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『不正な管理人』のたとえ (ルカ16:1-8a)についての一考察 反骨精神、「神の国」、そして慈愛  A Study of the Parable of the Unrighteous Steward (Luke 16:1-8a): A Spirit of Repulsion, God’s Kingdom, and God's Mercy 村山 盛葦 Moriyoshi Murayama 『不正な管理人』のたとえ(ルカ16:1-8a)についての一考察 33 キーワード 不正な管理人、イエスのたとえ、喜劇、神の国、悔い改め、奴隷制 KEY WORDS the unrighteous steward, parables of Jesus, comedy, the kingdom of God, repentance, slavery 要約 「不正な管理人」のたとえ(ルカ16:1-8a)について多くの研究者がその意味を追究 してきた。伝統的な解釈として、管理人の賢さをこのたとえの使信とする立場があ る。それによると、危機に直面した際に管理人が知恵を絞り見事に難局を切り抜ける が、それが終末の危機に直面する信仰者の手本として提示されている、と考える。こ れはもっともな解説に思われるが、帳簿改ざんという不正行為を全く不問に付してい る点で説得力に欠けると言わざるを得ない。 本小論は、先行研究の議論を吟味しながら別の解釈の可能性を追究する。具体的に はまず、ずる賢い奴隷が活躍する喜劇作品に注目し、その観点から管理人の行動と主 人の称賛の意味を考察する。次に、当時の奴隷社会の現実に注目し、奴隷としての管 理人が直面している深刻さを論じる。そして、当時の貧しい小作農民の視点から読解 を試み、このたとえに反骨精神が読み取れることを指摘する。最後に、ルカ福音書の 文脈に注目し、このたとえには「放蕩息子」と同様に、神の慈愛がメッセージとして

『不正な管理人』のたとえ (ルカ16:1-8a)につい …...『不正な管理人』のたとえ(ルカ16:1-8a)についての一考察 35 聴衆は、イエスが鋭い非難の言葉でこの話を結ぶであろうと期待している。し

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『不正な管理人』のたとえ(ルカ16:1-8a)についての一考察  反骨精神、「神の国」、そして慈愛  

A Study of the Parable of the Unrighteous Steward (Luke 16:1-8a): A Spirit of Repulsion, God’s Kingdom, and God's Mercy

村山 盛葦Moriyoshi Murayama

『不正な管理人』のたとえ(ルカ16:1-8a)についての一考察

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キーワード不正な管理人、イエスのたとえ、喜劇、神の国、悔い改め、奴隷制

KEY WORDS

the unrighteous steward, parables of Jesus, comedy, the kingdom of God, repentance, slavery

要約 「不正な管理人」のたとえ(ルカ16:1-8a)について多くの研究者がその意味を追究してきた。伝統的な解釈として、管理人の賢さをこのたとえの使信とする立場がある。それによると、危機に直面した際に管理人が知恵を絞り見事に難局を切り抜けるが、それが終末の危機に直面する信仰者の手本として提示されている、と考える。これはもっともな解説に思われるが、帳簿改ざんという不正行為を全く不問に付している点で説得力に欠けると言わざるを得ない。 本小論は、先行研究の議論を吟味しながら別の解釈の可能性を追究する。具体的にはまず、ずる賢い奴隷が活躍する喜劇作品に注目し、その観点から管理人の行動と主人の称賛の意味を考察する。次に、当時の奴隷社会の現実に注目し、奴隷としての管理人が直面している深刻さを論じる。そして、当時の貧しい小作農民の視点から読解を試み、このたとえに反骨精神が読み取れることを指摘する。最後に、ルカ福音書の文脈に注目し、このたとえには「放蕩息子」と同様に、神の慈愛がメッセージとして

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含意していることを論じる。これらの考察を通して、このたとえがもつ豊かな使信を明らかにする。

Summary

Many scholars have investigated the parable of “the unrighteous steward”(Luke 16:1-8a). A traditional interpretation focuses on the cleverness of the steward in order to argue that he was a good example for the early Christians, who lived in the face of eschatological crisis. This interpretation is reasonable to some extent; however, it is not so persuasive in that it does not deal at all with the dishonest behavior of the steward.This essay pursues the arguments about what the parable actually means. Specifically, it first focuses on the comedies in which cleaver slaves play an important role in the narrative: examining the significance of the dishonest conduct and the praise of the master. Then, it investigates the ancient slave society and discusses what situation the steward is involved in, and it argues that the parable would convey a spirit of repulsion when we read it in light of the poor peasants. Finally, it suggests that the parable entails God’s mercy in the same way as “the prodigal son” does, especially when we read it in light of the literary context in the Gospel of Luke. This investigation demonstrates that the parable has profound implications.

