遂て

弥陀

にわたし、

橋の東の隅に娑婆屋をかまへ、

橋の

西より来迎の相をなし

を見奉

らまほしく思はは、

大日本国大和州忍辱山に至て彼寺の本尊無

て、

本師弥陀観音勢

至、

諸の聖衆悉

く相従ふ。

幡蓋の影、

雲のことく

量寿尊

を拝し

奉れと。

居士夢さめて、

いとたうとく願望成就する心ち

にして林相にたれ、

糸竹の響、

雷のことくにし

て山谷に聞ゆ。

鳥声も

して、

その波濤を淡き北山に詣で謄和するに、

さなから生身の弥陀に

をのつから和して、

雅音耳にそひえたり。

此勝

縁にあっかる人は往生

値遇し奉るにこ

とならぬやうに覚えて、

跡を此山にととめ往生の願望

見仏

を当来にまたす、

目前に安養の勝境を拝す。'惜哉、

中古より此会

を遂げるとそ。

呼、

霊妙不測の尊像

にあらすは、

いかてか冥応

を異域

式絶て、

今わすかに

菩薩

の持物なとかたのこ

とく残れるそ、

本意な

に感せしめむ。

信して仰くへ

し。

き。

第九

当山の大蔵経井観音の三尊来

由の事附栄弘阿闇梨の伝

Page 15: a...ê Í · û Å Í F ½ { v é Ì u F ê Ä ½ Ê Ì ½ ß î o à Æ µ É ð A Ì i õ F ö ä Ì ¼ O É ¨ ¯ F ½ Ì ¾ é q È É ¨ ¢ Ä î o Ç É A A ã { ð É z ½ Ì

当山の大蔵経

は第百四世後土

御門

院の御宇、

文明年中、

当山知恩院

汝往生して此堂内に入む事をえまほしく思はは、

今一

たひ娑婆に帰

の住持栄弘阿閣

梨、

使を支那国につかはし、

若干の貨財を贈りて拝請

り、

慶師の符印をとり来れと。

有かたくたうとく覚えて、

声をあけ念

し奉る所なり。

此時明の第八主憲宗純皇帝の時になん有ける。

帝吾邦

仏すと思へ

は、

程なくよみかへ

り侍りぬ。

猶娑

婆の親縁尽さる故にご

の国俗篤信ある事を感して、

毘首翔摩か作れる千手大悲の豫、

脇士功

そ。

是に依てその海山を越てここにまふてき得りと。

慶閣

梨も我なか

徳天、

婆藪仙

人の像、

共に蔵経

に附して当山に贈らる。

最他にことな

ら微少の善因、

仏意にかなひてかかる奇特をなんきく事とうれしくた

る経本也。

是に依て此観音を俗に上乗の観音となん名付

奉る。

霊応掲

うとく、

かの荊王の夫人円照本禅

師なとの標名蓮

境の先縦をさへ思ひ

くましましける。

然るを慶長年

中、

此蔵経の絶

妙なる事、

東照宮の尊

合せて、

いとあたならぬ事と信心肝に銘して、

符印を書てあたふ。

聴に達して懇請せさせ給ひ、

荘田萱百五石を賜て是を謝し、

仏餉僧

文に云く、

大日本国忍辱山観音院重慶と。

其後をのつ

から諸方よりつ

の資となし給ふ。

本田共に都て二百三十五石、

永く寺産と定め朱印を

たへ

聞て、

三歳の間符印を求る者数へ

もしらすなん有ける。

賜る。

大悲の像、

脇士二

尊は猶当

寺になんととまり侍りける。

重慶阿閣梨は東大寺金蔵院重祐

阿閣梨の弟子なり。

当山観音院

を中

栄弘阿閣梨は

当国の産、

姓は藤氏、

智行兼備

れるうへ、

常に念仏三

興す。

俗姓

は藤氏、

当国の産也。

性柔和にしてしかも敏頴なり。

行操

昧を修し、

自利他益を四遠に播す。

文明年中伽

藍回禄の災にかかる。

清貧にして長物をたくはへす。

内衣を洗へは直に袈裟を着す。

笹葉

阿閣梨大願をおこし諸方

を勧化して終に再興す。

文明九年丁酉四月四

精しく、

山流及ひ余流を研究し、

其外論経坐禅を旨として世事を省

日、

端坐合掌して逝す。

世寿六十八。

き、

わきて称名念

仏をもて帰家の資糧とす。

15

或時は仏菩薩の摩頂を蒙り、

又は鬼神を感動す。

常に護摩を修する

第十

重慶阿閣梨

符印の来由

に、

みつから山に入て護摩木

を求れは、

山塊来

て是を扶け、

又は常に

附重

慶阿閣梨の伝.

擁護して道場に

現す。

日護摩を修する時、

散杖を以て鬼かかうへに

当山観音

院中興重慶

阿閣梨、

決定往生の符印あり。

或時旅客来て慶

そそけは、

驚き

恐れ壇辺に鹿皮をととめてさる。

慶闇

梨是

をとり

函中

闇梨にたいめして語て云く、

我は筑前国博多の

某と云者也。

常に浄土

に納めてかたく

封し置。

其後鬼来て履乞求むれともあたへ

す。

鬼に告

の業を修して西方

往生を願ふ。

いにし比さして労る事なくして頓死し

て云、

我浄土往生

の後返し与へ

んと。

慶師

示寂の後、

函中を開きみる

閻王の庁にいたる。

冥官

をして

罪福

をかうかへ

しむるに、

浄業薫修

に座底なし。

約に任せてたつ

さへ

いにける物ならし。

是等のたくひお

の功あなれはとて、

浄土へ

送らる。

やかて安

養の

浄刹

にいたりぬれ

ほくの怪異有けれとも、

人に語る事なし。

世寿六十七歳にして、

後水

は、

在世聞

しにこえたる依正の荘厳い

ふはかりなし。

傍に一

宇の堂舎

尾院の御宇、

慶長十七年十月十五日、

自製の紙衣のうへに袈裟を着

あり。

荘麗

殊妙なり。

堂裏に人有

て語て云く、

此是南閻浮提

大日本国

て、

徒衆同音に

念仏し滅をとり侍ける。

異香室中に券郁し、

紫雲

山頭

大和国忍辱山観音院の住僧慶閣梨

か為にまふけたる堂舎なり。

今三歳

に甥飛

す。

茶毘の期にいたるまて猶散せすとなん。

経て十月十五降往生してここに

来るへ

し。

我も又年ごろ慶師の勧化

依てひたすら浄業を修してここにい

たり、

此堂に入事をえたりき。

.

