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27 1.はじめに 化学気相成長(chemical vapor deposition;CVD) 法は気相に供給された原料分子から化学反応を経て 基板上へ薄膜を堆積させる技術である。グラフェン の作製法としてみると,比較的欠陥の少ないグラ フェンを再現性良く得られ,層数の均一性や制御性 が良く,大面積試料の作製が可能であるなどの利点 から,特に産業応用の観点から広く研究されている 技術である 1) 。一方で,格子欠陥の抑制やより低い 成長温度の達成などの CVD によるグラフェン作製 のさらなる発展のために,その機構が議論されてき た。グラフェン CVD 法は多くの化学反応と平衡が 共存する複雑な過程であるが,大きく分ければ,原 料分子である炭化水素から水素を引き抜いてグラ フェン成長の前駆体となる炭素種を生成する過程 と,その前駆体からグラフェン格子が組み上げられ る過程がある 2)-4) 。本稿ではグラフェン CVD 成長 におけるこれら 2 つの過程の機構を紹介することで グラフェン CVD 研究の現状を示す。まず,気相か らグラフェン成長の前駆体を生成する過程の違いに よりグラフェン CVD 法を分類する。グラフェン CVD 法の中でも金属基板の触媒作用によってグラ フェンを形成する機構が最も盛んに研究されている ため特に重点的に述べる。続いて,炭素のグラフェ ン格子への取り込みについての研究を示すため顕微 的手法によるその場観察を紹介する。グラフェン CVD 成長を制御しグラフェンの生産を産業レベル で実現するためにはこれら成長機構の理解が極めて 重要であると考えられる。産業応用に向けて欠陥の 少なく層数の制御された単結晶グラフェンを得るた めに CVD 法の改良が研究されてきたが,その内容 については本稿に続く第 1 編第 1 章第 1 節第 4 項を 参照されたい。また大面積グラフェンの安定した生 産のためのプラズマ CVD 法およびその転写につい ては第 1 編第 1 章第 3 節第 2 項に詳しく紹介されて いる。グラフェン CVD 成長の機構を明らかにする 上で重要な手法である低速電子顕微鏡(low energy electron microscopy;LEEM ) については第 1 編 第 4 章第 5 節に深く述べられている。これらの項目 と合わせてグラフェン CVD 法についての理解を深 めていただきたい。 2.前駆体の生成 グラフェン CVD 成長においては炭素源として主 に CH 4 ,C 2 H 4 ,C 2 H 6 ,C 6 H 6 ,C 2 H 5 OH などの炭化水 素気体が供給される 3) 。同時にキャリアガスとして Ar,還元雰囲気に保つために H 2 が導入される場合 が多い。炭素源である炭化水素からグラフェンの成 長前駆体が生成する過程を説明した模式図が図1 ある。炭化水素のクラッキングの主な手法として, 熱分解,プラズマ,金属基板への固溶,金属基板表 面での解離吸着があげられる。以降では図 1 の模式 図をもとに各種 CVD 法における成長前駆体の生成 第 1 編 製造⊘分散⊘評価技術 1章 CNT・グラフェンの合成技術 1節 CVD 合成 第3項 グラフェン CVD 法 名古屋大学 寺澤 知潮  東京大学 斉木 幸一朗 図 1 前駆体の生成機構の模式図 固溶体 析出 基板の触媒効果 プラズマ 熱分解 吸着 基板に固溶 原料気体分子

第3項 グラフェンCVD法 - 東京大学yukimuki.k.u-tokyo.ac.jp/116 NTS CVD.pdfFe Ni,Ru,Ir,Pt Cu,Ge d電子の数 少ない 多い 閉殻 炭素との親和性 高い