1.問題の所在

 「不正な管理人」のたとえ(ルカ16:1-8a1)には不正行為を評価する記述があり、それをどのように解釈するのか研究者を悩ましてきた。伝統的な解釈によると、管理人が行った不正ではなく、危機に際して自らを守るために利口な決断をしたことに注目する2。そうすることで、不正行為の推奨ではなく、決定的な行動をした管理人の利口さをこのたとえは例示していると解釈する3。この解釈の立脚点は8a 節の「主人は、この不正な管理人の抜け目のないやり方をほめた」である。直訳すると「主人は不義の(不正の)管理人をほめた。なぜなら彼は利口に(froni,mwj)行ったからだ」となる。この解釈では、帳簿を改ざんしたことは完全に不問に付される。イエスのたとえ研究の大家であるエレミアスはこう解説する。

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    聴衆は、イエスが鋭い非難の言葉でこの話を結ぶであろうと期待している。しかし意外なことに、聴衆の期待に反して、イエスは非難どころか、この詐欺師をほめられる。あなたがたも腹立たしく思うか。しかしこのことから学びとりなさい!あなたがたは、メスをのどに突きつけられて、その存在が破滅に瀕しているこの財産管理人と同じ状況にあるのだ。あなたがたを脅かしている危機は―事実あなたがたはすでにその渦中にいるのだが―比較にならないほど怖るべきものである。この男は「利口」だった(八節 a)、つまり、彼は危機的状況を把握したのである。彼は事態を成行きに任せないで、切迫した禍がその身にふりかかる前の最後の瞬間に行動した。確かに彼は非良心的な詐欺師である、そのことについてイエスは弁解されない。しかしそれはこの場合問題でない。支配人が大胆に、決断的に、賢く行動して、新しい生活への活路を切り開いたことが重要である。賢くあることが、あなたがたにとっても時間の要請である!すべてが危機にさらされている!4

エレミアスの解釈は、8b-13節の初期キリスト教もしくは著者ルカのこのたとえの解説にうまく適合する。「この世の子ら」である管理人の利口さを、信仰者である「光の子ら」に対する模範として機能させている。また、9節は賢く振る舞うことは「永遠の住まい」という終末の準備に重要であることを論じる。最後の審判において、すべての人が神の前に立たされる。この危機に直面することが分かっているのであれば、今のうちに賢く準備しておくことが大切となる。主人からの罰に直面しつつある管理人が利口に立ち振る舞ったことは、信仰者にとっては終末の準備として賢く生活する手本として機能するのである。具体的にはこの世の財産を賢く、利口に取り扱うことが勧告されている(9節、11節)。終末論的危機感はこのたとえ自体に明示的ではないが、エレミアスの解説は全体として説得力があり、他の研究者も同様の解釈を展開している5。 しかし、この解釈は管理人が主人の帳簿を改ざんした不正について一切問わない。管理人が行ったことは信仰者の手本として本当に相応しい内容かどうか疑問が残る。利口な振舞いを示すために、わざわざ不正行為を題材にする必要はなかったであろう。もっと良い題材を他に探すことが出来たはずである。帳簿の改ざんは倫理に反し、そもそも管理人の保身のためになされたものである。その目的を達成するためには賢いやり方だったかもしれないが、現代の社会通念や古代においてもこの行為は不誠実であり、不正であると当然見なされる。それゆえ、無条件にこの行為を褒めるわけにはいかず、このような帳簿改ざんが利口に生きる振舞いの見本として受け取ることは、特殊な状況を除いては困難であろう(例えば、主人側に正義が全くない場合な

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ど)。 さらに、判断と行為を分けることは不自然であり、管理人の判断を利口であると評価しつつ、それに基づいた行為を不問に付することは出来ない。言い換えるならば、彼の決定的な利口な判断と帳簿改ざんという不正行為は表裏一体である。また、このたとえは、管理人の行為の内容を描写することに終始している。それゆえ、管理人の利口な判断だけでなく彼の具体的な行為の内容もたとえの真意に深く関わっていると言えるだろう。本小論では、先行研究に依拠しながら伝統的な解釈とは別の解釈の可能性を追究する。

2.たとえの再考

2.1. 喜劇物語として M. A. Beavis は、奴隷が主人公として登場するギリシア・ローマの文学的伝統に照らし合わせて「不正な管理人」のたとえを解釈する6。特に、ローマの喜劇作家プラウトゥス(前254-1847)の作品や『イソップの生涯』(後2世紀)に注目し、「不正な管理人」との類似点を論じる。奴隷イソップは主人クサントスに仕え、生涯を通して機知に富んだ数々の寓話を語ったことで有名である。彼の言説は現代に至るまで「イソップ寓話」として読み継がれている。これとは別の『イソップの生涯』はイソップに関する伝承やその他の伝承が混合した、イソップの伝記である8。Beavis はこの作品に次のような典型的な筋立てを見出す。まず、滑稽でワル

