39
Meiji University Title 1930��-�- Author(s) �,Citation �, 52: 1-38 URL http://hdl.handle.net/10291/6040 Rights Issue Date 1981-03-30 Text version publisher Type Departmental Bulletin Paper DOI https://m-repo.lib.meiji.ac.jp/

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Meiji University

 

Title 1930年代の文芸統制-松本学と文芸懇話会-

Author(s) 海野,福寿

Citation 駿台史學, 52: 1-38

URL http://hdl.handle.net/10291/6040

Rights

Issue Date 1981-03-30

Text version publisher

Type Departmental Bulletin Paper

DOI

                           https://m-repo.lib.meiji.ac.jp/

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一九三〇年代

の文芸統制

松本学と文芸懇話会

寿

七 六 五 四 三 二 一

はじめに

邦人

一如観と日本文化連盟

文芸懇話会の成立

文芸懇話会の運営

文芸懇話会批判

文芸懇話会の解散と新口本文化の会の設立

むすび

1

戦前社会運動史

資料

を収集し

てき

た私

にと

って、松本学

の名は天皇制国家

の暴力を体現した不気味

な存在とし

て記

の底

にあ

った。熱海事件

九三二

.一〇

.三〇)を

はじ

め岩

田義道

・小林多喜

二虐殺、野呂栄太郎検挙

・致死など、

共産主義運動と組織

の壊滅的弾圧

に辣腕を

ふる

った張本人、内務

省警保局長とし

ての松本学は、特高資料

に黒ぐうと

の名

をとどめ

ている。警保局長時代

(一九三二

.五

.二七~

一九三四

・七

・一〇)の検挙

・弾

のすさ

まじさ

は、後任

(一)

沢俊樹

をし

「自分

の時代

にはもう共産運動と

いうも

のがほと

んどなか

った」

といわしめたほと

で、在任中

一九

三二

(昭和七)~

三四

(昭和九)年

の治安維持法違

反事

による被検挙者

・被起訴者数

は戦前最高を記録する。

この大

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弾圧

により

日本共産党中央部

スパイ

・リ

ンチ事件

(一九三一二.一二

・一二.一)以後、解

い状

に追

いこま

れた。

その松本が、他面では

本文化の擁護き

として文化政策

.憲

統製

推進する。松

いわゆる

官僚」グ

ループ

による文化諸機関組織化

のこころみは

「ファッシ

ョ的な思想運動を組織した点

で画期的」と

いる

が、本稿

では、

とくに松本

の文化統制計

画と文学者動員を中心

に、

その経緯を跡づけ

てみたい。松本学

の略歴は

つぎ

(四)

のようなも

のである。

松本学。

一八八六

(明治

…九)年

=

二〇

日岡山市生まれ。関西中学

(岡山〉、

六百を経

一九

一一

(明治四四)年

東京帝国大学法科

大学卒業

。愛知県試補、秋

田県

・静岡県警視、鹿児島県理事官、警察講習所教授、内務事務官兼同

記官、鉄道書

記官、土木局

河川課長、

神社局長

九二五

・九

・一六~

一九二六

.九

.二八)兼造神

宮副使

兼明治神宮

造営局長、静

岡県知事

(一九二六

・九

・二八~

一九二七

・五

・一七)、鹿児島県知事

(一九二七

.五

.一七~

一九二八

.一.一

〇)、福岡県知事

(一九二九

・七

・五~

一九三

一・五

・八)、社会局長官

(一九三

一.五

.八~

一九 、二

.一二.一八)、警

保局

(一九三二

・五

・二七~

一九三四

・七

・一〇)、貴族院議員

(勅選、

一九三四

・一一・二七~

一九四七

.五)、

一九七四

(昭和

四九)年

三月

二七

日没

昭和初年以降、松本

は民政党系

の官僚

と日され、

また、岡部

長景

・吉

田茂

・近衛文麿

・後藤文夫

.荒木貞夫

.酒井

忠正らととも

に国維会

に属し、「新官僚」

一員

数え

られた。警保

局長登川は、斎藤実内閣

の内相川本達雄

の推挽

(エ)

による。

一如

日本

松本

は回想する

九六七年

一二月

一二円)。

 マこ

「--円心想は川曲想

って対処す

べきも

のだと

いう

のがぼく

の意見な

ので、共竃

の出獄

に対

しては、艮

田心

想、即

ち11本精神

を高揚し

て、これと向き合わせて思想に対し

ては思想を以

てす

る運動を起す

べきだという

のでサ」

共産主義

にた

いする反革命的対抗思想としての日本主義

の高揚と

いう

ことが、彼

の行動を貫

ぬく信念

であ

った。折

2

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ハき

にふれ

て雑誌などに発表し

た小文

を集成した著書

『政治と文化』

(一九三九年、

刀江書院)

に示された松本

の思想は、

近代思想

(個人主義

.民主

.畠

主義)の否定と階級対立

(社会主義

.共産義

)の排球の走

った

如観」

と要約す

ることができ

る。「邦人

一如」

とは

「邦

(国

家ー引用

者注)と人と

の不

一=

体」

いう認識

である。

すなわち

「全休

と個体とは本来相即不離、不

一体」であり、個体

の発展

・完成は全休

の秩序

の下

に∧個Vとく企V

の調和

・統合

をえ

て達成されるも

のであるとし、しかも

「この全個

一如

は帰

一朝宗

べき中心

の存在

によ

ってはじ

めて罷

」であると紮

・そして

「帰

心・全個

一如の基本頂き

とよんだ・その考え方を

「呆

国家原理」に適

用すれば

君万民、挙国

一休

の原則」となり、「実

に天皇

を中心

に仰ぎ、国民

々そ

の適する処

を得

て、

この中心

に帰

一朝宗し、かくて億兆

、全竺

如とな

.て皇運を暑

し奉る」という

切の呆

政治原理Lが確立する.

松本は、これこそ

「我が国の伝統的国家生活原理たる祭竺

致の近代襲

現である」と述べ、天皇制国家支配の賓

を理論

づけ、さらに

「現代国家

に於

ける祭政

一致と

は、政治運行と文化運動とが

一致併行す

る境地に到達するにある」

として、文化運動の政治的意義を強調した。また、「邦人

一如」

の原理を諸民族

.国篇

の関係にも無書

大し、

この

「原理を以

て従来

の個人主義的功利主義的国際原

理に代らしめ、八紘

一宇

の大理想を実現せんとする」第

五イ

ターナ

ョナル運動

の理念に連結

させた。

っとも、以上

「邦人

一如観」

は松本個

人の思索

の産物とは

いえな

い。

一九三四

(昭和九年)秋以降、憲法学

.

政治学

・哲学

.受

.摯

.医学

.工学

.文学

.経済学

の学者

のほな

宗教家

.文蓼

.官

.軍ユ㌻)実業家竿

数人が十数回にわたる会合で

「討議研究した結果、日本精神を象徴的に表現して

『邦人

一如』の原理と呼」ぶことに

した、と松本自身

が述

べている。「邦

田言口」も

一九三五

(昭和

δ

)年

二刀

松本

が藤沢親雄

.(酬原姿

口郎

.石

川通司

・大串兎代夫

・安藤蒸

・宇野正志ら

H本文化連盟職員

・邦

人社同人と協議、合作

したも

のである。ま

たH本精

(日本主義)

にもとつく思想対策構

想は、松本

と親交

があ

った安岡

正篤

(安岡は、猶在社以来大川周明

らとともに

日本精神

の高揚

つとめたが、行地社

の分裂以降

は官界財界

の革新派と結び、

一九

二六年に酒井忠正邸内

の金鶏

園に

蹴れ誘蟻竃

れ舗設麓町禦甦竃

説鷲

竃…酬端誘

舗駕

3

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警保局長在任中

一九三三

(昭和八)年七月、松本は日本文化連盟を結成するが、この年正月、松本は安岡とはか

って

コミ

ン認

(第

三イ

ン亨

).国際連盟

(第

四イ

ン亨

)

に対

する

「第五

ン亨

ナシ

。ナ

ル」

の籠

計画

を具体化させた。

ついで翌

二月、松本は郷誠之助

(日本経済連盟会会長)・有賀

長文

(一.一井合

名理事長)・木村久寿弥

資麹

事)と会見し、郷から

想対策

につい

て相談」を受け・「財界

から相当

の金が酸出嘉

」ること

を前提として、吉田茂

.酒井忠正と日本文化連盟結成を協議、六月には三井から三〇万円の計画助成金を受取

ったら

二C

い。

一九三

(昭和六)年、社会

局長官と

して

「財界

の巨頭と接す

る機会

があ」り、それ以来、財界

(とく

に団琢

磨亡きあと

の財界第

一人者

である郷

誠之助)と

の接近

を深め

た松本

が、彼ら

の意をうけ

て思想対策

に乗り出したので

る。

二九)

松本署名

「日本文化聯盟趣意書」

は、「赤化

が何だ、

ロが

何だ、我が豊

葦原瑞穂

はいざなぎ、

いざなみ二柱

の神

の子孫

の国、天照大神

の信仰

に生く

る国

である……明日

の世界は吾

日本精神

を以

て世界人をリードす

べき時とな

った」

と述

べたあと、

「この難局

の打開

はもう

『所謂お役所仕事』

や社会政策や、

一党

一派

の手前味噌を並

べた宣伝運動

では駄目

であ

る。

どうしても真撃

な人々の宗教、教育、民衆娯楽、行政、産業各

の協力奮発

に依

って遂行する外

はな

い…

…」

「如何なる階級

の人たるを問はず、真個

の人材

を訪

ひ、之

を敬し、之

結び、内

に於

ては

国民精神

の作興を計

り、

に向

っては

日本精神を世界

に光被しやうと庶幾

のである。要す

るに国維精神を発揚し

て国民

の覚醒を促さんと

期す

るに外ならぬ」

と訴えている。安岡正篤

が主

唱する

「国縫精神

の発揚」を思想的基軸とし

て、国内外

に日本主義文化運動を起

こす

め、多方面

の人びと

「協力奮発」をえたいと

いうのである。

のような設立

「趣意」

にしたが

って、

日本文化連盟

「国際部」

にあたる

「第

五インターナ

ョナ

ル」

一九三

(昭和八)年九月

二口、山

口高等学校

ドイツ人教師

クラ

ッセンと

の会合を皮

切りに同年中

一三回、

一九

三四

(昭和

九)年

一~四月中

に三二回、

それぞれ来

日中

の欧米

人、

アジ

ア諸国人を招

いて

「第五インターナシ

ョナ

ル」運動

の趣

4

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(二〇)

旨説明、意見交換

の会を開

いた。

これらの会合

には松本をはじめ、安岡正篤

・酒井忠正

・香坂昌康

(東京府知事)

ほか連盟本部

の藤沢親雄

(元九大教授)・安藤蒸

・井

上富士夫

・大木某

らが出席

した。

他方、

日本文化連盟

の国内組織計画も作成された。第1表がそれである。

もち

ろん、

これは松本

の計

ず、実際

に設立加盟した諸団体と

はかぎらな

い。

しかし

一九三三

(昭和八)年七月~

一九

三九

(昭和

一四)年六月

傘下団体

として日本文化連盟から助成金を受けたのは第2表

の一『二団体

であ

るから、計画

の基本線

は実現したと

いう

ことができる。なお、第2表

「支出」

にたいする

「収入」

は、

一九三三~

三五年度

は各年

二五万円、

一九

三六~三

八年度

として二五万円

(このうち

一五万円を

一九三七年

設立

の日本文化中

央連盟

へ回す)、計

八五万円

で、拠出者

(三)

三井

・三菱

・住友

と推定されて

いる。後

述する文芸

の費

「金

の出所」も、

つまりは右

の三財閥

であ

った

(三

)

が、当時

は伏せられ

ており、「極く

一部

に伝

へられ

ると

ころ

によれば、

その

金ば

安岡正篤

を通じ

て三井

から出た」と

いう風説が流れ

たも

のの、松木も明言を避けた

ので、不透明

懇話会

「会員

の心持

に割

切れな

いも

のを残

(一三)

し」

いた。

三四)

