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駒澤大學佛教學部論集 第43號 平成24年10月 (171)
禅病 ―『首楞厳經』に見る五蘊―
渡 邊 幸 江
はじめに 本論集第 43 号は、池田魯参教授の退任記念号である。池田教授には大学から大学院を経て、卒業後も座に会させて頂くこと 10 年となった。その間、天台三大部『摩訶止観』、『法華文句』、『法華玄義』を学ばせて頂いた。まことに有難い機縁である。 天台大師智顗の講説となる三大部が池田教授の声で語られると、この混沌にして有象無象の娑婆世界をそのまま遊戯するような、または大乗仏教の真髄「六波羅蜜」が温かな風光と化するような心持になった。これは論者だけの感慨ではないだろう。教授に触れる多くの学生が、大らかな仏の腕に包まれるように感じたことを想像する。自らもそのようでありたいと思いながら、その道の遠いことを思うばかりである。この場を借り、心から御礼を申し上げたい。
問題の所在 今日、禅病を書籍題目に冠するのは、浅野斧山著『禅病論』のみと思われる。浅野氏は禅病を大正蔵 19 巻所蔵『大佛頂如來密因修證了義諸菩薩萬行首楞厳經』、いわゆる『首楞厳経』を基礎資料に考察される。この『首楞厳経』自体は宋代から明代に至る禅宗に於いて、如来蔵自性清浄心を中心に検討され、疏としては『禅籍目録』に百を超える数を見ることができる。また、禅病研究に用いる仏教典籍は『坐禅秘要法』、『円覚経』、『首楞嚴經』が知られるが、なかでもこの『首楞嚴經』全十巻は、五十の魔境が第九巻から第十巻に説かれ、五蘊(色・受・想・行・識)の各一々に十境を設け、その一々の魔境が段階的に境界内容が変化していく構成を取る。つまり、今日的に述べるならば、『首楞厳経』は精神分析論を段階的に体系化した興味深い資料といえるのである(1)。 そこで、本稿は『首楞厳経』の五十の魔境を分析し、経典の中心的境界を捉えたいと考えた。それが、現在にも通じる禅病の中心的病位と想像するからである。
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禅病 ―『首楞厳經』に見る五蘊―(渡邊)(172)
第一、経典の概要一、経題の由来 『首楞厳経』全十巻は(2)、八世紀初頭に於ける中国撰述の偽経と考えられ、具題を『大佛頂如来密因修證了義諸菩薩萬行首楞厳経』と称し、経題を説く第八巻には「首楞厳」という名称が別称の一つとして示される。経名の由来を問う文殊師利に、仏が次のように教化する(3)。
佛告文殊師利。
是經名大佛頂悉怛多般怛囉無上寶印十方如來清淨海眼。亦名救護親因度脱阿難。
及此會中性比丘尼。
得菩提心入遍知海。亦名如來密因修證了義。亦名大方廣妙蓮華王十方佛母陀羅
尼呪。亦名灌頂章句菩薩萬行首楞厳。(4)
上記には、下線部に見る『大佛頂悉怛多般怛囉無上寶印十方如來清淨海眼』という経題と共に、経を説く意義が四種の別名(下線部)として ―『救護親因度脱阿難。及此會中性比丘尼得菩提心入遍知海』『如來密因修證了義』『大方廣妙蓮華王十方佛母陀羅尼呪』『名灌頂章句菩薩萬行首楞厳』― が記されている。経文は続いて次のように説く。
即時阿難及諸大衆。得蒙如來開示密印般怛囉義。兼聞此經了義名目。頓悟禪那
修進聖位。増上妙理心慮虚凝。斷除三界修心六品微細煩惱。(5)
阿難と諸大衆はこの仏の語を聞き、如来が密因般怛羅を説く意義を理解し、その上、「亦名」以下に示す経典解釈の名目を聞いて瞬時に禅定を悟り聖位に修行を進め、妙なる道理の理解を更に深める。そして、心に起こる思惟が偽塊であり、三界内の修行段階である欲界思惑九品の前六品を断じ除いたという。 つまり、如来が秘密蔵に入る因縁(6)である般怛羅呪(首楞厳呪)を説く意義とは、心に帰来する思慮が虚妄であり、これを断滅するためであることが知られるのである(7)。
二、経典の構成-365-
禅病 ―『首楞厳經』に見る五蘊―(渡邊) (173)
本経は十巻の構成であり、前後一頁程が序文と流通分に相当し、流通分は大正蔵一段の半分と僅かである。このことから、ほぼ十巻全てが正宗分と思われるが、この構成に関する論述については、周綉鶯氏の「大仏頂首楞厳経における如来蔵思想」(8)に詳細であり、その論中に概要として四種の大別が、一、所詮分斎分五品。二、理事悟修分二。三、菩提分三。四、般若三相分三として記されている。 さて、経典の冒頭は阿難が摩登伽女の大幻術に遭い、まさに戒を毀らんとすることに始まる。
爾時阿難因乞食次經歴婬室。遭大幻術摩登伽女。以娑毘迦羅先梵天呪攝入婬席。
婬躬撫摩將毀戒體。(9)
仏は摩登伽女の大淫術が阿難に加わるのを知り、文殊に仏の呪を使って阿難を護らせたため、悪呪は消滅する。