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の奴隷イソップが主人クサントスとの間に何らかのトラブルを抱える。イソップはずる賢く、うまく善後策を講じ、クサントスの裏をかいて難局を切り抜ける。結果的にイソップはクサントスの好意を得ることに成功する、というものである。主人と奴隷という通常の主従関係が一瞬逆転するが、主人は奴隷の利口さに圧倒されて、「あっばれ、おぬしなかなかやるのぉ」と評価することになる。因習的な価値体系が一時的に解除され、無礼講が許される。また、プラウトゥスの作品においても、「舌を巻くよ、あの男の賢さ、機転、悪さには」と奴隷のずる賢さに主人が感嘆する場面が数多く見られる(『プセウドルス』第四幕第八場、1240行以下で奴隷プセウドルスを評した主人シモなど)9。さらに、プラウトゥスの作品には策略と詐術に才気を発揮する奴隷が描かれ(『プセウドルス』第二幕第一場、574行以下の奴隷プセウドルス。『バッキス姉妹』第四幕第九場、950行以下の奴隷クリュサルス。『ほら吹き兵士』第二幕第二場、160行以下の奴隷パラエストリオの策略など)、そのような奴隷の存在が物語を通して肯定的に示されている。このように、奴隷が主人を出し抜くネタ

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は喜劇作品のお馴染みとして存在していたと考えることができる。

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 「不正な管理人」の帳簿改ざんは、一つの可能性としてこのような喜劇作品に見られる奴隷のずる賢い策略として見なすことができるかもしれない。しかし実際に管理人という立場でこのようなことが可能なのか、また、負債者は管理人の策略に易々と同意するのか、疑問が生じる。これについてケネス・E・ベイリーは中東文化に即して解説をしている。その中でイブン・アル-タッイブの洞察を紹介し、管理人の狡猾さをうまく解説している。

   イブン・アル-タッイブは書いている。    「これがあなたの証文だ。急いで座り、50と書きなさい」とは要するに、「主

人が証文をわたしから取り上げに来る前に、100パトスの借金を50と記入しなさい。帳消しにした50パトスは、万事が済んだあとで、われわれ二人で折半しよう」と言うに等しい。この管理人は主人の権利を守るのが義務であるはずなのに、主人の債権の半額が失われる行為をしでかす。それも将来負債者が主人と組んで自分を告訴することのないよう、彼を主人の財産の着服の共犯者に引き込むためである。

     管理人の計画は抜け目なく、イブン・アル-タッイブの洞察は見事である。中東のような名誉―恥文化の場合、公共性を尊ぶ精神と私利優先意識との間には明確な一線が引かれている。公共的適正の遵守が個人的名誉を維持してくれるのである。「公共的適正の遵守」について言えば、負債者の公共的姿勢は

「管理人が解雇されたとは全く知りませんでした!」である。公共的レベルでは、彼は「あの差引は御主人の許可を得て通知されたと思っておりました」と主張することができる。「公共的適正さが守られている」可能性がなければ、負債者の協力は得られないであろう。彼らは今後も主人から農地を借用しつづけたいのである。他方私的レベルで言えば、負債者は管理人と彼自身の双方の懐を温めてくれるささやかな取引は受け入れられる。イブン・アル-タッイブはこうした心理的背景ややりとりを完全に理解している10。

この解説によると、負債者と管理人は共謀して主人の裏をかいたことになるが、その後の負債者の立場を熟慮した管理人の手口は見事である。また、管理人が負債者たちを一堂に集めるのではなく、「一人一人呼んで」(ルカ16:5)、取り引きを行なったやり方も利口である。なぜなら集団で交渉すると負債者同士の利害が絡み収拾がつかなく恐れがあるが、個人個人の交渉ではそれぞれの事情にあわせて調整できるからである11。 Beavis が論じているように、このような管理人の抜け目のない策略は『イソップ