Page 16: a...ê Í · û Å Í F ½ { v é Ì u F ê Ä ½ Ê Ì ½ ß î o à Æ µ É ð A Ì i õ F ö ä Ì ¼ O É ¨ ¯ F ½ Ì ¾ é q È É ¨ ¢ Ä î o Ç É A A ã { ð É z ½ Ì

度を限りとなん

思ひけれは、

弟子の蓮心をよひ、

先師のしるしをける

『和州忍辱山本尊弥陀如来霊応伝』

臨終

の用心をかける文をよませ、

又同侶の僧あまた請して、

阿弥

陀経を読論せしめ、みつからも読て、五色の糸を本尊の御手にかけて是を

第一

清尊蓮台房伝

ひかへ、

称名三

昧に住して

息たふ。

近衛院御宇、

安五

年八月八日

蓮台房清尊

は讃州の人なり。

十歳の春当

山に登り出家して顕密の教

也。

行年

四十二

歳。

を学ひ、

採果汲

水倦(む)

事なく、

師につ

かへ

侍りける。

常に本尊弥陀如来に帰仰の心さしふかく、もはら浄業をなん修し侍りける。ある時いささか師命にたかふ事有て、呵責して寺院を濱出せらる。されとも本尊に別れ奉る事の悲しさ、又師恩を報せす命にさへたかひて、いっちいなんとも思ひ弁へさりけれは、せんすへなくて、本堂の前に桜の大木有、其本のうつろなるを栖として、畢命を期とし念仏して口をなん送りける。師もさすかに不便に覚えて罪をゆるして寺にかへし侍りける。誠に深厚の信心、本尊も哀とみそなはし給ひけるにや。学つみに成熟し一山に登庸せられ侍るとなん。第七十五世崇徳院の御宇、天承元年八月廿日、西方にむかひ合掌し、弥陀の名号高くとなへて滅をとる。世寿八十七。

第三

退勤

智善

房伝智善房逞助は南都の産

にして当山に

住する事、

凡四十余年、

法華の持者なり。毎日本堂弥陀の御前にて三時の供養法怠る事なくつとめ行ひ侍りける。又新に一宇の仏堂を建立して、いまた供養を遂さるに、病悩にかかりて終焉期をまっはかりなれは、本意を失へる心ちして、三宝に祈誓し奉り、限りある命を更に惜しむへきにあらす、願はくは此供養を果遂て後、速に往生せさせ給へ、と懇祈誠に切なりけれは、三宝も冥助を加へさせ給へるにゃ、忽病苦縢り。身心もすくよかに成て、供養思ひのままに果遂侍ぬ。やかて其日より又病いとおもく戯けれは、徒弟に告て云く、汝等あへて我前に来る事なかれ、弥陀善逝共外聖衆影向して種々慰問し給へは、中々に障となれは也と。まさに臨

一16

第二

勝源持法

房伝符法房勝源は伊賀国の

人なり。

滅罪生善の為にとてみつから修し、他をすすめて六万九千の礼拝をなす。満散供養には六万九千の仏餉を

終の期近つきぬ

れは、

沐浴潔齋

して袈裟を着し、

本尊

にむかひ高声に念仏し、端坐合掌して息絶。行年七十去歳。六条院の御宇、仁安四年正月廿四日なり。

ととのへ

て、

諸仏菩薩

になん供し奉りける。

その外の行業身心を郷て

柳うむ

事なし。

ある時同学の中に運開房某と云

大あり。

上院の屋において如法経を書写するに、勝源を請して写経衆とす。折しも病にふして時を待はかりなれとも、是を聞ていふやう、是我極楽牲生の資糧なり。若妙経の利益、仏天の擁護あらは、病もしはしをこたりて、是をつとめをふへしとて、衆と共に御緩を書写し、十種供養事ゆへなく遂侍りぬ。三宝の冥助にや病いえ、半年はかりを経て又微疾をうく。此

第四

円真上人伝円真上人は笠置の解

脱上人の弟子なり。

俗名は憲長侍従となんいひける。初め興福寺に在て相宗を学ふ。黙れとも性喧諄をいとひ侍れば、廿余りにして寺を離れ、解脱上人の室に入、道業をつとむる事はさる事にて、身命を忘れ常随給仕す。上人入滅の後かの山に跡をととむといへとも、むかし当山に詣で本尊阿弥陀如来に値遇深けれは、よ

Page 17: a...ê Í · û Å Í F ½ { v é Ì u F ê Ä ½ Ê Ì ½ ß î o à Æ µ É ð A Ì i õ F ö ä Ì ¼ O É ¨ ¯ F ½ Ì ¾ é q È É ¨ ¢ Ä î o Ç É A A ã { ð É z ½ Ì

りよりここに来て専ら浄業を修す。

又明遍僧都

に謁して西方往生の要

妄念をひるかへ

し、

人世幻夢のことくなる事をひとへ

に観し、

善知識

を尋鉗

む。

或詩

心ちれいならされは、

同行の僧数輩

を請して滅後の要

に従て菩薩戒をうけ、

厳密

に持し侍りける。

又毎日阿弥陀

経六巻を読

事なといひをき、

西にむかひ結珈して

定印を結ひ、

偏を唱へ

て云く、

謁し称名

三昧を修す。

或は別時に百万遍の称名念

仏を修する事、

数十

若有重

業障

無生浄土因、

乗弥陀願力、

必生安

楽国と。

此偶をとなへ

度に及ふ。

其余の修善、

記すにいとまあらす。

齢すてに八

旬に及んで

高声に念仏して

滅をとり侍ける。

建保三年正月九日、

世寿二十八。

気力やや衰へ

侍れと、

精進

につとめおこなひて、

順徳院の御宇

建保

誠に任せて当山に葬る。

六年十一

月廿七日の暁、

端坐して宝印をむすひ念仏とともに息絶。

時本堂の池上に瑞雲垂

布す。

第五

善阿伝

善阿弥陀

仏は元は某寺

の碩学

なり。

仏地院の順識となんいひける。

第七

仏観房伝

最衆に冠たる器量有

といへ

とも、

隠遁の心さしいとふかく、

衣財等を.