躬撫摩將毀戒體。如來知彼婬術所加。(中略)有佛化身結跏趺坐。宣説神呪。勅
文殊師利將呪往護。惡呪銷滅。(10)
その後、如来は阿難に次のように説き開眼に導く。
佛言善哉阿難。汝等當知一切衆生。從無始來生死相續。皆由不知常住眞心性淨
明體。用諸妄想。此想不眞故有輪轉。汝今欲研無上菩提眞發明性。應當直心詶
我所問。(11)
阿難の問題は淫慾にある。そこで、仏は「常住眞心性淨明體」を示される。 ところで、この真実の相を表す句こそ『首楞嚴経』の焦点と考えられ、五十の魔境が説かれる第九巻までに、五蘊、十八界、四大等に重ねて述べられている(12)。 だが、勝野隆広氏の論文「菩薩戒授受に関する」によれば、子璿『楞嚴経義疏注経』にはこの句を特に重要視した形跡はなく、また天台僧智旭はこの語句を「常住」・「性淨」・「性明」の三種に分解すると述べており解釈は様々となる(13)。 さて、第七巻に如来は神呪、経典には総計四百三十九句の神呪を宣説し(14)、
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禅病 ―『首楞厳經』に見る五蘊―(渡邊)(174)
この神呪は如来の無見頂相の無為心仏の頂から発輝し、宝蓮華に坐して説かれる心呪であり、無上正遍智覚を成就し諸々の功徳があると説かれる。ところが、阿難は自らを愚鈍と称し、未だ有漏にして出離せずと述べ、更に仏の慈音を求める。仏は衆生の顛倒を次のように示す。
佛言阿難當知。妙性圓明離諸名相。本來無有世界衆生。因妄有生因生有滅。生
滅名妄滅妄名眞。是稱如來無上菩提。及大涅槃二轉依號。阿難汝今欲修眞三摩
地。直詣如來大涅槃者。先當識此衆生世界二顛倒因。顛倒不生斯則如來眞三摩
地。阿難云何名爲衆生顛倒。阿難由性明心性明圓故。因明發性性妄見生。從畢
竟無成究竟有。此有所有非因所因。住所住相了無根本。本此無住。建立世界及
諸衆生。迷本圓明是生虚妄。妄性無體非有所依。將欲復眞欲眞已非眞眞如性。
非眞求復宛成非相。非生非住非心非法。轉發生生力發明。熏以成業同業相感。
因有感業相滅相生。由是故有衆生顛倒(15)
第八巻では、その衆生の顛倒虚妄の乱想に対する修行の方便と功徳が明かされる。その中に衆生の妄想から生起する無間獄、律儀を非破し菩薩戒を犯す鬼形、その鬼から生じる類、更に業の相続顛倒が産む仙、諸世間の衆生が常住を求めず、恩愛が捨てられず邪婬にある欲界の天が説かれる。 第九巻の冒頭は、世間一切の心を修行する人は禅那を手立てとする事がなければ、智慧あることなく、第八巻の欲界に続く色界は未だ形累を尽くさず、無色界は皆妙覚明心を了せず妄を積んで妄を発生すると説かれている。 そこで、その妄を滅尽するために禅那を修行するのであると、仏は大衆と阿難に説く。
三、経典の主意 前述のように、『首楞厳経』に見る五十の魔境は巻第九から説かれる。 如来によれば、我々は魔事を微細に知らず魔境が現れても分別できず、それゆえ邪見に堕ちるというのである。 また、自分の心中を明確に判断できず妄想が起きる。そこで、仔細に自分の心中を分別しなければならない。経文によれば、修行中である縁覚声聞が一心に悟りへ赴こうとしている。そこで私(如来)は真実の修行法を説いた。しかし、あなた達は未だ止観を修行する際の、微細の魔事を知らない。魔の境涯が
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目の前に現れる時、これが魔の境涯であると知ることができなければ、心を清浄にすることが正しくなく邪見に落ちてしまうだろうという。
汝等有學縁覺聲聞。今日迴心趣大菩提無上妙覺。吾今已説眞修行法。汝猶未識
修奢摩他毘婆舍那微細魔事。魔境現前汝不能識。洗心非正落於邪見。(16)
そして、我々が陰魔、天魔、鬼神に続き、魑魅にたまたま遭う時、魔事を見る心が明白でないため、それらの賊を自分の子供と判断する。また少しの理解を得て、良かれと思ってしまう。
或汝陰魔或復天魔。或著鬼神或遭魑魅。心中不明認賊爲子。又復於中得少爲足。
さらに、第四禅の無聞比丘が妄想して自分は悟りを得たと言い、天の報がすでに終わり衰相が現れ時、阿羅漢の身が未来に存在すると誹謗して阿鼻地獄に落ちることになる。だから、あなた達はしっかりと聞きなさい。私は今あなた達のために詳しく魔事を分別しようと、如来がこの経典を説く意義がここに示される。
如第四禪無聞比丘妄言證聖。天報已畢衰相現前。謗阿羅漢身遭後有。墮阿鼻獄。
汝應諦聽吾今爲汝子細分別。
つまり、我々が妄想を持つのは無智無明であるに他ならない。微細な魔境への知識があれば、邪見や妄想への堕落は少なからず回避されるのである。如来は微細な魔事の様相を示し、我々に五蘊それぞれの妄想を教化される。