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第1章 CNT・グラフェンの合成技術

1.はじめに

 化学気相成長(chemical vapor deposition;CVD)法は気相に供給された原料分子から化学反応を経て基板上へ薄膜を堆積させる技術である。グラフェンの作製法としてみると,比較的欠陥の少ないグラフェンを再現性良く得られ,層数の均一性や制御性が良く,大面積試料の作製が可能であるなどの利点から,特に産業応用の観点から広く研究されている技術である1)。一方で,格子欠陥の抑制やより低い成長温度の達成などの CVD によるグラフェン作製のさらなる発展のために,その機構が議論されてきた。グラフェン CVD 法は多くの化学反応と平衡が共存する複雑な過程であるが,大きく分ければ,原料分子である炭化水素から水素を引き抜いてグラフェン成長の前駆体となる炭素種を生成する過程と,その前駆体からグラフェン格子が組み上げられる過程がある2)-4)。本稿ではグラフェン CVD 成長におけるこれら 2 つの過程の機構を紹介することでグラフェン CVD 研究の現状を示す。まず,気相からグラフェン成長の前駆体を生成する過程の違いによりグラフェン CVD 法を分類する。グラフェンCVD 法の中でも金属基板の触媒作用によってグラフェンを形成する機構が最も盛んに研究されているため特に重点的に述べる。続いて,炭素のグラフェン格子への取り込みについての研究を示すため顕微的手法によるその場観察を紹介する。グラフェンCVD 成長を制御しグラフェンの生産を産業レベルで実現するためにはこれら成長機構の理解が極めて重要であると考えられる。産業応用に向けて欠陥の少なく層数の制御された単結晶グラフェンを得るために CVD 法の改良が研究されてきたが,その内容については本稿に続く第 1 編第 1 章第 1 節第 4 項を

参照されたい。また大面積グラフェンの安定した生産のためのプラズマ CVD 法およびその転写については第 1 編第 1 章第 3 節第 2 項に詳しく紹介されている。グラフェン CVD 成長の機構を明らかにする上で重要な手法である低速電子顕微鏡(low energy electron microscopy;LEEM)については第 1 編第 4 章第 5 節に深く述べられている。これらの項目と合わせてグラフェン CVD 法についての理解を深めていただきたい。

2.前駆体の生成

 グラフェン CVD 成長においては炭素源として主に CH4,C2H4,C2H6,C6H6,C2H5OH などの炭化水素気体が供給される3)。同時にキャリアガスとしてAr,還元雰囲気に保つために H2 が導入される場合が多い。炭素源である炭化水素からグラフェンの成長前駆体が生成する過程を説明した模式図が図1である。炭化水素のクラッキングの主な手法として,熱分解,プラズマ,金属基板への固溶,金属基板表面での解離吸着があげられる。以降では図 1 の模式図をもとに各種 CVD 法における成長前駆体の生成

第 1編 製造⊘分散⊘評価技術

第1章 CNT・グラフェンの合成技術第1節 CVD合成

第3項 グラフェンCVD法

名古屋大学 寺澤 知潮  東京大学 斉木 幸一朗

図 1 前駆体の生成機構の模式図

固溶体

析出

基板の触媒効果

プラズマ 熱分解吸着基板に固溶

原料気体分子

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第1編 製造/分散/評価技術

の機構について紹介する。

2.1 熱分解 炭化水素中の炭素-水素の結合エネルギーはおよそ400 kJ/molであるため,熱によりこのエネルギーを供給するためには 1,200℃以上の高温を要する5)。他の手法に比べて触媒作用の弱い酸化物基板の上でのグラフェン CVD 成長では例えば文献 6)の報告のように 1,000~1,600℃の高温が求められる。絶縁性基板への直接成長という観点での利点はあるものの,CVD 法のもつ高い成長温度という問題は残され,また結晶性も一般に金属基板上に成長したグラフェンよりも良くないと評価されている。

2.2 プラズマによる分解 より低温でのグラフェン成長を目指して気相中で原料分子をプラズマ化する手法が知られている。基板温度を 400℃程度に下げてもプラズマによりグラフェンが成長するため低コストで大面積グラフェンを作製できる手法として期待がもたれている7)8)。基板の触媒作用が低くてもグラフェンが成長する一方で,基板温度を高くすると後述する金属基板の触媒効果によるグラフェン成長が平行して起こることが明らかにされている9)。気相中のプラズマは原料分子からの成長前駆体の形成を助けるが,プラズマによってグラフェン格子がダメージを受けるため,プラズマ CVD により作製されたグラフェンにはしばしば欠陥がみられる7)9)。また,気相から原料が供給され続けるため,均一かつ制御された層数のグラフェンを作製するために layer-by-layer の成長を達成する条件を吟味する必要がある9)。

2.3 金属との反応 CVD 法によるグラフェンの作製においては,金

属を基板としてその触媒作用を活用する例が多い。金属の表面で炭化水素からグラファイトが形成することは主に触媒の被毒として 50 年以上前から知られていた10)。炭化水素を吸着しやすいかどうか,グラフェンを形成しやすいかどうかは表 1にまとめたように金属ごとの炭素との親和性によって異なる。この表をもとに[2.3.1]と[2.3.2]では触媒金属ごとのグラフェン生成の機構を議論する。

