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人文研究 大阪市立大学文学部紀要
1992年第44巻第11分冊45頁--64頁
-45-
批判的合理主義と経験的基礎の問題
中 J 敏 郎
序論:批判的合理主義の精神
川公fIのように、カール ・ポノマーは自らの立場を「批判的合理主義J(Cri ti-
cal Ra tionalism) と~付けた。ここでえう合理主義とは、 理性的な方法に
よって!日j泌を解決しようとする態度を指し、哲学史上経験論と対立する代理
ぬの私u木で‘はなし、。ポノマーは、イオニア派のタレース に始まる(と彼の考え
る〉批判的u命f~の伝統を合理主義の伝統と呼ぶ (Popper [1963J p.50, p
150)。ポハーは、 しかし、『聞かれた社会とその敵J(Popper [1945J) のな
かで、合llH主義を探る決断そのものは非《理的であると断じた。
合J1H主義的な態度の特徴は、日命防護や経験を重要視するという点にある。
しかし、論理的な議論も経験も合盟主義的な態度を確立することはでき
立し、。というのも、議論や経験をJ5・慮する用意のある人々だけが、それ
bえ合盟主義的な態度zをすでに奴UJJしている人々だけか、議論や経験に
よって彬轡-されるであろうからである。すなわち、どんな議論や経験も
j効で・あるべきならは 、 まず合即三l:~たがjな態度を採用しなくてはならな
い。それゆえ合理主義的な態度は議論や経験に基づくことはありえなし、。
(ibid., ch.24, p.230)
tコ瑚主義的な態度の採JlJは「非合理的」と呼ばれてもよい採用であり、「非
u塑!的な耳目性l信仰J(irrational fa.i的 inreason) である。「したがって必
~ð~Hこ、合理主義が包括的ないし自足的 (comprehensive or self-contained )
であることはけっしてな Lリ (ibid.,p.231)とポパーは言う。なぜなら、包
的ないし無批判的な合理主義は、E翻範論と経験によつて支持されない前提を
け入れるベきでで.はな
である。むしろ、非合理主義のほうが論理的には無批判的合理主義よりすぐ
1ている。彼によれば、 を採用するか非合理主義を採用するかは
(837)
-46-
「道徳上の決断Jの問題なのである (ibid.,p.232)。もち ろん、これは選択
に際してし、かなる議論も助けにならないということではなし、。われわれは各
選択肢から結果するであろう帰結を注意深く分析することができる、とポノマー
は言う (ibid.)。
同じような議論の構造はポパー哲学の随所に見られる。ポパー哲学は(少
なくとも初期の段階では〉論理と決断だけから構成されていると言っ ても過
きではなし、。ポノマーは『探究の論理~ (Popper [1934J) およびその英訳増
補版である 『科学的発見の論理~ (Popper [1959J) において、科学と非科
学との聞の境界設定の規準として「反証可能性」を挙げたが、それも「向会
ないし規約のための提案と見なされねばならない」と述べている。
何かそのような規約が適切であるかどうかに関しては異な った意見があ
るだろう。そして、これらの問いについての合理的な議論が可能なのは、
或る目的を共有している 当事者の聞においてだけである。その目的の選
択は、もちろん、究極的には決断の問題であ って、理性的議論を超えて
いるにちがいなし、。(Popper[1959J p.37)
しかし、ここでもポパーは、 「私の知るかぎり、私の提案を支持する 合理的
な議論の方法がただ一つある。それは、私の提案の論理的帰結を分析するこ
とである。すなわち、それが実り豊かであること一一知識の理論の諸問題を
解明する能力をも っていることーーを指摘することであるJ(ibid. ,p.38) と
付言 している。
ポパーが決断を必要とするのはこれだけではなし、。理論体系が反証可能で
あるだけではなく反証されたとわれわれが言うのは、それと矛盾する「基礎
言明J(basic statements)が存在し、それをわれわれが受容した場合に限
る (ibid.,p.86)。基礎言明とは、或る特定の時空領域で何らかの観察可能
な出来事が生じていることを断定する言明のことである。(1)ポノマーによれば、
しかし、基礎言明もまた「決断あるいは取り決めの結果として受容されるJ(ibid., p.106)。ポノマーは基礎付け主義者 (foundationalist) ではない。基
礎言明は、科学という建物の基礎で、もなければ建築材料でもなし、。しかし、
基礎言明の受容は、合理主義的態度の採用や反証可能性規準の採用とは異な
る。基礎言明は経験と結び、ついている。もし基礎言明の受容が決断によると
すれば、科学は経験と無縁なものになるのではないか。本論稿は、経験的基
礎に関するポパーの所論を手がかりにして、批判的合理主義における経験の
役割について論じようとするものである。
(838)
•
•
.