以下、

日本文化連盟加盟諸団体

のうち概要

の判明

したも

のを示

せば、

つぎ

のとおりである。

国縫会

〔設立〕

一九

三二

(昭和七

)年

一月。

〔発起者〕岡部

長景

・吉

田茂

・松本学

・近衛文麿

・後藤文夫

・荒木貞夫

・酒井

正。

日本芸道連盟

〔設立〕

一九

一三.一(昭和八)年七月

二八日

・〔会

員〕市川猿之助

・大谷友右衛凹

・市

川紅梅

・曾我廼家五郎

・一龍斎

貞山

・三升家小勝

・春

日亭清吉

・杵屋栄蔵

・(小唄)文吉

日本労働連合

〔設立〕

一九三三

(昭和八)年夏。

〔経過〕小林

五郎

(『社会運動往来』編集発行人

.自彊組合顧問)と町

田辰次郎

(協

調会労働

課長

・国維会

理事)と

の協議

にょり結成。

日本産業労働倶楽部

の幹部

や松本学

・吉

田茂

.安倍源基ら

の内

務官僚が加わり、

日本主義労働運動

を推進した。

5

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第1表

日本文化連盟の組織計画

,

教育同志会

初等・

中等教育者師範学生・教員

日本精神に基く全国 国民教育界の精神的結盟を図り、一面動揺しつっある国体観念の宣揚と人格陶冶に力め、現下行詰れる我国教育の革正を促進すること。

イ、

地方教

育有志の精神的結合ロ、地方教育会に於ける懇談会、

研究会、

講演余響の指導ハ、郷塾の指導連絡

日本労働連合

工業労働者

日本精神に依る労働運動を行ふ。石川

島自彊組合の拡大強化を図り、労資協

力に依る全日木計画産業の樹立を目標

として各工場内に其趣旨に依る労働組

合の設置及統制を行ふこと。

、、。い

⇒・

各地工場内に自彊組合の設立

各自彊組合の連合会の設置

労資協力に依る組合共済施設

労資協力に依る工場繁栄の実行

日本芸道連盟

東京及地方に於ける

民衆娯楽諸方面の名

こ各に場夫を説(日と地対'等 図明排水。諾 し寄のる者優結

団 日席川と等'神体本'演 共)浪 に主精活すにを花依惟

神動る国結節るのの写 ラ体合語民会鼓真 ジ観 し 、衆合

吹館オ念'落 娯にを等'の ぞ語楽利企をレ酒の家譜用図通コ養人'方せ しじ1に 格講面し'て ドカの談のむ堕民'め 向師名るに衆劇 、上 、人

種パンフレッ膓

ハ、地方に巡業隊を派遣し、特に難治の町村に

対し趣旨の徹底を期す

二、映画国策の樹立

ホ、会員と放送局、活動写真館、劇場等との連

絡斡旋

日本文化研究所

各方面の権威ある学

者、思想家

日本文化の高調と

マψクス学徒匡救の

イ、

為、権威ある学説主張を研究発表する

国維青年会

地方本位の青少年中

心人物

各地方に於て青年、少年団員を国維精

神の下に結合せしめ、特に身心の練磨、

国家観念の酒甕に力め、時局に対する

正当なる認識を与ふ。

研究の補助助成

著書冊子の編纂

指定出版業者をして研究成果の発刊普及を

努めしむ

講演会、研究会の主催

各地開催の講習、講演会

へ講師の斡旋派遣

講習、講演会、修養会

の指導

イ、

口、各地方

に酷

ける簡易なる修養道場の設置

6

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古武道振興会

全国の15武道継.承者

我国古来より伝はる剣術、柔術、槍術、

弓術、棒術、唐手術等を振興し、

その

神技を復興せしむると共に大

いに其の

精神修養を奨励すること。

、、。‥

全国古武道大家の連絡

各地神社を巾心とする奉納試合等の奨励

毎年中央に於ける大会開催

国維学生連盟

各中等学校以上の学

全国各中等学校、専門学校、大学の学

生をして日本古来の文化研究、国体観

念の酒養に努めしめ、他面武道の練磨

をなさしむ。

イ、各学校内に於ける諸会合

の指導

ロ、懇談会、各校連絡会、総会

の主催

日本精神顕修会

全国の神官神職、其

他特志者

全国の神官、神職其他特志者を糾合し

て古典、古武道の研究を奨励し、行事

を修業すると共に民風作興の精神運動

を興す。

各地神職有志者の連絡指導

講褐会、懇談会、神道行事修業主催

毎年伊勢に総会主催

大同会

天下の志士を結成し、天下の大道を鼓

吹し、

一画面其の人格の修養向上を図

り、他面、諸団体の統制を為す。

各種国家主義運動の連絡統制

懇談会、研究会等の統制

其他必要ある事業

家庭婦人並に児斑に対する健全なる指

導を目的とす。

ロ、

読物の指導

家庭教育に関する研究指導

家政に関する指導講習

東京に本部を置き、

各地方新聞社を会員

とす。

日本文芸協会

文士、作家

地方新聞社の評論、小説、講談、趣味

の記事等の連合供給又中央の広告斡旋

提議力闘懸蠣謡縫麟

を送り掲載せしむ。

東京に連盟本部設置

ロ、大家の小説、講談の共同購入等

無電に依る速報機関の整備

文士、作家等の日本精神を基調とする

イ、

結合により其文筆著作を通して国民風

教の振興を図る。

ハ、

東京、大阪其他の重要新聞社少壮記者

の日本精神による結成により新聞の品

ロ、

 マこ

位向上、言論の正しき発揚を期図す。

作家倶楽部の設置

会員の共済事業

著作の奨励

新聞記者

クラブの設置

懇談会、研究会の…開催

会員の共済事業

7

Page 9: C ì õ - 明治大学 · n « É Ó ê Ä G È Ç É  \ µ ½ ¬ ¶ ð W ¬ µ. x Û Ç · Ý C Ì ê ã O O ( º a ª) N µ A ¼

工場

スポー

ツ連

工場労働者

工場内に

スポー

ツ部を組織し、労働

にスポー

ツの精神を酒養し、労働者

の品位、人格

の向上を図

る。

イ、各工場内

にスポーツ部

の設置

ロ、各工場

の試合

ハ、

スパーツ奨励

の諸事業

「日本文化聯盟計画」(「松本学関係文書」)より作成。

N畑

田升X六磁鵠e料圧正当

Sωc。柏

昌Φω(

祈Φ

おぽ刊

↓油

おω

朝祖

Φ迦

おωm祖べ迦

S鵠

祖Φ逗

おωO柏

べ迦

お㏄『載

Φ迦

后ωや刊ぺ迦

おωo。

祖Φ

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甘心

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田⑩≒c。ぺ

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「加持×共蝦鯛掛庄薫摯珊」(「麟料栂渦項沖珊」)升O☆忌。

田恒司芭鵡。か型盟♂汕河θ44。

日本古武道振

興会

〔設立〕

一九三五

(昭和

一〇)年

二月、松本

の主唱に

る。〔世

話役〕松本学

・小山松吉

・尾野実

(陸軍大将)・

竹下勇

(海軍大将).佐多武彦

(陸軍中将)・浅野正恭

(海軍中将)。

伝記学会

〔設立〕

一九

三四

(昭和)九年

一〇月設立

「伝記研究会」を

一九

三五

(昭和

一〇)年

五月再組織。

〔顧問〕尾佐竹

.白柳

秀湖

.千葉亀雄

.中村孝也

・木村毅

・白井喬

・新

居格。

〔常任

事〕渡辺

金造

・横山健堂

・森銑三

・尾

佐竹猛

・藍

田伊

・玉林晴朗

・伊藤武雄

・池

上幸

二郎。〔機関誌〕『伝記』

一九三四

(昭和九)年

一〇月創刊。

人社

〔設立〕

一九三四

(昭和九)年九月。〔同人〕松本学

・県忍

・安藤蒸

・大串兎代夫

・川原次吉郎

・石川通司

・宇野正

・星野弘

一。

〔機関誌〕『邦人』改題後

『邦

】如』

一九三五

(昭和

一〇)年四月創刊。

日本民俗協会

〔設立〕

一九

三四

(昭和九)年

一一月、松本

の発起

にょる。〔幹事〕折

口信夫

・小寺融吉

・西角井

正慶

・菊池山哉

9

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大藤時彦

.杉浦健

一・波多郁太郎

・高崎正秀

・久米龍川

・宇野正志

・藤井貞文

・熊谷辰治郎

・竹内芳太郎。〔機関誌〕

『日本民俗』

一九

三五

(昭和

一〇)年七月創刊。

詩歌懇話会

〔設立〕

一九三六

(昭和

一一)年

一〇月。

〔会員〕佐

々木信綱

・石榑千亦

・窪

田空穂

・吉井勇

・尾上柴舟

・太

田水穂

・斎藤茂吉

・北原白秋

・金子薫

・釈迫空

・土屋文明

・前

田夕暮

・土岐善麿

・川出順

・吉植庄亮

・尾上篤

二郎

・松

村英

一・臼井大翼

・宇都野研

・土井晩翠

・木下杢太郎

・富

田砕花

・佐藤春夫

・柳沢健

・河井酔茗

・蒲

原有明

・薄

泣董

・野口米次郎

・川路柳

・日夏歌之介

・萩原朔太郎

・島崎藤村

・室生犀星

・福士幸次郎

・堀

口大学

・西条八十

・大木篤夫

(惇夫)

・加藤介春

・佐藤清

・春山行夫

・千家元暦

・福

田正夫

・白鳥省吾

・百田宗治

・佐藤惣之介

・竹

友藻風

・野

口雨情

・尾崎喜

・前

田鉄之助。

日本体育保健協会

〔設立〕

一九

三七

(昭和

一二)年

二月

=

日。

〔会長〕松

本学。

〔理事〕大

谷武

一・岩原拓

・朝比奈策太郎

・古瀬安

・桜井安右衛門

・沼越正巳

・栗

・安

・中園進

・福島繁三

・安藤蒸

・小尾範治。

〔機関誌〕『厚生時

代』

一九三七

(昭和

=

一)年七月創刊。

日本児童文化協会

(1

の会)

〔設立〕

一九三七

(昭和

一二)年九月三〇

日。

〔幹事〕前

田晃

・藤沢衛彦

・松原至大

・水谷まさる

・伊達豊

・村岡花

・渋沢青花。

〔機関誌〕『日本児童文化』

一九

三七

(昭和

一、一)年

=

月創刊。

文芸

懇話会

・新

日本文化

の会

ついては後述。

10

文芸懇話会の成立

日本文化連盟結成に先立

つ一九三三

(昭和八)年四月

一一日の閣議で

「内閣

二思想対策協議委員設置

ノ件」が決定

(二五)

した。

この設置要望も松本

によるという。松本は協議委員

に加えられ

た。同月

一九n、内務省幹事

(横溝光輝

・中里

(≡)

一・萱場軍蔵1

いずれも松本

の配下)案

とし

て思想対策

協議会

に提出され

「思想問題対策案」

は、

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「思想対策

ノ要点

ハ、

現時

ノ不穏

思想

ヲ究

シテ、其

ノ我

卜根本

二相容

レザ

ル内容

ヲ有

スルコトヲ關明

シ、

且動

スレ

ハ矯激ナ

ル思想

二惑

ハサレン

ル国

生活、特

二精神生活

ノ弛緩

セルラ救

スルコト

ニ存

リト思料

ス」

と述

べ、不穏思想

にたいする取締強

とと

に、「予防策」とし

「建

国精神

(日本精神

)

ノ確立」と官民協力

によ

「精神運動

ノ作興」

の必護

強調した。この内薯

幹裏

にもとついて思想対策協議会意

想善導

.思想取締など

ついての具体的方策

を策定し、以後

一連

の思想対策を

ひき出す

のである。

日本文化連盟

は、

このような政府

の思想対策

に対応し、

これを補完する運動

の組織化

を目的とした。警保局長松本

一方

では政策

の立案、決定

に参加し、他方

では諸団体

を率

いて日本主義運動

の先

頭に立

つ。したが

って、多岐

たる分野で結成された

日本文化連盟傘下

の諸団体

は、

それぞれの分野における運動組織化

の先導的役割を担う

こと

を課

せられ

ていたとみる

ことが

できる。

文学者

を抱き

こんだ文芸懇話会

の設立も右

のような図柄

の中

で理解

されねばならない。前掲

「日本文化聯盟組織計

画」

(第1表)巾

「日本文芸協会」がこ

にあ

たるだ

ろう。

そうだと

すれば

松本

らの狙

いは文学者

「日本精神

基調とする結合」

にあり、

その

「著作を通

して国民風教

の振興を図

る」

こと

であ

った。

しかし、

一九三三

(昭和八)年

の文学界

は、多喜

二虐殺を

はじめとす

る弾圧

にさらされ、転向

の雪崩現象、プ

ロレ

タリ

ア文学

の退潮

を余儀なくされ

たけれども、文学者

たち

の間には

ファッシ

ョ文化政策

にたいし反発する空気が充満

ていた。

その中

でナチ

ス焚書

にたいする長谷川如是閑

・三木清

・羽仁五郎

・大塚金之助ら

の抗議声明発表

(五月

三日)や新

居格

・久米正雄らドイ

ツ文化問題懇談会

の抗議文送付

(六月二日)などを契機とし

て、七月

一〇

日、学芸

(一六)

自由同盟が結成

された。同盟

は徳

田秋声を幹事

長とし、〈常任幹事

Vに徳

・久米正雄

・豊島与志雄

・藤森成吉

・新居

・三木

・青野季吉

・石原純

・木村毅

∴横光利

一・石浜知行

・津

田青楓

・谷川徹

・田辺耕

一郎

・戸坂潤

・長谷川

時雨

・舟木重信

・塩

入亀輔、

〈幹事

∨に長谷川如是閑

・菊地寛

・山田耕作

・加藤武雄

・中村武羅夫

・広津和郎

・葉山

嘉樹

・芹

沢光治良

・千田是也

・園池公功

・川端康成

・秋

田雨雀

・林房雄

・茅野粛

・布施辰治

・大仏次郎

・長

田秀雄

・岡邦雄

・細

田民樹

・大森義太郎

・森岩雄、

〈書

記長∨に舟木重信

(のち、田辺耕

一郎

に交替)

で発足した。

一九三

11

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三(昭和八)年中

には

「学芸自由同盟

ニュー

ス」

の発行、源氏物語上演禁

止にたいする抗議

(一一月)、講

演会開催

(二九)

(き

)

一月

)など

の活動を行

い、同盟員数

三五三人

(一九三三年

一二月

33在)、

四二

一人

(一九

三四年二月現在)を擁した。

それは

「当時

『自由主義者』を中心に、左翼も交

えた大動員」

として

「人民戦線

の可能性を連想

させる

『反

ファシ

(三

)