仏観房は高野山蓮華

谷の旧位者なり。

嘗て当国壷坂寺になん住持

もて

悉く

仏に

奉り、

忽寺を出て

当山に

来り、

院の南谷に

庵をむす

る。

当初高野山に在て顕密の修学、

淵源を究め、

後に

奥院に籠居して

ひ、

閉関して

衆に交らす。

本尊

弥陀に帰御して

専ら浄業を修する事、

別時の行法

を修す。

或夜夢中に大師仏観に告て宣く、

汝安養の往生を

年ふりぬ。

或時回国行

脚に嵩て諸の名山勝地を拝みめくり、

建保三年

求めば忍辱山の

弥陀

如来に祈奉るへ

しと。

覧て後いとたうとくうれし

類起

の夏又当山に

帰り来り、

衆に語て云く、

我諸国をめくり所々の梵刹に

く覚え

侍れと、

えさらぬ事とも有て、

すがすがしうも思ひたたて、

17

詣、

聖像を拝し奉るに、

当山の弥陀如来

にしくはましまさす。

我有待

をのみ此山に通はして年月をなんへける。

齢す

てに八旬におよんて行

の依身さすかに

捨かたくて、

資糧の為にたつ

さへ

もたる水田若干あ

歩もたやすからねと、

大師の

御告

といひ願望といひ、

猶予すへ

きにあ

柵和

り、

本尊

に奉るへ

し、

とて

券やうの物取出して

知事の僧にあたへ、

ママ

行方

しらす出侍りぬ。

後に

きけは北京六

婆羅蜜寺の辺に、

わっかに身

らねは、

三笠

の険難

を凌ぎ当山に詣、

本尊弥陀如来を

拝し

奉り、

当来の悉弛いとねんごろに祈誓して、終に本山に帰り、三年を経て往生の

をいるるはかりの廃しつ

らひ、

たゆみなく浄業をつとめて終をとり侍

本懐を遂侍りける。

終焉に臨て瑞相はなはた多し。

建保年中になん有

そ。

る。

第六

比丘尼妙阿伝

第八

聖霊法師伝

比丘尼妙阿弥陀仏は南都の産にして、

当山の住侶勝命大徳の母な

聖霊法師勝円は性慈悲深厚にして、

親疎をえらはす恵みいつくし

ママ

り。

此縁により当山の麓に

庵室

を結ひて浄業を

修する

事、

とねんこ

み、

法の功徳を修する

事、

甚多

し。

中において仏縁を造立し、

又は昼

うになん有ける。

然るに老少不定の習ひ、

いか

んともする事なくて、

く事凡壱万余尊、

般若喩伽等の経論を書写する車麩

十部、

法華唯

識等

勝命

母に先立侍りぬ。

たたひとりの子なれは恩愛の別のせちなる身ひとつのやうに覚え、をくれるて世になからへんとも思ひたらぬを、忽

を講演する事二十余遍、

又百万遍の称名念仏を修する事十箇度に及ふ。かくのことくの善根を修行する事記すにいとまあらす。わきてい

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にし建保四年三月八日より四十八口の僧をして、

本堂において七昼夜別時不断の念仏を修する事、毎年怠らす。又山中に一所をトして極楽院と号す。徒衆を領して長時の勤行怠慢せす。後堀河院の御宇、嘉禄二年十一月十五日よりいささか労る事有て、同十九日逝去し侍る。身体安祥にして禅定に入かことし。

て家を

出て当山に登り修学精究

する中、

法花読

諦を専らとして遂に八軸を暗調す。後に弥陀の誓願をふかく頼みて、三部の妙典よりはしめてひろく浄土の教を学ひ、一向称名念仏を修す。七かのみならす齋戒を持して聯も犯さす。三衣一鉢にして貧をあまなひ侍りける。仁治元年の比ほひ、ゆへ看て北京に赴く。暫在京の中おもく煩ひて、様々療治をくはふといへとも、さしてしるしなけれは、此たひを限りと思ひ

第九

少人菊若丸伝少人菊若丸は南都の産

なり。

性元より聡明に

して学窓に

蛍雪を集め六経諸子を学ふ。宿縁浅からさる故にや、またいはけなき中にも出世の要路を心にかけて当山に登り、師に従て顕密の教を学ふ。殊に本尊弥陀如来を深く信して、風月の友にましはるおりにも、念珠をふところにしてつまくり、名号をとなふ。有時白地に里に出侍るに、心ち例

定めて、

其年

九月七臼長途を凌ぎて

当山に帰る。

翌八日寅の刻、

正念に住して終をとり侍りぬ。前の日より紫雲空にたなひき異香室に薫ず。行年五十五歳。私領二箇所の水田をもて本尊に奉り、不断念仏修行の料とす。其後同行の僧の夢に、此人法衣を着し儀相尋常ならぬさまして、我既往生破題、已現前成就此大願と云、半偶を唱へて忽然として見えすと。むへも決定往生の人なるへし。

ならす見えしか、

日にそひおもく成て医療しるしなし。

親族まとひて

師の許に告侍

れは、

来て仏神に

祈誓

しさまさまいたはり侍れとも、

かひなくて貞永元年八月六月はかなく成侍ける。此時河内国石川郡某といへる者、春日山の南の空より紫雲たなひき里に覆ふを見る。親類の歎きはさる事にて、師匠同宿傍華の児僕隷に至る迄、歎き悲しますといふ事なし。一山の僧侶中陰の仏事いと念比にし侍る中に、初七日をむかへては一日経を書写し、五七日にあたりては亡児の書をける文なとを集め、料紙として裏に一字三礼の阿弥陀経を書写し奉る。又児の手馴もたる鏡の面に弥陀の尊嫁をうつして、四十八人の僧を請して、一目一夜別時の称名念仏を修す。.又本尊弥陀の御前には香花燈燭井に

第十一

義弁

見仏房伝見仏房義弁は伊賀国の人

なり。

元武勇の家に生れて弓箭を

携ふといへとも、宿因あれはにや、忽仏門に入、師に従て出家す。少しては行脚を好み、大峰葛城よりはしめて諸の名山勝地至らすと云所なし。やや年たけて出離生死の心さし益深く、寂静をたのしみ、修禅を専らとして、三密の行法、六時の念仏勇猛になん勤行ひ侍ける。かくて寛元三年の春の比より柳労る事看て、日々にたのみすくなく、終に同五月十八貝、本尊弥陀の御手より五色の糸を曳て、念仏とともに息絶侍る。世寿七+六歳。