批判的合理主義と経験的基礎の問題 -47一
1 .経験的基礎の問題:フリースのトリレンマ
ポパーは『科学的発見の論理~ (Popper [1959J)の第 5章で、経験的基礎
の問題を「フリースのトリレンマJを解決するという形で提出している。J•
F・フリース (Fries)はカント哲学を心理主義的に解釈した哲学者として
知られるが、われわれが言明を受け入れる場合の根拠として独断論、無限後
退、心理主義という三つの選択肢を挙げた。ポパーはこう述べている。
彼の教えたことは、もし科学の言明が独断白に受容されるべきで、はない
とすれば、それら言明を正当化することができなくてはな らない、とい
うことである。われわれは、もし論理的な意味での筋道だった論証によ
る正当化を要求するならば、 言明を正当イ目、きるのみ言明んらそA2と
いう見解に与していることになる。すλそゐ言明が論理的に正当化さ れ
るべきだという要求は・それゆえ無限後退に至らざるをえない。 さて、
もしわれわれが無限後退はもちろん独断論の危険をも避けたいと思うな
らば、われわれは心理主義、つまり言明は言明によ って正当化できるの
みならず知覚経験によっても正当化できるという説、に訴えるしかない
かのように思われる。 (ibid.,pp.93-4)。
知覚経験によって正当化されるうる言明があるとすれば、われわれはこのト
リレンマを免れることができる。フリースが採ったのもこの道(心理主義)
である。つまり、感覚経験においてわれわれは「直接的な知識」をもってお
り、それを用いて「間接的な知識(言語で表現された知識)J を正当化でき
る、と。
しかし、ポパて位、.いかなる言明も経験によって正当化されうることを否
定する。彼は「言明を議定的に正当化そ、きるゐ存会出んらそ毛るJ(ibid., p
43)と考えている。
われわれは主観的経験あるいえ金信感を、科学的言明の様々な体系の聞
に、そしてそれら体系の各々の内部で、成立するま観白.品企出走商会か
ら区別しなければならなし、。前者は(心理学的探究の主題となることは
ありえても)言明を正当化することはけっしでありえない。 (ibid., p.44)
たとえば「ここにー羽の黒いスワンがいる」という言明と、「すべてのスワ
ンは白い」という言明との聞の関係は、私が現在一羽の黒いスワンを見てい
ようといまいと同じである。見ることは信じることであると言われるが、私
(839)
f工い宇品 λ 奇 (cf.l'Jopper [ :1
-・・・温世• 、,--a闇凪膚掴笹
-l〉tilリj- コ
..
.. ‘'
,.
• 、・.、t
批判的合理主義と経験的基礎の問題 -49-
伴わなければ何にもならない、と言う。「われわれはプロトコル文を く抹消
する>(さもなくば く受容する))さいの怒意性を制限する一組の規則を必要
とする。ノイラートはそのような規則を何も与えていないし、こうして無意
識に経験論を投げ捨てている。というのは、そのような規則がなければ、経
験的言明は、もはや他のいかなる種類の言明からも区別されなし1からである」
(ibid., p.97)。このt比判は、しかし、そのままポノマーにも当てはまる。 とい
うのは、ポノマーもそのような規則を何も与えておらず (Agassi[1973J pp.
199-200, Watkins [1984J pp.250ff.)、一切を規約と決断に委ねて 「無意
識に経験論を投げ捨てている」からである。
2.ポパー vs.エアー
A • J・エアーは『カール・ポノマーの哲学』に寄稿した論文 (Ayer[1974J)
で、ポパーを次のように批判した。もしポノマーの結論を文字通りに解すべきだ
とすれば、基礎言明が観察可能な出来事に指示言及すべき理由はなくなる
(ibid., p.687)。もし観察が言明の受容の動機となるだけで、それを正当化
することがないならば、観察によって言明をテストすることにどんな意味が
あるのか分からない、とエアーは言う。なるほど、われわれはどんなに慎重
に経験を記述しでも、誤りを官すかもしれなし、。しかし、そのことから、経
験が何も保証しないということにはならない (ibid.,p.688) 0 Iもし私が、
目の前にコップ一杯の水があるとどのようにして知ったのか、と問われるな
らば、私にはそれが見えると言うことが完全に立派な答えとなるだろう」
(ibid.)。それゆえ、「私がこの〈観察経験〉をもっていることが、私に動機
だけでなく、私がその経験に課した解釈を受容すべき根拠をも与える」とエ
アーは言う。彼によれば、もしわれわれが「言明は言明によってのみ正当化
されうる」という見解を捨てるならば、
われわれの経験が、感覚所与についての言明だけではなく、ポノマーが基
礎的とみなしている種類の言明をも直接に正当化する、と考えではなら
ないもっともな理由は一つもないように思われる。経験がそれら言明を
決定的に検証すると主張することはできなし、。しかしこのことは、経験
によってそれら言明を受容すべき十分な根拠が与えられる、と主張する
ことを妨げるものではない。 (ibid., p. 689) (2)
ポパーは、エアーの議論が「私の論点を完全に逸している」と述べ、彼の
(841)
...