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の生涯』やプラウトゥスの作品に登場する奴隷の策略と類似している。そして、主人が管理人の行為を称賛したことは、この喜劇文学的背景に照らし合わせると、特に驚くことではなくなる。管理人は窮地を切り抜けるために見事な仕事を成し遂げたのである。この意味で、彼は読者にとって利口に生きる手本として機能しただろう。 プラウトゥスの作品は非常に人気があり、彼の死後1世紀経っても偽造品が出回るほどであった12。さらに、『イソップの生涯』の執筆時期は紀元後2世紀頃であるが、イソップが前6世紀頃に実在していた可能性が高い(ヘロドトス『歴史』第二巻134)13。そしてローマの哲学者セネカ(後1世紀)や弁論術教師クインティリアヌス(後1世紀)はその論述の中でイソップの寓話に言及している14。こういうわけで、新約聖書が執筆された後1世紀において、プラウトゥスの作品やイソップに関する著作類が文学的伝統のなかに含まれていたと考えることができる。よって新約聖書の文学的環境にこの種の喜劇的な潮流があったことになる。 しかし、にもかかわらず、喜劇作品に登場する奴隷とその利口さを「不正な管理人」の直接的な文学的背景として読み込んで良いのかいくつかの点で疑問が生じる。まず、「不正な管理人」の場合、主人の財産に損失を与えることになるため、イソップのように問題を解決して難局を切り抜けたとは言えない。そのため、主人の称賛が喜劇的要素を生み出すことは困難であり、むしろ管理人は厳罰を受ける深刻な状況に直面する可能性が高い。利口な奴隷であっても、策略の内容によって主人の好意を獲得できるかは不透明である。実際、後で考察するように、主人の怒りにふれた場合、奴隷への処罰は厳しいものであった。また、プラウトゥスの作品は一部の例外はあるものの、物語の中核は「恋」である(典型例は「若者と遊女」との恋)15。そして恋の妨害者として権力者(父親、兵士など)が登場し、その権力者を打ち負かすのが才気に富んだ奴隷である。ここに、大衆を読者として想定した作品の娯楽性が見出される。それゆえこの種の喜劇作品と「不正な管理人」との文学的類似を直ちに認めることに躊躇せざるを得ない。結局のところ、喜劇作品に比べて「不正な管理人」は物語的な情報が乏しすぎるため、喜劇作品との類似の可能性は指摘できても、管理人への称賛やその機能が喜劇作品におけるそれであったと断言することはできないであろう。

2.2. 奴隷社会の現実 次に「不正な管理人」の管理人が直面している事の重大性について当時の奴隷社会の観点から考察しておく。「管理人」(oivkono,moj)は「奴隷」(dou/loj)と表現されていないが、物語の内容からも奴隷の身分であったと考えられる16。oivkono,moj は家業や不動産管理を担当する奴隷身分の人物であった。古代ギリシア・ローマ世界において

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奴隷の仕事は多岐にわたり、苛酷な肉体労働に限定されなかった17。「不正な管理人」に登場する奴隷は、ビジネスの世界で主人の代理人として責任ある地位にあったと言えるだろう。現在でいうと銀行員、店主、貿易商、職人などとして主人のために営利活動を行なうような存在であったと想像できる18。ルカ16:5-7から oivkono,moj は農地や農作物の管理の仕事を任せられていたようだ(家の財産管理をする oivkono,moj はルカ12:41-48に登場する)。主人に仕える身分という点で oivkono,moj は奴隷であって、絶対的権限は主人にあった。彼は自らの存在を主人の良識に完全に委ねている状況である。つまり、彼は主人の気分次第で如何様にもなるもろい存在であった。しかし、無条件に主人が安心、安寧であるということでもなかった。というのは、主人側は奴隷の美徳、効率性、生産性によって束縛されているからだ。つまり、両者は持ちつ持たれつの間柄であり、奴隷制は主人と奴隷との「逆説的な共生」が前提としてあったのだ19。 なお、奴隷の美徳とは、普遍的な倫理観で判断されるのではなく、主人に対して忠実かどうか、主人の利益に反しているかどうかで評価された。ルカ16:10-13はまさにこの観点で論じられていると言えるだろう。二人の主人に忠実であることは当然あり得ず、それゆえ、一方を憎んで他方を愛するという表現は誇張ではなく、当時の奴隷社会においてはごく普通の認識である。このような社会において、主人の利益に反し忠実でないことは悪い奴隷の典型であり、懲罰の対象となる。ルカ16:1によると、管理人は主人の財産を無駄遣いし、主人の利益に反することを仕出かしたようだ。主人は裏付けを取るために会計報告を提出させ、管理人の職を解雇する決断をした

(16:2)。管理人の恐怖は以下に考察するようにリアルなものであったと思われる(16:3-4)。 通常、財産を無駄遣いした奴隷に対する罰として考えられるものは20、(1)連帯責任として同僚奴隷も罰せられる。(2)投獄(3)卑しい肉体労働への格下げ(4)より過酷な奴隷身分へと売却(5)家族と離別であった。「不正な管理人」の管理人に対する罰は具体的に特定できないが、主人の気まぐれで如何様にもなっただろう。管理人は「土を掘る力もないし、物乞いするのも恥ずかしい」(ルカ16:3)と危惧しているが、上記の(3)のペナルティーが示唆されていることが分かる。「土を掘る」(ska,ptw)とは、採石場の労働のことである。これは奴隷の仕事の中でも最も過酷なもので地獄を見る場所である21。これが嫌なら逃亡し、物乞いの生活をする以外に術がないのである。また、裕福層が所有する農地に