第二 魔境の様相一、色蘊 色蘊に於ける魔境相は、障りが身の内や声や光となり、まさに現前する如くに現れる。十境の概観を見てみよう。
第一境:四大不織。少選之間身能出礙。
第二境:其身内徹。是人忽然於其身内拾出蟯蛔。身相宛然亦無傷毀。
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第三境:�其時魂魄意志精神。除執受身餘皆渉入。若爲賓主。忽於空中聞説法聲。或聞
十方同敷密義。
第四境:�十方遍作閻浮檀色。一切種類化爲如來。于時忽然見毘盧遮那踞天光臺。千佛
圍繞百億國土。及與蓮華倶時出現。
第五境:�觀察不停。抑按降伏制止超越。於時忽然十方虚空。成七寳色或百寳色。同時
遍滿不相留礙。青黄赤白各各純現。
第六境:忽於夜合在暗室内。見種種物不殊白晝。而暗室物亦不除滅。
第七境:�四肢忽然同於草木。火燒刀斫曾無所覺。又則火光不能燒 **。縱割其肉猶如削木。
第八境:�淨心功極。忽見大地。十方山河皆成佛國。具足七寳光明遍滿。又見恒沙諸佛
如來。遍滿空界樓殿華麗。下見地獄上觀天宮得無障礙。
第九境:忽於中夜遥見遠方。市井街巷親族眷屬或聞其語。
第十境:見善知識形體變移。少選無端種種遷改。
上述の第二から第九の魔境を鑑みると、魔境は修行者の驚愕を発起する如く、忽然と立ち現れている。その様相は上記下線( )に見る通りであり(17)、眼や耳といった感覚器官に訴えかけ、蟯蛔が沸く感触、現前の世界の変化変容、体の形態変化と感覚の変容、見えるはずのないものが見え、聞こえぬ声が聞こえるのである。 また世界の変容も下品に変化するのではなく、上界である如来の仏国土への変容であり、修行者が悟りへの志向性を強く望む心情が、妄想を併発していると想像される。
二、受蘊 受蘊の段階は、修行者が自分は優れた悟りを得たと妄想すると、固有の名を持つ魔境が修行者の心腑に入り、種々の妄想を発起させ、正しい受を失い淪墜を呈する。
第一境:若作聖解則有悲魔入其心府。見人則悲啼泣無限。
第二境:�若作聖解則有狂魔入其心腑。見人則誇我慢無比。其心乃至上不見佛。下不見人。
第三境:若作聖解則有憶魔入其心腑。旦夕撮心懸在一處。
第四境:若作聖解則有下劣易知足魔入其心腑。見人自言我得無上第一義諦。
第五境:�若作聖解則有一分常憂愁魔入其心腑。手執刀劍自割其肉。欣其捨壽或常憂愁。
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禅病 ―『首楞厳經』に見る五蘊―(渡邊) (177)
走入山林不耐見人。
第六境:�若作聖解則有一分好喜樂魔入其心腑。見人則笑於衢路傍自歌自舞。自謂已得
無礙解脱。
第七境:�若作聖解則有一分大我慢魔入其心腑。不禮塔廟摧毀經像。謂檀越言。此是金
銅或是土木。經是樹葉或是疊花。肉身眞常不自恭敬。卻崇土木實爲顛倒。其
深信者從其毀碎埋棄地中。疑誤衆生入無間獄。
第八境:�若作聖解則有一分好清輕魔入其心腑。自謂滿足更不求進。此等多作無聞比丘。
疑謗後生墮阿鼻獄。
第九境:�若作聖解則有空魔入其心腑。乃謗持戒名爲小乘。菩薩悟空有何持犯。其人常
於信心檀越。飲酒噉肉廣行婬穢。因魔力故攝其前人不生疑謗。鬼心久入或食
屎尿。與酒肉等一種倶空。破佛律儀誤入人罪。
第十境:�見色陰銷受陰明白。味其虚明深入心骨。其心忽有無限愛生。愛極發狂便爲貪欲。
若作聖解則有欲魔入其心腑。一向説欲爲菩提道。化諸白衣平等行欲。其行婬
者名持法子。神鬼力故於末世中。攝其凡愚其數至百。如是乃至一百二百。或
五六百多滿千萬。魔心生厭離其身體。威徳既無陷於王難。疑誤衆生入無間獄。
これら受蘊の魔境では、色蘊の魔境と同様、忽然として心中に思いが生じ奇怪な触覚等が起こる。この段階までは前境界の色蘊と同じである。 だが、受蘊ではその妄想を聖解ではないと迷わず覚了すればよいという。このことから、受蘊の段階は、自前の様相が妄想で有るか否かを判別する技量については、得ているということになるだろう。そして、聖解であると妄想すると魔が修行者の心腑に入り、正常とは思われない行動を起こす。その実態は上記下線( )に見る通りである(18)。 また、受蘊の特徴は魔に固有の名称があり、魔が入り口として病者の「心腑」に入る点であるが、魔が如何なる状態で「心腑」に侵入するかは記されていない。次の想蘊に、「精を飛ばし」とあることから想像すれば、受蘊に於いても精気を「心腑」に挿入するのかもしれない。とはいえ、未だ明確な意識として顕現される段階ではないのだろう。 その魔の名称は、一、悲魔。二、狂魔。三、憶魔。四、下劣易知足魔。五、一分常憂愁魔。六、一分好喜樂魔。七、一分大我慢魔。八、一分好清輕魔。九、空魔。十、欲魔と変化し、第一境から第八境までは、魔の名称が精神的妄想に於いて心的様相の変化を魔と捉え、第九、第十境に至ると、空や欲が魔となっ