-凪咽幅四圏
一.圃圃畠
a咽佃皿屋 、
、
批判的合理主義と経験的基礎の問題 -51-
[1991J p.373)、ポノマーの重大な譲歩である。ポノマーは経験が(決定的でな
いにせよ〉理由になりうる、と今や認めるのである。しかし、「決定的でな
い理由」などという考えが演縛主義者であるポノマーに存在しうる余地がある
だろうか。それはポノマーの反対する帰納主義に道を開くものではないのか。
なぜわれわれの観察は「一般的に信頼できる性格をもっている」と言えるの
か。それはこれまで信頼できたし、これからも信頼できるであろう、と答え
れば、それは帰納主義的な仮定を持ち込むことであろう (Watklns [1984J
p.254)。ポノマーはエアーに対する返答の最後でこう述べている。
ごく簡単に言えばこうである。無批判的な経験論者たちゃ実証主義者た
ちは、[感覚器官という]われわれの[環境からの情報を]解読[する]
装置が一般的に卓越した働きをすることを誤って解し、それを崇拝し、
それどころかそれを神格化するまでに至った。彼らが看過したのは、そ
の装置とその卓説性が『自然淘汰』の結果であること、もしその装置が
もっと悪しきものであったとすれば、われわれはここにいなかったであ
ろう、ということである。 (Popper[1974J p.1114) (3)
しかし、ポノマーが号|き合いに出す自然淘汰という仮説は、説明の役は果たす
が、正当化の役を果たすわけではない。これに対して、正当化という語を口
にすべきではない、とポノマーは言うかもしれない。ポパー主義者のなかには、
一切の正当化主義 (jus tif ica tionism)を排することによってこの問題を解
消できる、と考える人々がいる。われわれは次節でそのような試みについて
見ておくことにしよう。
•
3.反正当化主義
w.w・パートリーEは、批判的合理主義の精神にまで立ち返ってこの問
題を検討している。彼は『コミットメントへの退却J] (Bartley [1984J) に
おいて合理性について以下の三つの理論を区別した (ibid.,p.85)。
① 汎合理主義 panrationalismまたは包括的合理主義 comprehensive
ratioalism
② 批判的合理主義critical ra tionalism
③ 汎批判的合理主義pancriticalrationalism
または包括的批判的合理主義 comprehensivelycritical rationalism
①は、合理的な権威に訴えることによって正当化されうる立場のすべてを、
(843)
- ,52-
そしてそのような立場だけを受け入れる合盟主義者の見解である (ibi d., p.
87)。この場合、知性や国性に訴えるのが主知主義ないし合印論であり 、J
必吃之絞験に訴訴.えるのが統験3論命ないし!感感党:主}主:義である。 しか l、この立~は、 .1E
1化の~nt'~.民後退に f~((1 るか、さもなけれは、 もはや正当化され得ない地点でイ今
iこせざるをえない。
ノてートリーによれば、これらの困難に対する反応の一つは、直載な非合理
.A紅lいし信仰主義 (fjdeism)である。それは非合問的な立場にコミッ|
し、またそうせざるをえないと考える。i[コミット〕せざるをえないならい
そうしてもよいのであり、かくして非合盟主義者'はだれで・も主観的非合21!?予
E (こ対する合理的な口実をもっていることになるJ(BartJey [1987J p.208)。
し諸;かがそれを批判するならば、彼は「おBijもそうではないかJ(tu qu.o-
que) とやり返すことができるのである。他方、 (2は、子、血!制:の限界を総め
つつも、包話的でない合理性を求める。それは、合型的なものは正当化可能
でなければならないと考えるが、正当化されえない規準、権威、枠制1,み等々
があり、それらは記述されるのみである、lと主強する。『知識の問題Jにお
けるエアーがそうであり、後期ウィトゲンシュタイン、そして初期のポノマー
にもこの立場が見出される ωartley[] 984J pp. 97ff., [1987] pp. 208-10)。
パートリー自身が採るのは③の立場 (PRまたはcC I~) である。 l? ]~ , 合l堕!的なものは正当化可能でなければならない、ということを否定する。そ
1は一切の正当化を拒否し、正当化の代わりに紀述ではなく 批判をもってす
る。それは 「一切が批判Il,こ対して関かれている」と主狼する (sartley[1984]
pp.109ff., Bartl町 [1987]pp,.:210 -13)。ω パートリーによれば、経経ニ験的2蕊志磁をめくぐ- るポパ一の|困困鶴離~l'は4はまふ、ポノマ一に残存する正当化主義のなせる業である
(ωBa町1r一~t'叶tl】l】l引, [1984] p.:211)。それは 「正当化されえな L、点,lrこ述すると l取り決め
なlいし非合理的な決断を要求するポノマーの不幸な傾向」による (ibid", p.