ズム団体』」であ

った。

このように広範な文学者が参加する団体の存在は、松本の意図する文芸統制や文学者動員計画の障壁となる。取締

(≡)

当局は

「同盟員中には左翼文士相当数関係し居り、内部より之が左翼化を図らむとする傾向ありて注意を要す」とし

てにらみを利かせ、同盟員にさまざまの圧迫

(山本

有三

・津

田青楓

・林芙美

子らの

「シンパ事件」、長谷川如是閑の

検挙、久米正雄

・里見惇らの

「文壇弄花事件」、菊池寛

・広津

和郎

・宇野

千代

・大下宇陀

児らの

「麻雀賭博事件」な

どを含む)を加えた。さらに追い打ちをかけて松本が学芸自由同盟の中心的

「自由主義者」を文芸懇話会に吸収し、

同盟員の分断をはかり、同盟の活動を封殺しようとする。文芸懇話会結成の過程は、学芸白山同盟が三木清

・中島健

(亘

)

・小松

・田辺耕

一郎

らだけとなり、解散

のための総会

も開けず、

立ち消

えにな

ったと

いう衰退過程と並行する。

「……直木

三十五氏

が新

官僚

とむす

んで

『文芸

院』

なるも

をはじ

めると、われわれの学芸自由同盟

に動揺がお

(三酉)

て多く

の作家が退潮して其

の方

へい

ってしま

った」と、

田辺耕

一郎

は書

いている。

松本

の文学者

にた

いする工作は

一九

三四

(昭和九)年

一月ごろから始

められた。松本

の回想

によれば、

「ま

つ最初

に相談し

たのは直木三十

五氏

でした。直木さんにぼくはい

った。『どうも

日本政府

は文化

の面

に対し

て非

に冷淡だ、

フラ

ンスには

アカデ

ミー

・フランセーズがあるし、

ソ連

にも

アカデミーがあ

って、

いわゆ

る芸術文化

の発展

に対

して非常

に力

を入れ

ておる。わが国にも

アカデミー

・ジ

ャポネとも

いう

べき日本芸術院を作らせる

べき

だ。

これが

一つの目標だ。次

にも

一つ考

えられる

ことは、とかく私生活を題材とする私小説が多

く芸術至上にかく

て、狭

い視野

に賜踏

してお

るのが現状

ではなかろう

か。社会国家を考

え、ある

いはも

っと哲学

を説き世界観、人

生観

にふれるような文学

があ

っても

いいのではな

いか。そういう意味

において、文学者、文士

を国

が大

いに尊重す

ると

いう制度を作

るべき

ではな

いか。

そう

いう意味

で私は文化連盟

一翼とし

てこの会を作

ることを文学者諸彦

(一ー工)

よび

かけようと思う』と話

した。直木

さんは直ち

に賛

成してくれたのです」

12

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θ

「芸術文化

の発展」

を促進する

「日本芸術院」

(「帝国文芸院」ともいわれた)

の設置と、⇔

「社会国家を考え」る

「文学者、文士」を国家的

「尊重」

する制度実現、

の二

つを目的とし

て文学者

の組織結成を要請

したと

ころ、

直木

(二六)

の賛

成をえたと

いう

のである。

直木

一九

(昭和六)年秩~翌

三二年

はじめごろから久米

正雄

・三上於菟吉

・白井喬

・佐藤八郎

らとともに

(言

)

「フ

ァッシ

ョ文学運動」

を提唱し、

一九

一.一二

(昭和七)年

二月

五日には陸軍省新

聞班長古城大佐

と懇談

の上、「フ

ァッ

(芸

)

ョ文学連盟」

として五

口会

を結成。そ

の年秋

の陸軍特別大演習を陪観するなど、軍部

と接触を保ち

つつ

「ファッシ

ョ運動」を進め

ていた。松本

は、そう

いう直木ら

の動向

に着目したのである。

一九

三四

(昭和九)年

一月

二九

U夜、

日本橋僧楽園

で松本は直木三十五

・菊

池寛

・15本有

二二上於菟吉

・白井喬

・吉川英

治らと懇談した。

この席には回錐会

の酒井忠正

・香坂

昌康も

加わ

った。そ

のも

ようを新聞各紙は、「警

の後押し

で/帝国文芸院

の計画/まつ右翼大衆作家達を集結/非常時

の文筆報国」

(『東京朝

U』

一・二五)、「国家

への勲功は/文士

にも酬

いよ/帝

国美術院と同格

に/直

木氏等

が水平運動を起す」

(『東京

日日』

一・二五)、「官吏

文芸

家/敵味方?握手

/音頭

取りは松

本警保

局長」

(『読売』

一・二五)、「『文芸院』問

の夕」

(『東京朝日』

一・三〇)、「文芸院

創設の第

一歩

/まつメムバー獲得/警保局

を割り/文士連と官

服をぬいで懇談」

(『東京

日日』

一・一.一〇

)など

の見出

しで報道

した。

一月

三〇

日付

『東京朝

日新聞』

は、参集し

た文学者全員が

「文筆

報国」に賛成

し、O毎月

一回会合

をも

つこと、⇔

「文芸院」設立を推進する

こと、⇔

「純芸術作品、

日本精神

の作興

に貢献

する作品」

に対

する授賞などを決定

したと伝え

ている。しかし、各紙

の姿勢は右の/1出しだけ

からみても冷や

で、

記事と同時

に、

一.一木清

「帝国文芸院

の計

画批判」

(『読売』

一・二七、

論壇時

評)、

与謝野晶子

「文士

は勲章を好

むか」

(『東京

口』

一・二九)、

正宗白鳥

「文芸

について上

・下」

(『東京朝

n』

・二~

三)、

武林無想庵

「漫画

『文芸院』」(『東京朝

日』三

・一)

など、文芸院無用論

や文筆統制批判を掲載し

た。雑誌などにも同様

の反対論

が多く

(三九)

みられた。

それらの主張は多様であるが、芸術院設置が国家による文化の保護

・発展に名をかりて、言論

・思想統制に通ずる

のではないかと危惧する点で共通していた。

一九三三

(昭和八)年四月設置の内閣思想対策協議委員会が思想対策上

13

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の施策を打出

したことは前

に述

べたが、内

務省警保局を所轄部局とする

マス

・メデイァ統制も

一段と強化され、

一九

(四〇)

(巴

)

三四

(昭和九)年三月には、映画統制委員会規程の閣議決定、出版物納付法案

(出版物の検閲強化と非合法出版の禁

(四。=

のため

の納本制度

の整備

)および出版法中改正法律案

(「安寧秩序

ヲ妨害」する出版物

の処分)

の議会上程

ど、

国家権力

の介入が露骨さを増

つつあ

った。警保局長が提

唱する文芸院設置問題を文学

にた

いする国家統制化

の脈絡

で担

える根拠は十分

にあ

る。

しかし、松

本は世論

の批判

・非難を無視

して文学者グ

ループ結成

のための人選を急

いだ。松本

にと

って、彼

に同調

する

「ファッシ

ョ作家」あるいは大衆文学作家は必要

ではあ

っても、所詮、文壇

への窓

口にすぎな

い。

目指すと

ころ

は、既成文壇

の中核

をなす純文学

である。そ

の多くが

「自由主義者」

である文学者を、プ

ロレタリ

ア文

・共産主義思想から最後的

に切断

し、国家主義

の枠内

に囲

い込もうと

いう

のが狙

いである。結局、長老格

の島崎藤

(窒)

・徳

田秋声

をはじめ十数

の大物作家が会員

に招

かれた。

一回会合

一九三四

(昭和九)年

三月

二九

日夜、

日本橋借楽

園で開かれ、松本警保局長

・中

里警保局図書課長ら

が島崎藤村

・徳

田秋

・近松秋江

・山本有

・広津和郎

・加藤武雄

・中村武

羅夫

・豊島与志雄

・白井喬

・吉

川英治

三上於

菟吉

(正宗白鳥

・菊池寛

・久米正雄

・横光利

一・川端康成

・大仏次郎

・長谷川伸は欠席)ら

人の文学者

(問)

懇談し

た。

席上

、松本

つぎ

のように挨拶した。従来、日本

の政府

は文学

にたいして冷淡

に過ぎ

た。美術

における帝国美術院、

文部省美術展覧会

と同様、文学においても政府

が文

芸院

つく

べき

であ

る。「それを促進するために、私はこれか

ら始終皆

さんと会合

いたしまし

て、お話を伺

うような会

を作

りたい……

この会合を後

に政府

が文芸院を作るまで

の準

として、私設文芸院と名づけた

いと思う

のでありますが、皆

さんの御意見

は如何

でし

ょう

か」

と述

べた。

るとすかさず

「真向

いに坐

っていた徳

田秋声さんが……喉

のかすれ

たような渋

い声

でいきなりい

った」

と広津和

(窒

)

は記

している。

「日本

の文学は庶

民の問から生

れ、今

で政府

の保護

ど受けずに育

って来ま

した

ので、今更政府から保護

され

なん

ていわれ

ても、われわれ

には

一寸信

用できませんね。それに今

の多事多端

で忙し

い政府とし

て、文学など保護

14

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する暇があろうとは思われませんよ。われわれとし

ては、

このままほ

って置

いて貰

いた

いと思

いますね」

田は

『改造』

三月号

「如何なる文

芸院

ぞ」を書

いて、政治家

・役人

いす

る不信を表明

し、文芸院設立が

(四穴)

「純正芸術

の進路

に障害

を与

へる」危惧

のあ

こと

を指摘

ていた。

長老格

の徳

田の発言

に、島崎藤村を

はじめとする

「純文学」者が同調したため、松本

・直木

らを中

心に準備され

きた国

立文芸院設

立準備運動体

としての

「私設文芸院」案

は否決され、文芸懇話会

という

「あたらずさわらず

の名」

を称す

ること

にな

った。しかし

「ほ

って置

いて貰

いた

い」

という徳田発言

にもかかわらず、参会者

の会設立にたいす

る積極的反対や不参加

の表明

はなく、毎月

一回

の会合

を松本

「招待」

の形

で行う

ことを応諾し

て文芸懇話会

は発足

した。

(碧)

一九

三五

(昭和

一〇年)現在

の会員は

つぎ

の二

一人

であ

(直

木は

一九三四年

二月

二四日没)

*印常任幹

事。

上司小剣

・*岸

田国士

・豊島与志雄

・三上於菟吉

・*近松秋江

・里見弾

・正宗白鳥

・川端康成

・菊池寛

・中村武

羅夫

*白井喬

・室生犀星

・長谷川伸

・吉川英治

・島崎藤村

・加藤

武雄

・横光利

一・徳

田秋声

・広津和郎

・宇野浩

*山本有

学芸自由同盟

のメムバーだ

ったのは徳

・豊島

・横光

・菊池

・加藤

・中村

・広津

・川端

である。

15

文芸懇話会の運営

文芸懇話会

の発足

にあた

って、徳

田秋声

いわゆる

「純文学派」

の会

員が、機先を制し

て松本

の意図に牽制を加え

一面があ

ったこと

は認め

ても

よい。はじめの頃

の月例会

で、

列席した中里警保局図書課長が配

った

「謄写版

の覚

(國八)

のも

の」

「文芸団体、

思想団体統

制と

いふ

一項目」があり、広津和郎

「こんな事

は成立

ちますまい」と指摘

(間)

すると、松本

「さう

です、

こんな事は成立ちません」と撤

回す

るように答える

一幕もあ

った。

当初、松本

が構想し

た日本主義運動

一環とし

ての文学運動プ

ランを、文芸懇

話会

に直接的

に適

用す

ることはいち

おう拒

まれたとみる

ことが

できる。しかし、「反

ファシ

ム団体」

であ

る学芸白山同盟

に結集した

「自由主義」的文

学者

の主要

メムバーが参加し、

日本文化連盟傘下

一組織として文芸懇話会は出発し

たのである。学芸

自由同盟を解

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体同様

に追

いこんだ点

でも、松本

の側

に主導権

が握

られ

ていたといわなければならない。これにた

いし、文化思想統

に十分警戒

的であ

ったはず

の文学者

が、なぜやす

やすとそ

の術中

に陥

った

のか。文芸

懇話会結成

にフ

ァッシ

ョ的支

の意図を嗅

ぎとることができなか

ったのか。

理解

に苦しむ

けれども、明治以来、政治や

アカデミズ

ムに支配

・影響

れることなく麗

てきた自認

ちの文学

「モシ帝国文芸院

トイ

フが如

キモノ

ニョッテ文学藷

ヲ企

ヨウトシ

テモ、ド

レ程成功

シ得

ルデアラウカ」と

った、

一見したところ、

いかにも主体

であ

るかのような自信過剰と、

の裏がわの没主体

的な政治的状況適応主義

が、文芸

懇話会

が果す

であろう客観的役割

に考

えを巡らす

ことを阻んだと

みるほかない。

このような状態におけ

る無自覚

「参加」

は、文学者自身

の主観とは別

に、結果的

にはフ

ァッシ

ョ的文化政策

にお

ける文学者動員にこたえることに蘂

・文学莞

ちの

「なしくずし型」の三

型L

の・蕪

自覚型」(障・それだけ

にも

っとも悪質な転向

が進行する。

それはとも

かく、文芸懇話会

スタートした。

一九三四

(昭和九)年

一九

日、

日比

谷公会堂

で文芸家慰霊祭

(祭主松本学、故小林多喜

二を対象

から除外)を挙行したのを皮

切りに、文芸家遺品展覧会、正倉院

・軍艦

三眠見学、

陸軍大演習参観、文芸懇話会

の設定などを行

った。機

関誌

『文芸懇

話会』

一九三六

(昭和

=

)年

一月

の創刊

ある。

『文芸懇話会』

は創刊号を上司小剣が担当

したのに

つづいて、会員

の交替編集と

し、以下、岸

田国士

(二号)・三上

於菟吉

(三号)・近松秋江

(四号、文化と暴力)・川端康成

(五号、

日本

古典文

と現

代文芸)・菊池寛

(六号、

日本

の将来

に何を心配するか)・中村武羅夫

(七号、

日本文

芸院論)・白井

(八号、文学

の現状検討と待

望)・室生犀

(九号、詩

ついていろ

いろ)・吉川英治

(一〇号、歴史

小説

ついて)(以下略)