18「

四十八種の供具を備へて、

さまさまの法事を執行ふ。

覚等得業をもて唱導師とし侍りける。

第+二

増弁律師伝金書房増弁は元興福寺

の碩徳

也。

打撲淳撲にしてすへて染着なし。

第十

浄尊

金蓮房伝金蓮房浄尊、俗姓は和

気氏。

前典薬

頭時成か子なり。

いとけなくし

老の後本寺の出仕に倦て、

寺院に付たる田園等より私に携へ

もたる貨財調度まて皆人にあたへ、当山に来り、隠遁して専はら西方を念ず。

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当山毎年一

七日別時念仏の時、

集会の料にとて鯨鐘一

口を鋳させて寄

手つから春き、

かしきて偏に浄業

をつとむ。

又毎夜提婆品を読て浄業

付し侍りける。

常に大湯屋北の房に住す。

終焉に臨て本尊

にむかひ端

をなん資け侍りける。

其後又病をうけて逼るましく覚えけれは、

西方

坐してたたに眠るかことし。

徒弟等、

若正念乱るる事もやとて念仏を

にむかひ掌を合せ、

常闇此経、

若生人天中、

受勝妙薬、

若在仏前、

すすむれは、

止ね、

空中に微妙の音声をもて念仏をすすむれは、

正念

華化生といへる法花の文を謁し、

念仏救声

を唱へて示寂す。

世寿六十

分明

にして

今まさに

往生

す、

といひをはって息絶。

九歳。

第十

行包入道伝

第十五

清安

蓮昇房伝

当国大

柳生の里に行包入道某といふ人あり、

両眼ともに盲てはなは

蓮昇房清安は蓮台房清尊の徒にして当国の産なり。

幼稚の頃より当

たうれふ。

されとも目明らかなりし時より、

山の本尊

阿弥陀如来を

山に住し、

七十

余歳の修行を積て、

終に一

和上と仰かる。

性質直

にし

帰御し

侍れば、

終に此山に

居を

移して、

毎日本

堂にまふて当来の善果

てあへ

て諸由なく、

密業に

精しく屡験徳を顕す。

嘗て金峰山に参籠し

醐査

を祈る。

或時仏前に在て

殊に心を致して

念仏

する

中に、

心に

思ふやう、今我分際の身をえてかく盲目にさへなり侍れば、はやく往生を遂

毎日法花八

軸を

読、

千日を経て

遂に

暗議し

侍る。

其後当山に帰り、毎日の入堂、例時戯法、怠る事なくつとめ侍りける。常に人にす

て五眼分明にして、

生身の色相微妙の御かたちを拝し奉らん。

若定

すめて云く、

世の悉地を祈らむには此山の本尊にしくはなし。

古来

限り有て猶娑

婆の縁尽すは、

仏大悲の神力をもて我肉眼を再ひ明らか

の霊験他にことなれば誰か帰仰

せさらむと。

是に依て常に本尊の前に

19

にし給へ

とて、

体を地に

役して祈れば、

仏も至誠の願心を燐み

給ふ

して

発露

臓悔して、

已往の罪障を歎き、

当来

の苦果を悲しみ、

畢命を

にや、

やや月日経たる

盲眼忽開けて、

本尊の御かたちよりはしめて四

期として

称名

仏をつとめ行ひける。

或詩病

をうけ心ち死ぬへ

く覚え

隣悉く明らけく見えて、

むかしにかはらす。

族挙て悦ひあへ

事限

けれは、

徒弟

輩をよひて、

例時餓法を論せしめ、

みつからも請す。

りなし。

堅固の信心のいたす所なるへ

し。

既に話し終ぬれは高声に念仏

を唱へ

安祥にして逝す。

異香薫芳し紫雲

弥布す。

隣単

の僧衆皆

是を見る。

第十四

救縁成華房

成華房故縁は伊勢

国の人なり。

十三にして薙髪し、

凡五十七年当山

第+六

僧都宗覚伝

に住て学業最と見たり。

中について求生浄土の願ふかく、

本堂弥陀如

大僧都宗

覚は当国長谷寺に住す。

当山の弥陀如来を崇信する事、

来の御前にて毎夜一

千度の礼拝をなす。

九年を

経て

後、

病にふし程なく逝去す。暫看て蘇生して人に語て云く、我死して冥府にいたる。冥官告ていはく、本山に迎摂会あり。汝其結果の随一たり。こたひは帰りて此会式をつとめ、其後来るへしと云と思へは、忽よみかへり侍りぬと。それより後聞関して衆に交らす。みつから薪をこり、水くみ、

ここに久し。

是に依て終に此山に移住し、

毎日弥陀の名号一

万遍を唱へ、法花一部を読議す。又不空羅索の大児七遍を請して日課とし侍りける。有特徴疾をうけ侍れと、聯悩める事なく正念に住して、弥陀の宝号数百遍を唱へて滅をとる。行年九十一歳なり。嘗て私領の田園悉く当山に寄付し、法花弥陀の二経、長時読諦の料になんあて侍ける。

Page 20: a...ê Í · û Å Í F ½ { v é Ì u F ê Ä ½ Ê Ì ½ ß î o à Æ µ É ð A Ì i õ F ö ä Ì ¼ O É ¨ ¯ F ½ Ì ¾ é q È É ¨ ¢ Ä î o Ç É A A ã { ð É z ½ Ì

右弥陀の感応、

古伝に記せるもの、

凡四十人、

真中十六人の伝を

記し侍る事は、繁多なれは見るに煩しからん事をおもむはかれは也。煩しくて見さるときは、をのつから結縁うとし。結縁藤けれは利益普からす。たた見聞の利益普からしめむか為に抜粋し侍りぬ。此外経源上人、寛遍僧正、妙智居士、栄弘重慶二阿閣梨の伝は別巻の縁起の中に

雅里一

会翔ア闘文一

以ア計論スルニ

粗雑レ有レ知二其要一、

穀冊脱簡安ソ

在コや能ク廓如↓ル二子。然トモ向山で三歎替有茸此書淫没啄ル而真言ノ翻賠挫ルヲ、強ア補職シテ以テ得因り伝ヲ。初二挙ン当院ノ啓遽ワ、続堕ア之名ア日二知恩院縁

記㌔

難レ然・

不レ

絃功・於書契~、

聾ス

魚魯

喫。.

薦力

輝後釜

瑠.