'215)。しかし、そのような決断は基礎言明に関しでも合理性lrこ関しでも必較
ではな!L、。訂正されたポパー的アプローチでは、テストは正当化lの過程でI(
紅いから、その過程が潜在的に無限であるとしても、無限後退が生じる必加
ない。また、テスト言明は仮説的で批判可能で修正可能であるかり
A の可能:性もら噌。
しそのよ?な基礎言明がある理論とたまたま両立はいならば、その
?:?千?片手事言明]と相対的に偽であり、それら[の基礎言明
はその理論と相対的に偽である。理論が報告を問迫っていると証明した
(844)
•
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-、rU, ・、
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--H旬、
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.、ー‘
批判的合理主義と経験的基礎の問題 -53-
り、あるいは報告が理論を間違っていると証明することはありえない。
両者ともに偽でありうる。つまり、いずれも「基礎的」ではないのであ
る。 (ibid.,p.215)
しかし、ノてート リーは問題を回避しているだけである。彼は「これらの報告
が〈決断〉および〈受容〉によって補強される必要はない」という (ibid.,p.
216)。それは、しかし、それらがすで、に受容さ北九観察報告だからである。
いかなる場合に基礎言明を受容することが合理的であるのか、という問いは、
「いつでも好きなときに」というのが答えでないとすれば、答え られていな
いのである。ω
批判的合理主義を正当化主義から分離しようとする試みは、デイ ヴィッド ・
ミラーによってもっとラデイカルな仕方で試みられている (Miller[1987J)。
ミラーによれば、良い理由 (goodreasons)というものは、決定的にせよ決
定的でないにせよ、存在しなし、。もし合理主義が、知識をもつためには良い
理由が必要であると考える立場であれば、ポノマーもパートリー も自分も非合
理主義者である (ibid.,p.345)。決定的な理由は、論点を先取りしており、
決定的でない理由は、論点の一部を先取りしている (ibid.,pp.346 -51)。
合理性が必要とするのは批判的理性であって良い理由などではなし1。たとえ
ば「すべてのスワンは緑である」という仮説を真として分類しではならない
理由はない。たしかに、この分類は正しくなし1。われわれはその仮説をテス
トし、それが真と分類されている他の言明と矛盾していることを示すであろ
う。しかし、それら他の言明は、その仮説を偽として分類すべき理由を与え
ないであろう。われわれは、仮説を真または偽として分類すべき理由を与え
ることなく、そのような分類をする用意がなくてはならない。この分類が正
しくなされるかどうかは本質的なことではない。ミ ラーは言う。
要するに、「なぜあなたは[仮説Jhが真であると考えるのか」とか
「なぜあなたは行為aが遂行されるべきであると考えるのか」という問
いに対する批判的合理主義者の答えは、「どうしてそうでないことがあ
ろうかJ(Why not)というものである。 (ibid.,p.356)
これはイしかし、やけくそとでも言うべき答えである。ミラーは一切の理由
づけを正当化と考えている。しかし、一切の正当化が客観主義・可謬主義に
反するわけではなし、。正当化主義は、一切が正当化可能でなければならない
と主張するが、何ものも正当化されえないという立場だけが可能な代案では
ない。むしろ、何ものも正当化されえないという立場は独断的懐疑論か、さ
(845)
-54-
もなくば可謬主義と不可知論の混同でしかないであろう。
4.基礎言明の合理的な受容はありうるか
ポパーは、 「われわれは理論を正当化できないが、…ある理論を別の理論
よりも選好することを正当化できる場合がある」と述べている。 (Popper
[1976Jレ.149;cf.Popper [1972J pp.29-30)。同じことは基礎言明について ・
きえないであろうか。つまり、われわれは基礎言明そのものを正当化できな
いか、その受容を正当化できる場合がある、と。基礎言明そのものは直接経
験を超えてお り、後者によ って正当化されることはないとして も、基礎言明