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禅病 ―『首楞厳經』に見る五蘊―(渡邊)(178)
ている。これは、仏教の悟りを求める修行者の心相の執が魔となるのである。つまり、魔とはその本人自身の心にある日常的な範囲から生起することが想像される。 ところで、「心腑」については、心は「心臓」と称するように臓であり、腑に属するものではない。したがって、「心腑」の「腑」を腑臓の一語と捉え、五蔵六腑全てを意味すると解釈したい。すなわち、五臓六腑全ての中で経典は「心」という精神作用に注目し、「心腑」として表するのでないだろうか。 また、第十境に「深く心骨に入れば」という記載からも、第一境から第九境までに記載される、「心腑」は魔が骨には及んでおらず、骨より浅部の心と五臓六腑に止まることを推察する。
三、想蘊 想蘊では、修行者は邪慮に遭うことはない。だが、悟りを求める思いが更に強くなり、「其の精思を鋭くして善巧を貪求」すれば、天魔がここぞとばかりにその者に就くのである。まず何に貪求するかを見てみよう。
第一境:心愛圓明鋭其精思貪求善巧。
第二境:心愛遊蕩飛其精思貪求經歴。
第三境:心愛綿刑澄其精思貪求契合。
第四境:心愛根本窮覽物化性之終始。精爽其心貪求辯析。
第五境:心愛懸應周流精研貪求冥感。
第六境:心愛深入克己辛勤。樂處陰寂貪求靜謐。
第七境:愛知見勤苦研尋貪求宿命。
第八境:心愛神通種種變化。研究化元貪取神力。
第九境:心愛入滅妍究化性貪求深空。
第十境:心愛長壽辛苦研幾。貪求永歳棄分段生。頓希變易細相常住。
貪求する対象は(19)、一、善巧。二、経歴。三、契合。四、弁析。五、冥感。六、静謐。七、宿命、八、神力。九、深空。十、永歳である。受蘊に比して更に悟りへの欣求は強大となり、仏の力を頼りとし、第十境では永歳を貪求し分段の生死を捨て、頓に変易の細想常住を願っている。この第十境の永歳に至ると、仏教修行者の願いというより道教の不老不死を志向する修行者の姿を想像
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禅病 ―『首楞厳經』に見る五蘊―(渡邊) (179)
する。魔の名称やその行状については、第一境から第十境まで下記の如く違いは見られない。
爾時天魔候得其便。飛精附人口説經法。其人不覺是其魔著。自言謂得無上涅槃。
ところで、想蘊の段階になると、修行者の貪求が天魔にとっては絶好の好機となる。だが、修行者はそれに気付かないまま、妄想に翻弄されるのである。想蘊の特徴を整理すると次の通りとなる。
①修行者が貪求する時 ②天魔が、その修行者の貪求を好機として ③精を飛ばし ④人に附き ⑤修行者に経法を唱えさせる ⑥�しかしながら、その修行者本人は最後まで魔が附いた為の所業である
ことを覚らない。 ⑦更に、「私はこの上ない悟りを得た」と言う。
上記③④⑤は、魔の所業である。魔は前段階の受蘊では形状を記さず、人の心腑に入る記載であるが、ここ想蘊では精を飛ばし人に附くと記している。 そこで、この精を精気に繋がるもの、また生命の根源力であると想像すれば、魔が精気を意のままに操る力を持つ存在と推察できることから、魔自体が人の五蘊それぞれの段階を把握した侵入方法を取ることも知られるのである。そして、その魔の精が人のどこに付くかは述べられていないが、これは寧ろ当然のこととして「心骨」以上に深い部分であるだろう。何故なら、自分に魔が附いたことに気付くことなく、経法を唱え妄言することから考えれば、「心腑」から「心骨」を経て「心髄」に及ぶ可能性を示唆するからである。 また受蘊と異なり、魔は天魔のみである。天魔は周知のように天子魔であり五魔・四魔の一で、欲界の第六天(他化自在天)に住し、人が善事や真理への行を妨ぐのである�。このように、受蘊では十境各々に固有の名称を持つ魔が現れたが、想蘊では他化自在天という欲界最高天の魔が貪求する人の強欲を食らい、十境全てに侵食が及ぶのである。
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四、行蘊 行蘊は、「堅凝正心」、いわゆる確固とした正しい心に集中すれば、想蘊に現れた天魔は好機侵入が不可能となる。つまり、貪求の回避こそ天魔侵入を阻止する方法なのだ。 だが、行蘊は様々な計度を起こす段階でもあり、その結果、論中に墜落し、計度は第一境の本来的円中から、第十境では後後有に於いての計度が述べられており、最終的には後世の生存を望んだ悟りを求めていることが想像できる。そのように計度する人は涅槃は涅槃でも、涅槃の論に墜入し思議に著するのである。