が担当

した。

創刊号巻頭

(五三)

「会員

一人」と

いう署名

によ

る、

つぎ

のような発刊趣旨

が述

べられ

ている。

「文芸懇話会

は、思想団体

でもなければ、社交倶楽部

でもな

い。忠実

つ熱

に、

日本帝国

の文化を文芸

の方

面か

ら進

めて行かうとする

一団

であ

る。……会員

の文芸上

における思想、気質、傾向は、もとより個

々別

々のも

ので、

何等

の拘束

をその上に加

へんとするも

のでないのは、

いふま

でもな

い。太陽を中心とし

て、

それをめぐる惑星、或

16

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は惑星

に伴なふ衛星、そ

の他小さな星屑

に至

るまで、

いつれも個

々別

々の動きをも

ってゐ

るが、太陽系

といふ大き

な力

の下に運動する

ことに変りはな

い。そ

こに

一種

の不自然

でない統

一がある。拘束

でな

い節制がある……

今度

この

『文芸懇話会』

いふ小さな雑

誌を出す

に就

いても、

一つは会

の力を

一そう強く働

かせ、会

の動きを更

らには

っきりさせたいといふ趣旨

から出たも

のであ

る」

(以下略)

上司小剣

の執筆と推定

され

る、

この創刊宣言

の言

い回

複雑ながら、文芸懇話会

が松本

の政治的意図や思想

「拘束」される御用作家団体

ではなく、個

々の会

の自由な

意志

と思想

が保証され

ていることを、

ことさら強調し

いる。後述す

るように、前年来、文芸

懇話会

の存在、性格

にたいする疑惑と批判が高ま

っていた。それに

こたえる

く、設立後

一年

一σ

カ月も経

った

一九三六

(昭和

一一)年

に、「会

の動きを更らには

っきりさせ」る必要

から機関誌

『文芸

懇話会』

の刊行が企図された

のであ

る。

、たしかに、榎木隆司氏が指摘するよ遥

『文芸懇話会』

の記

事にぱ

政府

批判

文芸院

反対あるいは文芸懇話会

のも

への批判さえあり、執筆者も多彩

「自由

の幅」

を示し

ている。しかし、右

のような刊行意図

のもとに、自

な編集と自主的

な判断

にもと

つく運営

の印象をふりまきながら、物わかりよく松本

の理解弁護に

つとめ、・文芸懇話

幕顯誘蠕鰭鷲鰯羅鷲竃

.鶉ユ鷺

誘議

.....

.

.

「なるほど松本氏

は文化連盟

によ

って、

日本精神

を教説し

ゐることに

るのだが、文芸懇話会

に、そんな目的意

は更

にない……

文芸懇話会

の全

員が、松本

の日木精神教説運動

に参加

しなければならぬ

こともなく、松本氏も、

そんな事

を要

てもゐない。個性

の源泉

から発生し

て来

の本

をどうして他から調節したり、統制したり出来

るも

か。松本氏

は、そんな愚かな事

は考

へてゐない。

一言

にしてい

へば、松本

氏は、文芸

家を、も

っと広

い社会

に接触するやう便宜を計

り、又他

の社会

の人をし

て、

っと文芸を理解

する機運を促進

したいと思

ってゐる

のは事実

だ。先づそれくらゐ

のも

のだ」

あるいは、六号

(一九三六年

六月)には、松本自身を

田沢義鋪

・馬場恒吾とともに

「日本

の文化

はこうした

い」座

17

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(五七)

談会

(出席者は

このほか林房雄

・吉川英治

・岸

田国士

・菊池寛)

に出席

させ、所信を十分

に語らせるなど、編集上

工夫を凝

らした。

こうし

て松本と文芸懇話会会員と

の交

流が深ま

るにつれて、両者

の問

にあ

る種

の相互信頼が生

まれてきた

ことは事

 マこ

であ

ろう。広津

和郎

は、さきに引用した

(一四~

一五

ページ)徳

田秋声

の発言が松本

「文芸統制

の意企を断念さ

せ」、以後は

「ただ

の情性

で、最早意味

のない」文芸懇話会

の会

員を

「毎月料

理屋を変え

て」「招待

している」

にすぎ

(五C

いと述

べている。前述

のように、結成

にあた

って松本が意図

した方針

の直接的適

用は斥けられた

が、

「惰性

「招待」は松本

の後退、

つまり会員

の前進

であ

っただろうか。また、榎本

氏が

いうように、

文学者

「共

同戦線

の前

に、松本自身が認識

をあらため、当初

の企図

の変

るをえな

い破

目に立たされたと

いうのが実

であろう。懇話会

の人とな

って、松本

は文学を知り文学者を知り、文芸

のの意味

をも知

った筈

であ

(莞

)

……松本

は、む

しろ文学

のよき理解者

でさえあ

った」

であろうか。

これと

は逆

に会員文学者

の松本

への無自覚

な接近

(状況適応主義!)がもう

一歩進

んだ

のではな

いか。

(さ)

一九三五

(昭和

一〇)年

二月

二二日の文芸懇話会例会

で、徳

田秋声

「文芸院

に賛成し」、

松本

を喜

せた。松本

この日の

「日誌」

「とうとう

ここま

で来た」

と記している。

18

文芸懇話会批判

一九

三五

(昭和

一〇)年

六月

一七

日、東京

・山王下山

の茶屋

で第

一回文芸

懇話会費決定

の懇話会例会

が開

かれた。

その前

々日の審査委員会

では、推奨カードによる第

一位横

光利

『紋章』、第二位

島木健作

『獄』

の得点結果

にもと

ついて、横光

・島木

への授賞を満場

一致

で決定し

ていた。と

ころが、松本が島木授賞

に反対

し、

一七

日の例会

でそ

ことを表明した。

これ

にたいし広津

和郎

ら会員が理由

をただしたと

ころ、松本

「左翼

のシンパである者

の執筆

によ

(杢

)

(竺)

る作品

は選に入れ

ぬと

ハッキリ答

へ」、島木

の作

に代

て室生犀星

『あに

いも

うと』

を受賞作とすることにした。

この経過がやがて新聞など

により明

ると、文芸

懇話会

「文芸統制

の先触れ的役割

を演、じようとし

てゐ

るしと

った批判が高ま

り、不明

のままの

「金

の出所」問題とも

からんで文芸懇話会

の存在が問われるようにな

った。

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松本

に抗議しながらも島木を選外とす

ることを了承

した広津

『改造』九月号

「文芸懇話会

ついて」を書き、会

の性格

と会員とし

「踏み止まる」考えを述

べた。

そこで彼

「松本氏

が発起し、松本氏

のキ

モ入り

で集

ってゐる

の会

では、松本氏

の立場

といふも

のを全然無視

する事

は出来

ない」、松本

が島木に

ついて

「『国体

を変革する思想

持主を推薦

する事が出来

ない』

いふ事

は、冷静

に考

へて見

れば、最初

から解

り切

った事

であ

ったとも云

へる」、「そ

こで、私

達はなるほど

この会

で島木

氏を推奨する

のは無理かも知

れない……島木氏推奨は他

の方法を以

てす

べき

であ

ると思ひ、

一歩を譲

った

のであ

る」

と、島木問題

ついて歯

切れの悪

い釈明

をした。と同時

に、広津

「私

にはその

のメンバーの

一員

でありながら、未だ

にこの会

の性質、

らな

い。

その意味、性質

の解

らな

いと

ころ

が、又私に

この会

に踏み止まらせる事

に或意味

を感

じさせる」

とも

った。文芸

懇話会

「文芸

統制

の先触

れ」

とい

うならば、会

の内部

に在

ってその

「成行き」を注目したいと

いう意味

である。しかし、広津

によれば、文芸

懇話会

「統制

への道」

「反対

の経

路を辿

ってゐ

る」と

いう。

「……懇話会を発起

した頃

には、

(松本氏

はー

引用者注)或は文芸統制と

いふ事

ついて何か考

へてゐたかも知れ

い。……ところが、文芸家と

つき合

ふに従

って、

その気持

は少

しづ

s違

って来た

のではな

いかと思

ふ。、そして統

制などと

いふも

のが簡単

に出来

るも

のではな

いといふ事が、だんだん氏

に感ぜられ

て来た

のではな

いかと思

ふ。……

木と会談

した頃から見

ると、氏は文芸

のを、ず

っと理解

したに違

ひない。……文芸家

といふも

に、氏は今は最初の意図を忘れて、厚意を感じ始めたに違ひない1

氏はかうして文芸愛好の穏健な紳士とな

った

 マ

マ 

に違

ひな

いー

とかう私

は視察し

てゐる。

それだから文芸懇話会は、目下のところ、今

の社会状勢

の中では、思想的には、ど

っちかと云

へば中庸の位置に

ある穏健な会であると見るべきである」

ここでも

「松本氏の言葉を、松本氏の立場を理解する」態度のみが前面にあらわれ、文芸

・文化統制が国家権力

民衆支配の

一環であるという観点から離れて、文芸懇話会会員と松本との対人的関係あるいは松本個人の性行に問題

を媛小化させ、市井の常識人ぶりを示した。

あるいは

「陸軍大演習の見学に便宜を与

へられ……正倉院の拝観を許される機会を得、文学者……の立場が多少な

19

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りとも引きあげ

られやうとしてゐる

こと」に感激

した会

の菊池寛も

「文学を理解し、愛

好する政治家

の少

い今

の時

に、氏

(松本氏-

引用者注)は文学

を理解し、文学者

に好意を持

ってゐる。ま

ことに結構

であ

る」と、松木弁護

(芸

)

に回り、文芸懇話会

にた

いする批判を不当

の批評と斥け

た。

これにたいして文芸懇話会を脱退した佐藤

夫は

「文芸懇

話会

に就て1

広津和郎君に寄すー

」(『東京

口口新

聞』

一九三五

・九

・五~

八)

で詳しく文芸懇話会賞

遇衡過程

を暴露

つつ、「えたいの知れない会

と、

それ

にふさは

しく肚

のわからな

い会員と

の揃

ってゐるところとは訣別す

るのが当然

のやうな気持

が益

々昂

じた」

ことを明らかにし

た。こ

れをうけ

て広津

「佐藤君に答

文芸懇話会

に就

てー

(W東京

日日新

聞』

一九三五

・九

・一〇~

一二)で、

『改造』掲載

に補足する形

で、'松本

のイデオ

ロギーは

「右

の手

に剣

を持

ち、それによ

って世界

に押進

て行かうと

いふ種類

のも

のではな」

く、せ

いぜ

「文化的

な形を取

った国粋主義と

った程度」、「むしろ消極的な回顧的

日本

といふ

べき」「程度」

のH本主義

であろ

うと述

べ、非

ファッ

ョ性

を主張

し、ふたたび松本

を擁護した。も

っとも

松本が

「剣

を持」

った

ァナティ

ックな右翼

でな

いと

った

で無意味

であ

って、青野季吉

から

「極

右翼

の場

合、当面

の問題

とし

て文芸統制などと

いふことが在

りうる

であらうか……当面

に文芸統制が問題となり、目論

まれ

のは、徐

々のフ

ァッシ

ョ化、

はげし

い摩擦

のな

い統制化

によ

って、、事態を運

んでいく

ことを利益とする所

においての

(六四)

み……今

日文芸統制が問

題となりうる」と反論されるのも当然

であ

った。

こうし

て、

いわゆる島

木問題をめぐる論議が沸騰

した。佐藤

の投石が

「文壇政治的意味

に於

て、

一時的

には却

って

(蓋)

話会

の今後

の結合を強化した傾向」もうかがえたが、他方

の批判

の声も高

った。それという

のも、同年

二月

の天

機関説事件以降、

ァッシ

ョ的統制を

一段と強化した政府が、五月

には美術界

の挙国

一致体制とし

て帝国美術院を

組、帝国美術院官制を公布。七月

には著作権

公布

(文芸界から犬養健、島崎春樹

〈藤村〉、徳

田末雄

〈秋声〉、菊池寛、山本勇造

〈有

三〉

の五人が委員

に任命

された)。さらに

一一月

には映画

の国家統制機関として大

日本映画協会設立など、内務

・文部両省を中

心に

一連

の文化政策を打

ち出したため、文化統制

にたいする警戒

の空気

が広

っていたから

である。

20

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これらの機構

制度改正は、それ自体とし

て法

促す側面もあ

ったが、中野重治

の指摘

のとおり

「今

の日本

で、ど

の方

面ででにしろ、法律や物事

のブ

ルジ

ョア化i

法律化

があるとすれば、それはそのことを含む

一層大きな

尖六)