を受容することは直接経験によ って何らかの仕方で正当化されないであろう
か。
J ・ ウォトキンズは 『科学と懐疑論~ (VVatkins [1984J)の第 7章で、こ
の問題に取 り組んでいる。(6) 彼は、レヴェルーOの報告とレヴェル-1の報
告と を区別する。前者は、知覚経験についての一人称現在時制の報告であり、
たとえば 円、ま私は、 青い広がりを横切って細 くて白い筋が伸びてし、 く、と
いう視覚経験をも っているJという言明である。これは外界についての言明
ではなくて言明の作者についての言明である。後者は、外界において観察さ
れた(あるいは観察されたと申し立てられている〉事物ないし事象について
の言明であり、たとえば「ジェット機が空を横切って飛んでいく」という 3
明であり、ポノマーの基礎言明に相当するのはこれである。(ウォ トキ ンスは、
経験的一般化をレヴェルー 3、厳密な実験法則をレヴェル-4、観察不可能
な存在物を要請する普遍的で厳密な科学理論をレヴェル-4の言明としてい
るo ibid., p.79)ポパーは、レヴェルー Oの言明を経験的基礎から排除し、
レヴェルー Oからレヴェル-1へと至る妥当な推論はありえないとした点で
正しかった。帰納主義者ならば、レヴェル-1の言明がレヴェルーOのJ明
から帰納的に推理されると主張するかもしれなし、。しかし、演縛主義者はそ
のように主張することはできない。ポノマーによれば、基礎言明つまりレウエ
ルー lの言明は規則に従った手続きによって受容される。基礎言明について
意見の不一致か生じた場合は、それはさらにテストされるべきである。そし
て、基礎言明は、その言明から(付加的な前提の助けを借りて)もっと容易
にテストできる更なる基礎言明を導出することによってテストされる、とポ
ノマーは考えた。しかし、導出された言明はどのようにしてテストされるのか。
(846)
•
,J
,
•
、ζ
.. “
.、
批判的合理主義と経験的基礎の問題 -55-
もちろんわれわれの知覚経験に照らしてであろう。しかしポノマーにはその
ような答えは許されなかった。ポノマーの説明では、それをテストするには、
もっと符易にテストできる言明を更にそれから導出せねばならない。しかし、
導出はテストではない (ibid.,p.253)。
ウォトキンズは、しかし、レヴェル-0の言明を経験的基礎のなかヘ入れ
ようとするのではない。(7) われわれの知覚過程は正常な状態では滞 りなく
しかも見たところ信頼のおける仕方で働いている。そこではひじように多く
の解釈的な過程が進行しているが、われわれはたいていそれに気付かない
(ibid., pp.255ff.)。まれな場合にわれわれは期待とは一致しない訳の分から
ぬ知覚経験をもっ。そのときには知覚経験は説明項を必要とする被説明項と
なる。もちろん、われわれは解釈的な過程についてはよく知らないので、満
足のいく説明項にいきつくことはむつかしいであろう。しかし、或る人物が
そのような過程について十分に知っているとしよう(ウォトキン ズはそのよ
うな架空の人物を想定じ、「ジョン・ワイダウェイク Jと名付けている 。
ibid., p.258)。すると彼の求める説明項は、件の状況についての単称言明、
つまり知覚過程についての一般的な知識といっしょになって件の知覚経験を
推測的に説明するような単称言明であろう。そして、この説明項の内部では、
その単称言明が主要な前提となるであろう。
ウォトキンズは、以上の説明を通常の知覚経験の場合にも拡張する。つ ま
り、レヴェル-1の報告がレヴェルーOの報告についての推測的な説明にお
ける主要な前提であると見なされるならば、レヴェルー1の言明の受容は合
理的あるいは少なくとも準合理的 (quasi四 rational)なものと見なされてよ
い、とウォトキンズは考える。「ジェット機が空を横切って飛んでいく」と
いうレヴェル-1の報告は、「いま私は、青い広がりを横切って細くて白い
筋が伸びている、という視覚経験をもっているJというレヴェル-0の報告
からの帰納的推論の結果で、はなくて、前者は後者についての、仮説演緯的説
明の一部である。レヴェル-0の言明を So、レヴェルー 1の言明をふ、補
助仮説をAとして図式的に表わせば、
(S 1 & A) ト So
である。そしてらは確実に真であるから、 Slを受容することは(準)合
理的である、とウォトキンズは考える。