第一境:於圓元中起計度者。�……………………是人墜入二無因論
第二境:於圓常中起計度者。�……………………是人墜入四遍常論
第三境:於自他中起計度者。�……………………是人墜入四顛倒見。一分無常一分常論
第四境:於分位中生計度者。�……………………是人墜入四有邊論
第五境:於知見中生計度者。�……………………人墜入四種顛倒。不死矯亂遍計虚論
第六境:於無盡流生計度者。�……………………是人墜入死後有相發心顛倒
第七境:於先除滅色受想中生計度者。�…………是人墜入死後無相發心顛倒
第八境:於行存中兼受想滅。雙計有無� ………是人墜入死後倶非起顛倒論
第九境:於後後無生計度者。�……………………是人墜入七斷滅論
第十境:於後後有生計度者。�……………………是人墜入五涅槃論
また、行蘊は論に墜入してから四つの分類を設ける第五境までと、第六境から第十境の分類を全く記さない段階に分かれるという特徴がある。詳細に見れば、第一境、第二境は、計度により正遍知を亡じ、外道に堕落し菩提の性に惑う段階である。第三境になると、その計度は一分無常一分常を計度するので外道に堕落し菩提の性に惑い、第四境は有邊無邊に計度して外道に堕落し菩提の性に惑い、第五境は矯亂虚無に計度して外道に堕落し菩提の性に惑うと記されている。つまり、第一境から第五境は、外道に堕落し菩提の性に惑う計度は今生のものであり、死後には至っていないのである。
第一境:由此計度亡正遍知。墮落外道惑菩提性。
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禅病 ―『首楞厳經』に見る五蘊―(渡邊) (181)
第二境:由此計常亡正遍知。墮落外道惑菩提性。
第三境:由此計度一分無常一分常故。墮落外道惑菩提性。
第四境:此計度有邊無邊。墮落外道惑菩提性。
第五境:由此計度矯亂虚無。墮落外道惑菩提性。
ところが、第六境は死後の相に計度の対象が変わり「死後有相」の段階となり、第七境ではそれが否定され「死後無相」と述べられる。
第六境:皆計度言死後有相。
第七境:死後云何更有諸相。因之勘校死後相無。
このように、第五境と第六境の境界は相が他の段階とは著しく異なる。つまり、生と死が第五境と第六境を分けているのである。
五、識蘊 識蘊の段階は、既に生滅を滅しているが、更に寂滅に於いて微細な理解が及んでいない。第一境から第十境までに下記の言が示され、魔の存在を物語る記載は見られない。
窮諸行空。於識還元已滅生滅。而於寂滅精妙未圓。
その未解から勝解が生起すると、その人は種々の執に堕し、更に悪縁の種を生ずる事となる。まず、種々の執と如何なる種を生ずるのかを見てみよう(21)。
第一境、是人則墮因所因執・・・生外道種
第二境、是人則墮能非能執・・・生大慢天我遍圓種
第三境、是人則墮常非常執・・・生倒圓種
第四境、是人則墮知無知執・・・生倒知種
第五境、是人則墮生無生執・・・生顛化種
第六境、是人則墮歸無歸執・・・生斷滅種
第七境、是人則墮貪非貪執・・・生妄延種
第八境、是人則墮眞無眞執・・・生天魔種
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禅病 ―『首楞厳經』に見る五蘊―(渡邊)(182)
第九境、是人則墮定性聲聞・・・生纒空種
第十境、是人則墮定性辟支・・・生覺圓明不化圓種
上記には、顛倒による執着が更に次の顛倒種を生む様が示される。識蘊の末尾に、如来は次のように説かれる。
衆生頑迷不自忖量。逢此現前各以所愛。先習迷心而自休息。將爲畢竟所歸寧地。
自言滿足無上菩提。大妄語成外道邪魔。所感業終墮無間獄。
衆生が頑迷であり、魔境現前の時に自ら無上菩提を満足すと言い大妄語すると、無間獄に堕するのであるが、
魔境現前汝能諳識。心垢洗除不落邪見。陰魔銷滅天魔摧碎。大力鬼神褫魄逃逝。
魑魅魍魎無復出生。直至菩提無諸少乏下劣增進。於大涅槃心不迷悶。
魔境現前の時に、衆生が現前の境涯が魔境であることを充分に知っていれば、煩悩は除かれ邪見に落ちない。陰魔は消滅し、天魔は砕かれ、大力の鬼神は体を脱ぐように捨てて逃げ去り、魑魅魍魎は生起せず、直ちに菩提に至るまで多くの疲労もなく、下劣の者も増進して、大涅槃で心は迷いや不快がないという。つまり、魔境を魔境として覚知する分析能力の如何の有無が、魔境に堕するか否かの境目となるのである。 そして五陰の本因が妄想であり、妄は元々無因である旨を識ることが、如来が本経を説く目的である。
佛告阿難精眞妙明本覺圓淨。非留死生及諸塵垢乃至虚空。皆因妄想之所生起。