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おける労働も最悪であり、まともな食物も与えられず死ぬまで酷使されたこともあった22。ところで、ルカ福音書に奴隷に対する厳罰の例が言及されている。不忠実な奴隷に対して、主人は「厳しく罰し」(新共同訳)とある(ルカ12:46)。しかし、原語は dicotome,w という動詞で、意味は「二つに切る」、「ひどいお仕置き(鞭打ちなどの厳罰)にする」である23。「厳しく罰する」という抽象的なものではなく、奴隷の手足をバラバラにするお仕置きであったかもしれない。なお、この種の罰は見せしめに行なわれることもあったようだ24。 このように、不正な管理人は予想される罰とその回避を思案した結果、逃亡を企てることにした。その準備として自分を支援してくれる仲間を作ることを思いつき(ルカ16:4)、主人から任せられていた帳簿を改ざんした(16:5-7)。当時の奴隷社会の価値体系から判断すると、この管理人は主人にとって最悪の奴隷であり、「悪夢」25ということになる。なぜなら、主人の財産を散財し、罰を逃れるために逃亡を企て、物乞いを避けるためにかくまってくれる仲間を求め、その獲得のために帳簿を改ざんする。そこには主人に対する忠誠心は微塵も見られない。「逆説的な共生」を享受する主人にとって、この管理人は美徳も生産性も皆無という極めて劣悪な奴隷となる。 後1世紀のギリシア・ローマ世界は奴隷を重要な労働力とする奴隷制社会であった26。そして、このことはパレスチナにも当てはまった27。それゆえ、奴隷社会の実情を考慮することなく、「不正な管理人」のたとえを読み解くことは適切ではないだろう。上述した喜劇作品も実はこの厳しい現実を前提にしているからこそ、笑いを創出することが出来たのである。すでに論じたように、喜劇作品に登場する利口な奴隷と主人のやり取りを「不正な管理人」の管理人と主人のそれに当てはめることは困難である。では、このたとえの意味はいったい何であるか、それを別の角度から考える必要があるだろう。手がかりとして、読解の視点を主人ではなく管理人あるいは負債者の立場に置くことが重要であろう。

2.3. 反骨精神、そして「神の国」 現代人の多くは無意識にも主人の立場でこのたとえを読み、管理人の不正行為に否定的な価値判断を下す28。それゆえ、管理人が褒められることに合点がいかない。しかしこのたとえの聴衆の多くは、地主から土地を借り、農業を営む貧しい小作人たちであった29。彼らは借地料として、一定額の穀物、金銭、あるいは収穫の一定の割合を地主に支払う必要があった30。彼らの立場から再読すると違った読みが可能である。 「不正な管理人」の冒頭に「ある金持ちがいた(a;nqrwpo,j tij h=n plou,sioj)」(ルカ16:1)とあるが、この描写は主人の当時の社会的役割を読者に示している31。ガリラ

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ヤの貧農にとってこの主人は心理的に疎遠な存在である。また、主人が家臣たちにどのような振舞いをするかは日頃の経験からほぼ予想がついた。イエスのたとえには地主と小作人の間の敵意や憎悪を題材にしたものがある。たとえば、「ぶどう園と農夫」

(マルコ12:1-8 // マタイ21:33-39; ルカ20:9-15; トマス福音書65)は、しばしばキリスト論的に解釈されるが、小作人の地主に対する憎悪を反映していると言って良い。このような社会的文脈のなかで当時の小作人たちが、「不正な管理人」を金持ちの主人の立場で聞くことはほとんどなかったであろう。そして彼らの予想通り、主人は管理人の言い分を聞くこともなく、悪意のある内部告発(「告げ口する」diaba,llw32)を鵜呑みにし(16:1)、いとも簡単に管理人を解雇する(ouv ga.r du,nh| e;ti oivkonomei/n「お前はもはや家令の務めを果たすことはできない」、o` ku,rio,j mou avfairei/tai th.n oivkonomi,an

avpV evmou/「私の主人は私から家令の仕事を取り上げる」)(16:2, 3)。日頃から地主に虐げられている聞き手たちは、主人への敵意と同時に、窮地に追い込まれた管理人に対して同情を抱いたであろう。また、自己防衛を講じる管理人を支持しただろう。 エレミアスによると33、油100バトスは146本のオリーヴの木から得たものに相当し、金額にすれば1000デナリオンとなる(デナリオン=労働者の一日分の賃金)。小麦100コロスは42ヘクタールの土地からの収穫物で2500デナリオンに相当する。この数値は、金持ち同士(大商人)の取り引きを示していると考えることができるが、一方小作人の巨額な負債を表わしていると考えることもできる34。最初の借入金はわずかであってもいつの間にか巨額になってしまうことはあり得る35。さらに、地主による法外な利率の設定によって、雪だるま式に負債がかさんだ可能性もゼロではなかっただろう36。あるいは、この数値を字義どおりではなく、程度の大きさを伝える文学的技法と考えることもできる。いずれにせよ、油100バトスの相当額が1000デナリオンであるとすると、50バトス減額したことで500デナリオン相当が浮くことになる。小作人と管理人がそれを折半するとそれぞれ250デナリオン相当(労働者の8ヶ月分相当の給与)を獲得することになる。このように、主人の意向に反して借金を大幅に減額してくれる管理人は、聞き手である貧農小作人たちにとっては痛快な悪漢ヒーローと映ったであろう。これは当時の主従関係を破綻させるものである。ここに管理人の反骨精神を読み取ることが出来る。 ただ、聞き手にとって一つ困惑する点があった。それは、当然予想される結末(主人の怒りと管理人への厳罰)に反して、主人が管理人の行為を称賛することで話が終わっている点である(8a 節)。聞き手は物語の辻褄を合せるために字義的ではなく、寓意的に解釈することを求められただろう37。「冒頭に出てきた金持ちの主人がこの管理人を褒めることはあり得ない。それゆえ、最後に称賛した主人は、物語の主人以外の誰かに違いない」と聞き手が思案した可能性がある。そして、彼らは話し手がイ