反動的統制策

の進行を意味」し

ていた

のである。その状況下では

「文学芸術がひとり

ファッシ

ョ化

による組織的強制

(六七)

の外におかれる談議

いのであ」(青野季吉)慨

在に於

ての文学統制の機運は根底的にファ.シ.動向

の余波た

ことには誤りはない」

(杉山平助

)とみる見方

も少

なくなか

った。

(六九)

「国

の文芸統制

に対し

て殆

どす

べての作家、ジャ

ーナリ

ストが反対

てゐ

る」

のであ

る。しかし、

こと文芸

懇話会

の位置

づけとなると評価は

つに割れ

た。

一つは、「か

の文芸院

から文芸懇

話会

へと

つづ

いて来

た文化統制または文

(苫

)

芸統制

の意

の継続

であり発展

である

ことは疑

ひを容れな

い」ど

う立場。も

一つは、「現在

の如

き内容

の文芸懇

話会が、何十生れた

って、ま

た、文芸院

のやうなも

のが設けられた

って、

そんなも

のでは、文芸

は決し

て統制

されな

(七一)

いだらう」

という見方

である。

この対立

『文学

界』

一九

三六年

二月

「文学界同人座談会」

(横光利

一・深

田久

・阿部知

・川端

康成

・武

田麟

太郎

・森山啓

・小林秀雄

・村山知義

・島木健作

・林房雄

・河上徹太郎

・舟橋聖

一が

出席)

にもうかがえ

る。「懇話会

がそのままに

(ファッ

ョへ)行

っちま

ふかも知

れない。もはや、隠微

のうち

に徐

行してゐ

るかも知れな

い」

(武

田)、「文芸懇話会

は……それは何と

っても

ァッシ

ョの傾向だね」

(舟橋)と

った

文芸懇話会批判。

これにた

いする

「文芸懇話会だとか、

ァシズムだとか、懇話会

に結び

つけ

て言ふが、

あれが

ッシ

ョ的

な機関

とか

になれば、今

の会員

一人も

ってい

ないだら

うと思ふ」

(川端)、「いま懇話会

はどう

いふ思想

かと

いふ、

さう

いふ思想

の種類は懇話会

には何

もな

と思

ふ」

(横光)、「文芸懇

話会

の政策

は、今

のと

ころたしかに

日本文学

の促進

に役立

つんだ」(林)、「文芸懇

話会

があ

った方

が利

益か、無か

った方が利益か、ど

っちかわからん」

(小林)という文芸

懇話会会員ら

の対応。

この応酬

は、中野重治

により

「これら

の(小林

・林

・横光

・川端

『文学界』

同人主導者ー

引用者注)弁護士達がよ

ってたか

って松本学

の代弁者」を

つとめているとか

「何人かの作家達が松本

(三

)

の拡声

29にな

ってる」と椰楡された松本擁

護論

をめぐ

って展開されたが、武

田ら

の焦

燥感

と川端

らの自信過剰だけ

が目立ち、討論内容は

いた

って不毛

である。それは

ファシズ

ムにおける文化政策

の形態

を見きわめようとする討論

質的深化がみられ

ないから

であ

る。武

・舟橋

の側

にし

ても、川端

・横光

・林

・小林

の側にし

ても、ともに迫りくる

21

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ファシズ

ムの本質を理解す

る能力

を欠

いていたとも

いえ

る。

チス焚書

に抗議し、反

ァシズムで

一致

しえた多く

の文学者

が、自分

たちに伸しかかろうとする天皇制

ァシズ

ムを黙過し、文芸懇話会

の政策的意味を見誤

った

のは、

ァシズ

ム支

配を国家強権的

な暴力と

のみ理解し

たためであ

ろう。「文芸懇話会

の会

員にな

っても、

また、仮り

に文芸

の如

きも

のが、政府

の力

に依

って設置

され

て、大多数

文芸家

が、文芸院

の会員

に祭

り込まれたと羨

も、各自

が、各

の自由意志に依

って創作

し、言論を発表

する以上、

それは事実に於

いて、統制

でも、何ん

でも

ない」と

いう、個人

の生

作活動

の自由

のみを近視

眼的

に重視する

「自由主義」者

の認識

は、反

ァシズムの戦

列を構成し、社会内

政治的自

の璽塁を築き、人民的抵抗

の酵母とな

る自由を拡

大し

てゆく能動性を欠

いている。青野季吉

「相手

が明白

ファッシ

ョの相貌をそろ

へて押し出し

て来

 マこ

とき

には、

それに向

ってほとんど本能的

に反掻

にすること

は、

これ

は信じ

ていい。

たと

へばナチ

スの焚書

の場合にお

ける

この国

の文学者

の、

ほぼ

一致

した怒り

によ

っても

それが示され

てゐたと考

へてよ

いであらう。だが、

ァッシ

がさう

いふ明確な相

貌によ

ってでなく、

ほとんど

ァッシ

ョたる

ことを隠蔽し

て歩き出し

て来

た時

には、

どう

である

か。そ

この場合

には.文壇

のいま云

った

潮』

『伝統』

は・ず

ゐぶん危

しいも

ので竃

と述

べているよう

に、文学者

の伝統

的風潮

としての

「自由主義」は、国家権力

の強制手段発動

にたいし

ては敏感

に目を剥くが、民衆

同意を伴

つつ進

行す

ファシズ

ムにたいし

ては、むしろ鈍感

でさえあ

った。

ファシズ

ムの支配機能

としての強制

同意をかならず伴

うし、同意はなんらかの強制なしには成立

しえな

い、と

いう点を

「自由主義」的文学者は理解

でき

なか

った。

これにたいし

「統習

身が畠

大として土識

される文化統製

、今

の場盒

だと籍

した戸坂潤は、ファッシ

ョ的文化統制を

つぎ

のよう

に定義

した。

「……実

は自由

の抑

ではなく

て可能性

の抑圧が統制

の意味

と云

った方

いいやうだ。色

々の可能性

があ

って、

 マ

マ 

っておけば夫

々が自由な活動

を現実しさうな処を、或

る目的

に適

った可能性だけを貼宅させて

(之が初め

て自由

となる)、他

の可能性

を可能性

に止めることが、統制

の正確

な意

であ

る。統制力

は別

この諸

可能性

を積極的

破壊し

て不可能ならしめたり、

又新

しい可能性を造

り出し

て之

を現実化したりするやうなポヂチブな力

ではなく、

22

Page 24: C ì õ - 明治大学 · n « É Ó ê Ä G È Ç É  \ µ ½ ¬ ¶ ð W ¬ µ. x Û Ç · Ý C Ì ê ã O O ( º a ª) N µ A ¼

に、或

る可能性

はそ

のままにし

ておき、之

に反

して他

の可能性だけを自由

にまかせると

いふ、ご

く消極的な機能

のことなのである。諸可能性

は併

し之

によ

って立派

に淘汰

され、そ

の淘汰され

たも

のだけが組織を造れば、お

のつ

から新

しい世界が造

り出される

こと

にな

る。だから統制は自由

の抑圧

ではなく

て、却

って成

る特定

なn由を他

の不

利布告

な自由から護

こと

によ

って、結果

に於

ておのつから之

を実現する

ことにな

る、

といふことを意味する。停

滞させられた可能性

から見れば統制は自由

の抑圧

(実

は自由

への転化

の阻止)だが、白山展開

に放任された可能性

から見

れば、統

制はそれ自身自由を意味

するわけ

である。」

戸坂

は、

このように述

べて

「自

由主義

の立場

に立

って文化統制を是非

することは、容易

に信用出来

なくなる」と、

「自由主義

」的

な判断基準

に批判を加えた。

この見

は、

ファッシ

ョ的統制

の現代的位相を的確

に担え

た卓見と

いえ

る。戸坂

によれば、文芸懇話会設立

に起点

を置く文芸統制

は、文芸活動

にたいする強権的か

つ制限的な抑圧とし

てあ

(七六)

らわれず、「文芸

的対

立物

の積極

的構成」「文芸的対立物

の産出」

を意味す

ると

いう。すなわち、文芸

統制

とは

「統

∴単

一化し

でなく、「対立化」な

のであると説

く。

ここで戸坂が

「対立化」を強調

したのは、創出された文化

の対立状況下

で、文化

・思想

政策

に対

立する反、フ

ァシズ

(薯

)

ム文化戦線統

一の課題を明らかにするためであ

ったと思われる。

戸坂

いうよう

に、

ァッシ

ョ統制

「対立化」

であ

るならば、反

ファッシ

ョ戦線は対立物

にまさる集団的

な力量

を自己陣営

が備えねばならな

い。

この点を意識した

人民戦線

的統

一への提唱も

いく

つかみられた。「人民戦線戦術

(七八)

地盤

は、

それなり

に機

が熟し

つつあ

った」

のであ

る。

たとえば藤森成吉、青野季吉、貴司山治。藤

森が

「『自

由主

義作家』達

とプ

レタリア作家

とは、現在

のやうな時

に於

いては、

…時的行きがかりよりも

ヨリ強

い共通

の文化的利害と文化的敵とを持ち、共

同して闘はなければなら

(莞

)

(八9

ない立場

におかれてゐる」

ことを強調すると、青

野もこれ

に賛成

し、自らも、

「……す

べてのプ

ロレタリ

ア文学者、能動主

義文学者、自由主

義的文

学者

が、

この場合、進歩的文学者

としてその

主体

を成す

べき

で、

それ以外にも、『自由

にし

て高進な』文学精

神を保

し、防衛

しようとする文学者

は、

たうぜ

んそ

の範囲に加

へらる

べき

である。

これら

の進歩

的な文学者

が、同業組合的

でなく、反

ファッシ

ョ、文学防衛

の精

23

Page 25: C ì õ - 明治大学 · n « É Ó ê Ä G È Ç É  \ µ ½ ¬ ¶ ð W ¬ µ. x Û Ç · Ý C Ì ê ã O O ( º a ª) N µ A ¼

において結合

し、文学

のことは文学者

によ

ってと

いふ自治的な建前

にお

いて、著作権審査会

なり、文芸懇話会な

 マご

り、

・ク

ラブ

いし

て、

の態

こと

は、漸

ッシ

ョ化

にし

ても

っとも

よく

へる所

((こ

であらう」

と述

べ、文学者

「結合」を訴えた。青野

「結合」構想

とは

「反

ファッシ

ョ的な意識を主観的

に抱

いてゐる文学者

の凡

てを含有さ

せ」、「決

一元的

な政治的イデオ

ロギ

イを紐帯

した結合

でなく、文学防衛

の共通基盤

に立

って、

(八一一)

アッシ

ョの反文学的反文

化的

の強制に対抗しやうと云ふ結合」

であ

る。

のちに彼が提

唱した民間文芸院

「民間性

((  )

基礎をおいた、国家

の文化統制と対抗

する文芸院

又は文芸院的

の組織」

で、文学者

の横断的な結合が構想

されていた。

た、貴司山治も

「『能動主義者』とプ

ロレタリ

ア作

家達は、

イデオ

ロギー的な、政治的な

いかなる他

の約束をも

((朗)

排除

して……文学

の仕事

の共働

が可能

であり、必要な」

こと

を強調し、能動主義

にたいする

「否定論」

(大森義太郎

向坂逸郎

・岡邦雄ら)と

「要求論」

(窪川鶴次郎

・中野

重治

・森

山啓

・中条

百合子ら)

の公式的

・清算主義的な誤り

ついた。

(会)

あるいは、石浜知行の

「文芸家が自らの強力な独自的な結合」と

「社会的眼識を働かす必要」論を支持した新居格

(八さ

は、「焦点

は対抗

しなければ

なら

ぬには在らずし

て、如何

に対抗す

るか

の具体策だけ

である」と述

べ、「個

々的

にも

(会)

文化擁護の要求を……合流せしむる」「具体的な成形」の必要を主張した。

 ママ 

 ママ 

このような文学者の人民戦線的統

一を求める諸提案が提出されるなかで、『時局舗

』が

「智識

級の良

心と智性

の組織とし

て」学芸白山

同盟

「母胎」

とした

「文化擁護

のため

の運動」再興を提案すると、青野季吉

・江口換

・水

野広徳

・加藤勘十

・新居格

・藤森成吉

・小岩井浄

・戸坂潤

・TM生

らがこれ

に賛成

した。そして再建準備

はあ

る程度

(八九)

進められたようであるが、実現をみるには至らなか

った。

文芸

懇話会

「対立」

し、文芸

統制

に対抗する声は交響す

ることなく、弾圧

の嵐

にかき消

され

たのであ

る。

(九〇)

武田麟太郎

が主宰

し、「文芸

懇話会の排撃」を目的として発刊

(一九三六年三月)された

『人民文庫』の懇話会攻

(九=

の筆鋒も、「一〇

・二五事件」

によ

る執筆

ループ

一六

の検挙以降軟化

せざるをえなか

った。文芸懇話会

を批判

(竺)

する

こと自体が違法

とされ

る時代

が眼前

に迫

つつあ

った。

24

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文芸懇話会の解散と新口本文化の会の設立

一九

三七

(昭和

一二)年六月

二四日、帝

国芸術院官制が公布

(勅令

)され

た。

これは

一九三五

(昭和

一〇

)年

五月

の帝国美術院

改組問題以来

の美術界紛糾

に結着を

つける国家統制

であ

ったが、同じ意図は文芸界

にも及んだ。正宗白

・永井荷風

・島崎藤村が会員

になる

ことを辞

退したのはそ

のため

である。しかし、文芸関係者

として幸

田成

(露

伴)・徳

田末雄

(秋声)・岡本敬

(糖蜜)・泉鏡太郎

(鏡花)・菊池寛

・武者小路実篤

・谷崎潤

一郎

・千葉胤明

・井上

通泰

・佐

々木信綱

・斎藤茂吉

・高浜清

(虚子)・河井

又平

(酔茗)・国分高

(背圧)・三宅雄

二郎

(雪嶺)・徳富猪

(蘇峰)