2.3.1 固溶析出系 遷移金属は空の d 軌道と表面に吸着した炭素のπ電子との相互作用により炭素との親和性が高く,高温の遷移金属は炭化水素から水素を引き抜いて炭化物や炭素の固溶体を形成することが知られている。炭化物や固溶体は冷却により炭素を吸蔵できなくなると余剰の炭素を放出し,表面にはグラファイトを形成する。析出しグラファイト格子を組んだ炭素原子は再び温度が上昇すると分解され金属に吸蔵される。特に d 電子の少ない鉄族以前の遷移金属が炭化水素と炭化物を形成するときの炭素の吸蔵量は Fe3C などの組成から考えて 25 at %にもなる2)-4)。このとき,炭素の吸蔵量が多いため析出する炭素も多く,析出物は多層グラフェンというよりグラファイトになる。グラフェン形成のためにこれら炭化物を形成しやすい金属を使った例は Fe の場合などいくつか報告がある11)12)。 後期遷移金属は d 軌道の空きが少なく,炭素と直接炭化物を形成しにくい代わりに固溶体を形成する。遷移金属中への炭素固溶度が冷却とともに減少するとき,固溶しきれなくなった炭素が固溶体の表面に単層グラフェンを形成した状態が安定であることを Blakely らが Auger 電子分光によって示した13)。金属に固溶した後で析出した炭素が単層グラフェンであることを直接的に示したのは走査型トン

表 1 触媒金属の分類

Fe Ni,Ru,Ir,Pt Cu,Ged 電子の数 少ない 多い 閉殻炭素との親和性 高い 中程度 低い1,000℃付近での炭素の固溶度

数十% 1~0.1% 1~10 ppm

炭化水素との反応 炭化物を形成 固溶体を形成 表面で重合グラフェンの層数 グラファイト 多層グラフェン 1~2 層のグラフェン

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第1章 CNT・グラフェンの合成技術

ネル顕微鏡による観察である14)。また,Auger 電子分光の結果はさらに温度を下げると多層グラフェンが析出する相へと変わる様子を示している15)。一連の反応において炭素の固溶度は温度によって異なるが,例えば第 4 周期の Co や Ni では 0.1~1 at %程度である2)-4)。また,第 5 周期の Ru や Pd は炭素の固溶度が高いが,第 6 周期の Pt や Ir では 5d 軌道と炭素のπ軌道との相互作用が弱く,炭素の固溶度も低い3)4)。これらの系の中でも Ru は六方晶最密構造をもち,容易に 6 回対称の(0001)表面が作れるため,基礎的な研究が盛んである16)-18)。基礎物性研究においては,Pt や Ir なども炭素の固溶度が低いためグラフェンの層数を制御しやすいことから広く研究されている14)19)。応用研究においては,Ni の炭素の固溶度がそれほど高くなく層数の少ないグラフェンを形成しやすいこと,グラフェンと格子ミスマッチが少ないこと,安価であることから固溶と析出の系では最も研究例が多い。グラフェンの層数と欠陥の制御のためには,前駆体の生成量を調整するために,基板の加熱温度,冷却速度などが重要なパラメータであると考えられている20)21)。

2.3.2 表面反応系 遷移金属の表面では炭化水素が解離吸着して原子状の炭素(またはその重合体)を形成する反応がある。吸着した炭素は表面を拡散しやがてグラフェン格子を形成する。Ruoff らは同位体 13C の追跡の研究により,この水素の引き抜きによるグラフェン成長前駆体の生成反応は基板表面で生じるため,基板がグラフェンに覆われるとグラフェン成長速度が自然に低下することを明らかにした22)。特に炭素の固溶 度 が 低 い Cu,Ge な ど の 金 属 で, こ の self-limiting 効果によって単層または層数の制御されたグラフェンが再現性よく得られる1)23)。他にも Ir やPt などで炭化水素からグラフェン格子を作り出す触媒能が高いといわれているが,これらの金属では固溶からの析出も協奏的に生じる3)4)。遷移金属の中でも特に Cu 上でのグラフェン CVD は,安価な箔を使って大面積かつ単層グラフェンを得る手法として注目され多くの研究が行われている8)24)25)。以下ではこの Cu の場合についてグラフェン成長前駆体の生成機構を詳しく説明する。