斯元本覺妙明眞精。妄以發生諸器世間。如演若多迷頭認影。妄元無因。於妄想
中立因縁性。迷因縁者稱爲自然。彼虚空性猶實幻生。因縁自然。皆是衆生妄心
計度。阿難知妄所起説妄因縁。若妄元無。説妄因縁元無所有。何況不知推自然
者。是故如來與汝發明五陰本因同是妄想。
結論 『首楞厳経』に示される五十の魔境は、妄想を仔細に説く如来により、色、
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禅病 ―『首楞厳經』に見る五蘊―(渡邊) (183)
受、想、行、識とその境涯が進むに伴い、魔の出没相の異なりが見られる。 色蘊では、魔境は忽然と現れ感覚器官に訴えている。現前の世界が変容し、さらに体の形態変化と感覚の変容が生起する。それらは如来の仏国土への希求が妄想となっている。受蘊は固有の名を持つ魔境が現れ心腑に入ることが特徴である。想蘊は修行者が悟りを求める思いが強くなる段階で、そこに現れる魔は天魔のみである。行蘊は計度を起こす段階で、涅槃に墜ち思議に著する。識蘊になると生滅を滅しているが未だ微細な理解ではない。魔の記載はなく、顛倒による執着が顛倒種を生起する。とはいえ、現前の自体を魔境であると捉えれば邪見に落ちないのである。つまり、その覚知能力を問題としている段階である。経典の末尾には、如来がこの経典を説く主意はその点にあると記している。 また、想と行のみに第五境と第六境の記載に変化が見られる。『首楞厳経』に於ける境界の変化は、主にこの想と行の第五と六の時点ではないかと推察される。 上記の考察から、人の心識の段階を魔は即時に把握することが知られた。つまり、魔とはそれほど人に即した感覚を持つものとも言えるのである。即ち、自己に一番相似するものこそ、魔となり得るのではないだろうか。そうであれば、魔境に堕する者の心こそ魔の源であり、魔境に対する治法は魔と同様に人の心識を覚知する智慧である。自らの心識を常に見張ることが魔境に堕することから逃れることであることを、如来は本経を通じ説くのではないだろうか。 前述のように、『首楞厳経』の研究の多くは如来蔵自性清浄心への探究である。従って、魔境の検討は殆どされていない。魔境は一々の段階が微妙に異なる。それは人の心が常ではないことの証である。自己すら見失う我々の心は、捉える事が難しいのである。 だが、病患境に於いて、智顗が病を厭うことなく、病から自らの心を捉えよと教化する如く、『首楞厳経』の五十の魔境は、我々の心の不確かさから心は不可思議であることの自覚へと導くとも思われる。本稿に於ける五十の魔境の検討は、まだ雑駁な段階である。今後さらに検討を試みる所存である。
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禅病 ―『首楞厳經』に見る五蘊―(渡邊)(184)
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⑴� 二木柳賢著『仏教医学概論』(1994 年、法蔵館)p224 に次の記載がある。「『首楞厳経』における精神病理の体系は、五感の分析、五情の分析、異常心の分析、超常能力の分析、論理力の分析をこの順序で階層的に上昇する精神分析論になっているわけですが、このような階層的体系はこの『首楞厳経』に限らず、『金光明最勝王経』、『治禅病秘要法』においても同様に見られるものであり、これらをまとめた『摂大乗論』や『阿毘達磨俱舎論』も必然的に階層的体系になっている。⑵� 高橋周栄氏の「鎌倉時代の僧侶と『首楞厳経』」注⑴(『駒澤大学禅研究所年報』第七号、p114 ~ 116、1996 年、駒澤大学研究所)に、高橋氏が駒沢大学図書館編の『禅籍目録』に収録される『首楞厳経』関係の書名を通覧することを勧めている。何故なら、宋・元・明の各時代の学僧に多く重視されていたことが確認できるからである。その『禅籍目録』には、宋から明に至る疏が 120 を数え注目度の多さを物語っている。� また椎名宏雄氏や石井修道氏の論著を挙げ、同経が禅宗の宗旨を示す経典であることが記されていることや、天台宗に於いても研究が盛んであったことは大松博典氏等の論文にも提示されていると述べている。⑶� 高橋氏の同論注⑵に記される『宋高僧伝』「雪峰伝」に、「玄沙乘楞厳而入道。識見天殊」(大蔵経 50p0782c)から「楞厳」の略称や、同伝には他に『楞厳経』の語も見られ、日蓮の『開目抄』に見られる「首楞厳経云」の語等を取り上げている。⑷� 大蔵経 19p0143a 参照。⑸� 大蔵経 19p0143a 参照。⑹� 密因は、経典には次の記載がある。� � � �阿難如是世界六道衆生。雖則身心無殺盜。三行已圓若大妄語。即三摩提不得清淨。