ウォトキンズは、ポノマーよりさらに基礎付け主義に譲歩している。ウォト
キンズ‘は、レヴェルー Oの言明の確実性を主張するからである。それは知覚
(847)
s
って正当化 •
tci l
て、その純験を引き起こした外的事物に関していかなるコミットもしていT
(\~l a t:kins [1991J ~l. 3,53)。それゆえ、科学問論をこのレヴェルの731拘に
n<<らしてテス卜することはできない。∞ウォトキンズは、しかし
によって正当化される立明があるとするJ誌で‘
ている•
ウォ l ンス|の説明は、いわば合理的な雨構成で¥あって
のではなし、。しかし、U{li実とされるレヴェル
うに特徴づけられるのであろうか。この11JIltull者にとってと 11:i]じくらい、そh 比,1
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批判的合理主義と経験的基礎の問題 -57-
する合理性懐疑論 (rationali t y -scepticism)のテーゼを論駁する、と主張
している (Watkins[1984J pp.58-9)o<め これを知覚報告と基礎言明の場合
に当てはめれば、次のような原則となるであろう。
知覚報告 eに直面した或る人物にと って、或る基礎言明bを受容するこ
とが合理的であるのは、 bが可能的に真であり、かっ手に入りうる最も
良い説明を eに対して与えるときである。
ウォトキンズは、知覚報告eの確実性をこれに付け加えたカ、それは基礎言
明bの合理的な受容にとって必要な条件であろうか。たしかに、基礎言明 b
が確実でなくとも、その受容は合理的でありうる。 しかし、 もし知覚報告 e
が確実でないとすれば、上記の原則は成立しないのではないだろうか。
5.信じることと受容すること:直観的レヴェルと批判的レヴェル
確実な知覚報告を前提することなく基礎言明の合理的な受容について語る
ためには、 R.M・ヘアが道徳的思考に関して導入した 「直観的 レヴェル」
Cintuitive level)と「批判的レヴェルJ(cri tical level) の区別を適用する
ことが役立つと思われる (Hare[1981J pp.25ff.)ヘアはこの区別を道徳的
葛藤に関係させて説明しているが、私はこれを知覚に関する「信念.J(belief)
と「受容J(acceptance) との区別として導入したいと思う。 L • J・コー
エンが指摘しているように (Cohen[1986J pp.91ff., [1989J)、信じる こと
と受容することは異なる。(10) 命題pを受容するとは、それを論証や推論の前
提として用いるというポリシーを採用することである。他方、 pを信じると
は、 pが真であると感じる傾向をもつことである。受容することはわれわれ
の意のままになるが、何を信じるかは必ずしもわれわれの自由になるもので
はない。それゆえ、暫定的な受容はありうるが、暫定的な信念などという も
のはなし、。信念に程度はあるが、だれも暫定的に(真であると〉感じる傾向
をもつことはできないからである。論理的帰結に関しでも両者は異なる。私
がpを信じておりかつ (p→q)であるとしても、私が qを信じているとは
言えないが、私がpを受容しかっ (p→q) であるとすれば、私は qを受容
すると言える。そして、 pを信じることは pを受容することの〈少なくとも
一応の)理由となりうるが、 pを受容することは pを信じることの理由では
なし、。
われわれは或ることを信じていながらそれを受容しないことも可能である
(849)
- ,58-
し、受容しながら信じて|いないこともありうる。たとえば、われわれは自だ弘
法則が21であると感じないでも、それを受容することができる(Cohen
[1989] p. 386)。ヴァン ・フラ ーセンは、別論の受容が信念として含むの l
それが経験的に充全だと 4いうことだけであると主民したが(van .F'raassen
[1'980] 1),.12)、出論の受答は、それが経験的に充全であるとかあるいはそオ
が丘であるとかいう信念を合む必裂はない。 IJIJ論の受容はそれへのさしあた
りのコミットメントを合むだけである。科学耳目論に関しては、われわれl
知識Jについて語ることができ iる。ポノマーの言う「認識主体な
n必忍識論J(e叩p討山i凶stωi氾elnolo.g酌Y\v川it山~hoωO