 Cu は遷移金属であるが d 軌道は閉殻で炭素との相互作用が非常に少ない。Cu への炭素の固溶度は10 ppm 程度であることもそれを示している26)。清浄な Cu 表面では炭化水素の解離吸着はほとんど起こらないが,Cu の表面に酸素を暴露した場合にこの吸着確率が上昇することが 40 年以上前から知られていた27)。この Cu 表面の酸素が炭化水素から水素を引き抜く反応を活性化させるため,本来は炭化水素が解離吸着しない Cu 表面でもグラフェンが成長すると考えられている28)。特に実験室レベルでターボ分子ポンプやイオンポンプなどで排気された超高真空下の実験を行う際には,この炭化水素の低い吸着確率がグラフェン成長前駆体の生成において問題となり得る。一方で,通常の加熱炉などロータリーポンプなどで排気される背圧の高い系では,系中の水素や酸素の濃度が高過ぎるとグラフェンの成長前駆体を消費して CH4 や CO2 などの揮発性の高い分子を形成してしまい,グラフェンが成長しない17)18)29)。そのため温度や全圧などの基礎的なパラメータに加えて,不純物を含めた気相中の気体の成分比が Cu 上でのグラフェン成長の重要なパラメータとなる28)30)31)。

3.成長前駆体の重合

 基板上に生成した前駆体はバルクまたは表面を拡散して重合しグラフェンを形成する。この 2 次元の結晶成長を理解するためには,分光学的な手法に加えて顕微的な観察も求められてきた。なかでもグラフェン成長の顕微的手法によるその場観察は,時間発展の情報が事後観察よりも容易に得られるという利点がある。2000 年代からよく観察されていた Niや Ru 上でグラフェンが析出する系に加えて,近年では Cu 基板の表面でのグラフェン成長の顕微的手法によるその場観察の研究も盛んになってきた。その結果,CVD において表面近傍の炭素濃度がグラフェンの成長を左右する機構が明らかにされてきた。それを模式的に示したのが図 2である。以下では図 2 をもとに成長前駆体からのグラフェンの重合機構をまとめる。 いずれの手法・基板においても基板表面の炭素がグラフェンの成長前駆体であると考えられている。

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第1編 製造/分散/評価技術

特に研究の盛んな Ni と Cu は,それぞれ固溶した炭素が拡散し表面に到達した場合と,表面における炭化水素の分解の場合とに対応する。いずれの場合もまず表面に炭化水素が供給されると成長前駆体の濃度が次第に増えていく。これらの成長前駆体の濃度が過飽和に至るとグラフェンが核発生する。このときの核発生は単結晶基板などの場合はステップや表面の不純物などで生じやすい。実用的な多結晶の箔では粒界の影響も無視できない。成長前駆体は基板表面を拡散しながらグラフェン格子にたどり着くと一定の確率で取り込まれ,グラフェン格子の 2次元結晶成長を生じる。例えば,図 3に示すように熱放射光学顕微法によるグラフェン成長の顕微的その場観察は,グラフェン結晶の核密度や面積の時間

発展を評価できるため31)-33),その情報をもとにグラフェンの成長機構が議論できる。 一方,グラフェン格子から成長前駆体に分解する逆反応も常に存在していると考えられる。結晶が一度成長してから消失する現象の追跡もその場観察ならではの特徴である17)18)32)。グラフェン生成と消失の平衡は,成長前駆体が飽和濃度を超えて供給されているうちは格子の成長の側に常に移動し続ける。しかし,例えば基板温度が上がり基板の炭素の固溶度が増えたり,炭化水素の供給が停止したりすると,成長前駆体の濃度が減少する。このときはグラフェン格子を分解する方向に平衡が移動する。特に,系中の酸素は成長前駆体を速やかに駆逐するためにグラフェンの分解に強く影響すると考えられる。

図 2 基板表面でのグラフェン生成の模式図

脱離分解

気相分子(H2,O2…)と反応

分解

成長と消失核発生

拡散

取り込み成長前駆体の生成

原料気体分子

図 3 グラフェンCVD成長のその場観察1,005℃の Cu 基板に Ar/H2/CH4=1,000/100/2 sccm の割合で 2,700 Pa の気体を導入したときの熱放射光学顕微像。(左図)CH4 の導入開始直後と(右図)導入開始から 500秒後。挿入図は点線で囲われた部分の拡大図。暗い Cu の背景上に明るいグラフェンが成長する様子がとらえられている。