之不レ戯者、

有四ト

知二

中興遺縦一

爾。

寛政元年巳

酉七月忍辱山知恩

見え侍れば、

ここに省き侍るものしかり。

院末資良助自序

『知恩院撮記』

知恩院縁記巻上

『知

恩院縁記

巻上』(外題)

抑当山は往昔聖武皇帝の御願により、

天平勝宝八年にして寺基をひらき練者を草したまひ、唐土龍興寺鑑真和尚、此上に来儀したまふの

忍辱山知恩院縁記序

夫・

簡冊・

身・ト

単、

必ス

有レ

時誠実。

聾モ

厄"テ

儒三

代遺文

亡峨リト、

及趣ア漢除コ∴

抜書

ノ律一、

章句僅ヵ二

出ッ̂突

然トモ

其ノ書不レ全、後儒純一フ有け興コルコト道統ノ之伝弓而稗二益之.~以.ア継コ子千歳・。可レ謂功ゴリト於聖門.~突。男工在国枷コ當院中興栄弘阿閣梨↓者也。嘗一ア遣

コ使ヒヲ於異朝鴫、遠ク請コ於三蔵づ。異朝感詑ア篤信ヴ、有甥附レ経腸売卜嫁。其ノ事実掲訪テ閣梨ノ於影賛4、不レ出二於二一二句づ。亦タ有二當峰一一請経縁記ノ一軸㌔未り聞二撰者ノ名弓、転属二駕一.影ノ賛~、和跨ケ文設励ノ.、

コ、二

耳。

閲テ

不レ

語テ

不レ

詳オフ。

助や

幸二

来二

此一、

恣ヒマ、二

期雛

輩難

㌔麟

媛誕

御難

蘇輸

壊シーア

恰モ

似レ

体。

徹ユルコト

文一

紙、

也。場ア描記ア閑軒…閲ミスルコト数回、将二左叶シ之右けシ之下トシ馬上トスルニ焉、錯乱紛々トシテ不レ ソ謁奏。難レ然曜二以ヨ此言為腰ア時ノ所コレ未"ルノレ施、故

二今ノ之拾収ト與二影賛記等一、不励ノ.、可二回目ニシーア論・而已。於此余約コシ一.事実一為以ルコト記セントH已二久シ 。曽一ア訪北旧風ヲ於博巻一、聞茸古質ヲ於

日、

十有八人の

王臣を

具し

給るのうち、

虚瀧和

尚といひしに勅し、

ここにおらしめ、高く律橦をたて、広く四衆を導かせたまふ地なり。

当山縁

記を暗で書。愛に

延喜

頃、

益信僧正麟碗とい

ひしは行法最高く、

寛平上皇の

潅頂の師とならせたまひ、曾て洛陽東山円成寺におはしけるに、彼地道験のことありしょり、しはしは金策を此山にととめて喩伽の三昧入らせて、終にはまた錫を洛西に帰したまふ。その聖縦なりしかは、ここも回しく円成寺と名づくと。琳監獄獅調舘。夫より星霜移りて、万寿三年三輪山命禅上人、中興せられて、先蹴をあけて円成寺と号せりとそ。燃淋鵬。又幾許あらすして、仁平三年仁和寺法務大僧正寛遍といひしは、ひそかに高野大師の告を蒙らせ、此峰によちのほり金杵を久しくととめ、密教の旨をうかかひ、草鹿を掃

ひて円成

の遺縦を起し、

鏡池

をうかちて娃揃馳鱗

陣形

広沢の法水を伝

フル

へ、

盛に三

密の教意を揮て、

本寺の土風を学、

強て一

家の法地を立て、忍辱山流と号。法弟数多也。彼是ここに旧都の美を備へ、普く綱索を導きたまふに、時にありて俊傑とほしからすや。

一20一

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373

'・

和州円成寺の縁起類の調査と翻刻

1灘謹蕪 愚図1

幾 沸騰 藩 論 諾轡継謬 ∴べ 濃  1鹸i霧。飢1_.

嘱 曲 輪 … ・ 一 門 一一照 礪 惣

,誠 麟 ,1董 轟轟 ボ ー 翫 縫 ・…層 一

図2

て な 堂 の 臣 は に 宏 お 光 か に り 範 糠和 り は よ 当に 。 し り 院 然'抑 れ 宇 子 藤 物 れ 侍 伝 重 は 明 ん し'俊 則 慰い 今 く 資 一 る 時 当 り 治 母 原 か け る ま 蒼 し 山 し て 喩 僧 当 蝶

磯 艘 罫 灘.黙 騎 ㌔ 踊 躍 身躍隔 離

1灘1難縛1攣難 処 蘇 豪 勢龍 華 疑難

あ 後 緒 方 た 醐'ま にま に に

王 て た 又 た ら 社 共 干'を の は た は 幽 行 ひ ゆ沢 残 れ 当 り 家 先 山 大 お 虹 秘 法 城 遼 程 て ひす

ふ 梁 教 弟 州 を 纏 よ て文 れ か 院'し と 御 庄 中

皿21一

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知恩院縁記巻二

いへ

とも、

望なんぞ百重の空路をしのき、

万里の槍濱

をわたらんや。

中興栄弘大阿閣梨略伝

汝等

いてはやく求請し来るへ

しと・て

みつから錫を曳て此由を官幣に

訴へ、

囎焔税

鰍備餅粥胆

官幣すなはち奏聞ありて、

聖勅あらんことを乞願

当院中興の一

世栄弘阿闇梨といふあり。

姓は藤原、

筒井順武の後

はれしかは、

則宣を有司に下し、

やすく入韓の牒を賜ひぬ。(図3)