一六人が会員

に任命され、帝国芸術院は発足

した。

設置

にあ

って、松本

がとく

に積極的

に動

いた形跡

はな

い。松本

や文芸

懇話会

の線とは無関係なと

ころで決定

され

たとみる

べき

である。このため、文芸院設立を主張

してきた松本

にと

って、帝国芸術院設置は

「鳶

に油揚をさらはれ

(九[e

たやうな感じ」であ

ったかも知れない。第三回文芸懇話会賞を川端康成

『雪国』と尾崎士郎

『人生劇場』に決定した

七月

一六日の文芸懇話会例会で、松本は

「帝国芸術院が出来た以上、文芸に対する国家の態度は、われわれの要求通

(畿

)

りにな

ったと見

るべき

で、芸

術院

の実際的活動を期待す

る意味

から、今

日限

り文芸

懇話会を解消したい」と述

べ、文

芸懇話会

の解散を決定

した。

しかし、吉

川英治が

「芸術院

ができ

たからと

いふのでは、解散

の理由とし

てをかし

い」

といぶか

ったよう

に、帝国

芸術院

の設置

が文芸懇話会解散

の真因

ではあるま

い。それ

には、

つぎ

のような事情

があ

った。

松本

「日誌」

によると、これより先

の六月七口に、松本

は佐藤春夫

(前年

一月、文芸懇話会

に復帰

し、忠勤をはげ

(突)

でいた)と会

「文芸懇話会

の将来

の相談

をした」。佐藤は

「日本

のも

の拾頭

して来

た」文壇

「気運

に乗ず

く、文

士、詩歌、学者達

のグ

ループを作

るべきだ

と云」

い、

ついで六月

一四

14にも、松本

は佐藤

・中河与

一と会談

「学者、文学者、文芸家、詩歌人、評論家を交

へて

『日本的

なも

の』と云

ふ気運

をジ

ャーナリズムの

一時

の流行に止

めしめないで永続

させるグ

ループを作

らうと

相談

した」。

この提案

にそ

って、六月二八日の準備金

には松本

.佐藤

.

のほか、久松潜

一㌧

房雄

・保

田与重郎

・萩

原朔太郎

・川原次吉郎が出席し、芸名を

「新

日本文化

の会」とする

25

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ことなどを決め

ている。

松本

は、六月

一四日

「日誌」

に新グ

ループ結成

について

「之

こそ自分

が文芸

懇話会を作

った終局

の目的

であ

る。

文芸懇話会が

ここまで来

ることは百年河清

を待

つに類

するも

のであるから、別働隊を作

って新

日本文芸

の運動を起さ

んとす」と記した。新

日本文化

の会結成は

マンネリ化した文芸懇話会

の、松本

による強化再編にほかならなか

った。

の頃、松本

「皇紀

二千六百年を迎

へんとするに方

り……光輝ある日本文化を回想し、之

か再認識を促し、其

真髄

を中外

に宣布

し、以

て民族

的躍進

の契機たらしむると共

に、国民的感激を遠く後

へ、其

の奮起

に資

(九七)

する」

(「財団法人

日本文化中央聯盟設立趣意書」)

ための

日本文化中

央連盟

(一九三

七年九月

一七11設立)結成

のた

め、政財界

に強力

な働

きかけを行

っていた。

日本文化中央連盟

の事業計画

は二六〇〇年奉祝文化事業を中心に多岐

わたるが、松本

の率

いる

「日本文化」運動

一環とし

て新

日本文化

の会も位置

づけられた

ことは

いうまでもな

い。

日本文化

の会

は、文芸

懇話会解散

の翌七月

一七

日、赤坂幸楽

で発会式

を挙げ

た。当初

の会員は松本

のほか、佐

木信綱

・武者小路実篤

・長谷川如是閑

・北原白秋

・折

口信夫

・倉

田百

・萩原朔太郎

・中河与

一・林

房雄

二二好

達治

・藤

田徳太郎

・浅野晃

・浦本政三郎

・保

田与重郎

・芳賀檀

・岡崎義恵

・柳

田国

・塞

出空穂

.島津久基

.斎藤茂吉

.

(九八)

久松潜

一・小宮豊隆

の二三人と伝えられているが、

一九

三七

(昭和

=

に、犬

・橋田邦彦

(のち退

会)・川端龍子

・川原次吉郎

・横山健堂

・辻

二郎

・成瀬

無極

・梅

三郎

・野口米次郎

・尾佐竹猛

.九鬼周造

.山

耕搾

・阿部次郎

・佐藤春夫

・佐藤朝山

・岸

田国士

・箕作秋吉

・宮城道雄

・森銑

・角南

り、

四三人とな

た。

このうち元文芸懇話会会員

は、萩

・佐藤

・岸

田の三人

にすぎな

いが、萩

・佐藤は、林房雄

・芳賀檀

・中

河与

一・保

田与重郎

・藤

田徳太郎

・浅野晃

・三好達治らとともに編集委

員となり、雑誌

『新

日本』

の編輯

(のち倉

田再三

らも編輯委員となる)

に当

るなど、新

日本文

の会

の推進的役割を担

った。

文学者

の入会は、編輯委員

に名

を列ね

た、体制賛美

の日本主義同調者

以外

はほとんどなく、そ

の点

では文芸懇話会

(究

)

ほど

にも文壇

の積極的協力を

えられなか

ったとも

いえ

る。し

し、「闘争団

体」としな

いと

いう条件付ながら長谷川

如是閑、佐

々木信綱

・武者小路実篤

・折

目信夫らが参加し、

さらに文化各界

の権威者をまじえ

「アカデミ

ックな而に

おいて強味を難

」た・その中には・

民俗協会の苫

信夫・詩歌懇話会

の佐

・木蘭

・北原白秋

・斎震

・窪

26

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田空穂

・野口米次郎

ら、伝記学会

の尾佐竹猛など、

日本文化連

盟傘下団体

に属し、以前から松本と交際

のあ

った者も

く、「文化人」

の幅広

い動員

一応は成功

していると

ってよ

いであろう。

二三

)

以後

における新入会員は

つぎ

のとおり

である。

一九

三八年八月

一日現在

(会

員七〇人)

石井柏亭

・伊東静雄

・奥村喜和男

・遠藤新

・岡

山巌

・岡

本か

(のち死亡、退会)・亀井勝

一郎

・河野通勢

・笠

間呆雄

・木村荘十

・小泉信

・小松耕輔

・小林秀雄

・白柳秀湖

・神保光太郎

・田部重治

・田辺尚雄

・暉峻義等

土方成美

・深

田久弥

・本

間久雄

・町

田嘉章

・三好

・山

・安

田靱彦

・山岸外史

・横

山大観

・与謝野晶子

-

以上二八人。

一九

三八年

一一月

一日現在

(会員七四人)

伊原宇三郎

・富沢有為男

・難波

田春

・中谷孝雄ー

以上四人。

,

一九

三九年

一月

一日現在

(会員七七人)

児島善三郎

・坪田譲治

・長与善郎-

以上三人。

一九

三九年

四月

一日現在

(会員八六人)

梅原真隆

大谷尊由

・小野清

一郎

・川田順

・古屋芳雄

・長谷川善雄

・水原秋桜子

・山崎靖純

・山口誓子

・吉植庄亮

以上

一〇

人。

二〇二)

日本文化

の会は、設立当初は会

・綱領もなく、組織的

にも

ルーズな同人組織とし

て出発したが、発起人

一人

であ

る林房雄が述

べているよう

に、新

日本文化

の会は

「新

日本

主義

の主

張者

と賛成者

のみ

の団体

であ」り、「現代

の精神を、半植民地的思想

(国際主義

・自由主義

・唯物主義など1

引用者注)の泥沼から救ひだすのが、この会

の霧

」としていたから・会の目的性格は明瞭であ

った・それは批判者中条百草

から

「その非科学的、非歴史曽

(δ四)

マンチシズ

ム」と嘲笑される方向

を走

っていた。

一九三八年

一月創刊

の雑誌

『新

日本』

「創刊

の言葉」

を書

いた佐藤

春夫は、「古

い日本

の土に根をおろし

て、新

しい文化

の花を咲かせ」「行きづま

った世界に

東方

の新し

い文

化を注

ぎ込」むため

「我等は立

った」と訴

えれば、編

27

Page 29: C ì õ - 明治大学 · n « É Ó ê Ä G È Ç É  \ µ ½ ¬ ¶ ð W ¬ µ. x Û Ç · Ý C Ì ê ã O O ( º a ª) N µ A ¼

「後記」

で林房雄

は、「日支事変」

「革

新」性を強調し

つつ、「革新」

に先

んず

「新

日本文化樹

のため

の理解

と協力」をもたらす

のが雑誌発

行の使命だと結

んだ。

すでに紙幅

も尽き

たので、排外的民族主義

であ

る新

日本主義

で紙

面を飾

った

『新

日本』

と新

白木文化

の会

の活動

ついては、

日本文化中央連盟

の諸事業ととも

に別

の機会

にあらためて検討したい。

.七

(≡エ)

文芸

懇話会

の設立を

「明

らか

にこれは

ファシズ

ムの手が文学

に伸ばされたも

のだ

った」と

いう

の評価

があ

る。

これ

にたいしてもうひと

つの見方

があ

る。「当時、直

の間

には、か

なりに文芸統制を受容れ

又は期待する気分が見えたのであるが、その後

の懇話会は、主として純文芸作家が主として活動したのであまり

(一〇×)

問題は起

らなか

った」

とする

一九三六年

『文芸年鑑』は、体

「大衆

作家」と

の対照において

「純文芸

家」を位置

づけ、純

文芸作家

の健全さを自認した。

この総括

に加

えて、も

っとも真

面目に最後まで文芸懇話会と松本

に付合

った会員

である広津和郎

の前述

の発言などが懇話会

「自由主義」的性格

っそう誇張

した。戦後

の研究

にお

いても、広津

の証言

に全面的

に依拠し

た榎本隆司氏は

で同・…松本

の企図

はみのらなか

った。

そこに、自由主義を

二〇七)

守ろうとした作家たち

の、ささやかな抵抗

の姿勢を明確

に読

みと

ることが出来

る」

と評価し、高見

の評価と真向から

対立した。しかし後者

の意見は、松本と

の関係

における文芸懇話会

の運営面

に問題を局限した見方

にすぎず、基調

った文化人

のフ

ァッショ的動

員政策上

の位置を

みようとする観点がま

ったく欠落

していると

いわざ

るをえな

い。

たしか

に文芸懇話会

は、松本

が意図した文化運動路線にある程度

の修正を加え、ある

いはブ

レーキをかけた側面は

認められ

よう。しかし、文芸懇話会結成

に参加

し、文芸統制批判

の高

まる中

で会

員であり

つづけ

たことは、会員文学

の主観的心情

とは別

に、客観的

には、反

ファシズ

ム文化運動

の展開

をい

っそう困難なも

のにさせ

るとともに、自

ァッシ

ョ的文化政策

に加

担す

ることを意味

した。

文学者

ファッショ的傾斜

の主因を

「純文学」にお

ける

「独断

主義、神秘主義」

の日本的ブ

ルジ

ョア的

‖封建的性

に求

めた中野重治は、

一九三六

(昭和

一一)年

の小

で、

一九

三三年以降

の文学界

の動向を

つぎ

のように述

28

Page 30: C ì õ - 明治大学 · n « É Ó ê Ä G È Ç É  \ µ ½ ¬ ¶ ð W ¬ µ. x Û Ç · Ý C Ì ê ã O O ( º a ª) N µ A ¼

べ、「文学

の関係

の新

しい段階」

到来を指摘

した。

「プ

ロレタリ

ア文学

にたいする

一つの抵抗

て帝

国文芸院

が目論まれ、勲章が目論

まれ、最後

に文芸懇話会とし

てそれがひとまず成立した。最初目論まれ

た時期

には、

それは文学者、イ

ンテリゲ

ンチャ、ジ

ャーナリ

ストたち

一般

的な反対から政府

と国家主義

的な通俗作家

たちと

の手

で護

られていた。

つぎ

の時期

には老衰期

にはい

った自然

主義作家

のあ

るも

のがそれ

に加わ

った。そ

つぎ

には

『純文学』

の作家

たち、

たとえば横光利

一氏

や小林秀雄民

同じ防衛陣

に加わ

った。

そし

て最後

には、たとえば林房雄

のような

『プ

ロレタリ

ア作家』さえが同じ側

へ加

て行

った。ブ

ルジ

ョア文学

の最後

(最高

の)砦

であ

『純文学』作家

一部

『プ

ロレタリ

ア作家』

たちとによ

二〇八)

って、プ

ロレタリ

ア文学

にた

いする抵抗

一つとし

ての反動的文学組織が護られるま

でにな

った」

ここで中野は松本

による

「帝国文芸院」設立計画にはじまり、やがて結成される新

目本文

化の会

にいたる過程を、

反革命的

・ファッシ

ョ的文学組織編成

の過

程と狙え

ている。松本

側からいえば、文芸懇話会

「三年間にや

った仕事

(δ九)