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第1章 CNT・グラフェンの合成技術

 グラフェン成長やその逆反応である消失の基礎的な議論に加えて,応用に向けてもグラフェンの生産をリアルタイムで管理するために,グラフェン成長の顕微的手法によるその場観察は重要となる可能性がある。以下では,グラフェンの顕微的手法によるその場観察とそれに基づいて明らかにされた機構を,固溶と析出および表面反応に分けて紹介する。

3.1 固溶析出系 あらかじめ炭素を吸蔵させた金属の温度を下げるとグラフェンが析出する過程は,真空下も実験できることから,電子顕微鏡により研究されてきた。その場走査型電子顕微鏡(scanning electron micro-scopy;SEM)法に加えて LEEM や光放出電子顕微鏡(photo-emission electron microscopy;PEEM)によって,Ni,Ru,Ir,などの基板上でのグラフェンの形成が評価されている16)18)34)。Ru(0001)単結晶面でのグラフェンの成長のその場 LEEM 観察によって成長前駆体が C5 の構造をもつこと,炭素とRu 基板との相互作用が強いためステップ-テラスの上りと下りで成長速度に差があることなどが明らかにされた35)。Ru 上の成長前駆体が系中の酸素により除去されグラフェンが消失する反応も LEEM によってその場観察されている17)18)。一方,Ir など相互作用の弱い系ではステップエッジでのグラフェンの核形成とエッジの再構成はみられるが等方的にグラフェンが成長することが観察された19)。 Ni は他の金属と比べて安価なため,単結晶だけではなく箔を基板とする実用的な系の研究がされている。単結晶の場合ではステップ-テラスやテラス表面での析出を観察するが,箔のような多結晶の場合は粒界を拡散してくる炭素があるために,粒界の近傍からグラフェンが析出することがその場LEEM 観察によって明らかにされている36)。

3.2 表面反応系 Ni などの場合と違い,炭素を固溶しない Cu 上ではグラフェンが表面反応によって生成する。この表面反応による吸着炭素の重合については,炭素のロッドの加熱によって吸着炭素を供給した場合のその場 LEEM 観察は報告されているが37)38),通常の熱 CVD 法のように炭化水素を供給し続けながら吸

着炭素の重合過程を観察するのは電子顕微鏡の作動圧力の問題により困難である。 その問題を解消する手法の 1 つが,数十~数百Pa の環境でも電子線を検出できる機能を備えた環境制御型 SEM の利用である。成長するグラフェンと Cu 基板を 20 Pa 程度の全圧下でも電子線反射率の違いにより識別できることが報告されている39)。また,Cu 基板の形状の変化も通常の SEM のように観察できるため,グラフェン成長の速度論の解析に加えて融点直下で構造が不安定化した Cu 基板が再配列する様子も観察されている40)。 一方,電子顕微鏡ではなく光学顕微鏡によってグラフェンを観察する手法もある。高温での物質の黒体輻射強度の顕微法を行う熱放射光学顕微法(図 3も参照)によると,グラフェンと Cu 基板の黒体輻射強度の大きな違いから,大気圧下などこれまでの電子顕微鏡では不可能であった環境でもグラフェンと Cu 基板を識別できる32)33)。グラフェンの成長速度や核密度の温度依存性の評価に加えて,メタン分圧や酸素分圧などの環境の変化に対してグラフェンの成長が敏感に応答する様子も観察されている31)。またグラフェンが酸素によって除去される過程についても議論され,系中の酸素がグラフェン成長前駆体を消費してグラフェンが消失する機構が明らかになった31)。

4.おわりに

 本稿ではグラフェン CVD 成長について特に機構の面から説明した。まず,代表的に熱分解,プラズマの援用,金属基板への固溶,金属基板表面での解離吸着の機構の特徴を述べた。特に金属基板の場合については,固溶析出系と表面反応系の成長前駆体の生成に詳細な説明を加えた。また,金属表面での成長前駆体の重合反応において顕微的手法によるその場観察が明らかにしてきた結果を述べた。現在では,グラフェン格子と表面の前駆体とが成長と分解をせめぎあい,成長条件の違いに応じてグラフェン格子が形成したり消失したりすると考えられている。以上の議論によって基礎物性あるいは産業応用のいずれの研究でもグラフェン CVD 格子の構造を自在に制御する試みへと貢献できれば幸いである。

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第1編 製造/分散/評価技術

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