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エスであることに意識を集中させ、イエスが地主や主人以外に「主(o` ku,rioj)」と呼ぶとするならば、それは「神」以外にあり得ないことに気づいただろう38。そして、このような管理人が「主なる神」によって称賛されるという新しい現実を聞き手は突きつけられることになった。 こういうわけで、このたとえは「この世」のことを題材にしながらも、実は「この世」のことではなく、「神の国」について語っていると解釈することが可能となる39。この世の常識や論理とは著しく異なる「正義」をイエスはこのたとえを通して指し示した可能性がある。不正な管理人を称賛することで、この世で抱かれている正義の意味を問い直すことを促した。たとえ自体には正義の明白な定義は見当らないが、たとえ全体を通して聞き手は正義とは一体何かを読み取ることが求められ、その意味を捉える思索のなかで、この世で機能している正義のあり方を問うただろう40。同様のことは「ぶどう園の労働者」(マタイ20:1-16)や「放蕩息子」(ルカ15:11-32)にも当てはまる。夕方から働いた者にも一日分の賃金(一デナリオン)を支払う主人、生前贈与の遺産を使い果たした息子の帰還を祝福した父親。双方とも不正な管理人を称賛した主人と同様の役割を担っている。「この世」では正義と強者が調和よく組み合わされているが、イエスが語る「神の国」では正義と弱者という新しい座標

(組み合せ)が樹立されている41。この座標において正義とは何かを聞き手は再考するように促されただろう。 最後にルカ福音書の文脈に焦点を当てて、「不正な管理人」のもう一つの読みの可能性を探る。具体的には直前に配置されている「放蕩息子」との類似を考察する。

2.4. 「放蕩息子」との類似 まず、「不正な管理人」の前後の文脈を手短に見ておくと、直前の章に三つのペリコーペが配置され(「見失った羊」、「無くした銀貨」、「放蕩息子」)、著者ルカの重要な神学思想の一つ、「悔い改め」の神学が強調されている(ルカ15:7, 10, 18, 24, 32)。そして直後には、本小論の冒頭で言及したように、「不正な管理人」の伝統的な解釈に沿った、初期キリスト教もしくは著者ルカの解説が展開する(ルカ16:8b-13)。その後に、金銭に関するエピソード(「金に執着するファリサイ派の人々」、「金持ちとラザロ」)が配置され、再び悔い改めの重要性が示される(16:30)。さらに文脈の射程を長くすると、具体的な金持ちの事例が二つ組み込まれていることが分かる(「金持ちの議員」[18:18-30])、「金持ちのザアカイ」[19:1-10])。金持ちの議員は自分の財産を貧しい人に施すことが出来ず、悲しみながらイエスのもとから立ち去った。一方ザアカイは自分の財産を貧しい人に施し、不正に獲得した利益は四倍にして返却し、救いが到来した。このように考察してくると、著者ルカが悔い改めの神学と財産の取

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り扱いの観点からこれらのペリコーペを適宜配置していることが分かる42。 さて、「不正な管理人」と「放蕩息子」との類似点を指摘すると43、まず「ある人

(a;nqrw,poj tij)」が冒頭で紹介され物語は始まる(15:11; 16:1)。この人物は物語の最初にその筋立てを決定し、最後に物語の締めくくりの役割も担う(父親[15:11,