のと ι忌弓aえよう。しかし、観察の場合は現論と32なる。 他者による矢u党利子
は別として、われわれは;~f]ri報告が兵であると感じなければ、それを受容一
ることができないであろう。
111観的レヴェノ|レとは、今の~合、知32的4373、(知党経験から生じる信念
のレヴェルであ lる。われわれは因果的かっ認識的に一定の信念をもっ。矢IJtl
的μ念は感党経験(,こよって因果的に |引き起こされるだけでなく、 9~]1主主体の
つ加念、的 -J括的な分類図式にも依拠している。私の日の前にワープロカ
'るという私の信念、は、私がワープロを知党しているという状態とi去!果的に
関係しているだけではなく、私が日の前の対象を「ワープロJとして分類で
三えことにも依拠している。しかし、矢口党的信念はa1'iE不可能ではない。知
セ的信念、の正当化はあくまでもネガティヴである。そこでは、 iC臼分のtJを
うべき陛由がなければ、〉見ることはi~(~ じることである」という諺が当て
ιr In ¥1'" 1. ...・U'.・
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品中る。この部民にワープロがあると私カ${,lじることを直観的tこ説明するの llq
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批判的合理主義と経験的基礎の問題 -59一
的レヴェルでの合理的な知覚的信念がなければ、批判的レヴェルでの合理的
な受容もありえなし、。批判的レヴェルでの受容に関しては、私はウォトキン
ズの先の原則を修正したものを用いる。すなわち、知覚的信念を受容すると
はそれを信じることが合理的であることを含意するとして、
或る人物にとって、或る知覚的信念、Bを受容することが合理的であるの
は、 Bが可能的に真であり、かっ手に入りうる最も良い説明を知覚報企
eに対して与えるときである。
私はこれに知覚報告の確実性を加える必要はないと考える。知覚報告は、私
がかくかくの経験を現在もっているという趣旨の報告であればよし、。この場
合「かくかくの」という記述内容は、信念Bに対する批判がどれほどのもの
であるかによっても異なる。批判が強ければ、その記述は相当慎重なものに
なろうし、批判が弱ければ、かなり不用心な記述でもよい。いずれにせよ、
それが訂正不可能であると決めてかかる必要はない。
* * * A・マスグレイヴが言 うように、批判的合理主義そのものが合理的である
とは言えないが、それを受容することは合理的であると主張できるであろう
CMusgarve [1991J p.29)。つまり、批判的合理主義が最もよく批判に耐え
る立場-であるとすれば、それを受容することは合理的である、と。批判的合
理主義は、事実と論理、あるいは経験と議論から批判的に学ぶ態度である。
しかしそれは、実際には経験から学ぶことが少なかった。良い合理主義者で
あるためには良い経験論者でなくてはならなし、。もちろん、ここで経験論者
であるとは、経験を確実な知識の唯一の源泉で、あると見なす立場ではない。
経験はわれわれが批判的に学ぶための試金石である。これは玉虫色の結論で
あると言われるかもしれなし、。しかし、これは必ずしも良いポパー主義者で
あることを意味しなし、。では、良いポパー主義者であるとはどういうことで
あろうか。それは、 しかし、私の関心事ではなかった。
〈注)
(1) 理論と矛盾する基礎言明のクラスは「潜在的反証者J(potential falsifier)
と呼ばれる (Popper[1959] p.86)。ポノマーの反証主義については、中才
[1987Jを参照。
α) ドイツチャ ー (Deutscher[1968J)を別にすれば、エアーと同様なポノマー批
(851)
-60一
半IJはすでにA・クイント ンによってもなされている (Quinton[1973] p.230)。
オヒアーは、基礎言明の仮説的性格を否定し、現に成立している世界や知覚の秩
序を覆すことなく基礎言明を疑うことはできない、としてポノマーを批判している
(O'Hear [1980J p.81, p.87)。
(3) ポパーは、 r二つの根本問題jにおいては、基礎言明の受容に関してプラグマ
ティ ックな正当化を試みている。 cf.Popper [1930/33] p .134.