胤、

当州添上の郡里狭川上野守

助正の息子なり。

幼歳

にして自カラ仏

愛に阿閣梨かきりなく恩沢を

袖につつみ、

やかて栄助、

連舜、

その

象をしたひ、

聡悟人に過たるも、

父母も其機

物なるをあはれみ、

遂に

弐人の弟子をゑらみ、

すすめて

諸経のために高麗に便し、

当院助遍阿閣梨に捜して弟子たらん事をもとめり。

阿閨梨

もその法器

今此縁記を撰する事は、

諸経渡海の撰録を見る事あ70。

かれに其

なるを喫し、

応永三十四年丁未九月生九歳にして、

はや薙架せらるる

帖の類には二

合船

記、

帖は高麗船中記とあり。

高麗

の名は今

より、

長となりて顕密両宗の門をたたき、

伽三

昧の意をうかかはれてより智行人にごへ、度生他に勝り、然るに文正二年の頃国民安から

より凡百余歳以前、

恭譲王といふに亡ひて、

洪武壬申昔五年李成

ママ

佳位に即て国号を改め、

三韓をあわせて朝鮮の旧号にかへされ

す、

凶賊のために此地の伽藍坊舎ことごとく

火災に羅りしをいたく嘆

は、

朝鮮といふなるへ

きに、

ひならひぬる本名なるかゆへ

に高

き、

再たひ造建

せんことをあまねく仏陀に著て

より、

禅念

席をあたた

麗といへ

り。

都ら入宋入明とはいわすして入唐といふ回し。

むることなく四衆を勧誘せるに、

陣豫時を同ふ

して、

人々

師の志をあ

ママ

はれみ、

官吏

富民もちからを勤せ貨を勒すけぬ

れは、

日ならずして計

破題の王に通信し、

此地の弥産数多勝物を船にもりて、

文明十三辛丑

ママ

六月十日、

上人の弟子を初め童子侍

者舟飾等都て三十六人、

船腹すて

22

画の功なりて、

殿堂も旧観にい

やまし再建なりぬ。

殖融

謂礎鷹懸

れ・

(図

に海にうかへ

り。

鶴泊轍

鮒炮

瀞縦巫粉…ゴ

鱗捌咽畷殖

徽捌朝鮮

(図4)

2)

今年七月閏あり。

中途に及(ぶ)

頃ひに波涛安からすにあふて、

にしたかひ風にまかせ、

鶴首南北に走りでは虎惟たる浦に寄。

娘心た

昭和三十四年八月表装了

円成寺住職

田畑賢

る潟にかかり万度か

肝をくたき、

謄をうしなひ、

旬日を歴て漸く暮秋

に古新

羅とい

ふ浜にいたり着ぬ。

是年成化十七にそ当れり。

『知恩院縁

巻中』

(外題)知恩院縁記者三

此国の法令

たくおごそかにして、

発船

にはあらすとあやしみ、

イ7芳

容を詐ひたやすく彊に入ことをゆるさす。

船の上検括せしめ、

日を送

諸経

由来

りぬ。

すてに

牒書をささけ私なきをのふるに、

節度使等来りて、

今は

ママ

とて笑を含み

船を開かしむる。

懇懇に慰噛し袖を連ねて、

十月慶尚道

嘗て栄弘阿闇梨は常に三蔵経を歴覧せるに、

其蔵経

も一

時の延瞭に

忠清道

とい

ふに向ひ、

馬韓辰韓ともききし府郡をあゆみて、

京畿の都

あふて灰儘となりしを深くかなしみ、

さらに

求得せんことを蚤夜に神

府にいたれは、

館舎にそととめられける。(図5)

明の冥助をあほかれけるに、

夕異夢を感し

覚えて諸弟子にかたら

さらに事の

要を奏すへ

しとありけれは、

ここにおひて二

弟子等鳳

く、

吾すてに

求め

んせし三

蔵経は遠く異域

あらんとす。

しかありと

に詣で、

船に乗せ来れる勝物薩もの等を捧げ、

吾師の夙誓をのへけ

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375

和州円成寺の縁起類の調査と翻刻

・ 一『 ば を し た一

し 記 る財 チ 纂≡進話 二  幽協 蕩 瀦{,強 、'た'ま 此

蓮 葉ご1雛1

。 に 。

上 亦官 百人 僚に のは 列邦 に

謎魂男不 製

一__.,.熊'・ 一眠 罵 頒 、 、。、

図3羅 藷鐸 矯

1.簾 § 裁

縫ll{灘1

鷺鋸土あ 造り せoる

遂 事等 なも りあoり 二ぬ 合へ 船

図4(白 描)

喧 ・ み ・ '

讐 。,l

l急細 蜘癩

婁 霜・。 紀

,ギ

1熱一 泊 読

図3(白 描)

一23一

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調

戯数の事古

冊虫損し、

七千と百と巻との字を存し、

中下文字欠損

せり。

ゆへ

に若干としるす。

凡高麗

の蔵経七千四百巻にいたると

いふ。

三蔵のぶん六千九百三拾巻なり。

続又続とて巻数も定まら

す。

栄弘阿閣梨の影讃に、

遠使異朝求経論との七字のみあり。

又当山請経縁記も影讃により古伝をもとめ、支那の帝に使し贈物捧

蜘艶鞭

憾斌

U継♂

.,

一..、.憂目簡

一.遭

逢一

言婁意・

一」

け、

支那の三蔵を求とかけり。

鳴呼事実の

世にかくるるこ

と、

」/現に入溝の記をうるにあっかる事、時なる哉。'因にいわく、几高麗の仏教の起りは東浮文帝醸成安二年/

.

戴柾

鼓舞

仏教生、例

句麗の獣

埜に賜りてより、

王沢康端

レドL

盛なり。

しかし中華に九千有三百余星に及ひ至教欝り、に至り、越たる事なし。然るに唐の武宗の時、釈を滅し、秦か孔書を焼に同くして、三蔵ひとたひ埋没する事あり。宣宗にいたり、勅して廃寺を復さしむるに及んで、四方に馳て逸文を求めりしに、数数幸に高句(麗)に隠て、唐武の難を逼れり。夫より以来中国の蔵すら高麗蔵に原ひて流漬せり。今の葉山は明の北蔵を刊にありし

隙鵬離

離 鞭    難 

て諭したまはく、

使郭の僧等速にしれ、

船を

浮しこと、

師か願海の

浅にあらさるへ

しといへ

とも、

又帆をかへ

さんこと安にあらす。

風波

臨婁

紅霞

糠帥

裟、、

をおもふこ

と、

朕か磨寝にあらむ。

今あたふる

縁は先王の仰信し給ふ

で¢

晦.

Lレ

%製

懇篤

・、

門P

"

ド眼軸

'

難謹

義講

嘉.

糞㍉

"

。軌

譲」…繍{℃庶

鋸.