32]、主人[16:1, 8a])。この人物は彼の近親者(息子、管理人)に財産を委ね、近親者はそれを無駄遣いする(動詞 diaskorpi,zw「まき散らす」が共通して使用されている)(15:13; 16:1)。この近親者は命の危機に直面するが(15:15-17; 16:3)、物語が近親者の独白に移行し、問題解決が開始する(15:17-19; 16:3-4)。双方の物語ともに「家」に迎え入れられることが到達目標であるが、計画通りではなく、「ある人(父親、主人)」の予想外の行動によって、その目的が超克される。また、物語の筋立ても以下のように酷似している。 「放蕩息子」:息子→浪費→策略(「雇い人」として懇願)→帰宅→父親の歓迎・受入れ 「不正な管理人」:管理人→浪費→策略(帳簿の改ざん)→主人の賞賛さらに、放蕩息子も管理人も父親や主人の情けにすがる以外に術がない状況にある。結果として、息子は相続財産を浪費したことで罰を受けることはなく、管理人も帳簿改ざんのために厳罰に処せられることもない。双方ともに父親や主人の慈愛を受けることになる44。「放蕩息子」に関して伝統的に父親=神、放蕩息子=罪人(信仰者)と解釈されるが、同様に、「不正な管理人」に関しても主人=神、管理人=罪人(信仰者)と解釈できるだろう。以上の考察から、双方のたとえは共通して神の慈愛を伝えていると解釈することが可能である。 前述したように著者ルカは目的を持ってこれらのぺリコーぺを配置している。そのため、「不正な管理人」を「神の慈愛」という明解なメッセージを伝える「放蕩息子」の直後に置くことで、「不正な管理人」の難解さを克服しようとしていると考えることが出来るだろう45。これを否定することはできないが、逆に、「不正な管理人」のメッセージが元来「神の慈愛」であり、そこに金銭に関する題材があるため、現在のように配置することを著者ルカは良しと判断した、と考えることができる。というのも、ルカ16:8b 以下は財産の取り扱いにテーマを移していく。結果として、著者ルカは「不正な管理人」のぺリコーぺのお陰で、「悔い改め」の神学(15:1-32)から財産の取り扱い(16:8b-31)へとスムースに文脈を形成することが出来ている。この意味で「不正な管理人」は橋渡し的役割を持っていると言えよう。 「不正な管理人」は正義と弱者という座標(組み合せ)を樹立していると上述したが、「放蕩息子」との類似を考察することで、この座標に罪人と慈愛のニュアンスを加えることが出来るだろう。すなわち、正義(慈愛)・弱者(罪人)という組み合せ

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である。

 以上の考察から、本小論は「不正な管理人」の喜劇的要素の可能性を理解しつつも、反骨精神と慈愛によって色づけられるところの「神の国」の正義がこのたとえの使信であると結論づける。しかし、このたとえの結末は実は明らかでない部分がある。すなわち、管理人が主人の家に最終的に受け入れられたのか明記されておらず、それは読者の解釈に委ねられている。同様に、このたとえの使信は今後も読者の自由な読みに開放されている。

注1 研究者の概ねの同意事項として8a 節でたとえが終わると考えてよいだろう(J. A. Fitzmyer, The

Gospel according to Luke X-XXIV[New Haven: Yale University Press, 1985]1094-1097; F. B. Craddock,

“Luke,” in Harper’s Bible Commentary, ed. J. L. Mays[New York:HarperCollins Publishers, 1988]

1034)。それゆえ、1-8a 節が「不正な管理人」のたとえ、8b-13節が初期キリスト教(著者ルカを含

む)によるたとえの解釈と理解できる。

2 「不正な管理人」は教父時代以来、解釈上の問題を提起しており、標準的な解決方法は管理人の抜け

目のなさに焦点を当てることであった(J. R. Donahue, The Gospel in Parable: Metaphor, Narrative, and

Theology in the Synoptic Gospels[Philadelphia: Fortress Press, 1988]164)。

3 J. エレミアス(善野碩之助訳)『イエスの譬え』(新教出版、1969年)199-201頁。

4 エレミアス『イエスの譬え』201頁。

5 例えば、C・H・ドッド(室野玄一他訳)『神の国の譬』(日本基督教団出版、1964年)37-39頁;N.

Perrin, Rediscovering the Teaching of Jesus(New York: Harper & Row, 1967)114-115; K. E. Bailey, Poet

and Peasant: A Literary Cultural Approach to the Parables in Luke (Grand Rapids: Wm B. Eerdmans,

1976)86-110; Fitzmyer, The Gospel according to Luke X-XXIV, 1098; D. L. Mathewson, “The Parable of

the Unjust Steward(Luke 16:1-13): A Reexamination of the Traditional View in Light of Recent

Challenges,” Journal of the Evangelical Theological Society 38(1995): 29-39。

6 M. A. Beavis, “Ancient Slavery as An Interpretive Context for the New Testament Servant Parables with

Special Reference to the Unjust Steward(Luke 16:1-8),” Journal of Biblical Literature 111(1992)37-

54。

7 木村健治「総解説―古代ローマ演劇とプラウトゥス」『ローマ喜劇集1』(京都大学学術出版会、2000

年)525頁。

8 小堀桂一郎『イソップ寓話 その伝承と変容』(講談社、2001年)34頁。

9 邦訳はプラウトゥス『ローマ喜劇集4』(京都大学学術出版会、2002年)131頁より引用。

10 ケネス・E. ベイリー(森泉弘次訳)『中東文化の目で見たイエス』(教文館、2010年)516-17頁。

11 ベイリー『中東文化の目で見たイエス』516頁。

12 Beavis, “Slavery as Interpretive Context,” 47。

13 Beavis, “Slavery as Interpretive Context,” 45。

14 小堀『イソップ寓話』88-90頁

『不正な管理人』のたとえ(ルカ16:1-8a)についての一考察

45

15 木村「総解説」538-542頁。

16 Beavis, “Slavery as Interpretive Context,” 45。dou/loj 以外に奴隷の身分や機能を示す用語は種々存在し

た。例えば、avndra,podon「捕虜奴隷」、oivkogenh,j「家で生まれた奴隷」、oivke,thj「家事用の奴隷」、qera,pwn「個人的な使用人」、pai/j「子供奴隷」など。ローマ帝国時代、oivkono,moj は奴隷的地位(奴隷