成愛見魔失如來種。所謂未得謂得未證言須陀洹果。斯陀含果阿那含果。阿羅漢道辟支佛乘。十地地前諸位菩薩。求彼禮懺貪其供養。是一顛迦銷滅佛種。如人以刀斷多羅木。佛記是人永殞善根無復知見。沈三苦海身生彼末法之中。作種種形度諸輪轉。或作門白衣居士。人王宰官童男童女。如是乃至婬女寡婦姦偸屠販。與其同事稱歎佛乘。其身心入三摩地。終不自言我眞菩薩眞阿羅漢。泄佛密因輕言未學。唯除命終陰有遺付。云何是人惑亂衆生成大妄語。(大蔵経 19p132b29)
⑺� 岩城英規氏の「『首楞厳経玄義』から『首楞厳経文句』を見る」(『天台学報』第四十三号、天台学會、2001 年)には、同経の主意を「その内容は、染浄を離れることなく智慧を現じ、染法をそのまま浄用に転じ、不生不滅、法界を円照する如来蔵思想を宣布する経典として知られる」と、周綉鶯は「大意は、如来の性覚を悟り証することである」と述べている(『東洋学研究』7、東洋大学東洋学研究所、1973 年)。また、『仏書解説大辞典』には、「全巻を貫く思想は、阿難が摩登伽女の呪力に依って、摩道に堕せんとしたのを、仏陀の神力に依って救い出し、禅定の力と白傘蓋陀羅尼の功徳力を賞揚し、白傘蓋陀羅尼に依って、有ゆる摩障を撃退し、かくして禅定に専注して如来の真実知見を獲得して生死の迷界を脱却することが、最後の目的であることが明かされている。」と解説が示されている。⑻� 周綉鶯氏「大仏頂首楞厳経における如来蔵思想」の p50 を参照されたい。四種に大別する内容を更に分段される。(『東洋学研究』1973 年、東洋大学東洋学研究所)
禅病 ―『首楞厳經』に見る五蘊―(渡邊) (185)
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⑼� 大蔵経 19p0106c 参照。⑽� 大蔵経 19p0106c 参照。⑾� 大蔵経 19p0106c 参照。⑿� 第二巻には、真性本来淨妙円明である所以が示される。(大蔵経 19p0110 参照)「色心諸縁及心所使諸所縁法唯心所現。汝身汝心皆是妙明眞精妙心中所現物。何汝等遺失本妙圓妙明心寶明妙性。認悟中迷晦昧爲空。空晦暗中結暗爲色。色雜妄想想相爲身。聚縁内搖趣外奔逸。昏擾擾相以爲心性。」� 上記に仏は色心等は唯心の所現であり、その本来の身心とは本妙円妙の所現であるが、衆生はそれを遺失し色妄想に雑り想の現れるのを身となし、内外に奔逸し昏であり、擾擾とした相の心性と思うのであると説かれる。また、同巻には月を指す指の譬えが示され、明暗には種々に差別があると雖も見に差別があるのではない。心は本妙明淨なのであるが、一切衆生は己の迷妄中にあるという。(大正蔵 19p0111a 参照)「得法性。如人以手指月示人。彼人因指當應看月。若復觀指以爲月體。此人豈唯亡失月輪亦亡其指。何以故。以所標指爲明月故。豈唯亡指。亦復不識明之與暗。(中略)故。若還於明。則不明時無復見暗。雖明暗等種種差別見無差別。諸可還者自然非汝。不汝還者非汝而誰。則知汝心本妙明淨。」� 第二巻の末尾には、五蘊は因縁でなく自然の性でなく虚妄であると説かれている。(大正蔵 19p0114b 参照)「何晴空號清明眼。是故當知色陰虚妄。本非因縁非自然性。阿難譬如有人。手足宴安百骸調適。忽如忘生性無違順。其人無故以二手掌於空相摩。於二手中妄生澁滑冷熱諸相。受陰當知亦復如是。阿難是諸幻觸。不從空來不從掌出。如是阿難若空來者。既能觸掌何不觸身。不應虚空選擇來觸。若從掌出應非待合。又掌出故。合則掌知離 3即觸入。臂腕骨髓應亦覺知入時蹤跡。必有覺心知出知入。自有一物身中往來。何待合知要名爲觸。是故當知受陰虚妄。本非因縁非自然性」� 第三巻には、六根、六識も五蘊同様の説が説かれる。四大、五大、六大の性は生滅なく円融無礙であり、清浄本然し法界に周遍すると説かれる。このように「常住眞心性淨明體」は後の巻にも見ることができる。⒀� 勝野隆弘「菩薩戒授受に関する一考察」(『天台学報』第四十三号、p80、2000 年、天台学會)参照。⒁� 大正蔵 19p0136c 参照。⒂� 大蔵経 19p0138b 参照。⒃� 大蔵経 19p0147a 参照。「佛言阿難當知。妙性圓明離諸名相。本來無有世界衆生。因妄有生因生有滅。生滅名妄滅妄名眞。是稱如來無上菩提。及大涅槃二轉依號。阿難汝今欲修眞三摩地。直詣如來大涅槃者。先當識此衆生世界二顛倒因。顛倒不生斯則如來眞三摩地。阿難云何名爲衆生顛倒。阿難由性明心性明圓故。因明發性性妄見生。從畢竟無成究竟有。此有所有非因所因。住所住相了無根本。本此無住。建立世界及諸衆生。迷本圓明是生虚妄。妄性無體非有所依。將欲復眞欲眞已非眞眞如性。非眞求復宛成非相。非生非住非心非法。轉發生生力發明。熏以成業同業相感。因有感業相滅相生。由是故有衆生顛倒」⒄� 色蘊の妄想は次の通りである。