(4) ノてートリーのPRに対する批判としては、 VVatkins [1969~ , [1971]などがあ
る。 ウォトキンズf比半IJは Philosophy,46, 1971, pp.43 -55に、 ノてート リーの
ウォトキンズ等への反論は Bartley [1984]の付論 4に見られる。 ¥Vatkins
口987Jをも参照。
(5) J・アガ ッシもまた、経験的基礎の問題がいかなる損失もなしに解消できると
考えた (Agassi[1966J pp.18-9/ [1975] pp.113-4)。彼によれば、われわ
れは観察報告の受容についても受容の正当化についても語る必要はない。科学の
被説明項は、観察内容そのものではなくて、或る観察報告が繰り返しなされたと
いう事実である。そして、その事実を説明するテスト可能な仮説が求められるべ
きである、と (ibid.)。たしかに、たとえばUFOの発見や超常現象のように、
観察よりも観察報告を説明すべき場合が存在する。 しかし、これは一般的な事例
ではない (cf.VVatkins[1984J pp.247-8)。アカ払ッシ もこの問題を回避してい
るように思われる。
(6) 以下の要約は、 VVatkins[1992] pp.150-153に負うている。
(7) Cf. Walkins [1984] pp. 262ff. E・ザハールは、しかし、レヴェルー Oの言
明だけが経験的基礎となりうると主抜している。彼は 「観察の現象学的見解 と
呼ぶものによ ってポバーの規約主義を訂正しようとしているが (Zahar 1. 19831
pp.156ff.)、私はこの問題の解決が現象学的還元を要するとは思わなL、。
(8) ザハールは、用論はレヴェル・Oの4明に照らしてテスト司能ではないか、レ
ヴェル ー1の3明はレヴェル・0のJ日月に照らしてテスト可能であるとい弓ウ
トキンズの主強は矛回している、と批判している αahar[1989] )0 これにも}
してウォトキ ンズは、Pl!p命か知覚終験と関係づけられるためには、理n命も切PIE-
験もうえることのできない単称前艇が必帳である、と容えている¥¥Vatklns
r 1991 J p .353)。
(9) A ・マスグレイヴは、ウォトキンてか 1・安容する lという訴を 「誌と Lてを'f
する jという ;む日本でHJいていないことを批判している (¥tusgraVG 1[ 1~8、p.299, p.305)。マスグレイヴによれ,(:1'、ウ対トキ lンスは、良恵!を快食すること
U~!)2) ‘
批判的合理主義と経験的基礎の問題 -61-
によ って、合理性懐疑論を論駁するよりも、むしろ 「主題を変えているJのであ
る Cibid.)。ウォトキンズは、最もよ く裏付けられた仮説は現時点で科学の最適
目標を最もよく満たす理論であると考える (科学の 「最適目標Jについて は、
Watkins [1984J pp.123ff.を参照)。 他方マスグレイヴは、ウォトキ ンズと異な
り、仮説が最もよく裏付けられてきたことはその理論を真として受容すべき理由
を与える、と考えている。
彼は仮説そのものの正当化とそれを受容すること の正当化を区別 しなければ、
批判的合理主義は成立しないと考える C~usgrave [1989J p.307)。そして、 正
当化主義を前者では否定し、後者でそれを取り込むのである。正当化されるのは、
仮説そのものではなくて(可謬主義)、仮説の受容の方である。 ウォ トキンズ も
問機の区別をしている Ccf.Watkins[1991J p.358)。 しかし、もしマス グレ イ
ヴがこの区別をするのであれば、仮説を 「真として」受容することと 「可能的に
真.として」受容することとの聞にどれほどの違いがあるのだろうか。しーずれの場
合も、仮説そのものの正当化はなされていないし出来もしないとされているので
ある。
ポパーは 「信念哲学JCbelief philosophy)を退け、 「私は信念を信 じないJ
と言う (Popper[1972J p.107, p.122)。マスグレイヴは 「信念」に対するポノ守一
的恐怖症をウォトキンズと共有しない CMusgrave[1989J pp.321-2, [1991J
p.30)。彼は「真であると信じる」ことは 「真であるとして受容するJことと同
じであると考える。ただし彼は、 「信念」という語の暖昧さを指摘し、信じるこ
と Cbelieving)と信じられている事柄 (Whatis believed) とを区別して、或
ることを信じる理由は、信じられた事柄に対する理由と同じではない、と主張し
ている (~usgrave [1989J p.309, [1991J p.19)。それゆえマスグレイヴは、
仮説が真であると信じるにたるよい理由がありうるが、それは仮説そのものの真
理に対するよい理由ではない、と考えるのである。しかし、あとで論じるように、
マスグレイヴは信じることと受容することを区別すべきであった。
(10) 前注で触れたように、「信念」という語は「信じられること」を指すこともあ
れば、「信じる働き」を表わすこともある。同じことを信じているのに、或る人
物はそれを信じても正当だが、別の人物はそれを信じても正当ではない、という
場合がある。あるいは、同じ人物が或る時はそれを信じても正当だが、別の時に
は信じても正当ではないという場合がある (cf.Haack [1979] p.311, [1991J
p.383;;ルlusgrave[1989J p.307, [1991J p.18)。信念内容とそれを信じること
とは区別されるべきである。信念内容は真または偽でありうるが、合理的または
(853)
-62-
不合理的でありうるのは信じることのほうである。 S・ハークは、この区別に基
づいて、弱い基礎付け主義と整合説の折衷案である 「基礎整合説J(found-
herentism)を提唱している。 cf.Haack [1991J pp.383ff.この立場の検討は、
しかし、他日に譲らねはならない。
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