鐸、

へし

舞L

"

.、

所なり。

皆目

聞東方伝燈の域にして、

僥て影かたむくといへ

とも、

すます仏教を守ると誓て、

朕か求縁を化するに

はありぬへ

し。

此千手

菩薩の

橡をして経論に

付し、

海上

護神として鵬媒鍛膳櫨吐脚ふ。

かへ

るへ

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し。

本国にいたらは、

人の為、

法のため崇幸して普く宝詐を鎮擁

すへ

して惹なく、

鳥疾はしりて、

五月廿九日泉州潟の浦、

漸く着にけれ

し。

これは是毘首翔磨の作なり。

嘗て先王内殿にものいみし、

彫刻せ

ば、

此よしはやく郡司に

訴へ

けれは、

郡司も労をとひ、

行難をまへ

しめ給ふと

き、

掲磨

天来下して、

其仏工を助けしとなり。

御凡官の作ならす。覗消閑騰働妖丘勤江駄駄酌P明麗囎翻鱗状嚇勲ゼ妊狸備慌躰%く 、(図6)

して、

車馬段々

轟々として、(図7)七月十四日当寺にかへり、費し来る

よし管轄

に申し、

くわしく彼土の

ママ

鴻沢忽に油然として、

栄助、

観舜の二子悲煉

極なく、

喜謝するの地

よしをのへ

けれは、

恵沢の浅からさるを感悦ありて、

中心いつ

れ時に

なく、

流汗を袖につつみ、

稽頼拝着していわく、

山川風月は何んそ隔

か報塞(糞力)

せんや。

はやく国家鎮護の為宝庫に納め伝謝すへ

しと、

てん。

俊徳の他邦

に協和せる事、

はやく本国に

かへ

り、

我が王に復奏し、我が師復命せんことを奏しぬるに、朝□猶あまりあり。すてに

示あり。

ここ

におみて栄弘阿閣梨宿望空からす。

此朝彼朝の□遇を得

ママ

(箭

)

て門人等も師の

あっらへ

を荷ひ、

駿縦わすらはす、

名を

異域

にに

施せ

て大技を辞しかは、

国たみとともに、

鹿鳴

をうたひ饒けしぬ。

しも、

阿闇梨の

徳の賜にやあらぬ。

綱と

年春壬

寅二

月の

にい

り、

浦に

送ら

ける。硯慌胚軸励棚物鴨舵"わ妨都側翻眼舵吃すて霞継が解んとせしかとも、暴風やます

系図、

今此

縁記

渡海

記二

帖販冊により、

全き事を見るに、

よしなきことといへとも、又其頃の消息等数多の反古等得、古さより

霧雨して、

旬余駅舎にととまりぬ。

雲暮しはし

はすけとも、

またいた

今に伝る

もとり、

彼是と此記をつつ

るものなり。

抑二

合船

とい

りぬ。

二人弟子等

あやしみおもへ

らく、

おふけ

なく来ること、

吾君王

ふは、

凡入

唐せしもの允許の牒を乞なり。

牒には必ず花文あり。

類起

のみことのりを受け、

かへ

るには異朝

の恩の参すればなり。

あに大悲

かしこに至

りて此牒を捧げ、

すてに本国に帰らん時、

まへ

に擦る

25

冥助を試みんやといふて、

らたに莚をのへ、

箇の禅師を請迎

所牒に彼国

の印璽を押し添て回腸し給ふ。

故に二合といふ。

本国

守成

し、

海浜にして大般若経を認話し、

順風を祈ら

しめ、

郭内の鬼神を享

に帰りては、

此際を官に返進す。

省の官庫に

納められて、

又後の

……

察し、

海中

の難陀を供僻して、

法托のへ

けると

なり。

六箇の禅師の列

入唐せしも

のに牒をたまはるには、

先にあって入唐せしものの二

に料米五勝つつもっ

て、

聴嘲とせり。

合の牒を相

添てたまふ。

是漢の応印あるを以て、

今の牒を讃し、

いよいよ妊詐の趣なきを示となり。

牒にはすへ

て省線等押

印な

昭和三十四年七月表装了

円成寺住職

田畑賢住

り。

往来と

もに二合船とい

ふ。

官府船ともいふ。

今度の渡海

には

津の国の

兵庫

浦より船出して、

米百解をもれり。

此頃は壱解をし

『知恩院縁記

巻下』(外題)

管見

七百

調の余をもて、

交易するとそ見えたり。

銭の貴きにあ

り。

(

8)

知恩院縁記

阿閣梨すてに

求経の所願つとめりとはいへ

とも、

先の回録

には数多

ママ

トモツづ

暁に至りて

波の千里も見え、

霧さり雲はり

ぬれは、

さとて

績を

寺院の空しく成ぬるを歎き

十四宇坊

を営修し、

ならさる門戸は遣告を書にし、備飴離叛除後毘にはからさせける。なかんづく入室弟子栄助

解、

ふなはたをたたきて妾歌とともに、

真帆をあけぬるに、

順風はた

ひとり師の願を

たすけられけり。

阿闇梨かつて梵学に厚くし、

密灌の

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.

胸懸 

嘱 感

灘購嶽鋸

鰹 {灘

編無

難離

懸    

徳繭霧鐘

牌擁

謬姦

ー-

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、..

ポ駆・

張欝篤

.、鵜

輸蓋

.

.

鷺'

『円成寺伽藍宝物

略撮記』『大和国添上郡忍辱山略縁記』(外題)

(内閣文庫本)

'

「大和国添上郡忍辱由円成寺伽藍

宝物略縁

記」(内題)

践ノ

.…

弊~

.

大和国添上郡忍辱山円成寺伽藍向井二宝物之事

,汐

人皇四十五代

'

臼ヒ

馬p

聖武天皇

御本

開創開山

虚瀧和尚

鑑真和尚ト同船来朝之僧也

中興開山

命禅上人

法流初祖

大僧正寛遍

}

纈嚇

…叢

馳『、祷

壽-

`一.