は相当意義

のあ

ったも

の」だ

った

のである。文芸

懇話会解散

に際

ての、

この松本談話

を承け

て、中条百合子は、

「松本氏

の感想は複雑

なそれぞれ

の社会的角度

から見

ても否定し得な

いも

のを持

ってゐ

る。

日本

の文学者

一部

が・

文芸

懇話会

の成立をめぐ

って明治文学以来

の進歩的伝統をす

てて政治的性格をもちはじめ

たことは、少くとも将来

(二9

書かる

べき

日本文学全史

の上

に、

一時期

を画した事実

なのである」

と述

べた。中野

にし

ても、中

にし

ても、

このように時代転換

の状況を的確

に肥え

ていた。しかし、

それにもかかわ

らず

ァシズ

ム状況

に対応す

べき人民戦線的統

一の観点

に到達

できず、

ァッシ

ョ文化連動

の進行を切歯す

るにとど

った。

こうして、文芸

懇話会

は、それ自体

とし

て完結的

ではなか

ったけれども、文化人動員方式

に先鞭を

つけ、文化

・思

想対策

の流

れに添

っだ

のであ

る。「懇話会

のも

のは実

を結ばなか

ったが、懇話会

で蒔

いた種

は芽

を吹

いた訳だし、

二)

懇話会

で打

った網には魚

がかか

った訳だ」と

いう

『読売新聞』壁評論

は、寸評ながら正鵠を射

ているよう

に私には思

われ

る。

29

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(D長沓

取霞

釈くK『

寝長

齢鼠

瀧糠

蝦編

騒(ト

)』({ζ

督副

憲ポ

く繕

ば子

・ば

」]・

吊く

苦'1R{1く

早計{11〔

ミ羅)

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渠乾

田蝦

屡締

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織部睡

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国法

桓諫

廼≒

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付表

治安

維持

法違

反(左

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1011て一

へ。

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人4

18

6

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8

無…

分処

7・7666361唯」28570ハ01

保留

ー 不

予猶

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㌶裟灘撒劉劉駕 訴起

-,

訴起

㌶㌶隠裟㌶鴛鵬㌃ L

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和4

偏ーーーーー(ー(ーーーーーーー~1

驚出塁㌶塁墓39犯2㌣ 1

O◎◎

『現

代史

資料(45)・

治安

維持

法』P.646~

649より

作成

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(≡

粟屋憲太郎

「ファッシ

ョ化と

民衆意

識」

(江

口圭

一編

『体系

・日本現代史

ー日本

ファシズ

ムの形成』

一九七八年、目木

評論社∨所収)

二九三ページ。

(四)

『議会制度七十年史貴族院

・衆議

院名鑑』

一六〇ページ、『研究会所属貴族院議員録』

(一九七八年、尚友倶楽部)、松本学

履歴書

(国立国会図書館憲政資料

室所蔵

「松本学関係文書」)

など

による。

(五)

ちなみに、松本は五尺七寸

の巨

躯。色黒。定九

郎型

の刈上げ

短髪。牛と緯

名づけられた。「鈍重にし

て持久力の強さは、

そのガ

ッチリと、づんどうのやう

な肩と首

の線

にあらはれてゐ」

(杉山平助

「松本学と佐藤春夫」

八『日本評論』

一九三五年

一〇月号、

三七三ページ)

たが、精惇、重厚

な容貌

は信頼感を与えたよう

である。広津和郎は初対面の印象を

つぎ

のように

べている

(『続年月

のあしおと』『広津和郎全集』

一二巻

一九七四年、中

央公論社V三三

ーぺ]ジ)。

「松本警保局長は、恰幅

の好

い、髪

を少し短か

にした

精力的な感

のする、

にこにこと人をそらさない、男らしい顔附を

した人物

で、

いわゆる新官僚

に属

するのかどうかは知らな

いが、肩肱を張

ったようなと

ころが少しもな

いのが、まず好

感を

与えた」。

(×)

前掲、『松本学氏談話速記録

(下)』

一〇七

ページ。

(七)

馬場修

「ファシズ

ムと反

ファシズ

ムー

一九三〇年代

日本知識人の場合

1

(『歴史学研究』四五三号)

一、一ぱ

四ページ

の要約を参

照。

(八・δ)

「邦人

一如宣言」

(松本学

『文化と政治』

一九三九年、刀江書院V所収)。

-

(九)

「我等の主張」

(『邦

人類集』

一九

三六年四月

く前掲

『文化と政治』所収∨、

以下、同文による。

(=)

松本学

「私の法螺」

(『文芸春秋

一九

三四年九月号)三七

ページ。

(三)

「邦人主義

の提唱」

(『都新聞』

一九

三五

・八

・二五~

二六、前掲

『文化と

政治』所収)。なお松本は

「『八紘

一字』という

言葉は

ぼくが作

った」

(前掲、『松本学氏談話速

記録

(下)』

一一〇

ページ)と語

っている。『文化と政治』所収論文

における

「八紘

一字」

の初出は

「邦人

 如観

の提唱」

である。しかし、「八紘

一宇」は

田中智学

の造語

であ

るという異説もあ

(日本

国休学全編

『日本

の師表

田中智学』

一九六八年、錦正社

V

-四

一ページ)。

(三)

(三)に同じ。

(茜)

松本学

「日誌」

(「松本学関係文

書」)。

(三)

田雅夫

『大正デ

モクラシー研

究』

(一九七五年、

新泉社)

三三九~

三四

ニページ。内務省警保局

『出版物を通じて見た

31

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る白木革新論

の現況』

(出版警察資料第

五輯、

一九

三三年)

一七

一~

一七四

ページ。

二六)

松本学

「日誌」

一九三三年ー

一九三四年

=

(「松本学関係文書」)

の所在が現在不明

のため、同資料

に依拠した粟

屋憲

太郎、前掲論文にしたがう。以下

、日本文化連盟結成ま

での経緯も注記しな

いかぎり同論文による。

(≡)

前掲、『松本学氏談話速記録

(下)』

一〇

八ページ。

二∴三~

一三四

ページも参照。

(六)

松木学

「日誌」

一九二九年

一月ー

一九三二年五月

(「松本学関係文書」)。

(一九)

ほぼ同文の

「目木文化聯盟論」

もある

(どちらも

「松木学関係文書」)。

三〇)

「昭和八

・九年度第五インター日誌」

(「松本学関係文書」)。

(三)

粟屋憲太郎、前掲論文および榎本隆司

「文芸懇話会1

その成立事情と問題点1

」(『国文学研究』二五集)。松本学「日

誌」により、松本

がしばしば

三井

・三菱

・住友本社を訪れ、各首脳部

に日本

文化連盟の事業報告を行

っていることからみて

.も首肯

でき

る。

(一三)

CC

「文芸懇話会

の正体」

(『目木評論』

一九

五年

一〇

月号)

一、一二〇ページ。和田口出吉

コ.一井三菱献金帳」

(『日本評

論』

一九三六年

=

】月号)は、

一九三三年六月に三井が日本文化連盟計画助

成金として三〇万円を寄付し

たことを指摘して

いる。、、

(言)、広津和郎

「文芸懇話会

について」

(『改造』

一九三五年九月号)。

(二四),『日本文化団体年鑑ー

昭和

=

二・一四年版』

(一九三八

・三九年、B本

化中央

連盟)、粟屋憲太郎、前掲論文などによ

る。

三五)

前掲

『松本学氏談話速記録

(下)』

一〇八、

一三

ーページ。

(一一六)

「旧陸海軍関係文書」R二〇

(国立国会図書館憲政資料室所蔵)

(.≡)

「内閣思想対策協議会及其

ノ決

シタ

ル対策」

(『現代史資料42思想統制』〈

一九七六年、みすず書房

V九八~

一〇四ページ)、

「思想取締方策具体案」

(『現代史

資料40

マス

・メディア統制1』

一九七三年、みすず書房〉二五六~二五七ページ)。

三八)

犬丸義

『日本人民戦線運動史

(一九七

八年、青木

書店)

一四四~

一五

一ページ。

田辺耕

一郎

「学芸自由同盟から

『現

実』まで」

(『文学』

一九五八年四月号)七八~八〇

ページ。同

「文化擁護運

の経験」

(『文芸』

一九三五年

一二月号)

一〇

九~

一一ーページ。小田切進

「日本

人民戦線史の考察」

(『季刊

・世界文学』

四号)二四五~

二四六

ページ。

(一一九)

文芸家協会編

『文芸年鑑』

(一九三四年版)

一一七

ページ。

32

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(三〇・言)

内務省警保局保安課

『特高月報』

(昭和九年三月分)

一九ページ。

(三一)

中島健蔵

『回想の文学2

・物情騒然の巻』(一九七七年、平凡社)九二~九四ページ。

(一一三)

文学的立場編

『文学

・昭和十年代を聞く』(一九七六年、頸草書房)

一八〇~

一八

ーページ。中島健蔵

『昭和時代』(岩波

新書)

=一=

一三二ページ。渡辺

一民

『近代日本の知識人』

(一九七六年、筑摩書房)

一三二

一~四

一ページ。

(=西)

前掲、田辺耕

一郎

「学芸自由同盟から

『現実』まで」八〇ページ。

(三五)

前掲、『松本学長談話記録

(下)』

一三五ページ。

(三六)

これより先、後藤文夫農林大臣の秘書官橋本清之助

(元時事新報社記者、後藤

・田沢義鋪

・丸山鶴吉らと新口本運動に従

事。後藤の農相就任とともに同秘書官、さらに後藤が内相に転ずると同秘書官として内務省

へ転出)が、新目木同盟を通じ

て日本新聞連盟の森田耕吉が推薦した白井喬二を

「肝煎役」として

「文学者と官辺との結合」工作を始めようとしていた。

しかし、白井は固辞し、かわりに直木を推したので

一九三四年

一月なかばの東京会館における松本

.直木会見が実現したと

いう。なお、この会見には安岡正篤も同席した

(内政史研究会

『橋本清之助談話速記録』〈

一九六四

.六

.一八〉、片岡貢

「文芸懇話会の実体」〈『文芸』

一九三五年

一〇

刀号〉二五四

ページ。CC

「文芸懇話会の正体」〈『日本評論』

一九三五年

一〇月号〉三二〇ページ)。

(三七)

『読売新聞』

一九三二

・二

・四。

(三八)

『東京朝日新聞』

一九三二

・一一・二。

(三九)

主なものをあげると、つぎのようなものがある

(「文芸院設立に関する批判論文集」〈「松本学関係文書」∨による)。

徳田秋声

「如何なる文芸院ぞ」(『改造』

一六巻四号〈

一九三四年三月〉)

「帝国文芸院のこと」(『支那通信』二号く

一九三四年二月二八日∨)

江口換

「文芸時評」(『文化集団』二巻三号く

一九三四年三月∨)

永田広志

「文芸院と文芸家」(同右)

長谷川誠也

「巻頭言」(『芸術殿』

一九三四年三月号)

「病床雑筆」(『冬柏』五巻三号く

一九三四年二月二八日∨)

「警保局の指導的精神」(『薪聞及新聞記者』

一九三四年三月号)

以上が批判ないし反対論であるのにたいし、

33

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杉山平助

「文芸院

の創立意義なし

とせず」

(『新潮』

一九三四年三月号)

は条件付ながら賛成

の立場をとる。また、『文芸』

一九三四年三月号は

「帝国文芸院

の問題」と題し、「設置

の可否」

および

「設置

に対し

ての要望事項」

一五氏

にたいするアンケ

ート結果

を掲載

した。回答を大雑把

に分類す

ると、賛成

……佐

々木

信綱

・辰野隆

・門外野人

・川端康

・吉江喬松

・杉山半助

・岡本綺堂

・中村

武羅夫

・長谷川仲。条件付賛成……千葉亀雄

.

近松秋江

・矢

田挿雲。反対……藤

森成吉

・青野季吉。回答せず……林芙美子

で、

このかぎりでは文芸院設立を可とするも

が多数をしめた。

(四〇)

『現代史資料40

マス

・メディア統

制1』二六

一~

二六七

ページ。

(四一)

同志、

二六八~

二八

ーページ。

(四二)

同君、

二八二~

三五五ページ。

(四三)

前掲、片岡貢

「文芸懇話会

の実

体」

によれば、直木が挙げた会員候補者

は、伊原青々園

・泉鏡花

・宇野浩二

.大

仏次郎

.

加藤武雄

・上司小剣

・岸

田国士

・菊池寛

・菊池幽芳

・久米正雄

・幸

田露伴

・小林秀雄

・里見惇

・佐藤春夫

・白井喬二

・志賀

直哉

・島崎藤村

・谷崎潤

一郎

・近

松秋江

・坪内道遙

・徳

田秋声

・直木

三十五

・中村武羅夫

・広津和郎

・平山麓江

.正宗白鳥

・横光利

、一・吉川英治

・山本有三

・三上於菟吉

・川端康成、以上の二、一人を

「第

一級的候補者」とし、さらに大下宇陀児

.