禅病 ―『首楞厳經』に見る五蘊―(渡邊)(186)
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� 第二境は、体の中から蟯蛔が沸いてくるのであるが、体を傷つけるということはない。� 第三境は、空中に説法の声が聞こえ、秘密奥義が広がる。第四境は、この世の全てのものが如来に変化し、毘盧遮那仏が天光台に座り、その周
りを千の仏がぐるぐる回り、百億の国土と蓮華が出現する。第五境は、全ての空間が七宝の色になったり、百の宝の色が同時に空間を埋め尽くし、
青黄赤白の色が一つ一つ現れる。第六境は、昼間だと思ったら夜になり、暗い部屋にいるにも関わらず、物が昼間見る
のと変わらないし、暗い部屋にある物がなくならない。第七境は、体が草木になり、火で焼いたり刀で切ったりしても痛くも無く何をされて
いると言う感じがない。またまた火で焼くことができず、肉を裂いても、鬼を削るような具合である。
第八境は、大地や山河を見ると、それらがみな仏の国になり、七宝が具わり光明が全てに行き渡ってその宮殿は花で飾られたように美しく見える。
第九境は、昼間だと言うのに、遥か彼方の町にいる親族や眷属を見て、彼らが話しているのが聞こえる。
⒅� 色蘊の妄想は次の通りである。第一境は、人を見ては、悲しみ泣き続けて止まらない。第二境は、人を見ると、自らを誇ることが比類ないほどであり、心持は仏も人も無視
している。第三境は、始終、心を撮み、それを引っかけて一つ所に置く。第四境は、人を見ては自分から、「私はこの上ない悟りを得た」と言う。第五境は、手に刀や剣をしっかり持ち、自分の体を切り取り、命長らえることをやめ
ようと願う。第六境は、人を見ては笑い、大通りのそばで歌い、私は既に何者にも妨げられない解
脱を得たと言う。第七境は、仏塔や先祖の廟への礼拝をしないで、仏像を壊し、仏教庇護の者に言う。
「仏像は金銅土木である。経典は紙や畳から作られたものである。真実の仏を敬わないで土木を崇拝するのは誤った考えである」と。そしてそれを深く信じる者はこの言に従って、仏像や経典を破り壊し地中に埋め捨てて、人々を惑わせ間違いを起させて無間獄に堕ちる。
第八境は、自分で悟りを得て満足したと思い、さらに修行しようという気持ちを求めない。これらの者は多くは無聞比丘となって疑い謗り阿鼻地獄に堕ちる。
第九境は、僧侶が保たなければならない戒律を謗り、これは戒律を守る者は小乗であるとし、「菩薩は空を悟る。どうして持戒などというものが要るだろうか」と言う。その人は常に信仰心の厚い仏教庇護者に対して、酒を飲み肉を食べて広く淫らな醜い行いをするけれども、これは魔の力がそうさせるので、自分の周りにいる人を疑い謗る心は生じない。
� � � 鬼が心の不覚に入れば、屎尿を酒肉のように食べ、どちらも共に空であるとして、仏の律義を破り人に誤りを犯し罪を受ける。
禅病 ―『首楞厳經』に見る五蘊―(渡邊) (187)
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第十境は、ひたむきに欲について語り、それを悟りの道であるとして、多くの在家者を教化して欲に関する行為をさせ、その淫らな行為をする者に対して法を持つ仏の子であると名付ける。悪鬼の力の為に、末法の世に於いて凡夫を集めること、その数は百、二百、五百、六百、多い時は千万にも上る。魔の心が体を嫌がり離れると、衆生を教化する威徳は無くなり、王に背いたことによる災難を受け、衆生に疑い間違いを与え無間地獄に入る。
⒆� 一、善巧(仏が衆生に合わせて巧みな手立て)、二、経歴(時の移り変わり)、三、契合(ぴったり合う)、四、弁析(弁別し細かに分ける)、五、冥感(仏が密かに衆生の能力に応じて利益を垂れる)、六、静謐(完全なる静けさ)、七、宿命(前世からの境涯)、八、神力(仏の威神力)、九、深空(深遠な空)、十、永歳(長寿)⒇� 中村元『仏教語大辞典』p985 参照。�� 識蘊に於ける勝解を生じる際に、如何なる堕入であるかは次の通りである。第一境、因を因とする執着に堕する。第二境、できない事をできるとする執着に堕する。第三境、常でない事を常とする執着に堕する。第四境、無知を知とする執着に堕する。第五境、無生を生とする執着に堕する。第六境、無帰(依るべきものがない)を帰とする執着に堕する。第七境、非貪を貪とする執着に堕する。第八境、無眞を眞とする執着に堕する。第九境、定性の声聞(ただ煩悩障を断じて我空の理を證し決定して辟支仏果に至らざ
るもの�)に堕する。第十境、定性の辟支に堕する。