誰∵

,

宗旨

古議真

但シ広沢六流之

随一

忍辱山流

27…

本堂

東西八間半南北七間半

向拝

屋根桧皮葺

嚇……和

耀

F

 

ジ㎝ 

髄聯

…鐸一

:

'

本尊往古十一

面観青立嫁

御長五尺

但シ稽文稽

首作中興ヨリ一本尊上吊上生阿弥陀如来御長四尺五寸座像但シ定期法橋作一脇士四天王立像御長三尺四寸前回作一多宝塔弐間四方屋根小板葺但シ本尊金剛界大日如来座像御長弐尺五寸運慶作一観音堂千手観音座像郷長壱尺八寸一弘法大師像御長弐尺八寸'

虚瀧

和尚像

御長弐尺六寸

9

護摩

不動明王塚

立像御長

三尺九寸

弘法大師作

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薬師如来像

立際御長弐尺六寸五分

前同作

以上

御祈祷所

本尊孔雀明王座像

御長壱尺八寸

知行高弐百三拾五石

但シ如法経

三十番神

十羅刹女

金剛筆

徳川御

代々御朱印

鎮守二桂

春日社白山社

権現

御書判

末社三社

巌高

社宇賀神

社八大金剛童子社

但シ上包同紙ニテ忍辱山寺

拝殿

東西三間半南北弐間

屋根桧

皮葺

忍辱ゆ儀者

権現様関原御陳之瑚御馬上ニテ御合戦於被為得

鐘楼

壱丈壱尺四方

屋根瓦葺

勝利者当

国三十三ケ寺領

可被為成

御寄

附之御願御成願之上大

關伽井

壱間四方

屋根前同断

久保石見守殿被為

仰付

之由ニテ所々被相見立古地之十分一

二当寺千三百石之慮

百三拾石

御墨印

宝物之事

慶長七年壬寅八月六日被成下頂戴仕候

團扇

解脱上人所持

尚又

藏経上来千

手観音

御長壱尺六寸

毘首鵜磨作

慶長十六年辛亥

翻無駁鰯

囎鞍糠

灘撤辮雌

波蘇仙

人御長六寸

功徳天女同

前同作

忍辱山円成寺在之}

切経

去慶長十四年大御所様被召上候。

28

釈迦如来立豫

御長三尺五寸

安阿弥作

其御褒美

重テ寺領百五有可付旨、

今度

大御所様於

京都被仰出。

弄四天王

御長壱尺六寸

前同断

依テ其最

前百三拾石、

御加増百五石、

高都合弐百三拾五石、

十大弟子

同壱尺八寸

前同断

和州添上郡忍辱山村ノ内、

自今以

後可有

取納候。

田地割台之目

薬師如

来立

御長

弐尺五寸

役小

角作

録、

別紙

壱冊在之。

但重テ百五石付候

御墨印去月十七日二被

地蔵菩薩座

御長

弐尺五寸

前同作

成下。

大久保石見守奉之依テ如件。

聖徳太子三歳立像

御長弐尺壱寸

御自作

角掛名号遠

州桜池湧出

円光大師筆

慶一長

十六辛亥血十

五日刀皿μ

三H〔

鈴木左一馬「助

金塔仏舎利

後白

河法

皇御寄付

和州添上郡忍辱山円成寺

唐華・髪

前同断

両界大曼茶

二幅

前同断

『略言志』(外題)(一

オ)

真言八祖

各幅

前同断

香七条袈

東大

寺法藏僧都閻

魔王宮遊行所持

「和州忍辱山円成寺略言志」(内題)

布薩欝

四十四本

虚瀧和尚所持

当山者人皇四十五代聖武帝勅願所也。

天平勝宝晒年五月二日御

ー・

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齢五十四歳ニテ崩御シ給。

今享保四妃歳迄九百六十四年二及。

也。

開基大口虚瀧和尚天平勝(ニオ)

宝八輌歳開創也。

入滅者第四

東福寺開山十聖上人

二月十六

日、

年代不知(五オ)。

十八世称徳帝御宇天平神護二柄歳五月十日也。

入滅ヨリ享保四娼

忍辱山領惣高四百七拾九石四斗壱舛内

寺廻山林御免許

寺領

年迄九百五十四年二及。

此僧ハ招提寺ノ開山鑑真和尚同船ニテ来

弐百三十五石

藤堂備前殿領二百四十四石四斗一

舛。

朝シ給僧也。

本堂ヨ

リ丑寅ハ

境内

也。

拾町十五間。

中興開山命禅上人、

人王六十八代後

条院御宇万寿三靹年(二

本堂ヨリ

辰巳境内也。

拾町十六問。

ウ)

再興也。

示寂ハ第六十九世後朱雀院御宇長久元殿年

二月十八

本堂ヨリ

未申境

内也。

八町五

拾悶。

日也。

世寿七十八也。

今享

保四妃歳六百八十年二及。

本堂ヨリ

戊亥境内也

六町廿問。

以上(五ウ)

念仏会ノ元祖迎摂上人経源、

人王七十四

代鳥羽院御宇( .ニ

オ)

天永三厩年、

本尊座

像四尺ノ阿弥陀如来、

北京法

成寺ヨリ当寺工

同板書

移シ給也

此借着洛京

之人也。

飴興橘寺

二屠シ、

後小田原二住ス

(六葉以下十二葉までの「同板書」

の内容は右記とほぼ同一

であ

也。

八十五歳テ保安四懸年四月十日示寂ス。

享保四紀年迄五百九

り、

部分『円成寺伽藍宝物略縁

記』

と同じであるので略す)

十七

年二

及。

類起

法流初

祖寛遍大僧正者、

村上天皇

第七皇子後中書(三ウ)

玉具

寺中

29

平親王ノ孫、

前大納言源ノ

師忠卿ノ

息也。

頽齢六十七歳。

示寂者

極楽院

来迎院

観音院

普門院

普照院

遍照院

守成

第七十九世六条院御宇(仁)

安三械年六月晦日也。

今享保四妃迄

慈眼院

上之中院

下之中院

宝蔵院

蓮華

宝持院

……

五百五十二年二

及。

(

十 .ニ

オ)

如法経

書写十種供養元祖実範上人也。

此僧ハ俗姓ハ藤氏、

謀議

大夫顕実

卿ノ

息也。

短目三時不退勤行天下御祈祷所也。(四オ)

付記

大蔵経者第百四世後土御門院御宇、

文明年中、

当山知恩院栄弘

本稿は平成七、

八年度科学研究費

補助金(基盤研究δ②)

による「奈

阿閣梨

使ヲ支那国二遣、

若干ノ貨財ヲ贈り拝請シ奉。

此時明ノ第

良・

円成寺の

古文書・

縁起類の調査

と研究」

の成果の一

部である。

八主憲宗純皇帝ノ時也。

最モ他異ナル経本也。

然二

慶長年中二束

照宮ノ尊

聴二連シ被為懇請。

傍テ奉(四ウ)

捧所也。

為御褒

美百

(ひなた

かずまさ)

五石御朱印以戴仕者

也。

伽藍建立栄弘阿闇梨

示寂文明九酊年四月四日。

世寿六十八歳

也。

享保四年迄二百四十三

年二

及。

観音堂開山膿化

胎蓮上人

九月十五日、

年代

不知。

今ハ御影堂