北原白秋

・久保

田万太郎

・倉

田百

・甲賀三郎

・田中貢太郎

・千葉亀雄

・豊島与志雄

・長

田幹彦

.村松梢風

一〇人を

「第

二級候補者」としたという。また、直木は

「この団体

(文芸懇話会ー

引用者注)を国粋文学で聖断してしまふ積りは毛頭

な」く、「純文学と大衆

文学とを裁

然と区別し、前者

に対しては

純粋に文学

の利益

のために、後者に対

しては政治的要求を

満し

てやる為に、

この団体を巧に運用し

て行かうとしたのが直木氏

の計画だ

った」と片岡は述

べている

(二五六ページ)。

(四四)

『読売新聞』

一九三四

・三

・三〇

。同紙は次回から

の参加予

定者とし

て武者小路実篤

・上司小剣

・宇野浩

。佐藤春夫

.

志賀直哉

・里見弾

・谷崎潤

一郎の名をあげ

ている。

このうち会員とな

ったのは上司

・宇野

・佐藤

・里見

である。

(四五)

広津和郎、前掲書三三

一~

三三

ニページ。以下、同書による。

(四六)

徳田秋声

「如何なる文芸院ぞ」

(『改造』

一九三四年三月号)

二二七~

二一三

二ページ。

(碧)

文芸家協会編

『文芸年鑑』

三六年版)

一八四ページ。W文芸懇話会』

一巻四号

九…、ニハ年四月)誌上の会員名簿

は、里見惇

の名はなく、,一九

三五年当時脱会

(後述)し

ていた佐藤春夫が復帰し

ている。したが

って会員数

…=

人に変りは

,ない。

34

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(四八)

兼松本学関係文書」泣

三二二にあ

「文芸懇話会ー研究題目」がそれに当る

かと思われる。そこには

つぎ

の項目が列挙さ

れている。

一、文芸家

ノ特典、

一、文芸家及其

ノ遺族

ノ扶助、

一、新進文芸家

ノ発見

(例

ヘバ処女作発表機関紙

ノ発刊、文

芸賞)、

一、優秀作品

ノ推賞

(文芸

賞)、

一、優秀

作品

ノ刊

行及

普及

(或

ハ年

ノ発行)、

一、俗悪又

八反国家的作品

二対

ル批判力

ヲ向上

セシムルコト

(文芸

二対

スル大衆ノ啓蒙ー

この項は墨

で抹消

している1

引用者注)、一、文芸家団体

二対

スル補助並

二統制、

一、文芸欄

(ジ

ャーナリズ

ム)

ノ是正、

一、大学及専門学

校文学部

ノ改善発達、

一、文芸雑誌

ノ助成、

一、古典ノ復刻、

一、優秀

ナル外国文学

ノ翻訳及刊行、

一、文芸家ノ動静、文

芸家界ノ状勢等

ヲ掲載シタ

ル定期刊行物

ノ発

行、

一、検

閲当局トノ連絡、

一、著作権

ノ擁護、

一、文芸思想研究機関ノ設立、

一、文芸家団体

ト出版業者並

二新聞雑誌業

者ト

ノ連絡。

(四九)

広津和郎

「佐藤君に答

(下)1

文芸懇話会

についてー

(『東京

日日新

聞』

一九三五

・九

・=

 )。『東京

日日新聞』

(一九

三五

・八

・二八)

「蝸牛の視

角-

文芸紳士松本学」

(権太夫)

にも

「そもそもの懇話会創立頃

の会合に、松木

が細

目を並

べたプ

ラン書みたいなも

のを

持出したが、その中

の統制と

いふやうな

ことが書

いてあ

った……相談

の結

果、

一応それは引込められたのだ

と聞いてゐる」とある。

(五〇)

「文芸院問題

二対

スル世評」

(「松本学関係文書」)

(五一)

山神先生

「蝸牛

の視角ー

一松本

学を論ぜず」

(『東京日日新

聞』

一九

三五

・九

・一五)は、松本を

「わたしは

アメリカが

ひで」と

いうアメリカ航路

の船長

にたとえ、船長‖個

々の政

治家

「気持」

と進路とは別

であると皮肉り、松本が

「わた

しは統制が嫌

ひでして」というのだ

から

「統制

の方

へ加

担する筈

もな

いと安

心し

てゐる

『文芸懇話会諸君』」の

「政治

に対

る認識」

の欠如を嘲笑し

ている。

(至)

鶴見俊輔が分類した転向型

(思想

の科学研究会編

『酬鋼転向』上∧

一九五九年

、平凡社V

=

一~

一六

ページ)。

(五三)

『文芸懇話会』

一巻

一号

(一九

三六年

一月)

二~

三ページ。

(詰)

榎本隆司

「文芸懇談会ー

文芸統制

への

一過程1

」(早稲田高等学校

『研究年誌』六号)

一九~二九ページ。

(至),武

田麟太郎は、『文学評論』

一九三四

年三月号

(文芸時

評、

一八ペ

ージ)

「文芸院」設立計画を批判して以来、

一貫し

て文芸懇話会攻撃を

つづけた。

(巽)

『文芸懇話会』

一巻

一号、三

一〔ージ。

(吾)

『文芸懇話会』

一巻六号

(一九三六

年六月)二六~

三六

ページ。

35

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(五八)

広津和郎、前掲書、三三二ページ。

(亮)

榎本隆司、前掲論文、三〇

ページ、広津和郎も同じことを

「文芸懇話会に

ついて」

(『改造』

一九三五年九月号)で述

べて

いる。

(×O・空)

松本学

「日誌」

一九三四年

=

月-

一九三五年

八月

(「松本学関係

文書」)。

(六二)

佐藤春夫

「文芸懇話会

に就

てi

広津和郎君

に寄すー

(『東京目口新聞

一九三五

・九

・五~八)、広津和郎、前掲書、

三三三~

三一、一四ぺ|

による。

(六三)

菊池寛

「文学と為政者」

(『日本

評論』

一九三五年

=

一月号)

四五

二~四五

三ページ。

(×四)

青野季吉

「諸家

の文芸統制観」

(『東京日日新聞』

一九三五

・九

・一九~二

一)。

(六五)

前掲、杉山平助

「松本学と佐藤

春夫」三七三ページ。

(六六)

中野重治

「著作権審査会

と懇話会

の文学賞」

(『経済往来』

一九三五年

一〇

月号)

二三ページ(『中野重治全集』

一〇巻〈

九七九年、筑摩書房

〉三四〇

ページ)。

(六七)

青野季吉

「文学

の危機

について」

(『新潮』

一九三五年五月号)

一八三ページ。

(六八)

杉山平助

「帝国文芸院創設論」

(『文芸春秋』

一九三五年八月号)

一九八

ページ。

(莞)

前掲、中野重治

「著作権審査会

と懇話会

の文学賞」

二五ページ

(『全集』

一〇巻三四二ページ)。

(苫)

前掲、青野季吉

「文学

の危機

ついて」

一八ニページ。

(三

三)

XYZ

「スポ

ット

・ライト」

(『新潮』

一九三五年八月号)

一〇六~

一〇七

ページ。

(竺)

中野重治

「ある日の感想」

(『文学評論』

一九

三六年

三月号)

=

一九、

一三

ーページ

(『全集』

一〇巻四〇五、四〇七

ペー

ジ)。

(茜)

主15野季吉

「文学防衛論-

進歩的文学者の結合の必要についてー

(『新潮』

一九三五年九月号)

一〇六ページ。

(芸)

戸坂潤

「文化統制現象の分析」(『改造』

一九三五年八月号)四〇

ページ

(『戸坂潤全集』三巻く

一九六六年、動草書房V

三九四ページ)。

(芙)

戸坂潤

「文芸統制の本質-

統制とは何か?ー

(『行動』

一九三五年五月号)五六~五七ページ

(『全集』二巻、三二

〇~三二

ーページ)。

(老)

戸坂は

「知識階級と文化運動し

(『改造』

一九三六年八月号)、「人民戦線

に於ける政治と文化」

(『セルパン』

一九三六年九

36

Page 38: C ì õ - 明治大学 · n « É Ó ê Ä G È Ç É  \ µ ½ ¬ ¶ ð W ¬ µ. x Û Ç · Ý C Ì ê ã O O ( º a ª) N µ A ¼

月号)などで文化運動

における人民

戦線結成を促す発言をし

ている。

(七八)

平野謙

『文学

・昭和十年前後』

(一九七

二年、文芸春秋)

一六ニページ。

へ七九)

藤森

成吉

「再び

『自由

主義作家』

ついて」

(『行動』

一九三五年三月号)

一七〇~

一七

一ページ。

(八〇)

青野季吉

「僕

の立場をち

ょいと」

(『東京日日新聞』

一九三五

二二・二)。

(公

・八二)

前掲、青野季吉

「文学防衛論ー

進歩的文学者の結合の必要についてー

一〇八ページ。

(八§

青野季吉

「民間文芸院論」

(『東京

朝日新聞』

一九三六

・七

・一二~

一四)、

「円木文芸院

の問題」

(『文芸懇話会』一巻七

号〈

一九三六年七月〉

=

一~

一四ページ。

(八四)

貴司山治

「進歩的文学者の共働についてー

一つの具休

的私案

を提案すー

」(『行動』

一九三五年六月号)

一八八ペー

ジ。

(八五)

石浜知行

「文化統制

について」

(『文芸』

一九

三五年九月号)

一四

一ページ。

(八六)

新居格

「文壇人

の社会的眼識」

(『読売新聞』

一九三五

・八

・一六、

一七、二〇⇔二

一)。

(八七)

新居格

「文化擁護

の胎動」

(『東京

日日新聞』

一九

三五

・九

・二九)。

(八八)

(提唱)「学芸自由同盟の再建

へ」

(『時局新聞』

一九三五

・九

・二三)。

(八九)

「思想界

における統

一戦線

の問題

-

学芸自由同盟近く復活かー

(江口換

談、『時

局新聞』

一九三五

一二

・二三)。

(九〇)

武田麟太郎

「挨拶」

(『人民文庫』

一九

三七年三月号)

一ページ。

(空)

辻橋

三郎

『昭和文学

ノート』

(一九七七年、桜楓社)

一二、

一四~

一五ページ。

(九二)

静岡県浜名郡白脇村の鈴木清

一は治安維持法違反

により懲役二年の判決

(一九三九年六月

一五日)を受けた。

その際、鈴

木らの同人誌

『妄言』

一九三五年九月号

所載

「文学

の党派性」

(鈴木

の執筆

ではない)

「文芸懇話会

ハブ

ルジ

ョア文学

ノ反動的団体

ニシテ支配階級

ノ文化

ファッシ

ョ政

ノ組

ナリトシ、反

ァッショ文化運動ノ必要

ヲ暗示

セル記事ヲ掲

載」したことが有罪理由

のひと

つにあげられた

(「被告人鈴

木清

一に対

する治

維持法違反事件第

一審判決」

〈内務省

刑事

『思想月報』六

一号V

-二五~

一三三

ページ)。

(九三)

杉山平助

「懇話会解散に就

て」

(『東京朝日新聞』

一九

三七

・七

・一一)。

(九四)

『東京

日日新聞』

一九三七

・七

一七。

(芸)

吉川英治

「文芸懇話会

の使命」

(『東京朝日新聞』

一九三七

・七

・一〇)。,

37

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(九六)

佐藤春夫は

一九三六年

一月

一五日、徳田秋声、近松秋江

に伴

われて松木を訪い

「懇話会に復帰」の挨拶をした

(松木学

「日誌」)。平林彪吾は

「あなたはいつの間に文壇の伏魔殿-

文芸懇話会

へお戻りにな

ったのですか」「あの気骨はどうかな

いましたか」

(「一青年より文壇

三大家

へ」〈『人民文庫』

一九三

六年四

号∨九八

ページ)と、

その豹変

ぶりを咄

ったも

のである。

(九七)

『日本文化中央聯盟要覧』

(一九

三九年、日本文化中央聯盟)

一ページ。

(九八)

『東京

日日新聞』

一九

三七

・七

・一八。

(究)

林房雄

「新

日本文化の会

・その成立と目的

への私見」上

(『読売新聞』

一九

三七

・七

・二七)。

二〇〇)

中条百合子

「近頃の話題

・『新

目木文化

の会』の複雑性」

(『東京日日新聞』

一九三七

・七

・三

一)。

(一9)

『薪日本』各号所載

の会員名簿

による。

(δ二)

新日本文化の会

が会長に大谷尊

由を迎え、顧問

・理事

・委員

を設

のは

一九三九年春

のことで、松本は顧問とな

た。

二〇三)

林房雄

「新

口本文化の会

・その成立と目的

への私見」下

(『読売新聞』

一九

三七

・七

・二九)。

(二四)

中条百合子

「近頃

の話題

・『新日本文化の会』

の結

成」

(『東京日日新聞』

一九三七

・七

・二〇)。

(δ五)

高見順

『昭和文学盛衰史』二

(一九

五八年、文芸春秋新社)六八ページ。

(一〇六)

文芸家協会

『文芸年鑑』

一九

三六年

(第

一書房)

三九

ページ。

(δ七)

榎木隆司

「文芸懇話会1ーその成立事情と問題点1

(『国文学研究』二五集)二三五ページ。

(一〇八)

中野重治

「二

つの文学

の新し

い関係」

(『教育

・国語教育』

一九

三六年四月

号、『全集』

一〇巻四二五ページ)。

二〇九)

『東京日日新

聞』

(一九三七

・七

・一七)所載

の松本談。

(二〇)

前掲、中条百合子

「近頃

の話題

・『新

日本文化の会』

の結成」。

(二一)

壁新聞

(阿蘭)「懇話会消え

『新

日本』理る」

(『読売新聞』

一九三七

・七

・一八)。

38