または解放奴隷)にあった(D. B. Martin, Slavery as Salvation: The Metaphor of Slavery in Pauline

Christianity [New Haven:Yale Univeristy Press, 1990]16-17)。

17 K. Bradley, Slavery and Society at Rome(Cambridge: Cambridge University Press, 1994)57-80。

18 F. E. Udoh, “The Tale of an Unrighteous Slave(Luke 16:1-8[13]),” Journal of Biblical Literature 128

(2009)320-24。

19 Udoh, “Unrighteous Slave,” 329。

20 Udoh, “Unrighteous Slave,” 332。

21 Beavis, “Slavery as Interpretive Context,” 49。

22 アルベルト・アンジェラ(関口英子訳)『古代ローマ人の24時間 よみがえる帝都ローマの民衆生活』

(河出文庫、2012年)252頁。

23 織田昭『新約聖書ギリシア語小辞典』146頁。

24 Beavis, “Slavery as Interpretive Context,” 42。

25 Udoh, “Unrighteous Slave,” 334。

26 Anchor Bible Dictionary, ed. D. N. Freedman, 6:66。

27 Beavis, “Slavery as Interpretive Context,” 38; Udoh, “Unrighteous Slave,” 321-323。

28 W. R. Herzog は資本主義に基づいた経済倫理からこのたとえを解釈することを批判している

(Parables as Subversive Speech: Jesus as Pedagogue of the Oppressed[Louisville, KY: John Knox Press,

1994]245)。

29 Cf. J. D. Crossan, Jesus: A Revolutionary Biography(New York: HarperCollins Publishers, 1994)54-74。

30 山口雅弘『イエス誕生の夜明け ガリラヤの歴史と人々』(日本キリスト教団出版局、2002年)184

頁。

31 B. B. Scott, Hear Then the Parable: A Commentary on the Parables of Jesus(Minneapolis: Fortress Press,

1989)261。

32 BAGD, 181。

33 エレミアス『イエスの譬え』200頁。

34 同上。

35 田川建三『イエスという男』(三一書房、1980年)243頁。

36 ヨセフスは、ユダヤ戦争時に借金に苦しむ民衆がアグリッパ王の宮殿を襲い、古記録保管所にあった

「金貸したちの証文」を焼き払ったことを伝えている(『ユダヤ戦記』2.427[秦剛平訳])。

37 Cf. Scott, Hear Then the Parable, 264。

38 著者ルカはイエスに言及するとき(ルカ7:13, 19; 10:1, 39, 41; 11:39; 12:42a; 13:15; 17:6)、そして復活の

キリストを描写するとき(ルカ24:34; 使1:21; 2:36; 4:33; 5:14; 8:16)、しばしば「主(o` ku,rioj)」を使用

する。それゆえ、ルカ福音書の文脈において8a 節の「主」はイエス・キリストを意味したであろう

(Donahue, The Gospel in Parable, 163)。

39 イエスのたとえは、「神の国の象徴を発見あるいは解釈するための文脈を設定する」、「神の国の象徴

に関する手がかり」、あるいは「その象徴を包み囲む」、と Scott は論じている(Hear Then the

Parable, 61-62)。

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40 Scott, Hear Then the Parable, 265。

41 Cf. Scott, Hear Then the Parable, 266。

42 著書ルカにとって経済問題(貧富の差)は重要な関心ごとであった。金持ちに対する批判的な態度と

貧困者に対する連帯意識はどの福音書にも見られるものだが、特にルカにおいてそれは顕著である。

例えば、財産放棄(ルカ5:11, 28; 18:22。並行箇所マルコにはない「すべて」を付加している)、財産

共有制(使2:43-47; 4:32-36)、貧者との連帯と富裕層への批判(ルカ1:47-55; 3:10-14; 4:18-19; 6:20-26;

12:13-21; 12:32-34など)。Esler はローマ帝国東部の都市部に住む貧困者の状況がルカの神学思想に影

響を与えていると論じている(P. F. Esler, Community and Gospel in Luke-Acts: The Social and Political

Motivations of Lucan Theology[Cambridge: Cambridge University Press, 1987]200)。

43 ここの考察の多くは Donahue に依拠している(Donahue, The Gospel in Parable, 167-169)。

44 Bailey, Poet and Peasant, 109。

45 Herzog, Parables as Subversive Speech, 236-237。